唄立山心中一曲 泉鏡花 Guide 扉 本文 目 次 唄立山心中一曲        一 「ちらちらちらちら雪の降る中へ、松明がぱっと燃えながら二本──誰も言うことでございますが、他にいたし方もありませんや。真白な手が二つ、悚然とするほどな婦が二人……もうやがてそこら一面に薄り白くなった上を、静に通って行くのでございます。正体は知れていても、何しろそれに、所が山奥でございましょう。どうもね、余り美しくって物凄うございました。」  と鋳掛屋が私たちに話した。  いきなり鋳掛屋が話したでは、ちと唐突に過ぎる。知己になってこの話を聞いた場所と、そのいきさつをちょっと申陳べる。けれども、肝心な雪女郎と山姫が長襦袢で顕れたようなお話で、少くとも御覧の方はさきをお急ぎ下さるであろうと思う、で、簡単にその次第を申上げる。  所は信州姨捨の薄暗い饂飩屋の二階であった。──饂飩屋さえ、のっけに薄暗いと申出るほどであるから、夜の山の暗い事思うべしで。……その癖、可笑いのは、私たちは月を見ると言って出掛けたのである。  別に迷惑を掛けるような筋ではないから、本名で言っても差支えはなかろう。その時の連は小村雪岱さんで、双方あちらこちらの都合上、日取が思う壺にはならないで、十一月の上旬、潤年の順におくれた十三夜の、それも四日ばかり過ぎた日の事であった。  ──居待月である。  一杯飲んでいる内には、木賊刈るという歌のまま、研かれ出づる秋の夜の月となるであろうと、その気で篠ノ井で汽車を乗替えた。が、日の短い頃であるから、五時そこそこというのにもうとっぷりと日が暮れて、間は稲荷山ただ一丁場だけれども、線路が上りで、進行が緩い処へ、乗客が急に少く、二人三人と数えるばかり、大な木の葉がぱらりと落ちたようであるから、掻合わす外套の袖も、妙にばさばさと音がする。外は霜であろう。山の深さも身に沁みる。夜さえそぞろに更け行くように思われた。 「来ましたよ。」 「二人きりですね。」  と私は言った。  名にし負う月の名所である。ここの停車場を、月の劇場の木戸口ぐらいな心得違いをしていた私たちは、幟や万燈には及ばずとも、屋号をかいた弓張提灯で、へい、茗荷屋でございます、旅店の案内者ぐらいは出ていようと思ったの大きな見当違。絵に描いた木曾の桟橋を想わせる、断崖の丸木橋のようなプラットフォームへ、しかも下りたのはただ二人で、改札口へ渡るべき橋もない。  一人がバスケットと、一人が一升壜を下げて、月はなけれど敷板の霜に寒い影を映しながら、あちらへ行き、こちらへ戻り、で、小村さんが唇をちょっと曲げて、 「汽車が出ないと向うへは渡られませんよ。」 「成程。線路を突切って行く仕掛けなんです。」  やがてむらむらと立昇る白い煙が、妙に透通って、颯と屋根へ掛る中を、汽車は音もしないように静に動き出す、と漆のごとき真暗な谷底へ、轟と谺する…… 「行っていらっしゃいまし……お静に──」  と私はつい、目の前をすれすれに行く、冷たそうに曇った汽車の窓の灯に挨拶した。ここへ二人きり置いて行かれるのが、山へ棄てられるような気がして心細かったからである。  壇はあるが、深いから、首ばかり並んで霧の裡なる線路を渡った。 「ちょっと、伺いますが。」 「はあ?」  手ランプを提げた、真黒な扮装の、年の少い改札掛わずかに一人。  待合所の腰掛の隅には、頭から毛布を被ったのが、それもただ一人居る。……これが伊勢だと、あすこを狙って吹矢を一本──と何も不平を言うのではない、旅の秋を覚えたので。──小村さんは一旦外へ出たが、出ると、すぐ、横の崖か巌を滴る、ひたひたと清水の音に、用心のため引返して、駅員に訊いたのであった。 「その辺に旅籠屋はありましょうか。」 「はあ、別に旅籠屋と言って、何ですな、これから下へ十四五町、……約半道ばかり行きますと、湯の立つ家があるですよ。外は大概一週間に一度ぐらいなものですでなあ。」 「あの風呂を沸かしますのが。」 「さよう。」 「難有う──少しどうも驚きました。とにかく、そこいらまで歩いてみましょう。」  と小村さんが暗がりの中を探りながら先へ立って、 「いきなり、風呂を沸かす宿屋が半道と来たんでは、一口飲ませる処とも聞きにくうございますよ。しかし何かしらありましょう……何しろ暗い。」  と構内の柵について……灯の百合が咲く、大な峰、広い谷に、はらはらとある灯をたよりに、ものの十間とは進まないで、口を開けて足を噛む狼のような巌の径に行悩んだ。 「どうです、いっそここへ蹲んで、壜詰の口を開けようじゃありませんか。」 「まさか。」  と小村さんは苦笑して、 「姨捨山、田毎の月ともあろうものが、こんな路で澄ましているって法はありません。きっと方角を取違えたんでしょう。お待ちなさいまし、逆に停車場の裏の方へ戻ってみましょう。いくらか燈が見えるようです。」  双方黒い外套が、こんがらかって引返すと、停車場には早や駅員の影も見えぬ。毛布かぶりの痩せた達磨の目ばかりが晃々と光って、今度はどうやら羅漢に見える。  と停車場の後は、突然荒寺の裏へ入った形で、芬と身に沁みる木の葉の匂、鳥の羽で撫でられるように、さらさらと──袖が鳴った。  落葉を透かして、山懐の小高い処に、まだ戸を鎖さない灯が見えた。  小村さんが、まばらな竹の木戸を、手を拡げつつ探り当てて、 「きっと飲ませますよ、この戸の工合が気に入りました」 と勢よく、一足先に上ったが、程もあらせず、ざわざわざわと、落葉を鳴らして落来るばかりに引返して、 「退却……」 「え、安達ヶ原ですか。」 と聞く方が慌てている。 「いいえ爺さんですがね、一人土間で草鞋を造っていましてね。何だ、誰じゃいッて喚くんです。」 「いや、それは恐縮々々。」 「まことに済みません。発起人がこの様子で。」 「飛んでもない。こういう時は花道を歌で引込むんです、柄にはありませんがね。何でしたっけ、…… わが心なぐさめかねつ更科や      姨捨山に照る月をみて  照る月をみて慰めかねつですもの、暗いから慰められて可いわけです。いよいよ路が分らなければ、停車場で、次の汽車を待って、松本まで参りましょう。時間がありますからそこは気丈夫です。」  しかるところ、暗がりに目が馴れたのか、空は星の上に星が重って、底なく晴れている──どこの峰にも銀の覆輪はかからぬが、自から月の出の光が山の膚を透すかして、巌の欠めも、路の石も、褐色に薄く蒼味を潮して、はじめ志した方へ幽ながら見えて来た。灯前の木の葉は白く、陰なる朱葉の色も浸む。  かくして辿りついた薄暗い饂飩屋であった。  何しろ薄暗い。……赤黒くどんより煤けた腰障子の、それも宵ながら朦朧と閉っていて、よろず荒もの、うどんあり、と記した大な字が、鼾をかいていそうに見えた。  この店の女房が、東京ものは清潔ずきだからと、気を利かして、正札のついた真新しい湯沸を達引いてくれた心意気に対しても、言われた義理ではないのだけれど。 「これは少々酷過ぎますね。」 「ここまで来れば、あと一辛抱で、もうちとどうにかしたのがありましょう。」  実は、この段、囁き合って、ちょうどそこが三岐の、一方は裏山へ上る山岨の落葉の径。一方は崖を下る石ころ坂の急なやつ。で、その下りる方へ半町ばかりまた足探り試みたのであるが、がけの陰になって、暗さは暗し、路は悪し、灯は遠し、思切って逆戻りにその饂飩屋を音訪れたのであった。 「御免なさい。」  と小村さんが優しい穏な声を掛けて、がたがたがたと入ったが、向うの対手より土間の足許を俯向いて視つつ、横にとぼとぼと歩行いた。  灯が一つ、ぼうと赤く、宙に浮いたきりで何も分らぬ。釣ランプだが、火屋も笠も、煤と一所に油煙で黒くなって正体が分らないのであった。  が凝視める瞳で、やっと少しずつ、四辺の黒白が分った時、私はフト思いがけない珍らしいものを視た。        二  框の柱、天秤棒を立掛けて、鍋釜の鋳掛の荷が置いてある──亭主が担ぐか、場合に依ってはこうした徒の小宿でもするか、鋳掛屋の居るに不思議はない。が、珍らしいと思ったのは、薄汚れた鬱金木綿の袋に包んで、その荷に一挺、紛うべくもない、三味線を結え添えた事である。  話に聞いた──谷を深く、麓を狭く、山の奥へ入った村里を廻る遍路のような渠等には、小唄浄瑠璃に心得のあるのが少くない。行く先々の庄屋のもの置、村はずれの辻堂などを仮の住居として、昼は村の註文を集めて仕事をする、傍ら夜は村里の人々に時々の流行唄、浪花節などをも唄って聞かせる。聞く方では、祝儀のかわりに、なくても我慢の出来る、片手とれた鍋の鋳掛も誂えるといった寸法。小児に飴菓子を売って一手踊ったり、唄ったり、と同じ格で、ものは違っても家業の愛想──盛場の吉原にさえ、茶屋小屋のおかっぱお莨盆に飴を売って、爺やあっち、婆やこっち、おんじゃらこっちりこ、ぱあぱあと、鳴物入で鮹とおかめの小人形を踊らせた、おん爺があったとか。同じ格だが、中には凄いような巧いのがあるという。  唄いながら、草や木の種子を諸国に撒く。……怪しい鳥のようなものだと、その三味線が、ひとりで鳴くように熟と視た。 「相談は整いました。」 「それは難有い。」 「きあ、二階へどうぞ……何しろ汚いんでございますよ。」  と、雨もりのような形が動くと、紺の上被を着た婦になって、ガチリと釣ランプを捻って離して、框から直ぐの階子段。  小村さんが小さな声で、 「何しろこの体なんですから。」 「結構ですとも、行暮れました旅の修行者になりましょうね。」 「では、そのおつもりで──さあ、上りましょう。」  と勢よく、下駄を踏違えるトタンに、 「あっ、」と言った。  きゃんきゃんきゃん、クイ、キュウと息を引いて、きゃんきゃんきゃん、クイ、クウン、きゅうと鳴く。  見事に小狗を踏つけた。小村さんは狼狽えながら、穴を覗くように土間を透かして、 「御免よ……御免よ……仕方がない、御免なさいよ。」  で、遁げないばかりに階子を上ると、続いた私も、一所にぐらぐらと揺れるのに、両手を壇の端にしっかり縋った。二階から女房が、 「お気をつけなさいましよ……お頭をどうぞ……お危うございますよ、お頭を。」 「何に。」  吻としながら、小村さんは気競ったように、 「踏着けられた狗から見りゃ、頭を打つけるなんぞ何でもない。」  日頃、沈着な、謹み深いのがこれだから、余程周章てたに違いない。  きゃんきゃんきゃん、クイッ、キュウ、きゃんきゃんきゃん、と断々に、声が細って泣止まない。 「身に沁みますね、何ですか、狐が鳴いてるように聞えます。」  木地の古びたのが黒檀に見える、卓子台にさしむかって、小村さんは襟を合せた。  件の油煙で真黒で、ぽっと灯の赤いランプの下に畏って、動くたびに、ぶるぶると畳の震う処は天変に対し、謹んで、日蝕を拝むがごとく、少なからず肝を冷しながら、 「旅はこれだから可いんです。何も話の種です。……話の種と言えばね、小村さん。」  と、探らないと顔が分らぬ。 「はあ。」 「何ですか、この辺には、あわれな、寂しい、物語がありそうな処ですね。あの、月宵鄙物語というのがあります、御存じでしょうけれど。」 「いいえ。」 「それはね、月見の人に、木曾の麻衣まくり手したる坊さん、というのが、話をする趣向になっているんですがね。(更科山の月見んとて、かしこに罷登りけるに、大なる巌にかたかけて、肘折れ造りたる堂あり。観音を据え奉れり。鏡台とか云う外山に向いて、)……と云うんですから、今の月見堂の事でしょう。……きっとこの崖の半腹にありましょうよ。……そこの高欄におしかかりながら、月を待つ間のお伽にとて、その坊さんが話すのですが、薗原山の木賊刈、伏屋里の箒木、更科山の老桂、千曲川の細石、姨捨山の姥石なぞッて、標題ばかりでも、妙にあわれに、もの寂しくなるのです。皆この辺の、山々谷々の事なんでしょう。何にしろ、 信濃なる千曲の川のさゞれ石も     君しふみなば玉とひろはん  と言う場所なんですもの。──やあ、明るくなった。」  と思わず言った。  釣ランプが、真新しい、明いのに取換ったのである。 「お待遠様、……済みません。」 「どういたしまして、飛んだ御無理をお願い申して。」  女房は崩れた鬢の黒い中から、思いのほか白い顔で莞爾して、 「私どもでは難有いんでございますけれども、まあ、何しろ、お月様がいらっしって下さると可いんですけれども。」  その時、一列に蒲鉾形に反った障子を左右に開けると、ランプの──小村さんが用心に蔓を圧えた──灯が一煽、山気が颯と座に沁みた。 「一昨晩の今頃は、二かさも三かさも大い、真円いお月様が、あの正面へお出なさいましてございますよ。あれがね旦那、鏡台山でございますがね、どうも暗うございまして。」 「音に聞いた。どれ、」  と立つと、ぐらぐらとなる…… 「おっと。」  欄干につかまって、蝸牛という身で、背を縮めながら首を伸ばし、 「漆で塗ったようだ、ぼっと霧のかかった処は研出しだね。」  宵の明星が晃然と蒼い。 「あの山裾が、左の方へ入江のように拡がって、ほんのり奥に灯が見えるでございましょう。善光寺平でございましてね。灯のありますのは、善光寺の町なんでございますよ。」 「何里あります。」 「八里ございます。」 「ははあ。」 「真下の谷底に、ちらちらと灯が見えましょう、あそこが、八幡の町でございましてね、お月見の方は、あそこから、皆さんが支度をなすって、私どもの裏の山へお上りになりますんでございますがね。鏡台山と、ちょうどさし向いになっております──おお、冷えますこと、……唯今お火鉢を。」 「小村さん、寸法は分りました、どうなすったんです、景色も見ないで。」  と座に戻ると、小村さんは真顔で膝に手を置いて、 「いえ、その縁側に三人揃って立ったんでは、桟敷が落ちそうで危険ですから。」 「まったく、これで猿楽があると、……天狗が揺り倒しそうな処です。可恐しいね。」  と二人は顔を見合せた。  が、註文通り、火鉢に湯沸が天上して来た、火も赫と──この火鉢と湯沸が、前に言った正札つきなる真新しいのである。酒も銚子だけを借りて、持参の一升壜の燗をするのに、女房は気障だという顔もせず、お客冥利に、義理にうどんを誂えれば、乱れてもすなおに銀杏返の鬢を振って、 「およしなさいまし、むだな事でございます。おしたじが悪くって、めしあがられやしませんから。……何ぞお香のものを差上げましょう。」  その心意気。 「難有い。」  と熱燗三杯、手酌でたてつけた顔を撫でて、 「おかみさん。」  杯をずいとさして、 「一つ申上げましょう、お知己に……」 「私は一向に不調法ものでございまして。」 「まあ一盞。」 「もう、全く。」 「でも、一盞ぐらい、お酌をしましょう。」  と小村さんが銚子を持ったのに、左右に手を振って、辷るように、しかも軋んで遁げ下りる。 「何だい。」 「毒だとでも思いましたかね。してみると、お互の人相が思われます。おかみさん一人きりなんでしょうかしら。」 「泊りましょうか。」 「御串戯を。」  クイッ、キュウ、クック──と……うら悲げに、また聞える。 「弱りました。あの狗には。」  と小村さんはまた滅入った。  のしのしみしり、大皿を片手に、そこへ天井を抜きそうに、ぬいと顕れたのは、色の黒い、いが栗で、しるし半纏の上へ汚れくさった棒縞の大広袖を被った、から脛の毛だらけ、図体は大いが、身の緊った、腰のしゃんとした、鼻の隆い、目の光る……年配は四十余で、稼盛りの屈竟な山賊面……腰にぼッ込んだ山刀の無いばかり、あの皿は何んだ、へッへッ、生首二個受取ろうか、と言いそうな、が、そぐわないのは、頤に短い山羊髯であった。 「御免なせえ……お香のものと、媽々衆が気前を見せましたが、取っておきのこの奈良漬、こいつあ水ぽくてちと中でがす。菜ッ葉が食えますよ。長蕪てッて、ここら一体の名物で、異に食えまさ、めしあがれ。──ところで、媽々衆のことづてですがな。せつかく御酒を一つと申されたものを、やけな御辞退で、何だかね、南蛮秘法の痲痺薬……あの、それ、何とか伝三熊の膏薬とか言う三題噺を逆に行ったような工合で、旦那方のお酒に毒でもありそうな様子合が、申訳がございません。で、居候の私に、代理として一杯、いんえただ一つだけ。おしるしに頂戴してくれるようにと申すんで、や、も、御覧の通、不躾ながら罷出ました。実はね、媽々衆、ああ見えて、浮気もんでね、亭主は旅稼ぎで留守なり、こちらのお若い方のような、おッこちが欲しさに、酒どころか、杯を禁っておりますんでね。はッはッはッ。」  階子の下から、伸上った声がして、 「馬鹿な事を言わねえもんだ。」  と、むきになると、まるだしの田舎なまり。 「真鍮台め。」と言った。 「……真鍮台?……」  聞くと……真鍮台、またの名を銀流しの藤助と言う、金箔つきの鋳掛屋で、これが三味線の持ぬしであった。面構でも知れる……このしたたかものが、やがて涙ぐんで……話したのである。        三 「私はね、旦那。まだその時分、宿を取っちゃあいなかったんでございます、居酒屋、といった処で、豆腐も駄菓子も突くるみに売っている、天井に釣した蕃椒の方が、燈よりは真赤に目に立つてッた、皺びた店で、榾同然の鰊に、山家片鄙はお極りの石斑魚の煮浸、衣川で噛しばった武蔵坊弁慶の奥歯のようなやつをせせりながら、店前で、やた一きめていた処でございましてね。  ちょっと私の懐中合と、鋳掛屋風情のこの容体では、宿が取悪かったんでございますよ。というのが、焼山の下で、パッと一くべ、おへッつい様を燃したも同じで、山を越しちゃあ、別に騒動も聞えなかったんでございますが、五日ばかり前に、その温泉に火事がありました。ために、木賃らしい、この方に柄相当のなんぞ焼けていて、二三軒残ったのは、いずれも玄関附だからちとたじろいだ次第なんでございますが。  ええ……温泉でございますか、名は体をあらわすとか言います、とんだ山中で、……狼温泉──」  「ああ、どこか、三峰山の近所ですか。」  と、かつて美術学校の学生時代に、そのお山へ抜参りをして、狼よりも旅費の不足で、したたか可恐い思いをした小村さんは、聞怯をして口を入れた……噛むがごとく杯を銜みながら、 「あすこじゃあ、お狗様と言わないと山番に叱られますよ。」  藤助は真顔で、微酔の頭を掉った。 「途方もねえ、見当違い、山また山を遥に離れた、峰々、谷々……と言えばね、山の中に島々と言う処がありまさ、おかしいね。いやもっと、深い、松本から七里も深へ入った、飛騨の山中──心細い処で……それでも小学校もありゃ、郵便局もありましたっけが、それなんぞも焼けていたんでございましてね。  山坂を踏越えて、少々平な盆地になった、その温泉場へ入りますと、火沙汰はまた格別、……酷いもので、村はずれには、落葉、枯葉、焼灰に交って、獦子鳥、頬白、山雀、鶸、小雀などと言う、紅だ、青だ、黄色だわ、紫の毛も交って、あの綺麗な小鳥どもが、路傍にはらはらと落ちている。こいつあ、それ、時節が今頃になりますと、よく、この信州路、木曾街道の山家には、暗い軒に、糸で編んで、ぶら下げて、美しい手鞠が縺れたように売ってるやつだて。それが、お前さん、火事騒ぎに散らかったんで──驚いたのは、中に交って、鴛鴦が二羽……番かね。……  や、頂きます、ト、ト、ごぜえやさ。」  と小村さんの酌を、蓋するような大な掌で請けながら、 「どうもね、捨って抱きたいようでがしたぜ。まさか、池に泳いだり、樹に眠ったのが、火の粉を浴びはしますめえ。売ものが散らばりましたか、真赤に染った木の葉を枕で、目を眠っていましたよ。  天秤棒一本で、天井へ宙乗でもするように、ふらふらふらふら、山から山を経歴って……ええちょうど昨年の今月、日は、もっと末へ寄っておりましたが──この緋葉の真最中、草も雲も虹のような彩色の中を、飽くほど視て通った私もね、これには足が停りました。  なんと……綺麗な、その翼の上も、一重敷いて、薄り、白くなりました。この景色に舞台が換って、雪の下から鴛鴦の精霊が、鬼火をちらちらと燃しながら、すっと糶上ったようにね、お前さん……唯今の、その二人の婦が、私の目に映りました。凄いように美しゅうがした。」  と鋳掛屋は、肩を軟に、胸を低うして、更めて私たち二人を視たが、 「で、山路へ掛る、狼温泉の出口を通るんでございますが、場所はソレ件の盆地だ。私が飲んでいました有合御肴というお極りの一膳めしの前なんざ、小さな原場ぐらい小広うございますのに──それでも左右へ並ばないで、前後になって、すっと連立って通ります。  前へ立ったのは、蓑を着て、竹の子笠を冠っていました。……端折った片褄の友染が、藁の裙に優しくこぼれる、稲束の根に嫁菜が咲いたといった形。ふっさりとした銀杏返が耳許へばらりと乱れて、道具は少し大きゅうがすが、背がすらりとしているから、その眉毛の濃いのも、よく釣合って、抜けるほど色が白い、ちと大柄ではありますが、いかにも体つきの嫋娜な婦で、 (今晩は。)  と、通掛りに、めし屋へ声を掛けて行きました。が、𤏋と燃えてる松明の火で、おくれ毛へ、こう、雪の散るのが、白い、その頬を殺ぐようで、鮮麗に見えて、いたいたしい。  いたいたしいと言えば、それがね、素足に上草履。あの、旅店で廊下を穿かせる赤い端緒の立ったやつで──しっとりとちと沈んだくらい落着いた婦なんだが、実際その、心も空になるほど気の揉めるわけがあって──思い掛けず降出した雪に、足駄でなし、草鞋でなし、中ぶらりに右のつッかけ穿で、ストンと落ちるように、旅館から、上草履で出たと見えます。……その癖、一生の晴着というので、母さん譲りの裙模様、紋着なんか着ていました。  お話をしますうちに、仔細は追々おわかりになりますが──これが何でさ、双葉屋と言って、土地での、まず一等旅館の女中で、お道さんと言う別嬪、以前で申せば湯女なんだ。  いや、湯女に見惚れていて、肝心の御婦人が後れました。もう一人の方は、山茶花と小菊の花の飛模様のコオトを着て、白地の手拭を吹流しの……妙な拵だと思えば……道理こそ、降りかゝる雪を厭ったも。お前さん、いま結立てと見える高島田の水の滴りそうなのに、対に照った鼈甲の花笄、花櫛──この拵じゃあ、白襟に相違ねえ。お化粧も濃く、紅もさしたが、なぜか顔の色が透き通りそうに血が澄んで、品のいいのが寂しく見えます。華奢な事は、吹つけるほどではなくても、雪を持った向風にゃ、傘も洋傘も持切れますめえ、被りもしないで、湯女と同じ竹の子笠を胸へ取って、襟を伏せて、俯向いて行きます。……袖の下には、お位牌を抱いて葬礼の施主に立ったようで、こう正しく端然とした処は、視る目に、神々しゅうございます。何となく容子が四辺を沈めて、陰気だけれど、気高いんでございますよ。  同じ人間もな……鑄掛屋を一人土間で飲らして、納戸の炬燵に潜込んだ、一ぜん飯の婆々媽々などと言う徒は、お道さんの(今晩は。)にただ、(ふわ、)と言ったきりだ。顔も出さねえ。その(ふわ、)がね、何の事アねえ、鼠の穴から古綿が千断れて出たようだ。」 「ちと耳が疼いだな。」  と饂飩屋の女房が口を入れた、──女房は鋳掛屋の話に引かれて、二階の座に加わっていたのである。 「そのかわり大まかなものだよ。店の客人が、飲さしの二合壜と、もう一本、棚より引攫って、こいつを、丼へ突込んで、しばらくして、婦人たちのあとを追ってぶらりと出て行くのに、何とも言わねえ。山は深い、旦那方のおっしゃる、それ、何とかって、山中暦日なしじゃあねえ、狼温泉なんざ、いつもお正月で、人間がめでてえね。」 「ははあ。」 「成程。」  私たちは、そんな事は徒に聞いて、さきを急いだ。 「荷はどうしたよ。」  と女房が笑って言った。 「ほい忘れた。いや、忘れたんじゃあねえ、一ぜん飯に置放しよ。」 「それ見たか、あんな三味線だって、壜詰二升ぐらいな値はあるでござんさあ、なあ、旦那方。」 「うむ、まったくな。」  と藤助は額を圧えて、 「おめでてえのはこっちだっけ、はッはッはッ。」        四 「さて旦那方、洒落や串戯じゃあねえんでございます。……御覧の通り人間の中の変な蕈のような、こんな野郎にも、不思議なまわり合せで、その婦たちのあとを尾けて行かなけりゃならねえ一役ついていたのでございましてね。……乗掛った船だ。鬱陶しくもお聞きなせえ。」  すっとこ被りで、  襟を敲いて、 「どんつくで出ましたわ……見えがくれに行く段取だから、急ぐにゃ当らねえ。別して先方は足弱だ。はてな、ここらに色鳥の小鳥の空蝉、鴛鴦の亡骸と言うのが有ったっけと、酒の勢、雪なんざ苦にならねえが、赤い鼻尖を、頬被から突出して、へっぴり腰で嗅ぐ工合は、夜興引の爺が穴一のばら銭を探すようだ。余計な事でございますがね──性が知れちゃいましても、何だか、婦の二人の姿が、鴛鴦の魂がスッと抜出したようでなりませんや。この辺だっけと、今度は、雪まじりに鳥の羽より焼屑が堆い処を見着けて、お手向にね、壜の口からお酒を一雫と思いましたが、待てよと私あ考えた、正覚坊じゃアあるめえし、鴛鴦が酒を飲むやら、飲ねえやら。いっその事だと、手前の口へね、喇叭と遣った……こうすりゃ鳥の精がめしあがると同じ事だと……何しろ腹ン中は鴛鷲で一杯でございました。」  女房が肥った膝で、畳に当って、 「藤助さんよ。」 「ああ。」 「酒の話じゃあないじゃあないかね、ねえ、旦那方。」 「何しろ、そこで。」  と、促せば、 「と二人はもう雑木林の崖に添って、上りを山路に懸っています。白い中を、ふつふつと、真紅な鳥のたつように、向うへ行く。……一軒、家だか、穴だか知れねえ、えた、非人の住んでいそうな、引傾いだ小屋に、筵を二枚ぶら下げて、こいつが戸になる……横の羽目に、半分ちぎれた浪花節の比羅がめらめらと動いているのがありました、それが宿はずれで、もう山になります。峠を越すまで、当分のうち家らしいものはございませんや。  水の音が聞えます。ちょろちょろ水が、青いように冷く走る。山清水の小流のへりについてあとを慕いながら、いい程合で、透かして見ると、坂も大分急になった石磈道で、誰がどっちのを解いたか、扱帯をな、一条、湯女の手から後に取って、それをその少い貴婦人てった高島田のが、片手に控えて縋っています……もう笠は外して脊へ掛けて……絞の紅いのがね、松明が揺れる度に、雪に薄紫に颯と冴えながら、螺旋の道条にこう畝ると、そのたびに、崖の緋葉がちらちらと映りました、夢のようだ。  視る奴の方が夢のようだから、御当人たちは現かも知れねえ。  でその二人は、そうやって、雪の夜道を山坂かけて、どこへ行くんだと思召す。  ここだて──旦那。」  藤助は息継に呷と煽って、 「この二階から、鏡台山を──(少し薄明りが映しますぜ、月が出ましょう。まあ、御緩りなさいまし、)──それ、こうやって視るように、狼温泉の宿はずれの坂から横正面といった、肩でこう捻向いて高く上を視る処に、耳はねえが、あのトランプのハアト形に頭を押立った梟ヶ嶽、梟、梟と一口に称えて、何嶽と言うほどじゃねえ、丘が一座、その頂辺に、天狗の撞木杖といった形に見える、柱が一本。……風の吹まわしで、松明の尖がぼっと伸びると、白くなって顕れる時は、耶蘇の看板の十字架てったやつにも似ている……こりゃ、もし、電信柱で。  蔭に隠れて見えねえけれど、そこに一張天幕があります。何だと言うと、火事で焼けたがために、仮ごしらえの電信局で、温泉場から、そこへ出張っているのでございます。  そこへ行くんだね、婦二人は。  で、その郵便局の天幕の裡に、この湯女の別嬪が、生命がけ二年越に思い詰めている技手の先生……ともう一人は、上州高崎の大資産家の若旦那で、この高島田のお嬢さんの婿さんと、その二人が、いわれあって、二人を待って、対の手戟の石突をつかないばかり、洋服を着た、毘沙門天、増長天という形で、五体を緊めて、殺気を含んで、呼吸を詰めて、待構えているんでがしてな。  お嬢さんの方は、名を縫子さんと言うんで、申さずとも娘ッ子じゃありません、こりゃ御新姐……じゃあねえね──若奥様。」        五 峰の白雪、麓の氷、 今は互に隔てていれど、 やがて嬉しく、溶けて流れて、 合うのじゃわいな。…… 「私は日暮前に、その天幕張の郵便局の前を通って来たんでございますよ。……ちょうど狼の温泉へ入込みます途中でな。……晩に雪が来ようなどとは思いも着かねえ、小春日和といった、ぽかぽかした好い天気。……  もっとも、甲州から木曾街道、信州路を掛けちゃあ、麓の岐路を、天秤で、てくてくで、路傍の木の葉がね、あれ性の、いい女の、ぽうとなって少し唇の乾いたという容子で、へりを白くして、日向にほかほかしていて、草も乾燥いで、足のうらが擽ってえ、といった陽気でいながら、槍、穂高、大天井、やけに焼ヶ嶽などという、大薩摩でもの凄いのが、雲の上に重って、天に、大波を立てている、……裏の峰が、たちまち颯と暗くなって、雲が被ったと思うと、箕で煽るように前の峰へ畝りを立ててあびせ掛けると、浴びせておいて晴れると思えば、その裏の峰がもう晴れた処から、ひだを取って白くなります。見る見るうちに雪が掛るんでございましてね。左右の山は、紅くなったり、黄色かったり、酔ったり、醒めたりして、移って来るそのむら雲を待っている。  といった次第で、雪の神様が、黒雲の中を、大な袖を開いて、虚空を飛行なさる姿が、遠くのその日向の路に、螽斯ほどの小さな旅のものに、ありありと拝まれます。  だから、日向で汗ばむくらいだと言った処で、雑樹一株隔てた中には、草の枯れたのに、日が映すかと見れば、何、瑠璃色に小さく凝った竜胆が、日中も冷い白い霜を噛んでいます。  が、陽の赤い、その時梟ヶ嶽は、猫が日向ぼっこをしたような形で、例の、草鞋も脚絆も擽ってえ。……満山のもみじの中に、もくりと一つ、道も白く乾いて、枯草がぽかぽかする。……芳しい落葉の香のする日の影を、まともに吸って、くしゃみが出そうなのを獅噛面で、 (鋳掛……錠前の直し。)  すくッと立った電信柱に添って、片枝折れた松が一株、崖へのしかかって立っています、天幕張だろうが、掘立小屋だろうが、人さえ住んでいれば家業冥利…… (鋳掛……錠前直し。)……  と、天幕とその松のあります、ちょっと小高くなった築山てった下を……温泉場の屋根を黒く小さく下に見て、通りがかりに、じろり……」  藤助は、ぎょろりとしながら、頬辺を平手で敲いて、 「この人相だ、お前さん、じろりとよりか言いようはねえてね、ト行った時、はじめて見たのが湯女のその別嬪だ。お道さんは、半襟の掛った縞の着ものに、前垂掛、昼夜帯、若い世話女房といった形で、その髪のいい、垢抜のした白い顔を、神妙に俯向いて、麁末な椅子に掛けて、卓子に凭掛って、足袋を繕っていましたよ、紺足袋を…… (鋳掛……錠前の直し。)……  ちょっと顔を上げて見ましたっけ。直に、じっと足袋を刺すだて。  動いただけになお活きて、光沢を持った、きめの細な襟脚の好さなんと言っちゃねえ。……通り切れるもんじゃあねえてね、お前さん、雲だか、風だか、ふらふらと野道山道宿なしの身のほまちだ。  一言ぐらい口を利いて、渋茶の一杯も、あのお手からと思いましたがね、ぎょっとしたのは半分焦げたなりで天幕の端に真直に立った看板だ。電信局としてある……  茶屋小屋、出茶屋の姉さんじゃあねえ。風俗はこの目で確に睨んだが……おやおや、お役人の奥様かい。……郵便局員の御夫人かな。  これが旦那方だと仔細ねえ。湯茶の無心も雑作はねえ。西行法師なら歌をよみかける処だが、山家めぐりの鋳掛屋じゃあ道を聞くのも跋が変だ。  ところで、椅子はまだ二三脚、何だか、こちとらにゃ分らねえが、ぴかぴか機械を据附けた卓子がもう一台。向ってきちんと椅子が置いてあるが、役人らしいのは影も見えねえ。  ははあ、来る道で、向の小山の土手腹に伝わった、電信の鋼線の下あたりを、木の葉の中に現れて、茶色の洋服で棒のようなものを持って、毛虫が動くように小さく歩行いている形を視た。……鉄砲打の鳥おどしかと思ったが、大きにそんなのが局員の先生で、この姉さんの旦那かも知れねえよ。  が何しろ留守だ。 (鋳掛……錠前直し。)……  と崖ぶちの日向に立ったが、紺足袋の繕い。……雪の襟脚、白い手だ。悚然とするほど身に沁みてなりませんや。  遥に見える高山の、かげって桔梗色したのが、すっと雪を被いでいるにつけても。で、そこへまず荷をおろしました。 (や、えいとこさ。)と、草鞋の裏が空へ飜るまで、山端へどっしりと、暖かい木の葉に腰を落した。  間拍子もきっかけも渡らねえから、ソレ向うの嶽の雪を視ながら、 (ああ、降ったる雪かな。)  とか何とか、うろ覚えの独言を言ってね、お前さん、 (それ、雪は鵝毛に似て飛んで散乱し、人は鶴氅を着て立って徘徊すと言えり……か。)  なんのッて、ひらひらと来る紅色の葉から、すぐに吸いつけるように煙草を吹かした。が、何分にも鋳掛屋じゃあ納りませんな。  ところでさて、首に巻いた手拭を取って、払いて、馬士にも衣裳だ、芳原かぶりと気取りましたさ。古三味線を、チンとかツンとか引掻鳴らして、ここで、内証で唄ったやつでさ。 峰の白雪、麓の氷──  旦那、顔を見っこなし……極が悪い……何と、もし、これで別嬪の姉さんを引寄せようという腹だ、おかしな腹だ、狸の腹だね。  だが、こいつあこちとら徒の、すなわち狸の腹鼓という甘術でね。不気味でも、気障でも、何でも、聞く耳を立てるうちに、うかうかと釣出されずにゃいねえんだね。どうですえ、……それ、来ました。」  と不意に振向く、階子段の暗い穴。  小村さんも私も慄然した。  女房はなおの事…… 「あれ、吃驚した。」  と膝で摺寄る。  藤助は一笑して、 「まずは、この寸法でございましてね、お道さんを引寄せた工合というのが、あはッはッ。」        六 「見ない振、知らない振、雪の遠山に向いて、……溶けて流れてと、唄っていながら、後方へ来るのが自然と分るね、鹿の寄るのとは違います。……別嬪の香がほんのりで、縹緻に打たれて身に沁む工合が、温泉の女神様が世話に砕けて顕れたようでございましたぜ。……(逢いたさに見たさに)何とか唄って、チャンと句切ると、 (あの、鋳掛屋さん。)  と、初音だね。……  視ると、朱塗の盆に、吸子、茶碗を添えて持っている。黒繻子の引掛帯で、浅葱の襟のその様子が何とも言えねえ。  いえ、もう一つ、盆の上に、紙に包んだ蝶々というのが載っていました。……それがために讃めるんじゃあねえけれど、拵えねえで、なまめいたもんでしたぜ。人を喰ったこっちの芳原かぶりなんざ、もの欲しそうで極りが悪くなったくらいで。 (へい、へい、へい、こりゃ奥様、恐入りました。)  とわざとらしくも、茶碗をな、両手で頂かずにゃいられなかった。  姉さんが、初々しい、しおらしい事を、お聞きなせえ、ぽうッとなって、 (まあ、あんな事、私は奉公人なんですよ。)  さ、その奉公人風情が、生意気のようだけれど、唄をもう一つ唄って聞かしてもらえまいか、と言うんじゃありませんかい。お眺が註文にはまった。こんな処でよろしければ、山で樹の数、幾つだって構やあしませんと、……今度は(浮世はなれて奥山ずまい、恋もりん気も忘れていたが、)……で御機嫌を取結ぶと、それよりか、やっぱり、先の(やがて嬉しく溶けて流れて合うのじゃわいな)の方を聞かして欲しいと、山姫様、御意遊ばす。」  藤助は杯でちょっと句切って、眉も口も引緊った。 「旦那方の前でございますがね、こう中腰に、〆加減の好い帯腰で、下に居て、白い細い指の先を、染めた草につくようにして熟と聞く。……聞手が、聞手だ。唄う方も身につまされて、これでもお前さん、人間交際もすりゃ、女出入も知らねえじゃあねえ。少い時を思い出して、何となく、我身ながら引入れられて、……覚えて、ついぞねえ、一生に一度だ。較べものにゃあなりませんが、むかし琵琶法師の名誉なのが、こんな処で草枕、山の神様に一曲奏でた心持。  と姉さんがとけて流れて合うのじゃわいなと、きき入りながら、睫毛を長くうつむいて、ほろりとした時、こっらも思わず、つい、ほろり……いえさ、この面だからポタリと出ました。」  と口では言いつつ声が湿った。 「(つかん事を聞きますけれど、鋳掛屋さん、錠の合鍵を頼まれて下さいますか。)……と姉さんがね。  私あこれを聞いて、ポンと両手を拍った。  このくらいつく事は、私の唄が三味線につくようなもんじゃあねえ。 (鍵が狂ったんでございますかい。) (いいえ、無いんですけれど。) (雑作はがあせん、煙草三服飲む間だ。)  そこで錠前を見て、という事になると、ちと内証事らしい。……しとやかな姉さんが、急に何だか、そわついて、あっちこっち眗しましたが、高い処にこう立つと、風が攫って、すっと、雲の上へ持って行きそうで危ッかしいように見えます。  勿論人影は、ぽッつりともない。  が、それでも、天幕の正面からじゃあ、気咎めがしたと見えて、 (済みませんが、こっちから。)  裏へ廻わると、綻びた処があるので。……姉さんは科よく消えたが、こっちは自雷也の妖術にアリャアリャだね。列子という身で這込みました。が、それどころじゃあねえ。この錠前だと言うのを一見に及ぶと、片隅に立掛けた奴だが、大蝦蟆の干物とも、河馬の木乃伊とも譬えようのねえ、皺びて突張って、兀斑の、大古物の大かい革鞄で。  こいつを、古新聞で包んで、薄汚れた兵児帯でぐるぐると巻いてあるんだが、結びめは、はずれて緩んで、新聞もばさりと裂けた。そこからそれ、煤を噴きそうな面を出して、蘆の茎から谷覗くと、鍵の穴を真黒に窪ましているじゃアありませんか。 (何が入っておりますえ。)  失礼な……人様の革鞄を……だが、私あつい、うっかり言った。 (あの、旦那さんのお大事なものばかり。) (へい、貴女の旦那様の?) (いいえ、技師の先生の方ですが、その方のお大事なものが残らず、お国でおかくれになりました奥様のお骨も、たったお一人ッ子の、かけがえのない坊ちゃまのお骨も、この中に入っていらっしゃるんですって。)  と、こう言うんですね。」  小村さんと私は、黙って気を引いて瞳を合した。  藤助は一息ついて、 「それを聞いて、安心をしたくらいだ。技師の旦那の奥様と坊ちゃまのお骨と聞いて、安心したも、おかしなものでございますがね、一軒家の化葛籠だ、天幕の中の大革鞄じゃあ、中に何が入ってるか薄気味が悪かったんで。 (へい、その鍵をおなくしなすった……そいつはお困りで、)  と錠前の寸法を当りながら、こう見ますとね、新聞のまだ残った処に、青錆にさびた金具の口でくいしめた革鞄の中から、紫の袖が一枚。……  袂が中に、袖口をすんなり、白羽二重の裏が生々と、女の膚を包んだようで、被た人がらも思われる、裏が通って、揚羽の蝶の紋がちらちらと羽を動かすように見えました。」  小村さんと私とは、じっと見合っていたままの互の唇がぶるぶると震えたのである。        七  ──実はこの時から数えて前々年の秋、おなじ小村さんと、(連がもう一人あった。)三人連で、軽井沢、碓氷のもみじを見た汽車の中に、まさしく間違うまい、これに就いた事実があって、私は、不束ながら、はじめ、淑女画報に、「革鞄の怪。」後に「片袖。」と改題して、小集の中に編んだ一篇を草した事がある。  確に紫の袖の紋も、揚羽の蝶と覚えている。高島田に花笄の、盛装した嫁入姿の窈窕たる淑女が、その嫁御寮に似もつかぬ、卑しげな慳のある女親まじりに、七八人の附添とともに、深谷駅から同じ室に乗組んで、御寮はちょうど私たちの真向うの席に就いた。まさに嫁がんとする娘の、嬉しさと、恥らいと、心遣と、恐怖と、笑と、涙とは、そのまま膝に手を重ねて、つむりを重たげに、ただ肩を細く、さしうつむいた黒髪に包んで、顔も上げない。まことにしとやかな佳人であった。  この片袖が、隣席にさし置かれた、他の大革鞄の口に挟まったのである。……失礼ながらその革鞄は、ここに藤助が饒舌るのと、ほぼ大差のないものであった。  が、持ぬしは、意気沈んで、髯、髪もぶしょうにのび、面は憔悴はしていたが、素純にして、しかも謹厳なる人物であった。  汽車の進行中に、この出来事が発見された時、附添の騒ぎ方は……無理もないが、思わぬ麁匇であろう、失策した人物に対して、傍の見る目は寧ろ気の毒なほどであった。  一も二もない、したたかに詫びて、その革鞄の口を開くので、事は決着するに相違あるまい。  我も人も、しかあるべく信じた。  しかるにもかかわらず、その人物は、人々が騒いで掛けた革鞄の手の中から、すかりと握拳の手を抜くと斉しく、列車の内へすっくと立って、日に焼けた面は瓦の黄昏るるごとく色を変えながら、決然たる態度で、同室の御婦人、紳士の方々、と室内に向って、掠声して言った。……これなる窈窕たる淑女(──私もここにその人物の言った言を、そのまま引用したのであるが)窈窕たる淑女のはれ着の袖を侵したのは偶然の麁匇である。はじめは旅行案内を掴出して、それを投込んで錠を下した時に、うっかり挟んだものと思われる。が、それを心着いた時は──と云って垂々と額に流るる汗を拭って──ただ一瞬間に千万無量、万劫の煩悩を起した。いかに思い、いかに想っても、この窈窕たる淑女は、正しく他に嫁せらるるのである……ばかりでない、次か、あるいはその次の停車場にて下車なさるるとともにたちまち令夫人とならるる、その片袖である。自分は生命を掛けて恋した、生命を掛くるのみか、罪はまさに死である、死すともこの革鞄の片袖はあえて離すまいと思う。思い切って鍵を棄てました。私はこの窓から、遥に北の天に、雪を銀襴のごとく刺繍した、あの遠山の頂を望んで、ほとんど無辺際に投げたのです、と言った。  ──汽車は赤城山をその巽の窓に望んで、広漠たる原野の末を貫いていたのであった。──  渠は電信技師である。立野竜三郎と自ら名告った。渠はもとより両親も何もない、最愛の児を失い、最愛の妻を失って、世を果敢むの余り、その妻と子の白骨と、ともに、失うべからざるものの一式、余さずこの古革鞄に納めた、むしろ我が孤の煢然たる影をも納めて、野に山に棄つるがごとく、絶所、僻境を望んで飛騨山中の電信局へ唯今赴任する途中である。すでに我身ながら葬り去った身は、ここに片袖とともに蘇生った。蘇生ると同時に、罪は死である。否、死はなお容易い、天の咎、地の責、人の制規、いかなる制裁といえども、甘んじて覚悟して相受ける。各位が、我ために刑を撰んで、その最も酷なのは、磔でない、獄門でない、牛裂の極刑でもない。この片袖を挟んだ古革鞄を自分にぶら下げさせて、嫁御寮のあとに犬のごとく従わせて、そのまま今日の婿君の脚下に拝し跪かせらるる事である。諾、その厳罰を蒙りましょう、断じて自分はこの革鞄を開いて片袖は返さぬのである。ただ、天地神明に誓うのは、貴女の淑徳と貞潔である。自分は生れてより今に及んで、その姿を視たのはわずかに今より前、約三十分に過ぎない、……包ましくさしうつむかれた淑女は、申すまでもなく、自分に向って瞳をも動かされなかった事を保証する、──謹んで断罪を待ちます……各位。  吶々として、しかも沈着に、純真に、縷々この意味の数千言を語ったのが、轟々たる汽車の中に、あたかも雷鳴を凌ぐ、深刻なる独白のごとく私たちの耳に響いた。  附添の数多の男女は、あるいは怒り、あるい罵り、あるいは呆れ、あるいは呪詛った。が、狼狽したのは一様である。車外には御寮を迎の人数が満ちて、汽車は高崎に留まろうとしたのであるから……  既に死灰のごとく席に復して瞑目した技師がその時再び立った。ここに手段があります、天が命ずるにあらず、地が教うるにあらず、人の知れるにあらず、ただ何ものの考慮とも分らない手段である……すなわち小刀をもって革鞄を切開く事なのです。……私は拒みません。刀ものは持合せました、と云って、鞘をパチンと抜いて渡したのを、あせって震える手に取って、慳相な女親が革鞄の口を切裂こうとして、屹と猜疑の瞳を技師に向くると同時に、大革鞄を、革鞄のまま提げて、そのまま下車しようとした時であった。 「いいえ!」  と一言、その窈窕たる淑女は、袖つけをひしと取って、びりびりと引切った。緋の長襦袢が𤏋と燃える、片身を火に焼いたように衝と汽車を出たその姿は、かえって露の滴るごとく、おめき集う群集は黒煙に似たのである。  技師は真俯向けに、革鞄の紫の袖に伏した。  乗合は喝采して、万歳の声が哄と起った。  汽車の進むがままに、私たちは窓から視た。人数に抱上げらるるようになって、やや乱れた黒髪に、雪なす小手を翳して此方を見送った半身の紅は、美しき血をもって描いたる煉獄の女精であった。  碓氷の秋は寒かった。        八  藤助は語り継いだ。 「姉さんが、そうすると……驚いたように、 (あれ、それを見ちゃ不可ません。) (やあ、つい麁匇を。)  と、何事も御意のまま、頭をすくめて恐縮をしますとね、低声になって気の毒そうに、 (でも、あの、そういう私が、密と出して、見たいんでございます。) (そこで鍵が御入用。) (ええ、ですけど、人様のものを、お許しも受けないで、内証で見ては悪うございましょうねえ。) (何、開けたらまた閉めておきゃあ、何でもありゃしませんや。)  とその容子だもの、お前さん、何だって構やしません。──お手軽様に言って退けると、口に袖をあてながら、うっかり釣込まれたような様子でね、また前後を視ましたっけ。 (では、ちょっと今のうち鋳掛屋さん、あなたお職柄で鍵を拵えるより前に、手で開けるわけには参りませんの。)  ぶるぶるぶる……私あ、頭と嘴を一所に振った。旦那の前だが、……指を曲げて、口を押えて、瞼へ指の環を当がって、もう一度頭を掉った。それ、鍵の手は、内証で遣っても、たちまちお目玉。……不可えてんだ、お前さん。 (御法度だ。)  と重く持たせて、 (ではござれども、姉さんの事だ、遣らかしやしょう、大達引。奥様のお記念だか、何だか知らねえ。成程こいつあ、そのな、へッへッ、誰方かに向っての姉さんの心意気では……お邪魔になるでございましょうよ。奥歯にものが挟まったって譬はこれだ。すっぱり、打開けてお出しなせえまし。) (いえ、あの、開けて出すよりか、私が中へ入りたい。)  と仇気なく莞爾すら、チェーしたもんだ。 (御串戯で、中へ入ると、恐怖え、その亡くなった奥さんの骨があるんじゃありませんかい。) (もう、私は、あの、奥さまの、その骨になりたいの。)  ああ、その骨になりたいか、いや、その骨でこっちは海月だ、ぐにゃりとなった。 (御勝手だ。) (あれ、そのかわりに奥さまが、活きた私におなんなさる、容色は、たとえこんなでも。) (御勝手だ。いや、御法度だね。) (そんな事を言わないで、後生ですから、鋳掛屋さん。) (開けますよ。だがね……)  と、一つ勿体で、 (こいつあ口伝だ、見ちゃ不可え、目を瞑っていておくんなさい。) (はい。) (もっと。) (はい。) (不可え不可え、薄目を開けてら。) (まあ、では後を向きますわ。) (引しまって、ふっくりと柔かで、ああ、堪らねえ腰附だ。) (可厭……知りませんよ。)  と向直ると、串戯の中にしんみりと、 (あれ、ちょっと待って下さいまし。いま目をふさいで考えますと、お許がないのに錠前を開けるのは、どうも心が済みません。神様、仏様に、誓文して、悪い心でなくっても、よくない事だと存じます。)  私も真面目にうなずきました。 (でも、合鍵は拵えて下さいまし、大事にそれを持っていて、……出来るだけ我慢はしますけれども、どうしても開けたくってならなくなりました時に、生命にかえても、開けて見とうございますから。)──  晩の泊はどこだって聞きますから、向うの峰の日脚を仰向いて、下の温泉だと云いますとね、双葉屋の女中だと、ここで姉さんが名を言って、お世話しましょうと、きつい発奮さ。  御旅館などは勿体ねえ、こちとら式がと木賃がると、今頃はからあきで、人気がなくって寂しいくらい。でも、お一方──一昨日から、上州高崎の方だそうだけれど、東京にも少かろう、品のいい美しい、お嬢さんだか、夫人だか、少い方がお一方……」 「お一方?」  と、うっかり訊いて私は膝を堅うした。──小村さんも同じ思いは疑いない。──あの時、その窈窕たる御寮が、汽車を棄てたのは、かしこで、その高崎であった。 「さようで。──お一方御逗留、おさみしそうなその方にも、いまの立山が聞かせたいと、何となくそのお一方が、もっての外気になるようで、妙に眉のあたりを暗くしましたっけ、熟と日のかげる山を視めたが、 (ああ。鋳掛屋さん。)  と慌しい。……皆まで聞かずと飲込んだ、旦那様帰り引と……ここらは鵜だてね、天幕の逢目をひょこりと出た。もとの山端へ引退り、さらば一服仕ろう……つぎ置の茶の中には、松の落葉と朱葉が一枚。……」 (ああ、腹が減った……)  と色気のない声を出して、どかりと椅子に掛けたのは、焦茶色の洋服で、身の緊った、骨格のいい、中古の軍人といった技師の先生だ。──言うまでもなく、立野竜三郎は渠である── (減った、減った、無茶に減った。)  と、いきなり卓子の上の風呂敷包みを解くと、中が古風にも竹の子弁当。……御存じはございますまい、三組の食籠で、畳むと入子に重るやつでね。案ずるまでもありませんや、お道姉さんが心入れのお手料理か何かを、旅館から運ぶんだね。 (うまい、ああ旨い、この竹輪は骨がなくて難有い。)  余り旨そうなので、こっちは里心が着きました。建場々々で飲酒りますから、滅多に持出した事のない仕込の片餉、油揚の煮染に沢庵というのを、もくもくと頬張りはじめた。  お道さんが手拭を畳んでちょっと帯に挟んだ、茶汲女という姿で、湯呑を片手に、半身で立って私の方を視ましたがね。 (旦那様……あの、鋳掛屋さんが、お弁当を使いますので、お茶を御馳走いたしました。……お盆がなくて手で失礼でございます。)  と湯気の上る処を、卓子の上へ置くんでございますがね、加賀の赤絵の金々たるものなれども、ねえ、湯呑は嬉しい心意気だ。 (何、鋳掛屋。)  と、何だか、気を打ったように言って、先生、扁平い肩で捻じて、私の方を覗きましたが、 (やあ、御馳走はありますか。)  とかすれ笑いをしなさるんだ。 (へッ、へッ。)と、先はお役人様でがさ、お世辞笑をしたばかりで、こちらも肩で捻向く面だ、道陸神の首を着換えたという形だてね。 (旨い。)  姉さんが嬉しそうな顔をしながら、 (あの、電信の故障は、直りましてございますか。) (うむ、取払ったよ。)  と頬張った含声で、 (思ったより余程さきだった。)  ははあ、電線に故障があって、障るものの見当が着いた処から、先生、山めぐりで見廻ったんだ。道理こそ、いまし方天幕へ戻って来た時に、段々塗の旗竿を、北極探検の浦島といった形で持っていて、かたりと立掛けて入んなすった。 (どうかなっていましたの。) (変なもの……何、くだらないものが、線の途中に引搦って……)  カラリと箸を投げる音が響いた。 (うむ、来た。……トーン、トーン……可し。)  お道さんの声で、 (旦那様、何ぞ御心配な事ではございませんか。)  一口がぶりと茶を飲んで、 (詰らぬ事を……他所へ来た電報に、一々気を揉んでいて堪るもんですか。) (でも、先刻、この電信が参りました時、何ですか、お顔の色が……) (……故障のためですよ、青天井の煤払は下さりませんからな、は、は。)  と笑った。  坂をするすると這上る、蝙蝠か、穴熊のようなのが、衝と近く来ると、海軍帽を被ったが、形は郵便の配達夫──高等二年ぐらいな可愛い顔の少年が、ちゃんと恭しく礼をした。 (ああ、ちょうどいま繋った。) (どうした故障でございますか。)  と切口上で、さも心配をしたらしい。たのもしいじゃあございませんか。 (網掛場の先の処だ、烏を蛇が捲いたなりで、電線に引搦って死んでいたんだよ。烏が引啣えて飛ぼうとしたんだろう……可なり大な重い蛇だから、飛切れないで鋼線に留った処を、電流で殺されたんだ。ぶら下った奴は、下から波を打って鎌首をもたげたなりに、黒焦になっていた──君、急いでくれ給え、約四時間延着だ。) (はっ。)  と云って行くのを、 (ああ、時さん。)  とお道さんは沈んで呼んだ。が、寂しい笑顔を向け直して、 (配達さん──どこへ……)と訊いた。  少年が正しく立停まって、畳んだ用紙を真すぐに視て、 (狼温泉──双葉館方……村上縫子……) (そしてどちらから。) (ヤホ次郎──行って来ます。) (そんな事を聞くもんじゃあない。) (ああ、済みませんでした。) (何、構わないようなもんじゃあるがね──どっこいしょ。)  がた、がたんと音がする。先生、もう一つの卓子を引立って、猪と取組むように勢よく持って出ると、お道さんはわけも知らないなりに、椅子を取って手伝いながら、 (どう遊ばすの。)  と云ううちに、一段下りた草原へ据えたんでございますがね、──わけも知らずに手伝った、お道さんの心持を、あとで思うと涙が出ます。」  と肩もげっそりと、藤助は沈んで言った。…… 「で、何でございますよ──どう遊ばすのかと、お道さんが言うと、心待、この日暮にはここに客があるかも知れんと、先生が言いますわ。あれ、それじゃこんな野天でなく、と、言おうじゃあございませんか。 (いや、中で間違があるとならんので。) (え、間違とおっしゃって。)  とお道さんが、ひったり寄った。 (私は、)  と先生は、肘で口の端を横撫して、 (髯もまずいが、言う事がまずくて不可んです。間違じゃあない、故障です、素人は気なしだからして、あんな狭い天幕の中で、器械にでも障って、また故障にでもなると不可んのだ。決して心配な事ではないのです、──さあ飯だ、飯だ。)  と今度はなぜか、箸を着けずに弁当をしまいかけて、……親方の手前もある、客に電報が来た様子では、また和女の手も要るだろう、余り遅くならないうちにと、懇に言うと、 (はい、はい。)  と柔順に返事する。片手間に、継掛けの紺足袋と、寝衣に重ねる浴衣のような洗濯ものを一包、弁当をぶら下げて、素足に藁草履、ここらは、山家で──悄々と天幕を出た姿に、もう山の影が薄暗く隈を取って映りました。 (今、何時だろう。)  と天幕口へ出て、先生が後姿を呼びましたね。 (……四時半頃にもなりましょうか。) (時計が止ったよ──気をつけておいで。)  と大な懐中時計と、旗竿の影を、すっくり立って、片頬夕日を浴びながら、熟と落着いて視めていなさる。……落着いて視ちゃあいなすったが、先生少々どうかなさりやしねえのかと思ったのは、こう変に山が寂しくなって、通魔でもしそうな、静寂の鐘の唄の塩梅。どことなくドン──と響いて天狗倒の木精と一所に、天幕の中じゃあ、局の掛時計がコトリコトリと鳴りましたよ。  お地蔵様が一体、もし、この梟ヶ嶽の頭を肩へ下り口に立ってござる。──私どもは、どうかすると一日の中にゃ人間の数より多くお目に掛る、至極可懐しいお方だが……後で分りました。この丘は、むかし、小さな山寺があったあとだそうで、そう言や草の中に、崩れた石の段々が蔦と一所に、真下の径へ、山懐へまとっています。その下の径というのが、温泉宿入りの本街道だね。  お道さんが、帰りがけに、その地蔵様を拝みました。石の袈裟の落葉を払って、白い手を、じっと合せて、しばらくして、 (また、お目にかかります。)  と顔を上げて、 (後程に──)  もう先生は天幕へ入った──で、私にしみじみとした調子で云った時の面影が忘れられねえ!……睫毛にたまって、涙が一杯。……風が冷く、山はこれから、湿っぽい。  秋の日は釣瓶落しだ、お前さん、もうやがて初冬とは言い条、別して山家だ。静に大沼の真中へ石を投げたように、山際へ日暮の波が輪になって颯と広がる中で、この藤助と云う奴が、何をしたと思召す。  三尺をしめ直す、脚絆の埃を払いたり、荷づなを天秤に掛けたり、はずしたり。……三味線の糸をゆるめたり、袋に入れたり……さてまた袋を結んだり。  そこへ……いまお道さんが下りました、草にきれぎれの石段を、攀じ攀じ、ずッと上って来た、一個、年紀の少い紳士があります。  山の陰気な影をうけて、凄いような色の白いのが、黒の中折帽を廂下りに、洋杖も持たず腕を組んだ、背広でオオバアコオトというのが、色がまた妙に白茶けて、うそ寂しい。瘠せて肩の立った中脊でね。これが地蔵様の前へ来て、すっくりと立ったと思うと、頭髪の伸びた技師の先生が、ずかずかと天幕を出ました。  それ、卓子を中に、控えて、開いて、屹と向合ったと思召せ。  少い紳士が慇懃に、 (失礼ですが、立野竜三郎氏でいらっしゃいますか。) (さよう、お尋ねを蒙りました竜三郎、私であります。) (申しおくれました、私は村上八百次郎と申すものです。はじめてお目にかかります……唯今、名刺を。) (いや。)  と先生、卓子の上へ両手をずかと支いて、 (三年前から、御尊名は、片時といえども相忘れません、出過ぎましたが、ほぼ、御訪問に預りました御用向も存じております。)  と、少いのが少し屹となって、 (用向を御存じですか?) (まず、お掛け下さい。)  と先生は、ドカリと野天の椅子に掛けた。  何となく気色ばんだ双方の意気込が、殺気を帯びて四辺を払った。この体を視た私だ。むかし物語によくあります、峰の堂、山の祠で、怪しく凄い神たちが、神つどいにつどわせたという場所へ、破戒坊主が、はい蹲ったという体で、可恐し可恐し、地蔵様の前に踞んで、こう、伏拝む形をして、密と視たんで。  先生は更めて、両手を卓子につき直して、 「──受信人、……狼温泉二葉屋方、村上縫子、発信人は尊名、貴姓であります。    コンニチゴゴツク。ヨウイ(今日午後着く。用意)」  と聞きも済まさず、若い紳士は、斜に衝と開いて、身構えて、 (何、私信を見た上、用件を御承知になりましたな。) 「偏に申訳をいたします。電報を扱います節、文字は拾いますが、文字は普通……拾いますが、職務の徳義として、文字は綴りましても、用件は記憶しません。しかるところ、唯今申上げました(コンニチゴゴツク、ヨウイ)で、不意に故障が起りました、幾度も接続を試みますうちに、うかと記憶に残ったのです。のち四時間、やっと電線が恢復して(ヨキカ)と受信しましたのです。謹んで謝罪いたします。」  と面を上げ、乾びた咳して、 「すなわち、受信人、狼温泉、二葉屋方、村上縫子。発信人、尊名、貴姓、すなわち、(今日午後着く。用意よきか。)」 (分りました。)  と静に言う時、ふと見返った目が、私に向いた、と一所にな……先生の眼も光りました。  怯えて立ったね、悚然した。  荷を担いで、ひょうろ、ひょろ。  ようやく石段の中ほどで、吻と息をして立った処が、薄暮合の山の凄さ。……天秤かついだ己が形が、何でございますかね、天狗様の下男が清水を汲みに山一つ彼方へといった体で、我ながら、余り世間離れがした心細さに、 (ほっ、)  と云ったが、声も、ふやける。肩をかえて性根だめしに、そこで一つ…… (鋳掛──錠前の直し。)──  何と──旦那。」        九 「……時に──雪の松明が二把。前後に次第に高くなって、白い梟、化梟、蔦葛が鳥の毛に見えます、その石段を攀じるのは、まるで幻影の女体が捧げて、頂の松、電信柱へ、竜燈が上るんでございました。  上り果てた時分には、もう降っているのが止みましたっけ。根雪に残るのじゃあございません、ほんの前触れで、一きよめ白くしましたので、ぼっとほの白く、薄鼠に、梟の頂が暗夜に浮いて見えました。  苦しい時ばかりじゃあねえ。こんな時も神頼み、で、私は崖縁をひょいと横へ切れて、のしこと地蔵様の背後に蹲み込んで覗いたんで。石像のお袈裟の前へは、真白に吹掛けましたが、うしろは苔のお法衣のまま真黒で、お顔が青うございましたよ。  大方いまの雪のために、先生も、客人も、天幕に引籠ったんでございましょう。卓子ばかりで影もない。野天のその卓子が、雪で、それ大理石。──立派やかなお座敷にも似合わねえ、安火鉢の曲んだやつが転がるように出ていました。  その火鉢へ、二人が炬火をさし込みましたわ。一ふさり臥って、柱のように根を持って、赫と燃えます。その灯で、早や出端に立って出かかった先生方、左右の形は、天幕がそのままの巌石で、言わねえ事じゃあねえ、青くまた朱に刻みつけた、怪しい山神に、そっくりだね。  ツツとあとへ引いて、若い紳士が、卓子に、さきの席を取って、高島田の天人を、 (縫子さん。)  と呼びました。  御婦人が、髪の吹流を取った、気高い顔は、松明の火に活々と、その手拭で、お召のコオトの雪を払っていなすったけ、揺れて山茶花が散るようだ。 (立野さんに御挨拶をなさい。) (唯今。)  と静に言って、例の背後に掛けた竹の子笠を、紐を解いて、取りましたが、吹添って、風はあるのに、気で鎮めたかして、その笠が動きもしません。  卓子の脚に、お道さんのと重ねて置いて、 (貴方──御機嫌よう。) (は。)  と先生は一言云ったきり、顔も上げないで、めり込むように深く卓子の端についた太い腕が震えたが、それより深いのは、若旦那の方の年紀とも言わない額に刻んだ幾筋かの皺で、短く一分刈かと見える頭は、坊さんのようで、福々しく耳の押立って大いのに、引締った口が窪んで、大きく見えるまで、げっそりと頬の肉が落ちている。 (夫人。)  と先生はうつむいたままで、 (再び、御機嫌のお顔を拝することを得まして、私一代の本懐です。生れつきの口不調法が、かく眼前に、貴方のお姿に対しましては、何も申上げる言を覚えません、ただしかし、唯今。)  と、よろめいて立って、椅子の手に縋りました。 (唯今、一言御挨拶を申上げます。)  と天幕に入ると、提げて出た、卓子を引抱えたようなものではない、千仭の重さに堪えない体に、大革鞄を持った胸が、吐呼吸を浪に吐く。  それと見ると、簑を絞って棄てました、お道さんが手を添えながら、顔を見ながら、搦んで、縺れて、うっかりしたように手伝う姿は、かえって、あの、紫の片袖に魂が入って、革鞄を抜けたように見えました。  ずしりと、卓子の上に置くと、……先生は一足退って、起立の形で、 (もはや、お二方に対しましては、……御夫婦に向いましては、立って身を支えるにも堪えません、一刻も早くこの人畜の行為に対する、御制裁を待ちます。即時に御処分のほどを願います。)  若旦那が、 (よろしいか。)  とちと甘いほどな、この場合優しい声で、御夫人に言いました。 (はい。)  と、若奥様は潔い。  若旦那はまっすぐに立直って、 (立野さん。) (…………) (では、御要求をいたします。) (謹んで承ります、一点といえども相背きはいたしますまい。) (そこに、卓子の上に横にお置きなさいました、革鞄を、縦にまっすぐにお直し下さい。) (承知いたしました──いやいや罪人の手伝をしては、お道さん、汚れるぞ。)  と手伝を払って、しっかとその処へ据直す。 (立野さん。貴下は革鞄の全形と折重って、その容量を外れない範囲内にお立ち下さい。縫子が私の妻として、婚礼の日の途中、汽車の中で。)  と云う声が少し震えました。 (貴下に、その紫の袖を許しました、その責に任ずるために、ここに短銃を所持しております、──その短銃をもってここに居て革鞄を打ちます。弾丸をもって錠前を射切るのです。錠前を射切って、その片袖を──同棲三年間──まだ純真なる処女の身にして、私のために取返すんです。袖が返るとともに、更めて結婚します。夫婦になります。が、勿論しかし、それが夫婦のものの、身の終結になるかも分りません。なぜと云うに、革鞄と同時に、兇器をもって貴下のお身体に向うのです。万一お生命を縮めるとなれば、私はその罪を負わねばならないのですから。それは勿論覚悟の前です……お察し下さい、これはほとんど私が生命を忘れ、世間を忘れ、甚しきは一人の親をも忘れるまで、寝食を廃しまして、熟慮反省を重ねた上の決意なのです。はじめは貴方が、当時汽車の窓から赤城山の絶頂に向って御投棄てになったという、革鞄の鍵を、何とぞして、拾い戻して、その鍵を持ちながらお目にかかって、貴下の手から錠を解いて、縫のその袖を返して頂きたいと存じ、およそ半年、百日に亙りまして、狂と言われ、痴と言われ、愚と言われ、嫉妬と言われ、じんすけと嘲けられつつも、多勢の人数を狩集めて、あの辺の汽車の沿道一帯を、粟、蕎麦、稲を買求めて、草に刈り、芥にむしり、甚しきは古塚の横穴を発いてまで、捜させました。流星のごとく天際に消えたのでしょう、一点似た釘も見当りません。──唯今……要求しますのは、その後の決心である事を諒として下さいまし。縫もよくこの意を体して、三年の間、昼夜を分かず、的を射る修錬をいたしました。──最初、的をつくります時、縫がものさしを取って、革鞄の寸法を的に切りましたが、ここで実物を拝見しますと、その大さと言い、錠前のある位置と言い、ほとんど寸分の違いもありません。……不思議です。……特に奇蹟と存じますのは、──家の地続きを劃って、的場を建てましたのですが、土地の様子、景色、一本の松の形、地蔵のあるまで。)  ──私はすくんだね── (夢のようによく似ています。……多分、皆お互に、こうした運命だと存じます。……短銃は特に外国に註文して、英国製の最優良なのを取寄せました。連発ですが、弾丸はただ一つしか籠めてありません、きっと仕損じますまい。しかし、御覚悟を下さいまし。──もっとも革鞄と重ってお立ち下さいますのに、その間隔は、五間、十間、あるいは百間、三百間、貴下の、お心に任せます。要はただ、着弾距離をお離れになりません事です。) (一歩もここを動きません。)  先生は、拱いた腕を解いて言いましたぜ。」  ──そうだろうと、私たちも思ったのである。        十 「堪らねえやね。お前さん。  私あ猿坊のように、ちょろりと影を畝って這出して、そこに震えて立っている、お道姉さんの手に合鍵を押つけた。早く早く、と口じゃあ言わねえが、袖を突いた。  ──若奥様の手が、もう懐中に入った時でございますよ。 (御免遊ばせ。)  と縋りつくように、伸上って、お道さんが鍵を合せ合せするのが、あせるから、ツルツルと二三度辷りました。 (ああ、ちょっと。)  と若奥様が、手で圧えて、 (どうぞ……そればかりは。)  と清しく言います。この手二つが触ったものを、錠前の奴、がんとして、雪になっても消えなんだ。  舌の硬ばったような先生が、 (飛んでもない事──お道さん。) (いいえ、構いません。)  と若旦那はきっぱりと、 (飛んでもない事ではありません。それが当然なのです。立野さん。貴下が御自分でなくっても、貴下が許して、錠前をさえお開き下さるなら──方法は択びません。短銃なんぞ何になりましょう、私はそれで満足します。) (旦那様。)  と精一杯で、お道さんが、押留められた一つの手を、それなり先生の袖に縋って、無量の思の目を凝らした。 (はあ、)  と落込むような大息して、先生の胸が崩れようとしますとな。 (貴方、……あの鍵が返りましたか。……優しい、お道さん、美しい、姉さん、……お優しい、お美しい姉さんに、貴方はもうお心が移りましたか。)  と云って、若奥様が熟と視ました。  先生が蒼くなって、両手でお道さんを押除けながら、 (これは余所の娘です、あわれな孤児です。)  とあとが消えた。 (決行なさい、縫子。) (…………) (打て、お打ちなさい。) (唯今。)  と肩を軽く斜めに落すと、コオトが、すっと脱げたんです。煽りもせぬのに気が立って、颯と火の上る松明より、紅に燃立つばかり、緋の紋縮緬の長襦袢が半身に流れました。……袖を切ったと言う三年前の婚礼の日の曠衣裳を、そのままで、一方紫の袖の紋の揚羽の蝶は、革鞄に留まった友を慕って、火先にひらひらと揺れました。  若奥様が片膝ついて、その燃ゆる火の袖に、キラリと光る短銃を構えると、先生は、両方の膝に手を垂れて、目を瞑って立ちました。 (お身代りに私が。)  とお道さんが、その前に立塞がった。 「あ、危い、あなた。」  と若旦那が声を絞った。  若奥様は折敷いたままで、 (不可ません──お道さん。) (いいえ、本望でございます。) (私が肯きません。)  と若奥様が頭を掉ります。 (貴方が、お肯き遊ばさねば、旦那様にお願い申上げます。こんな山家の女でも、心にかわりはござんせん、願を叶えて下さいまし。お情はうけませんでも、色も恋も存じております。もみじを御覧なさいまし、つれない霜にも血を染めます。私はただ活きておりますより、旦那さんのかわりに死にたいのです。その方が嬉しいのです。こんな事があろうと思って、もう家を出ます時、なくなった母親の記念の裾模様を着て参りました。……手織木綿に前垂した、それならば身分相応ですから、人様の前に出られます。時おくれの古い紋着、襦袢も帯もうつりません、あられもないなりをして、恋の仇の奥様と、並んでここへ参りました。ふびんと思って下さいまし。ああ女は浅間しい、私にはただ一枚、母親の記念だけれど、奥様のお姿と、こんなはかないなりをくらべて、思う方の前に出るのは死ぬよりも辛うござんす。それさえ思い切りました。男のために死ぬのです。冥加に余って勿体ない。……ただ心がかりなは、私と同じ孤児の、時ちゃん─少年の配達夫─の事ですが、あの児も先生おもいですから、こうと聞いたら喜びましょう。)  若旦那の目にも、奥様にも、輝く涙が見えました。  先生は胸に大波を打たせながら、半ば串戯にするように、手を取って、泣笑をして、 (これ、馬鹿な、馬鹿な、ふふふ、馬鹿を事を。) (ええ、馬鹿な女でなくっては、こんなに旦那様の事を思いはしません。私は、馬鹿が嬉しゅうございます。) (弱った。これ、詰らん、そんな。) (お手間が取れます。) (さあ、お退き、これ、そっちへ。) (いいえ、いいえ。)  否々をして、頭をふって甘える肩を、先生が抱いて退けようとするなり、くるりとうしろ向きになって、前髪をひしと胸に当てました。  呼吸を鎮めて、抱いた腕を、ぐいと背中へ捲きましたが、 (お退きと云うに。──やあ、お道さんの御母君、御母堂、お記念の肉身と、衣類に対して失礼します、御許し下さい……御免。)  と云うと、抱倒して、 (ああれ。)  と震えてもがくのを、しかと片足に蹈据えて、仁王立にすっくと立った。 (用意は宜しい。……縫子さん。) (…………) (…………) (さようなら……) (……さようなら、貴方。)  日光の御廟の天井に、墨絵の竜があって鳴きます、尾の方へ離れると音はしねえ、頤の下の低い処で手を叩くと、コリンと、高い天井で鳴りますので、案内者は、勝手に泣竜と云うのでございますが、同じ音で。──  コリンと響いたと思うと、先生の身体は左右へふらふらして動いたが、不思議な事には倒れません。  南無三宝。  片手づきに、白襟の衣紋を外らして仰向きになんなすった、若奥様の水晶のような咽喉へ、口からたらたらと血が流れて、元結が、ぷつりと切れた。  トタンにな、革鞄の袖が、するすると抜けて落ちました。 (貴方……短銃を離しても、もう可うございますか。)  若旦那が跪いてその手を吸うと、釣鐘を落したように、軽そうな手を柔かに、先生の膝に投げて、 (ああ、嬉しい。……立野さん、お道さん、短銃をそちらへ向けて打つような女とお思いなさいましたか。) (只今、立処に自殺します。)  と先生の、手をついて言うのをきいて、かぶりを掉って、櫛笄も、落ちないで、乱れかかる髪をそのまま莞爾して、 (いいえ、百万年の後に……また、お目にかかります。お二方に、これだけに思われて、縫は世界中のしあわせです──貴方、お詫は、あの世から……)  最後の言葉でございました。」 「お道さんが銀杏返の針を抜いて、あの、片袖を、死骸の袖に縫つけました。  その間、膝にのせて、胸に抱いて、若旦那が、お縫さんの、柔かに投げた腕を撫で、撫で、 (この、清い、雪のような手を見て下さい。私の偏執と自我と自尊と嫉妬のために、詮ずるに烈しい恋のために、──三年の間、夜に、日に、短銃を持たせられた、血を絞り、肉を刻み、骨を砂利にするような拷掠に、よくもこの手が、鉄にも鉛にもなりませんでした。ああ、全く魔のごとき残虐にも、美しいものは滅びません。私は慚愧します。しかし、貴下と縫子とで、どんなにもお話合のつきますように、私に三日先立って、縫子をこちらによこしました、それに、あからさまに名を云って、わざと電報を打ちました。……貴下を当電信局員と存じましていたした事です。とにかく私の心も、身の果も、やがて、お分りになりましょう。)  と、いいいい、地蔵様の前へ、男が二人で密と舁ぐと、お道さんが、笠を伏せて、その上に帯を解いて、畳んで枕にさせました。  私も十本の指を、額に堅く組んで頂いて拝んだ。  そこらの木の葉を、やたらに火鉢にくべながら…… (失礼、支度をいたしますから。)  若旦那がするすると松の樹の処へ行きます。  そこで内証で涙を払うのかと偲うと、肩に一揺り、ゆすぶりをくれるや否や、切立の崖の下は、剣を植えた巌の底へ、真逆様。霧の海へ、薄ぐろく、影が残って消えません。  ──旦那方。  先生を御覧なせえ、いきなりうしろからお道さんの口へ猿轡を嵌めましたぜ。──一人は放さぬ、一所に死のうと悶えたからで。──それをね、天幕の中へ抱入れて、電信事務の卓子に向けて、椅子にのせて、手は結えずに、腰も胸も兵児帯でぐるぐる巻だ。 (時夫の来るまで……)  そう言って、石段へずッと行く。  私は下口まで追掛けたが、どうして可いか、途方にくれてくるくる廻った。  お道さんが、さんばら髪に肩を振って、身悶えすると、消えかかった松明が赫と燃えて、あれあれ、女の身の丈に、めらめらと空へ立った。  先生の身体が、影のように帰って来て、いましめを解くと一所に、五体も溶けたようなお道さんを、確と腕に抱きました。  いや何とも……酔った勢いで話しましたが、その人たちの事を思うと、何とも言いようがねえ。  実は、私と云うものは……若奥様には内証だが、その高崎の旦那に、頼まれまして、技師の方が可い、とさえと一言云えば、すぐに合鍵を拵えるように、道中お抱えだったので。……何、鍵までもありゃしません。──天幕でお道さんが相談をしました時、寸法を見るふりをして、錠は、はずしておいたんでございますのに──  皆、何とも言いようがねえ、見てござった地蔵様にも手のつけようがなかったに違えねえ。若旦那のお心持も察して上げておくんなせえ。  あくる日岨道を伝いますと、山から取った水樋が、空を走って、水車に颯と掛ります、真紅な木の葉が宙を飛んで流れましたっけ、誰の血なんでございましょう。」 (峰の白雪麓の氷    今は互に隔てていれど)  あとで、鋳掛屋に立山を聴いた──追善の心である。皆涙を流した……座は通夜のようであった。  姨捨山の月霜にして、果なき谷の、暗き靄の底に、千曲川は水晶の珠数の乱るるごとく流れたのである。 大正九(一九二〇)年十二月 底本:「泉鏡花集成6」ちくま文庫、筑摩書房    1996(平成8)年3月21日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第二十卷」岩波書店    1941(昭和16)年5月20日発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、「安達ヶ原」「梟ヶ嶽」は小振りに、「焼ヶ嶽」は大振りにつくっています。 ※誤植の確認には底本の親本を参照しました。 入力:門田裕志 校正:高柳典子 2007年2月11日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。