縁結び 泉鏡花 Guide 扉 本文 目 次 縁結び 一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 一  襖を開けて、旅館の女中が、 「旦那、」  と上調子の尻上りに云って、坐りもやらず莞爾と笑いかける。 「用かい。」  とこの八畳で応じたのは三十ばかりの品のいい男で、紺の勝った糸織の大名縞の袷に、浴衣を襲ねたは、今しがた湯から上ったので、それなりではちと薄ら寒し、着換えるも面倒なりで、乱箱に畳んであった着物を無造作に引摺出して、上着だけ引剥いで着込んだ証拠に、襦袢も羽織も床の間を辷って、坐蒲団の傍まで散々のしだらなさ。帯もぐるぐる巻き、胡坐で火鉢に頬杖して、当日の東雲御覧という、ちょっと変った題の、土地の新聞を読んでいた。  その二の面の二段目から三段へかけて出ている、清川謙造氏講演、とあるのがこの人物である。  たとい地方でも何でも、新聞は早朝に出る。その東雲御覧を、今やこれ午後二時。さるにても朝寝のほど、昨日のその講演会の帰途のほども量られる。 「お客様でございますよう。」  と女中は思入たっぷりの取次を、ちっとも先方気が着かずで、つい通りの返事をされたもどかしさに、声で威して甲走る。  吃驚して、ひょいと顔を上げると、横合から硝子窓へ照々と当る日が、片頬へかっと射したので、ぱちぱちと瞬いた。 「そんなに吃驚なさいませんでもようございます。」  となおさら可笑がる。  謙造は一向真面目で、 「何という人だ。名札はあるかい。」 「いいえ、名札なんか用りません。誰も知らないもののない方でございます。ほほほ、」 「そりゃ知らないもののない人かも知れんがね、よそから来た私にゃ、名を聞かなくっちゃ分らんじゃないか、どなただよ。」  と眉を顰める。 「そんな顔をなすったってようございます。ちっとも恐くはありませんわ。今にすぐにニヤニヤとお笑いなさろうと思って。昨夜あんなに晩うくお帰りなさいました癖に、」 「いや、」  と謙造は片頬を撫でて、 「まあ、いいから。誰だというに、取次がお前、そんなに待たしておいちゃ失礼だろう。」  ちと躾めるように言うと、一層頬辺の色を濃くして、ますます気勢込んで、 「何、あなた、ちっと待たして置きます方がかえっていいんでございますよ。昼間ッからあなた、何ですわ。」  と厭な目つきでまたニヤリで、 「ほんとは夜来る方がいいんだのに。フン、フン、フン、」  突然川柳で折紙つきの、(あり)という鼻をひこつかせて、 「旦那、まあ、あら、まあ、あら良い香い、何て香水を召したんでございます。フン、」  といい方が仰山なのに、こっちもつい釣込まれて、 「どこにも香水なんぞありはしないよ。」 「じゃ、あの床の間の花かしら、」  と一際首を突込みながら、 「花といえば、あなたおあい遊ばすのでございましょうね、お通し申しましてもいいんですね。」 「串戯じゃない。何という人だというに、」 「あれ、名なんぞどうでもよろしいじゃありませんか。お逢いなされば分るんですもの。」 「どんな人だよ、じれったい。」 「先方もじれったがっておりましょうよ。」 「婦人か。」  と唐突に尋ねた。 「ほら、ほら、」  と袂をその、ほらほらと煽ってかかって、 「ご存じの癖に、」 「どんな婦人だ。」  と尋ねた時、謙造の顔がさっと暗くなった。新聞を窓へ翳したのである。 「お気の毒様。」 二 「何だ、もう帰ったのか。」 「ええ、」 「だってお気の毒様だと云うじゃないか。」 「ほんとに性急でいらっしゃるよ。誰も帰ったとも何とも申上げはしませんのに。いいえ、そうじゃないんですよ。お気の毒様だと申しましたのは、あなたはきっと美しい姊さんだと思っておいでなさいましょう。でしょう、でしょう。  ところが、どうして、跛で、めっかちで、出尻で、おまけに、」  といいかけて、またフンと嗅いで、 「ほんとにどうしたら、こんな良い匂が、」  とひょいと横を向いて顔を廊下へ出したと思うと、ぎょッとしたように戸口を開いて、斜ッかけに、 「あら、まあ!」 「お伺い下すって?」  と内端ながら判然とした清い声が、壁に附いて廊下で聞える。  女中はぼッとした顔色で、 「まあ!」 「お帳場にお待ち申しておりましたんですけれども、おかみさんが二階へ行っていいから、とそうおっしゃって下さいましたもんですから……」  と優容な物腰。大概、莟から咲きかかったまで、花の香を伝えたから、跛も、めっかちも聞いたであろうに、仂なく笑いもせなんだ、つつましやかな人柄である。 「お目にかかられますでしょうか。」 「ご勝手になさいまし。」  くるりと入口へ仕切られた背中になると、襖の桟が外れたように、その縦縞が消えるが疾いか、廊下を、ばた、ばた、ばた、どたんなり。 「お入ンなさい、」 「は、」  と幽かに聞いて、火鉢に手をかけ、入口をぐっと仰いで、優い顔で、 「ご遠慮なく……私は清川謙造です。」  と念のために一ツ名乗る。 「ご免下さいまし、」  はらりと沈んだ衣の音で、早入口へちゃんと両手を。肩がしなやかに袂の尖、揺れつつ畳に敷いたのは、藤の房の丈長く末濃に靡いた装である。  文金の高髷ふっくりした前髪で、白茶地に秋の野を織出した繻珍の丸帯、薄手にしめた帯腰柔に、膝を入口に支いて会釈した。背負上げの緋縮緬こそ脇あけを漏る雪の膚に稲妻のごとく閃いたれ、愛嬌の露もしっとりと、ものあわれに俯向いたその姿、片手に文箱を捧げぬばかり、天晴、風采、池田の宿より朝顔が参って候。  謙造は、一目見て、紛うべくもあらず、それと知った。  この芸妓は、昨夜の宴会の余興にとて、催しのあった熊野の踊に、朝顔に扮した美人である。  女主人公の熊野を勤めた婦人は、このお腰元に較べていたく品形が劣っていたので、なぜあの瓢箪のようなのがシテをする。根占の花に蹴落されて色の無さよ、と怪んで聞くと、芸も容色も立優った朝顔だけれど、──名はお君という──その妓は熊野を踊ると、後できっと煩らうとの事。仔細を聞くと、させる境遇であるために、親の死目に合わなかったからであろう、と云った。  不幸で沈んだと名乗る淵はないけれども、孝心なと聞けば懐しい流れの花の、旅の衣の俤に立ったのが、しがらみかかる部屋の入口。  謙造はいそいそと、 「どうして。さあ、こちらへ。」  と行儀わるく、火鉢を斜めに押出しながら、 「ずっとお入んなさい、構やしません。」 「はい。」 「まあ、どうしてね、お前さん、驚いた。」と思わず云って、心着くと、お君はげっそりとまた姿が痩せて、極りの悪そうに小さくなって、 「済みませんこと。」 「いやいや、驚いたって、何に、その驚いたんじゃない。はははは、吃驚したんじゃないよ。まあ、よく来たねえ。」 三 「その事で。ああ、なるほど言いましたよ。」  と火鉢の縁に軽く肱を凭たせて、謙造は微笑みながら、 「本来なら、こりゃお前さんがたが、客へお世辞に云う事だったね。誰かに肖ていらっしゃるなぞと思わせぶりを……ちと反対だったね。言いました。ああ、肖ている、肖ているッて。  そうです、確にそう云った事を覚えているよ。」  お君は敷けと云って差出された座蒲団より膝薄う、その傍へ片手をついたなりでいたのである。が、薄化粧に、口紅濃く、目のぱっちりした顔を上げて、 「よその方が、誰かに肖ているとお尋ねなさいましたから、あなたがどうお返事を遊ばすかと存じまして、私は極が悪うございましたけれども、そっと気をつけましたんですが、こういう処で話をする事ではない。まあまあ、とおっしゃって、それ切りになりましたのでございます。」  謙造は親しげに打頷き、 「そうそうそう云いました。それが耳に入って気になったかね、そうかい。」 「いいえ、」とまた俯向いて、清らかな手巾を、袂の中で引靡けて、 「気にいたしますの、なんのって、そういうわけではございません。あの……伺いました上で、それにつきまして少々お尋ねしたいと存じまして。」と俯目になった、睫毛が濃い。 「聞きましょうとも。その肖たという事の次第を話すがね、まあ、もっとお寄んなさい。大分眩しそうだ。どうも、まともに日が射すからね。さあ、遠慮をしないで、お敷きなさい。こうして尋ねて来なすった時はお客様じゃないか。威張って、威張って。」 「いいえ、どういたしまして、それでは……」  しかし眩ゆかったろう、下掻を引いて座をずらした、壁の中央に柱が許、肩に浴びた日を避けて、朝顔はらりと咲きかわりぬ。 「実はもうちっと間があると、お前さんが望みとあれば、今夜にもまた昨夜の家へ出向いて行って、陽気に一つ話をするんだがね、もう東京へ発程んだからそうしてはいられない。」 「はい、あの、私もそれを承りましたので、お帰りになりません前と存じまして、お宿へ、飛だお邪魔をいたしましてございますの。」 「宿へお出は構わんが、こんな処で話してはちと真面目になるから、事が面倒になりはしないかと思うんだが。  そうかと云って昨夜のような、杯盤狼藉という場所も困るんだよ。  実は墓参詣の事だから、」  と云いかけて、だんだん火鉢を手許へ引いたのに心着いて、一膝下って向うへ圧して、 「お前さん、煙草は?」  黙って莞爾する。 「喫むだろう。」 「生意気でございますわ。」 「遠慮なしにお喫り、お喫り。上げようか、巻いたんでよけりゃ。」 「いいえ、持っておりますよ。」  と帯の処へ手を当てる。 「そこでと、湯も沸いてるから、茶を飲みたければ飲むと……羊羹がある。一本五銭ぐらいなんだが、よければお撮みと……今に何ぞご馳走しようが、まあ、お尋の件を済ましてからの事にしよう、それがいい。」  独りで云って、独りで極めて、 「さて、その事だが、」 「はあ、」  とまた片手をついた。胸へ気が籠ったか、乳のあたりがふっくりとなる。 「余り気を入れると他愛がないよ。ちっとこう更っては取留めのない事なんだから。いいかい、」  ともの優しく念を入れて、 「私は小児の時だったから、唾をつけて、こう引返すと、台なしに汚すと云って厭がったっけ。死んだ阿母が大事にしていた、絵も、歌の文字も、対の歌留多が別にあってね、極彩色の口絵の八九枚入った、綺麗な本の小倉百人一首というのが一冊あった。  その中のね、女用文章の処を開けると……」と畳の上で、謙造は何にもないのを折返した。 四 「トそこに高髷に結った、瓜核顔で品のいい、何とも云えないほど口許の優い、目の清い、眉の美しい、十八九の振袖が、裾を曳いて、嫋娜と中腰に立って、左の手を膝の処へ置いて、右の手で、筆を持った小児の手を持添えて、その小児の顔を、上から俯目に覗込むようにして、莞爾していると、小児は行儀よく机に向って、草紙に手習のところなんだがね。  今でも、その絵が目に着いている。衣服の縞柄も真にしなやかに、よくその膚合に叶ったという工合で。小児の背中に、その膝についた手の仕切がなかったら、膚へさぞ移香もするだろうと思うように、ふっくりとなだらかに褄を捌いて、こう引廻した裾が、小児を庇ったように、しんせつに情が籠っていたんだよ。  大袈裟に聞えようけれども。  私は、その絵が大好きで、開けちゃ、見い見いしたもんだから、百人一首を持出して、さっと開ると、またいつでもそこが出る。  この姊さんは誰だい?と聞くと阿母が、それはお向うの姊さんだよ、と言い言いしたんだ。  そのお向うの姊さんというのに、……お前さんが肖ているんだがね──まあ、お聞きよ。」 「はあ、」  と睜った目がうつくしく、その俤が映りそう。 「お向うというのは、前に土蔵が二戸前。格子戸に並んでいた大家でね。私の家なんぞとは、すっかり暮向きが違う上に、金貸だそうだったよ。何となく近所との隔てがあったし、余り人づきあいをしないといった風で。出入も余計なし、なおさら奥行が深くって、裏はどこの国まで続いているんだか、小児心には知れないほどだったから、ついぞ遊びに行った事もなければ、時々、門口じゃ、その姊さんというのの母親に口を利かれる事があっても、こっちは含羞で遁げ出したように覚えている。  だから、そのお嬢さんなんざ、年紀も違うし、一所に遊んだ事はもちろんなし、また内気な人だったとみえて、余り戸外へなんか出た事のない人でね、堅く言えば深閨に何とかだ。秘蔵娘さね。  そこで、軽々しく顔が見られないだけに、二度なり、三度なり見た事のあるのが、余計に心に残っているんで。その女用文章の中の挿画が真物だか、真物が絵なんだか分らないくらいだった。  しかしどっちにしろ、顔容は判然今も覚えている。一日、その母親の手から、娘が、お前さんに、と云って、縮緬の寄切で拵えた、迷子札につける腰巾着を一個くれたんです。そのとき格子戸の傍の、出窓の簾の中に、ほの白いものが見えたよ。紅の色も。  蝙蝠を引払いていた棹を抛り出して、内へ飛込んだ、その嬉しさッたらなかった。夜も抱いて寝て、あけるとその百人一首の絵の机の上へのっけたり、立っている娘の胸の処へ置いたり、胸へのせると裾までかくれたよ。  惜い事をした。その巾着は、私が東京へ行っていた時分に、故郷の家が近火に焼けた時、その百人一首も一所に焼けたよ。」 「まあ……」  とはかなそうに、お君の顔色が寂しかった。 「迷子札は、金だから残ったがね、その火事で、向うの家も焼けたんだ。今度通ってみたが、町はもう昔の俤もない。煉瓦造りなんぞ建って開けたようだけれど、大きな樹がなくなって、山がすぐ露出しに見えるから、かえって田舎になった気がする、富士の裾野に煙突があるように。  向うの家も、どこへ行きなすったかね、」  と調子が沈んで、少し、しめやかになって、 「もちろんその娘さんは、私がまだ十ウにならない内に亡くなったんだ。──  産後だと言います……」 「お産をなすって?」  と俯目でいた目を睜いたが、それがどうやらうるんでいたので。  謙造はじっと見て、傾きながら、 「一人娘で養子をしたんだね、いや、その時は賑かだッけ。」  と陽気な声。 五 「土蔵がずッしりとあるだけに、いつも火の気のないような、しんとした、大きな音じゃ釜も洗わないといった家が、夜になると、何となく灯がさして、三味線太鼓の音がする。時々どっと山颪に誘われて、物凄いような多人数の笑声がするね。  何ッて、母親の懐で寝ながら聞くと、これは笑っているばかり。父親が店から声をかけて、魔物が騒ぐんだ、恐いぞ、と云うから、乳へ顔を押着けて息を殺して寝たっけが。  三晩ばかり続いたよ。田地田畠持込で養子が来たんです。  その養子というのは、日にやけた色の赤黒い、巌乗づくりの小造な男だっけ。何だか目の光る、ちときょときょとする、性急な人さ。  性急なことをよく覚えている訳は、桃を上げるから一所においで。姊さんが、そう云った、坊を連れて行けというからと、私を誘ってくれたんだ。  例の巾着をつけて、いそいそ手を曳かれて連れられたんだが、髪を綺麗に分けて、帽子を冠らないで、確かその頃流行ったらしい。手甲見たような、腕へだけ嵌まる毛糸で編んだ、萌黄の手袋を嵌めて、赤い襯衣を着て、例の目を光らしていたのさ。私はその娘さんが、あとから来るのだろう、来るのだろうと、見返り見返りしながら手を曳かれて行ったが、なかなか路は遠かった。  途中で負ってくれたりなんぞして、何でも町尽へ出て、寂い処を通って、しばらくすると、大きな榎の下に、清水が湧いていて、そこで冷い水を飲んだ気がする。清水には柵が結ってあってね、昼間だったから、点けちゃなかったが、床几の上に、何とか書いた行燈の出ていたのを覚えている。  そこでひとしきり、人通りがあって、もうちと行くと、またひっそりして、やがて大きな桑畠へ入って、あの熟した桑の実を取って食べながら通ると、二三人葉を摘んでいた、田舎の婦人があって、養子を見ると、慌てて襷をはずして、お辞儀をしたがね、そこが養子の実家だった。  地続きの桃畠へ入ると、さあ、たくさん取れ、今じゃ、姊さんのものになったんだから、いつでも来るがいい。まだ、瓜もある、西瓜も出来る、と嬉しがらせて、どうだ。坊は家の児にならんか、姊さんがいい児にするぜ。  厭か、爺婆が居るから。……そうだろう。あんな奴は、今におれがたたき殺してやろう、と恐ろしく意気込んで、飛上って、高い枝の桃の実を引もぎって一個くれたんだ。  帰途は、その清水の処あたりで、もう日が暮れた。婆がやかましいから急ごう、と云うと、髪をばらりと振って、私の手をむずと取って駆出したんだが、引立てた腕が捥げるように痛む、足も宙で息が詰った。養子は、と見ると、目が血走っていようじゃないか。  泣出したもんだから、横抱にして飛んで帰ったがね。私は何だか顔はあかし、天狗にさらわれて行ったような気がした。袂に入れた桃の実は途中で振落して一つもない。  そりゃいいが、半年経たない内にその男は離縁になった。  だんだん気が荒くなって、姊さんのたぶさを掴んで打った、とかで、田地は取上げ、という評判でね、風の便りに聞くと、その養子は気が違ってしまったそうだよ。  その後、晩方の事だった。私はまた例の百人一首を持出して、おなじ処を開けて腹這いで見ていた。その絵を見る時は、きっと、この姊さんは誰? と云って聞くのがお極りのようだったがね。また尋ねようと思って、阿母は、と見ると、秋の暮方の事だっけ。ずっと病気で寝ていたのが、ちと心持がよかったか、床を出て、二階の臂かけ窓に袖をかけて、じっと戸外を見てうっとり見惚れたような様子だから、遠慮をして、黙って見ていると、どうしたか、ぐッと肩を落して、はらはらと涙を落した。  どうしたの? と飛ついて、鬢の毛のほつれた処へ、私の頬がくっついた時、と見ると向うの軒下に、薄く青い袖をかさねて、しょんぼりと立って、暗くなった山の方を見ていたのがその人で、」  と謙造は面を背けて、硝子窓。そのおなじ山が透かして見える。日は傾いたのである。 六 「その時は、艶々した丸髷に、浅葱絞りの手柄をかけていなすった。ト私が覗いた時、くるりと向うむきになって、格子戸へ顔をつけて、両袖でその白い顔を包んで、消えそうな後姿で、ふるえながら泣きなすったっけ。  桑の実の小母さん許へ、姊さんを連れて行ってお上げ、坊やは知ってるね、と云って、阿母は横抱に、しっかり私を胸へ抱いて、  こんな、お腹をして、可哀相に……と云うと、熱い珠が、はらはらと私の頸へ落ちた。」  と見ると手巾の尖を引啣えて、お君の肩はぶるぶると動いた。白歯の色も涙の露、音するばかり戦いて。  言を折られて、謙造は溜息した。 「あなた、もし、」  と涙声で、つと、腰を浮かして寄って、火鉢にかけた指の尖が、真白に震えながら、 「その百人一首も焼けてなくなったんでございますか。私、私は、お墓もどこだか存じません。」  と引出して目に当てた襦袢の袖の燃ゆる色も、紅寒き血に見える。  謙造は太息ついて、 「ああ、そうですか、じゃあ里に遣られなすったお娘なんですね。音信不通という風説だったが、そうですか。──いや、」  と言を改めて、 「二十年前の事が、今目の前に見えるようだ。お察し申します。  私も、その頃阿母に別れました。今じゃ父親も居らんのですが、しかしまあ、墓所を知っているだけでも、あなたより増かも知れん。  そうですか。」  また歎息して、 「お墓所もご存じない。」 「はい、何にも知りません。あなたは、よく私の両親の事をご存じでいらっしゃいます、せめて、その、その百人一首でも見とうござんすのにね。……」  と言も乱れて、 「墓の所をご存じではござんすまいか。」 「……困ったねえ。門徒宗でおあんなすったっけが、トばかりじゃ……」  と云い淀むと、堪りかねたか、蒲団の上へ、はっと突俯して泣くのであった。  謙造は目を瞑って腕組したが、おお、と小さく膝を叩いて、 「余りの事のお気の毒さ。肝心の事を忘れました。あなた、あなた、」  と二声に、引起された涙の顔。 「こっちへ来てご覧なさい。」  謙造は座を譲って、 「こっちへ来て、ここへ、」  と指さされた窓の許へ、お君は、夢中のように、つかつか出て、硝子窓の敷居に縋る。  謙造はひしと背後に附添い、 「松葉越に見えましょう。あの山は、それ茸狩だ、彼岸だ、二十六夜待だ、月見だ、と云って土地の人が遊山に行く。あなたも朝夕見ていましょう。あすこにね、私の親たちの墓があるんだが、その居まわりの回向堂に、あなたの阿母さんの記念がある。」 「ええ。」 「確にあります、一昨日も私が行って見て来たんだ。そこへこれからお伴をしよう、連れて行って上げましょう、すぐに、」  と云って勇んだ声で、 「お身体の都合は、」  その花やかな、寂しい姿をふと見つけた。 「しかし、それはどうとも都合が出来よう。」 「まあ、ほんとうでございますか。」  といそいそ裳を靡かしながら、なおその窓を見入ったまま、敷居の手を離さなかったが、謙造が、脱ぎ棄てた衣服にハヤ手をかけた時であった。 「あれえ」と云うと畳にばったり、膝を乱して真蒼になった。  窓を切った松の樹の横枝へ、お君の顔と正面に、山を背負って、むずと掴まった、大きな鳥の翼があった。狸のごとき眼の光、灰色の胸毛の逆立ったのさえ数えられる。 「梟だ。」  とからからと笑って、帯をぐるぐると巻きながら、 「山へ行くのに、そんなものに驚いちゃいかんよ。そう極ったら、急がないとまた客が来る。あなた支度をして。山の下まで車だ。」と口でも云えば、手も叩く、謙造の忙がしさ。その足許にも鳥が立とう。 七 「さっきの、さっきの、」  と微笑みながら、謙造は四辺を睜し、 「さっきのが……声だよ。お前さん、そう恐がっちゃいかん。一生懸命のところじゃないか。」 「あの、梟が鳴くんですかねえ。私はまた何でしょうと吃驚しましたわ。」  と、寄添いながら、お君も莞爾。  二人は麓から坂を一ツ、曲ってもう一ツ、それからここの天神の宮を、梢に仰ぐ、石段を三段、次第に上って来て、これから隧道のように薄暗い、山の狭間の森の中なる、額堂を抜けて、見晴しへ出て、もう一坂越して、草原を通ると頂上の広場になる。かしこの回向堂を志して、ここまで来ると、あんなに日当りで、車は母衣さえおろすほどだったのが、梅雨期のならい、石段の下の、太鼓橋が掛った、乾いた池の、葉ばかりの菖蒲がざっと鳴ると、上の森へ、雲がかかったと見るや、こらえずさっと降出したのに、ざっと一濡れ。石段を駆けて上って、境内にちらほらとある、青梅の中を、裳はらはらでお君が潜って。  さてこの額堂へ入って、一息ついたのである。 「暮れるには間があるだろうが、暗くなったもんだから、ここを一番と威すんだ。悪い梟さ。この森にゃ昔からたくさん居る。良い月夜なんぞに来ると、身体が蒼い後光がさすように薄ぼんやりした態で、樹の間にむらむら居る。  それをまた、腕白の強がりが、よく賭博なんぞして、わざとここまで来たもんだからね。梟は仔細ないが、弱るのはこの額堂にゃ、古から評判の、鬼、」 「ええ、」  とまた擦寄った。謙造は昔懐しさと、お伽話でもする気とで、うっかり言ったが、なるほどこれは、と心着いて、急いで言い続けて、 「鬼の額だよ、額が上っているんだよ。」 「どこにでございます。」  と何にか押向けられたように顔を向ける。 「何、何でもない、ただ絵なんだけれど、小児の時は恐かったよ、見ない方がよかろう。はははは、そうか、見ないとなお恐しい、気が済まない、とあとへ残るか、それその額さ。」  と指したのは、蜘蛛の囲の間にかかって、一面漆を塗ったように古い額の、胡粉が白くくっきりと残った、目隈の蒼ずんだ中に、一双虎のごとき眼の光、凸に爛々たる、一体の般若、被の外へ躍出でて、虚空へさっと撞木を楫、渦いた風に乗って、緋の袴の狂いが火焔のように飜ったのを、よくも見ないで、 「ああ。」と云うと、ひしと謙造の胸につけた、遠慮の眉は間をおいたが、前髪は衣紋について、襟の雪がほんのり薫ると、袖に縋った手にばかり、言い知らず力が籠った。  謙造は、その時はまださまでにも思わずに、 「母様の記念を見に行くんじゃないか、そんなに弱くっては仕方がない。」  と半ば励ます気で云った。 「いいえ、母様が活きていて下されば、なおこんな時は甘えますわ。」  と取縋っているだけに、思い切って、おさないものいい。  何となく身に染みて、 「私が居るから恐くはないよ。」 「ですから、こうやって、こうやって居れば恐くはないのでございます。」  思わず背に手をかけながら、謙造は仰いで額を見た。  雨の滴々しとしとと屋根を打って、森の暗さが廂を通し、翠が黒く染込む絵の、鬼女が投げたる被を背にかけ、わずかに烏帽子の頭を払って、太刀に手をかけ、腹巻したる体を斜めに、ハタと睨んだ勇士の面。  と顔を合わせて、フトその腕を解いた時。  小松に触る雨の音、ざらざらと騒がしく、番傘を低く翳し、高下駄に、濡地をしゃきしゃきと蹈んで、からずね二本、痩せたのを裾端折で、大股に歩行いて来て額堂へ、頂の方の入口から、のさりと入ったものがある。 八 「やあ、これからまたお出かい。」  と腹の底から出るような、奥底のない声をかけて、番傘を横に開いて、出した顔は見知越。一昨日もちょっと顔を合わせた、峰の回向堂の堂守で、耳には数珠をかけていた。仁右衛門といって、いつもおんなじ年の爺である。  その回向堂は、また庚申堂とも呼ぶが、別に庚申を祭ったのではない。さんぬる天保庚申年に、山を開いて、共同墓地にした時に、居まわりに寺がないから、この御堂を建立して、家々の位牌を預ける事にした、そこで回向堂とも称うるので、この堂守ばかり、別に住職の居室もなければ、山法師も宿らぬのである。 「また、東京へ行きますから、もう一度と思って来ました。」  と早、離れてはいたが、謙造は傍なる、手向にあらぬ花の姿に、心置かるる風情で云った。 「よく、参らっしゃる、ちとまた休んでござれ。」 「ちょっと休まして頂くかも知れません。爺さんは、」 「私かい。講中にちっと折込みがあって、これから通夜じゃ、南無妙、」  と口をむぐむぐさしたが、 「はははは、私ぐらいの年の婆さまじゃ、お目出たい事いの。位牌になって嫁入りにござらっしゃる、南無妙。戸は閉めてきたがの、開けさっしゃりませ、掛金も何にもない、南無妙、」  と二人を見て、 「ははあ、傘なしじゃの、いや生憎の雨、これを進ぜましょ。持ってござらっしゃい。」  とばッさり窄める。 「何、構やしないよ。」 「うんにゃよ、お前さまは構わっしゃらいでも、はははは、それ、そちらの姊さんが濡れるわ、さあさあ、ささっしゃい。」 「済みませんねえ、」  と顔を赤らめながら、 「でも、お爺さん、あなたお濡れなさいましょう。」 「私は濡れても天日で干すわさ。いや、またまこと困れば、天神様の神官殿別懇じゃ、宿坊で借りて行く……南無妙、」  と押つけるように出してくれる。  捧げるように両手で取って、 「大助りです、ここに雨やみをしているもいいが、この人が、」  と見返って、莞爾して、 「どうも、嬰児のように恐がって、取って食われそうに騒ぐんで、」  と今の姿を見られたろう、と極の悪さにいいわけする。  お君は俯向いて、紫の半襟の、縫の梅を指でちょいと。  仁右衛門、はッはと笑い、 「おお、名物の梟かい。」 「いいえ、それよりか、そのもみじ狩の額の鬼が、」 「ふむ、」  と振仰いで、 「これかい、南無妙。これは似たような絵じゃが、余吾将軍維茂ではない。見さっしゃい。烏帽子素袍大紋じゃ。手には小手、脚にはすねあてをしているわ……大森彦七じゃ。南無妙、」  と豊かに目を瞑って、鼻の下を長くしたが、 「山頬の細道を、直様に通るに、年の程十七八計なる女房の、赤き袴に、柳裏の五衣着て、鬢深く鍛ぎたるが、南無妙。  山の端の月に映じて、ただ独り彳みたり。……これからよ、南無妙。  女ちと打笑うて、嬉しや候。さらば御桟敷へ参り候わんと云いて、跡に付きてぞ歩みける。羅綺にだも不勝姿、誠に物痛しく、まだ一足も土をば不蹈人よと覚えて、南無妙。  彦七不怺、余に露も深く候えば、あれまで負進せ候わんとて、前に跪きたれば、女房すこしも不辞、便のう、いかにかと云いながら、やがて後にぞ靠りける、南無妙。  白玉か何ぞと問いし古えも、かくやと思知れつつ、嵐のつてに散花の、袖に懸るよりも軽やかに、梅花の匂なつかしく、蹈足もたどたどしく、心も空に浮れつつ、半町ばかり歩みけるが、南無妙。  月すこし暗かりける処にて、南無妙、さしも厳しかりけるこの女房、南無妙。」  といいいい額堂を出ると、雨に濡らすまいと思ったか、数珠を取って。頂いて懐へ入れたが、身体は平気で、石段、てく、てく。 九  二ノ眼ハ朱ヲ解テ。鏡ノ面ニ洒ゲルガゴトク。上下歯クイ違テ。口脇耳ノ根マデ広ク割ケ。眉ハ漆ニテ百入塗タルゴトクニシテ。額ヲ隠シ。振分髪ノ中ヨリ。五寸計ナル犢ノ角。鱗ヲカズイテ生出でた、長八尺の鬼が出ようかと、汗を流して聞いている内、月チト暗カリケル処ニテ、仁右衛門が出て行った。まず、よし。お君は怯えずに済んだが、ひとえに梟の声に耳を澄まして、あわれに物寂い顔である。 「さ、出かけよう。」  と謙造はもうここから傘ばッさり。 「はい、あなた飛んだご迷惑でございます。」 「私はちっとも迷惑な事はないが、あなた、それじゃいかん。路はまだそんなでもないから、跣足には及ぶまいが、裾をぐいとお上げ、構わず、」 「それでも、」 「うむ、構うもんか、いまの石段なんぞ、ちらちら引絡まって歩行悪そうだった。  極の悪いことも何にもない。誰も見やしないから、これから先は、人ッ子一人居やしない、よ、そうおし、」 「でも、余り、」  片褄取って、その紅のはしのこぼれたのに、猶予って恥しそう。 「だらしがないから、よ。」  と叱るように云って、 「母様に逢いに行くんだ。一体、私の背に負んぶをして、目を塞いで飛ぶところだ。構うもんか。さ、手を曳こう、辷るぞ。」  と言った。暮れかかった山の色は、その滑かな土に、お君の白脛とかつ、緋の裳を映した。二人は額堂を出たのである。 「ご覧、目の下に遠く樹立が見える、あの中の瓦屋根が、私の居る旅籠だよ。」  崕のふちで危っかしそうに伸上って、 「まあ、直そこでございますね。」 「一飛びだから、梟が迎いに来たんだろう。」 「あれ。」 「おっと……番毎怯えるな、しっかりと掴ったり……」 「あなた、邪慳にお引張りなさいますな。綺麗な草を、もうちっとで蹈もうといたしました。可愛らしい菖蒲ですこと。」 「紫羅傘だよ、この山にはたくさん吹く。それ、一面に。」  星の数ほど、はらはらと咲き乱れたが、森が暗く山が薄鼠になって濡れたから、しきりなく梟の声につけても、その紫の俤が、燐火のようで凄かった。  辿る姿は、松にかくれ、草にあらわれ、坂に沈み、峰に浮んで、その峰つづきを畝々と、漆のようなのと、真蒼なると、赭のごときと、中にも雪を頂いた、雲いろいろの遠山に添うて、ここに射返されたようなお君の色。やがて傘一つ、山の端に大な蕈のようになった時、二人はその、さす方の、庚申堂へ着いたのである。  と不思議な事には、堂の正面へ向った時、仁右衛門は掛金はないが開けて入るように、と心着けたのに、雨戸は両方へ開いていた。お君は後に、御母様がそうしておいたのだ、と言ったが、知らず堂守の思違いであったろう。  框がすぐに縁で、取附きがその位牌堂。これには天井から大きな白の戸帳が垂れている。その色だけ仄に明くって、板敷は暗かった。  左に六畳ばかりの休息所がある。向うが破襖で、その中が、何畳か、仁右衛門堂守の居る処。勝手口は裏にあって、台所もついて、井戸もある。  が謙造の用は、ちっともそこいらにはなかったので。  前へ入って、その休息所の真暗な中を、板戸漏る明を見当に、がたびしと立働いて、町に向いた方の雨戸をあけた。  横手にも窓があって、そこをあけると今の、その雪をいただいた山が氷を削ったような裾を、紅、緑、紫の山でつつまれた根まで見える、見晴の絶景ながら、窓の下がすぐ、ばらばらと墓であるから、また怯えようと、それは閉めたままでおいたのである。 十  その間に、お君は縁側に腰をかけて、裾を捻るようにして懐がみで足を拭って、下駄を、謙造のも一所に拭いて、それから穿直して、外へ出て、広々とした山の上の、小さな手水鉢で手を洗って、これは手巾で拭って、裾をおろして、一つ揺直して、下褄を掻込んで、本堂へ立向って、ト頭を下げたところ。 「こちらへお入り、」  と、謙造が休息所で声をかける。  お君がそっと歩行いて行くと、六畳の真中に腕組をして坐っていたが、 「まあお坐んなさい。」  と傍へ坐らせて、お君が、ちゃんと膝をついた拍子に、何と思ったか、ずいと立ってそこらを見廻したが、横手のその窓に並んだ二段に釣った棚があって、火鉢燭台の類、新しい卒堵婆が二本ばかり。下へ突込んで、鼠の噛った穴から、白い切のはみ出した、中には白骨でもありそうな、薄気味の悪い古葛籠が一折。その中の棚に斜っかけに乗せてあった経机ではない小机の、脚を抉って満月を透したはいいが、雲のかかったように虫蝕のあとのある、塗ったか、古びか、真黒な、引出しのないのに目を着けると…… 「有った、有った。」  と嬉しそうにつと寄って、両手でがさがさと引き出して、立直って持って出て、縁側を背後に、端然と坐った、お君のふっくりした衣紋つきの帯の処へ、中腰になって舁据えて置直すと、正面を避けて、お君と互違いに肩を並べたように、どっかと坐って、 「これだ。これがなかろうもんなら、わざわざ足弱を、暮方にはなるし、雨は降るし、こんな山の中へ連れて来て、申訳のない次第だ。  薄暗くってさっきからちょっと見つからないもんだから、これも見た目の幻だったのか、と大抵気を揉んだ事じゃない。  お君さん、」  と云って、無言ながら、懐しげなその美い、そして恍惚となっている顔を見て、 「その机だ。お君さん、あなたの母様の記念というのは、……  こういうわけだ。また恐がっちゃいけないよ。母様の事なんだから。  いいかい。  一昨日ね。私の両親の墓は、ついこの右の方の丘の松蔭にあるんだが、そこへ参詣をして、墳墓の土に、薫の良い、菫の花が咲いていたから、東京へ持って帰ろうと思って、三本ばかり摘んで、こぼれ松葉と一所に紙入の中へ入れて。それから、父親の居る時分、連立って阿母の墓参をすると、いつでも帰りがけには、この仁右衛門の堂へ寄って、世間話、お祖師様の一代記、時によると、軍談講釈、太平記を拾いよみに諳記でやるくらい話がおもしろい爺様だから、日が暮れるまで坐り込んで、提灯を借りて帰ることなんぞあった馴染だから、ここへ寄った。  いいお天気で、からりと日が照っていたから、この間中の湿気払いだと見えて、本堂も廊下も明っ放し……で誰も居ない。  座敷のここにこの机が出ていた。  机の向うに薄くこう婦人が一人、」  お君はさっと蒼くなる。 「一生懸命にお聞きよ。それが、あなたの母様だったんだから。  高髷を俯向けにして、雪のような頸脚が見えた。手をこうやって、何か書ものをしていたろう。紙はあったが、筆は持っていたか、そこまでは気がつかないが、現に、そこに、あなたとちょうど向い合せの処、」  正面の襖は暗くなった、破れた引手に、襖紙の裂けたのが、ばさりと動いた。お君は堅くなって真直に、そなたを見向いて、瞬もせぬのである。 「しっかりして、お聞き、恐くはないから、私が居るから、」と謙造は、自分もちょいと本堂の今は煙のように見える、白き戸帳を見かえりながら、 「私がそれを見て、ああ、肖たようなとぞっとした時、そっと顔を上げて、莞爾したのが、お向うのその姊さんだ、百人一首の挿画にそッくり。  はッと気がつくと、もう影も姿もなかった。  私は、思わず飛込んで、その襖を開けたよ。  がらん堂にして仁右衛門も居らず。懐しい人だけれども、そこに、と思うと、私もちと居なすった幻のあとへは、第一なまぐさを食う身体だし、もったいなくッて憚ったから、今、お君さん、お前が坐っているそこへ坐ってね、机に凭れて、」  と云う時、お君はその机にひたと顔をつけて、うつぶしになった。あらぬ俤とどめずや、机の上は煤だらけである。 「で、何となく、あの二階と軒とで、泣きなすった、その時の姿が、今さしむかいに見えるようで、私は自分の母親の事と一所に、しばらく人知れず泣いて、ようよう外へ出て、日を見て目を拭いた次第だった。翌晩、朝顔を踊った、お前さんを見たんだよ。目前を去らない娘さんにそっくりじゃないか。そんな話だから、酒の席では言わなかったが、私はね、さっきお前さんがお出での時、女中が取次いで、女の方だと云った、それにさえ、ぞっとしたくらい、まざまざとここで見たんだよ。  しかしその机は、昔からここにある見覚えのある、庚申堂はじまりからの附道具で、何もあなたの母様の使っておいでなすったのを、堂へ納めたというんじゃない。  それがまたどうして、ここで幻を見たろうと思うと……こうなんだ。  私の母親の亡くなったのは、あなたの母親より、二年ばかり前だったろう。  新盆に、切籠を提げて、父親と連立って墓参に来たが、その白張の切籠は、ここへ来て、仁右衛門爺様に、アノ威張った髯題目、それから、志す仏の戒名、進上から、供養の主、先祖代々の精霊と、一個一個に書いて貰うのが例でね。  内ばかりじゃない、今でも盆にはそうだろうが、よその爺様婆様、切籠持参は皆そうするんだっけ。  その年はついにない、どうしたのか急病で、仁右衛門が呻いていました。  さあ、切籠が迷った、白張でうろうろする。  ト同じ燈籠を手に提げて、とき色の長襦袢の透いて見える、羅の涼しい形で、母娘連、あなたの祖母と二人連で、ここへ来なすったのが、姊さんだ。  やあ、占めた、と云うと、父親が遠慮なしに、お絹さん──あなた、母様の名は知っているかい。」  突俯したまま、すねたように頭を振った。 「お願だ、お願だ。精霊大まごつきのところ、お馴染の私が媽々の門札を願います、と燈籠を振廻わしたもんです。  母様は、町内評判の手かきだったからね、それに大勢居る処だし、祖母さんがまた、ちっと見せたい気もあったかして、書いてお上げなさいよ、と云ってくれたもんだから、扇を畳んで、お坐んなすったのが──その机です。  これは、祖父の何々院、これは婆さまの何々信女、そこで、これへ、媽々の戒名を、と父親が燈籠を出した時。 (母様のは、)と傍に畏った私を見て、 (謙ちゃんが書くんですよ、)  とそう云っておくんなすってね、その机の前へ坐らせて、」  と云う時、謙造は声が曇った。 「すらりと立って、背後から私の手を柔かく筆を持添えて……  おっかさん、と仮名で書かして下さる時、この襟へ、」  と、しっかりと腕を組んで、 「はらはらと涙を落しておくんなすった。  父親は墨をすりながら、伸上って、とその仮名を読んで……  おっかさん、」  いいかけて謙造は、ハッと位牌堂の方を振向いてぞっとした。自分の胸か、君子の声か、幽に、おっかさんと響いた。  ヒイと、堪えかねてか、泣く声して、薄暗がりを一つあおって、白い手が膝の上へばたりと来た。  突俯したお君が、胸の苦しさに悶えたのである。  その手を取って、 「それだもの、忘、忘れるもんか。その時の、幻が、ここに残って、私の目に見えたんだ。  ね、だからそれが記念なんだ。お君さん、母様の顔が見えたでしょう、見えたでしょう。一心におなんなさい、私がきっと請合う、きっと見える。可哀相に、名、名も知らんのか。」  と云って、ぶるぶると震える手を、しっかと取った。が、冷いので、あなやと驚き、膝を突かけ、背を抱くと、答えがないので、慌てて、引起して、横抱きに膝へ抱いた。  慌しい声に力を籠めつつ、 「しっかりおし、しっかりおし、」  と涙ながら、そのまま、じっと抱しめて、 「母様の顔は、姊さんの姿は、私の、謙造の胸にある!」  とじっと見詰めると、恍惚した雪のようなお君の顔の、美しく優しい眉のあたりを、ちらちらと蝶のように、紫の影が行交うと思うと、菫の薫がはっとして、やがて縋った手に力が入った。  お君の寂しく莞爾した時、寂寞とした位牌堂の中で、カタリと音。  目を上げて見ると、見渡す限り、山はその戸帳のような色になった。が、やや艶やかに見えたのは雨が晴れた薄月の影である。  遠くで梟が啼いた。  謙造は、その声に、額堂の絵を思出した、けれども、自分で頭をふって、斉しく莞爾した。  その時何となく机の向が、かわった。  襖がすらりとあいたようだから、振返えると、あらず、仁右衛門の居室は閉ったままで、ただほのかに見える散れ松葉のその模様が、懐しい百人一首の表紙に見えた。 (明治四十年一月) 底本:「ちくま日本文学全集 泉鏡花」筑摩書房    1991(平成3年)10月20日初版発行    1995(平成7年)8月15日第2刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第十一卷」岩波書店 初出:「新小説」    1907(昭和40)年1月 ※底本の編者による語注は省略しました。 入力:牡蠣右衛門 校正:門田裕志 2001年10月19日公開 2018年3月7日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。