鑢屑 寺田寅彦 Guide 扉 本文 目 次 鑢屑          一  ある忙しい男の話である。  朝は暗いうちに家を出て、夜は日が暮れてしまってから帰って来る。それで自分の宅の便所へはいるのはほとんど夜のうちにきまっている。  たまたま祭日などに昼間宅に居ることがある。そうして便所へはいろうとする時に、そこの開き戸を明ける前に、柱に取付けてある便所の電燈のスウィッチをひねる。  それが冬だと何事もないが、夏だと白日の下に電燈の点った便所の戸をあけて自分で驚くのである。  習慣が行為の目的を忘れさせるという事の一例になる。          二  雨上がりに錦町河岸を通った。電車線路のすぐ脇の泥濘の上に、何かしら青い粉のようなものがこぼれている。よく見ると、たぶん、ついそこの荷揚場から揚げる時にこぼれたものだろう、一握りばかりの豌豆がこぼれている。それが適当な湿度と温度に会って発芽しているのであった。  植物の発育は過去と現在の環境で決定される。しかし未来に対する考慮は何の影響ももたない。もしそれがあるのだったら、今にも人の下駄の歯に踏みにじられるようなこんな道路の上に、このような美しい緑の芽を出すはずはない。          三  ○○町の停留場に新聞売りの子供が立っていた。学校帽をかぶって、汚れた袖無しを着ていたが、はいている靴を見ると、それはなかなか立派なものだった。踵にゴムの着いた、編上げの恰好のいい美事なのであった。少なくも私の知っている知識階級の家庭の子供の七十プロセント以上はこれよりもずっと悪いか、あるいは古ぼけた靴をはいているような気がする。          四  馬が日射病にかかって倒れる、それを無理に引ずり起して頭と腹と尻尾を麻縄で高く吊るし上げて、水を呑ませたり、背中から水をぶっかけたりしている。人が大勢たかってそれを見物している。こういう光景を何遍となく街頭で見かけた。  この場合において馬方は資本家であり、馬は労働者である。ただ人間の労働者とちがうのは、口が利けない事である。プロパガンダの出来ない事である。  馬と人間と一つにはならないという人があるだろう。  そんな理窟がどこから出て来るかを聞きたい。          五  日本中の大工業家が寄り合って飯を食ったり相談をする建物がある。その建物の正面の屋根の上に一組の彫像のようなものが立っている。中央に何かしら盾のようなものがあってその両脇に男と女の立像がある。  これはたぶん商工業の繁昌を象徴する、例えば西洋の恵比須大黒とでも云ったような神様の像だろうと想像していたが、近頃ある人から聞くと、あれは男女の労働者を象ったものだそうである。これを聞いた時に私は微笑を禁ずる事が出来なかった。          六  田舎道の道端に、牛が一匹つながれていた。そこへ十歳前後くらいの女の児が二、三人つれだって通りかかった。都会の小学校へ通っての帰途らしい。突然女の児の一人が「牛は、わりに横眼がうまいわねえ」と云った。  近頃次第に露骨になりつつある都会のある階級の女のコケトリーについて、人から色々の話を聞かされていた私は、この無心の子供のこの非凡な註説を無意味には聞き逃す事が出来なかった。          七  知名の人の葬式に出た。  荘厳な祭式の後に、色々な弔詞が読み上げられた。ある人は朗々と大きな声で面白いような抑揚をつけて読んだが、六かしい漢文だから意味はよく分らなかった。またある人は口の中でぼしゃぼしゃと、誰にも聞こえないように読んでしまった。後にはただ弔詞を包紙に包んだままで柩の前に差し出すのも沢山にあった。  いったい弔詞というものは、あれは誰にアドレッスされたものだろう。死んだ人を目当てにしたものか、遺族ないしは会葬者に対して読まれるものだろうか、それとも死者に呼びかける形式で会葬者に話しかけるものだろうか。あるいは読む人の心持だけのものであるか。  いずれにしてもあれはもう少し何とかならないものだろうか。  むしろ故人と親しかった二、三の人が、故人の色々な方面に関する略歴や逸事のようなものを、誰にも分る普通の言葉で話して、そうして故人の追憶を新たに喚び起すようにした方がもう少し意味がありはしないか。          八  道路の真中に煉瓦の欠けらが転がっていた。そこへ重い荷物を積んだ自動荷車が来かかって、その一つの車輪をこの煉瓦に乗り上げた。煉瓦はちょうど落雁か何かで出来てでもいるようにぼろぼろに砕けてしまった。  この瞬間に、私の頭の中には「煉瓦が砕けるだろうか、砕けないだろうか」という疑問と「砕けるだろう」という答とが、ほとんど同時に電光のように閃いた。しかしその声が煉瓦のまだ砕けない前に完了したのであったか、それとも砕けるのを見てから後であったのか、事柄の経過したすぐ後で考えてみても、どうしてもよくわからない。しかしたぶんそれは後の方であったらしい。  実際われわれの感覚する生理的の時間は無限に小さな点の連続ではなくて、有限な拡がりをもった要素の連続だという事、それから、その有限な少時間内では時の前後が区別出来ないという学説は本当らしい。  このようにして生じた時間の前後の転倒は、われわれの記憶として保存されている間にその間隔を延長するのが通例であある。その結果として後日私がこの経験を人に話す場合に「煉瓦が砕けるだろうと思って見ていたら、果して砕けた」と云ってしまう恐れがある。これは無意識ではあるがやはり一種の嘘であるに相違ない。          九  ある偏屈だと人から云われている男が、飼猫に対する扱い方が悪いと云ってその夫人を離縁した。そういう噂話をして面白がって笑っている者があった。  表面に現われたそれだけの事実を聞けば、なるほどおかしく聞こえる。しかし、その男が元来どうしてそれほどまでに猫を可愛がるようになったかという過程を考えてみる、そうすると彼の周囲の人間が、少なくも彼の目から見て、彼の人間らしい暖かい心を引出す能力を欠いていたのではないかという疑いが起る。もしそうだとすると彼は淋しい人である。  こういう男にとって、その飼猫に対する細君の待遇は、そのままに彼自身に対する待遇である。猫に対する冷酷はすなわち夫に対する冷酷ではあるまいか。  こう考えると私はこの男を笑う気にはどうしてもならなくなった。 (大正十二年十月『週刊朝日』)          十  芝生に水をやるのに、十分に、たっぷり、土の底深く浸み込むまでやることにしなければいけない。もし、ほんの表面の薄い層だけ湿るようなやり方をしていると、芝の根がついつい欺されて甘やかされて、浅い上層だけに発達して来る。そうして大旱に逢った時に、深層の水分を取ることが出来なくなって、枯死してしまう。  少し唐突な話ではあるが、これと同じように、目前の利用のみを目当てにするような、いわゆる職業的の科学教育は結局基礎科学の根を枯死させることになりはしないか。これは、深く考えてみなければならない刻下の重大な問題である。          十一  排日案に対して、フィルムや、化粧や、耳かくしのボイコットが問題になっている。  ところが先頃ゴビの沙漠の砂の中から地質時代の大きな爬虫のディノソーラスの卵を発見した米国の学者達は、今度はまた中部アジアの大沙漠へ、地質時代の人間の祖先の骨を捜しに出かける準備をしている。なんでも駱駝を二百匹とか連れて何年がかりとかで出かけるそうである。  誰か、どこかで、原人の尻尾の化石でも掘り出して見せる日本人はないものだろうか。そんなものの二つか三つも掘り出したら、排日問題などは容易に解決されるにちがいない。  日本の大学へ、欧米から留学生が押しかけて来るようになったら、日本の製造工場へピッツバーグやスケネクタディあたりから、見習職工が集まって来るようになったら、そうしたら、一切のこういう問題はなくなるだろう。  米国の排日法は、桐の一葉のようなものである。うっかりしていると、今に世界の方々の隅から秋風が来る。          十二  日本人のした学芸上の仕事で、相当に立派なものがあっても、日本人の間では、その価値は容易に認められない。たまたま認めている人はあっても、たいてい黙っている。認めない人は、たいてい軽々にくさしてしまう。ところがその仕事が、偶然にでも、西洋で認められて、あちらの雑誌にでも紹介される。すると、その仕事の本国における価値が急に高まるのである。ちょうど反古同様の浮世絵が、一枚何千円にもなると同様である。それと反対に、もし外国の雑誌にでも、ちょっとした、いい加減な悪口でも出ると、それがあたかも非常な国辱ででもあるように感ぜらるる。  こんな心細い状態が、いつまでつづくのだろう。          十三  日本橋その他の石橋の花崗石が、大正十二年の震火災に焼けてボロボロにはじけた痕が、今日でも歴然と残っている。河の上にあって、近所の建物からかなり遠く離れていて、それでどうしてこんなにひどく焼かれたか不思議なようである。これはもちろん、避難者の荷物が豊富な焚付けを供給したためである。火災後、橋々の上には、箪笥やカバンの金具が一面にちらばっていたのでも、おおよそ想像が出来る。  永くこの経験と教訓を忘れないために、主な橋々に、この焼けこぼれた石の柱や板の一部を保存し、その脇に、銅版にでも、その由来を刻したものを張り付けておきたいような気がする。  徳川時代に、大火の後ごとに幕府から出した色々の禁令や心得が、半分でも今の市民の頭に保存されていたら、去年のあの大火は、おそらくあれほどにならなかったに相違ない。  江戸の文化は、日本の文化の一つである。馬鹿にすると罰が当る。          十四  大正十二年のような地震が、いつかは、おそらく数十年の後には、再び東京を見舞うだろうということは、これを期待する方が、しないよりも、より多く合理的である。その日が来た時に、東京はどうなるだろう。おそらく今度と同じか、むしろもっと甚だしい災害に襲われそうである。被服廠跡でも、今度は一箇所ですんだが、この次には、これが何箇所にもなるだろう。それから、今度の地震にはなかった新しい仕掛けの集団殺人設備が、いろいろ出来ているだろう。たとえ高圧水道が出来ていようが、消防船が幾台出来ていようが、おそらくそんなものは何にもなるまい。それが役に立つくらいなら、今度だって、何かあったはずである。  もし百年の後のためを考えるなら、去年くらいの地震が、三年か五年に一度ぐらいあった方がいいかもしれない。そうしたら、家屋は、みんな、いやでも完全な耐震耐火構造になるだろうし、危険な設備は一切影をかくすだろうし、そして市民は、いつでも狼狽しないだけの訓練を持続する事が出来るだろう。そうすれば、あのくらいの地震などは、大風の吹いたくらいのものにしか当るまい。          十五  科学を奨励する目的で、われわれが誠心誠意でやっている事が、事実上の結果において、かえって正しく科学の進歩を妨害しているような悲しむべき場合が、全くないとは言われない。これは、注意していなければならないことである。  浅薄な通俗書籍雑誌の濫出、新聞紙上に時々現われるいかがわしいいわゆる「世界的大発見」の紹介などは、もちろんそうである。研究に忙しかるべき学者を、通俗講演や、科学の宣伝や、その他何々会議や何々委員や顧問に無暗に引っぱり出すのもそうである。  そんなことで科学は奨励されるものではない。唯一の奨励法は、日本にアインシュタインや、ボーアのような学者を輩出させることである。もし、どうかしてそれが出来たら、いかに妨害しようと骨折ってももう駄目である。日本の科学は、ひとりで勃興するだろう。百の騒がしい宣伝よりは、一の黙った実例が必要である。  アインシュタインや、ボーアは、おそらく通俗講演や宣伝の産物ではなかった。天才の芽が、静かな寂しい環境の内に、順当に発育したに過ぎないように思われる。  現在の高等学校や大学の学生のうちにだって、そういう天才の芽生えがいないとは限らない。そういう芽を、狭い偏見で押しつぶさないことが大切である。そういうものがいよいよ芽を出し始めた時に、新聞で書き立てたり講演に引っぱり出したりしないことが肝要である。          十六  自分の周囲のものは大きく見えて、遠いものほど小さく見える。これは分りきった透視画法の原理である。  専門学者から見ると、自分の専門に関する事柄が、目の前に大きく拡がって、それに直接関しない事柄は、きわめて小さく見え、あるいはまるで眼につかなかったりする事がある。これも分り切った事である。そして、それはそれで、差しつかえない。  しかし、後進を誘掖する地位にいる時には、この事は注意しなければならない。自分が重要と考える問題は、必ずしも唯一な重要問題ではない。自分が見て軽小に見える事柄の内に、他人が見た時に、同じくらい重大なものが含まれているかもしれないということを忘れてはならない。  恐ろしくつまらないと思われる事柄の中から、非常に重大なものの出現する例は基礎科学の世界にはいくらでもある。 「つまる」と「つまらない」とは、物に属しないで人に属する。つまらない事から、つまる事を掘り出すこともあれば、つまる問題からつまらない事のみ拾い出すこともしばしばである。  科学の教育に当るものは、この一事を忘れてはならない。そして、後進の興味の赴くところに従って、自由な発育を遂げさせなければならない。          十七  入歯をこしらえた。  何年来食ったことのなかった漬物などを、ばりばり音を立てて食うことが出来る。はなはだ不思議な心持がする。パンの皮や、らっきょうや、サラダや、独活や、そんなものでも、音を立てて食うことに異常な幸福を感じる。  歯のいい人は、おそらく、この卑近な幸福を自覚する僥倖を持たないに相違ない。  この幸福がいつまで持続するか疑問である。たぶん一種の指数曲線か何かに従って、漸近的にゼロに向かって行くだろう。  こんな幸福があまり持続しては、困る事だろう。幸福も不幸福も、変化の瞬間が最高点で、それからあとは、大地震の余震のように消えて行く。  そのおかげで、われわれは、こうやって生きて行かれるのかもしれない。          十八  入歯は、やはり西洋人のこしらえ始めたものだろうと思う。  西洋食を食っている間は、めったに入歯の困難は起らない。ところが、茶漬をかきこんだり、味噌汁を吸ったりすることになると、とかく故障が起りがちである。いわんや、餅や、飴などは論外である。  これは何事を意味するか。  入歯を、発明し、改良して来た西洋人が、もしわれわれと同じ食物を食って生きているのだったら、そうしたら、餅を食っても、飴を食っても、故障の起らないような入歯が、今頃は出来ているのではあるまいか。  そうではないか、と思わせるだけの根拠は、外の方面にいくらでもありはしないか。  日本人は、日本人の生活を基礎にした文化をこしらえなければならない。地震のある国は、地震のあるだけの建築をしなければならないし、餅をかじる人間は、餅をかじるような入歯をこしらえなければならないように、日本人は日本人の文化を組立てて行かなければならないのではないか。  餅は食わないことにすればいいかもしれないが、地震をなくすることは困難である。いかにアメリカ人になりたがっても、過去二千余年の歴史は消されない。 (大正十三年七月『週刊朝日』) 底本:「寺田寅彦全集 第三巻」岩波書店    1997(平成9)年2月5日発行 入力:Nana ohbe 校正:noriko saito 2004年8月13日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。