仏国議会に於ける脚本検閲問題 ──ゴンクウルの『娼婦エリザ』── 岸田國士 Guide 扉 本文 目 次 仏国議会に於ける脚本検閲問題 ──ゴンクウルの『娼婦エリザ』──  一八九〇年十二月二十二日、仏国上院に於ける予算質問中、議員アルガン君は、政府が民間の一小劇場に対して、年額五百法の補助を与へ、同劇場を推奨する意図を表示したことを攻撃した。  その劇場は即ち自由劇場であり、攻撃の理由は、同劇場の上演脚本が、屡々風紀を紊すものであるといふのである。  これに対して、時の文部省芸術局長ラルウメ君は、極力自由劇場の功績を賞揚し、一二脚本の選択を誤つたとしても、それは当局の信頼を傷けるものではない──殊に、補助金といふも、実は座席の予約にすぎず、監督官を派遣してその都度報告を得るために、必要な処置を取つたまでであると弁疏これ努めたが、アルガン君、いつかな聴き入れず、遂に最近問題になつた脚本の筋を述べて、盛に右党の老人連を憤慨させた。ラングル・ド・ボオマノワアルといふ侯爵議員は、「監督は巡査で沢山だ」と叫ぶなど、なかなかの騒ぎ。文部大臣も遂に見兼ねて、演壇に立ち、「アルガン君は、若い劇作家が、自由劇場によつてのみ、その才能を世に問ふことができるといふ事実に、お気付きないか」と食つてかかる。左翼の議席から拍手が起る。「もちろん、なかには良くないものもある」と云ふと、アルガン君すかさず、「皆良くない」とやり返す。大臣は「皆ではありません。しかも、今日まで上演した脚本の中には、なかなか注目に値するものが多いのであります……」そして遂に、「若し、諸君が、本案を否決されるやうなことがあれば、わが劇芸術のため由々しき大事であることを警告したいと思ひます」と見得を切り、遂に投票採決の結果、原案は無事通過。           ★  越えて、翌年の一月二十四日、自由劇場はまたもや、今度は、下院の議場を賑はした。即ち、議員ミルラン君が文部大臣に宛ててなしたる質問演説から始まる。  ミルラン君は当時売り出しの少壮弁護士、最近まで仏国共和国大統領の椅子に在つた現代有数の政治家であることは、読者も既に御承知のことであらうと思ふ。  時の文部大臣は、これも最近まで上院議長の職にあつたレオン・ブウルジュワ君である。そして、政府当面の責任者文部省芸術局長ラルウメ君こそは、劇文学者として、巴里大学講師として、更に劇評家として、「演劇史及び演劇批評の研究」「モリエエルの喜劇」「マリヴォオの生涯と作品」等の名著を公にした人である。  さて、議長は誰であつたか、これがわからぬのは甚だ遺憾であるが、手許には速記録の抜萃だけしかないので、致し方がない。これから、その記録を読みながら、討議の大要と議場の空気とを写すことに努めてみよう。           ★  ミルラン君(登壇)──諸君、今回、検閲官はジャン・アジュルベエル氏がエドモン・ゴンクウル氏の作を脚色したる「娼婦エリザ」の上演を禁止しました。  この事件に関し本員は、既に世上の問題となりたる禁止不法の批難を、ここで繰り返さうとするものではありません……本員はただ検閲官が、その職権を行使するに当つて、果して十分なる配慮と機宜を得たる処置を取られたかどうかといふ点について、一般の注意を喚起したいと思ふのであります。  聞くところによれば、「娼婦エリザ」の禁止は、先に上院に於ける予算案討議の結果が、ここに及んだのだといふことであります。上院右翼党の一員アルガン君が文部芸術局長に向つて発せられたやや激越な質問は、本員の個人的印象によれば、少からずかの政府高官を悩ましたらしく思はれます。(微笑)……然しながら、年額五百法の補助金は自由劇場の監督を便ならしめ、今日「娼婦エリザ」の上演を禁止する結果を生んだものとすれば、この小額の支出は必ずしも無益でなかつたと云はなければなりません。  諸君、本員はこの仮定から遠ざかります。そして、単にこの戯曲がいかなる動機によつて、上演禁止の厄に遭つたかを研究し、その真相を探知したいと思ひます。即ち、禁止の理由は左の二点以外にはない──作者が作中に於いて支持しようとした思想、及び、その思想を包んでをる形式。  先づ、その形式でないことは、次の二つの理由によつて明かであります。  第一は検閲官が作者に対し、何等修正削除を求めなかつたことであります。……  嘗て、ロクロワ氏が文部大臣在職当時、同じゴンクウル氏の「ジェルミニイ・ラツセルトゥウ」をオデオン座で、上演した際、検閲官は作者にある部分の修正を希望し、作者はこれを快諾した事実もあります。これが検閲官の最も単純な、そして第一に尽すべき義務なのであります。  ……どうして検閲官は、この戯曲中眼ざわりの個所を指摘して、訂正を求めなかつたのでせう。  それは、諸君、本員をして云はしむれば、検閲官が此の如くする時は、問題の解決があまりに容易だからであります。  上演に先ち、ゴンクウル氏は新聞記者の問に答へ、この戯曲は最も純潔なる文字を以て綴られたものであると述べてをります……。  デイオニ・オルヂネエル君──ところが、主題はさうでない。  ミルラン君──諸君、ゴンクウル氏の言は親がその子について語るやうなもので、信ずるに足らないと云はれるならば、(微笑)不肖本員がこの戯曲の保証人となつてもよろしい。本員は総稽古の当日実際に舞台を観、なほ上演禁止の発令と同時に再三、問題となるべき第一幕を読み返して見たのであります。そして、若し本員が検閲官であるとすれば、作者に修正を希望するであらうと思はれる個所を、四ヶ所だけを発見したのであります。只今から、この議場に於いて、その個所を読み上げてみようと思ひます。勿論、傍聴禁止を求める必要はありません。  この四ヶ所だけは、検閲官が作者に修正を求める権利があると思ひます。ただそれだけであります。文部大臣は、若しそれ以外の個所について御意見があれば、この議場に於いてそれを指摘されたい。  御心配は無用である。若し朗読する個所が穏かでないとお思ひになつたら、議長、どうか御注意を願ひます。  ルグラン君──議会の検閲が不法だと云ふんでせう。(笑声起る)  ミルラン君──作中の一人物、プウレットが、その朋輩の女エリザに向つてかう云ひます。「こいつあ、をかしいや……」なるほど、かういふ言葉は、わがアカデミイでは使ひません。が、われわれは、やはり、アカデミイの会員ではないのであります。(笑声)「こいつあ、をかしいや。お前がそんなだつてこた、夢にも知らなかつたね、だれかにのぼせちまうなんてさ……。だつて、今まで、お前のつていふのが一人でもゐたかい……。男だらうが女だらうが、お前にうんて云はせたものは、一人だつてゐやしない……。あたしやお前つて女は、さういふ風にできてないんだと思つてたよ……。ところが、さては、味を覚えたね……」ここが、問題にすればできる一ヶ所であります。(議場騒然)  どうです。本員は諸君と同様厳正ではありませんか。  第二の個所、同じ人物の白であります。「ちえツ、およしつたら、くだらない理窟は……どうせ女ぢやないか、あたしたちは……。それに、人様の御厄介になつてやしないんだからね。人殺しをした覚えもなけれや、泥棒したことだつてありやしない。お前の云ふことを聴いてると、まるで、あたしたちは罪人ぢやないか……。ああして、家のなかで働くのが……」(議場騒然)  左翼の一議員──傍聴禁止を求めます。  ミルラン君──諸君、つまり、本員も、ここを削除すべきだと思ふのであります。然るに検閲官はそれをしなかつた。「世間にいくらだつてゐる、あの亭主持ちの女と、一体どう違ふんだい……亭主を持ちながら、それが不足でいろんなことをする女とさ、……」それから、最後の一ヶ所は、プウレットが、「見ておやりよ、この色気狂ひをさ……」と云ふと、エリザが「あらさうぢやないんだよ……。だつて、もう十五日も家ん中ばかりに引つ込んでたんだもの……。たまに一日ぐらゐ、檻の外で暮したいよ……いい天気だね……ぶらぶら歩いて見たいね」すると、プウレットが「云つとくけど、うつかり、つかまつたまま眠つちまつちや駄目だよ……お神さんは、日曜ときちや、それこそ手におへないんだからね……時間に間に合ふやうに帰つといでよ……」(議場また騒然)  以上の四ヶ所を削除すれば……。  左翼の一議員──全部削除し給へ。その方がましだ。  オルヂネエル君──汚らはしい、実に汚らはしい。  ミルラン君──つまり、検閲官は、これだけの個所を修正した上、上演を許すことができたのであります。それに、何等の注意も与へないで、いきなり上演を禁止するといふことは今日までその例がないのであります。  ……戯曲の他の部分については、本員は、全然上演禁止の理由を認めません。事件の行はれる場所については……。  ノエル・パルフエ君──テエマがよくないんだ。  中央の一議員──あたまもよくない。(笑声起る)  ミルラン君──テエマですか。そのことは後で述べます。  ……次に人物についてであります。なるほど、人物は何れも娼婦であります。然しながら、文部大臣は、観衆たる善良な労働婦人が、これを見て嫌悪と羞恥の情を感じるよりも、富裕な、気楽な、贅沢な妾の生活を、嫉妬と羨望を以て見る方が一層危険で、且つ不道徳であるとは思はれませんか。(左翼より拍手起る。中央及び右翼これを遮らんとす)  或は事件そのものが、良くないと云はれるのですか。第一幕の終りで、エリザがその情人を殺す、それがよくないと云はれるのですか。それならばお尋ねしますが、現在市中の大劇場で、成功裡に某アカデミイ会員の作を上場してます。そして、その作品の第一幕の終りに、所謂濡れ場があつて、遂に服のホツクを外すと云ふ所で幕になる。後は見物の想像に委せるわけであります。(左翼より「然り然り」と呼ぶものあり。議場騒然)  若しも、かういふことを許すなら……勿論、本員がかれこれ苦情を申立てるわけはありません。(笑声起る)  今日まで、一般の批評家は、自由劇場の上場脚本に対して、可なり峻厳な態度を示して来ました。然るに、この度は、ただ一名の批評家を除く外、一斉にこの作品の勝れたる特質を挙げ、上演を禁止するほどの必要は毛頭ないといふ説を発表して居ります。  オルヂネエル君──それは仲間褒めだ。  ミルラン君──いいえ、仲間褒めではありません。なぜならば、あなたの旧友であるフランシスク・サルセエ氏は、その劇評に於て、常に自由劇場の上場脚本を批難攻撃してゐるに拘はらず、この度に限つて、「娼婦エリザ」は毫も上演に差支なきものであることを述べてゐます。ただ同氏は、この作品は「芝居になつてゐない」と評してゐるだけであります。その他、当代の権威ある批評家、ジュウル・ルメエトル、アンリ・ボオエル、セアアル……等の諸氏は等しく、この禁止をいはれなきことと宣言してをるではありませんか。その上にです、文部大臣、あなたの管下にある大学教授にして、同時に最も卓越した批評家たるエミイル・ファゲエ氏、同氏も亦新聞「太陽」紙上に於いて、此の作品の価値を認め、殊に第二幕法廷の場の如きは、驚くべき正確さを以て描かれてあるといひ、これこそ一個の宝石であると推賞してをります。  ………………………………………………  かくの如く、批評壇の輿論は、この作品を純潔にして真実に富むものと見做してゐる。実際、悲痛な作品が不道徳であることは稀れであります。「娼婦エリザ」は決して風俗を紊す作品ではありません。  これで先づ、形式の上で上演に適しないといふ理由は、消滅しました。今度は、先程も申しました通り、作者の支持してをる思想について吟味して見ませう。  娼婦エリザは、なるほど虐げられたもののために放たれた憐憫と正義の叫であります。その人物の一人が云ふ如く、彼女等は無知と病毒と貧窮との三重の運命を背負はされてをるのであります。即ち、「娼婦エリザ」は、社会に対する呪咀の一幕であるといへます。  ……なほ、娼家を監視する警察官を以て、一種の客引なりと断じたのは、決してこの作者が初めてではありません。(議場騒然)  ブルウス君──諸君は子供ではないだらう。  ミルラン君──本員の言葉遣ひが聞くに堪へないやうなものであるとは思ひません。が……。(続け給へ、と呼ぶものあり)  ……警官をかくの如き名で呼んだ最初の人は──これを申しても誰の迷惑にもならぬと信じますが──それは、文部大臣の御同僚たるギュイヨオ君であります。同君の醜業婦に関する著書を見られるがよろしい。(笑声起る)ギュイヨオ君はその著書の中で、「娼婦エリザ」に関し、最も正しい批判を下してをられます。  ギユイヨオ君(労働大臣)──その意見は今日も変更しません。  ミルラン君──意見を変更されない、よろしい、本員もさう信じます。「娼婦エリザは椿の花を持てる婦人の群より離れて、貧しき少女の上に眼を転じたことが、世間を騒がせた」と云つてをられるのは至言であります。  即ち問題は、劇場に於いて、この種の社会問題を取扱つた作品を上場することが、危険であるかどうかであります。(文部大臣首を横に振る)  大臣は危険でないと云はれる、それならば、上演禁止の理由は作品の思想と関係はないことになります。或は、「娼婦エリザ」が公衆道徳を紊すものであると云はれるなら、政府検閲官が、今日まで、果して公衆道徳の完全な維持者であつたか、どうかは、知る人は知つてをるのであります。(左翼より「然り然り」と呼ぶものあり)毎夜、半裸体の婦人の群を舞台に上せ、卑俗極まる歌詞を高唱させてをる幾多の劇場や寄席は、一体どうしたのですか。これを取締らずして、一方、近代小説史上、最も偉大なる名を残すべき作家の一人、ゴンクウル氏並びに、批評家が挙つてその才能を謳歌しつつある新進アジュルベエル氏、この二人の名を冠した、厳粛にして道徳的な作品「娼婦エリザ」の上演を禁止するとは実に言語同断であるといはねばなりません。(拍手)  ………………………………………………  本員は、平素、その人格に多大の敬意を払つてをります文部大臣から、検閲の標準について明確な指示を与へられることを希望します……。あまり長く喋舌りすぎたやうです。(「そんなことはない」と叫ぶものあり)然しながら、問題はわが仏国の文学芸術に関する極めて重大な問題でありますから、敢て議員諸君の配慮を煩はす次第であります。(左翼議席より一斉に拍手起る)  レオン・ブウルジュワ君(文部大臣)登壇──ミルラン君の御質問に対して、なるべく御満足なお答へを致したいと思ひます……。最も慎重に、最も自由な立場から、戯曲「娼婦エリザ」を研究審議致しました結果、公衆道徳の上から見まして、上演を禁止する必要があると信じたのであります。  抑も検閲といふ法規が存在し、それを文部大臣が実施することになつてをりますが、時によると文部大臣の取つた処置を、不適当であると云ふものもあるでありませう。また時によると、文部大臣自ら自分の取つた処置を悔む場合もあることと思ひます。実際、検閲といふ役目ぐらゐ機微なものはありますまい。禁止をしたがために万人の恨を買ふこともありませう。許可したがために、また万人の譏りを受けることもないとは云へない。ただし作者を除いてであります。(笑声)  兎に角、検閲といふものが存在する、これはどうすることもできない。事ある毎に、新聞などで検閲の不法を鳴らすけれども、決してこの制度はなくならないのであります。検閲はその実、劇作家一同の利益のために存在するとまでいはれてをります。それは、誰がさう云つたかといへば、最も大胆な、そして最もこの問題に関係のある、つまり、最も頻繁に、最も烈しく取締条令に触れた劇作家、アレクサンドル・デュマ・フィスその人であります……。彼の言に従へば、「検閲は姑のやうなものである。一緒にをると、だんだん要領を覚える。ただ、可なりの辛棒と、少しばかりの機転が必要だ」さうであります。(笑声)  そこで、この度の検閲が、果して、邪慳な、うるさい、辛棒ができないほどの姑であつたかどうかを、一と通り考へてみたいと思ひます。  その前に、ミルラン君から、寄席で唱ふ歌詞について御注意がありましたが、これは、検閲官も手を焼いてをる次第で、一旦禁止した歌詞が、無断で唱はれてをるやうなことが間々あるのであります。この問題について、これ以上申す必要はありますまい。直ちに「娼婦エリザ」問題に移ります。  先づ、ミルラン君は、上演禁止の理由を質されました。  このことについては、ゴンクウル氏自身が新聞記者に対して、答へた言葉を参考にしたいと思ひます。「今度の上演禁止については、あなたも、いくらか懸念をおもちにはなりませんでしたか」といふ問ひに対して、「さうですね、文句なしに通ると思ひませんでした。禁止されたと聞いて、さほど驚きもしませんでした」と云ひ、「この作品が社会問題を取扱ひ、政府の施設を攻撃したといふ点、ああいふ女の生活を如実に描いてあるといふ点、それは禁止の表面の理由であらうが、それよりも、当局と、脚色者アジャルベエルとの間に個人的の感情問題があるのです」  諸君、この一項は、ゴンクウル氏の誤解であることを信じて頂きたい。  ミルラン君──本員はその点には触れませんでした。  文部大臣──ミルラン君は触れられなかつた。ただ序だから申すのであります。  なほ、「娼婦エリザ」は、ゴンクウル氏が主として云はれる如く、また、ミルラン君が繰り返された如く、決して、社会問題乃至政治問題を取扱つたがために、禁止されたのではないことを明言します。  わが尊敬するゴンクウル氏は、仏国共和国政府の諸君が、いかなる感情の下に、その職務に当つてをるかを御存知ないとみえる。この種の問題の研究に対して、不断の注意と、最も熱烈な同情を向けることはわれわれ当局の名誉であり、且つ義務であります。ただ、その研究の態度如何、発表の形式如何が考慮の対象となるのであります。  本大臣は極めて困難な立場にあります。一方、劇場に於ける「娼婦エリザ」の上演を禁止しながら、いま、この議場に於いて、その内容を公開しようとしてをるのであります。  リヴェ君──ここは劇場ではない。  文部大臣──……そこで、先程、ミルラン君が希望された如く、本大臣も、万一、口にすべからざることを口にした際は、議長に於いて、宜しく制止の労を取られんことを希望します。(私語するものもあり)  先づ、最初に、「娼婦エリザ」の梗概を簡単に申上げます。(議場騒然)  議長──文部大臣の演説を聴かれないつもりですか。(笑声)  文部大臣──簡単に筋を申します、エリザは朋輩の女三人と一緒に家を出ます。日曜日であります。ブウロオニュの森の一隅に、訪れる人もない墓地がある。そこへ散歩に出かけるのであります。そのうちの一人、即ちエリザは、自分のところに通つて来る客のうち、一人の若い兵卒に特別に心を惹かれてゐる。朋輩の女共はこの恋愛について、彼女をひやかしなどする。そこへ、例の兵卒がやつて来る。エリザと二人きりになる。初めのうちはなんでもないが、だんだん二人の感情が昂じて来る。(私語が起る)  諸君、御心配は御無用であります。決して不穏な言辞は弄しないつもりであります。  若い兵卒は、エリザに向つて、この墓地のなかで、自分の自由になることを求めます。彼女は拒絶します。兵卒は腕づくで目的を達しようとする。彼女は遂にその情人を殺すのであります。第一幕はこれで終ります。第二幕は法廷の場であります。(議長に向ひ)作者の意図を極めて正確に伝へたつもりですが……。  議長──さやう、適当に削除はしてをられますが……。(笑声)  文部大臣──第二幕は殆ど弁護士の弁論を以て、終始してをります。この弁論は、実に見事であります。つまり、先程ミルラン君が述べられた娼婦の運命より説き起して、社会制度の不備を指摘し、エリザの罪はその実、無知と病毒と貧窮の罪であると断じてをるのであります。然しながら、結局、エリザは死刑の宣告を受けるのであります。  第三幕は、別に、この問題と関係がありませんから省略します。  筋は大体右の通りであります。成程これだけでは、何等不都合はないと思はれるでありませう。取扱はれてをる問題は、社会哲学の問題であつて、この問題が論議されることは少しも差支ないと思ひます。然しながら演劇に於いては、事件がいかに公衆の前に現されてをるかといふ問題が、極めて重要なのであります。この点に関し、フウキエ氏が昨日発表された文章中の最も適確な言葉を借用すれば、作者の意図と作品の外観との間に、一つの間隙があるのであります。つまり、眼前に展開された光景の、ある形態、ある細部が、公衆に、嫌悪、不快の印象を与へると認めなければならない場合があるのであります。  デルウレエド君──その場合、嫌悪の情はむしろ道徳的である。  議長──さうとばかりも云へません。  文部大臣──さうとばかりも云へません。さうです、議長の云はれることは至極尤もであります。かういふやうなことは、舞台を見た直後の印象によつて、判断をしなければなりません。若し、公衆に採決の権利を与へたとしたならば、その結果はどうでありませう。この作品を見て笑つてをるものと、さつさと家に帰つて行くものとの間には、投票の結果に自ら大なる差があると思ひます。われわれは、そのどちらかといへば、さつさと家に帰つて行く方なのであります。(拍手起る)  それならば、この戯曲の細部はどうであるか、場面場面の色調はどうであるか。  女どもが登場します。互に名を呼び合ふのでありますが、その名は、「頬張月」「エリザ」「プウレット」、それから「ぶつた斬りのマリイ」  会話が交換されます。そして、話が例の兵士のことに及びます。「さうさ、あたしや好きだよ、あの男……。あの人のためになら、からだをコマ切りにされてもいいよ」エリザがかう云ふと、先程ミルラン君も引用されたとほり、今度はプウレットが、「こいつあ、をかしいや。お前がそんなだつてこた、夢にも知らなかつたね、誰かにのぼせちまうなんてさ……。だつて、今まで、お前のつていふのが一人でもゐたかい……。」(「モウそれでいい」「わかつた、わかつた」「ヨシヨシ」など呼ぶものあり)  議長──文部大臣の演説を最後まで聴かれるやうに……。  文部大臣──この句は後を読まずにおきます。先程ミルラン君が読まれましたから……。然し、ミルラン君は、その後の返答を読まれませんでした。「さうぢやないんだよ……あの人とだつて、ほかの男とだつて、あたしや、一度も……。それがだよ、あの人だけはあたしんとこへ通つて来て欲しくない、さう思ふほど、あの人が好きなんだよ……。あたしんとこなんかへ来ると、あの人が汚れるつていふ気がするの……」するとプウレットが、「ちえツ、およしつたら、くだらない理窟は……。どうせ女ぢやないか、あたしたちは……。それに、人様のお厄介になつてやしないんだからね……。人殺しをした覚えもなけれや、泥棒したことだつてありやしない……。お前の云ふことを聴いてると、まるで、あたしたちは罪人ぢやないか……。ああして、家ん中で働くのがどこが悪いのさ……。世間にいくらだつてゐる、あの亭主持ちの女と、一体どう違ふんだい……」(議場騒然)  かう騒がしくては本文を読み上げることができません。  マイエ伯爵──文部大臣は上演禁止の責任を負はれたらよからう。朗読はそれでやめられたい。(右翼より「然り然り」と叫ぶものあり)  議長──諸君は文部大臣の脚本朗読を聴かれたら如何です。  文部大臣──諸君、本大臣は……責任上、問題の性質を明かにしておく必要を認めます。  フイリポン君──その必要なし。理由は正当と認める。  議長──それでは、真相を糺さずに、事件を解決されるおつもりですか。(私語起る)それでは、少しお覚りがよすぎるでせう。(左翼より拍手起る)…………  文部大臣──先を読みます。「ぶつた斬りのマリイ」……「そればかりでなくさ、時間はすぐたつちまうよ……。打ち合せだつてしなくちやならないし。七時の顔見世に遅れちや駄目だよ」  プウレット。六時に帰つといでよ、アプサントの時間だからさ……。  エリザ。のみ助! ぢや、七時十五分前まで……。  プウレット。(ほかの女たちを見返り)見ておやりよ、この色狂気をさ。  エリザ。あら、さうぢやないんだよ……。だつて、もう十五日も家ん中ばかりに引つ込んでたんだもの……。たまに一日ぐらゐ檻の外で暮したいよ……いい天気だね。ぶらぶら歩いてみたいね。  頬張月。そんなら、歩いといでよ、ぢや、今夜また……。  プウレット。云つとくけど、うつかり、つかまつたまま眠つちまつちや駄目だよ……。お神さんは、日曜ときちや、それこそ手におへないんだからね……。時間に間に合ふやうに帰つといでよ……。  第二場であります。恋人二人の場面であります。濡れ場であります。初めは極めて美しい場面であります。幼時の憶ひ出を語つた後、男はエリザに向つて「おお、エリザ……」と呼びかけます。エリザは「あああ、あたしが、働らかなくつてもいいからだなら……」そこで、男は、女を抱きながら後ろに倒さうとする。  中央の議員──文部大臣、もう沢山です。  文部大臣──なんですか。われわれは、真面目な問題を討議してゐるのです。(「先を読んで下さい」と叫ぶものあり)  もう一句だけであります。男は、草の中を、膝を突いたまま、女の後を追ふ。エリザ。あんたがはじめて来た時、あの時分のあたしは、それや、なんの役にも立たない女だつたの。来る男も……来る男も、汚ならしいことばかり云つてさ……殺してやらうと思つたことが幾度あるかしれない……。それに乱暴でさ……まるで獣さ……。それに、あんたは、あんただけは、それや、優しいんだもの……。大きな声ひとつ立てないで……。男は、だんだん興奮して、なほも女に近づかうとする。そして遂に、女の胴に腕を捲きつける。(議場また騒然。「モウヤメロ」と叫ぶものあり)  男は、相手を押へつけようとする。  諸君、作者は、かくの如くにして、この種の女の生活その儘を描かうとしたのであります。  レイベエル君──寄席の如く……。  文部大臣──恐らく、譬へ舞台の上に、妓楼の内部を現はしたとしても、これ以上完全に彼女らの生活を、観衆の眼前に髣髴せしめることは至難の業でありませう。この理由でこの脚本は、上演を許すことができないのであります。  ミルラン君が云はれるやうに、訂正すべき個所を指摘することは、かくの如き描写全般に亘る問題にあつては、何等その効力がないのみならず、一語一句が悉く一情景の芸術的要素として、動かすべからざる役目を務めてゐる場合、われわれの如き門外漢の協力は、却つて作者にとつて御迷惑であらうと、わざわざ差控へたのであります。遺憾ながら、文部大臣合作戯曲の処女公演は、次の機会に譲ることと致します。(笑声)  若し、ミルラン君が、作者と共に、この戯曲の部分的修正によつて上演を可能となし得ると信ぜられるなら、本大臣は、甚だ大なる芸術的興味と、満腔の好意とを以て、その研究に着手したいと思ひます。  アンマン伯爵──議場で読み上げるくらゐなら、公演を許しても差支ないではありませんか。  ミルラン君──文部大臣は作者自ら修正の個所を示せと云はれますが、これは不合理も甚だしい。  文部大臣──作者は、今日、禁止の理由を知つた以上、作者として、その理由を除く方法をとられることは御随意であるといふのである。  ミルラン君──繰り返して云ひますが、本員は、検閲の方針が場合によつて異るといふことを心外に思ふのであります。ところで、文部大臣はこの戯曲を以て上演不可能なるものとなし、しかも、その戯曲の一部を本議場に於いて朗読せられたのであります。それは既にある部分が公然上演せられても差支ないといふことを、文部大臣自身裏書をされたやうなものであります。文部大臣は恐らく、検閲官が禁止をした、カフエー・コンセールの小唄をこの議場で口吟まれることはできないでありませう。本員は飽くまでも、当局の態度が、淫靡軽薄なるこれら、俗謡に対する場合に、寧ろ寛であり、悲痛にして、厳粛な文学的作品に対して、却つて、厳であるといふ事実を責めようとするものであります。(盛なる拍手)  議長──これで討議を終ります。  議会傍聴はこれだけにしておくが、翌日、新聞フィガロは、この論議について、長文の社説を掲げ、最後に結んで曰く、「議会はかくて、一時間余に亘り、採決を要しないこの討議の一場面を喝采した。わが議員連は実際、あまり文学を談ずる機会をもたない。官報議事録を読むものは、演説中しばしば、不適当な半畳を入れるものがあり、彼等の大部分がいかに劇界の事情にうとく、作者、又は、批評家の社会的地位、乃至、権威に盲目であるかをたしかめ得た。然しながら、考へて見れば、地方の一選良は、敢てこの種の問題に精通する必要はないかもしれない。」 底本:「岸田國士全集20」岩波書店    1990(平成2)年3月8日発行 底本の親本:「時・処・人」人文書院    1936(昭和11)年11月15日発行 初出:「中央公論 第四十一年第四号」    1926(大正15)年4月1日発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:tatsuki 校正:門田裕志、小林繁雄 2006年2月18日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。