カルナツクの夏の夕 岸田國士 Guide 扉 本文 目 次 カルナツクの夏の夕  画家のO君から手紙が来て、静かな処だ、やつて来て見ろといふことでした。  細君からも何か書き添へてあつたやうに思ひます。  巴里から十何時間、ブルタアニュの西海岸で、その昔ケリオンといふ不思議な小人が住んでゐた処です。  宿はさゝやかなホテル・パンシヨン、国道を距てゝ美しい牧場などがありました。  海へも遠くはない。  聖堂の古風な鐘楼、広場の物語めいた泉水、それに、空は低く、森は黒ずんでゐました。  小川のへりに、牛が睡つてゐる。  女はレエスで髷をかくしてゐる。  カンナが赤く黄色く、食堂のテラスに咲いてゐました。  宿には、もう十人近くの客がありました。家族連れが多い。  夕食が済むと、みんなテラスへ出て、話しをしたり、歌を唱つたりしました。グラン・ギニヨル(物凄い芝居)の声色を使つて、女どもを喜ばせてゐる一癖ありさうな若者などもゐました。  ある晩、瓦斯会社に出てゐるといふM氏の細君が、「あなた方は若い方ばかりのくせに、どうして踊らうとなさらないの」と、さも心外らしく、一座の人達を見まはしました。 「ぢや、奥さん、ピアノをどうぞ」Sといふ工手学校の生徒がやり返しました。  食堂には、自働ピアノが置いてありました。 「僕は、風琴弾きを雇つて来ることを提議します」これはTといふ新聞記者でした。 「賛成」口々にかう叫んだ。  読者よ、今こゝで丁度月が出ることを許して下さるでせうか。そして、わたくしが少しばかり物想ひに沈んでゐることを……。  口髭を生やした大男が、風琴を提げてやつて来ました。 「リデエ!」 「リデエ!」 「リデエ!」  娘たちが騒ぎました。  リデエといふのはブルタアニュ特有の踊りなのです。 「さ、みんな輪になつて……」  郵便局の事務員、月給四百法のC嬢は、その弟の手を取りました。 「僕は、リデエなんか知らないよ」 「来ればわかるのよ」  わたくしは、O君の方を見ました。踊り好きの細君は、これもいやがるO君の両手を引張りながら、もう足だけは風琴の音に合はせてゐます。 「駄目よ、そんな顔したつて……」  わたくしは、どんな顔をしてゐたのでせう。多分、「君踊るかい」といふやうな眼つきをしてO君の方を見た、それなのでせう。それとも、「困つたことになつたなあ」そんな顔をしたかもわからない。O夫人は、御亭主とわたくしを両手に引据ゑて、「さ、あなたはマドムアゼルP……と手をおつなぎなさい。あんたは──と夫の顔を見て──あんたは、さうだ、マダムM、ねえ、ちよいと、奥さん、此の人の右の手を預かつて下さらない」  マドムアゼルP……と呼ばれた少女は、やゝはにかんでゐるらしく見えました。  此の憂鬱な東洋の青年が、恐る恐る差し出す手を、彼女はしばらく見つめてゐました。指は五本ある──彼女は、急に元気よくわたくしの手に飛びついて来た。実際、飛びついて来たのです。  人の輪が、静かに、左へ左へと廻りはじめました。  単調な、素朴な、そしてなんとなく神秘なその風琴の舞踏曲が、古めかしい民謡のもつ独特な世界へ人々の心を惹き入れました。  わたくしは、マドムアゼルP……と共に、手を振り、足を挙げました。さては、うろ覚えの歌の文句を、低く口吟んで見たりしました。おゝ、故郷の父母よ、同胞よ、そつちを向いておいでなさい。  わたくしはもう疲れて来た。一人列を離れて、林檎酒のコツプに、唇をあてました。マドムアゼルP……は、前よりも一層快活に踊つてゐるのです。そして、わたくしの方は一度も振向かうとしない。  おそろしく蒸し暑い晩でした。  マドムアゼルP……は、その日、水色の支那絹のロオブ、髪は何時もの通り二つに編んだお下げ、象牙まがひの腕環が細い手頸で遊んでゐました。  母親だとばかり思つてゐた、これはまた苦労人らしい中年の婦人は、彼女の伯母さんだといふことがわかりました。  その次ぎには、パ・ド・ルウを踊ることになりました。此の古典的な舞踏は、また若い娘たちをよろこばせました。逞しい騎士の群にまじる美しいプリンセスのやうに、彼女らは、軽く裾を取つて、しとやかに腰をかゞめるのでした。  マドムアゼルP……の真面目な顔を見て、わたくしも笑ふわけに行きません。 「あら、違つてよ」といふその眼つきに、惶てゝ歩を踏み直す時など、わたくしの心は暗くなつた。暗くなるだけならいゝが、いやに動悸が高まるのでした。  わたくしはその頃、O君の勧めで、なぐさみ半分に絵を描いてゐました。一緒に絵具箱などをかついで、写生に出掛けたりしました。  カンヷスの周囲に子供たちが集つて来ました。O君の画とわたくしの画とを見比べて、大方の子供は、わたくしの方に寄つて来ました。そして、O君の耳にもはいるほどの声で、「こつちの方がうまいや、ねえ」などゝ、さもお世辞らしく囁いてゐるのを気にしながら、空を青く、雲を白く、そして木の葉を緑に染めてゐました。  マドムアゼルP……は、わたくしを画かきだと思ひ込んでゐました。 「肖像もお描きになるの」  踊りが一とわたり済んで、一隅のテーブルに腰を卸ろした二人は、そんな風に話をしだしました。  わたくしはO君の奥さんを、一度描きかけて、どうにもならなくなつたことを想ひ出しました。 「いゝえ」 「あら、風景だけ……」 「それから、静物も…………」  やれやれ、マドムアゼルP……は、がつかりしたやうに横を向きました。 「あした、写真を撮つてあげるから、いらつしやい」  さういふことでも云はなければなりませんでした。  人々は夜の更けるのを忘れてゐるやうでした。  新聞記者のT氏が、何やら大声で、面白さうな話をしてゐました。いつの間にか、わたくしたちも、その話に耳を傾けてゐました。 「…………すると、婆さんは考へた──今度こそ眼に物見せて呉れよう。  その翌日、婆さんは、何時もの通り、鍋でスープを煮ました。が、その日は、それを火にかけたまゝ、仕事に出て行きました。  狼は、そんなことゝは知らずに、またやつて来て、鍋の中に顔を突つ込んだ。  ──熱いツ──狼は、驚いて舌をひつ込めた。そのはづみに、鍋がひつくり返つて、くらくら煮え立つたスープを、頭からひつかぶりました。  狼はほうほうの体で逃げ帰り、いまいましさうに、この事を仲間に告げました。  ──畜生、そんなら、あの婆を食つちまへ、といふことになつた。  その晩、狼たちは、大挙して婆さんの家を襲ひました。  婆さんは、丁度、おもてゞ涼んでゐました。何十匹といふ狼に取巻かれて、もう逃げるにも逃げられません。しかたがなしに、そばの杉の木に登りはじめました。 「それツ」と、狼たちは、その杉の木の根もとにつめ寄つた。婆さんは、ずんずん上へ登つて行きました。  ──やい、降りろ、糞婆!  ──降りなきや、振り落とすぞ。  狼たちは、しかし、此の太い杉の木を揺すぶるほどの力がない。  そこで、今朝、スープで火傷をした狼がかう云ひました。  ──お前たち、順々に背中へ乗れ。おれが一番上になつて、あの婆を咬み殺してやる。  ──さうだ。  狼たちは順々に背中へ乗りました。だんだん婆さんは危くなつて来る。  ──もう少しだ。  一番上の、今朝スープで火傷をした狼が叫びました。  婆さんは、杉の木のてつペんで足を縮めてゐました。  狼の口が、裾にとゞかうとする瞬間です。恐ろしさのあまり、婆さんはつひ粗相をしてしまひました。……」  どツと、笑ひ声が起りました。マドムアゼルP……は、両手で顔を覆ひました。  T氏は平気で続けました。 「婆さんは、恐ろしさのあまり、気が遠くなつて、つひ、粗相をしてしまひました。  ──熱いツ! 熱いツ!  上の一匹が、かう叫んだ拍子に、一番下の一匹が飛び退いたからたまらない。梯子はぐらぐらつと崩れ落ちてしまひました。  手を折り、足を挫いた狼たちは、熱いツ熱いツと口々に叫びながら、雲を霞と散りうせました」  笑声はしばらく止みませんでした。  T氏は、徐ろに語をついで、 「ブルタアニュの伝説は、まあ、こんなものです。もつと奇怪な、俗つぱなれのしたのもあります。また明晩……」  マドムアゼルP……は、片手で顔をおさへたまゝ、わたくしの手を握りました。そして、口の中で、「おやすみなさい」と云ひました。 底本:「岸田國士全集20」岩波書店    1990(平成2)年3月8日発行 底本の親本:「言葉言葉言葉」改造社    1926(大正15)年6月20日発行 初出:「婦人公論 第十年第七号」    1925(大正14)年7月1日発行 入力:tatsuki 校正:門田裕志、小林繁雄 2006年2月18日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。