芝居と生活 岸田國士 Guide 扉 本文 目 次 芝居と生活 「芝居と生活」といふ題をつけましたが、これは非常に突嗟に付けたのでありまして、かういふ表題なら何ういふことでも喋れるだらうと思つたからです。  元来、言葉といふものは時代が進むに従つて、同じ言葉が非常に複雑な意味を持つやうになります。芝居といふ言葉、生活といふ言葉と、かう二つ並べましたが、何れも現代に於いてかなり面倒な言葉になりました。昔は芝居を観に行くと言へばそれで通用したのであります。ところが今、芝居を観に行く、といふと、それを聞いた人は、どんな芝居を観に行くかといふ疑問を直ぐ起したり、どういふ種類の芝居を観に行くかその観に行く芝居の種類に従つて相手の人間を判断出来るやうな時代になつて来ました。ですから今では、芝居を観に行くといふ言葉は殆んど実際に於ては使用されない。例へば歌舞伎へ行く、東宝へ行く、或は築地小劇場に行く、さういふやうな言ひ方をします。故に芝居といふ言葉が余程特別の意味を付けなければ通用しない時代がもう直ぐ来るだらうと思ひます。また生活といふ言葉も同様であります。生活に困るとか、生活の為に何々をするといへばはつきり判るのですが、「あの男は生活をもつてゐる」「あそこには生活がある」と言ふやうな言ひ方は此処にお集りの諸君にはその意味がお判りになると思ひますが、判らない人が日本には沢山あると思ひます。例をとるならば、恐らく日本中の代議士の九分迄は判らないでせう。(拍手・笑声あり)  さういふ風なやゝこしい言葉が今日どうしても必要なんです。それを使はなければ意味の通じないことが沢山あります。幸ひかういふやうな集りでは、我々が言はうとしてゐることが聴衆の皆さんにはピンと響くだらうと、確信を以て喋れるのは非常に愉快であります。  世間に出て、種々話が通じないと言ふもどかしさを、我々は随分感じ、また皆さんも御自分の周囲で感じられることが度々だらうと思ひます。さういふ時代の演劇に就いて話をするといふことが今日の会合の目的なんです。けれども、今迄既に種々専門的立場から、現代劇といふものに就いて、或は演劇の現代性、作品の現代性に就いてお話がありましたので、私はもつと雑文的に或は随筆的に話しをすることで勘弁して頂きます。  先づ今日、芝居を観に行くといふ言葉が段々なくなつたやうに、芝居を観に行く人が段々少なくなつた。然し乍ら、これは歌舞伎や新派がさうであるとともに、新しく勃興した新劇といふものも見物が非常に少いので悩んで居ります。結局育たない。その原因に就いて実際にその仕事に携つてゐる者が種々研究をして居りますが、それは直ぐ明日から何うなると言ふものではありません。もう少し我々はさういふ状態になつてゐる日本の現在といふものに就いて考へて見なければなりません。  先づ今日、芝居を観に行かないといふのが、智識階級の実情であります。偶々新しい芝居といふものを観に行くといふことは、極く、特殊な事情に由るので、参考に観に行く、或は研究的に観に行く、ある場合には多少さういふものを知らないといふのも恥かしいからといふので観に行く。元来、芝居を観るといふことは、少くとも近代に於いては、精神の娯楽──精神的娯楽といふことが主要な目的だと思ひます。精神的の糧、広い意味で精神的の糧といふことは、或は読書でありますとか、或は種々な専門的の研究の中にも見出されるのであります。けれども芝居を、金を出して観に行くといふことは之は娯楽といふことが皆無では観に行けないと思ひます。然し、今日日本の商業劇場で行はれてゐる演劇は、娯楽は娯楽でありましても、精神的の要素といふものはまづ零といつてもよいでせう。  それから、これまでの所謂新しい芝居は、精神的の糧なるものを舞台を通じて観客に与へようとして居ります。之は、成程、精神に働きかけることは働きかけるのですが、精神を楽しませるといふよりは、寧ろ精神を疲労させるといふことの方が多いのであります。それで、新劇といふものに対して精神的娯楽を求めるといふことでは、却々足が向いて来ないのです。さうなると、芝居を観ることに対して多くの人は全く無関心にならざるを得ない。  芝居といふものが、世の中から失くなつても構はないと思つてゐるのです──然し、さういふ人でも、実際は、芝居といふものと関係が無いとは言へない。何故言へないかといふと、もう既に或る文化をもつてゐる、或る文明の洗礼を受けた人間は、少くとも、文明に向つて進みつゝある人間は、何等かの意味に於いて、実際生活の中に、芝居といふものをもつてゐるのです。といふのは、長谷川如是閑氏の定義を拝借しますと、「文明といふものは生活表現の洗練である」といふことです。文化人が例外なく心掛けてゐる生活表現の洗練の中に、何が生れるかといふと、儀式が生れる、儀礼が生れる、といふことであります。儀礼儀式といふ点に触れますと、そこに一つの芝居的なものが自然に生れます。既にかういふ講演会といふやうなものも、或る意味では、芝居であります。胸にこんな花なんか付けて出てくる、芝居気が無くては出来ません。それからまた、道で人に遇つて挨拶をします、これもお互に、全く約束がなかつたならば何の事か判らない、頭を下げるが何の事か判らない、それがおじぎだといふことが判るのは、お互にさういふ約束があるからで、これが一つの儀礼であります。かういふ事柄が既に芝居の芽なんです。これを意識的に、諸君の生活の中に儀礼的要素を取入れるといふことが文化の一つの表はれでありまして、その取入れ方、取入れる質によつて、その文化の善し悪し、また、洗練されてゐるか、或はまた非常に幼稚であるか、粗野であるかといふことが判るのであります。  私の考へるところによりますと、さういふ意味で、実際生活の中に、芝居的なものを最も多く取入れてゐる種類の人間が、今この世の中に居ます。それが、他の人間に比べて、文化的に洗練された種類の人間かどうかといふことは別問題です。何故ならば、さういふ儀式的なもの或は装飾的なものを取入れてゐる取入れ方、或は、取り入れたものの質が、場合によつては、非常に幼稚であり、粗野であり、或は型にはまりすぎてゐる場合には、必ずしも、文化的にレベルが高いといふことは言へないのでありまして、たゞそれが芝居的の要素であるといふことは注目すべきであると思ひます。それを職業的にみて見ますと、先づ裁判官といふものは非常に芝居をするものです。弁護士も同様。その次に、坊さん、もう少し広く云へば、宗教家といつてもよいでせう。それから軍人であります。それにもう一つ附け加へ度いのでありますが、それは学校の教師です。(笑声あり)  自分が役者である、実生活の中で、何か芝居的なことをやつてゐることに堪へられない人間は、所謂自然であらうとします。その自然であらうとすることは何であるかといふと、一つの、固定した文化に対する反抗であります。現在の文化或は、自分の身に付けてゐる文化といふものに対する非難なんです。一つの文化がある。さういふ儀礼的の、或は儀式的の、或は装飾的の形をとり出すと、それに対して必ず反撥をする、義憤が生ずる。それがある場合には、例へば、文明を呪ふ、原始に還る、或は野蛮の状態に憧れるといふ反動的な現象を呈するので、その現象自身はやはりひとつの時代の文化的運動だと思ひます。  さういふ風に、今日の智識階級が、芝居といふものを観に行かなくなりまして、自分達の求める芝居がないといひながら、実は種々な意味で、自分達が実生活に於いて役者になりつゝあるのです。今日我々は、新聞などで名前を見たり、或は写真を見たりする、所謂世間の名士、その名士の公の言行を見ますと、みんな舞台に立つて一役演じてゐるやうに見えます。殊に、最も極端なのは、世界の専制政治家を代表する三人、ムツソリーニ、ヒツトラー、スターリン、この三人は実に、写真を見ますと、或はその行動を見ますと、先づ第一に、名優だといふ印象を受けます。恐らく、これは少し前までは、英雄といふ言葉で云ひ現はせたらうと思ひますが、今日、我々は英雄といふ言葉を忘れ勝ちですから、名優といふ言葉の方が直ぐにピンときます。しかも名優といふ言葉にはスターといふカナをふりたいやうに思ひます。  先程申しました、職業によつて一つの俳優的なものを身に付けてゐるといふのは、これは決して、その人達が自分達の一時代で造り上げたものではなくて、一つの伝統的遺産なのであります。さういふ遺産が、社会の種々な部門或は方面に、ちやんと出来上つた時に、初めて演劇といふ形が、非常に完成された状態で表れて来ます。さういふ時代が所謂演劇時代なんです。  今日の日本のやうに、文化の各部門が、夫々一定した伝統的な遺産をもつてゐないで、或るものは西洋風に、或るものは東洋風に、又或るものは東洋でも西洋でもないその中間にといふ、さういふ風に生活の上で、種々な様式をまち〳〵に、統一なく採用してゐる時代、かういふ時代は、非常に演劇といふものが興りにくい時代でありまして、その時代には、どちらかといふと、一般の民衆がそれぞれ、自分自分の実生活の中で、演劇を育みつゝある時代なのであります。ところが今、生活の中にさういふ風に、或る芝居的なものが生れつゝあるといふこと、また個人々々が、生活の中でそれぞれ役者であるといふ時代は、同時に、かういふことが云へます。即ち我々が、芝居の中に求めるものは何かといふと、芝居ではなくて、生活であるといふことであります。これが一時代前とは、芝居に対する要求が、違つて来てをります。芝居の中に、芝居を求めるといふことは、確に、芝居の盛な時代──芝居の爛熟期──の一般民衆の要求でありました。  さて、かういふ風に近代に於いては、芝居の中に生活を求めます。この生活が、先程言ひました「そこに生活がある」「彼は生活をもつてゐる」といふ意味での生活であります。近代劇は、先づさういふ意味に於いて、過去の演劇と、はつきり区別されると言つてよいのです。日本の芝居は、今日まで、新しい形で皆さんの前に表れて居りません。それは、舞台の上に実際さういふ意味での生活が、未だ盛りあげられないためであります。  実際生活の中に芝居を発見する眼を有つてゐる我々は、この舞台の上では生活を求めます。この、芝居に生活を求めるといふことは、戯曲がまづ文学であるといふことと、もう一つは俳優が生活人であるといふことの、この二つのことが今日の必要な問題であります。さて、戯曲が文学であるといふことはまづ判つたとしても、俳優が生活人でなければ、我々は満足出来ないといふことは、これは、過去の日本の芝居に対して我々が不満を感じる、その感情を分析すれば直ぐ解るわけであります。  私は、芝居の方を専門にやつてゐる者として、新しい芝居といふものに対して絶望をしてゐません。と言ふのは、さういふ風な時代的の特殊な事情で、今我々の生活とそれから我々の求めてゐる或はもつべき芝居といふものとの接触点が、漸くはつきりしだした時代である、と思ふからであります。我々は、もつと生活の中に、いい意味での芝居を造り上げなければならないのです。そして舞台の上では、正しい意味の生活をもり上げなければならないのです。さういふ風にして結局両者の間に一つの交流作用が、日本の文化が健全に進んで行くにつれて、出来るのではないかと思ひます。  あとで、ヴイルドウラツクの「商船テナシチー」がありますが、このトーキーはさういふ意味で、恰度現在日本にも欲しいと思ふ芝居の一例だと思ひます。映画と芝居との違ひといふやうなことは、専門的に言ふと種々喧しいことがありますけれども、辻君が言はれましたやうに、日本の現代の智識階級は、劇に求めてゐるものを外国トーキーに求めてゐる、それによつて満足してゐると言つてよいのであります。さういふ意味で、外国のトーキーの中から、現在我々が演劇として求めるものを発見するといふことも専門家にとつては大切であります。また専門家でない一般の観客にとつてはそれが意識的ではありませんけれども、面白い芝居の無い、或は完全に自分たちの生活を反映した芝居がまだ生れない時代にはゆるされるのです。又、さういふことをはつきり意識することによつて、これからの日本の新しい芝居の発展に、皆さんが力を貸して下さるのぢやないかと思ひます。先程こゝで、ラヂオドラマの形式で朗読した森本君の「バラ」ですが、これなども一つの、いまわれわれが目指してゐる演劇といふものの雛型と言つてもよいと思ひます。種々設備の点なども不満で、十分効果を挙げ得なかつたやうでありますが、さういふ点は敏感な皆さんが、寧ろ寛大に、これが若し理想的な設備の下にやられたならよかつたらうと、我慢をして見て下さつたことと思ひます。  私は、この明治大学の演劇研究会のロボツト会長であります。学生諸君の熱心な催しに対して、皆さんがこのやうに大挙して参加して下さつたことをありがたく思ひ、恐らく、一番楽しみにしてお出になるであらう映画がこれからありますから、私はこれで引き下ります。 昭和十一年十月、明治大学演劇研究会主催の講演会に於ける講演速記である。 底本:「岸田國士全集23」岩波書店    1990(平成2)年12月7日発行 底本の親本:「現代風俗」弘文堂書房    1940(昭和15)年7月25日発行 初出:「劇作 第五巻第十一号」    1936(昭和11)年11月1日発行 入力:tatsuki 校正:門田裕志 2009年9月5日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。