大正十二年九月一日の大震に際して 芥川龍之介 Guide 扉 本文 目 次 大正十二年九月一日の大震に際して      一 大震雑記       一  大正十二年八月、僕は一游亭と鎌倉へ行き、平野屋別荘の客となつた。僕等の座敷の軒先はずつと藤棚になつてゐる。その又藤棚の葉の間にはちらほら紫の花が見えた。八月の藤の花は年代記ものである。そればかりではない。後架の窓から裏庭を見ると、八重の山吹も花をつけてゐる。   山吹を指すや日向の撞木杖    一游亭    (註に曰、一游亭は撞木杖をついてゐる。)  その上又珍らしいことは小町園の庭の池に菖蒲も蓮と咲き競つてゐる。   葉を枯れて蓮と咲ける花あやめ  一游亭  藤、山吹、菖蒲と数へてくると、どうもこれは唯事ではない。「自然」に発狂の気味のあるのは疑ひ難い事実である。僕は爾来人の顔さへ見れば、「天変地異が起りさうだ」と云つた。しかし誰も真に受けない。久米正雄の如きはにやにやしながら、「菊池寛が弱気になつてね」などと大いに僕を嘲弄したものである。  僕等の東京に帰つたのは八月二十五日である。大地震はそれから八日目に起つた。 「あの時は義理にも反対したかつたけれど、実際君の予言は中つたね。」  久米も今は僕の予言に大いに敬意を表してゐる。さう云ふことならば白状しても好い。──実は僕も僕の予言を余り信用しなかつたのだよ。       二 「浜町河岸の舟の中に居ります。桜川三孝。」  これは吉原の焼け跡にあつた無数の貼り紙の一つである。「舟の中に居ります」と云ふのは真面目に書いた文句かも知れない。しかし哀れにも風流である。僕はこの一行の中に秋風の舟を家と頼んだ幇間の姿を髣髴した。江戸作者の写した吉原は永久に還つては来ないであらう。が、兎に角今日と雖も、かう云ふ貼り紙に洒脱の気を示した幇間のゐたことは確かである。       三  大地震のやつと静まつた後、屋外に避難した人人は急に人懐しさを感じ出したらしい。向う三軒両隣を問はず、親しさうに話し合つたり、煙草や梨をすすめ合つたり、互に子供の守りをしたりする景色は、渡辺町、田端、神明町、──殆ど至る処に見受けられたものである。殊に田端のポプラア倶楽部の芝生に難を避けてゐた人人などは、背景にポプラアの戦いでゐるせゐか、ピクニツクに集まつたのかと思ふ位、如何にも楽しさうに打ち解けてゐた。  これは夙にクライストが「地震」の中に描いた現象である。いや、クライストはその上に地震後の興奮が静まるが早いか、もう一度平生の恩怨が徐ろに目ざめて来る恐しささへ描いた。するとポプラア倶楽部の芝生に難を避けてゐた人人もいつ何時隣の肺病患者を駆逐しようと試みたり、或は又向うの奥さんの私行を吹聴して歩かうとするかも知れない。それは僕でも心得てゐる。しかし大勢の人人の中にいつにない親しさの湧いてゐるのは兎に角美しい景色だつた。僕は永久にあの記憶だけは大事にして置きたいと思つてゐる。       四  僕も今度は御多分に洩れず、焼死した死骸を沢山見た。その沢山の死骸のうち最も記憶に残つてゐるのは、浅草仲店の収容所にあつた病人らしい死骸である。この死骸も炎に焼かれた顔は目鼻もわからぬほどまつ黒だつた。が、湯帷子を着た体や痩せ細つた手足などには少しも焼け爛れた痕はなかつた。しかし僕の忘れられぬのは何もさう云ふ為ばかりではない。焼死した死骸は誰も云ふやうに大抵手足を縮めてゐる。けれどもこの死骸はどう云ふ訣か、焼け残つたメリンスの布団の上にちやんと足を伸ばしてゐた。手も亦覚悟を極めたやうに湯帷子の胸の上に組み合はせてあつた。これは苦しみ悶えた死骸ではない。静かに宿命を迎へた死骸である。もし顔さへ焦げずにゐたら、きつと蒼ざめた脣には微笑に似たものが浮んでゐたであらう。  僕はこの死骸をもの哀れに感じた。しかし妻にその話をしたら、「それはきつと地震の前に死んでゐた人の焼けたのでせう」と云つた。成程さう云はれて見れば、案外そんなものだつたかも知れない。唯僕は妻の為に小説じみた僕の気もちの破壊されたことを憎むばかりである。       五  僕は善良なる市民である。しかし僕の所見によれば、菊池寛はこの資格に乏しい。  戒厳令の布かれた後、僕は巻煙草を啣へたまま、菊池と雑談を交換してゐた。尤も雑談とは云ふものの、地震以外の話の出た訣ではない。その内に僕は大火の原因は○○○○○○○○さうだと云つた。すると菊池は眉を挙げながら、「譃だよ、君」と一喝した。僕は勿論さう云はれて見れば、「ぢや譃だらう」と云ふ外はなかつた。しかし次手にもう一度、何でも○○○○はボルシエヴイツキの手先ださうだと云つた。菊池は今度は眉を挙げると、「譃さ、君、そんなことは」と叱りつけた。僕は又「へええ、それも譃か」と忽ち自説(?)を撤回した。  再び僕の所見によれば、善良なる市民と云ふものはボルシエヴイツキと○○○○との陰謀の存在を信ずるものである。もし万一信じられぬ場合は、少くとも信じてゐるらしい顔つきを装はねばならぬものである。けれども野蛮なる菊池寛は信じもしなければ信じる真似もしない。これは完全に善良なる市民の資格を放棄したと見るべきである。善良なる市民たると同時に勇敢なる自警団の一員たる僕は菊池の為に惜まざるを得ない。  尤も善良なる市民になることは、──兎に角苦心を要するものである。       六  僕は丸の内の焼け跡を通つた。此処を通るのは二度目である。この前来た時には馬場先の濠に何人も泳いでゐる人があつた。けふは──僕は見覚えのある濠の向うを眺めた。堀の向うには薬研なりに石垣の崩れた処がある。崩れた土は丹のやうに赤い。崩れぬ土手は青芝の上に不相変松をうねらせてゐる。其処にけふも三四人、裸の人人が動いてゐた。何もさう云ふ人人は酔興に泳いでゐる訣ではあるまい。しかし行人たる僕の目にはこの前も丁度西洋人の描いた水浴の油画か何かのやうに見えた、今日もそれは同じである。いや、この前はこちらの岸に小便をしてゐる土工があつた。けふはそんなものを見かけぬだけ、一層平和に見えた位である。  僕はかう云ふ景色を見ながら、やはり歩みをつづけてゐた。すると突然濠の上から、思ひもよらぬ歌の声が起つた。歌は「懐しのケンタツキイ」である。歌つてゐるのは水の上に頭ばかり出した少年である。僕は妙な興奮を感じた。僕の中にもその少年に声を合せたい心もちを感じた。少年は無心に歌つてゐるのであらう。けれども歌は一瞬の間にいつか僕を捉へてゐた否定の精神を打ち破つたのである。  芸術は生活の過剰ださうである。成程さうも思はれぬことはない。しかし人間を人間たらしめるものは常に生活の過剰である。僕等は人間たる尊厳の為に生活の過剰を作らなければならぬ。更に又巧みにその過剰を大いなる花束に仕上げねばならぬ。生活に過剰をあらしめるとは生活を豊富にすることである。  僕は丸の内の焼け跡を通つた。けれども僕の目に触れたのは猛火も亦焼き難い何ものかだつた。      二 大震日録  八月二十五日。  一游亭と鎌倉より帰る。久米、田中、菅、成瀬、武川など停車場へ見送りに来る。一時ごろ新橋着。直ちに一游亭とタクシイを駆り、聖路加病院に入院中の遠藤古原草を見舞ふ。古原草は病殆ど癒え、油画具など弄び居たり。風間直得と落ち合ふ。聖路加病院は病室の設備、看護婦の服装等、清楚甚だ愛すべきものあり。一時間の後、再びタクシイを駆りて一游亭を送り、三時ごろやつと田端へ帰る。  八月二十九日  暑気甚し。再び鎌倉に遊ばんかなどとも思ふ。薄暮より悪寒。検温器を用ふれば八度六分の熱あり。下島先生の来診を乞ふ。流行性感冒のよし。母、伯母、妻、児等、皆多少風邪の気味あり。  八月三十一日。  病聊か快きを覚ゆ。床上「澀江抽斎」を読む。嘗て小説「芋粥」を艸せし時、「殆ど全く」なる語を用ひ、久米に笑はれたる記憶あり。今「抽斎」を読めば、鴎外先生も亦「殆ど全く」の語を用ふ。一笑を禁ずる能はず。  九月一日。  午ごろ茶の間にパンと牛乳を喫し了り、将に茶を飲まんとすれば、忽ち大震の来るあり。母と共に屋外に出づ。妻は二階に眠れる多加志を救ひに去り、伯母は又梯子段のもとに立ちつつ、妻と多加志とを呼んでやまず、既にして妻と伯母と多加志を抱いて屋外に出づれば、更に又父と比呂志とのあらざるを知る。婢しづを、再び屋内に入り、倉皇比呂志を抱いて出づ。父亦庭を回つて出づ。この間家大いに動き、歩行甚だ自由ならず。屋瓦の乱墜するもの十余。大震漸く静まれば、風あり、面を吹いて過ぐ。土臭殆ど噎ばんと欲す。父と屋の内外を見れば、被害は屋瓦の墜ちたると石燈籠の倒れたるのみ。  円月堂、見舞ひに来る。泰然自若たる如き顔をしてゐれども、多少は驚いたのに違ひなし。病を力めて円月堂と近鄰に住する諸君を見舞ふ。途上、神明町の狭斜を過ぐれば、人家の倒壊せるもの数軒を数ふ。また月見橋のほとりに立ち、遙かに東京の天を望めば、天、泥土の色を帯び、焔煙の四方に飛騰する見る。帰宅後、電燈の点じ難く、食糧の乏しきを告げんことを惧れ、蝋燭米穀蔬菜罐詰の類を買ひ集めしむ。  夜また円月堂の月見橋のほとりに至れば、東京の火災愈猛に、一望大いなる熔鉱炉を見るが如し。田端、日暮里、渡辺町等の人人、路上に椅子を据ゑ畳を敷き、屋外に眠らとするもの少からず。帰宅後、大震の再び至らざるべきを説き、家人を皆屋内に眠らしむ。電燈、瓦斯共に用をなさず、時に二階の戸を開けば、天色常に燃ゆるが如く紅なり。  この日、下島先生の夫人、単身大震中の薬局に入り、薬剤の棚の倒れんとするを支ふ。為めに出火の患なきを得たり。胆勇、僕などの及ぶところにあらず。夫人は澀江抽斎の夫人いほ女の生れ変りか何かなるべし。  九月二日。  東京の天、未だ煙に蔽はれ、灰燼の時に庭前に墜つるを見る。円月堂に請ひ、牛込、芝等の親戚を見舞はしむ。東京全滅の報あり。又横浜並びに湘南地方全滅の報あり。鎌倉に止まれる知友を思ひ、心頻りに安からず。薄暮円月堂の帰り報ずるを聞けば、牛込は無事、芝、焦土と化せりと云ふ。姉の家、弟の家、共に全焼し去れるならん。彼等の生死だに明らかならざるを憂ふ。  この日、避難民の田端を経て飛鳥山に向ふもの、陸続として絶えず。田端も亦延焼せんことを惧れ、妻は児等の衣をバスケツトに収め、僕は漱石先生の書一軸を風呂敷に包む。家具家財の荷づくりをなすも、運び難からんことを察すればなり。人慾素より窮まりなしとは云へ、存外又あきらめることも容易なるが如し。夜に入りて発熱三十九度。時に○○○○○○○○あり。僕は頭重うして立つ能はず。円月堂、僕の代りに徹宵警戒の任に当る。脇差を横たへ、木刀を提げたる状、彼自身宛然たる○○○○なり。      三 大震に際せる感想  地震のことを書けと云ふ雑誌一つならず。何をどう書き飛ばすにせよ、さうは註文に応じ難ければ、思ひつきたること二三を記してやむべし。幸ひに孟浪を咎むること勿れ。  この大震を天譴と思へとは渋沢子爵の云ふところなり。誰か自ら省れば脚に疵なきものあらんや。脚に疵あるは天譴を蒙る所以、或は天譴を蒙れりと思ひ得る所以なるべし、されど我は妻子を殺し、彼は家すら焼かれざるを見れば、誰か又所謂天譴の不公平なるに驚かざらんや。不公平なる天譴を信ずるは天譴を信ぜざるに若かざるべし。否、天の蒼生に、──当世に行はるる言葉を使へば、自然の我我人間に冷淡なることを知らざるべからず。  自然は人間に冷淡なり。大震はブウルジヨアとプロレタリアとを分たず。猛火は仁人と溌皮とを分たず。自然の眼には人間も蚤も選ぶところなしと云へるトウルゲネフの散文詩は真実なり。のみならず人間の中なる自然も、人間の中なる人間に愛憐を有するものにあらず。大震と猛火とは東京市民に日比谷公園の池に遊べる鶴と家鴨とを食はしめたり。もし救護にして至らざりとせば、東京市民は野獣の如く人肉を食ひしやも知るべからず。  日比谷公園の池に遊べる鶴と家鴨とを食はしめし境遇の惨は恐るべし。されど鶴と家鴨とを──否、人肉を食ひしにもせよ、食ひしことは恐るるに足らず。自然は人間に冷淡なればなり。人間の中なる自然も又人間の中なる人間に愛憐を垂るることなければなり。鶴と家鴨とを食へるが故に、東京市民を獣心なりと云ふは、──惹いては一切人間を禽獣と選ぶことなしと云ふは、畢竟意気地なきセンテイメンタリズムのみ。  自然は人間に冷淡なり。されど人間なるが故に、人間たる事実を軽蔑すべからず。人間たる尊厳を抛棄すべからず。人肉を食はずんば生き難しとせよ。汝とともに人肉を食はん。人肉を食うて腹鼓然たらば、汝の父母妻子を始め、隣人を愛するに躊躇することなかれ。その後に尚余力あらば、風景を愛し、芸術を愛し、万般の学問を愛すべし。  誰か自ら省れば脚に疵なきものあらんや。僕の如きは両脚の疵、殆ど両脚を中断せんとす。されど幸ひにこの大震を天譴なりと思ふ能はず。況んや天譴の不公平なるにも呪詛の声を挙ぐる能はず。唯姉弟の家を焼かれ、数人の知友を死せしめしが故に、已み難き遺憾を感ずるのみ。我等は皆歎くべし、歎きたりと雖も絶望すべからず。絶望は死と暗黒とへの門なり。  同胞よ。面皮を厚くせよ。「カンニング」を見つけられし中学生の如く、天譴なりなどと信ずること勿れ。僕のこの言を倣す所以は、渋沢子爵の一言より、滔滔と何でもしやべり得る僕の才力を示さんが為なり。されどかならずしもその為のみにはあらず。同胞よ。冷淡なる自然の前に、アダム以来の人間を樹立せよ。否定的精神の奴隷となること勿れ。      四 東京人  東京に生まれ、東京に育ち、東京に住んでゐる僕は未だ嘗て愛郷心なるものに同情を感じた覚えはない。又同情を感じないことを得意としてゐたのも確かである。  元来愛郷心なるものは、県人会の世話にもならず、旧藩主の厄介にもならない限り、云はば無用の長物である。東京を愛するのもこの例に洩れない。兎角東京東京と難有さうに騒ぎまはるのはまだ東京の珍らしい田舎者に限つたことである。──さう僕は確信してゐた。  すると大地震のあつた翌日、大彦の野口君に遇つた時である。僕は一本のサイダアを中に、野口君といろいろ話をした。一本のサイダアを中になどと云ふと、或は気楽さうに聞えるかも知れない。しかし東京の大火の煙は田端の空さへ濁らせてゐる。野口君もけふは元禄袖の紗の羽織などは着用してゐない。何だか火事頭巾の如きものに雲龍の刺つ子と云ふ出立ちである。僕はその時話の次手にもう続続罹災民は東京を去つてゐると云ふ話をした。 「そりやあなた、お国者はみんな帰つてしまふでせう。──」  野口君は言下にかう云つた。 「その代りに江戸つ児だけは残りますよ。」  僕はこの言葉を聞いた時に、ちよいと或心強さを感じた。それは君の服装の為か、空を濁らせた煙の為か、或は又僕自身も大地震に悸えてゐた為か、その辺の消息ははつきりしない。しかし兎に角その瞬間、僕も何か愛郷心に似た、勇ましい気のしたのは事実である。やはり僕の心の底には幾分か僕の軽蔑してゐた江戸つ児の感情が残つてゐるらしい。      五 廃都東京  加藤武雄様。東京を弔ふの文を作れと云ふ仰せは正に拝承しました。又おひきうけしたことも事実であります。しかしいざ書かうとなると、匇忙の際でもあり、どうも気乗りがしませんから、この手紙で御免を蒙りたいと思ひます。  応仁の乱か何かに遇つた人の歌に、「汝も知るや都は野べの夕雲雀揚るを見ても落つる涙は」と云ふのがあります。丸の内の焼け跡を歩いた時にはざつとああ云ふ気がしました。水木京太氏などは銀座を通ると、ぽろぽろ涙が出たさうであります。(尤も全然センテイメンタルな気もちなしにと云ふ断り書があるのですが)けれども僕は「落つる涙は」と云ふ気がしたきり、実際は涙を落さずにすみました。その外不謹慎の言葉かも知れませんが、ちよいともの珍しかつたことも事実であります。 「落つる涙は」と云ふ気のしたのは、勿論こんなにならぬ前の東京を思ひ出した為であります。しかし大いに東京を惜しんだと云ふ訣ぢやありません。僕はこんなにならぬ前の東京に余り愛惜を持たずにゐました。と云つても僕を江戸趣味の徒と速断してはいけません、僕は知りもせぬ江戸の昔に依依恋恋とする為には余りに散文的に出来てゐるのですから。僕の愛する東京は僕自身の見た東京、僕自身の歩いた東京なのです。銀座に柳の植つてゐた、汁粉屋の代りにカフエの殖えない、もつと一体に落ち着いてゐた、──あなたもきつと知つてゐるでせう、云はば麦稈帽はかぶつてゐても、薄羽織を着てゐた東京なのです。その東京はもう消え失せたのですから、同じ東京とは云ふものの、何処か折り合へない感じを与へられてゐました。それが今焦土に変つたのです。僕はこの急劇な変化の前に俗悪な東京を思ひ出しました。が、俗悪な東京を惜しむ気もちは、──いや、丸の内の焼け跡を歩いた時には惜しむ気もちにならなかつたにしろ、今は惜しんでゐるのかも知れません。どうもその辺はぼんやりしてゐます。僕はもう俗悪な東京にいつか追憶の美しさをつけ加へてゐるやうな気がしますから。つまり一番確かなのは「落つる涙は」と云ふ気のしたことです。僕の東京を弔ふ気もちもこの一語を出ないことになるのでせう。「落つる涙は」、──これだけではいけないでせうか?  何だかとりとめもない事ばかり書きましたが、どうか悪しからず御赦し下さい。僕はこの手紙を書いて了ふと、僕の家に充満した焼け出されの親戚故旧と玄米の夕飯を食ふのです。それから堤燈に蝋燭をともして、夜警の詰所へ出かけるのです。以上。      六 震災の文芸に与ふる影響  大地震の災害は戦争や何かのやうに、必然に人間のうみ出したものではない。ただ大地の動いた結果、火事が起つたり、人が死んだりしたのにすぎない。それだけに震災の我我作家に与へる影響はさほど根深くはないであらう。すくなくとも、作家の人生観を一変することなどはないであらう。もし、何か影響があるとすれば、かういふことはいはれるかも知れぬ。  災害の大きかつただけにこんどの大地震は、我我作家の心にも大きな動揺を与へた。我我ははげしい愛や、憎しみや、憐みや、不安を経験した。在来、我我のとりあつかつた人間の心理は、どちらかといへばデリケエトなものである。それへ今度はもつと線の太い感情の曲線をゑがいたものが新に加はるやうになるかも知れない。勿論その感情の波を起伏させる段取りには大地震や火事を使ふのである。事実はどうなるかわからぬが、さういふ可能性はありさうである。  また大地震後の東京は、よし復興するにせよ、さしあたり殺風景をきはめるだらう。そのために我我は在来のやうに、外界に興味を求めがたい。すると我我自身の内部に、何か楽みを求めるだらう。すくなくとも、さういふ傾向の人は更にそれを強めるであらう。つまり、乱世に出合つた支那の詩人などの隠棲の風流を楽しんだと似たことが起りさうに思ふのである。これも事実として予言は出来ぬが、可能性はずゐぶんありさうに思ふ。  前の傾向は多数へ訴へる小説をうむことになりさうだし、後の傾向は少数に訴へる小説をうむことになる筈である。即ち両者の傾向は相反してゐるけれども、どちらも起らぬと断言しがたい。      七 古書の焼失を惜しむ  今度の地震で古美術品と古書との滅びたのは非常に残念に思ふ。表慶館に陳列されてゐた陶器類は殆ど破損したといふことであるが、その他にも損害は多いにちがひない。然し古美術品のことは暫らく措き古書のことを考へると黒川家の蔵書も焼け、安田家の蔵書も焼け大学の図書館の蔵書も焼けたのは取り返しのつかない損害だらう。商売人でも村幸とか浅倉屋とか吉吉だとかいふのが焼けたからその方の罹害も多いにちがひない。個人の蔵書は兎も角も大学図書館の蔵書の焼かれたことは何んといつても大学の手落ちである。図書館の位置が火災の原因になりやすい医科大学の薬品のあるところと接近してゐるのも宜敷くない。休日などには図書館に小使位しか居ないのも宜しくない、(その為めに今度のやうな火災にもどういふ本が貴重かがわからず、従って貴重な本を出すことも出来なかつたらしい。)書庫そのものの構造のゾンザイなのも宜敷くない。それよりももつと突き詰めたことをいへば、大学が古書を高閣に束ねるばかりで古書の覆刻を盛んにしなかつたのも宜敷くない。徒らに材料を他に示すことを惜んで竟にその材料を烏有に帰せしめた学者の罪は鼓を鳴らして攻むべきである。大野洒竹の一生の苦心に成つた洒竹文庫の焼け失せた丈けでも残念で堪らぬ。「八九間雨柳」といふ士朗の編んだ俳書などは勝峯晉風氏の文庫と天下に二冊しかなかつたやうに記憶してゐるが、それも今は一冊になつてしまつた訣だ。 (大正十二年九月) 底本:「筑摩全集類聚 芥川龍之介全集第四巻」筑摩書房    1971(昭和46)年6月5日初版第1刷発行    1979(昭和54)年4月10日初版第11刷発行 入力:土屋隆 校正:松永正敏 2007年6月26日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。