戯作三昧 芥川龍之介 Guide 扉 本文 目 次 戯作三昧      一  天保二年九月のある午前である。神田同朋町の銭湯松の湯では、朝から相変らず客が多かった。式亭三馬が何年か前に出版した滑稽本の中で、「神祇、釈教、恋、無常、みないりごみの浮世風呂」といった光景は、今もそのころと変りはない。風呂の中で歌祭文を唄っている嚊たばね、上がり場で手拭をしぼっているちょん髷本多、文身の背中を流させている丸額の大銀杏、さっきから顔ばかり洗っている由兵衛奴、水槽の前に腰を据えて、しきりに水をかぶっている坊主頭、竹の手桶と焼き物の金魚とで、余念なく遊んでいる虻蜂蜻蛉、──狭い流しにはそういう種々雑多な人間がいずれも濡れた体を滑らかに光らせながら、濛々と立ち上がる湯煙と窓からさす朝日の光との中に、糢糊として動いている。そのまた騒ぎが、一通りではない。第一に湯を使う音や桶を動かす音がする。それから話し声や唄の声がする。最後に時々番台で鳴らす拍子木の音がする。だから柘榴口の内外は、すべてがまるで戦場のように騒々しい。そこへ暖簾をくぐって、商人が来る。物貰いが来る。客の出入りはもちろんあった。その混雑の中に──  つつましく隅へ寄って、その混雑の中に、静かに垢を落している、六十あまりの老人が一人あった。年のころは六十を越していよう。鬢の毛が見苦しく黄ばんだ上に、眼も少し悪いらしい。が、痩せてはいるものの骨組みのしっかりした、むしろいかついという体格で、皮のたるんだ手や足にも、どこかまだ老年に抵抗する底力が残っている。これは顔でも同じことで、下顎骨の張った頬のあたりや、やや大きい口の周囲に、旺盛な動物的精力が、恐ろしいひらめきを見せていることは、ほとんど壮年の昔と変りがない。  老人はていねいに上半身の垢を落してしまうと、止め桶の湯も浴びずに、今度は下半身を洗いはじめた。が、黒い垢すりの甲斐絹が何度となく上をこすっても、脂気の抜けた、小皺の多い皮膚からは、垢というほどの垢も出て来ない。それがふと秋らしい寂しい気を起させたのであろう。老人は片々の足を洗ったばかりで、急に力がぬけたように手拭の手を止めてしまった。そうして、濁った止め桶の湯に、鮮かに映っている窓の外の空へ眼を落した。そこにはまた赤い柿の実が、瓦屋根の一角を下に見ながら、疎らに透いた枝を綴っている。  老人の心には、この時「死」の影がさしたのである。が、その「死」は、かつて彼を脅かしたそれのように、いまわしい何物をも蔵していない。いわばこの桶の中の空のように、静かながら慕わしい、安らかな寂滅の意識であった。一切の塵労を脱して、その「死」の中に眠ることが出来たならば──無心の子供のように夢もなく眠ることが出来たならば、どんなに悦ばしいことであろう。自分は生活に疲れているばかりではない。何十年来、絶え間ない創作の苦しみにも、疲れている。……  老人は憮然として、眼をあげた。あたりではやはり賑かな談笑の声につれて、大ぜいの裸の人間が、目まぐるしく湯気の中に動いている。柘榴口の中の歌祭文にも、めりやすやよしこのの声が加わった。ここにはもちろん、今彼の心に影を落した悠久なものの姿は、微塵もない。 「いや、先生、こりゃとんだところでお眼にかかりますな。どうも曲亭先生が朝湯にお出でになろうなんぞとは手前夢にも思いませんでした。」  老人は、突然こう呼びかける声に驚かされた。見ると彼の傍には、血色のいい、中背の細銀杏が、止め桶を前に控えながら、濡れ手拭を肩へかけて、元気よく笑っている。これは風呂から出て、ちょうど上がり湯を使おうとしたところらしい。 「相変らず御機嫌で結構だね。」  馬琴滝沢瑣吉は、微笑しながら、やや皮肉にこう答えた。      二 「どういたしまして、いっこう結構じゃございません。結構と言や、先生、八犬伝はいよいよ出でて、いよいよ奇なり、結構なお出来でございますな。」  細銀杏は肩の手拭を桶の中へ入れながら、一調子張り上げて弁じ出した。 「船虫が瞽婦に身をやつして、小文吾を殺そうとする。それがいったんつかまって拷問されたあげくに、荘介に助けられる。あの段どりが実になんとも申されません。そうしてそれがまた、荘介小文吾再会の機縁になるのでございますからな。不肖じゃございますが、この近江屋平吉も、小間物屋こそいたしておりますが、読本にかけちゃひとかど通のつもりでございます。その手前でさえ、先生の八犬伝には、なんとも批の打ちようがございません。いや全く恐れ入りました。」  馬琴は黙ってまた、足を洗い出した。彼はもちろん彼の著作の愛読者に対しては、昔からそれ相当な好意を持っている。しかしその好意のために、相手の人物に対する評価が、変化するなどということは少しもない。これは聡明な彼にとって、当然すぎるほど当然なことである、が、不思議なことには逆にその評価が彼の好意に影響するということもまたほとんどない。だから彼は場合によって、軽蔑と好意とを、まったく同一人に対して同時に感ずることが出来た。この近江屋平吉のごときは、まさにそういう愛読者の一人である。 「なにしろあれだけのものをお書きになるんじゃ、並大抵なお骨折りじゃございますまい。まず当今では、先生がさしずめ日本の羅貫中というところでございますな──いや、これはとんだ失礼を申し上げました。」  平吉はまた大きな声をあげて笑った。その声に驚かされたのであろう。側で湯を浴びていた小柄な、色の黒い、眇の小銀杏が、振り返って平吉と馬琴とを見比べると、妙な顔をして流しへ痰を吐いた。 「貴公は相変らず発句にお凝りかね。」  馬琴は巧みに話頭を転換した。がこれは何も眇の表情を気にしたわけではない。彼の視力は幸福なことに(?)もうそれがはっきりとは見えないほど、衰弱していたのである。 「これはお尋ねにあずかって恐縮至極でございますな。手前のはほんの下手の横好きで今日も運座、明日も運座、と、所々方々へ臆面もなくしゃしゃり出ますが、どういうものか、句の方はいっこう頭を出してくれません。時に先生は、いかがでございますな、歌とか発句とか申すものは、格別お好みになりませんか。」 「いや私は、どうもああいうものにかけると、とんと無器用でね。もっとも一時はやったこともあるが。」 「そりゃ御冗談で。」 「いや、まったく性に合わないと見えて、いまだにとんと眼くらの垣覗きさ。」  馬琴は、「性に合わない」という語に、ことに力を入れてこう言った。彼は歌や発句が作れないとは思っていない。だからもちろんその方面の理解にも、乏しくないという自信がある。が、彼はそういう種類の芸術には、昔から一種の軽蔑を持っていた。なぜかというと、歌にしても、発句にしても、彼の全部をその中に注ぎこむためには、あまりに形式が小さすぎる。だからいかに巧みに詠みこなしてあっても、一句一首のうちに表現されたものは、抒情なり叙景なり、わずかに彼の作品の何行かを充すだけの資格しかない。そういう芸術は、彼にとって、第二流の芸術である。      三  彼が「性に合わない」という語に力を入れた後ろには、こういう軽蔑が潜んでいた。が、不幸にして近江屋平吉には、全然そういう意味が通じなかったものらしい。 「ははあ、やっぱりそういうものでございますかな。手前などの量見では、先生のような大家なら、なんでも自由にお作りになれるだろうと存じておりましたが──いや、天二物を与えずとは、よく申したものでございます。」  平吉はしぼった手拭で、皮膚が赤くなるほど、ごしごし体をこすりながら、やや遠慮するような調子で、こう言った。が、自尊心の強い馬琴には、彼の謙辞をそのまま語通り受け取られたということが、まず何よりも不満である。その上平吉の遠慮するような調子がいよいよまた気に入らない。そこで彼は手拭と垢すりとを流しへほうり出すと半ば身を起しながら、苦い顔をして、こんな気焔をあげた。 「もっとも、当節の歌よみや宗匠くらいにはいくつもりだがね。」  しかし、こう言うとともに、彼は急に自分の子供らしい自尊心が恥ずかしく感ぜられた。自分はさっき平吉が、最上級の語を使って八犬伝を褒めた時にも、格別嬉しかったとは思っていない。そうしてみれば、今その反対に、自分が歌や発句を作ることの出来ない人間と見られたにしても、それを不満に思うのは、明らかに矛盾である。とっさにこういう自省を動かした彼は、あたかも内心の赤面を隠そうとするように、あわただしく止め桶の湯を肩から浴びた。 「でございましょう。そうなくっちゃ、とてもああいう傑作は、お出来になりますまい。してみますと、先生は歌も発句もお作りになると、こうにらんだ手前の眼光は、やっぱりたいしたものでございますな。これはとんだ手前味噌になりました。」  平吉はまた大きな声を立てて、笑った。さっきの眇はもう側にいない。痰も馬琴の浴びた湯に、流されてしまった。が、馬琴がさっきにも増して恐縮したのはもちろんのことである。 「いや、うっかり話しこんでしまった。どれ私も一風呂、浴びて来ようか。」  妙に間の悪くなった彼は、こういう挨拶とともに、自分に対する一種の腹立たしさを感じながら、とうとうこの好人物の愛読者の前を退却すべく、おもむろに立ち上がった。が、平吉は彼の気焔によってむしろ愛読者たる彼自身まで、肩身が広くなったように、感じたらしい。 「では先生そのうちに一つ歌か発句かを書いて頂きたいものでございますな。よろしゅうございますか。お忘れになっちゃいけませんぜ。じゃ手前も、これで失礼いたしましょう。おせわしゅうもございましょうが、お通りすがりの節は、ちとお立ち寄りを。手前もまた、お邪魔に上がります。」  平吉は追いかけるように、こう言った。そうして、もう一度手拭を洗い出しながら、柘榴口の方へ歩いて行く馬琴の後ろ姿を見送って、これから家へ帰った時に、曲亭先生に遇ったということを、どんな調子で女房に話して聞かせようかと考えた。      四  柘榴口の中は、夕方のようにうす暗い。それに湯気が、霧よりも深くこめている。眼の悪い馬琴は、その中にいる人々の間を、あぶなそうに押しわけながら、どうにか風呂の隅をさぐり当てると、やっとそこへ皺だらけな体を浸した。  湯加減は少し熱いくらいである。彼はその熱い湯が爪の先にしみこむのを感じながら、長い呼吸をして、おもむろに風呂の中を見廻した。うす暗い中に浮んでいる頭の数は、七つ八つもあろうか。それが皆話しをしたり、唄をうたったりしているまわりには、人間の脂を溶かした、滑らかな湯の面が、柘榴口からさす濁った光に反射して、退屈そうにたぶたぶと動いている。そこへ胸の悪い「銭湯の匂い」がむんと人の鼻をついた。  馬琴の空想には、昔から羅曼的な傾向がある。彼はこの風呂の湯気の中に、彼が描こうとする小説の場景の一つを、思い浮べるともなく思い浮べた。そこには重い舟日覆がある。日覆の外の海は、日の暮れとともに風が出たらしい。舷をうつ浪の音が、まるで油を揺するように、重苦しく聞えて来る。その音とともに、日覆をはためかすのは、おおかた蝙蝠の羽音であろう。舟子の一人は、それを気にするように、そっと舷から外をのぞいてみた。霧の下りた海の上には、赤い三日月が陰々と空にかかっている。すると……  彼の空想は、ここまで来て、急に破られた。同じ柘榴口の中で、誰か彼の読本の批評をしているのが、ふと彼の耳へはいったからである。しかも、それは声といい、話しようといい、ことさら彼に聞かせようとして、しゃべり立てているらしい。馬琴はいったん風呂を出ようとしたが、やめて、じっとその批評を聞き澄ました。 「曲亭先生の、著作堂主人のと、大きなことを言ったって、馬琴なんぞの書くものは、みんなありゃ焼き直しでげす。早い話が八犬伝は、手もなく水滸伝の引き写しじゃげえせんか。が、そりゃまあ大目に見ても、いい筋がありやす。なにしろ先が唐の物でげしょう。そこで、まずそれを読んだというだけでも、一手柄さ。ところがそこへまたずぶ京伝の二番煎じと来ちゃ、呆れ返って腹も立ちやせん。」  馬琴はかすむ眼で、この悪口を言っている男の方を透して見た。湯気にさえぎられて、はっきりと見えないが、どうもさっき側にいた眇の小銀杏ででもあるらしい。そうとすればこの男は、さっき平吉が八犬伝を褒めたのに業を煮やして、わざと馬琴に当りちらしているのであろう。 「第一馬琴の書くものは、ほんの筆先一点張りでげす。まるで腹には、何にもありやせん。あればまず寺子屋の師匠でも言いそうな、四書五経の講釈だけでげしょう。だからまた当世のことは、とんと御存じなしさ。それが証拠にゃ、昔のことでなけりゃ、書いたというためしはとんとげえせん。お染久松がお染久松じゃ書けねえもんだから、そら松染情史秋七草さ。こんなことは、馬琴大人の口真似をすれば、そのためしさわに多かりでげす。」  憎悪の感情は、どっちか優越の意識を持っている以上、起したくも起されない。馬琴も相手の言いぐさが癪にさわりながら、妙にその相手が憎めなかった。その代りに彼自身の軽蔑を、表白してやりたいという欲望がある。それが実行に移されなかったのは、おそらく年齢が歯止めをかけたせいであろう。 「そこへ行くと、一九や三馬はたいしたものでげす。あの手合いの書くものには天然自然の人間が出ていやす。決して小手先の器用や生かじりの学問で、でっちあげたものじゃげえせん。そこが大きに蓑笠軒隠者なんぞとは、ちがうところさ。」  馬琴の経験によると、自分の読本の悪評を聞くということは、単に不快であるばかりでなく、危険もまた少なくない。というのは、その悪評を是認するために、勇気が、沮喪するという意味ではなく、それを否認するために、その後の創作的動機に、反動的なものが加わるという意味である。そうしてそういう不純な動機から出発する結果、しばしば畸形な芸術を創造する惧れがあるという意味である。時好に投ずることのみを目的としている作者は別として、少しでも気魄のある作者なら、この危険には存外おちいりやすい。だから馬琴は、この年まで自分の読本に対する悪評は、なるべく読まないように心がけて来た。が、そう思いながらもまた、一方には、その悪評を読んでみたいという誘惑がないでもない。今、この風呂で、この小銀杏の悪口を聞くようになったのも、半ばはその誘惑におちいったからである。  こう気のついた彼は、すぐに便々とまだ湯に浸っている自分の愚を責めた。そうして、癇高い小銀杏の声を聞き流しながら、柘榴口を外へ勢いよくまたいで出た。外には、湯気の間に窓の青空が見え、その青空には暖かく日を浴びた柿が見える。馬琴は水槽の前へ来て、心静かに上がり湯を使った。 「とにかく、馬琴は食わせ物でげす。日本の羅貫中もよく出来やした。」  しかし風呂の中ではさっきの男が、まだ馬琴がいるとでも思うのか、依然として猛烈なフィリッピクスを発しつづけている。ことによると、これはその眇に災いされて、彼の柘榴口をまたいで出る姿が、見えなかったからかも知れない。      五  しかし、銭湯を出た時の馬琴の気分は、沈んでいた。眇の毒舌は、少なくともこれだけの範囲で、確かに予期した成功を収め得たのである。彼は秋晴れの江戸の町を歩きながら、風呂の中で聞いた悪評を、いちいち彼の批評眼にかけて、綿密に点検した。そうして、それが、いかなる点から考えてみても、一顧の価のない愚論だという事実を、即座に証明することが出来た。が、それにもかかわらず、一度乱された彼の気分は、容易に元通り、落ち着きそうもない。  彼は不快な眼をあげて、両側の町家を眺めた。町家のものは、彼の気分とは没交渉に、皆その日の生計を励んでいる。だから「諸国銘葉」の柿色の暖簾、「本黄楊」の黄いろい櫛形の招牌、「駕籠」の掛行燈、「卜筮」の算木の旗、──そういうものが、無意味な一列を作って、ただ雑然と彼の眼底を通りすぎた。 「どうして己は、己の軽蔑している悪評に、こう煩わされるのだろう。」  馬琴はまた、考えつづけた。 「己を不快にするのは、第一にあの眇が己に悪意を持っているという事実だ。人に悪意を持たれるということは、その理由のいかんにかかわらず、それだけで己には不快なのだから、しかたがない。」  彼は、こう思って、自分の気の弱いのを恥じた。実際彼のごとく傍若無人な態度に出る人間が少なかったように、彼のごとく他人の悪意に対して、敏感な人間もまた少なかったのである。そうして、この行為の上では全く反対に思われる二つの結果が、実は同じ原因──同じ神経作用から来ているという事実にも、もちろん彼はとうから気がついていた。 「しかし、己を不快にするものは、まだほかにもある。それは己があの眇と、対抗するような位置に置かれたということだ。己は昔からそういう位置に身を置くことを好まない。勝負事をやらないのも、そのためだ。」  ここまで分析して来た彼の頭は、さらに一歩を進めると同時に、思いもよらない変化を、気分の上に起させた。それはかたくむすんでいた彼の唇が、この時急にゆるんだのを見ても、知れることであろう。 「最後に、そういう位置へ己を置いた相手が、あの眇だという事実も、確かに己を不快にしている。もしあれがもう少し高等な相手だったら、己はこの不快を反𫝼するだけの、反抗心を起していたのに相違ない。何にしても、あの眇が相手では、いくら己でも閉口するはずだ。」  馬琴は苦笑しながら、高い空を仰いだ。その空からは、朗かな鳶の声が、日の光とともに、雨のごとく落ちて来る。彼は今まで沈んでいた気分が次第に軽くなって来ることを意識した。 「しかし、眇がどんな悪評を立てようとも、それは精々、己を不快にさせるくらいだ。いくら鳶が鳴いたからといって、天日の歩みが止まるものではない。己の八犬伝は必ず完成するだろう。そうしてその時は、日本が古今に比倫のない大伝奇を持つ時だ。」  彼は恢復した自信をいたわりながら、細い小路を静かに家の方へ曲って行った。      六  うちへ帰ってみると、うす暗い玄関の沓脱ぎの上に、見慣れたばら緒の雪駄が一足のっている。馬琴はそれを見ると、すぐにその客ののっぺりした顔が、眼に浮んだ。そうしてまた、時間をつぶされる迷惑を、苦々しく心に思い起した。 「今日も朝のうちはつぶされるな。」  こう思いながら、彼が式台へ上がると、あわただしく出迎えた下女の杉が、手をついたまま、下から彼の顔を見上げるようにして、 「和泉屋さんが、お居間でお帰りをお待ちでございます。」と言った。  彼はうなずきながら、ぬれ手拭を杉の手に渡した。が、どうもすぐに書斎へは通りたくない。 「お百は。」 「御仏参においでになりました。」 「お路もいっしょか。」 「はい。坊ちゃんとごいっしょに。」 「伜は。」 「山本様へいらっしゃいました。」  家内は皆、留守である。彼はちょいと、失望に似た感じを味わった。そうしてしかたなく、玄関の隣にある書斎の襖を開けた。  開けてみると、そこには、色の白い、顔のてらてら光っている、どこか妙に取り澄ました男が、細い銀の煙管をくわえながら、端然と座敷のまん中に控えている。彼の書斎には石刷を貼った屏風と床にかけた紅楓黄菊の双幅とのほかに、装飾らしい装飾は一つもない。壁に沿うては、五十に余る本箱が、ただ古びた桐の色を、一面に寂しく並べている。障子の紙も貼ってから、一冬はもう越えたのであろう。切り貼りの点々とした白い上には、秋の日に照らされた破れ芭蕉の大きな影が、婆娑として斜めに映っている。それだけにこの客のぞろりとした服装が、いっそうまた周囲と釣り合わない。 「いや、先生、ようこそお帰り。」  客は、襖があくとともに、滑らかな調子でこう言いながら、うやうやしく頭を下げた。これが、当時八犬伝に次いで世評の高い金瓶梅の版元を引き受けていた、和泉屋市兵衛という本屋である。 「大分にお待ちなすったろう。めずらしく今朝は、朝湯に行ったのでね。」  馬琴は、本能的にちょいと顔をしかめながら、いつもの通り、礼儀正しく座についた。 「へへえ、朝湯に。なるほど。」  市兵衛は、大いに感服したような声を出した。いかなる瑣末な事件にも、この男のごとく容易に感服する人間は、滅多にない。いや、感服したような顔をする人間は、稀である。馬琴はおもむろに一服吸いつけながら、いつもの通り、さっそく話を用談の方へ持っていった。彼は特に、和泉屋のこの感服を好まないのである。 「そこで今日は何か御用かね。」 「へえ、なにまた一つ原稿を頂戴に上がりましたんで。」  市兵衛は煙管を一つ指の先でくるりとまわして見せながら、女のようにやさしい声を出した。この男は不思議な性格を持っている。というのは、外面の行為と内面の心意とが、たいていな場合は一致しない。しないどころか、いつでも正反対になって現われる。だから、彼は大いに強硬な意志を持っていると、必ずそれに反比例する、いかにもやさしい声を出した。  馬琴はこの声を聞くと、再び本能的に顔をしかめた。 「原稿と言ったって、それは無理だ。」 「へへえ、何かおさしつかえでもございますので。」 「さかつかえるどころじゃない。今年は読本を大分引き受けたので、とても合巻の方へは手が出せそうもない。」 「なるほどそれは御多忙で。」  と言ったかと思うと、市兵衛は煙管で灰吹きを叩いたのが相図のように、今までの話はすっかり忘れたという顔をして、突然鼠小僧次郎太夫の話をしゃべり出した。      七  鼠小僧次郎太夫は、今年五月の上旬に召捕られて、八月の中旬に獄門になった、評判の高い大賊である。それが大名屋敷へばかり忍び込んで、盗んだ金は窮民へ施したというところから、当時は義賊という妙な名前が、一般にこの盗人の代名詞になって、どこでも盛んに持てはやされていた。 「何しろ先生、盗みにはいったお大名屋敷が七十六軒、盗んだ金が三千百八十三両二分だというのだから驚きます。盗人じゃございますが、なかなかただの人間に出来ることじゃございません。」  馬琴は思わず好奇心を動かした。市兵衛がこういう話をする後ろには、いつも作者に材料を与えてやるという己惚れがひそんでいる。その己惚れはもちろん、よく馬琴の癇にさわった。が、癇にさわりながらも、やっぱり好奇心には動かされる。芸術家としての天分を多量に持っていた彼は、ことにこの点では、誘惑におちいりやすかったからであろう。 「ふむ、それはなるほどえらいものだね。私もいろいろ噂には聞いていたが、まさかそれほどとは思わずにいた。」 「つまりまず賊中の豪なるものでございましょうな。なんでも以前は荒尾但馬守様のお供押しか何かを勤めたことがあるそうで、お屋敷方の案内に明るいのは、そのせいだそうでございます。引き廻しを見たものの話を聞きますと、でっぷりした、愛嬌のある男だそうで、その時は紺の越後縮の帷子に、下へは白練の単衣を着ていたと申しますが、とんと先生のお書きになるものの中へでも出て来そうじゃございませんか。」  馬琴は生返事をしながら、また一服吸いつけた。が、市兵衛はもとより、生返事くらいに驚くような男ではない。 「いかがでございましょう。そこで金瓶梅の方へ、この次郎太夫を持ちこんで、御執筆を願うようなわけには参りますまいか。それはもう手前も、お忙しいのは重々承知いたしております。が、そこをどうかまげて、一つ御承諾を。」  鼠小僧はここに至って、たちまちまた元の原稿の催促へ舞い戻った。が、この慣用手段に慣れている馬琴は依然として承知しない。のみならず、彼は前よりもいっそう機嫌が悪くなった。これは一時でも市兵衛の計に乗って、幾分の好奇心を動かしたのが、彼自身ばかばかしくなったからである。彼はまずそうに煙草を吸いながら、とうとうこんな理窟を言い出した。 「第一私がむりに書いたって、どうせろくなものは出来やしない。それじゃ売れ行きにかかわるのは言うまでもないことなのだから、貴公の方だってつまらなかろう。してみると、これは私の無理を通させる方が、結局両方のためになるだろうと思うが。」 「でございましょうが、そこを一つ御奮発願いたいので。いかがなものでございましょう。」  市兵衛は、こう言いながら、視線で彼の顔を「撫で廻した。」(これは馬琴が和泉屋のある眼つきを形容した語である。)そうして、煙草の煙をとぎれとぎれに鼻から出した。 「とても、書けないね。書きたくも、暇がないんだから、しかたがない。」 「それは手前、困却いたしますな。」  と言ったが、今度は突然、当時の作者仲間のことを話し出した。やっぱり細い銀の煙管を、うすい唇の間にくわえながら。      八 「また種彦の何か新版物が、出るそうでございますな。いずれ優美第一の、哀れっぽいものでございましょう。あの仁の書くものは、種彦でなくては書けないというところがあるようで。」  市兵衛は、どういう気か、すべて作者の名前を呼びすてにする習慣がある。馬琴はそれを聞くたびに、自分もまた蔭では「馬琴が」と言われることだろうと思った。この軽薄な、作者を自家の職人だと心得ている男の口から、呼びすてにされてまでも、原稿を書いてやる必要がどこにある?──癇のたかぶった時々には、こう思って腹を立てたことも、稀ではない。今日も彼は種彦という名を耳にすると、苦い顔をいよいよ苦くせずにはいられなかった。が、市兵衛には、少しもそんなことは気にならないらしい。 「それから手前どもでも、春水を出そうかと存じております。先生はお嫌いでございますが、やはり俗物にはあの辺が向きますようでございますな。」 「ははあ、さようかね。」  馬琴の記憶には、いつか見かけたことのある春水の顔が、卑しく誇張されて浮んで来た。「私は作者じゃない。お客さまのお望みに従って、艶物を書いてお目にかける手間取りだ。」──こう春水が称しているという噂は、馬琴もつとに聞いていたところである。だから、もちろん彼はこの作者らしくない作者を、心の底から軽蔑していた。が、それにもかかわらず、今市兵衛が呼びすてにするのを聞くと、依然として不快の情を禁ずることが出来ない。 「ともかくあれで、艶っぽいことにかけては、たっしゃなものでございますからな。それに名代の健筆で。」  こう言いながら、市兵衛はちょいと馬琴の顔を見て、それからまたすぐに口にくわえている銀の煙管へ眼をやった。そのとっさの表情には、おそるべく下等な何者かがある。少なくとも、馬琴はそう感じた。 「あれだけのものを書きますのに、すらすら筆が走りつづけて、二三回分くらいなら、紙からはなれないそうでございます。ときに先生なぞは、やはりお早い方でございますか。」  馬琴は不快を感じるとともに、脅かされるような心もちになった。彼の筆の早さを春水や種彦のそれと比較されるということは、自尊心の旺盛な彼にとって、もちろん好ましいことではない。しかも彼は遅筆の方である。彼はそれが自分の無能力に裏書きをするように思われて、寂しくなったこともよくあった。が、一方またそれが自分の芸術的良心を計る物差しとして、尊みたいと思ったこともたびたびある。ただ、それを俗人の穿鑿にまかせるのは、彼がどんな心もちでいようとも、断じて許そうとは思わない。そこで彼は、眼を床の紅楓黄菊の方へやりながら、吐き出すようにこう言った。 「時と場合でね。早い時もあれば、また遅い時もある。」 「ははあ、時と場合でね。なるほど。」  市兵衛は三度感服した。が、これが感服それ自身におわる感服でないことは、言うまでもない。彼はこのあとで、すぐにまた、切りこんだ。 「でございますが、たびたび申し上げた原稿の方は、一つ御承諾くださいませんでしょうか。春水なんぞも、……」 「私と為永さんとは違う。」  馬琴は腹を立てると、下唇を左の方へまげる癖がある。この時、それが恐ろしい勢いで左へまがった。 「まあ私は御免をこうむろう。──杉、杉、和泉屋さんのお履物を直して置いたか。」      九  和泉屋市兵衛を逐い帰すと、馬琴は独り縁側の柱へよりかかって、狭い庭の景色を眺めながら、まだおさまらない腹の虫を、むりにおさめようとして、骨を折った。  日の光をいっぱいに浴びた庭先には、葉の裂けた芭蕉や、坊主になりかかった梧桐が、槇や竹の緑といっしょになって、暖かく何坪かの秋を領している。こっちの手水鉢の側にある芙蓉は、もう花が疎になったが、向うの、袖垣の外に植えた木犀は、まだその甘い匂いが衰えない。そこへ例の鳶の声がはるかな青空の向うから、時々笛を吹くように落ちて来た。  彼は、この自然と対照させて、今さらのように世間の下等さを思い出した。下等な世間に住む人間の不幸は、その下等さに煩わされて、自分もまた下等な言動を余儀なくさせられるところにある。現に今自分は、和泉屋市兵衛を逐い払った。逐い払うということは、もちろん高等なことでもなんでもない。が、自分は相手の下等さによって、自分もまたその下等なことを、しなくてはならないところまで押しつめられたのである。そうして、した。したという意味は市兵衛と同じ程度まで、自分を卑しくしたというのにほかならない。つまり自分は、それだけ堕落させられたわけである。  ここまで考えた時に、彼はそれと同じような出来事を、近い過去の記憶に発見した。それは去年の春、彼のところへ弟子入りをしたいと言って手紙をよこした、相州朽木上新田とかの長島政兵衛という男である。この男はその手紙によると、二十一の年に聾になって以来、二十四の今日まで文筆をもって天下に知られたいという決心で、もっぱら読本の著作に精を出した。八犬伝や巡島記の愛読者であることは言うまでもない。ついてはこういう田舎にいては、何かと修業の妨げになる。だから、あなたのところへ、食客に置いて貰うわけには行くまいか。それからまた、自分は六冊物の読本の原稿を持っている。これもあなたの筆削を受けて、しかるべき本屋から出版したい。──大体こんなことを書いてよこした。向うの要求は、もちろんみな馬琴にとって、あまりに虫のいいことばかりである。が、耳の遠いということが、眼の悪いのを苦にしている彼にとって、幾分の同情をつなぐ楔子になったのであろう。せっかくだが御依頼通りになりかねるという彼の返事は、むしろ彼としては、鄭重を極めていた。すると、折り返して来た手紙には、始めからしまいまで猛烈な非難の文句のほかに、何一つ書いてない。  自分はあなたの八犬伝といい、巡島記といい、あんな長たらしい、拙劣な読本を根気よく読んであげたが、あなたは私のたった六冊物の読本に眼を通すのさえ拒まれた。もってあなたの人格の下等さがわかるではないか。──手紙はこういう文句ではじまって、先輩として後輩を食客に置かないのは、鄙吝のなすところだという攻撃で、わずかに局を結んでいる。馬琴は腹が立ったから、すぐに返事を書いた。そうしてその中に、自分の読本が貴公のような軽薄児に読まれるのは、一生の恥辱だという文句を入れた。その後杳として消息を聞かないが、彼はまだ今まで、読本の稿を起しているだろうか。そうしてそれがいつか日本中の人間に読まれることを、夢想しているだろうか。…………  馬琴はこの記憶の中に、長島政兵衛なるものに対する情けなさと、彼自身に対する情けなさとを同時に感ぜざるを得なかった。そうしてそれはまた彼を、言いようのない寂しさに導いた。が、日は無心に木犀の匂いを融かしている。芭蕉や梧桐も、ひっそりとして葉を動かさない。鳶の声さえ以前の通り朗かである。この自然とあの人間と──十分の後、下女の杉が昼飯の支度の出来たことを知らせに来た時まで、彼はまるで夢でも見ているように、ぼんやり縁側の柱に倚りつづけていた。      十  独りで寂しい昼飯をすませた彼は、ようやく書斎へひきとると、なんとなく落ち着きがない、不快な心もちを鎮めるために、久しぶりで水滸伝を開いて見た。偶然開いたところは豹子頭林冲が、風雪の夜に山神廟で、草秣場の焼けるのを望見する件である。彼はその戯曲的な場景に、いつもの感興を催すことが出来た。が、それがあるところまで続くとかえって妙に不安になった。  仏参に行った家族のものは、まだ帰って来ない。うちの中は森としている。彼は陰気な顔を片づけて、水滸伝を前にしながら、うまくもない煙草を吸った。そうしてその煙の中に、ふだんから頭の中に持っている、ある疑問を髣髴した。  それは、道徳家としての彼と芸術家としての彼との間に、いつも纏綿する疑問である。彼は昔から「先王の道」を疑わなかった。彼の小説は彼自身公言したごとく、まさに「先王の道」の芸術的表現である。だから、そこに矛盾はない。が、その「先王の道」が芸術に与える価値と、彼の心情が芸術に与えようとする価値との間には、存外大きな懸隔がある。従って彼のうちにある、道徳家が前者を肯定するとともに、彼の中にある芸術家は当然また後者を肯定した。もちろんこの矛盾を切り抜ける安価な妥協的思想もないことはない。実際彼は公衆に向ってこの煮え切らない調和説の背後に、彼の芸術に対する曖昧な態度を隠そうとしたこともある。  しかし公衆は欺かれても、彼自身は欺かれない。彼は戯作の価値を否定して「勧懲の具」と称しながら、常に彼のうちに磅礴する芸術的感興に遭遇すると、たちまち不安を感じ出した。──水滸伝の一節が、たまたま彼の気分の上に、予想外の結果を及ぼしたのにも、実はこんな理由があったのである。  この点において、思想的に臆病だった馬琴は、黙然として煙草をふかしながら、強いて思量を、留守にしている家族の方へ押し流そうとした。が、彼の前には水滸伝がある。不安はそれを中心にして、容易に念頭を離れない。そこへ折よく久しぶりで、崋山渡辺登が尋ねて来た。袴羽織に紫の風呂敷包みを小脇にしているところでは、これはおおかた借りていた書物でも返しに来たのであろう。  馬琴は喜んで、この親友をわざわざ玄関まで、迎えに出た。 「今日は拝借した書物を御返却かたがた、お目にかけたいものがあって、参上しました。」  崋山は書斎に通ると、はたしてこう言った。見れば風呂敷包みのほかにも紙に巻いた絵絹らしいものを持っている。 「お暇なら一つ御覧を願いましょうかな。」 「おお、さっそく、拝見しましょう。」  崋山はある興奮に似た感情を隠すように、ややわざとらしく微笑しながら、紙の中の絵絹をひらいて見せた。絵は蕭索とした裸の樹を、遠近と疎に描いて、その中に掌をうって談笑する二人の男を立たせている。林間に散っている黄葉と、林梢に群がっている乱鴉と、──画面のどこを眺めても、うそ寒い秋の気が動いていないところはない。  馬琴の眼は、この淡彩の寒山拾得に落ちると、次第にやさしい潤いを帯びて輝き出した。 「いつもながら、結構なお出来ですな。私は王摩詰を思い出します。食随二鳴磬一巣烏下、行踏二空林一落葉声というところでしょう。」      十一 「これは昨日描き上げたのですが、私には気に入ったから、御老人さえよければ差し上げようと思って持って来ました。」  崋山は、鬚の痕の青い顋を撫でながら、満足そうにこう言った。 「もちろん気に入ったと言っても、今まで描いたもののうちではというくらいなところですが──とても思う通りには、いつになっても、描けはしません。」 「それはありがたい。いつも頂戴ばかりしていて恐縮ですが。」  馬琴は、絵を眺めながら、つぶやくように礼を言った。未完成のままになっている彼の仕事のことが、この時彼の心の底に、なぜかふとひらめいたからである。が、崋山は崋山で、やはり彼の絵のことを考えつづけているらしい。 「古人の絵を見るたびに、私はいつもどうしてこう描けるだろうと思いますな。木でも石でも人物でも、皆その木なり石なり人物なりになり切って、しかもその中に描いた古人の心もちが、悠々として生きている。あれだけは実に大したものです。まだ私などは、そこへ行くと、子供ほどにも出来ていません。」 「古人は後生恐るべしと言いましたがな。」  馬琴は崋山が自分の絵のことばかり考えているのを、妬ましいような心もちで眺めながら、いつになくこんな諧謔を弄した。 「それは後生も恐ろしい。だから私どもはただ、古人と後生との間にはさまって、身動きもならずに、押され押され進むのです。もっともこれは私どもばかりではありますまい。古人もそうだったし、後生もそうでしょう。」 「いかにも進まなければ、すぐに押し倒される。するとまず一足でも進む工夫が、肝腎らしいようですな。」 「さよう、それが何よりも肝腎です。」  主人と客とは、彼ら自身の語に動かされて、しばらくの間口をとざした。そうして二人とも、秋の日の静かな物音に耳をすませた。 「八犬伝は相変らず、捗がお行きですか。」  やがて、崋山が話題を別な方面に開いた。 「いや、一向はかどらんでしかたがありません。これも古人には及ばないようです。」 「御老人がそんなことを言っては、困りますな。」 「困るのなら、私の方が誰よりも困っています。しかしどうしても、これで行けるところまで行くよりほかはない。そう思って、私はこのごろ八犬伝と討死の覚悟をしました。」  こう言って、馬琴は自ら恥ずるもののように、苦笑した。 「たかが戯作だと思っても、そうはいかないことが多いのでね。」 「それは私の絵でも同じことです。どうせやり出したからには、私も行けるところまでは行き切りたいと思っています。」 「お互いに討死ですかな。」  二人は声を立てて、笑った。が、その笑い声の中には、二人だけにしかわからないある寂しさが流れている。と同時にまた、主人と客とは、ひとしくこの寂しさから、一種の力強い興奮を感じた。 「しかし絵の方は羨ましいようですな。公儀のお咎めを受けるなどということがないのはなによりも結構です。」  今度は馬琴が、話頭を一転した。      十二 「それはないが──御老人の書かれるものも、そういう心配はありますまい。」 「いや、大いにありますよ。」  馬琴は改名主の図書検閲が、陋を極めている例として、自作の小説の一節が役人が賄賂をとる箇条のあったために、改作を命ぜられた事実を挙げた。そうして、それにこんな批評をつけ加えた。 「改名主などいうものは、咎め立てをすればするほど、尻尾の出るのがおもしろいじゃありませんか。自分たちが賄賂をとるものだから、賄賂のことを書かれると、嫌がって改作させる。また自分たちが猥雑な心もちにとらわれやすいものだから、男女の情さえ書いてあれば、どんな書物でも、すぐ誨淫の書にしてしまう。それで自分たちの道徳心が、作者より高い気でいるから、傍痛い次第です。言わばあれは、猿が鏡を見て、歯をむき出しているようなものでしょう。自分で自分の下等なのに腹を立てているのですからな。」  崋山は馬琴の比喩があまり熱心なので、思わず失笑しながら、 「それは大きにそういうところもありましょう。しかし改作させられても、それは御老人の恥辱になるわけではありますまい。改名主などがなんと言おうとも、立派な著述なら、必ずそれだけのことはあるはずです。」 「それにしても、ちと横暴すぎることが多いのでね。そうそう一度などは獄屋へ衣食を送る件を書いたので、やはり五六行削られたことがありました。」  馬琴自身もこう言いながら、崋山といっしょに、くすくす笑い出した。 「しかしこの後五十年か百年たったら、改名主の方はいなくなって、八犬伝だけが残ることになりましょう。」 「八犬伝が残るにしろ、残らないにしろ、改名主の方は、存外いつまでもいそうな気がしますよ。」 「そうですかな。私にはそうも思われませんが。」 「いや、改名主はいなくなっても、改名主のような人間は、いつの世にも絶えたことはありません。焚書坑儒が昔だけあったと思うと、大きに違います。」 「御老人は、このごろ心細いことばかり言われますな。」 「私が心細いのではない。改名主どものはびこる世の中が、心細いのです。」 「では、ますます働かれたらいいでしょう。」 「とにかく、それよりほかはないようですな。」 「そこでまた、御同様に討死ですか。」  今度は二人とも笑わなかった。笑わなかったばかりではない。馬琴はちょいと顔をかたくして、崋山を見た。それほど崋山のこの冗談のような語には、妙な鋭さがあったのである。 「しかしまず若い者は、生きのこる分別をすることです。討死はいつでも出来ますからな。」  ほどを経て、馬琴がこう言った。崋山の政治上の意見を知っている彼には、この時ふと一種の不安が感ぜられたからであろう。が、崋山は微笑したぎり、それには答えようともしなかった。      十三  崋山が帰ったあとで、馬琴はまだ残っている興奮を力に、八犬伝の稿をつぐべく、いつものように机へ向った。先を書きつづける前に、昨日書いたところを一通り読み返すのが、彼の昔からの習慣である。そこで彼は今日も、細い行の間へべた一面に朱を入れた、何枚かの原稿を、気をつけてゆっくり読み返した。  すると、なぜか書いてあることが、自分の心もちとぴったり来ない。字と字との間に、不純な雑音が潜んでいて、それが全体の調和を至るところで破っている。彼は最初それを、彼の癇がたかぶっているからだと解釈した。 「今の己の心もちが悪いのだ。書いてあることは、どうにか書き切れるところまで、書き切っているはずだから。」  そう思って、彼はもう一度読み返した。が、調子の狂っていることは前と一向変りはない。彼は老人とは思われないほど、心の中で狼狽し出した。 「このもう一つ前はどうだろう。」  彼はその前に書いたところへ眼を通した。すると、これもまたいたずらに粗雑な文句ばかりが、糅然としてちらかっている。彼はさらにその前を読んだ。そうしてまたその前の前を読んだ。  しかし読むに従って拙劣な布置と乱脈な文章とは、次第に眼の前に展開して来る。そこには何らの映像をも与えない叙景があった。何らの感激をも含まない詠歎があった。そうしてまた、何らの理路をたどらない論弁があった。彼が数日を費やして書き上げた何回分かの原稿は、今の彼の眼から見ると、ことごとく無用の饒舌としか思われない。彼は急に、心を刺されるような苦痛を感じた。 「これは始めから、書き直すよりほかはない。」  彼は心の中でこう叫びながら、いまいましそうに原稿を向うへつきやると、片肘ついてごろりと横になった。が、それでもまだ気になるのか、眼は机の上を離れない。彼はこの机の上で、弓張月を書き、南柯夢を書き、そうして今は八犬伝を書いた。この上にある端渓の硯、蹲螭の文鎮、蟇の形をした銅の水差し、獅子と牡丹とを浮かせた青磁の硯屏、それから蘭を刻んだ孟宗の根竹の筆立て──そういう一切の文房具は、皆彼の創作の苦しみに、久しい以前から親んでいる。それらの物を見るにつけても、彼はおのずから今の失敗が、彼の一生の労作に、暗い影を投げるような──彼自身の実力が根本的に怪しいような、いまわしい不安を禁じることが出来ない。 「自分はさっきまで、本朝に比倫を絶した大作を書くつもりでいた。が、それもやはり事によると、人なみに己惚れの一つだったかも知れない。」  こういう不安は、彼の上に、何よりも堪えがたい、落莫たる孤独の情をもたらした。彼は彼の尊敬する和漢の天才の前には、常に謙遜であることを忘れるものではない。が、それだけにまた、同時代の屑々たる作者輩に対しては、傲慢であるとともにあくまでも不遜である。その彼が、結局自分も彼らと同じ能力の所有者だったということを、そうしてさらに厭うべき遼東の豕だったということは、どうしてやすやすと認められよう。しかも彼の強大な「我」は「悟り」と「諦め」とに避難するにはあまりに情熱に溢れている。  彼は机の前に身を横たえたまま、親船の沈むのを見る、難破した船長の眼で、失敗した原稿を眺めながら、静かに絶望の威力と戦いつづけた。もしこの時、彼の後ろの襖が、けたたましく開け放されなかったら、そうして「お祖父様ただいま。」という声とともに、柔らかい小さな手が、彼の頸へ抱きつかなかったら、彼はおそらくこの憂欝な気分の中に、いつまでも鎖されていたことであろう。が、孫の太郎は襖を開けるや否や、子供のみが持っている大胆と率直とをもって、いきなり馬琴の膝の上へ勢いよくとび上がった。 「お祖父様ただいま。」 「おお、よく早く帰って来たな。」  この語とともに、八犬伝の著者の皺だらけな顔には、別人のような悦びが輝いた。      十四  茶の間の方では、癇高い妻のお百の声や内気らしい嫁のお路の声が賑やかに聞えている。時々太い男の声がまじるのは、折から伜の宗伯も帰り合せたらしい。太郎は祖父の膝にまたがりながら、それを聞きすましでもするように、わざとまじめな顔をして天井を眺めた。外気にさらされた頬が赤くなって、小さな鼻の穴のまわりが、息をするたびに動いている。 「あのね、お祖父様にね。」  栗梅の小さな紋附を着た太郎は、突然こう言い出した。考えようとする努力と、笑いたいのをこらえようとする努力とで、靨が何度も消えたり出来たりする。──それが馬琴には、おのずから微笑を誘うような気がした。 「よく毎日。」 「うん、よく毎日?」 「御勉強なさい。」  馬琴はとうとうふき出した。が、笑いの中ですぐまた語をつぎながら、 「それから?」 「それから──ええと──癇癪を起しちゃいけませんって。」 「おやおや、それっきりかい。」 「まだあるの。」  太郎はこう言って、糸鬢奴の頭を仰向けながら自分もまた笑い出した。眼を細くして、白い歯を出して、小さな靨をよせて、笑っているのを見ると、これが大きくなって、世間の人間のような憐れむべき顔になろうとは、どうしても思われない。馬琴は幸福の意識に溺れながら、こんなことを考えた。そうしてそれが、さらにまた彼の心をくすぐった。 「まだ何かあるかい?」 「まだね。いろんなことがあるの。」 「どんなことが。」 「ええと──お祖父様はね。今にもっとえらくなりますからね。」 「えらくなりますから?」 「ですからね。よくね。辛抱おしなさいって。」 「辛抱しているよ。」馬琴は思わず、真面目な声を出した。 「もっと、もっとようく辛抱なさいって。」 「誰がそんなことを言ったのだい。」 「それはね。」  太郎は悪戯そうに、ちょいと彼の顔を見た。そうして笑った。 「だあれだ?」 「そうさな。今日は御仏参に行ったのだから、お寺の坊さんに聞いて来たのだろう。」 「違う。」  断然として首を振った太郎は、馬琴の膝から、半分腰をもたげながら、顋を少し前へ出すようにして、 「あのね。」 「うん。」 「浅草の観音様がそう言ったの。」  こう言うとともに、この子供は、家内中に聞えそうな声で、嬉しそうに笑いながら、馬琴につかまるのを恐れるように、急いで彼の側から飛びのいた。そうしてうまく祖父をかついだおもしろさに小さな手をたたきながら、ころげるようにして茶の間の方へ逃げて行った。  馬琴の心に、厳粛な何物かが刹那にひらめいたのは、この時である。彼の唇には幸福な微笑が浮んだ。それとともに彼の眼には、いつか涙がいっぱいになった。この冗談は太郎が考え出したのか、あるいはまた母が教えてやったのか、それは彼の問うところではない。この時、この孫の口から、こういう語を聞いたのが、不思議なのである。 「観音様がそう言ったか。勉強しろ。癇癪を起すな。そうしてもっとよく辛抱しろ。」  六十何歳かの老芸術家は、涙の中に笑いながら、子供のようにうなずいた。      十五  その夜のことである。  馬琴は薄暗い円行燈の光のもとで、八犬伝の稿をつぎ始めた。執筆中は家内のものも、この書斎へははいって来ない。ひっそりした部屋の中では、燈心の油を吸う音が、蟋蟀の声とともに、むなしく夜長の寂しさを語っている。  始め筆を下した時、彼の頭の中には、かすかな光のようなものが動いていた。が、十行二十行と、筆が進むのに従って、その光のようなものは、次第に大きさを増して来る。経験上、その何であるかを知っていた馬琴は、注意に注意をして、筆を運んで行った。神来の興は火と少しも変りがない。起すことを知らなければ、一度燃えても、すぐにまた消えてしまう。…… 「あせるな。そうして出来るだけ、深く考えろ。」  馬琴はややもすれば走りそうな筆をいましめながら、何度もこう自分にささやいた。が、頭の中にはもうさっきの星を砕いたようなものが、川よりも早く流れている。そうしてそれが刻々に力を加えて来て、否応なしに彼を押しやってしまう。  彼の耳にはいつか、蟋蟀の声が聞えなくなった。彼の眼にも、円行燈のかすかな光が、今は少しも苦にならない。筆はおのずから勢いを生じて、一気に紙の上をすべりはじめる。彼は神人と相搏つような態度で、ほとんど必死に書きつづけた。  頭の中の流れは、ちょうど空を走る銀河のように、滾々としてどこからか溢れて来る。彼はそのすさまじい勢いを恐れながら、自分の肉体の力が万一それに耐えられなくなる場合を気づかった。そうして、かたく筆を握りながら、何度もこう自分に呼びかけた。 「根かぎり書きつづけろ。今己が書いていることは、今でなければ書けないことかも知れないぞ。」  しかし光の靄に似た流れは、少しもその速力をゆるめない。かえって目まぐるしい飛躍のうちに、あらゆるものを溺らせながら、澎湃として彼を襲って来る。彼は遂に全くその虜になった。そうして一切を忘れながら、その流れの方向に、嵐のような勢いで筆を駆った。  この時彼の王者のような眼に映っていたものは、利害でもなければ、愛憎でもない。まして毀誉に煩わされる心などは、とうに眼底を払って消えてしまった。あるのは、ただ不可思議な悦びである。あるいは恍惚たる悲壮の感激である。この感激を知らないものに、どうして戯作三昧の心境が味到されよう。どうして戯作者の厳かな魂が理解されよう。ここにこそ「人生」は、あらゆるその残滓を洗って、まるで新しい鉱石のように、美しく作者の前に、輝いているではないか。……       ×   ×   ×  その間も茶の間の行燈のまわりでは、姑のお百と、嫁のお路とが、向い合って縫い物を続けている。太郎はもう寝かせたのであろう。少し離れたところには尫弱らしい宗伯が、さっきから丸薬をまろめるのに忙しい。 「お父様はまだ寝ないかねえ。」  やがてお百は、針へ髪の油をつけながら、不服らしくつぶやいた。 「きっとまたお書きもので、夢中になっていらっしゃるのでしょう。」  お路は眼を針から離さずに、返事をした。 「困り者だよ。ろくなお金にもならないのにさ。」  お百はこう言って、伜と嫁とを見た。宗伯は聞えないふりをして、答えない。お路も黙って針を運びつづけた。蟋蟀はここでも、書斎でも、変りなく秋を鳴きつくしている。 (大正六年十一月) 底本:「日本の文学 29 芥川龍之介」中央公論社    1964(昭和39)年10月5日初版発行 初出:「大阪毎日新聞」    1917(大正6)年11月 入力:佐野良二 校正:伊藤時也 2000年4月15日公開 2004年1月11日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。