観光事業と文化問題 ──日本観光連盟第六回総会に於ける講演── 岸田國士 Guide 扉 本文 目 次 観光事業と文化問題 ──日本観光連盟第六回総会に於ける講演──  私は観光事業に関しては全くの素人で、殊にこの問題は非常に広汎な領域を含んで居りますので、私の申上げることが或は肯綮に当らないかも知れませんが、併し只今この時局下において日本全文化領域のことが考へられて居る際でありますから、観光事業も文化問題として取上げて我々の仕事の一部としたいと思つて居るのであります。これから又此の事業に直接お携はりになつておいでになる専門の方々から教を受けなければなりませんが、只今は不用意でありますが、些か気の付いた点を申上げて見たいと思ふのであります。  私も平生旅行は割合にする方で、内地のみならず、古いことでありますがヨーロツパにも出掛けたし、ヨーロツパへの行き方も少し変つた行き方をしまして、普通ならば横浜乃至神戸から乗船して直接ヨーロツパ大陸へ行く、或はアメリカを通り、ロシヤを通るといつたやうなコースが色々あります。私はフランスのパリーを目指して参る積りでありましたが、先づ台湾へ行き、台湾から香港に渡り、香港から印度支那、それから馬来、馬来からマルセーユといふ風に、其の間約半年かゝつて行つて居ります。これは別に道楽でさういふコースを選んだ訳ではありませんが、さういふ旅行の仕方を致しました経験から旅行といふものに就て、殊に外国人である私の目に映るそれ〴〵の土地の風物或は生活といふものは今日まだ鮮かに残つて居りまして、さういふ風物なり生活なりを通じて今日日本の文化といふものを考へる上に多少役に立つて居る点があるかと思ふのであります。  元来国内に居て国内の文化といふ問題を考へる場合、勿論これは研究の浅さ深さにも依りますが、文化といふ問題を取上げる場合にはどうしても外国との比較が重要だと思ふのであります。今日に限りませんが、欧米から日本に来て居る人達で日本の文化を研究して居る連中の話を折に触れて聞きますと、日本の文化について話をする場合必ず其の引合に色々の国の文化を出す。さうしてそれ等の問題が常に其の人の観察力といふものに依つて支配されて居る。非常に観察の鋭い人、或は観察の浅い平凡な人に依つて日本といふ国が如何に映つて居るかといふことを私は絶えず教へられて居ります。最近にも或ドイツ人と話をして、日本の現代文化、特に日本人の現代生活といふ問題に触れたのでありますが、そのドイツ人は有名な教育学者であつて相当教養のある人ですが、日本の現代生活に対して非常に辛辣な観察を下して居ります。さうしてこの辛辣な観察の中に我々は矢張り多くの反省しなければならぬ点を発見すると同時に、又さういふ辛辣な観察に対して十分私共日本人としてこれに一つの別な方向を与へるだけの自信と用意がなければならないと思ふのであります。  必ずしも日本人であるから日本人の弁護をしてそれで義務を果すといふだけのことではないのでありまして、辛辣な観察が動もすると矢張り一方的になつて、そこに見逃して居る点があるといふことも争へない。外国の場合もさうでありますし、特に国内に於て日本人が日本の国を見るといふことは一つの惰性になつて居る関係から日本を正しく視るといふことがなか〳〵難しいので、日本人が日本の事情なり生活なりを見て一つの発見をするといふやうなことはなか〳〵難しいばかりでなく、その日本人の生活に対して正しい判断を下すといふことは是亦非常に困難であります。多くの場合は自分の国は斯ういふ国なのだと頭から鵜呑みにして、それに対して普段は全く考へることもしないといふ状態だと思ふ。  観光といふ事業はその事業の本質としまして非常に重要な使命を持つて居ることは申す迄もございませんが、併し我々の考へます所ではこれは一つの教育であるといふこと、日本人に日本を真に愛するといふ気持を起させる一つの大きな教育である。外国人に対しても日本の真髄を知らしめる。これ亦一つの啓蒙であります。従つて今日までの観光事業に斯ういふ教育乃至啓蒙といふ半面が折込まれてゐるといふことは私も信じて疑はないのでありますが、さういふ意味が折込まれて居るだけにこの時局下に於きまして観光事業に携つて居る方の任務が非常に重いといふことを感じますし、同時に又今日までの観光事業が此処で何か新しい出発を促されて居るのではないかと思ふのであります。  そこで、それを国内と国際の二つの面に分けて考へて見ましても、殊に国際観光といふ点から考へますと、只今は防諜関係などで非常にこの種の事業に制約が伴ひまして窮屈になつてきたことゝ思はれます。これ亦、今までの国際観光事業といふ面も強調されながら、その教育的面に主力が注がれたなれば、防諜関係といふやうな制約を超えて新しい一つの国策宣伝の目的に副ふやうな仕事が出来るのではないだらうかと思ひまして、その点を期待する次第であります。その国策宣伝に副ふやうに観光事業を持つて行くにはどうしたらいゝかといふ点、これは恐らくこの会議を通じて色々議題に上つたことゝ存じます。  私は此処で具体的のことを申上げるのは大変僭越でありますが、素人はさういふ考へ方をするのだといふ意味で御参考になるかと思ふので一二申上げて見ますが、今旅行をしても、ホテルに泊つても、外国から来たお客の種類が非常に違つて居ります。それは直ぐ気が付く。帝国ホテルなどで夕飯を食つて居りましても、周囲で話される外国語は、これは正確には知りませんが、私の気の付いた所でも半年位の間に非常に変つて居る。英語が非常に少くなつてドイツ語、イタリー語が非常に殖えて居るやうに思ひます。詰り枢軸国の旅行者が可なり殖えて居る。又其の枢軸国の旅行者は色々経済的の目的で来て居る人もあらうと思ひますが、公けの目的を帯びた人もあり、又自分だけで或研究をして居る人もあらうと思ひます。かういふ枢軸国の人々に対する新しい日本認識の基礎を観光事業に携つて居る方々が与へて下されば結構だと思ひます。具体的な一例と致しましては、今まで大体英語国民を中心として色々文書等が刊行されて居る。英語国民を対象として居るといふことは必ずしも英語で書かれて居るといふことだけではなかつたと思ふ。  詰り英語国民の心理なり英語国民の好尚に対して十分の理解の上に立つた宣伝だつたと思ひますが、英語国民と独伊の国民との間には非常に大きな心理的な相違があり、好みの上でも独伊はそれ〴〵違ひますけれども、今日まで日本人が接触した欧米人の中で特色を持つた民族だと思ひます。  斯ういふ意味で独伊国民に対する日本人の接触の仕方、或は日本認識のさせ方には一つの心構と技術が必要のやうに思ふのであります。先程例に引いたドイツの人と話をして居る時にかういふ話をきいたのであります。それは自分は日本人が如何にして創られつゝあるかを一年半日本にゐて見て研究したが、主として田舎を見た。どうも大都会では自分の観察が非常に散漫になつて考を纏めるのに困難なばかりでなく、どうも大都会には日本人の本当の姿が映つて居ないやうなので主として地方を廻つて居る、殊に地方の農民の生活を見て居るといふのです。かういふ観察の仕方は今日までの欧米人は比較的しなかつたと思ひます。中には勿論素朴な民衆生活に興味を持つた人もありましたし、ラフカディオ・ハーンのやうな人もあつて日本の民衆の生活に徹しようと興味を持つた人もありますが、これは主として芸術的センスに富んだ芸術家的な傾向でありまして、特に政治的な意味で日本を研究しやうといふ場合に、日本の民衆に接触して日本民衆の生活の中から何かを掴まうといふやうなさういふ方針を以て日本に来て居た人は非常に少なかつたと思ふ。これは申す迄もなくドイツ人一流の物の考へ方で、其の人に限らず、ドイツから来て居る所謂文化方面の人達は総てさういふ研究の仕方をして居ると私は直感致しました。さういふ風な場合に今日まで外来客に対して日本が採つて居た啓蒙宣伝の仕方といふものが果して通用するかどうか、日本を今さういふやり方で研究しつゝある人に通用するかどうかといふ点を私は非常に疑ふのであります。現に其の人の話でも、今日までの日本人の日本紹介、外来客に対する日本紹介といふものに対して、其の人自身も不満であると同時に、日本人にとつても非常に得策でないといふことを強調して居りました。これは盟邦の一人として、我々の友人としてさういふ忠告を与へたのだらうと考へる一方、私はもつと何か重大な問題がそこに潜んで居るやうに思ふ。といふのは日本人の宣伝力、或は宣伝能力といふものに対して兎角国内でも色々問題になつて居りますし、特に外国人の方でこれに対して多少軽侮の念を抱いて居るといふことを聞いて居ります。  さういふ風な真剣な或は非常に科学的な日本研究者に対する日本人の迂闊な態度がどうかすると其の問題に限らず、日本の現代文化といふものに対する一つの弱点を暴露する結果になりはしないかと思ひます。これから特にさういふ外来客が多くなる傾向がありと致しますと、今日まで外国人が喜んだやうなさういふ面以外の日本人の本当の姿をもつと見せてやらなければならぬ。それには先程申した案内書、日本紹介の色々の文書といふ以外に、日本人が通訳として或は案内者としてこれに接する場合の心掛け乃至は教養といふものも今日までの標準では困難ではないか。それは唯単に案内の目的を達しない、向ふを満足させないといふばかりでなくもつと危険な問題即ち日本を非常に誤解させる、日本の本当の姿を伝へない為に、どうかすると日本にある本当に良いものが伝はらないで其の反対になる虞が非常にあるのではないか。ドイツ人に限らず日本を本当に研究する、興味本位でなく、本当に日本を研究しやうとする人達が最も興味の対象としますものは申す迄もなく日本の伝統として今日まで残つて居る部分、而もそれが国民生活の中に根を下して居る部分で、国民の中に根を下して居ない伝統的なものといふのは所謂骨董です。  国民生活の中に根を下した伝統的なものはどういふものかといふと日本人の風俗、現代まで伝はつて居る日本人の風俗である。而も其の風俗が欧米の模倣でない所の風俗、さういふものに対して最も興味を持つ。又さういふものゝ中から日本の本当の姿が伝へられると思ふ。日本人の姿、風俗といふものは必ずしも田舎の農家の生活といふものに限らぬと思ひます。洋服を着て居る男女でも、其の男女の言語、態度、さういふものゝ中に洗煉された日本人の姿が残つて居ることを多くの明敏な外国人は観察して居ります。さうしてさういふ者がどの位の割合で日本の中に居るか、之に反して所謂日本人の姿といふものを発見出来ない一部は全く欧米模倣の傾向、一部は欧米模倣でもなく又過去の伝統をも持つて居ない一種の風俗或は文化の空白状態、この空白状態を彼等ははつきり観察して居ります。其の空白状態、伝統を見失つて根こぎにされた日本人の姿が今日非常に多く目につくといふことに依つて、彼等が日本に対する信用を落して居るといふことも事実だと思ひます。これが観光事業といふものと一体どう関係があるかといふことは、私は特に此の事業に携はつて居られる有力なる方々に申上げたいのであります。  今日まで此の観光事業の一つの目的と致しましては、詰り日本の中に幾つかの観光目的地を拵へて、其の観光目的地に連れて行つて其処を見せるといふことに一つの重点が置かれて居つたと思ひます。併しこれからはこれでは非常に心細いと思ひます。或所まで連れて行く其の道中といふものが非常に重大な意義を持つて来ると思ひます。例へば東京から日光を見せる時、其の間の汽車の中の日本人の風俗及び生活振りによつて、仮令、日光が如何に壮大で外国人の目を奪ふに足るものでありましても、其の途中の日本人の汽車の中の風俗に依つて日光の値打はゼロになり或はマイナスになるといふことを私共は深く胆に銘じなければならぬと思ひます。  今度は国内の問題であります。此の方は私共が唯漠然と見て居りましても、現に相当旅行者の数も殖えて居る。旅行者が用事の為に移動して居るばかりでなく、矢張り色々な所に物見遊山に行く者或は温泉に出掛ける者、又中には体育を目的として山登りをする者といふやうに非常に旅行者が多い。さういふ意味では或は皆さん方の、旅客を誘引するといふ必要は今おありにならないかも知れない。相当温泉場なども賑はつて居りますし、又これから夏に向つて避暑地なども相当の人出だらうと思ひます。又名所旧蹟といふやうな所を訪問する人達も私共最近の旅行の経験から見ても決して衰へては居ないと思ひます。  斯ういふ風に矢張り観光といふ立場から見ますと、観光事業其の者は決して悲観すべき状態でないと思つて居ます。唯この観光といふものを指導なさる、或は観光の意義を十分強調なさる立場から申しますと唯現在の儘旅行者の気の向いた儘、気の向いた所へ行つて、そこで唯単に無駄な時間を過すといふだけでは不十分だと思ひます。旅行の目的、観光といふものゝ意義を新しく此処で考へ直さなければならないと思ひます。今色々な所に相当殺到して居るこれ等の旅行者に対して我々が痛切に感じますことは、その土地に於ける施設なり、或は又其の土地の方々が旅行者に対してどういふ待遇をして居られるかといふ問題であります。その土地へ行つて唯旅館に泊る或は名所旧蹟を見て歩くといふことに対して今日非常にこれを有意義に導く方法がある、それは今日までよりも今が一番好い時期だとさへ考へる一つの点があるのであります。それは御承知の方もあると思ひますが、大政翼賛運動が始つて地方の文化運動が只今盛んになつて居ります。各地方ではそれ〴〵新しい文化団体が簇生して居りまして、それ等の文化団体が自主的に出来て居るのもありますが、又翼賛会の文化部と致しましてはそれを自主的に出来たからと言つて抛つて置かないで、日本全体の文化向上の為に最も適当な機構を造るやうに色々連絡を取つて居るのであります。  その地方文化運動といふものの一翼に此の観光事業といふものを結び着けて戴きたい。地方文化運動の目的と致します所は、第一にその地方の伝統的な文化といふものを十分研究して、その伝統的な文化の最も健全な要素を残して、これが健全な要素の上に新しい日本の文化を築き上げるといふ所に一番大きな目標を置く。と申しますのは都会の文化は表面的には非常に華やかなやうでありまして、都会には文化が集中して居るといふやうな印象さへ与へるのでありますが、事実は都会の文化は外国文化の模倣乃至影響が主でありまして、その中には機械文明乃至は物質文明として十分採入れていゝものもありますけれども、併しそのために日本本来の健康な文化的要素といふものが非常に稀薄になつて居ります。此の稀薄になつて居るといふことが都会文化の頽廃といふことを招いて居る。  今日健全な文化の育成といふことが問題になつて居る以上、どうしても日本にある根強い民族文化を此処でもう一度見直すと、その民族文化は必ず日本の土に根を下し、日本人の生活の中に根を張つて居る。これを土台にして新時代の文化を其の上に築いて行かなければならぬ。それにはどうしても都会よりも寧ろ都会を離れた地方、特に大都会よりも地方の小都会といふ所に残つて居る伝統を十分尊重して行かなければならぬ。従つてさういふ所にある地方独得の文化といふものを十分検討してその中にある健全な芽を伸ばして行く、といふことが地方文化運動の一つの目標であります。それと同時にさういふ土台の上に築かれた文化がその地方の一般民衆の生活に良い一つの文化的の栄養を与へる。これが第二の目的であります。唯地方の文化の遺産を特殊な人が独占して、特殊な人がそれを誇りにして居るといふことではいけないので、さういふものがあればその地方の人達がさういふ文化を自分の身に附けて、さういふ文化を十分誇りとし得るやうな、さういふ一つの方法が講ぜられなければならぬと思つて居ります。地方の文化団体はさういふ意味に於て、所謂地方の文化人が唯自慰的に其の地方に残つて居るものを掘出して、金持が骨董を弄ぶやうにそれを自分の書斎なり座敷なりに飾つて置くといふやうなことでなく、さういふものを基礎としてその地方の民衆一般の自信と活動力とを与へて行くといふことを考へねばならぬ。  従つてその地方に於ける名所旧蹟といふものも今日までは他所から見に来る者に見せて置けばいゝ、見せるのに適当な施設をすればいゝといふ考へ方であつたのでありますが、将来は地方の文化運動と致しましては、其の地方の名所旧蹟は其の地方の誇りとして、其の地方の人々の手に依つて最も美しくさうして最も品位の高いものにして行かなければならぬと思ひます。それには其の地方の人達が十分名所旧蹟の意義をはつきり知つて、其の地方の人ならば誰でもその名所旧蹟に他の地方の者を案内出来るといふ知識と準備、これが先づ必要であります。  次に其の名所旧蹟にあるもの悉くがその地方の名折れになるやうなものであつてはならない。例へば看板一つにも其の地方に於ける美しい人情と芸術的な感性といふものが十分発揮されて居なければならぬ。唯単に目立つ看板を掲げればいゝといふやうなことでなく、成程斯ういふ看板は他の土地へ行つては見られない看板だ、而も其の看板には其の土地柄の美しさ良さが十分発揮して居る、といふやうな看板が掲げられて居なければならぬ。看板の一例を挙げてもさうでありますが、土産物などでも只今では大都会で造つてそれを各地方に配布して居るといふやうな実情が見られるのでありますが、これなどもその土地にとつては大きな恥辱だと思ひます。  大量生産の時代ではありますが、少くとも土産物はその土地の人がその土地の人の感覚でその土地の人の技術を以て造つて、他の土地に於ては見られないやうなものを造るとか、さういふことが今日最も健全な文化運動だと思ひます。歌謡曲なども同様で、今日は略々画一的な歌謡曲が出来て居ります。これなども新しい文化運動としては寧ろ排撃せらるべきもので、その土地に昔からある歌謡、さういふものの精神を十分生かして、それを今の人も謡ひ得る如くするといふ方向に努力が向けられなければならぬと思ひます。  その次は旅館であります。私は日本の旅館は或意味に於ては世界一設備の整つたサーヴイスのいゝ旅館だと思ひますが、一方から申しますと又旅館の無性格、性格がないと同時に非常に煩雑であり、又悪趣味の氾濫であるといふこと、これを私は日本の為に特に悲しむのであります。  先程申上げました枢軸国側の旅行者は西洋流のホテルに泊るよりも日本風の旗館に泊つた方が日本がよくわかるといふやうなことで日本の宿に泊ることが多いさうであります。その場合に私は思ふのでありますが、日本の宿屋に泊つて、これが日本の宿屋だといふことを考へさせて、而もそれが誤りでないやうな旅館が幾つあるか、私の経験ではそれが非常に稀であります。名前を申してもいゝのでありますが、私が此の十年以来内地を歩いて、これこそ日本の宿屋として日本人には勿論気持が好く、外国人を泊めても大いに誇るに足るといふ宿屋が二三軒しかないと思ひます。是は極言であるかも知れないが、私の経験ではさういふ比例であるのから考へて見ても、私は旅館の建築及び装飾、それから設備又サーヴイスといふやうなものに就て何か標準が間違つて居るのぢやないか、何時の時代からか間違つたのぢやないか、若し標準が間違つて居るとすると由々しいことでありまして、皆がそれに気付いてお互に心を合せて正しい新しい標準といふものを見付け出さなければならぬのだと思ひます。此の旅館に付ては旅行する者がそれ〴〵色々な註文を持つて居りませうし、一人々々の註文を入れて行けばどんな設備をしても間に合はないといふことはわかつて居ります。併し旅館といふものゝ性格から考へまして、それは国民の最も高い常識からしまして一つの標準が必ず出来ると思ひます。この高い標準から見た一つの旅館の改善といふことが目下の時代の観光事業として急務ではないか。旅館に泊つて旅館を褒めたり貶したりする人達がどうも私は信用が出来ない。その人達の批評に従つて旅館が今日経営されて居たならば由々しいことだと思ひます。どうか一つ此の観光協会で旅館に対する正当な而も高い認識を持つた一つの委員会を作つて下さつて、その委員会が委員の名に於て色々な旅館に泊つて親切なあたゝかい、さうして改善の可能性のある案を委員会で提出して、さうして日本全体の旅館を正しい意味に於ける文化的な施設にして戴くことを私は特にお願申上げて置きます。  それから観光と申しますと暇と時間と金とがあつて、それを使ふ為に旅行するといふやうな印象が非常に強かつたのでありますが、最近ではさういふ旅行が幾分国民の良心に愬へて是正せられつゝあり、或は保健の為の旅行或は国民精神作興の為の旅行と看板は如何様とも付けられると思ひますが、実質的にさういふ目的を達し得ますやうに一つ皆さんの御考慮を願ひたいと思ひます。  勿論山登り或はハイキングといふやうなものはそれ〴〵保健の目的を達するには相違ありませぬ。かういふことが立派な指導者を得てその指導の下にそれが行はれたなれば十分目的は達せられると思ひます。多くの人はさういふ指導者なく、それ〴〵思ひ思ひの方法で、どうかするとさういふことを名目として時間と金とを可なり空費して居るのぢやないかと思ひます。従つてこれは此の時局柄に於きまして特に観光事業の大きな目標としてさういふ旅行者達を余り堅苦しくなく、窮屈でなく、自ら教育をして戴ければ非常に結構だと思ひます。それにはそれ〴〵の土地の何かの施設を通じてさういふ旅行者に其の土地の歴史、風土、地理、産業といふやうな面への極く概略でも結構でありますが知識を与へる、さういふことが可能だと信じます。  さうして日本をより多く愛する、日本に斯ういふ土地があるといふことは我々にとつて誇りであるといふことを其の土地の者以外にも感じさせることに依つて日本に対する愛情を一層強くさせるといふことは指導者の如何に依つては十分出来ることだと思ひます。私は東京で生れて東京で育つた者でありますから無遠慮に申しますが、東京のやうな実に殺風景な都会でも、而も東京の最も有難い所は申す迄もなく宮城でありまして、さういふ点が今日東京に住んで居る者にさへどうかすると忘れ勝ちでうつかりして居るといふことがある位であります。まして地方の土地に参りましてその土地の本当の良さ本当の美しさ、本当の歴史といふものが旅行者に全く映じない、旅行者の精神に映つて来ない為に、その土地を全く通りすがりの土地として通つてしまふといふやうなことになつて居ることは甚だ遺憾であります。  日本の国土はその隅々でもその土地の歴史の中には日本人の魂に愬へるやうな美しい偉大な精神が必ず宿つて居る。さういふ点に於て今後の観光事業は総ての他の部門と比較して一層有効な一つの教育機関だと考へます。教育といふ言葉を私に此処で広いさうして寛いだ意味にとつて申上げます。  以上取り留めもないことを申上げましたが、特に準備もなく思ひついた儘を申上げた次第であります。 底本:「岸田國士全集25」岩波書店    1991(平成3)年8月8日発行 底本の親本:「観光 第一巻第三号」    1941(昭和16)年6月20日 初出:「観光 第一巻第三号」    1941(昭和16)年6月20日 入力:tatsuki 校正:門田裕志 2010年1月20日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。