日本文化の特質 ──力としての文化 第二話 岸田國士 Guide 扉 本文 目 次 日本文化の特質 ──力としての文化 第二話 一 二 三 四 五 六 七 八 九 一〇 一一 一 「文化」は国土と歴史との所産であります。言ひ換へれば、民族の血と運命とが創りあげる生存のすがたであります。民族とはこゝでは狭い意味の人種的差別を云々せず、精神的に結合した政治的統一体を指すこととし、やがては、国民の名に於て全く等質の文化圏に入るべき複合民族をも意味するものと考へたいのです。  ところで、日本の「文化」は、今日まで、いはゆる「大和民族」たるわれわれの祖先が、允文允武にまします歴代の天皇を御親とし奉り、世界を「家」となす遠大な理想をかゝげ、赤子たるの光栄と本分とを忠誠の臣節に籠めて、ひたすら国運の発展と「美しき」国風の充実に尽して来た、その結実なのであります。  時に暗雲が朝威を覆ひ、民心転た悄然たる時もありましたが、乱れゝば光り現れ、犯されゝば力湧き起る神の国の、昔も今も、皇運こそ天地とともに窮りなきを、われら固く信じてゐるのであります。  なによりも、日本の文化は、この揺ぎなき国体と歴聖相継がせ給ふ御遺訓の精神を中軸とし、大和民族独特の性情に根ざす天衣無縫の着想を、営々三千年に亘つて積み重ね、磨きあげた創作なのであります。  大陸文化の影響と云ひ、模倣と云ひ、その影響は消化であり、模倣は吸収であつた。文化が仮りに侵略の手を伸ばすものであるとしても、未だわが国は、現代に於ける一部表面的な現象を除いては、嘗て外来文化の侵略に委せたことはありません。  文化は高きより低きに流れるのが常とは云へ、文化の高さなるものは、これまでいろいろの標準によつて計られたのです。  一例を挙げれば、「技術文化」といふ言葉もあるとほり、技術、特に物を組織立て、合理化し、分析分化する技術の精粗、巧拙を以て文化の優劣を決しようとする見方があります。  法律の制定、交通網の整備、教育施設の充実、学問の系統立て、国防力の統一、生産手段の合理化などといふ方面にかけては、たしかに日本は遅れてゐたといふほかありません。しかし、一方から云へば、久しい間鎖国政策によつて、政治的にも、経済的にも、その必要がなかつたからとも云へるのでありまして、ひと度、それが国家の自衛及び発展上欠くべからざる要件だといふことになれば、たちまち、僅か数十年間に、それらの点にかけて優越を誇つてゐた国々と殆ど肩を並べるまでになつたのみならず、ある点では、遥かにこれを凌駕したのであります。  それはいつたいどういふわけかと云へば、いはゆる「文化」の標準を、もつと別なところにおいて、即ち、複雑な組織を作る代りになるべく単純な道筋で用を足し、合理化に努めるよりも寧ろ道義化に意を用ひ、分析分化に浮身を窶さずして綜合と直観の力によつて事を弁ずるといふ流儀が、測らずも、他の流儀の会得と利用を容易ならしめる底力となつたのであります。  してみれば、一方の流儀からみて低いと思はれた「文化」は、その実、思ひがけない別の流儀の、しかも、それはそれで相当に高い「文化」であつたといふことが、解るものには解らなければならないのです。  わが古典文学にみる生活感情の豊かさと表現力の逞しさ、西洋ではまだやつと素朴な手法の物語が生れかゝつた時分、日本の王朝時代には既に、「源氏物語」のやうな幽玄きはまる小説文学が創り出されてゐるくらゐです。  韻文としての和歌や俳句の妙境は比較を絶してゐるとは云へ、美術に於ける絵画、彫刻、建築、工芸の粋をとつてみれば、日本人の精神の鋭さ、深さを示す好適例は無数にあるのであります。  学問の領域に於ても、最近の研究に従へば、哲学の如き抽象理論の追求は別として、自然科学、特に数学の発達は、明治以前に於て著しいものがあるとのことです。  本草学としての薬草の採集、観察、実験の価値などは、将来、世界医学の根柢を覆すものと期待する向もあります。  この領域のことは、私は受売りに過ぎませんから、確信をもつて事実を述べることはできませんが、少くとも、古来、学者と云はれる人物の日本的特性を考へてみると、甚だ興味あることは、彼等が常に経世済民の志を掲げ、「学」と「徳」と「芸」とを一体として身につけ、更に「文」を業としつゝも、「武」の道をもつて心の備へとしてゐたことであります。即ち「士人」をもつて常に自ら任じてゐたのです。  芸術の分野にもう一度帰れば、日本人の「美」の理想は、単なる感覚的なものではなく、そこには必ず、品とか、気韻とか、風格とかいふ、つまり倫理的な高さを求めました。それと同時に、絶えず、自然の形式的模倣をはなれて、自然そのものの魂に直入し、客観の微をすてゝ象徴の裸形をつかむ時、はじめてそれは至芸と呼ばれるのです。いはゞ宗教味を帯びたとも云へるほどの厳粛さがそこにあります。  しかし、また一方、極めて卑近な庶民的芸術の宝玉が、さりげない顔で、市井の生活に織込まれてゐたといふことも、日本独得の現象であります。浮世絵の如きがその一例です。多くの工芸品がさうです。今日、「下手もの」と称せられる、嘗ては誰の家にでも転がつてゐた雑用器物の美的価値は、われわれの祖先が、如何に無意識に美しきものを愛し、如何に美しきものを平然と作ることに秀でてゐたかを証するものであります。  それはとにかくとして、日本文化の最も重要な特質は、前にも触れたやうに、民族固有の直観力と綜合性にあるのですが、これは単に、芸術、学問の上ばかりでなく、生活のいろいろな面にそれが現れてゐて、時代々々の色調を帯びながら、常に一貫した生活様式の独自な発展を促したのであります。  衣食住のいづれをとつてみても、まつたく世界に類のない形態と、その形態を裏づける観念とがあつて、われわれは、そのなかで成長し、それに応ずる習性を身につけ、それによつて心性の陶冶を受けつゝあるのであります。  いはゆる洋服、洋食、洋館のこれほど普及した今日に於てさへ、一方、和服は決して廃せられず、和食はむしろ常食であり、畳障子の家屋は住みよきものとされてゐます。  これはたゞ惰性がさうさせるばかりではありません。習慣と云つても、それは単なる過去への執著として軽視せらるべきものではないのです。  現代の要求からすれば、そこには幾多の不合理や不便があるでせう。しかし、それにも拘らず、それを知りつゝ、なほかつ、われわれは日本人なるが故に、純日本的な衣食住の様式に心惹かれるのであります。なぜなら、その様式には、日本人の直観力による生活理想の追求があり、同時に、その綜合性に基くあらゆる生活機能の統一融合が見られるからであります。  例へば、紋服の端然たる、浴衣がけのざつくばらんなる、子供の肩あげのあどけなき、白足袋の凜としたる、などを、洋服の場合にはどうにもしやうがないといふのが、日本人の底を割つた感情です。  また、住宅について云つてみても、床の間ひとつで保たれる中心の重みと安定、茶の間の代りに食堂があつても、それはあまりに「食ふ」だけのための部屋でありすぎる淋しさなど、日本人でなければわからぬ消息であります。  食事に至つては、ますますこの感が深い。第一に、食事といふものに対する日本人本来の考へ方が、西洋人のそれとは非常に違ふのです。キリスト教でも、食卓での神への祈りといふものはありますが、日本人には、日本人固有の食生活精神といふものがあつて、食前に「戴きます」と云ひ、食後に「御馳走さま」と云ふ挨拶は、決して、今行はれてゐるやうに、子供が親に、客が主人に向つてのみするのではなく、そこにはもつとひろい、この「食物」をわれに与へるもろもろの力、もろもろの恵みに対する深い感謝が籠められてゐる筈であります。  それにつれて、「食器」に対する考へ方も、まつたくほかの国々にはみられない厳粛で温かみのあふれたものです。茶碗と箸とは家族の一人一人がそれをめいめいの持ち物として、恰も身体の一部のやうに扱ふことも他に例がありません。そして食器の一つ一つは、形と云ひ、色彩と云ひ、それぞれの用途と、それを用ひる人の人柄に応じて変化を極め、やゝ改まつた食事の膳立をみれば、献立の配合の妙と共に、それが如何に綜合の美に富んだ、日本の生活の縮図であるかといふことがわかるのであります。 二  西洋の生活様式にも、それはそれとしての洗煉された「味ひ」はありますし、殊に、近代文明の発達がもたらした一種快適な雰囲気といふやうなものはなくはありませんけれども、それは主として、物質本位の、個人々々の享楽と安逸を目的とした人工的、技術的な部分の浮きあがつたものです。もちろん、生活の技術といふことは、特に社会的訓練を経た個人生活の規律と、集団を対象とした生産と消費との関係の調整などは、これを彼に学ぶ必要はありませう。  しかし、少くとも家族を単位とした「家」の生活様式は、「家」の伝統がそこに生かされてゐる限り、もはやこれ以上のことは望み得られぬまでに整備完成されたものであり、今後時代の推移と共に、表面的な改革や刷新が行はれようとも根本の基準は聊かも動かしてならぬものと私は信じます。  それほどに、日本の「家」と「生活」とは切離せぬものでありますが、その「家」はまた、日本文化の一つの母胎であり、原動力でありまして、わが家族制度の最も健全な精神と形式は、今日必ずしも一般に受けつがれてゐるとは云へませんが、これを引戻して本来の面目に帰することこそ、現代の日本人の急務であり、新しい国民文化建設の基礎工作であります。  家督、家名、家風、家憲などといふ言葉に現れた、日本の「家」の性格は、一国一家、君民一体の大精神をその血液のなかに宿してゐて、はじめて光輝ある伝統となるのであります。 「家」の祭りは国の祭りに通じ、家の名誉は国の名誉につながり、家の風格は国風の流れに添ひ、家の掟は、臣民の道にもとづくものでなければなりません。  かうして、日本の「家族」は、家長を中心とする国土の一単位となり、子孫の育成を本務とする国民道場の一段階となるのです。  そこでは、儀式と起居と団欒との多彩な生活環境のうちで、われわれの、真に「生きる」道と目標とが教へられ、両親の膝の下で、懇ろに、また厳しく、「躾け」が施されます。  この家庭における「躾け」については、後の章で詳しく述べるつもりですが、そもそもこれは国民錬成の基礎ともなるべきもので、一家の盛衰はもとより、一国の消長にすら関はる重大問題であります。そして、「躾け」の見事な効果は、単に個人と家の風格を高めるばかりでなく、その国のあまたの社会現象、特に時代の風俗に気品と底力を与へ、文化水準の高さを如実に示すことになるのであります。  嘗て、スエーデンの植物学者でツンベルグといふなかなか眼の利いた人物が、日本に来たことがあります。それは今から三百年前の昔でありますが、当時、西洋人と云へば、東洋の一孤島日本について何ほどの知識も持つてゐません。ツンベルグも、恐らくこゝでは、異国的な風物に務して、一方学問上の研究資料を蒐め、一方、珍しい土産話でも仕入れようといふぐらゐの気持で、はるばる海を渡つて来たのであります。  ところが、長崎から江戸までの長い旅をしてみて、彼は沿道の景色に見とれる代りに、そこに住む人々の、予期に反して、「文明人」であることに驚嘆の声を放ちました。彼が云ふ「文明人」とは、もちろん、単に未開野蕃の徒に非ずといふ意味よりはもつと強い、「立派な文化をもつた国民」といふつもりであることは、彼の道中の日記を読めばわかります。  こんなことは、ツンベルグに教へられなくてもわれわれは承知してゐますが、その頃の西洋人で、さういふ観察を下したものは稀であります。主として、日本の民衆が礼儀正しいこと、嘘を云はぬこと、「矜り」をもつてゐること、清潔を愛し、勇気を尊ぶこと、外国人の野心を見抜いて油断をせぬこと、学問に対する尊敬と好奇心を十分に抱いてゐること、美しいものに敏感であることなどを、「文明人」たる理由として挙げてゐるのです。この見方はまことに西洋人らしいと思はれますが、私がもう少し補足をすれば、そしてもつと彼が直観的に感じたであらう日本人の立派さは、きつと、異国人たる彼自身に対するあらゆる階級の日本人の物腰態度が、総じて物柔かなうちにも凜然としたところがあり、人間としての品格がおのづから備はつてゐたからではないかと思ひます。  一国の文化をはかる尺度として、その国民の物腰態度ぐらゐ正確で端的なものはないのです。そして、その物腰態度は、人が考へてゐる以上に、それは「家」そのものの全貌であり、両親をはじめ、子供の「躾け」に当つた人々の意志と好みとが反映するものであります。 三  日本文化の綜合性を理解する簡単な一例として、私は、「嗜み」といふことを考へたいのです。これについてはやはり後に一章を設けて説明するつもりですが、この「嗜み」といふことは、日本人錬成の理想を示したもので、常に知情意の円満な調和的発達を目指し、「嗜み」が深いと云へば、それはもう、道徳的に善であり、知的に真であり、また情操的に美であるといふ条件を完全に備へてゐることを指します。  その面白いひとつの場合をあげれば、ある人物が物を云ふ時、わざわざ妙な声を出す。すると「嗜み」のない声と云つてこれを嗤ひます。どういふわけかといふと、その声は、いかにも場所柄にふさはしくない、馬鹿げた、頓狂な、ふざけた声である。その人物の徳性も疑はれ、聡明でないことがわかり、かつ、耳に快く響かないといふ三拍子揃つた欠点を暴露したことになるからであります。 「嗜み」は元来、訓練によつて身につけるものでありますから、物の価値判断はその勘によつて綜合的に働き、それがつまり、「文化」の健全性を誤りなく識別する基準となるのです。 四  更に日本文化の特色として、包容性をもつてゐるといふこと、同化力が強いといふこと、しかも、その同化は必ずしもものを一色に塗りあげることをせず、その異質的な形態をそのまゝ存続させつゝ、並行的に処を得させるといふ一視同仁の同化力であることです。  外国文化の摂取は、常にこの包容性と同化力によつて、日本の国土を豊かに彩ることに成功しました。  現在はその形が最も極端になつてゐて、風俗から云つても多少手に余るといふところが見え、わが国文化の将来を危惧する声も聞えますが、これはたしかに、欧米文物の軽率な模倣によるのであつて、外見はまことに醜態を極めてゐるわりに、私の観察では、日本人の生活自体は、その影響下にありながら、それほど動揺してゐないと信じ得る根拠があります。  第一は、西洋風の生活が少しも身についてゐないことです。これが実は伝統的な生活技術の喪失とともに、風俗混乱と悪趣味横行の大きな原因ですが、それはそれとして反省の機会がありませう。私は、むしろ、この現象のなかから、「西洋風なもの」の怪しげな部分の自然淘汰と、そのうちの「いゝもの」を消化しきつて、ほんたうに身につける努力とが生れて来ることを期待してゐるのです。  特に、「洋服」と「洋館」とは、今後、集団生活の発展とともに、益々これを利用せざるを得まいと思はれますが、従来、この点に関するわれわれの研究は甚だ杜撰であります。従つてその利用に当つて払はるべき当然の注意、それがわれわれの生活の能率と健康と品位とに及ぼす影響についての配慮が著しく欠けてゐました。試みに、初めて洋服を着る男なり女なりが、誰にその正しい着方を習ふかといふと、それは誰も教へるものがないといふのがまづ実情であります。見やう見真似で、いゝ加減な着方をする。それをまた嗤ふものもない。身につく道理がありません。和服の着方が少し可笑しければきつとさう云つて注意するものがある筈です。誰よりも母親がまづ手を取つて教へるでせう。それは知識よりも寧ろ習慣によつてであります。さういふ勘が働くやうでなければ、生活の機能といふものは完全にその用を果しません。日本の「洋式」は、まだそこまでわれわれのものとなつてゐないのです。  先達てもある学校で、式の最中、多数の生徒が講堂で脳貧血を起して倒れました。原因は、寒いからと云つて窓を閉めきつてあつたのです。今迄こんなことはなかつたのだがといふ校長の不審さうな顔へ、一人の教師が興味のある報告をもたらしました。それは、今迄は、講堂を使ふ時には、きまつて一人の外人教師が、自分で廻転窓を開けて廻つたものださうです。その外人教師が最近戦争の勃発と共に帰国した、その直後に起つた事件がこれだといふことがそこでやつとわかりました。純洋館の生活にまだ慣れてゐない日本人の、自分でそれほどとは思つてゐない不覚が、結局この始末なのであります。  ところで、一方、かういふこともあるのです。これも近頃の話ですが、支那から数人の名士を招いてある団体が交歓をした、その節、一夕、東京の有名な支那料理店に席を設けて御馳走を出したところが、客の支那名士は、微笑をたゝへて、主人側の日本人に向ひ、「大変おいしい日本料理ですね」と云ひました。支那料理のつもりだらうが、一向支那料理らしくない。風味がまるで違つたものだといふ意味を、婉曲に述べたものと察せられます。  これ果して、主人側の予期したところであるかどうかは知りませんが、かういふ現象も往々にして起り得るわけで、それは、日本人の同化力の例外的な現れではないかと思はれます。これは、取りやうによつては、それでいゝのかも知れませんが、私の日本観からすれば、むしろ、「似而非」なるものの存在を極度に排斥するわれわれの潔癖が、さういふものを許さないのではないかと思ふのです。  立場をかへて、西洋化した刺身や、支那臭を帯びた味噌汁などといふものを、これが日本料理だと云つて出されたら、恐らく箸を取る気にもなれますまい。風味はともかくとして、そこには、なにか、冒涜といふやうな言葉に通じる倫理的な不純さがのぞいてゐる気がするからです。  努めて及ばざるは致し方がありません。しかし、及ばざることを知ることが必要であり、知つてゐる以上、相手を弁へたらよからうと思ふのです。  同化といふことは、これでなかなかむづかしいのでありまして、徒らに外国のものを日本色で塗るといふやうなことではありません。  支那料理は、支那料理を好むもの、支那料理の味がわかるものが食べればよいのです。或はまた、日本料理のなかへ支那料理風のものを採入れて、一品異国色を調和を破らない程度に混ぜることも面白いでせう。しかし、純正な支那料理を、日本人のあまり舌の利かない口にも合ふやうに改悪して、これが支那料理だと誇称することは、およそ、日本人らしくない無神経なやり方ではありますまいか。これを「はしたない」といふ言葉で現します。「嗜み」を欠くといふ意味であります。  西洋料理についても同断です。如何はしい洋食の氾濫は、まつたく無きに如かぬと私は常に感じてゐるのですが、これはたゞ、洋食の「まがひ」だといふ不体裁に加へて、日本人の味覚を著しく台なしにする曲者です。こんなものを平気で食つてゐると、ちやんとした日本料理の味がわからなくなるのは請合ひです。洋食にも料理屋風の調理と、家庭風の調理とがあります。公式の献立と略式のそれとがあります。安く食べさせるためには、家庭風の料理を、略式の献立で出せばいゝのです。さういふことをしてゐる洋食屋はどこにもありません。アメリカ風のランチはありますが、こんな寒々とした事務的な食事は、日本人の胃の腑を満足させはしません。さうかと思ふと、きまつた安い値段の定食に、馬鹿々々しい儀式用の献立を摸した皿数をつける。従つてどの皿も満足に食へる皿はないのです。かういふ西洋式の採入れ方は、日本人の恥辱であり、大きな損失です。滑稽で、殺風景で、がさつを極めた現代風俗の一例がこゝにもあるのであります。 五  およそ、風俗を乱し、生活を歪め、国民の品位を傷つけ、惹いてはその実力を低下させる最大の原因は、何事によらず、「好い加減なところで間に合せておく」といふ、いはゞ、最善を尽してなほ及ばざるを慣れる精神の欠如だと思ひます。この「間に合せ」主義は、事急を要する問題が次々に起つて来て、それを処理するのに絶えず忙殺されてゐた結果で、眼前の事態にのみ気を取られる余裕のなさを語るものでありますが、それにしても、これが世間普通のことになつて、誰も怪しむものがないといふ風潮は、決してさういふ口実によつて救はれることはできません。 「行き当りばつたり」は概ね「やつつけ仕事」を生み、臨時の処置は、常にいはゆる「バラック」式なものを作りあげ、その場を切りぬけさへすれば、あとはどうにかなるといふ姑息な気持を増長させます。そして、「通用する」といふことは、「まあなんとか間に合ふ」ことであり、「間に合ひ」さへすれば、その物事の真の価値は、専ら第二として、あまり重要とは考へないといふ、極めて安易な態度を自他ともに是認することになるのであります。  国民全体のかういふ生活態度は、国政の運用と相俟つて、日本の現代文化に、ひとつの憂ふべき空隙を生ぜしめたと、私は信じます。  いろいろの事情で、十分なことはできないといふ場合、われわれはすぐに「我慢をする」といふのですが、その「我慢」をするにも、我慢のしかたがあります。先づ第一に、「十分なこと」とは、何を指すのかが問題であります。云ふまでもなく、これは正しい理想を指すのでなければなりません。  それなら、その理想を実現するために、何が足りないかを考へる時に、われわれは、往々、「物」乃至「金」の不足を第一に挙げはしないでせうか。その次には、「時間」の不足でありませう。そこで、その不足を、なんで補ふかといふ、最も肝腎なところへ来ると、もはや、「理想」からはほど遠い、現実の低い要求のみを頭におき、「間に合ふ程度で我慢する」といふことになります。それはどういふことかと云へば、物と金と時間との不足を、最大限に補ふ工夫と努力、即ち、肉体と精神とによる人間能力の最高度の発揮といふことは、あまり問題にしないのであります。「どうせ物がない」、「どうせ金がない」、「どうせ時間がない」といふやうな、諦めとも捨鉢とも云へる気分が先に立つて、飽くまで最善を尽す張合を失ふといふ傾向がみられます。こゝが非常に危険なところであります。  なぜなら、この傾向から、二つの悲しむべき現象が生じます。  一つは、「なんでもかまはぬ。損をしさへしなければいゝ」といふ責任のがれ、一つは、「出来るだけ苦労をしないで、うまい汁を吸はう」といふ射倖心理であります。  さて、そこまではいかぬとしても、この傾向は、多くの場合、一種の現実主義と結びついて、文化感覚の麻痺を促し、当面の問題に対して功利的な判断しか加へることができず、その点で性急に安全な効果をねらふあまり、最も「卑俗な」手段を最善の手段とみなす鼻息の荒い「実行家」を輩出せしめます。  これが抑も、一世を挙げて、風俗の悪化、文化の低調を招く著しい原因でなくてなんでありませう。  明治以来の「間に合せ」主義が、現在の国民生活をある面に於て甚だしく脆弱なものとしてゐる事実を考へたならば、この時局下に於て、物資の欠乏と労力の不足とを忍び、更にこれをなんらかの方法によつて補ふために、われわれは、おなじく「間に合せる」覚悟をし、その実践を励むにしても、決して「好い加減なところで我慢をし」てはなりません。飽くまでも、国民としての矜りを堅持し、戦時生活を見事に強化する理想を掲げ、「あるもので間に合せる」ことに満足せず、進んでわれわれの美風を日常衣食の間に生かし、醇乎たる「無駄なき余裕ある生活」の伝統にかへり、如何なる事態に立ち至らうとも、同胞互に一椀の食を悠々分ち合ふ悦びと意義とを、今日只今から、国民すべての胸にしつかりと植ゑつけておかなければなりますまい。  為政者の「我慢をせよ」といひ、「間に合せよ」といふ言葉を、国民は、殊に青年は、文字どほりに受けとつてはなりません。そこには、むろん、「いたはり」の意味もあるのでありませう。しかし、日本の将来は──日本の飛躍と興隆とは、決して、そんな「生ぬるい」消極的な態度によつて約束されるものではないのであります。 六  日本の現代文化は、しかし、前に述べたやうな、卑俗な現象ばかりで成り立つてゐるのではありません。  国民の健康な常識は、おほかたこれを軽蔑し、嘲笑し、憎んでさへゐるのです。ところが、知らず識らず、それに慣れ、無反応になり、やがては、かういふものかと諦めるやうになるといふわけであります。  それなら、何処にわれわれの美しい歴史と、誇るべき伝統があるのでせう。  近代風な街の何処をみても、そんなものは見当らないやうに思はれます。すると古典的な、格式を保つた日本の「家」の光景が眼に浮びます。  それは、大都会にも探せばあるでせう。地方の小都市には、それでも旅行者の眼につくほど残つてゐます。しかし、最も普通に、そこにもかしこにもしつかりと根を張つてゐるのは、都会を離れた農村だと私は思ひます。  痛ましく荒れ朽ちた農家をみるのは、都会のいはゆる貧民窟をみるより心淋しいものですが、それに反して、いくらかの立木に囲まれたおつとりとした旧家の、広くはなくても掃き清められた中庭に面して、大根や柿などを軒に吊した日当りのいゝ母屋の縁に、孫の守りをしながら糸を紡いでゐる一人の老婆の、静まり返つた姿などをふとみかけると、もうそれだけで私は、頭がさがり、胸が熱くなるのであります。そこには、なんと説明のしやうもない日本の「家」の香りが漂つてゐて、歴史の尊さといふやうなものが感じられます。ひとつの光明であります。  かういふ「家」なら、現代の日本には、まだ数限りなく存在する筈です。これが日本の強みだとは云へますまいか。  日本の農村が国の力として重要な位置を占めてゐるといふことは、たゞ、そこが主な食糧の生産場であるばかりではなく、最も数多い壮丁の健康な培養地だからであつて、農本国家と称せられる意味も亦、そこになければならぬと思ひますが、それといふのも、ひとつには、精神的な面で、農村には、わが国の国風なるものがしつかり植ゑつけられ、日本の「家」の伝統が比較的完全に保たれてゐるからです。  かゝる「家」の伝統は、郷土の伝統と結びつき、郷土愛は祖国愛への発展過程を示すものであります。それゆゑ、日本人の愛国心は、祖先崇拝の念を経とし、勤皇の志を緯とする、国土への献身となるのであります。 七 「献身」と云へば、「家」を中心としての営みのなかに、最も日本的と云はれる「献身」のひとつの姿がみられます。  それは、母として、妻としての「女性」であります。 「日本の母」といふ言葉が近頃使はれてゐますが、これは世界に類を見ない「母」としての日本女性の偉大さを讃へたものでありませう。これはもう普通に云ふ「母性愛」などを指すのではなく、一方、本能的と云へば云へるかも知れませんが、それ以上に、「家」の精神のひたむきな実践であり、多くは無意識ながら、国の宝への命がけの奉仕とでも云ひ得る、崇高な悲願なのであります。  日本の家庭は子供の天国だなどと、外国人は云ひます。この母がゐるからでありませうが、それは外国人の見方であると同時に、現代の日本家庭の、いくぶん「子供本位」の履き違ひを諷刺した言葉とも受けとれます。  母の子供への献身は、妻の夫への献身に通じるものであります。これまた、男女同権、夫婦平等を称へる西洋人にはもちろん、男尊女卑の思想に養はれた東洋の他の国々には理解しがたいものでありませう。  なぜなら、「献身」は必ずしも尊卑の関係から生れるものではなく、私を滅した愛の悲壮なすがたでもあり得るからです。これまた、夫といふ男性に対する女性たる妻の愛情だけでは説明のつきかねる、なにか超個人的な、夫の背後にある、より大きなものに対する奉仕を含んでゐるとみるべきでありませう。それは「家」であり、「国」であり、従つて、夫の「仕事」であります。  かういふ根本的なことは、どうかするとたゞ風習として、まつたく自覚の外に、たゞ形として世代から世代に伝へられるものでありますから、その形は時として破れ易く、またその形は単に形として残るに過ぎないことがあります。これが多くの他の風俗的現象とともに、因襲として価値なきものと考へられがちな所以であります。  現代はその意味において、伝統の危機とも云へるのですが、またそれだけに、慣例の名目で少からぬ陋習が「家」の生活のなかにはびこつてゐます。  これらの陋習は、或は迷信に属するもの、或は家長の越権に基くもの、いはゆる家族個人主義と称せらるべきもの、老人の偏見狭量によるもの、など、様々な原因から生じるのでありますが、主として、「家」の精神の歪曲と伝統の形骸化に帰することができます。  でありますから、これを打破し、是正する方法として、徒らに合理主義を採ることは、更に新たな危険をはらむことになります。  そもそも「家」の観念は、日本の「国家」観念と同様、その最も健全な本源に遡つても、それは、決して、今日の合理的立場なるものと相容れる筈はなく、そこには「宿命」があり、「信仰」があり、「血液」の神秘があるのであります。  家族内に於ける新旧思想の衝突とは、嘗て屡々口にされたことでありますが、個々の特別な場合を除いて、多くは、「若い合理派」が、年長の保守的非合理派と対した結果であらうと思はれます。 八 「家」の観念を基礎とした様々な現象が、日本文化の特色の一つであるとすれば、「道」の思想に貫かれた日本人の常住坐臥の法則もまた、文化的にみて、異色あるものであります。 「道」といふ言葉の用法は実に広く、いちいち例を挙げて説明をすればきりがありませんが、こゝで云ふ「道」とは、かの「武道」をはじめとして「書道」「茶道」「華道」などに至る、精神と技術との一体観に基く修練の本義を指すのです。  外国には「武器を操作する技術」はいろいろありますが、これを、「武術」といふ名でさへ一括してはゐません。まして、「武術」から一歩を進めて、「武道」と称する日本人の真意は到底汲むことはできますまい。それと同じく、「書法」はあるが「書道」はなく、特に、「茶道」「華道」に至つては、まつたく日本人独得の生活観から生れたものであります。 「道」の到りつくところは、何れの「道」に於ても人間の完成であり、生活の充実であります。技を練ると同時に、肚ができ、人間が大きくなるとされてゐます。果してそのとほりいくかどうかわかりませんが、理想はそこにおいてあるのです。 「武道」は「武士道」とは違ひますが、勝負を決する精神と技術であり、「武の道」と云へば、必ずしも「武道」そのものを指しませんけれども、「文の道」に対して、戦時の用意を意味するものと解せられます。従つて、文武両道は、武士の最高の教養とされるのみならず、武士に非ざるものも、一朝事ある時の覚悟として、「武の道」は少くとも胆力としてこれを練るのが真の日本人でありました。 「書道」「茶道」「華道」、すべて「芸道」のうちにはひりますが、これら「芸道」は、男女ともに、その余裕あるものは、「嗜み」としていくぶんづつは身につけるのが普通でありました。それぞれ専門の師匠があつて、深くその道に入るに従つて、「免許」といふものが授けられます。  いづれも、多くの流派を生みましたが、今日ではやゝその区別が混沌としてゐます。  元来、これらの芸道は、日常生活の儀式化、娯楽化されたものでありますが、特に茶道華道は、有閑階級の社交に利用せられる傾きが多く、その「道」たるの精神から遠ざかつてゐるやうに思はれます。  しかし、その発展の歴史を遡れば、「道」としての神髄を発揮し、日本人の生活の豊かな象徴として、日常起居の規範となつたことをも見逃し得ないのであります。 「茶道」のいはゆる「和敬静寂」の精神の如きは、日本的な個人生活の理想を暗示したものでありませう。  それはとにかくとして、これらの「芸道」の心は、日本人の生活面を通じて、様々な影響と支配との跡を見せてゐるのであります。  一般に「趣味」と云はれる、本職本業以外の、例へば、読書であるとか、音楽であるとか、手細工であるとか、更に、今日では体育の部類に入れられる登山、ハイキング、運動と娯楽の中間に位するゴルフ、玉突、さては、碁将棋、マーヂヤンの室内競技に至るまでの「余暇利用法」は、概ね、誰でもそのうちの一つや二つは、深い浅いの程度はあつてもこれをもつてゐないものはありますまい。  その「趣味」が少し昂じて来て、技術的にも腕をあげようといふ野心が生じて来ると、それはもう趣味の領域から脱け出すことになり、また、同じ趣味でも、技術より精神を尊ぶといふやうな行き方もあつて、そこでは、下手の横好きが許され、「暇つぶし」と自ら称しつゝ、それに没頭することによつて悠々自適の快を味ふとか、自ら孤独の境を楽しむとか、更に、隠忍風雲を待つといふやうな精神的満足を得る場合もあります。  手狭な住居のそここゝを利用して、丹念に盆栽の鉢を並べる人々の心境は、西洋での草花の鉢を窓辺に飾るそれとは全く違つたものであります。 「趣味」が「道楽」となる場合、その極端はこれまた、何をするにしても、それが「道楽」と呼び得る限り、単なる「趣味」では事足りず、心身ともにこれに投じて悔いない状態です。「道楽」と云へば人聞きが悪いやうでもあり、また自ら卑下したことにもなるといふ微妙な語感をもつた言葉で、しかも、一脈、それに徹してゐる矜りのやうなものが言外に匂ふといふのは、その「道」の一字が、どことなく神聖なものを感じさせるために、自ら慰めるところがあるからだと思はれます。事実、釣道楽、食道楽、勝負道楽などと、この種の道楽は、世界のどこにでも通用しさうですが、日本人の場合は、屡々一種の哲学めいたものを用意して、よかれ悪しかれ、人を煙に巻くといふやり方です。 九  風習の上に現れた日本文化の特色の一つとして、私は、「贈物」、近頃の言ひ方をすれば「贈答」について考へてみたいと思ひます。  徒然草に、「よき友三あり、一には、物くるる友」といふ文句があります。たしかに、日本人ぐらゐ物をやつたり貰つたりすることの好きな国民はないやうです。この点、昔も今も変りはありませんが、こゝで注意すべきことは、日本人のこの風習は、昔と今と、非常にその精神が変つて来てゐるやうです。  なかにはむろん、古人の心を心として、やるにも貰ふにも、昔の仕来りを守つてゐるゆかしい人々もありますが、多くは形式的な「お義理」としてか、または、打算的な「附け届け」としてでありまして、真に同じものを分け合ふ気持などは、めつたに見られないといふ有様であります。  しかし、それでも、日本人はまだ、義理でも打算でもない、たゞ単に気前を見せるとか、相手の驚き喜ぶ顔を見たいとかいふ、単純でかつ不思議な心理から、無暗に相手かまはず物をやりたがり、また、貰ふ方でもわりに平気でそれを受けとるといふ風が、そんなに珍しくはないのです。  外国人にはよほどこれが不可解とみえて、日本人の甘さとさへ評してゐる向もあるくらゐです。甘くみられることは必ずしも恥ではありません。しかし、かういふ傾向は、やはり、精神と形式との遊離でありまして、美しかるべき行為が、その美しさを消してゐる一例であります。  日本人が、贈物として、その物に托する心情は、歌にも詩にもしたいほどの、深い意味を籠めてゐるのです。何処の山でとれた蕨だとか、裏に生つた柿だとか、郷里の地酒だとか、どこ名産の羊羹だとか、誰それに焼かせた壺だとか、娘の縫つたチヤンチヤンコだとか、まあさういふ類ひの品物ならば、やつても貰つても、そこには少しの無理もなく、友愛の息吹を運んで物が温く笑ひます。「手土産」の懐しさは、物の金銭的価値でないことはもちろん、それを差出す人の眼差しと一と言の説明であります。時によると、手紙をつけて使に持たせてやります。手紙は名文に越したことはありません。返礼に俳句一筆となると、それはもう凝つたものです。そんな真似まではしなくても、日本人の贈物とはさういふものだといふ、その精神をもう一度取戻したいのです。  私の考へでは、近来、お義理だの、附け届けだのと云つて、むやみに贈答がふえ、贈答品売場などといふ大それた札まで出すところがあり、それのみならず、進物用の商品切手といふ不都合な代物まで登場したのには、ひとつの理由があると思ひます。いつたいどうしたわけかと云へば、それは、日本人のやり好き貰ひ好きにつけ込んだ営利主義の策略ではありませうが、それよりも、第一に、現代の日本人は、自分の心持を人に伝へる方法がひどく拙くなつたといふことです。  これは明白な事実であります。  いはゆる物質主義の世の中になつて、品物がそれだけ幅を利かし、たいがいのことは金で自由が利くといふやうな時代の風潮とも関係はありませう。御馳走政策などといふ言葉さへあつて、盛大な宴席を設けて、饗応これつとめることなども、その部類に属しませう。しかし、私はそれだけの理由だと思ひません。そんなら、日本よりもつと物質主義の国々で、日本以上にさういふことが行はれるかと云へば、決してそんなことはないのです。  例へばある人に就職の世話をしてもらつたとします。その礼になにを持つて行かうか、といふよりも、どの程度のものを持つて行かうかといふことが頭痛の種になる。こんなをかしな話はないので、それよりも、ほんとは、どうしたら感謝の気持が十分に伝へられるだらうかと心を砕くべきでせう。元来、そんなことに心を砕くよりも、誠意を籠めて礼を云へば、それが相手に通じる筈なのです。ところが、その「誠意を籠めて礼を云ふ」といふことに、自信がもてない、相手がそれで満足するかどうか疑はしい、と思ふのは、自分の表現力の貧しさを自分で認めてゐることになりはしますまいか。会つて礼を述べるだけでは、なんだか物足りないので、二十円の商品切手を添へて差出すのか、商品切手の方にお礼の意味をふくめ、それに口上を添へるのか、いづれにしても、かういふ真似は、人間の心と心との直接の交流を甚だ軽く考へたやり方で、如何に当節の日本人が、言葉と云へば紋切型をいでず、挨拶と云へば月並に堕し、真情を吐露する熱意と率直さとを失つて、遂に自他ともに、心を物に托する安易な道を択ばないわけにいかなくなつてゐるか、といふことがわかるのであります。  かういふ風に見ていきますと、日本文化の特質は、特質としての強味と魅力とを発揮してゐる面と、その特質が精神を失つて形式的なものとなり、或は、その形式が別の不純な動機によつて病弊と化してゐる面とがあり、われわれはよくこれを識別して、真の日本文化の特質を活かし、これを健全な姿に建て直すことを心掛けなければなりません。 一〇  そこで、今度は、日本文化の特質として、今日われわれが深く自らを省み、また、それによつて、未来の運命を切り拓いて行かねばならぬ二つの伝統的な思想について述べませう。  それは、一つは日本人の自然観であり、もう一つは、死生観であります。  むづかしい解釈はこゝではしますまい。とにかく、自然観とは、「自然」といふものを日本人は元来どういふ風に考へてゐるかといふことであります。  一言にして云へば、われわれは、西洋人などと違ひ、自然と人間とを対立させず、人間を自然の一部と見做してゐるのであります。  従つて、われわれが自然を見る眼は、常にわれわれを生んだもの、われわれを育てるもの、そして、やがてはわれわれもその懐に帰るものといふ風に、無限の親しみと感謝とをさへ籠めた眼であります。自然を人の力によつて征服するといふやうな考へ方は、もともと日本にはなかつた考へ方で、それよりも自然の威力は、神の意志として、文字通り不可抗力と見做し、天命としてこれを受け容れるほかはありませんでした。  従つて、いはゆる天変地異も、日本人にとつては自然を畏れこそすれ、憎む理由とはならず、四季の鮮かな変化は何ものにも代へ難い自然の恩恵なのであります。  一般に穏かとは云ひ難い日本の風土の激しさは、忍耐をもつて甘んじてこれを受け容れ、自然の暴威と称せられる年々の災害も、殆ど常に試煉として上下心を以てのみこれに備へるにすぎず、長い歴史を通じての「復興」の努力は、それが繰り返されるたびに、一段とわれわれの抜くべからざる勇気を養つて来たかのやうに思はれます。  自然に親しむといふことも、それゆゑ、日本人にとつては、西洋人のやうに、美しい自然が自分たちのためにそこにあるといふやうな観賞のしかたでなく、自然の心を心とすることによつて、自分たちが浄化されると感じる、その同化作用にあると云へるのです。  西洋人も、自然の美を謳歌し、これに酔ふことはありますが、それは、どちらかと云へば、自然と戯れる余裕をもつたものであります。日本人の場合は、むしろ、自然をしみじみと眺めて深い溜息をもらすといふやうな気持の発露が、おほかたは自然の讃美となるのであります。 「自然」に対する心持がさうでありますから、生活そのものも、「自然」と離れては成り立ちません。「土」の無い生活は淋しく、草木の緑は、日光と同じやうに必要です。それのみならず、生活の形態もまた、「自然」に近いといふことが理想となります。  そこで、「文化」は「自然」に対して使はれる言葉だといふ西洋風の概念に少し当てはまらないことになるのですが、それよりも、日本の文化は、人工によつて自然を殺さずに、却つて自然を活かす高度の技術を生んだとも云へるのであります。  例へば、食物についてみても、純粋の日本料理と云へば、たいがいは、材料の自然な形と色と味とを保たせながら、単純な調味によつて、献立の変化をつけるといふのが、最も料理人の腕前の見せどころで、特に野生の雑草、いはゆる山菜が、高級料理としても尊ばれるといふやうなことは、外国人には見られない日本人独得の発達した味覚を証明するものであると同時に、そこにはまた、日本人の伝統的な自然観が見られるのであります。  日本人はまた、住居に於ても、なるべく自然と一体であることを望みます。白木のまゝ材木を使ふことであり、畳の触感を好むのもそこからだと云へませう。庭園の造りは云ふまでもなく自然の美を摸したもの、或は自然そのまゝの姿を採入れたものであり、しかも、その模写による「自然」の構造は、変化するものよりも変化しないものを材料とすることが、趣味、感覚の洗煉を意味することになつてゐます。草花よりも植木、それよりも更に石といふ風に。  日本人のこの自然愛は、精神的な方面にも及び、言語動作の上でも、一体に「自然」であるといふことが、最も美しいとされるのであります。これは、必ずしも日本だけでなく、万事に技巧が目立つといふことは、それだけ未熟な証拠、または軽薄な態度として、何処でも心あるものは疎んずるのでありますが、特にわれわれ日本人、その中でもわけて民衆の間では「わざとらしさ」といふことが極度に排斥されるのであります。  これは一面、たしかに、生活態度としての、潔癖と聡明とを語るものでありますが、また一面、その程度を越え、これに囚はれることになると、そこに本末顛倒の現象を生じ、「自然」を衒ふ「不自然さ」に陥ることがあるのであります。ある種の日本人は、この「不自然さ」の故に屡々思はぬ誤解を受け、反感を招き、失策を演じてゐます。  某高官が外国を訪問した際、公式の賓客とあつて、首府の市民は沿道を埋めて歓呼の声をあげたのですが、某氏は、幌を外した自動車の中から、帽子を片手に、軽い会釈を送りました。それが問題になつたのです。なぜなら、市民の期待に反して、某氏の表情は「毎日こんな歓迎は受けてゐる」と云はぬばかりの、平然たる表情だつたからです。  もちろん、日本人は西洋人のやうなお世辞たつぷりの表情は不得手であります。しかしながら、某氏のその時の気持は、察するに、大国の高官として、「あまりうれしさうな顔をしては沽券に拘るから、なるべく、「自然」に、普段のとほりの態度で市民の歓迎に応へよう」といふやうなところではなかつたでせうか。尤もな配慮とも思はれますが、もう既に、そこに誤算があつたので、「自然」にならうとして「不自然」にならざるを得ぬ微妙な心理の狂ひを勘定に入れなかつたからです。  まことに、「自然」に立派であるといふことほど、普通の人間にとつて大きな修練を要することはありません。喜怒哀楽を顔に現さずとする日本古来の「嗜み」も、その真の精神は、自己鍛錬にあるのだといふことを、こゝでも深く感じさせられます。  最も素朴な民衆のなかに、最も自然にしてしかも立派な態度を屡々見かけるのは、いはゆる少しの衒ひもなく、分に安んじて故ら己を屈せざる「自然」そのものの生命を生命とするからでありませう。 一一  日本人の死生観は、おそらく仏教渡来以前に、その自然観とともに既にはつきりした形を取つてゐたもののやうに思はれます。もちろん、後世に至つて、仏教思想の影響もなくはありませんが、むしろその根源は、国肇ると共に芽生えた一死奉公の赤誠にあると断じて誤りはありません。 かへらしとかねて思へは梓弓なき数にいる名をそ止むる(楠正行)  君国のために生命を捧げることが臣子の本懐とするところでありますから、最期を飾るといふことは、最も死甲斐のある死に方をすることであり、犬死といふことが最も恥とされてゐます。 「武士道とは死ぬことと見つけたり」とは、「葉隠」の有名な言葉ですが、こゝに至つて、死ぬことが忠義であり、武士の念願であるとまで考へられたのです。死をもつて賠ひ得ざるものなしとする勇猛心と、死によつてのみ真に生き得るといふ悟道とが遂に一体となつて、この哲学は今日もなほ国民の精神を鼓舞するに足る力を持つてゐます。  一方、武士道のかういふ死生観は、庶民の間にも影響を与へたと同時に、日本人すべての「生死」といふ観念に、仏教的な厭世思想を超えた、なにかもつと激しい、そして一面には、無頓着と云ひたいほどの特色をもたせる結果となりました。 「死ぬ」といふことを案外なんとも思はないほど不気味なものはありません。ほかからみれば不気味に違ひないけれども、日本人自身には、それが当り前なのです。  しかし、これは、日本人の「生」といふものに対する考へ方と無関係ではありません。日本人は、「生きる」意味をどの程度重大に考へ、「生き方」について、どの程度真剣に思ひをひそめてゐるかといふと、この点はいろいろ問題があると思ひます。  立派に死ぬことは立派に生きることであるといふ真理は、日本人によつてのみ会得されたのでありますが、それは生命への執著を絶ち切る無上の啓示であることはわかります。  ところで、立派に生きる道は、立派な死以外にはないでせうか? 「ない」と答へることは容易です。事実、立派な死ぐらゐ、人生を意義あらしめるものはないからです。日本人はさういふ「死」を死ぬためにこそ「生き」てゐるのだといふ象徴的な言ひ方さへできるくらゐです。  私は、この場合、既に、「立派な死」といふ言葉のなかに、「立派な生」といふ意味をも含めたものとして考へたい。言ひ換へれば、「立派に生き」得るものでなければ、「立派な死に方」はできぬといふことです。  今日の日本人が立派に生きるといふことは、自分独りの「生死」を問題にすべきではありません。まして、おのれたゞ一人、清く生きればよいといふやうな考へ方は、絶対に許されません。日本の国、日本人全体のために、なんらか役立つやうな「生き方」を、分に応じて工夫することが、やがては、「立派に死ぬ」ことを可能ならしめるのであります。 「生き甲斐ある」とは、このことを云ふのです。そして、生き甲斐ある生き方こそ、最も楽しい生活であり、幸福な生涯であります。  この事をはつきり自覚しない以上、日本人の「死生観」といふものは、日本を完全に護り、繁栄に導くことにはなりますまい。  日本人がやゝもすれば、日常生活を軽視し、生命そのものの尊さを忘れてゐるかのやうな印象を与へるといふのは、必ずしも、その「死生観」のみから来るのではありますまいが、少くとも、今日の「生活観」は、最も健康な「日本的死生観」の上に樹てられることによつて、日本人の力の完全な発揮にまで高まらなければなりません。  これで日本文化の特質を形づくる要素のあらましを説明したつもりです。  非常に厖大で複雑な問題を、やゝ手軽に扱ひすぎたきらひはありますが、もつと詳しい深い研究は他に適当な指導書もあることと思ひ、こゝでは、主として、現代日本文化の様相を通じて、多くの反省を試みながら、われわれが拠つてもつて今後の文化問題を考へる一応の参考としたかつたのです。 底本:「岸田國士全集26」岩波書店    1991(平成3)年10月8日発行 底本の親本:「力としての文化──若き人々へ」河出書房    1943(昭和18)年6月20日発行 初出:「力としての文化──若き人々へ」河出書房    1943(昭和18)年6月20日発行 入力:tatsuki 校正:門田裕志 2010年5月21日作成 2016年4月14日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。