山の手小景 泉鏡花 Guide 扉 本文 目 次 山の手小景       矢來町 「お美津、おい、一寸、あれ見い。」と肩を擦合はせて居る細君を呼んだ。旦那、其の夜の出と謂ふは、黄な縞の銘仙の袷に白縮緬の帶、下にフランネルの襯衣、これを長襦袢位に心得て居る人だから、けば〳〵しく一着して、羽織は着ず、洋杖をついて、紺足袋、山高帽を頂いて居る、脊の高い人物。 「何ですか。」  と一寸横顏を旦那の方に振向けて、直ぐに返事をした。此の細君が、恁う又直ちに良人の口に應じたのは、蓋し珍しいので。……西洋の諺にも、能辯は銀の如く、沈默は金の如しとある。  然れば、神樂坂へ行きがけに、前刻郵便局の前あたりで、水入らずの夫婦が散歩に出たのに、餘り話がないから、 (美津、下駄を買うてやるか。)と言つて見たが、默つて返事をしなかつた。貞淑なる細君は、其の品位を保つこと、恰も大籬の遊女の如く、廊下で會話を交へるのは、仂ないと思つたのであらう。 (あゝん、此のさきの下駄屋の方が可か、お前好な處で買へ、あゝん。)と念を入れて見たが、矢張默つて、爾時は、おなじ横顏を一寸背けて、あらぬ處を見た。  丁度左側を、二十ばかりの色の白い男が通つた。旦那は稍濁つた聲の調子高に、 (あゝん、何うぢや。) (嫌ですことねえ、)と何とも着かぬことを謂つたのであるが、其間の消息自ら神契默會。 (にやけた奴ぢや、國賊ちゆう!)と快げに、小指の尖ほどな黒子のある平な小鼻を蠢かしたのである。謂ふまでもないが、此のほくろは極めて僥倖に半は髯にかくれて居るので。さて銀側の懷中時計は、散策の際も身を放さず、件の帶に卷着けてあるのだから、時は自分にも明かであらう、前に郵便局の前を通つたのが六時三十分で、歸り途に通懸つたのが、十一時少々過ぎて居た。  夏の初めではあるけれども、夜の此の時分に成ると薄ら寒いのに、細君の出は縞のフランネルに絲織の羽織、素足に蹈臺を俯着けて居る、語を換へて謂へば、高い駒下駄を穿いたので、悉しく言へば泥ぽツくり。旦那が役所へ通ふ靴の尖は輝いて居るけれども、細君の他所行の穿物は、むさくるしいほど泥塗れであるが、惟ふに玄關番の學僕が、悲憤慷慨の士で、女の足につけるものを打棄つて置くのであらう。  其の穿物が重いために、細君の足の運び敏活ならず。が其の所爲で散策に恁る長時間を費したのではない。  最も神樂坂を歩行くのは、細君の身に取つて、些とも樂みなことはなかつた。既に日の内におさんを連れて、其の折は、二枚袷に長襦袢、小紋縮緬三ツ紋の羽織で、白足袋。何のためか深張傘をさして、一度、やすもの賣の肴屋へ、お總菜の鰡を買ひに出たから。       茗荷谷 「おう、苺だ苺だ、飛切の苺だい、負つた負つた。」  小石川茗荷谷から臺町へ上らうとする爪先上り。兩側に大藪があるから、俗に暗がり坂と稱へる位、竹の葉の空を鎖して眞暗な中から、烏瓜の花が一面に、白い星のやうな瓣を吐いて、東雲の色が颯と射す。坂の上の方から、其の苺だ、苺だ、と威勢よく呼はりながら、跣足ですた〳〵と下りて來る、一名の童がある。  嬉しくツて〳〵、雀躍をするやうな足どりで、「やつちあ場ア負つたい。おう、負つた、負つた、わつしよい〳〵。」  やがて坂の下口に來て、もう一足で、藪の暗がりから茗荷谷へ出ようとする時、 「おくんな。」と言つて、藪の下をちよこ〳〵と出た、九ツばかりの男の兒。脊丈より横幅の方が廣いほどな、提革鞄の古いのを、幾處も結目を拵へて肩から斜めに脊負うてゐる。  これは界隈の貧民の兒で、つい此の茗荷谷の上に在る、補育院と稱へて月謝を取らず、時とすると、讀本、墨の類が施に出て、其上、通學する兒の、其の日暮しの親達、父親なり、母親なり、日を久しく煩つたり、雨が降續いたり、窮境目も當てられない憂目に逢ふなんどの場合には、教師の情で手當の出ることさへある、院といふが私立の幼稚園をかねた小學校へ通學するので。  今大塚の樹立の方から颯と光線を射越して、露が煌々する路傍の草へ、小さな片足を入れて、上から下りて來る者の道を開いて待構へると、前とは違ひ、歩を緩う、のさ〳〵と顯はれたは、藪龜にても蟇にても……蝶々蜻蛉の餓鬼大將。  駄々を捏ぬて、泣癖が著いたらしい。への字形の曲形口、兩の頬邊へ高慢な筋を入れて、澁を刷いたやうな顏色。ちよんぼりとある薄い眉は何やらいたいけな造だけれども、鬼薊の花かとばかりすら〳〵と毛が伸びて、惡い天窓でも撫でてやつたら掌へ刺りさうでとげ〳〵しい。  着物は申すまでもなし、土と砂利と松脂と飴ン棒を等分に交ぜて天日に乾したものに外ならず。  勿論素跣足で、小脇に隱したものを其まゝ持つて出て來たが、唯見れば、目笊の中充滿に葉ながら撮んだ苺であつた。  童は猿眼で稚いのを見ると苦笑をして、 「おゝ! 吉公か、ちよツ、」  と舌打、生意氣なもの言ひで、 「驚かしやがつた、厭になるぜ。」  苺は盜んだものであつた。 明治三十五年十二月 底本:「鏡花全集 巻二十七」岩波書店    1942(昭和17)年10月20日第1刷発行    1988(昭和63)年11月2日第3刷発行 ※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。 入力:門田裕志 校正:米田進 2002年4月24日作成 2003年5月18日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。