安吾巷談 熱海復興 坂口安吾 Guide 扉 本文 目 次 安吾巷談 熱海復興  私が熱海の火事を知ったのが、午後六時。サイレンがなり、伊東のポンプが出動したからである。出火はちょうど五時ごろだったそうである。  その十日前、四月三日にも熱海駅前に火事があり、仲見世が全焼した。その夜は無風で、火炎がまッすぐ上へあがったから、たった八十戸焼失の火事であったが、山を越えて、伊東からも火の手が見えた。もっともヨカンボーというような大きな建物がもえ、焼失地域が山手であったせいで、火の手が高くあがったのかも知れない。このときも、伊東の消防が出動した。三島からも、小田原からも、消防がかけつけていた。なんしろ火事というものは、無縁のヤジウマが汽車にのって殺到するほど魅力にとんだものだから、血気の消防員が遠路をいとわず馳けつけるのもうなずけるが、温泉地の火事は後のフルマイ酒モテナシがよろしいから、近隣の消防は二ツ返事で救援に赴くということである。  四月三日の火事から十日しかたたないから、マサカつづいて大火があるとは思わない。外を吹く風もおだやかな宵であるから、ハハア、熱海は先日の火事であわてているなと思い、又、伊東の消防は熱海の味が忘れられないと見えるワイ、とニヤリとわが家へもどり、火事はどこ? ときく家人に、 「また、熱海だとさ。ソレッというので、伊東の消防は自分の町の火事よりも勇んで出かけたんだろうな」  と云って、大火になるなぞとは考えてもみなかった。そのときすでに、熱海中心街は火の海につつまれ、私の知りあいの二三の家もちょうど焼け落ちたころであった。  私は六時半に散歩にでた。音無川にそうて、たそがれの水のせせらぎにつつまれて物思いにふけりつつ歩く。通学橋の上で立ちどまって、ふと空を仰ぐと、空に闇がせまり、熱海の空が一面に真ッ赤だ。おどろいて、頭を空の四方に転じる。どこの空にも、夕焼けはない。北の空だけが夕映えなんて、バカなことがあるものじゃない。  熱海大火!  私は一散にわが家へ走った。私のフトコロにガマ口があれば、私は駅へ走ったのだが、所持金がないから、涙をのんで家へ走った。  遠い方角というものは、思いもよらない見当違いをしがちであるが、十日前にも火の手を見たから、熱海の方角に狂いはない。十日前にはチョロ〳〵と一本、ノロシのような赤い火の手が細く上へあがっているだけであったが、今日は北方一面に赤々と、戦災の火の海を思わせる広さであった。  一陣の風となって家へとびこみ、洋服に着代え、腕時計をまき、外へとびだし、何時かな、と腕をみて、 「ワッ。時計がない」  女房が時計をぶらをげて出てきた。 「あわてちゃいけませんよ」  と言ったと思うと、空を見て、 「アッ。すばらしい。さア、駈けましょう」 「どこへ?」 「駅」 「あんたも」 「モチロン」  この姐さんは、苦手である。弱虫のくせに、何かというと、のぼせあがって、勇みたつ。面白そうなことには、水火をいとわず向う見ずに突進して、ひどい目にあって、二三日後悔して、忘れてしもうという性コリのない性分であるから、この盛大な火の手を見たからには、やめなさいと云ったって、やめにするような姐さんではない。  私は内心ガッカリした。私は火事というと誰も行くことのできない消防手の最先端へとびだして、たった一人火の手にあおられながら見物するという特技に長じており、何百人のお巡りさんが非常線をはっても、この忍術をふせぐことはできないのである。姐さんに絡みつかれては、忍術が使えない。  伊東の街々では門前に人々が立って熱海の空を見ている。自転車で人が走る。火元は埋立地だという。銀座が焼けた。糸川がやけてる。国際劇場へもえうつった。市役所があぶない等々。街々を噂が走る。  してみると私が時々遊びにでかけた林屋旅館も、支那料理の幸華も、洋食の新道も、もうやけたのだ。 「いいかい非常線にひッかかったら、糸川筋の林屋旅館へ見舞いに行く伊東の親類だというんだよ。林屋は伊東の玖須美の出身だからね」  と、女房に忍術の一手を伝授しておく。  電車は伊東から、すでにヤジウマで満員だ。同じ箱にのりこんだ周囲の十数人から知った顔をひろってヤジウマとはいかなる人種かと御紹介に及ぶと、一人は知人の家の女中(二十一二。通勤だから、夜は自由だ)、バスガール三人。これは知り合いというわけではないが、バスにのると向うに見える大島は……と説明して、大島節をうたってきかせるから、自然顔を覚えたのである。  宇佐美で身動きできなくなったが、網代でドッと押しこみ突きこみ、阿鼻叫喚、十分ちかくも停車して、ムリムタイにみんな乗りこんでしまったのは、網代の漁師のアンチャン連だ。かくて乗客の苦悶の悲鳴にふくらみながら、電車は来ノ宮につく。  火は眼下の平地全部をやき、山上に向って燃え迫ろうとしている。露木か大黒屋かと思われる大旅館が燃えている一方に錦ヵ浦の方向へ向って燃えている。火の手がはげしい。  熱海というところは、埋立地をのぞくと、平地がない。全部が坂だといってもよろしい土地であるが、銀座から来ノ宮へかけては特に急坂の連続だから、火の手は近いが、この坂を辛抱して荷物を運ぶ人の数は少く、さのみ雑踏はしていなかった。  風下の坂の上から、風上の銀座方面へ突入するのは、女づれではムリであるから、仕方なく、大迂回して、風下から銀座の真上の路へでる。眼下一帯、平地はすでに全く焼け野となって燃えおちているのである。銀座もなく糸川べりもない。そのとき八時であったが、当日の被害の九割までは、このときまでに燃えていた。鎮火は十二時ごろであったが、私が到着して後は、燃え方は緩漫であった。  火の原にかこまれた山上でも、伊東と同じく、微風が吹いているにすぎなかった。  どうして、こんな大火になったのだろう? みんながそう思うのは当然だ。  十日前に駅前の仲見世八十戸やいた時には、山上のために水利がわるく、水圧がひくくて消火作業が思うにまかせなかったからだ、という。それに対する批判の声があがっている最中であった。  今日の火事は夕方五時、まだ明るい時だ。海に面した埋立地で、交通至便の繁華街に接している。大火になる条件がないのである。  そこで、 「海水を使うとホースが錆びるからといって、消防が満々たる海を目の前に、手を拱いていた」  という怨嗟のデマが、出火まもなく、口から口へ、熱海全市を走っていた。  しかし、そもそもの発火がガソリンの引火であり、つづいてドラムカンに引火して爆発を起し、発火と同時に猛烈な火勢で燃えひろがって処置なかったものらしい。  火事による突風が渦まき起って百方に火を走らせ、発火から二時間ぐらいの短時間で、全被害の九割まで、焼きつくしたようである。私の到着したときは渦まく突風はおさまり、目抜通りは焼けおちてのびきった火の先端だけが坂にとりつこうとして燃えつつ立ち止っているときであった。  火元はキティ颱風でやられた海岸通りの道路工事をやってる土建なんとか組の作業場で、十九か二十ぐらいの若い二人の労務者が賭をした。 「タバコをガソリンの上へすてるともえるかもえないか」  という賭である。そこで、もえる、と云った方が、じゃア見てろといってタバコをすてたので、火の海になった。あわてて砂をかけたが及ばず、アレヨというまに建物にもえうつりドラムカンに引火して、バクハツを起し一挙に四方に火がまわったのだそうだ。  火元の土建の何とか組は、私にも多少の縁がある。  銀座のビルの一室をかりて、なにがしという綜合雑誌のようなものをだしていたのが、映画俳優のY氏であった。三年ぐらい前の話で、ひところの出版景気に、目先が早くて行動的な映画人で出版や雑誌発行をやった人も相当いたようだが、映画雑誌か娯楽雑誌が普通で、Y氏のように、綜合雑誌めいたものは例外だろう。Y氏の柄に合ったもののようにも見えなかったし、編輯上の識見があったとも思われないが、なんの困果でこんな雑誌をだしたのか私は今もって知らないが、徹底的にピント外れで、Y氏ならびに雑誌合せて、奇抜、ユニックな存在だったかも知れない。  そのうち出版不況の時世となって、Y氏の雑誌も立ちゆかなくなり、旧知の作家O氏の救援を乞うたところ、O氏のはからいで、O氏や私を同人ということにして、新雑誌をだすことになった。  そのとき、新雑誌のために二十万円ポンと投げだしたのが、O氏の知人で熱海大火の原因となった何とか組の何とか親分だ。もっとも、実際は親分ではなくて、親分の実弟だそうだが、私の聞きちがいか、紹介者が面倒がって端しょッて教えたせいか、私は熱海の大火まで、なんとか組の親分ズバリだと思いこんでいた。  O氏の話では、新雑誌に賛成して好意的に二十万ポンと投げだしてくれた、という簡単明瞭な話であったが、なんとか組のなんとか氏の方は、新雑誌の社長のつもりであった。  遠く東海道の某駅から、はるばる上京、Y氏の坐る社長の席へドッカとおさまり、社員一同を起立させて訓辞を与える。居場所を失ったY氏はウロウロしているし、社員は二人の社長の出現に呆ッ気にとられて仕事に手がつかない。 「キサマ、反抗するか!」  と云って、それまで、実質的に編輯長のようなことをやっていた吉井という人物はひッぱたかれ、 「反抗する奴はでゝこい。若い者をつれてきて痛い思いをさせてやる。どうだ。痛い思いをしたいか。したい奴は、でてこい!」  と、睨み廻す。敵地へのりこんだ如くに、はじめから、社員を敵にして、かかっている。  O氏が編輯長として九州からよびよせたHという新聞記者出身の柔道五段がいた。柔道五段というが、大言壮語するばかりで、編輯の才能は全然ない。大ブロシキの無能無才で、ふとっているが、テリヤよりも神経質で、ヘタな武道家によくあるタイプだ。 「売れなくてもよいから、アッ、やったな、と言わせるような雑誌をつくってみせる」  という。こういう低脳のキマリ文句で右翼のチンピラが大官を暗殺するような心境で雑誌をつくられては、たまったもんじゃない。私も我慢ができないから、 「冗談云いなさんな。金もないくせに売れない雑誌をつくったって、つぶれるだけじゃないか。ぼくがこの雑誌の同人になったのは、Y氏の出版事業がつぶれそうだから助けてやってくれないかというO氏の頼みで、Y氏をもうけさせてやるのが目的だ。アッ、やったなといわせるために誰がお前さんにたのむものか。もうける以外に目的があったらこの雑誌の編輯はやめなさい」  と云ったら、それ以後は、私の顔を見るたびに、 「もうける雑誌、もうける雑誌」  と意気ごんでみせ、たちまち大モウケしてみせるようなことを言うようになったが、実際は、アッと言わせるのはカンタンだが、もうけるのは大事業なのである。  このH編輯長がなんとか組のなんとか氏とカンタン相てらしたと称し、兄弟の盟約をむすび、兄貴、わるいところがあったら、だまってオレの頭をなぐれ、などゝオイオイ泣き、こういう低脳がでゝくると、もうダメである。なんとか組のなんとか氏はH氏にくらべてはもっと大人で、そうバカではなかったらしいが、間にH編輯長という低脳で神経質で被害妄想のようなのがはさまっていて、それを通じての話をきいているから、まるで敵地へのりこむように出社して社員をどなりつけた。  ここの社員は主としてO氏の弟子に当る若い連中で、O氏の一族ではあるが、私とは何のユカリもない連中であった。けれども、H編輯長もO氏の選んだ人物、なんとか組のなんとか氏もO氏のたのみで金をだした人物で、O氏の知人であるから、H氏やなんとか氏への不満をO氏のところへ持っていっても、とりあげてくれない。そこで私のところへ泣きついてきた。  吉井君も、善良ではあるが、性格的には、ひがみ屋で、女性的にひねくれたところがある。H氏が、又、最も女性的な豪傑タイプで、女性的な面が衝突し合っているのである。吉井君も編輯にはまったく無能で、どっちに軍配をあげるわけにもいかないが、部下を心服させることができないのは、H氏の不徳のいたすところである。  たのまれたからといって、特にたのんだ方に味方もできないが、H氏をよんで、 「あんたの部下はみんなO氏の弟子じゃないか。あんたがO氏のスイセンで編輯長になれば、みんながあんたを好意的にむかえるはずであるのに、心服させることができないのは、よッぽど不徳のせいだろう。そう思わんか」 「そう思う」 「あんた下宿の女(吉井君とジッコン)と関係してるね」 「そうだ。女房を国もとへおいてるから、こうなるのは当然だ」 「当然であろうと、あるまいと、そんなことは、どうでもいいや。自分の四囲にどういう影響を与えるか、それを考えて、手際よくやるがいいや。あんなケッタイな四十ちかい女に惚れるはずはあるまいし、タダで遊ぼうというコンタンで、部下の感情を害すとは、なさけない話じゃないか。遊ぶんだったら、金で、よその女を買いなさい」 「金がないから仕方がない」 「社長が二人いるのは、変じゃないか」 「変だ」 「敵地へのりこむようにのりこんできて、反抗したい奴はでてこい、若い者にぶん殴らせる、なんて社長があるもんか。ぼくがこの雑誌に関係したのはY氏の窮状を救うという意味でたのまれたのだから、Y氏以外の社長ができたり、Y氏の立場を悪くするようなら、ぼくの一存でこの雑誌をつぶす。どうだ」 「その気持をなんとか組のなんとか氏につたえて、善処させる」  その翌日である。  H氏となんとか組のなんとか氏が同道して拙宅をたずねた。 「お前さんはオレがよぶまで上ってくるな。荒っぽい音がするかも知れないが、下にジッとしておれ」  といって、女房を下へやった。なんしろ、反抗する奴はでてこい、痛い目にあわせてやる、という一人ぎめの社長や、柔道五段を鼻にかける編輯長のオソロイだから、タダではすみそうもない。私も腹をきめて、二人に会って、 「O氏に会って、たしかめたところでは、あんたに二十万円だしてもらったのは社長になってくれという意味ではないと断言していた。あんたが思いちがいをしたのは仕方がないが、だいたい社員に向って、反抗する奴はでてこい、若い者にヒネラせてやる、なんていう雑誌の社長があってたまるものか。あんたが社長をやめなければ、ぼくの一存で、今、この場で雑誌をつぶす。雑誌をやりたければぼくがつぶしたあと、やるがいゝ」 「社長から手をひく」 「あんたの二十万は、もう使ってしまって返されんそうだが、文句はないか」 「すすんでO氏に寄進したものだから、文句はない」  それで話はすんだ。  なんとか組のなんとか氏は、そうワカラズ屋の暴力団ではないらしかったが、H氏という女性的に神経質のニセ豪傑がひがんだ主観で事実を自分流にまげて伝えているから、変にこじれて受けとり、どやしつければ文学青年はちぢみあがるもんだと考えて乗りこんだらしい。これは見当ちがいで、文学青年と不良少年はやさしくしてやるとなつくが、どやしつけると、微底的に反抗する、当日はそれで話はすんで、一応うちとけたが、なんとか組のなんとか氏が完全に了解したわけではなく、H氏を間にはさんだための食い違いはどうすることもできないものであった。  この日の話には、ちょッとした蛇足がついてる。私には忘れられない思い出であるから、ちょッとしるしておこう。  それから三人で酒をのんだが、酔ううちに、なんとか組のなんとか氏が、自分にはほかに芸がないが腕相撲だけが自慢だ、という。こいつは面白いというので、よろしい、一戦やろう、と私が挑戦したのは、先程からの感情の行きがかりではなく、単純にひとつヒネッてやろうという気持だけであった。  私は腕相撲などはメッタにやったことがないが、終戦直後、羽織袴で私のところへやってきた右翼の青年の集りの使者の高橋という青年(今、私の家にいる)、これも柔道二段らしいが、これをヒネッて、その時以来、腕相撲では気をよくしていたせいだ。  この高橋は、私のところへ講演をたのみに来たのである。右翼青年の集りが拙者に講演をたのむとは憎い奴め、ウシロを見せるわけにはいかないから、当日でかけて行くと、二十人ぐらいの坊主頭の若者どもが小癪な目をして私をかこんで坐る。この小僧めらが、と思ったから、天皇制反対論を一時間ばかり熱演してやった。歴史的事実に拠ってウンチクを傾けたのであるが、ウンチクが不足であるから、ちょッと傾けると、たちまちカラになる。こんな筈ではなかったが、と、あっちのヒキダシ、こっちのヒキダシ、頭の中をかきまわして、おまけに話しベタとくる。闘志は満々たるものだが、演説の方は甚だチンプンカンプンであったらしい。  その後、高橋はO氏の世話でY氏の雑誌社につとめ、なんとか組のなんとか氏事件の時には、私に泣きついた一味の末輩であった。これをどういう事情によってか腕相撲でネジ伏せたことがあり、腕相撲に関する限り、右翼壮士怖るるに足らずと気をよくしていたのが失敗の元であった。  なんとか組のなんとか氏と一戦やると、全然問題にならない。彼の腕は盤石の如く微動もしないのである。 「若い者を使っていると、どこかで威勢を見せないとバカにしますから、ひそかに年月をかけて猛練習したんです」  となんとか氏はタネをあかして笑った。それは謙遜で、厭味なところはなかったのだが、行きがかりがあるから、こう軽くヒネラれては、私も癪だ。酔っ払っているから、ムラムラとイタズラ気が起って、ひとつ新川のところへ連れていって、奴メと腕相撲をとらせコテン〳〵にしてやろうと考えた。  新川というのは本職の相撲とりだ。六尺三十貫、頭もあるし、順調に行けば、横綱、大関はとにかくとして、三役まではとれた男だ。不動岩とガブリ四ツになったハズミに、不動岩の歯が新川の眉間へソックリくいこんだのである。全治二ヵ月、人相は一変しそれ以来、目がわるく、夜はメクラ同然、相撲がとれなくなって、人形町でトンカツ屋をはじめたのである。醤油樽を弁当箱のように軽々と届けてくれる力持ちだから、なんとか組のなんとか氏が逆立ちしたって、勝てッこないにきまってる。  新川の店へ自動車をのりつけ、 「このなんとか氏は腕相撲の素人横綱だそうだから、君、ひとつ、やってみろよ」  というと、新川という男、身体は大きいがバカにカンのよい男だ、ハハア、安吾氏コテン〳〵にやられたな、オレに仇をとれという意味だなと見てとって、 「ヘッヘッヘ」  と笑いながら、「へ。あんたの力は、それだけですかい」などとやりだしたが、六尺三十貫の本職の相撲取だから、廃業して飲んだくれていたって、なんとか組のなんとか氏が全力をつくしても、ハエがとまったようなものだ。  私もことごとく溜飲を下げて、にわかにねむくなり、近所の待合へ行って、先に寝てしまった。私がねてしまったあとでなんとか組のなんとか氏は芸者を相手に待合で大騒動を起したそうだが、これは腕相撲に負けたせいでなくもともと酒乱で、酔うときッとこうなるという話であった。私は白河夜船でその騒ぎを知らなかった。  翌朝、私が目をさまして、一人、新川の店へ散歩に行くと、新川が起きて新聞を読んでいる。 「先生、大変な奴が現れましたぜ」 「どんな奴が」 「まア、先生、これを見て下さいな」  新川は新聞狂で、東京の新聞をあるだけとっている。あの当時十いくつあったそれを三畳の部屋一ぱいにひろげて、当人は土間に立って、新聞の上へ両手をついてかがみこんで、順ぐりに読んでるのである。  新川の示す記事をみる。それが帝銀事件であった。私がなんとか組のなんとか氏と腕相撲していた時刻に、帝銀事件が起っていたのである。だから、私は帝銀事件に限ってアリバイがある。何月何日にどこで何をしていたというようなことは、自分の大切なことでも忘れがちなものだが、帝銀事件に限って、身のアリバイを生涯立証することができるという妙な思い出を持つに至ったのであった。  私は熱海大火の火元を知ると、いささか驚いて、 「なんとか組って、一人ぎめの社長が親分のなんとか組だろう?」 「イヤ。あれは親分じゃなくて、親分の実弟なんです」  と高橋が答えた。それで、なんとか組のなんとか氏が実の親分でないことをようやく知ったのである。           ★  熱海大火後まもなく福田恆存に会ったら、 「熱海の火事は見物に行ったろうね」  ときくから、 「行ったとも。タンノウしたね。翌日は足腰が痛んで不自由したぐらい歩きまわったよ」 「そいつは羨しいね、ぼくも知ってりゃ出かけたんだが、知らなかったもので、実に残念だった」  と、ひどく口惜しがっている。この虚弱児童のようなおとなしい人物が、意外にも逞しいヤジウマ根性であるから、 「君、そんなに火事が好きかい」 「あゝ。実に残念だったよ」  見あげたヤジウマ根性だと思って、私は大いに感服した。  私が精神病院へ入院したとき小林秀雄が鮒佐の佃煮なんかをブラ下げて見舞いにきてくれたが、小林が私を見舞ってくれるようなイワレ、インネンは毛頭ないのである。これ実に彼のヤジウマ根性だ。精神病院へとじこめられた文士という動物を見物しておきたかったにすぎないのである。一しょに檻の中で酒をのみ、はじめはお光り様の悪口を云っていたが、酔いが廻るとほめはじめて、どうしても私と入れ代りに檻の中に残った方が適役のような言辞を喋りまくって戻っていった。  ヤジウマ根性というものは、文学者の素質の一つなのである。是非ともなければならない、という必須のものではないが、バルザックでも、ドストエフスキーでも、ヤジウマ根性の逞しい作家は、作家的にも逞しいのが通例で、小林と福田は、日本の批評家では異例に属する創造的作家であり、その人生を創造精神で一貫しており、批評家ではなくて、作家とよぶべき二人である。そろって旺盛なヤジウマ根性にめぐまれているのは偶然ではない。  しかし、天性敏活で、チョコ〳〵と非常線をくぐるぐらいお茶の子サイサイの運動神経をもつ小林秀雄が大ヤジウマなのにフシギはないが、幼稚園なみのキャッチボールも満足にできそうにない福田恆存が大ヤジウマだとは意外千万であった。  私は熱海の火事場を歩きまわってヘトヘトになり、しかし、いくらでもミレンはあったが、女房がついてるから仕方がない。終電車の一つ前の電車にのって伊東へ戻った。満員スシ詰め、死ものぐるいに押しこまれて来ノ宮へ吐きだされた幾つかの電車のヤジウマの大半が終電車に殺到すると見てとったからで、事実、私たちの電車は、満員ではあったが、ギュウ〳〵詰めではなかった。さすればヤジウマの大半が終電事につめかけたわけで、罹災者の乗りこむ者も多いから、終電車の阿鼻叫喚が思いやられた次第であった。  網代の漁師のアンチャン連の多くは火事場のどこで飲んだのか酔っぱらっており、とうとう喧嘩になったらしく、網代のプラットフォームは鮮血で染っていた。  伊東へついて、疲れた足をひきずり地下道へ降りようとすると、 「アッ。奥さん」 「アラア」  と云って、女房が奇声をあげて誰かと挨拶している。新潮社の菅原記者だ。ふと見ると、石川淳が一しょじゃないか。 「ヤ、どうしたの」  ときくと、石川淳は顔面蒼白、紙の如しとはこの顔色である。せつなげに笑って(せつないところは見せたがらない男なのだが、それがこうなるのだからなおさら痛々しい) 「熱海で焼けだされたんだ。菅原と二人でね。熱海へついて、散歩して一風呂あびてると、火事だから逃げろ、というんでね」  文士の誰かがこんな目にあってるとは思っていたが、石川淳とは思いもよらなかった。  彼らは夕方熱海についた。起雲閣というところへ旅装をといて、散歩にでると、埋立地が火事だという。そのとき火事がはじまったのである。  火事はすぐ近いが、石川淳はそれには見向きもせず、魚見崎へ散歩に行った。菅原が罹災者の荷物を運んでやろうとすると、 「コレ、コレ。逆上しては、いかん。焼け出されが逆上するのは分るが、お前さんまで逆上することはない」  と云って、たしなめて散歩につれ去ったのである。魚見崎が消えてなくなることはあるまいのに。しかし、火事は一度のものだ。その火事も相当の大火であるというのに、火の手の方はふりむきもせず、アベコベの方角へ散歩に行った石川淳という男のヤジウマ根性の稀薄さも珍しい。  散歩から戻ってみると、火事は益々大きくなっている。しかしヤジウマ根性が稀薄だから、事の重大さに気づかない。  一フロあびてお酒にしようと、ノンビリ温泉につかっていると、女中がきて、火の手がせまって燃えうつりそうだから、はやく退去してくれという。御両氏泡をくらって湯からとびだし、外を見ると、黒煙がふきこみ、紅蓮の舌が舞い狂って飛びつきそうにせまっている。ここに至って、逆上ぎらいの石川淳も万策つきて顛動し、ズボンのボタンをはめるのに手のふるえがとまらず、数分を要したという菅原記者の報告であった。  しかし、これからが石川淳の独壇場であった。  身支度ととのえ終って、旅館をとびだす。宿へついて、お茶をのんで、お菓子をくって、温泉につかってとびだしただけだから、 「要するに、君、ぼくは熱海の火事で、菓子の食い逃げしたようなものさ。茶菓子代ぐらい払ってやろうと思ったが、旅館の者どもは逆上して、客のことなぞは忘却しているよ。アッハッハ」  と、自分だけ逆上しなかったようなことを云っているが、なんと石川淳は菅原をひきつれ、十分ぐらいで到着できる来ノ宮駅へも、二十分ぐらいで到着できる熱海駅へも向わずに、ただヤミクモに風下へのがれ、延々二里の闇路を走って、多賀まで落ちのびたのである。  彼の前方から、逆に熱海をさして馳せつける自動車がきりもなく通りすぎたが、同じ方向へ向って急ぐ者とては、彼らのほかには誰一人いなかった。彼らは一人の姿も見かけることができなかったが、事実に於て、この夜、彼らと同一コースを逃げた人間はたぶん一人もなかったはずだ。多賀へ行くには電車があるもの。電車はたった一丁場だが、これを歩けば錦ヵ浦から岬をグルグル大廻り、二里もあるのだ。土地不案内な人間なら、よけい雑踏の波から外れて逃げるものではなく、どう、とりみだしたって、こんなフシギな逃げ方をすることは考えられないのであるが、石川淳だけが、これを為しとげたのである。熱海の火事でも、いろんなウカツ者がいて、心気顛動、ほかの才覚はうかばず、下駄箱一つ背負いだしたとか、月並な慌て者はタクサンいたが、一気に多賀まで逃げ落ちたというのは他に一人もいなかったようだ。  石川淳は菅原をひきつれ、風下へ、風下へ、ひたすら逃げた。それでも全部の人心地を失わなかった証拠には、錦ヵ浦の真ッ暗闇のトンネルに突き当ってはハタと当惑。ここくぐるべきや、立ちすくんで、考えこんだ。 もとへ戻れば火が食いつくし 先はマックラ、トンネルだア どうしよう 神さま、きてくれ 石川淳を知らねえか  ついに意を決してクラヤミのトンネルをくぐりぬけ、二里の難路を突破して、一命無事に伊豆多賀の里に辿り着くことができた。古に三蔵法師あり。今に石川淳あり。かほどの苦難の路は、凡夫は歩くことができない。  事の真相をここまで打ち開けて語るのはツレナイことかも知れないが、石川淳の逃げだした起雲閣という旅館は、隣まで焼けてきたがちゃんと残っているのであった。私は焼跡を見物して、焼け残った起雲閣を目にした時には、呆然、わが目を疑ったのである。偉なる哉、淳や、沈着海のごとく、その逃ぐるや風も及ばず。  戦争中の石川淳は麻布の消防団員であった。警察へ出頭を命ぜられ、ムリに任命されてしまったので、 「むかし肺病だったが、それでも、よろしいか」 「結構である」 「下駄ばきで消火に当るのは、不都合であるから、靴を世話したまえ」 「下駄ばきでも不都合ではない。誰もお前が東京の火を消しとめるとは期待していない。すでに東京はあの通りだ」  と云って焼野原の下町を示して見せたそうである。  焼け残った銀座の国民酒場で、私はよく彼とぶつかった。我々は一パイのウイスキーをのむために必死であったが、彼は下駄ばきに、背に鉄カブトをくくりつけ、それが消防団員石川淳の戦備ととのった勇姿の全部であった。  熱海の大火では、空襲下の火災の錯乱が見られた。つまり多くの人々は、避難ときくや、まッさきに、米、食物の類を小脇にかかえて走り去り、すでにそれらの物品の入手が容易であることを忘れていたのである。食物の次には、身の廻りの日常品。散々不自由した恐怖がぬけていないのだ。最初から金目の品物に目をつけたのは、相当落着いた人間か、火事場泥棒に限られていたそうだ。  罹災者への救援はジンソクで、又至れり、つくせりであった。  私は焼跡の林屋を見舞い、それから水口園へ行って仕事しようと思ったが、原稿紙は持って出たが、洗面道具を忘れてきたので、一式買ってきてくれと女中にたのむと、すぐ戻ってきて、 「ハイ、歯ブラシ、タオル、紙……」 「いくらだい」 「イエ、タダです。エプロンをきて、ちょッと、こう、リリしい姿で行きますとね。なんでもタダでくれます。熱海の罹災者は楽ですよ。一日居ないと損すると云って、みんな動きません」  こんなわけで、私は熱海の罹災者の余沢を蒙った。 「こんなに日常品をジャン〳〵くれると知ったら、身の廻りの安物には目もくれず、重い家具類をだすんだった」  というのが、熱海の罹災者の感想で、新しい現実の発見でもあったようだ。つまり、戦争時代の終滅と、新しい現実の生誕を、ハッキリと、改めて発見したのだ。  しかしながら、戦争の終ったことを発見するということは、甘い現実を知ることではない。むしろアベコベに自由競争の厳しい現実を身にしみて悟ることでもあり、そこで熱海がこの焼跡から何を悟ったかというと、糸川の復興なくして熱海の復興はあり得ずということなのである。  道学先生がいくら顔をしかめてみたって、現実はどうにもならない。遊ぶ中心を失うと遊覧都市は半身不随で、熱海は現に魂のない人形だ。熱海銀座と糸川がなくなると、この町は心臓を失ってしまうのだ。  私の住む伊東では、風教上よろしくないというので、遊興街を郊外へ移しつつある。これでは話がアベコベだ。温泉地というものは中心が遊楽であるのが当然で、したがって街の中心も遊興街、温泉旅館街で構成さるべきであり、風教上よろしくないと思う人が、郊外へ退避すればよろしいのである。  だいたい伊東というところは、団体客専門の旅館ばかりで新婚旅行や、私たちのようにそこで仕事をしようという人種の落着くことができるような設備をそなえた旅館が殆どない。  熱海となると、新婚旅行や文士に適した静かな旅館も多く、それはおのずから中心を離れて、郊外に独自の環境を保っている。伊東はドンチャン騒ぎの団体旅館で構成されているくせに、風教上よろしくないというので、パンパン街を郊外へ移すというから笑わせるのである。  先日も伊東のPTAの人が私に嘆いて曰く、 「伊東に温泉博物館と図書館をつくるという案があるのですが、そういった文化施設には殆ど金をかけてくれないのですな」  これも妙な嘆きである。温泉へくる客はバカのようにノンビリと日頃の疲れを忘れようというわけで、勉強にくるわけではないから、博物館や図書館などに金を投ずるよりも、気持よく遊楽気分にひたらせる設備が大切なのだ。本を読むために温泉へ行く人もあろうが、読書家を満足させる本は図書館にはない種類のもので当人の書斎から持ってくる性質のものだ。  文化ということは温泉に博物館や図書館をつくるということではなくて、温泉は遊びにくるところだから、気分のよい遊び場としての設備をととのえるべきで、博物館や図書館などは無用の長物だということなどを知ることにあるのである。物に即してそれぞれの独自の設備が必要なのだ。  これにくらべると、熱海が自分の中心としてパンパン街をハッキリ認識したことは、正当な着眼だ。中心街の雑音がうるさかったり、風教上よろしくないと思う方が郊外へ退避すればよろしく、それが温泉都市の健全な在り方というものだ。  現に私は静かな部屋で仕事をしたいと思う時には、熱海へ行く。熱海には、中心街の雑音を遠く離れた静かな旅館がいくつもあるのだ。街の中心は局部的にいくら雑音が多くても構わない。むしろ局部的に、雑音を中心街に集中するのが当然だ。           ★  私は熱海というところを、郊外の旅館で仕事のために利用してきたから、中心街を長いこと知らなかった。今年までは糸川を歩いたこともなかったのである。たまたま林屋旅館を知るようになり、どんな真夜中に、電車も旅館もなくなって叩き起しても、イヤな顔せずに歓迎してくれるから、時ならぬ時に限ってここを利用し、したがって糸川の地を踏むようになったが、その奥のパンパン街を散歩したのは、たった一度しかなかった。私はこういうところは、半生さんざん歩いてきたから、今さら新天地を開拓するような興味が起らなかったのである。  今度の巷談に、熱海復興の様相をさぐれということで、熱海復興は糸川から、と叫んでいるぐらいだから、糸川見物にでかけることにした。  糸川の女たちも、糸川が復興するとは思わず、これで熱海は当分オサラバと思ったろう。私が火事を見物している時にも、糸川の女だけがホガラカで、ハシャイでいる唯一の人種であった。彼女らのある三人は、小さな包みを一つずつ持ち(それが全部の財産だったろう)来ノ宮の駅で、包みを空中へ投げながら、 「さらば熱海! 熱海よサラバ!」  火に向って叫んで笑いたてていたのである。  彼女らにとっては天下いたるところ青山ありである。火事場を逃げたその足で、伊東のパンパン街へ移住したのもタクサンいた。  約半数が他へ移住し、半数が焼跡に残り、焼けない家にネグラをつくって、街頭へ進出して商売をはじめた。これが熱海の新風景となって人気をよび、熱海人士に、市の復興は糸川からと悟らせ、肩を入れて糸川復興に援助を与えはじめたから、伊東その他へ移住した女たちも、みんな熱海へ戻り、熱海の女でない者まで熱海へ走るという盛況に至ったのである。  もっとも、糸川町はまだ五軒ぐらいしかできていない。多くの女は他にネグラをつくって、街頭で客をひいているのだ。  私は土地の人の案内で、糸川のパンパン街へ遊びにいった。私はそこで非常に親切なパンパンにめぐりあったのである。彼女は私をさそって、熱海の街をグルグルと案内してくれたのである。焼跡のパンパンの生態を私に教えてくれるためである。あれもパンパン、これもパンパン。彼女の指すところ、イヤハヤ、夜の海岸通りは、全然パンパンだらけである。駅からの道筋にも相当いる。  若い男と肩を並べて行くのがある。 「あれ、今、交渉中なのよ。まだ、話がきまらないの」 「どうして分る?」 「交渉がきまってからは、あんな風に歩かないわよ」  と云ったが、どうも素人の目には、交渉中の歩き方にその特徴があることを会得することができなかった。 「ここにも、パンパンがいるのよ。この旅館にも三人」  と彼女はシモタ屋や旅館や芸者屋を指して、パンパンの新しい巣を教えてくれた。至るところにあるのである。  糸川の女は、とりまえは四分六、女の方が四分だそうだ。しかし食費などは置屋が持つ。公娼制度のころと変りは少いが、ただ自由に外出ができるし、お客を選ぶこともできる。それだけの自由によって今のパンパンが明るく陽気になったことはいちじるしい。もっとも、これだけの自由があれば、我々の自由と同じものを彼女らは持っているのである。資本家と労務者の経済関係というものは、どの職域にもあることで、ほかの職域の人々はクビになると困るが、彼女らはこまらない。全国いたるところ、自分の選択のままであり、みんな青山というわけだ。だから彼女らは、はかの職域人にくらべて、クッタクなく、ションボリしたところもないのである。むしろ甚しく自由人というわけだ。  しかし、公娼というものは、制度の罪ではなくて、日本人の気質の産物ではないかと私は思っているのである。現在、公娼は廃止されているというが、表向きだけのことで、街娼以外の、定住したパンパンは公娼と同じこと、検診をうけ、つまりは公認の営業をやっているのである。  私は新宿へ飲みに行くと、公娼のところへ眠りに行くのが例である。むかし浅草で飲んでたころも、吉原へ眠りに行った。どちらも電車の便がわるくて家へ帰れなくなるせいだ。  公娼のところでは、酒をのむ必要もなく、ただ、ねむれば、それでいい。私はヒルネをするために、公娼の宿へ行くこともある。なぜなら、昼の旅館を訪れて、二三時間ねむらせてくれと頼むと、自殺でもするんじゃないかというような変な目でみられたり、ねむるよりも、起きているにふさわしい寒々とした部屋へ通されて、まずお茶をのまされ、つまり、日本の旅館はただねむるというホテル的なものではなくて、食事をして一応女中と笑談でも云い合わなければ寝る順がつかないような感じのところだ。  公娼の宿はそうではなくて、食事も酒もぬきであり、ねむいから、ほッといて、二三時間ねかしてくれと、いきなりゴロンとねてしまってもそれが自然に通用するところなのである。  私はよく思うのだが、銀座の近くに公娼の宿があるといいなと思う。終電車に乗りおくれてもネグラがあるし、第一、ヒルネに行くことができる。公娼の宿がないから、仕方なく、普通の旅館へヒルネに行くことがあるが、二三時間ねかしてくれ、とたのんでモタモタしていて、いつか、ねむれない気分にされてしもう。  これは在来の公娼の生態を私が自分流に利用しての話だが、しからば表面公娼が廃止され、彼女らに自由が許された現在、どうかというと、昔とちッとも変りがないのである。  たしかに彼女らには自由が許されている。これは嘘イツワリのないところだ。彼女らは公娼というワクの中でいくらでも個性を生かして生活したり営業したりできるはずが、そんなものは見ることができない。  私を外へ誘いだして熱海中グルグル案内してくれたパンパンなどは異例の方で、だいたい外へも出たがらないようなのが多い。新宿で私が眠りに行きつけの家も、終戦後十何人と変った女の中で、好きでダンスを覚えで、ホールへ踊りに行くのは、たった一人、大半は映画も見たがらず、ひねもす部屋にごろごろして、雑誌をよんだり、ねたりしているだけである。特にうまいものを食べたいというような欲もなく、支那ソバだのスシだのと専門店のものがうまいと心得ていても、特にどこそこの店がどうだというような関心もない。熱海中私を案内したパンパンは、スシはここが一番よ、とか、洋菓子はこことか、その程度は心得て、一々指して私に教えてくれたが、 「重箱ッてウナギ屋知ってるかい」  ときいてみると、知らない。この店は熱海の食物屋では頭抜けたもので、小田原も三島も及ばぬ。東京も、ちょッとこれだけのウナギを食わせる店は終戦後は私は知らない。こういう特別なものは、彼女らは知らないし、関心も持っていない。  自由が許されても、彼女らは鋳型の中の女であり、ワクの中に自ら住みついて、個性的な生き方をしようとしない。彼女らがそうであるばかりでなく、日本の多くの「女房」がそうで、オサンドン的良妻、家庭の働く虫的なものから個性的なものへ脱皮しようとする欲求を殆ど持っていない。  未婚時代はとにかく、ひとたび女房となるや、たちまち在来のワクの中に自ら閉じこもって、個性的な生長や、自分だけの特別な人生を構成しようという努力などは、ほとんど見ることができなくなる。 ねむいよ、ねむいよ ねむたかったら 女房とパンパンが 待ってる  私がこう唄ったからって、世の女房が私を攻撃するのは筋違いで、口惜しかったら、生活の中に、自分の個性ぐらいは生かしたまえ。諸氏ただ台所の虫、子育ての虫にあらずや。  私は三年ぐらい前に有楽町の当時五人の姐御の一人の「アラビヤ」という三十五ぐらいの姐さんと対談したことがあった。  たまにお客に誘われ、田舎の宿屋へ一週間も泊って、舟をうかべてポカンと釣糸をたれているのも、退屈だが、いいもんだ、と云っていた。アラビヤがそうであったが、街娼は概して個性的だ。つまり保守農民型は公娼となって定住し、遊牧ボヘミヤン型は街娼の型をとるのかも知れない。  現在の日本は、公娼と街娼が混在しているが、果していずれが新世代の趣味にかなって生き残るかということに、私は甚しく興味をいだいているのである。  しかし、東京のような大都会に於ては、長い年月をかけて、やがて「時間」がその結論をだすまで待つ以外に仕方がないが、熱海のような小都会では、もっと早く、その結論の一端が現れそうな気がする。大火によって、熱海には、はからずも公娼と街娼が自然的に発生した。あるいは熱海市が自分の好みで一方を禁止するかも知れないが、そうしないで、どっちが繁昌し、彼女らの動向が自然にどッちへ吸収されるか、実験してみるのも面白いだろうと思う。  街娼というものが個性をもち、単なる寝床の代用でなくて、男に個性的なたのしさを与えるようになれば、それはもうパンパンではなくて、女であり、本当の自由人でもある。日本のパンパンが自らそこへ上りうるか、どうか。又、日本の男が、パンパンのそうした個性的な成長を好むか、どうか。これは私も実験してみたい。  街娼ということは、決して街頭へでてタックルするというだけのものではない。アラビヤがそうであったように、自分の個性と趣味の中へ男を誘って、その代償に金をうけとることを云う。パンパンがそういう風に生長してしまうと、さしずめ私は街の寝床を失ってヒルネができなくなるが、そのころには気のきいたホテルができて、簡単にヒルネを解決してくれるだろうから、ヒルネに困りもしなかろうと思う。  どういうわけで熱海の糸川があれほど名を売ったか知らないが、実質はきわめてつまらぬ天下どこにも有りふれた公娼街にすぎないのである。地域的にも小さくて、むしろ伊東のパンパン街が大きい。  糸川がいくらかでも、よそと違うとすれば、女と寝床のほかに、温泉がついてるだけだ。小さな、陰気な浴室が。  こんな有りふれたつまらぬものでも、それで名が通ってしまえば、やっぱり熱海の一つの大きな看板だ。熱海市のお歴々が、熱海の復興は糸川から、と、今さらいと真剣に考えはじめ、しかめつらしい顔をそろえてパンパン街の復興の尻押しに乗りだしたからといって、笑うわけにいかない。  温泉都市の性格が、今のところは、そういうものなのだから、仕方がないのだ。名物をつくるというのが大切なことで、温泉都市の賑いは、その名物に依存せざるを得ないのである。  熱海市は大通りを全部鉄筋コンクリートにさせるというが、これも狙いは正しく、すくなくとも熱海銀座はそのように復活することによって、一つの名物となりうるであろうが、それはいつのことだか分らない。  これに比べれば糸川の復活は木と紙とフトンとネオンサインによって忽ち出来上るカンタンなものであるから、熱海の復興は糸川から、お歴々がこう叫ぶのは筋が通っているのである。  しかし糸川が復興したころは、散在した街娼の方が熱海の名物になっているかも知れん。しかし、これらの街娼は、大火によってネグラを他にもとめただけで、一挙に個性的なボヘミヤンに進化したわけではないのだから、実質的な変化は恐らく殆ど見られまい。しかし、これを長くほッたらかしておくと、やがて街娼はボヘミヤン型に、公娼は保守農民型に、自然に性格が分れていくのも当然だ。  今度温泉都市法案とかなんとかいうものが生れて、熱海と伊東と別府、三ツの温泉都市を選び、国家の力で設備を施して、日本の代表的な遊楽中心都市に仕立てるという。これについては、住民の投票をもとめ、半数以上の賛成によって定めるのだそうだ。  温泉都市の性格は、たしかに、そのようなものでもあって、その設備は土地の人間の利害や好みだけで左右すべきものではなくて、いわば、日本人全体の好みによるべきものだ。熱海は熱海市民のものだけではなく、日本人全体のもの、遊覧客全体の所持物でもあるのだ。それが温泉都市の性格というものである。  だから、温泉都市の諸計画が、その土地の人たちの自分だけの利害や、小さな趣味で左右されるのは正しいことではない。  すくなくとも、熱海の復興は、かなり多く自分の利害をすて、遊覧客全部のもの、という奉仕精神を根本に立てることを忘れていないので、復興が完成すれば、熱海の発展はめざましいだろうと思われる。  食事は皆さんお好きなところで。閑静、コンフォタブルな部屋だけかします、というホテルがたくさんできて、中心街にうまい物屋がたくさんできれば、私は大へん助かるのだが、今度の復興計画には私の趣味まで満足させてくれるような行き届いたところはない。  しかし熱海はすでに東京の一部であり、日本の熱海であるような性格をおのずから具えつつあるのだから、もう、これぐらいの設備を考えてもいいのじゃないかなと私は思う。 熱海のオジチャン ヒゲたてて 糸川復興 りきんでる  しかし、てれる必要はないのである。なぜなら、今に日本の総理大臣官邸に於ては、大臣どもが閣議をひらいて、日本の糸川の建設計画について、ケンケンガクガクせざるを得ないようになるだろうからである。  熱海のすみやかなる、又、スマートなる復興を祈る。 底本:「坂口安吾全集 08」筑摩書房    1998(平成10)年9月20日初版第1刷発行 底本の親本:「文藝春秋 第二八巻第八号」    1950(昭和25)年7月1日発行 初出:「文藝春秋 第二八巻第八号」    1950(昭和25)年7月1日発行 入力:tatsuki 校正:宮元淳一 2006年1月10日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。