文学か戯曲か 岸田國士 Guide 扉 本文 目 次 文学か戯曲か  人道主義者ロマン・ロオランはまた民衆劇運動の唱道者である。その著書『民衆劇論』はなかなか傾聴すべき議論であつて、当時一部の活動家を刺戟して、危くソフォクレスの時代を夢想せしめたことは事実である。  しかも彼れロオランは、例によつて、一理論家たるに甘んぜず、名著『ジャン・クリストフ』を編んだ如く、こゝにまた近代悲劇数篇を綴つて普ねく世に問うたのである。  此の『狼』はその一つ。  わが築地小劇場は、在来の貴族的乃至ブウルジュワ的芸術を排して「民衆の為めに、民衆によつて」創造せらるべき「芸術」を探究しようとしてゐるらしい。殊に、この新しき芸術は、必ずしも芸術と叫ばれなくてもいゝ。「芸術に代るもの」であつてもいゝとさへ同劇場の首脳は考へてゐるらしい(此の一項は僕一個の解釈である)。芸術と云ふ言葉は既にあまりに貴族的であり、ブウルジュワ的であると云ふのではなからうか。  此のプリンシプルから生れた築地小劇場の事業は、正に刮目に値するものである。何となれば、芸術としての演劇は、やがて、われわれの眼前に新しき表現を以て提示せられ、今日われわれの「夢みつゝある舞台」は、その傍に於ては、小さく、醜く、愚かなるものとなつて、識者の憫笑を買ふに過ぎないものとなり終るであらうから。  僕は、同劇場の第一回公演を観て、聊か卑見を述べて置いた(『新演芸』七月号)。その後、偶々小山内、土方両氏の弁明を聴く機会を得、その結果、僕は今後、築地小劇場とたゞ一点に於て、最も重大なる一点に於て異つた立場にあるべきことを気づいたのである。  なぜ、重大であるか。それは、演劇の本質問題に触れてゐるからである。 「戯曲の価値と演劇の価値とは全然別物である」──「従つて、演劇の価値を戯曲の価値によつて批判してはならない」──「戯曲は文学である。演劇は文学ではない」──かういふ議論が出た。  僕は答へる。──「戯曲の価値は演劇の価値を根本的に左右するものである」──「平凡な戯曲が演劇として、即ち、上演の結果、或る程度まで救はれることがある。然し戯曲の平凡さが演劇の効果を傷けることに於て少しも変りはない」──「演劇の価値を戯曲の価値のみによつて批判してはならない。それなら、何もいふことはない。然し、重ねて言ふ、演劇の価値は戯曲の価値によつて根本的に左右される──なぜなら、演出者が、純然たる芸術的立場より脚本を選択する以上、平凡な戯曲、愚劣なる脚本を敢て上演することは、上演者そのものゝ劇芸術に対する眼識を疑はしめるばかりでなく、かくの如き上演者が、真に優れた上演者であり得る筈はないからである」──「戯曲は文学の一部門である。それはわかつてゐる。しかし、戯曲であることをよそにして、戯曲の文学的価値を論ずるものがあつたら、それは批評家ではない。舞台的因襲に縛られた上演の効果問題は別である。現在の演出者では上演出来ないと思はれる戯曲にも、優れた戯曲があり得る。これこそ、「どうにかしなければならない戯曲」である。」──「演劇は文学ではない。勿論である。氷は水ではない。雲も水ではない。」──「詩や小説を批難する時にさへ、此の詩は、此の小説は、文学の臭ひがする、と云へないことはない。」──  此の二つの議論は、共に新しいものではなさゝうである。今日まで、欧羅巴に現はれた新劇運動の大勢に通じてゐる人は、はゝあ、それぞれやつてゐるなと思ふだらう。全くその通りである。こんなことでは駄目だ。机上の空論では駄目だ。その意味で築地小劇場が、一つのプリンシプルを土台として、華々しく旗挙げをした壮図に先づ敬意を表する。そして、僕は、そのプリンシプルをプリンシプルとして攻撃することを止め、着々進みつゝあるだらう処の計画の実現、一歩一歩理想に近づきつゝあるだらう処の努力の結果を見て、言ふべきことを言ふつもりである。  扨て、築地小劇場の第二回公演はどうか。前にも述べた通り、ロマン・ロオランの戯曲を此の劇場が選んだ理由は、略想像がつくのである(女優のいらない脚本として選んだといふことは、主要な理由にならない。また、したくない)。処が、その自然らしく思はれる選択方法のうちに、奇怪なる矛盾を含んでゐることを感じるものはないか。それはロマン・ロオランの戯曲が甚だ「文学」の域を脱しないものであることである。演劇から文学を排除する運動、云ひ方がわるければ、演劇をして文学より独立せしめる運動、更に言葉を換へて云へば、演劇をして最もそして純粋に、演劇たらしめる運動と目すべき築地小劇場が、戯曲と云ひ得るものゝうちで最も「文学臭味」の多い、最も「非戯曲的」な戯曲の一つを選んで上演したと言ふことである。  巧みな騎手は好んで悍馬を御する例しもあり、エキリブリストは大道を歩むより針金を渡ることを快とするかも知れない。然しながら、その心理を以て直ちに芸術家の──暫くかう呼ばして下さい──心理を計るのは無礼である。要するにロマン・ロオランの名を信じ過ぎた罪のない誤りではあるまいか。  僕の言ふ「非戯曲的」と云ふ意味は、築地小劇場のいふ「演劇」なるものゝ内容はた本質と更に関係の無いものであるかも知れない。かも知れないではない、きつとさうに違ひない。──どんなつまらない戯曲でも、一度、優れた演出者の手にかゝれば、立派な演劇になるわけである。──かう極端に論じつめなくつてもいゝ。実際、そんな筈はないのだから。──そして、実際、築地小劇場は、どの劇場にも増して、上演目録の選択に腐心してゐるのだから。──それなら、一体、どういふ戯曲があなた方の上演慾をそゝり、あなた方の目ざしてゐる「理想の演劇」に応へ得る戯曲ですか。──『海戦』のやうなものですか。『白鳥の歌』のやうなものですか。『休みの日』のやうなものですか。さては此の『狼』のやうなものですか。──その何れにも共通な、「或る本質的なもの」、さういふものを有つてゐる戯曲と答へられるでせう。──よろしい。それならば、『白鳥の歌』と『狼』とに、本質的に共通な点がありますか。戯曲としてゞすよ。  築地小劇場が、チェホフの一短篇を上演目録中に加へたことに同感ができる僕は、『狼』を加へたことに全然同感ができない。チェホフの戯曲の戯曲的価値を──所謂文学的価値ではない──認め得る人が、ロマン・ロオランの戯曲を買ふ筈はないと思ふのである。また反対に、ロマン・ロオランの戯曲に劇的価値ありと主張する人が、チェホフをその傍に並べることは頗る不合理である。これは、ロオランが好きか嫌ひかの問題ではない。  固より「新しき演劇」への第一歩である。築地小劇場が、その同人の数こそ多けれ、演劇に対する同一信条を抱いて結合してゐる以上、此の点にぬかりがあつてはならない。僕は、ひたすら、チェホフとロオランとの戯曲に、倶に含まれてゐるかも知れない「明日の演劇」の要素を、此の若い劇団の手によつて何時か示して貰ふことを期待してゐる。皮肉ではない。僕の現在もつてゐる演劇本質論は、「今日までの演劇」を基礎として、その進化の跡を辿り、消長の原因を尋ねて得た結論に過ぎないのである。  繰り返して言ふ。優れた演劇が「優れた戯曲」の「優れた演出」から生れることに異論はあるまい。然しながら、「優れた戯曲」は常に「優れた演出」を予想して書かれたものであることを忘れて欲しくない。従つて、「優れた戯曲」を選ぶことは「優れた演出」の根本要件であることを肝銘しなくてはならない。たゞこゝで、築地小劇場が、これから試みようとする「新しき演出」に、われわれのいふ「優れた戯曲」を要しないと云はれゝばそれまでゞある。それなら、その「新しき演出」の為めに必要な「優れた戯曲」とは如何なるものか、これが、問題である。興味のある問題である。  僕は、主として仏蘭西の芝居を通して、演劇の如何なるものかを学んだ。従つて、見聞は甚だ狭いわけである。然し、個人的趣味乃至民族的努力を別にして、演劇の本質的価値といふやうなものは、古今東西を通じて、それほど差異があらうとは思はれない。時代時代を劃する反動的運動の如きは、大局から見て第二義的の問題である。希臘劇の優れた劇的要素は、形と色に於てこそ別種のものであれ、シェクスピイヤの戯曲にも、ラシイヌの戯曲にも、ミュッセ、イプセン、ストリンドベリイの戯曲にも、チェホフの戯曲にも、それぞれ之を見出すことが出来ると思つてゐる。それは、優れた劇的作品のみが有する霊感の閃きである。主題と結構と文体との微妙な結合が、渾然として醸し出す雰囲気の流れである。生命のリズムである。感情の必然的飛躍である。顫慄の波である。  優れた演出とは、優れた戯曲の有する本質的価値を遺憾なく舞台上に表現することでなくて何んだ。新しき演出、結構である。たゞ、戯曲の本質的価値を無視した演出は全然「無くてもいゝもの」である。  アントワアヌ以後、欧洲の劇壇に新しき運動を齎した名ある舞台芸術家は、演劇の本質についてそれぞれ異りたる見解をもち、或るものは演伎上の写実主義に、或るものは舞台の絵画的表現に、或るものは俳優の人形化に、或るものは舞台と観覧席との障壁排除に、また或るものは舞台の様式化による観念的演出に、何れも演劇の要素を見出さうとした。而も、未だ嘗て戯曲そのものゝうちに、一切の劇的効果を求め、俳優をして、舞台装置家をして、「戯曲に奉仕する」観念を第一信条とせしめないで、真に優れた舞台芸術を創造したものがあることを聞かない。  築地小劇場の首脳は、言ふまでもなく、演劇の本質問題について一つの定見を有つてゐるに違ひない。その定見は、何等かの方法で、早晩われわれの前に提示されることであらう。それにしても、統一ある上演目録によつて先づ之を暗示しさうなものである。  かういふことは考へられないこともない。築地小劇場は民衆の為めの劇場である。故に民衆芸術の唱道者ロマン・ロオランの戯曲は、その劇的価値の優劣に拘はらず、民衆の糧となり得べき性質のものである、如何と。  万一さういふつもりなら、僕は築地小劇場に「さよなら」を言ふであらう。  いや、いや、そんな筈はない。  ロマン・ロオランの戯曲が、戯曲として本質的の欠陥を蔵し、一般のレベルから見ても平凡極まるものであることは、まあ先生の戯曲を原文で読んで見ればわかる。退屈しますよ。訳文になるとさうでもないとおつしやるのですか。それは何の証拠にもなりません。「悪いもの」ほど翻訳されると割が良いのですから。 『狼』は下らない戯曲だとする。それなら、演出はどうか。そのことについてお前はなんにも云はないな。演劇としてはどうか。それは戯曲『狼』の価値と関係はない。かう築地小劇場は云ふに相違ない。  人は何といふか知らないが、僕は一向感心しなかった。第一、それは必ずしも演出者の技倆を軽視することにならない。なぜなら、つまらない戯曲からは、つまらない演劇しか生れない道理であるから。それならば此の演出者は、どの程度まで戯曲『狼』のつまらなさを救つてゐるか。──救はうとした努力は見える。然しそれは徒労に終つてゐる。不快な比喩かも知れないが、騎手土方氏は悍馬『狼』の背に跨つてゐるといふだけである。然し、悍馬と思つた『狼』は、その実駑馬であつた。一歩進んでは止り、二歩進んでは止る。太い頸を垂れて道ばたの草を食ふ。鞭があたる。少しは痛いと見えて、尻尾をぴくんとさせる。動かない。  報告、説明、主張、咏嘆、教訓──それ以外になにもない戯曲こそ滅ぶべきである。さういふ演劇こそ「鬼に呉れてやる」べきである。  また苦情ばかり並べ立てた。云ふまでもなく、悪口の為めの悪口ではない。僕は築地小劇場の存在を心から感謝するものである。──実際、此の劇場が無かつたら、僕は、もう劇評などゝいふものをしたく無くなつてゐるだらう。 底本:「岸田國士全集19」岩波書店    1989(平成元)年12月8日発行 底本の親本:「我等の劇場」新潮社    1926(大正15)年4月24日発行 初出:「演劇新潮 第一年第八号」    1924(大正13)年8月1日発行 入力:tatsuki 校正:門田裕志 2009年9月5日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。