女客 泉鏡花 Guide 扉 本文 目 次 女客        一 「謹さん、お手紙、」  と階子段から声を掛けて、二階の六畳へ上り切らず、欄干に白やかな手をかけて、顔を斜に覗きながら、背後向きに机に寄った当家の主人に、一枚を齎らした。 「憚り、」  と身を横に、蔽うた燈を離れたので、玉ぼやを透かした薄あかりに、くっきり描き出された、上り口の半身は、雲の絶間の青柳見るよう、髪も容もすっきりした中年増。  これはあるじの国許から、五ツになる男の児を伴うて、この度上京、しばらくここに逗留している、お民といって縁続き、一蒔絵師の女房である。  階下で添乳をしていたらしい、色はくすんだが艶のある、藍と紺、縦縞の南部の袷、黒繻子の襟のなり、ふっくりとした乳房の線、幅細く寛いで、昼夜帯の暗いのに、緩く纏うた、縮緬の扱帯に蒼味のかかったは、月の影のさしたよう。  燈火に対して、瞳清しゅう、鼻筋がすっと通り、口許の緊った、痩せぎすな、眉のきりりとした風采に、しどけない態度も目に立たず、繕わぬのが美しい。 「これは憚り、お使い柄恐入ります。」  と主人は此方に手を伸ばすと、見得もなく、婦人は胸を、はらんばいになるまでに、ずッと出して差置くのを、畳をずらして受取って、火鉢の上でちょっと見たが、端書の用は直ぐに済んだ。  机の上に差置いて、 「ほんとに御苦労様でした。」 「はいはい、これはまあ、御丁寧な、御挨拶痛み入りますこと。お勝手からこちらまで、随分遠方でござんすからねえ。」 「憚り様ね。」 「ちっとも憚り様なことはありやしません。謹さん、」 「何ね、」 「貴下、その(憚り様ね)を、端書を読む、つなぎに言ってるのね。ほほほほ。」  謹さんも莞爾して、 「お話しなさい。」 「難有う、」 「さあ、こちらへ。」 「はい、誠にどうも難有う存じます、いいえ、どうぞもう、どうぞ、もう。」 「早速だ、おやおや。」 「大分丁寧でございましょう。」 「そんな皮肉を言わないで、坊やは?」 「寝ました。」 「母は?」 「行火で、」と云って、肱を曲げた、雪なす二の腕、担いだように寝て見せる。 「貴女にあまえているんでしょう。どうして、元気な人ですからね、今時行火をしたり、宵の内から転寝をするような人じゃないの。鉄は居ませんか。」 「女中さんは買物に、お汁の実を仕入れるのですって。それから私がお道楽、翌日は田舎料理を達引こうと思って、ついでにその分も。」 「じゃ階下は寂しいや、お話しなさい。」  お民はそのまま、すらりと敷居へ、後手を弱腰に、引っかけの端をぎゅうと撫で、軽く衣紋を合わせながら、後姿の襟清く、振返って入ったあと、欄干の前なる障子を閉めた。 「ここが開いていちゃ寒いでしょう。」 「何だかぞくぞくするようね、悪い陽気だ。」  と火鉢を前へ。 「開ッ放しておくからさ。」 「でもお民さん、貴女が居るのに、そこを閉めておくのは気になります。」  時に燈に近う来た。瞼に颯と薄紅。        二  坐ると炭取を引寄せて、火箸を取って俯向いたが、 「お礼に継いで上げましょうね。」 「どうぞ、願います。」 「まあ、人様のもので、義理をするんだよ、こんな呑気ッちゃありやしない。串戯はよして、謹さん、東京は炭が高いんですってね。」  主人は大胡座で、落着澄まし、 「吝なことをお言いなさんな、お民さん、阿母は行火だというのに、押入には葛籠へ入って、まだ蚊帳があるという騒ぎだ。」 「何のそれが騒ぎなことがあるもんですか。またいつかのように、夏中蚊帳が無くっては、それこそお家は騒動ですよ。」 「騒動どころか没落だ。いや、弱りましたぜ、一夏は。  何しろ、家の焼けた年でしょう。あの焼あとというものは、どういうわけだか、恐しく蚊が酷い。まだその騒ぎの無い内、当地で、本郷のね、春木町の裏長屋を借りて、夥間と自炊をしたことがありましたっけが、その時も前の年火事があったといって、何年にもない、大変な蚊でしたよ。けれども、それは何、少いもの同志だから、萌黄縅の鎧はなくても、夜一夜、戸外を歩行いていたって、それで事は済みました。  内じゃ、年よりを抱えていましょう。夜が明けても、的はないのに、夜中一時二時までも、友達の許へ、苦い時の相談の手紙なんか書きながら、わきで寝返りなさるから、阿母さん、蚊が居ますかって聞くんです。  自分の手にゃ五ツ六ツたかっているのに。」  主人は火鉢にかざしながら、 「居ますかもないもんだ。  ああ、ちっと居るようだの、と何でもないように、言われるんだけれども、なぜ阿母には居るだろうと、口惜いくらいでね。今に工面してやるから可い、蚊の畜生覚えていろと、無念骨髄でしたよ。まだそれよりか、毒虫のぶんぶん矢を射るような烈い中に、疲れて、すやすや、……傍に私の居るのを嬉しそうに、快よさそうに眠られる時は、なお堪らなくって泣きました。」  聞く方が歎息して、 「だってねえ、よくそれで無事でしたね。」  顔見られたのが不思議なほどの、懐かしそうな言であった。 「まさか、蚊に喰殺されたという話もない。そんな事より、恐るべきは兵糧でしたな。」 「そうだってねえ。今じゃ笑いばなしになったけれど。」 「余りそうでもありません。しかしまあ、お庇様、どうにか蚊帳もありますから。」 「ほんとに、どんなに辛かったろう、謹さん、貴下。」と優しい顔。 「何、私より阿母ですよ。」 「伯母さんにも聞きました。伯母さんはまた自分の身がかせになって、貴下が肩が抜けないし、そうかといって、修行中で、どう工面の成ろうわけはないのに、一ツ売り二つ売り、一日だてに、段々煙は細くなるし、もう二人が消えるばかりだから、世間体さえ構わないなら、身体一ツないものにして、貴下を自由にしてあげたい、としょっちゅうそう思っていらしったってね。お互に今聞いても、身ぶるいが出るじゃありませんか。」  と顔を上げて目を合わせる、両人の手は左右から、思わず火鉢を圧えたのである。 「私はまた私で、何です、なまじ薄髯の生えた意気地のない兄哥がついているから起って、相応にどうにか遣繰って行かれるだろう、と思うから、食物の足りぬ阿母を、世間でも黙って見ている。いっそ伜がないものと極ったら、たよる処も何にもない。六十を越した人を、まさか見殺しにはしないだろう。  やっちまおうかと、日に幾度考えたかね。  民さんも知っていましょう、あの年は、城の濠で、大層投身者がありました。」  同一年の、あいやけは、姉さんのような頷き方。 「ああ。」        三 「確か六七人もあったでしょう。」  お民は聞いて、火鉢のふちに、算盤を弾くように、指を反らして、 「謹さん、もっとですよ。八月十日の新聞までに、八人だったわ。」  と仰いで目を細うして言った。幼い時から、記憶の鋭い婦人である。 「じゃ、九人になる処だった。貴女の内へ遊びに行くと、いつも帰りが遅くなって、日が暮れちゃ、あの濠端を通ったんですがね、石垣が蒼く光って、真黒な水の上から、むらむらと白い煙が、こっちに這いかかって来るように見えるじゃありませんか。  引込まれては大変だと、早足に歩行き出すと、何だかうしろから追い駈けるようだから、一心に遁げ出してさ、坂の上で振返ると、凄いような月で。  ああ、春の末でした。  あとについて来たものは、自分の影法師ばかりなんです。  自分の影を、死神と間違えるんだもの、御覧なさい、生きている瀬はなかったんですよ。」 「心細いじゃありませんか、ねえ。」  と寂しそうに打傾く、面に映って、頸をかけ、黒繻子の襟に障子の影、薄ら蒼く見えるまで、戸外は月の冴えたる気勢。カラカラと小刻に、女の通る下駄の音、屋敷町に響いたが、女中はまだ帰って来ない。 「心細いのが通り越して、気が変になっていたんです。  じゃ、そんな、気味の悪い、物凄い、死神のさそうような、厭な濠端を、何の、お民さん。通らずともの事だけれど、なぜかまた、わざとにも、そこを歩行いて、行過ぎてしまってから、まだ死なないでいるって事を、自分で確めて見たくてならんのでしたよ。  危険千万。  だって、今だから話すんだけれど、その蚊帳なしで、蚊が居るッていう始末でしょう。無いものは活計の代という訳で。  内で熟としていたんじゃ、たとい曳くにしろ、車も曳けない理窟ですから、何がなし、戸外へ出て、足駄穿きで駈け歩行くしだらだけれど、さて出ようとすると、気になるから、上り框へ腰をかけて、片足履物をぶら下げながら、母さん、お米は? ッて聞くんです。」 「お米は? ッてね、謹さん。」  と、お民はほろりとしたのである。あるじはあえて莞爾やかに、 「恐しいもんだ、その癖両に何升どこは、この節かえって覚えました。その頃は、まったくです、無い事は無いにしろ、幾許するか知らなかった。  皆、親のお庇だね。  その阿母が、そうやって、お米は? ッて尋ねると、晩まであるよ、とお言いなさる。  翌日のが無いと言われるより、どんなに辛かったか知れません。お民さん。」  と呼びかけて、もとより答を待つにあらず。 「もう、その度にね、私はね、腰かけた足も、足駄の上で、何だって、こう脊が高いだろう、と土間へ、へたへたと坐りたかった。」 「まあ、貴下、大抵じゃなかったのねえ。」  フトその時、火鉢のふちで指が触れた。右の腕はつけ元まで、二人は、はっと熱かったが、思わず言い合わせたかのごとく、鉄瓶に当って見た。左の手は、ひやりとした。 「謹さん、沸しましょうかね。」と軽くいう。 「すっかり忘れていた、お庇さまで火もよく起ったのに。」 「お湯があるかしら。」  と引っ立てて、蓋を取って、燈の方に傾けながら、 「貴下。ちょいと、その水差しを。お道具は揃ったけれど、何だかこの二階の工合が下宿のようじゃありませんか。」        四 「それでもね、」  とあるじは若々しいものいいで、 「お民さんが来てから、何となく勝手が違って、ちょっと他所から帰って来ても、何だか自分の内のようじゃないんですよ。」 「あら、」  とて清しい目を睜り、鉄瓶の下に両手を揃えて、真直に当りながら、 「そんな事を言うもんじゃありません。外へといっては、それこそ田舎の芝居一つ、めったに見に出た事もないのに、はるばる一人旅で逢いに来たんじゃありませんか、酷いよ、謹さんは。」  と美しく打怨ずる。 「飛んだ事を、ははは。」  とあるじも火に翳して、 「そんな気でいった、内らしくないではない、その下宿屋らしくないと言ったんですよ。」 「ですからね、早くおもらいなさいまし、悪いことはいいません。どんなに気がついても、しんせつでも、女中じゃ推切って、何かすることが出来ませんからね、どうしても手が届かないがちになるんです。伯母さんも、もう今じゃ、蚊帳よりお嫁が欲いんですよ。」  あるじは、屹と頭を掉った。 「いいえ、よします。」 「なぜですね、謹さん。」と見上げた目に、あえて疑の色はなく、別に心あって映ったのであった。 「なぜというと議論になります。ただね、私は欲くないんです。  こういえば、理窟もつけよう、またどうこうというけれどね、年よりのためにも他人の交らない方が気楽で可いかも知れません。お民さん、貴女がこうやって遊びに来てくれたって、知らない婦人が居ようより、阿母と私ばかりの方が、御馳走は届かないにした処で、水入らずで、気が置けなくって可いじゃありませんか。」 「だって、謹さん、私がこうして居いいために、一生貴方、奥さんを持たないでいられますか。それも、五年と十年と、このままで居たいたって、こちらに居られます身体じゃなし、もう二週間の上になったって、五日目ぐらいから、やいやい帰れって、言って来て、三度めに来た手紙なんぞの様子じゃ、良人の方の親類が、ああの、こうのって、面倒だから、それにつけても早々帰れじゃありませんか。また貴下を置いて、他に私の身についた縁者といってはないんですからね。どうせ帰れば近所近辺、一門一類が寄って集って、」  と婀娜に唇の端を上げると、顰めた眉を掠めて落ちた、鬢の毛を、焦ったそうに、背へ投げて掻上げつつ、 「この髪を挘りたくなるような思いをさせられるに極ってるけれど、東京へ来たら、生意気らしい、気の大きくなった上、二寸切られるつもりになって、度胸を極めて、伯母さんには内証ですがね、これでも自分で呆れるほど、了簡が据っていますけれど、だってそうは御厄介になっても居られませんもの。」 「いつまでも居て下さいよ。もう、私は、女房なんぞ持とうより、貴女に遊んでいてもらう方が、どんなに可いから知れやしない。」  と我儘らしく熱心に言った。  お民は言を途切らしつ、鉄瓶はやや音に出づる。 「謹さん、」 「ええ、」  お民は唾をのみ、 「ほんとうですか。」 「ほんとうですとも、まったくですよ。」 「ほんとうに、謹さん。」 「お民さんは、嘘だと思って。」 「じゃもういっそ。」  と烈しく火箸を灰について、 「帰らないでおきましょうか。」        五  我を忘れてお民は一気に、思い切っていいかけた、言の下に、あわれ水ならぬ灰にさえ、かず書くよりも果敢げに、しょんぼり肩を落したが、急に寂しい笑顔を上げた。 「ほほほほほ、その気で沢山御馳走をして下さいまし。お茶ばかりじゃ私は厭。」  といううち涙さしぐみぬ。 「謹さん、」  というも曇り声に、 「も、貴下、どうして、そんなに、優くいって下さるんですよ。こうした私じゃありませんか。」 「貴女でなくッて、お民さん、貴女は大恩人なんだもの。」 「ええ? 恩人ですって、私が。」 「貴女が、」 「まあ! 誰方のねえ?」 「私のですとも。」 「どうして、謹さん、私はこんなぞんざいだし、もう十七の年に、何にも知らないで児持になったんですもの。碌に小袖一つ仕立って上げた事はなく、貴下が一生の大切だった、そのお米のなかった時も、煙草も買ってあげないでさ。  後で聞いて口惜くって、今でも怨んでいるけれど、内証の苦しい事ったら、ちっとも伯母さんは聞かして下さらないし、あなたの御容子でも分りそうなものだったのに、私が気がつかないからでしょうけれど、いつお目にかかっても、元気よく、いきいきしてねえ、まったくですよ、今なんぞより、窶れてないで、もっと顔色も可かったもの……」 「それです、それですよ、お民さん。その顔色の可かったのも、元気よく活々していたのだって、貴女、貴女の傍に居る時の他に、そうした事を見た事はありますまい。  私はもう、影法師が死神に見えた時でも、貴女に逢えば、元気が出て、心が活々したんです。それだから貴女はついぞ、ふさいだ、陰気な、私の屈託顔を見た事はないんです。  ねえ。  先刻もいう通り、私の死んでしまった方が阿母のために都合よく、人が世話をしようと思ったほどで、またそれに違いはなかったんですもの。  実際私は、貴女のために活きていたんだ。  そして、お民さん。」  あるじが落着いて静にいうのを、お民は激しく聞くのであろう、潔白なるその顔に、湧上るごとき血汐の色。 「切迫詰って、いざ、と首の座に押直る時には、たとい場処が離れていても、きっと貴女の姿が来て、私を助けてくれるッて事を、堅くね、心の底に、確に信仰していたんだね。  まあ、お民さん許で夜更しして、じゃ、おやすみってお宅を出る。遅い時は寝衣のなりで、寒いのも厭わないで、貴女が自分で送って下さる。  門を出ると、あの曲角あたりまで、貴女、その寝衣のままで、暗の中まで見送ってくれたでしょう。小児が奥で泣いている時でも、雨が降っている時でも、ずッと背中まで外へ出して。  私はまた、曲り角で、きっと、密と立停まって、しばらく経って、カタリと枢のおりるのを聞いたんです。  その、帰り途に、濠端を通るんです。枢は下りて、貴女の寝た事は知りながら、今にも濠へ、飛込もうとして、この片足が崖をはずれる、背後でしっかりと引き留めて、何をするの、謹さん、と貴女がきっというと確に思った。  ですから、死のうと思い、助かりたい、と考えながら、そんな、厭な、恐ろしい濠端を通ったのも、枢をおろして寝なすった、貴女が必ず助けてくれると、それを力にしたんです。お庇で活きていたんですもの、恩人でなくッてさ、貴女は命の親なんですよ。」  とただ懐かしげに嬉しそうにいう顔を、じっと見る見る、ものをもいわず、お民ははらはらと、薄曇る燈の前に落涙した。 「お民さん、」 「謹さん、」  とばかり歯をカチリと、堰きあえぬ涙を噛み留めつつ、 「口についていうようでおかしいんですが、私もやっぱり。貴下は、もう、今じゃこんなにおなりですから、私は要らなくなったでしょうが、私は今も、今だって、その時分から、何ですよ、同じなんです、謹さん。慾にも、我慢にも、厭で厭で、厭で厭で死にたくなる時がありますとね、そうすると、貴下が来て、お留めなさると思ってね、それを便りにしていますよ。  まあ、同じようで不思議だから、これから別れて帰りましたら、私もまた、月夜にお濠端を歩行きましょう。そして貴下、謹さんのお姿が、そこへ出るのを見ましょうよ。」  と差俯向いた肩が震えた。  あるじは、思わず、火鉢なりに擦り寄って、 「飛んだ事を、串戯じゃありません、そ、そ、そんな事をいって、譲(小児の名)さんをどうします。」 「だって、だって、貴下がその年、その思いをしているのに、私はあの児を拵えました。そんな、そんな児を構うものか。」  とすねたように鋭くいったが、露を湛えた花片を、湯気やなぶると、笑を湛え、 「ようござんすよ。私はお濠を楽みにしますから。でも、こんなじゃ、私の影じゃ、凄い死神なら可いけれど、大方鼬にでも見えるでしょう。」  と投げたように、片身を畳に、褄も乱れて崩折れた。  あるじは、ひたと寄せて、押えるように、棄てた女の手を取って、 「お民さん。」 「…………」 「国へ、国へ帰しやしないから。」 「あれ、お待ちなさい伯母さんが。」 「どうした、どうしたよ。」  という母の声、下に聞えて、わっとばかり、その譲という児が。 「煩いねえ!ちょいと、見て来ますからね、謹さん。」  とはらりと立って、脛白き、敷居際の立姿。やがてトントンと階下へ下りたが、泣き留まぬ譲を横抱きに、しばらくして品のいい、母親の形で座に返った。燈火の陰に胸の色、雪のごとく清らかに、譲はちゅうちゅうと乳を吸って、片手で縋って泣いじゃくる。  あるじは、きちんと坐り直って、 「どうしたの、酷く怯えたようだっけ。」 「夢を見たかい、坊や、どうしたのだねえ。」  と頬に顔をかさぬれば、乳を含みつつ、愛らしい、大きな目をくるくるとやって、 「鼬が、阿母さん。」 「ええ、」  二人は顔を見合わせた。  あるじは、居寄って顔を覗き、ことさらに打笑い、 「何、内へ鼬なんぞ出るものか。坊や、鼠の音を聞いたんだろう。」  小児はなお含んだまま、いたいけに捻向いて、 「ううむ、内じゃないの。お濠ン許で、長い尻尾で、あの、目が光って、私、私を睨んで、恐かったの。」  と、くるりと向いて、ひったり母親のその柔かな胸に額を埋めた。  また顔を見合わせたが、今はその色も変らなかった。 「おお、そうかい、夢なんですよ。」 「恐かったな、恐かったな、坊や。」 「恐かったね。」  からからと格子が開いて、 「どうも、おそなわりました。」と勝手でいって、女中が帰る。 「さあ、御馳走だよ。」  と衝と立ったが、早急だったのと、抱いた重量で、裳を前に、よろよろと、お民は、よろけながら段階子。 「謹さん。」 「…………」 「翌朝のお米は?」  と艶麗に莞爾して、 「早く、奥さんを持って下さいよ。ああ、女中さん御苦労でした。」  と下を向いて高く言った。  その時襖の開く音がして、 「おそなわりました、御新造様。」  お民は答えず、ほと吐息。円髷艶やかに二三段、片頬を見せて、差覗いて、 「ここは閉めないで行きますよ。」 明治三十八(一九〇五)年六月 底本:「泉鏡花集成4」ちくま文庫、筑摩書房    1995(平成7)年10月24日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第九巻」岩波書店    1942(昭和17)年3月30日第1刷発行 入力:門田裕志 校正:今井忠夫 2003年8月31日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。