安吾巷談 今日われ競輪す 坂口安吾 Guide 扉 本文 目 次 安吾巷談 今日われ競輪す  先月某新聞に競輪のことを書いたが、そのときはまだ競輪を見たことがなかった。二十万円ちかい大穴だの、八百長紛擾、焼打、そうかと思うと女子競輪などゝ殺気の中に色気まであり、百聞は一見に如かずと食指をうごかしていたが、伊豆の辺地に住んで汽車旅行がキライときているから、生来の弥次馬根性にもかかわらず、出足がおくれたのである。  二十日あまり坐りつゞけて、予定の仕事が全部かたづいた。こんなことは、ここ三年間に始めてのことで、たいがい翌月廻し、無期延期などゝ後味のわるい月日を送ってきたが、珍しく二十日のうちに五ツほどの仕事がキチンと片づいて、あと三日間ぐらいは天下晴れて遊べることゝなった。よってジャンパーにりりしく身をかためて出陣に及んだのが東海道某市に於ける競輪であった。私は背広も外套も持たず、冬の外出着といえばこのジャンパーが一着であるが、あたかも競輪へ微行のために百着の服の中から一着選んで身につけたように、競輪ボスか大穴の専門家かと見まごう豪華なイデタチであったそうだ。(と人が思ったのではなく、拙者が思った)  競輪場で新聞社の人に会う。市の役人に会う。青楼の内儀にもでくわす。拙者往年この町に住んでいたことがあるので、思わぬ知人がいるのである。競輪の事務所へ案内しましょうか、特別の見物席もあります、などゝすすめられたが、ことわる。特別の観覧席へ招ぜられて、お役人の手前味噌の競輪談議をきかされても、何のタシにもならない。我こそは競輪の秘密を見破り、十八万円の大穴をせしめてやろうと天地神明に誓をたてていたのだから。  第一日目はウォーミング・アップ。種々の方法を試みて軽く所持金を消費し、翌朝の一番列車に使いの者を伊東へやって、家の有金を全部とりよせる。第二日目は、第一日目に看破した秘伝を用いて、三千円とちょッとだけの損失でくいとめる。つまり、両替屋へ三度しか行かなかったということで、十二レースのうち九レースは配当を受けとり、その配当で次の券を買ったという意味だ。ちなみに、第一日目は一度も配当がなく、毎レース毎に両替屋へ行かねばならず、ジャンパーの手前、両替の娘の子にも恥しい思いをしたし、配当をうけとる人々を眺めながら、なんたる奇蹟の人種かと舌をまいていたのだ。私はだいたい一レースに千五百円平均ぐらいずつ券を買った。そして、試みたのである。その試みの詳細は追々物語ります。  第二日目には三千円ほどの損でくいとめたから、三日目はいよいよ三十万円の大モウケだと、宿屋の寝床の中でアレコレ秘策をねり、こころよく熟睡したが、翌日はなんぞはからん、第十レースにして所持金全額を使い果し、一敗地にまみれて明るいうちに伊東の地へ立ち帰る仕儀と相成ったのである。わが家に於ては小生が有金全部失うこと必定とみて、すでに東京に赴いて金策を果し、敗軍の将をねぎらうに万全の用意をととのえていたが、このへんは近来の美談と云うべきであろう。  その三日の間に、私は競輪の選手と予想屋を招待して、その話もきいた。役人を間に立てて選手と話しても何にもならないから、やわらかい方面から渡りをつけて、三名の選手を夕食に招じ、腹蔵ない話をきいたのである。  甲はA級選手で二十三歳。たいがいのレースに本命又は対抗におされている選手だが、この競輪では負けつづけている。乙はB級の無名選手だが、このレースでは一着を出している。十九歳。丙もB級の新人で十七歳。彼らは酒もタバコものまなかった。年の若いせいもあるが、その害も知っているのだ。  競輪期間、選手は一日当り千百円の宿泊料をうけとる。これは主催地の負担である。しかし指定の宿屋、合宿所というようなものはなく、縁故者や後援者のところへ宿をとり、支給される宿泊料は不足するということはない。一レース九名ずつ選手がでて、六着までナニガシかの賞金があり、弱い者にはトップ賞といって、一周ごとに先登をきった者に千円与える仕組みもあるから、弱者の戦法によってレースごとにいくらかの稼ぎがあるのが普通で、会社の日給と合せると、最もパッとしない選手でも、他の業務にくらべて収入は多く、収入の不満はない。  負傷した場合には、負傷の治るまでの宿泊料と医療費を負傷した主催地が負担する。これに対しても、選手は満足しているようである。選手の生活は保証されており、酒色にふけらない限り、お金には困らない。  選手は概ね単純な若者である。概して教育の程度は低いが、個人競技で、勝敗がハッキリし、油断すると負けるから、必然的に摂生を考えざるを得ず、その競争意識によって、おのずと品性も高まりつつあると見てよい。一部に伝えられる選手の腐敗ぶりは、極めて特殊な現象で、一般に名誉心にもえた単純な若者たちが多いようである。彼らは朝晩ごとは猛練習する。予想屋はそれを見て予想を立てるのである。  あの選手はゆうべ夜遊びをしたとか、風邪ぎみだとか、情報がはいる。こういうコマカナ情報が分りすぎると、予想は当らなくなる一方だそうである。  選手がトラックに現れて一周し、車券の発売が〆めきられるまで、ガラス張りの小部屋の中に、番号順に腰かけて、毛布で足をくるんで休息しているが、レース開始直前になると、必ず便所へ立つのが二三人いる。試合になれない初心のころは、試合開始に先立ってしきりに尿意を催すものだから、この連中は勝てないぞ、と私は思う。いよいよスタートラインにつく。一同パッと毛布を払いのけて立ち上るが、中に一人、テイネイに毛布をたたんでいる礼儀正しいのがいる。これは見どころがあるナ、と私は考える。プログラムをとりだして、選手番号でしらべてみると、私は小便組を買っているが、毛布の選手を買っていないのである。シマッタと思う。  ところが、レースがはじまってみると、案外なもので、小便が勝って、毛布はビリである。しかし最後に一挙抜くのだろうと見ていたが、いつまでたってもビリであった。この時ほど、競輪の悲哀を身にしみたことはなかった。           ★  三日間の戦跡を回顧すると、私が二日目に三千円の損失でくいとめたのは奇蹟であったということが分るのである。  私は第一日目には、競輪といえばインチキ、八百長と見くびって、もっぱら大穴を狙い、本命や対抗を頭にした券を一度も買わなかった。そして、全部失敗したのである。  結局十二レースのうち、十一レースまでは、本命か対抗がたいがい頭にはいって、これは先ず外れることが少い。  当らないのは二着なのである。  そこで二日目は本命、対抗、もしくは穴と思われる有望なのを頭において、二着を一から六まで全部買ってみることにした。つまり、本命が二番、対抗が五番、穴が六番、 2-1  2-3  2-4  2-5  2-6 5-1  5-2  5-3  5-4  5-5  5-6 6-1  6-2  6-3  6-4  6-5  6-6  と全部買う。頭に来そうなのがタクサンあると、それだけモトデがかかり、本命の楽勝がハッキリしていると、五枚、六枚ですむのである。  二日目は十二レースのうち十一レースまでが荒れつづきで、本命と対抗が一二着にはいったというのが一度しかなかった。頭はたいがいきまっていたが、常にとんでもないのが二着にはいって、九レースまでが千円から三千円前後の中穴、一レースだけ本命通り、残りの二レースが一二着とも大番狂わせの一万何千円二万何千円という大穴であった。私は本命や対抗を頭に買っていたから、大穴は当らなかったが、中穴が全部当ったのである。  この日のレースが九レースまで中穴だったから、私が三千円の損失でくいとめたのである。つまり私は通算して一回に千五百円ぐらいずつ車券を買っているから、すくなくとも中穴が出ないと回収がつかないのだ。うまいことに、この日は中穴の続出で、こんなことは例外なのである。  この方法で買えば大穴以外は必ず一枚当るが、本命通りの結果に終ると、配当は百五十円ぐらいしかなく、常に大損するわけだ。  そこで大穴を狙う最も確実な方法は、常に三千三百円買うことである。なぜなら、フォーカスの事券は三十三種しかないのだから。しかし穴を狙う以上は、全部買う必要はない。三千円もつかって百五十円や五百円程度の配当をもらっても何にもならないから、本命や対抗を一二着にしたものは買わず、売れていないのだけ二十五種か三十種買う。穴は必ずこの中から出る。大穴がでれば必ずもうかる。しかし、二千五百円ずつ十二レース買うと、一日に一度、三万円の大穴がでてくれないと、やっぱり損をするのである。  大穴狙いはタクサンいる。車券の窓口で、何枚うれた? と売り子にきいて、二十枚以下しか売れない券ばかり買い漁っているのが何人となくいるのである。  競輪はたいがい大穴がでる。私の見た競輪は第一日目は三万何千円かの穴がでたし、二日目は一万と二万と合せて同じく三万円、三日目も二万円と一万円、合せて三万円。  だから、三万円の軍資金を使って大穴狙いを専門にすると、この三日間の競輪に於ては、元はとれたが、モウケもなかったワケだ。  そして、三万以上の大穴は、私の見た競輪場では、有り得ないことが分った。なぜなら、フォーカスの総売上げが六千枚前後で、四十五万円ぐらいを配当に払い戻すことになるワケだが、どの券も最低十三四枚は売れており、十枚以下ということがなかった。したがって、売れ行の最少の券に配当がついても、三万何千円が最高の配当で、どんな番狂わせでもそれ以上の配当は望みがなかったワケである。  三万円の軍資金を使えば、大穴のでる限りは、必ず大穴が当る。その代り、その日、大穴がでなければ、損をすることになるのである。  私は三日目にこの原理を利用して、たちまち一万五千円ばかり空費したが、五レースを終っても、穴がでない。そろそろ軍資金が乏しくなったので、中穴狙いに転向したら、トタンに二万何千円かの大穴がでて、バカをみた。それ以後は益々クサッて、スッテンテンになった次第であったが、その大穴が当っても、要するに元々で、モウケはなかったのである。  大穴狙いのモウカル方法としては、はじめの第三レースぐらいまでに大穴がでて、そこで中止して帰ってくればモウカル。確実なるはそれだけだが、ともかく、競輪をやって損をしない方法としては、本命だけ買うか、全部買うか、どちらかで、しかし、どちらにも絶対という確実性はない。  よく人々は云う。本命を復で買っている限り絶対に確実だ、と。だが、これとても、決して、そうは参らない。本命の複は、配当が元の百円か、よくて百十円ぐらいのものだ。したがって、十レースに一回外れても、九回のモウケをフイにするわけで、この原則は、券を何十枚買ったところで、変りがないのである。そして本命が負ける率は十レースのうちに一回以上多いのが通例である。  そこで、合計して一日に三万円以上の穴がでる限りは、穴狙いの方がむしろ確実ということになる。十八万円、十五万円と大穴がでてくれれば、三日目に一度でても大モウケということになるワケだが、競輪は大穴がでる、穴狙いにかぎる、という見方が定まって、穴狙いの専門家が続出すると、どの券にも相当数の買い手がついて、どんな大番狂せがでても、三千円五千円ぐらいしか配当がつかないようになるのである。  私の見た東海道某市の競輪は、穴のでる競輪場だと予想屋がしきりに絶叫していたが、たぶん、そうだろうと私も思った。  なぜなら、ここは観衆が少く、東京方面から来る人も少い。したがって、売り上げも少く、配当も悪いとみて、競輪専門の商売人もあんまり乗りこんでこないらしいのである。したがって穴狙いの専門家も少いから、観衆の大多数が本命を狙い、売り上げは少くとも、穴が当ると、二万、三万の配当がつく。  東京周辺の観衆の多い競輪場では、穴狙いの人種も多いから、売り上げに比較して、どんなボロ券にも相当以上の買い手がついており、結局、どんな大番狂わせがでゝも、配当は三千円ぐらいということになる。都会地に穴レースが少いのではなく、常に大穴レースは行われているのだが、穴狙いが多いので、配当が少くなって、表面上大穴にならないというだけのことだ。  私の出かけた競輪場でも、大穴は午前中にでる、と云われ、事実、その通りであったが、これも売り上げの数字表を見ると化けの皮があらわれ、大番狂わせのレースは午後も行われているのだが、一度大穴がでると、みんな穴を狙いだし、又、午後になると自然焦って、多くの人が穴を狙いだすので、どんなボロ券にも相当数の買い手がついて、大番狂わせの配当率がグッと下っているだけのことだ。  だから、穴狙いをやるのだったら、レースを見るよりも、車券の売り上げの数字表を見ることだ。総売り上げと、一番買い手の少い券の数を見て、配当を計算すれば、その日、大穴がでるか、出ないか、すぐ分る。大穴はレースの番狂わせによるのでなくて、車券の売り上げ数によるということを心得ていればよいのである。  そこで売り上げの数字を見れば、その競輪に何人ぐらいの穴狙いがモグリこんでいるか分るし、どんな番狂わせがでても、三千円、五千円ぐらいにしかならない、ということや、あるいは二万、三万になりうる、ということが分ってくる。その計算の結果にしたがい、二万、三万の穴のでる見込みがあったら、穴専門に狙う方が確実にもうかる。なぜなら、番狂わせは、必ずといっていいほど、あるのだから、である。  けれども、穴狙いには、三万円のモトデが必要だから、三千や五千の穴しか出ない競輪場では、一穴や二穴では回収がつかず、この方法も結局ダメということになるのである。           ★  競輪には八百長が多いと云われている。私の三日間の観察でも、たしかに、そうだ、と思われる節が多かった。  しかし、すくなくとも、私の見た競輪場の観衆は、あまりに、あまい。彼らが八百長だと思ったときは、案外八百長ではなく、八百長は観衆の盲点をついて巧妙に行われているようである。競輪の観衆は、目先の賭に盲いて、盲点が多いから、そこをついて、いくらでもダマせるのである。  一般に競輪場は、地方ボスに場内整理をゆだねているので、そういうボスのかかりあっている数だけ、八百長レースが黙認された形になっているらしい。  私の住む伊東市でも、目下、競輪場をつくるか否か、大問題になっている。つくりたいのは市長であるが、市民の多くが反対のようである。  伊東市の新聞の伝えるところによると、さるボスにわたりをつけて場内整理をたのんだところ、このボスはほかの競輪場の場内整理を二十万円で請負っているが、伊東は観衆が少いから、二十五万でも合わないと渋ってみせたという。  観衆が少いから、ひきあわないとは妙な話で、少いほど場内整理はカンタンの筈であり、入場料の歩合いをもらうワケではなく、整理料はちゃんと二十万、二十五万と定まって貰う筈なのである。  だから、観衆が少いから、というのは、ボスに対して一日に一レースは黙認されている八百長レースの配当が低い、ということを意味し、八百長の存在を裏書している言明だとしか思われない。  このボスは東海道名題のボスで、土地のボスではなく、このボスに渡りをつけるには、土地のボスの手を通す必要もあり、土地のボスもいくつかあるというわけで、それらにしかるべく顔を立てるとなると、一日に四ツも五ツも八百長レースが黙許されざるを得なくなるのである。  しかし、私が先ほども述べた通り、八百長レースが多いほど穴狙いの確率は多くなるのであって、素人でも、軍資金を豊富に持って、穴を狙えば、もうかる確率が多くなる。  気の毒なのは、零細の金で、まともにモウケようとする大多数の正直な人々で、この人たちが損をする確率は増す一方、ということになる。  先日、川崎で起った大紛擾、売り上げ強奪事件は、内山という名選手、当然優勝すべき本命選手が、車の接触か何かで反則し、除外されることによって起ったものだ。  これが八百長か、どうかは、私に判定のつくことではないが、すくなくとも、本命自身が反則を犯して除外される、というような場合には、観衆はこれを八百長と判断し易いのは当然なことで、なぜなら、大多数の正直な観衆は本命をタヨリに車券を買っており、そこに盲点のあろう筈はないから、ハッキリしている本命が反則したり負けたりすると、偶然の事故にしても、八百長と判じがちなのは自然の情であり、イキり立つのもムリがないのである。  しかし、本当の八百長は、観衆の盲点をついて、巧妙に行われているものだ。私の見たレースから二三の例をひいてお話してみよう。  次のようなレースがあるとする。人名は分り易く二人の有名選手の名をかりたが、この二人は八百長をやる人ではない。二千米。 フォーカス番号 番号 姓名   人気 1       1  白太郎  入着ノ見込ミアリ 2       2  田川博一 対抗。アルイハ一着 3       3  赤二郎  マズ見込ナシ 4       4  黄三郎  油断ナラヌ。穴         5  青四郎  コレモ曲者 5       6  小林米紀 本命。マズ負ケマイ         7  黒五郎  マズ見込ミナシ 6       8  緑六郎  新人ナガラ曲者         9  橙七郎  古強者。戦歴アリ  競輪の小林といえば、横田と並んで、二大横綱。レースを棄てない名選手でもある。これを本命とみるのは当然。次に、田川、これ又、名題の名選手で、対抗は充分である。  一番の白太郎、四番の黄三郎なども曲者だが、小林、田川は対抗するとは思われないからフォーカスの本命は 5-2  か、又は、その裏の 2-5  であり、車券の大多数はそこに集る。そのほかに、穴として、 5-4  5-1  2-4  2-1  なども相当の人気がある。6に目をつけている人もかなりいるが、3の赤二郎は大穴狙いの商売人が買っているだけだ。3と同じように全然人の注意をひかないのは個人番号七の黒五郎だが、これはフォーカスとしては小林と組になっているから、一層問題にならない。  ところが一大混戦となり、小林は包まれて出られず、田川がトップをきっていたが、ゴール前の混戦に、アッというまに横からとびだした黒五郎が優勝してしまった。 「アッ。七番だ!」  しかし、次の瞬間に、 「ワッ。五─二。当った。当った」  と、どよめきが起る。本命の小林は負けたけれども、フォーカスで小林と組になっていた黒五郎が優勝したから、本命の五─二は動かなかったわけ。観衆の大多数は五─二を買っているから、当った、当った、と大よろこびで、本命の小林が負け、名もない黒五郎が勝ったことが、全然問題にならない。  競輪の観衆の大部分がフォーカスを専門に買い、単複はフォーカスの十分の一ぐらいしか売れないのが普通だから、フォーカスの本命がでれば、大多数は満足で、文句のでる余地はない。  人々は全然フォーカスに気をとられて忘れているが、黒五郎の優勝は、単複に於ては、大穴となっているのである。大多数の人々はフォーカスで安い配当を貰って満足しており、巧妙に盲点をつかれていることに気付かないのである。  恐らく、小林がフォーカス番号の三番におり、誰とも組になっていない場合に、田川も小林も敗れて、名もない黒五郎が勝ったなら、大モンチャクとなったであろう。  包む、という戦法が、すでに、おかしい。包むには、すくなくとも三人ぐらい共謀して外側をさえぎる必要があるのである。ところが競輪は個人競技だ。包むには共同謀議が必要であって、すでに八百長を暗示している事実なのだが、包む、という策戦が、八百長としてでなく、競走の当然な策戦の一つとして観衆に認められているところにも、観衆のアマサがあり、盲点があるのである。  もう一つ、逃げきる、という戦法がある。これは千米レースに行われることで、名もない選手がグングンでる。トップ賞といって、各周ごとに先登をきった者が千円もらえるので、弱い選手が始めグングンとばして千円狙うのは、いつものことだ。ハハア、先生、トップ賞を稼いでいるな、とみな気にとめていないが、二周目に速力が落ちるどころか益々差をつけ、最後の三周目に、強い連中が全馬力で追走しても、追いつけないだけ離している。そしてトップのまま逃げこんで、優勝してしもう。これを逃げきる、と称して、観衆は弱い選手の巧妙な戦法の一つだと思いこんでいるのである。  私は、昔、陸上競技の選手であったが、しかし、陸上競技の選手でなくても、分ることだろう。本当に実力がなければ、逃げきる、ことなどが出来る筈はないのである。名もない選手が、それまで実力を隠していて、突然実力いっぱい発揮して、逃げきって、勝つ。これなら、分る。  しかし、それまで弱い選手、そして、その後も弱い選手が、一度だけ逃げきって勝つなどゝいうことは有りうべきことではないのである。  いつか神宮競技場で行われた日独競技の八百米で、それまでビリだったドイツ選手(たしかベルツァーだったと思うが)最後の二百米で、グイ〳〵と忽ち二着を五十米もひきはなして勝ってしまったが、実力の差はそういうもので、強い選手は必ず追いぬくし、追いぬかれない選手は、それだけの実力があるにきまったものだ。弱い選手がトップをきって、逃げきることは、絶対に不可能だ。一分十五秒で千米を走る強い選手は自分のペースで走っており、最終回までに全力がつくされて一分十五秒になるように配分されており、一方、弱い選手が、一分二十五秒でしか千米を走ることができないのに、逃げきることによって、一分二十秒に走りうる、という奇蹟は、有り得ないのである。一分二十五秒でしか走れない選手は、逃げきり戦法でも、レコードを短縮することはできない。レコードを短縮し得たとすれば、それだけの実力があり、それを隠していただけのことだ。  だから、強い選手は逃げきることができる。しかし、実力のない選手が逃げきることは有り得ないのである。  私の見たレースでは、あらゆる競輪新聞や予想屋が、全然問題にしていなかった選手が逃げきって勝った。  観衆は、アー、逃げきりやがって、畜生メ! とガッカリしていたが、もし、この選手がこのレース一度だけで、その後のレースに弱いとすれば、これもハッキリ八百長にきまっている。  私は、又、本命と対抗が二人まで落車して、タンカで運ばれて去るのも見た。  競輪はペダルに靴をバンドでしめつけて外れない仕組になっているので、落車すると自転車もろとも、一体にころがり、コンクリートのスリバチ型の傾斜をころがるから、本当に落車すると、相当の負傷をする。  しかし、私の見た落車は、スピードの頂点に於て行われたものではなく、前の車をカーブでぬこうとしてスリバチの頂点へ登りつめ、登りつめたことによって、速力が停止した瞬間に横にころがっていた。これは最も危くないころがり方である。  観衆は落車は危険だと思い、落車すると、すぐタンカがきて、運んで行くから、誰しも落車を偶然の事故だと思って怪しまないが、カーブに於て、スリバチの頂上に登りつめると、自然に停止する瞬間があり、その瞬間にころがると、停止してころがったのと全く同じ状態にすぎないことを見のがしているのである。同時に又、スリバチ型の頂上へのぼりつめて、自然に速力が停止すると、もしペダルから足が放せるなら、当然片足をヒョイと降して、支えて止まる状態でもあり、それが出来ないから、ころがるだけの、きわめてスムースに、かつ、やわらかく、ころがりうる状態であることを知る必要もあろう。  落車は最終日に於て行われたが、これも亦、何事かを暗示しているように私は思った。しかし、観衆は、落車には同情的であり、落車にもいろいろの場合があることを度外視しているから、ここにも盲点がありうるのである。  ともかく、競輪というものは、フォーカスで本命ばかり買っても、全然ダメ。復で本命を買っていても、二度以上は外れるから、やっばりダメ。マトモに買っては、目下のところ絶対にもうからない。  現在のところでは、三万円をフトコロに、穴狙い屋の少い競輪場へ出かけて、大穴専門にやるのが、むしろ最も確実なのである。なぜなら、半数ぐらい番狂わせが出るから。そして、この番狂わせが八百長かどうかは分らないが、八百長でも有りうることは、私が今まで述べたところで、ほぼ判じうるだろうと思う。           ★  しかし、私が話を交した三人の選手のヒタムキな向上心や、彼らによって物語られた選手の私生活について考察しても、選手自体は概ね勝負一途の、競輪に青春を賭けた単純で名誉心にもえたった連中で、選手の腐敗ということは、きわめて一部分の現象でしかないようである。常に新人が登場して、それが勝敗以外に余念のない十七、十八、十九ぐらいの若者ぞろいであるから、その競争心は熱烈であり、練習も亦猛烈だ。彼らの朝晩の練習は、真剣そのものである。だから、追われる方も油断ができず、酒色に身をもちくずせば早晩破滅するばかりであり、好んで八百長をやる筈はない。  しかし、八百長はたしかにある。もしも、あの打ちつづく番狂わせが、八百長でなく、競輪自体の性格であるとするならば、競輪というものは三千円や五千円ぐらいのモトデで出かけたところで損をするばかりで、三万円をフトコロに穴を狙うのが一番確実なレースだということになる。そして、それをやりうる金持だけが、ともかくモウカル仕組であり、貧乏人はまったく見込みがないというレースの性格でもあるわけだ。  又、一日に二レースに出場する選手が、一レースを投げ、他の一レースに全力を集中するということが許されるなら、これも一種の八百長とみてよろしく、主催者は、プログラムの製作を変える必要があろう。  しかし、八百長の元は、場内整理にボスが当り、選手派遣についてもボスに渡りをつける必要があるなどゝいう仕組の中にあるのだろうと思う。しかし、現在、競輪に人気が集中しているのは、その八百長的性格のせいで、大番狂わせ、大穴のでるところに人気があつまっているのだから、八百長の性格が少くなると、競輪熱も衰え、片隅の存在になるのじゃないかと思われる。  賭博というものは、それで生計をたてる性質のものではなく、遊びであり、その限りに於て、片隅に存在を許されることは、不当ではない。特に日本の国情として、世界的に観光国家として発展の必要があると、片隅の存在としての賭博は、片隅ながらも、国家的な配慮に於て行われる必要はあるだろう。  そういう場合に最大の障碍となるのは、その賭博によって生計を立てる人種が介在することで、つまり、ボスというものの存在を許すかぎり、賭博は民衆の「遊び」として育てることはできないのである。  賭博を単純に遊びとか保養というものに解する生活が確立すれば、もとより賭博の害もなく、競輪場の紛擾もなくなるだろう。モナコがなくなっても、自殺者の数はへらない。 底本:「坂口安吾全集 08」筑摩書房    1998(平成10)年9月20日初版第1刷発行 底本の親本:「文藝春秋 第二八巻第四号」    1950(昭和25)年4月1日発行 初出:「文藝春秋 第二八巻第四号」    1950(昭和25)年4月1日発行 入力:tatsuki 校正:宮元淳一 2006年1月10日作成 青空文庫作成ファイル: 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