明治大学文芸科に演劇映画科を新設する件 岸田國士 Guide 扉 本文 目 次 明治大学文芸科に演劇映画科を新設する件  私はかねがね日本の現状からみて、演劇映画の仕事に携はるものが、単に実務による経験のみを頼らず、系統だつた基礎知識と、良い意味でのアカデミツクな修業とを身につけてから、それぞれ職業的な部門につくやうにしなければ、将来この方面における人的要素の充実は困難であらうといふ見透しをつけてゐた。  勿論、今までも個人々々の努力である程度の研究もでき、専門の領域で相当の技倆見識をもつやうになれないこともなかつたのだが、そのためには非常な不便が伴ひ、暗中模索の時期が長く、時としては邪道に迷ひ込み、独りよがりに終ることがないとはいへないのである。  例へば演劇についていつても、新しい時代に応はしい劇場スタツフ、つまり経営者、作者、俳優、演出家、舞台監督、装置家、道具方といふやうな一連の組織がまだ出来上つてゐない。僅に新劇と称するものが、高遠な理想を掲げて四十年、幾多の曲折、消長を経て今日やゝ希望ある道に辿りついたのみである。  しかも、その発展を阻害する大きな理由は、経済的基礎の薄弱といふやうなことではなく、実は新劇を形づくつてゐる人々の、演劇といふものに対する共通観念の欠如なのである。いひ換へれば、演劇に関する基礎的教養をもたずに、いきなり、技術家としてすぐ間に合ふ人間に仕立てられるからである。つまり速成の弊が現れて来たのである。  かゝる人物の集合からは、創造といふものは生れないし、協力による発展といふことも望めないのである。  映画の方面をみても、同様のことがいへると思ふ。何処にでも、少数の人材がゐることはゐるであらう。しかし、それらの人々をして、精いつぱいの、愉快に仕事をさせないものが、必ずある。それは、端的にいへば、相手とする人間から頭脳の協力を得ることができぬといふことである。「こんなことがわからないのか」と始終口癖のやうにいつてゐなければならぬとすれば、いつたいどうしたらいゝのか?  かつて私は、この欠陥を補ふ唯一の、そして最善の方法は、日本の現代文化といふ見地から、国家が先づ、演劇映画研究所とでもいふべきものを作るべきであるといふ意見を述べた。これは、今日の劇場経営者も、映画企業家も、この明瞭な事態に処する道を講じてをらぬかのやうだからである。  私はそれでも機会ある毎に、当事者を説いた。必要は認めるが、なかなか手が廻らぬといふ返事を聞かされることもあつた。すでに、名目だけでも、これに類する施設をもつてゐる場合、どうして、実績を挙げ得ないか?  この点、いはゆる新劇の団体は、より遠い将来を目指してゐるから、それぞれ、研究所をもち、研究生の養成に努めてゐるが、私の知つてゐる範囲で、これに応募する青年男女の数は意外に多く、一週間に二百人を突破した例さへあるのである。ところが、実際、劇団所属の研究所といふものが、首脳部の良心的配慮と、指導者の犠牲的奉仕にも拘らず、常に満足な結果は得られないのである。経費と組織の上から、勢ひ、例の速成にならざるを得ないからである。  一方、映画の方面は、これこそ年々志望者は増すばかりである。彼等の往くべき道は、たゞ、映画会社の採用試験にパスすることだけで、それから後は人間としても芸術家としても、殆ど伸び育つことができないのである。たまたまポスタアの上に名を連らねる好運に遇つても、十年後にはどうなるか? 大部分は職業的にも無用の存在となり終るのである。ほんたうなら、これからといふところで、一人前は愚か、専門家のセの字にもなつてゐない自分を発見する悲惨は、その例に乏しくないのである。  これは、なぜかといふと、普通の学校を出て、すぐ演劇や映画の世界へ足を踏み込むと、さういふ世界のなかに何時の間にか作られた不健康な雰囲気に知らず識らず染まつてしまふ。つまり、この種の芸術が、常に根柢を危ふくされがちな、例の不純な娯楽性を先づ享け容れ、生活と教養を蔑視する風習に慣れ、著実な研究と正統的な修業の道を見失つてしまふのである。  そこで、私は、時局多端の際、演劇映画の文化的役割を却つて重しとする信念のもとに、過去二年間、慎重熟慮の結果を、今度実現することにした。  それは、私の預つてゐる明治大学文芸科の一部門に、いよいよこの四月から、演劇映画科といふ一科を新設したことである。  文部省専門学校令に準拠するとはいへ、実はこれは、大学の課程に相当するもので、その点職業教育の実を直ちに挙げることは困難だと思ふが、少くとも、演劇映画方面に進まうとする人々のために、相当深い精神的準備を与へ得るプランである。  演劇映画を一科としたのは、現在の実情からすれば、この二つの部門は、共通な領域を非常に多くもち、基礎知識としては是非とも双方の志望者に与へておかなければならぬ課目が寧ろ大部分を占めてをり、且つ、それぞれ一方の道に進むものでも、他の一方の根本的概念はどうしても頭に入れておく必要があるからである。しかし、必修選択科目として、一層専門的な若干の講義及び実習を課し、演劇は演劇、映画は映画の専攻ができるやうな仕組になつてゐる。  アカデミイとしての理想からはまだまだ遠いには違ひないが、第一着手として、比較的整つた形の研究所にはなると思ふし、経費の点からいつても、個人としては固より、企業会社や特殊の劇団では、これだけの内容を充実させることは実際困難なことは確である。これを独立したものとみれば、年額二万円近い経常費がかゝるし、またいくら金をかけたところで、お義理や形式的に顔をみせる講師ばかりを揃へたのではなんにもならない。この点、今度の企ては、私自身の抱負はもちろん、協力を仰ぐ人達の積極的参加によつて、所期の目的を達成し得るものと確信してゐる。  新設の演劇映画科は、既設の文芸科の一部門とし、全体共通科目としては、哲学、論理、心理、美学、作文修辞学、倫理、外国語等専門学校令によるものの外、文学概論、日本文学史、日本現代文学概観、日本文化研究、世界文芸思潮史、外国作家研究等の一般文学的教養としての高等知識を授け、更に専門学としては日本及び西洋演劇史、演劇本質論、近代劇論、科白原論、視覚芸術論、音楽解説、演出研究、演技論及び各演技実習、戯曲研究、舞台美術研究等の科目を置き、以上は演劇映画両科共通とし、選択必修課目としては、演劇専攻者のためには日本新劇史、演出論、演劇論史、舞台機構論、戯曲論を、映画専攻者のためには、映画史、映画芸術論、映画技術論、映画製作機構研究、シナリオ研究、映画監督術等を聴講させることにした。  外国語は、英語を必修とし、仏語を随意選択とする。  映画の専攻科目は、将来、経費の許す限り増設するつもりであるが、それまでは、特別講義として、随時に、必要な知識を与へる計画である。  勿論、この学校を出ただけで、専門技術家としての資格を得ることは期待できないが、実地の研究にはいる基礎ができてゐるといふことは、将来、どれだけの強味であるかわからない。なほ、卒業後の需要範囲といふことについていへば、これは、第一にどういふ人物が出来上るか、その成績次第できまるわけであるが、少くとも単なる就職といふやうな問題を離れ、演劇映画界が現在真に求めつつある人物の資格に対して、十分適応性のあることを信ずるものである。  こゝでひと言つけ加へておきたいことは、今日、映画の方面は企業として以外に存在しないのであるから、その組織のなかで、それぞれの技術の法則といふものに遵はなければならぬのであるが、演劇の方面では、殆ど、単独に開拓し得る無限の領域が残されてゐるのである。  私一個の理想からいへば、この学校の卒業生は、演劇映画界の一従業員となるばかりが目的ではないので、よろしく夢を抱いてそれぞれの郷里に帰り、地方の同志を糾合して、新しい演劇運動を起してもらひたいのである。或は、小学校児童の劇教育に協力することもよからう。農村の娯楽としての健全な素人劇をリードするのも面白い。郷土の古劇を復活させ、またはその研究によつて学界に寄与することも意義のある仕事である。  かう考へて来ると、明大演劇映画科の創設は、学校過剰といはれる現在、必ずしも高等遊民を世の中に送り出すことにはならぬと思ふ。日本の現代文化とその水準において、おそらくは、これこそ、すでにあるべきものが、今やうやく生れたのだといつても差支なく、ある人々の才能の芽が、はじめてほんたうに伸び育つ機会を、われわれは私心なく与へ得るであらうことを悦びとするものである。  入学資格は、中学卒業といふ規則になつてはゐるが、年齢の制限はない。中学を出てゐなくとも、試験さへ通れば別科に籍を置くことができる。文芸科として前例も多いことであるが、高等学校や、大学予科を終つたものにも、寧ろ、講義の程度からいへば、丁度いゝのである。最後に、明治大学のこの企てに、貴重な時間と労力とを割き、殆ど犠牲的に学生の指導を快諾された講師諸氏の熱意に感謝したい。 明治大学文芸科創設以来、演劇に関する講座の充実を筆者は希望してゐたのであるが、偶々昭和十三年三月、学校当局の諒解を得て、文芸科を甲乙二類に分ち、演劇映画専攻の部門を新設した。右の一文は、東京日々新聞に発表したものである。 底本:「岸田國士全集24」岩波書店    1991(平成3)年3月8日発行 底本の親本:「現代風俗」弘文堂書房    1940(昭和15)年7月25日発行 初出:「東京日日新聞 夕刊」    1938(昭和13)年3月9日、10日、11日 入力:tatsuki 校正:門田裕志、小林繁雄 2005年3月16日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。