『かげろふの日記』解説 折口信夫 Guide 扉 本文 目 次 『かげろふの日記』解説      堀君 一 唐松の遅き芽ぶきの上を 夏時雨 はるかに過ぎて──  黄にけぶる 山の入り日      堀君 二 冬いまだ 寝雪いたらず しづかに澄む 水音。  君ねむる。五分 十分──。  ほのかなる けはひののちに、  おのづから 眶をひらく。 日のあたる明り障子 たゞ白じろと ひろがり 見し夢の かそかなる思ひに つゞく      堀君 三 みつまたの花咲く日 山原を 行きしかな。 山の戸をあけたる娘の 家こそは 小かりしか もの言はぬ娘の 黒瞳の 冴え〴〵と小かりしか みつまたの花咲く道をくだり うつ〳〵と 若きはたちを歎きたりけむ      堀君 四 村の子を 友として 遊べとぞ 君を思ふ。 さ夜ふけて、枕べに ほの〴〵と 清きくれなゐ──。  げん〳〵の花茎を  見出でなどして──  君が心 いよ〳〵たのしくならむ。 村の子を 友として遊ばねど、 たゞ清き生きものなる 村の子は、君が心を知りて  瞻るらむ。君が門を──  君がゐる 牕のあかりを──      山居 山深き小鳥の声は、 しづかなり──。あまりしづけく 真昼間は 心とよみて、 起きがたく ひとりあらむ 私はまづ、堀君に感謝したい。 「愛する」では言ひ足らぬ──、魂の一部分が、そこに預けてあるやうな、親しい大和──其から山城の野山・村々、其よりも更にそこに佇み、立ち走り、蹲つてゐる姥や娘、又は若者たちに、優しい一瞥──ばかりでなく、思ひあまつて、いつまでも彼等の心に残るやうな、静かな声をかけて通り過ぎて行つた旅人──堀辰雄に、「ありがたうよ」と言ひかけずに居られない気がする。 堀君の旅は、あり来りのたゞの道を通つて行つてるとしか見えない。其でゐて、我々の思ひもかけぬ道の辻や、岡の高みや、川の曲り角などから、極度に静かな風景や、人の起ち居を眺めて還る。 さう言ふことが、この人の見た日本の過去の文学の上にもあつて、「堀君」「堀君」と沢山さうに、友だち扱ひにしてゐるのが、すまない気持ちになることが、始終ある。 堀君ばかりは、健康が順調になつても、やつぱり今のやうな生活をしてゐるに違ひない。さう思ふ程、ちつとも易へやうのない生活をして来た人である。 堀君を思ふと、まるで自分の追憶のやうに、若い堀君の、その時々が浮んで来る。落葉松の林に雨が過ぎ、はんがりやの娘などの自転車が、沢の中に光つて隠れて行く──軽井沢。そこに、子供ばなれのした頃から、しぼますことなく持ち続けてゐた清らかな恋ごゝろ──。此が皆、堀君の抱いて来た文学の姿ではなかつたか知らん。 東京も、大川向うで育つた堀君が、北信州の山野に、幾年もがゝりで求めたものは、何だつたらう。其をはつきり指摘しようとするのは、無貪著すぎる気がする。其を姑らくかう言つておいてはいけないだらうか。浅間表の木の葉や、草の光り、水のせゝらぎ、鳥の飛び立つ翼の音──さう言ふ感覚を漉して来ないでは、ふらんすの王朝文学を、そつくりうけとることの出来ない訣があつたのだらう。謙虚な心の堀君は、固よりそんなことを思うた筈はない。が、さう言ふ生活の重複があつて、さう言ふ所から、日本の王朝時代が、正しく見えて来た堀君だと思へば、其でよいだらう。 一人を褒めるのに、も一人をけなすと言ふ行き方は、甚だ不幸な方法で、私などは、其をせぬことにしてゐるのだが、今の場合あまり適切に、一言二言で言ひきつてしまふことが出来るから、さう言ふ見方をさせて貰ふ──のだが、過ぎ去つた芥川龍之介、この人の王朝は、今昔物語式には最的確な王朝物は書いたけれど、源氏・伊勢が代表する平安朝の記録と言ふところには達しなかつた。堀君は心虚しうして書く人だけに、極めておほまかにではあるが、おほまかだけに、王朝貴族の生活のてまを適切に捉へることが出来た。源氏の論文を書いた人の中には、私の尊敬してゐる人々が多いが、その方々にも、堀君の「若菜の巻など」は、是非読んで頂きたいと思つてゐる。其ほど、源氏の学史にとつては、大きな提言をしてゐる。 「伊勢物語など」は、堀君の詩人としての権威を、感じさせる文章である。りるけのどういのの悲歌を引いて、神に似た夭折者を哭し、その魂を鎮めようとする考へ方をひき出して来てゐる。その点は、古代日本人に似てゐるが、又違ふ。西洋人のやうに、其を自分の慰め・救ひとするのではなく、たゞ人の魂を鎮めることにしてゐたと言ふあたり、……併しどちらにしても、此鎮魂的なものが、一切のよい文学の底にあることになる。 「更級日記」の作者は、感覚がむやみに発達して、時としては、表現する語をのり越えて、溢れてゐるやうにすら見える。其結果心剰つて語及ばず、とでも評せられさうな所のあつた人だが、堀君の之に対する触れてゆき方には、変つたものがある。少年の日から愛著した信濃の土地──それへ来ないで、その山国に暮す夫を待つてゐる都女としてばかり、作者を手放して置くことの出来なくなつた堀君は、古い魂の因縁を説いてゐるのである。更級の女は其未生以前、既に一たび世に現れて、「わが心なぐさめかねつ。更級や、姨捨山に照る月を見て」あの古歌を詠んで過ぎた、過去の人でもあつた気を起させられる。小説を読む人たちの中にも、やはりさうした作家につき添ひ、作家に先立ちして行く、読みの深さを持つた人の出て来ることが必要である。でないと、いつも作家ばかりが進んでゐて、読者は、その啓蒙を受けて行くばかりである。堀君のかう言ふ作物群に触れると、もうさう言ふ読者も出て来てよいと思ふ。 堀君は、自分の親しい信濃に、作者の生活をも立ちまじらしたかつたのだ──かう言つてゐるが、私どもにはも一つ、その心の底に、しづいて輝くものゝあるのが見える。若い時から愛読してゐた更級日記の女が、段々年たけて、親を養ふ様などを思うて、堪へられなかつたであらう。此時分の受領の妻の生活は、そんなに幸福なものではなかつた。男こそ、宮廷・大貴族に仕へるさう言ふ女房を、客分のやうにして迎へて、そのぷらいどに輝く思ひあがつた姿を、任国の人々の目に、ほのめかしてやるだけでも、天に上る気持ちがしたものであらう。だからさう言ふ夫や、家人にとり捲かれた有頂天な喜び、反省などは都に置き忘れて来たやうな生活をさせてやりたかつたのであらう。事実夫が信濃の国府(今の松本近辺)へ下るのに、誘はれなかつた彼女の生活が、その後豊かになつた風も見えなかつた。如何に平安朝も末に傾いてゐたと言つても、まだ院政時代にさしかゝつたゞけの時代で、都人が、花の様な世の中を楽しんでゐるに十分だつた。ひとり醒めたやうに、この女性は、時々遠国の夫から送りとゞけられる信濃の山づとを、つまらなさうに見てゐたであらう。其をもつと幸福にしてやりたかつたのだ。 堀君はちつとも、自分を世の常の人に変つた人間だと思はれようとしない人である。若い頃からさうだつたから、我々は感心する。名ある野山を歩いて、其名所旧蹟を眺めることを喜ぶ素直さの一方に、其野山の間の窪地や、岡の陰に、誰の心にもとまらなかつた所を見つけて、腰をおろす。そこにゐて、耳を澄し、息を整へて、名もない所の心やすさをたのしむ静かな心──。さう言ふ所のあつた人だ。 「黒髪山」を見て、「ホトトギス」の写生文の栄えた時代を、何となく思ひ出した。併しつく〴〵思ふと、「ホトトギス」の作者たちは、虚子・漱石から、四方太・三重吉に到るまで、皆何かえらさがあつて、人を安んじさせなかつた。堀君に思ひ比べると、其がまざ〳〵感じられる。同行の神西さんが東京へ帰つてから、名もない山の中を歩いてゐる。古代人が幻想したやうに、木の葉を一ぱい浴びた姿の死者となつて、佐保山の奥に、ほんたうに自分自身が迷ひ入つたやうな感じを書いてゐる。しかしどこまで行つても、山は明るかつた。明るいなりに、山は無気味にしいんとしてゐた。さうして暫らくして、又物音のする村里へ出て来る。 奈良ほてるの、荒池を眺める部屋を出て、近在を廻り、気が向けば随分遠くまで踏み出す気にもなるといふ、神無月柿の熟する頃、堀君の健康が、調子よく行つてゐた時の日記である。随筆と言ふものは、ある品格が必須条件である。其為にこそ、学者風格もあつてほしくなるのである。此にはさうした所が、好しいまでに出てゐる。堀君がさうして歩いてゐる間に、高畠の村陰に、崩れた築地を見出した。其がふと、王朝時代の零落した貴族邸の幻影を呼び出す──曠野を書く機縁に行きあたつたのである。思へば此頃は、中年に入つて後、堀君の最幸福な日々が、続いてゐたものと言はれよう。 十月大和に遊んでその十二月、寒くなつた冬に、又旅を思ひ立つて、奈良ほてるに行つた。此時は、天武・持統両天子合葬陵だと伝へられた五条野の墓の辺までへも行つてゐる。又は、山城へ越えて、瓶原宮阯あたりまで出かけた。「暫らく誰にもあはずに、山の方に歩いてゐると、突然、上の方から蜜柑を一ぱい詰めた大きな籠を背負つた娘たちが、きやつ〳〵と言ひながら、下りて来るのに驚されたりしました。長いこと、山国の寒く痩せさらばうたやうな冬にばかりなじんで来たせゐか、どうしても僕には、こゝはもう、南国に近いやうに思はれてなりませんでした。」かう言ふ、文章すら、静かな幸福に満ちてゐる。 今昔物語本朝部の記述は、民間に伝承せられたものが、其まゝはじめて筆にのつたものもあつたであらう。平安時代もそこまで来ると、余程、複雑になつてゐる。伊勢物語との距離は精確にはわからぬが、実際は大した年代を経てゐないのであらう。大きく見積つて二百年には足らぬ年月だと思ふ。伊勢には極めて簡単に伝へてゐる物語が、今昔では、此様に育つてゐる。さう言ふ気のするものもあつた。殊に「曠野」にとりあげた原話などは、さう思はせられる。はつきりと同じ物語の、古い形と、新しい形だとはきめられぬのが、伝説文学の常なのである。伊勢には二つあつて、二つながら、今昔のとは、初めが違つてゐて、再会の所からがおなじ様になる。その片方は、殆同じ歌をとり入れてゐる。だが、歌が大体おなじだからと言つて、同じ伝へだとは言はれない。せい〴〵どちらも、近江の国の古伝承だと言へばそれでよい、と言ふ位のものである。 男女の生き別れの悲しさは、今の人の思ふよりも、もつと悲惨な現実として昔は屡あつたことらしい。昔物語には、其を、いろ〳〵に伝へてゐる。棄てゝ行くのもあるが、話しあひの別れの後日談が多いのは、もう王朝にも、悲しい物語を聞いて、人生を深めたい、と言ふ寂しい望みが、女にも男にも起つてゐたからであらう。別に亦、「曠野」の前段と似たのもあつて、もう王氏とも言へぬほど遠くなつた孫王の末の娘御が、遠くへ行つた男とめぐりあつて、あつたと思ふと死んで行く。場処もあさましい土の床であつた。さうした思ふにも堪へ難い話などが幾つもあつた世の中である。更級日記の作者は、あんな風だつたけれども、よい事には、生れ年が訣つてゐる。堀君の同情を持つて書いた、も一人の女性、「かげろふの日記」を書いた人が亡くなつたのは、其より十三年前に当つてゐた。 堀君と会つた頃は、「かげろふの日記」を心に持つて居られたらしい。其で、いろんなさし出がましく聞える話などはしなかつた。勿論その時分既に、その後篇とも言ふべき、「ほととぎす」の部分も発表になつてゐた。原作が難解なと言ふより、日本の中世の女ぶみが、如何に書き綴られて、こんな表現をするのか、我々は昔から、其理由を解きかねて来た。其を堀君は、ちつとも読む人の心を混濁させることなく、書き方は原文から、一間づゝ遅らせるといふ行き方で、考へは其に反して、一間もふた間も進めて行つてる、と言つたぐあひに書きあげてゐる。事実、私は驚嘆した。堀君の詩人としての才能の上に、更に何かゞあることを感じて、尊敬を新にしたのは、其為であつた。 底本:「折口信夫全集 32」中央公論社    1998(平成10)年1月20日初版発行 初出:堀辰雄著「かげろふの日記・曠野」解説    1951(昭和26年)年7月 ※底本の題名の下に書かれている「昭和二十六年七月、堀辰雄著「かげろふの日記・曠野」解説」はファイル末の「初出」欄に移しました。 入力:門田裕志 校正:多羅尾伴内 2003年12月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。