病牀六尺 正岡子規 Guide 扉 本文 目 次 病牀六尺 一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 十一 十二 十三 十四 十五 十六 十七 十八 十九 二十 二十一 二十二 二十三 二十四 二十五 二十六 二十七 二十八 二十九 三十 三十一 三十二 三十三 三十四 三十五 三十六 三十七 三十八 三十九 四十 四十一 四十二 四十三 四十四 四十五 四十六 四十七 四十八 四十九 五十 五十一 五十二 五十三 五十四 五十五 五十六 五十七 五十八 五十九 六十 六十一 六十二 六十三 六十四 六十五 六十六 六十七 六十八 六十九 七十 七十一 七十二 七十三 七十四 七十五 七十六 七十七 七十八 七十九 八十 八十一 八十二 八十三 八十四 八十五 八十六 八十七 八十八 八十九 九十 九十一 九十二 九十三 九十四 九十五 九十六 九十七 九十八 九十九 百 百一 百二 百三 百四 百五 百六 百七 百八 百九 百十 百十一 百十二 百十三 百十四 百十五 百十六 百十七 百十八 百十九 百二十 百二十一 百二十二 百二十三 百二十四 百二十五 百二十六 百二十七 「病牀六尺」未定稿 一 ○病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。僅かに手を延ばして畳に触れる事はあるが、蒲団の外へまで足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない。甚だしい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も体の動けない事がある。苦痛、煩悶、号泣、麻痺剤、僅かに一条の活路を死路の内に求めて少しの安楽を貪る果敢なさ、それでも生きて居ればいひたい事はいひたいもので、毎日見るものは新聞雑誌に限つて居れど、それさへ読めないで苦しんで居る時も多いが、読めば腹の立つ事、癪にさはる事、たまには何となく嬉しくてために病苦を忘るるやうな事がないでもない。年が年中、しかも六年の間世間も知らずに寐て居た病人の感じは先づこんなものですと前置きして ○土佐の西の端に柏島といふ小さな島があつて二百戸の漁村に水産補習学校が一つある。教室が十二坪、事務所とも校長の寝室とも兼帯で三畳敷、実習所が五、六坪、経費が四百二十円、備品費が二十二円、消耗品費が十七円、生徒が六十五人、校長の月給が二十円、しかも四年間昇給なしの二十円ぢやさうな。そのほかには実習から得る利益があつて五銭の原料で二十銭の缶詰が出来る。生徒が網を結ぶと八十銭位の賃銀を得る。それらは皆郵便貯金にして置いて修学旅行でなけりや引出させないといふ事である。この小規模の学校がその道の人にはこの頃有名になつたさうぢやが、世の中の人は勿論知りはすまい。余はこの話を聞いて涙が出るほど嬉しかつた。我々に大きな国家の料理が出来んとならば、この水産学校へ這入つて松魚を切つたり、烏賊を乾したり網を結んだりして斯様な校長の下に教育せられたら楽しい事であらう。 (五月五日) 二 ○余は性来臆病なので鉄砲を持つことなどは大嫌ひであつた。尤も高等中学に居る時分に演習に往つてモーゼル銃の空撃ちをやつたことがあるが、そのほかには室内射的といふことさへ一度もやつたことがない、人が鉄砲を持つて居るのを見てさへ、何だか剣呑で不愉快な感じがする位であるから、楽しみに銃猟に出かけるなどといふことはいくらすすめられても思ひつかぬことであつた。昨年であつたか岩崎某がその友人である大学生の某を誤つて撃殺したといふことを聞いた時に、縁も由縁もない人であるけれど余は不愉快で堪らなかつた。しかるにこの事件は撃たれたる某の父の正しき請求によりて、岩崎一家は以来銃猟をせぬといふ家憲を作りて目出たく納まつたので、それは愉快に局を結んだが、随つて一般の銃猟といふことに対してはますます不安を感じて来た。しかるに近来頭のわるくなると共に、理窟臭いものは一切読めぬことになつて、遂には新聞などに出て居る銃猟談をよむほど面白く心ゆくことはなかつた。ある坊さんがいふには、銃猟ほど残酷なものはない、鳥が面白く歌ふて居るのを出しぬきに後から撃つといふのは丁度人間が発句を作つて楽しんで居るのを、後ろから撃殺すやうなものである、こんな残酷なことはないといふたことがある。それは尤もな話で、鳥の方から考へる時には誠に残酷に違ひないが、しかし普通の俗人が銃猟をして居る時の心持は誠に無邪気で愛すべき所があるので、その銃猟談などを聞いても政治談や経済談を聞くのと違つて、愉快な感じを起す事になるのであらう。 ○そのうへに銃猟は山野を場所として居るのでそれがために銃猟談に多少の趣を添へることが多い。殊に玄人になると雀や頬白を撃つて徒に猟の多いことを誇るやうなことはせぬやうになり、自らその間に道の存する所の見えるのも喜ぶべき一カ条である。しかるに惜しいことには無風流な人が多いので、その話をきくと殺風景な点が多いのは遺憾なことである、銃猟談は前いふやうに山野に徘徊するのであるから、鳥を撃つといふことよりも、それに附属したる件に面白味があるのにきまつて居るが、その趣を発揮する人が甚だ少ない。近頃『猟友』といふ雑誌で飯島博士が独逸で銃猟した事の話が出て居るが、これはよほどこまかく書いてあるので、ほかのよりは際立つて面白いことが多い。例せば井上公使の猟区に出掛けた時の有様を説いて、おのおのが手製の日本料理をこしらへて、正宗の瓶を傾け、しかもそこに雇ひつけの猟師(独逸人)に日本語を教へてあるので、 それから部屋の中でからに、飯を食ふ時などは、手をポンポンと叩く、ヘイと返辞をするのだと教へて置く、ところが猟師の野郎ヒイといふて奇妙な声を出して返辞をする、どうも捧腹絶倒実に面白い生活です などと書いてあるところは実に面白く出来て居る。総てかういふ風に銃猟談はしてもらひたいものである。否もう少しこまかく叙したならば更に面白いに違ひない、銃猟もここに至つて残酷の感を脱してしまふことが出来る。 (五月六日) 三 ○東京の牡丹は多く上方から苗が来るので、寒牡丹だけは東京から上方の方へ輸出するのぢやさうな。このほかに義太夫といふやつも上方から東京へ来るのが普通になつて居る。さうして東京の方を本として居るのは、常磐津、清元の類ひである。牡丹は花の中でも最も派手で最も美しいものであるのと同じやうに、義太夫はこれらの音曲のうちで最も派手で最も重々しいものである。して見ると美術上の重々しい派手な方の趣味は上方の方に発達して、淡泊な方の趣味は東京に発達して居るのであらうか、俳句でいふて見ても昔から京都の方が美しい重々しい方に傾いて、江戸の方は一ひねくりひねくつたやうなのが多い。蕪村の句には牡丹の趣がある。闌更の句は力は足らんけれどもやはり牡丹のやうな処がある。梅室なども俗調ではあるが、松葉牡丹位の趣味が存して居る。江戸の方は其角嵐雪の句でも白雄一派の句でも仮令いくらかの美しい処はあるにしても、多少の渋味を加へて居る処はどうしても寒牡丹にでも比較せねばなるまい。 (五月七日) 四 ○西洋の古画の写真を見て居たらば、二百年前位に和蘭人の画いた風景画がある。これらは恐らくはこの時代にあつては珍しい材料であつたのであらう。日本では人物画こそ珍しけれ、風景画は極めて普通であるが、しかしそれも上古から風景画があつたわけではない。巨勢金岡時代はいふまでもなく、それより後土佐画の起つた頃までも人間とか仏とかいふものを主として居つたのであるが、支那から禅僧などが来て仏教上に互に交通が始まつてから、支那の山水画なる者が輸入されて、それから日本にも山水画が流行したのである。  日本では山水画といふ名が示して居る如く、多くは山や水の大きな景色が画いてある。けれども西洋の方はそんなに馬鹿に広い景色を画かぬから、大木を主として画いた風景画が多い。それだから水を画いても川の一部分とか海の一部分とかを写す位な事で、山水画といふ名をあてはめることは出来ぬ。  西洋の風景画を見るのに、昔のは木を画けば大木の厳めしいところが極めて綿密に写されて居る。それが近頃の風景画になると、木を画いても必ずしも大木の厳めしいところを画かないで、普通の木の若々しく柔かな趣味を軽快に写したのが多いやうに見える。堅い趣味から柔かい趣味に移り厳格な趣味から軽快な趣味に移つて行くのは今日の世界の大勢であつて、必ずしも画の上ばかりでなく、また必ずしも西洋ばかりに限つた事でもないやうである。  かつて文学の美を論じる時に、叙事、叙情、叙景の三種に別つて論じた事があつた。それを或人は攻撃して、西洋には叙事、叙情といふ事はあるが叙景といふ事はないといふたので、余は西洋の真似をしたのではないといふてその時に笑ふた事であつた。西洋には昔から風景画も風景詩も少いので、学者が審美的の議論をしても風景の上には一切説き及ぼさないのであるさうな。これは西洋人の見聞の狭いのに基いて居るのであるから先づ彼らの落度といはねばならぬ。 (五月八日) 五 ○明治卅五年五月八日雨記事。  昨夜少しく睡眠を得て昨朝来の煩悶やや度を減ず、牛乳二杯を飲む。  九時麻痺剤を服す。  天岸医学士長州へ赴任のため暇乞に来る。ついでに余の脈を見る。  碧梧桐、茂枝子早朝より看護のために来る。  鼠骨もまた来る。学士去る。  きのふ朝倉屋より取り寄せ置きし画本を碧梧桐らと共に見る。月樵の『不形画藪』を得たるは嬉し。そのほか『鶯邨画譜』『景文花鳥画譜』『公長略画』など選り出し置く。  午飯は粥に刺身など例の如し。  繃帯取替をなす。疼痛なし。  ドンコ釣の話。ドンコ釣りはシノベ竹に短き糸をつけ蚯蚓を餌にして、ドンコの鼻先につきつけること。ドンコもし食ひつきし時は勢よく竿を上ぐること。もし釣り落してもドンコに限りて再度釣れることなど。ドンコは川に住む小魚にて、東京にては何とかハゼといふ。  郷里松山の南の郊外には池が多きといふ話。池の名は丸池、角池、庖刀池、トーハゼ(唐櫨)池、鏡池、弥八婆々の池、ホイト池、薬師の池、浦屋の池など。  フランネルの切れの見本を見ての話。縞柄は大きくはつきりしたるがよいといふこと。フランネルの時代を過ぎて、セルの時代となりしことなど。  茂枝子ちよと内に帰りしがややありて来り、手飼のカナリヤの昨日も卵産み今朝も卵産みしに今俄に様子悪く巣の外に出て身動きもせず如何にすべきとて泣き惑ふ。そは糞づまりなるべしといふもあれば尻に卵のつまりたるならんなどいふもあり。余は戯れに祈祷の句をものす。 菜種の実はこべらの実も食はずなりぬ 親鳥も頼め子安の観世音 竹の子も鳥の子も只やす〳〵と 糞づまりならば卯の花下しませ  晩飯は午飯とほぼ同様。  体温三十六度五分。  点燈後碧梧桐謡曲一番殺生石を謡ひをはる。余が頭やや悪し。  鼠骨帰る。  主客五人打ちよりて家計上のうちあけ話しあり、泣く、怒る、なだめる。この時窓外雨やみて風になりたるとおぼし。  十一時半また麻痺剤を服す。  碧梧桐夫婦帰る。時に十二時を過る事十五分。  余この頃精神激昂苦悶やまず。睡覚めたる時殊に甚だし。寐起を恐るるより従つて睡眠を恐れ従つて夜間の長きを恐る。碧梧桐らの帰る事遅きは余のために夜を短くしてくれるなり。 (五月十日) 六 ○今日は頭工合やや善し。虚子と共に枕許にある画帖をそれこれとなく引き出して見る。所感二つ三つ。  余は幼き時より画を好みしかど、人物画よりもむしろ花鳥を好み、複雑なる画よりもむしろ簡単なる画を好めり。今に至つてなほその傾向を変ぜず。それ故に画帖を見てもお姫様一人画きたるよりは椿一輪画きたるかた興深く、張飛の蛇矛を携へたらんよりは柳に鶯のとまりたらんかた快く感ぜらる。  画に彩色あるは彩色なきより勝れり。墨画ども多き画帖の中に彩色のはつきりしたる画を見出したらんは万緑叢中紅一点の趣あり。  呉春はしやれたり、応挙は真面目なり、余は応挙の真面目なるを愛す。 『手競画譜』を見る。南岳、文鳳二人の画合せなり。南岳の画はいづれも人物のみを画き、文鳳は人物のほかに必ず多少の景色を帯ぶ。南岳の画は人物徒に多くして趣向なきものあり、文鳳の画は人物少くとも必ず多少の意匠あり、かつその形容の真に逼るを見る。もとより南岳と同日に論ずべきに非ず。  或人の画に童子一人左手に傘の畳みたるを抱へ右の肩に一枝の梅を担ぐ処を画けり。あるいはよそにて借りたる傘を返却するに際して梅の枝を添へて贈るにやあらん。もししからば画の簡単なる割合に趣向は非常に複雑せり。俳句的といはんか、謎的といはんか、しかもかくの如き画は稀に見るところ。  抱一の画、濃艶愛すべしといへども、俳句に至つては拙劣見るに堪へず。その濃艶なる画にその拙劣なる句の賛あるに至つては金殿に反古張りの障子を見るが如く釣り合はぬ事甚だし。 『公長略画』なる書あり。纔に一草一木を画きしかも出来得るだけ筆画を省略す。略画中の略画なり。而してこのうちいくばくの趣味あり、いくばくの趣向あり。蘆雪らの筆縦横自在なれどもかへつてこの趣致を存せざるが如し。あるいは余の性簡単を好み天然を好むに偏するに因るか。 (五月十二日) 七 ○左千夫いふ柿本人麻呂は必ず肥えたる人にてありしならむ。その歌の大きくして逼らぬ処を見るに決して神経的痩せギスの作とは思はれずと。節いふ余は人麻呂は必ず痩せたる人にてありしならむと思ふ。その歌の悲壮なるを見て知るべしと。けだし左千夫は肥えたる人にして節は痩せたる人なり。他人のことも善き事は自分の身に引き比べて同じやうに思ひなすこと人の常なりと覚ゆ。かく言ひ争へる内左千夫はなほ自説を主張して必ずその肥えたる由を言へるに対して、節は人麻呂は痩せたる人に相違なけれどもその骨格に至りては強く逞しき人ならむと思ふなりといふ。余はこれを聞きて思はず失笑せり。けだし節は肉落ち身痩せたりといへども毎日サンダウの唖鈴を振りて勉めて運動を為すがためにその骨格は発達して腕力は普通の人に勝りて強しとなむ。さればにや人麻呂をもまたかくの如き人ならむと己れに引き合せて想像したるなるべし。人間はどこまでも自己を標準として他に及ぼすものか。 ○文晁の絵は七福神如意宝珠の如き趣向の俗なるものはいふまでもなく、山水または聖賢の像の如き絵を描けるにもなほ何処にか多少の俗気を含めり。崋山に至りては女郎雲助の類をさへ描きてしかも筆端に一点の俗気を存せず。人品の高かりしためにやあらむ。到底文晁輩の及ぶ所に非ず。 ○余ら関西に生れたるものの目を以て関東の田舎を見るに万事において関東の進歩遅きを見る。ただ関東の方著く勝れりと思ふもの二あり。曰く醤油。曰く味噌。 ○下総の名物は成田の不動、佐倉宗五郎、野田の亀甲萬(醤油)。 (五月十三日) 八 ○名所を歌や句に詠むにはその名所の特色を発揮するを要す。故にいまだ見ざるの名所は歌や句に詠むべきにあらざれども、例せば富士山の如き極めて普通なる名所は、いまだこれを見ざるもあるいは人の語る所を聞き、あるいは人の書き記せる文章を読み、あるいは絵画写真に写せる所を見などして、その特色を知るに難からず。さはいへやはり実際を見たる後には今までの想像とは全く違ひたる点も少からざるべし。余いまだ芳野を見ず。かつ絵画文章の如きも詳しく写しこまかに叙したるものを知らず。今年或人の芳野紀行を読みていくばくの想像を逞しうするを得て試みに俳句数首を作る。もし実地を踏みたる人の目より見ば、実際に遠き句にあらずんば、必ず平凡なる句や多からん。ただそれ無難なるは主観的の句のみならんか。 六田越えて花にいそぐや一の坂 芳野山第一本の桜かな 花見えて足踏み鳴らす上り口 花の山蔵王権現鎮まりぬ 指すや花の木の間の如意輪寺 案内者の楠語る花見かな 案内者も吾等も濡れて花の雨 南朝の恨を残す桜かな 千本が一時に落花する夜あらん 西行庵花も桜もなかりけり (五月十四日) 九 ○余が病気保養のために須磨に居る時、「この上になほ憂き事の積れかし限りある身の力ためさん」といふ誰やらの歌を手紙などに書いて独りあきらめて居つたのは善かつたが、今日から見るとそれは誠に病気の入口に過ぎないので、昨年来の苦しみは言語道断殆ど予想の外であつた。それが続いて今年もやうやう五月といふ月に這入つて来た時に、五月といふ月は君が病気のため厄月ではないかと或る友人に驚かされたけれど、否大丈夫である去年の五月は苦しめられて今年はひま年であるから、などとむしろ自分では気にかけないで居た。ところが五月に這入つてから頭の工合が相変らず善くないといふ位で毎日諸氏のかはるがはるの介抱に多少の苦しみは紛らしとつたが、五月七日といふ日に朝からの苦痛で頭が悪いのかどうだか知らぬが、とにかく今までに例のない事と思ふた。八日には少し善くて、その後また天気工合と共に少しは持ち合ふてゐたが十三日といふ日に未曾有の大苦痛を現じ、心臓の鼓動が始まつて呼吸の苦しさに泣いてもわめいても追つ附かず、どうやらかうやらその日は切抜けて十四日も先づ無事、ただしかも前日の反動で弱りに弱りて眠りに日を暮し、十五日の朝三十四度七分といふ体温は一向に上らず、それによりて起りし苦しさはとても前日の比にあらず、最早自分もあきらめて、その時あたかも牡丹の花生けの傍に置いてあつた石膏の肖像を取つてその裏に「自題。土一塊牡丹生けたるその下に。年月日」と自ら書きつけ、もしこのままに眠つたらこれが絶筆であるといはぬばかりの振舞、それも片腹痛く、午後は次第々々に苦しさを忘れ、今日はあたかも根岸の祭礼日なりと思ひ出したるを幸に、朝の景色に打つてかへて、豆腐の御馳走に祝の盃を挙げたのは近頃不覚を取つたわけであるが、しかしそれも先づ先づ目出たいとして置いて、さて五月もまだこれから十五日あると思ふと、どう暮してよいやらさツぱりわからぬ。 ○五月十五日は上根岸三島神社の祭礼であつてこの日は毎年の例によつて雨が降り出した。しかも豆腐汁木の芽あへの御馳走に一杯の葡萄酒を傾けたのはいつにない愉快であつたので、 この祭いつも卯の花くだしにて 鶯も老て根岸の祭かな 修復成る神杉若葉藤の花 引き出だす幣に牡丹の飾り花車 筍に木の芽をあへて祝ひかな 歯が抜けて筍堅く烏賊こはし 不消化な料理を夏の祭かな 氏祭これより根岸蚊の多き (五月十八日) 十 ○前にもいふた南岳文鳳二人の『手競画譜』の絵について二人の優劣を判じて置いたところが、或人はこれを駁して文鳳の絵は俗気があつて南岳には及ばぬといふたさうな。余は南岳の絵はこれよりほかに見たことがないし、殊に大幅に至つては南岳のも文鳳のも見たことがないから、どちらがどうとも判然と優劣を論じかねるが、しかし文鳳の方に絵の趣向の豊富な処があり、かつその趣味の微妙な処がわかつて居るといふことは、この一冊の画を見ても慥に判ずることが出来る。尤も南岳の絵もその全体の布置結構その他筆つきなどもよく働いて居つて固より軽蔑すべきものではない。故に終局の判断は後日を待つこととしてここには『手競画譜』にある文鳳のみの絵について少し批評して見よう。(もとこの画譜は余斎の道中歌を絵にしたものとあるからして大体の趣向はその歌に拠つたのであらうが、ここにはその歌がないので、十分にわからぬ。)  この道中画は大方東海道の有様を写したものであらうと思ふ。かつ歌合せの画を左右に分けて画に写したのであるから、左とあるのが凡て南岳の画で、右とあるのが凡て文鳳の画である。  その始めにある第一番の右は即ち文鳳の画で、三艘の舟が、前景を往来して居つて、遥かの水平線に帆掛舟が一つある。そのほかには山も陸も島も何もない。この趣向が已に面白い。殊に三艘の舟の中で、前にある一番大きな舟を苫舟にして二十人ばかりも人の押合ふて乗つて居る乗合船を少し沖の方へかいたのが凡趣向でない。普通の絵かきならば、必ずこの乗合船の方を近く大きく正面にしてかいたであらう。  二番の右は道中の御本陣ともいふべき宿屋で貴人のお乗込みを待ち受けるとでもいふべき処である。画面には三人の男があつて、そのうち一人は門前に水を撒いて居る。他の二人は幕を張つて居る。その幕を張つて居る方の一人は下に居つて幕の端を持ち、他の一人は梯子に乗つて高い処に幕をかけて居る。その梯子の下には草履がある。箒がある。踏つぎがある。塵取がある。その塵取の中には芥がはひつて居る。実にこまかいものである。それで全体の筆数はといふと、極めて少いもので、二分間位に書けてしまひさうな画である。これらも凡手段の及ぶ所でない。  三番の右は川渡しの画で、やや大きな波の中に二人の川渡しがお客を肩車にして渡つて居る所である。ここにも波と人とのほかに少しの陸地もかかないのは、この川を大きく見せる手段であつて前の舟三艘の画とその点がやや似て居る。その川渡しの人間は一人が横向きで、一人が後ろ向きになつて居る。その両方の形の変化して面白い処は実際の画を見ねばわからぬ。  四番の右は何んの画とも解しかぬるので評をはぶく。  五番の右は例の粗筆で、極めて簡略にかいて居るが、その趣向は極めて複雑して居る。正面には一間に一間半位の小さい家をかいて、その看板に「御かみ月代、代十六文」とかいてある。その横にある窓からは一人の男が、一人の髯武者の男の髯を剃つて居る処が見える。その窓の下には手箒が掛けてあつて、その手箒の下の地面即ち屋外には、鬢盥と手桶のやうなものが置いてある。今いふた窓が東向きの窓ならば、それに接して折曲つた方の北側は大方壁であつて、その高い処に小さな窓があけてあつて、その窓には稗蒔のやうな鉢植が一つ置いてある。その窓の横には「やもり」が一疋這ふて居る。屋根は板葺で、石ころがいくつも載せてある。かういふ家が画の正面の大部分を占めて居つて、その家は低い石垣の上に建てられて居る。その石垣といふのは、小さな谷川に臨んで居るので、家の後ろ側の処に橋の一部分が見えて居る。それだからこの画の場所を全体から見ると、小川にかけてある橋の橋詰に一軒の小さな床屋があるといふ処である。その趣のよいのみならず、これほどの粗画にこの場所から家の構造から何から何まで悉く現はれて居るといふのは到底文鳳以外の人には出来る事でない。実に驚くべき手腕である。  六番の右は薄原に侍が一人馬の口を取つて牽いて居る処である。この画も薄のほかに木も堤も何もないので、かつその薄が下の方を少しあけて上の方は画けるだけつめてかいてあるので、薄原が広さうにも見え、凄さうにも見え、爪先上りになつて居るやうにも見える。そこで侍も馬も画面のなかばよりはやや上の方にかいてある。この画の趣向は十分にわからぬけれど、馬には腹帯があつて、鞍のない処などを見ると、侍が荒馬を押へて居る処かと思はれる。これが侍であつて馬士でない所(それは髷と服装と刀とでわかるが)も面白いが、馬が風の薄にでも恐れたかと思ふやうな荒々しき態度のよく現はれる処も面白い。 (五月二十二日) 十一 (ツヅキ) 七番の右はむしろ景色画にして岡伝ひに小さき道があつて、その道は二つに分れ、一筋はその岡に沿ふて左に行くべく、一筋は橋を渡つて水に沿ふて左に行くべくなつてをる。点景の人物は一寸位な大きさのが三人あるばかりで、それは格別必要な部分を占めてをるのではない。ただかういふやうなちよつとした景色をこの中に挿んだのが意匠の変化するところで面白い。  八番の右は立場と見えて坊さんを乗せた駕が一梃地に据ゑてある。一人の雲助は何か餅の如きものを頬ばつて居る。一人の雲助は銭の一さしを口にくはへてその内の幾らかを両手にわけて勘定してをる。その傍に挟箱を下ろして煙草を吹かしてをる者もある。更に右の方には馬士が馬の背に荷物を附けるところで、その馬士の態度といひ、馬が荷物の重みを自分の身に受けこたへてをる心持といひ、其処の有様が実によく現はれてをる。その傍にはなほ一、二人の人があつて何となく混雑の様が見えてをる。南岳の画は人が大勢居つてもその人はただ群集してをるばかりであるが文鳳の画は人が大勢居ればその大勢の人が一人々々意味を持つて居る。此処らで見ても両人の優劣はほぼ顕はれて居る。  九番の右は四人で一箇の道中駕をかついで行くところで、駕の中の人は馬鹿に大きく窮屈さうに画いてある。何でもないやうであるがそれだけの趣向を現はしたのが面白い。  十番の右は旅人が一人横に寝て按摩を取らしてをる処である。旅人の枕元には小さな小荷物があり笠がある。その前には煙草盆があり煙草入れがある。頭巾を被つたままで頬杖を突いて目をふさいで居るのは何となく按摩のために心持の善ささうな処が見える。按摩は客の後ろ側よりその脚を揉んで居る。ところでその右の眼だけは丸く開いて居る。しかも左の眼はつぶれて居つて口は左の方へ曲つてをる、この二人の後の方に行燈が三つかためて置いてある。これは勿論灯のついて居る行燈ではなからう、客の座敷に斯様の行燈が置いてあるといふ事はいかにも貧しい宿であるといふ事を示して居る。 (五月二十三日) 十二 (ツヅキ) 十一番の右は正面に土手を一直線に画いてある。この一直線に画いてある処既に奇抜である。その土手の前面には小さな水車小屋があつて、作業がある。土手の上には笠を着た旅人が一人小さく画かれてある。かういふ景色の処は実際にあるけれども、画に現はしたものはほかにない。  十二番の右は笠着た旅人が笠着た順礼に奉捨を与へる処で、順礼が柄杓を突出して居ると、旅人はその歩行をも止めず、手をうしろへまはして柄杓の中へ銭を入れて居る処は能く実際を現はして居る。殊にその場所を海岸にして、蘆などが少し生えて居り、遠方に船が一つ二つ見えて居る処なども、この平凡な趣向をいくらか賑やかにして居る。  十三番の右は景色画でしかも文鳳特得の伎倆を現はして居る。場所は山路であつて、正面に坂道を現はし(坂の上には小さな人物が一人向ふへ越え行かうとして居る処が画いてある)坂の右側に数十丈もあらうといふ大樹が鬱然として立つて居る。筆数は余り多くないが、その大樹があるために何となくその景色が物凄くなつて、その樹は慥に下の方の深い谷間に聳えて居るといふことがよくわかる。心持の可い画である。  十四番の右は百姓家の入口に猿廻しが猿を廻して居る処で、その家の入口の縄暖簾をかかげて子供が二人ばかりのぞいて居る。一人の子供は六つ七つ、一人の子供は二つ三つ位の歳で、大方兄弟であらうと推せられる。その入口の両側には蓆が敷いて麦か何かが干してある。家の横手にはちよつとした菊の垣がある。小菊が花を沢山つけて咲いて居る。この絵などは単に田舎の景色を能く現はして居るといふばかりでなく、甚だ感じのよい処を現はして居る。  十五番の右は乞食が二人ねころんで居る処でそこらには草が沢山生えて居る。  十六番の右は鳥居の柱と大きな杉の樹とがいづれも下の方一間ばかりだけ大きく画いてある。それは社の前であるといふことを示して居る。その社の前の片方に手品師が膝をついて手品をつかつて居る。襷をかけ、広げた扇を地上に置き、右の手を眼の前にひらけて紙屑か何かの小さくしたのを散かして居る。「春は三月落花の風情」とでもいふ処であらう。この手品師が片寄せて画いてあるために見物人は一人も画いて居ない。そこらの趣向は余り類のない趣向である。  十七番の右は並木の街道に旅人が二、三人居る処であるが、これは別に趣向といふ処もないやうで、ただ松の木の向ふ側に人を画いたのが趣向でもあらうか。  十八番の右は海を隔てて向ふに富士を望む処で別に趣向といふでもないが、ただこの一巻の最終の画であるだけに、この平凡な景色が何となく奥床しく見える。  要するに文鳳の画は一々に趣向があつて、その趣向の感じがよく現はれて居る。筆は粗であるけれど、考へは密である。一見すれば無造作に画いたやうであつて、その実極めて用意周到である。文鳳の如きは珍しき絵かきである。しかも世間ではそれほどの価値を認めて居ないのは甚だ気の毒に思ふ。 (五月二十四日) 十三 ○古洲よりの手紙の端に 御無沙汰をして居つて誠にすまんが、実は小提灯ぶらさげの品川行時代を追懐して今日の君を床上に見るのは余にとつては一の大苦痛である事を察してくれ給へ。 とあつた。この小提灯といふ事は常に余の心頭に留まつてどうしても忘れる事の出来ない事実であるが、さすがにこの道には経験多き古洲すらもなほ記憶してをるところを以て見ると、多少他に変つた趣が存してゐるのであらう。今は色気も艶気もなき病人が寐床の上の懺悔物語として昔ののろけもまた一興であらう。  時は明治二十七年春三月の末でもあつたらうか、四カ月後には驚天動地の火花が朝鮮の其処らに起らうとは固より知らず、天下泰平と高をくくつて遊び様に不平を並べる道楽者、古洲に誘はれて一日の日曜を大宮公園に遊ばうと行て見たところが、桜はまだ咲かず、引きかへして目黒の牡丹亭とかいふに這入り込み、足を伸ばしてしよんぼりとして待つて居るほどに、あつらへの筍飯を持つて出て給仕してくれた十七、八の女があつた。この女あふるるばかりの愛嬌のある顔に、しかもおぼこな処があつて、かかる料理屋などにすれからしたとも見えぬほどのおとなしさが甚だ人をゆかしがらせて、余は古洲にもいはず独り胸を躍らして居つた。古洲の方もさすがに悪くは思はないらしく、彼女がランプを運んで来た時に、お前の内に一晩泊めてくれぬか、と問ひかけた。けれども、お泊りはお断り申しまする、とすげなき返事に、固よりその事を知つて居る古洲は第二次の談判にも取りかからずにだまつてしまふた。それから暫くの間雑談に耽つてゐたが、品川の方へ廻つて帰らう、遠くなければ歩いて行かうぢやないか、といふ古洲がいつになき歩行説を取るなど、趣味ある発議に、余は固より賛成して共にぶらぶらとここを出かけた。外はあやめもわからぬ闇の夜であるので、例の女は小田原的小提灯を点じて我々を送つて出た。姐さん品川へはどう行きますか、といふ問に、品川ですか、品川はこのさきを左へ曲つてまた右に曲つて……其処まで私がお伴致しませう、といひながら、提灯を持つて先に駈け出した。我々はその後から踵いて行て一町余り行くと、藪のある横丁、極めて淋しい処へ来た。これから田圃をお出になると一筋道だから直ぐわかります、といひながら小提灯を余に渡してくれたので、余はそれを受取つて、さうですか有難う、と別れようとすると、ちよつと待つて下さい、といひながら彼女は四、五間後の方へ走り帰つた。何かわからんので躊躇してゐるうちに、女はまた余の処に戻つて来て提灯を覗きながらその中へ小さき石ころを一つ落し込んだ。さうして、さやうなら御機嫌宜しう、といふ一語を残したまま、もと来た路を闇の中へ隠れてしまふた。この時の趣、藪のあるやうな野外れの小路のしかも闇の中に小提灯をさげて居る自分、小提灯の中に小石を入れて居る佳人、余は病床に苦悶して居る今日に至るまで忘れる事の出来ないのはこの時の趣である。それから古洲と二人で春まだ寒き夜風に吹かれながら田圃路をたどつて品川に出た。品川は過日の火災で町は大半焼かれ、殊に仮宅を構へて妓楼が商売して居る有様は珍しき見ものであつた。仮宅といふ名がいたく気に入つて、蓆囲ひの小屋の中に膝と膝と推し合ふて坐つて居る浮れ女どもを竹の窓より覗いてゐる、古洲の尻に附いてうつかりと佇んでゐるこの時、我手許より燄の立ち上るに驚いてうつむいて見れば、今まで手に持つて居つた提灯はその蝋燭が尽きたために、火は提灯に移つてぼうぼうと燃え落ちたのであつた。 うたゝ寐に春の夜浅し牡丹亭 春の夜や料理屋を出る小提灯 春の夜や無紋あやしき小提灯 (五月二十五日) 十四 ○病に寐てより既に六、七年、車に載せられて一年に両三度出ることも一昨年以来全く出来なくなりて、ずんずんと変つて行く東京の有様は僅かに新聞で読み、来る人に聞くばかりのことで、何を見たいと思ふても最早我が力に及ばなくなつた。そこで自分の見た事のないもので、ちよつと見たいと思ふ物を挙げると、  一、活動写真  一、自転車の競争及び曲乗  一、動物園の獅子及び駝鳥  一、浅草水族館  一、浅草花屋敷の狒々及び獺  一、見附の取除け跡  一、丸の内の楠公の像  一、自働電話及び紅色郵便箱  一、ビヤホール  一、女剣舞及び洋式演劇  一、鰕茶袴の運動会 など数ふるに暇がない。 (五月二十六日) 十五 ○『狂言記』といふ書物を人から借りて二つ三つ読んで見たが種々な点において面白い事が多い。狂言といふものは、どういふ工合に発達したか十分には知らぬが、とにかく能楽と共に舞台に上る処を見ると能楽がやや高尚で全く無学の者には解せられぬ処があるから、能楽の真面目なる趣味、古雅なる趣味に反対して、滑稽なる趣味、卑俗なる趣味をもつて俗人に解せしめるやうに作られたのである。しかし昔の申楽とか田楽とか言ふものの趣味は能楽よりもかへつて狂言の方に多く存して居るかも知れぬ、少くとも彼ら古楽の趣味が半ばは能楽となつて真面目なる部分を占領し、半ばは狂言となりて滑稽なる部分を占領したのであらう。そこでこの狂言といふものには時代の古いものがあるかも知れないが、先づ普通には足利の中頃より徳川の初めまでに出来たものかと思はれる。従つて狂言はその時代の風俗及び言葉を現はして居るものとして見るとなほ面白い事が多い。狂言の趣味はしばらく論ぜずにただ歴史的の観察上面白い事は、たとへばここに「スハジカミ」といふ狂言を取つて見ようならば、これは酢売と薑売との事であつて二人が互ひに自分の売物に勿体をつけるといふ趣向である。これを見るとその頃酢売とか薑売とかいふものがあつて、町を売歩行いて居つたといふ事がわかる。しかもその酢売は和泉の国と名乗り、薑売は山城の国と名乗つて居る処を見ると、これらの処が酢または薑の産地であつた事もわかる。それから酢は竹筒に入れてあつて、それを酢筒と名付け、薑は藁ヅトの中に入れてある。それからその言葉を見るに、酢の売言葉は「スコン」と言ひ、薑の売言葉は「ハジカミコン」といふなど何となく興味がある。この「コン」といふ言葉は意味のある言葉かどうか善く分らないが、あるいは「買はう」といふ言葉のつまつたのかとも思はれる。また「シヤウバイ」とも言ひ「アキナヒ」ともいふを見れば、この時代から既に両方の言葉が用ゐられて居つたのが分る。また酢売が薑売に対して「オヌシ」といひ、薑売が酢売に対して「ソチ」といふのを見ても当時の二人称には斯様な言葉を用ゐたのである。余の郷里(伊予)なぞにては余の幼き頃までなほ「オヌシ」または「ソチ」などいふ二人称が普通語に残つて居つた。また薑売の言葉に「コノワラヅトウナドニハ、イカウケイヅノアルモノヂヤ」といふて居る。而してその「ケイヅ」といふのは昔生薑売が禁中に召されて何々といふ歌を下されたといふ事なのである。シテ見るとこの「ケイヅ」といふ言葉は誇るべき由緒といふやうな事を意味する当時の俗言であつたと見える。また「スキハリシヤウジ」、「カラカミシヤウジ」などいふ言葉があるのを見ると、今いふ紙張の障子のことを「スキハリシヤウジ」と言ひ、今いふ「カラカミ」の事を「カラカミシヤウジ」といふたのである。そのほか、風俗言語の上に、なほいろいろと変つた事があるやうであるが、よくよく研究せねばわれわれには分らぬ事が多い。追々分つて来たらばいよいよ面白いに違ひない。 (五月二十七日) 十六 ○病勢が段々進むに従つて何とも言はれぬ苦痛を感ずる。それは一度死んだ人かもしくは死際にある人でなければわからぬ。しかもこの苦痛は誰も同じことと見えて黒田如水などといふ豪傑さへも、やはり死ぬる前にはひどく家来を叱りつけたといふことがある。この家来を叱ることについて如水自身の言ひわけがあるが、その言ひわけは固より当になつたものではない。畢竟は苦しまぎれの小言と見るが穏当であらう。陸奥福堂も死際には頻りに細君を叱つたさうだし、高橋自恃居士も同じことだつたといふし、して見ると苦しい時の八つ当りに家族の者を叱りつけるなどは余一人ではないと見える。越後の無事庵といふは一度も顔を合したことはないが、これも同病相憐む中であるので、手紙の上の問ひ訪づれは絶えなかつたが、ことし春終に空しくなつてしまふた。その弟の丶人その遺子木公と共に近頃わが病床を訪づれて、無事庵生前の話を聞いたが、かくまでその容体の能く似ることかと今更に驚かれる。一、二の例を挙ぐれば、寸時も看病人を病床より離れしめぬ事、凡て何か命じたる時にはその詞のいまだ絶えざる中に、その命令を実行せねば腹の立つ事、目の前に大きな人など居れば非常に呼吸の苦痛を感ずる事、人と面会するにも人によりて好きと嫌ひとの甚だしくある事、時によりて愉快を感ずると感ぜざるとの甚だしくある事、敷蒲団堅ければ骨ざはり痛く、敷蒲団やはらかければ身が蒲団の中に埋もれてかへつて苦しき事、食ひたき時は過度に食する事、人が顔を見て存外に痩せずに居るなどと言はれるのに腹が立ちて火箸の如く細りたる足を出してこれでもかと言ふて見せる事、凡そこれらの事は何一つ無事庵と余と異なる事のないのは病気のためとは言へ、不思議に感ぜられる。この日はかかる話を聞きしために、その時まで非常に苦しみつつあつたものが、遽に愉快になりて快き昼飯を食ふたのは近頃嬉しかつた。  無事庵の遺筆など見せられて感に堪へず、われも一句を認めて遺子木公に示す。 鳥の子の飛ぶ時親はなかりけり (五月二十八日) 十七 ○甲州の吉田から二、三里遠くへ這入つた処に何とかいふ小村がある。その小村の風俗習慣など一五坊に聞いたところが甚だ珍しい事が多い。一、二をいふて見ると、  総てこの村では女が働いて男が遊んで居る。女の仕事は機織りであつて即ち甲斐絹を織り出すのである。その甲斐絹を織る事は存外利の多いものであつて一疋に二、三円の利を見る事がある。尤も一疋織るには三日ほどかかる、しかしこの頃は不景気で利が少いといふ事である。一家の活計はそれで立てて行くのであるから従つて女の権利が強くかつ生計上の事については何もかも女が弁じる事になつて居る。男の役といふは山へ這入つて薪を採つて来るといふ位の事ぢやさうな。  甲斐絹の原料とすべき蚕はやはりその村で飼ふては居るがそれだけでは原料が不足なので、信州あたりから糸を買ひ入れて来るさうな。その出来上つた甲斐絹は吉田へ行つて月に三度の市に出して売るのである。  甲斐絹のうちでも蝙蝠傘になる者は無論織り方が違ふ。  機を織るものは大方娘ばかりであつて既に結婚したほどの女は大概機を織るまでの拵へにかかつて居る。それがために娘を持つて居る親は容易にその娘の結婚を許さない。なるべく長く(二十二、三までも)自分の内に置いて機を織らせる。その結果は不品行な女も少くないといふ事である。  古来の習慣として男子が妻を娶らうと思ふ時には先づ自分の好きな女に直接に話し合ふて見る。その女が承諾したらばそれから仲人の如きものをして双方の親たちに承諾せしむるのである。女の親が承諾しないといふやうな場合には男は数多の仲間を語らひてその女をかどはかし何処かに隠してしまふといふやうな事がある。しかしこの頃ではさういふ事が少くなつたさうな。  この村は桑園菜畑抔は多少あるが水田はない、また焼石が多くて木も草もないやうな処がある。  この辺の習慣では他人の山林へ這入つて木を樵つて来ても咎めないのである。柿の木などがあればその柿の実は誰でも勝手に落して食ふ。干柿などがあればその干柿を取つて来て食ふ。さうして何某の内の柿を取つて食ふたといふ事を公言して憚らないさうな。  この辺は勿論食物に乏しいので、客が来ても御馳走を出すといふ場合には必ず酒を出すのである。下物は菜漬位である。女でも皆大酒であるといふ事ぢや。  この辺は固より寒い処なのでその火燵は三尺四方の大きさである。しかし寝る時は火燵に寝ないで別に設けてある寝室に行て寝る。その寝室は一人々々に一室づつ備はつて居る狭い暗い処であつて蒲団は下に藁蒲団を用ゐ、別に火を入れる事はない。さうしてその蒲団は年が年中敷き流しである。(寝室の別にあるところは西洋に似て居る。)  寝室に限らず余り掃除をする事がない。  客が来ても客に煙草盆を出すことはないさうな。もし客が巻煙草でも飲まうと思へば其処にある火燵で火を附けるか、または自らマツチを出して火を附けるかする。その吹殻の灰を畳のへりなどへはたき落して置いて平気のものである。  前いふたやうに機織の利が多いのにほかにこれといふ贅沢の仕様もないので、こんな辺鄙の村でありながら割合に貧しくないといふ事である。  この村には癩病は多い。それがためかどうかは知らぬが、今までは一切他の村と結婚などはしなかつたといふ事である。 (五月二十九日) 十八 ○文人の不幸なるもの寧斎第一、余第二と思ひしは二、三年前の事なり、今はいづれが第一なるか知らず。 ○種竹山人長崎より一封を寄せ来る。開き見れば詩あり。 崎陽客次。閲国民新報所載。虚子俳諧日記。叙子規子近状。黯然久之。 因賦一絶。遥贈子規。併似虚子。 松魚時節酔湘𨤍。衆葉如煙入眼青。不寐思君過夜半。天辺何処子規亭。 (五月三十日) 十九 ○立斎広重は浮世画家中の大家である。その景色画は誰もほかの者の知らぬ処をつかまへて居る。殊に名所の景色を画くには第一にその実際の感じが現はれ、第二にその景色が多少面白く美術的の画になつて居らねばならぬ。広重は慥にこの二カ条に目をつけてかつ成功して居る。この点において已に彼が凡画家でないことを証して居るが、なほそのほかに彼は遠近法を心得て居た。即ち近いものは大きく見えて、遠いものは小さく見えるといふことを知つて居た。これは誰でも知つて居るやうなことであるが、実際に画の上に現はしたことが広重の如く極端なるものはほかにない。例へば浅草の観音の門にある大提灯を非常に大きくかいて、本堂は向ふの方に小さくかいてある。目の前にある熊手の行列は非常に大きくかいてあつて、大鷲神社は遥かの向ふに小さくかいてある、鎧の渡しの渡し舟は非常に大きくかいてあつて、向ふの方に蔵が小さくかいてある。といふやうな著しい遠近大小の現はしかたは、日本画には殆どなかつたことである。広重はあるいは西洋画を見て発明したのでもあらうか。とにかく彼は慥に尊ぶべき画才を持ちながら、全く浮世絵を脱してしまふことが出来なかつたのは甚だ遺憾である。浮世絵を脱しないといふことはその筆に俗気の存して居るのをいふのである。 (五月三十一日) 二十 ○広重の『草筆画譜』といふものを見るに蕙斎の蕙斎略画式の斬新なのには及ばないが、しかし一体によく出来て居る。今その『草筆画譜』の二編といふのを見付け出して初めから見て行くと多少感ずる所があるので必ずしも画の評といふ訳ではないが一つ二つ挙げて見よう。  毎年正月には麓より竹籠に七草を植ゑたのを贈つて来るから、これは明治になつての植木屋の新趣向であらうと思ふて居たら、この『草筆画譜』(嘉永三年出版)にも同じやうな画が出て居る。足の三本ついた竹籠に何か小さいものが植ゑてあつてその中に木札が四、五枚立つて居る、さうしてその籠の傍には羽子板が一つ置いてあるのを見ると、この籠の中に植ゑてあるものは慥に七草に違ひない。かかる気の利いた贈物は江戸では昔からあつたものと見える。  同じ本に亀戸神社の画があるが、これは鳥居と社とばかりであつてその傍に木立と川とがある。さうしてその近辺には家も何もない、今とは形勢が非常に変つて居たものと見える。  同じ本に二寸角ばかりの中に女郎花が画いてある。その女郎花の画き方が前の方にある一、二本はその草の上半即ち花の処が画いてある。さうしてその画の後部即ち上の方には女郎花の下半即ち下の方の茎と葉とばかりの処が二、三本画いてある。これは極めて珍しい画き方と思ふが果して広重の発明であるか、あるいは光琳などでも画いて居る事があらうか、あるいは西洋画からでも来て居るであらうか。  同じ本に大月原と題する画がある、これは前に突兀たる山脈が長く横はつてその上に大きな富士が白く出て居る所である。富士の画などはとかく陳腐になりまた嘘らしくなるものであるが、この画の如く別に珍しい配合もなくしてかへつて富士の大きな感じが善く現はれて居るのは少い。  同じ本に鵜飼の画がある、それは舟に乗つた一人の鵜匠が左の手に二本の鵜縄を持つて右の手に松火を振り上げて居る。鵜飼の事は十分に知らぬけれど、これでは鵜縄を引上げる事が出来ぬやうに思ふが、それとも実際かういふ方法もあつたのであらうか。 (六月一日) 二十一 ○余は今まで禅宗のいはゆる悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた。 ○因みに問ふ。狗子に仏性ありや。曰、苦。  また問ふ。祖師西来の意は奈何。曰、苦。  また問ふ。………………………。曰、苦。 (六月二日) 二十二 ○大阪の露石から文鳳の『帝都雅景一覧』を贈つてくれた。これは京の名所を一々に写生したもので、その画に雅致のあることはいふまでもなく、その画がその名所の感じをよく現はして居ることは自分のかつて見て居る処の実景に比較して見てわかつて居る。他の処も必ず嘘ではあるまいと思ふ。応挙の画いた嵐山の図は全くの写生であるが、そのほか多くの山水は応挙といへども、写生に重きを置かなかつたのである。そのほか四条派の画には清水の桜、栂の尾の紅葉などいふ真景を写したのがないではないやうであるが、しかしそれは一小部分に止つてしまつて、全体からいふと景色画は写生でないのが多い。しかるに文鳳が一々に写生した処は日本では極めて珍しいことといふてよからう。その後広重が浮世絵派から出て前にもいふたやうに景色画を画いたといふのは感ずべき至りで文鳳と併せて景色画の二大家とも言つてよからう。ただその筆つきに至つては、広重には俗な処があつて文鳳の雅致が多いのには比べものにならん。しかし文鳳の方は京都の名所に限られて居るだけにその画景が小さいから、今少し宏大な景色を画かせたらその景色の写し工合が広重に比して果してうまくいくであらうかどうであらうか、文鳳の琵琶湖一覧といふ書があるならば、それには大景もあるかも知れんが、まだ見たことがないからわからん。 (六月三日) 二十三 ○欧洲に十年ばかりも居て帰つて来た人の話に  今では世界中で日本ほど恐ろしい国はないと西洋人は思ふて居るであらう。日本の政治家は腐敗して居るとか、官吏が収賄して居るとか、議員が買収せられたとか、華族が役にたたんとか、とにかく上流社会に向つてはいくらの非難があるとしても、下等社会が悉く慥である。将校にはいくら腐敗したものが多くとも、兵卒は皆愛国の民である、かういふ風に一国の土台となるべき下等社会が慥であれば、その国の亡びる気遣はない。もしこの上に進歩して行たならば日本はどんなことを仕出来すかも知れない。何処の国でも恐らくは日本の将来を恐れて居らぬ者はなからう。  ところが西洋の社会を見ると、日本とは反対に上流社会即ち紳士なる者は皆立派なる人たちであるが、下流社会即ち一般の人民は皆腐敗して居る。下等社会に愛国心のあるなどといふのは一人もない。言はば利のために集まつて居るやうなものである。  西班牙などは最も甚だしく乱れて居る国であるが人民が少しもその政府を信用して居らぬために、金のある者も自分の国の公債を買はずに信用ある外国の公債を買ふ。別荘を建てるのにも自分の国へ建てずに外国へ建てて置くといふ次第である。  仏蘭西なども到底共和政治で持切つて行く事は出来まい。仏蘭西の下等社会も今の政府に対して余り信用を置いて居ない。  独逸はさすがに今日勃興しつつある勢は盛で、この国の下等社会は他国ほど腐敗せずに居る。  英国もやはり衰へて行く方であらう。  露西亜はえらい。  土耳其は殆ど滅びて居る。  和蘭もやはり老衰でしかたがない。  白耳義は奇妙な国で陸海軍のない、ただ商工業を以て成立つて居る国である。天子様も商売は上手で、非常な金持であるためにほかの者は心服しなくとも、少くも商人だけは一目を置いて居る。先日廃せられた有名な公許賭博場も、天子様が一大華客である、などと噂せられるほどのことである。この国の鉄道は有名なもので、これは悉く国有である。この頃は日本からも商業上の留学生をこの国へ出すやうになつたが、黒田の話では画の修業も、この国へ留学させたらよからうといふて居た。  要するに新たに勃興した国は総て勢が強く、古い国は多くは腐敗して衰運に傾きつつあるやうに見える。  それから大国と小国との関係について、例へば丁抹とかいふやうな兵力のない国は、大国に対して少しも頭が上らないであらうと思ふやうであるが、実際はそれほどでもないものである。何か国際上の問題が起つた際にも、小国の方では自分が小国であるから大国に馬鹿にされるのであるといふやうなひがみ根性を起して、存外に手強く談判を持込むやうなことがある。日本でも事によると自分の弱いのを気にして、かへつて大国に向つて強く突込んで行く事がないでもない。  権利とか平等とかいふけれど、日本ほど下等社会の権利が主張せられる処は西洋には少いであらう。日本では下等社会の奴が巡査の前で堂々と自己の権利を言ひ張つて何処までも屈しないといふやうなのがあるが、西洋では上等社会と下等社会と喧嘩したらば、如何なる場合でも上等社会が勝つに極つて居る。よき着物を着たものと汚ない着物を着たものと喧嘩したらば、よき着物を着た方が巡査の前へ出ても必ず勝つことに極つて居る。 (六月四日) 二十四 ○近作数首。    悼清国蘇山人 陽炎や日本の土にかりもがり    送別 君を送る狗ころ柳散る頃に 欧羅巴へ行く人の許へ根岸の笹の雪を贈りて 日本の春の名残や豆腐汁 無事庵久しく病に臥したりしが此頃みまかりぬと聞きて 時鳥辞世の一句無かりしや 鳴雪翁の書画帖に拙くも瓶中の芍薬を写生して自ら二句を賛す 芍薬の衰へて在り枕許 芍薬を画く牡丹に似も似ずも    謡曲殺生石を読みて口占数句 玉虫の穴を出でたる光りかな 化物の名所通るや春の雨 殺生石の空や遥かに帰る雁 (六月五日) 二十五 ○近頃芳菲山人が梟の鳴声を聞かんと四方の士に求められけるに続々四方より報知ありて色々面白い鳴声もあるやうであるが、大体は似て居るかと思はれる。わが郷里予州松山では、梟が「フルツク、ホーソ」となけば雨が降る「ノリツケ、ホーソ」と鳴けば明日の天気は晴であるといふ天気予報に見られて居る、さうして梟の事をば俗にフルツクといふ。俳句ではこれを冬の部に入れてあるが、それは恐らくは 梟は眠る所をさゝれけり    猿雖 といふ句が『猿蓑』の冬の部に入れられたから始まつたのであらう、従つて木兎もやはり同じ事に取扱はれて居るが、貞享式に「古抄は秋の部に入れたれど渡り鳥にもあらず、色鳥にもあらず、まして鳴声の物凄きは寒さを厭へる故にとや、決して冬と定むべし」とあるけれど、梟は元来何時の時候をよく鳴くものであるか、余の経験によると、上野の森では毎年春の末より秋の半ばへかけて必ず梟が鳴く、これは余が根岸に来て以来経験する所であるが、夏の夕方、雉子町を出でて、わが家への帰るさ、月が涼しく照して気持のよい風に吹かれながら上野の森をやつて来ると、音楽学校の後ろあたりへ来た時に必ずそのフルツクホーソの声を聞く事であつた。毎晩大概同じ見当で鳴くやうではあるが、しかしどの辺の木で鳴くのか其処まで研究したことはない。病に寝て後ちもやはり例の鳴声は根岸まで聞えるので、この頃でも病床で毎晩聞いて居る。日の晩れから鳴き出して夜更けにも鳴くことがあるが時としては二羽のつれ鳴に鳴く声が聞える事がある。またある時はわが庭の木近くへ来て鳴く事もあるが、余り近く鳴かれるとさすがに物凄く感じる。さうして秋の半ばやや夜寒の頃になると何時も鳴かなくなつてしまふ。して見ると上野には秋の半ばまで棲んでゐて、それからよそへ転居するのであらうか、または上野に居るけれども鳴かなくなるのであらうか、物知りに教へてもらひたいのである。  この鳥の鳴声の事をいふと余は何時もコルレツヂのクリスタベルを連想する。 And the owls have awakened the crowing cock ! Tu-whit ! ─ Tu-whoo ! (六月六日) 二十六 ○今日只今(六月五日午後六時)病床を取巻いて居る所の物を一々数へて見ると、何年来置き古し見古した蓑、笠、伊達正宗の額、向島百花園晩秋の景の水画、雪の林の水画、酔桃館蔵沢の墨竹、何も書かぬ赤短冊などのほかに、  写真双眼鏡、これは前日活動写真が見たいなどといふた処から気をきかして古洲が贈つてくれたのである。小金井の桜、隅田の月夜、田子の浦の浪、百花園の萩、何でも奥深く立体的に見えるので、ほかの人は子供だましだといふかも知れぬが、自分にはこれを覗くのが嬉しくて嬉しくて堪らんのである。  河豚提灯、これは江の島から花笠が贈つてくれたもの、それを頭の上に吊してあるので、来る人が皆豚の膀胱かと間違へるのもなかなか興がある。  喇嘛教の曼陀羅、これは三尺に五尺位な切れで壁にかけるやうになつて居る。その中央一ぱいに一大円形を画き、その円形の内部に正方形を画き、その正方形の内部に更に小円形を画き、その円形の中に小さな仏様が四方四面に向き合ふて画いてある。そのあたりには仏具のやうな物や仏壇のやうなものがやはり幾何学的に排列せられて居る。また大円形の周囲には、仏様や天部の神様のやうなものや、紫雲や、青雲や、白雲や、奇妙な赤い髷括りのやうなものが附いて居る樹木や、種々雑多の物が赤青白黄紫などの極彩色で画いてある極めて精巧なものである。  大津絵二枚、これは五枚の中のへげ残りが襖に貼られて居る。四方太が大津から買ふて来た奉書摺のものである。今あるのは猿が瓢箪で鯰を押へとる処と、大黒が福禄寿の頭へ梯子をかけて月代を剃つて居る処との二つである。  丁字簾一枚、これは朝鮮に居る人からの贈物で座敷の縁側にかかつて居る。この簾を透して隣の羯翁のうちの竹藪がそよいで居る。  花菖蒲及び蝿取撫子、これは二、三日前、家の者が堀切へ往て取つて帰つたもので、今は床の間の花活に活けられて居る。花活は秀真が鋳たのである。  美女桜、ロベリヤ、松葉菊及び樺色の草花、これは先日碧梧桐の持つて来てくれた盆栽で、今は床の間の前に并べて置かれてある。美女桜の花は濃紅、松葉菊の花は淡紅、ロベリヤは菫よりも小さな花で紫、他の一種は苧環草に似た花と葉で、花の色は凌霄花の如き樺色である。  黄百合二本、これは去年信州の木外から贈つてくれたもので、諏訪山中の産ぢやさうな。今を盛りと庭の真中に開いて居る。  美人草、よろよろとして風に折れさうな花二つ三つ。  銭葵一本、松の木の蔭に伸びかねて居る。  薔薇、大方は散りて殷紅色の花が一、二輪咲残つて居る。  そのほか庭にある樹は椎、樫、松、梅、ゆすら梅、茶など。  枕許にちらかつてあるもの、絵本、雑誌等数十冊。置時計、寒暖計、硯、筆、唾壺、汚物入れの丼鉢、呼鈴、まごの手、ハンケチ、その中に目立ちたる毛繻子のはでなる毛蒲団一枚、これは軍艦に居る友達から贈られたのである。 (六月七日) 二十七 ○枕許に『光琳画式』と『鶯邨画譜』と二冊の彩色本があつて毎朝毎晩それをひろげて見ては無上の楽として居る。ただそれが美しいばかりでなくこの小冊子でさへも二人の長所が善く比較せられて居るのでその点も大に面白味を感ずる。殊に両方に同じ画題(梅、桜、百合、椿、萩、鶴など)が多いので比較するには最も便利に出来て居る。いふまでもないが光琳は光悦、宗達などの流儀を真似たのであるとはいへとにかく大成して光琳派といふ一種無類の画を書き始めたほどの人であるから総ての点に創意が多くして一々新機軸を出して居るところは殆ど比肩すべき人を見出せないほどであるから、とても抱一などと比すべきものではない、抱一の画の趣向なきに反して光琳の画には一々意匠惨憺たる者があるのは怪しむに足らない。そこで意匠の点は姑く措いて筆と色との上から見たところで、光琳は筆が強く抱一は筆が弱い、色においても光琳が強い色殊に黒い色を余計に用ゐはせぬかと思はれる。従つて草木などの感じの現はれ方も光琳はやはり強い処があつて抱一はただなよなよとして居る。この点においては勿論どちらが勝つて居ると一概にいふ事は出来ぬ。強い感じのものならば光琳の方が旨いであらう。弱い感じのものならば抱一の方が旨いであらう。それから形似の上においては草木の真を写して居る事は抱一の方が精密なやうである。要するに全体の上において画家としての値打は勿論抱一は光琳に及ばないが、草花画かきとしては抱一の方が光琳に勝つて居る点が多いであらう。抱一の草花は形似の上においても精密に研究が行届いてあるし輪郭の画き工合も光琳よりは柔かく画いてあるし、彩色もまた柔かく派手に彩色せられて居る。或人はまるで魂のない画だといふて抱一の悪口をいふかも知れぬが、草花の如きは元来なよなよと優しく美しいのがその本体であつて魂のないところがかへつて真を写して居るところではあるまいか、この二小冊子を比較して見ても同じ百合の花が光琳のは強い線で画いてあり抱一のは弱い線で画いてある。同じ萩の花でも光琳のは葉が硬いやうに見えて抱一のは葉が軟かく見える。つまり萩のやうな軟かい花は抱一の方が最も善く真の感じを現はして居る。『鶯邨画譜』の方に枝垂れ桜の画があつてその木の枝を僅かに二、三本画いたばかりで枝全体には悉く小さな薄赤い蕾が附いて居る。その優しさいぢらしさは何ともいへぬ趣があつてかうもしなやかに画けるものかと思ふほどである。『光琳画式』の桜はこれに比するとよほど武骨なものである。しかしながら『光琳画式』にある画で藍色の朝顔の花を七、八輪画きその下に黒と白の狗ころが五匹ばかり一所になつてからかひ戯れて居る意匠などといふものは別に奇想でも何でもないが、実にその趣味のつかまへ処はいふにいはれぬ旨味があつて抱一などは夢にもその味を知る事は出来ぬ。 (六月八日) 二十八 ○長崎にては昔から支那料理の事を「シツポク」といふげな。何故といふことは分らぬ、食卓といふ字の音でもあるまい。余の郷里にては饂飩に椎茸、芹、胡蘿蔔、焼あなご、くずし(蒲鉾)など入れたるをシツポクといふ。これも支那伝来の意であらう。麺類は総て支那から来たものと見えて皆漢音を用ゐて居る。メン(麺)ソーメン(索麺)ニユーメン(乳麺かこの語漢語か何か知らぬ)メンボー(麺棒)ウンドン(饂飩)の類皆これである。それになほ面白い事は夜間饂飩蕎麦など売りに来る商人が地方によりて「ハウハウ」と呼ぶ事である。この「ハウ」は支那語の好の字にてハウハウは即ち好々といふ意になる。支那では一般に好的、好々などいふてあたかも我邦の「善い」「上等」などいふ処に用ゐる。 ○ソーメンを素麺と書くは誤つて居る。やはり「索麺」と書く方が善い。索「ナハ」の如き麺の意であらう。 (六月九日) 二十九 ○魚を釣るには餌が必要である。その餌は魚によつて地方によつてよほど違ひがあるやうであるがわが郷里伊予などにては何を用ゐるかと、その道の人に聞くに 蚯蚓 を用ゐるものは鮠釣、鮒釣、ドンコ釣、ゲイモ釣、鰻釣、手長海老釣、スツポン釣 川海老 を用ゐるものは鮠釣、ゲイモ釣、ギゾ釣 エブコ (野葡萄の如き野草の茎の中に棲む虫)を用ゐるものは鮠釣 ギスゴ、ハタハタ を用ゐるものは鮠釣 蚕 を用ゐるものは鮠釣 セムシ (川の浅瀬の石に蜘蛛のやうな巣を張りて住む大きなものと川の砂の中に砂を堅めて小さき筒状の家を作りて住む形の小さなものとの二種類ある)を用ゐるものは鮠釣 田螺 を用ゐるものは手長海老 赤蛙 を用ゐるものは鯰釣 海の小海老 を用ゐるものは小鯛釣、メバル釣、アブラメ、ホゴそのほか沖の雑魚釣 シヤコ を用ゐるものは小鯛釣 小烏賊 を用ゐるものは大鯛釣 シラサ海老 を用ゐるものは大鯛釣、鱸釣、チヌ釣 ゴカイ チヌ釣、雑魚釣 などの如く多くは動物を用ゐるのであるが、中には変則な奴もある、それは鮎を釣るにカガシラ鉤(蚊頭)を用ゐ、鮠を釣るにハイガシラ(蠅頭)を用ゐ、ウルメを釣るにシラベ(白き木綿糸を合せたるもの)を用ゐ、烏賊を釣るに木製の海老を用ゐる如き類ひである。カガシラとは獣毛を赤黒黄等に染めたる短きものを小さき鉤につけて金または銀の小さき頭がついてゐる。鮎はこの美しき鉤を見て蚊と思ひあやまりて喰ひつくといふ事である。ハイガシラは獣毛を薄墨色に染めた短いものを鉤につけてそれに黒い頭がついてゐる。木製の海老とは木で海老の形に作つた二寸ばかりのもの、尾の所に三本の鋭き鉤が碇形についてゐる。烏賊はこれを真の海老だと思つて八本の手で抱きつくと鉤は彼の柔かな肉を刺すのである。  東京の釣堀なぞでは主に鯉を釣るのであるが、さてその餌とすべきものは甚だ種類が多い。フカシイモ、ウドン、ゴカイ、ムキミ、ミミズ、サナギを飴糟にて練りたるもの、などを用ゐる。さすがは都の産れだけに東京の鯉は贅沢になつてこんなに様々な御馳走を貪るのであらうか。地方によつてはこのほかになほ種々の異つた餌があるであらう。 (六月十日) 三十 ○窮して而して始めて一条の活路を得、始めより窮せざるものかへつて死地に陥りやすし。 ○釣に巧なるものあり、川の写真を見て曰く、この川にはきつと鮎が居ると。 ○幕府以来の名家固より相当の産あり、而してその朝飯は味噌汁と香の物のほか、また一物を加へず。これを主人に質せば、主人曰く、我も余りまづい朝飯とは思へど、古来の習慣今更致方もなしと。 ○蚊が出ても蚊帳がないといふ者あり。曰くランプを十分に明るくして寝よ。 (六月十一日) 三十一 ○高等女学校の教科書に石川雅望の書きたる文を載せたるに、その文は両国の四ツ目屋といふいかがはしき店の記事にてありしため俄かに世間の物議を起し著者を責むるもあれば、文部省の審査官を責むるものもあり、その責めやうにもいくらか程度の寛厳があるやうであるが、余の考へにては世間一般の人が責める所の方面、即ち著者の粗漏とか、審査の粗漏とかいふ事でなく、他の方面より責めたいのである。それは著者及び審査官の無学といふ事である。余の臆測にては著者も文部省の審査官等も恐らくは四ツ目屋の何たるを解せずしてこれを書中に引きまたこれを審査済として許可したるものであらうと思はれる。して見れば彼らの無学は終にこの不都合なる結果を来したるもので、その無学こそ責むべきものではあるまいか。従来国文学者または和学者などといふものは主に『源氏物語』『枕草子』などの研究にのみ力を用ゐ、近世の事即ち徳川氏以下の事に至つてはこれを単に卑俗として排斥し顧みないために、近世三百年間の文学は全く知らないものが十の八、九に居るのである。今度の四ツ目屋事件もこれを知らなんだといふ事は固より一小事であつてさのみ咎むるに足らんやうであるが、その実この事に限らず徳川文学を全く研究しないといふ結果が偶然爰に現はれたのであるから余は何処までもいはゆる擬古的文学者の無学なのを責めたいのである。殊にその意味さへ解せずしてこれを教科書に引用した教科書著者の乱暴には驚かざるを得ない。この機を以て文学者の猛省を促すのである。 (六月十二日) 三十二 ○道具の贅沢などは一切しようと思はぬがただ硯ばかりはややよきものをほしいと思つてゐた。しかし二円や三円のはした金では買へぬと聞いてあきらめてゐた。ところがどういふわけだか近頃になつてますますそれがほしくなつたけれど、今更先の知れた身で大金を出すのも余り馬鹿々々しいので仕方なしに在り来りの十銭か十五銭の硯ですましてゐると、碧梧桐がその亡兄黄塔の硯を持つて来て貸してくれた。その硯は一面は三方を溝の如く彫り、他の一面は芭蕉の葉を沢山に彫つてある。その石材は余りよいのでもないやうに思はれるがしかし十五銭位の勧工場物とは固より同日の論ではない上に、黄塔のかたみであることが、何となくなつかしく感ぜられて朝夕枕もとに置いて寝ながらのながめものになつてゐる。 墨汁のかわく芭蕉の巻葉かな 芍薬は散りて硯の埃かな 五月雨や善き硯石借り得たり (六月十三日) 三十三 ○同郷の先輩池内氏が発起にかかる『能楽』といふ雑誌が近々出るさうである。この雑誌は今まさに衰へんとする能楽を興さんがためにその一手段として計画せられたるものであつて、固より流儀の何たるを問はず、殊に囃子方などのやうやうに人ずくなになり行くを救はんとするのがその目的の主なるものであるさうな。元来能楽といふものは保存的のものであつて、進歩的のものではないのであるから、今日において改良するといふても、別に改良すべき点はない。ただ時勢と共に多少の改良を要するといふ点は、能役者間に行はれたる従来の習慣のうちで、今日の時勢に適せないものを改良して行く位の事なのである。而してその能役者間に行はれて居る習慣といふのは、今日からいふと随分馬鹿々々しい事も少くはない上に、また今日いはゆる家元なるものが維新後扶持を失ふたがために生計の道に窮して種々の悪弊を作り出した事も少くはないのである。これらの悪習慣は一撃に打破つてしまへば何でもないやうな事であるが、その実これをやらうといふには、非常の困難を感ずる。誠に生活問題と関係して居ることは、考へて見れば能役者に対しては気の毒な次第であつて、一方の道を打破する上は、他の一方において相当の保護を与へてやらねばならんのは至当の事である。昔岩倉具視公の存生中には、公が能楽の大保護者として立たれたるがために、一旦衰へたる能楽に花が咲いて一時はやや盛んならんとする傾きを示したにかかはらず、公の薨ぜられた後は誰れ一人責任を負ふて能楽界を保護する人もないので、遂に今日の如く四分五裂してしまつたのである。たまたま或人が出て能楽界を振はせようとして会などを興した事などもあつたが、とかく流儀争ひなどのために子供のやうな喧嘩を始めて折角の計画も遂に画餅に属するに至つたのは遺憾な事である。能楽雑誌記者は固よりここに見る所があつて、能楽上の一大倶楽部を起し、天下の有志を集めて依怙贔屓なく金春、金剛、観世、宝生、喜多などいふ仕手の五流は勿論、脇の諸流も笛、鼓、太鼓などの囃子方に至るまで、悉くこれを保護しかつ後進を養成せんとする目的をも有せらるると聞くのは甚だ頼もしいことに思はれる。余の考へにては能楽は宮内省の保護を仰ぐかもしくは華族の鞏固なる団体を作つてこれを保護するか、どちらかの道によらなければ今日これを維持して行くのは、非常の困難であらうと思ふ。また能楽の性質上宮内省または華族団体の保護を仰ぐといふことは不当な要求でもなく、また一方より言へば今日これを特別保護の下に置くのは宮内省または華族団体のなすべき至当の仕事であらうと信ずる。その代りに能楽界の方においても出来得るだけの改良を図つて、従前の如く能役者はダダをこねるやうな仕打をやめ、諸流の調和を図りまた家元なるものの特権を揮ふて後進年少が進んで行かうといふ道を杜絶することのないやうにしてもらはねばならぬ。一方に生活の道さへ立てば他方において卑しい行なども自ら減じて行く道理で、一例を言へば能衣裳の損料貸などいふことが今日ではある一派の能役者の生計の一部になつて居るので、それがために卑劣なる仲間喧嘩の起るのみならず、遂には各派が分裂してしまふほどにも立ち至つたのであるが、かういふことは一方に相当の収入さへあれば自ら消滅して行くであらうと信ずる。なほこのほかにも論ずべきことは沢山あるが、それは後日に譲ることとする。 (六月十四日) ●正誤 「病牀六尺」第十二に文鳳の絵を論じて十六番の右は鳥居の前に手品師の手品を使つて居る処であると言つたのは間違ひだといふ説もあるから暫く取消す。  「病牀六尺」第二十五に猿雖の句として挙げたのは記憶の誤りであつて、実際は     木兎は眠るところをさゝれけり    半残 といふ句が『猿蓑』にあるのであつた。このほかにも木兎の句はなほ『猿蓑』に一句あるが、梟の句は元禄七年頃の『蘆分船』といふ俳書に出て居るのが、余が知るうちでは最も古い句である。  とかく病床へ参考書を引出すのが極めて面倒であるために、善い加減な記憶によつて書くのでかういふ誤りを生ずるのであるから、許してもらひたい。 三十四 ○床の間に虞美人草を二輪活けてその下に石膏の我小臥像と一つの木彫の猫とが置いてある。この猫は蹲まつて居る形で、実物大に出来て居つて、さうして黄色のやうなペンキで塗つてある。このペンキは夜暗い処で見ると白く光るやうに出来て居るので、普通のペンキとは違つて居る。これは水難救済会で使用するためにわざわざ英国から取り寄せたのであつて、これを高い標柱に塗つて救難所のある処の海岸に立てて置くと、如何なる暗夜でも沖に居る難破船からその柱が見えるので、其処に救難所のあるといふ事が船中の人にわかるやうになつて居る。これを木彫の猫に塗つて試に台所の隅に置いて見たところがその夜はいつものやうに鼠が騒がなかつた。しかしただ薄白く光るばかりで勿論猫の形が闇に見えるわけでもないから、翌晩などは例の通りいたづら物は荒れ放題に荒れたほどで敢てこれが鼠除けになるわけではないが、しかし難破船の目標としては多少の効力がある事はいふまでもない。  この水難救済会といふのは難破船を救ふのが目的であつて既に日本の海岸には二、三十カ処の救難所を設けその救難所にはそれぞれ救難の準備が整ふて居るさうである。今日のところではまだ不完全極まるものであつてこの後幾多の設備を要する事であるが、最近の報告によると昨年などは既に一日平均三人を救ふたわけになつて居るさうな。して見るとその効能は極めて大なものであつて日本の如く海の多い国ではこの上もなく必要なものであるが、世人が存外にこれに対して冷淡にある如く見えるのは甚だ遺憾である。彼の赤十字社の如きは勿論必要なものであるけれども、しかし今赤十字社がないとして忽ち差支を生ずるといふほどのものでもない。しかるに田舎の紳士どもはその勲章めいた徽章がほしいわけであるか、あるいは県官らの勧めに余儀なくせられたるわけであるか、今日のところではとにかく非常に盛大なものとなつて、あるいは実用的よりもかへつて虚飾的に流れはせぬかと思ふほどである。水難救済会はその会の目的が日常的のものであつて今日の赤十字社の如く戦時にのみ働くといふやうなものとは性質を異にしてをるにかかはらずかへつて微々として振はんのは県官の誘導も赤十字社の如くあまねく及ばないのであるか、あるいは勲章めきた徽章のないためであるか、何にしても惜しむべき事であると思ふ。少くとも海に沿ふて居る各県民は振ふて水難救済会の会員となるやうにしたいものである。 (六月十五日) 三十五 ○鳥づくしといふわけではないが、昨今見聞した鳥の話をあげて見ると、 一、この頃東京美術学校で三間ほどの大きさの鳶を鋳たさうな、これは記念の碑として仙台に建てるのであるさうながこれ位な大きなフキ物は珍しいと言ふ事である。 一、上野の動物園の駝鳥は一羽死んださうな。その肉を喰ふて見たらば鴫のやうな味がしてそれで余り旨くなかつたが、その肉の油で揚物をこしらへて見たらこれはまた非常に旨かつたといふ事である。 一、押入の奥にあつた剥製の時鳥を出して見たらば、口の内の赤い色の上に埃がたまつて居つた。 一、そこらにある絵本の中から鶴の絵を探して見たが、沢山の鶴を組合せて面白い線の配合を作つて居るのは光琳。ただ訳もなく長閑に並べて画いてあるのは抱一。一羽の鶴の嘴と足とを組合せてやや複雑なる線の配合を作つてゐるのは公長。最も奇抜なのは月樵の画で、それは鶴の飛んで居る処を更に高い空から見下した所である。 一、広重の東海道続絵といふのを見た所がその中に何処にも一羽も鳥が画いてない。それから同人の五十三駅の一枚画を見た所が原駅の所に鶴が二羽田に下りて居り袋井駅の所に道ばたの制札の上に雀が一羽とまつて居つた。 一、先日の『日本』に伊予松山からの通信として梟が「トシヨリコイ」と鳴くと書いてあつたが、それは誤りで八幡鳩(珠数カケ鳩)が「トシヨリコイ」と鳴くのである。 一、上野の入口へ来ると三層楼の棟の所に雁が浮彫にしてある。それは有名な「雁鍋」である。それから坂本の方へ来ると、或る鳥屋の屋根に大きな雄鶏の突立つた看板がある。それから根岸へ来ると三島前の美術床屋には剥製の白鷺が石膏の半身像と共に飾つてある。 (六月十六日) 三十六 ○信玄と謙信とどつちが好きかと問ふと、謙信が好きぢやといふ人が十の八、九である。梅ヶ谷と常陸山とどつちが好きかと問ふと、常陸山が好きぢやといふ人が十の八、九である。その好き嫌ひについては、多少の原因がないではないが、多くはただ理窟もなしに、好きぢやといふに過ぎぬ。しかし一般の人は自重的の人よりも、快活的の人を好むといふことが、知らず知らず、その好悪の大原因をなして居るかも知れぬ。余は回向院の角力も観たことがないので、贔屓角力などはないがどつちかといふと梅ヶ谷の方を贔屓に思ふて居る。さうして子供の時から謙信よりも信玄が好きなやうに思ふ。それはどういふ訳だか自分にも分らぬ。 (六月十七日) 三十七 ○明治維新の改革を成就したものは二十歳前後の田舎の青年であつて幕府の老人ではなかつた。日本の医界を刷新したものも後進の少年であつて漢方医はこれに与らない。日本の漢詩界を振はしたのもやはり後進の青年であつて天保臭気の老詩人ではない。俳句界の改良せられたのも同じく後進の青年の力であつて昔風の宗匠はむしろその進歩を妨げようとした事はあつたけれど少しもこれに力を与へた事はない。何事によらず革命または改良といふ事は必ず新たに世の中に出て来た青年の仕事であつて、従来世の中に立つて居つた所の老人が中途で説を飜したために革命または改良が行はれたといふ事は殆どその例がない。もし今日の和歌界を改良せんとならばそれは勿論青年歌人の成すべき事であつて老歌人の為し得らるる事ではない。もし今日の演劇界を改良せんとならば、それはむしろ壮士俳優の任務であつて決して老俳優の成し得らるる所ではない。しかるに文学者とも言はるるほどの学者が団十菊五などを相手にして演劇の改良を説くに至つては愚と言はうか迂と言はうか実にその眼孔の小なるに驚かざるを得ない。 (六月十八日) 三十八 ○爰に病人あり。体痛みかつ弱りて身動き殆ど出来ず。頭脳乱れやすく、目くるめきて書籍新聞など読むに由なし。まして筆を執つてものを書く事は到底出来得べくもあらず。而して傍に看護の人なく談話の客なからんか。如何にして日を暮すべきか、如何にして日を暮すべきか。 (六月十九日) 三十九 ○病床に寝て、身動きの出来る間は、敢て病気を辛しとも思はず、平気で寝転んで居つたが、この頃のやうに、身動きが出来なくなつては、精神の煩悶を起して、殆ど毎日気違のやうな苦しみをする。この苦しみを受けまいと思ふて、色々に工夫して、あるいは動かぬ体を無理に動かして見る。いよいよ煩悶する。頭がムシヤムシヤとなる。もはやたまらんので、こらへにこらへた袋の緒は切れて、遂に破裂する。もうかうなると駄目である。絶叫。号泣。ますます絶叫する、ますます号泣する。その苦その痛何とも形容することは出来ない。むしろ真の狂人となつてしまへば楽であらうと思ふけれどそれも出来ぬ。もし死ぬることが出来ればそれは何よりも望むところである、しかし死ぬることも出来ねば殺してくれるものもない。一日の苦しみは夜に入つてやうやう減じ僅かに眠気さした時にはその日の苦痛が終ると共にはや翌朝寝起の苦痛が思ひやられる。寝起ほど苦しい時はないのである。誰かこの苦を助けてくれるものはあるまいか、誰かこの苦を助けてくれるものはあるまいか。 (六月二十日) 四十 ○「如何にして日を暮らすべき」「誰かこの苦を救ふてくれる者はあるまいか」此に至つて宗教問題に到着したと宗教家はいふであらう。しかし宗教を信ぜぬ余には宗教も何の役にも立たない。基督教を信ぜぬ者には神の救ひの手は届かない。仏教を信ぜぬ者は南無阿弥陀仏を繰返して日を暮らすことも出来ない。あるいは画本を見て苦痛をまぎらかしたこともある。しかし如何に面白い画本でも毎日々々同じ物を繰返して見たのでは十日もたたぬうちに最早陳腐になつて再び苦痛をまぎらかす種にもならない。あるいは双眼写真を弄んで日を暮らしたこともある。それも毎日見ては段々に面白味が減じて、後には頭の痛む時などかへつて頭を痛める料になる。何よりも嬉しきは親切なる友達の看護してくれることであるがそれもしばしば出逢ふては、別に新しき話もないので病人も看護人も両方が差向ふて一はただ苦しみ、一はその苦しみを見て心に苦しむやうになる。去年頃までは唯一の楽しみとして居つた飲食の慾も、今は殆ど消え去つたのみならず、飲食その物がかへつて身体を煩はして、それがために昼夜もがき苦しむことは、近来珍しからぬ事実となつて来た。あるいは謡を聞きあるいは義太夫を聞いて楽しんだのは去年のことであつたが、今は軍談師を呼んで来ようか、活動写真をやらして見ようかとの友達の親切なる慰めはかへつて聞くさへも頭を痛めるやうになつた。大勢の人を集めて、これと室を共にすることも苦しみの種である。謡の声、三味線の音も遥かの遠音を聞けばこそ面白けれ、枕許近くにてはその音が頭に響き、甚だしきは我が呼吸さへ他の呼吸に支配せられて非常に苦痛を感ずるやうになつてしまふた。畢竟自分と自分の周囲と調和することが甚だ困難になつて来たのである。麻痺剤の十分に効を奏した時はこの調和がやや容易であるが、今はその麻痺剤が十分に効を奏することが出来なくなつた。余は実にかやうな境界に陥つて居るのである。いつ見ても同じ病苦談、聞く人には馬鹿々々しくうるさいであらうが、苦しい時には苦しいといふよりほかに仕方もなき凡夫の病苦談「如何にして日を暮らすべきか」「誰かこの苦を救ふてくれる者はあるまいか」情ある人我病床に来つて余に珍しき話など聞かさんとならば、謹んで余はために多少の苦を救はるることを謝するであらう。余に珍しき話とは必ずしも俳句談にあらず、文学談にあらず、宗教、美術、理化、農芸、百般の話は知識なき余に取つて悉く興味を感ぜぬものはない。ただ断つて置くのは、差向ふて坐りながら何も話のない人である。 (六月二十一日) 四十一 ○この日逆上甚だし。新しく我を慰めたるもの 一、果物彩色図二十枚 一、明人画飲中八仙図一巻(模写) 一、靄崖画花卉粉本一巻(模写) 一、汪淇模写山水一巻(模写) 一、煙霞翁筆十八皴法山水一巻(模写) 一、桜の実一籃 一、菓子麺包各種 一、菱形走馬燈一箇  来客は鳴雪、虚子、碧梧桐、紅緑諸氏。  事項は『ホトトギス』募集文案、蕪村句集秋の部輪講等。  食事は朝、麺包、スープ等。午、粥、さしみ、鶏卵等。晩、飯二碗、さしみ、スープ等。間食、葛湯、菓子麺包等。  服薬は水薬三度、麻痺剤二度。(六月二十日) (六月二十二日) 四十二 ○今朝起きると一封の手紙を受取つた。それは本郷の某氏より来たので余は知らぬ人である。その手紙は大略左の通りである。 拝啓昨日貴君の「病牀六尺」を読み感ずる所あり左の数言を呈し候 第一、かかる場合には天帝または如来とともにあることを信じて安んずべし 第二、もし右信ずること能はずとならば人力の及ばざるところをさとりてただ現状に安んぜよ現状の進行に任ぜよ痛みをして痛ましめよ大化のなすがままに任ぜよ天地万物わが前に出没隠現するに任ぜよ 第三、もし右二者共に能はずとならば号泣せよ煩悶せよ困頓せよ而して死に至らむのみ 小生はかつて瀕死の境にあり肉体の煩悶困頓を免れざりしも右第二の工夫によりて精神の安静を得たりこれ小生の宗教的救済なりき知らず貴君の苦痛を救済し得るや否を敢て問ふ病間あらば乞ふ一考あれ (以下略)  この親切なるかつ明鬯平易なる手紙は甚だ余の心を獲たものであつて、余の考も殆どこの手紙の中に尽きて居る。ただ余にあつては精神の煩悶といふのも、生死出離の大問題ではない、病気が身体を衰弱せしめたためであるか、脊髄系を侵されて居るためであるか、とにかく生理的に精神の煩悶を来すのであつて、苦しい時には、何とも彼とも致しやうのないわけである。しかし生理的に煩悶するとても、その煩悶を免れる手段は固より「現状の進行に任せる」よりほかはないのである。号叫し煩悶して死に至るよりほかに仕方のないのである。たとへ他人の苦が八分で自分の苦が十分であるとしても、他人も自分も一様にあきらめるといふよりほかにあきらめ方はない。この十分の苦が更に進んで十二分の苦痛を受くるやうになつたとしてもやはりあきらめるよりほかはないのである。けれどもそれが肉体の苦である上は、程度の軽い時はたとへあきらめる事が出来ないでも、なぐさめる手段がない事もない。程度の進んだ苦に至つては、啻になぐさめる事の出来ないのみならず、あきらめて居てもなほあきらめがつかぬやうな気がする。けだしそれはやはりあきらめのつかぬのであらう。笑へ。笑へ。健康なる人は笑へ。病気を知らぬ人は笑へ。幸福なる人は笑へ。達者な両脚を持ちながら車に乗るやうな人は笑へ。自分の後ろから巡査のついて来るのを知らず路に落ちてゐる財布をクスネンとするやうな人は笑へ。年が年中昼も夜も寐床に横たはつて、三尺の盆栽さへ常に目より上に見上げて楽しんで居るやうな自分ですら、麻痺剤のお蔭で多少の苦痛を減じて居る時は、煩悶して居つた時の自分を笑ふてやりたくなる。実に病人は愚なものである。これは余自身が愚なばかりでなく一般人間の通有性である。笑ふ時の余も、笑はるる時の余も同一の人間であるといふ事を知つたならば、余が煩悶を笑ふ所の人も、一朝地をかふれば皆余に笑はるるの人たるを免れないだらう。咄々大笑。(六月二十一日記) (六月二十三日) 四十三 ○まだ見たことのない場所を実際見た如くにその人に感ぜしめようといふにはその地の写真を見せるのが第一であるがそれも複雑な場所はとても一枚の写真ではわからぬから幾枚かの写真を順序立てて見せるやうにするとわかるであらう。名所旧跡などいふ処にはこのやうな写真帖が出来て居る処もあるがその写真帖はただ所々の光景を示したばかりでそれぞれの位置が明瞭しないので甚だその効力が薄い。それでこの種の写真帖には必ず一枚の地図を付けてその中にあるそれぞれの写真の位置と方位とを知らしむるやうにしたらば非常に有益であらうと思ふ。日光を知らぬ人にもこの写真帖を見せればその人は日光へ往つたやうな感じになるであらう。西洋に行くことのできない人でもこの種の写真帖を見たらば西洋へ往つたと同じやうな感じになる事が出来る。比較的簡単で廉価でさうしてこれほど有益なものは他に類が少いであらう。 (六月二十四日) 四十四 ○警視庁は衛生のためといふ理由を以て、東京の牛乳屋に牛舎の改築または移転を命じたさうな。そんなことをして牛乳屋をいぢめるよりも、むしろ牛乳屋を保護してやつて、東京の市民に今より二、三倍の牛乳飲用者が出来るやうにしてやつたら、大に衛生のためではあるまいか。 (六月二十五日) 四十五 ○写生といふ事は、画を画くにも、記事文を書く上にも極めて必要なもので、この手段によらなくては画も記事文も全く出来ないといふてもよい位である。これは早くより西洋では、用ゐられて居つた手段であるが、しかし昔の写生は不完全な写生であつたために、この頃は更に進歩して一層精密な手段を取るやうになつて居る。しかるに日本では昔から写生といふ事を甚だおろそかに見て居つたために、画の発達を妨げ、また文章も歌も総ての事が皆進歩しなかつたのである。それが習慣となつて今日でもまだ写生の味を知らない人が十中の八、九である。画の上にも詩歌の上にも、理想といふ事を称へる人が少くないが、それらは写生の味を知らない人であつて、写生といふことを非常に浅薄な事として排斥するのであるが、その実、理想の方がよほど浅薄であつて、とても写生の趣味の変化多きには及ばぬ事である。理想の作が必ず悪いといふわけではないが、普通に理想として顕れる作には、悪いのが多いといふのが事実である。理想といふ事は人間の考を表はすのであるから、その人間が非常な奇才でない以上は、到底類似と陳腐を免れぬやうになるのは必然である。固より子供に見せる時、無学なる人に見せる時、初心なる人に見せる時などには、理想といふ事がその人を感ぜしめる事がない事はないが、ほぼ学問あり見識ある以上の人に見せる時には非常なる偉人の変つた理想でなければ、到底その人を満足せしめる事は出来ないであらう。これは今日以後の如く教育の普及した時世には免れない事である。これに反して写生といふ事は、天然を写すのであるから、天然の趣味が変化して居るだけそれだけ、写生文写生画の趣味も変化し得るのである。写生の作を見ると、ちよつと浅薄のやうに見えても、深く味はへば味はふほど変化が多く趣味が深い。写生の弊害を言へば、勿論いろいろの弊害もあるであらうけれど、今日実際に当てはめて見ても、理想の弊害ほど甚だしくないやうに思ふ。理想といふやつは一呼吸に屋根の上に飛び上らうとしてかへつて池の中に落ち込むやうな事が多い。写生は平淡である代りに、さる仕損ひはないのである。さうして平淡の中に至味を寓するものに至つては、その妙実に言ふべからざるものがある。 (六月二十六日) 四十六 ○ある人のいふ所に依ると九段の靖国神社の庭園は社殿に向つて右の方が西洋風を摸したので檜葉の木があるいは丸くあるいは鋒なりに摘み入れて下は綺麗な芝生になつて居る。左側の方は支那風を摸したので桐や竹が植ゑてある。後側は日本固有の造り庭で泉水や築山が拵へてある。かういふ風に庭園を比較したとはいふものの甚だ区域が狭いので十分にその特色を発揮する事が出来て居らぬ。そこでこの庭園についても人々によつて種々の変つた意見を持つて居つて、これが神社である以上は神々しき感じを起させるために社殿の周囲に沢山の大木を植ゑねばならぬなどといふ人もある。けれどもそれは昔風の考へであつて、神社であるから必ずしも大木がなければならぬといふ事はない。二十年ほど前に余が始めて東京へ来て靖国神社を一見した時の感じを思ひ起して見ると、ほかの物は少しも眼に入らないで、綺麗なる芝生の上に檜葉の木が綺麗に植ゑられてをるといふ事がいかにも愉快な感じがしてたまらなかつたのである。勿論それは子供の時の幼稚な考へから来た事であるけれども、しかし世の中の人は幼稚な感じを持つて居る方が八、九分を占めて居るのであるから、今でも昔の余と同じやうにこの西洋風の庭を愉快に感ずる人がきつと多いであらうと思ふ。それ故にもし靖国神社の庭園を造り変へるといふ事があつたら、いつそ西洋風に造り変へたら善からう。まん丸な木や、円錐形の木や、三角の芝生や、五角の花畑などが幾何学的に井然として居るのは、子供にも俗人にも西洋好きのハイカラ連にも必ず受けるであらう。固より造り様さへ旨くすれば実際美学上から割り出した一種の趣味ある庭園ともなるのである。東京人の癖として、公園は上野のやうなのに限るといふ人が多いけれども、必ずしも上野が公園の模範とすべきものであるとは定められない。日比谷の公園なども広い芝生を造つて広ツパ的公園としても善いではないか。むやみやたらに木ばかり植ゑてちよつと散歩するにも鼻を衝くやうな窮屈な感じをさせるが公園の目的でもあるまい。 (六月二十七日) 四十七 ○この頃『ホトトギス』などへ載せてある写生的の小品文を見るに、今少し精密に叙したらよからうと思ふ処をさらさらと書き流してしまふたために興味索然としたのが多いやうに思ふ。目的がその事を写すにある以上は仮令うるさいまでも精密にかかねば、読者には合点が行き難い。実地に臨んだ自分には、こんな事は書かいでもよからうと思ふ事が多いけれど、それを外の人に見せると、そこを略したために意味が通ぜぬやうな事はいくらもある。人に見せるために書く文章ならば、どこまでも人にわかるやうに書かなくてはならぬ事はいふまでもない。あるいは余り文章が長くなることを憂へて短くするとならば、それはほかの処をいくらでも端折つて書くは可いが、肝腎な目的物を写す処は何処までも精密にかかねば面白くない。さうしてまたその目的物を写すのには、自分の経験をそのまま客観的に写さなければならぬといふ事も前にしばしば論じた事がある。しかるに写生的に書かうと思ひながらかへつて概念的の記事文を書く人がある。これは無論面白くない。例を言へば、米国にある支那飯屋といふのを書くつもりならば、自分がその支那飯屋へ往た時の有様をなるべく精密に書けば、それでよいのである。しかるにその方は精密に書かずにかへつて支那飯屋はどういふ性質のものであるといふやうな概念的の記事を長々と書くのは雑報としてはよいけれども、美文としては少しも面白くない。まだ雑報と美文の区別を知らない人が大変多いやうである。同雑誌の一日記事の如きもただ簡単に過ぎて何の面白味もないのが多いやうに見える。これは今少し思ひきつて精密に書いたならば多少面白くなるだらうと思ふ。 (六月二十八日) 四十八 ○この頃売り出した双眼写真といふのがある。これは眼鏡が二つあつてその二つの眼鏡を両眼にあてて見るやうになつて居る。眼鏡の向ふには写真を挿むやうになつて居つて、その写真は同じやうなのが二枚並べて貼つてある。これはちよつと見ると同じ写真のやうであるがその実少し違ふて居る。一つの写真は右の眼で見たやうに写し、他の写真は同じ位置に居つて同じ場所を左の眼で見たやうに写してあるのである。それを眼鏡にかけて見ると、二つの写真が一つに見えて、しかもすべての物が平面的でなく、立体的に見える。そこに森の中の小径があればその小径が実物の如く、奥深く歩いてゆかれさうに見える。そこに石があればその石が一々に丸く見える。器械は簡単であるがちよつと興味のあるもので、大人でも子供でもこれを見出すと、そこにあるだけの写真を見てしまはねばやめぬといふやうな事になる。遊び道具としては、まことに面白いものであると思ふ。しかしこの写真を見るのに、二つの写真が一つに見えて、平面の景色が立体に見えるのには、少し伎倆を要する。人によるとすぐにその見やうを覚る人もあるし、人によると幾度見ても立体的に見得ぬ人がある。この双眼写真を得てから、それを見舞に来る人ごとに見せて試みたが、眼力の確かな人には早く見えて、眼力の弱い人即ち近眼の人には、よほど見えにくいといふことがわかつた。これによつて余は悟る所があつたが、近眼の人はどうかすると物のさとりのわるいことがある、いはば常識に欠けて居るといふやうなことがある。その原因を何であるとも気がつかずに居たが、それは近眼であるためであつた。近眼の人は遠方が見えぬこと、すべての物が明瞭に見えぬこと、これだけでも普通の健全なる眼を持つて居る人に比すると既に半分の知識を失ふて居る。まして近眼者は物を見ることを五月蠅がるやうな傾向が生じて来ては、どうしても知識を得る機会が少くなる。近眼の人にして普通の人と同じやうに知識を持つて居る人もないではないが、さういふ人は非常な苦心と労力を以て、その知識を得るのであるから、同じ学問をしても人よりは二倍三倍の骨折りをして居るのである。人間の知識の八、九分は皆視官から得るのであると思ふと眼の悪い人はよほど不幸な人である。 (六月二十九日) 四十九 ○英雄には髀肉の嘆といふ事がある。文人には筆硯生塵といふ事がある。余もこの頃「錐錆を生ず」といふ嘆を起した。この錐といふのは千枚通しの丈夫な錐であつて、これを買ふてから十年余りになるであらう。これは俳句分類といふ書物の編纂をして居た時に常に使ふて居たものでその頃は毎日五枚や十枚の半紙に穴をあけて、その書中に綴込まぬ事はなかつたのである。それ故錐が鋭利といふわけではないけれど、錐の外面は常に光を放つて極めて滑かであつた。何十枚の紙も容易く突き通されたのである。それが今日ふと手に取つて見たところが、全く錆びてしまつて、二、三枚の紙を通すのにも錆のために妨げられて快く通らない。俳句分類の編纂は三年ほど前から全く放擲してしまつて居るのである。「錐に錆を生ず」といふ嘆を起さざるを得ない。 (六月三十日) 五十 ○肺を病むものは肺の圧迫せられる事を恐れるので、広い海を見渡すと洵に晴れ晴れといい心持がするが、千仞の断崖に囲まれたやうな山中の陰気な処にはとても長くは住んで居られない。四方の山に胸が圧せられて呼吸が苦しくなるやうに思ふためである。それだから蒸汽船の下等室に閉ぢ込められて遠洋を航海する事は極めて不愉快に感ずる。住居の上についても余り狭い家は苦しく感ずる。天井の低いのは殊に窮屈に思はれる。蕪村の句に 屋根低き宿うれしさよ冬籠 といふ句があるのを見ると、蕪村はわれわれとちがふて肺の丈夫な人であつたと想像せられる。この頃のやうにだんだん病勢が進んで来ると、眼の前に少し大きな人が坐つて居ても非常に息苦しく感ずるので、客が来ても、なるべく眼の正面をよけて横の方に坐つてもらふやうにする。そのほかランプでも盆栽でも眼の正面一間位な間を遠ざけて置いてもらふ。それは余りひどいと思ふ人があるだらうが理窟から考へても分ることである。人の眼障りになるといふのは誰でも眼の高さと同じ位なものか、またはそれよりも高いものかが我が前にある時にうるさく感ずるのである。それであるから病人の如くいつも横にねて居るものには眼の高さといつても僅かに五寸乃至一尺位なものである。今病人の眼の前三尺の処に高さ一尺の火鉢が置いてあるとすると、それは坐つて居る人の眼の前三尺の処に凡そ三、四尺の高さの火鉢が置いてあるのと同じ割合になる。この場合には坐つて居る人でも多少の窮屈を感ずるであらう。まして病人の如く身体も動かず、手足も働かず如何なる危険があつてもそれを手足で防ぐとか身を動かして逃げるとかすることの出来ないものはたださへ危険を感じるのであるから、その上に呼吸器の弱いものは非常な圧迫を感じて、精神も呼吸も同時に苦しくなる事は当り前の事である。その点からいふと寐床を高くして置けば善い訳であるが、それにはまた色々な故障があつて余らの如きは普通の寝台の上に寐る事を許されぬからこまる。なぜ寝台が悪いかといふと寝台の幅の狭いのも一つの故障である。寝台は腰のところで尻が落ち込んで身動きの困難なのも一つの故障である。病気になるとつまらない事に苦しまねばならぬ。 (七月一日) 五十一 ○拝復。盆栽の写真十八枚御贈り被下難有奉存候。盆栽のことはわれわれ何も存ぜず候へども、定めて日々の御手入も一方ならざる事と存候。盆栽の並べかたについては必ず三鉢を三段に配置しあり候処、定めて天地人とでも申す位置の取りかたに可有之、作法もむづかしきことと存候。しかしながら小生の如き素人目より見候へば、三段の並べかたも勿論面白く候へども、さりとて悉く同じやうな配置法を取り候ては変化に乏しく多くの写真を見もて行くほどに、あるいは前に見たると同じ写真に非ずやと疑はるることも有之候。そは畢竟余り同一趣味に偏し居り候ためと存候。配置法と申してもただ面白く配置すればよき事と存候へば、あるいは一鉢ばかり写してよきことも可有之、あるいは二鉢写したるもよかるべく、また時によりては四鉢五鉢六鉢等沢山に並べて面白きことも可有と存候。また高低の工合も御写真にあるやうに一定の規則に従ふにも及び申間敷、あるいは同じ高さに並べて面白きことも可有、あるいは僅かばかりの高低の度に配置して面白きことも可有、あるいは一は非常に高く一は非常に低く配置して面白きも可有候。また盆栽の大きさについても御培養の物は同一大のが多きやうに見受け申候。今少し突飛的に大きなる物も交り居らばかへつて興味を添ふる場合多かるべく候。また鉢についても必ずしもよき鉢には限り申間敷、あるいは瓦鉢あるいは摺鉢その他古桶などを利用致したるも雅味深かるべく候。但画をかきある鉢は如何なる場合にも宜しからずと存候。また鉢を置くべき台につきても、紫檀黒檀の上等なる台のみには限る間敷、これも粗末なる杉板の台にてもよく、または有合せのガラクタ道具を利用したるもよく、または天然の木の根石ころなどの上に据ゑたるも面白き場合多かるべく候。また盆栽を飾りたる場所も必ずしも後ろに屏風を立てて盆栽ばかり見ゆるやうに置きたるにも限り申間敷、あるいは床の間に飾りたる処を写し、あるいは机の上に置きたる処を写し、あるいは手水鉢の側に置きたる処をも写し、あるいは盆栽棚に並べたる処をも写し、あるいは種々の道具に配合したる処をも写し、色々に写しやうは可有之と存候。勿論何を配合するにも配合上の調和を欠き候ては宜しからず、この木はこの鉢に適するとか、この盆栽とかの盆栽と並べ置くに適するとか、あるいはこの盆栽はどの台へ適するとか、どの場所に適するとか、それぞれ適当なる配合を得るやうに考へ、しかる後に千変万化を尽さば興味限りなかるべくと存候。活花にても遠州流など申して、一定の法則を墨守致し候も有之候へども、これ恐らくは小堀遠州の本意にはあるまじく、要するに趣味は規則をはづれて千変万化する所に可有之候。随つて盆栽に為すべき草木その物についても必ずしも普通の松楓などには限るまじく、何の木何の草にても面白くすれば面白くなるべくと存候。御写真の趣にては、葉のある樹に限りたるやうに見受申候。これも余り狭きには過ぎずやと存候。木には限らず草も面白かるべく、また花の咲く物もそれぞれ面白かるべくと存候。右御礼かたがた愚意大略申述候。失礼の段御容赦可被下候。頓首。 (七月二日) 五十二 ○日本の芝居ばかり見てゐる人が西洋の芝居の話などを聞いてその仕組の違ふのに驚く事がある。例をいへば、西洋の芝居にはチヨボがない、花道がない、廻り舞台がない、などいふ事が、不思議に思はれる事がある。ある方が不思議か、ない方が不思議か、それは考へて見たらばわかる事であるけれど、日本の芝居ばかり見て居る間は何も考へないで、チヨボも廻り舞台も花道も皆芝居には最必要な者で極めて当然な者の如く思ふて居るのである。さてこれらの日本芝居に限られたる特色はどうして出て来たか、といふと、それは大概能楽から出て来て居るのである。能楽と芝居との関係は知つて居る人にはわかりきつて居る事であるが、どうかすると芝居の事ばかり心得てその能楽との関係に少しも注意せぬ人がある。今試みに両者の類似点、即ち芝居がどれだけ能楽の仕組に倣ふてゐるかといふ事を挙げて見ると、  第一、舞台の構造について見ても、芝居の花道は能の橋がかりから来て居る事はいふまでもない。ただ花道は舞台の前へ、即ち見物の座の中へ突き出て居るのと、橋がかりは能舞台の横の方へ斜に出て居るとの違ひである。芝居の上手下手の入口は能楽の切戸(臆病口ともいふ)に似て更に数を増して居る。芝居の引幕は能の揚げ幕とは趣を異にして居るやうではあるが、しかし元はやはり揚幕から出た考へであらうと思ふ。チヨボ語りの位置は地謡の位置と共に舞台に向つて右側の方にある。  第二に楽器の関係についても能にも芝居にも囃方といふ者がある。その楽器は両者の間に著しい差違があるが、しかし能に用ゐらるる笛、鼓、太鼓は芝居にも用ゐられて居る。ただ能では鼓を重に用ゐる代りに、芝居では三味線を重に用ゐる。芝居で長唄常磐津などの連中が舞台方に並んでいはゆる出語りなる者を遣る事があるが、それは能の囃方や地謡の舞台に並んで居るのと同じ趣である。  第三に脚本の上についていふと、能では詞よりもむしろ節の部分が多くて、その節の部分は地と地でないのとの二種類になつて居る。芝居は詞が主になつて居るけれどもやはり節の部分も少くはない。さうして節の部分は必ずチヨボで語る事になつては居るが、その文句の性質からいふとやはり能の如く地に属すべき者と、さうでないものとの二つがある。地でない部分といへば役者の自らいふべき詞に節附けをした者で、能では役者がその節を自ら謡ふ、否或時は地に属すべき分までも謡ふ事があるが芝居では役者が謡ふといふ事はない。チヨボ語りが必ず役者に代つて謡ふ事になつて居る。それから能には番ごとの間に必ず狂言を加へる事になつて居る。芝居に中幕とか附け物とかいふ事があるのは幾らか能に狂言の加はつて居る所から思ひ附いたのではあるまいか。また能は大概一日に五番と極まつて居るが近松あたりの作に五段物が多いのは能の五番から来たのではあるまいか。また脚本の性質についていふても、能には真面目なものばかりがあつて滑稽な趣向は一つもない。滑稽の部分はただ狂言にのみ任せてある。芝居にてもやはり真面目な趣向の者が多くて特に滑稽劇といふべき者は極めて少い。ただ真面目な趣向のところどころにいはゆる道化または茶利なる者を挿む位である。  その他能楽の始めに翁を演ずるに倣ひて芝居にても幕初めに三番叟を演ずるが如き、あるいは能楽を多少変改して芝居に演ずるが如き、あるいは芝居の術語の多く能の術語より出でたるが如き、これらは類似といふよりもむしろ能楽その者を芝居に取りたる者故その似て居る事は誰も知つて居る事で今更いふまでもない。なほこのほかに極些細な部分の類似は非常に多いであらう。  芝居の廻り舞台については別段に能楽から出たと思ふ点はないやうである。これは全く芝居の発明といふて善からう。  芝居の早変りといふ事は幾らか能の道成寺などから思ひついたかも知らぬが、しかしこれも先づ芝居の発明といふて善からう。 (七月三日) 五十三 ○川村文鳳の画いた画本は『文鳳画譜』といふのが三冊と、『文鳳麁画』といふのが一冊ある。そのうちで『文鳳画譜』の第二編はまだ見たことがないがいづれも前にいふた『手競画譜』の如き大作ではない。しかし別に趣向のないやうな簡単な絵のうちにも、自ら趣向もあり、趣味も現はれて居る。『文鳳麁画』といふのは極めて略画であるが、人事の千態万状を窮めて居てこれを見ると殆ど人間社会の有様を一目に見尽すかと思ふ位である。崋山の『一掃百態』はその筆勢のたくましきことと、形体の自由自在に変化しながら姿勢のくづれぬ処とは、天下独歩といふてもよいが、しかし『文鳳麁画』に比すると、数において少なきのみならず趣味においてもいくらか乏しい処が見える。ただ文鳳の大幅を見たことがないので、大幅の伎倆を知ることが出来ぬのは残念である。 ○尾張の月樵は、文鳳に匹敵すべき画家である。その『不形画藪』といふのを見ると実にうまいもので、趣向は文鳳のやうに複雑した趣向を取らないでかへつて極些細の処を捉まへ処とし、さうして筆勢の上については文鳳の如く手荒く画きとばす方ではなく、むしろ極めて手ぎはよく画いてのける処に真似の出来ぬ伎倆を示して居る。このほかに何とかいふ粗画の本で、拙い俳句の賛があるのは悪かつたが、その粗画は沢山あるが悉く月樵の筆であつて、しかも一々見てゆくと、一々にうまい趣向のある本を、或人に見せられたことがある。それは端本であつたやうだが、そんな本がまだほかにあるならば見たいと思ふけれど、誰に聞いても持つて居る人がないのは遺憾である。この人の大幅といふでもないが、半折物を二つ三つ見たことがある。一つは鶴に竹の画で別に珍しい趣向ではないがその形の面白いことは、とても他人の及ぶ処ではない。今一つは寒菊の画でこれは寒菊の一かたまりが、縄によつて束ねられた処で、画としては簡単な淋しい画であるが、その寒菊が少し傾いて縄にもたれて居る工合は、極めて微妙な処に趣向を取つて居る。そのほか賀知章の画を見たことがあるが、それも尋常でないといふことで不折は誉めて居つた。けれども人物画は少し劣るかと思はれる。とにかく月樵ほどの画かきは余り類がないのであるのに、世の中の人に知られないのは極めて不幸な人である。また世の中に画を見る人が少いのにも驚く。 (七月四日) 五十四 ○近刊の『ホトトギス』第五巻第九号の募集俳句を見るに、鳴雪、碧梧桐、虚子共に選びしうちに 着つゝなれし菖蒲重や都人    朧月堂 とある。着つつなれし菖蒲重とはいかが。菖蒲重といふは、端午の節句に着る着物なるべければ着つつなれしといふわけはないはずである。着つつなれしといへば無論ふだん着か旅衣かの類で長く着て居るものでなければなるまい。同じ部に 枇杷の木に夏の日永き田舎かな    太虚 とある。この枇杷の木には実のなり居るや否やそこが不審である。もし実のなつて居る枇杷の木とすれば、ここの景色は枇杷の木に奪はれてしまふわけになる。もし夏の日の永き田舎の無聊なる様を言はんとならば実のない枇杷の木でなくては趣が写らぬ。しかし夏の枇杷であれば実のないとも限らぬ。そこが不審な処である。鳴雪選三座の句に 上京や松に水打つ公家屋敷    井々 とある。この句において作者の位置がわからぬ。上京やといふ五字も浮いて聞える。公家屋敷の外から見た景色とすればよいけれど、それでは松に水打つところが見えぬであらう。碧梧桐選三座の句に 鄙振や蓼を刻みて鮓の中に    梅影  鮓の中にといふは殊更に聞える。中にといふことが散らし鮓の飯の間から少し蓼の葉が見えて居ることだといふ選者の説明であるが、まさかさうはとれまい。虚子選三座の句に 院々の高き若葉や京の月    石泉 とある。院々といふのは叡山か三井寺かのやうな感じがするけれど、それでは京の月といふのに当てはまらぬ。あるいは知恩院あたりの景色でもいふのであらうか。高き若葉といふのは若葉の木が高いのか、あるいは土地が高みにあるので若葉まで高く見えるといふ意味か明瞭でない。鳴雪選者吟のうちに 時鳥鳴くやお留守の西の京 麦寒き畑も右京の太夫かな 筍や京から掘るは京の藪 とあるのは面白さうな句であるが、いづれも意味がわからぬ。碧梧桐選者吟のうちに 江戸役者を団扇と誹り京扇 とある。これも解し難い句ぢや。 (七月五日) 五十五 ○鉄砲は嫌ひであるが、猟はすきである。魚釣りなどは子供の時からすきで、今でもどうかして釣りに行くことが出来たら、どんなに愉快であらうかと思ふ。それを世の中の坊さんたちが殺生は残酷だとか無慈悲だとか言つて、一概に悪くいふのはどういふものであらうか。勿論坊さんの身分として殺生戒を保つて居るのは誠に殊勝なことでそれはさもあるべき事と思ふけれど、俗人に向つて魚釣りをさへ禁じさせようとするのは、余り備はるを求め過ぐるわけではあるまいか。魚を釣るといふことは多少残酷な事としても、魚を釣つて居る間はほかに何らの邪念だも貯へて居ない所が子供らしくて愛すべき処である。その上に我々の習慣上魚を釣ることはさまで残酷と感ぜぬ。これよりも残酷な事、これよりも邪気の多い事は世の中にどれだけあるかわからん。鳥獣魚類の事はさて置き、同じ仲間の人間に向つてさへ、随分残酷な仕打ちをする者は決して少くない。殺生戒などと殊勝にやつてる坊さんたちの中にも、その同胞に対する仕打ちに多少の残酷な事も不深切な事もやる人が必ずあるであらうと思ふ。これといふほどのひどい事でなくても人間同士の交際の上にごく些細な欠点があつても極めて不愉快に感ぜられるもので、それは生きた魚を殺すよりも遥かに罪の深いやうな思ひがする。余は俗人の殺生などは、むしろ害の少い楽しみであると思ふて居る。 (七月六日) 五十六 ○酒は男の飲む者になつて居つて女で酒を飲むものは極めて少い。これは生理上男の好くわけがあるであらうか、あるいは単に習慣上然らしむるのであらうか。むしろ後者であらうと信ずる。  女は一般に南瓜、薩摩芋、胡蘿蔔などを好む。男は特にこれを嫌ふといふ者も沢山ないにしてもとにかく女ほどに好まぬ者が多い。これは如何なる原因に基くであらうか。  男でも南瓜、薩摩芋等の甘きを嫌ふは酒を飲む者に多く、酒を飲まぬ男はこれに反して南瓜などを好んで食ふ傾向があるかと思はれる。して見ると女の南瓜などを好むのは酒を飲まぬためであつて、男のこれを好む事が女の如くないのは酒を飲むがためではあるまいか。酒は鮓の物の如き類とよく調和して、菓子や団子と調和しにくい事は一般に知つて居る所である。南瓜、薩摩芋、胡蘿蔔などは野菜中の最も甘味多き者であるので酒とは調和しにくいのであらう。酒飲みでも一旦酒を廃すると汁粉党に変る事がある。して見ると女は酒を飲まぬがために南瓜などを好むのに違ひない。 (七月七日) 五十七 ○画賛といふ事は支那に始まつて、日本に伝はつた事と思はれるが、恐らくは支那でも近世に起つたことであらう。日本でも支那画をまねた者には、画賛即ち詩を書いた者があるが、多くは贅物と思はれる。山水などの完全したる画には何も文字などは書かぬ方が善いので、完全した上に更に蛇足の画賛を添へるのが心得ぬ事である。しかし人の肖像などを画きたる者には賛があるのが面白い場合がある。それは人物独りでは画として不完全に考へられることもあるので画賛を以てその不足を補ふのである。いはゆる俳画などといふ麁画に俳句の賛を書くのは、山水などの場合と違ふて、面白き者が多い。麁画にても趣向の完全したる者には、画賛は蛇足であるが画だけでは何だか物足らぬといふやうな場合に俳句の賛を書いて、その趣味の不足を補ふ事は悪い事ではない。それ故に或画に賛をする時にはその賛とその画と重複しては面白くない。例へば狐が公達に化けて居る画が画いてある上に 公達に狐化けたり宵の春 と賛したのでは、画も賛も同じ事になるので、少しも賛をしただけの妙はない。祇園の夜桜といふやうな景色を画いた麁画の上に、前にいふた「公達に狐化けたり」の句を賛として書くなればそれは面白いであらう。蛙が柳に飛びつかうとして誤つて落ちた処を画いた画に、也有は 見付けたりかはづに臍のなき事を といふ賛をした。これは蛙といふ事は重複して居るけれども、臍のないと特に主観的にいふた処は、この画を見たばかりでは、思ひ付くべき事でない、一種の滑稽的趣向を作者が考へ出したのであるから、これは賛として差支がない。ただ葵の花ばかり画いた上へ普通の葵の句を画賛として書いた処で重複といふ訳でもあるまいが、しかしかういふ場合には葵の句を書かずに、同じ趣の他の句を書くのも面白いであらう。それは葵の花の咲いて居りさうな場所をあらはした句とか、または葵の花の咲いて居る時候をあらはした句とか、または葵の花より連想の起るべき他の句とか、さういふものを画賛として書くのである。も一つ例を挙げていふならば団扇の画に蛍の句を書くとか、蛍の画に団扇の句を書くとか、もしまた団扇と蛍と共に画いてある画ならば、涼しさやとか夕涼みとかいふやうな句を賛する。要するに画ばかりでも不完全、句ばかりでも不完全といふ場合に画と句を併せて、始めて完全するやうにするのが画賛の本意である。歌を画賛にする場合も俳句と違ふた事はない。 (七月八日) 五十八 ○自分の団扇ときめて毎日手に持つて居る極下等な団扇が一つある。この団扇の画は浮世絵で浅草の凌雲閣が画いてあるので、勿論見るに足らぬものとしてよく見たこともなかつた。或時何とはなしにこの団扇の絵をつくづくと見た所が非常に驚いた。凌雲閣はとても絵になるべきものとは思はれんのであるが、この団扇の絵は不思議に妙な処をつかまへて居る。それは凌雲閣を少し横へ寄せて団扇いつぱいの高さに画いて、さうしてこのひよろひよろ高い建築と直角に帯のやうな海を画いて、その地平線が八階目の処を横切つて居る。下の方は少しばかり森のやうなものを凌雲閣の麓に画いて、その上の処の靄も地平線に並行して横に引いてある。これはやや高き空中から見たやうな画きやうである。さうして片隅のそらに馬鹿に大きな三日月が画いてある。こんな大きな三日月はないわけであるが、これも凌雲閣といふ突飛な建物に対して、この大きさでなくては釣合はぬからかう画いたのである。面白い絵ではないけれども、凌雲閣を材料として無理に絵を画くならば、先づこんな趣向よりほかに画きやうはないであらう。つまりこの絵の趣向は竪に長い建築物に対して、真横に地平線と靄とを引いた処にあるのである。玉英と署名してあるが、余り聞いた名でないけれども、もしこれが多少の考があつて画いた絵とすれば、ほかの日本絵の大家先生たちはなかなかにこれほどにも出来ないであらうと思ふ。この団扇の裏を見ると、裏には柳の枝が五、六本上からしだれて萌黄色の芽をふいて居る、その柳の枝の間から桜の花がひらひらと散つて少し下に溜つて居る処が画いてある。これだけの簡単な画であるがよほど面白い趣向だ。落花を画いて置きながら桜の樹を画かずかへつて柳をあひしらふた処は凡手段でない。大家先生の大作の写真などを時々見るが、とてもこれほどの善い感じは起らない。殊にこれが極下等な団扇であるだけにかへつて興が深いので、何だか拾ひ物でもしたやうな心地がする。 (七月九日) 五十九 ○今日人と話し合ひし事々 一、徳川時代の儒者にて見識の高きは蕃山、白石、徂徠の三人を推す。徂徠が見解は聖人を神様に立てて全く絶対的の者とする。宋儒の如き心を明かにするとか、身を修めるとかいふやうな工夫も全くこれを否認しただ聖人の道を行へばそれで善いといふ処はよほど豁達な大見識で、丁度真宗が阿弥陀様を絶対と立てて、総てあなた任せの他力信心で遣つて行くのと善く似て居る。もつとも徂徠の説は、われわれは到底聖人にはなれぬ、如何に心の工夫してもわれわれの気質が変つて聖人になるといふ事は断じてないといふのであるから、そこの処は仏教の即身即仏といふのとは少し違ふては居るやうに見えるが、しかし徂徠のいふ所はわれわれは聖人にはなれぬけれども、聖人の道をそのまま行ひさへすれば聖人になつたも同じ事であるといふのだから、やはり即身即仏説と同じやうな結果になるのである。彼があながちに仏教を排斥せずして、人民は仏教を信じてゐても差支ない、われわれは聖人の道を行へばそれで沢山である、などと説くところは実に心持の善い論で、とても韓退之などの夢にも考へつく処ではない。ただ惜い事には今一歩といふ処まで来て居ながら到頭輪の内を脱ける事が出来なかつたのは時代の然らしむるところで仕方がない。もし彼が明治の世に生れたならばどんな大きな人間になつたらうかといつも思はぬ事はない。 一、生活の必要は人間を働かしめる。生活の必要が大になればなるほど労働もまた大にならねばならぬ。しかし人間の労働には限りがあるばかりでなく、労働に対する報酬にもまた限りがある。それ故に人によると、いくら働いても生活の必要に応ずる事が出来ない場合がある。ここに漢学者があつた。その学者は死んでしまふてその遺産の少しばかりあつたのを三、四人の兄弟に分配した。その時はそれで善かつたが、だんだんその子が年を取つて、女房を娶る、子が出来る、それも子一人位の時はまだ善かつたが、だんだん殖えて来て三人も四人もとなつた。上の子二人は小学校へも行くといふ年になつた。父親は小学校の教員を勤めて十円か十一円の月給を取つて居る。二十年一日の如く働いて居るが月給も二十年居坐りである。さあどうしても食へないといふ事になつた所で、どうしたら善からうか、これが問題なのである。誠に正直で、誠に勉強で、親譲りの漢学の素養があつて、誠に貴ぶべき人であるけれど、ただ世の中にうといためにほかに職業の更へやうもない。月給十一円で家内六人、これはどうしたら善からうか、願はくは経済学者の説を聞きたい。 一、名古屋の料理通に聞くと、東京の料理は甘過ぎるといふ。もつとも東京の料理屋に使ふのと名古屋の料理屋に使ふのと、醤油がまるで違つてゐるさうな。 一、茶の会席料理は皆食ひ尽すやうに拵へた者で、その代り分量が極少くしてある。これは興味のある事である。しかるに料理屋にあつらへると、金銭の点からどうしても分量を多くして食ひ尽す事が出来難いのは遺憾である。 一、能楽界の内幕はかなり複雑して居つて表面からは十分にわからぬが、要するに上掛りと下掛りとの軋轢が根本的の軋轢であるらしい。 一、高等学校生某曰、私は今度の試験に落第しましたから、当分の内発句も謡も碁もやめました。 一、今度大学の土木課を卒業した工学士の内五人だけ米国の会社に傭はれて漢口へ鉄道敷きに行くさうな。世界は広い。これから後は日本などでこせこせと仕事して居るのは馬鹿を見るやうになるであらう。 (七月十日) 六十 ○根岸近況数件  一、田圃に建家の殖えたる事  一、三島神社修繕落成、石獅子用水桶新調の事  一、田圃の釣堀釣手少く新鯉を入れぬ事  一、笹の雪横町に美しき氷店出来の事  一、某別荘に電話新設せられて鶴の声聞えずなりし事  一、時鳥例によつてしばしば音をもらし、梟何処に去りしかこの頃鳴かずなりし事  一、丹後守殿店先に赤提灯廻燈籠多く並べたる事  一、御行松のほとり御手軽御料理屋出来の事  一、飽翁、藻洲、種竹、湖邨等の諸氏去りて、碧梧桐、鼠骨、豹軒等の諸氏来りし事  一、美術床屋に煽風器を仕掛けし事  一、奈良物店に奈良団扇売出しの事  一、盗賊流行して碧桐の舎に靴を盗まれし事  一、草庵の松葉菊、美人蕉等今を盛りと花さきて、庵主の病よろしからざる事 (七月十一日) 六十一 ○明和頃に始まつたしまりのある俳句、即ち天明調なるものは、天明と共に終りを告げて、寛政になると闌更白雄の如き、半ばしまりて半ばしまらぬといふやうな寛政調と変つた。それが文化文政と進んで行くに従つて、また更に局面を変じて、三分しまつて七分しまらぬ文化文政調となつた。それが今一歩進んで、天保頃になると、総タルミの天保調、いはゆる月並調となつてしまふた。文化文政の句は天明調と天保調の中間に居るだけに、その俳句が全くの月並調とならぬけれども、所々に月並調の分子を孕んで居る。今ここに寛政の末頃であるか、諸国を行脚して俳人に句を書いてもらふたといふその帳面を見るに 春の風磯の月夜は唯白し 雉啼て静かに山の夕日かな の如きがある。この「唯白し」とか「静かに」とかいふ詞は、ここでは少しも月並臭気を帯びて居るとは言へないけれども、この詞の底が段々に現はれて来ると、つづまる所天保調が生れて来るのである。極端な月並調ばかりの句を見て居てかやうな句を不注意に見過す人が多いが、歴史的に見て行くと、天明調と天保調との中間にかういふ調子の句が一時流行したといふことに気がつくであらう。また同じ帳面に 居鷹の横雲に眼や時鳥 糠雨に身振ひするや原の雉子 畑打のひまや桜の渡し守 などいふ句は已に月並調に落ちて居る。ただその落ちかたが浅いだけに月並宗匠に見せたらばこれらは可も不可もなき平凡の句として取るであらう。 (七月十二日) 六十二 ○泥棒が阿弥陀様を念ずれば阿弥陀様は摂取不捨の誓によつて往生させて下さる事疑なしといふ。これ真宗の論なり。この間に善悪を論ぜざる処宗教上の大度量を見る。しかも他宗の人はいふ、泥棒の念仏にはなほ不安の状態あるべしと。泥棒の信仰については仏教に限らず耶蘇教にもその例多し。彼らが精神の状態は果して安心の地にあるか、あるいは不安を免れざるか、心理学者の研究を要す。 (七月十三日) 六十三 ○日本の美術は絵画の如きも模様的に傾いて居ながら純粋の模様として見るべきもののうちに幾何学的の直線または曲線を応用したる者が極めて少い。絵画が模様的になつて居るのみならず模様がまた絵画的になつて居る。殊に後世に至るほどその傾向が甚だしくなつて純粋の模様を用ゐて善き場合にも波に千鳥とか鯉の滝上りとかそのほか模様的ならざる、むしろ絵画的の花鳥などを用ゐる事が多い。たまたま卍つなぎとか巴とかの幾何学的模様があるけれどそれらは皆支那から来たのである。近頃鍬形蕙斎の略画を見るにその幾何学的の直線を利用した者がいくらもある。たとへば二、三十人も一直線に並んで居る処を画くとか、または行列を縦から見て画くとかいふやうな類があつて、日本絵の内ではよほど眼新しく感ぜられる所がある。そのほか能楽の舞には直線的の部分が多い。これは支那から来た古い舞楽に直線的の部分が多いので、能楽はあるいはその影響を受けて居るかも知れん。近来芸妓などのやる踊りなるものは半ば意味を含んだ挙動をやるために幾何学的の処が極めて少い。日本人は西洋の舞踏の幾何学的なるを見て極めて無趣味なる者として排斥する者が多いが、よし無趣味なりとしても日本の踊の不規則なる挙動の非常に厭味多く感ぜられるのには優つて居るであらう。支那の演劇の時代物ともいふべき者には非常に幾何学的の挙動が多いので模様的に面白い処があるが演劇としては幼稚な者のやうに見える。それに比すると日本の能楽は幾何学的にも偏せず、むしろ善く調和を得たるやうに思はれる。 (七月十四日) 六十四 ○七月十一日。晴。始めて蜩を聞く。 梅雨晴や蜩鳴くと書く日記  七月十二日。晴。始めて蝉を聞く。 蝉始メテ鳴ク鮠釣る頃の水絵空 (七月十五日) 六十五 ○病気になつてから既に七年にもなるが、初めのうちはさほど苦しいとも思はなかつた。肉体的に苦痛を感ずる事は病気の勢ひによつて時々起るが、それは苦痛の薄らぐと共に忘れたやうになつてしまふて、何も跡をとどめない。精神的に煩悶して気違ひにでもなりたく思ふやうになつたのは、去年からの事である。さうなるといよいよ本当の常病人になつて、朝から晩まで誰か傍に居つて看護をせねば暮せぬ事になつた。何も仕事などは出来なくなつて、ただひた苦しみに苦しんで居ると、それから種々な問題が涌いて来る。死生の問題は大問題ではあるが、それは極単純な事であるので、一旦あきらめてしまへば直に解決されてしまふ。それよりも直接に病人の苦楽に関係する問題は家庭の問題である、介抱の問題である。病気が苦しくなつた時、または衰弱のために心細くなつた時などは、看護の如何が病人の苦楽に大関係を及ぼすのである。殊にただ物淋しく心細きやうの時には、傍の者が上手に看護してくれさへすれば、即ち病人の気を迎へて巧みに慰めてくれさへすれば、病苦などは殆ど忘れてしまふのである。しかるにその看護の任に当る者、即ち家族の女どもが看護が下手であるといふと、病人は腹立てたり、癇癪を起したり、大声で怒鳴りつけたりせねばならぬやうになるので、普通の病苦の上に、更に余計な苦痛を添へるわけになる。我々の家では下婢も置かぬ位の事で、まして看護婦などを雇ふてはない、そこで家族の者が看病すると言つても、食事から掃除から洗濯から裁縫から、あらゆる家事を勤めた上の看病であるから、なかなか朝から晩まで病人の側に付ききりに付いて居るといふわけにも行かぬ。そこで病人はいつも側に付いて居てくれといふ。家族の女どもは家事があるからさうは出来ぬといふ。先づ一つの争ひが起る。また家族の者が病人の側に坐つて居てくれても種々な工夫をして病人を慰める事がなければ、病人はやはり無聊に堪へぬ。けれども家族の者にそれだけの工夫がない。そこでどうしたらばよからうといふ問題がまた起つて来る。我々の家族は生れてから田舎に生活した者であつて、勿論教育抔は受けた事がない。いはゆる家庭の教育といふことさへ受けなかつたといふてもよいのである。それでもお三どんの仕事をするやうな事はむしろ得意であるから、平日はそれでよしとして別に備はるを求めなかつたが、一朝一家の大事が起つて、即ち主人が病気になるといふやうな場合になつて来た処で、忽ち看護の必要が生じて来ても、その必要に応ずることが出来ないといふ事がわかつた。病人の看護と庭の掃除とどつちが急務であるかといふ事さへ、無教育の家族にはわからんのである。まして病人の側に坐つて見た処でどうして病苦を慰めるかといふ工夫などは固より出来るはずがない。何か話でもすればよいのであるが話すべき材料は何も持たぬからただ手持無沙汰で坐つて居る。新聞を読ませようとしても、振り仮名のない新聞は読めぬ。振り仮名をたよりに読ませて見ても、少し読むと全く読み飽いてしまふ。殆ど物の役に立たぬ女どもである。ここにおいて始めて感じた、教育は女子に必要である。 (七月十六日) 六十六 ○女子の教育が病気の介抱に必要であるといふ事になると、それは看護婦の修業でもさせるのかと誤解する人があるかも知れんが、さうではない、やはり普通学の教育をいふのである。女子に常識を持たせようといふのである。高等小学の教育はいふまでもない事で、出来る事なら高等女学校位の程度の教育を施す必要があると思ふ。平和な時はどうかかうか済んで行く者であるが病人が出来たやうな場合にその病人をどう介抱するかといふ事について何らの知識もないやうでは甚だ困る。女の務むべき家事は沢山あるが、病人が出来た暁にはその家事の内でも緩急を考へて先づ急な者だけをやつて置いて、急がない事は後廻しにするやうにしなくては病人の介抱などは出来るはずがない。掃除といふ事は必要であるに相違ないが、うんうんと唸つて居る病人を棄てて置いて隅から隅まで拭き掃除をしたところで、それが女の義務を尽したといふわけでもあるまい。場所によれば毎日の掃除をやめて二日に一度の掃除にしても善い、三日に一度の掃除にしても善い。二度炊く飯を一度に炊いて置いてもよい。あるいは近処の飯屋から飯を取寄せてもよい。副食物も悉く内で煮炊きをしなくてはならぬといふ事はない。これも近処にある店で買ふて来てもよい。しかし病人の好む場合には特に内で煮炊きする必要が起る事もある。さういふ場合にはなるべく注意して塩梅を旨くするとか、または病人の気短く請求する時はなるべく早く調製する必要も起つて来る。たとへば病人が何々を食ひたいといふ、しかも至急に食ひたいといふ。けれども人手が少なうて、別に台所を働く者がない時には病人の傍で看病しながら食物を調理するといふ必要も起つて来る。かやうな事は格別むづかしい事でもないやうであるが、実際これだけの事を遣つてのける女は存外少いかと思はれる。それはどういふわけであるかといへば、それを遣るだけの知識さへ欠乏して居る、即ち常識が欠乏して居るのである。女のする事を見て居ると極めて平凡な仕事を遣つて居るにかかはらず割合に長い時間を要するといふ者は、畢竟その遣り方に無駄が多いからである。一つの者を甲の場所から丁の場所へ移してしまへば善いのを、先づ初に乙の場所に移し、再び丙の場所に移し、三度目にやうやう丁の場所に移すといふやうな余計の手数をかけるのが女の遣り方である。平生はこれでも善いが一旦急な場合にはとてもそんな事して居ては間に合ふ者ではない。それ位な工夫は常識がありさへすれば誰にでも出来る事である。その常識を養ふには普通教育よりほかに方法はない。どうかすると女に学問させてそれが何の役に立つかといふて質問する人があるが、何の役といふても読んだ本がそのまま役に立つ事は常にあるものではない、つまり常識を養ひさへすれば、それで十分なのである。 (七月十七日) 六十七 ○家庭の教育といふ事は、男子にも固より必要であるが、女子には殊に必要である。家庭の教育は知らず知らずの間に施されるもので、必ずしも親が教へようと思はない事でも、子供は能く親の真似をして居る事が多い。そこで家庭の教育はその子供の品性を養ふて行くのに必要であるが、また学校で教へないやうな形式的の教育も、極些細な部分は家庭で教へられるのである。例をいへば子供が他人に対して、辞誼をするといふ事を初めとして、来客にはどういふ風に応接すべきものであるかといふ事などは、親が教へてやらなくてはならぬ。殊に女子にとつては最も大切なる一家の家庭を司つて、その上に一家の和楽を失はぬやうにして行く事は、多くは母親の教育如何によりて善くも悪くもなるのである。ところが今までの日本の習慣では、一家の和楽といふ事が甚だ乏しい。それは第一に一家の団欒といふ事の欠乏して居るのを見てもわかる。一家の団欒といふ事は、普通に食事の時を利用してやるのが簡便な法であるが、それさへも行はれて居らぬ家庭が少くはない。先づ食事に一家の者が一所に集まる。食事をしながら雑談もする。食事を終へる。また雑談をする。これだけの事が出来れば家庭は何時までも平和に、何処までも愉快であるのである。これを従来の習慣に依つてせぬといふと、その内の者、殊に女の子などは一家団欒して楽しむべきものであるといふことを知らずに居る。そこで他家へ嫁入して後も、家庭の団欒などいふ事をする事を知らないで、殺風景な生活をして居る者がある。甚だしいのは男の方で一家の団欒といふ事を、無理に遣らせて見ても、一向に何らの興味を感ぜぬのさへある。かやうな事では一家の妻たる者の職分を尽したとはいはれない。それ故に家庭教育の第一歩として、先づ一家団欒して平和を楽しむといふ事位から教へて行くのがよからう。一家団欒といふ事は啻に一家の者が、平和を楽しむといふ効能があるばかりでなく、家庭の教育もまたこの際に多く施されるのである。一家が平和であれば、子供の性質も自ら平和になる。父や母や兄や姉やなどの雑談が、有益なものであれば子供はそれを聴いてよき感化を受けるであらう。既に雑談といふ上は、むづかしい道徳上の議論などをするのではないが、高尚な品性を備へた人の談ならば、無駄話のうちにも必ずその高尚な処を現はして居るので、これを聴いて居る子供は、自ら高尚な風に感化せられる。この感化は別に教へるのでもなく、また教へられるとも思はないのであるが、その深く沁み込む事は学校の教育よりも更に甚だしい。故に家庭教育の価値は或る場合において学校の教育よりも重いといふても過言ではない。 (七月十八日) 六十八 ○この頃の暑さにも堪へ兼て風を起す機械を欲しと言へば、碧梧桐の自ら作りて我が寐床の上に吊りくれたる、仮にこれを名づけて風板といふ。夏の季にもやなるべき。 風板引け鉢植の花散る程に  先つ頃如水氏などの連中寄合ひて、袴能を催しけるとかや。素顔に笠着たる姿など話に聞くもゆかしく 涼しさの皆いでたちや袴能  総選挙も間際になりて日ごとの新聞の記事さへ物騒がしく覚ゆるに 鹿を逐ふ夏野の夢路草茂る (七月十九日) 六十九 ○病気の介抱に精神的と形式的との二様がある。精神的の介抱といふのは看護人が同情を以て病人を介抱する事である。形式的の介抱といふのは病人をうまく取扱ふ事で、例へば薬を飲ませるとか、繃帯を取替へるとか、背をさするとか、足を按摩するとか、着物や蒲団の工合を善く直してやるとか、そのほか浣腸沐浴は言ふまでもなく、始終病人の身体の心持よきやうに傍から注意してやる事である。食事の献立塩梅などをうまくして病人を喜ばせるなどはその中にも必要なる一カ条である。この二様の介抱の仕方が同時に得られるならば言分はないが、もしいづれか一つを択ぶといふ事ならばむしろ精神的同情のある方を必要とする。うまい飯を喰ふ事は勿論必要であるけれども、その介抱人に同情がなかつた時には甚だ不愉快に感ずる場合が多いであらう。介抱人に同情さへあれば少々物のやり方が悪くても腹の立つものでない。けれども同情的看護人は容易に得られぬ者とすれば勿論形式的の看護人だけでもどれだけ病人を慰めるかわからぬ。世の中に沢山ある処のいはゆる看護婦なるものはこの形式的看護の一部分を行ふものであつて全部を行ふものに至つては甚だ乏しいかと思はれる。勿論一人の病人に一人以上の看護婦がつききりになつて居るときは形式的看護の全部を行ふわけであるが、それもよほど気の利いた者でなくては病人の満足を得る事はむづかしい。看護婦として病院で修業する事は医師の助手の如きものであつて、此処にいはゆる病気の介抱とは大変に違ふて居る。病人を介抱すると言ふのは畢竟病人を慰めるのにほかならんのであるから、教へることも出来ないやうな極めて些末なる事に気が利くやうでなければならぬ。例へば病人に着せてある蒲団が少し顔へかかり過ぎてゐると思へばそれを引き下げてやる。蒲団が重たさうだと思へば軽い蒲団に替へてやるとか、あるいは蒲団に紐をつけて上へ釣り上げるとかいふやうなことをする。病人が自分を五月蠅がつて居るやうだと思へば少し次の間へでも行つて隠れて居る。病人が人恋しさうに心細く感じて居るやうだと思へば自分は寸時もその側を離れずに居る。あるいは他の人を呼んで来て静かに愉快に話などをする。あるいは病人の意外に出でて美しき花などを見せて喜ばせる、あるいは病人の意中を測つて食ひたさうなといふものを旨くこしらへてやる。箇様な風に形式的看護と言ふてもやはり病人の心持を推し量つての上で、これを慰めるやうな手段を取らねばならぬのであるから、看護人は先づ第一に病人の性質とその癖とを知る事が必要である。けれどもこれは普通の看護婦では出来る者が少いであらう。多くの場合においては母とか妻とか姉とか妹とか一家族に居つて平生から病人の癇癪の工合などを善く心得てゐる者の方が、うまく出来るはずである。うまく出来るはずであるけれども、それも実際の場合にはなかなか病人の思ふやうにはならんので、病人は困るのである。一家に病人が出来たといふやうな場合は丁度一国に戦が起つたのと同じやうなもので、平生から病気介抱の修業をさせるといふわけに行かないのであるから、そこはその人の気の利き次第で看護の上手と下手とが分れるのである。 (七月二十日) 七十 ○梅に鶯、竹に雀、などいふやうに、柳に翡翠といふ配合も略画などには陳腐になるほど画き古されて居る。この頃画本を見るにつけてこの陳腐な配合の画をしばしば見る事であるが、それにもかかはらず美しいといふ感じが強く感ぜられていよいよ興味があるやうに覚えたので、柳に翡翠といふのを題にして戯れに俳句十首を作つて見た。これは昨年の春春水の鯉といふ事を題にして十句作つた事があるのを思ひ出してまたやつてみたのである。 翡翠の魚を覗ふ柳かな 翡翠をかくす柳の茂りかな 翡翠の来る柳を愛すかな 翡翠や池をめぐりて皆柳 翡翠の来ぬ日柳の嵐かな 翡翠も鷺も来て居る柳かな 柳伐つて翡翠終に来ずなりぬ 翡翠の足場を選ぶ柳かな 翡翠の去つて柳の夕日かな 翡翠の飛んでしまひし柳かな  春水の鯉は身動きもならぬほど言葉が詰まつて居たが、柳に翡翠の方はややゆとりがある。従つて幾らか趣向の変化を許すのである。而してその結果はといふと翡翠の方が厭味の多いものが出来たやうである。しかしこんな句の作り様は、一時の戯れに過ぎないやうであるが、実際にやつて見ると句法の研究などには最も善き手段であるといふ事が分つた。つまり俳句を作る時に配合の材料を得ても句法の如何によつて善い句にも悪い句にもなるといふ事が、このやり方でやつてみると十分にわかるやうに思ふて面白い。 (七月二十一日) 七十一 ○近刊の雑誌『宝船』に 甘酒屋打出の浜に卸しけり    青々 といふ句があるのを碧梧桐が賞讃して居つた。そこで余がこれをつくづくと見ると非常に不審な点が多い。先づ第一に「卸しけり」といふ詞の意味がわからんので、これを碧梧桐に質すと、それは甘酒の荷をおろしたといふのであると説明があつた。それが余にはわからんのでどうもこの詞でその意味を現はすことは無理であると思ふ。しかしながらこの句の句法に至つては碧梧桐青々などのよく作るところで余は平生より頭ごなしに排斥してしまふ方であつたから、この機会を利用して、更に研究せうと思ふたので、第一の疑問は暫く解けたものとして、それから第二の疑問に移つた。即ち甘酒屋と初句をぶつつけに置いた処が不審な点である。すると碧梧桐の答へは、そこが尋常でない処であるといふのであつた。この答は予て期する所で、一ひねりひねつて句法を片輪に置いてあるために、余はどうしても俳句として採ることが出来ぬと思ふやうな句をいつでも碧梧桐が採るといふ事を知つて居る。しかしこの青々の句は少し他と変つて居るやうに思ふたので、余は幾度も繰り返して考へて見た。さうするといふと、打出の浜に甘酒屋が荷をおろしたといふ趣向には感が深いので、おろしけりの詞さへ仮に許して見れば、非常に面白い句でありさうに段々感じて来た。この話をしてから一夜二夜過ぎて復考へて見ると、このたびは前に感じたよりも更に善く感じて来た。甘酒屋と初めに据ゑた処を手柄であると思ふやうになつた。甘酒屋と初めに置いたのは、丁度小説の主人公を定めたやうに、一句の主眼を先づ定めたのである。仮にこれを演劇に譬へて見ると今千両役者が甘酒の荷を舁いで花道を出て来たといふやうな有様であつて、その主人公はこれからどうするか、その位置さへいまだ定まらずに居る処だ。それが打出の浜におろしけりといふ句でその位置が定まるので、演劇でいふと、本舞台の正面よりやや左手の松の木蔭に荷を据ゑたといふやうな趣になる。それから後の舞台はどう変つて行くか、そんな事はここに論ずる必要はないが、とにかくおろしけりと位置を定めて一歩も動かぬ処が手柄である。もし「おろしけり」の代りに「荷を卸す」といふやうな結句を用ゐたならば、なほ不定の姿があつて少しも落着かぬ句となる。また打出の浜といふ語を先に置いて見ると、即ち「打出の浜に荷を卸しけり甘酒屋」といふやうにいふと、打出の浜の一小部分を現はすばかりで折角大きな景色を持つて来ただけの妙味はなくなつてしまふ。そこで先づ「甘酒屋」と初めに主人公を定め、次に「打出の浜に」とその場所を定め「おろしけり」といふ語でその場所における主人公の位置が定まるので、甘酒屋が大きな打出の浜一面を占領したやうな心持になる。そこが面白い。演劇ならばその甘酒屋に扮した千両役者が舞台全面を占領してしまふたやうな大きな愉快な心持になるのである。その心持を現はすのには、余が前に片輪だと言つたやうなこの句法でなければ、しまつがつかぬといふことになつて来る。さうなつて来たついでに、この「おろしけり」といふ詞もほかに言ひやうもなき故に仮にこれを許すとして見ると、この甘酒屋の句は、その趣味と言ひ、趣味の現はしかたと言ひ、古今に稀なる句であるとまで感ずるやうになつた。 (七月二十二日) 七十二 ○先日『週報』募集の俳句の中に 京極や夜店に出づる紙帳売 といふが碧梧桐の選に入つて居つた。余り平凡なる句を何故に碧梧桐が選びしかと疑はるるのでよくよく考へて見た末全く中七字が尋常でないといふ事が分つた。普通には「夜店出したる」と置くべきを「夜店に出づる」とした処が変つて居るのであつた。「夜店出したる」といへばただ客観的に京極の夜店を見て紙帳売の出て居た事を傍から認めたまでであるが「夜店に出づる」といへばやや主観的に紙帳売の身の上に立ち入つてあたかも小説家が自家作中の主人公の身の上を叙する如く、紙帳売のがはから立てた言葉になる。即ち紙帳売になじみがあるやうな言ひかたである。これを演劇にたとへていふならば、幕があくと京極の夜店の光景で、その中に紙帳売が一人居る、これは前の段にしばしば見てなじみになつて居る菊五郎の紙帳売である、といつたやうな趣になる。しかしこの句についてはなほ研究を要する。 (七月二十三日) 七十三 ○家庭の事務を減ずるために飯炊会社を興して飯を炊かすやうにしたならば善からうといふ人がある。それは善き考である。飯を炊くために下女を置き竈を据ゑるなど無駄な費用と手数を要する。われわれの如き下女を置かぬ家では家族の者が飯を炊くのであるが、多くの時間と手数を要する故に病気の介抱などをしながらの片手間には、ちと荷が重過ぎるのである。飯を炊きつつある際に、病人の方に至急な要事が出来るといふと、それがために飯が焦げ付くとか片煮えになるとか、出来そこなふやうな事が起る。それ故飯炊会社といふやうなものがあつて、それに引請けさせて置いたならば、至極便利であらうと思ふが、今日でも近所の食物屋に誂へれば飯を炊いてくれぬことはない。たまたまにはこの方法を取る事もあるが、やはり昔からの習慣は捨て難いものと見えて、家族の女どもは、それを厭ふてなるべく飯を炊く事をやる。ひまな時はそれでも善いけれど、人手の少くて困るやうな時に無理に飯を炊かうとするのは、やはり女に常識のないためである。そんな事をする労力を省いて他の必要なる事に向けるといふ事を知らぬからである。必要なる事はその家によつて色々違ふ事は勿論であるが、一例を言へば飯炊きに骨折るよりも、副食物の調理に骨を折つた方が、よほど飯は甘美く喰へる訳である。病人のある内ならば病床について居つて面白き話をするとか、聞きたいといふものを読んで聞かせるとかする方がよほど気が利いて居る。しかし日本の飯はその家によつて堅きを好むとか柔かきを好むとか一様でないから、西洋の麺包と同じ訳に行かぬ処もあるが、そんな事はどうとも出来る。飯炊会社がかたき飯柔かき飯上等の飯下等の飯それぞれ注文に応じてすれば小人数の内などは内で炊くよりも、誂へる方がかへつて便利が多いであらう。 (七月二十四日) 七十四 ○大阪は昔から商売の地であつて文学の地でない。たまには蒹葭堂、無腸子のやうな篤志家も出なんだではないが、この地に帷を下した学者といふても多くは他国から入りこんで来た者であつた。俳人で大阪者といへば宗因、西鶴、来山、淡々、大江丸などであるがこれ位では三府の一たる大阪の産物としてはちともの足らぬ気がする。蕪村を大阪とすればこれはまた頭抜けた大立者であるが当人は大阪を嫌ふたか江戸と京で一生の大部分を送つた。近時新派の俳句なる者行はるるに至つて青々の如き真面目に俳句を研究する者が出たのも、大阪に取つては異数のやうに思はれる。しかのみならず更に一団の少年俳家が多く出て俳句といひ写実的小品文といひ敏捷に軽妙に作りこなす処は天下敵なしといふ勢ひで、何地より出る俳句雑誌にも必ず大阪人の文章俳句が跋扈して居るのを見るごとに大阪のためにその全盛を賀して居る。しかるにこの少年の一団を見渡すにいづれも皆才余りありて識足らずといふ欠点があつて如何にも軽薄才子の態度を現はして居る。その文章に現はれたる所に因つて察するに生意気、ハイカラ、軽躁浮薄、傍若無人、きいた風、半可通、等あらゆるこの種の形容詞を用ゐてもなほ足らざるほどの厭味を備へて居つて、見る者をして嘔吐を催さしむるやうな挙動をやつて居るらしいのは当人に取つても甚だ善くない事で、これがために折角発達しつつある才の進路を止めてしまふ事になる、また大阪に取つても前古未曾有の盛運に向はんとするのをこれぎりで挫折してしまふのは惜しい事ではあるまいか。畢竟これを率ゐて行く先輩がないのと少年に学問含蓄がないのとに基因するのであらう。幾多の少年に勧告する所は、なるべく謙遜に奥ゆかしく、真面目に勉強せよといふ事である。 (七月二十五日) 七十五 ○或人からあきらめるといふことについて質問が来た。死生の問題などはあきらめてしまへばそれでよいといふた事と、またかつて兆民居士を評して、あきらめる事を知つて居るが、あきらめるより以上のことを知らぬと言つた事と撞着して居るやうだが、どういふものかといふ質問である。それは比喩を以て説明するならば、ここに一人の子供がある。その子供に、養ひのために親が灸を据ゑてやるといふ。その場合に当つて子供は灸を据ゑるのはいやぢやといふので、泣いたり逃げたりするのは、あきらめのつかんのである。もしまたその子供が到底逃げるにも逃げられぬ場合だと思ふて、親の命ずるままにおとなしく灸を据ゑてもらふ。これは已にあきらめたのである。しかしながら、その子供が灸の痛さに堪へかねて灸を据ゑる間は絶えず精神の上に苦悶を感ずるならば、それは僅かにあきらめたのみであつて、あきらめるより以上の事は出来んのである。もしまたその子供が親の命ずるままにおとなしく灸を据ゑさせるばかりでなく、灸を据ゑる間も何か書物でも見るとか自分でいたづら書きでもして居るとか、さういふ事をやつて居つて、灸の方を少しも苦にしないといふのは、あきらめるより以上の事をやつて居るのである。兆民居士が『一年有半』を著した所などは死生の問題についてはあきらめがついて居つたやうに見えるが、あきらめがついた上で夫の天命を楽しんでといふやうな楽しむといふ域には至らなかつたかと思ふ。居士が病気になつて後頻りに義太夫を聞いて、義太夫語りの評をして居る処などはややわかりかけたやうであるが、まだ十分にわからぬ処がある。居士をして二、三年も病気の境涯にあらしめたならば今少しは楽しみの境涯にはひる事が出来たかも知らぬ。病気の境涯に処しては、病気を楽しむといふことにならなければ生きて居ても何の面白味もない。 (七月二十六日) 七十六 ○近頃月樵の大幅を見た。それは雪中に狸の歩いて居る処で、弓張月が雲間から照して居る。狸を真中に画いてその前後には枯茅の如きものに雪の積んだ処があしらつてある。画の中の材料はそれきりで極めて簡単であるが、最も不思議な事は、狸の顔の上半分と背中の処だけは薄墨で画いて、その余は真黒に画いてある。その淡墨と濃墨との接する処は極めて無造作であつて、近よつてこれを見ると何とも合点のゆかぬほどであるが、少し遠ざかつて見ると背中の淡白い処が朦朧として面白く見える。これは多少雪も積つて居るであらうし、その上を月が照して居るためにかういふ風に見えるといふ趣をあらはして居る。かやうな処へ趣向を凝らすのは月樵の月樵たる所で、とても他人の思ひ及ぶ所ではない。また第二に少し遠ざかつて見るやうに画いたのは例の髪の毛を一本一本画くやうな小細工な日本画家と同日に論じられん所である。  前に月樵の名誉が揚らないといふた事について或人はわざわざ手紙をよこして、月樵の名誉の高き事をいふてあつた。余も月樵の名誉が全くないとは思はないけれど、今日ある所の名誉は実際の技倆に比して果して相当な名誉であるであらう歟、それが疑はしいのである。蕪村の俳句における名誉も、いつも多少の地位を占めて居つた事は明かであるが、その名誉は固より実際の技倆に副ふほどの名誉ではなかつたので、明治の今日に至つて、始めて相当の名誉を得たのである。現に月樵の事について手紙をよこした人も、月樵が或時蘆雪と共に一日百枚の席画を画いたが日の暮頃に蘆雪はまだ八十枚しか画かないのに月樵はすでに九十枚画いて居つた。これでも月樵の筆の達者な事がわかると、自慢してあつた。けれどもそれらは実に不見識な話で、元来席画などは、画かきの戯に画くものである。それを百枚画いたとて、二百枚画いたとて、少しも名誉にはならぬ。こんな事で誉められては月樵も迷惑するであらう。月樵の本分は何処にあるか、まだ世間には知られて居らんと見える。 (七月二十七日) 七十七 ○『日本』へ掲載の俳句は敢て募集するとにはあらねど篤志の人は投書あるべし。投書は紙一枚一題に限る。一枚ごとに雅号を記し置くべし。題はその季のもの何にてもよろし。かく横着にも敢て募集せずなどといふは投書を排斥するの意には非ず。もし募集すといふ以上は検閲の責任重くなりて病身の堪ふる所に非ず。場合によりては善き句も見落す事あるべく、また初め四、五句読みてその出来加減を試みそのままほかの句は目も通さで棄つる事もあるべし。かかる無責任の見様にてもかまはぬ人は俳句を寄せられたし。 ○この頃「古池旧蹟芭蕉神社創立十年祭記念物奉納並大日本俳家人名録発行緒言」と題する刷物の内に賛成員補助員などの名目ありて我名もその補助員の中に記されたり。されどこは我が知る所に非ず。尤も幹雄翁には十年ほど前一、二度面会したる事あり。明治二十六年奥州行脚に出掛し時などは翁の紹介書を得たるなど世話になりたる事もあり。されど古池教会には何の関係もなくまた俳家人名録などいふ事にも何らの関係なし。 ○毎週水曜日及日曜日を我庵の面会日と定め置く。何人にても話のある人は来訪ありたし。但しこの頃の容態にては朝寐起後は苦しき故、朝早く訪はるる事だけは容赦ありたし。病人の事なれば来客に対しても相当の礼を尽す能はず、あらゆる無礼を為すは勿論、余り苦しき時は面会を断る事もあるべし。そのほか場合によりて我儘をいひ指図がましき事などをいふかも知れず。これらは前以て承知あらん事を乞ふ。話の種は雅俗を問はず何にても話されたし。学術と実際とにかかはらず各種専門上の談話など最も聴きたしと思ふ所なり。短冊、書画帖などその他総て字を書けとの依頼は断り置く。また面会日以外は面会せずといふわけには非ず。 (七月二十八日) 七十八 ○西洋の審美学者が実感仮感といふ言葉をこしらへて区別を立てて居るさうな。実感といふのは実際の物を見た時の感じで、仮感といふのは画に画いたものを見た時の感じであるといふ事である。こんな区別を言葉の上でこしらへるのは勝手であるが、実際実感と仮感と感じの有様がどういふ風に違ふかわれにはわからぬ。例へばパノラマを見るやうな場合について言ふて見ると、パノラマといふものは実物と画とを接続せしめるやうに置いたものであるから、これに対して起る所の感じは実感と仮感と両方の混合したものであるが、その実物と画との境界にあるもの即ち実物やら画やら殆どわからぬ所のものに対して起る所の感じは何といふ感じであらうか。もし画に画いてあるものを実物だと思ふて見たならばその時は画に対して実感が起るといふても善いのであらうか。また実物を画と誤つて見た時の感じは何といふ感じであらうか。その時に実物に対して仮感が起つたといふても善いのであらうか。さうなると実感が仮感か、仮感が実感か少しも分らぬではないか。元来画を見た時の感じを仮感などと名付けた所で、その仮感なるものの心理上の有様が十分に説明してない以上は議論にも成らぬことである。われわれが画を見た時の感じは、種々複雑して居つて、その中には実物を見た時の実感と、同じやうな感じも幾らかこもつて居る。そのほか彩色または筆力等の上において美と感ずるやうな感じもこもつて居る。しかるにそれをただ仮感と名付けた所で、どんな感じを言ふのか捕へ所のないやうな事になる。われは審美学の書物を読んだ事もなければ、またこれから読む事も出来ぬ。もしわが説が謬つて居るならば、教を聞きたいものである。 (七月二十九日) 七十九 ○夏の長き日を愛すといへる唐のみかどの悟りがほなるにひきかへ我はかび生ふる寝床の上にひねもす夜もすがら同じ天井を見て横たはることのつらさよ。立ちてはたらく人はしばらくの暇を得て昼寐の肱を曲げなんと思ふ頃、我は杖にすがりて一足二足庭の木の影を踏まば如何にうれしからんと思ふ。されどせんなし。暑き日は暑きに苦しみ雨の日は雨に苦しみ、いたづらに長き日を書も読までぼんやりとあれば、はては心もだえ息せまり手を動かし声を放ち物ぐるはしきまでになりぬるもよしなしや。この頃すこしく痛みのひまあるに任せて俳句など案じわづらふほどに古の俳人たちはかかる夏の日を如何にして送りけんなど思ひつづくれば、あら面白、その人々の境涯あるはその宿の有様ありありと眼の前に浮ぶままにまぼろしを捉へて、一句また一句、十余人十余句を得てけり。試みに記して昼寐の目ざまし草、茶のみ時の笑ひ草にもなさんかし。    芭蕉 破団扇夏も一爐の備へかな    其角 粛山のお相手暑し昼一斗    去来 柿の花散るや仕官の暇無き    丈草 青嵐去来や来ると門に立つ    智月尼 義仲寺へ乙州つれて夏花摘    園女 罌粟咲くや尋ねあてたる智月庵    惟然 昼蚊帳に乞食と見れば惟然坊    鬼貫 酒を煮る男も弟子の発句つくり    太祇 俳諧の仏千句の安居かな    蕪村 団扇二つ角と雪とを画きけり    召波 村と話す維駒団扇取つて傍に    几董 李斯伝を風吹きかへす昼寐かな (七月三十日) 八十 ○七月二十九日。火曜日。曇。  昨夜半碧梧桐去りて後眠られず。百合十句忽ち成る。一時過ぎて眠る。  朝六時睡覚む。蚊帳はづさせ雨戸あけさせて新聞を見る。玉利博士の西洋梨の話待ち兼ねて読む。印度仙人談完結す。  二時間ほど睡る。  九時頃便通後やや苦しく例に依りて麻痺剤を服す。薬いまだ利かざるに既に心愉快になる。  この時老母に新聞読みてもらふて聞く。振仮名をたよりにつまづきながら他愛もなき講談の筆記抔を読まるるを、我は心を静めて聞きみ聞かずみうとうととなる時は一日中の最も楽しき時なり。  牛乳一合、麺包すこし。  胡桃と蚕豆の古きものありとて出しけるを四、五箇づつ並べて菓物帖に写生す。  午飯、卯の花鮓。豆腐滓に魚肉をすりまぜたるなりとぞ。  また昼寐す。覚めて懐中汁粉を飲む。  午後四時過左千夫今日の番にて訪はる。  晩飯、飯三碗、焼物、芋、茄子、富貴豆、三杯酢漬。飯うまく食ふ。  庭前に咲ける射干を根ながら掘りて左千夫の家土産とす。  床の間の掛物亀に水草の画、文鳳と署名しあれど偽筆らし。  座敷の掛額は不折筆の水彩画、富士五合目の景なり。  銅瓶に射干一もとを挿む。  小鉢に富士の焼石を置き三寸ばかりの低き虎杖を二、三本あしらひたるは四絶生の自ら造りて贈る所。 (七月三十一日) 八十一 ○食物につきて数件 一、茶の会席料理は普通の料理屋の料理と違ひ変化多き者ならんと思へり。しかるに茶の料理もこれを料理屋に命ずればやはり千篇一律なり。曰く味噌汁、曰く甘酢、曰く椀盛、曰く焼物と。かくの如き者ならば料理屋に依頼せずして亭主自ら意匠を凝らすを可とす。徒に物の多きを貪りて意匠なきは会席の本意に非ず。 一、東京の料理はひたすらに砂糖的甘味の強きを貴ぶ。これ東京人士の婦女子に似て柔弱なる所以なり。 一、東京の料理はすまし汁の色白きを貴んで色の黒きを嫌ふ。故に醤油を用ゐる事極めて少量なり。これ椀盛などの味淡泊水の如く殆ど喫するに堪へざる所以なりと。些細の色のために味を損ずるは愚の極といふべし。 一、餅菓子の白き色にして一箇一銭を値する者その色を赤くすれば則ち一箇二銭五厘となる。味に相違あるに非ず。しかも一箇にして一銭五厘の相違は染料の価なりと。贅沢に似たれどもその観の美は人をしてその味の美を増す思ひあらしむ。 一、鯛の白子は粟子よりも遥かに旨し。しかも世人この味を解せざるために白子は価廉に粟子は貴し。 一、醤油の辛きは塩の辛きに如かず。山葵の辛きは薑の辛きに如かず。 (八月一日) 八十二 ○我々の俳句仲間にて俗宗匠の作る如き句を月並調と称す。こは床屋連、八公連などが月並の兼題を得て景物取りの句作を為すよりかくいひし者が、俳句の流行と共に今は広く拡がりて、わけも知らぬ人まで月並調といふ語を用ゐるやうになれり。従つて或る場合には俳句以外の事にまで俗なる者はこれを月並と呼ぶ事さへ少からず。近頃或人と衣食住の月並といふ事を論じたる事あり。着物の縞柄につきても極めて細き縞を好むは月並なり。着物の地合につきていへば縮緬の如きは月並なり。食物についていへば砂糖蜜などを多く入れてむやみに甘くしたるは月並なり。住居についていへば床の間の右側の柱だけ皮附きの木にするは月並なり。この類枚挙に遑あらず。しかるに俳句の上にて月並の何たるを解する人にしてかへつて日用衣食住の上には殆ど月並臭味を脱する能はざる人極めて多し。例へば着物の縞などは殊に細かきを貴ぶ人多く、しかもその月並たるを知らざるのみならずかへつて縞柄の大きく明瞭なるを以て俗と称ふるが如きあり。これらは流俗に雷同してその可否を研究せざるにもよるべく、将た俳句に得たる趣味を総ての上に一貫せしむる事を思はぬにもよるべし。俳句の俗宗匠が細みなどと称へて極めて些細なる下らぬ事を句に作りて喜ぶはいはゆる細みを誤解したる者なり。大きなる景色などを詠みたる句は面白からずとも俗には陥らざるべし。画にても例の髪の毛を一本づつ画きたる如きは勿論これを月並といふべし。しかるに着物の縞に限りて細きを好むが如きは衣服は殊に虚飾を為すには必要なる者なれば色気ある少年たちの徒に世の流行に媚びて月並に落ちたるをも知らざる者多きは笑止なり。婦人の上は姑く措く。男子にして修飾を為さんとする者は須く一箇の美的識見を以て修飾すべし。流行を追ふは愚の極なり。美的修飾は贅沢の謂に非ず、破袴弊衣も配合と調和によりては縮緬よりも友禅よりも美なる事あり。名古屋山三が濡燕の縫ひは美にして伊左衛門の紙衣は美ならずとはいひ難し。余は修飾を以て悪しき事とは思はず、ただ一般の俗人はいふまでもなく、俳句の上にては高尚なる趣味を解する人さへ、月並的修飾を為すを悲しむなり。 (八月二日) 八十三 ○能楽社会には家元なるものがあつて、それが技芸に関する一切の事の全権を握つて居る。例へばシテの家元には金春、金剛、観世、宝生、喜多といふのがある。ワキの家元には宝生、進藤などいふのがある。そのほか大鼓の家元は誰とか、小鼓の家元は誰とか一々きまつて居る。狂言の方にも大蔵流、鷺流などそのほかにもある。さうしてこれらの家元がおのおの跋扈して自分の流儀に勿体を附け、容易に他人には流儀の奥秘を伝授せぬなどといふ事に成つて居る。けれども昔の時代はそれでも善かつたが、今日の世の中では今少し融通を附けて遣つて行かぬと、能楽界が滅びてしまひはせぬかとの懸念がある。今日では最早能役者に扶持の附いて居る時代ではないのである。それにもかかはらず各種の芸に一々家元呼ばはりなどをして居つては、人が足らないで能楽が出来ぬやうな事に成つてしまふ。其処で今日の場合に応じて行かうといふには、一人で出来るだけの芸を兼ねて遣るやうにしたらば善からうと思ふ。例へば小鼓を打つものは大鼓を打ち太鼓も打つ位のことは訳ないであらう。あるいはワキ師がハヤシ方に成つても善からう。もし出来るならばシテも遣る、ワキも遣る、ハヤシ方も遣る、狂言も遣る、さういふやうな人もあつて差支ないであらう。かういふ事をいふと昔風な頑固な人は、それは出来るものでないと拒むかも知れない、一芸に達する事さへ容易でないのに数芸に達するなんかは思ひも寄らぬ事であるなどといふであらう。それも一理がないではないが必ずしもさういふ訳のものでもない。昔の人は漢学を知つて居るものは国学を知らない。詩人は歌を作ることを知らない。歌人は俳句を作る事を知らない。昔は総てさういふ風であつたのである。それが明治に成つて見ると歌を作り俳句を作るといふ者も沢山出来て来た。詩も作り歌も作るといふ者も出来て来た。中には数学専門の人で俳句を作る者もある。して見ると能役者が二芸三芸兼ねる位の事は訳もない事といはねばならぬ。その上にその成績はどうかといふと一芸専門の者が皆達者で二芸以上兼修の者は腕が鈍いといふでもない。それは俳句界で第一流といはれる蕪村が画の方でもまた凡人にすぐれた技倆を持つて居つたのでもわかる。尤もこれは誰にでも出来るといふ訳ではないから、人を強ふる訳には行かぬが、もし自分が奮発して遣つて見ようといふものがあるならば二芸でも三芸でも修めるが善いであらうと思ふ。家元なる人もまたかくの如き後進を扶けて行く事に力めて、ゆめにもその進路を妨げるやうな事をしてはならぬ。 (八月三日) 八十四 ○この頃病床の慰みにと人々より贈られたるものの中に  鳴雪翁より贈られたるは柴又の帝釈天の掛図である。この図は日蓮が病中に枕元に現はれたといふ帝釈天の姿をそのまま写したもので、特に病気平癒には縁故があるといふて贈られたのである。その像は四寸ばかりの大きさで全体は影法師を写したといふために黒く画いてある。顔ばかりやや明瞭で、菱形の目が二つ並んで居る。傍には高祖真毫自刻帝釈天王、東葛西領柴又、経栄山題経寺と書いてある。上の方には例の鬚題目が書いてあつてその傍に草書でわからぬ事が沢山書いてある。その中に南無釈迦牟尼仏とか、病之良薬とかいふのが僅かに読める。いろいろな神様を祭らせてなるべく信仰の種類を多くせうとした日蓮の策略は浅墓なやうであるけれども、今日に至るまで多くの人の信仰を博して柴又の縁日には臨時汽車まで出させるほどの勢ひを持つて居るのは、日蓮のえらい事を現はして居る。  鼠骨より贈つてくれた玩器は、小さい丸い薄いガラスの玉の中に、五分位な人形が三つはひつて居る。その人形の頭は赤と緑と黒とに染分けてある。それでその玉に水を入れて、口を指で塞いで玉を横にすると、人形が上の方に浮き上つたりまた下に沈んだりするやうになつて居る。しかもその人形は同時に浮き沈みせずして別々に浮き沈みする。これは薄いガラスを指で圧するために圧せられたる水が人形の空虚に出入して、それがために浮沈するのであらう。簡単な物であるけれど、物理を応用して、子供などを喜ばせるやうに出来て居る処はうまいものである。これに口上が添ふと一層面白くなるので、露店の群がつて居る中でも、この玩器を売る店は最も賑はふ処であるさうな。実際の口上は知らぬが、鼠骨の仮声を聞いてもよほど興がある。「赤さんお上り、青さんお上り」「青さんお下り、黒さんお下り」「小隊進めオイ」などとしやべりながら、片方の手でガラスの外から糸を引くやうな真似をするのは、鼠骨得意の処である。今一つの玩器は、日比野藤太郎先生新発明の活動写真といふので、これは丁度、トランプほどの大きさの紙が三十枚ほど揃へてあつて、それには相撲の取組んで居る絵が順を追ふて変化するやうに画いてある。それを指の先で一枚づつばらばらとはじいて見るので活動写真になるのぢやさうな。人を馬鹿にして居る処が甚だ面白い。  義郎が贈つたといふよりも実際目の前でこしらへて見せた田面の人形といふのがある。これは義郎の来る日があたかも新暦の八月一日に当つて居つたので、義郎の故郷(伊予小松)でする田面の儀式をして見せたのである。それは糝粉で二、三寸ばかりの粗末な人形を沢山作つて、盆のぐるりに並べる。その中央にはやはり糝粉の作り物を何でも思ひ思ひにこしらへて置くのぢやさうな。余の幼き時に僅かに記憶して居るのは、これと少し違つて黍殻に赤紙の着物などを着せて人形として、それを板の上に沢山並べるのであつた。この田面祭りといふのは百姓が五穀を祭る意味であるから、国々の田舎に依つて多少の違ふた儀式が残つて居るであらうと思ふ。しかし人形の行列を作るのは何の意味であるかよくわからぬ。 (八月四日) 八十五 ○この頃茂りといふ題にて俳句二十首ばかり作りて碧虚両子に示す。碧梧桐は 天狗住んで斧入らしめず木の茂り の句善しといひ虚子は 柱にもならで茂りぬ五百年 の句善しといふ。しかも前者は虚子これを取らず後者は碧梧桐これを取らず。 植木屋は来らず庭の茂りかな の句に至りては二子共に可なりといふ。運座の時無造作にして意義浅く分りやすき句が常に多数の選に入る如く、今二子が植木屋の句において意見合したるはこの句の無造作なるに因るならん。その後百合の句を二子に示して評を乞ひしに碧梧桐は 用ありて在所へ行けば百合の花 の句を取り、虚子は 姫百合やあまり短き筒の中 の句を取る。しかして碧梧桐後者を取らず虚子前者を取らず。 畑もあり百合など咲いて島ゆたか の句は余が苦辛の末に成りたる者、碧梧桐はこれを百合十句中の第一となす。この句いまだ虚子の説を聞かず。賛否を知らず。 (八月五日) 八十六 ○このごろはモルヒネを飲んでから写生をやるのが何よりの楽しみとなつて居る。けふは相変らずの雨天に頭がもやもやしてたまらん。朝はモルヒネを飲んで蝦夷菊を写生した。一つの花は非常な失敗であつたが、次に画いた花はやや成功してうれしかつた。午後になつて頭はいよいよくしやくしやとしてたまらぬやうになり、終には余りの苦しさに泣き叫ぶほどになつて来た。そこで服薬の時間は少くも八時間を隔てるといふ規定によると、まだ薬を飲む時刻には少し早いのであるが、余り苦しいからとうとう二度目のモルヒネを飲んだのが三時半であつた。それから復写生をしたくなつて忘れ草(萱草に非ず)といふ花を写生した。この花は曼珠沙華のやうに葉がなしに突然と咲く花で、花の形は百合に似たやうなのが一本に六つばかりかたまつて咲いて居る。それをいきなり画いたところが、大々失敗をやらかして頻りに紙の破れ尽すまでもと磨り消したがそれでも追付かぬ。甚だ気合くそがわるくて堪らんので、また石竹を一輪画いた。これも余り善い成績ではなかつた。とかくこんなことして草花帖が段々に画き塞がれて行くのがうれしい。八月四日記。 (八月六日) 八十七 ○草花の一枝を枕元に置いて、それを正直に写生して居ると、造化の秘密が段々分つて来るやうな気がする。 (八月七日) 八十八 ○八月六日。晴。朝、例によりて苦悶す。七時半麻痺剤を服し、新聞を読んでもらふて聞く。牛乳一合。午餐。頭苦しく新聞も読めず画もかけず。されど鳳梨を求め置きしが気にかかりてならぬ故休み休み写生す。これにて菓物帖完結す。始めて鳴門蜜柑を食ふ。液多くして夏橙よりも甘し。今日の番にて左千夫来る。午後四時半また服剤。夕刻は昨日よりやや心地よし。夕刻寒暖計八十三度。 (八月八日) 八十九 ○或る絵具と或る絵具とを合せて草花を画く、それでもまだ思ふやうな色が出ないとまた他の絵具をなすつてみる。同じ赤い色でも少しづつの色の違ひで趣が違つて来る。いろいろに工夫して少しくすんだ赤とか、少し黄色味を帯びた赤とかいふものを出すのが写生の一つの楽しみである。神様が草花を染める時もやはりこんなに工夫して楽しんで居るのであらうか。 (八月九日) 九十 ○梅も桜も桃も一時に咲いて居る、美しい岡の上をあちこちと立つて歩いて、こんな愉快な事はないと、人に話しあつた夢を見た。睡眠中といへども暫時も苦痛を離れる事の出来ぬこの頃の容態にどうしてこんな夢を見たか知らん。 (八月十日) 九十一 ○日本酒がこの後西洋に沢山輸出せられるやうになるかどうかは一疑問である。西洋人に日本酒を飲ませて見ても、どうしても得飲まんさうぢや。これは西洋と日本と総ての物がその嗜好の違ふにつれてその趣味も異つてゐるやうに単に習慣の上より来て居るものとすれば、日本の名が世界に広まると共に、日本の正宗の瓶詰が巴里の食卓の上に並べられる日が来ぬとも限らぬ。しかしわれわれ下戸の経験を言ふて見ると、日本の国に生れて日本酒を嘗めて見る機会はかなり多かつたにかかはらず、どうしてもその味が辛いやうな酸ぱいやうなヘンな味がして今にうまく飲む事が出来ぬ。これに反して西洋酒はシヤンパンは言ふまでもなく葡萄酒でもビールでもブランデーでもいくらか飲みやすい所があつて、日本酒のやうに変テコな味がしない。これは勿論下戸の説であるからこれでもつて酒の優劣を定めるといふのではないが、とにかく西洋酒よりも日本酒の方が飲みにくい味を持つてゐるといふ事は多少証明せられて居る。それでも日本酒好になると、何酒よりも日本酒が一番うまいと言ふことは殆ど上戸一般に声を揃へて言ふ所を見ると、その辛いやうな酸ぱいやうな所がその人らには甘く感ぜられるやうに出来て居るのに違ひない。西洋人といへども段々日本趣味に慣れて来る者は、日本酒を好むやうな好事家もいくらかは出来ぬ事はあるまいが、日本の清酒が何百万円といふほど輸出せられて、それがために酒の値と米の値とが非常に騰貴して、細民が困るといふやうな事は先づ近い将来においてはないといふてよからう。 (八月十一日) 九十二 ○大做小做五対 (木)大阪の博覧会場内へ植ゑつけた並木は宮内省から貰ひ受けた何やらの木も甚だ生長が悪く十分に茂りを見せぬさうな。これは初め福羽氏より話があつたやうに銀杏の並木にして欲しかつた。銀杏の並木といふ事を聞いてから意外の考案に驚かされて今にこれを夢想して居るのぢやが、博覧会場などでなく永久に保存すべき地に銀杏の並木を造つて五十年百年と経過したなら如何に面白きものになるであらうか。夏の青葉の清潔にして涼しき、殊に晩秋より初冬にかけて葉が黄ばんで来た時の風致は楓や櫨などの紅葉とも違ふて得も言はれぬ趣であらう。冬枯に落葉して後もまた一種のさびた趣があつて他の凡木とは同日の論でない。それに銀杏の葉といふものも形の雅に色の美しきのみならず虫さへ食はぬほどの清潔な者であるから何かこれを装飾に利用したら雅致のある者が出来はすまいかと思はれる。  去年の夏、毎日々々暑さに苦しめられて終日病床にもがいた末、日脚が斜めに樹の影を押して、微風が夕顔の白き花を吹き揺かすのを見ると何ともいはれぬ善い心持になつて始めて人間に生き返るのであつた。その昼中の苦とその夕方の愉快さとが忘られんので今年も去年より一倍の苦を感ずるのは知れきつて居るから、せめて夕顔の白き花でも見ねばとてもたまるまいと思ふて夕顔の苗を買ふて病室の前に植ゑつけたが一本も残らず枯れてしまふた。看病のために庭の掃除も手入も出来ぬ上に、植木屋が来てくれんで松も椎も枝がはびこつて草苗などは下陰になつて生長することが出来ぬのであらう。もう今頃は白い花が風に動いて居るだらうと思ふと、見ぬ家の夕顔さへ面影に立つて羨ましくて羨ましくてたまらぬ。 (火)福岡の衛戍病院は三十余年前に床の下に入れて置いた地雷火がこの頃思ひ出したやうに爆発して人を焼き殺したさうな。  我家の炭も木ツパも連日の雨に濡れていくら燃やしつけても燃えぬ。それがために朝飯がいつも後れる。 (八月十二日) 九十三 (大做小做のツヅキ) (土)この頃の霖雨で処々に崖が崩れて死傷を出した処もあるさうだ。その中にも横須賀の海軍経理部に沿ふた路傍の崖崩れは最も甚だしき被害を与へたもので、十ばかりの人命と三台の人力車とを一時に埋め去つたとは気の毒な次第である。  我が草庵の門前は鶯横丁といふて名前こそやさしいが、随分嶮悪な小路で、冬から春へかけては泥濘高下駄を没するほどで、ために来訪の客はおろし立ての白足袋を汚してしまふたといふやうな事は珍しくもないのである。それがこの頃は夏であるにかかはらず長雨のために門前の土が掘取つたやうにくぼくなつたさうで、知らない人はここで下駄をくねらしてころぶこともあるやうすである。誠に気の毒な次第である。 (金)枝光の製鉄所では鎔鉱炉の作業を中止したさうだ。  草庵の台所では段々暑気に向ふて咽喉のかわきをいやす工夫が必要になつたので、大なるブリキの薬缶を買ふて来て麦湯の製造に着手して居る。 (水)梅雨になつて降り出して、梅雨があけて復降り出して、土用に入りて降り出して土用があけて復降り出したといふ、のべつ晴れなしの雨天なので、この頃では大川も小川も到る処溢れ出して家を浸して居る処もあり田畑を浸して居る処もある。泥鰌は喜んで居るだらうが、人間には随分ひどい害をなして居る。  常に枕元に置いて居る硯はその溝が幅が狭くて深さも余り深くないが、今まで水入れの水を入れるのにガブと入れ過ぎたやうな時でも一度も溢れ出した事はない。それは硯の両側にも浅い溝が掘つてあるので、この溝は平生用を為さぬやうであるが、それがために洪水を防ぐやうに出来て居る。この法を以て治めたら如何なる大河の水も治まらぬ事はあるまい。(ヲハリ) (八月十三日) 九十四 ○上総にて山林を持つ人の話 一、この頃の杉の繁殖法は実生によらずして多くさし穂を用ゐる事 一、杉の枝は十年三十年六十年の三度位に伐り落す事 一、一丈廻りの杉の木は二百年以上を経たる者と知るべき事 一、杉の上等なるものは電信電話の柱として東京へ輸出し、そのほか多く上総戸と称する粗末なる雨戸となして東京へ出す事 一、雨戸は建具屋職人一人にて一日八、九枚より十四、五枚を造る、東京へ持ち出しての相場は今一円に三枚か三枚半との事 一、雨戸を東京へ出すまでに左の七人の手を経る事 一、山主    二、根ぎり(木を伐り倒す人)   三、木びき    四、建具屋 五、荷馬車   六、停車場運送店      七、東京木材問屋 一、松は二寸に一寸五分角の垂木のやうな棒にして出す、これを松わりと呼ぶ事 一、くぬ木は炭となして佐倉へ出す、東京にてサクラ炭といふはこのくぬ木炭なるべき事 一、松の節くれ多く木材にならぬものはこれを炭となす、下等の炭なり、しかし東京の鍛冶屋は一般にこれを用ゐる事 一、山林養成に最も害をなすものは第一、野火、第二、馬車の材木を積んで林の間を通る者、第三、小児の悪戯等なる事 (八月十四日) 九十五 ○「病牀六尺」(七十八)において実感仮感といふ語の定義について疑を述べて置いたが、その後『審美綱領』といふ書を見たら仮情といふ事を説明してある、これが大かた前にいふた仮感に当つて居るものであらう。しかしこれには「美なる感情を名づけて仮情といふ」と規定してあるのだから仮情といふ語の定義については別に論ずべき余地はない。もし論ずるならば「美なる感情」について論ずべきである。さうなると問題が全く別になる。即ち論理の順序を顛倒せねばならぬ。  この『審美綱領』といふ書を少し読みて見たるに余り簡単なるためと訳語の聞き慣れぬためとにて分りにくい処が多いが、かく簡単に、無駄なく順序立ちて書いてある文は世間には少い方で甚だ心持が善い。今の新聞雑誌の文は反覆して一事を説明するためその一事をすつかり合点させるには都合が善いが、その弊は冗長に陥つて人を倦ませる事が多い。論説は御免を蒙る、などと言つて一般に新聞の論説を読まぬが都人士の風になつて居るのも、畢竟論説欄の無味なるにもとづくと言ふよりも文が冗長になつて論旨が繰り返し繰り返し述べられて居るからであらう。新聞と書籍とは同様に論ずべきではないが、どつちにしても同じやうな事を同じやうな言葉で繰り返されるものが多いのに閉口する。 (八月十五日) 九十六 ○子供の時幽霊を恐ろしい者であるやうに教へると、年とつてもなほ幽霊を恐ろしいと思ふ感じがやまぬ。子供の時毛虫を恐ろしい者であるやうに教へると、年とつて後もなほ毛虫を恐ろしい者のやうに思ふ。余が幼き時婆々様がいたく蟇を可愛がられて、毎晩夕飯がすんで座敷の縁側へ煙草盆を据ゑて煙草を吹かしながら涼んで居られると手水鉢の下に茂つて居る一ツ葉の水に濡れて居る下からのそのそと蟇が這ひ出して来る。それがだんだん近づいて来て、其処に落してやつた煙草の吹殻を食ふてまたあちらの躑躅の後ろの方へ隠れてしまふ。それを婆々様が甚だ喜ばれるのを始終傍に居つて見て居たために、今でも蟇に対すると床しい感じが起るので、世の中には蟇を嫌ふ人が多いのをかへつて怪しんで居る。読書する事、労働する事、昼寐する事、酒を飲む事、何でも子供の時に親しく見聞きした事は自ら習慣となるやうである。家庭教育の大事なる所以である。 (八月十六日) 九十七 ○玉利博士の果物の話の中に、最も善い味を持つて居る西洋梨が何故流行らぬかといふと永く蓄へる事が出来ぬからである、しかしこれから後は段々無粒有蔕の梨が流行るであらうといふ事であつた。しかしこれは他にも原因のある事で、西洋梨には汁の少いといふ欠点がある、夏日の果物は誰も清涼の液を渇望する傾向があるので、この点において日本の梨が西洋梨に優つて居る間は到底西洋梨が日本梨を圧してしまふことは出来ぬであらう。  果物も培養の結果段々甘美いものが出で来るやうに成つたが、そのうち堅い果物が段々柔かくなつて来るといふのも一つの傾向である。これも博士の話にあつたやうに、人間が堅いものよりも柔かいものを好むやうに嗜好が変化した事もあるが、果物などは実際柔かいものは昔はなかつたのが今になつて出て来るやうになつたのである。しかし他の食物について見ても柔かいものを好むといふ傾向が一般に甚だしくなつて来た事が分る。現に旅籠屋の飯が段々柔かくなつたのは近来の事である。始は半衛生のため抔といふて居つたものもあつたが、段々柔かい飯を食ひなれると、柔かい方がうま味があるやうに感じて来たのである。果物でも水蜜桃の如きは極端に柔かくなつて、しかも多量の液を蓄へて居るから善いが、林檎の如く肉が柔かでも液の少い者は(甘味と酸味と共にあつて美味なる者のほかは)咽喉を通りにくいやうで余り旨くもなく従つて沢山は食はれぬ。バナナの如きも液はないけれど善く熟した者は濡ひがあつて食ひやすい所がある。柔かな者には濡ひが多いといふが通則である。 (八月十七日) 九十八 ○天台の或る和尚さんが来られて我病室にかけてある支那の曼陀羅を見て言はれるには、曼陀羅といふものは元と婆羅門のもので仏教ではこれを貴ぶべきいはれはないものである、これは子供が仏様の形などをこしらへて並べて遊んで居るのと同じ意味のものである、と言ふて聞かされた。 (八月十八日) 九十九 ○おくられものくさぐさ 一、史料大観(台記、槐記、扶桑名画伝) このふみを、あましし人、このふみを、よめとたばりぬ、そをよむと、ふみあけみれば、もじのへに、なみだしながる、なさけしぬびて 一、やまべ(川魚)やまと芋は節より しもふさの、ゆふきごほりの、きぬ川の、やまべのいをは、はしきやし、見てもよきいを、やきてにて、うまらにをせと、あたらしも、かれの心を、おくりくる、みちにあざれぬ、そをやきて、うまらにくひぬ、うじははへども そらみつやまとのいもは鳶のねのとろゝにすなるつくいもなるらし 一、やまめ(川魚)三尾は甲州の一五坊より なまよみの、かひのやまめは、ぬばたまの、夜ぶりのあみに、三つ入りぬ、その三つみなを、わにおくりこし 一、仮面二つ某より わざをぎの、にぬりのおもて、ひよとこの、まがぐちおもて、世の中の、おもなき人に、かさんこのおもて 一、草花の盆栽一つはふもとより 秋くさの、七くさ八くさ、一はちに、あつめてうゑぬ、きちかうは、まづさきいでつ、をみなへしいまだ 一、松島のつとくさぐさは左千夫蕨真より まつしまの、をしまのうらに、うちよする、波のしらたま、そのたまを、ふくろにいれて、かへりこし、うたのきみふたり (八月十九日) 百 ○「病牀六尺」が百に満ちた。一日に一つとすれば百日過ぎたわけで、百日の日月は極めて短いものに相違ないが、それが余にとつては十年も過ぎたやうな感じがするのである。ほかの人にはないことであらうが、余のする事はこの頃では少し時間を要するものを思ひつくと、これがいつまでつづくであらうかといふ事が初めから気になる。些細な話であるが、「病牀六尺」を書いて、それを新聞社へ毎日送るのに状袋に入れて送るその状袋の上書をかくのが面倒なので、新聞社に頼んで状袋に活字で刷つてもらふた。そのこれを頼む時でさへ病人としては余り先きの長い事をやるといふて笑はれはすまいかと窃かに心配して居つた位であるのに、社の方では何と思ふたか、百枚注文した状袋を三百枚刷つてくれた。三百枚といふ大数には驚いた。毎日一枚宛書くとして十カ月分の状袋である。十カ月先きのことはどうなるか甚だ覚束ないものであるのにと窃かに心配して居つた。それが思ひのほか五、六月頃よりは容体もよくなつて、遂に百枚の状袋を費したといふ事は余にとつてはむしろ意外のことで、この百日といふ長い月日を経過した嬉しさは人にはわからんことであらう。しかしあとにまだ二百枚の状袋がある。二百枚は二百日である。二百日は半年以上である。半年以上もすれば梅の花が咲いて来る。果して病人の眼中に梅の花が咲くであらうか。 (八月二十日) 百一 ○先日西洋梨の事をいふて置いたが、その後も経験して見るに西洋梨も熟して来ると液が多量にある、あながち日本梨に劣らない。しかし西洋梨と日本梨と液の種類が違ふ。  熱い国で出来る菓物はバナナ、パインアツプルの如き皆肉が柔かでかつ熱帯臭いところがある。柑橘類でも熱い土地の産は肉も袋も総て柔かでかつ甘味が多い。それからまた寒い国の産もやはり肉の柔かなものが多い。林檎の柔かきはいふまでもなく梨でも柔かなものが出来る。しかるにその中間の地(たとへば東海道南海道など)で出来るものは柑橘類でも比較的堅くしまつて居るところがあつて、液が多量にあり、しかもその液には酸味が多い。それ故その液は甘味といふよりもむしろ清涼なるために夏時の菓物として適して居る。日本梨の液も西洋梨の液に比するとやはり清涼なところがあつて、しかもその液は粒の多い梨の方が多量に持つて居るやうだ。 (八月二十一日) 百二 ○『ホトトギス』第五巻第十号にある虚子選句の三座は人が 川狩や刀束ねて草の上    天葩 といふ句である。これは昔の武士の川狩の様であらうが「束ねて」といふは人は一人で刀は大小二本であるかあるいは二人三人の刀を束ぬるのであるか疑はしい。それから刀といふは大をいふのであるかどうか。昔の武士でも川狩に行く時は大概大小をたばさむやうの事はなく脇指一本位で行つたらうと思ふが、脇指でも刀といふであらうか。その上 川狩や地蔵の膝に小脇指    一茶 といふ古人の句もあるから、どちらにしてもこの句の手柄は少いかと思ふ。地の句は 鉞をかたげて渡る清水かな    碧空生 といふのである。清水といふは山や野にある泉の類で、その泉の流れを成して居る辺をいふとしてもその水の幅は半間か一間位に過ぎない、その幅の狭い清水を「渡る」といふた処が一歩か二歩で渡つてしまへる、その一歩か二歩で渡つてしまへる処をなぜにわざわざつかまへて俳句の趣向にしたのであらうか。かやうなつまらぬ事を趣向にしてことごとしくいふのは月並者流のする事である。天の句は 佐野が宿鉈ふるふべき藜かな    徴羽郎 といふのである。佐野が宿は源左衛門の宿なるべく、鉢の木の梅松桜を伐りたる面影を留めて夏季の藜を伐るに転用したる処既に多少の厭味があるやうに思ふ。その上に錆びたる長刀をふるふ武士の面影を見せて、鉈を「ふるふ」と、ことさらにいかめしく言ふて見た処は、十分に素人おどしの厭味を帯びて居る。「べき」といふ語も厭味がある。 (八月二十二日) 百三 ○今日は水曜日である。朝から空は霽れたと見えて病床に寝て居つても暑さを感ずる。例に依つて草花の写生をしたいと思ふのであるが、今一つで草花帖を完結する処であるから何か力のあるものを画きたい、それには朝顔の花がよからうと思ふたが、生憎今年は朝顔を庭に植ゑなかつたといふので仕方がないから隣の朝顔の盆栽を借りに遣つた。ところが何と間違へたか朝顔の花を二輪ばかりちぎつて貰ふて来た。それでは何の役にも立たぬので独り腹立てて居ると隣の主人が来られて暫くぶりの面会であるので、余は麻痺剤を服してから色々の話をした。正午頃に主人は帰られたが、その命令と見えて幼き娘たちは朝顔の鉢を持つて来てくれられた。まだ一つだけ咲いて居ますと眼の前に置かれるのを見ると紫の花が一輪萎れもしないで残つて居る。其処で昼餉を終へて後写生に取り懸つたが大略の輪郭を定めるだけにかなりに骨が折れて容易には出来上らない。幼き娘たちは幾らか写生を見たいといふ野心があるので、遊びながら画の出来るのを待つて居た。時々画帖を覗きに来て、まだよと小さな声で失望的にいふのは今年七ツになる児である。そのうち内の者が外に余つて居る絵の具を出して遣つたのでこの七ツになる児と、直ぐその姉に当る十になる児と二人で画を画き初めた。年かさの大姉さんといふのが傍に居て監督して居る。二人の子は余が写生した果物帖を広げてそれを手本にして画いて居る様子である。林檎にしませう、これがいいでせう抔といふのは七ツになる児で、いえそれはむづかしくて画けませぬ、桜んぼにしませうといふのは十になる児である。それから、この色が出ないとか絵の具が足りないとか頻りに騒いで居たが、遂にその結果を余の前に持ち出した。見ると七ツの児の桜んぼの画はチヤンと出来て居る。十になる方のを見ると、これも桜んぼが更に確かに写されて居る。原図よりはかへつて手際よく出来て居るので余は驚いた。やがてこれにも飽いたと見えて朝顔の画の出来上るのも待たずに皆帰つてしまふた。余はたつた一輪の花を画いたのが成績がよくなかつたので、やや困りながら、大きな葉の白い斑入りのやつを画いて見たが、これは紙が絵の具をはじくために全く出来ぬのもありまた自ら斑入りのやうに出来上るのもあつてをかしかつた。蔓の糾れて居る工合を見るのも何となく面白かつた。この時どやどやと人の足音がして客が来たらしい。やがて刺を通じて来たのは孫生、快生の二人であつた。(ツヅク) (八月二十三日) 百四 (ツヅキ) 二人とも二年ばかり遇はなかつたので殊に快生などはこの前見た時には子供々々したいつその小僧さんのやうに思ふて居たが今度遇つてみると、折節髭も少しばかり伸びて居るので、いたく大人びたやうな感じがした。余は写生の画き残りをなほ画き続けながら話をしてゐたが、そのうち絵はほぼ出来上つたので写生帖を傍に置き、絵の具を向の方へ突きやつてしまふた頃、孫生がいふには、実は渡辺さんのお嬢さんがあなたにお目にかかりたいといふのですがと意外な話の糸口をほどいた。さうですか、それはお目にかかりたいものですが、といふと、実は今来て待つておいでになるのです、といはれたので、余はいよいよ意外の事に驚いた。そのうち孫生は玄関の方へ出て行て何か呼ぶやうだと思ふと、すぐその渡辺のお嬢さんといふのを連れて這入つて来た。前からうすうす噂に聞かぬでもなかつたが、固より今遇はうとは少しも予期しなかつたので、その風采なども一目見ると予て想像して居つたよりは遥かに品の善い、それで何となく気の利いて居る、いはば余の理想に近いところの趣を備へて居た。余はこれを見るとから半ば夢中のやうになつて動悸が打つたのやら、脈が高くなつたのやら凡て覚えなかつた。お嬢さんはごく真面目に無駄のない挨拶をしてそれで何となく愛嬌のある顔であつた。かういふ顔はどちらかといふと世の中の人は一般に余り善くいはない、勿論悪くいふものは一人もないが、さてそれだからといふて、これを第一流に置くものもない、それで世人からはそれほどの尊敬は受けないのであるが、余から見るとこれほどの美人=美人といふとどうしても俗に聞えるが余がいふ美人の美の字は美術の美の字、審美学の美の字と同じ意味の美の字の美人である=は先づいくらもないと思ふ。ただ十分な事をいふと少し余の意に満たない処は、つくりがじみ過ぎるのである。勿論極端にじみなのではない、相当の飾りもあつてその調和の工合は何ともいはれん味があるが、それにもかかはらず余は今少しはでに修飾したらば一層も二層も引き立つて見えるであらうと思ふ。けれどもそれは余り贅沢過ぎた注文で、否むしろ無理な注文かも知れぬ。これだけでも余の心をして恍惚となるまでにするには十分であつた。話はそれからそれと移つて、快生が今まで居た下総のお寺は六畳一間の庵室で岡の高みにある、眺望は極めて善し、泥棒の這入る気遣はなし、それで檀家は十二軒、誠に気楽な処であつたなどといふ話にやや涼しくなるやうな心持もした。暫くして三人は暇乞して帰りかけたので余は病床に寐て居ながら何となく気がいらつて来て、どうとも仕方のないやうになつたので、今帰りかけて居る孫生を呼び戻して私かに余の意中を明してしまふた。余り突然なぶしつけな事とは思ふたけれども余は生れてから今日のやうに心をなやました事はないので、従つてまた今日のやうに英断を施したのも初めてであつた。孫生は快く承諾してとにかくお嬢さんだけは置いて行きませうといふ。それから玄関の方へ行て何かささやいた末にお嬢さんだけは元の室へ帰つて来て今夜はここに泊ることとなつた。そのうち日が暮れる、飯を食ふ、今は夜になると例の如くに半ば苦しく半ば草臥れてしまふ。お嬢さんと話をしようと思ふて居る内に、もう九時頃になつた。九時になると、少し眠気がさすのが例であるが、とにかく自分だけは蚊帳を釣つてもらふて、それからゆつくりと話でもしようと思ふて居る処へ郵便が来た。それは先刻孫生に約束して置いた「百人豪」とかいふ本をよこしてくれたので、蚊帳の中でそれを読み始めたが、終に眠くなつて寐てしまふた。  翌朝起きてみると二通の郵便が来て居る。その一通を開いてみると、古生からよこしたので端書大の洋紙に草花を写生したのが二枚あつた。一つはグロキシアといふ花、今一つは何ピーとかいつて豌豆のやうな花である。これはきのふ自分で写生したのだといふてよこしたのであるが、余り美しいので始のうちは印刷したものとしか思へなかつた。今一通の郵便を手に取つてみると孫生、快生連名の手紙であつたので、動悸ははげしく打ち始めた。手紙を開けて読んでみると昨日あれから話をしてみたが誠によんどころないわけがあるので、貴兄の思ふやうにはならぬといふ事であつた。しかしお嬢さんは当分の内貴兄の内に泊つて居られても差支ないといふのである。失望といはうか、落胆といはうか、余は頻りに煩悶を始めた。到底我掌中の物でないとすればお嬢さんにもいつそ今帰つてもらつた方がよからう。一度でも二度でも見合つたり話し合つたりするほど、いよいよ未練の種である。最早顔も見たくない、などと思ひながら孫生、快生へ当てて一通の返事を書いてやつた。その返事は極めて尋常に極めておとなしく書いたのであつたが何分それでは物足りないやうに思ふてまた終りに恨みの言葉を書きて 断腸花つれなき文の返事かな と一句を添へてやつた。それから何をするともなく、新聞も読まずにうつらうつらとして居つたが何分にも煩悶に堪へぬので、再び手紙を書いた。いふまでもなく孫生、快生へ当てた第二便なので今度は恨みを陳べた後に更に何か別に良手段はあるまいか、もし余の身にかなふ事ならどんな事でもするが、とこまごまと書いて 草の花つれなきものに思ひけり といふ一句を添へてやつた。それでその日は時候のためか何のためかとにかく煩悶の中に一日を送つてしまふた。  その次の日、小さな紙人形を写生してしまふた頃丁度午後の三時頃であつたらう、隣のうちの電話は一つの快報を齎らして来た。それは孫生、快生より発したので、貴兄の望み通りかなふた委細は郵便で出す、といふ事であつた。嬉しいのなんのとて今更いふまでもない。  お嬢さんの名は南岳艸花画巻。 (八月二十四日) 百五 ○略画俳画などと言つて筆数の少い画を画くのは、むしろ日本画の長所といふてもよい位であるが、その略画といふのは複雑した画を簡単に画いて見せるのを本領と思ふて居る人が多い。しかしそれには限らぬ。極めて簡単なるものの簡単なる趣味を発揮するのも固より略画の長所である。『公長略画』といふ本を見ると、非常に簡単なる趣向を以て、手軽い心持のよい趣味をあらはしてゐるのが多い。例へば三、四寸角の中へ稲の苗でもあらうかと言ふやうな青い草を大きく一ぱいに画いて、その中に蛙が一匹坐つて居る、何でもないやうであるが、青い色の中に黒い蛙が一匹、何となくよい感じがする。あるいは水をただ青く塗つてその中へ蛙が今飛び込んだといふ処が画いてある、蛙の足は三本だけ明瞭に見えるが一本の足と頭の所は見えて居らん、これも平凡な趣向であるけれど、青い水と黒い蛙とばかりを画いた所はやはり前の画と同じやうに極めて小さい心持のよい趣味に富んで居る。そのほか、蓮の葉を一枚緑に画いて、傍らに仰いで居る鷺と俯いて居る鷺と二つ画いてあるが如きは、複雑なものを簡単にあらはした手段がうまいのであるが、簡単に画いたために、色の配合、線の配合など直接に見えて、密画よりはかへつてその趣味がよくあらはれて居る。そのほかこの本にある画は今まで見た画の内の、最も簡単なる画であつて、しかもその簡単な内に一々趣味を含んでゐる処はけだし一種の伎倆と言はねばならぬ。 (八月二十五日) 百六 ○雑誌『ホトトギス』第五巻第十号に載せてある蕪村句集講義の中   探題雁字 一行の雁や端山に月を印す といふ句の解釈は当を得ない。これは誰もこの雁字といふ題に気がつかなかつたためで、余も輪講の当時書物を見ずに傍聴して居たのでこの題を聞き遁してしまふた。雁字といふのは雁の群れて列をなして居る処を文字に喩へたのであつて原と支那で言ひ出しそれが日本の文学にも伝はつて和歌にて雁といふ題にはしばしばこの字の喩を詠みこんであるのを見る。この俳句の趣向は雁を文字に喩へたから月を「印」に喩へたのだ。赤い丸い月が出て居る有様を朱肉で丸印が捺してあるものとして、一行の雁字と共に一幅を成して居るかのやうにしやれて見たのであらう。「一行の雁」とは普通の語であるけれどこの句で特に一行といふたのは一行の文字といふやうに利かせた事は言ふまでもない。また端山といふのに意味があるかないかは分らぬが、これを意味あるものとして、端山も一幅画中の景色の一部分であるといふやうに解するのは穏当でないかと思ふ。むしろ端山は全く意味のない者で、上と下とを結ぶための連鎖になつて居るばかりのものと見たい。しかしこの光景を空中高き処と見て、雁も月も縹渺たる大空の真中、しかも首を十分に挙げて仰ぎ望むべき場合にありとすればこの比喩が適切でなくなる。端山辺の低い処に赤い月があるのでいくらか印のやうな感が強くなるのである。因にいふ、丸印は昔から時々用ゐられる、尾形光琳の如きは丸印の方を普通に用ゐたやうだ。 (八月二十六日) 百七 ○『ホトトギス』第五巻第十号の募集句に追加したる虚子の選者吟のうちに 本陣の槍に鴉や明易き とあるは鴉が槍にとまつて居るといふ景色であるか、または槍の辺を飛んで居るといふ景色であるか、よく分らないので作者に聞いて見たところが、作者の意はそんな景色などはわからないでも善いのだといふので、烏は飛んで居ようと、とまつて居ようと、鳴いて居ようと、そんな事はどうでもよい、ただ本陣の槍と鴉といふものとをもつて来たところに趣があるのであるといふことであつた。その説明を聞いても余はなほ漠然たる光景に趣味を感ずる事は出来ない。本陣の槍に鴉やといふ句を見れば、どうしても客観的にその景色を目に浮べて見たくなる。従つて鴉の位置を明瞭にしなくては気がすまんのである。 松を伐る鉈や誤つて土を蘭を とあるのは、ちよつとわかりかねる処があつてこれも作者に質して見た処が、松を伐るといふのはやはり松の立木を伐る事ぢやさうな。しかし立木を伐るとなれば、大抵は鋸を用ゐるので鉈を用ゐることは殆どない。鉈で伐れるやうな木ならば、極めて小さい立木と見ねばならぬ。そんな事はどうでもよいとして、さて結句の「土を蘭を」といふ言ひかたは、余り詞を働かせようとして句法が奇に過ぎるやうになり、随つて厭味に感ずるのである。かういふきはどい趣向は一般の場合においてどうしても厭味が勝つて初心臭くなる傾きがある。 石に腰百合の中なる鐺かな とあるのは、これもその意味を解しかねて作者に尋ねた処が、百合の中なる鐺といふのは、百合の花の中に鐺がはひつたといふのではなく、百合が沢山生えて居る中へ鐺がはひつたといふわけぢやさうな。けれどもその意味がこの句で現はれて居るであらうかどうであらうか、鐺が百合の生えて居る中にあるといふのもちよつと変な趣向である上に、それを「中なる鐺かな」といふやうな句法にしたために、いよいよ変に感じられて、何の事だかわからなくなつてしまふ。作者はわざと「鐺かな」といふやうな句法にしたのでそれがために句が活動して来るやうに思ふといふことであつた。それからこれは作者自身の事か、または作者は傍らにあつて他人の事を見て作つたのかといふて尋ねて見たらば、傍らから見たのだといふ答へであつた。しかし「石に腰」といふ言ひかたも、「百合の中なる鐺かな」といふ言ひかたも、総て作者自身からいふたやうな詞つきであつて、他の武士の腰かけて居る有様を傍らから見たやうな詞つきでないと思ふ。要するに作者は鐺が百合の中にあるといふ光景がひどく嬉しくて堪らんのでそれを現はしたのであるさうなが、どうも他から見ると無理なやうに思ふ。 採蓮を見て居る武士や旅刀 とあるのは、これは採蓮といふ支那の遊びについて作者も誤解して居つたので、到底日本的の武士を持つて来たのでは調和しないのである。  以上の句をひつくるめて作者と評者との衝突点が何処にあるかといふと、つづまる処虚子は頻りに句を活動させようとするためにその句法が言はば活動的句法とでもいふやうになつて居る。その活動的句法が厭味になつてまた無理になつてどうも俳句として十分でないやうに余には感じられるのである。余もあながち活動をわるいといふのでないが、活動に伴なふ所の弊害即厭味とか無理とかいふものを脱することが甚だむづかしいと思ふのである。その厭味その無理と余がいふ所のものを虚子はむしろ得意として居るのであるから、これらの句が極端に衝突を起したわけである。 (八月二十七日) 百八 ○『ホトトギス』第五巻第十号にある碧梧桐の獺祭書屋俳句帖抄評の中に 砂浜に足跡長き春日かな を評して自分の足跡だか、人の足跡だかわからぬといふ事であつたが、余の考は無論自分の足跡といふわけではなく、ただそこについて居る足跡を見た時の感じをいふたのである。 日一日同じ処に畑打つ といふ句を評して作者自身が畑打つ場合であるかわからぬといふてある。これは余の考へは人の畑打を他から見た場合を詠んだつもりであつたのぢやけれど、作者自身が畑打つ場合と見られるかも知れん。 一銭の釣鐘撞くや昼霞  これを評して、賽銭を投げて鐘を撞く事であるといふてあるが、余の趣向はさうでない。一銭出すと釣鐘を一つ撞かすといふ処がある。その釣鐘を撞いたつもりなのである。 一桶の藍流しけり春の川  この句を評して「一桶の」といふのは実際桶に入れて藍を棄てたといふのでなくて染物を洗ふため水の染んでゐる工合を云々といふてある。しかし余の趣向はさうでない。実際一桶の藍を流したので、これは東京では知らぬが田舎の紺屋にはよくある事である。 観音で雨に遇ひけり花盛り  この句について余は「観音で」と俗語を持つて来たところが少し得意であつたのだ。  碧梧桐評の中にこの句は乙二調だとか、この句は蓼太調だとかいふ事が、しかも二十句ばかり列挙してあつたのには驚いた。これは随分大胆な評で、殊に碧梧桐の短所ではあるまいか。随分杜撰なやつもある。英雄人を欺くの手段であらう。 長き夜や人灯を取つて庭を行く  この句を評して、上五字を「夜寒さや」としては陳腐になるのであらうか、といふて居る。しかし余の考は夜寒のつもりではなかつたのである。これは長い夜の単調を破つた或る一事件をひつつかまへたので、詳しくいはば長い夜の何も変つた事はなく、ただ長い長いと思ふて居る時に、誰か知らぬが灯を持つて庭先を横ぎつた者があつたといふ一事件があつて、さてその後はまた何事もなく同じやうに長い長い夜であつたのである。(ツヅク) (八月二十八日) 百九 (ツヅキ) 秋風や侍町は塀ばかり  右の句につきての碧梧桐の攻撃は、この句を維新前の光景を詠みたるものとし従つて「塀ばかり」といふを沢山あつて目立つて居る趣と解したために起つたのである。しかし余の趣向はさうではない。これは郷里に帰つて城北の侍町を過ぎた時の所感を述べたもので無論維新後に頽廃した侍町のつもりである。塀ばかりは昔のままのが大方は頽れながらなほ残つて居るが、その内を見ると家はなくて竹藪が物凄きまで生ひ茂つて居る処もあり、あるいは畑になつて茄子玉蜀黍などつくつてある傍に柿の木が四、五本まだ青き実を結んで居る処もあるといふやうな光景を詠んだつもりであつたが、これは前書をつけて置かなかつたのが悪かつた。 山門を出て下りけり秋の山 「いで下りけり」と読むのは無理ではあるまいか。余は「でて下りけり」と読ませるつもりであつた。もつとも俳句としての句法上では「でて」と二字で切る方が無理なのであらう。 仏壇の柑子を落す鼠かな  これは無論枝の柑子などではない。御華足か何かに盛つてあつたのをころがしたつもりであつたのぢやが、今考へて見ると不完全な句である。余は柑子のころげた音を聞いてその光景を想像して居たのをかう作つたのであるが、それは無理ぢや。かつて蕪村の「樒はみこぼす鼠かな」につきて同じやうな論があつたと思ふ。(ヅヅク) (八月二十九日) 百十 (ツヅキ) 柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺  この句を評して「柿食ふて居れば鐘鳴る法隆寺」とは何故いはれなかつたであらうと書いてある。これは尤の説である。しかしかうなるとやや句法が弱くなるかと思ふ。 菊の花天長節は過ぎにけり  季のことについてはしばしばいつたのであるが、ここにもまた誤解がある。余は立冬以後を冬とするのであるから、従つて天長節は秋季に這入つて居るのである。十一月五、六日もまだ秋の中である。それから余は十月といふ題の句はここに入れてはない。 木枯や鐘曳き捨てし道のはた  これは余の趣向は大きな釣鐘を寺へ曳つぱつて行く道で日が暮れたものであるから、その釣鐘はその夜一夜は道のはたに曳き捨てて置く、その時の光景を詠んだつもりなので、従つて時は日の暮かもしくは夜のつもり、さうして講中の人数などは無論家に帰つてしまふて、ここには居らぬのである。いはば道のはたで大釣鐘が独り立つて居るといふやうな物凄い淋しい場合を趣向に取つたつもりであるから、木枯を配合したのである。 下駄穿いて行くや焼野の薄月夜  この句の下駄穿いて行くといふことについて、疑問を起してあるが、余が特に下駄を持つて来たのは、下駄ならば茨の焼けた跡なども平気で踏んでゆけるといふやうな心持からいふたのである。しかし必ずしも茨を踏むといふのではない。とにかく面白くない趣向である。 出る時の傘に落ちたる菖蒲かな  この句を評して、きはどい場合の句であるといふてあるのは異論はない。しかし傘が菖蒲の端に障つてそれで落ちたのだと思ふと、それほどきはどくなくなるやうに思ふ。 鳴きやめて飛ぶ時蝉の見ゆるなり  この句を評して趣味に乏しいとあるのは尤な説である。しかし余自身にはちよつと捨て難い処がある。 聾なり秋の夕の渡し守  この句を評して、下手な小説を読むやうな感じがあると書いてある。なほ評者に尋ねて見たるに或人が渡し守に話しかけて見たらばその渡し守が聾であつたといふやうな場合と想像したのぢやさうな。余は此方の岸から、向岸の渡し守を呼んでも呼んでも出て来ぬので、そこで聾なりといつたのである。(ヲハリ) (八月三十日) 百十一 ○余が所望したる南岳の艸花画巻は今は余の物となつて、枕元に置かれて居る。朝に夕に、日に幾度となくあけては、見るのが何よりの楽しみで、ために命の延びるやうな心地がする。その筆つきの軽妙にして自在なる事は、殆ど古今独歩といふてもよからう。これが人物画であつたならば、如何によく出来て居つても、余は所望もしなかつたらう、また朝夕あけて見る事もないであらう。それが余の命の次に置いて居る草花の画であつたために、一見して惚れてしまふたのである。とにかく、この大事な画巻を特に余のために割愛せられたる澄道和尚の好意を謝するのである。 (八月三十一日) 百十二 ○いよいよ暑い天気になつて来たので、この頃は新聞も読む事出来ず、話もする事出来ず、頭の中がマルデ空虚になつたやうな心持で、眼をあけて居る事さへ出来難くなつた。去年の今頃はフランクリンの自叙伝を日課のやうに読んだ。横文字の小さい字は殊に読みなれんので三枚読んではやめ、五枚読んではやめ、苦しみながら読んだのであるが、得た所の愉快は非常に大なるものであつた。費府の建設者とも言ふべきフランクリンが、その地方のために経営して行く事と、かつ極めて貧乏なる植字職工のフランクリンが一身を経営して行く事と、それが逆流と失敗との中に立ちながら、着々として成功して行く所は、何とも言はれぬ面白さであつた。この書物は有名な書物であるから、日本にもこれを読んだ人は多いであらうが、余の如く深く感じた人は恐らくほかにあるまいと思ふ。去年はこの日課を読んでしまふと、夕顔の白い花に風が戦いで初めて人心地がつくのであつたが、今年は夕顔の花がないので暑くるしくて仕方がない。 (九月一日) 百十三 ○いはゆる詩人といふ漢詩を作る仲間で、送別の詩などを大勢の人から貰ふてその行色を壮にするとかいふて喜んで居る。それはわるいことでもないけれど余り言ふにも足らぬほどの旅行に不相応な送別の詩などを、しかも無理やりに請求して次韻などさすことはよくないことと予てより思ふて居た。ところが近来は俳句仲間にもその弊風が盛んになつて送別ぢやの留別ぢやの子が出来たの寿賀をするのと、その時々につけて交際のある限りはその句を請求する、それが何のためかと思ふと、やはり名聞のためなので、その沢山の句を並べて新聞雑誌などに出して得意がつて居るといふに至つては、余り見識のないしやうではないか、そのくせこの種の句に限つて殊にろくでもないのが多いのに。 (九月二日) 百十四 ○日本青年会のことについて何か意見はないかといふ話であつたが、余の意見として発表するほどの特別な意見は持たぬ。何にせよ一つの団体がある以上は何か事業でも起さねば甚だ薄弱な会合になつてしまふやうな傾きはあるが、しかし日本青年会は事業的の団結でないのであるからどこまでも精神的団結でやつてもらひたいのである。雑誌『日本青年』も甚だつまらぬ(世間的意味において)雑誌であるけれど、そのつまらぬ処が会員にとつてはかへつて面白い処であると思ふ。こんな雑誌を出してその地方へ往た時に会員を尋ねて話する位の交際をしてそれだけで日本青年会の値打は十分にあると思ふ。徒に大きなことをいふて身分不相応な事業または雑誌などをやることはよくあるまい。余は日本青年会のどこまでも実着に真面目にあることを願ふばかりである。 (九月三日) 百十五 ○漢語で風声鶴唳といふが鶴唳を知つて居るものは少い。鶴の鳴くのはしはがれたやうなはげしき声を出すから夜などはよほど遠くまで聞える。声聞于天といふも理窟がないではない。もし四、五羽も同時に鳴いたならば恐らくは落人を驚かすであらう。 (九月四日) 百十六 ○暑き苦しき気のふさぎたる一日もやうやく暮れて、隣の普請にかしましき大工左官の声もいつしかに聞えず、茄子の漬物に舌を打ち鳴らしたる夕餉の膳おしやりあへぬほどに、向島より一鉢の草花持ち来ぬ。緑の広葉うち並びし間より七、八寸もあるべき真白の花ふとらかに咲き出でて物いはまほしうゆらめきたる涼しさいはんかたなし。蔓に紙ぎれを結びて夜会草と書いつけしは口をしき花の名なめりと見るにその傍に細き字して一名夕顔とぞしるしける。彼方の床の間の鴨居には天津の肋骨が万年傘に代へてところの紳董どもより贈られたりといふ樺色の旗二流おくり来しを掛け垂したる、そのもとにくだりの鉢植置き直してながむればまた異なる花の趣なり。この帛にこの花ぬひたらばと思はる。 くれなゐの、旗うごかして、夕風の、吹き入るなへに、白きもの、ゆらゆらゆらぐ、立つは誰、ゆらぐは何ぞ、かぐはしみ、人か花かも、花の夕顔 (九月五日) 百十七 ○如何に俗世間に出て働く人間でも、碁を打つ位な余裕がなくてはいかんよ、などと豪傑を気取つて居るのはよいが、さてその人が碁を打つ有様を見て居ると、一番勝てば直ぐに鼻を高くし、二、三番も続いて負けると熱火の如くせき込んで、モー一番、モー一番と、呼吸もつかずに考へもしない碁を夜通しにパチパチと打つて居る。側から見て居るとマルで気違ひのやうぢや。これでは余裕も何もありはしない。 (九月六日) 百十八 ○けふ或る雑誌を見て居たらば、新刊書籍のうちに、鳴雪翁の選評にかかる俳句選といふものの抜萃が出て居つた。その中から更に抜萃して見ると 白酒に酔ふも三日や草の宿    評 貴嬢紳士は終年宴楽 菜の花のあなたに見ゆる妹が家    評 黄雲千頃、またこれ天の川 よき衣によき帯しめて暑いなり    評 白粉も汗にとくらん 田舎人のつき飛されし祭かな    評 ヒヤア、うつたまげ申した 役人の札立てゝ去る青田かな    評 アリヤ何だんべー などいふ類である。この俳句の巧拙などはここで論じるのでないが、この評の厭味多くして気のきかぬ事について余は少し驚いたのである。鳴雪翁は短評を以て人を揶揄したり、寸言隻語を加へて他の詩文を飜弄したりすることはむしろ大得意であつたのであるが、今この俳句選の評を見ると如何にも乳臭が多くて、翁の評とは思はれぬほどである。もつとも抜萃のしやうがわるいため、たまたま不手際なやつが揃ふて居るのかも知れぬが、とにかくこれらを標準として翁の伎倆を評する人があるならば大なる寃罪を翁に加へるものである。 (九月七日) 百十九 ○近頃は少しも滋養分の取れぬので、体の弱つたためか、見るもの聞くもの悉く癪にさはるので政治といはず実業といはず新聞雑誌に見るほどの事皆我をじらすの種である。露月が『俳星』に出して居る文章などは一々に読まぬからよくはわからぬが、自分が今始めて元禄の俳書などを読んで今更事珍し気に吹聴するのはなほ感ずべき点があるとしても、自分が好きな十句を作つて東京諸俳友の評を乞ひその各評の悪口を臆面もなく雑誌へ出したところは虚心平気といへば善いやうであるが、あの標準で恥ぢぬ所は少し一方の大将としては覚束ない処がある。今一工夫欲しいものである。青々の達吟に至つては実に驚くべきものであるが、さりとて杜鵑二百句といふに至つてはさすがの先生、無邪気に遣つてのけた所は善いが、これで俳句になつて居るつもりでは全く経験の足らぬ科であらう。二百羽の杜鵑をひつつかまへたといふのは一羽もひつつかまへないといふ事であるとは題見てもわかつて居る事であるのに。 (九月八日) 百二十 ○雑誌『ホトトギス』第五巻第十号東京俳句界の中に 茂山の雫や凝りて鮎となり    耕村 といふ句を碧梧桐が評したる末に「かつ茂山をシゲヤマと読ますこと如何にも窮せずや」とあり。されどこは杜撰なる評なり。 筑波山は山しげ山しげけれど思ひ入るにはさはらざりけり とかいふ名高き古歌もあり、俳句にも 茂山やさては家ある柿若葉    蕪村 といふ蕪村の句さへあるにあらずや。 (九月九日) 百二十一 ○碁の手将棋の手といふものに汚ないと汚なくないとの別がある。それがまたその人の性質の汚ないのと汚なくないのと必ずしも一致して居ないから不思議だ。平生は誠に温順で君子と言はれるやうな人が、碁将棋となるとイヤに人をいぢめるやうな汚ない手をやつて喜んで居る。さうかと思ふと、平生は泥棒でも詐欺でもしさうな奴が、碁将棋盤に向くとまるで人が変つてしまふて、君子かと思ふやうな事をやる。少しも汚ない手をしないのみならず、誠に正々堂々と立派な打方をするのがある。このほかによくその人の性質を現はしたやうな碁打ち将棋さしも固より沢山ある。これには種々な原因があつて、もし心理的に解剖して見たらばよほど面白い結果を現はすであらうと思ふが、その中の一原因をいふと、碁将棋の道に浅いものは如何なる人によらず汚ない手を打つのが多くて、段々道に深く入つて、正式に碁将棋を学んだものには、その人の如何にかかはらず余り汚ない手は打たないのである。 (九月十日) 百二十二 ○一日のうちに我痩足の先俄かに腫れ上りてブクブクとふくらみたるそのさま火箸のさきに徳利をつけたるが如し。医者に問へば病人にはありがちの現象にて血の通ひの悪きなりといふ。とにかくに心持よきものには非ず。  四方太は『八笑人』の愛読者なりといふ。大にわが心を得たり。恋愛小説のみ持囃さるる中に鯉丈崇拝とは珍し。  四方太品川に船して一網にマルタ十二尾を獲、しかも網を外れて船に飛び込みたるマルタのみも三尾あり、総てにて一人の分前四十尾に及びたりといふ。非常の大漁なり。昨また隅田の下流に釣して沙魚五十尾を獲、同伴のもの皆十尾前後を釣り得たるのみと。その言にいふ、釣は敏捷なる針を択ぶことと餌を惜しまぬこととにありと。  左千夫いふ。性の悪き牛、乳を搾らるる時人を蹴ることあり。人これを怒つて大に鞭撻を加へたる上、足を縛り付け、無理に乳を搾らむとすれば、その牛、乳を出さぬものなり。人間も性悪しとてむやみに鞭撻を加へて教育すればますますその性を害ふて悪くするに相違なしと思ふ。云々。  節いふ。かづらはふ雑木林を開いて濃き紫の葡萄圃となさむか。 (九月十一日) 百二十三 ○支那や朝鮮では今でも拷問をするさうだが、自分はきのふ以来昼夜の別なく、五体すきなしといふ拷問を受けた。誠に話にならぬ苦しさである。 (九月十二日) 百二十四 ○人間の苦痛はよほど極度へまで想像せられるが、しかしそんなに極度にまで想像したやうな苦痛が自分のこの身の上に来るとはちよつと想像せられぬ事である。 (九月十三日) 百二十五 ○足あり、仁王の足の如し。足あり、他人の足の如し。足あり、大磐石の如し。僅かに指頭を以てこの脚頭に触るれば天地震動、草木号叫、女媧氏いまだこの足を断じ去つて、五色の石を作らず。 (九月十四日) 百二十六 ○芭蕉が奥羽行脚の時に、尾花沢といふ出羽の山奥に宿を乞ふて馬小屋の隣にやうやう一夜の夢を結んだ事があるさうだ。ころしも夏であつたので、 蚤虱馬のしとする枕許 といふ一句を得て形見とした。しかし芭蕉はそれほど臭気に辟易はしなかつたらうと覚える。 ○上野の動物園にいつて見ると(今は知らぬが)前には虎の檻の前などに来ると、もの珍し気に江戸児のちやきちやきなどが立留つて見て、鼻をつまみながら、くせえくせえなどと悪口をいつて居る。その後へ来た青毛布のぢいさんなどは一向匂ひなにかには平気な様子でただ虎のでけえのに驚いて居る。 (九月十五日) 百二十七 ○芳菲山人より来書  拝啓昨今御病床六尺の記二、三寸に過ず頗る不穏に存候間御見舞申上候達磨儀も盆頃より引籠り縄鉢巻にて筧の滝に荒行中御無音致候 俳病の夢みるならんほとゝぎす拷問などに誰がかけたか (九月十七日) 「病牀六尺」未定稿 ○この頃東京の新聞に職業案内といふ一項を設けたのは至極便利な事であるが、さてその実際は何処まで信用すべきものであらうか、とは誰も疑ふ所である。今この広告を見て実際を探りし人の話を聞くに  蠣殻町辺に事務員を求めるといふ広告があつたので、出掛けて往つて見ると、九尺二間位な小さき家に怪しい者が住んで居る。主人がいふには、私のうちの用事は貸金の集めかた、または催促方に廻つてもらふのであるから、先づ身元金の三十円を納めてもらひたい。給金は腕次第である。かういふことであつた。とにかく三十円の身元金などは貧書生に思ひもよらんので、そこを出てしまふた。  それからまたある処に事務員が欲しいといふのがあつて往つて見ると、小さな家に新しい看板がかけてある。聞いて見ると、そこでは保険会社の事務員を募るので、その保険金の募り高に応じて口銭を呉れるといふのである。その口銭は百円につき十銭である。もし会社員にしては呉れまいかと聞いたら、それは段々募集金を集めなどした上で、その腕前を見て社員にせぬこともないと言つた。 ○独逸の伯林の傍に在る皇室附属の森林で、独逸皇帝が露国皇太子と共に猟をせられた所が、たつた一時間半に七百三十九頭の鹿がとれたさうだ。その中で皇帝自らが三十九頭、露国皇太子が二十七頭撃たれたさうな。また某伯爵が自分の猟区へ独逸皇帝を招いて猟をせられた時には、一日の獲物が雉六千二百五十六羽、兎百五十九頭、ラビツト十三頭であつたさうな。富士の裾野を何百人が二日間狩立てて、たつた鹿二頭を得たといふのとは雲泥の差である。 ○犬はほかの犬を見るとすぐに肛門をなめる。あるいは道傍に糞があると、すぐにそれを嗅いで見る。それがために犬の病気は直ちに他に伝染するのぢやさうな。 (明治三十五年) 底本:「病牀六尺」岩波書店    1927(昭和2)年7月10日第1刷発行    1984(昭和59)年7月16日第26刷改版発行    2004(平成16)年1月5日第57刷発行 底本の親本:「病牀六尺」岩波書店    1927(昭和2)年7月10日第1刷発行    病牀六尺未定稿「子規全集 第14巻」アルス    1926(大正15)年8月 初出:「日本」日本新聞社    1902(明治35)年5月5日~9月17日号    病牀六尺未定稿「子規全集 第14巻」アルス    1926(大正15)年8月 ※「読みにくい語、読み誤りやすい語には現代仮名づかいで振り仮名を付す。」との方針による、底本のルビの拗音、促音は、小書きしました。 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:川向直樹 校正:米田 2010年12月18日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。