従軍五十日 岸田國士 Guide 扉 本文 目 次 従軍五十日 上海から蘇州まで       前記  この記録は昨年九月から十月にかけて、いはゆる「従軍作家」の一人として中支戦線のところどころを視察した結果、生れたものであるが、もともとこの種のノートを発表することによつてわれわれの任が果されたとは毛頭考へてゐない。  しかし、自分の僅かばかりの見聞のなかゝら、国民全体に是非知つてもらはねばならぬと思ふことは、今日許される範囲でとりあへずそれを伝へる義務があると信じたので、いくぶん個人的な見方にすぎないことをもはつきりさせるつもりで、随筆風の印象記を綴つたわけである。 「従軍」といふ言葉を使ふことは、少くとも私一個の行動にはふさはしくなく、可なり躊躇されたのであるが、一旦さういふ名称が与へられた以上、特に異を樹てるにも及ぶまいと思ひ、わざとこれを踏襲した。  何れにしても、私は私の性能に応じて、この機会を善用するほかはない。そこで一昨年の秋、北支に渡つた時と同様、戦争のいろいろな場面に於て、今度の事変の全貌をなるだけ正確につかむことに努力し、予想し得る将来の問題について、自分の判断の基礎となるべき資料を手の届く限り蒐めるやう心掛けた。その収穫が、今後、私の創作のうへにどう影響し、作用するかといふことは、現在のところ自分にもまだよくわからない。  従つて、この報告は、極めて単純明瞭な思想と、やゝ性急な意図とをもつて、ジャアナリズムの要求に応へたことにもなるのであつて、最初の「従軍五十日」は、文芸春秋に、最後の「私の従軍報告」は、東京朝日新聞に、前後してそれぞれ発表したものである。後者は前者の概説に過ぎないし、大部分重複のきらひはあるけれども、文章の形式がやゝ違ふと思ふので、併せてこの一巻に収めることにした。  この機会に、更めて内閣情報部と陸軍当局の配慮、並に、戦線各地区に於て望外の指導と便宜を与へられた諸官の好意に対し、深く感謝の意を表したい。   昭和十四年四月 著者      上海から蘇州まで  上海から杭州へ、それから蘇州、南京と、軍報道部の馬淵中佐が案内をされ、南京から九江、更に、そこを中心として星子、武穴、馬頭鎮等の前線に近い方面の誘導に、同じ報道部の松岡中尉が当たられた。  この間、宿泊、交通、見学のプログラム、すべて向ふ委せで、われわれは殆んど客分の待遇を受け、重要な個所を見落さなかつた代り、個人的な印象を細かにノートする暇もなく、云はゞ、中支戦場の一般概念の注入に頭を費した期間であつた。  漢口攻略戦のクライマックスとも云ふべき時機であつたから、第一線部隊に従つて、壮烈な対敵行動の場面を親しく見たい欲望は、すべての同僚の気持を急きたてゝゐたことは事実である。既に、そのつもりで、早くから単独先行したものもあるくらゐであつた。  私も亦、毎日地図を案じ、各地区に於ける戦況を綜合して、どの部隊につけば、比較的都合よく自分の望むやうな程度に、観戦の目的が達せられるかを考へつゞけた。  が、一方、九江に於ける各種の調査と、日増しに複雑化して行く街頭の現象とは、私をして今次の事変の特質と中心とが、何処にあるかといふ問題に決定的な判断を下さしめた。この判断は誠に平凡である。しかし、実感として私はこの判断に誤りがないことを信じ、短時日の旅行に総てを観ることができなければ、せめてこれだけは腰をおちつけてと思つたのは、所謂、そここゝに散在する占領地域の、小部隊を以てする警備と討伐と宣撫工作の実情である。日本軍の如何なる労苦が支那民衆に希望を与へ、その希望が如何なる相でわれわれの理想とするところに近づきつゝあるか、といふ例証を是非一国民として心に銘しておきたかつた。  そこで、すぐに頭に浮んだのは、例の彭沢といふ揚子江に沿つた小さな町である。船の上から眺めたところによると、戸数万戸に満たないくらゐの、三方山に囲まれた、美しい城廓のある水郷で、駐屯部隊のあることだけは、軒端につないだ馬や、山の中腹に掲げられた日の丸の旗で、ほゞ見当がついてゐた。いや、そればかりではない。船長の話によると、あの周囲の山の向ふに相当兵力をもつた敵がゐて、数週間前にも、守備隊がその逆襲を受けて悪戦苦闘したといふことである。この孤立無援にひとしい小部隊の、地味で苛烈な任務に私はかねがね心惹かれてゐたのである。が、どうも考へてみると、この町には九江や湖口とおなじく、住民がまだ多く還つて来てゐないらしい。地形の関係で外界との連絡がまつたく途絶えてゐるためであらう。  さうかと云つて、これから前へ進めば、占領直後の騒然たる街の姿は嘗て北支の旅行で経験したやうに、眼に多くの刺戟は与へるであらうが、表裏様々な民衆の生活様相は見るすべもない。況んや、かの敗残兵のいくぶん計画的とも云はれるゲリラ戦術とはどんなものか、それを見届けるためには、少し後方の辺鄙な地点を選ぶに如くはないと気づき、私は、一旦南京へ引返した。  南京警備の部隊の幕僚で、旧知の三国氏にその管下の部署並に一般状況の説明を聴き、更に、同地駐屯の××部隊長たる同期生山崎、大熊両君を訪ねて、雑談のうちに分屯警備地区の特徴を詳細に知るを得た。  私の決心はついた。翌朝の急行で南京を発ち、鎮江から船で揚子江対岸に渡つたのである。  十月二十日から三十日まで、楊州に止まつて、私は予定どほり、中支に於ける「隠れたる第一線」の実情を観察した。  この間に、広東は落ち、武漢は陥ちた。  輝やかしい戦果のあとにわれわれを待つものは、これこそ、国民の総力をもつて当らねばならぬ仕上げの事業である。日本のあらゆる精神的な能力がこゝで最も困難な活動を開始すべく準備されてゐる筈である。  楊州地区は誠にこの問題について語るために誂へ向きの一例であると信じるから、私は今度の中支旅行の印象を誌すにあたつて、この地に於ける滞留十日の記録に重点をおくことにする。  が、先づ順序として、足を上海におろしたところから始めよう。  旅客機が博多から上海までを約三時間で運んでくれるといふことは、今日の航空知識をもつてゐるものなら誰でも想像がつくだらう。想像はつくが、実際さうであることを実験したら、誰でもちよつと驚き、うれしくなり、自分の手柄でゞもあるやうな錯覚をおこす。  この種の錯覚に似たものが、若し私のこれからの記述のなかに現はれたとしたら、それは、私が日本人として生れたことの罪であるから許していたゞきたい。  上海は、この地に働くある種の女たちに云はせると、長崎県上海市ださうだから、私など二十年前に、悲壮な気分で、天涯の孤客然と船をおりた記憶を恥ぢねばならぬ。  さて、着陸場には軍報道部の馬淵中佐をはじめ、中山省三郎、火野葦平両氏、義弟の延原謙などの顔が見えた。延原の勤務してゐる同仁会の診療班長、瀬尾博士にも敬意を表することができた。廟行鎮、大場鎮などの、殆ど廃墟と化したあたりを、たつた今眼の下にみて、想ひを当時の凄惨なニュース面に馳せたが、この快晴の大陸の空を仰ぎ、沿道に蔬菜を作る同胞青年の甲斐々々しい姿を眺め、私の胸はふとある希望に和んだ。  報道部で打合せをすませ、兵站宿舎である北四川路の東亜ホテルに落ちつく。前線と内地を往復する軍人軍属の足溜りに応はしい、簡にして要を得た宿舎である。支那人のボーイもゐれば、日本娘のサーヴィスも受けられ、帳場のお神さんはひつきりなしに電話にかゝり、食堂のテーブルには、三度々々クレオソートの瓶が出してある。  ところが、厄介なことに、私は東京を出る時分から腰のあたりに小さな腫物ができて、どうもこのまゝうつちやつておけさうもないので、宿へ外科専門の瀬尾博士が寄つて下さつたのを幸ひ、その自動車で一緒に南市の同仁会病院へ連れて行つてもらつた。これは云ふまでもなく、軍と外務省の協力のもとに、支那難民の診療救済を目的に作られてゐる臨時の施設である。  私は、有難く、友邦の難民諸君に混つて、博士の懇切な手当を受けた。これは余談だが、病院の廊下、各科の診療室には、老若男女の患者があふれてゐた。延原の説明に従へば、患者の数は日増しに殖え、しかも、その階級層、疾患の種類が目に見えて拡大されつゝあるとのことである。最初は極貧のものしか集まらなかつたのを、近頃では、宣伝が行き亘り、信用がつき、外国の類似の病院よりは一歩進んだものだとわかると、そろそろ、金を払はせてもよさゝうな手合がやつて来るやうになつたさうである。このことは後でも聞いたが、支那に於ける慈善病院の経営は、無料一点張りではその文化事業としての目的を十分に達し得られないらしい。つまり、彼等のうちで持てるものゝ面子を重んじる工夫が必要なのである。  それと、もうひとつ面白い話は、病院を開いて数ヶ月の間、産科のお客さんが一人もなく、その係りのものは誠に手持無沙汰で困つてゐたところ、偶然ある患者が入院中お産をして、それが極めて安産であつたことを聞き伝へたものとみえ、それから以後、お腹の大きい訪問者が続々と押しかけるやうになつたといふのである。日本の産科技術をご存じないかと云ひたいところであらう。  こんな呑気な話を吹き飛ばすやうな事件が、その日私の眼の前に展開された。  一人の若い兵士が、下半身を鮮血に染めて、丁度私のはいつて行く少し前に外科手術室へ運び込まれた。  巡察中、手榴弾を投げつけられたのである。さう云へば、こゝへ来る途中の辻々の警戒ぶりは厳重を極めてゐた。フランス租界を抜けて車が南市へはひると、街頭は俄に人影をひそめて、一種物々しい戦跡の風景が浮びあがる。屋根は落ち、壁は崩れ、鉄条網を張つた障碍物が横はり、黄浦江の濁流が無気味に白雲の影を呑んでゐる。  若い兵士は手術台の上に横はつてゐる。可なりの重傷である。犯人は何者であらう。これは数日後、憲兵隊で聞いたのだが、捕へられた犯人は二十そこそこの女で、その自白によれば──彼女の夫は党軍の兵隊にとられて戦死した。その夫の兄は、彼女に銀五両と爆弾とを与へて夫の仇を討てと唆かした。彼女は素性をかくすために一巡警と再婚した。そして日本兵の屯する南市の裏町に居を構へ、機会を待つた。その日、日本軍の衛兵所へ、附近の民家で麻雀賭博が行はれてゐる旨を密告するものがあつた。二名の兵が巡察として派遣された。二階の階段を、擦れ違ひに若い女が駈け降りて来た。誰何する暇もなく兵士の小脇を潜つて彼女は階段の下に達した。爆弾がその瞬間、兵士の足下で炸裂したのである。  一方で占領地域の治安工作は着々その実績を挙げつゝあるにもせよ、かゝる偶発事件の真相に我々は多大の関心をもつものである。  支那民衆の相貌は限りなく複雑である。しかも屋上高く日章旗の翻るこの慈善病院のみは、厳として彼等の傷ける生命に救ひの手を伸べてゐる。医員、事務員の諸氏、並に看護婦諸嬢の自愛と健闘を祈りたい。  上海では二日に亘つて海陸軍の戦跡を訪ねた。  海軍は特に当時の陸戦隊員中、将校下士兵の各階級を代表する説明者が、現地について親しく戦況を語るといふ趣向で、極度にわれわれの実感は強められ、一行中、貰ひ泣きをするものもあつた。  上海はあれほどの犠牲を払つて取つた町であるが、英仏租界といふ厄介なものがある以上、日本がこれに何を附け加へるかといふ問題は興味のある問題である。  王子恵といふ人の晩餐に招かれた。維新政府の要人である。  歴史に類のない政治的役割を負つて、彼は如何なる先人に学ばうとしてゐるかと、私はふと、この人の深い眼ざしに見入つた。日本語は日本人のやうに自由である。  杭州に着いたのは雨の日であつた。  プラットフォームに降りると、嘗て幼年学校で机を並べてゐた萩原が、この地区の○○○○長として、わざわざ一行を出迎へ、なかに私の加はつてゐることを予め知つてゐて、名前を呼ぶ声が聞える。非常に懐しかつた。しかも、彼をこの地位に見出したことは、なによりもうれしかつた。  西湖の風景はなるほど一応は賞すべきであらうが、元来、支那のいくぶん人工的な庭園美といふものを、それ自身としてあまり高く評価し得ない私は、こゝでも、季節と生活とを結びつけて、ある種の魅力を想像することができたゞけである。エキゾチズムとしては純粋なものを欠ぎ、楊柳と水の調和はこゝに求めずともほかにあるのである。たゞ画舫を浮べて湖心の三丹印月島に遊べば、余計な「日本的楽書」が到るところの壁を埋めてゐるのがやゝ惜まれるほどの雅致ある一廓にぶつかる。宿の露台から雨に煙る湖の街を眺めながら、私は杭州のどこかに淫逸な色合ひを感じた。  雨の晴れ間に、湖水を距てゝ聳える玉王山の頂上へ登つてみる。麓で山駕籠が待つてゐる。馬淵中佐が、自分は歩兵だから歩くと云はれ、私は赤面したが、後備なるがゆゑに許してもらふ。非常に嶮しい山道である。頂に近づいて、向ふ側の平野が見え、銭塘江を距てゝ、あそこが敵の陣地だと教へられた頃、二三発の銃声が耳にはひつた。  道教の寺がある。和尚は既に萩原とは旧知の間らしく、しきりに一同をもてなす。本堂では祈祷が行はれてゐる。喉を弾ませた陽気な節がまづ珍しい。僧侶は何れも髷を結ひ、その髷は、相撲の褌かつぎに似てゐる。この連想が手伝つてはゐまいは思ふが、その後どこでみた道教の僧侶たちも、みな一様に野趣満々である。どの寺も高い山の上とか、小さな孤島のかげとかにあつて、外界との交通をできるだけ絶ち、むろん女人を近づけず、恐らく肉食を禁じ、修業三昧に日を送つてゐるらしいが、その生活の厳粛さと徹底ぶりが、例の行ひすました風貌、自らを尊しとするポーズとなつて聊かも現はれてゐないのを私はちよつと不思議に思つた。これは私の意外な楽しい発見である。道教なる宗教について私は実のところ深く学ぶところもないが、これは正にひとつの人生哲学に相違なく、支那人のストイシズムはエピキュリズムに通じるところがあるのではないかと、妙な逆説をもちだしたくなるくらゐである。  序ながらこゝで、例の鄱陽湖の入口に大姑島といふ島があり、その島の同じ道教の寺を訪ねた際、壁間に掲げられた聯句を何気なく書きつけて来たから、参考の為に写してみる。 客至莫嫌茶味淡 山居不比世情濃 入吾門不分三教 到此地都是一家  ゆかしい言葉を久々に聞く思ひである。  もう一度是非寄れといふ萩原の言葉を胸に畳んで、われわれは上海へ引つ返した。翌日蘇州に向ふためである。  何時何処でといふことは差控へるが、われわれ一行がある小さな駅へさしかゝると、支那の小学生の一団が日の丸の旗と五色旗とを打ちふり、日本人の先生に引率されて、たしか「白地に赤く」といふ唱歌を合唱しながら、プラットフォームに整列してゐた。汽車が止つて、それがわれわれ一行を迎へてくれたのだといふことがわかつた。私は、正直なところ、なんだか変な気がした。顔をあげてゐられないくらゐであつた。先生の美しい意志が、子供たちの口を通じて、なにか無惨な響きを私の心に伝へてゐるのである。私は、その先生に対する満腔の敬意と感謝の念に誓つて断言するが、これは決して、私の個人的偏見ではないと信じる。民族心理の取扱ひの問題として機微に触れてゐるのである。みんなで真面目に考へなければならぬ問題だと思ふ。  さて、上海からの急行は、今日が最初の運転だといふことを、私の隣に偶然坐つてゐた見覚えのある将校から聞かされた。見覚えがある筈である、これこそ、学校時代に一級上だつた佐藤氏で、今日は、同氏が采配を振つてゐる鉄道部隊の晴れの日なのである。  やつとこゝまでに仕上げたのだといふ、破壊された鉄路の困難な修復工事について、一席、苦心談にちよつぴり手柄話を交へた、朴訥で至誠のあふれた話を面白く聴く。幾日でやると云つたら、出来ても出来なくてもやる。兵隊には無理を云つてろくに休ませない、作戦の必要からだ。ところが、しまひにそいつが当り前のことになるんでねえ、と、隊長は、兵隊が可愛くてたまらぬといふやうなしんみりした顔をしてみせる。満洲、北支、中支と、殊勲を樹て続けの、この軍用鉄道の権威は、敵が外した路線材料を、何処へ匿して逃げたかをちやんと知つてゐるのである。苦力を集めてさつさと引き出させるのだから、相手にとつて始末がわるいといふべきである。  なるほど、急行は二時間で蘇州へ着く。  例によつて特務機関のお世話になる。市政府、省庁へ儀礼的な訪問。有名な獅子林公園に失望し、近頃評判のわるい寒山寺が、どうして、俳味豊かな名刹として私を三嘆せしめた。規模の小なること、荒れ果てたまゝになつてゐること、バックの貧しいことは、改築の年代がごく新しいといふ事実とともに、この稀にみる清楚な寺院建築を、支那人のみならず、事変後続々と訪れる同胞たちに一顧の価をも感ぜしめないであらう。軒は既に傾き、瓦は剥げ落ちてゐる。生ひ茂る夏草の生ひ茂るまゝなのが却つていゝ。色褪せた壁の朱の、立ち枯れた並木の細い枝間に、寂然と光ある如くである。      南京一瞥  蘇州では名所見物が主であつたが、私はそれよりも、こゝへ来てはじめて落ちついた支那の街といふものに接し、民衆の日常生活の一端をのぞくことができたのをうれしく思つた。  殊に、出発の朝、同地駐屯の同期生平野がお手のものゝ○○艇を用意して、城外を繞る蘇州河の一部を走らせてくれたことは、この有名な運河の性質をのみ込むうへに非常に役に立つた。  大小無数の船が或は動き、或は止まつてゐる。その間を縫つて行くわれわれのモーターボートはすべての静けさを破る点で、およそ場所違ひのやうに思はれた。どの船からも支那人の顔がのぞいてゐる。街で出会ふ顔よりも一層底の知れぬ表情であつた。  わが警備兵が乗り込んで物資の輸送に使つてゐるらしい船もあつた。  汽車の沿道で、畑ばかりの続いてゐるなかに、ひよつこり船の帆が浮び出ることがある。「クリーク」といふ名は何時か呪はしい響きをもつやうになつたけれど、この大陸の平和な生活は、なるほど水の旅とはなしては考へにくいものである。  しかし、現在これらの水路は、所謂敗残兵の出没甚だしく、支那人は「税金」を払つて難を免れるといふことである。  いよいよ南京に着いた。  旧王城の遺跡と新開都市の面目とを雑然と混へたうへに、戦乱の余塵未だ消えやらぬ荒涼たる一角を残して、南京は、今、私の眼の前にやゝふて腐れ気味な姿を横へてゐる。  蒋介石の企図した近代国家建設の夢が、どの程度に実現されてゐたかを知るのには都合のいゝ場所だとは思はれたが、それよりも、事変前は百二十人に過ぎなかつた邦人の数が、軍人軍属を除いて今では三千八十一人に達してゐるといふ話を聞いたゞけで、私は現実の歩みの速いことに気がついた。但し、占領以来十ヶ月の今日、やつと、中学が一校、その授業を開始したといふ事実は、復興を語るうへに見逃してはならぬ現象である。  序に代表的な小学校を見せてもらふ。  寺子屋と呼ぶにふさはしい構への旧式な建物のなかで、「読方」を習ふ児童たちの声が聞える。教室をのぞくと、年のころ三十と思はれる女教師が、粗末な謄写版ずりの紙片を教科書代りにして、熱心に授業をしてゐる。非常に物馴れた調子である。児童達を一人々々前へ呼び出して、数行の漢字を読みあげさせる。彼等は、少しも臆せず、その滑らかな発音に自ら酔うてゐるやうにみえる。  読み終ると、先生の方をちらと見あげる。みな潤ひのある美しい眼をしてゐる。女の子は殊に、悧巧さうな、引き締つた顔だちである。授業がすむと、先生はわれわれの方に進み寄つて慇懃に会釈をする。  話をしてみたいがどうにも方法がないから諦める。かうして南京に踏み止まつてゐる教師の一人々々に、われわれは心から言ひたいこと、訊きたいことがたくさんある。「長期建設」はそのへんから始めねばならぬといふことを当局は気づいてゐるであらうか?  光華門、中華門、雨花台等の戦跡を訪れて大西少佐の講話を聴く。風雨に曝された白骨を拾ひあげたものがある。  夜は、燈火管制が実施されてゐるため、街へ出ることも出来ぬ。  真夜中にふと眼がさめる。上海以来、すでに様々なものを見た、そのひとつびとつの生々しさと共に、それが前後もなく互に重り合ひ、結びついてできあがつた「今日の戦争」といふ新しい映像が、頭のなかを一瞬去来する。耳が冴えてゐる。そして、その耳にまづ伝はつて来る闇の中の物音は、単調ではあるが、相当に激しい雨の音である。明日は雨かと思ひながら、からだを起して窓に近づいた。遮光用の黒いカーテンを引いて外を見た。すると、僅かに消し残した街の灯の下を、蜒蜿長蛇の如く、車輌縦隊の一列が通過しつゝあるのである。たつた今、雨の音だとばかり思つたのは、この幾百幾千の馬の蹄が、涸いたアスファルトを踏む規則的な響であつた。人は語らず、車は軋まず、馬もまた黙々と頭を垂れて、いづこに向つてか往くのである。  漢口へ! と、私も、急き立てられる思ひがした。  一行は、こゝで、廬州に向ふものと、九江を目指すものとに別れた。  私は、ともかく九江まで行くことにした。  船で揚子江を遡ることも経験のひとつである。      遡江船  御用船××丸の甲板に立つて、はじめて揚子江といふものゝ存在が如何に象徴的であるかを知つた。  それは大陸の象徴であるのみならず、支那の民族と歴史、その生活力と文化の象徴であるといふことに気がつくのである。  河幅は広いところと狭いところとあるが、九江までは、概して両岸の展望が利き、楊柳の木蔭に水牛の群れ遊ぶ様や、人家の周囲に銃眼を穿つた陣地が築かれてゐるのが見える程度である。しかし、その河幅いつぱいに、粘土色の水がひたひたとあふれ、流れと見えぬ深さで大地を逼ひ、澎湃として空を空につなぐこの超年代的なすがたを、日本のすべての人は想像もし得ないであらう。  その日の夕方、蕪湖に碇泊、上陸して市街を一巡する。先づ眼についたのは、あちこちの小高い丘の上に建てられた瀟洒な西洋館で、何れも屋上にフランスやアメリカの国旗が翻つてゐる。病院と学校である。  九江では煙草が払底だと聞いて、こゝで、ルビイクインの幾箱かを買溜めする。  夜、船の食堂で、漢口よりの日本語放送を聴く。やゝ中国訛りのある若い女の声で、はつきり支那側の宣伝ニュースを読みあげるのだが、ニュースの内容よりも、放送者の心理の方に興味が惹かれ、人間の生き方について、あり得べきあらゆる場合を考へさせられた。  翌朝、蕪湖をたつ。  午後一時五十分、前方の○○艦より信号がある。「本艦と共に全速力を以て航行せよ」  甲板へ出てみると、本船の備砲も既に射撃準備を整へてゐる。やがて、○○艦から対岸に向つて盛んな砲撃が開始され、敵陣地と覚しい高地の麓からも、時々火を吐くのが見える。そのうちに、船の近くへ水柱があがりだした。来るなと思つてゐると、船橋をすれすれに迫撃砲弾が掠めた。二発、三発、どす黒い煙が飛沫と共に散つた。船載砲の砲手たちは、襦袢裸で、「こん畜生!」と叫びながら、撃つ、撃つ。と、私のそばにゐた船長が、「あツ、あたつたツ」と、一瞬、顔色を変へた。さう云へば、今、船腹に激しいシヨックを感じたやうである。船員が飛んで来た。 「機関に当つたやうです」──それは間違ひであつた。  敵陣地に一条の煙が立ち昇つてゐる。何かゞ焼けてゐるのである。  二時三十分、敵味方とも砲撃中止、危険区域を脱したとみえる。船体にも、乗組員にも異状なし。甲板に砲弾の破片が落ちてゐたり、船腹に黒く焼け焦げのやうな跡がついてゐたりした。  太子磯に碇泊、一夜を明かす。  今日は銅陵附近でまた敵の砲撃に遭ふかも知れぬといふ。しかし、なんのこともなかつた。安慶を過ぎて、河幅が狭ばまり流れが急になる。小姑島の奇景を雨のなかに賞でながら彭沢に着く。××部隊の駐屯してゐることがわかる。街を囲む三方の山の向ふ側には、まだ敵がゐるのださうである、稜線のところどころに日の丸の旗が樹つてゐる。歩哨線であらう。背水の陣をそのまゝのこの備へに、私は胸をうたれた。      九江  河岸に面してずらりと建ち並んだ赤煉瓦の洋館は、この港が英国人の手によつて開かれたことを物語つてゐる。  外国租界らしい一区画を抜けて、商店街に出ると、看板だけは麗々しく出てゐるが、どの家も空つぽである。たまに軍隊の宿舎や倉庫にあてられてゐるものゝほかは、日本人の写真屋と時計屋が一軒づゝ店を開き、売切れといふ札のかゝつた酒保の鉄柵が閉ぢたまゝになつてゐる。  ひつきりなしに軍用トラックが通り、砂塵を捲きあげる。髭面の兵隊が鉄兜を背負つて急ぐ。  軍報道部から兵隊宿舎増田旅館に落ちつく。二階のヴェランダは湖に蒞み、晴れてゐれば、廬山が一望のうちにある筈だが、生憎雲が低く垂れて眺望がきかぬ。  田家鎮陥落の報到る。  九江から前線へ出る方法はいくらもある。近いところでは、星子方面、例の徳安攻撃部隊につくこともできる。更に、江南地区の各作戦部隊に追ひつかうと思へば、これも便宜が与へられる筈である。いゝ機会をとらへれば、今から大別山の彼方へ飛ぶことも一策である。  武漢攻略の大殲滅戦が眼の前に展開されようとしてゐる時、われわれ一行の望むところはみなおなじであつた。  雨の日が続いた。  ×××××の案内で、難民区を訪れた。避難民を一地区に収容し、その整理と救済の事業が始められてゐるのである。七月二十七日同地占領以来、住民の復帰する数は次第に増加しつゝあるが、まだ居住の自由は与へられてゐない。附近の農民でこの町へ流れ込んで来るものがある。難民整理委員会弁事処といふのができ、難民のうちから、元県知事をやつてゐたといふ老人が会長に選ばれてゐる。男は苦力として使役し、賃金を軍部で支払ふと、彼等は、それで軍配給の米を買ふといふ仕組にしてある。女は、野戦病院の雑役婦として働かすやうなことも考へられてゐる。軍への労働力の供給といふ問題は、作戦と同時に重要視されねばならぬ。  話に聞くと、最初、わが軍が同地にはひると、約五千の難民が、米・仏関係の教会、病院等四ヶ所に集まつてゐた。しかも、それらのうちには、既にコレラ患者が続々発生して手のつけやうがないくらゐであつたから、わが方では、その対策にとりかゝつた。軍医に協力して、同仁会の斑員が目覚しい活躍をしたのはこの時である。屍体を天主堂の前で焼きながら、難民の一人々々にワクチンの注射をした。軍隊はむろん城外に露営せしめ、全市の井戸水を検査したところ、その大部分に菌を発見した結果、敵軍の仕業とにらんだのであるが、それには確たる証拠はあがつてゐないらしい。  ともかく、この地を棄てゝ逃げた敵軍は、各戸毎に残つてゐる鍋釜を悉く使用に堪へないやうに破毀して行つたといふ事実から推して、その周到ぶりを察することができる。  コレラは二週間で撲滅した。この間、例の外国宣教師の態度について、当時折衝に当つた憲兵の印象が甚だ示唆に富むものである。曰く、米国人は、文句を云はずにわが官憲の命令に従つた。のみならず、応対すべてわれわれに好意的であつて、積極的な協力をも惜しまぬ風が見えたに拘はらず、フランス人は、概して傲慢、不遜であつて、いちいちやることが自分本位である。難民を収容するのはいゝとして、健康者のみの引渡を要求した際、故意にコレラ患者のみを突出したり、難民の待遇についても、彼等に食費を払はせ、その多少によつて賄に差別をつける等のことをしてゐた形跡があり、殊に不都合なのは、教会の倉庫に他へ避難した住民たちの家財道具を預り、その保管料を取つてゐることである。市中の民家にフランス権益を表示するマークがところどころ附せられてゐるが、厳重な調査を必要とするものである。  私は、その後、憲兵隊の許可を得て、試みにフランスの天主堂と病院並に孤児院を訪ねてみた。  天主堂の一つは宿のすぐそばにあり、なかなか立派な建物である。司祭に刺を通じて、病院を見たいといふと、今案内するが、その前にこれを見てくれと云つて、先づ河岸に面した庭の一隈へ私を連れて行つた。そこは煉瓦を積んだ塀になつてゐて、銃眼を穿つた跡がみえ、掘り返された庭の土が生々しく平らしてあつた。 「支那軍が此処にもゐたのか?」  私は訊ねた。 「然り。だが、日本の海軍がこの正面から砲撃を開始する前に、彼等は此処を去つた。それについて君に知つてもらひたいことは、この場所を支那軍に利用させるやうなことは、決してわれわれはしなかつたといふことだ。最初、支那兵の一隊が此処へ侵入して、無断で陣地を構築しはじめた。自分は、厳重に抗議した。隊長は聴き入れない。命令だからやるといつて動かない。自分は、その命令が何処から出たかを知る必要はない。早速漢口の領事館へ電報を打つた。支那当局に向つてかゝる行為の禁止を要求してもらふためである。領事から返事が来た。その返事はこれだ。支那当局は直ちに要求を容れた。必要な手配がとられる筈だが、極力実行を監視せよといふのだ。自分は殆ど腕力に訴へて、支那人を追ひ払つたのだ。しかも、彼等に、破壊した部分を修復せよと迫つたが、彼等は、この通り申訳のやうなことをして立ち去つて行つた」 「この外観は、依然として陣地である。日本軍の砲撃は受けなかつたか?」  彼は、そこで、空を仰いだ。そして、黙々として私をある一室に導き入れた。彼の居室である。 「恐しい瞬間だつた。自分は砲声の轟いてゐる間、なにをしてゐたと思ふか。しかたがないから、こゝでパスカルを読んでゐた」  肩をぴくんとあげるといつしよに、芝居気たつぷりなこのカトリックの坊さんは、ソファの中で片眼をつぶつて笑つた。  天主堂の内部もまた、本国の寺院建築をそのまゝうつしたものであるが、材料の貧しいこと、工事の拙いことをしきりに坊さんは弁解する。  病院はすぐ向ひ側になつてゐて、これは別の修道院の管理下にあることがわかつた。院長の尼さんに紹介される。いゝ育ちを思はせる毅然としたフランス女で、私が何者であるかを説明すると、やゝ寛いで話をしだした。 「いまはごく僅かの患者しかゐません。医者はみな引あげました。薬も手にはいりませんから……。それに、今度、日本軍から、この建物を戦病兵収容のために使ひたいから貸さぬかといふ交渉があつたので、上海の本部へ指令を乞ふ手紙を出しました。まだ返事が来ませんが、許可があり次第、お引渡しするつもりで、もう移転の準備をはじめてゐるところです。まあ、ごらんください、別に大した設備もありませんけれど……」  司祭のモレル氏は私の希望に応へて、この病院に関する簡単な説明書をタイプライターで打つてくれた。それを訳してみる。  名称──聖ヴァンサン病院。一八八〇年、茶及船舶製造に従事する苦力のために創立。最初の経費は年額一四三〇両、現在は年額二五〇〇〇ドルに達す。  構内は四種の病院に分る。欧洲人のための病院、支那人のための有料病院、同じく無料病院、婦人及乳児のための病院。病床一五〇、手術室大小各一。  前年度成績は入院延日数二二八三〇日。毎日午前医局外来及貧民区往診。投薬数三四、七四三名。  職員其他──医師一、教母一〇、男女傭人八六(看護婦、雑役、炊事係、洗濯婦)  附属小学校──教師九、生徒一五〇。  彼女のあとについて、部屋々々をのぞいてまはる。  こゝで私は、この病院の規模について詳しいことを語る必要はないと思ふ。たゞ、すべてが明るく、清らかで、温い微笑をたゝへてゐるやうに思はれた。「西洋」は厳然と別天地を作つてゐて、恩寵はこゝにのみあるかの如くである。重病患者の枕もとに、やはりフランスの尼さんが一人ついてゐた。にこやかな会釈をもつて私の目礼に応へた。支那人の尼さんもいくたりかゐた。それぞれ荷造りの最中であつた。院長が言葉をかけると、実にはきはきした調子で受けこたへをする。こゝにかうしてゐるのが幸福さうにみえた。  日を更めて、もうひとつの天主堂へ出掛けて行つた。そこは、郊外に近いところで、附属の神学校があり、四十人の支那学生が事変をよそに講義を聴いてゐた。司祭はもう五十年も支那にゐるといふ老人で、あのフランス人によくみる皮肉な顔附と、殊に、例のこだわりのないカトリック的自由さとが、私をははんとうなづかせた。 「世界中で支那は最も貧民の多い国だ。支那の農夫たちがどんな生活をしてゐるか、君は知つてゐるか? 彼等は、あらゆる天災の犠牲者だ」  広いホールの真ん中で、彼は私とほかに四五名の職員──なかに支那人の姿も見えた──を前にして語るのである。 「戦争……何時の戦争もおなじことだ。われわれはどうすることもできない。たゞ、日本と支那との関係を考へてみよう。自分が今日まで支那で過した経験から云へば、嘗て日露戦争後の一時、支那の上下をあげて日本贔屓であらうとした。日本でなければ夜が明けぬといふ状態になりはせぬかと思つた。その頃誰が今日あることを想像し得よう。欧米人が日本人と異なることを支那に於て行つたとすれば、それはかうだ。欧米人は金を少し余計に出した。しかも、それは資本を支那人の手に委ねて、その利益の幾分を要求するといふ仕方であつた。日本人は金を出し惜んだ。しかも、君達は自分で儲けてその分け前を彼等にも与へようといふのだ。彼等は前者を選んだのだ」  私はこれに対して私の意見を述べる必要はなかつた。たゞ、「貴下は日本といふ国をご存じか」と問ふたら、彼は、「遂に行く機会がなかつた」と答へた。  学生はどういふ風にして募集するかといふ質問に、傍らの一職員が、全国的に募集して厳密な資格試験をする。一旦入学を許可したものでも成績次第では淘汰するやうにしてゐるから、現在は優秀な学生ばかりだと、自讃した。誰でも宣教師になるといふわけには行かぬから、と、また一人が附け加へた。  私は、これらの支那学生の眼に、日本といふものがどう映つてゐるかを知りたかつた。しかし、今は話をしても無駄であらう。たゞ、宣伝の道は何処にでも通じてゐるなといふ感じを抱いて、この天主堂の静かな門を出た。  次は孤児院である。これも路を距てゝすぐ側の建物がさうであつた。固く鎖された門を叩くと、支那人の門番が、扉をそつと引開けた。案内のモレル氏が来意を告げると、一人の尼さんが出て来てわれわれを迎へ入れた。これは、小柄な婆さんで、なかなかしつかり者といふ印象を与へた。乳児の哺育からはじめて、普通学科の教育、十四歳に達すると手編レースの製作を手職として授ける段取りを説明する。目下、百六十人の孤児が収容されてをり、女の子ばかりなので年頃になるとそれぞれ結婚したり、仕事に出たりするが、さういふ連中が時々遊びに来るからそれが楽しみだといふ話などする。なかには、一生こゝの手伝ひをしたいと志願するものもある。既にこのひともその一人だと云つて、同じ尼さんの服装をした支那婦人を指さす。この婦人はレース工場の係りと見えて、多勢の少女たちにいろんな指図をし、私たちに仕事の細かい手順を見せて歩き、製作品の見本を取出して来る。この品物は買ふことができるかと訊ねると、いくらでも売るといふ。事変がはじまつてお客がぱつたり来なくなり、その上、これまで製品は大部分上海の本部へ送つてゐたのが、その便が途絶えて困つてゐると訴へた。九江へ碇泊する欧米の軍艦があると、艦長はじめ乗組の将校が大てい奥さんや子供たちの土産に買つて行つてくれるのだと、そばからフランス人の尼さんがおどけた顔をして口を挟む。それではわれわれもさうしようと云つてハンケチを数枚選んだ。なかなか贅沢品とみえて、一枚三円から七円ぐらゐする。それで儲けはないくらゐですと、支那の尼さんは相当商売上手である。この孤児院についての説明書をまた写してみる。  名称──ノートルダム・デ・ザンジュ孤児院。一八八七年創立。  職員其他──教母一四、男女傭人六〇。  孤児収容定員三〇〇、小学課程及刺繍並にレース製作指導。  乳児四〇〇、田舎の乳母に養育を託す。  卒業生のために刺繍並にレースの賃仕事を授く。  小学校生徒定員一六〇。  経費年額三五〇〇〇ドル。  かういふ風な孤児院が、支那全土を通じてたしか八十あるとその時聞いたが、帰りに上海で本部といふのに寄つてみると、各地方の孤児院から集まつて来るレースが、こゝで飛ぶやうに売れるといふ話であつた。  丁度授業が終つて教場から出て来る八九歳の少女たちの一群に廊下で行き会ふ。 「みんなあんまり血色がよくありませんね。食べ物などは十分手にはいりますか?」  私は訊ねた。すると院長はちよつと悄げた風をして、 「そんなに蒼い顔をしてゐますか? 見馴れてゐるとつい……」  と云つて、賄のことをくどくどと説明し、米はなんとかなるが、生野菜が近頃は欠乏して、と溜息をついてみせる。 「尤も、生れながら虚弱な体質の子供が多いんでせうからね」  と、私は慰めておいた。  九江の街は日に日に面目をあらためて行つた。日本人の店が次ぎ次ぎに出来る。主に飲食店であるが、それはまづ順序としてさうであらう。  難民区を訪れると、その度毎に活気を呈し、道傍で商ふ雑多な品物の数も質も豊富になつて行くのが目立つ。誰が何処から集めて来るのかと思ふ。彼等は、どんな場所でも、その置かれた場所に根をおろすと云はれてゐるが、さういふ力がこゝでもひしひしと私に感じられたのである。  ある日、××××でまだ届出をしてゐない支那人の調査をした。ぶらりとこの街へ入り込んで来て勝手にそこ此処へ尻を落ちつけてゐる連中を一斉に掻き集めた。事務所の前庭は忽ち浮浪者の海と化したが、老人と子供が多いことは云ふまでもない。×××の訓示があるといふので、係りのものが彼等を適当な位置に纏めようと骨を折つてゐる。支那人の世話役が声を張りあげる。これがどうして大へんな仕事である。袖を引つぱつたり、肩を小突いたりするくらゐでは追つゝかない。動かうとしない奴は足で蹴る。さうなると、物騒な空気が漲つて来る。何処にゐたら安全なのか、ちよつとわからない瞬間がある。乳呑児を抱へた母親は、背中を丸めて人かげにかくれる。年寄り夫婦は互に手を引きあつてはぐれまいとする。まつたくさういふ懼れがないではない。彼等のうちの幾組かは数ヶ月のあひだ離ればなれになつてゐて、今日やつと廻り合つたのかも知れないのである。  騒然たる一つ時が過ぎて、×××の訓示がはじまつた。通訳は日本人であつたが、×××の力強い言葉の調子を伝へる工夫をしてゐた。訓示の内容は大体かうであつた。 「お前たちは戦争のおかげで苦しい目に遭ひ、まことに気の毒であるが、かういふ戦争を惹き起したのは日本ではなくて、お前たちの国の軍隊だ。蒋介石が共産党と手を組んで日本軍に刃向ふといふことは、お前たちにとつてこの上もない不幸なことだ。日本軍は、すぐにでもお前たちを事変前の状態に戻してやりたいが、今はさういふわけにいかん。しばらく辛抱せよ。われわれは、先づ戦争の目的を達したうへで、お前たちのためにできるだけのことをしてやる。日本軍は、良民に対しては決して危害を加へるものではない。その代り、当分の間、一定の地域以外に勝手に出てはならん。お前たちが一日も早く安居楽業のできるやうに、われわれは全力を尽してゐるのである。安心してその時期を待て。これから、すべてお前たちの世話は難民整理委員会がしてくれる筈だ。よくその規則を守つて間違ひのないやうにせよ。万一規則を破るものがあつたら、その時こそ容赦はせんから、そのつもりでゐよ」  この訓示の途中、二度ばかり、あちこちで「好好」といふ掛声が聞え、それと同時に肩をゆすり、大きくうなづき、ぱッと笑顔を見せるものが大分あつた。やれやれと胸を撫でおろしもしたであらうが、一面、この活溌な群集の表情に私は驚くべき彼等の社交性をみた。  それからもうひとつ、×××の姿が玄関の入口に現はれた時、事務所の給仕らしい支那の一少年が、なにやら大声に群集に向つて叫んだ。「脱帽」とやつたのである。これは愛嬌であつた。  これらの難民はさしあたり食ふ道を求めなければならぬ。ある者は幾分の貯へで難民区内にさゝやかな店を出すものもある。厳重な交通の制限があるに拘はらず、彼等は、あらゆる方法で附近の農村から物資を集めて来るらしい。  兵站病院で雑役婦を募集したところ、今迄姿をみせなかつた若い女が続々と現れた。しかし汚物の始末だけはいやがつてしない。われわれは苦力ではないといふのださうである。しかし、日本の女が自分でそれをやつてみせると、しかたがなしにやるやうになつたといふのである。北京ではじめて女事務員を雇つたある日本人が、手紙を出して来いと命じたところ、そんな仕事は女のすることぢやないと云つて突つ刎ねられたといふ話を嘗て聞いた。日本人は第一に支那女性のお気に入らぬところがありさうである。  雨がやみ、廬山が見えだした。なるほど嶮峻な峰の連続である。頂に近いところに、白く人家らしいものが見える。外国人の別荘であらう。あの谷間々々には残敵が巣食つてゐるのだと聞いても、別にもう驚かない。  軍報道部松岡中尉の誘導で、星子方面の第一線視察に赴く。隘口街攻撃の火蓋を切つてゐる○○部隊の本部から、やゝ前方の高地へ出た。味方の砲兵陣地がすぐ眼の下で、しかも砲列は高地を前後に挟んだ形になつてをり、自然、弾丸の唸りを頭上に聞くわけだから、最初の一発は、敵の弾丸が飛んで来たのかと思つた。  山腹の目標に中つて炸裂するわが砲弾の威力は物凄く思はれたが、敵の姿はむろん見えず、味方の歩兵も何処をどう動いてゐるのか見分けがつかぬ。たゞ部隊本部に通ずる道路上、並にその両側の、人と馬と車の描きだす静動相半ばする風景は、何ものにも譬へ難い息づまるやうな戦線の呼吸を感じさせる。混乱のなかの秩序、休息のなかの緊張、絶望のなかの生命がそこに見出される。身を以てこれを描き得たのが火野葦平氏であらう。  時々迫撃砲などそこから撃ちだすといふ側背の廬山は、例の飯塚部隊長戦死の跡といふ山襞をむき出して、右手前方に伸び、その先端の金輪峰が晴れた秋空にそゝり立つてゐる。秋空とは云へ、真夏のやうな太陽が照りつけるなかに、われわれは立ち、流れる汗を拭く気にもならぬ。昼食の時間になり、小松の蔭に腰をおろして飯盒の弁当をつゝいた。何処からかビールとサイダアが運ばれる。かういふ主客転倒のやうな状態が時々われわれを途方に暮れさせた。将兵の労苦をちと味はせてやれといふやうな意識はわれわれを迎へる前線の何処にも感じられない。これは当り前のことのやうだが、特筆大書すべきことである。日本人のほんたうの姿がそれなのである。彼等の真の労苦は、われわれの如何なる想像をも絶したところにあり、将兵おのおのゝ精神と肉体とが、言葉なくしてそれに堪へ、それに打ち克ち、人生至高の歴史をつくりだすのである。「今日は生きてゐた」といふ感慨の前に、われわれは頭を垂れる。そしてまた、「明日はどうなるかわからぬ」といふ覚悟を身に沁みて感じ得るものでなければ、戦ふ人々の心理に深く入ることは許されぬと思ふ。  帰りのトラックで廬山の麓を通る時、運転手の兵隊が、この辺は危いところだから全速力を出すといふ。軍官学校の広い建物が、山の中腹に整然たる俯瞰図をみせてゐる。道傍の樹の根に倚りかゝつたまゝ息絶えてゐる敵兵の屍体が目につく。  その日は何事もなかつたが、翌日そこを通りかゝつた一台のトラックが、果して敵の襲撃を受けたさうである。「危い」といふのはさういふことなのである。  一日、附近の飛行場をみなで訪れた。希望者は○○に乗せてやる、といふことであつた。人数に制限があるかも知れぬとあつて、私は若し席が空いてゐたらといふぐらゐの気持で出かけて行つた。N部隊長は、これまた偶然、私と士官学校が同期で、「やあ、やあ」といふやうなわけであつた。もうちやんと打合せができてゐたものとみえ、部隊長は、われわれの一人々々をそれぞれ○○づつに割り当て、有無を云はせず、「さあ、乗れ」といふあんばい式で、至極あつさり、この千載一遇の爆撃行に連れて行つた。敵は徳安から退却を開始したらしく、兵力一万の大縦隊を永修、虬津街附近の上空から邀へ撃つといふ痛快な作戦である。 「たいがい大丈夫と思ふが、万一の場合は、部隊長の指図に従へばよろしい」  指揮官らしい口調で、N部隊長はわれわれをちよつと変な気持にさせておいて、部下の各○長に出動命令を下す。  私はたゞ、満身これ機械とも云ふべきあの胴体の中を、這ひまわつてゐた。  松原中尉が、ひと通り図上で進路を説明してくれる。今井軍曹は「あれが徳安です」「あれが鄱陽湖」と機体の下腹部の窓から私にその方向を指してみせる。なにしろその窓は、地上数千米のところにぽかりと下向きに明いた吹きぬけの孔で、のぞいて見るのになかなか決心のいるやうな窓であつたが、私はそのへんのなにやらわからぬ出つ張りを手探りに掴んでからだを乗り出した。「見えるでせう」「見えます、敵の陣地も見えます」「橋梁がみんな破壊されてゐるでせう。われわれがやつたんです」「はあ、これは大変な防禦工事だ。山といふ山は鉢巻をしてゐる。」  爆撃用意の無線命令が部隊長から発せられた。松原中尉は、私に眼で合図をして、片手を釦の方へ伸ばした。恐らく複雑な計算をしてゐるのであらう。 「ごらんなさい、ごらんなさい」  今井軍曹の声に、私は、もう一度、首を突き出さうとした。気がつくと、私が無意識に掴まつてゐたのは、物々しい機銃の脚であつた。こんなところにも、こんなものがあるのかと思ひながら、遥か眼の下の空中に瞳を据ゑると、見えた見えた、編隊の各機から振り落された黒い細長い滴が、横倒しのまゝ大きな弧を描いて降つて行く。そして、それらが何者かの手で手繰り寄せられるやうに、次第に纏つた束になり、掌大に見える地上の一部落の上に吸ひ込まれると見える瞬間、もくもくと白煙が吹きあがつて、それでおしまひであつた。眼鏡を出して見ようと思つたがもうその暇はない。今井軍曹はもう次の作業にとりかゝつた。私も起きあがつた。今度は機体の上の窓から、宣伝ビラを撒くのである。私もそれなら出来ると思ひ、手伝ひませうと云つて、そこにある、束の印刷物を取りあげた。何処に向つて投げるのでもない。たゞ手を高く差しあげて、一度にぱツと放せばいゝのである。数千の紙片は、殆ど塊りのやうになつて、機体をすれすれに逃げる。二三枚は、尾翼に縋りつく。塊りは次第にほぐれる。鳩の群れのやうに飛び、吹雪のやうに散る。支那兵は、それの一枚一枚を拾つて読む。自国の到るところに反蒋運動が起つてゐることを知らされるのである。  編隊は徳安の南方永修附近で、大旋廻をして再び機首を北に向けた。第二回の爆撃が、同じ虬津街の上に加へられた。敵は、地上から若干の応戦をしたらしいが、私は気がつかなかつた。戦闘機でも飛ばして来るのであつたらそれこそ油断はならんが、そんなおそれがあるとすれば、われわれの同乗は勿論許されなかつたであらう。必要にして十分な満足感を得て、基地に戻る。心にくき当局の計ひであつた。  明日は武穴の対岸馬頭から○○部隊の陽新攻撃を見に行くといふので、リユックサックに入れる品物を撰り分ける。  かねがね私は、占領直後の街へ憲兵と一緒にはひつて行つたら、住民の動静を観察するうへに便利であらうと思つてゐたから、幸ひ今、九江に同期の五十嵐が漢口○○○長として待機してゐるのに、その話をしてみた。 「そんなら漢口へはひる時にはおれが連れてつてやらう」  翌日、われわれの一行が船へ乗り込むと、そこには憲兵が○名ちやんと控へてゐた。「ご一緒に参ります」といふ。  船は「陸軍の軍艦」と呼ばれる○○○船で揚子江作戦の重要な役割をつとめてゐる特殊部隊に属するものであつた。部隊長を囲んでわれわれは甲板に集つた。幕僚が陸軍としての船舶運用に関して興味のある話を聞かせてくれる。  全国から徴発した民間の漁船が、今度の戦さでどんなに役に立ち、乗組の漁夫たちも、兵士と同様、勇んで困難な仕事に従つてゐることが如何に見あげたものであるかといふことを知り、これも是非国民は知つてゐなければならぬことだと思つた。  まだ砲声がすぐそこで聞える武穴に一旦上陸、○○部隊本部で昼食のご馳走になり、揮毫攻めにあひ、われわれはやつと二時すぎに馬頭へ送られた。  前線からの迎ひの自動車は、さつき来たには来たが、何処に待つてゐるのかわからぬといふので、案内の松岡中尉が八方へ電話をかける。夕方になつて、やつと、一時まで待つたが一行の姿が見えないので引上げたといふことがわかつた。それと同時に、前夜既に、隣接部隊が渡河を決行し、○○部隊は予定の作戦を変更するらしく、それでも、ともかく明朝も一度使ひの車を出すといふので、われわれはその夜、馬頭に一泊することを決めた。ところが、宿舎にあてるべき適当な家がなく、露営をしようといふ話も出たが、結局碇泊中の船の一つに交渉して、空いてゐるキャビンを提供してもらふことにし、船へ行つてみると、船底の三等室しかない。なんでも結構といふわけで、やつと背中の荷物をおろしてからだを横にすると、私は、今朝からの歯痛の堪へ難いのが遂にその絶頂に達した。ミグレニンは飲み続けに飲んでゐるのだが、間をおいて襲つてくる激しい痛みに、顔はしびれ、眼からひとりでに涙が流れでる。頭を抱へてぢつと我慢しようとしたが、からだが自然によぢれて、枕のありかさへわからなくなる。声を出すまいと思ふから、呼吸がつまる。こんな歯の痛みは生れて初めてゞある。甲板へそつと上つてみた。あちこちに水溜りがあるのだけれどもそれを除けて歩く余裕がない、やつと手摺に縋つて、空を見あげた。満月が皎々と照り、江上の船はいづれも明りを消して、黒々と沈黙の影を浮べてゐる。  夜は長かつた。  翌朝、陸へあがつて、早速兵站の軍医さんに薬を塗つてもらふ。自分一人のことをこんなにくどくどと書いたのは、別に読者の同情を乞ふつもりではなく、戦場での歯痛はかくの如く異常なものであり、その原因についていろいろ考へるところがあつたからである。  道ばたへ腰をおろしてゐると、向ふから武装した三人の兵隊がいくぶん足を曳きずるやうにして歩いて来た。落伍兵かなと思つてゐると、そのうちの一人が、不意に、「先生」と叫んで私のそばへ駈け寄つて来た。 「明大文芸科の卒業生浅見であります。負傷して病院へはひつてをりましたが、やつとなほつて、これからまた前線の原隊へ帰るところです。先生はお元気ですか」  さう云はれゝばさうにちがひない。私は思はず胸をつまらせ、 「さうか、こんなところにゐたのか。怪我はどこだ」 「胸であります」 「大丈夫か?」 「はあ」  と云つて、彼は背嚢をゆすりあげた。  これからどこまで歩いて行くのか? 汗と埃にまみれたこの青年の姿を私は忘れることはできない。 「しつかりやつてくれ」  心からの感謝をこめて、私は、たゞ一と言激励の言葉を与へた。  痛みはどうやら鎮まつたが、全身の疲労甚だしく、今日是非前へ出なければならぬといふわけでもなかつたので、私は、一行と別れて先に九江へ帰ることにした。  私は、このへんで団体行動を打ち切つて、単独に見たいところを見て歩かうといふ気になり、その計画にとりかゝつた。  第一線部隊の何れかについて漢口に向ふといふ案は、先づ、向ふ一ヶ月の暇が必要であらう。私にその暇はない。  九江に腰をおちつけて、復興建設の過程を詳しく見るといふ案については、これは相当時間がかゝるし、殊に、自由に歩きまはる脚がなくては駄目である。結局、こんな大きな街はどうにもならぬ。南京なら車は勝手に使へるが、個人を対手に調査や見学の便宜を計つてくれるやうな機関が何処にもない。殊に今のところ、軍隊と民衆との接触面が比較的日常の姿で眼に映り易い場所を一番私としては選びたいのである。その軍隊はまた、敵のゲリラ戦術なるものに対して如何なる方策を取りつゝあるかといふことも是非この眼で見ておきたい。  そんなことを考へながら、南京への便を待つことにした。  五十嵐部隊長の好意で、時々自動車を差向けてもらひ、一行の誰彼を誘つて、あちこちを見て歩いた。そのうち、やはり、アメリカ宣教師の経営する女学校と産科の病院が最も印象に残つた。なんといふのであらう。かゝる施設が外国人の手によつてなされてゐるといふ事実は、日本内地でさへその例が多々あるのであつて、今更驚くべきことでもないが、それよりも寧ろ、彼等の、この支那大陸に於けるひとつの「生き方」について、私は日本人全体の注意を喚起したいと思ふ。  女学校は、その建物と云ひ、庭園と云ひ、まことに西洋的な生活の快適さを示すものであり、文化人の趣味と実力を誇るが如く瀟洒たる一廓を形づくつてゐる。中年の女教師が二人われわれを導いて校舎と住宅を見せてくれる。生徒の姿がちらちら廊下や教室の戸口に現はれるが、すぐに引つ込んでしまふ。先生の一人は、庭の小径を歩きながら、私に云ふ。 「生徒は日本軍がこの土地へはひつて来て以来、しばらくは怖がつて落ちつきがありませんでしたが、近頃では大分慣れて来た様子です」 「父兄はみな九江にゐるのか」  といふ私の問ひに、 「みなではない。なかには、子供をおいて漢口へ行つたものもある」  と答へた。それから、庭の一隅の竹藪が空へ伸びて、支那寺院の塔の遠望と面白い調和を見せてゐるのを指さし、 「こゝへわざわざ竹を植ゑさせてみたのですが、どうでせう?」  アメリカ・インテリ婦人の典型をそこに見出して私は思はず微笑した。 「なかなか結構な思ひつきです」  その先生は、事変がおさまつたら、一度日本へ行つてみたいとも云つた。  産科の病院は、ドクトルが留守で、細君が応接間へわれわれを通した。賀川豊彦氏の著書などが卓子の上に出してあつた。  病室は殆ど空いてゐた。支那人の看護婦が治療室の隅にかたまつて、ひそひそ話をしてゐた。いくつかの医局の扉に、ローマ字で支那人の名前を書いた札が貼つてある。支那人の医者が主任をしてゐるのかと思つたら、それはみなそれぞれの医局を寄附した支那人の名前であることがわかつた。医局を寄附するといふのはちよつと私には耳新しい方法で、さういふ慈善家を支那に作りだしたのは、たしかにアメリカ式文化宣伝の結果に違ひないのである。  男の宣教師が一人そこへ訪ねて来て、「奥さん、ちよつと」と夫人を戸の外へ呼び出した。フロックコートを着て前屈みに歩くところ、不確な視線で揉み手をする恰好など、職業的なある型にはまつてゐた。これが、先日名前を聞いた親日米人であつた。  甘棠湖に沿つた小高い丘は、紀念堂林園といふ公園になつてゐる。丘の頂上に、国民革命軍第五師陣亡将士紀念塔といふのが建つてをり、そこからは九江の街が広く見渡せる。植ゑて間もない樹が、何れも馬を繋ぐために背丈ほどのところで切られてゐる。かういふところばかり見て廻つてゐると、なにも見ないのとおなじになるといふ気がして来た。  宿舎のヴェランダから暮れて行く南方の空を眺めてゐると、廬山の峰々を掠めて、絶え間なく飛行機が去来する。なかには、頭のすぐ上を低く飛んで行くのもある。水面で魚をねらつてゐた鳶の群が悠々とその後へ舞ひあがつて、ひとくさり空中戦の真似を演じる。  瑞昌南方の山岳地帯で、わが○○部隊が敵の包囲を受け、弾薬糧食を空中から投下してゐるのだといふ噂が伝はつて来る。  私の胸はしめつけられるやうだつた。その晩は、いつまでも眠つかれなかつた。      楊州へ  十月十七日、私は連絡機の便を得て、南京へ飛んだ。  こゝで私はいゝ通訳をみつけて小学校の先生たちと少し話をしてみたいと思つたが、××××は丁度忙しい最中で、その係りの人にも会ふことができず、私は諦めて地図を頼りに街をぶらぶら歩きまはつた。しばらくの間に南京も目立つて賑やかになつたやうだ。大通りの真ん中で、支那の女同志がつかみ合ひの喧嘩をし、一人の男がその中へ割つてはひつて一方をなだめすかしてゐる光景さへ目撃することができた。もちろん人だかりがしてゐる。なかには薄笑ひを浮べて、またはじまつたといふやうな顔をしてゐるものもある。私はそれでたいがい見当がついた。実直さうな四十男が、その女房に違ひない頬つぺたから血をたらしてゐる若くも美しくもない女の手をぐいぐいと引つ張る。女は地団太を踏んで応じない。大声で泣き喚く。片手を捲きつけた道傍の並木の枝がばさばさと揺れた。  この戦争はどうならうとかまはないだけに見てゐて気が楽だ。しかし、こんなところで暇をつぶすのは勿体ないから、いゝ加減に切り上げよう。  光華門のそばに日本人経営の相当な支那料理屋があるといふので昼食をしに行つてみる。  サーヴィス・ガールは十六、七の支那姑娘だが、いくたりも側へ寄つて来て勝手に卓子の上の南京豆を噛り、日本の流行歌を得意げに口吟むので聊か興を殺がれた。料理も評判ほどでなく、第一材料も乏しいとみえて、献立が貧弱であつた。南京ではまだ支那人の生活が形を成してゐないといふ感じがした。  この前訪ねようとしてつい暇がなかつた同期生山崎のことを思ひだす。宿で調べてもらつたが、どうしても居所がわからない。部隊長の居所がどうしてわからないのかと思ひ、自分で心当りを探すことにした。  ところが、部隊本部へ行つたらすぐにわかつた。人力を走らせてゐると、偶然、向ふから来る自動車に大宅壮一君が乗つてゐて、訪ねるところがあるなら送つて行つてやらうと云つてくれる。親切をありがたく受けた。  部隊本部で、山崎の迎ひが来るまで、幕僚の三国氏に会つて、いろいろ警備に関する話を聴く。八月二十三日から十月十日まで、同隊の行なつた戦闘回数百五十九回、敵の損害は遺棄死体だけで一八七四、捕虜二八九、わが方の損害、戦死五九(内将校二)、負傷八四といふことであつた。なほ、南京蕪湖地区だけで、既に帰順兵千二百を出し、その他に於ても討伐の効果は着々あがつてゐるとのことである。敵の配備はこゝに詳しく書くことは許されぬが、大体、蕪湖南側に一万、溧陽の周囲に一万、何れも正規軍である。所謂匪賊道と称する彼等の専用道路があつて、その移動は、昼休夜行の原則を守り、中央の指令によつて道路橋梁の破壊、わが軍の後方攪乱を企図してゐる。避難民の復帰状態は大体良好であるが、九月二十日頃より、青年男女の数が著しく増したやうである。民衆の向背はこれによつて略ぼ判断の基準を与へられる。皇軍の軍紀粛正であるといふことが何よりも彼等の信頼を増し、ある地区の守備隊長が交迭した際の如き、村民が泣いて別れを惜しんだといふ例もある。道路愛護の運動も金壇・溧陽間には既にその組織もでき、治安上大なる効果を挙げつゝある。敵は橋梁などを破壊する毎に必ず宣伝ビラを撒いて行く。こつちは、新しい占領地に野菜の種を蒔く。部隊の自給自足は今から心掛けねばならぬからである。  三国氏のこの話は、私にとつて非常な参考になつた。いろいろ土地の名前も出たが、何処がよからうといふ相談はわざとしなかつた。  そのうちに、山崎が、自分で用事の序があつたからと云ふので出掛けて来た。今日おろしたばかりの新しい車で、彼は私をその部隊の兵舎に連れて行つてくれた。支那軍の兵営をそのまゝ使つてゐるのだから、すべてが平時の落ちつきを保つてゐる。部隊長室でしばらく話をしてゐると、この隣りが有名な軍官学校で、その跡へやはり同期の大熊が部隊長で頑張つてゐるといふ話なので、早速二人で訪ねて行つてみると、暫く見ぬ大熊は、これがと思ふほど変つてゐて、お互に年月の距りを痛感した。 「これが蒋介石のゐた部屋だぜ」  と、山崎が私に説明すると、 「いや、どうも宋美齢の方らしいんだ」  謹厳な大熊はさう云つて笑つた。  こゝで、私は二人の話を交々聴き、それぞれの部下が駐屯してゐる小警備地区の状況を詳しく知ることができた。そして、是非とも楊州に行かうと決心したのである。  その晩は山崎部隊長の宿舎で夕食のご馳走になり、長々と昔話をし、最近留守宅から届いたといふ甘味の数々を私も遠慮なく味はつた。  翌朝、九時四十五分、南京発上海行の急行に乗る。  一昨日宿でちよつと話をした三田文学派遣の従軍記者池田みち子女史が、誰かを送つて来た序に私も送つてくれる。私が楊州といふところへ行くのだといふと、自分も行つてみたいと云ふ。あとからおいでなさい、道はかうかうと教へておいたが、妙齢の女性の一人旅は無理にきまつてゐる。  向ひ側の席についた一青年将校は、私たちの話を耳に挟んだものと見え、 「楊州へ行かれますか。自分は○○地区警備隊のものであります。本部勤めで連絡のためこれから上海へ参りますが、二三日中に帰ります。何れあちらでお目にかゝります」  名刺には陸軍歩兵○尉三輪光広とある。そして、奇縁と云はうか、この将校の連れてゐる当番が、自ら名乗るところによると、私は不幸にしてまだお目にかゝつたことはないが、同業渋川君の令弟にあたる、山崎重久といふインテリらしい青年であつた。  鎮江へ着いたのが十一時、こゝで私は汽車を降りねばならぬ。揚子江の対岸の六圩へ渡るために、これから碇泊場へ行くのだが、駅の改札口を出ると、私はしばらく茫然と立ちすくんだ。自動車の影は一台もみえず、碇泊場までは一里近くあるといふ。荷物さへなければ歩くこともできるがと、そのへんを見廻してゐると、兵站の腕章をつけた一将校が運よく通りかゝつた。  私はこゝで兵站部の厄介になつた。昼食をすまし、荷物の一部を預け、車で碇泊場へ送つてもらふ。宮崎勇治氏の好意ある計ひであつた。  埠頭には、もう××汽船の旗が樹つてをり、その連絡船がいま出ようとしてゐるところであつた。      警備隊本部  小蒸汽は船員も支那人、乗客も大部分支那人で、わづか四五名の日本人が軽装で大きな郵便物の袋を提げて乗込んでゐた。  引率者たる主計○尉が、話をしてみると、やはり○○警備隊へ帰るのだといふ。ところで、こゝでもまた、それらの兵士の一人から、私は「先生」と呼びかけられ、それが明大文芸科で教へた生徒であつたのは意外でもあり、うれしくもあつた。かういふ時の道づれは有りがたいものだ。匪賊討伐の話、楊州の街の様子、米国教会の日曜学校で反日宣伝をした事実など聴く。  船は四十分で対岸に着く。こゝから楊州行のバスが出る。一台きりのバスといふのが、世にも憐れなしろもので、ほんとに動き出すのかと気が気でないほどであつた。しかも、船から降りた客がみんな一度に来るのだから、たちまち超満員で、窓の外へぶらさがるもの、エンヂンの蓋の上へ腰かけるものなどがあり、それでも兵士たちは起ちあがつて老人に席を譲るといふ床しさをみせてゐた。  沿道の耕地は洪水のため殆ど水浸しであつた。盥に乗つて稲の穂を刈つてゐる農民の姿がみえる。なるほど、楊州の名はこゝから来たのかと思はれるほど、楊柳が多い。そして、今までにみた中支のどの部分とも違つてゐることは、普通の恰好をした住民が、道の上を往つたり来たりしてゐることである。水害を免れたらしい田畑には、若い女たちの野良姿も目につき、川べりで子供を遊ばせながら、煙管を啣へた老人がわれわれのバスを見送つてゐる。  城外に近づくと、そのあたり一帯は墓地の連続である。楊州の墓参風景は支那名物のひとつだと聞いてゐたが、なるほどこの土地の広がりを、群集と花と線香の煙が埋めたとしたら、それは一種の奇観に相違ない。  城門を潜ると、支那人はみんなおろされた。衛兵の取調べを受けることになつてゐるのである。  バスは警備隊本部の前までわれわれを運んでくれる。城門からこゝへ来るまでの広い通りは、近年新しく広げられた道で、楊州唯一の自動車道路ださうである。両側には店舗は殆どなく、学校、兵営、官舎、その他、医者の看板など出した住宅風の建物が並んでゐる。  警備隊本部は、旧旅団長官舎だといふことだが、小ぢんまりした洋風のヴィラで、前庭に面したホールへ私は先づ通された。  部隊長は今会議中だからしばらく待つようにとのこと、本部附の兵士たちが、眼の前でさつきの袋を開け、郵便物を撰り分ける表情の面白さを飽かず眺めてゐた。  副官が「どうぞこちらへ」と私を二階の一室に案内した。  部隊長小川伊佐雄氏は、私がはるばるこの土地へ来たことを心から悦んでくれた。新聞記者も慰問団もなにも来たことはないといふ話であつた。  こゝばかりではない、さういふところも随分あるであらう。しかし、私は運が好かつたのである。誰でもかううまく此処へ辿りつけるわけではない。 「鎮江から河を渡つて来るといふことは、よほど臆劫なことゝみえますな」 「それはさうかも知れませんね。詳しく様子を聞いたうへでなければ、ちよつと決心がつきますまい」 「いや、揚子江の北はまだ危いといふことになつてゐますから……」 「匪賊は相当にをりませうな」 「何れ詳しくお話をします。が今も実は、部下を集めて会議をしてゐたんですが、近々、やゝ大仕掛けな討伐をやらうと思つてゐます。情報も可なりあがつてゐますし、もういい時分だと思ひますから……」  部隊長は隣室に集つてゐる部下の将校たちをこの席へ呼び寄せ、私に紹介した。  討伐の計画は極秘のうちに進められるに拘はらず、何時の間にか敵に知れてしまふらしい。スパイ網がかくの如く張られてゐるとは想像もつかないくらゐである。もちろん、その裏をかく手も考へられてゐるし、敵に十分の用意をさせて、一挙に殲滅的効果をあげることもある。  一人の将校は急に起ち上つて部隊長と私とを等分に見比べながら云つた。 「先日の討伐で戦死しました○○のことを、ひとつ文芸部の方に書いていたゞきたいのでありますが……」  これらの将校たちは、何れも楊州からほど遠い敵前の部落に駐屯して、守備の任務についてゐるのであつて、小数の部下と共に、有力な敵を制圧し、住民を手なづけ、情報を蒐集し、農村に於ける自治体の速かな結成を促す重大な力となつてゐるのである。  三輪○尉の部屋が明いてゐるので、私は、その夜、本部に泊めてもらふことにした。  すると翌日、小川部隊長は私に匪賊討伐を実際に見たければ見せてやるがと云ふ。それは、今夜十二時に出発して、東北方約二十キロの喬野といふところにある敵の陣地を襲ふのだ。本部と一緒にゐればまづ危険はないと思ふし、馬の用意もさせておくからと、ごく気軽に勧められて、私は、是非行きたいと答へた。  そのうちに××の桂班長も打合せに来た。  この前の討伐にやはりついて行つて、部隊長と一緒に弾丸のなかを潜つた話などして聴かせる。 「宣撫といふのは、そんなに危険なところまで行くんですか?」 「いや、さうまでしなくてもいゝですが、この隊長が連れて行かんと承知せんのでしてね。しかし、占領後すぐといふのが一番効き目があるんです。住民の気持がまだ動揺してますからな。なに、どうせ、国家に捧げた命です。覚悟はしてゐます。たゞ、われわれは仕事の性質が違ふだけです」  桂五郎氏は、満鉄の副参事とかをしてゐた人で、特に事変中軍の嘱託として中支へ派遣されたのださうである。  夕方になつて、出発が午前三時に変更された。副官の注意で私は一と息眠ることにした。      払暁戦  午前二時半起床。本部附の平野氏が私に拳銃を持つてゐるかと問ふので、持つてゐないと答へると、それではこれを貸してあげると云つて誰かのを一挺捜して来てくれる。私はその必要はないと思つたが、折角の好意であるから腰へぶらさげて行くことにする。  非戦闘員である以上、戦闘に参加するのではないといふことを飽くまでも考へなければならぬ。たゞ、私は、敵の退却したあと、そのへんの住民たちが如何なる態度をもつてわが軍を迎へるか、また、それらの住民たちに対して、わが軍がどんな処置をとるかといふことを、現実に目撃したいのである。  なほ、そのうへ、情況がゆるせば、所謂、彼等の戦闘能力、殊に、最も統制のとれてゐるらしいこの方面の残敵の抵抗度を素人の眼ながらほゞ観察しておきたいといふのが、この討匪行に加はる私の目的であつた。  そこで、参考のために、当日の作戦命令をみせてもらふ。        ○○地区○○部命令 一、邵伯鎮北方敵正規軍ハ近日来兵力ヲ増加シ喬野(邵伯鎮東方六吉)陳家甸附近ニ盛ニ陣地ヲ構築シアリ  其状況並ニ地形別紙攻撃計画要因ノ如シ 二、地区隊ハ楊州西北方地区討伐ニ先タチ該敵ヲ殲滅セントス  攻撃計画概要別紙要図ノ如シ 三、奈良○尉ハ部下歩兵○○隊、邵伯鎮予備隊ノ歩兵○○隊、在○○機関銃○隊大隊砲○隊(○○隊欠)ヲ併セ指揮シ右翼隊トナリ十月二十二日六時三十分渡河シ別紙要図ノ如ク陳家甸ノ敵ヲ背後ヨリ急襲シ陳家甸局地ニ於テ其ノ増援隊ヲ併セ一挙殲滅スヘシ  堀内軍医並ニ○号無線○機ヲ属ス 四、斎藤○尉ハ部下歩兵○○隊半機関銃○○隊大隊砲○○隊ヲ併セ指揮シ左翼隊トナリ十月二十二日六時三十分渡河シ各一部ヲ以テ速カニ載家渡及喬野橋梁ヲ占領シ退路ヲ遮断セシムルト共ニ主力ヲ以テ将軍庿局地内ノ敵ヲ捕捉殲滅シタル後喬野ノ敵ヲ攻撃撃滅スヘシ  久田軍医及○号無線○機ヲ属ス 五、討伐後五又港──喬野道及喬野附近全橋梁及陣地ハ完全ニ破壊シ敵ヲシテ喬野以南地区ニ再ビ出動シ得サラシムルヲ要ス 六、○砲兵第○○隊ヲ指揮シ十月二十一日夜半「トラツク」ニ依リ楊州出発軍工路守備隊附近ニ至リ陣地ヲ占領シ七時三十分以後命ニ応シ喬野陣地ヲ射撃シ得ルノ準備ニ在ルヘシ 七、合言葉○○──○○  標識 国旗ヲ高ク左右ニ振ル     要スレハ喇叭「大熊部隊」     夜間ハ懐中電燈ヲ以テ円ヲ描ク 八、各部隊ハ通例ノ弾薬ノ外朝昼食携帯口糧一食分ヲ携行スヘシ 九、予ハ左翼隊ト行動ヲ共ニス ○○地区○○部隊長  以上の作戦命令により各部隊それぞれ行動を開始した。  偵察による敵の兵力は、推測し得る増援隊の兵力を除いても、優に我れに倍するものであることがわかつてゐた。  私はこの大胆な攻撃計画が、小川部隊長の自信の発露とみて、その成功を疑はなかつた。  やつと服装を整へて二階のヴェランダに出た。  月明に照し出された楊州の街は、静かに眠つてゐる。寒いといふほどではないが、夜気しんしんとして身に沁み、拍車をつけた靴が重い。  副官は、その当番の今井一等兵を私のために特に本部一行のうちに加へてくれる。  今井君は、偶然、東京の私の住ひを知つてゐるといふ。わけを訊くとその筈である。伯父さんが西荻窪の金物商で、同君はその店でずつと働いてゐた青年なのである。 「弁当と鉄兜は私が持つて参りますから」 「どうもありがたう」  小川隊長は、私に、寒ければ自分のマントを貸さうと云つてくれたが、私は内地を出る時義弟の吉田大佐から古い将校マントを貰ひ受けて来てゐるので、それを出して着た。  本部の前には自動車が用意されてゐて、私は隊長と同乗を命ぜられた。桂班長も同じ車であつた。  城門を出ると、邵伯鎮に通ずる一直線の軍工路が続いてゐる。こゝにも所謂国民政府の軍事施設が及んでゐるのである。途中、大きなクリークにかゝつてゐる立派な橋を二つ越えた。いづれもわが軍の歩哨が立つてをり、隊長の車はその前を徐行して親しく敬礼を受けるやうになつてゐる。 「異状ありません」  歩哨の声は凜然と闇の中に響く。隊長は窓に顔を近づけて、ぢつと歩哨の姿に見入る。 「ご苦労」  沿道には明りといふものがまつたく見えず、犬がしきりに啼く。 「敵はもう勘づいてるでせうね」  私は隊長の顔をみた。 「むろん勘づいてます。たゞ、部隊の移動方法を複雑にして、作戦の主要な点を覚らせないやうにすればいゝのです」  やがて小さな部落にはひると、そこが軍工路守備隊のゐるところで、今日の攻撃の左翼隊指揮官斎藤○尉が、本部の到着を待つてゐる。  道路の片側に叉銃休憩してゐる一隊がわれわれと共に、これから進発する部隊だといふことがわかる。  農家のひとつが守備隊の本部宿舎にあてられてゐて、急造の寝台に支那風の蚊帳が吊したまゝになつてゐる。石油ランプの光りの下で、熱い茶をいつぱい飲み、小声で何やら囁いてゐる隊長と、それに耳を傾けてゐる斎藤○尉の緊張した表情をぼんやり眺め、私は努めてこれらの人々の邪魔にならぬやう心掛けねばならぬと思つた。 「さあ、出掛けませう」  隊長に促されて私は外に出た。  乗馬が三頭、そのうちの一頭は私の分である。前もつて歩くのは駄目だと断つておいたので、かゝる分に過ぎた待遇を許されたのであつた。  隊長の後に続いて、手綱を引きしめながら行く。あちこちで犬が一斉に吠えたてる。尖兵が軍工路を右に外れた。乾田のなかの畔道を、本部の一隊は踵を接して進む。道は凹凸がはげしく、その上、ところどころに溝があり、馬は時々足をすべらして乗心地はあまりよくない。  月が落ちて、暗さが増し、視界はまつたく利かぬと云つてよく、わづかに、前方の森の頂が夜空に浮いてみえる。銃声が二三発聞えた。 「なんでせう、あの光りは?」  私が瞳をこらすと、誰も答へるものはない。むろん敵の信号である。敵の歩哨線が近いことがわかる。  クリークに沿つたやゝ広い道に出た。ちよつとした部落である。人が住んでゐるのかゐないのか? 明りの漏れてゐる窓などはひとつもない。こゝで部隊は一時止つた。予め偵察の行はれてゐる渡河点なのである。  私は隊長の後ろから狭い露地をぬけてクリークの岸へ出てみようとした。 「危いです」  隊長は私を制した。この瞬間、すぐ目の前に岸から銃声が起つた。 「そこに敵がゐるんですよ」  しかし、この渡河点は、船の利用ができないために変更しなければならないことになつた。岸に揚げてある船は大きすぎてどうにもならないことがわかつたのである。  左翼隊の行動はこゝで一大障碍にぶつかつた。斎藤隊長は新たな情況によつて、進路を右に求め、敵前のクリークを泳いでゞも渡る決心であるといふことを小川部隊長に報告した。 「よし、やれ!」  移動がはじまつた。  夜はほのぼのと明けかけ、暁天の星の瞬きが美しい。闇の帷は朝霧の幕に代つて、自然の色彩が徐ろに万物の眼ざめの姿を浮きださせる、あの荘厳な一つ時である。  私にとつてはまつたく不意に、殆ど側背と思はれる方向から盛んな銃声が起り、頭上をかすめて、ピユッピユッと弾丸が飛んで来だした。噂に聞くチエッコ機関銃の音も交つてゐる。  こつちの部隊はそこで戦闘隊形を整へた。私たちは馬から降りて姿勢を低くした。が、私のそばにゐてくれる筈の小川部隊長は、事態容易ならずと察してか、乗り棄てた馬を更に呼び寄せて悠々これに跨り、戦闘部隊のなかへ飛び込んで、自ら部下を督励しはじめた。 「まだまだ射つちやいかん。敵の弾丸は高いぞ。前進だ、前進だ」  百米でもうその姿は見えなくなるやうな深い霧であつた。  おくれるのは仕方がないとしても、部隊とはぐれては困るので、私は、当番の今井君に眼くばせしてぢりぢり前へ出た。桂班長も、配下の通訳ほか数名を引きつれてやつて来た。  隊長の大声叱呼する声が次第に遠くなる。味方もやつと射撃を開始したらしい。  が、さつきから、前方の銃声とは別に、私のすぐ左二百米以内に敵がゐて、しきりにこつちを撃つてくるやうな気がしてならぬ。銃声はそれほど近く、しかも、そつちから来る弾丸が私たちの頭上を超えて右側のクリークに沿つた楊柳の枝をばらばらと落してゐるのである。  敵味方の銃声が入り乱れるなかに、伝令の息せききつた声が耳にはひる。  すぐ逃げると思つてゐた敵が、何時までも頑張つてゐるので、私は少し焦れつたくなつた。なるほどかういふ奴もゐるのだなと、はじめて正規兵なるものゝ馬鹿にならぬことに気がついた。  私は稲を刈りとつた乾田の、露に濡れた土の上に腹這ひになつてゐる。せめて畔道を楯にからだを隠さうと思ふのだが、なかなか起ちあがる機会がない。やつと顔をあげて左右を見渡してゐるうちに、つひ百米ほどはなれた畑のなかに、霧でぼんやり包まれた百姓女の姿を発見して、私ははツとした。彼女は、片手にザルを抱へ、前こゞみの落ちつき払つた姿勢で、余念なく種を蒔いてゐるのである。  これこそは、まさしく、神秘な風景である。如何なる分析もこの厳粛な魂のすがたを説明するわけにはいかぬと思ふ。これはたゞ、ひとつの単純な事実に違ひないけれども、私を深い瞑想に誘ひ込んだ。  銃声がはたと止んだ。なんの意味かわからぬけれども、私は前へ出なければならぬといふ気がした。 「鉄兜をおかぶりになりますか?」  今井君の声がうしろでする。  さう云へば、妙なもので、今まで弾丸のうなりを聞きながら、こいつがあたるとすれば、いつたいおれのからだの何処へあたるだらうといふことだけが気がゝりであつた。そして、頭さへやられなければといふ考へが、ぼんやりしてゐた。  鉄兜を受けとつて、被り方を教はりながらそいつを頭へのせると、どうしてこれは相当に重いものである。子供の時分、祖父の家で悪戯に古い冑をかぶつてみた、あの記憶がふとよみがへり、をかしくなつた。と、その時また、左手の方から銃声が聞え、気のせゐか弾丸が近くなりだしたやうに思つたので、狙撃されてゐるなと、心の中で感じながら、私は夢中で駈け出した。  そこはやはり人家が二三軒ひと塊りになり、すぐその向うを幅二十米ほどのクリークが流れてゐる。味方はもう既にそのクリークを渡つて、猛烈な追撃にうつゝてゐるのである。  対岸には堅固な陣地が築いてある。渡し場には舟が一艘向ふへ漕ぎつけた儘になつてをり、その附近の人家は、銃眼を穿つた高い墻壁にとり巻かれてゐる。  辿りついた農家は、母屋と納屋に分れ、たつた今腹部に敵弾を受けて倒れた一軍曹を母屋のなかに寝かせたところである。  応急手当──仮繃帯だけはしてあつたけれども、腹部の貫通銃創にちがひないと私には思はれた。  私はその傍らに近づいて脈を取つてみた。彼は閉ぢた眼を静かに見開いた。別に苦痛を訴へる風はない。脈も割にしつかりしてゐる。 「血がどんどん出てゐるやうな気がしますが、ちよつと見て下さい」  胸をひろげて、私は、繃帯のあたつてゐる部分を検めた。僅かに血が滲んではゐるけれども、別に流れ出てゐるやうな様子はないので、 「大丈夫ですよ。もう血は止つてるぢやありませんか。服がよごれて気持がわるければ、かうしておきませう」  私は、服の内側の背中にあたるところへ自分のハンケチを押し込んだ。  早く後方へ運べばいゝのだらうが、生憎さういふ人手はないのである。  味方の主力はどの方向へ動いて行つたか? 霧がはれて来ると、遥か前方の道路上を、大隊砲の一隊が前進するのが見える。敵の退路へ退路へと迫るわが攻撃作戦の効果が察せられる。時計を見ると八時三十分。      部落の住民たち  それにしても、さつきからの激戦に、わが損害はたゞ一人の負傷者だけかと、私は、不思議なおもひであたりを見廻した。ほかに倒れてゐる兵隊の姿はかいもく見当らない。  対岸の人家のかげをうろうろしてゐる支那人の姿が眼につく。なんとなく怪しげな挙動とも思はれるが、まさか敗残兵ではあるまい。  桂班長がこの部落で「宣撫」をやるから見てくれと云ふ。もちろん望むところであるから、私もお手伝ひすると答へた。  先づその前に朝食をといふことになり、今井君は私の飯盒をおろしてくれる。  と、その時、一人の支那人がひよつこりと私たちのゐる家の裏手に現はれ、家のなかをのぞき込んで何やらぶつくさ云つてゐたといふので、一人の兵隊が、こいつ怪しいとばかり引つ捕へて連れて来た。通訳に調べさせてみると、この家の主人だといふ。病人があるので医者を呼びに行かねばならぬが、その前に病人の様子を見に来たのだ。その病人は何処にゐるかと問ふと納屋を指さした。なるほど、一人の老人が蒲団にくるまつて寝てゐる。こつちの返事も待たず、もう何処かへ行かうとするので、兵隊は許さない。 「こら、待て」といふわけで、もう一応この家の主人であることをたしかめるために「茶があれば出せ」と命じてみる。彼は黙つて戸棚を探しにかゝるが見つからない。ビラを貼る糊を作る用意をしろと云ひつけるが、それもすらすら運ばぬ。「こやつ、どうも臭いですよ。どつちみち敵と通じてゐた奴に違ひない」といふことになる。それはしかたがないとして、両手を縛りあげられ、銃剣を擬せられても、彼は平然として、一向に怯む気色がない。まことに図々しくしらばくれてゐる風であり、「どうでも勝手にしろ」と空嘯いてゐるのだと見れば見られるのである困つた代物である。兵隊もこれにはやゝ持てあまし気味で、なんとかひと言上官の命令さへあればといふ顔付が私にはありありと読みとれ、風前の燈火に似たその男の命を誰が救ひ得るであらうと、ぢつと彼の表情に注意してゐた。  巌丈な体格の、四十になるかならぬかといふ年配のその男は、しかし、身に迫る危険を知らぬ筈もなく、また、その危険を敢て懼れぬといふ面魂でもなかつた。宙をさ迷ふその眼付、かすかにふるへる頬の筋肉、物言ひたげな唇の動き、そして、時どき家の方を振り返る無器用な身ぶりは、この人物の肚の中のなにひとつを語らないにせよ、これは少くとも「敵」として取扱ふべき男ではないと考へられた。  幸ひにして桂班長がやつて来て、この男にこんな用事をいひつけた。 「お前はこれからこの部落の人間を全部こゝへ呼び集めろ。みんなに云つてきかせることがあると云へ。若し出て来ないものがあつたら、日本軍はその家を焼き払ふからと、さう云へ」  どうするかと思つてみてゐると、その男は急にホツとしたやうな笑顔を作り、首をなんべんも振り、いそいそと出掛けて行つた。しばらくすると、近くのものがもうそこへ集まつて来た。広い耕作地を区切る四方の森のかげから三々伍々、老若男女の姿が現はれ、畔道伝ひに、いづれも急かず慌てず、殆ど一定の距離をおいてつながつて来るその光景は、またとなく珍しく、なにかお祭りのやうな粛然とした華やかさであつた。  私がそれらの村民の一人々々を、そしてまた、彼等が互にそこで落ち合つて挨拶を交す有様を見ようと思ひ、集合の場所と定めた裏の空地へつゝ立つてゐると、来るもの悉く、また集合かと云はぬばかりの馴れきつた調子で、相手をみつけては何やら喚く。なるほど老若男女とは云ふものゝかうしてみると、屈強な青年と年頃の女は一人もゐない。なかには純然たる農夫ではない、云はゞ職人といふやうなタイプの男もゐて、これが目立つ。私の袖に巻いた腕章をわざわざのぞきに来て、字が読めるといふところを見せたがるものがある。「従軍作家」なる文字をなんと解したであらう。  突然、私の耳もとで女の声がする。それは怪しげな発音ではあるが最初のひと言で日本語だといふことがわかり、私はその女の顔を見つめた。三十そこそこの、色は黒く日にやけてゐるけれども、どことなく小ざつぱりしたおかみさんであつた。 「ほう、あんたは日本語が話せるのか」  と、私は不必要な念を押した。  彼女は、下町風なからだのこなしよろしく「わたし、上海で日本人のところにゐました。日本の兵隊さん来てくれて、大へんうれしい。みんなよろこんでゐる」  とのこと、私は、それにかまはず、 「上海でどういふ日本人のところにゐたの?」 「船の会社……わたしの主人、船の会社……えへゝゝゝゝ」 「あゝ、さうか、あんたの御主人が日本人で、船の会社をやつてゐるんだね」 「いえ、さう、わたし、一と月前にこゝへ来た。またすぐ上海へ帰る。戦争困つたね」 「ふむ、さうすると、あんたの両親の家が此処にあるわけだね」 「わたし、一人、こゝにゐる。誰もゐない。旦那さん死んだ」 「おや、さうか。なんだかわからなくなつた」  今度は私の方が笑ひにまぎらして、この女との会話を打ち切つた。  ほゞ揃つた時分を見計つて、桂班長は、小高い土くれの上に立ち、一同をその前へかたまらせた。五六十名もゐたであらうか? クリークの渡し場附近には、まだ老人達が五六人、素知らぬ顔をして立ち話をしてゐる。  桂班長は、努めて威容を示すといふ態度で徐ろに口を開く。お得意の北京語はこゝでは十分に通じかねるため、傍らにやはり通訳をおき、ところどころ、その通訳が土地の言葉で云ひ直すといふやり方であつた。  予め刷り物にしてある堂々たる宣言文が、ほゞ、そのまゝの形で伝へられるらしく、村民たちは、首をかしげて一語一語に聴き入つてゐる。こゝでもまた意外に活溌な反応をみせる群集の特異な性格をみることができた。が、最もお世辞のいゝ聴き手の一人は、あとで調べてみると、大工であつた。この男は、これからこの部落に自警団を作るについて進んでこれに加はるものはないかといふ桂氏の声に応じて、まつ先に一歩前へ進み出た。そして、あとは誰れかれと自分で物色して立ちどころに団員を任命した。「おれはからだが弱くて」と尻ごみをするらしい一人の青白い男も、しぶしぶ仲間入りをした。  さて、これらの自警団員は、今から手分けをして、わが軍の布告ビラを辻々へ貼りに行くのであるが、再び此処へ支那兵が侵入して来た時、果して如何なる処置をとり得るか、治安工作の眼目はこゝにあるのである。  解散はしたが、その場でうろうろしてゐるものが多く、子供を連れた母親など、演習に来た兵隊を見物するやうに、われわれのまわりを立去らうとしない。当番の今井君は、一人の女の腕に抱かれた赤ん坊の手に、雑嚢から角砂糖を出して握らせた。赤ん坊はそれをすぐに口もつて行かうとしない。そばに立つてゐるその姉らしい八九歳の少女が、今井君の次ぎの動作を見守つてゐる。今井君は、これにもひとつ与へた。少女は、こわごわそいつを舌の先で舐めてみた。そして、急に、母親の顔を見あげ「タン、タン」と、驚きと羞みを交へた調子で告げた。「お砂糖だ」の意味であらう。すると、それをみてゐた別の女が自分の子供にもやつてくれと傍らの少年を頤で指す。今井君は、まだあつたか知らと云ひながら雑嚢を探つたがもう一つも残つてゐない。首を振つてみせると、母親と子供は恨めしさうに後ずさりをした。  急にまた銃声が盛んになりだした。しかしそれはもう可なり遠くであつた。喬野の攻撃がはじまつたなと、私たちは本部の後を追ふことにし、クリークの渡し場の方へ歩いて行つた。そこに一軒の茶店がある。老人が私の姿をみかけると、奥から盆に茶をのせて持つて来た。そして、同じ土瓶から別の茶碗に注いだお茶を自分で先づ一口のみ、毒見をしてみせるのである。心得たものだと思ひ、私は、ふんふんとたゞうなづいて、船のあるところへ降りて行つた。両岸へ綱を渡し、それを手繰るやうにして船を滑らせて行く、あの式である。向う岸へ着くと、そこに掘つてある散兵壕のなかに、敵兵の死体がひとつ、俯伏せになつてゐた。頭を奇麗にチックで分け、色の生白い、インテリ風の兵士であつたが、額を射たれ、片手で傷口を押へたものらしく、左手にべつとり血がついてゐる。帽子が落ちてゐる。服は便衣であるが、帽子は正規兵の青天白日の徽章をつけたものである。  支那軍は味方の死体を運ぶ暇がない時でも、その銃器だけは必ず取りあげて行く。こつちも敵の死体の身につけた弾薬はそのまゝにはしておかない。背負袋にはまだ相当の弾薬が残つてゐる。おまけに、「如意香」といふ化粧クリームの小罎が一つころがり出たのには、わが兵隊諸君も唖然として顔を見合はせた。  その時、右手にあたつて、高く煙のあがるのが見えた。右翼隊が敵の陣地を占領したものと判断し、それなら、これをまつすぐに行くと、敗走して来る敵にぶつかるなと、うろ覚えの地図を頭に浮べてみたが、なんとも見当がつかぬ。まゝよといふわけで、砲兵隊の敷設した地上の電線を伝ひ、部落のなかを抜けて行つた。こゝは流石に敵陣地の内部だけに、住民の動揺は甚だしかつたものとみえ、戸毎に荷物を外へ運び出して逃げ支度をしてゐる。恐らくからだゞけで逃げたものが大部分なのであらう。積みあげた家財道具の上に子供を坐らせ、その下にぼんやり蹲つてゐる老婆もあつた。道ばたの家を一軒々々のぞいてみる。逃げおくれた、或は逃げてもしかたがないと思つてゐるらしいいくらかの家族が暗い部屋の隅に、ひと塊りになつてぢつと入口の方を眺めてゐる。人の気配で悸える風もみえない。却つて、それをしほに起ち上つて片づけものなどしはじめる中年の女もある。笑顔をもつて迎へる用意はまだできてゐない。たつた一軒、急造の日の丸を軒先に掲げてゐた家がある。敵兵の死体もいくつか目につく。自分で傷の手当をするためズボンを脱ぎかけたまゝ呼吸絶えたらしい、さういふ死との格闘の生々しく想像される姿は、わけても眼をそむけたくなる。が、それも次第に馴れて来ると、手を伸ばせば触れるやうなこれらの事物が、悉く、戦場にある自分といふものゝ単なる心理的遠景としてぼかされてしまふのである。  今井君は銃に着剣して私のそばについてゐてくれ、私も万一の用心に拳銃を手に握つてはゐるが、どうも芝居じみてゐるやうな気がしてならぬ。油断といふのは、かゝる自意識の驕慢な不覚を指すのであらうか?      二人の俘虜  喬野に突入した部隊の主力は、更に敵を追つて五又港の陣地に迫つてゐるらしい。  喬野といふ部落は、相当大きな部落で、その中央にクリークがあり、これに渡してある橋は船の通る部分だけ取外すことができるやうになつてゐる。  敵はこの橋梁を破壊する暇がなく、その代り最後までこゝで抵抗を続けたのである。  私たちがこの部落にさしかゝつた時は、味方の砲弾が時々頭上を超えて飛ぶ唸りが聞えるだけであつた。  橋の上から左の方を見ると、クリークの幅がぐつと広まり、湖のやうになつてゐた。地図をみると、やはりそれは愛菱湖といふ名がついてをり、例の邵伯湖の一部なのである。  狭い通りの両側は、何れも小さな田舎町の店であるが、もちろん戸を固く鎖した家が多く、たまにひよつこり顔を出す男などがあると、こつちがギヨッとするくらゐである。  人家か疎らになり、乾田がまた続く。路ばたに一人の若い男がその父親らしい老人を背負つたまゝ腰をおろして休んでゐる、休んでゐるといふよりもへたばつてゐる恰好である。恐らくみなと一緒に逃げるつもりで此処までやつて来たのだけれども、もう脚がつゞかぬといふわけなのであらう。  さういへば、私も可なり疲れてゐる。もうどれくらゐ歩けばいゝのかと思つてゐると、向うから伝令がやつて来て、部隊本部はすぐに喬野へ引上げて来るから、そこで待つてゐるやうにとのことであつた。  空が美しく晴れて、野の花がそここゝに咲いてゐることにはじめて気がつく。  私はしばらくそこに立ち止つた。うらゝかな秋の日ざしに蘇る田園の風景が、常にも増して心に沁みる。なぜかこの時、我が家の庭の木犀の香ひを想ひだした。  やがて、小川部隊長を先頭に、本部の一隊がこつちへ帰つて来るのがみえる。私は、思はずそつちへ歩きだした。何よりも隊長以下の無事をよろこぶ気もちであつた。その時隊長に向つて私はなんと云つたか、今は記憶にない。たゞ、こつちの損害はどれくらゐであつたかを訊ねたことだけはたしかである。 「一人やられたきりです。あゝ、さう云へば内田軍曹はもう駄目だらうな」  と、小川部隊長は傍らの誰かに云つた。  誰も返事をしない。で、私は、 「腸を外れてゐさへすればいゝんだが……」  と、ひとりごとを云つてしまつた。 「今日は案外手間どりました。おまけに、はじめと少し計画を変へたもんだから、あなたをとんだ目に遭はせてしまつて……」  隊長は笑ひをふくんで私を顧みた。 「いや、却つて得難い経験をしました。それにしても、弾丸はなかなか中らないもんですね」 「さうでせう、敵は狙つてなんぞ射つてはゐません。だから、弾丸がみんな高い。馬に乗つてゐてさへさうです。だから、弾丸が低くなつて来れば、それに応じて姿勢を低くすればいゝ。これは馴れないとわかりません。たゞ、わたしがマントを着てゐたもんだから、馬からおりると弾丸が集つて来た」 「さうですか。僕もマントを着てゐましたが途中で脱ぎました」 「まつたく済まんことをしました。万一のことでもあつたらと心配しましたよ」 「そんなご心配はいりません。が、僕も始めからこんなこともあらうかと覚悟してゐました。ところで、兵隊はなかなかみんな勇敢ですね。頼もしい気がしました。かういふ戦だから、却つて隊長は気をおつかひになるでせう。まるで演習そつくりぢやありませんか」  私は率直に感じたことを云ふと、 「今日はわたしは直接に指揮はとらないつもりでしたが、つい情況がさうさせたのです。こゝでは、教育しながら戦をするといふ立前を厳格に守つてゐます。それでなければ長い戦争には勝てません」  本部の一行のなかに、後ろ手にしばつた捕虜を二人連れてゐる。 「これは兵隊だといふことはたしかなんですか」  私は、その捕虜の綱をもつてゐる兵士に訊ねた。 「はあ、たしかであります。そこのクリークの中へ首だけ出して匿れてゐたのを見つけたんであります。便服ですし、はじめどうしてもほんとのことを云はなかつたですが、しまひに自分で匿した銃の在りかを教へました。それと首に軍隊手牒をぶら下げてゐましたから、もう間違ひはありません」  それから、一人の将校が、 「敵の逃げる時はきつと住民も一緒に逃げるもんですから、後ろから射撃するのにとても厄介なんです。住民を殺すまいと思ふと、つい敵を射ち損ひますから……」 「だから、かういふ部落で宣撫をする時は、日本軍が攻めて来ても、決して支那兵と一緒に逃げてはいかんと云ひふくめておきます。逃げる奴は命の惜しくない奴だ」  隊長はさう附け加へた。 「今日の戦果はどうでしたか?」  私は訊ねた。 「えゝ、まあ、大体……」  と、隊長は、敵を追ひ払つただけでは満足しない様子であつた。  喬野部落にさしかゝると、一人の老婆がおいおい泣いてゐて、その傍らに二三人の男女が声をひそめて話し合つてゐる。通訳がわけを訊くと、その老婆の家が今焼けてゐるのだが、それは日本兵のやつたことか支那兵のやつたことかわからぬと云ふのであつた。 「日本軍は決してそんなことはしない。少くとも今こゝにゐる日本の兵隊は、罪のない住民の家を焼き払ふやうなことはないのだ。多分、支那軍が弾薬庫にでも使つてゐて、逃げる時に火をつけて行つたのだらう」  隊長のその言葉は老婆の耳へははひらない。手ばなしで、それこそ子供のやうに、涙を流して泣き喚くばかりである。 「こつちの砲弾はこのへんに落ちるわけはないし、いつたいどこの家だ?」  住民の宣撫といふことに心をくだいてゐる隊長は、かういふ訴へを聞き流しにできぬとみえ、その燃えつゝある家の前に立ち寄つて、中をあらためさせた。 「敵の大隊本部にでもなつてゐたのかな」  さういふ目的に使用された家屋は、将来のために焼きすてろといふ秘密命令でもでゝゐるのか?  骨組だけが残つて、内部はまつたく形をとゞめぬくらゐ丸焼けである。ポンとなにかの破裂する音がした。 「危いぞ。気をつけろ」  誰かゞ注意した。中にはひつて行つた兵隊が靴を真つ黒にして出て来る。臭い臭いといふ顔をし、なんにもないと首を振つてみせた。 「それぢや、災難として、いくらか婆さんに見舞をやつとけ」  と、隊長は、主計に命じてゐた。  本部の休憩所がきまり、昼食の支度である。 「あなたは最初の陣地攻撃の時はどこにゐましたか?」  隊長の問ひに、私は、 「あのクリークから百五十米ぐらゐのところにゐました。霧でよくはわかりませんでしたが、敵が近いのには驚きました」 「うん、あの、クリークですがね、対岸の陣地をごらんでしたか? いよいよあれを渡らなければ突撃ができない。その時、船が向う岸に一艘つけてあるんです。立石といふ軍曹が、それをみて、上着を脱ぎすてゝ、ざんぶりと水の中へ飛び込みました。すると一人の兵隊も後につゞいた。二人で敵の猛射を浴びながら、悠々とその船をこつちへ引つぱつて来るぢやありませんか。かういふのがゐます」 「いゝですね。しかし、船でみんなが渡つたとすれば、随分危険なわけですね。よく損害がなくてすみましたね」 「さういふもんですよ。この喬野のクリークでも、あの橋を渡る時、○隊長の園田が先頭に立つて突つ込んで行くんです。橋の袂からはバリバリ撃つ。わたしは、その瞬間○隊長を殺しちやならんと思つた。で、うつかり先へ出てしまつたんですが、この時は、やられたかなと思つた。橋を渡つて、あの狭い通りを突きぬける時も、真正面から、弾丸を浴びました。中れば串ざしです。しかし、中らない。かうして生きてゐる。まつたく不思議なものです」  丁度そこへ、五又港の敵を撃ちすくめておいて、斎藤隊が主力をもつて引上げて来た。 「まあ、こゝで一服やり給へ」  と、小川隊長は、斎藤隊長の報告を聴いた後、そこへ敷いたアンペラの一隅に席を設けさせ、さて、今日の戦闘指揮についての情理をつくした講評をしはじめた。  私は、そこでその場を外すことにし、さつきの捕虜はどうしたかと思ひ、家の裏手に出てみると、敷石の角に二人とも尻をついて、ぼんやり考へ込んでゐるところであつた。  よくみると、一方はなるほどがつしりしたところがあるけれども、もう一方は、ひ弱さうな、体格劣等の若者である。どつちも服はびしよびしよに濡れ、殊に体格劣等の方は、唇を真つ青にして肩をふるはせてゐる。  言葉が通じるとしたら、私は、今、この捕虜たちに向つて何を云つたであらう?  およそ憐憫とか同情とかいふ感情が、この場ほど当てにならぬことはない。人間の本性が如何に強くても、戦場の生理は動くところへ動いて行かねばならぬ。文明とか、野蛮とかいふ言葉がうかつに使へない、どぎつく且つ微妙な秩序が、既におのづから戦ふものゝ精神のなかに形づくられてゐるのである。理窟は「勝つために」ではない。「生きるために」である。この絶対な理念を超えて、人生の真実はない。戦争の偉大な教訓は、たゞ厳粛なこの真実のすがたのなかにある。  一人の兵士が私に説明した。 「敵兵と良民とを区別せよと云はれますけれども、かうなると、調べやうがありません。なんとしても証拠があがらないんですから。時には、大勢の捕虜を並べておいて、住民の一人二人に、蔭で訊ねてみます。戸の節孔から何番目何番目といふ風に、撰り分けさせます。それでも当てにならないことがあります。前に帰順した敵の将校などを道案内に連れて来ると、さういふ時、並んでゐる捕虜の前で、不意に号令をかけさせてみます。『気をつけツ、敬礼ツ』とやるんです。根が兵隊なら、思はず知らず、不動の姿勢をとつて、手を挙げちまひますよ。はゝあ、あれだなと、見当がつくわけです」  私は、まさかとは思つたが、それも面白い話だから黙つて聴いてゐた。 「今日みたいに暇ができると、捕虜もゆつくり調べられますがね。前進前進となると、いちいちかまつちやゐられませんからね」 「それやさうだが、この捕虜は、いよいよ敵ときまれば連れて帰るんでせう?」 「こゝではさうしてをります」  さうしてもらひたいと思ひながら、私は、ふと「心を鬼にする」といふ日本語の誤解され易い表現について考へた。かゝる言葉使ひは思考の非論理性から来るものに違ひないけれども、日本的なヂェスチュアのなかに、往々、この種の思考の混乱が目立ち、そのために、思はざる誹謗を民族自体の上に加へられることがあるのである。重大な声明の如きでさへ、これを現代の思考法をもつてすれば、矛盾の指摘は極めて容易である。われわれは、人を殺すのに、心を鬼になどしなくてもいゝのである。必要な行為は、われわれ自身の判断と勇気とによつてすべてを為し得るものであり、却つて「心を鬼に」しなければならぬと思ふ「頭の弱さ」から、種々な無軌道的蛮行が生れないとも限らぬ。心情ゆたかなわが日本民族をして、この無慈悲な戦ひを飽くまで戦はしめよ、神慮何ぞわれになからんやである。戦争は文化の破壊だ、いや、建設だと、いろいろ論議する人もあるが、さう簡単にどつちだとも云へぬではないか。「文化」とは、お寺や学校のことではない。まして、全体主義とか東洋永遠の平和とかいふやうなことでもない。  フランス人はドイツの「文化」を指して、特に「クルトゥウル」とドイツ風に云ひ、自国の「キュルチュウル」と区別してゐる。その筆法で行くと、日本の「文化」も、恐らくそのうちに「Bounkwa」と呼ばれ、この一語がフランス語の辞書のなかに加へられるかも知れぬが、いつたいまあさういふものなのだと思ふ。  世界共通の「文化」といふやうなことを空想しても、それはたゞ、人類のすべてに通じ合ふといふほどの意味しかないのであつて、民族の優秀性は、その文化の高さをはかる尺度によつて違ひ、日本は日本の尺度を用ひて少しも差支へないのであるけれども、その尺度に狂ひがあるのはよろしくない。今や、その尺度を多少狂つたまゝ使つてゐる向きが多く、国内的には民衆を迷はせ、外に向つては日本を誤り伝へることになるおそれがある。「心を鬼にする」といふ言葉が、日本文化と関係があると云へばすこし無理なやうでもあるが、私の云はうとするところは、現代日本の一番大きな危機は、すべての現象に於て、象徴の本来の意味が忘れられてゐるといふことだ。比喩を「文字通りに」取らせやうとする不気味さを私は国内における百般の出来事のうちに感じるのである。このグロテスクな風俗は、ひとつの「文化」には違ひないけれども、よろしく戦争によつて破壊すべき文化だと思ふがどうであらう。  上これを行へば下これにならふつもりかどうか、ヂャアナリズムの大部分は、この調子を真似て、もつて戦時色とするのであるから、徒らに安価な流行語をふやすのみで「戦争万歳」と云はぬばかりの軽薄さが全紙に漲り、日本の真の表情は世界の玄関に伝はらないのである。他の民族をして日本怖るべしと感じさせるのは、決してわれわれが好戦的であることではない。たゞ戦に強ければいゝのだ。強い理由が明かなことで十分なのである。わが国民の比類なき象徴への愛を心なく汚さないやうにしたいものである。      夜行軍  この部落でも、桂班長は、例によつて住民を集めた。非常に集りがわるい。逃げたものが多いせいもあらうし、殊に、敵軍の本拠であつたゞけ、わが意を迎へるのに頑なところがあるのでもあらうか?  演説に対する反応も極めて冷やかなやうに思はれた。桂氏もそれを感じて、 「こゝの住民は性がよくない」と憤慨の面もちで、その旨を小川部隊長に報告してゐた。 「よし、そんなら、わたしがやつてみてやらう」  と、部隊長は自ら群集の前に立つた。  たつた今、あの凄じい勢ひで中国軍を蹴ちらした日軍の総大将は、そこへ姿を現はしたゞけで十分の睨みが利くわけであるが、そのうへ、噛んで含めるやうな平易な話し方で、日本軍がなんのために此処へ来たかを説明し、再び支那軍を寄せつけないために、附近の橋をみんな毀して行くから、いかにも不自由であらうが、当分の間、勝手にその橋を修復してはならぬと説ききかせ、最後に、この部落からは大分逃げたものがゐるやうだが、いつたい、どうしてお前たち兵隊でないものまでが逃げるのか、と問ひを発した。すると、群集の一人が答へた。 「これまでわれわれは、日本軍が攻めて来たら住民はみんな殺されると聞いてゐた。しかし、近頃、楊州から来たものゝ話に、決してそんなことはない、楊州にゐる日本の兵隊は実に立派な兵隊で、中国の良民に対してはどこまでも親切だとのことで、自分は安心してゐた。さういふことを知らないものがみんな先を争つて逃げたのだ」  時にこの答へはどういふ風にでもとれるが、それを云ふ当人がわりに朴訥な印象を与へたゝめに、小川部隊長は「うん、さうか」と大きく肯首き、部下をほめられた隊長の満悦をかくしきれぬ様子であつた。  昼食の支度ができ、われわれはまたアンペラの上に坐つて炊きたての飯を頬張つた。茹で卵などもできてゐて、なかなかの機敏さである。  私はかうしてゐる間にも、支那軍がなぜ逆襲をして来ないのか不思議に思はれた。もちろんこつちにも備へはあり、部落の外側は警戒を厳にしてあるのだが、軍隊の士気といふものはまた格別で、ほんたうに旗を捲いて逃げたら、さう易々と出直して来られるものではないのであらう。  さつきから、桂班長がぷりぷり怒つてゐる。 「じつにうるさい婆だ。あの捕虜の一人を自分の孫だから助けてくれと云ふのですが、そらその婆ですよ、またなにか愚図々々云ひに来た」  なるほど、一人の老婆が、入口に跪いて、手を合はせて拝みながら、しきりになにやら訴へてゐる。親が出て来たら赦すといふ掟はないのだから、この応対は誰にだつて満足にできる筈がない。流石の桂氏もこの婆さんを黙らせるか、自分で耳を塞ぐかするより手はないと見える。ところで、班長に手ごたへなしと見てか、婆さんは今度は、そのへんにゐる誰彼れを問はず、そつちへ顔を向けたものをつかまへて、泣訴哀願しはじめた。あまりよく喋るので、私は通訳を顧みて、 「どういふことを云ひたいのか、よく聴いてやつてみたまへ」  すると、かういふことが云ひたかつたのである。 「あれは私のたつた一人の孫で、両親もゐないし、平生手許において可愛がつてゐたものだが、軍隊には全く関係がないのだ。たゞ間違つて捕へられたのだから、どうか赦してやつてくれ。見れば服は濡れて、寒さにふるへてゐる。せめて着物を着かへさせてやりたい。あゝしてほうつておくと、それだけで死んでしまふだろう」  それを聞くには聞いたが、私は、なにも意見を云ふ資格はない。  そのうちに橋梁破壊を命ぜられた部隊が、作業を終つたといふ報告があり、小川部隊長は、更に隊長に向つて、破壊の程度をたしかめた。 「いかん。橋脚と橋礎をすつかり取り外さなければなんにもならん。苦力を集めてもつと徹底的にやれ。兵隊はもう疲れてゐるから、たゞ監視だけでよろしい」  部落の中央のクリークに架かつてゐるあの大きな橋のことであらう。  これはどうして大変な作業であると思ひながら、私ものこのこ現場へ出掛けて行つた。  両岸の橋の附け根──即ち橋礎は、堅固に煉瓦を積み上げた本格的の工事で、巾四米、長さ二十米、木造の橋ではあるが、橋脚の丸太は直径一尺に近いものと思はれ、一枚一枚の橋桁を動かすのに、二人ではむづかしいやうな代物である。  住民の男手がまた狩り出された。  鋸と綱を探しに、両隊が四方へ散つた。  一時間、二時間、三時間、この作業は何時果つべしとも思はれず、やがて日が傾き、愛菱湖の水面に靄が浮び、驢馬が悲しげな啼声を立てはじめる。  小川部隊長は、ひとつひとつ倒され、押し流されて行く巨きな材木を眼で追ひ、さつきの戦闘の、所謂死線を越える一瞬を髣髴と頭に浮べてゐるかのやうであつた。 「敵の一部は、そこに繋いであつた船に乗つて湖の上を逃げたんです。こつちが快速艇をもつてゐれば面白いんですがねえ。この前の討伐の時は、丁度この湖の岸沿ひに邵伯鎮といふところをやつたんですが、あの時は船を使ひました。手漕ぎのやつをね。ところが、向うは砲艦を二艘もつてゐましてね、すぐそばまでやつて来て、生意気に撃つぢやありませんか。それを見つけたこつちの砲兵がすぐ応戦したんですが、この海軍、これはまた、逃げ足の早いやつで……」  さういふ話を聞いてゐるうちに、うしろでまたぶつくさいふ声がしだした。さつきの老婆がまたそこへやつて来てゐるのである。  暇つぶしといふわけでもないが、私は、部隊長の許しを受けて、この老婆と、その孫と称する捕虜に少しばかり口を利いてみることにした。  通訳の支那人は、以前やはり捕虜となつて帰順した兵隊なのださうだが、どこで覚えた日本語か、それを訊いてはみなかつたけれど、相当地方訛りのひどい敬語ぬきのあつさりしたものであつた。 「お前の孫だといふのは、たしかにほんとだらうね」 「ほんたうだ」 「軍隊と関係はないといふが、そんなら、何の商売をしてゐたのだ?」 「家は元来呉服屋だつたのだが、あれの親の代に失敗して、今は薬屋をしてゐる。あの子は徐州の薬学校に通つてゐて、事変後、こゝへ帰つて来てゐたのだ」  婆さんの返事を待たず、そこへたかつて来てゐる村の連中が、やかましくそばから口を出す。  私は、それらの連中がどうしてさうお節介なのかと思ひ、やゝ茫然としたが、もう一人の通訳にその捕虜をこゝへ連れて来るやうに頼んだ。  孫の姿をそこにみて、婆さんは取縋るやうに片手でかばひながら、再び私の方に向つて手を合せ、ぺこぺこと頭を下げた。 「お前に訊くが、どうしてクリークのなかなぞへ隠れてゐたのか?」  捕虜は、この問ひに答へて、 「もう逃げられないと思つたから」 「日本軍はそんなにこはいと思つてゐたのか」 「かねがねさういふ噂を聞いてゐたし、自分は日本のことをなんにも識らなかつたから、なほどうしていゝかわからなかつた」 「匿した銃を自分で持つて来たといふ以上、お前はやはり日本軍に抵抗するつもりだつたのだらう?」 「いや、あの銃は一緒に逃げた兵隊が、クリークの中へ投げ込んで行つたのを見てゐたから、それを拾ひあげたまでだ」 「さうではなからう。そんなら、どうして軍隊手牒を首にさげてゐたのだ?」 「あれは、たゞ自分の隠れてゐた場所に落ちてゐたのを、自分のにされてしまつたのだ」  すると、そばで今まで黙つて立つてゐたもう一人の通訳が、この男の家は阿片を商売にしてゐるのだと私に囁いた。その言葉に私は心でうなづいた。ある病的な、朦朧としたところをその男のすべてに感じてゐたからである。  この問答をさつきから聴いてゐた小川部隊長は、その時、老婆に向つてはじめて声をかけた。 「これはお前の孫かも知れんが、きつとお前を大事にしない孫だらう。平生の心掛けもわるいにきまつてゐる。とにかく、日本軍が来たら逃げるといふことは、どこか怪しいところがあるからだ。かうして捕へられてもしかたがないではないか」  婆さんはそれに対して、返す言葉はないといふ風に、たゞ「どうか命だけは助けてやつてくれ」を繰返すばかりだ。部隊長は更にその男に向ひ、 「お前にはこのお祖母さんの心配がわかるか? 日本の兵隊は、深い親心に免じて、お前のやうな間違つたことをした人間でも赦すこともあるのだ。ともかく今度だけは、お前のからだをこのお祖母さんに預ける。こんなにお前を可愛がつてゐる年寄を決して粗末にしてはならんぞ。それから、日本軍のほんたうのところがわかつたうへは、お前こそ、第一に、日本軍のために尽さなければいかん。約束をしておくが、万一、支那兵がこの土地へはひつて来たら、すぐ日本軍の方へ知らせて来い」  祖母の胸へ押しつけられて、その青年は、夢をみてゐるやうな眼つきをしながら、ふらふらとその場を立ち去つた。 「怪しい奴です。しかし、たいして危険な代物でもない。あれでいゝでせう」  部隊長は、私の顔をみてさう呟いた。  橋梁破壊作業は、日が暮れてもまだ終らない。私は同夜、桂班長と一緒に県長との招宴に出席しなければならないことになつてをり、小川部隊長も、それを知つてゐて護衛をつけるから先に帰れと勧めてくれたのだが、最後まで部隊の行動を見たいと思ひ、そこに踏み止まつた。  その代り、部署をもたない兵隊諸君の溜りへ顔を出して、お互の間に交される雑談に耳を傾け、二三の人々にその日の感想を聞くことが出来た。しかし、改まつた問ひに答へることは彼等には困難とみてとり、私はつとめてさりげなく話を運んだ。  兵隊はみな若くて元気で、その上、生粋の都会児ばかりであつた。 「そしたら、おめえ、鉄兜の縁がぴよこんとへこんでやがんのさ」 「隊長殿が、おれのそばへ寄るな、離れろ離れろつて云はれるぢやねえか。あゝいふ時は、つい間隔のことは忘れて、みんな隊長の方へかたまつて行くだらう。妙なもんだなあ」 「あゝ、腹がすいた。おい、あの豚はどうだ。うまさうでやがら、畜生」  といふあんばいの会話しかいま私の頭には残つてゐないが、この数刻を農家の庭の乾草の山の上で過した印象は、私には決して縁遠いものではなかつた。  軒先に蹲り、外の光を惜み惜み、なにか繕ひものをしてゐた一人の老婆が、その飼豚のちよこちよこと庭先へ出歩くのを、まるで犬か猫かを呼ぶやうに時々顔をあげて呼ぶと、それがまた馴らされた犬か猫かのやうに、小さな尻尾をふりふり足もとへじやれつく光景は、どうも腑に落ちぬ手品のやうなものであつた。  命令はまだないけれども、どうせこの分では夕食の準備をしなければなるまいと、将校の当番たちが気を揉んでゐる。と、やがて、主計から、鶏と卵を買ひに行けと命令が伝はつて来る。それといふので、兵隊たちは腰をあげた。 「道を迷ふな」 「銃を持つてけ、銃を」 「懐中電燈はないかなあ」 「えゝと、うちはいくつあればいゝんだ?」  さういふ声が、もう、薄暗がりのなかに消えて行く。  しかし、作業は間もなく終つてしまつた。  集合、行軍隊形の編成、出発。  住民の一人を道案内として、部隊は軍工路を目標に凱旋だ。  とは云ふものゝ、この闇は、実のところ、われには不利な条件で、敵の乗ずべき好機なのである。  道らしい道はすぐに尽きて、例の畔道伝ひである。少し広いところに出たと思ふと、片側はクリークになつてゐて、足をすべらしたらそれまでだ。一列側面縦隊の、前も後ろも見分けのつかぬなかで、時々、ばたりと誰かの倒れる気配がする。  私は部隊長の後ろにゐたつもりだが、いつの間にかだんだん追ひ越され追ひ越され、つひに話しかけた後ろ姿の対手は人もあらうに例の捕虜であつた。  道がやゝ平らになり、ほつとして足もとをみると、すぐ眼の下を黒々と水が流れてゐる。驚いて一足あとへさがつた。 「大丈夫ですか? お疲れになつたでせう」  今井君らしい声である。そんなにふらふらしてゐるか知らと思ふ。  空がぽつと明るくなつたらしい。眼に冷やりとしたものが感じられる。いま、大きなクリークに沿つた道を歩いてゐるのである。岸に楊柳の並木が立ち並んでゐる。  足の痛みも、喉の渇きも忘れるやうな、ある無感覚の状態にときどきはひる。自分が歩いてゐるのだといふことさへ意識しない瞬間である。  灰色のビルディングが眼に浮ぶ。その前をすうつと通り過ぎてゐるのだなと頭のしんで考へながら、それがどこなのかわからない。美しいその建物のファサアドが、月光を浴びたやうに輝いてゐるのに気がつく。ふと我れにかへる。ビルディングと思つてゐたのは、楊柳の幹の間から、星空を映すクリークの水面であつた。  先頭が止つた。渡し場へ着いたのである。向う岸から女の声で、 「わたし待つてゐたよウ、ほかのひと家へ帰つたけれど、わたし一人、みなさんの来るのを待つてゐたよウ」  例の上海の女が、カンテラを片手に船を滑らせてやつて来るのである。 「ほう、感心々々」  と、小川部隊長は、はじめてみるこの変り種を、私がさうであつたやうに、また意外千万だといふ風に見あげ見おろした。私は今朝のことを説明した。 「懐しいんだな、奴さん」  日本兵を満載した船を、かうして甲斐々々しく操つて行く女の姿は、まことに、今日の戦場の奇観であつた。  軍工路守備隊からやつと自動車で、楊州の本部宿舎へ着いた時は、もう十二時を過ぎてゐた。  こゝで云ひ忘れてはならぬのは、今朝、名誉の負傷をした内田軍曹の消息である。その後、戦闘中止と同時に後方へ運ばれた同軍曹は、腹部貫通銃創が奇蹟的に腸を外れ、軍医も生命に異常なしと宣言した。隊長はじめ本部の一同は、軍曹並に小川部隊のめでたき武運のために盃をあげた。      大熊部隊長の巡視  翌日は、大熊部隊長が○○からこの地区の巡視に来るといふので、本部一同とともに私も鎮江まで迎へに出る。  警備隊専属の○○船で揚子江を横ぎり、その船でまた大熊部隊長の一行を運んで来るのであるが、途中、十二圩といふ有名な塩の集散地で、同時に、地区隊の一部が守備してゐる地点に立寄り、更に、そこから北は天津まで通じてゐるといふ大運河を遡つて楊州に還り着く予定である。  前にも述べたとほり、大熊部隊長は私の同期であるが、三十年近くお互にはなればなれになつてゐたのだから、かういふ場所で整然たる公式の儀礼のなかに立つた彼の堂々たる部隊長振りをみることは、私にとつては感慨にたへないものがある。  発動汽船は蘆の密生した洲の間をぬけて河を上つた。 「この蘆で紙を作る計画があるんですが……」  と、小川部隊長が説明する。 「この辺は景色がいゝね。あれが金山寺の塔か」  と、大熊部隊長は遠ざかる岸の方を振り返る。  昨日の討伐の話が出る。 「ひとつ、軍旗を奉じて大々的にやりたいですな」  と、小川部隊長が腕を撫するやうに云ふと、 「うん、だが……」  相手が相手ではと、大熊部隊長の顔は答へてゐる。 「あゝさう云へば、○○が戦死した」  と、大熊部隊長が想ひ出したやうに云ふ。 「あ、さうでした。残念でした」  と、小川部隊長が悲痛な面もちで応へる。二人は、それだけで、この共通の大きな損失について同じ感情を解し合ふ如くであつた。  十二圩の港へ着く。  数百万貫といふ塩の袋がうづ高く岸の広場に積んで並べてある。壮観ともいふべきこれら小山の連続は、ところどころ黒焦げになり、敵が退却に際して焼き払はうとした跡が歴然としてゐる。  この町は塩で生活してゐる町なのだが、今は、塩を売買するものがゐなくなり、それを運搬する苦力だけが残つてゐるのである。もちろん、この物資は敵産として目下処分されつゝあるのである。今考へると、この塩の停滞が中支一帯に最近の塩饑饉を現出したものであらう。現に、私の知つてゐる限りでも、九江附近の農民は、一握りの塩を得るために豚数頭を提供して惜まないといふ状態であつた。  しかし、もう、この塩が日本軍の手によつて地方にばら撒かれる段取りがついてゐるとのことである。  この土地の守備隊で話をきくと、一般住民の塩にたいする執着は怖しいほどで、雨が降ると、いち早く集積場の周囲へ流れ出る塩水をしやくひにやつて来る。また、歩哨の眼を掠めて塩の袋を盗み出すものがある。見つけ次第、歩哨は容赦なくぶつ放す。盗人は袋をかついだまゝ倒れる。すると、何処からか数人の人影がばらばらと現はれ、その袋の奪ひ合ひがはじまるのださうである。  一つの塩の山が崩されつゝある。恰度蟻がたかつたやうに苦力がうようよしてゐる。袋を二つづゝ肩にのせて検査所まで運ぶ。そこからはトロッコで桟橋の上を船まで押して行くのであるが、これは若い女の仕事である。  トロッコが通ると桟橋の上に白い筋が残る。そのこぼれた塩をねらつてゐるものがある。看守が見張つてゐてなかなか近づけない。  美しい結晶体の岩塩である。色のどす黒いのもあるが、大きな塊になると拳ぐらゐのがあつて、舐めてみるとちつともあくがない。支那人は海の塩よりこの方を珍重するといふことである。  さて、そこの巡視を終つて、一行はまた船に乗り込んだ。瓜州といふところからいよいよ隋の煬帝が作らせたのだといふ世界第一の運河にさしかゝる。幅は百米から二百米ぐらゐの大クリークである。堤防の上を曳き船の綱を肩にして、前こゞみにゆるゆると歩く人々の姿も長閑であるが、なによりも、この満々たる水の流れの静かさ! 一望千里の平野を点々と綴る楊柳の刷毛で塗つたやうな薄縁が、澄み渡つた秋空の下で、なんとも云へぬやわらかさである。そのなかでふと眼にはひる朱色の廟の、物語めいて現実感のうすいのもこゝでは私の眼のせいばかりではあるまい。この水の上では、人は世紀を越えて生き、現在を過去として夢みることができるのではないかと思はれる。  船が三叉江といふところで止る。有名なお寺を見物するためである。  岸へあがると、すぐに門がある。「高旻禅寺」と壁に書いてある。別にどこがどう立派といふやうな構へでもなく、古びた本堂のなかで、百人ばかりの禅僧が一斉に読経の最中であつた。けばけばしい色彩はなにひとつない、ガランとした薄暗がりをすかしてみると、鈍色の揃ひの衣裳をつけた僧侶たちが、瞑目合掌したまゝ、われわれのはひつて行つたのを気づかぬ風で、朗々と底力のある声を張りあげてゐる。  老若の違ひこそあれ、いづれも、しつかりした顔つきの人物ばかりで、私はちよつと意外だつた。ひとかどの高僧と思はれるやうな悟りすました和尚もゐるにはゐるが、特に目についたのは、筋骨逞しく精悍の気の眉宇にあふれた入道であつて、文覚や蓮生坊を髣髴させる連中であつた。まことに生きた五百羅漢である。さうかと思ふと、われわれの案内に立つた若僧は住職の秘書らしかつたが、これは眉目秀麗、態度慇懃、その歩きつき、からだのこなし方、悉く貴公子然とした雅びなリズムがあつて、なかなか演劇的である。言葉の調子も、荘重で柔らかく、銃剣と軍刀の前で、悠然たる落ちつきを示し、 「この寺には不良分子はをりません。ご安心下さい」  と、媚びのない微笑を含んで云つた。  さう云はれて見ると、あの本堂の僧侶のなかに万一蒋介石がゐたとしても、恐らくそいつは発見できなかつたらうと思ひ、私はふと可笑しくなつた。  あまり広くもない敷地のなかには、畑が作つてあり、池が掘つてあり、牛が飼つてある。池の中の島に離れ家があつて、これは僧侶たちが修業のために若干の時日此処に籠るのださうだが、この僅かな池の水が外界との連絡を絶つとするところ、なかなか形式的で面白い。  泊り客のための一棟が鉄柵の彼方に設けられてゐる。そこは応接間といくつかの寝室とから成り、外来の賓客は此処で幾日かを過すことができる仕組みになつてゐる。すべて欧風を交へたセットの、東京の某々寺といふが如きである。  大熊部隊長の名で、日支両軍戦没将士の霊のために、一対の回向料を差出す。  船まで送つて来た若僧は、一同の武運長久を祈つてくれた。  こゝから、運河は二つに分れる。匪賊の最も横行する場所とのこと、乗組の護衛兵は一層警戒の眼を厳にする。  かういふ風にして天津まで行くのに幾日かゝるだらうとみなで笑ひながら話す。発動汽船ならレコードがつくれるだらうと誰かゞ云ふ。そんな暢気なことを喋つてゐる場所は、つひこの間、わが輸送部隊の襲撃されたところである。しばらくして、船がまた速力を緩める。  甲板に出てみると、岸に近く二階建の家屋があり、そこを中心に民家が左右に軒をつらね、運河に沿つた小部落を形づくつてゐる。  そして、その二階家は、土嚢の陣地をもつて囲まれ、入口に到る一側に若い将校を長とする一小部隊が二列横隊に整列して、部隊長の来着を待ち構へてゐるのである。  大熊部隊長は徐ろに起ち上り、 「あゝこれが○○守備隊だな」  と、部下の労苦をまづ感じ取る。 「気をつけ!」  守備隊長は、感激にふるへる一声、続いて、兵士が二人、素早く踏み板を提げ、甲板と岸とをつなぐ。  大熊部隊長は、小川部隊長以下を従へて閲兵のため上陸する。私は甲板に残つてゐた。 「捧げ銃!」  の号令で、私はふと、これらの将兵の眼を見た。そして、ぐつと胸がつまつた。彼等の眼はいづれも涙に光つてゐる。いや、もう既に泣いてゐるものすらある。部隊長の手許をはなれて数ヶ月、この僻陬の一部落に屯し、日夜敵襲に備へ、住民の向背に気を配り、偵察と連絡と給養と、その何れにも難を冒し、死を賭けてゐるのである。  部隊長のたまさかの巡視は、信頼につながる上下の心を無言の凝視の間に読み合ふ瞬間なのである。  この厳粛で、しかも感傷に満ちた光景は永く私の記憶を去らないであらう。  再び部隊長をのせた船が滑り出すと、送るもの、送られるもの、互に万感をこめて礼を交す。大熊部隊長の大きく挙げた答礼の挙手がいつまでもおろされない。すると、その手が心もちふるへて来た。私は急いで眼を転じた。岸に立ち並ぶ人家の前には、それぞれ住民たちが出てゐて、あるものは日の丸の旗を振り、あるものは帽子を脱いで頭をさげ、部隊長に敬意を表してゐるのだとわかつた。予めさういふ命令が出てゐるのであらうけれども、かういふ躾けの効果は私にはなんとも判断がつかぬ。恐らく、支那の無知識階級に対しては、これがなんらかの政治的指導性をもつものと思はれる。  楊州に着いたのは日の傾く頃であつた。  迎への自動車で一行が城内に入るに先だつて、小川部隊長が何気なく大熊部隊長に囁いた言葉は、私の注意を惹くに足るものであり、この両部隊長の真に相許した関係を美しく貴く感じた。 「此処は別になにもさせてをりません」  住民の歓迎について云つてゐるのである。 「あゝ、もちろん」  と、大熊部隊長は朗らかに応へてゐた。      大民会発会式  大熊部隊長は地区隊本部及び各分駐守備隊の巡視を滞りなく終つて○○へ引上げて行つた。  私は塀内軍医や三輪○尉の案内で楊州の街を一巡した。人口十万と称せられる都会であるが、歴史的にも有名であり、長江流域の遊覧地の一つに数へられてゐるだけあつて、杭蘇二州と並んで風趣掬すべきものがある。  たゞ、交通の不便と、保守的な民情のために、前二者に比較して近代的な発展は遅々としてゐるやうであるが、それだけに、こゝでは純粋な支那を見ることができ、かつ、県当局の政治的な計らひによつて、まつたく戦禍を蒙らずして現在に到つてゐる関係上、住民の難を他に避けたものが少く、店舗は悉く開き市場は賑ひ、目貫の通りは雑沓を極めてゐる。中支一帯の都市を通じて、この程度に事変色を反映してゐないところは絶無であらうといふ印象を受けた。  ところが、いろいろ話を聞いてみると、なるほど此処に駐屯してゐた支那軍は、日本軍の攻撃に先だつて、易々と撤退したことは事実であるが、それでも、敵軍来の声に怯えて住民の大部は一時影をひそめてゐたらしい。それが、この通り続々と帰還した事情は、まつたくこの地を警備する日本軍の宣撫よろしきを得た結果であつて、特に最近の状態は、もはや若干の旧国民党系官吏並に有産階級を除いて、殆ど市民の全部が事変前の生活を取戻してゐるといふことである。  城門の一つに配置された衛兵所の傍らに佇んで、そこを出入する民衆の一人々々が所持品を調べられてゐる有様を見てゐると、実に旺んなものだといふ気がする。  何処へ運びだし、何処から運び入れるのか知らないけれども、手に手に大小の荷物をさげた老若男女が、押すな押すなで城門に殺到する。第一に武器を秘してゐるものはないかである。第二に脱税の見張りである。日本の歩哨と支那の保安隊員がこの検査に当つてゐるのだが、見てゐても眼のまはる忙しさだ。  時たま、怪しげな男が袖に拳銃をひそませ、巧みに両手を挙げながら検査官の前に立つことがある。 「かうして毎日歩哨に立つてると、なかには顔なじみになつて、にこにこ笑ひながら挨拶をして行くやつがゐますよ。だんだん内地にゐるやうな気がして来ます」  歩哨の一人は私にさう述懐した。  楊州の町はかく平穏にみえるけれども、数里を隔てた周囲一面にはまだ残敵が蟠居してゐて、そのために楊州政府はなかなか県公署としての機能運転が覚束ない。収税が思ふやうにいかないからである。地方の治安と経済の関係について私は迂闊ながらはじめて現実の知識を得たわけである。  そこで地方自治の母体たる民衆の結束がどういふ形で進められつゝあるかを知ることができたらと思つた。  と、折よく「大民会」の発会式といふのが行はれ、私もその式に列席する機会を得たが、この日のプログラムは大体に於て現在の政治的段階を語るものであり、所謂「民意」の反映は稀薄といふほかはなかつたけれども、ともかく会衆は堂に満ち、市民の中堅層を網羅してゐるらしいことが察せられた。  役員の宣言朗読や、会長の挨拶などに次いで、県当局並に日本軍幹部の祝辞が述べられる間、彼等は静粛に耳を傾けてゐた。どちらかと云へば、まだ不安の去らないやうな表情で、新事態の彼等にもたらす光明は、決してこれらの言葉ではないやうに思はれたが、しかも、私がそこに一点希望を見出した理由は、少くともこの楊州の住民たちは「抗日のための抗日」なる思相かからは遠いといふ観察を下し得たからである。  街を歩いてゐても、この土地が如何に政治色に染つてゐないかといふことだけは見当がつく。由来手工業と物資の集散によつて栄えたこの都市は、いく多の戦乱を潜つてその災禍に慣れ、政治を見放し、己れの殻に閉ぢ籠る安全を自覚した一種の気風をもつてゐるやうに思はれる。この気風を如何に利用すべきかゞ今後の問題であらう。  散歩の途中、一軒の本屋に寄つて、店さきの雑書を漁つてゐると、ふと、国民党編輯の唱歌集が眼についた。同行の堀口軍医が店員を呼んで「これはいかん」といふと、平身低頭、そのうちの抗日軍歌を引裂いてみせた。  また、ある宴会で、席に侍つた歌妓の一人が毛糸のスェーターを着てゐて、そのスェーターの裾のところに「九・一五紀念」といふ文字の編み込んであるのを誰かが見つけ、黙つてそれを指さしてみせると、彼女は、その意味をやつと覚つたらしく、なんども肯づく恰好をしてそれを何処かへ脱ぎすてゝ来た。  かういふ些細なことを除くと、他の都市に見られるやうな街頭の抗日色はまつたくこの土地では一掃されてゐるやうである。「有日無我、有我無日」といふやうな宣伝標語を何処の壁にも見ないことは、私の今度の旅行を通じて、たゞこの町だけであつた。      漢口陥落市民祝賀会  十月二十七日の昼、桂班長がやつて来て、今日の祝賀会を是非見てくれと云ふ。 「だいたい三万人ぐらゐ行列に加はる予想です。体育場まで繰り込んで、大々的に気勢をあげます」 「小川さんも出掛けられますか」 「もちろん、将校は全部列席してもらふ筈です」 「行列の中へはひるんですか」 「われわれは馬に乗つて行きますから」  なるほど、本部の前にはもう、将校たちがそれぞれ馬に跨つてゐる。  私は渡辺○兵隊長のすゝめてくれる馬に乗つた。 「この馬は蹴りますから、どうぞお気をつけになつて……」  と、当番が注意する。厄介な馬に当つたものだと思ひながら、私は絶えず後ろに気を配つた。  いよいよ行列が動きだす。  綏靖隊(帰順支那兵をもつて編成した軍隊)を先頭に、警察隊、税捐局守衛隊、教練所(警官教習所)生徒、日本語学校、各小学校、職業組合、大民会員、各公署代表、各鎮保長(町内の数戸を単位とする組織の長)各戸代表といふ順序である。  喇叭の音に歩調を合せて進軍する綏靖隊は、まだ武器を支給してないので、その代りに「慶祝漢口陥落」と書いた紙の旗を竹竿にくつゝけて肩に担いでゐる。  市中到るところ、祝賀のポスターが五色に貼られ、沿道には女子供の珍しさうに行列を迎へる顔がちらつく。  繁華な通りにさしかゝると、通行人は立ち止つて道をよけるが、別に歓喜の色はみせない。  なにか張合のない行列である。これがデモンストレーションの本体かも知れぬが、土地柄といふことも考へねばならぬ。私は、軍楽隊の必要を痛感した。  体育場に集つたところをみると、行列参加の総勢は千五百乃至二千と私はにらんだ。数などはどうでもいゝが、桂班長の予想は何を根拠としたのか、この程度の誤差が、将来の工作に当つて、民衆心理判読の参考ともなれば寧ろ幸である。  この会場では、一段高く設けられた「審判場」に立つて、県長以下が祝賀演説を行つた。  最後に日本語で「万歳」を三唱する予定になつてゐたのを、故意か偶然か司会者がそれを忘れたとあつて、桂班長は県長に激しく督促してゐるのを私はみた。 「戦争だ、戦争だ」と、私は自分に云ひきかせながら、場内の一隅で突然起つた爆竹のけたゝましい音に、馬の驚くのを制しつゞけた。      日本語学校  久々で雨が降つた。楊柳の葉がはらはらと散るほどの雨であつた。  かねて時間を打合せておいて、夕方五時に日本語学校を訪れる。  旧中学校の校舎で、平家の暗い建物であつた。教室は三組になつてゐて、それぞれ程度が違ひ、第一期は六月開校と同時入学であるから、この十二月に卒業の組である。  現在三期を通じて四百人の生徒がゐる。  教師は特務機関の職員と警備隊の兵隊で高等教育を受けたものと、都合三人でこれに当つてゐる。もうよほど慣れたものとみえ、立派に板についた教授ぶりで、謄写版刷りの自編の教科書は心細いが、熱と力に満ちた語調態度、まことに頼母しい限りである。  この雨に、生徒もなかなかよく出てゐて、真剣に先生の講釈を聴いてゐる。さう老人はゐないけれども、中年から少年まで、年齢のまちまちなことはこの種の学校としては当然であらう。  月謝をとらぬからでもあらうが、応募者が毎期定員を超過して、施設の拡張を必要とするとのことであつた。  桂班長並に受持教師の懇請によつて、私は第三期の組で一言喋つてみた。内容は少年の頭を標準にし、用語も六ヶ月速成の語学力を斟酌して、ほんの思ひついたことを二三話したのであるが、すぐ後で、受持の藤田先生(明大商科出身、砲兵伍長)が一人の少年を指名して、今の話を翻訳してごらんと云つた。  するとその少年はつかつかと前へ出て来て、級友の方に向ひ頗る慎重な顔つきで、しかも相当流暢に、殆ど私の喋つたぐらゐの長さで翻訳をし終つた。  それを聴いてゐた桂斑長は、 「うむ、うまいもんだ。ひとつも間違つてをりません」  私もさうだらうと思ふ。級総代は見事にこの試験に合格し、先生は大いに面目を施し、私も愉快であつた。  さう云へば、街で買物などしようと思ひ、店員のチンプンカンプンにこつちが諦め顔をしてゐると、そこへぬツと顔をつきだして、いきなり「なに欲しいか?」と通弁役を買つて出る少年が時々ある。さてはこの学校の生徒だなと今気がつく。  日本語の通訳のことで面白いのは、この土地の軍隊や官庁、その他で使つてゐる支那人通訳は、いつたいどういふ素性のものかと調べてみたら、なかにはちやんと日本内地の学校を出たものもゐるらしいが、多くは元の商売は理髪屋だといふ。つまり、楊州は床屋の産地なので、早くから技術修業のために一度は日本に渡つたものが、事変勃発と前後して郷里に引上げて来たのだけれども、遂に時勢は彼等をしてバリカンを捨てゝ舌の職業に転ぜしめたのである。  道理で県長専属の通訳の如きは、「えらいすみまへんな。ちよつと待つておくれやす」といふ調子で、神戸仕込かなにかの鮮やかなところをみせるものだから、なんにも知らぬ私は、変な通訳もあればあるものだと思つてゐた。  更めて云ふまでもなく、日本語の普及は、占領地区の重要な課題である。単に用を便じるのに必要であるとか、口が利ければ勢ひ日本人に馴れ親しむとかいふ直接の効果も十分考へられるが、それだけならこつちが支那語を覚へさへすればおんなじ理窟である。  私はさういふ実用方面のことよりも、日本語を通じて日本を知らせるといふ遠大な抱負をもつて進むことが、この際、文化的に見て新支那建設の基礎条件だと思ふ。  これがためには、この種の日本語学校を一層完備充実させ、優秀な日本語教師を養成すると同時に、一般小学校、中等学校へも日本人教師を配属せしめ、かつ、主要な都市には日本人経営の義務教育機関、高等専門学校及び大学を速かに設立し、かの欧米人が東洋諸国に於てなした如く、宗教の名により、或はこれに代る「理想主義的」イデオロギイによつて、支那青少年に「親日的」教養を植ゑつけることを企てなければならぬ。  この事業は、もはや一刻も忽せにできぬ。一日遅れゝば一日悔いをのこす結果となる。もちろん、この事業の困難は、その衝に当る人物の選択が極めて厳正かつ適切でなければならぬといふところにある。いゝ加減な人物が教壇に立つて、「日本、日本」と叫んだのでは逆に後始末が必要になるであらう。  私は、この緊急な問題が、近い将来に於てわが当局及び新支那の指導者により如何に処理されるかを刮目して待つものであるが、何よりも望ましいことは、わが国の知識層がこの時局の認識の上に立つて自ら奮起し、支那知識層と提携して、相互の文化交流を目的とする一大組織を結成し、民間事業としての機関を通じて教師雇傭の道を拓くべきであると思ふ。  この私の意見が、多数の人々の耳に空論と響くならば、また何をか云はんやである。      警察教練所  憲兵隊長の勧めで、今日は警察教練所なるものを見学する。  県警察局長の×氏が案内をしてくれる。  どうもかういふものを見せられても私は一向勘どころがつかめないのであるけれども、所長の熱心な訓練ぶりが、やゝ公式的とは思はれたが、敬意を表するに足るものであつた。  先づ密集隊形の教練からはじまり、槍術の型のやうなもので終るのだが、聊か講評めいたことを云へば、指揮官の動作と云ひ、列兵各個の運動と云ひ、支那式教練をはじめてみる私には、およそ戦闘の用には遠い舞伎的要素の過剰を感ぜしめた。  私はもとより、「軍隊式教練」といふものゝなかに、単に戦闘的要素のみをみるものではない。寧ろ、それと並行して、「儀式的な」あるものゝ最も合理化されたすがたを発見するものである。秩序と礼節がおのづからそこに生れるやうな、単純で正確な方法の規定がある。これは一方、団体の精神の象徴であると同時に、武力そのものゝ装飾化である。  この原理にもとづく教練の形態は、各国の文化の質に応じて多少の違ひはあるが、同じく最初に欧式軍隊を範とした日支両国の、今のこの距りはまことに興味深いものである。  警察局長が、私に是非何か感想を述べよといふので、止むを得ず私は、 「警察は軍隊ではありません、警官は敵を倒すのが任務ではなく、民衆の生活に秩序を与へ……」  と、まあこんな風なお座なりな警察礼讃をひとくさりやつてのけた。  郷に入つては郷に従へとは云ふけれども、私は、自分ながら、この即興的辞令があまりにも支那式であるのに気がつき、冷汗をかいた。  が、この時、ふと、この局長の帽子を脱いだ頭に、深い創痕が生々しく口を開いてゐるのを、あゝ、この人だなと思ひ出し、私は、突嗟に、通訳をとほして、 「先日は危険な目にお遭ひになつたさうですが、お怪我は如何です?」  と、見舞を述べた。 「はあ、ありがたう、この通り、もうよほどよくなりました」  といふ返事であつた。  つい一と月ほど前のことださうである。この局長が県公署の玄関を出て通りへさしかゝると、何者かゞ、乗つてゐる洋車の梶棒を押へた。と、その瞬間、後ろから鉈のやうなもので脳天をガンとやられたのである。  犯人はその場から姿を消してゐた。  憲兵隊の活動となつた。しばらく手がゝりは得られなかつた。ところが、ある日、一人の男が憲兵隊へ現はれて、犯人はこれこれと名をあげ、潜伏中の場所まで教へた。この密告者は、何者かといふと、奇妙なことで、犯人の一人の実兄であつた。  彼の陳述によると、局長殺害の指令を受けたのは、党軍陸軍大尉である彼の弟と、その部下二名のものであるが、その指令を実行して、服命すると同時に、上官の某はこれを即座に銃殺してしまつた。恐らく犯行系統の発覚を恐れ、爾後の行動の秘密を保つためと思はれる。弟の仇敵たるこの上官某と、部下の二名が今なほ楊州城内にゐるのである。生かしておくわけにいかぬ。ざつとこんなわけであつた。  憲兵は直ちに出動、難なく一味を補へた。正規軍の大隊長はかくてゲリラ戦術の裏をかゝれてしまつたのである。  警察局長は、この事件以来、洋車の前後左右に一団の護衛を附し、洋車が全速力を出すと周囲の護衛も韋駄天のやうに走るその光景を、私は屡々路上で目撃した。      街頭の伝道  一夕、小川部隊長と本部の食堂で会食をした。円い卓子を囲んで本部附の将校がずらりと並んでゐる。  何れも血気旺んな青年士官であるが、隊長の盃を含んでの談論風発には、面々いさゝか気を呑まれたかたちであつた。部下の訓育に心胆を砕くといふやうな名隊長ぶりは、寛いだ食膳の応酬にも、磊落な鋭さをみせて、容易に若い心にも隙を与へない。  誰かゞ、うつかりこんなことを云ひだした。 「今日、街を歩いてゐましたら、あの東門をはひつた十字路のところで、例のアメリカの宣教師が住民を集めて説教をしてゐました」 「どんなことを喋つてた?」  小川部隊長は突込む。 「いや、遠くから見たきりで、話は聴きませんでしたけれど……」 「ふむ、心細いな」  私は、この地区に於ける外国人の取扱ひについて、一言質問をしようかと思つたが、それはやゝ立ち入りすぎるかも知れぬから思ひ止つた。  私の手帳には、楊州に於ける宗教関係外国権益の調査が次のやうに控へてある。  ┌男女中学      生徒数 二〇〇  │小学        同   二二〇(現在七〇) 仏┤  │聖女院実費診療所  └孤児院  ┌小学、女子中学   生徒数  六〇(現在四〇)  │小学(男女)    同   一〇〇  │聖書講習会     同    五〇 米┤  │図書館二  │医院  └実費診療所  ┌幼稚園、小・中学  生徒数  八〇 英┤  └社会事業団  なほ、宗教別による信者数は、 旧教──二〇〇 新教──五〇〇 仏教──三〇〇  とある。正確は期し難いが、旧教は仏、新教は英米であるから、この数の比例は大体こんなものであらう。仏教が意外に少いが、これは各寺院の檀家といふものは非常に僅かで、所謂寺詣りをする信者などはそんなにないことを示してゐるのであらう。  それから、フランス人経営の孤児院であるが、こゝでは単に事務所のやうなものだけがあり、孤児はすべて養育料をつけて乳母なる信者の家に預ける方法をとつてゐるとのことである。  いづれにせよ、支那大陸に於て、これら欧米人の宗教を通じて行ひつゝある文化事業の性質とその影響力とをわれわれは十分に注意しなければならぬ。彼等がその本国の政治的立場と密接な関係に於て行動することもあり得るであらう。また、単に、個人若くは団体の道徳的、社会的名分がわが軍事行動の前に自らを屈することを潔しとしない場合もあるであらう。そして、彼等の悉くは、なんらかの意味に於て「支那贔屓」である。支那贔屓といふことがそのまゝ日本嫌ひを意味するとは限らぬけれども、支那を墳墓の地と定めてゐる彼等の大部分にとつて、この度の事変は好ましからざるものであり、理窟の上よりも先づ感情的に支那の同情者たらしめてゐることは事実である。現地のわが将兵が、この空気を敏感に読みとるのは当然である。  しかしながら、本国の政策に準じて日本の逆宣伝を試み、日本の軍事行動を阻害するといふやうな、非打算的な冒険が、結果に於て何を齎すかといふことぐらゐは、こつちの出方ひとつで彼等にわからせることは容易だと思ふ。  まして、支那民衆の幸福のために、彼等が真に宗教家の信念と良心とをもつて一切の「政治」の外に立つといふならば、話は至極簡単である。日本当局は、彼等をして安んじてその教義を説き道を行はしめるがよい。看視の方法はいくらもあるのである。  徒らにその国籍によつて個々の教会に差別を設け、徹頭徹尾これを「政治的」に処理しようとするのは、決して「政治」としても上々の成績は挙げ得ないのではないかと思ふ。彼等は、今日、もはや日本軍の寛大に頼るよりほか、己れの使命を達成する道はないのである。外国の権益は成し得る限りこれを尊重するといふ百の宣言よりも、現地に於て、彼等の人間的感情を不必要に傷けないことがより以上大切である。進んでは、彼等を、わが理解ある方針の前に悦服せしめ、新支那建設の協力者たることを誓はしめるのが、最も「日本的」襟度であらうと思ふ。  支那大陸に張られた欧米の根は、政治経済文化の面を通じて、物質的精神的に、様々な現象を今日われわれの眼前に見せつけてゐる。謂ふところの日支事変が、実は、これら欧米の勢力と発展日本の勢力との大陸に於ける争覇戦であるとみる説も一応首肯できるが、さういふ論議への浅薄な追従は、日本が今日まで支那に与へたものがなんであつたかといふ反省と、戦後の経営に先駆すべき文化工作の本質の探究とを、おのづから忘却せしめる結果を招き易い。  最近新聞の伝ふるところによれば、維新政府外交部は、今度中支に於ける「外国籍の宣教師の滞在期間を制限し」「従来とかく軍事的政治的疑惑をもつて見られた外人宣教師を国内から一掃する」ことゝし、なほ近き将来に於ては、この制限を更に拡大し、「中華民国々民として入籍しない宣教師は一切入国を許可しない」方針だとのことである。  該報道は更にかう附け加へてゐる。 「現在維新政府管下の外人宣教師は南京だけで廿余名、各地合して三百余名にのぼり、その大半は仏人の天主堂宣教師である。これら宣教師は神衣の蔭にかくれて自国権益のため暗躍する不良分子もあり、従来兎角の問題を惹起してきたものだ。入国制限の第一歩として中国民として入籍しないものに対しては一定の期間に退去を命ずることになつた」云々。  維新政府がさう決めたのなら、それはそれでいゝが、日本も亦その責任の一半を負ふべきであるから、それ相当の覚悟が必要である。 「戦争だ、戦争だ」と、こゝでも私は自分に云ひきかせる。しかし「聖戦」の名に於て、私は飽くまでも、日本の現在の政治行動が、東洋の誇りとなることを望むものである。小感情、小利害のために、大局の理想を誤り、われら民族の狭量苛酷を天下に喧伝せしめることにならないやう、切に当局の冷静なる判断を乞ひたいと思ふ。  ところで、かく云ふ私は、一方、欧米のある国々に於ける反日的空気なるものを目のあたりに感じてゐる。しかも、その空気をあふる巧妙辛辣な宣伝に至つては、われらの遠く及ばざるところだといふ新帰朝者の話も聞く。  それに比べれば、なるほどわが国に於ける反英・米・仏の空気といふやうなものは問題にならない。新聞は多少煽動気味であるが、民衆は存外その笛に踊らない。が、それでゐて、無関心なのかといへば決してさうでない証拠に、広東でも海南島でも、やる時にはやるべしといふ決意を蔵してゐる。実にさういふところは頼もしい。この民衆の表情をそのまゝ大写しにして彼等に見せてやりたいと思ふくらゐである。  民主々義国に於ける日本の評判のわるさは、単に彼等の東洋に於ける地盤を荒す小癪者といふやうな「政治的」理由による反感ばかりではない。さういふ反感の現れならば、さういふ形でのみ現はれるべきである。われわれはそれに対して顔を赧らめる必要はない。侵略国の名さへ、向ふで勝手につけたのだと、われわれは横を向いてゐることもできる。しかしながら、たゞ困ると思ふのは、日本の現在には、遠大な政治のみがあつて「国民」の「感覚」がないといふ観察を彼等に下さしめることである。  一切の邪魔ものを取除くのはよろしい。国民全体が納得するやうな理由をつけてほしい。  支那が欧米に依存し日本を疎んじる結果がこの事変を捲き起したのだといふ議論は、一見筋が通つてゐるやうで、なにかお互にさつぱりしないものが後に残る。東亜協同体の結成も、東亜新秩序の建設も、このさつぱりしないところを頬かぶりで通つてはいけないのだと思ふ。国民は今、何故に支那がかくまで欧米に依存し、われを疎んずる挙に出でたかを、とことんまで突きつめて考へてみなくてはならない時機である。  政府当局も亦「国策の線に沿つて」この一点を十分に事変処理のプログラムのなかに具現し、第一に支那自身を、第二に、国民を将来の杞憂から解放することが目下の急務である。  維新政府対外人宣教師の問題でも、かういふ常識の上に立つて事が進められつゝあると見ていゝかどうか、私は国民の一人として黙過できないのである。  思はず脱線してしまつたが、以上の感想は別にこの楊州地区に於ける外人宣教師の現状に基いて云々したわけではない。特に断つておく。      緑楊旅社  本部指定の支那旅館に部屋をとつて貰ふ。日本で編まれた案内記によると、楊州の旅館の一般に不潔極まることを吹聴してあるが、この緑楊旅社は、流石に御用宿舎だけあつてそんなにひどくない。南京虫は覚悟の前であつたけれども、それさへ私の泊つた間には顔をみせなかつた。  正面入口をはひると、広い土間のホールがあり、これが、衝立で奥の食堂と仕切つてある。右側の帳場は西洋のホテルとおなじになつてゐて、支配人がボーイに部屋の番号を云ふ。  ホールの天井は三階まで筒抜けで、各階の廊下が四方を取囲んでゐる形である。部屋から廊下へ出ると下のホールがまる見えだから出入りする人物がいちいちわかる。  ところで、このホールは、まつたく街頭の延長のやうなものだといふことは、そこへなら物売りでも乞食でも勝手次第にはひつて来られるらしい。小娘を連れた流しの唄うたひも、そこで一曲演じてみせる。この旅客相手の門づけは絶えず上眼をつかつてゐる。天井から落ちて来るものを見逃さないためである。  若い男女の一組が、二階の手摺に臂をついて楊州小唄の哀調に聴き入つてゐる風景は、いかにもわれわれの想像の一隅に生きてゐる支那気分で、無作法なボーイのサーヴィスも全体の雰囲気からみれば一向苦にならぬ。それどころか、慣れるにつれて、簡便で、暢気でざつくばらんで、こんな居心地のいゝホテルは世界中にないと思ひだした。が、この感じは結局人さまざまで、ある人から見れば、不便で、横着で、だらしがないと云ふことになるのであらう。  私は、そこを根城に、市中を歩き廻り、時々本部に顔を出し、占領後十ヶ月のこの楊州に、何が新しく生れつゝあるかをできるだけ見ておかうと心掛けた。  事変前には、日本人がたつた二人、一人は塩務官といふ役人、一人は支那人の細君になつてゐる女、それきりであつたらしい。その塩務官のことはよくわからないけれども、西野某といふ女性は大民会発会式の式場でちらりと姿をみかけた。  現在では、そのほかに、歯医者さんが一人、雑貨商をやつてゐる人が一人、はひつて来てゐる。  料理屋風のものも一軒早くから店を開いたさうであるが、営業不振で何処かへ引上げて行つたとのこと、これはつまり、当地区の警備隊では兵士の外出を制限してゐるためだとわかつた。  こゝでひとつ肝腎なことがある。  小川部隊長の意見によると、警備部隊の信条ともいふべきものは、第一に軍紀厳正といふことであつて、その点少しでも緩やかなところがあれば、如何に士気が旺盛でも、戦闘力に欠けるところがなくても、最大の任務たる治安の確保は困難だといふのである。それはつまり、治安の要諦は、日本軍に対する住民の信頼と尊敬を得るに在り、単に武力による圧迫は、表面、彼等の服従を強制し得ても、住民の自発的な協力を得ることは不可能で、それなしには、治安の真の意味に於ける確保、即ち、残敵の蠢動を封じて占領地域を拡大するといふ軍事行動は勿論、治安と並行して発展すべき一般平和建設工作の基礎条件が備はらないことになるわけである。  当地区では、部隊長のこの着眼によつて、平素の訓練が行はれてゐるばかりでなく、例へば外出の如きも、内地の勤務同様一週一度と定め、しかも散歩区域を限つて住民との不用意な接触を避け、日本軍の如何なる面も彼等の生活を脅かさないといふ事実を明かに示すやうにしてゐるのである。  城門に配置された衛兵の態度をみても、場所柄、いくぶんは実戦本位になりがちであるところを、こゝでは厳に平時の姿勢を崩さず、最も整然たる規律的動作によつて、戈を収めた「日軍」の頼もしさを住民の頭に刻みこませてゐる様子であつた。  部隊長は更に云ふ── 「兵隊には、少し窮屈でせうが、これも結局は兵隊の為になるんです。第一に事故をおこしません。住民は益々兵隊に好意をもつて、必要な物資をどんどん供給してよこします。敵の密偵などがはひり込むと、すぐに知らせて来ます。それから、たゞ怖いものと思つてゐた日本軍が、かういふ風に滅多に街へも出ないとわかると、逃げてゐた連中、殊に、大きな商人や、若い娘や、腕に職のあるものが続々帰つて来ます。街が街らしくなります。ほんとの復興がそこから始まるのです」  私は問うた。 「上海の外国租界以外では絶対に見かけない中流以上と想はれる女が、平気で門口に出たり、街をぶらついたりしてゐるやうですが、あゝいふのは、もう安全だといふ見当がついたからでせうね」 「はゝあ、さういふのがお目にとまりましたか。私も実は、めつたに街などは歩かないもんだから……」  そこで、私は、楊州美人なる定評に値する女が、もはや此処にはゐないといふ若干の人々の意見に反して、私の眼は、たしかに、この土地の女性に共通なある豊かな輪廓を見逃せなかつた旨を報告した。小川部隊長がそれを「わがことのやうに」悦んだかどうかはうけあへない。  やはりこの緑楊旅社の食堂で、○○から巡視に来たある武官の一行を綏靖隊長の×氏が招待して、一夕、慰労の宴を張つた。  私もその席に列つたのであるが、支那側自慢の楊州料理は評判に違はず甚だ滋味に富んだものであつたうへに、その夜は、この土地の名のある老歌手が、その家柄の要求する招待客の一人といふ資格で、楽師数名を伴つて宴席に連つた。  琴に合せ、自ら胡弓を弾きながら、八十いくつとは思はれぬほど艶のある声で、しかも支那音曲にはまつたく素人の私にさへ、これこそ名人の喉と思はれるやうな、かれきつた、まことに味ひの深い歌ひぶりで、古典俚謡の数曲を聴かせてくれた。  先日のあの激しい掃蕩戦のあとで、このしめやかな音楽のなんと胸に浸み入ることぞ、である。  緑楊旅社の忘れ難い印象はこれだが、その老歌手の古木のやうな姿も、今なほ私の眼底を去らない。      青年二人  県長の×氏に頼んで楊州の代表的な青年二人を紹介してもらひ、通訳入りでもどかしい会話を交えた。  一人は楊州中学を出て杭州の浙江大学文科に学び、事変と同時に帰省して、現在この土地の長生小学校で教鞭をとつてゐるといふ二十四五の青年、一方は南京鐘南中学の高等科二年を修了して、今、自宅で「ぶらぶらしてゐる」廿そこそこの「学生」である。  代表的といふ意味はちよつと曖昧だが、県長の推薦だから、あらましの見当はつく。  二人とも先づなによりも、温良そのものゝやうな、危険思想などは向うから遠慮しさうな人物であつて、率直に云へば、その何れからも私は中国青年の新しいタイプを感じとることはできなかつた。  通訳も例の神戸仕込の床屋さんであつたといふことはなによりも失敗だが、かういふところに、既にわれわれの観察と判断の限界があることを痛感した。  試みに私は、彼等の日本に関する知識を質してみた。具体的なことは殆ど頭にはひつてゐないやうである。云ひにくいことはもちろん控へたに違ひない。例へば日本の大学の名前などひとつも挙げられないといふあんばいである。  浙江大学の文科では、なにを専攻したのかと訊くと、これは通訳の方が怪しいが、「詩文」だといふ返事である。「詩文」といふ科があるのかと重ねて問ふと、「古典文学」だと云ひ直す。  そこで、筆談で補ひながら、「そんなら、現代文学とか、外国文学とかいふ科もあるのか」と訊いてみた。すると、そんなものはないといふ。このへんから、いよいよ通訳にも筆談にも信用がおけないと気がつき、話題を転じて、 「事変前と今日と君たちは日本に対する考へ方が多少は変つたゞらうと思ふが、どういふ風に変つたか、正直に云つてみてくれたまへ」と、私は切り込んだ。若い方が先づ答へた。 「事変前は、日本についてあまり知らなかつた。それでいゝと思つてゐた。今は、もつといろんなことが知りたい。知るべきことがたくさんあるやうに思ふ。両親が許せば日本に行つてみたい」  年長の方は、 「事変前から自分は日本に興味をもつてゐたけれども、十分に調べる機会がなかつた。日本の文学についても、たまに雑誌などで翻訳を読むぐらゐで、日本人の生活といふものが、さつぱりわからなかつた。自分は政治は好まない。だから、抗日的な思想には無関心であつた。今は、中国の危機であるから、これを救ふのは日本と手をつなぐ以外に方法はない。小学校へ勤めてゐるのは生活のためである。しかし、これから児童の教育といふ問題は、中国の新しい更生のために重要である。さういふ点でも、日本の指導を受けなければならぬと思ふ」  通訳のあやふやな言葉を、私の推測でやつとこの程度に整理したのだから、間違ひがないとは保証できぬ。  私更に、日支の協力といふことを二三の点で述べた後、 「将来若しこの楊州に日本文化研究の機関ができたとしたら、君たちはそれを利用する意志があるか?」と訊ねた。  二人は同時に、「大いにある」と答へ、若い方は、そのあとで、膝を乗り出して、「それは何時頃できるのか」と気の早い質問をした。 「そいつはまだわからない。しかし君たちのやうな青年がこの土地に沢山ゐるかどうか、それによつて早くもなり遅くもなるだらう。楊州の青年で抗日軍に参加してゐるものがまだ随分ありはせぬか?」 「多少はあると思ふが、現在楊州にゐないものでも、たゞ両親と一緒に避難してゐるものがたくさんある。何れは還つて来ると思ふ」 「避難してゐるところは何処が多いか?」 「上海、香港だ」 「小学校は現在どの程度に開いてゐるか?」 「まだごく少い。こゝでは私塾が大部分である。日本軍の許可を得なければ開校できないことになつてゐるから、今、その手続をしてゐる向きが多い。なかなかむつかしいらしい」 「新しい教科書はもう出来てゐるのか?」 「県教育局で目下編纂中だとのことで、自分のところでは臨時に刷物をこしらへてゐる」 「維新政府編纂のものがもう出版されてゐやしないか?」 「それは知らない」  私は二人の来訪を謝し、再会を約して別れた。  その後、桂班長に会つた時、県当局によつて編纂されてゐる新教科書がどんなものか見せてくれと話したところ、今まだ教育局長の手許で立案中だとのことであつた。編纂委員はどんな人物かと訊くと、教育局長自身が筆をとつてゐるらしいのである。一例として、国語教科書の草案に桂班長が眼を通した際、ひと処不穏な個所があつたので、局長を問責すると、彼は、自説を固持して譲らなかつたさうである。どういふところを不穏と認めたかといふと、なんでも「中国の現状について」といふやうな標題のもとに、支那の今日他国から侮りを受けるのは、国民のこれこれの欠点、従来の政治のこれこれの悪徳によるので、これを先づ矯正し改革しなければならぬが、そのためには、やはり、範を諸外国にとり、その長を学ぶ必要がある、と説きおこしたところまではいゝが、その次ぎに、文句は正確に覚えてゐないけれども、大体、欧米諸国はその文物制度、悉く完璧の域に達してゐるし、隣邦日本は、最近頓に長足の進歩を遂げ、云々、といふやうな言ひ方がしてある、そこが、桂班長に気に入らなかつたのである。 「どうしても変へないといふんですか?」  と、私はこの純情な愛国者の顔をみた。 「変へないといふんです。その通りだから変へる必要はないといふんです」 「局長といふのは、あの頤髭を生やした老人でせう? 学者なんですか?」 「歴史家ださうです。以前から県の教育局長をしてゐた男です」 「それで、あなたはどうしました?」 「変へなければ辞めてもらうよりしやうがありません」 「辞めましたか?」 「いや、辞めるわけにもいかんと云ふんです」 「さうすると、どうなります?」  桂班長は返辞に困ると文字通りそつぽを向く癖がある。私は、砲火のあとに、かゝる物騒な事件が数限りなく転がつてゐるのだと気がつくと、なにか心のせかれる思ひがした。      情長髪短  これは九江で聞いた話だが、戦死した支那兵のカクシに故郷の細君か恋人かから来た手紙がはひつてゐて、その手紙には、「情長髪短」といふ言葉で綿々の情を叙してあつたといふ。情は長く髪は短し、わが想ひに比ぶれば、この黒髪のなんぞ短き、である。  ところが、この表現は、あまり現代の支那には通用しない、といふのは、地方の小都会楊州あたりでさへ、若い女は殆どすべて断髪である。この風俗だけが、どうして支那全土を席捲したか?  私は、一日、憲兵隊の裏手に収容されてゐる俘虜を見に行つた。  この間の戦闘で一人連れて帰つたあの男の正体はなんであつたか、それも知りたかつた。  もうちやんと調べがついてゐた。  最初どうしても兵隊ではないと云ひ張り、遂に何を訊いても口を噤んで語らなかつた、あの「怪しい人物」は、その後、憲兵の前で遂に立派な歩兵伍長であることを自白した。姓名、孫寿安、年齢二十七、所属、八九軍一〇四師四九七旅六九七団第二営第四連。聴取書によると、彼は一年前まで百姓をしてゐたのだが、強制徴集で兵籍に入れられたのである。最初は炊事当番であつたが、累進して伍長となり、今度の戦闘では分隊を指揮してゐた。給料は月十一円、そのうち食費六円を差引かれるから五円しか手にはひらない。一日二食の給養で、午前九時と午後四時、あとは空腹を忍ばねばならぬ。上等兵となると給料は八円、一等兵が七円八十銭、二等兵で七円三十銭、食費は同様である。  兵隊は辛い。機会があつたら逃亡するつもりでゐた。捕虜になつた以上どうされても仕方がないが、万一赦されるならば、将来は日軍のために献身的に働くつもりである、云々。  もう既に、この収容所でも、「日軍のために」働いてゐるものがゐる。李成林といふ大尉もその一人で、なかなか役に立つ。誠意を認められて家内を呼び寄せることを許された。早速やつて来た細君は、甲乙二人であつた。何れも断髪の美人である。  歯医者さんに歯の治療をして貰ひに行く。独身のこの歯医者さんは、空家同然の住居に機械だけ据ゑて、書生、番人、下僕を兼ねた老支那人と二人で侘しく暮してゐる。  日本を離れて数年、各処を転々として、最近この町に腰をおちつけたのださうである。  治療がすむと、私に「これはどうだ」と云つて紙ぎれに書きつけた漢詩のやうなものをみせる。どうも恐縮だが、この自作の七言絶句はたゞ文字を並べただけのやうだ。「長江に船は浮べども帆の影が淋しい。楊州に美人多しと聞くけれども、果してさうだらうか。我は孤独の身を此処に運んだのだが、未だ妖艶わが魂を奪ふ姿を見ない。嗚呼、秋風なんぞ放浪の身に冷やかなる」といふ風なものであつた。  市場のなかをぶらぶら歩いてゐると、名も知らず、味の想像もつかない食物が、ずらりと店先に並んでゐる広い間口の家がある。奥をのぞくと、いくつもの卓子を囲んで、人々が盛んに飲み食ひしてゐる。料理屋だなと思つてつかつかと中へはひつてみたが、空いてゐる席がひとつもなかつた。  そこから少し先に、露天の茶店みたいなものがある。昼近くで腹が空いてゐたし、その茶店へ腰をおろすことにした。  隣の卓子で中年の男が食べてゐる蒸し饅頭のやうなものを私も注文した。  通路の片側には菊の鉢が一列に並べてある。  老人の客が一人、茶を飲んでゐる。そこへ手提をもつた男が近づいて来る。床屋であつた。髭を剃らせはじめた。髭がすむと、その床屋は、今度は按摩になつた。肩から手、手から脚へ揉みおろす。老人は、椅子に倚りかゝつて、いい気持さうに居眠りをしてゐる。  私は煙草を喫はうとした。給仕の男がコヨリの如きものを持つて駈け寄つて来た。そして、そのコヨリの先を口に近づけて、強く吹くと、ぽツと小さな焔が燃えあがつた。      戦争の道義化について  江都県城楊州の周囲は内城と外城とがあつて、外城の方は延長十支里に亙り、その昔倭寇に備へるために築かれたものだといふことである。  中支の各地方を訪れると、きつとこの倭寇の遺跡がある。  楊州の附近は名所が多いと聞いてゐたけれども、私はわざわざ行つてみる気がしなかつた。それよりも、ひとりで街をぶらぶら歩いてゐると、倦きるといふことがない。どこもかしこも曲りくねつた狭い道路で、人力車や手押車が通ると、通行人はいちいち道を除けなければならぬ。少し雑沓してゐるところでは、片手で車の梶棒を支え、片手でぼんやりしてゐる人間を押しのけながら、「ワイ、ワイ」といふ掛声をかけて歩いて行く車挽きの商売もよほど日本とは変つてゐる。もちろん歩いた方が速いにきまつてゐるが、それでも乗つてゐるものは降りやうとしない。車は文字どほり足代りなのである。ところが、これはほかの土地で聞いた話であるが、日本人がこの人力車に乗ると、覚えたばかりの「快々的」(はやく、はやく)をのべつにやるさうである。さもあらうと思ふ。  裏通りの住宅街は例の高い塀で屋敷の一廓一廓を囲んでゐるから、まるで壁と壁との間を縫つて歩いてゐるやうなものだが、それでも、ふと、四ツ辻などに出ると、急に明るく陽が射したところへ、どつしりとした土塀の線が美しく交はつて、豊かな落ちついた一廓を形づくつてゐることがある。すると、閑寂な門の構へにもなんとなく心惹かれて、潜り戸の何時か開くのをそつと待つやうな心持ちにもなるのである。  街のなかの要所々々には、巡警が立つてゐる。私は主にヘルメットをかぶつてゐたのだけれども、やはり服装で日本人だといふことがわかり、多少軍服まがひの服装をしてゐたためであらうか、それらの巡警はいちいち丁寧に挙手の礼をする。実に真面目な、俗に云ふ新兵さんのやうな礼で、私はその度毎に面喰ひ、恐縮した。  楊州といふ町は、支那でも珍しく清潔法が行はれてゐたとかで、下水もでき、なるほどさう云へば、どこを歩いてもそんなに臭いといふやうな場所はない。路傍の汚物も目立つて少い。これもしかし比較的の話で、日本内地の標準では、さあ、どういふことになるか。  さて、僅かの観察ではあるが、私にも、支那といふもの、支那人と云ふものがいくらか解りかけたやうである。  改まつて、それではどんなものだといふことになるとなかなかむつかしい。それは恰もわれわれがわれわれ自身について語るのが困難なのとおなじである。強ひてそれを云はうとすると、どこかに隙間ができ、その隙間から真実が逃げて行くやうな危惧を感じる。  さういふ点で、私は、これまで多くの支那研究家がどんな意見を公けにしてゐるか、それをぼつぼつ参考に読んでみたいと思つてゐる。私の浅い見聞はそれになにものをも附け加へないであらうことはほゞ想像はつくが、たゞ、さういふ支那及支那人なるものゝ享け容れかたについて、私には私の流儀があり、同時に、将来、われわれが支那及支那人に対する根本的態度がどうありたいかといふ希望が生れて来ないわけにいかないのである。  日支親善といふことが云はれてゐる。これは決して外交辞令的な、政治臭を帯びたスローガンであつてはならぬと思ふ。単に両国の利害問題を基礎として、その関係を道徳的な名義に塗りかるだけのことなら、国民全体がそれほど一生懸命にならなくても、若干の基本的条件がそろへば結果は期せずしてそこに趨くのである。しかし、われわれが理解するところでは、今度の事変は日支両国民の真の提携、真の協力なくしては、その収拾の方法さへなく、平和建設の大事業を円滑に進めることが甚だ困難なのである。まして、今後永久に亙つて、再びかゝる災禍を繰り返さない為には、お互に余程の覚悟と反省が必要である。  これを理論上から、日支、或は日満支の協同主義を唱へることは、一面に於てむろん必要でもあり、その効果は期待できないことはないけれども、それ以上に、国民と国民との感情的融和を計り、誤解から生ずる相互侮蔑の念を一掃することは、今日、両国の識者が何れも冀求するところである。  しかしながら、この問題の解決が如何なる方法で望みどほりに達せられるかといふ点になると、もはやそこには現実的な悩みがあるだけである。つまり、少数のものゝ誠意と努力が、多数のものゝ無自覚と妄動のために、片つ端から無駄にされつゝあるといふことを先づ考へなければならない。  戦争の最中だから仕方がないといふ見方も、実際論としては私も肯定する。しかし、習慣はそこからはじまるのであつて、為政者は、今度の事変の特殊性を考へたなら、対外的宣伝ばかりでなく、より以上国民自体の戒飭に乗り出すべきである。出征将士の艱難辛苦も銃後民衆の生活緊張も、ともに国を愛し、国を憂ふる赤心の発露だとすれば、それと同様に、われわれが支那人を遇する道に誤りなからんことを期するのも、日本人として、やはり祖国に対する忠節の誠であると考へて差支ないのである。  ある人は云ふ──日本人と支那人とは気質的に相容れぬ民族であるから、互に反撥するのは当然であると。支那を識り日本を識る欧米人のいくたりかもこれに類する判断を下してゐるやうだが、それがたとへ真実の一部を伝へてゐるにもせよ、決して全部ではないと私は断言して憚らぬ。  気質的に相容れぬ民族は、日本と支那ばかりではない。それが利害の一点で結びつく例はもちろん多いし、さうでなくても、両国の文化交流といふ現象を通じて、民衆的な交歓が行はれてゐる場合が少くない。  日本と支那とは、単に自己を以て他を律することの弊を悟りさへすれば、各々その長所を認め、固有の伝統と風習を尊重し、われの足らざるを彼に求め、両々相犯さざる善隣の誼みを保ち得ない理由はないのである。  私は、一方的に、日本人の優越感なるものが往々支那人の自尊心を傷ける場合が多いやうに思つてゐたが、今度いろいろな点を観察してみて、やはり、それと同様に、或はそれ以上に、支那人の優越感が日本人の自尊心を煽つてゐた事実をつきとめることができた。  民族的自尊心といふものは、どんな民族にでもないことはない。たゞ、その現はれ方が実にまちまちなのである。一口に優越感と云つても、これまた非常に主観的なものであつて、日本人がもつて矜りとするところと、支那人が秘かに高しとするところは、殆ど比較することさへ困難なやうな性質を帯びてゐるのである。つまりは文化又は文明の質の相違である。この問題を論じだすとなかなか大事業だが、私がこゝで云はうとすることは、前にも述べたやうに、自己を以て他を律する癖が双方にあり過ぎて、不必要な感情的摩擦が繰り返されてゐるのではないかといふことである。  血族を同じくする個人と個人との間でも、心から手を握り合ふといふことがさう易々とは行はれないところをみても、民族と民族とが終始一貫友情の固きを示すといふことは、事実、どんなに空想に近いことかは、云ふまでもないことである。しかし、それが東洋平和の根本的基礎であるとすれば、両国民は、是が非でもこの空想を実現させなければならないのではないかと思ふ。  恐らく、この事変の終末に於て、両国の政治的結合がある形に於て達成されるであらう。経済的利害の一致点も発見し得るとみて差支なからう。しかし、それだけの関係なら世界の歴史を通じて、いろいろな時代に、いろいろな国家と国家、民族と民族とが、同盟或はそれ以上の形式のもとに、相倚り相助け合ふ協同の態勢を取つたことが屡々あるのである。しかし、さういふ態勢は、国際間の微妙な動きにつれて、何時崩れないとも限らないのが、これまた歴史の物語るところである。日支間の関係は、さういふ脆弱なものであつてはならないのである。ところが、日支間のこれまでの関係をみると、他の如何なる民族間に於けるよりも、不確実で、デリケートな感情の起伏が、国民と国民との間に作用して、一層、国家間の全面的な協力が妨げられてゐた形跡が歴然としてゐるやうに思ふ。こゝに於て、両国の民衆の不幸は、各々の民衆の、「人間的」自覚が遅かつたといふことに重大な原因があるのではないか、と私は率直に両国民の反省を促したいのである。  平和のための戦争といふ言葉はなるほど耳新しくはないが、それは一方の譲歩に依つて解決されることを前提としてゐる。ところが今度の事変で、日本が支那に何を要求してゐるかといふと、たゞ「抗日を止めて親日たれ」といふことである。こんな戦争といふものは世界歴史はじまつて以来、まつたく前例がないのである。云ひかへれば、支那は、本来望むところのことを、武力的に強ひられ、日本も亦、本来、武力をもつて強ふべからざることを、他に手段がないために、止むなくこれによつたといふ結果になつてゐる。かういふ表現は多少誤解を招き易いが、平たく砕いて云へばさうなるのである。支那側に云はせると、日本のいふ親善とは、自分の方にばかり都合のいゝことを指し、支那にとつては、不利乃至屈辱を意味するのだから、さういふ親善ならごめん蒙りたいし、それよりも、かゝる美名のもとに行はれる日本の侵略を民族の血をもつて防ぎ止めようといふわけなのである。実際、これくらゐの喰ひ違ひがなければ戦争などは起らぬ。そこで、事変勃発以来、日本の朝野をあげて、われわれの真意なるものを、相手にも、第三国にも、亦、自国々民にも、無理なく徹底させ、納得させるやうに努めて来、また現に努めつゝあるのであるが、問題がやゝ抽象的すぎるために、国民以外の大多数には、まだ善意的な諒解が十分に得られてゐないやうである。  これは考へてみると、わからせるといふことが無理なのである。なぜなら、日支の間に如何なる難問題があつたにせよ、それが戦争にまで発展するといふことは常識では考へられない。すなはち、民族心理の最も不健康な状態を暴露してゐるわけで、そのうへ、両国の為政者自らが、それに十分の認識があつたかどうかは疑はしいからである。戦争になつたことを今更かれこれ云ふのではない。戦争がさういふ危機を出発点とすることはあり得るし、戦争によつて、何等か打開の道が講ぜられる期待はもち得るのであるけれども、この事変の目的とか、性質とかを吟味するに当つて、これを意義ある方向へ導くための国家的理想と、その現実的な要素を分析した科学的結論とを混同することによつて、事変そのものゝ面貌があやふやな認識として自他の頭上に往来することは極めて危険である。  欧米依存と云ひ、容共政策と云ひ、支那の対日態度をそこへ追ひ込んだ主要な原因について、支那側の云ひ分に耳を藉すことでなく、日本自ら、一度、その立場を変へて真摯な研究を試みるべきではなからうか。私は、こゝで今更の如く外交技術の巧拙や経済能力の限度を持ち出さうとは思はぬ。われに如何なる誤算があつたにせよ、支那に対するわが正当な要求はこれを貫徹しなければならぬ。が、しかし、戦争の真の原因と、この要求との間に、必然の因果関係があるのかないのか、その点を明かにしてこれを世界に訴へることはできないのであらうか?  一見、彼の抗日政策そのものが、われを戦争に引きずり込んだのだといふ論理は立派に成りたつやうでゐて、実は、さういふ論理の循環性がこの事変の前途を必要以上に茫漠とさせてゐるのである。つまり、日本の云ふやうな目的が果してこの事変の結果によつて得られるかどうかといふ疑問は、少くとも支那側の識者の間には持ち続けられるのではないかと思ふ。まして、第三国の眼からみれば、そこに何等かの秘された目的がありはせぬかと、ちよつと首をひねりたくもなるわけだ。こゝにも私は、日本人の自己を以て他を律する流儀が顔を出してゐるのに気づく。  戦争をあまりに道義化しようとして、これを合理化する一面にいくぶん手がはぶかれてゐる傾がありはせぬか。主観的な聖戦論は十分に唱へられてゐるが、客観的な日支対立論とその解消策は、わが神聖な武力行使の真の行きつくところでなければならず、寧ろ、これによつてはじめて東亜の黎明が告げ知らされるのだと私は信ずるものである。  そこで、いはゆる客観的な対立論とその解消策の第一項目として、私は、日支民族の感情的対立の原因の研究といふことを挙げたいと思ふ。事変そのものを挟んで、両国の運命は等しく重大な転機に臨んでゐるけれども、かゝる根本の問題について、なほよく考慮をめぐらす余裕のあるのは、彼でなくして我である。      日本人の力について  予定の日数を経過したので、いよいよ楊州を引あげることにし、私は出発の朝、旅館から部隊本部に出掛けて行つて、小川部隊長以下の諸員に暇乞ひをした。 「もつとゆつくり、いろいろなものを見たり、お話を聴いたりしたいのですが、これ以上、日本に帰るのを延ばすことができませんから、残念ながら、一旦お別れをします。都合がつき次第、もう一度近い将来に、此処へやつて来て、あなた方のお仕事の、一層進んだ成果を拝見したいと思ひます。これは国民の一人として、あなたがたに期待するところが多く、また個人としては、忘れ難い記憶をもつてこゝを去るからです」  さういふ意味の挨拶を述べた後、門前まで諸氏の見送りを受けて、私は桂班長と共に自動車へ乗り込んだ。  桂班長は、鎮江まで送つてくれるといふ。  十月三十日、江南の秋はこれからといふ静かに晴れた朝であつた。  鎮江の部隊本部で預けた荷物を受けとり、九時三十分、上海行の急行に乗る。  わが軍人軍属によつて満たされた二等車の一隅で、私は、今度の従軍の目的がこれで達せられたのであらうかといふ不安な気持を懐きつゞけた。  これらの日本人の壮んな往来が、この支那といふ土地にどんな足跡を残すか。後世の眼がどれほど厳しくわれわれの時代の責任を問ふても、われわれはそれに十分応へるだけの覚悟はしなければならぬ。  そこで私は、現在の日本の力といふものを考へる。楽観とか悲観とかいふことは、もはや問題ではない。ありつたけの力を出しきることゝ、その力の測定を誤らないことゝ、それが最も能率的に使用されるといふことが肝腎である。  ところが、この日本人の力であるが、われわれ国民は、個々の力を自発的にこの事変の面に押し出す方法についてまだはつきりした道を示されてゐないやうである。政府当局は国民の総力を動員すると云つてゐるけれども、物質的な面ではその計画の全貌がほゞ伝へられ、国民一般の決意もこれを中心としてゆるぎなきものとなつてゐるやうであるが、精神的な面では、単に非常時の緊張と愛国心の昂揚といふやうな必然的な現象がみられるだけで、たまたま思想とか文化とかいふ問題がとりあげられても、それは天下り式なお題目に過ぎず、国を挙げての研究実践といふ方向をとつてゐるやうにはみえない。  例へば、対支文化工作の基礎は如何なる知的部門によつて統一され、立案されてゐるのか? そしてまた、その事業の各分野は、如何なる専門的頭脳によつて指導されてゐるのか? 国民知識層一般の与り知らないところに、国と国との精神的接触が行はれてゐるといふ奇怪な事実があつてよいか? 現在のところ、武力を含んでの政治が総てを支配してゐることは当然であるけれども、この事変の特殊な性質からみて、政治が総てを解決するのではないといふ見透しが、政治家自身の口吻のなかにもみえてゐるくらゐである。政治以外の国民の力とは何か? 一口に云へば、為にするところなき日本人の真の姿を支那民衆の心に植ゑつけ、その信頼すべき「人間性」と、彼等と共通の理想を目ざして生きるものゝある実証を示すことである。更にこれを具体的に言ひ換へれば、科学、文学、芸術等の面を通じて、偏見なく支那民衆に働きかけるといふ以外に、支那に渡つていろいろ仕事をする日本人の或るものが、無意識に且つ不用意に日本人の逆宣伝をしつゝあることを厳に警戒すべきである。  このことは、既に以前からみんなが知つてゐてどうにもならなかつたのださうであるが、そのどうにもならないといふところに、私は日本人の力の最も頼りない一面を感じるのである。  民族的な長所美点は、その民族特有の生活と歴史に結びついてゐるものだから、他の民族にこれをその値打相当に評価させることはなかなか困難な場合が多い。  英国人もドイツ人もフランス人も、それぞれその国の人間らしい特色に於て魅力的な存在であるが、実際はさうである場合もあり、また反対に、それがために、他国人から若干の軽侮と反感を買つてゐる場合もあることは周知の事実である。  現代日本人の庶民的風格といふものなどは実に愛すべく親しむべきものであるに拘はらず、欧羅巴や支那のやうな老大国では、その階級に相応しいエチケットがあつて、どうも具合のわるいことが多いといふ話も聞く。  また、一例をあげれば、日本人は外国の旅行先で必ず商売女を漁るといふ風評がある。ほかの国のものはこんなことをたまにしかせぬやうな怪しからん誹謗であると思ふが、私の観察によると、巴里でも上海でも、なるほど、盛り場などで日本人とみると必ず変な女がたかつて来るやうだ。巴里でなら、外国人として目立つからといふ理由もあらうが、上海では、それと反対に、白色の異人の方が彼女らの注意を惹きさうなものである。  私は、これには二つの見方があると思ふ。第一は日本人はたしかにさういふ女に対する興味のもち方がほかの国の男たちと違ふ。事務的であるよりも好奇的である。必要からよりも、話の種にしようといふやうなところがあり、時には、それが旅の風流でさへもある。だから、取引に於て金ばなれがよく、その上わりに大つぴらである。速決主義でない。にやりにやりしながらあれこれと物色してゐるやうに見える。自然、女たちが集り、また日本人がといふ風に廻りのものが注意するのである。第二には、日本人は照れ屋である。公衆の面前でさういふ女に話しかけられることに慣れてゐないから、覚悟はしてゐても、大いに照れる。余計な豪傑笑ひなどをする。照れかくしにぎごちない応酬をする。好い加減にあしらふつもりでも、そつちへ気をとられてゐると人の足を踏む。肩から写真機をぶらさげてゐるから、ひと目で日本人だとわかるのである。  かくして、日本人はさういふ場所で自分を目立たせる結果になつた。わが同胞のためにいさゝか弁ずること以上の如くであるが、私は、この話から、日本人は実にわからせにくい国民だといふ気がしてならぬ。よきにつけあしきにつけ、日本人のやることは、どういふものか素直に受け取られない傾きがある。欧米人はもとより、支那人でもちよつとひやかしたくなるやうなところがあるらしい。兵隊が強いことだけはひやかさうにもひやかせまいが、その埋め合せに、彼等はあらゆる一挙手一投足に難くせをつけかねないのである。  そんなことはちつとも苦にするには当らないと云へば云へる。何時かは彼等にわかる時期があるだらうと、日本人なら云はねばならぬところであらうけれども、支那に関する限り、私は、なんとかしてわれわれが最後までともに手をつなぐべき唯一の国民であることを一日も早く彼等に知らせたい。それがためには、如何なる方法を講じても、両国民に共通の言葉、共通の表現を探さなければならぬ。日本人がよき日本人であり、支那人がよき支那人であるといふことは、最も多くの相通ずる美徳、相容れる性格をもつことだといふ真理を認め合ふことが第一の問題である。  事変は既に建設の時代に入つたといふ。それなら、われわれ国民の力は、そこへ伸びて行かねばならぬ。道を拓くのは何人の手に俟つべきであらうか。      上海租界について  汽車から降りると、私は重いリユックを背負ひ、両手に若干の荷物を提げて長いガードを渡つた。人混みのなかで、義弟の延原が私を探してゐる。それで助かつた。  報道部から自動車を差向けてもらひ、宿を何処かに取らうと思つてゐると、報道部に部屋があいてゐるから泊れと馬淵中佐に勧められ、さうすることにした。飛行機の便を得るまで、二三日は此処で待つてゐなければならぬと聞き、その二三日の利用方法を考へたが、私もさすがに疲れを覚えて、街を歩くのさへ億劫であつた。憲兵隊の通訳をしてゐる私の教へ子、明治大学文芸科の卒業生山崎晴一君のところへ電話をかけると、早速飛んで来てくれた。  この前寄つた時には充分時間を割くことができず、ゆつくり話す暇もなかつたので、何処かで飯でも食ひながら彼の手柄話でも聞かうと思つた。  同仁会病院と憲兵隊、この二つの日本の姿を私は上海といふ都会のなかに描いてみる。例へば、外国租界に巣喰ふ抗日テロリストの眼が何に向けられてゐるかといふことを想像するだけで、現在の上海が日本の如何なる表情にも無関心な、あるふてぶてしい身構へを示してゐるといふ気がする。  英仏租界の人口が事変前よりぐつと増してゐる事実は何を物語るか?  私は山崎君の案内で、英仏租界を昼と夜と二度見て歩いた。日本人の立入りを禁止してもゐないし、どんな場所へ足を踏み入れても別に不安を感じるやうなことはない。白人の店で買物をしたが、店員は普通の客としてわれわれをあしらふことはもちろん、支那人経営の料理屋でも、特にこつちを凝視する眼さへ感じないくらゐである。そのくせ新聞の売子が夕刊を売りつけに来るのを買つてみると、麗々しく反日記事が掲げてある。 「新申報」といふ親日新聞は、この租界ではさつぱり売れないさうである。尤も、民衆が自発的に読まないのではなく、漢奸の名を着せられることを懼れてゐるのだといふ話である。  上海のことはもうだいぶん内地にも知れわたつてゐるから、私は詳しく書かない。たゞ、将来はいざ知らず、今日までの情勢からみて、この都市の解剖こそ、支那事変の複雑な相貌を白日下にさらすものだと思ふ。  所謂抗日テロリストの群はしばらく措き、かゝる直接運動に参加してはゐないが、しかし、もつと先の方を視てゐる支那知識層の個々の動きといふやうなものを、どういふ方法かで知りたいと思つたが、それは今はまだその時期でないやうである。      報告を終るについて  十一月二日、福岡へ飛ぶ。日本の空だなと思ふ瞬間、私はふと胸に熱いものを感じて、窓に顔を押しあてた。  唐津のあたりが眼の下に見える。  入江には漁船が走り、畑は耕され、田は実のつてゐる。裾を引いた山襞の間に、白く光るのは谷川の水であらう。  それぞれに、父を、夫を、兄を、息子を戦場に送り出した家々が、あちこちにみえる。ひと目でそれとわかるのは、時局下のきびしい風景である。しかし、そのきびしさは、豊穣な土地の眺めのうちに溶け込んで、黙々たる微笑の如きものとなつてゐる。  福岡で上りの寝台を求めようとしたら、その日のは無論、翌日の分もすつかり売り切れであつた。そこで、思ひついたのは、私が嘗てゐた久留米の連隊をちよつとのぞいてみたらといふことで、実は、今、その連隊に同期の米良が大隊長として召集されてゐることがわかつてゐたからである。  早速、その当時はなかつた急行電車で、筑後平野を縦断した。  幼年学校を卒業して士官学校へはひるまでの半年と、士官学校を出てから任官後二年を過したこの久留米といふ町は、なにかにつけて想ひ出の多い町であるが、連隊の兵舎も昔ながらの面影を残し、衛兵所の上へ枝をひろげた榛の木にもたしかに見覚えがあつた。  わけても、将校集会所の食堂は、多少趣きは変つてゐたが、もとの場所にもと通りあつて、時の連隊長や連隊附中佐のいかめしい顔がありありと浮ぶやうであつた。  殊に意外だつたのは、その日私を迎へた週番大尉が、以前私の中隊にゐた一軍曹のMであつたことで、それがまた現に米良の大隊の中隊長なのである。  私事に亙るやうであるが、私は、自分の経験した軍隊生活なるものと、今度の文学者としての従軍とを、まつたく切り離して考へる事はできないので、この日の連隊訪問はある意味で戦跡視察の延長のやうなものである。  久々で旧友米良に会つた感想は、しかし、こゝでは述べる必要はあるまい。但し、彼が予備少佐として、戸畑高等専門学校の剣道師範として、そして今また、元の連隊の大隊長として昔ながらの風格と生活ぶりをみせてゐることは実に面白い。私は、かねて啓蒙的な「軍人論」なるものを誰かゞ書かねばならぬと思つてゐる。日本の一般社会は、日本の軍人、つまり、本職の将校が如何に「育てられ」つゝあるかといふことをあまりにも知らなさすぎるのである。  東京へ帰つてみると、街の印象がなにひとつ変つてゐないので安心した。みなわりに朗らかで落ちついてゐる。こんなことではいかんと云ふやうな現象は、表面的にはなにも目にとまらない。戦場に行けば戦場にゐる気分、内地にゐれば内地にゐる気分と云ふのが、最も自然であり、健康であり、そして頼もしい態度なのだと思ふ。油断とか弛緩とかを心配する人もあるやうだが、それはまた話が別なのである。  私は、あるがまゝの日本に、希望と信頼とをもつ。漕ぎ手は揃ひ、船あしは早いのである。舵を誤らざらんことを祈るばかりである。 底本:「岸田國士全集24」岩波書店    1991(平成3)年3月8日発行 底本の親本:「従軍五十日」創元社    1939(昭和14)年5月8日発行 初出:「文芸春秋 第十六巻第二十一号」    1938(昭和13)年12月1日発行    「文芸春秋 第十七巻第一号」    1939(昭和14)年1月1日発行    「文芸春秋 第十七巻第三号」    1939(昭和14)年2月1日発行    「文芸春秋 第十七巻第五号」    1939(昭和14)年3月1日発行    「文芸春秋 第十七巻第七号」    1939(昭和14)年4月1日発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※複数行にかかる中括弧には、けい線素片をあてました。 入力:tatsuki 校正:門田裕志 2010年1月21日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。