ある僧の奇蹟 田山花袋 Guide 扉 本文 目 次 ある僧の奇蹟 一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 十一 十二 十三 十四 十五 十六 十七 十八 一  久しく無住であつたH村の長昌院には、今度新しい住職が出来た。それは何でも二代前の老僧の一番末の弟子で、幼い時は此の寺で育つた人だといふことであつた。「ほ、あのお小僧さんが? それはめづらしいな。」などと村の人達は噂した。  先代の住職が女狂ひをして、成規を踏まずに寺の杉林を伐つて売つたりして、そのため寺にもゐられなくなつてから、もう少くとも十二三年の歳月は経過した。始めは一里ほど隔つた法類のT寺がそれを監督したが、そこの和尚も二三年して死んで了つたので、あとは村の世話人が留守居などを置いて間に合せて来た。寺は唯荒るゝに任せた。  長昌院と言へば、この界隈でもきこえた古い寺である。徳川時代にもいくらか御朱印のついてゐる格式の好い方であつたし、田地も十分についてゐたし、境内も広い広いものであつたし、先々代の老僧などは、駕籠に乗つて伴廻りを三人も四人も伴れなければ決して戸外には出ないほどであつた。それに古い由緒が更にこの寺を価値づけた。寺の奥にある大きな五輪塔形の墓、苔の深く蒸した墓、それは歴史上にも聞えたこの土地の昔の城主なにがしの遺骸を埋めたところで、戦国時代にあつては、この城主は、この近隣数郡の地を攻略して、後にはその勢威がをさ〳〵一国を震慴させたといふことであつた。今でもその住んでゐた城の址はその村の西の一隅に草藪になつて残つてゐるが、半ば開墾されて麦畠、豆畑、桑畑になつてゐるが、それでも館の址だけは開墾すると祟があると言つて、誰も鋤も入れずにそのまゝにして置いた。取巻いた壕の跡には、深く篠笹が繁つて、時には雨後の水が黒く光つて湛へられてゐるのが覗かれた。春はそこから出て野に行く道に、蓮華草や菫の一面に咲いたところがあつて、村の小娘達はそれを採つては束にして終日長く遊んでゐるのを誰も見懸けた。  梅雨の降頻る頃には、打渡した水の満ちた田に、菅笠がいくつとなく並んで、せつせと苗を植ゑて行つてゐる百姓達の姿も見えた。かれ等は用水の漲つて流れる縁を通つて、この昔の館の址の草藪に埋められてある傍を掠めて、そしていつも揃つて野良の方へと出掛けて行つた。  少くとも、このH村では、半ば野に、半ば丘に凭つてゐるこのH村では、その城主の館の址と、五百年も前からあつたといふ寺と、その寺に残つてゐる苔蒸した墓と、この三つが、長い「時」の力の中に僅かに滅びずに残つているもので、それ以外には何物も昔の跡を語るものはなかつた。寺の大檀越で、旧家で、昔は寺の為めに非常に喜捨をしたといふSTといふ家でも、その分家の分家が僅かに小さく残つてゐるばかりで、古い苔蒸した無数の墓の外にはその昔の何事をも語らなかつた。唯、雲雀が高く囀つて空に上つた。  今から数年前であつた。ある夏の日の晴れた午後の日影を受けて、此処等にはつひぞ見たことのない新しいパナマ帽を冠つた、絽の紋付の羽織にちやんと袴を着けたハイカラの若い綺麗な紳士が、銀の環の光つたステッキをつきながら、村長につれられて夥しく荒廃したその無住の寺の山門へと入つて来た。  こんな会話を二人はした。 「えらく荒れてますな!」 「どうも……好い住職がないもんですから……それに、もとの住職が寺の借金を沢山残して行つたもんですから……」 「もう、長くゐないのですか、住職は?」 「八九年になります。」  村長は丁寧な言葉で深く尊敬するやうにして話した。  紳士は庇の落ち、軒の傾き、壁の崩れてゐる本堂の中に下駄のまゝ上つて行つたり、留守居の男の淋しさうに住んでゐる古い庫裡の方へ行つて見たりした。奥の苔の蒸した五輪形の墓の前に行つた時には、紳士は長い間跪いて手を合せた。  この紳士は今朝突然この村にやつて来た。そして村長の宅を訪ねた。かれは其処から一里に近い田舎町の旅舎に昨夜わざ〳〵やつて来て宿を取つてゐたのであるが、その出した名刺を見た村長は、俄かに言葉を丁寧にして、紳士の綺麗な顔を恐る〳〵見た。名刺には田舎の村長を驚かすに足る官名が書いてあつた。  紳士は寺のことを聞き、墓を聞き、またその昔の館の址を聞いた。今だに壕の跡が依然として残つてゐるといふことを村長から聞いた時には、紳士の顔にはある深い感動の表情が上つた。やがて紳士はその墓と館の址とを残して永久に立去つた昔の城主の遠孫であることを村長に話した。村長は愈々辞を低うした。 「何も他には残つてはゐませんかな。」 「何も……旧家といふのも大抵潰れて了つたものですから……」 「ふむ……」  かう言つたが、「さうすると、その先祖は小田原に亡されて、それから、野州に行つて、そこで今の主人を持つたんですな。何でも、野州で今の藩侯の家来になつたのは、こゝに墓のある人の孫に当つてゐるさうですから……」 「さやうで御座いますか。こゝから、お跡が野州に?」  かう村長は別に感動するやうな風もなしに言つた。  紳士は最初に村の西の隅にある館の址に行つた。濠、草や笹に埋められた壕、それもかれには非常になつかしさうに見えた。かれはわざ〳〵草藪をわけて、その小高いところまで入つて行つた。しかし其処には何もなかつた。 「城ツて言つても、その時分は、館なのだから──」  こんなことを独言のやうに言つた。で、そこを出て、かれは用水縁の路にその都人士らしい姿を見せつゝ寺の方へとやつて来た。途中では、丁度ひろい庭で麦を打つてゐる百姓達が連枷を留めてじろ〳〵かれの方を見た。  寺にも一時間ほどゐた。留守居の男が赤く濁つた茶などを勧めた。  かれは又訊いた。 「寺に、先代の弟子と言ふものもなかつたのですか?」 「大勢あつたのですけれども……。それも先々代のですが……。先住にはありませんけれども……。何うも皆な還俗したり何かして了ひましてな……。しかし、いづれは住職を置かないでは困るんですから、そのうち好いのがあつたらと思つてはをりますのです。無住でおきましたから、もう先住の拵へた借金もあら方ぬけました……」 「兎に角、由緒のある寺をかうして置くのは惜しい。」 「さやうですとも……」  で、その紳士は多くの布施を置いてそして帰つて行つた。 あとはまた長い月日が経つた。 二  新しく出来た住職は、四十二三位で、延びた五分刈頭、鉄縁の強度の眼鏡、単衣にぐる〳〵巻いたへこ帯、ちよつと見ては何うしても僧侶とは思へないやうな風采であつた。 「あれが慈海さんけえ? 何うしてもさうは思へねえだ。丸で変つちやつたな。何処かの別な人としか思へねえな。あの可愛い小僧さんとは何うしても思へねえ。」昔を知つてゐる年を取つた村の婆さん達はかう言つて噂した。  若い住職に取つても、あたりは余りにひどく変つてゐた。変りすぎてゐた。これが昔のあの寺かと思つた。あの盛な立派な堂々とした寺かと思つた。最初来た時には、これが先々代の老僧が威権を振つたあの寺とは何うしてもかれには思へなかつた。数年前に紳士がやつて来た時とは、更に更に寺は荒れた。裏の大きな垂木は落ち、壁は崩れて本堂の中は透いて見え、雨は用捨なく天井から板敷の上へと落ちた。仏具なども、金目のものはもう何もなかつた。金の燭台、鍍のキラ〳〵と日に輝く天蓋、雲竜の見事な彫刻のしてあつた須弥壇、さういふものはもう跡も形もなかつた。本尊の如来仏が唯さびしさうに深い塵埃の中に埋められたやうにして端坐してゐるばかりなのをかれは見た。  庫裡から本堂に通ずる長い廊下は、風雨に晒されて、昔かれが老僧に叱られながら雑巾がけをしたところとも思へなかつた。中庭の樹木も唯繁りに繁つた。蜘蛛の網や塵埃や乞食の頭のやうにボサ〳〵と延びた枝や──その中でも、金目な大きな伽羅の丸い樹はいつか持つて行つたと見えて、掘つたあとが大きくそこに残つてゐた。唯、霧島の躑躅が赤くあたりを絵のやうにした。  年老いた世話人が来てかれにかれの先代──かれの兄弟子の話をした。  あのおとなしい静かな兄弟子が、世話人の話すやうな残忍無恥な、又は貪欲な、又は無残な行為をして、あの老僧の経営した寺をかうした廃寺にして了はうとはかれは夢にも思はなかつた。世話人の言ふ所に由ると、この先住の女戒を破つた形は殊に烈しかつた。最初の中は此方から身を躱して、こつそりさういふ土地に出かけて行つたが、後には平気で、幅で、女を庫裡へ伴れて来ては泊らせてやつた。かれは放蕩のための金がなくなると、仏具を売り、植木を売り、経文を売り、後には僧衣や袈裟までをも売つた。たうとうそのために問題が大きくなつて、寺にゐられなくなつた。伐採した杉森の跡は、今でもちやんと指点された。 「今は何うしてゐるだらう?」  かう新しい住職はをり〳〵兄弟子のことを考へた。「何でも、東京に行つてゐるさうです。最後の女と浅草あたりで道具屋か何かしてゐるさうです。」かう世話人は言つた。しかし、それももう八九年も前のことであつた。今は死んだか生きてるかわからなかつた。  兎に角、庫裡──二三年前まで留守居の男のゐた庫裡を掃除して、そこに住居することの出来る準備を世話人達がして呉れた。黒く煤けた天井を洗つたり、破れた壁をざつと紙で貼つて膳つたり、囲炉裏の縁を削つたり、畳を取り替へたりして、世話人達は新しい住職のやつて来るのを待つた。庫裡の前の庭も皆なしてかゝつて綺麗に掃除した。 「長い間、無住にして置いたので、金はいくらかは出来てるだで、二三年したら、本堂の修繕も出来ると思ふが、まア、それまでは我慢してゐて下せい。これも先々代の寺だと思つてな。」かう世話人達は新しい住職に話した。 三 「老僧だツて、決して女戒を守つた人ではなかつた。」  かれはかう思はずには居られなかつた。……ふとある光景が浮んで来た。それは新しい住職がまだ此寺に貰はれて来たばかりの時であつた。老僧も六十位であつた。ふと二階へあがつて行く。さつきの女がまだゐる。綺麗な女が……。時々やつて来て三味線なんかを弾く女が……。扉を明けると、老僧の赤い顔、太い腕、女の変に笑つた顔!  と、今度はそれとは違つたあるシインが浮び出して来た。かれはもう十五六であつた。  かれは庫裡の玄関のぢき傍の三畳──さつきそこをかれは明けて見た。一杯蜘蛛の網、山のやうに積つた塵埃、ぷんと鼻を撲つて来る「時」の臭ひ、なつかしく思つて明けては見たが、かれはすぐその扉を閉めて了つた。その三畳の格子の前のところで、軽い艶かしい駒下駄の音が来て留つた。かれは幼心にもそれが誰だかちやんと知つてゐた。そこから真直に向うに行くと、鐘楼──それは今でもある、その鐘楼の隣の不動堂、蝋燭の灯、読経の声、消えたことのない不断の火、その賑かな光景の向うには、更に一層賑かな明るい灯、料理店、湯屋、三味線の湧くやうにきこえる音、月の光の下に巧い祭文語が来て、その周囲に多勢の男女を黒く集めてゐる──そこからその軽い艶かしい足音がやつて来たのであつた。  かれは黙つて経を前にして坐つてゐる……。と、ことことと音がする。唾で窓の紙をぬらす気勢がする。黒い瞳をした二つの笑つた眼が其処に現はれた。 「慈海さん!」  かうその静かな声で言つた。  黙つてゐる。 「慈海さん!」  まだ黙つてゐる。  しかしかれは自分の小さな心臓の烈しく動くのを感ぜずには居られなかつた。二つにわかれた心、その幼い時ですら、かれはその「二つのわかれた心」を既に深く経験してゐた。その涼しい二つの眼ではない方の眼、可愛い涙をふくんだやうな眼、それでゐて怒るとこはい眼、さういふ眼をかれは恐れた。その眼がすべてかれの後にゐるやうな気がした。 「慈海さん!」  また女は呼んだ。 「あとで、あとで……」 「そんなことを言つちや、いや──」  かう言つて頭を振つてゐるのが窓に映つて見える。 「ぢや、待つて……」  かう言つてかれは立上つた。  かれは其処を出て、この庫裡──囲炉裏のあるこの庫裡に来た。今と少しも変らないこの庫裡に……。現に、その板戸がある。竹と松の絵が黒く烟に煤けた板戸が依然としてある。その庫裡に何のために? その一つの心をわけた方の怒るとこはい眼が何処にゐるかを見るために──。  幸ひにその眼は其処にゐなかつた。かれはこつそりと玄関の戸を明けて、そして戸外へ出た。月の美しい夜であつた。樹と樹と重り合つた黒い影がところ〴〵に絣のやうなさまを展げた。本堂の灯がぽつつりとさびしく見えた。  かれはあたりを見廻した。  其処にゐる筈の女の影が何処に行つたか見えない。屹度調戯ふつもりに相違ない。かう思つて静かに樹の影の中に入ると、影と影の重り合つた中に、更に濃い影があつてそれが動いてゐる。急に、微かに笑ふ声がした。つゞいてかれは柔かい女の腕の自分に絡みついて来るのを感じた。女の髪の匂ひがした……。 「慈海さん。」かう微かに女は言つた。  こんなことをかれはもう何年にも思ひ出したことはなかつた。それも、かれが深く恋したやさしい涙を含んだ眼の方を思ひ出さずに、却つてそれを思ひ出したといふことが不思議であつた。  その心が、そのやさしい心が、又は男を思ふ心が、今だに、二十五六年を経過した今だに、そこに残つてゐて、その窓の下の空気の中にちやんと残つてゐて、そしてそれが自分の心に迫つて来たのではないか。かう思ふと、かれは不思議な一種の恐怖を感じた。  もう死んでゐるのかも知れない。弱い身体の女だつたから、おとなしい女だつたから、不仕合せな女だつたから……。と、その肉体が亡びて、その思ひだけがその空気の中に生きて動いてゐるのかも知れなかつた。そんなことはない筈だ。かう打消しても打消しても、矢張それがついて廻つた。  ふと気がつくと、自分は蚊帳の中に寝てゐるのだつた。それは囲炉裏のある隣の一間であつた。世話をする婆さんの寝てゐるいびきの音は向うの間からきこえて来てゐる。蚊のぶん〳〵唸る声が聞える。かれは容易に眠られなかつた。 「遠い昔だなア──」  かう思ひあつめたやうにしてかれは考へた。  此間も一度さういふことを考へたが、その夜もかれはかれ自身と放蕩無残な行為をした兄弟子との二つの生活をつづいて考へずには居られなかつた。兄弟子は慈雲と言つた。かれより四つ五つ上であつた。学問も出来て老僧の気に入つてゐた。老僧の了簡では、それを柔しい涙を含んだ眼の持主の配偶者にしようと思つたらしかつた。現に、かれが寺から東京へ、僧から俗へと移つて行つたのも半ばそのためであつたのであつた。十九でかれはそれまで学んだ仏の道を捨てた。それからそれへと種々なことをして歩いた。台湾にも行けば満洲にも行つた。仏の戒めた戒律をわざと破つて行くやうに見えるほどそれほど荒んだ生活をやつて来た。或は寺にゐられなくなつた兄弟子よりも、もつともつと烈しいデカダンの生活を送つて来たかも知れなかつた。  寺の世話人──今度此処にかれを伴れて来た寺の世話人に東京でゆくりなく逢つた時、かれは寺のことを聞き、老僧のことを聞き、兄弟子のことを聞き、最後に柔しい涙を含んだ眼の持主のことを聞いた。 「さうですか、K町に行つてゐますか。K町の商人の妻になつてゐますか。それは何より結構ですな……。子供は? へゝえ、御座いませんか。一体、何方かと言へば体の弱い女でしたからな。」  かう何気ない風をしてかれは言つた。  世話人の話で、かれは始めてその寺の娘が兄弟子の妻にならなかつたことを知つたのであつた。世話人はつゞいて話した。「いゝえ、別にさういふわけではないんですけれども、……老僧のある中は、隠居してからも、先代は固かつたのですけれども。ふとしたことから……、さア、そのふとしたことは何ういふことかわかりませんけれど、兎に角、急にあゝいふ風に、悪魔でも魅入つたやうになつて了つたものだから。」 「娘の片附いたのは、老僧が死んでからですか?」 「いえ〳〵、貴方が寺をおいでになつてから二年ほど経つか経たないほどです。」 「さうですか……」  意想外な気がかれにはした。  それからそれへと種々なことを思つてゐる中に、かれはいつとなく睡眠の襲つて来るのを感じた。そのまゝぐつすりと寝込んで了つた。  朝起きると、日がもう高くあがつてゐた。婆さんはもうとうに起きて、広い勝手元で、昔のまゝの土竈で、釜と火箸で朝飯を炊いてゐるのを見た。何を見ても、昔のことが思ひ出されないものはなかつた。かれは夏草に半ば埋められた井戸を見た。本堂から山門につゞいてゐる長い敷石を見た。それも依然として元のまゝである。唯、その時分には掃除が綺麗に行届いて、その石に添つて松葉牡丹の赤く白いのが長く見事に咲き続いてゐた。  かれは横楊枝で歯をみがきながら、鐘楼から、昔賑かであつた不動堂の方へと足を運んだ。そこでは不動堂の他にかれは残る何物をも発見することが出来なかつた。門前町と言ふほどではないが、一時は両側に人家が並んで、参詣者がかなり遠い処からやつて来た。やれ護摩をたけの、やれ蝋燭を呉れのと言つて、かれも慈雲も忙しい思ひをした。しかもその人家は「時」の大きな手にすつかり掃つて取去られて了つたかのやうに一軒もそこに見出されなかつた。すつかり桑畠と野菜畑とになつてゐた。何う考へて見ても、其処にあの遊蕩の気分が渦巻き、三味線の音が聞え、赤い裾をチラホラさせた色の白い女達が往来し、老僧は老僧で、同じ年恰好の世話人と一緒にあの湯屋の二階の女を傍に終日碁を打つてゐたとは思へなかつた。かれは不思議な気がした。瞬間も「址」をつくらずに置かない「時」が恐ろしいやうな気がした。そしてその「址」が唯だ「址」として埋められては了はずに、いつかそれの再び蘇つて来ずには置かないやうな気がした。  かれはもう不動堂の中の荒廃した形をのぞいて見る元気も何もなかつた。昨年のあの時から習癖になつた恐怖──いつ襲つて来るか知れない災厄の恐怖がかれを少からず不安にした。かれは急いで庫裡の方へと引返した。 四  自分ももう少しであの「恐ろしい群」の一人になるところではなかつたか。あの時もし東京にゐたならば──。  外国でなければ見ることの出来ないやうな事件、乃至は空想したロオマンスででもなければ出逢ふことの出来ないやうな事件、かれ等は皆な獣のやうに一人々々引き出されて、断罪の場にひかれて行つたのであつた。  意志の実行──意志の実行のために虐げられた人間の魂ではなかつたか。あらゆることを実行しても差支ない。世に罪悪と言ふものはない。悪と言ふものはない。唯自由があるばかりである。責任を負ひさへすれば──。かう言つたが、その責任が即ちかれ等の死ではなかつたか。  その意志の実行は、果して死を価値してゐたか否か。飜つて考へて見なければならない余地はないか否か。かれ等は少くとも犬死ではなかつた。すぐれた芽を蒔いたには相違なかつた。しかしその芽を蒔かなければならないほどの必要をかれ等の魂は感じつゝあつたのであらうか。  かれは失敗して本国に帰る舟の中でそれを聞いた。かれはその時の烈しいショックを忘れることが出来なかつた。急にかれの世界は狭くなつたやうな気がした。其処にも此処にも自分を監視する眼がついて廻つてゐるやうな気がした。かれは自分の舟の本国に向つて航しつゝあるのを恐れた。かれは船室の中にのみ閉籠つた。  エイア・ブウルからは美しい碧い海が見えた。行つても行つても海である。掀翻し、飛躍し、奔跳する海である。その上には時には明るい朝日が照り、わびしい黄い夕日が落ち、赤い湧くやうな雲が浮んだ。「群」の人達の記憶は払つても払つても絶えずかれの魂を襲つた。かれは時にはいつそ身を海中に躍らせようと思つて甲板の上を往来した。  ──「何うです、一度故郷の寺に帰る気はありませんか。あなたが跡をついで下さるなら、それに越したことはないのですが、世話人達も、村の者共も、貴方ならば喜んでお迎へするにきまつてをりますが。」かうその世話人から言はれた時には、そこより他に、その古い人知らない田舎の廃寺より他に、自分の身を、体を置くところはないやうにかれは思つた。老師の魂が荒んだ自分の魂を救つて呉れるやうにすらかれは思つた。  かれは尠くとも落附いて考へて見なければならないと思つた。これまでに自分のやつて来たことは、すべて皆な失敗に終つた。あらゆる悲喜、あらゆる事業、あらゆる思想、すべて皆な不自然であつた。自由を欲する──唯この一語にすら、かれはあらゆる矛盾と撞着とを感じた。意志と魂との区別も、もつと深く静かに考へて見なければならなかつた。それには、田舎の山の中の寺、廃寺、何の束縛もないのが好いと思つた。余りに多く世に染まりすぎた。世間と人間とに捉はれすぎた。静かに休息させて下さるなら……一二年行つて見たいからといふ手紙をかれは世話人に書いた。  かれは郊外の或る家に置いた自分の書籍──かれやかれの「群」が一生懸命に読んだ書籍、パンの問題、精神の問題、自由意志の問題、さういふことを書いた沢山の書籍をある日古本屋を呼んで売つた。古本屋は何も知らない半ば老いた男であつた。この書籍の中に、人間の意志が、魂が、恐怖が、事件が一々こもつてかくされてあるのは夢にも知らずに、平気でそれに評価をつけて、銭をちやら〳〵そこに勘定して置いて、そしてそれを背負つて行つた。  かれはあらゆるものを捨てて、着物を入れた行李一つを携へて、そしてこの故郷の寺へと来た。 五  寺に来てから、かれは種々な人達に逢つた。世話人の重立つた人達、それは昔見た時よりも年を取り白髪が多くなつてゐるばかりで、矢張或者は青縞の製織に、ある者は小作の取り上げに、或者は養蚕の事業に一生懸命に携はつてゐるのを見た。世の中にあつた種々な大事件、恐ろしい戦争の殺戮、無辜のものの流るゝ血、乃至は新しい恐ろしい思潮、共同生活を破壊する個人思想、意志と魂との扞格、さういふものがこの世界にあらうなどとは夢にも知らずに、朝は早く起き、夜は遅く寝て、唯その家業にのみいそしんでゐるのであつた。かれ等は広い世の中を知らなかつた。都会の生活をも知らなかつた。文明といふことも、新聞の上で見るばかりで、それが果して何んなものであるか、何ういふことであるかを知らなかつた。いろ〳〵な恐ろしいこと、醜いこと、聞くさへ眉の蹙められるやうなこと、さういふことも、ほんの一時の黒雲の影のやうなもので、その耳目から早く〳〵通過して行つた。そしてあとには田舎の平和がいつも残つた。  かれ等の若い者は、婚し、生殖し、生活して、唯年月を経て行くのであつた。かれ等は循環小数のやうに子供から大人になり大人から老人になり老人から墓になつて行くのであつた。春が来て花が咲き、秋が来て紅葉が色附き、冬は平野をめぐる遠い山の雪が美しく日に光つた。 「何うも今年は雨が少くつて、田植にも困つた。一雨来れば好い。」  かれ等は何百年前から繰返した黴の生えたやうな言葉をくり返してのんきに生活した。  勿論、その間にも、家々の浮沈がないでもない。それはかなりにある。ある家では息子が放蕩で田地の半を失つた。ある家では養蚕に成功して身代がその三倍になつた。ある家では次男息子が学問好きで大学まで行つてこの夏学士になつた。かれの知つてゐる、かれと同じに遊んだ貧乏人の息子は、田舎ではどうすることも出来ないので、東京へ出かけて行つて、種々の艱難辛苦を嘗めた挙句、貧民窟近くに金貸の看板をかゝげて、十年間に巨万の財産を造つた。今では東京に大きな邸宅を構へて、大名のやうな生活をしてゐるといふことであつた。  これが世の中の変遷である。しかし、さういふことが、さういふ表面の漣が、どれだけの意味を持つてゐるのであらうか。かうは思ふものの、かれは時々、「それが人生ではないか。それが本当の人生ではないか。自分のやつて来た生と死、恋愛、個人と自由、さういふことは、余り深く自己に執着しすぎたためではないか。」といふやうにも飜つて考へて見た。 「そんなことはない。」  かれはすぐかう打消した。  かれはあらゆる艱難の中をも、巴渦の中をも、恐怖の中をも通つて来た。そしてその中からすぐれた真珠の玉のやうな宝をつかんだと思つた。しかし、つかんだと思つたその珠は、いつの間にかかれの掌中から落ちて行つてゐた。  かれは時には一里ほどある町の方へと出かけて行つた。麦稈帽をかぶつた単衣に絽の古びた羽織を着たかれの姿は、午後の日の暑く照る田圃道を静かに動いて行つた。町は市日で、近在から出た百姓がぞろ〳〵と通つた。種物屋の暖簾は、昔と少しも異らずに、黒い地に白く屋号をぬいて日に照されてゐるのを見た。氷屋の店では、赤い腰巻をした田舎娘が二三人腰をかけて、氷水を匙ですくつて飲んでゐた。  ある店の前を通ると、 「慈海さんぢやないか?」  かうある婆さんがいきなり呼んだ。ちよつとはその誰であるかがわからなかつたが、暫くしてそれは不動堂の前の湯屋をした上さん──その時分は三十位でいきな如才のない上さんであつたといふことがわかつた。「まアお上り……帰つてゐるツて聞いたから、一度逢ひたいとは思つてゐたんだよ。」かう言つてかれは無理に引上げられた。上さんは亭主に四五年前に死なれて、今は息子が家のことを万事やつてゐた。湯屋から町へ出て、今の小間物商を始めたといふことであつた。  話の中には再び昔の不動前の賑かな光景が蜃気楼のやうに浮んで来た。老僧、世話人、三味線、賑かな参詣者、上さんに取つてもその一時代は追憶の最も派手なものであるらしく、それからそれへといろ〳〵なことが浮び出して来た。こつちから訊ねもせぬのに、寺の玄関の三畳の窓へ来た女のことをも上さんは話した。 「あれもな、不仕合せでな。足利に行つてついこの間まで一人でゐたが、今ぢや亭主でも持つたか何うか。」  かう上さんは話した。  其処を出てかれは猶あちこちと町を歩いた。上さんの話で、自分が長い年月種々な経験を体感した間に、この昔馴染の人達がいかに生活してゐたかといふことが漸くわかつて来たやうな気がした。かれは自分の辛い恐ろしいデカダンの生活を思ひながら、町の外れに出来た小さい停車場の方まで行つて見てそこから引返した。 六  かれが来て、最初にやつて来た葬式は、生れて一月しか経たないといふ子供の棺であつた。 「其処へ持つて来て置いたで、ちよつくらお経を読んで呉れなせい。」父親らしい男は庫裡の入口に顔を入れてのんきさうに言つた。  夕暮の色は既に迫つてゐた。  かれは外に出て見た。果して小さい棺が山門と本堂との間の敷石の上に置いてあるのが白くさびしく見えた。  かれは傍に行つた。 「穴は掘つてあるのか?」 「今、掘つてらあ!」  見ると、もう一人の男が墓地の方で頻りに鋤を動かしてゐるのが見えた。 「本堂へ持つて行つたら?」 「さうすべいか。」かう言つたが、「新しい和尚さんだで、餓鬼も浮ばれべい。」  こんなことを言つて、軽々とその棺を持つて、さながら小さな荷物でも運ぶやうにして、本堂の前の木階──それはひどく壊れた木階を上つて、賽銭箱の向うに置いてある棺台の上に置いた。  かれは古い僧衣に袈裟をかけて、草履を穿いて、廊下から本堂の方へと行つた。もう蚊がわん〳〵と音を立ててゐた。歩くとそれがバラ〳〵と顔に当つた。  かれは一本持つて来た蝋燭を取出して、それにマッチをすつて火を点した。本堂の中はもう真暗であつた。蝋燭の火は青くかれの鬚の濃い顔を照した。つゞいて奥に寂然として端座してゐる本尊の如来の像を微かに照した。  流石にかれは経を忘れなかつたが、しかし不思議な気がせずには居られなかつた。かれは読んで行く物の中に自分の遠い過去が再び蘇つて来たのを感じた。始めは静かであつた声は次第に高くなつて行つた。その声の中にはまだけがれない無邪気な心が籠められてあつた。  暫くの間、その読経の声は、荒れたさびしい本堂の中にきこえた。  で、それがすむと、その父親は、そのまゝ小さな棺をかついで、サツサと墓地の方へと行つた。かれは不思議な気がせずには居られなかつた。かれはその姿の夕暮の闇の中に見えなくなるまで見送つた。 「仏は人間のことのすべてを知つてゐる。人間の犯した過去の罪を総て知つてゐる。」かう思ふと、かれは其処に落着いてぢつとして立つてゐられないやうな心の恐怖を感じた。  急いで庫裡へと戻つて来た。 「何故、あの時、あの女はあの子を抱いて井戸に身を投じたであらうか。何故? 何故?」かうかれは心の中に絶叫して、長い間その答を待つたが、竟にその答はやつて来なかつた。自己は自己である。愛した女だとて、自己の総てを占領することは出来ない。それが出来ない為めに死んだとて、恨を他に投げかけて死んだとて、それが誰の責任になるであらう。占領させなかつたこの自己がわるいのか。それとも又それを嘆いて子を抱いて死んだ女がわるいのであらうか。かれは其時は唯、「自己」に取縋つて強ひてその苦痛を処分した。しかしそれで完全にそれが処分され解釈されたであらうか。かれは今でもその溺れた女と子供とが自分に向つてその解釈を求めてゐるのを覚えた。かれはぞつとした。 七  渡船小屋の雁木がずつと川に延びて行つてゐた。そこには船が一隻繋いであつた。人が五人も六人も乗つて、船頭の下りて来るのを待つてゐる。大きな河は伝馬やら帆やら小蒸気やらをその水面に載せてたぷ〳〵として流れてゐる。櫓の声が静かに日中の晴れた水に響いた。  帆が鳥の翼のやうに大きく動いた。  土手の上には、人や車が陸続として通つてゐた。氷店、心太を桶に冷めたさうに冷して売つてゐる店、赤い旗の立つてゐる店、そこにゐる爺の半ば裸体になつた姿、をりをりけたゝましい音を立てて通つて行く自動車、川の向うに見えてゐる大きな煙突から渦まきあがる煤烟、──ふと、「あれ、あれ!」とけたゝましい声が起つた。  其方を振向くと、丁度、今二十位になる女が、派手な着物を着た女が、その渡船小屋の雁木の少し手前のところから水へと飛込んだ処であつた。  水煙がサツと立つた。 「身投げ! 身投!」  かう言ふ声が其処此処から起つた。誰の心も皆なそれに向つて躍つた。  丁度その傍を大きな帆をあげた舟が通つてゐた。舵のところにゐた船頭もそれを見たらしく、急いで此方へとやつて来た。と、手が浮いた。浅黄がかつた着物と帯とが見えた。しかし、船頭の持つた棹はそこに達しなかつた。  その手は、着物は又沈んだ。あとには大きな川のたぷたぷとした滑らかな水面。 「あゝもう沈んだ!」 「救けてやれ、おい船頭!」  暫くすると、 「南無阿弥陀仏──」 「可哀さうだわねえ。」 「まだ若いのに……」  かういふ声がした。誰も見てゐるに忍びないやうな気がした。  土手の上には、白樺色の蝙蝠傘と派手な鼻緒のすがつた下駄と……  かうした光景は其処にも此処にも起つた。広い世間には、かうして自ら殺すものが何人あるかわからない。現に今でも、かうして寂然としてかれが坐つてゐる間にも、さういふ悲劇が何処かで繰返されてゐるかも知れない。何のために、満たされざる心のために、辛い辛い捨てられた心のために、痛い痛い刺戟のために……。  自ら殺さうとしたことの一度ならず二度まであるかれに取つては、さうしたシインが殊に堪へ難い刺戟を与へた。  それは近いことではなかつた。かれに取つてはもう遠い昔だ。しかしをり〳〵その心の光景が描き出された。二つにわけられた心と二つに突詰めた心と、この心は実は一つである。わけられる心も突詰める心も同じ心である。その区別は唯境遇に由るのである。その時の存在の形によるのである。一と一とぴたりと合つたものは幸福である。一と二と合つたものは不幸である。しかし幸福と言ひ、不幸と言つても、それは共に外形であつて、もう少し深く考へると、幸福なもの必ずしも幸福でなく、不幸なもの必ずしも不幸でない。何の故に? 一つと一つと合つたものも矢張もとは二つのもので、永久に一つであることは出来ないが故に──。一つと二つと合つたものも、遂には一に帰さなければならないが故に──。  自己の持つたものを失ふの辛さ、自己の持ち得たと思つたものを失ふの辛さ、これほど辛いものはない。それがよく女や男を川へと伴れて行く……。  かれは其処まで考へて、大きな溜息を吐いた。そこに大きな欠陥があるやうな気がした。染まるべからざるものに染つて行く可能性を賦与した自然は? 絶対に自己のものにする事の出来ないものを自己のものとなし得る可能性を賦与した自然は? 満されたる心の飽満から生ずる倦怠、餓やされたる心の寂寥から起つて来る憧憬、これは実は一つであるのではないか。同じことではないか。  しかし満されざる心と餓やされたる心とは同じでない。飽満と寂蓼とは同じでない。倦怠と憧憬とは同じでない。それでゐてこれが同じであると言はなければならなくなるのは何の故であらう。死にまで深く染着した心は美しくはないか、勇ましくはないか、雄々しくはないか、また優しく悲しくはないか。これが人間の最後の「詩」であり且つ「宗教」ではないか。  文明は虚偽を生んだ。デカダンを生んだ。勝者の権利を生んだ。「自己」を生んだ。現にかれなどはそれを真向に振翳してこれまでの人生を渡つて来た。智慧を戦はして勝たんことを欲した。自己の欲するまゝにあらゆるものを得んことを欲した。そのために、かれには富んだもの栄えたもの主権を把持したものがその対象となつた。山も丘も平野も一緒に平らにならなければならないと思つた。  しかし平等は物質にあるのではない。人生と人性との表面にあるのではない。勝利者にあるのではない。智慧と手段とを戦はして勝つたところにあるのではない。かう考へると、「恐ろしい群」の人達のことが、再びかれの胸に迫つて来た。折角さぐり出した秘密の糸がそこでぽツつり絶えてゐるのを感じた。 「あゝ、もうよさう、考へるのは止さう。もつと静かに休まなければならない体だ。何事をも捨てたやうに、この簇つて来る千万の考慮をも捨てよう……」かう思つて、かれは庫裡の一間から出て来た。  いつもゐるところに婆さんがゐない。道具と言つては唯これ一つしかないと言つても好い長火鉢、その上には鉄瓶がかゝつて、しかも沸え立つてプウ〳〵白い湯気を立ててゐた。  かれはそれに水を足した。  そしてそこにあつた下駄をつツかけて戸外に出た。  広々として美しく日にかゞやいた野がその前に展けた。夏のさかりの大地から湧き上る暑気は、草にも木にも一面に漲りわたつて、キラ〳〵とかれの眼と体とに反射して来た。  畠には笠をかぶつて百姓が頻りに草を取つてゐた。  ふと昨夜世話人がやつて来ていろ〳〵に言つた寺の経営の話がかれの頭にのぼつて来た。「兎に角、昔から由緒のある寺だから、この儘かうして置くのは残念だ。何うか、貴方が来たのを機会に、昔のやうには行かなくとも、本堂も修繕し、庫裡ももう少し住み好いやうにし、寺としても余り人に馬鹿にされない寺にしたい。……中興の祖には、貴方より他になつて下さるものはないんだから。」かう言つて、重立つた世話人は、寺の財産や、無住にして置いた間に出来た金や、乃至はその中から先住の借金を埋めた話などをした。かれはそれに対して深く心を留めてはゐなかつた。「段々さういふことにして……まア、さう急がなくつても好う御座んすから。」かうかれは静かに言つた。  かれの足は行くともなく墓地の方へと行つた。それもそこに行かうと言ふ意志がかれを其処に伴れて行つたのではなかつた。かれは唯ぶら〳〵と歩いて其方へと行つた。  墓地は昔と比べては頗る明るくなつてゐるのをかれは見た。それも先住がその後の杉森を伐つた為めであつた。女に対する愛欲の結果がかうした形に影響するといふことも、彼には不思議なやうな気がした。つゞいて先住と自分との生活がちよつと比べて考へられ、二人が嘗ては此処で同じ飯を食ひ、同じことを考へ、或は同じ寺の娘を恋したかも知れなかつたことがつゞいて頭に上つて来た。偶然──偶然。「本当に、偶然の二字でこれを解釈して了つて好いのであらうか。」  かれの今までの経験は、何も彼もその「偶然」で解釈された。考へて不思議の境に至ると、「これも偶然の事実だ。」と考へて、そして片を附けた。時には内心に不満足を感じ、余りに疑惑の伴はない薄い心を感じたこともないではなかつたけれど、それ以外に、その「偶然」以外に何う解釈して好いかわからないので、有耶無耶の中にその不思議な心理を抑塞した。  それに、その「偶然」と考へる処に、あらゆるものを「無意味」にして了ふところに、一種微妙な科学の権威があつた。また肯定された科学の不思議があつた。敢て深く入つて行かないところに、勇ましい男らしさと誤りのない精確さとがあつた。知らないものは知らないものとしてこれから研究しよう、報告しよう、知らないものを知り得ると考へるやうな危険な直覚は成るたけ避けよう。かう考へたところに、「偶然」の価値があるのであつた。しかしかれがこれに不満足を感じ出したのはもう余程前のことである。女と子供の溺死体を見た以来のことである。……突然かれの心は内から外に向つた。墓があらはれて来たのであつた。  要垣の緑葉に囲れた墓があるかと思ふと、深い苔蘚に封じられた墓が現はれて来た。新しい墓もあれば、古い墓もある。或は五輪塔型、或は多宝塔型、其他いろ〳〵な型がある。或は倒れてゐるのもあれば、長い間の風雨を平気で凌いで来たらしいのもある。中にはその墓石の表面に仏像が刻まれてあるものなどもあつた。かれは立留つて一つ一つその墓を撫でて行きたいやうな気がした。  かれは茫然として立尽した。  このかれの立つてゐる向うに、深い深い草藪があつて、その中に黒い暗い何年にも人の入つて来たことのない古池が湛へられてあつた。そこには雲の影も映らなければ、日影も滅多にはさして来ない。しかも人知れず埋れたその池の中にも、生物は絶えずその生と滅とを続けてゐるのであつた。夜は蛙の鳴く声が喧しくそこからきこえた。 八  新しい住職の世話をするために来た婆さんは、始めの一人は十日ほども経たない中に、世話人の許に行つた。 「国から急病人があると言つて来たもんですから。」  かう言つて、二三日の暇を貰つて行つたが、日限が来ても、その婆は竟に帰つて来なかつた。二人目も五六日で暇を乞ひに世話人の許にやつて来た。  三人目、四人目……。  世話人は訊いた。 「何うして、さうだらう。何か和尚がいやなことでもするのかな?」 「いゝえ。」  別にさうしたことがあるのでもないらしかつた。ある婆さんは言つた。「でもな、ひとりぢや淋しいだ。和尚さん、何も言はないで、一日自分の室に引籠んでゐて、話もしねえから……」 「出て来ねえか。」 「出て来ねえどころか、飯に呼んでも、それがすむと、すぐ居間に入つて行つて了ふだでな。」 「本でも読んでるのか?」 「いや、本なんか一冊もねえ。」 「ぢや、物でも書くのか?」 「書きもしねえ。」 「それぢや唯ごろ〳〵してゐるのか?」 「唯、一日中ちやんと、机に向つて坐つてゐるだ。」  かう言つて、その婆さんは、比較的詳しくかれの平生の状態を世話人達に話した。葬式が来ると、古びた僧衣を引かけて、黙つて本堂に行つて、いつものやうにお経を読んで、それがすむと、そのまゝ元のやうにその居間へ行つて坐つた。 「朝のおつとめは?」 「朝のおつとめなんかしねえ。」 「ぢや、葬式の時きり、お経はよまねえんだな?」 「さうだな、まア、よまねえつて言ふ方が好いだんべいな。それでも、此間、雨のふるさびしい日に、何うした拍子か、大方和尚さんも淋しかつたんだんべい。本堂でお経を上げてゐる音がするから、不思議に思つてそツと行つて見ると、本尊様の前で、一生懸命にお経を読んでゐるだ。それもいつもの葬式の時などに読むやうな小さな声ぢやねえだ。大きな声で、後に私が行つて見てゐるなどは夢にも知らねえで、一生懸命に読んで御座らつしやる。……不思議な気がしたにも何にも……」 「淋しいんだな、矢張……」 「淋しかんべいよ。」  世話人達は、これでは駄目だと思つた。折角、寺の復活を考へて伴れて来たが、これでは駄目だ……。しかし、一人あゝして放つて置くといふことが間違つてゐるのである。何処の寺でも、今では女房子を持たないものはない。和尚にも一人相応なのがあつたら、持たせるに限る……。かう世話人達は寄り合つて相談した。  しかし、あの寺に、あの廃寺に、本堂に雨が洩り、庇が落ちてゐるやうな寺に、誰が女房になりに来るものがあるであらうか。「とても来手はねえな。すたり者のねえツていふ女つ子だ。誰が物好きにあんな寺に行つてさびしい思ひをするものがあるもんか。」かうそこから出て来た婆さんは笑ひながら言つた。  世話人は猶いろ〳〵なことを婆さんから聞いた。誰もたづねてくるものはないか。郵便は来ないか。又誰か訪ねて和尚は行きはしないか。──その答はすべて No ! であつた。  ある日、世話人は二人して出かけた。一人はかれを都から此処に伴れて来たものであつた。かれ等は庫裡から入つて行つた。婆さんに出て行かれたかれは、ひとりぽつねんとして庫裡にゐた。かれはひとりで土鍋に飯を炊いて食つてゐた。 「何うも世話をするものがなくつてお困りでせう?」  かう一人が言ふと、 「いや──」 「何うも矢張、お寺はさびしいと見えて、落附いてゐるものがなくつて困りましたな。」 「いや──」 「さぞ御不自由でせうな。」 「いや、別に……」  鬚の深く生えたのを剃らうともせずに、青白い肌膚の色をその中から見せて、さびしげにかれは笑つた。  世話人達が齎して来た話を聞いた時には、かれは何等の答をも与へなかつた。  かれは唯笑つた。それも快活に笑つたのではなく、にやにやと笑つたのでもなく、反抗的に冷かに笑つたのでもなく──唯、笑つた。  暫くしてかれは言つた。 「まア、暫く、かうやつて、落附かせて置いて下さい。……イヤ、世話するものなぞはなくつても好う御座んすから。」 「でも、相応なのがあつたら、一人お貰ひになる方が好う御座いませう。貴方だつてまだお若いんだから。」 「まア、その話は、もう少し先に寄つてからにして戴きませう。」  それより他に何も言はないので、世話人達は止むを得ずに引返した。  世話をする婆さんももうやつて来なかつた。かれは一人でその廃寺の中に埋れたやうにして住んだ。  小さな土鍋、一つの茶碗に一つの味噌椀、皿はところどころ欠けたのが二三枚あつた。腹が減ると、かれは立つて行つて、七輪に火を起した。  時には以前の生活がかれの心に蘇つて来た。新しい思想のチャンピオンであり、「恐ろしい群」の第一人者であり、デカダンの徒の一人であつたかれが、かうして田舎の廃寺の中にひとり生活してゐるといふことが不思議に思はれた。広い世間にも、かれ程有為転変の生活を送つたものはないであらう。また明るい影と暗い影と互に縺れ合つた生活をしたものはないであらう。罪悪と慈善との一緒になつた生活をしたものはないであらう。彼の心は時には一人の孤児の為め、一人の飢ゑた者のために振ひ立つた。また或時は欲求した染着した心の虜となつて、美しいものすぐれたものに向つてその魂を浪費した。かれは本当なもの真剣なものの探検者であつた。本当のものを求めるためにかれは水火の中に入ることをも辞さなかつた。虎穴に向つて突進して行くことをも辞さなかつた。ふとかれは考へた。「かうした今の生活も矢張その探検者の心ではないか。虎穴に向つて突進して行くものの心ではないか。」  さうだ、それに相違ない。昔は、聖者はあらゆる苦行を行した。一生を苦行の中に終つた人達もあつた。婆羅門の徒の苦行──そこまで考へて行つてかれは思つた。自分のこれまでの生活は、あらゆる苦行ではなかつたか。あらゆる忍苦ではなかつたか。放蕩もまた苦行、残忍無残もまた苦行、デカダンもまた苦行、「恐ろしい群」もまた苦行、歓楽もまた苦行ではなかつたか。美しい女の肌に触れ、美酒にあくがれ、音楽に心を蕩かしたのも亦苦行ではなかつたか。  山海の珍味を尽し、美を尽し、善を尽し、出るに自動車あり、居るに明眸皓歯あり、面白い書籍あり、心を蕩かす賭博あり、飽食し、暖衣し、富貴あり、名誉あり、一の他の不満不平あるなくして、それでも猶ほ魂に満されざる声を聞くのは何の故か。かうしたことも亦苦行の一つであるからではないか。  ふとある光景がかれの眼の前に起つた。それは恐ろしい光景であつた。弱きものの虐げられ、滅さるゝ光景であつた。数本の足──或は毛深い、或は青白い、或は滑らかな数本の足がだらりと空間に下つて見られた。かれは思はず手を合せて、口に経文を唱へた。  次第に幼い頃の空気がかれの心の周囲に集り且つ醸されて来るのを覚えた。最早始めに来た時に感じたやうな「孤独」と「寂寥」とをかれは感じなかつた。また華やかな面白い「世間」に向つて引戻さるゝやうな心をも感じなかつた。  飢ゑを覚えた時に、かれは始めて立つて、七輪の下を煽いだ。また、世話人の持つて来て置いて行つて呉れた四角の小櫃の中の米をさがした。  夕暮になると、夥しい蚊が軒に蚊柱を立てた。室の中を歩いても、それがバラ〳〵と顔に当るほどである。かれは思つた。「これも自分と同じ生物だ。飢ゑたがために食を求めてゐるものの声である。でなければ、生殖のために、不可解の生命の連続のために盲目の恋をしてゐるものの声である。生命のために冒険をしてゐるものの声である。『恐ろしい群』の人達のあげた悲鳴と同じ悲鳴を挙げるものの声である。」  かれは思ひつゞけた。 「しかし、この冒険のためには、盲目の恋のためには、食を求めるためには、生死を問題にしては居られない。従つて、かれ等に取つて、生死はその運不運であり幸不幸であるのは勿論である。しかし、更に一歩を進めて考へて見る。運不運ではあり、幸不幸ではあるけれども、それ以上に生の力が、盲目の生の力が肯定されてゐるではないか。生死を問題にしてはゐられない境があるではないか。扞格した力の上に起つて来る悲劇は、これは何うも致し方がない。」  かれは苦行といふことについて、三日も四日も考へた。「苦行は僧や婆羅門の徒の行するものばかりではない。人間はすべてこれを行してゐるではないか。意識せると、意識せざるとの区別はある。蚊の食を求めるのもまた是れ行、盲目の恋をするのも亦これ行、生死も亦是れ行ではないか。」  かうしてゐる中にも、時は経つて行つた。ある夜は凄じい風雨がやつて来た。本堂ばかりではない、自分の居間にも雨が盛に洩つた。  かれは裸蝋燭に火をつけて、それを持つて立上つた。あまりに凄じい音に起されて、その光景を見ようとかれは思つたのである。  破れた雨戸から雨が礫のやうに降込んで来た。従つて何処も濡れてゐないところはなかつた。廊下に出ようとすると、風が凄じく吹いて来て、手に持つた蝋燭は危くそのために消されようとした。  かれは袖でそれを蔽つた。  廊下には裏の林の木の葉が雨に濡れて散り込んで来てゐる。銀箭のやうな雨脚が烈しく庭に落ちて来てゐるのが、それと蝋燭の光に見える。裏の林は鳴つて、枝と枝との触れる音、葉と葉とのすれる音が一つにかたまつて轟と言ふ音を立てた。空は墨を流したやうに暗かつた。  ともすると風に吹き消されさうになる裸蝋燭を袖で護りながら、一歩々々長い廊下を歩いて行くかれの蒼白い鬚の深い顔が見えた。それは丁度罪悪の暗い闇夜に辛うじて仏の慈悲の光を保つてゐるやうに、又は恐ろしい心の所有者が闇の中に怖れ戦いてゐるかのやうに……。  廊下の途中で、かれはまた凄じい風雨の吹き込んで来るのに逢つて、立留つて、その蝋燭の火を保護した。  轟といふ音、ザアと降る音、それがあとからあとへと続いてやつて来た。樹の鳴る音、枝の撓む音、葉の触れ合ふ音、あらゆる世の中の雑音、悲しいとか佗しいとか辛いとか恨めしいとかいふ音が一斉に其処に集つてやつて来たやうにかれは感じた。  かれは漸く長い廊下を通り越して、本堂へ入つて行く扉の前に行つて、静かにそれを明けた。  闇にもそれと見える屋根や庇の壊れたところから、車軸のやうに雨は落ちて来てゐた。堂の板敷はすべて水で満たされてあつて、それに、かれの手にした蝋燭が微かに照つた。  この風雨の凄じい音の中に、この洪水のやうになつた大破した堂宇の中に、本尊の如来仏は寂然として手を合せて立つてゐられるのである。かれは自分の体が、魂が、又は罪悪が、欲望がすつかり仏に向つて靡いて行くのを感じた。かれはこの世では見ることも味ふことも出来ない光景に出逢つたやうな気がした。かれの口からは思はず仏を念ずるの声が出た。  贖罪──神の贖罪、仏の贖罪と言ふことが、漲るやうに、今迄つひぞ感じたことのないほどの強さを以てかれの総身に迫つて来た。かれはそのまゝ手にした蝋燭を燭台の上に立てて、そのまゝ仏の前に来て坐つた。  一しきり読経の声が風雨の吹き荒るゝ中に聞えた。 九  新しい覚醒が来た。  恐怖を感じ、寂寞を感じ、孤独を感じ、倦怠を感じた時にのみ仏の前に行つて手を合せたかれは、今では自ら進んでその本堂の本尊の前に行くやうになつた。最早かれの読経はかれのための読経ではなかつた。また仏に向つて合掌するかれの手は、かれのための合掌礼拝ではなかつた。新しい力はかれの魂を蘇らせた。かれはかれの後半生を仏の功徳を讃するために用ゐることを悔いなかつた。  不思議の心理ではないか。また不思議な顛倒ではないか。かれは今まで消極的であつた自己を最早何処にも見出すことが出来なかつた。かれを苦しめたあらゆる幻影、恐ろしい溺死の光景、恨を含んだ心の形のあらはれた光景、絞首の刑に逢つた「恐ろしい群」の人達の光景、さういふ無限のシインは最早かれを脅かすことはなかつた。新しい力は満ちた。  貧、苦、乏、病に満ちた世界である。それは皆な我に着いたために起つて来たあらゆる光景である。ある国はある国と争つて、無辜の血を流してゐる。ある人間はある人間と争つて、互に虚偽の勝敗を争つてゐる。デカダンはデカダンと相食んでゐる。悪と悪とは互にその牙を磨いてゐる。それは皆な我に着した処から起つて来る。現に自分すらその染着を捨てることが出来なかつた。捨てることの出来ないがために、かれは「幻影」に脅かされた。この「幻影」──あらゆる世間の人達を絶えず苦しめるこの「幻影」のために、仏の前に手を合せなければならないと思つた。  ある日は殆ど一日本尊の前に行つて読経した。世話人がやつて来て、用事を話さうとしても、かれは竟に其処から立上らうともしなかつた。世話人は仕方がないので、一度帰つてそして又やつて来た。矢張かれは読経を続けてゐた。  寂然として端坐してゐる如来像、それはもう昔の単なる如来像ではなかつた。ある時ある人の手で鋳られたブロンズの仏像では猶更なかつた。かれは其の端麗な顔に、人間の慈愛を発見し、その威厳を保つた表情に人性の根本に横つた金剛の相を発見した。そしてまたその寂滅の姿には、着したものを拭ひ去つたあとの不動不壊の相の名残なくあらはれてゐるのを発見した。今まで広い空間に孤独を歎き、一人を歎き、自然の無関心を慨いた自己は、杳かに遠い過去に没し去つた。今はその如来の像はかれに向つて話し懸けた。又かれに向つて微妙不可思議の心理を示した。  仏の前に端坐読経してゐる時ばかりではなかつた。日常の坐臥進退にも、その本尊は常にかれと倶にあつた。かれと倶に笑つた。かれと供に語つた。古い長火鉢の前に坐つた時にも、七輪の下を煽いでゐる時にも、暗い夜の闇の中に坐つてゐる時にも、をり〳〵飆風のやうに襲つて来る過去の幻影の混乱した中にも……。  かれの姿はをり〳〵寺の境内の中に見えた。幾日も頬に剃刀を当てたことがないので、鬚は深く顔を蔽つた。誰が見ても、かれが此処にやつて来た時の姿を発見することが出来なかつた。かれは夥しく変つた。  かれの立つてゐる垣の傍には、紅白の木槿の花が秋の静かな澄んだ空気を彩つて咲いてゐた。 十 「何うかしたな。気がふれたぢやないかな。」  かう世話人は言つた。 「あゝして一人でゐるんだから、それも無理はないな。困つたもんだな。此頃は丸で此方の言ふことなどは取り合はないつて言ふ風だからな。」  かう言つて、ある人は首を傾けた。種々な人々が種々のことを言つた。  米をきまつて運んで行く一人は、「此間なんか、つい自分の忙しいのにかまけて、二三日米を持つて行くのを忘れてゐて、あわてて持つて行くと、もう櫃には米は一粒も残つてゐない。あの和尚め、一日二日米を食はずにゐたと見える。」 「それで何とも言つて来ないのか。無けりや、乾干になつても食はずにゐるのか。何うしても変だな、不思議だな。」考へて、「此頃は前よりも一層何も言はなくなつて了つた。前には寺のことなどいろ〳〵心配したり何かしたが、此頃では、もうそんなことは少しも言はない。唯、黙つて聞いてゐる。困つたものだな。」  寺の近くに住んでゐるある百姓の嚊は言つた。 「すつかり変つて了つた。もう元のやうな姿はなくなつた。そして、いつでもお経べい読んで御座らつしやる。此間、本堂の前で出会したから、お辞儀をしたが、黙つて莞爾と笑はしやつた。えらく痩せなすつたな。」  それでゐて、葬式が行くと、どんな貧乏なものでも、乃至は富豪でも、同じやうな古い僧衣を着て、袈裟をかけて、そして長い長い経を誦した。そしてその声も始めに比べて、次第にその声量を増し、威厳を増し、熱意を増して来るのを誰も認めた。淋しい大破した本堂の中に漲り渡る寂滅の気分は、女や子供、乃至は真面目に考へる人達の心を動かさずには置かなかつた。他の寺の僧達の誦した読経ではとても味ふことの出来ない微妙な深遠な感じに人々は撲たれた。  さま〴〵の評判の中に、秋は去り、冬は来た。木の葉は疎々として落ち、打渡した稲は黄く熟した。ある朝は霜は白く本堂の瓦の上に置いた。村の人達は段々朝毎の寺の読経の声に眠をさまされるやうになつた。 十一 「浄乞食──浄乞食。」  口の中にかう言つて、かれは僧衣の上に袈裟をかけて、何年ともなく押入の中に空しく転つてゐた鉄鉢を手にして、そして出かけた。  かれは藁草履をつツかけて穿いた。かれは寺を出て、一番先に、近所にある貧しい長屋の人達の門に立つた。  破れた笠の中からは、かれの熱した眼が光つた。 「オ、オ、オー、オー。」  と言つて鈴を鳴した。  ある老婆が、最初に五厘銭を一つその鉢の中に入れた。  かれに取つては、それは最初のまことの喜捨であつた。かれは老婆の冥福を祈つて長い間読経した。 「乞食坊主、乞食坊主──」  あるところでは、大勢の子供達がかれの周囲を取巻いた。  かれはをり〳〵路の真中に立留つて読経した。  家から家へとかれは行つた。ある家では、 「まア、お寺の和尚ぢやないか。托鉢に出なすつたがな。世話人たちは何うしたんぢやな、米も持つて行つて置かないと見えるぢやな、もつたいない。」などと言つて、袋に入れた米を渡した。  かれの眼には、到るところでいろ〳〵な光景が映つた。収穫の忙しい庭、唐箕のぐる〳〵廻つてゐる家、あるところでは、若い女が白い新しい手拭で頭を包んで、せつせと稲を扱いてゐた。誰も彼も世のしわざにいそしんでゐた。しかし、この穏かな平和な田舎も、それは外形だけで、争闘、瞋恚、嫉妬、執着は至る処にあるのであつた。道ならぬ恋の罪悪、乾くことなき我慾の罪悪、他を陥れなければ止まない猜疑心、泥土に蹂躙せられた慈悲、深く染着しつつもその染着をわるいと思はない心、さういふ光景は一々かれの眼に映つて見えた。  ある大きな家では、かれは長い間立つて読経した。 「出ないと言ふのに、うるさい坊主だな!」  かういふ主婦の尖つた声がした。 「やれよ、やれよ、一文やれよ、うるせい坊主だ。」  かういふ主人らしい男の声が奥からきこえた。  やがて五厘銭は投入れられた。  しかしかれは読経の声をやめなかつた。また容易にそこを立去ることをしなかつた。静かにかれは読経をつゞけた。  かれ自身にもそれはわからなかつた。何ういふ理由で、その家の前で、さうして長く立留つて読経しなければならないかと言ふことが解らなかつた。不思議の奇蹟がかれの心の周囲をめぐつた。  幼時に習つた経文に書いてあつた奇蹟、そんなことがあるわけがないと思つたやうな奇蹟、それが今不可思議の事実としてかれの前にあらはれて来た。古来存在した幾万億の仏達、菩薩達の行が、言葉がかれの心に蘇つて来た。  かれの姿はあちこちに見えた。時には寒い碧い色をした小さな沼の畔の路に見えた。時には川添の松原のさびしい中に見えた。かと思ふと、ある小さな町の夕日を受けた家並の角に見えた。  寒い西風の吹き荒るゝ路を静かに歩いて通つてゐたりした。  かれは日毎に出懸けては、家々の軒に立つた。  辛い悲しい生活をかれは其処此処で見かけた。しかしさうした生活以上に我々人間の大切なことがあるのを誰も知らない。人々はそれを知らないがために苦しんでゐる。慨いてゐる。その無智な、無辜の人達のために、殊にかれは手を仏に合せなければならないことを思つた。  ある寒い夕暮に、かれは自分の居間で黙つて坐つてゐた。かれの衣は薄く且つ汚れてゐた。破れたところをかれは自分で処々繕つて着た。 「御免なさい。」  かういふ声がした。  しかしそれはやさしい声だ。若々しい女の声だ。この頃では、世話人ももう滅多にはやつて来なかつた。かれ等は自分の勝手に托鉢に出たかれの行為を不快に思つた。「ああいふものに構つてゐては仕方がない。」かうある者は思ひ、ある者は、「余りに勝手だ。何うかしたに違ひない。」と思つた。寺には人はつひぞやつて来なかつた。 「御免なさい。和尚さん、お留守ですか。」  かれは顔を其処に出した。見たこともない二十三四の若い女がそこに来て立つてゐた。 「何か? 用?」  女は顔を赧めたが、抱へて来た包の中から、一枚の綿入を出した。新しくはないが、綺魔に洗ひ、縫ひ畳んだ綿入を……。 「失礼ですけれども、これを和尚さんにさし上げたいと思ひまして……。私が心がけて、この間から洗つたり縫つたりしたものです。何うか、私の些かばかりの志だけを納めて下さいませ。」  かう言つた女はまた顔を赧めた。かれは深く心を動かされずには居られなかつた。かれは凝と女を見詰めた。 「志ばかりで御座いますから、何うか……」 「これは難有いお志だ。」  かう言つたきりで、かれの眼から涙がにじみ出さうとした。  しかしかれは何も言はなかつた。黙つて礼拝合掌した。 十二 「ヤア、また、あの乞食坊主が何かしてらあ……」  かう言つて人達は其方の方へと走つて行つた。それは町の角である。長い町を通つてこれから寒い風の吹く野に出ようとする角である。通りかゝつた荷車や人足や女子供などが一杯に其処に立留つた。  深い鬚の中に明るく眼をかゞやかし、破れた僧衣に古い袈裟をかけ、手に数珠を持つたかれの前には、二十八九になる一目見て此処等に大勢ゐる茶屋女だとわかる女が、眼に涙を一杯に溜めて、そして矢張手を合せて立つてゐた。 「坊主、女でもだましたかな!」  かうした悪声を放つた人達も、そこに来て、その状態を見ては、思はず不思議な思ひに撲たれた。  女は合掌して涙を流してゐる。そしてその前にゐる一人の乞食坊主──汚い坊主が神か仏でもあるやうに、それに向つて随喜渇仰してゐる。  かれは唯黙つて読経した。  かれは五六日前に、その女の抱へられてゐる小さな料理屋の門に立つた。それは夕暮で、これから忙しくならうとする頃であつた。奥には、もう客が二組も三組も来てゐた。そこの上さんは、面倒だと思つたかのやうに、一銭をその鉄鉢の中に入れてやつた。しかしかれは容易にその読経と祈念とをやめなかつた。かれの心がこの門に引かれたと同じやうに、かれの読経の声に心も魂も帰依せずにはゐられないやうな女が其処に一人ゐたのであつた。それはかの女であつた。男に対する苦痛と罪悪とに日夜虐まれ通しで生きて来たかの女であつた。かの女はその重荷に堪へかねた。  かの女は店から外に出て来て、かれの前に跪いて合掌した。  その話を聞いた時には、そこに集つた人達は皆な不思議な思ひに打たれた。  トボ〳〵と野に向つて行くかれのさびしい姿を人々は見送つた。 「本当かな!」 「本当ですともな……。あの和尚さんは、普通の和尚さんではない。あゝして托鉢して歩いてゐるけれども、苦しい辛い罪悪がある家の前に行くと、きつと立留つて長くお経を読んでゐる。きつとそれが中る。そのお経の声がぢつとその人の胸にこたへる。現に、私なんかも、その一人で御座います。私は心中をしました。男が死んで自分が生き残つたのです。その時は別に何とも思ひませんでした。好いことをしたとも思ひませんが、生命があつて好かつたと思ひました。しかしそれが何んなにその後私を苦しめましたか。私は行く先々で、きまつて男から心中を誘はれました、男がそのために生命を失つたものは一人ではありません。そしてその度毎に、私はいつも生残つて来るのでした……。あゝ、もうしかし、生きた仏に逢つて、この苦悩を救はれました」。かう言つて女は手を合せて数珠を繰つた。 「あの和尚さんは仰しやつた。一度心中しそこなつたものは永久に心中のしそこなひをするものだ。姉を姦したものは、又必ずその妹を姦するものだとかう仰しやいました。あの和尚さんは私の苦しみを救つて下すつた。仏に向つて手を合せるやうにして下すつた。生みの親の恩よりももつと深い。」かう女は群集に向つて言つた。  不思議な思ひに満たされた群集の上に、薄暮の色は蒼く暗く押寄せて来た。 十三  不思議な乞食坊主の話は、時の間にそれからそれへと伝へられて行つた。ある者は否定した。ある者は肯定した。  否定したものは、「今の世に、そんなことがあつて堪るものか。それは丁度その女がさうした苦痛を持つてゐたからだ。自分の影だ。自分の影を見て驚いたに過ぎない。」 と言つて笑つた。 「そんなことを言つて、良民を迷はすものは、捨てて置かれない。第一、人の門に立つて乞食をするさへ邪魔なのに、その家の内部まで見透かしたやうなことを言ひふらすのはけしからん……。警察で取りしまつて貰はなければならん。」  かう敦圉いて言ふものなどもあつた。慈海の生立を知つてゐるものは、「あの坊主、二十年振りで国に帰つて来たが、その間には何をやつて来たかわかりやしない。風説によると、何処にも行きどころがなくなつて、それであの寺に入り込んだつていふ事だ。油断がなりやしない。現に、ちよつと見てもわかる。薄気味のわるい眼をしてゐるぢやないか。」などと言つた。しかし中にはかれの不断の読経やら、寺に来てからの行状やらから押して、普通の僧侶──其処等にざらにある嚊を持ち、被布を着、稼穡のことにのみ没頭してゐる僧侶とは違つてゐるのに眼を留めるものなどもあつた。ある大きな青縞商の主人はその一人で、その家の門に慈海の立つた時には、いくらか尊敬の念を以つて、その姿と行動を凝視した。成ほど世間の評判のやうに、その読経の声に深く人の魂を引附けずに置かないやうに深遠微妙の調子を持つてゐるのをかれは見た。 「兎に角、普通の僧侶とは違つてゐる。」  かうかれは人々に話した。不思議な乞食坊主の話は、次第に村から町、町から野へとひろがつて行つた。  ある日、また一場の話が伝つた。それは町の外れに住んでゐる鋤や鎌や鍬などをつくる鍛冶屋の店での出来事であつた。鍛冶屋の亭主は巌乗な五十男で、これまでつひぞ寺にお詣りしたことなどはない男であつたが、その坊主が来て門に立つて読経してゐると、忽ち深い感動に心を動かされたらしく、仕事をしてゐた金挺の手を留めて、いきなりその前に行つて、随喜合掌した。  それを見てゐた弟子や嚊は吃驚してそれを人々に話した。  鍛冶屋の亭主は、聞く人がある度毎に言つた。 「俺にもわからない。しかし、俺ア、あのお経を聞いて手を合はせずには居られなくなつた。実際、俺ア、何も知らずに来た。わるいこともわるいと思はずにこれまでやつて来た。女も何人泣かせたかわかりやしねえ。弟子共にも薄情の真似をした。親には殊に不孝をした……。泣いても悔んでも足りねえやうな不孝をした。不思議だ。金挺を持ちながら、あのお経を聞くと、急にそれが堪らなくなつて、自分で自分を忘れて、そして飛び出して行つた。えらい和尚さまだ。生仏だ。この恩は忘れられない。これからは俺は善人だ。」  かう言つて涙を流した。  これに限らず、さうした不思議の話は、その近所の町と村とを中心にして波動のやうにして伝つて行つた。ある時はひそかに嫂に通じてゐた小商人の店にあらはれて、それをして悔い改めさせた。ある時は長い間人知れず自ら咎めてゐた殺人の罪を持つた男をしてその胸を開かしめた。父親の子を生んだ娘は泣いてその汚れた袈裟に縋つた。  その冬から春にかけては、何処に行つてもその噂が繰返された。「そんなことがあるものか。」と言つて否定した人達も、後にはそれを信じない訳に行かなかつた。  ある時には、その不思議を知りたいと言ふので、その町の唯一の大学生──心理学研究の大学生が、正月の休暇に帰省してゐるのを好い機会に、ある人達と共に慈海のゐる寺へと出かけて行つた。  荒廃した寺のさまが先づかれを驚かした。山門は半ば倒れかけてゐた。本堂は本堂で、庇は落ち、屋根は崩れ、草が一杯にそこらに生えてゐた。  つゞいて大学生を驚かしたのは、畳の真黒になつた中に、ひとりぽつねんとして坐つてゐる僧の姿であつた。しかもそれは普通の僧侶のやうに頭も剃つて居なければ、僧衣も着てゐなかつた。普通のやうにして慈海は話した。  大学生は一時間ほど其処にゐた。  別に話といふほどの話はなかつたが、その態度の片鱗にも、容易に知ることの出来ない心理が深くかくされてあるのをかれは感ぜずには居られなかつた。その僧は新しい科学の話をも深い洞察と自信とを以てかれに話した。  大学生は帰つて来てから言つた。「さうですな。すつかり感心させられて了ひました。とても、私達にはあの境はまだわからない。普通の催眠術などと言ふものよりはもつとぐつと奥ですな。」 「矢張、不思議ですな。」  かう人々は言つて眼を睜つた。 十四  世間の罪悪が此頃では愈々深くかれの体に纏り着いて来た。  しかもそれは皆な自己を透して、立派な証券を持つてかれに迫つて来た。かれは愈々仏の前に手を合せなければならないことを感じた。  かれは求めざる処に集り、離るゝところに即き、捨てたところに拾ひ得る心理を深く考へた。  かれは朝早く起きて本尊の前に行つて読経した。  明けの明星の空に寒くかゞやく頃には、かれはいつももう起きてゐた。喜捨された暖かい衣はそこらに沢山にあつたけれど、かれは矢張一枚の衣しか着なかつた。櫃にも米が満ちてゐたけれども、かれは一鉢の飯しか食はなかつた。  寒い朝は続いた。霜は本堂の破れた瓦を白くした。時には雪が七寸も八寸も積る時もあつた。食がなくなつて軒に集つて来る雀にかれは米を撒いてやつた。喜捨の米を、浄い心のあらはれである浄い米を……。人に食を乞ふ身は、生物に食を与へる身であることをかれは考へた。  感極つたやうにしてかれは黙つて合掌した。  雀は、ちゝと鳴きながら、軒から其処に下りて来て、かれの顔を見るやうにして、又は食を与へて呉れるかれの恩を感ずるやうにして、首をかしげながら、小さな嘴で、雪の中に半ば埋れたやうになつてゐる米粒をついばんだ。中には、縁側まで入つて来るものなどもあつた。  今までに味ふことの出来なかつたやうな歓喜がかれの胸に漲り渡つた。 十五  垣に梅が咲き、田の畔に緑の草が萌える頃には、托鉢に出るかれの背後にいつも大勢の信者が集つてついて来た。  驚くべき光景が常にかれの周囲にあつた。鍛冶屋の亭主、青縞屋の主人、苦しみを持つた女、恋にもだえた女、若いのも老いたのも皆なぞろ〳〵とかれの後について、合掌しながら歩いた。  始めの中は、町の警察の人達は、愚民を惑はすといふかどで、頻りにそれを取締つたが、しかもこの不思議な信仰の「あらはれ」を何うすることも出来なかつた。ところどころで、巡査は剣を鳴してやつて来て、その群に解散を命じた。一時は群集はあちこちに散つて行つても、瞬く間にまたあとからぞろ〳〵と続いた。店で仕事をしてゐた女が跣足で飛び出して来てその群の中に雑つた。  ある時は、寺の世話人達が町の警察署に呼ばれて行つた。  世話人は種々なことを訊かれた。しかしその不思議な僧の行為の中には、あやしいやうなことは少しもなかつた。すべて自然であつた。愚民を惑はすための行為らしい行為は何処にも発見することが出来なかつた。  世話人の一人は言つた。 「何うも、私達も困つてをりますのです。実は、寺の再興のために呼んで来たのですが、私達の申すことや、普通の僧侶のしなければならないことや、寺のことは何にもせずに、朝からお経ばかりを読んでゐるのですから……。米を持つて行かなければ行かないで、二日も三日も食はずにゐるやうな坊さんですから……。いゝえ、別に不思議なことをすると言ふのではありません。唯、お経を読んでゐるばかりです。別に説教めいたことは致しません。あゝして托鉢して歩いてゐるばかりです。」  署長も後には首を傾けずには居られなかつた。  かれのあとについて行く群集は、次第にその数を増した。或は町の角、或は停車場の方へ行く路、或は小学校の裏の畑、或は小川に沿つた道、さういふところを大勢の信者達はかれと同じやうにして合掌読経してついて行つた。ある駅からある駅へと通じてる長い街道には、うらゝかな春の日が照つて、かげろふが静かにその群集の上に靡いた。  時には今出たばかりの月が、黒いはつきりした林を背景にして、圏を成して集つてゐる群集と僧とを照した。 十六  この不思議な僧の托鉢の話は、五六里隔つた町に嫁して行つてゐる寺の先々代の娘の許まできこえた。  娘はもう三十六七の上さんであつた。そこは穀物を商ふやうな店で、街道に面した家の前には、馬に糧をやるために、運送の荷車などがよく来てはとまつた。上さんはふすまを馬方の出した大きな桶に入れてやつたりした。  上さんとその亭主の間には子供がなかつた。  亭主は四十五六位の正直な男で、せつせと箕で大豆や小豆に雑つてゐる塵埃を振つてゐるのを人々はよく見かけた。  その村の不思議な僧の話を馬方や町の人達が上さんに話した。  始めはそれが自分の成長した寺での出来事とは知らず、また先代の放埒のために廃寺同様になつてゐる寺にさういふことがあらうとは思はないので、好い加減に聞いてゐたが、その話が度々耳に入るので、ある時、 「何ツて言ふんだね、その寺は?」 「何ツて言つたけな……」馬方は考へて、「さう〳〵長昌院ツて言つたつけ。」 「長昌院?」  上さんは眼を睜つた。  そればかりではなかつた。段々聞くと、その不思議なことをする僧は、かの女の知つてゐる慈海らしいので、いよ〳〵驚愕の念を深くした。 「その和尚、慈海ツて言ひやしねいかえ?」 「何ツて言ふか名は知らねえが、何でも先代の弟弟子だツて言ふこつた。」 「それぢや、慈海さんに違ひない。何時から来たんだ?」 「何でも去年あたりだんべ。丸つきりお経べい読んでゐるツていこつた。」 「へえ?」  上さんの心は動かずには居られなかつた。東京に行つてからの慈海の噂も始めは少しきいてゐたので、さうした和尚になるとはちよつと想像が出来なかつたが、段々聞糺して見ると、てつきりそれは慈海であるに相違ないことが段々わかつた。  上さんは不思議にもぢつとしては居られなかつた。ある深い渇仰に似た念が溢れるやうに漲つて来た。それは昔の慈海に逢ひたいといふ心持ではなかつた。単になつかしいといふやうな心持でもなかつた。長年抱いてゐた重荷を下ろして救つて貰はなければならないやうな気がした。  店が忙しいために、その願ひも遂げられずに幾日か経つたが、其間にも片時もそれを忘れることは出来なかつた。上さんは願をかけて仏にお礼参りを怠つてゐるやうなすまなさを感じた。  ある晴れた日に、かの女はガタ馬車で出かけた。指折り数へて見ると、もう十二三年、それ以上もその故郷に行つて見たことはなかつた。町が近づくにつれてその心は躍つた。やがて昔馴染の町や人家や半鐘台や小学校があらはれた。やがて馬車の継立場に来て下ろされたかの女は、一番先に、その近くにある懇意なある家に寄つて寺のことを訊いた。  噂に聞いたどころではなかつた。それは非常な評判であつた。「生仏──」かう言つてその人も話した。  上さんの胸は愈々躍つた。何より先に、車をさがした。そしてそこから一里位しかない村へと志した。  上さんは不思議な念に燃えた。数珠を持つてゐたならば、それを繰つて、幼い時に覚えたお経の一節を誦したいと思ふほどであつた。そしてその渇仰の念に雑つて、昔の幼かつた時分のことが、美しく彩られた絵になつて見えた。次第になつかしい村は近づいて来た。  林、それにつゞいた森、その間からは寺の屋根が見える筈であつた。果して少し行くと見え出して来た。その壊れた屋根が、山門が、境内が、例の酒を禁じた石と鼻の欠けた地蔵尊とが……。上さんは胸がある聖い尊い物に圧しつけられるやうな気がした。 「そこで好う御座んす。」  で、車を下りて、上さんは静かに山門の中へと入つて行つた。銀杏返に結つた髪、黒の紋附の縮緬の羽織、新しい吾妻下駄、年は取つてもまだ何処かに昔の美しさと艶やかさとが残つてゐて、それがあたりの荒廃した物象の中にはつきりと際立つて見えた。  破れてはゐるが昔のまゝの寺である。昔のまゝの長い敷石である。井戸も深い草の中に埋れてはあるけれども昔のまゝである。かの女はさま〴〵の思ひに満されながら庫裡の方へ行つた。  其時分には慈海はもう一人ではなかつた。群集の中の信者は、代り代りにやつて来てゐた。出来るならば、師の洗ひすゝぎをさせて頂きたい、朝夕の食事の世話をしたい、水を汲んで上げたい、高恩に報ゆるための労働に服したい。かう言つて、信者の男女はやつて来た。現に、かの女の行つた時にも、若い老いた女や男が五六人庫裡に集つて経を誦してゐるのを見た。  かの女は有難いやうな尊いやうな悲しいやうな涙の溢れて漲つて来るのを感じた。上さんは暫し立尽した。  信者達の熱心な誦経の声はあたりに満ちた。取附く島もないやうにして上さんは立つてゐたが、やがて庫裡の奥から五分刈位に髪の毛を延した鬚の深い僧が此方にやつて来た。それはかれであつた。  かれはちよつと此方を見た。しかし別にこの不意の訪問に驚くといふやうな風もなしに、黙つてぢつと其処に近寄つて来た。さながらかの女の来るのを今日は待つてゐたと言はぬばかりに──。  少くとも上さんには無量な感慨が集つて来た。何を言つて好いか、何から話して好いかわからないほど胸が一杯になつた。しかし昔馴染と言ふやうな、又は昔の恋人と言ふやうな単純な気分ではなかつた。凝として見詰めて立つた彼の前に、かの女の頭はおのづから下つた。  長い間抱いてゐた苦痛、重荷、罪悪──さういふものをすつかりそこに投出して、かの女は思はず合掌した。  かれは手を合せながら唯一言かの女に言つた。 「今日からは、仏の道に、まことの道に……」 「難有う御座います。」  かうかの女は微かに言つた。  上さんはかれの足を洗ふ資格すら自分にないやうな気がした。路々いろ〳〵に考へて来たことも、つひに一言も言ひ得なかつた。  暫くして、本堂の前に行つて端坐したかれは、長い長い間、誦経の声をやめなかつた。それは皆なかの女の為めに、罪の多いかの女のために……。  其処に集つた信者達は、それにつれて皆な熱心に声を張上げて誦経した。崇厳な気分があたりに満ちわたつた。  上さんは遂に信者達と其処に二日滞留して合掌誦経した。かの女も亦他の人達と共に熱心な信者の一人となつた。  その話──この一条の話は、上さんの口からやがて人々に伝へられた。「ちやんと、私のやつて来るのを知つていらしつた。もう来さうなもの、来さうなものと思つて待つていらしつた。私の罪の為めに誦経して下すつた恩は、恋人の情よりも、親の恩よりも深い。」かう言つて上さんは話した。  それを聞いた多くの女達は、皆な随喜の涙を流した。 十七  その平野の中でも、富豪として、品位ある旧家として知られてゐるS村のK氏の邸は、綺麗に刈込んだ樫の垣を前に、後に深い杉の森を繞らし、数多い白堊の土蔵の夕日に照されてゐるのが常に遠く街道から指された。  主人夫妻は土地でも評判がよく、慈悲に富んで、多い小作人に対しても常に寛大な処置を取るのを以てきこえてゐた。村の内にはその家からわかれた分家、別家なども多く、その中にも既に巨万の富を重ねてゐるものなども尠くなかつた。  ところが、ある朝、驚くべき報知が村の人達を驚かした。  それは娘の家出であつた。  娘は今年二十一歳、昨年まで東京の学校に出てゐて、暑中休暇、正月の休みなどにはよく洋傘を日にかゞやかして、停車場からの長い道を帰つて来たが、町の人達、村の人達にも、「それ、Kさんのお嬢さんが通る。美しくならしたなア。」などと言はれてゐたが、今年は正月からずつと此方にゐて、東京に上つて行くやうな様子もなかつた。「もうそろ〳〵良縁があるんだらう。」寄ると触るとかう言つてあたりの人々は噂してゐた。  それが突然姿を躱した。  昨日ちよつと用事があると言つて、余所行のちよい〳〵着に、銘仙の羽織、縞のコオトといふ扮装で、何気なくひとりで出懸けた。その姿を村の人は其処此処で見かけた。ところがそれが夜になつても帰つて来なかつた。始めは町の友達の許にでも行つて、話が面白くなつて、つい帰るのを忘れたのだらうなどと思つて、思ひ当るところに彼方此方と迎への使者を出したが、その人達はやがて皆な手を空うして帰つて来た。夜は更けて行つた。  朝になつた。  それでも娘の姿は何処にも発見されなかつた。  父母、親類の心痛は一方でなく、村の人達は、一大事件としてやがて騒ぎ立つた。しかし成たけ、表沙汰にしたくない、不都合でもあつた時に困る。かう言つて、分家や別家の人達は町の警察に行つても頼めば、役場に行つても頼んだ。それを聞いた人々は皆な驚愕の目を睜つた。  これが不断さうした操行のわるい評判でもある娘なら、別にそれほど世間の耳を驚かしもしないが、K氏の娘に限つては、これまでつひぞさうした噂は一度でもなかつた。また家出をするやうな事情が家庭にあるなどとも思はれなかつた。それに、娘は学問もすぐれて出来、外国語の本も読み、人一倍立優つた成績と評判とを持つてゐた。父母の愛も深かつた。  何うしても誰か悪者か何かに誘拐されたに相違ない。警察でも最初の鑑定は主としてその方面に傾いた。しかし、その管内は平和で、此頃、さうしたわるい者が他から立廻つた跡もない。 「不思議なこともあるものだ。」かう署長も刑事も巡査も皆な首をひねつた。  一番先に調べにやつた停車場では、昨日から今日にかけて、娘が汽車に乗つて行つたやうな痕跡はないと言つて来た。  娘は或は村や町の人々の眼に触れるのを顧慮して、わざと別な停車場まで行つて、そこから乗つて上京しはしないかと思つて、念のため、前後二三の停車場をも調べて貰つた。しかし矢張さうした形跡は何処にもなかつた。  もしこれが誘拐でなしに、自発的だとすれば、何処かの淵川にでも身を投げやしないか。世間でも何も知らないけれど、その奥に何かこんがらかつた事情があつたのではないか。捜しあぐんだ後には、警察でも、かう言つて、方針をかへて、あちこちと沼の畔や河の岸を探らせた。  矢張わからなかつた。  父母の悲痛の状態は見るに忍びないほどであつた。さうした覚悟の家出なら、何とか書いたものか何かが残つてゐさうなものである。又生きてゐるものなら、途中から何等かの便がありさうなものである。しかし金も持つて行つた形跡もなければ、予めさうした予定があつたらしい痕跡も残つてゐない。娘は奥の自分の居間に坐つてゐて、ふと思ひ立つて出かけたらしく、座蒲団も硯も筆もそのまゝになつてゐた。外国の小説らしい本が半ば開けられて、そこにちやんと赤い総のついた枝折が挟んであつた。  その日も暮れた。  ところが、更に驚くべき報知が町や村を騒がせた。それは娘が長昌院の信者の中に雑つてゐたといふことであつた。他でそんなに大騒ぎをしてゐるのを少しも知らないやうにして、且つは信仰的エクスタシイが不意に娘の魂を誘つたといふやうにして、かの女は汚い大勢の群の中に雑つて、一心に経を誦してゐたのである。人々は皆な驚愕の眼を睜つた。  署長や巡査はすべてを捨てて、剣を鳴して寺へと行つた。それと知つて、父親や分家の人達も車を飛ばした。  しかし署長や父親や村の人達が想像したやうなものではなかつた。慈海と娘とは未だに言葉すらも交へなかつた。群集の中の信者は話した。「何うしてそんなことが、あの生仏さまにあるものですか。このお嬢様は昨日の夕方にひよつくりおいでなすつて、私達に雑つておつとめをなすつていらしつた。何処のお嬢様か知らぬが、めづらしい篤志の方もあるものだと思つてゐた。そして昨夜はかうして私達と此処に一緒においでになつた──生仏さまは、少しもそんなことは御存じなかつた。」  一人ならず、其処にゐた人達は、皆なさう話した。  娘は娘で、何うしても、此処に暫くの間、かうして置いて呉れと言つて、決して父親に従つて家へ帰るとは言はなかつた。警察の人達も何うすることも出来なかつた。  で、止むを得ず、一同は引上げたが、その噂は更に広く深く人々の心を動かした。大きな誘拐者──かうした議論が一町村ばかりではなく、郡から県までへも問題にされて行つたが、それと共に、不思議な坊主の噂は益々近県に聞えた。ある田舎の新聞は二号活字か何かで、半ば信じ半ば怪しむやうな記事を載せた。  夏になり秋になつても、娘は竟に家に帰らなかつた。後には、その父母は娘の雑用の米やら衣類やらを其処に運んで行かなければならなかつた。母親もやがてはその信者の群の一人になつた。 十八  さうした不思議は猶ほこれに留らなかつた。貧しき者は富み、乏しき者は得、病める者は癒え、弱き者は力を恢復した。 「求めざるものは得、欲するものは失ふ。」かうしたかれの悟は、かれの日夜の行と共に益々生気を帯びて来た。  半ば山に凭り半ば平野に臨んださびしい村は、今や驚くべき賑かな光景を呈した。人々は山を越し野を越し丘を越して此処に集つて来た。  大きな誘拐者、大きな山師、かうした批評は、世間の一面にはまだ依然として残つてゐるけれども、信者はそんなことには最早頓着してゐなかつた。荒れ果てた本堂に籠るものは、日に日にその数を増して行つた。  かれ等は皆なその衣食を持つてやつて来た。破れた山門の前には、米や味噌を乗せた車が多く集り、あらゆるものが庫裡に満ち溢れた。  始めはその態度に呆れ、中頃はその始末に困つた村の世話人達も、今ではこの盛な光景に驚き且つ怖れた。遂には自ら熱心なる信者にならない訳に行かなかつた。  朝の読経の声は一村に響きわたつてきこえた。  しかし、慈海かれ自身は、決して以前の生活を改めなかつた。かれは寂然として唯ひとりその室にゐた。小さな机、古い硯箱、二三冊の経文、それより他はかれの周囲に何物もなかつた。かれは飢を感ずるのを時として、出て来ては七輪を煽いだ。  しかも、かれの命を聞くをも待たずして、やがて本堂の破れた屋根は繕はれ、庇は新しくせられ、倒れかけた山門はもとの状態に修繕された。  女達は毎朝綺麗に廊下から本堂を掃除した。爺達は箒を持つて一塵も残らないやうに境内を掃き浄めた。若い女達はさま〴〵の色彩を持つた草花を何処からか持つて来て栽ゑた。  昔のさびしい荒れた中に寂然として端坐してゐた如来仏の面影は段々見ることが出来なくなつた。大きな須弥壇、金鍍をした天蓋、賓頭盧尊者の木像、其処此処に置かれてある木魚、それを信者達は代る代るやつてきて叩いた。  本堂も隙間がない位に一杯に信者が集つて、異口同音に誦経した。その中に雑つて、慈海の誦経の声は一段高く崇厳に高い天井に響いて聞えた。 (大正六年七月) 底本:「現代文学大系10 田山花袋集」筑摩書房    1966(昭和41)年1月10日発行 ※疑問箇所の確認にあたっては、「定本花袋全集 第九巻」臨川書店、1993(平成5)年12月10日復刻版発行(元本は、内外書籍、1923(昭和12)年10月15日初版発行)を参照しました。 入力:林 幸雄 校正:松永正敏 2004年10月4日公開 2013年6月21日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。