続野人生計事 芥川龍之介 Guide 扉 本文 目 次 続野人生計事      一 放屁  アンドレエフに百姓が鼻糞をほじる描写がある。フランスに婆さんが小便をする描写がある。しかし屁をする描写のある小説にはまだ一度も出あつたことはない。  出あつたことのないといふのは、西洋の小説にはと云ふ意味である。日本の小説にはない訣ではない。その一つは青木健作氏の何とかいふ女工の小説である。駈落ちをした女工が二人、干藁か何かの中に野宿する。夜明に二人とも目がさめる。一人がぷうとおならをする。もう一人がくすくす笑ひ出す──たしかそんな筋だつたと思ふ。その女工の屁をする描写は予の記憶に誤りがなければ、甚だ上品に出来上つてゐた。予は此の一段を読んだ為に、今日もなほ青木氏の手腕に敬意を感じてゐる位なものである。  もう一つは中戸川吉二氏の何とか云ふ不良少年の小説である。これはつい三四箇月以前、サンデイ毎日に出てゐたのだから、知つてゐる読者も多いかも知れない。不良少年に口説かれた女が際どい瞬間におならをする、その為に折角醸されたエロチツクな空気が消滅する、女は妙につんとしてしまふ、不良少年も手が出せなくなる──大体かう云ふ小説だつた。この小説も巧みに書きこなしてある。  青木氏の小説に出て来る女工は必しもおならをしないでも好い。しかし中戸川氏の小説に出て来る女は嫌でもおならをする必要がある。しなければ成り立たない。だから屁は中戸川氏を得た後始めて或重大な役目を勤めるやうになつたと云ふべきである。  しかしこれは近世のことである。宇治拾遺物語によれば、藤大納言忠家も、「いまだ殿上人におはしける時、びびしき色好みなりける女房ともの云ひて、夜更くるほどに月は昼よりもあかかりけるに」たへ兼ねてひき寄せたら、女は「あなあさまし」と云ふ拍子に大きいおならを一つした。忠家はこの屁を聞いた時に「心うきことにも逢ひぬるかな。世にありて何かはせん。出家せん」と思ひ立つた。けれども、つらつら考へて見れば、何も女が屁をしたからと云つて、坊主にまでなるには当りさうもない。忠家は其処に気がついたから、出家することだけは見合せたが、匇匇その場は逃げ出したさうである。すると中戸川氏の小説も文学史的に批評すれば、前人未発と云ふことは出来ない。しかし断えたるを継いだ功は当然同氏に属すべきである。この功は多分中戸川氏自身の予想しなかつたところであらう。しかし功には違ひないから、序に此処に吹聴することにした。      二 女と影  紋服を着た西洋人は滑稽に見えるものである。或は滑稽に見える余り、西洋人自身の男振などは滅多に問題にならないものである。クロオデル大使の「女と影」も、云はば紋服を着た西洋人だつたから、一笑に付せられてしまつたのであらう。しかし当人の男ぶりは紋服たると燕尾服たるとを問はず独立に美醜を論ぜらるべきである。「女と影」に対する世評は存外この点に無頓着だつたらしい。さう男ぶりを閑却するのは仏蘭西人たる大使にも気の毒である。  試みにあの作品の舞台をペルシアか印度かへ移して見るが好い。桃の花の代りに蓮の花を咲かせ、古風な侍の女房の代りに王女か何か舞はせたとすれば、毒舌に富んだ批評家と雖も、今日のやうに敢然とは鼎の軽重を問はなかつたであらう。況やあの作品にさへ三歎の声を惜まなかつた鑑賞上の神秘主義者などは勿論無上の法悦の為に即死を遂げたのに相違あるまい。クロオデル大使は紋服の為にこの位損な目を見てゐるのである。  しかし男ぶりは姑く問はず、紋服そのものの感じにしても、全然面白味のない訣ではない。成程「女と影」なるものは日本のやうな西洋のやうな、妙にとんちんかんな作品である。けれどもあのとんちんかんのところは手腕の鈍い為に起つたものではない。日本とか我我日本人の芸術とかに理解のない為に起つたものである。虎を描かうと思つたのが猫になつてしまつたのではない。猫も虎も見わけられないから、同じやうに描いてすましてゐるのである。思ふに虎になり損なつた彼は小説家になり損なつた批評家のやうに、義理にも面白いとは云はれたものではない。けれども猫とも虎ともつかない、何か怪しげな動物になれば、古来野師の儲けたのはかう云ふ動物恩恵である。我我は面白いと思はないものに一銭の木戸銭をも抛つ筈はない。  これは「女と影」ばかりではない。「サムラヒ」とか「ダイミヤウ」とか云ふエレデイアの詩でも同じことである。ああ云ふ作品は可笑しいかも知れない。しかしその可笑しいところに、善く云へば阿蘭陀の花瓶に似た、悪く云へばサムラヒ商会の輸出品に似た一種のシヤルムがひそんでゐる。このシヤルムさへ認めないのは偏狭の譏を免れないであらう。予は野口米次郎氏の如き、或は郡虎彦氏の如き、西洋に名を馳せた日本人の作品も、その名を馳せた一半の理由はこのシヤルムにあつたことを信じてゐる。と云ふのは勿論両氏の作品に非難を加へようと云ふのではない。寛大な西洋人に迎へられたことを両氏の為に欣幸とし、偏狭な日本人に却けられたことをクロオデル大使の為に遺憾とするのである。  仄聞するところによれば、クロオデル大使はどう云ふ訣か、西洋輓近の芸術に対する日本人の鑑賞力に疑惑を抱いてゐるさうである。まことに「女と影」の如きも、予などの批評を許さないかも知れない。しかし時の古今を問はず、わが日本の芸術に対する西洋人の鑑賞力は──予は先夜細川侯の舞台に桜間金太郎氏の「すみだ川」を見ながら欠伸をしてゐたクロオデル大使に同情の微笑を禁じ得なかつた。すると半可通をふりまはすことは大使も予もお互ひ様である。仏蘭西の大使クロオデル閣下、どうか悪しからずお読み下さい。      三 ピエル・ロテイの死  ピエル・ロテイが死んださうである。ロテイが「お菊夫人」「日本の秋」等の作者たることは今更辯じ立てる必要はあるまい。小泉八雲一人を除けば、兎に角ロテイは不二山や椿やベベ・ニツポンを着た女と最も因縁の深い西洋人である。そのロテイを失つたことは我我日本人の身になるとまんざら人ごとのやうに思はれない。  ロテイは偉い作家ではない。同時代の作家と比べたところが、余り背の高い方ではなささうである。ロテイは新らしい感覚描写を与へた。或は新らしい抒情詩を与へた。しかし新らしい人生の見かたや新らしい道徳は与へなかつた。勿論これは芸術家たるロテイには致命傷でも何でもないのに違ひない。提燈は火さへともせれば、敬意を表して然るべきである。合羽のやうに雨が凌げぬにしろ、軽蔑して好いと云ふものではない。しかし雨が降つてゐるから、まづ提燈は持たずとも合羽の御厄介にならうと云ふのはもとより人情の自然である。かう云ふ人情の矢面には如何なる芸術至上主義も、提燈におしなさいと云ふ忠告と同様、利き目のないものと覚悟せねばならぬ。我我は土砂降りの往来に似た人生を辿る人足である。けれどもロテイは我我に一枚の合羽をも与へなかつた。だから我我はロテイの上に「偉い」と云ふ言葉を加へないのである。古来偉い芸術家と云ふのは、──勿論合羽の施行をする人に過ぎない。  又ロテイはこの数年間、仏蘭西文壇の「人物」だつたにせよ、仏蘭西文壇の「力」ではなかつた。だから彼の死も実際的には格別影響を及ぼさないであらう。唯我我日本人は前にもちよいと云つた通り、美しい日本の小説を書いた、当年の仏蘭西の海軍将校ジユリアン・ヴイオオの長逝に哀悼の念を抱いてゐる。ロテイの描いた日本はヘルンの描いた日本よりも、真を伝へない画図かも知れない。しかし兎に角好画図たることは異論を許さない事実である。我我の姉妹たるお菊さんだの或は又お梅さんだのは、ロテイの小説を待つた後、巴里の敷石の上をも歩むやうになつた。我我は其処にロテイに対する日本の感謝を捧げたいと思ふ。なほロテイの生涯は大体左に示す通りである。  千八百五十年一月十四日、ロテイはロシユフオオルで生れ、十七歳の時、海軍に入り、千九百六年大佐になつた。大佐になつたのは数へ年で五十七の時である。  最初の作は千八百七十九年、即三十歳の時公にした Aziyadé である。後ち一年、千八百八十年に Rarahu を出して一躍流行児になつた。これは二年の後「ロテイの結婚」と改題再刊されたものである。  かの「お菊さん」は千八百八十七年に、「日本の秋」は八十九年に公にされた。  アカデミイの会員に選まれたのは九十一年、数へて四十二歳の時である。  彼は、国際電報の伝ふるところによると、十日アンダイエで死んだのである。時に歳七十三。      四 新緑の庭  桜 さつぱりした雨上りです。尤も花の萼は赤いなりについてゐますが。  椎 わたしもそろそろ芽をほごしませう。このちよいと鼠がかつた芽をね。  竹 わたしは未だに黄疸ですよ。……  芭蕉 おつと、この緑のランプの火屋を風に吹き折られる所だつた。  梅 何だか寒気がすると思つたら、もう毛虫がたかつてゐるんだよ。  八つ手 痒いなあ、この茶色の産毛のあるうちは。  百日紅 何、まだ早うござんさあね。わたしなどは御覧の通り枯枝ばかりさ。  霧島躑躅 常──常談云つちやいけない。わたしなどはあまり忙しいものだから、今年だけはつい何時にもない薄紫に咲いてしまつた。  覇王樹 どうでも勝手にするが好いや。おれの知つたことぢやなし。  石榴 ちよいと枝一面に蚤のたかつたやうでせう。  苔 起きないこと?  石 うんもう少し。  楓 「若楓茶色になるも一盛り」──ほんたうにひと盛りですね。もう今は世間並みに唯水水しい鶸色です。おや、障子に灯がともりました。      五 春の日のさした往来をぶらぶら一人歩いてゐる  春の日のさした往来をぶらぶら一人歩いてゐる。向うから来るのは屋根屋の親かた。屋根屋の親かたもこの節は紺の背広に中折帽をかぶり、ゴムか何かの長靴をはいてゐる。それにしても大きい長靴だなあ。膝──どころではない。腿も半分がたは隠れてゐる。ああ云ふ長靴をはいた時には、長靴をはいたと云ふよりも、何かの拍子に長靴の中へ落つこつたやうな気がするだらうなあ。  顔馴染の道具屋を覗いて見る。正面の紅木の棚の上に虫明けらしい徳利が一本。あの徳利の口などは妙に猥褻に出来上つてゐる。さうさう、いつか見た古備前の徳利の口もちよいと接吻位したかつたつけ。鼻の先に染めつけの皿が一枚。藍色の柳の枝垂れた下にやはり藍色の人が一人、莫迦に長い釣竿を伸ばしてゐる。誰かと思つて覗きこんで見たら、金沢にゐる室生犀星!  又ぶらぶら歩きはじめる。八百屋の店に慈姑がすこし。慈姑の皮の色は上品だなあ。古い泥七宝の青に似てゐる。あの慈姑を買はうかしら。譃をつけ。買ふ気のないことは知つてゐる癖に。だが一体どう云ふものだらう、自分にも譃をつきたい気のするのは。今度は小鳥屋。どこもかしこも鳥籠だらけだなあ。おや、御亭主も気楽さうに山雀の籠の中に坐つてゐる! 「つまり馬に乗つた時と同じなのさ。」 「カントの論文に崇られたんだね。」  後ろからさつさと通りぬける制服制帽の大学生が二人。ちよいと聞いた他人の会話と云ふものは気違ひの会話に似てゐるなあ。この辺そろそろ上り坂。もうあの家の椿などは落ちて茶色に変つてゐる。尤も崖側の竹藪は不相変黄ばんだままなのだが……おつと向うから馬が来たぞ。馬の目玉は大きいなあ。竹藪も椿も己の顔もみんな目玉の中に映つてゐる。馬のあとからはモンシロ蝶。 「生ミタテ玉子アリマス。」  アア、サウデスカ? ワタシハ玉子ハ入リマセン。──春の日のさした往来をぶらぶら一人歩いてゐる。      六 霜夜  霜夜の記憶の一つ。  いつものやうに机に向つてゐると、いつか十二時を打つ音がする。十二時には必ず寝ることにしてゐる。今夜もまづ本を閉じ、それからあした坐り次第、直に仕事にかかれるやうに机の上を片づける。片づけると云つても大したことはない。原稿用紙と入用の書物とを一まとめに重ねるばかりである。最後に火鉢の火の始末をする。はんねらの瓶に鉄瓶の湯をつぎ、その中へ火を一つづつ入れる。火は見る見る黒くなる。炭の鳴る音も盛んにする。水蒸気ももやもや立ち昇る。何か楽しい心もちがする。何か又はかない心もちもする。床は次の間にとつてある。次の間も書斎も二階である。寝る前には必ず下へおり、のびのびと一人小便をする。今夜もそつと二階を下りる。家族の眼をさまさせないやうに、出来るだけそつと二階を下りる。座敷の次の間に電燈がついてゐる。まだ誰か起きてゐるなと思ふ。誰が起きてゐるのかしらとも思ふ。その部屋の外を通りかかると、六十八になる伯母が一人、古い綿をのばしてゐる。かすかに光る絹の綿である。 「伯母さん」と云ふ。「まだ起きてゐたの?」と云ふ。「ああ、今これだけしてしまはうと思つて。お前ももう寝るのだらう?」と云ふ。後架の電燈はどうしてもつかない。やむを得ず暗いまま小便をする。後架の窓の外には竹が生えてゐる、風のある晩は葉のすれる音がする。今夜は音も何もしない。唯寒い夜に封じられてゐる。 薄綿はのばし兼ねたる霜夜かな      七 蒐集  僕は如何なる時代でも、蒐集癖と云ふものを持つたことはない。もし持つたことがあるとすれば、年少時代に昆虫類の標本を集めたこと位であらう。現在は成程書物だけは幾らか集まつてゐるかも知れない。しかしそれも集まつたのである。落葉の風だまりへ集まるやうに自然と書棚へ集まつたのである。何も苦心して集めた訣ではない。  書物さへ既にさうである。況や書画とか骨董とかは一度も集めたいと思つたことはない。尤もこれはと思つたにしろ、到底我我売文の徒には手の出ぬせゐでもありさうである。しかし僕の集めたがらぬのは必しもその為ばかりではない。寧ろ集めたいと云ふ気持に余り快哉を感ぜぬのである。或は集めんとする気組みに倦怠を感じてしまふのである。  これは智識も同じことである。僕はまだ如何なる智識も集めようと思つて集めたことはない。尤も集めたと思はれるほど、智識のないことも事実である。しかし多少でもあるとすれば、兎に角集まつたと云はなければならぬ。  蒐集家は情熱に富んだものである。殊にたつた一枚のマツチの商標を手に入れる為に、世界を周遊する蒐集家などは殆ど情熱そのものである。だから情熱を軽蔑しない限り、蒐集家も一笑に付することは出来ない。しかし僕は蒐集家とは別の鋳型に属してゐる。同時に又革命家や予言者とも別の鋳型に属してゐる。  僕はマツチの商標に対する情熱にも同情を感じてゐる。いや、同情と云ふ代りに敬意と云つても差支へない。しかしマツチの商標の価値にはどちらかと云へば懐疑的である。僕は以前かう云ふ気質を羞づかしいと思つたことがあつた。けれども面皮の厚くなつた今はさほど卑下する気もちにもなれない。──      八 知己料  僕等は当時「新思潮」といふ同人雑誌に楯こもつてゐた。「新思潮」以外の雑誌にも時時作品を発表するのは久米正雄一人ぎりだつた。そこへ「希望」といふ雑誌社から、突然僕へ宛てた手紙が来た。手紙には、五月号に間に合ふやうに短篇を一つお願ひしたい。御都合は如何と書いてあつた。僕は勿論快諾した。  僕は一週間たたない内に、「虱」といふ短篇を希望社へおくつた。それから──原稿料の届くのを待つた。最初の原稿料を待つ気もちは売文の経験のない人には、ちよいと想像が出来ないかも知れない。僕も少し誇張すれば、直侍を待つ三千歳のやうに、振替の来る日を待ちくらしたのである。  原稿料は容易に届かなかつた。僕はたびたび久米正雄と、希望社は僕の短篇にいくら払ふかを論じ合つた。 「一円は払ふね。一円ならば十二枚十二円か。そんなことはない。一円五十銭は大丈夫払ふよ。」  久米はかういふ予測を下した。何だかさう云はれて見れば、僕も一円五十銭は払つてもらはれさうな心もちになつた。 「一円五十銭払つたら、八円だけおごれよ。」  僕はおごると約束した。 「一円でも、五円はおごる義務があるな。」  久米はまたかういつた。僕はその義務を認めなかつた。しかし五円だけ割愛することには、格別異存も持たなかつた。  その内に「希望」の五月号が出、同時に原稿料も手にはひつた。僕はそれをふところにしたまま、久米の下宿へ出かけて行つた。 「いくら来た? 一円か? 一円五十銭か?」  久米は僕の顔を見ると、彼自身のことのやうに熱心にたづねた。僕は何ともこたへずに、振替の紙を出して見せた。振替の紙には残酷にも三円六十銭と書いてあつた。 「三十銭か。三十銭はひどいな。」  久米もさすがになさけない顔をした。僕はなほ更仏頂づらをしてゐた。が、僕等はしばらくすると、同時ににやにや笑ひ出した。久米はいはゆる微苦笑をうかべ、僕は手がるに苦笑したのである。 「三十銭は知己料をさしひいたんだらう。一円五十銭マイナス三十銭──一円二十銭の知己料は高いな。」  久米はこんなことをいひながら、振替の紙を僕にかへした。しかしもうこの間のやうに、おごれとか何とかはいはなかつた。      九 妄問妄答  客 菊池寛氏の説によると、我我は今度の大地震のやうに命も危いと云ふ場合は芸術も何もあつたものぢやない。まづ命あつての物種と尻端折りをするのに忙しさうだ。しかし実際さう云ふものだらうか?  主人 そりや実際さう云ふものだよ。  客 芸術上の玄人もかね? たとへば小説家とか、画家とか云ふ、──  主人 玄人はまあ素人より芸術のことを考へさうだね。しかしそれも考へて見れば、実は五十歩百歩なんだらう。現在頭に火がついてゐるのに、この火焔をどう描写しようなどと考へる豪傑はゐまいからね。  客 しかし昔の侍などは横腹を槍に貫かれながら、辞世の歌を咏んでゐるからね。  主人 あれは唯名誉の為だね。意識した芸術的衝動などは別のものだね。  客 ぢや我我の芸術的衝動はああ云ふ大変に出合つたが最後、全部なくなつてしまふと云ふのかね?  主人 そりや全部はなくならないね。現に遭難民の話を聞いて見給へ。思ひの外芸術的なものも沢山あるから。──元来芸術的に表現される為にはまづ一応芸術的に印象されてゐなければならない筈だらう。するとさう云ふ連中は知らず識らず芸術的に心を働かせて来た訣だね。  客 (反語的に)しかしさう云ふ連中も頭に火でもついた日にや、やつぱり芸術的衝動を失うことになるだらうね?  主人 さあ、さうとも限らないね。無意識の芸術的衝動だけは案外生死の瀬戸際にも最後の飛躍をするものだからね? 辞世の歌で思ひ出したが、昔の侍の討死などは大抵戯曲的或は俳優的衝動の──つまり俗に云ふ芝居気の表はれたものとも見られさうぢやないか?  客 ぢや芸術的衝動はどう云ふ時にもあり得ると云ふんだね?  主人 無意識の芸術的衝動はね。しかし意識した芸術的衝動はどうもあり得るとは思はれないね。現在頭に火がついてゐるのに、………  客 それはもう前にも聞かされたよ。ぢや君も菊池寛氏に全然賛成してゐるのかね?  主人 あり得ないと云ふことだけはね。しかし菊池氏はあり得ないのを寂しいと云つてゐるのだらう? 僕は寂しいとも思はないね、当り前だとしか思はないね。  客 なぜ?  主人 なぜも何もありやしないさ。命あつての物種と云ふ時にや、何も彼も忘れてゐるんだからね。芸術も勿論忘れる筈ぢやないか? 僕などは大地震どころぢやないね。小便のつまつた時にさへレムブラントもゲエテも忘れてしまふがね。格別その為に芸術を軽んずる気などは起らないね。  客 ぢや芸術は人生にさ程痛切なものぢやないと云ふのかね。  主人 莫迦を云ひ給へ。芸術的衝動は無意識の裡にも我我を動かしてゐると云つたぢやないか? さうすりや芸術は人生の底へ一面深い根を張つてゐるんだ。──と云ふよりも寧ろ人生は芸術の芽に満ちた苗床なんだ。  客 すると「玉は砕けず」かね?  主人 玉は──さうさね。玉は或は砕けるかも知れない。しかし石は砕けないね。芸術家は或は亡びるかも知れない。しかしいつか知らず識らず芸術的衝動に支配される熊さんや八さんは亡びないね。  客 ぢや君は問題になつた里見氏の説にも菊池氏の説にも部分的には反対だと云ふのかね。  主人 部分的には賛成だと云ふことにしたいね。何しろ両雄の挾み打ちを受けるのはいくら僕でも難渋だからね。ああ、それからまだ菊池氏の説には信用出来ぬ部分もあるね。  客 信用の出来ぬ部分がある?  主人 菊池氏は今度大向うからやんやと喝采される為には譃が必要だと云ふことを痛感したと云つてゐるだらう。あれは余り信用出来ないね。恐らくはちよつと感じた位だね。まあ、もう少し見てゐ給へ。今に又何かほんたうのことをむきになつて云ひ出すから。      十 梅花に対する感情 このジヤアナリズムの一篇を謹厳なる西川英次郎君に献ず  予等は芸術の士なるが故に、如実に万象を観ざる可らず。少くとも万人の眼光を借らず、予等の眼光を以て見ざる可らず。古来偉大なる芸術の士は皆この独自の眼光を有し、おのづから独自の表現を成せり。ゴツホの向日葵の写真版の今日もなほ愛翫せらるる、豈偶然の結果ならんや。(幸ひにGOGHをゴッホと呼ぶ発音の誤りを咎むること勿れ。予はANDERSENをアナアセンと呼ばず、アンデルゼンと呼ぶを恥ぢざるものなり。)  こは芸術を使命とするものには白日よりも明らかなる事実なり。然れども独自の眼を以てするは必しも容易の業にあらず。(否、絶対に独自の眼を以てするは不可能と云ふも妨げざる可し。)殊に万人の詩に入ること屡なりし景物を見るに独自の眼光を以てするは予等の最も難しとする所なり。試みに「暮春」の句を成すを思へ。蕪村の「暮春」を詠ぜし後、誰か又独自の眼光を以て「暮春」を詠じ得るの確信あらんや。梅花の如きもその一のみ。否、正にその最たるものなり。  梅花は予に伊勢物語の歌より春信の画に至る柔媚の情を想起せしむることなきにあらず。然れども梅花を見る毎に、まづ予の心を捉ふるものは支那に生じたる文人趣味なり。こは啻に予のみにあらず、大方の君子も亦然るが如し。(是に於て乎、中央公論記者も「梅花の賦」なる語を用ゐるならん。)梅花を唯愛すべきジエヌス・プリヌスの花と做すは紅毛碧眼の詩人のことのみ。予等は梅花の一瓣にも、鶴を想ひ、初月を想ひ、空山を想ひ、野水を想ひ、断角を想ひ、書燈を想ひ、脩竹を想ひ、清霜を想ひ、羅浮を想ひ、仙妃を想ひ、林処士の風流を想はざる能はず。既に斯くの如しとせば、予等独自の眼光を以て万象を観んとする芸術の士の、梅花に好意を感ぜざるは必しも怪しむを要せざるべし。(こは夙に永井荷風氏の「日本の庭」の一章たる「梅」の中に道破せる真理なり。文壇は詩人も心臓以外に脳髄を有するの事実を認めず。是予に今日この真理を盗用せしむる所以なり。)  予の梅花を見る毎に、文人趣味を喚び起さるるは既に述べし所の如し。然れども妄に予を以て所謂文人と做すこと勿れ。予を以て詐偽師と做すは可なり。謀殺犯人と做すは可なり。やむを得ずんば大学教授の適任者と做すも忍ばざるにあらず。唯幸ひに予を以て所謂文人と做すこと勿れ。十便十宜帖あるが故に、大雅と蕪村とを並称するは所謂文人の為す所なり。予はたとひ宮せらるると雖も、この種の狂人と伍することを願はず。  ひとり是のみに止らず、予は文人趣味を軽蔑するものなり。殊に化政度に風行せる文人趣味を軽蔑するものなり。文人趣味は道楽のみ。道楽に終始すと云はば則ち已まん。然れどももし道楽以上の貼札を貼らんとするものあらば、山陽の画を観せしむるに若かず。日本外史は兎も角も一部の歴史小説なり。画に至つては呉か越か、畢につくね芋の山水のみ。更に又竹田の百活矣は如何。これをしも芸術と云ふ可くんば、安来節も芸術たらざらんや。予は勿論彼等の道楽を排斥せんとするものにあらず。予をして当時に生まれしめば、戯れに河童晩帰の図を作り、山紫水明楼上の一粲を博せしやも亦知る可からず。且又彼等も聰明の人なり。豈彼等の道楽を彼等の芸術と混同せんや。予は常に確信す、大正の流俗、芸術を知らず、無邪気なる彼等の常談を大真面目に随喜し渇仰するの時、まづ噴飯に堪へざるものは彼等両人に外ならざるを。  梅花は予の軽蔑する文人趣味を強ひんとするものなり、下劣詩魔に魅せしめんとするものなり。予は孑然たる征旅の客の深山大沢を恐るるが如く、この梅花を恐れざる可からず。然れども思へ、征旅の客の踏破の快を想見するものも常に亦深山大沢なることを。予は梅花を見る毎に、峨眉の雪を望める徐霞客の如く、南極の星を仰げるシヤツクルトンの如く、鬱勃たる雄心をも禁ずること能はず。 灰捨てて白梅うるむ垣根かな  加ふるに凡兆の予等の為に夙に津頭を教ふるものあり。予の渡江に急ならんとする、何ぞ少年の客気のみならんや。  予は独自の眼光を以て容易に梅花を観難きが故に、愈独自の眼光を以て梅花を観んと欲するものなり。聊かパラドツクスを弄すれば、梅花に冷淡なること甚しきが故に、梅花に熱中すること甚しきものなり。高青邱の詩に云ふ。「瓊姿只合在瑤台 誰向江辺処処栽」又云ふ。「自去何郎無好詠 東風愁寂幾回開」真に梅花は仙人の令嬢か、金持の隠居の囲ひものに似たり。(後者は永井荷風氏の比喩なり。必しも前者と矛盾するものにあらず)予の文に至らずとせば、斯る美人に対する感慨を想へ。更に又汝の感慨にして唯ほれぼれとするのみなりとせば、已んぬるかな、汝も流俗のみ、済度す可からざる乾屎橛のみ。      十一 暗合 「お富の貞操」と云ふ小説を書いた時、お富は某氏夫人ではないかと尋ねられた人が三人ある。又あの小説の中に村上新三郎と云ふ乞食が出て来る。幕末に村上新五郎と云ふ奇傑がゐたが同一人かと尋ねられた人もある。しかしあの小説は架空の談だから、謂ふ所のモデルを用ゐたのではない。「お富の貞操」の登場人物はお富と乞食と二人だけである。その二人とも実在の人物に似てゐると云ふのは珍らしい暗合に違ひない。僕は以前藤野古白の句に「傀儡師日暮れて帰る羅生門」と云ふのを見、「傀儡師」「羅生門」共に僕の小説集の名だから、暗合の妙に驚いたことがある。然るに今又この暗合に出合つた。僕には暗合が祟つてゐるらしい。      十二 コレラ  コレラが流行るので思ひ出すのは、漱石先生の話である。先生の子供の時分にも、コレラが流行つたことがある。その時、先生は豆を沢山食つて、水を沢山飲んで、それから先生のお父さんと一緒に、蚊帳の中に寝てゐたさうである。さうして、その明け方に、蚊帳の中で、いきなり吐瀉を始めたさうである。すると、先生のお父さんは「そら、コレラだ」と言つて、蚊帳を飛び出したさうである。蚊帳を飛び出して、どうするかと思ふと、何もすることがないものだから、まだ星が出てゐるのに庭を箒で掃き始めたさうである。勿論、先生の吐瀉したのは、豆と水とに祟られたので、コレラではなかつたが、この事があつたために、先生は人間の父たるもののエゴイズムを知つたと話してゐた。  コレラの小説では何があるか。紅葉の「青葡萄」とかいふのが、多分、コレラの話だつたらう。La Motte といふ人の短篇に、日本のコレラを書いたのがある。何も際立つた事件はないが、魚河岸の暇になつたり、何かするところをなかなか器用に書いてある。  僕はコレラでは死にたくはない。へどを吐いたり下痢をしたりする不風流な往生は厭やである。シヨウペンハウエルがコレラを恐がつて、逃げて歩いたことを読んだ時は、甚だ彼に同情した。ことに依ると、彼の哲学よりも、もつと、同情したかも知れない。  しかし、シヨウペンハウエル時代には、まだコレラは食物から伝染するといふことがわからなかつたのである。が、僕は現代に生れた難有さに、それをちやんと心得てゐるから、煮たものばかり食つたり、塩酸レモナアデを服んだり、悠悠と予防を講じてゐる。この間、臆病すぎると言つて笑はれたが、臆病は文明人のみの持つてゐる美徳である。臆病でない人間が偉ければ、ホツテントツトの王様に三拝九拝するがいい。      十三 長崎  菱形の凧。サント・モンタニの空に揚つた凧。うらうらと幾つも漂つた凧。  路ばたに商ふ夏蜜柑やバナナ。敷石の日ざしに火照るけはひ。町一ぱいに飛ぶ燕。  丸山の廓の見返り柳。  運河には石の眼鏡橋。橋には往来の麦稈帽子。──忽ち泳いで来る家鴨の一むれ。白白と日に照つた家鴨の一むれ。  南京寺の石段の蜥蜴。  中華民国の旗。煙を揚げる英吉利の船。「港をよろふ山の若葉に光さし……」顱頂の禿げそめた斎藤茂吉。ロテイ。沈南蘋。永井荷風。  最後に「日本の聖母の寺」その内陣のおん母マリア。穂麦に交じつた矢車の花。光のない真昼の蝋燭の火。窓の外には遠いサント・モンタニ。  山の空にはやはり菱形の凧。北原白秋の歌つた凧。うらうらと幾つも漂つた凧。      十四 東京田端  時雨に濡れた木木の梢。時雨に光ってゐる家家の屋根。犬は炭俵を積んだ上に眠り、鶏は一籠に何羽もぢつとしてゐる。  庭木に烏瓜の下つたのは鋳物師香取秀真の家。  竹の葉の垣に垂れたのは、画家小杉未醒の家。  門内に広い芝生のあるのは、長者鹿島龍蔵の家。  ぬかるみの路を前にしたのは、俳人滝井折柴の家。  踏石に小笹をあしらつたのは、詩人室生犀星の家。  椎の木や銀杏の中にあるのは、──夕ぐれ燈籠に火のともるのは、茶屋天然自笑軒。  時雨の庭を塞いだ障子。時雨の寒さを避ける火鉢。わたしは紫檀の机の前に、一本八銭の葉巻を啣へながら、一游亭の鶏の画を眺めている。 (大正十一年─十三年) 底本:「筑摩全集類聚 芥川龍之介全集第四巻」筑摩書房    1971(昭和46)年6月5日初版第1刷発行    1979(昭和54)年4月10日初版第11刷発行 入力:土屋隆 校正:松永正敏 2007年6月26日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。