雑筆 芥川龍之介 Guide 扉 本文 目 次 雑筆      竹田  竹田は善き人なり。ロオランなどの評価を学べば、善き画描き以上の人なり。世にあらば知りたき画描き、大雅を除けばこの人だと思ふ。友だち同志なれど、山陽の才子ぶりたるは、竹田より遙に品下れり。山陽が長崎に遊びし時、狭斜の遊あるを疑はれしとて、「家有縞衣待吾返、孤衾如水已三年」など云へる詩を作りしは、聊眉に唾すべきものなれど、竹田が同じく長崎より、「不上酒閣 不買歌鬟償 周文画 筆頭水 墨余山」の詞を寄せたるは、恐らく真情を吐露せしなるべし。竹田は詩書画三絶を称せられしも、和歌などは巧ならず。画道にて悟入せし所も、三十一文字の上には一向利き目がないやうなり。その外香や茶にも通ぜし由なれど、その道の事は知らざれば、何ともわれは定め難し。面白きは竹田が茸の画を作りし時、頼みし男仏頂面をなしたるに、竹田「わが苦心を見給へ」とて、水に浸せし椎茸を大籠に一杯見せたれば、その男感歎してやみしと云ふ逸話なり。竹田が刻意励精はさる事ながら、俗人を感心させるには、かう云ふ事にまさるものなし。大家の苦心談などと云はるる中、人の悪き名人が、凡下の徒を翻弄する為に仮作したものも少くあるまい。山陽などはどうもやりさうなり。竹田になるとそんな悪戯気は、嘘にもあつたとは思はれず。返す返すも竹田は善き人なり。「田能村竹田」と云ふ書を見たら、前より此の人が好きになつた。この書は著者大島支郎氏、売る所は豊後国大分の本屋忠文堂(七月二十日)      奇聞  大阪の或る工場へ出入する辨当屋の小娘あり。職工の一人、その小娘の頬を舐めたるに、忽ち発狂したる由。  亜米利加の何処かの海岸なり。海水浴の仕度をしてゐる女、着物を泥棒に盗まれ、一日近くも脱衣場から出る事出来ず。その後泥棒はつかまりしが、罪名は女の羞恥心を利用したる不法檻禁罪なりし由。  電車の中で老婦人に足を踏まれし男、忌々しければ向うの足を踏み返したるに、その老婦人忽ち演説を始めて曰、「皆さん。この人は唯今私が誤まつて足を踏んだのに、今度はわざと私の足を踏みました。云々」と。踏み返した男、とうとう閉口してあやまりし由。その老婦人は矢島楫子女史か何かの子分ならん。  世の中には嘘のやうな話、存外あるものなり。皆小穴一遊亭に聞いた。(七月二十三日)      芭蕉  又猿簔を読む。芭蕉と去来と凡兆との連句の中には、波瀾老成の所多し。就中こんな所は、何とも云へぬ心もちにさせる。  ゆかみて蓋のあはぬ半櫃     兆 草庵に暫く居ては打やふり     蕉  いのち嬉しき撰集のさた     来  芭蕉が「草庵に暫く居ては打やふり」と付けたる付け方、徳山の棒が空に閃くやうにして、息もつまるばかりなり。どこからこんな句を拈して来るか、恐しと云ふ外なし。この鋭さの前には凡兆と雖も頭が上るかどうか。  凡兆と云へば下の如き所あり。 昼ねふる青鷺の身のたふとさよ   蕉  しよろしよろ水に藺のそよくらん 兆  これは凡兆の付け方、未しきやうなり。されどこの芭蕉の句は、なかなか世間並の才人が筋斗百回した所が、付けられさうもないには違ひなし。  たつた十七字の活殺なれど、芭蕉の自由自在には恐れ入つてしまふ。西洋の詩人の詩などは、日本人故わからぬせゐか、これ程えらいと思つた事なし。まづ「成程」と云ふ位な感心に過ぎず。されば芭蕉のえらさなども、いくら説明してやつた所が、西洋人にはわかるかどうか、疑問の中の疑問なり。(七月十一日)      蜻蛉  蜻蛉が木の枝にとまつて居るのを見る。羽根が四枚平に並んでゐない。前の二枚が三十度位あがつてゐる。風が吹いて来たら、その羽根で調子を取つてゐた。木の枝は動けども、蜻蛉は去らず。その儘悠々と動いて居る。猶よく見ると、風の吹く強弱につれて、前の羽根の角度が可成いろいろ変る。色の薄い赤蜻蛉。木の枝は枯枝。見たのは崖の上なり。(八月十八日青根温泉にて)      子供  子供の時分の事を書きたる小説はいろいろあり。されど子供が感じた通りに書いたものは少し。大抵は大人が子供の時を回顧して書いたと云ふ調子なり。その点では James Joyce が新機軸を出したと云ふべし。  ジヨイスの A Portrait of the Aritist as a Young Man は、如何にも子供が感じた通りに書いたと云ふ風なり。或は少し感じた通りに書き候と云ふ気味があるかも知れず。されど珍品は珍品なり。こんな文章を書く人は外に一人もあるまい。読んで好い事をしたりと思ふ。(八月二十日)      十千万堂日録  十千万堂日録一月二十五日の記に、紅葉が諸弟子と芝蘭簿の記入を試む条あり。風葉は「身長今一寸」を希望とし、春葉は「四十迄生きん事」を希望とし、紅葉は「欧洲大陸にマアブルの句碑を立つ」を希望とす。更に又春葉は書籍に西遊記を挙げ、風葉は「あらゆる字引類」を挙げ、紅葉はエンサイクロピデイアを挙ぐ。紅葉の好み、諸弟子に比ぶれば、頗西洋かぶれの気味あり。されどその嫌味なる所に、返つて紅葉の器量の大が窺ひ知られるやうな心もちがする。  それから又二十三日の記に、「此夜(八)の八を草して黎明に至る。終に脱稿せず。たうときものは寒夜の炭。」とあり。何となく嬉しきくだりなり。(八)は金色夜叉の(八)。(八月二十一日)      隣室 「姉さん。これ何?」 「ゼンマイ。」 「ゼンマイ珈琲つてこれから拵へるんでせう。」 「お前さん莫迦ね。ちつと黙つていらつしやいよ。そんな事を云つちや、私がきまり悪くなるぢやないの。あれは玄米珈琲よ。」  姉は十四五歳。妹は十二歳の由。この姉妹二人ともスケツチ・ブツクを持つて写生に行く。雨降りの日は互に相手の顔を写生するなり。父親は品のある五十恰好の人。この人も画の嗜みありげに見ゆ。(八月二十二日青根温泉にて)      若さ  木米は何時も黒羽二重づくめなりし由。これ贅沢に似て、反つて徳用なりと或人云へり。その人又云ひしは、されどわれら若きものは、木米の好みの善きことも重々承知はしてゐれど、黒羽二重づくめになる前に、もつといろいろの事をして見たい気ありと。この言葉はそつくり小説を書く上にも当て嵌るやうなり。どう云ふ作品が難有きか、そんな事は朧げながらわかつてゐれど、一図にその道へ突き進む前に、もつといろいろな行き方へも手を出したい気少からず。こは偸安と云ふよりも、若きを恃む心もちなるべし。この心もちに安住するは、余り善い事ではないかも知れず、云はば芸術上の蕩子ならんか。(八月二十三日)      痴情  男女の痴情を写尽せんとせば、どうしても房中の事に及ばざるを得ず。されどこは役人の禁ずる所なり。故に小説家は最も迂遠な仄筆を使つて、やつと十の八九を描く事となる。金瓶梅が古今無双の痴情小説たる所以は、一つにはこの点でも無遠慮に筆を揮つた結果なるべし。あれ程でなくとも、もう少し役人がやかましくなければ、今より数等深みのある小説が生まれるならん。  金瓶梅程の小説、西洋に果してありや否や。ピエル・ルイの Aphrodite なども、金瓶梅に比ぶれば、子供の玩具も同じ事なり、尤も後者は序文にある通り、楽欲主義と云ふ看板もあれば、一概に比ぶるは不都合なるべし。(八月二十三日)      竹  後の山の竹藪を遠くから見ると、暗い杉や檜の前に、房々した緑が浮き上つて居る。まるで鳥の羽毛のやうになり。頭の中で拵へた幽篁とか何とか云ふ気はしない。支那人は竹が風に吹かるるさまを、竹笑と名づける由、風の吹いた日も見てゐたが、一向竹笑らしい心もち起らず。又霧の深い夕方出て見たら、皆ぼんやり黒く見える所、平凡な南画じみてつまらなかつた。それより竹藪の中にはひり、竹の皮のむけたのが、裏だけ日の具合で光るのを見ると、其処らに蛞蝓が這つてゐさうな、妙な無気味さを感ずるものなり。(八月二十五日青根温泉にて)      貴族  貴族或は貴族主義者が思ひ切つてうぬぼれられないのは、彼等も亦われら同様、厠に上る故なるべし。さもなければ何処の国でも、先祖は神々のやうな顔をするかも知れず。徳川時代の大諸侯は、参覲交代の途次旅宿へとまると、必大恭は砂づめの樽へ入れて、後へ残さぬやうに心がけた由。その話を聞かされたら、彼等もこの弱点には気づいてゐたと云ふ気がしたり。これをもつと上品に云へば、ニイチエが「何故人は神だと思はないかと云ふと、云々」の警句と同じになつてしまふだらう。(八月二十六日)      井月  信州伊那の俳人に井月と云ふ乞食あり、拓落たる道情、良寛に劣らず。下島空谷氏が近来その句を蒐集してゐる。「朝顔に急がぬ膳や残り客」「ひそひそと何料理るやら榾明り」「初秋の心づかひや味噌醤油」「大事がる馬の尾づつや秋の風」「落栗の座をさだむるや窪たまり」(初めて伊那に来て)「鬼灯の色にゆるむや畑の縄」等、句も天保前後の人にしては、思ひの外好い。辞世は「何処やらで鶴の声する霞かな」と云ふ由。憾むらくはその伝を詳にせず。唯犬が嫌ひだつたさうだ。(九月十日)      百日紅  自分の知れる限りにては、葉の黄ばみそむる事、桜より早きはなし。槐これに次ぐ。その代り葉の落ち尽す事早きものは、百日紅第一なり。桜や槐の梢にはまだ疎に残葉があつても、百日紅ばかりは坊主になつてゐる。梧桐、芭蕉、柳など詩や句に揺落を歌はるるものは、みな思ひの外散る事遅し。一体百日紅と云ふ木、春も新緑の色洽き頃にならば、容易に赤い芽を吹かず。長塚節氏の歌に、「春雨になまめきわたる庭ぬちにおろかなりける梧桐の木か」とあれど、梧桐の芽を吹くは百日紅よりも早きやうなり。朝寝も好きなら宵寝も好きなる事、百日紅の如きは滅多になし。自分は時々この木の横着なるに、人間同様腹を立てる事あり。(九月十三日)      大作  亀尾君訳エツケルマンのゲエテ語録の中に、少壮の士の大作を成すは労多くして功少きを戒めてやまざる一段あり。蓋ゲエテ自身フアウストなどを書かんとして、懲り懲りした故なるべし。思へばトルストイも「戦争と平和」や「アンナ・カレニナ」の大成に没頭せしかば、遂には全欧九十年代の芸術がわからずなりしならん。勿論他人の芸術がわからずとも、トルストイのやうな堂々たる自家の芸術を持つてゐれば、毛頭差支へはなきやうなり。されどわかるわからぬの上より云へば、芸術論を書きたるトルストイは、寧ろ憐むべき鑑賞眼の所有者たりし事は疑ひなし。まして我々下根の衆生は、好い加減な野心に煽動されて、柄にもない大作にとりかかつたが最期、虻蜂とらずの歎を招くは、わかり切つた事かも知れず。とは云ふものの自分なぞは、一旦大作を企つべき機縁が熟したと思つたら、ゲエテの忠告も聞えぬやうに、忽いきり立つてしまひさうな気がする。(九月二十六日)      水怪  河童の考証は柳田国男氏の山島民譚集に尽してゐる。御維新前は大根河岸の川にもやはり河童が住んでゐた。観世新路の経師屋があの川へ障子を洗ひに行つてゐると、突然後より抱きつきて、無暗にくすぐり立てるものあり。経師屋閉口して、仰向けに往来へころげたら、河童一匹背中を離れて、川へどぶんと飛びこみし由、幼時母より聞きし事あり。その後万年橋の下の水底に、大緋鯉がゐると云ふ噂ありしが、どうなつたか詳しくは知らず。父の知人に夜釣りに行つたら、吾妻橋より少し川上で、大きなすつぽんが船のともへ、乗りかかるのを見たと云ふ人あり。そのすつぽんの首太き事、鉄瓶の如しと話してゐた。東京の川にもこんな水怪多し。田舎へ行つたら猶の事、未に河童が芦の中で、相撲などとつてゐるかも知れない。偶一遊亭作る所の河太郎独酌之図を見たから、思ひ出した事を記しとどめる。(九月三十日)      器量  天龍寺の峨山が或雪後の朝、晴れた空を仰ぎながら、「昨日はあんなに雪を降らせた空が、今朝はこんなに日がさしてゐる。この意気でなくては人間も、大きな仕事は出来ないな」と云ひし由。今夜それを読んだら、叶はない気がした。僅百枚以内の短篇を書くのに、悲喜交至つてゐるやうでは、自分ながら気の毒千万なり。この間も湯にはひりながら、湯にはひる事その事は至極簡単なのに、湯にはひる事を書くとなると中々容易でないのが不思議だつた。同時に又不愉快だつた。されど下根の衆生と生まれたからは、やはり辛抱専一に苦労する外はあるまいと思ふ。(十月三日)      誤謬  Ars longa, vita brevis を訳して、芸術は長く人生は短しと云ふは好い。が、世俗がこの句を使ふのを見ると、人亡べども業顕ると云ふ意味に使つてゐる。あれは日本人或は日本の文士だけが独り合点の使ひ方である。あのヒポクラテエスの第一アフオリズムには、さう云ふ意味ははひつて居らぬ。今の西人がこの句を使ふのも、やはりさう云ふ意味には使つて居らぬ。芸術は長く人生は短しとは、人生は短い故刻苦精励を重ねても、容易に一芸を修める事は出来ぬと云ふ意味である。こんな事を説き明かすのは、中学教師の任かも知れぬ。しかし近頃は我々に教へ顔をする批評家の中にさへ、このはき違へを知らずにゐるものもある。それでは文壇にも気の毒なやうだ。そんな意味に使ひたくば、希臘の哲人の語を借らずとも、孫過庭なぞに人亡業顕云々の名文句が残つてゐる。序ながら書いて置くが、これからの批評家は、「ランダアやレオパルデイのイマジナリイ・コムヴアセエシヨン」などと出たらめの気焔を挙げてゐてはいけぬ。そんな事ではいくら威張つても、衒学の名にさへ価せぬではないか。徒に人に教へたがるよりは、まづ自ら教へて来るが好い。(十月五日)      不朽  人命に限りあればとて、命を粗末にして好いとは限らず。なる可く長生をしようとするのは、人各々の分別なり。芸術上の作品も何時かは亡ぶのに違ひなし。画力は五百年、書力は八百年とは、王世貞既にこれを云ふ。されどなる可く長持ちのする作品を作らうと思ふのは、これ亦我々の随意なり。かう思へば芸術の不朽を信ぜざると、後世に作品を残さんとするとは、格別矛盾した考へにもあらざるべし。さらば如何なる作品が、古くならずにゐるかと云ふに、書や画の事は知らざれども、文芸上の作品にては簡潔なる文体が長持ちのする事は事実なり。勿論文体即作品と云ふ理窟なければ、文体さへ然らばその作品が常に新なりとは云ふべからず。されど文体が作品の佳否に影響する限り、絢爛目を奪ふ如き文体が存外古くなる事は、殆疑なきが如し。ゴオテイエは今日読むべからず。然れどもメリメエは日に新なり。これを我朝の文学に見るも、鴎外先生の短篇の如き、それらと同時に発表されし「冷笑」「うづまき」等の諸作に比ぶれば、今猶清新の気に富む事、昨日校正を済まさせたと云ふとも、差支へなき位ならずや。ゾラは嘗文体を学ぶに、ヴオルテエルの簡を宗とせずして、ルツソオの華を宗とせしを歎き、彼自身の小説が早晩古くなるべきを予言したる事ある由、善く己を知れりと云ふべし。されど前にも書きし通り、文体は作品のすべてにあらず。文体の如何を超越したる所に、作品の永続性を求むれば、やはりその深さに帰着するならん。「凡そ事物の能く久遠に垂るる者は、(中略)切実の体あるを要す」(芥舟学画編)とは、文芸の上にも確論だと思ふ。(十月六日)      流俗  思ふに流俗なるものは、常に前代には有用なりし真理を株守する特色あり。尤も一時代前、二時代前、或は又三時代前と、真理の古きに従つて、いろいろの流俗なきにあらず。さらば一時代の長さ幾何かと云へば、これは時と処とにより、一概には何年と定め難し。まづ日本ならば一時代約十年とも申すべきか。而して普通流俗が学問芸術に害をなす程度は、その株守する真理の古さと逆比例するものなり。たとへば武士道主義者などが、今日子供の悪戯程も時代の進歩を害せざるは、この法則の好例なるべし。故に現在の文壇にても、人道主義の陣笠連は、自然主義の陣笠連より厄介物たるを当然とす。(十月七日)      木犀  牛込の或町を歩いてゐたら、誰の屋敷か知らないが、黒塀の続いてゐる所へ出た。今にも倒れてしまひさうな、ひどく古い黒塀だつた。塀の中には芭蕉や松が、凭れ合ふやうに一杯茂つてゐた。其処を独り歩いてゐると、冷たい木犀の匀がし出した。何だかその匀が芭蕉や松にも、滲み透るやうな心もちがした。すると向うからこれも一人、まつすぐに歩いて来る女があつた。やがて側へ来たのを見たら、何処かで見たやうな顔をしてゐた。すれ違つた後でも考へて見たが、どうしても思ひ出せなかつた。が、何だか風流な気がした。それから賑な往来へ出ると、ぽつぽつ雨が降つて来た。その時急にさつきの女と、以前遇つた所を思ひ出した。今度は急に下司な気がした。四五日後折柴と話してゐると、底に穴を明けた瀬戸の火鉢へ、縁日物の木犀を植ゑて置いたら、花をつけたと云ふ話を聞かせられた。さうしたら又牛込で遇つた女の事を思ひ出した。が、下司な気は少しもなかつた。(十月十日)      Butler の説  サムエル・バトラアの説に云ふ。「モリエルが無智の老嫗に自作の台本を読み聞かせたと云ふは、何も老嫗の批評を正しとしたのではない。唯自ら朗読する間に、自ら台本の瑕疵を見出すが為である。かかる場合聴き手を勤むるものは、無智の老嫗に若くものはあるまい」と。まことに一理ある説である。白居易などが老嫗に自作の詩を読み聴かせたと云ふのも、同じやうな心があつたのかも知れぬ。しかし自分がバトラアの説を面白しとするのは、啻に一理あるが故のみではない。この説はバトラアのやうに創作の経験がある人でないと、道破されさうもない説だからである。成程世のつねの学者や批評家にも、モリエルの喜劇はわかるかも知れぬ。が、それだけでは立ちどころに、バトラアの説が吐けるものではない。こんな消息に通じるには、おのれの中にモリエルその人を感じてゐなければ駄目である。其処が自分には難有い気がする。ロダンの手記なぞが尊いのも、かう云ふ所が多い故だ。二千里外に故人の面を見ようと思つたら、どうしても自ら苦まねばならぬ。(十月十九日)      今夜  今夜は心が平かである。机の前にあぐらをかきながら、湯に溶かしたブロチンを啜つてゐれば、泰平の民の心もちがする。かう云ふ時は小説なぞ書いてゐるのが、あさましいやうにも考へられる。そんな物を書くよりは、発句の稽古でもしてゐる方が、余程養生になるではないか。発句より手習ひでもしてゐれば、もつと事が足りるかも知れぬ。いや、それより今かうして坐つてゐる心もちがその儘難有いのを知らぬかなぞとも思ふ。おれは道書も仏書も読んだ事はない。が、どうもおれの心の底には、虚無の遺伝が潜んでゐるやうだ。西洋人がいくらもがいて見ても、結局はカトリツクの信仰に舞ひ戻るやうに、おれなぞはだんだん年をとると、隠棲か何かがしたくなるかも知れない。が、まだ今のやうに女に惚れたり、金が欲しかつたりしてゐる内は、到底思ひ切つた真似は出来さうもないな。尤も仙人と云ふ中には、祝鶏翁のやうな蓄産家や郭璞のやうな漁色家がある。ああ云ふ仙人にはすぐになれさうだ。しかしどうせなる位なら、俗な仙人にはなりたくない。横文字の読める若隠居なぞは、猶更おれは真平御免だ。そんなものよりは小説家の方が、まだしも道に近いやうな気がする。「尋仙未向碧山行住在人間足道情」かな。何だか今夜は半可通な独り語ばかり書いてしまつた。(十月二十日)      夢  世間の小説に出て来る夢は、どうも夢らしい心もちがせぬ。大抵は作為が見え透くのである。「罪と罰」の中の困馬の夢でも、やはりこの意味ではまことらしくない。夢のやうな話なぞと云ふが、夢を夢らしく書きこなす事は、好い加減な現実の描写よりも、反つて周到な用意が入る。何故かと云ふと夢中の出来事は、時間も空間も因果の関係も、現実とは全然違つてゐる。しかもその違ひ方が、到底型には嵌める事が出来ぬ。だから実際見た夢でも写さない限り、夢らしい夢を書く事は、殆不可能と云ふ外はない。所が小説中夢を道具に使ふ場合は、その道具の目的を果す必要上、よくよく都合の好い夢でも見ねば、実際見た夢を書く訣に行かぬ。この故に小説に出て来る夢は、善く行つた所がドストエフスキイの困馬の夢を出難いのである。しかし実際見た夢から、逆に小説を作り出す場合は、その夢が夢として書かれて居らぬ時でも、夢らしい心もちが現れる故、往々神秘的な作品が出来る。名高い自殺倶楽部の話なぞも、ステイヴンソンがあの落想を得たのは、誰かが見た夢の話からだと云ふ。この故にさう云ふ小説を書かうと思つたら、時々の夢を記して置くが好い。自分なぞはそれも怠つてゐるが、ドオデエには確か夢の手記があつた。わが朝では志賀直哉氏に、「イヅク川」と云ふ好小品がある。(十月二十五日)      日本画の写実  日本画家が写実にこだはつてゐるのは、どう考へても妙な気がする。それは写実に進んで行つても、或程度の成功を収められるかも知れぬ。が、いくら成功を収めたにしても、洋画程写実が出来る筈はない。光だの、空気だの、質量だのの感じが出したかつたら、何故さきにパレツトを執らないのか。且又さう云ふ感じを出さうとするのは、印象派が外光の効果を出さうとしたのとは、余程趣が違つてゐる。仏人は一歩先へ出たのだ。日本画家が写実にこだはるのは、一歩横へ出ようとするのだ。自分は速水御舟氏の舞妓の画なぞに対すると、如何にも日本画に気の毒な気がする。昔芳幾が描いた写真画と云ふ物は、あれと類を同じくしてゐたが、求める所が鄙俗なだけ、反つてあれ程嫌味はない。甚失礼な申し分ながら、どうも速水氏や何かの画を作る動機は、存外足もとの浮いた所が多さうに思はれてならぬのである。(十一月一日)      理解  一時は放蕩さへ働けば、一かど芸術がわかるやうに思ひ上つた連中がある。この頃は道義と宗教とを談ずれば、芭蕉もレオナルド・ダ・ヴインチも一呑みに呑みこみ顔をする連中がある。ヴインチは兎も角も、芭蕉さへ一通り偉さがわかるやうになるのは、やはり相当の苦労を積まねばならぬ。ことによると末世の我々には、死身に思ひを潜めた後でも、まだ会得されない芭蕉の偉さが残つてゐるかも知れぬ位だ。ジアン・クリストフの中に、クリストフと同じやうにベエトオフエンがわかると思つてゐる俗物を書いた一節がある。わかると云ふ事は世間が考へる程、無造作に出来る事ではない。何事も芸道に志したからは、わかつた上にもわからうとする心がけが肝腎なやうだ。さもないと野狐に堕してしまふ。偶電気と文芸所載の諸家の芭蕉論の中に、一二孟浪杜撰の説を見出した故に、不平のあまり書きとどめる。(十一月四日)      茶釜の蓋置き  今日香取秀真氏の所にゐたら、茶釜の蓋置きを三つ見せてくれた。小さな鉄の五徳のやうな物である。それが三つとも形が違ふ。違ふと云つた所が五徳同様故、三本の足と環との釣合ひが、僅に違つてゐるに過ぎない。が三つとも明らかに違ふ。見てゐれば見てゐる程愈違ひが甚しい。一つは荘重な心もちがする。一つは気の利いた、洒脱な物である。最後の一つは見るに堪へぬ。これ程簡単な物にもこれ程出来の違ひがあるかと思つたら、何事も芸道は恐しい気がした。一刀一拝の心もちが入るのは、仏を刻む時ばかりでないと云ふ気がした。名人の仕事に思ひ比べれば、我々の書き残した物なぞは、悉焚焼しても惜しくはないと云ふ気がした。考へれば考へる程、愈底の知れなくなるものは天下に芸道唯一つである。(十一月十日)      西洋人  茶碗に茶を汲んで出すと、茶を飲む前にその茶碗を見る。これは日本人には家常茶飯に見る事だが、西洋人は滅多にやらぬらしい。「結構な珈琲茶碗でございます」などと云ふ言葉は、西洋小説中にも見えぬやうである。それだけ日本人は芸術的なのかも知れぬ。或はそれだけ日本人の芸術は、細い所にも手がとどくのかも知れぬ。リイチ氏なぞは立派な陶工だが、皿や茶碗の仕事を見ると、裏には心がはひつて居らぬやうだ。これなぞも誰か注意さへすれば、何でもない事だとは云ふものの、其処に争はれぬ西洋人を感ずるやうな心もちがする。(十一月十日)      粗密と純雑  粗密は気質の差によるものである。粗を嫌ひ密を喜ぶのは、各好む所に従ふが好い。しかし粗密と純雑とは、自ら又異つてゐる。純雑は気質の差のみではない。更に人格の深処に根ざした、我々が一生の一大事である。純を尊び雑を卑むのは、好悪の如何を超越した批判の沙汰に移らねばならぬ。今夜ふと菊池寛著す所の「極楽」を出して見たが、菊池の小説の如きは粗とは云へても、終始雑俗の気には汚れてゐない。その証拠には作中の言葉が、善かれ悪しかれ満ちてゐる。唯一不二の言葉ばかり使つてないにしろ、白痴脅しの言葉は並んでゐない。あれはあれなりに出来上つた、他に類のない小説である。その点では一二の大家先生の方が、遙に雑俗の屎臭を放つてゐると思ふ。粗密は前にも書いた通り、気質の違ひによるものである。だから鑑賞の上から云へば、菊池の小説を好むと好まざるとは、何人も勝手に声明するが好い。しかしその芸術的価値の批判にも、粗なるが故に許し難いとするのは、好む所に偏するの譏を免れぬ。同時に又創作の上から云へば、菊池の小説は菊池の気質と切り離し難い物である あの粗は決して等閑に書き流した結果然るのではない。その故に他の作家、殊に本来密を喜ぶ作家が、妄に菊池の小説作法を踏襲したら、勢雑俗の病に陥らざるを得ぬ。自分なぞは気質の上では、可也菊池と隔つてゐる。だから粗密の好みを云へば、一致しない点が多いかも知れぬ。が、純雑を論ずれば、必しも我等は他人ではない。(十一月十二日) (大正九年) 底本:「筑摩全集類聚 芥川龍之介全集第四巻」筑摩書房    1971(昭和46)年6月5日初版第1刷発行    1979(昭和54)年4月10日初版第11刷発行 入力:土屋隆 校正:松永正敏 2007年6月26日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。