喫煙四十年 寺田寅彦 Guide 扉 本文 目 次 喫煙四十年  はじめて煙草を吸ったのは十五、六歳頃の中学時代であった。自分よりは一つ年上の甥のRが煙草を吸って白い煙を威勢よく両方の鼻の孔から出すのが珍しく羨ましくなったものらしい。その頃同年輩の中学生で喫煙するのはちっとも珍しくなかったし、それに父は非常な愛煙家であったから両親の許可を得るには何の困難もなかった。皮製で財布のような恰好をした煙草入れに真鍮の鉈豆煙管を買ってもらって得意になっていた。それからまた胴乱と云って桐の木を刳り抜いて印籠形にした煙草入れを竹の煙管筒にぶら下げたのを腰に差すことが学生間に流行っていて、喧嘩好きの海南健児の中にはそれを一つの攻防の武器と心得ていたのもあったらしい。とにかくその胴乱も買ってもらって嬉しがっていたようである。  はじめのうちは煙を咽喉へ入れるとたちまち噎せかえり、咽喉も鼻の奥も痛んで困った、それよりも閉口したのは船に酔ったように胸が悪くなって吐きそうになった。便所へ入ってしゃがんでいると直ると云われてそれを実行したことはたしかであるが、それがどれだけ利いたかは覚えていない。それから、飯を食うと米の飯が妙に苦くて脂を嘗めるようであった。全く何一つとして好いことはなかったのに、どうしてそれを我慢してあらゆる困難を克服したか分りかねる。しかしとにかくそれに打勝って平気で鼻の孔から煙を出すようにならないと一人前になれないような気がしたことはたしかである。  煙草はたしか「極上国分」と赤字を粗末な木版で刷った紙袋入りの刻煙草であったが、勿論国分で刻んだのではなくて近所の煙草屋できざんだものである。天井から竹竿で突張った鉋のようなものでごしりごしりと刻んでいるのが往来から見えていた。考えてみると実に原始的なもので、おそらく煙草の伝来以来そのままの器械であったろうと思われる。  農夫などにはまだ燧袋で火を切り出しているのがあった。それが羨ましくなって真似をしたことがあったが、なかなか呼吸が六かしくて結局は両手の指を痛くするだけで十分に目的を達することが出来なかった。神棚の燈明をつけるために使う燧金には大きな木の板片が把手についているし、ほくちも多量にあるから点火しやすいが、喫煙用のは小さい鉄片の頭を指先で抓んで打ちつけ、その火花を石に添えたわずかな火口に点じようとするのだから六かしいのである。  火の消えない吸殻を掌に入れて転がしながら、それで次の一服を吸付けるという芸当も真似をした。この方はそんなに六かしくはなかったが時々はずいぶん痛い思いをしたようである。やはりそれが出来ないと一人前の男になれないような気がしたものらしい。馬鹿げた話であるが、しかしこの馬鹿げた気持がいつまでも抜け切らなかったおかげでこの年まで六かしい学問の修業をつづけて来たかもしれない。  羅宇の真中を三本の指先で水平に支えて煙管を鉛直軸のまわりに廻転させるという芸当も出来ないと幅が利かなかった。これも馬鹿げているが、後年器械などいじるための指の訓練にはいくらかなったかもしれない。人差指に雁首を引掛けてぶら下げておいてから指で空中に円を画きながら煙管をプロペラのごとく廻転するという曲芸は遠心力の物理を教わらない前に実験だけは卒業していた。  いつも同じ羅宇屋が巡廻して来た。煙草は専売でなかった代りに何の商売にもあまり競争者のない時代であったのである。その羅宇屋が一風変った男で、小柄ではあったが立派な上品な顔をしていて言葉使いも野卑でなく、そうしてなかなかの街頭哲学者で、いろいろ面白いリマークをドロップする男であった。いつもバンドのとれたよごれた鼠色のフェルト帽を目深に冠っていて、誰も彼の頭の頂上に髪があるかないかを確かめたものはないという話であった。その頃の羅宇屋は今のようにピーピー汽笛を鳴らして引いて来るのではなくて、天秤棒で振り分けに商売道具をかついで来るのであったが、どんな道具があったかはっきりした記憶がない。しかしいずれも先祖代々百年も使い馴らしたようなものばかりであった。道具も永く使い馴らして手擦れのしたものには何だか人間の魂がはいっているような気がするものであるが、この羅宇屋の道具にも実際一つ一つに「個性」があったようである。なんでも赤鏽びた鉄火鉢に炭火を入れてあって、それで煙管の脂を掃除する針金を焼いたり、また新しい羅宇竹を挿込む前にその端をこの火鉢の熱灰の中にしばらく埋めて柔らげたりするのであった。柔らげた竹の端を樫の樹の板に明けた円い孔へ挿込んでぐいぐい捻じる、そうしてだんだんに少しずつ小さい孔へ順々に挿込んで責めて行くと竹の端が少し縊れて細くなる。それを雁首に挿込んでおいて他方の端を拍子木の片っ方みたような棒で叩き込む。次には同じようにして吸口の方を嵌め込み叩き込むのであるが、これを太鼓のばちのように振り廻す手付きがなかなか面白い見物であった。またそのきゅんきゅんと叩く音が河向いの塀に反響したような気がするくらい鮮明な印象が残っている。そうして河畔に茂った「せんだん」の花がほろほろこぼれているような夏の日盛りの場面がその背景となっているのである。  父はいろいろの骨董道楽をしただけに煙草道具にもなかなか凝ったものを揃えていた。その中に鉄煙管の吸口に純金の口金の付いたのがあって、その金の部分だけが螺旋で取り外ずしの出来るようになっていた。羅宇屋に盗まれる恐れがあるので外ずして渡す趣向になっていたものらしい。子供心に何だかそれが少しぎごちなく思われた。そのせいでもないが自分は今日まで煙管に限らず時計でもボタンでも金や白金の品物をもつ気がしなかった。  巻煙草を吸い出したのもやはり中学時代のずっと後の方であったらしい。宅には東京平河町の土田という家で製した紙巻がいつも沢山に仕入れてあった。平河町は自分の生れた町だからそれが記憶に残っているのである。ピンヘッドとかサンライズとか、その後にはまたサンライトというような香料入りの両切紙巻が流行し出して今のバットやチェリーの先駆者となった。そのうちのどれだっかた東京の名妓の写真が一枚ずつ紙函に入れてあって、ぽん太とかおつまとかいう名前が田舎の中学生の間にも広く宣伝された。煙草の味もやはり甘ったるい、しつっこい、安香水のような香のするものであったような気がする。  今の朝日敷島の先祖と思われる天狗煙草の栄えたのは日清戦争以後ではなかったかと思う。赤天狗青天狗銀天狗金天狗という順序で煙草の品位が上がって行ったが、その包装紙の意匠も名に相応しい俗悪なものであった。轡の紋章に天狗の絵もあったように思う。その俗衆趣味は、ややもすればウェルテリズムの阿片に酔う危険のあったその頃のわれわれ青年の眼を現実の俗世間に向けさせる効果があったかもしれない。十八歳の夏休みに東京へ遊びに来て尾張町のI家に厄介になっていた頃、銀座通りを馬車で通る赤服の岩谷天狗松平氏を見掛けた記憶がある。銀座二丁目辺の東側に店があって、赤塗壁の軒の上に大きな天狗の面がその傍若無人の鼻を往来の上に突出していたように思う。松平氏は第二夫人以下第何十夫人までを包括する日本一の大家族の主人だというゴシップも聞いたが事実は知らない。とにかく今日のいわゆるファイティング・スピリットの旺盛な勇士であって、今日なら一部の人士の尊敬の的になったであろうに、惜しいことに少し時代が早過ぎたために、若きウェルテルやルディン達にはひどく毛嫌いされたようであった。  先達て開かれた「煙草に関する展覧会」でこの天狗煙草の標本に再会して本当に涙の出る程なつかしかったが、これはおそらく自分だけには限らないであろう。天狗がなつかしいのでなくて、その頃の我が環境がなつかしいのである。  官製煙草が出来るようになったときの記憶は全く空白である。しかし西洋で二年半暮して帰りに、シヤトルで日本郵船丹波丸に乗って久し振りに吸った敷島が恐ろしく紙臭くて、どうしてもこれが煙草とは思われなかった、その時の不思議な気持だけは忘れることが出来ない。しかしそれも一日経ったらすぐ馴れてしまって日本人の吸う敷島の味を完全に取り戻すことが出来た。  ドイツ滞在中はブリキ函に入った「マノリ」というのを日常吸っていた。ある時下宿の老嬢フロイライン・シュメルツァー達と話していたら、何かの笑談を云って「エス・イスト・ヤー・マノーリ」というから、それは何の事だと聞いてみると、「馬鹿げた事だ」という意味の流行語だという。どういう訳で「マノリ」が「馬鹿なこと」になるかと聞いてみたが要領を得なかった。その後この疑問を遙々日本へ持って帰って仕舞い込んで忘れていた。専売局の方々にでも聞いてみたら分るかもしれないが、事によると、これは自分がちょっとかつがれたのかもしれない。  ドイツは葉巻が安くて煙草好きには楽土であった。二、三十片で相当なものが吸われた。馬車屋や労働者の吸うもっと安い葉巻で、吸口の方に藁切れが飛び出したようなのがあったがその方は試した事がない。  ベルリンの美術館などの入口の脇の壁面に数寸角の金属板が蝋燭立かなんかのように飛出しているのを何かと思ったら、入場者が吸いさしのシガーを乗っけておく棚であった。点火したのをそこへ載せておくと少時すると自然に消えて主人が観覧を了えて再び出現するのを待つ、いわばシガーの供待部屋である。これが日本の美術館だったらどうであろう。這入るときに置いた吸いさしが、出るときにその持主の手に返る確率が少なくも一九一〇年頃のベルリンよりは少ないであろう。しかし大戦後のベルリンでこのシガーの供待所がどういう運命に見舞われたかはまだ誰からも聞く機会がない。  ベルリンでも電車の内は禁煙であったが車掌台は喫煙者のために解放されていた。山高帽を少し阿弥陀に冠った中年の肥大った男などが大きな葉巻をくわえて車掌台に凭れている姿は、その頃のベルリン風俗画の一景であった。どこかのんびりしたものであったが、日本の電車ではこれが許されない。いつか須田町で乗換えたときに気まぐれに葉巻を買って吸付けたばかりに電車を棄権して日本橋まで歩いてしまった。夏目先生にその話をしたら早速その当時書いていた小説の中の点景材料に使われた。須永というあまり香ばしからぬ役割の作中人物の所業としてそれが後世に伝わることになってしまった。そのせいではないが往来で葉巻を買って吸付けることはその時限りでやめてしまった。  ドイツからパリへ行ったら葡萄酒が安い代りに煙草が高いので驚いた。聞いてみると政府の専売だからということであった。パリからロンドンへ渡ってそこで日本からの送金を受取るはずになっており、従ってパリ滞在中は財布の内圧が極度に低下していたので特に煙草の専売に好感を有ち損なったのであろう。マッチも高かったと思うが、それよりもマッチのフランス語を教わって来るのを忘れていたためにパリへ着いて早速当惑を感じた。ドイツで教わったフランス語の先生が煙草を吸わないのがいけなかったらしい。とにかく金がないのに高い煙草を吸い、高いマロン・グラセーをかじったのが祟ったと見えて、今日でも時々、西洋に居て金が無くなって困る夢を見る。大抵胃の工合の悪いときであるらしいが、そういう夢の中ではきまって非常に流暢にドイツ語がしゃべれるのが不思議である。パリで金が少ないのと、言葉が自由でないのと両方で余計な神経を使ったのが脳髄のどこかの隅に薄いしみのように残っているものと見える。心理分析研究家の材料にこの夢を提供する。  西洋にいる間はパイプは手にしなかった。当時ドイツやフランスではそんなに流行っていなかったような気がする。ロンドンの宿に同宿していた何とかいう爺さんが、夕飯後ストーヴの前で旨そうにパイプをふかしながら自分等の一行の田所氏を捉まえて、ミスター・ターケドーロと呼びかけてはしきりにアイルランド問題を論じていた。このターケドーロが出ると日本人仲間は皆笑い出したが、爺さんには何が可笑しいのか見当が付かなかったに相違ない。  アインシュタインが東京へ来た頃からわれわれ仲間の間でパイプが流行し出したような気がする。しかしパイプ道楽は自分のような不精者には不向きである。結局世話のかからない「朝日」が一番である。  煙草の一番うまいのはやはり仕事に手をとられてみっしり働いて草臥れたあとの一服であろう。また仕事の合間の暇を盗んでの一服もそうである。学生時代に夜更けて天文の観測をやらされた時など、暦表を繰って手頃な星を選み出し、望遠鏡の度盛を合わせておいて、クロノメーターの刻音を数えながら目的の星が視野に這入って来るのを待っている、その際どい一、二分間を盗んで吸付ける一服は、ことに凍るような霜夜もようやく更けて、そろそろ腹の減って来るときなど、実に忘れ難い不思議な慰安の霊薬であった。いよいよ星が見え出しても口に銜えた煙草を捨てないで望遠鏡を覗いていると煙が直上して眼を刺戟し、肝心な瞬間に星の通過を読み損なうようなことさえあった。後にはこれに懲りて、いよいよという時の少し前に、眼は望遠鏡に押付けたまま、片手は鉛筆片手は観測簿で塞がっているから、口で煙草を吹き出して盲目捜しに足で踏み消すというきわどい芸当を演じた。火事を出さなかったのが不思議なくらいである。  油絵に凝っていた頃の事である。一通り画面を塗りつぶして、さて全体の効果をよく見渡してからそろそろ仕上げにかかろうというときの一服もちょっと説明の六かしい霊妙な味のあるものであった。要するに真剣にはたらいたあとの一服が一番うまいということになるらしい。閑で退屈してのむ煙草の味はやはり空虚なような気がする。  煙草の「味」とは云うもの、これは明らかに純粋な味覚でもなく、そうかと云って普通の嗅覚でもない。舌や口蓋や鼻腔粘膜などよりももっと奥の方の咽喉の感覚で謂わば煙覚とでも名づくべきもののような気がする。そうするとこれは普通にいわゆる五官の外の第六官に数えるべきものかもしれない。してみると煙草をのまない人はのむ人に比べて一官分だけの感覚を棄権している訳で、眼の明いているのに目隠しをしているようなことになるのかもしれない。  それはとにかく煙草をのまぬ人は喫煙者に同情がないということだけはたしかである。図書室などで喫煙を禁じるのは、喫煙家にとっては読書を禁じられると同等の効果を生じる。  先年胃をわずらった時に医者から煙草を止めた方がいいと云われた。「煙草も吸わないで生きていたってつまらないから止さない」と云ったら、「乱暴なことを云う男だ」と云って笑われた。もしあの時に煙草を止めていたら胃の方はたしかによくなったかもしれないが、その代りにとうに死んでしまったかもしれないという気がする。何故だか理由は分らないが唯そんな気がするのである。  煙草の効能の一つは憂苦を忘れさせ癇癪の虫を殺すにあるであろうが、それには巻煙草よりはやはり煙管の方がよい。昔自分に親しかったある老人は機嫌が悪いと何とも云えない変な咳払いをしては、煙管の雁首で灰吹をなぐり付けるので、灰吹の頂上がいつも不規則な日本アルプス形の凸凹を示していた。そればかりでなく煙管の吸口をガリガリ噛むので銀の吸口が扁たくひしゃげていたようである。いくら歯が丈夫だとしてもあんなに噛みひしゃぐには口金の銀が相当薄いものでなければならなかったと考えられる。それはとにかく、この老人はこの煙管と灰吹のおかげで、ついぞ家族を殴打したこともなく、また他の器物を打毀すこともなく温厚篤実な有徳の紳士として生涯を終ったようである。ところが今の巻煙草では灰皿を叩いても手ごたえが弱く、紙の吸口を噛んでみても歯ごたえがない。尤も映画などで見ると今の人はそういう場合に吸殻で錐のように灰皿の真中をぎゅうぎゅう揉んだり、また吸殻をやけくそに床に叩きつけたりするようである。あれでも何もしないよりはましであろう。  自分は近来は煙草で癇癪をまぎらす必要を感じるような事は稀であるが、しかしこの頃煙草の有難味を今更につくづく感じるのは、自分があまり興味のない何々会議といったような物々しい席上で憂鬱になってしまった時である。他の人達が天下国家の一大事であるかのごとく議論している事が、自分には一向に一大事のごとく感ぜられないで、どうでもよい些末な事のように思われる時ほど自分を不幸に感じることはない。最も重要なる会議がナンセンスの小田原会議のごとく思われるというのはこれはたしかにそう思う自分が間違っているに相違ないからである。  そういう憂鬱に襲われたときには無闇に煙草を吹かしてこの憂鬱を追払うように努力する。そういう時に、口からはなした朝日の吸口を緑色羅紗の卓布に近づけて口から流れ出る真白い煙をしばらくたらしていると、煙が丸く拡がりはするが羅紗にへばり付いたようになって散乱しない。その「煙のビスケット」が生物のように緩やかに揺曳していると思うと真中の処が慈姑の芽のような形に持上がってやがてきりきりと竜巻のように巻き上がる。この現象の面白さは何遍繰返しても飽きないものである。  物理学の実験に煙草の煙を使ったことはしばしばあった。ことに空気を局部的に熱したときに起る対流渦動の実験にはいつもこれを使っていたが、後には線香の煙や、塩酸とアンモニアの蒸気を化合させて作る塩化アンモニアの煙や、また近頃は塩化チタンの蒸気に水蒸気を作用させて出来る水酸化チタンの煙を使ったりしている。これはいわゆる無鉛白粉を煙にしたようなものである。こういう煙に関して研究すべき科学的な問題が非常に多い。膠質化学の方面からの理論的興味は別としても実用方面からの研究もかなり多岐にわたって進んではいるがまだ分らないことだらけである。国家の非常時に対する方面だけでも、煙幕の使用、空中写真、赤外線通信など、みんな煙の根本的研究に拠らなければならない。都市の煤煙問題、鉱山の煙害問題みんなそうである。灰吹から大蛇を出すくらいはなんでもないことであるが、大蛇は出てもあまり役に立たない。しかし鉱山の煙突から採れる銅やビスマスや黄金は役に立つのである。  尤も喫煙家の製造する煙草の煙はただ空中に散らばるだけで大概あまり役には立たないようであるが、あるいは空中高く昇って雨滴凝結の心核にはなるかもしれない。午前に本郷で吸った煙草の煙の数億万の粒子のうちの一つくらいは、午後に日比谷で逢った驟雨の雨滴の一つに這入っているかもそれは知れないであろう。  喫煙家は考えようでは製煙機械のようなものである。一日に紙巻二十本の割で四十年吸ったとすると合計二十九万二千本、ざっと三十万本である。一本の長さ八.五センチとして、それだけの朝日を縦につなぐと二四八二〇メートル、ざっと六里で思った程でもない。煙の容積にしたらどのくらいになるか。仮りに巻煙草一センチで一リートルの濃い煙を作るとする、そうして一本につき三センチだけ煙にするとして、三十万本で九十万リートル、ざっと見て十メートル四角のものである。製煙機械としての人間の能力はあまり威張れたものではないらしい。  しかし人間は煙草以外にもいろいろの煙を作る動物であって、これが他のあらゆる動物と人間とを区別する目標になる。そうして人間の生活程度が高ければ高いほど余計に煙を製造する。蛮地では人煙が稀薄であり、聚落の上に煙の立つのは民の竈の賑わえる表徴である。現代都市の繁栄は空気の汚濁の程度で測られる。軍国の兵力の強さもある意味ではどれだけ多くの火薬やガソリンや石炭や重油の煙を作り得るかという点に関係するように思われる。大砲の煙などは煙のうちでもずいぶん高価な煙であろうと思うが、しかし国防のためなら止むを得ないラキジュリーであろう。ただ平時の不注意や不始末で莫大な金を煙にした上に沢山の犠牲者を出すようなことだけはしたくないものである。  これは余談であるが、一、二年前のある日の午後煙草を吹かしながら銀座を歩いていたら、無帽の着流し但し人品賤しからぬ五十恰好の男が向うから来てにこにこしながら何か話しかけた。よく聞いてみると煙草を一本くれないかというのである。丁度持合せていたMCCかなんかを進呈してマッチをかしてやったら、「や、こりゃあ有難う有難う」と何遍もふり返っては繰返しながら行過ぎた。往来の人が面白そうににこにこして見ていた。甚だ平凡な出来事のようでもあるが、しかしこの事象の意味がいまになっても、どうしても自分には分らない。つまらないようで実に不思議なアドヴェンチュアーとして忘れることが出来ないのである。もし読者のうちでこの謎の意味を自分の腑に落ちるようにはっきり解説してくれる人があったら有難いと思うのである。 (昭和九年八月『中央公論』) 底本:「寺田寅彦全集 第四巻」岩波書店    1997(平成9)年3月5日発行 初出:「中央公論」    1934(昭和9)年8月 入力:Nana ohbe 校正:浅原庸子 2005年5月7日作成 2009年9月15日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。