春昼 太宰治 Guide 扉 本文 目 次 春昼  四月十一日。  甲府のまちはずれに仮の住居をいとなみ、早く東京へ帰住したく、つとめていても、なかなかままにならず、もう、半年ちかく経ってしまった。けさは上天気ゆえ、家内と妹を連れて、武田神社へ、桜を見に行く。母をも誘ったのであるが、母は、おなかの工合い悪く留守。武田神社は、武田信玄を祭ってあって、毎年、四月十二日に大祭があり、そのころには、ちょうど境内の桜が満開なのである。四月十二日は、信玄が生れた日だとか、死んだ日だとか、家内も妹も仔細らしく説明して呉れるのだが、私には、それが怪しく思われる。サクラの満開の日と、生れた日と、こんなにピッタリ合うなんて、なんだか、怪しい。話がうますぎると思う。神主さんの、からくりではないかとさえ、疑いたくなるのである。  桜は、こぼれるように咲いていた。 「散らず、散らずみ。」 「いや、散りず、散りずみ。」 「ちがいます。散りみ、散り、みず。」  みんな笑った。  お祭りのまえの日、というものは、清潔で若々しく、しんと緊張していていいものだ。境内は、塵一つとどめず掃き清められていた。 「展覧会の招待日みたいだ。きょう来て、いいことをしたね。」 「あたし、桜を見ていると、蛙の卵の、あのかたまりを思い出して、──」家内は、無風流である。 「それは、いけないね。くるしいだろうね。」 「ええ、とても。困ってしまうの。なるべく思い出さないようにしているのですけれど。いちど、でも、あの卵のかたまりを見ちゃったので、──離れないの。」 「僕は、食塩の山を思い出すのだが。」これも、あまり風流とは、言えない。 「蛙の卵よりは、いいのね。」妹が意見を述べる。「あたしは、真白い半紙を思い出す。だって、桜には、においがちっとも無いのだもの。」  においが有るか無いか、立ちどまって、ちょっと静かにしていたら、においより先に、あぶの羽音が聞えて来た。  蜜蜂の羽音かも知れない。  四月十一日の春昼。 底本:「太宰治全集10」ちくま文庫、筑摩書房    1989(平成元)年6月27日第1刷発行    1998(平成10)年6月15日 底本の親本:「筑摩全集類聚版太宰治全集第十巻」筑摩書房    1977(昭和52)年2月25日初版第1刷発行 初出:「月刊文章 第五巻第六号」    1939(昭和14)年6月1日発行 入力:増山一光 校正:小林繁雄 2005年2月23日作成 2016年7月12日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。