軌道(黙劇) 岸田國士 Guide 扉 本文 目 次 軌道(黙劇) 舞台はプラツトフオームである。 人物 女。 男。 酔漢。 駅夫。 場所 大都会の郊外に通ずる高速電車の小停留場。 時代 現代。 舞台はプラツトフオームである。 正面に腰掛。 終電車の時刻。 初夏。 自称紳士風の酔漢が、ただ一人、腰掛の上に横はつてゐる。 電話の呼鈴。 職業婦人らしくも見え、それにしては、やや夢想家らしい、それで、どことなく、多分口元であらう──冷たい魅力といふやうなものを有つた女、二十四五である、小走りに入り来る。 酔漢から、やや離れて、腰をかける。 手提袋から大形の角封筒を出す。手紙であるが、その封を切つて、中身を読む。 無表情。 その間に、一人の若い洋服──学生の臭ひがまだ抜けきらない中折帽の被り方──が、これは、悠然と、入り来り、勿論、電車を待つものの、気ぜはしい心持で、それとなく、女の方を盗み見ながら、プラツトフオームを行つたり来たりする。 女は、それに頓着なく、手紙を読み終り、殆ど、後悔したもののやうに、それを引裂き、が、一寸棄て場に困つて、手提袋の中にしまふ。 男は、流石に、此の態度に気を惹かれたらしく、うつかり、立ち止つてゐる。 女は、此の時、男の顔を見上げる。 男は、慌てて女の視線を避ける。と、同時に歩き出す。 女は、それを、眼で追ふ。 男が、「廻れ右」をする、その序に、素早く、かすめるやうに、女を見る。 が、丁度、意外に、二人の視線が合ふ。男は、極めて、初心に、まごつく。それは、思ひ出したやうに、ヅボンの裾を払ふのである。一、二、三と、意味ありげに、指を折つて見るのである。 女は、やや皮肉に、笑ふ。失笑である。が、顔ほどに、心は嗤つてゐない。 これが、男を考へさせる。その考へ込み方は、かなり平静を欠いてゐる。そして、その考への延長とも思はれるやうに、改札口の方へ姿を消す。 女は、プラツトフオームの縁に歩み寄る。それは、電車がもう来さうなものだと思ふ時の、誰でもがする動作である。 突然、前の男が現はれる。快活な、然し、相当慎み深い青年が、ある決心を促されてゐる時のやうな、興奮を示してゐる。 その跫音で、女は振り返る。 男は、その刹那、一種異様な笑顔を作る。蓋し、計画してゐた笑ひである。思ひ切つた笑ひ方である。が、結局、悔恨、嘆願、自嘲、弁疏、さういふ感情の、極めて複雑な表示になる。そして、それが、だんだん、憂鬱にさへなつて来る。 女が、今度は、ぷいと眼を反らす。それから、考へさせられる。然し、その考へ方は、心憎いまで、平静である。寧ろ冷静である。この時、彼の女の夢想家らしい表情が、最もあざやかに浮んで来る。 男は、絶望的に、腰を卸ろす。 女は、ふと、何かを思ひつめたやうに、急いで、とは云ふものの、その急ぎ方は、今度こそ、わざとらしい、寧ろ、急ぎたくない、ただ、急いでゐるらしく見せかければいい、さういふ調子で、改札口の方に歩を運ぶ。もちろん、男の方は見ない。 男の、割合に微かな溜息。 女の姿が、いま消えようとする。 悩ましげな男の眼が、空を射ようとする瞬間である。女が、男の存在を、最後に、しつかり見届ける、さういふ風に後ろを振り返る。二人は、笑ひ合ふ。「さつきは面白う御座んしたね」──といふやうに、あつさり、然し、心からの如く笑ひ合ふ。が、此の場合、自然、女の方には、いくらか、相手を慰める心持、それが媚びとも見えよう、男の方には、名残惜しさに似た心持ち、それがまた、情熱の告白とも見えよう、さういふものが、何処かに感じられる。女は、かうしてはゐられないと云ふやうに、それよりも、此処にゐるのがよくないとでも云ふやうに、のがれ去る。 電話の呼鈴。間。 男は、何事もなかつたやうに、反対の方に歩き出す。が、すぐ元の席に還る。突然、席を起つ、改札口の方へ、大股に歩く。急ぐ、が、急いでゐると思はれたくない、さういふ歩き方である。 駅夫が出会ひ頭に現はれる。 「もう来ますよ」といふ合図をする。 男は、手早く、駅夫に切符を渡す。 駅夫は、それが何のためかわからずに、受け取つた切符を見つめてゐる。 そのひまに、男は、姿を消す。 駅夫は、男を見失つて、一寸、とぼけた顔をする。 が、「なんだ、さうか」といふ顔附をして、鼻を啜る。 プラツトフオームを、機械的に歩きながら、口の中で何か独言をいふ。 踵で、くるりと廻る。今度は、改札口の方へ、舞踏の足取りかなにかで、立ち去る。 酔漢が、眼をさます、慌てて、居ずまひを正す──大勢の人に醜態を見られてゐる、その不覚を悟つたやうに。 ──幕── 底本:「岸田國士全集1」岩波書店    1989(平成元)年11月8日発行 底本の親本:「チロルの秋」第一書房    1927(昭和2)年6月15日訂正第3刷発行 初出:「演劇新潮 第二年第一号」    1925(大正14)年1月1日発行 ※底本の親本は第2刷まで、「岸田國士戯曲集」とされていました。 ※表題は底本では、「軌道(黙劇)」となっています。 入力:kompass 校正:門田裕志 2011年12月23日作成 2016年4月13日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。