こがね丸 巌谷小波 Guide 扉 本文 目 次 こがね丸 少年文学序 凡例 上巻 第一回 第二回 第三回 第四回 第五回 第六回 第七回 第八回 下巻 第九回 第十回 第十一回 第十二回 第十三回 第十四回 第十五回 第十六回 少年文学序  奇獄小説に読む人の胸のみ傷めむとする世に、一巻の穉物語を著す。これも人真似せぬ一流のこころなるべし。欧羅巴の穉物語も多くは波斯の鸚鵡冊子より伝はり、その本源は印度の古文にありといへば、東洋は実にこの可愛らしき詩形の家元なり。あはれ、ここに染出す新暖簾、本家再興の大望を達して、子々孫々までも巻をかさねて栄へよかしと祷るものは、 本郷千駄木町の 鴎外漁史なり 凡例 一 この書題して「少年文学」といへるは、少年用文学との意味にて、独逸語の Jugendschrift (juvenile literature) より来れるなれど、我邦に適当の熟語なければ、仮にかくは名付けつ。鴎外兄がいはゆる穉物語も、同じ心なるべしと思ふ。 一 されば文章に修飾を勉めず、趣向に新奇を索めず、ひたすら少年の読みやすからんを願ふてわざと例の言文一致も廃しつ。時に五七の句調など用ひて、趣向も文章も天晴れ時代ぶりたれど、これかへつて少年には、誦しやすく解しやすからんか。 一 作者この『こがね丸』を編むに当りて、彼のゲーテーの Reineke Fuchs(狐の裁判)その他グリム、アンデルゼン等の Maerchen(奇異談)また我邦には桃太郎かちかち山を初めとし、古きは『今昔物語』、『宇治拾遺』などより、天明ぶりの黄表紙類など、種々思ひ出して、立案の助けとなせしが。されば引用書として、名記するほどにもあらず。 一 ちと手前味噌に似たれど、かかる種の物語現代の文学界には、先づ稀有のものなるべく、威張ていへば一の新現象なり。されば大方の詞友諸君、縦令わが作の取るに足らずとも、この後諸先輩の続々討て出で賜ふなれば、とかくこの少年文学といふものにつきて、充分論らひ賜ひてよト、これも予め願ふて置く。 一 詞友われを目して文壇の少年家といふ、そはわがものしたる小説の、多く少年を主人公にしたればなるべし。さるにこの度また少年文学の前坐を務む、思へば争はれぬものなりかし。 庚寅の臘月。もう八ツ寝るとお正月といふ日 昔桜亭において  漣山人誌 上巻 第一回  むかし或る深山の奥に、一匹の虎住みけり。幾星霜をや経たりけん、躯尋常の犢よりも大く、眼は百錬の鏡を欺き、鬚は一束の針に似て、一度吼ゆれば声山谷を轟かして、梢の鳥も落ちなんばかり。一山の豺狼麋鹿畏れ従はぬものとてなかりしかば、虎はますます猛威を逞うして、自ら金眸大王と名乗り、数多の獣類を眼下に見下して、一山万獣の君とはなりけり。  頃しも一月の初つ方、春とはいへど名のみにて、昨日からの大雪に、野も山も岩も木も、冷き綿に包まれて、寒風坐ろに堪えがたきに。金眸は朝より洞に籠りて、独り蹲まりゐる処へ、兼てより称心の、聴水といふ古狐、岨伝ひに雪踏み分て、漸く洞の入口まで来たり。雪を払ひてにじり入り、まづ慇懃に前足をつかへ、「昨日よりの大雪に、外面に出る事もならず、洞にのみ籠り給ひて、さぞかし徒然におはしつらん」トいへば。金眸は身を起こして、「噯聴水なりしか、よくこそ来りつれ。実に爾がいふ如く、この大雪にて他出もならねば、独り洞に眠りゐたるに、食物漸く空しくなりて、やや空腹う覚ゆるぞ。何ぞ好き獲物はなきや、……この大雪なればなきも宜なり」ト嘆息するを。聴水は打消し、「いやとよ大王。大王もし実に空腹くて、食物を求め給ふならば、僕好き獲物を進せん」「なに好き獲物とや。……そは何処に持来りしぞ」「否。此処には持ち侍らねど、大王些の骨を惜まずして、この雪路を歩みたまはば、僕よき処へ東道せん。怎麼に」トいへば。金眸呵々と打笑ひ、「やよ聴水。縦令ひわれ老いたりとて、焉ンぞこれしきの雪を恐れん。かく洞にのみ垂籠めしも、決して寒気を厭ふにあらず、獲物あるまじと思へばなり。今爾がいふ処偽ならずば、速に東道せよ、われ往きてその獲物を取らんに、什麼そは何処ぞ」トいへば。聴水はしたり顔にて、「大王速かに承引たまひて、僕も実に喜ばしく候。されば暫く心を静め給ひて、わがいふ事を聞き給へ。そもその獲物と申すは、この山の麓の里なる、荘官が家の飼犬にて、僕他には浅からぬ意恨あり。今大王往て他を打取たまはば、これわがための復讐、僕が欣喜これに如かず候」トいふに金眸訝りて、「こは怪しからず。その意恨とは怎麼なる仔細ぞ、苦しからずば語れかし」「さん候。一昨日の事なりし、僕かの荘官が家の辺を過りしに、納屋と覚き方に当りて、鶏の鳴く声す。こは好き獲物よと思ひしかば、即ち裏の垣より忍び入りて窠宿近く往かんとする時、他目慧くも僕を見付て、驀地に飛で掛るに、不意の事なれば僕は狼狽へ、急ぎ元入りし垣の穴より、走り抜けんとする処を、他わが尻尾を咬へて引きもどさんとす、われは払て出でんとす。その勢にこれ見そなはせ、尾の先少し齧み取られて、痛きこと太しく、生れも付かぬ不具にされたり。かくては大切なるこの尻尾も、老人の襟巻にさへ成らねば、いと口惜しく思ひ侍れど。他は犬われは狐、とても適はぬ処なれば、復讐も思ひ止まりて、意恨を呑で過ごせしが。大王、僕不憫と思召さば、わがために仇を返してたべ。さきに獲物を進せんといひしも、実はこの事願はんためなり」ト、いと哀れげに訴れば。金眸は打点頭き、「憎き犬の挙動かな。よしよし今に一攫み、目に物見せてくれんずほどに、心安く思ふべし」ト、かつ慰めかつ怒り、やがて聴水を前に立てて、脛にあまる雪を踏み分けつつ、山を越え渓を渉り、ほどなく麓に出でけるに、前に立ちし聴水は立止まり、「大王、彼処に見ゆる森の陰に、今煙の立昇る処は、即ち荘官が邸にて候が、大王自ら踏み込み給ふては、徒らに人間を驚かすのみにて、敵の犬は逃げんも知れず。これには僕よき計策あり」とて、金眸の耳に口よせ、何やらん耳語しが、また金眸が前に立ちて、高慢顔にぞ進みける。 第二回  ここにこの里の荘官の家に、月丸花瀬とて雌雄の犬ありけり。年頃情を掛て飼ひけるほどに、よくその恩に感じてや、いとも忠実に事ふれば、年久しく盗人といふ者這入らず、家は増々栄えけり。  降り続く大雪に、伯母に逢ひたる心地にや、月丸は雌諸共に、奥なる広庭に戯れゐしが。折から裏の窠宿の方に当りて、鶏の叫ぶ声切りなるに、哮々と狐の声さへ聞えければ。「さては彼の狐めが、また今日も忍入りしよ。いぬる日あれほど懲しつるに、はや忘しと覚えたり。憎き奴め用捨はならじ、此度こそは打ち取りてん」ト、雪を蹴立てて真一文字に、窠宿の方へ走り往ば、狐はかくと見よりも、周章狼狽逃げ行くを、なほ逃さじと追駆けて、表門を出んとする時、一声嗡と哮りつつ、横間より飛で掛るものあり。何者ならんと打見やれば、こはそも怎麼にわれよりは、二層も大なる虎の、眼を怒らし牙をならし、爪を反らしたるその状態、恐しなんどいはん方なし。尋常の犬なりせば、その場に腰をも抜すべきに。月丸は原来心猛き犬なれば、そのまま虎に噉てかかり、喚叫んで暫時がほどは、力の限り闘ひしが。元より強弱敵しがたく、無残や肉裂け皮破れて、悲鳴の中に息絶たる。その死骸を嘴に咬へ、あと白雪を蹴立つつ、虎は洞へと帰り行く。あとには流るる鮮血のみ、雪に紅梅の花を散らせり。  雌の花瀬は最前より、物陰にありて件の様子を、残りなく詠めゐしが。身は軟弱き雌犬なり。かつはこのほどより乳房垂れて、常ならぬ身にしあれば、雄が非業の最期をば、目前見ながらも、救くることさへ成りがたく、独り心を悶へつつ、いとも哀れなる声張上げて、頻りに吠え立つるにぞ、人々漸く聞きつけて、凡事ならずと立出でて見れば。門前の雪八方に蹴散らしたる上に、血夥しく流れたるが、只見れば遙の山陰に、一匹の大虎が、嘴に咬へて持て行くものこそ、正しく月丸が死骸なれば、「さては彼の虎めに喰はれしか、今一足早かりせば、阿容々々他は殺さじものを」ト、主人は悶蹈して悔めども、さて詮術もあらざれば、悲しみ狂ふ花瀬を賺かして、その場は漸くに済ませしが。済まぬは花瀬が胸の中、その日よりして物狂はしく。旦暮小屋にのみ入りて、与ふる食物も果敢々々敷は喰はず。怪しき声して啼狂ひ、門を守ることだにせざれば、物の用にも立ぬなれど、主人は事の由来を知れば、不憫さいとど増さりつつ、心を籠めて介抱なせど。花瀬は次第に窶るるのみにて、今は肉落ち骨秀で、鼻頭全く乾きて、この世の犬とも思はれず、頼み少なき身となりけり。かかる折から月満ちけん、俄かに産の気萌しつつ、苦痛の中に産み落せしは、いとも麗はしき茶色毛の、雄犬ただ一匹なるが。背のあたりに金色の毛混りて、妙なる光を放つにぞ、名をばそのまま黄金丸と呼びぬ。  さなきだに病疲れし上に、嬰児を産み落せし事なれば、今まで張りつめし気の、一時に弛み出でて、重き枕いよいよ上らず、明日をも知れぬ命となりしが。臨終の際に、兼てより懇意せし、裏の牧場に飼はれたる、牡丹といふ牝牛をば、わが枕辺に乞ひよせ。苦しき息を喘ト吻き、「さて牡丹ぬし。見そなはす如き妾が容体、とても在命る身にしあらねば、臨終の際にただ一事、阿姐に頼み置きたき件あり。妾が雄月丸ぬしは、いぬる日猛虎金眸がために、非業の最期を遂げしとは、阿姐も知り給ふ処なるが。彼時妾目前り、雄が横死を見ながらに、これを救けんともせざりしは、見下げ果てたる不貞の犬よと、思ひし獣もありつらんが。元より犬の雌たる身の、たとひその身は亡ぶとも、雄が危急を救ふべきは、いふまでもなき事にして、義を知る獣の本分なれば、妾とて心付かぬにはあらねど、彼時命を惜みしは、妾が常ならぬ身なればなり。もし妾も彼処に出でて、虎と争ひたらんには。雄と共に殺されてん。さる時は誰か仇をば討つべきぞ。結句は親子三匹して、命を捨るに異ならねば、これ貞に似て貞にあらず、真の犬死とはこの事なり。かくと心に思ひしかば、忍びがたき処を忍び、堪えがたきを漸く堪えて、見在雄を殺せしが。これも偏へに胎の児を、産み落したるその上にて。仇を討たせんと思へばなり。さるに妾不幸にして、いひ甲斐なくも病に打ち臥し、已に絶えなん玉の緒を、辛く繋ぎて漸くに、今この児は産み落せしか。これを養育むこと叶はず、折角頼みし仇討ちも、仇になりなん口惜しさ、推量なして給はらば、何卒この児を阿姐の児となし、阿姐が乳もて育てあげ。他もし一匹前の雄犬となりなば、その時こそは妾が今の、この言葉をば伝へ給ひて、妾がためには雄の仇、他がためには父の仇なる、彼の金眸めを打ち取るやう、力に成て給はれかし。頼みといふはこの件のみ。頼む〳〵」トいふ声も、次第に細る冬の虫草葉の露のいと脆き、命は犬も同じことなり。 第三回  悼はしや花瀬は、夫の行衛追ひ駆けて、後より急ぐ死出の山、その日の夕暮に没りしかば。主人はいとど不憫さに、その死骸を棺に納め、家の裏なる小山の蔭に、これを埋めて石を置き、月丸の名も共に彫り付けて、形ばかりの比翼塚、跡懇切にぞ弔ひける。  かくて孤児の黄金丸は、西東だにまだ知らぬ、藁の上より牧場なる、牡丹が許に養ひ取られ、それより牛の乳を呑み、牛の小屋にて生立ちしが。次第に成長するにつけ、骨格尋常の犬に勝れ、性質も雄々しくて、天晴れ頼もしき犬となりけり。  さてまた牡丹が雄文角といへるは、性来義気深き牛なりければ、花瀬が遺言を堅く守りて、黄金丸の養育に、旦暮心を傾けつつ、数多の犢の群に入れて。或時は角闘を取らせ、または競争などさせて、ひたすら力業を勉めしむるほどに。その甲斐ありて黄金丸も、力量あくまで強くなりて、大概の犬と噬み合ふても、打ち勝つべう覚えしかば。文角も斜ならず喜び、今は時節もよかるべしと、或時黄金丸を膝近くまねき、さて其方は実の児にあらず、斯様々々云々なりと、一伍一什を語り聞かせば。黄金丸聞きもあへず、初めて知るわが身の素性に、一度は驚き一度は悲しみ、また一度は金眸が非道を、切歯して怒り罵り、「かく聞く上は一日も早く、彼の山へ走せ登り、仇敵金眸を噬み殺さん」ト、敦圉あらく立かかるを、文角は霎時と押し止め、「然思ふは理なれど、暫くまづわが言葉を、心ろを静めて聞きねかし。原来其方が親の仇敵、ただに彼の金眸のみならず。他が配下に聴水とて、いと獰悪き狐あり。此奴ある日鶏を盗みに入りて、端なく月丸ぬしに見付られ、他が尻尾を噛み取られしを、深く意恨に思ひけん。自己の力に及ばぬより、彼の虎が威を仮りて、さてはかかる事に及びぬ。然れば真の仇敵とするは、虎よりもまづ狐なり。さるに今其方が、徒らに猛り狂ふて、金眸が洞に駆入り、他と雌雄を争ふて、万一誤つて其方負けなば、当の仇敵の狐も殺さず、その身は虎の餌とならん。これこそわれから死を求むる、火取虫より愚なる業なれ。殊に対手は年経し大虎、其方は犬の事なれば、縦令ひ怎麼なる力ありとも、尋常に噬み合ふては、彼に勝んこといと難し。それよりは今霎時、牙を磨き爪を鍛へ、まづ彼の聴水めを噛み殺し、その上時節の到るを待て、彼の金眸を打ち取るべし。今匹夫の勇を恃んで、世の胡慮を招かんより、無念を堪えて英気を養ひ以て時節を待つには如かじ」ト、事を分けたる文角が言葉に、実もと心に暁得りしものから。黄金丸はややありて、「かかる義理ある中なりとは、今日まで露知ず、真の父君母君と思ひて、我儘気儘に過したる、無礼の罪は幾重にも、許したまへ」ト、数度養育の恩を謝し。さて更めていへるやう、「知らぬ疇昔は是非もなけれど、かくわが親に仇敵あること、承はりて知る上は、黙して過すは本意ならず、それにつき、爰に一件の願ひあり、聞入れてたびてんや」「願ひとは何事ぞ、聞し上にて許しもせん」「そは余の事にも候はず、某に暇を賜はれかし。某これより諸国を巡ぐり、あまねく強き犬と噬み合ふて、まづわが牙を鍛へ。傍ら仇敵の挙動に心をつけ、機会もあらば名乗りかけて、父の讐を復してん。年頃受けし御恩をば、返しも敢へずこれよりまた、御暇を取らんとは、義を弁へぬに似たれども、親のためなり許し給へ。もし某幸ひにして、見事父の讐を復し、なほこの命恙なくば、その時こそは心のまま、御恩に報ゆることあるべし。まづそれまでは文角ぬし、霎時の暇賜はりて……」ト、涙ながらに掻口説けば、文角は微笑て、「さもこそあらめ、よくぞいひし。其方がいはずば此方より、強ても勧めんと思ひしなり。思のままに武者修行して、天晴れ父の仇敵を討ちね」ト、いふに黄金丸も勇み立ち。善は急げと支度して、「見事金眸が首取らでは、再び主家には帰るまじ」ト、殊勝にも言葉を盟ひ文角牡丹に別を告げ、行衛定めぬ草枕、われから野良犬の群に入りぬ。 第四回  昨日は富家の門を守りて、頸に真鍮の輪を掛し身の、今日は喪家の狗となり果て、寝るに窠なく食するに肉なく、夜は辻堂の床下に雨露を凌いで、無躾なる土豚に驚かされ。昼は肴屋の店頭に魚骨を求めて、情知らぬ人の杖に追立られ。或時は村童に曳かれて、大路に他し犬と争ひ、或時は撲犬師に襲はれて、藪蔭に危き命を拾ふ。さるほどに黄金丸は、主家を出でて幾日か、山に暮らし里に明かしけるに。或る日いと広やかなる原野にさし掛りて、行けども行けども里へは出でず。日さへはや暮れなんとするに、宿るべき木陰だになければ、有繋に心細きままに、ひたすら路を急げども。今日は朝より、一滴の水も飲まず、一塊の食も喰はねば、肚饑きこといはん方なく。苦しさに堪えかねて、暫時路傍に蹲まるほどに、夕風肌膚を侵し、地気骨に徹りて、心地死ぬべう覚えしかば。黄金丸は心細さいやまして、「われ主家を出でしより、到る処の犬と争しが、かつて屑ともせざりしに。饑てふ敵には勝ちがたく、かくてはこの原の露と消て、鴉の餌となりなんも知られず。……里まで出づれば食物もあらんに、それさへ四足疲れはてて、今は怎麼にともすべきやうなし。ああいひ甲斐なき事哉」ト、途方に打くれゐたる折しも。何処よりか来りけん、忽ち一団の燐火眼前に現れて、高く揚り低く照らし、娑々と宙を飛び行くさま、われを招くに等しければ。黄金丸はやや暁得りて、「さてはわが亡親の魂魄、仮に此処に現はれて、わが危急を救ひ給ふか。阿那感謝し」ト伏し拝みつつ、その燐火の行くがまにまに、路四、五町も来ると覚しき頃、忽ち鉄砲の音耳近く聞えつ、燐火は消えて見えずなりぬ。こはそも怎麼なる処ぞと、四辺を見廻はせば、此処は大なる寺の門前なり。訝しと思ふものから、門の中に入りて見れば。こは大なる古刹にして、今は住む人もなきにや、床は落ち柱斜めに、破れたる壁は蔓蘿に縫はれ、朽ちたる軒は蜘蛛の網に張られて、物凄きまでに荒れたるが。折しも秋の末なれば、屋根に生ひたる芽生の楓、時を得顔に色付きたる、その隙より、鬼瓦の傾きて見ゆるなんぞ、戸隠し山の故事も思はれ。尾花丈高く生茂れる中に、斜めにたてる石仏は、雪山に悩む釈迦仏かと忍ばる。──只見れば苔蒸したる石畳の上に。一羽の雉子身体に弾丸を受けしと覚しく、飛ぶこともならで苦みをるに。こは好き獲物よと、急ぎ走り寄て足に押へ、已に喰はんとなせしほどに。忽ち後に声ありて、「憎き野良犬、其処動きそ」ト、大喝一声吠えかかるに。黄金丸は打驚き、後を顧りて見れば、真白なる猟犬の、われを噛まんと身構たるに、黄金丸も少し焦燥つて、「無礼なり何奴なれば、われを野良犬と詈るぞ」「無礼なりとは爾が事なり。わが飼主の打取りたまひし、雉子を爾盗まんとするは、言語に断えし無神狗かな」「否、こはわれ此処にて拾ひしなり」「否、爾が盗みしなり。見れば頸筋に輪もあらず、爾曹如き奴あればこそ、撲犬師が世に殖えて、わが們まで迷惑するなれ」「許しておけば無礼な雑言、重ねていはば手は見せまじ」「そはわれよりこそいふことなれ、爾曹如きと問答無益し。怪我せぬ中にその鳥を、われに渡して疾く逃げずや」「返す返すも舌長し、折角拾ひしこの鳥を、阿容々々爾に得させんや」「這ツ面倒なりかうしてくれん」ト、飛でかかれば黄金丸も、稜威しやと振り払て、また噬み付くを丁と蹴返し、その咽喉を噬んとすれば、彼方も去る者身を沈めて、黄金丸の股を噬む。黄金丸は饑渇に疲れて、勇気日頃に劣れども、また尋常の犬にあらぬに、彼方もなかなかこれに劣らず、互ひに挑闘ふさま、彼の花和尚が赤松林に、九紋竜と争ひけるも、かくやと思ふ斗りなり。  先きのほどより、彼方の木陰に身を忍ばせ、二匹の問答を聞ゐたる、一匹の黒猫ありしが。今二匹が噬合ひはじめて、互ひに負けじと争ひたる、その間隙を見すまして、静かに忍び寄るよと見えしが、やにはに捨てたる雉子を咬へて、脱兎の如く逃げ行くを、ややありて二匹は心付き。南無三してやられしと思ひしかども今更追ふても及びもせずと、雉子を咬へて磚𤗼をば、越え行く猫の後姿、打ち見やりつつ茫然と、噬み合ふ嘴も開いたままなり。 第五回  鷸蚌互ひに争ふ時は遂に猟師の獲となる。それとこれとは異なれども、われ曹二匹争はずば、彼の猫如きに侮られて、阿容々々雉子は取られまじきにト、黄金丸も彼の猟犬も、これかれ斉しく左右に分れて、ひたすら嘆息なせしかども。今更に悔いても詮なしト、漸くに思ひ定めつ。ややありて猟犬は、黄金丸にうち向ひ、「さるにても御身は、什麼何処の犬なれば、かかる処にに漂泊ひ給ふぞ。最前より噬あひ見るに、世にも鋭き御身が牙尖、某如きが及ぶ処ならず。もし彼の鳥猫に取られずして、なほも御身と争ひなば、わが身は遂に噬斃されて、雉子は御身が有となりてん。……これを思へば彼の猫も、わがためには救死の恩あり。ああ、危ふかりし危ふかりし」ト、数度嘆賞するに。黄金丸も言葉を改め、「こは過分なる賛詞かな。さいふ御身が本事こそ。なかなか及ばぬ処なれト、心私かに敬服せり。今は何をか裹むべき、某が名は黄金丸とて、以前は去る人間に事へて、守門の役を勤めしが、宿願ありて暇を乞ひ、今かく失主狗となれども、決して怪しき犬ならず。さてまた御身が尊名怎麼に。苦しからずば名乗り給へ」ト、いへば猟犬は打点頭き、「さもありなんさもこそと、某も疾く猜したり。さらば御身が言葉にまかせて、某が名も名乗るべし。見らるる如く某は、この辺の猟師に事ふる、猟犬にて候が。ある時鷲を捉て押へしより、名をば鷲郎と呼ばれぬ。こは鷲を捉りし白犬なれば、鷲白といふ心なるよし。元より屑ならぬ犬なれども、猟には得たる処あれば、近所の犬ども皆恐れて、某が前に尾を垂れぬ者もなければ、天下にわれより強き犬は、多くあるまじと誇りつれど。今しも御身が本事を見て、わが慢心を太く恥ぢたり。そはともあれ、今御身が語られし、宿願の仔細は怎麼にぞや」ト、問ふに黄金丸は四辺を見かへり、「さらば委敷語り侍らん……」とて、父が非業の死を遂げし事、わが身は牛に養はれし事、それより虎と狐を仇敵とねらひ、主家を出でて諸国を遍歴せし事など、落ちなく語り聞かすほどに。鷲郎はしばしば感嘆の声を発せしが、ややありていへるやう、「その事なれば及ばずながら、某一肢の力を添へん。われ彼の金眸に意恨はなけれど、彼奴猛威を逞うして、余の獣類を濫りに虐げ。あまつさへ饑る時は、市に走りて人間を騒がすなんど、片腹痛き事のみなるに、機会もあらば挫がんと、常より思ひゐたりしが。名に負ふ金眸は年経し大虎、われ怎麼に猟に長けたりとも、互角の勝負なりがたければ、虫を殺して無法なる、他が挙動を見過せしが。今御身が言葉を聞けば、符を合す互ひの胸中。これより両犬心を通じ、力を合せて彼奴を狙はば、いづれの時か討たざらん」ト。いふに黄金丸も勇み立ちて、「頼もしし頼もしし、御身已にその意ならば、某また何をか恐れん。これより両犬義を結び、親こそ異れこの後は、兄となり弟となりて、共に力を尽すべし。某この年頃諸所を巡りて、数多の犬と噬み合ひたれども、一匹だにわが牙に立つものなく、いと本意なく思ひゐしに。今日不意く御身に出逢て、かく頼もしき伴侶を得ること、実に亡父の紹介ならん。さきに路を照らせし燐火も、今こそ思ひ合はしたれ」ト、独り感涙にむせびしが。猟犬は霎時ありて、「某今御身と契を結びて、彼の金眸を討たんとすれど、飼主ありては心に任せず。今よりわれも頸輪を棄て、御身と共に失主狗とならん」ト、いふを黄金丸は押止め、「こは漫なり鷲郎ぬし、わがために主を棄る、その志は感謝けれど、これ義に似て義にあらず、かへつて不忠の犬とならん。この儀は思ひ止まり給へ」「いやとよ、その心配は無用なり。某猟師の家に事へ、をさをさ猟の業にも長けて、朝夕山野を走り巡り、数多の禽獣を捕ふれども。熟ら思へば、これ実に大なる不義なり。縦令ひ主命とはいひながら、罪なき禽獣を徒らに傷めんは、快き事にあらず。彼の金眸に比べては、その悪五十歩百歩なり。此をもて某常よりこの生業を棄てんと、思ふこと切なりき。今日この機会を得しこそ幸なれ、断然暇を取るべし」ト。いひもあへず、頸輪を振切りて、その決心を示すにぞ。黄金丸も今は止むる術なく、「かく御身の心定まる上は、某また何をかいはん。幸ひなる哉この寺は、荒果てて住む人なく、われ曹がためには好き棲居なり。これより両犬此処に棲みてん」ト、それより連立ちて寺の中に踏入り、方丈と覚しき所に、畳少し朽ち残りたるを撰びて、其処をば棲居と定めける。 第六回  恁て黄金丸は鷲郎と義を結びて、兄弟の約をなし、この古刹を棲居となせしが。元より養ふ人なければ、食物も思ふにまかせぬにぞ、心ならずも鷲郎は、慣し業とて野山に猟し、小鳥など捉りきては、漸くその日の糧となし、ここに幾日を送りけり。  或日黄金丸は、用事ありて里に出でし帰途、独り畠径を辿り往くに、只見れば彼方の山岸の、野菊あまた咲き乱れたる下に、黄なる獣眠りをれり。大さ犬の如くなれど、何処やらわが同種の者とも見えず。近づくままになほよく見れば、耳立ち口尖りて、正しくこれ狐なるが、その尾の尖の毛抜けて醜し。この時黄金丸思ふやう、「さきに文角ぬしが物語に、聴水といふ狐は、かつてわが父月丸ぬしのために、尾の尖咬切られてなしと聞きぬ。今彼の狐を見るに、尾の尖断離れたり。恐らくは聴水ならん。阿那、有難や感謝や。此処にて逢ひしは天の恵みなり。将一噬みに……」ト思ひしが。有繋義を知る獣なれば、眠込みを噬まんは快からず。かつは誤りて他の狐ならんには、無益の殺生なりと思ひ。やや近く忍びよりて、一声高く「聴水」ト呼べば、件の狐は打ち驚き、眼も開かずそのままに、一間ばかり跌踢んで、慌しく逃げんとするを。逃がしはせじと黄金丸は、㗲叫んで追駆るに。彼方の狐も一生懸命、畠の作物を蹴散らして、里の方へ走りしが、只ある人家の外面に、結ひ繞らしたる生垣を、閃と跳り越え、家の中に逃げ入りしにぞ。続いて黄金丸も垣を越え、家の中を走り抜けんとせし時。六才ばかりなる稚児の、余念なく遊びゐたるを、過失て蹴倒せば、忽ち唖と泣き叫ぶ。その声を聞き付て、稚児の親なるべし、三十ばかりなる大男、裏口より飛で入しが。今走り出でんとする、黄金丸を見るよりも、さては此奴が噬みしならんト、思ひ僻めつ大に怒て、あり合ふ手頃の棒おつとり、黄金丸の真向より、骨も砕けと打ちおろすに、さしもの黄金丸肩を打たれて、「呀」ト一声叫びもあへず、後に撲地と倒るるを、なほ続けさまに打ちたたかれしが。やがて太き麻縄もて、犇々と縛められぬ。その間に彼の聴水は、危き命助かりて、行衛も知らずなりけるに。黄金丸は、無念に堪へかね、切歯して吠え立つれば。「おのれ人間の子を傷けながら、まだ飽きたらで猛り狂ふか。憎き狂犬よ、今に目に物見せんず」ト、曳立て曳立て裏手なる、槐の幹に繋ぎけり。  倶不戴天の親の仇、たまさか見付けて討たんとせしに、その仇は取り逃がし、あまつさへその身は僅少の罪に縛められて邪見の杖を受る悲しさ。さしもに猛き黄金丸も、人間に牙向ふこともならねば、ぢつと無念を圧ゆれど、悔し涙に地は掘れて、悶踏に木も動揺ぐめり。  却説く鷲郎は、今朝より黄金丸が用事ありとて里へ行きしまま、日暮れても帰り来ぬに、漸く心安からず。幾度か門に出でて、彼方此方を眺れども、それかと思ふ影だに見えねば。万一他が身の上に、怪我はなきやと思ふものから。「他元より尋常の犬ならねば、無差と撲犬師に打たれもせまじ。さるにても心元なや」ト、頻りに案じ煩ひつつ。虚々とおのれも里の方へ呻吟ひ出でて、或る人家の傍を過りしに。ふと聞けば、垣の中にて怪き呻き声す。耳傾けて立聞けば、何処やらん黄金丸の声音に似たるに。今は少しも逡巡はず。結ひ繞らしたる生垣の穴より、入らんとすれば生憎に、枳殻の針腹を指すを、辛うじてくぐりつ。声を知るべに忍びよれば。太き槐の樹に括り付けられて、蠢動きゐるは正しくそれなり。鷲郎はつと走りよりて、黄金丸を抱き起し、耳に口あてて「喃、黄金丸、気を確に持ちねかし。われなり、鷲郎なり」ト、呼ぶ声耳に通じけん、黄金丸は苦しげに頭を擡げ、「こは鷲郎なりしか。嬉しや」ト、いふさへ息も絶々なるに、鷲郎は急ぎ縄を噬み切りて、身体の痍を舐りつつ、「怎麼にや黄金丸、苦しきか。什麼何としてこの状態ぞ」ト、かつ勦はりかつ尋ぬれば。黄金丸は身を震はせ、かく縛められし事の由来を言葉短に語り聞かせ。「とかくは此処を立ち退かん見付けられなば命危し」ト、いふに鷲郎も心得て、深痍になやむ黄金丸をわが背に負ひつ、元入りし穴を抜け出でて、わが棲居へと急ぎけり。 第七回  鷲郎に助けられて、黄金丸は漸く棲居へ帰りしかど、これより身体痛みて堪えがたく。加之右の前足骨挫けて、物の用にも立ち兼ぬれば、口惜しきこと限りなく。「われこのままに不具の犬とならば、年頃の宿願いつか叶へん。この宿願叶はずば、養親なる文角ぬしに、また合すべき面なし」ト、切歯して掻口説くに、鷲郎もその心中猜しやりて、共に無念の涙にくれしが。「さな嘆きそ。世は七顛八起といはずや。心静かに養生せば、早晩は癒ざらん。某身辺にあるからは、心丈夫に持つべし」ト、あるいは詈りあるいは励まし、甲斐々々しく介抱なせど、果敢々々しき験も見ぬに、ひたすら心を焦燥ちけり。或日鷲郎は、食物を取らんために、午前より猟に出で、黄金丸のみ寺に残りてありしが。折しも小春の空長閑く、斜廡を洩れてさす日影の、払々と暖きに、黄金丸は床をすべり出で、椽端に端居して、独り鬱陶に打ちくれたるに。忽ち天井裏に物音して、救助を呼ぶ鼠の声かしましく聞えしが。やがて黄金丸の傍に、一匹の雌鼠走り来て、股の下に忍び入りつ、救助を乞ふものの如し。黄金丸はいと不憫に思ひ、件の雌鼠を小脇に蔽ひ、そも何者に追はれしにやと、彼方を佶ト見やれば、破れたる板戸の陰に身を忍ばせて、此方を窺ふ一匹の黒猫あり。只見れば去る日鷲郎と、かの雉子を争ひける時、間隙を狙ひて雉子をば、盗み去りし猫なりければ。黄金丸は大に怒りて、一飛びに喰てかかり、慌てて柱に攀昇る黒猫の、尾を咬へて曳きおろし。踏躙り噬み裂きて、立在に息の根止めぬ。  この時雌鼠は恐る恐る黄金丸の前へ這ひ寄りて、慇懃に前足をつかへ、数度頭を垂れて、再生の恩を謝すほどに、黄金丸は莞爾と打ち笑み、「爾は何処に棲む鼠ぞ。また彼の猫は怎麼なる故に、爾を傷けんとはなせしぞ」ト、尋ぬれば。鼠は少しく膝を進め、「さればよ殿聞き給へ。妾が名は阿駒と呼びて、この天井に棲む鼠にて侍り。またこの猫は烏円とて、この辺に棲む無頼猫なるが。兼てより妾に懸想し、道ならぬ戯れなせど。妾は定まる雄あれば、更に承引く色もなく、常に強面き返辞もて、かへつて他を窘めしが。かくても思切れずやありけん、今しも妾が巣に忍び来て、無残にも妾が雄を噬みころし、妾を奪ひ去らんとするより、逃げ惑ふて遂にかく、殿の枕辺を騒がせし、無礼の罪は許したまへ」ト、涙ながらに物語れば、黄金丸も不憫の者よト、件の鼠を慰めつつ、彼の烏円を尻目にかけ、「さりとては憎き猫かな。這奴はいぬる日わが鳥を、盗み去りしことあれば、われまた意恨なきにあらず。年頃なせし悪事の天罰、今報ひ来てかく成りしは、実に気味よき事なりけり」ト、いふ折から彼の鷲郎は、小鳥二、三羽嘴に咬はへて、猟より帰り来りしが。この体態を見て、事の由来を尋ぬるに、黄金丸はありし仕末を落ちなく語れば。鷲郎もその功労を称賛しつ、「かくては御身が疾病も、遠ほからずして癒ゆべし」など、いひて共に打ち興じ。やがて持ち来りし小鳥と共に、烏円が肉を裂きて、思ひのままにこれを喰ひぬ。  さてこの時より彼の阿駒は、再生の恩に感じけん、朝夕黄金丸が傍に傅きて、何くれとなく忠実に働くにぞ、黄金丸もその厚意を嘉し、情を掛て使ひけるが、もとこの阿駒といふ鼠は、去る香具師に飼はれて、種々の芸を仕込まれ、縁日の見世物に出し身なりしを、故ありて小屋を忍出で、今この古刹に住むものなれば。折々は黄金丸が枕辺にて、有漏覚えの舞の手振、または綱渡り籠抜けなんど。古し取たる杵柄の、覚束なくも奏でけるに、黄金丸も興に入りて、病苦もために忘れけり。 第八回  黄金丸が病に伏してより、やや一月にも余りしほどに、身体の痛みも失せしかど、前足いまだ癒えずして、歩行もいと苦しければ、心頻りに焦燥つつ、「このままに打ち過ぎんには、遂に生れもつかぬ跛犬となりて、親の仇さへ討ちがたけん。今の間によき薬を得て、足を癒さでは叶ふまじ」ト、その薬を索るほどに。或日鷲郎は慌しく他より帰りて、黄金丸にいへるやう、「やよ黄金丸喜びね。某今日好き医師を聞得たり」トいふに。黄金丸は膝を進め、「こは耳寄りなることかな、その医師とは何処の誰ぞ」ト、連忙はしく問へば、鷲郎は荅へて、「さればよ。某今日里に遊びて、古き友達に邂逅ひけるが。その犬語るやう、此処を去ること南の方一里ばかりに、木賊が原といふ処ありて、其処に朱目の翁とて、貴き兎住めり。この翁若き時は、彼の柴刈りの爺がために、仇敵狸を海に沈めしことありしが。その功によりて月宮殿より、霊杵と霊臼とを賜はり、そをもて万の薬を搗きて、今は豊に世を送れるが。この翁が許にゆかば、大概の獣類の疾病は、癒えずといふことなしとかや。その犬も去る日村童に石を打たれて、左の後足を破られしが、件の翁が薬を得て、その痍とみに癒しとぞ。さればわれ直ちに往きて、薬を得て来んとは思ひしかど。御身自ら彼が許にゆきて、親しくその痍を見せなば、なほ便宜よからんと思ひて、われは行かでやみぬ。御身少しは苦しくとも、全く歩行出来ぬにはあらじ、明日にも心地よくば、試みに往きて見よ」ト、いふに黄金丸は打喜び、「そは実に嬉しき事かな。さばれかく貴き医師のあることを、今日まで知らざりし鈍ましさよ。とかくは明日往きて薬を求めん」ト、海月の骨を得し心地して、その翌日朝未明より立ち出で、教へられし路を辿りて、木賊が原に来て見るに。櫨楓なんどの色々に染めなしたる木立の中に、柴垣結ひめぐらしたる草庵あり。丸木の柱に木賊もて檐となし。竹椽清らかに、筧の水も音澄みて、いかさま由緒ある獣の棲居と覚し。黄金丸は柴門に立寄りて、丁々と訪へば。中より「誰ぞ」ト声して、朱目自ら立出づるに。見れば耳長く毛は真白に、眼紅に光ありて、一目尋常の兎とも覚えぬに。黄金丸はまづ恭しく礼を施し、さて病の由を申聞えて、薬を賜はらんといふに、彼の翁心得て、まづその痍を打見やり、霎時舐りて後、何やらん薬をすりつけて。さていへるやう、「わがこの薬は、畏くも月宮殿の嫦娥、親ら伝授したまひし霊法なれば、縦令怎麼なる難症なりとも、とみに癒ること神の如し。今御身が痍を見るに、時期後れたればやや重けれど、今宵の中には癒やして進ずべし。ともかくも明日再び来たまへ、聊か御身に尋ねたき事もあれば……」ト、いふに黄金丸打よろこび、やがて別を告げて立帰りしが。途すがら只ある森の木陰を過りしに、忽ち生茂りたる木立の中より、兵ト音して飛び来る矢あり。心得たりと黄金丸は、身を捻りてその矢をば、発止ト牙に噬みとめつ、矢の来し方を佶ト見れば。二抱へもある赤松の、幹両股になりたる処に、一匹の黒猿昇りゐて、左手に黒木の弓を持ち、右手に青竹の矢を採りて、なほ二の矢を注へんとせしが。黄金丸が睨め付し、眼の光に恐れけん、その矢も得放たで、慌しく枝に走り昇り、梢伝ひに木隠れて、忽ち姿は見えずなりぬ。かくて次の日になりけるに、不思議なるかな萎えたる足、朱目が言葉に露たがはず、全く癒えて常に異ならねば。黄金丸は雀躍して喜び。急ぎ礼にゆかんとて、些ばかりの豆滓を携へ、朱目が許に行きて、全快の由申聞え、言葉を尽して喜悦を陳べつ。「失主狗にて思ふに任せねど、心ばかりの薬礼なり。願くは納め給へ」ト、彼の豆滓を差し出せば。朱目も喜びてこれを納め。ややありていへるやう、「昨日御身に聞きたきことありといひしが、余の事ならず」ト、いひさして容をあらため、「某幾歳の劫量を歴て、やや神通を得てしかば、自ら獣の相を見ることを覚えて、十に一も誤なし。今御身が相を見るに、世にも稀なる名犬にして、しかも力量万獣に秀でたるが、遠からずして、抜群の功名あらん。某この年月数多の獣に逢ひたれども、御身が如きはかつて知らず。思ふに必ず由緒ある身ならん、その素性聞かまほし」トありしかば。黄金丸少しもつつまず、おのが素性来歴を語れば。朱目は聞いて膝を打ち。「それにてわれも会得したり。総じて獣類は胎生なれど、多くは雌雄数匹を孕みて、一親一子はいと稀なり。さるに御身はただ一匹にて生まれしかば、その力五、六匹を兼ねたり。加之牛に養はれて、牛の乳に育まれしかば、また牛の力量をも受得て、けだし尋常の犬の猛きにあらず。さるに怎麼なればかく、鈍くも足を傷られ給ひし」ト、訝かり問へば黄金丸は、「これには深き仔細あり。原来某は、彼の金眸と聴水を、倶不戴天の仇と狙ふて、常に油断なかりしが。去る日件の聴水を、途中にて見付しかば、名乗りかけて討たんとせしに、かへつて他に方便られて、遂にかかる不覚を取りぬ」ト、彼のときの事具に語りつつ、「思へば憎き彼の聴水、重ねて見当らばただ一噬みと、朝夕心を配ばれども、彼も用心して更に里方へ出でざれば、意恨を返す手掛りなく、無念に得堪えず候」ト、いひ畢りて切歯をすれば、朱目も点頭きて、「御身が心はわれとく猜しぬ、さこそ無念におはすらめ。さりながら黄金ぬし。御身実に他を討たんとならば。われに好き計略あり、及ばぬまでも試み給はずや、凡そ狐狸の類は、その性質至て狡猾く、猜疑深き獣なれば、憖いに企みたりとも、容易く捕へ得つべうもあらねど。その好む処には、君子も迷ふものと聞く、他が好むものをもて、釣り出して罠に落さんには、さのみ難きことにあらず」トいふに。黄金丸は打喜び、「その釣り落す罠とやらんは、兼てより聞きつれど、某いまだ見し事なし。怎麼にして作り候や」「そは斯様々々にして拵へ、それに餌をかけ置くなり」「して他が好む物とは」「そは鼠の天麩羅とて、肥太りたる雌鼠を、油に揚げて掛けおくなり。さすればその香気他が鼻を穿ちて、心魂忽ち空になり、われを忘れて大概は、その罠に落つるものなり。これよく猟師のなす処にして、かの狂言にもあるにあらずや。御身これより帰りたまはば、まづその如く罠を仕掛て、他が来るを待ち給へ。今宵あたりは彼の狐の、その香気に浮かれ出でて、御身が罠に落ちんも知れず」ト、懇切に教へしかば。「こは好きことを聞き得たり」ト、数度喜び聞え、なほ四方山の物語に、時刻を移しけるほどに、日も山端に傾きて、塒に騒ぐ群烏の、声かしましく聞えしかば。「こは意外長坐しぬ、宥したまへ」ト会釈しつつ、わが棲居をさして帰り行く、途すがら例の森陰まで来たりしに、昨日の如く木の上より、矢を射かくるものありしが。此度は黄金丸肩をかすらして、思はず身をも沈めつ、大声あげて「おのれ今日も狼藉なすや、引捕へてくれんず」ト、走り寄て木の上を見れば、果して昨日の猿にて、黄金丸の姿を見るより、またも木葉の中に隠れしが、われに木伝ふ術あらねば、追駆けて捕ふることもならず。憎き猿めと思ふのみ、そのままにして打棄てたれど。「さるにても何故に彼の猿は、一度ならず二度までも、われを射んとはしたりけん。われら猿とは古代より、仲悪しきものの譬に呼ばれて、互ひに牙を鳴らし合ふ身なれど、かくわれのみが彼の猿に、執念く狙はるる覚えはなし。明日にもあれ再び出でなば、引捕へて糺さんものを」ト、その日は怒りを忍びて帰りぬ。──畢竟この猿は何者ぞ。また狐罠の落着怎麼。そは次の巻を読みて知れかし。    上巻終 下巻 第九回  かくて黄金丸は、ひたすら帰途を急ぎしが、路程も近くはあらず、かつは途中にて狼藉せし、猿を追駆けなどせしほどに。意外に暇どりて、日も全く西に沈み、夕月田面に映る頃、漸くにして帰り着けば。鷲郎ははや門に馮りて、黄金丸が帰着を待ちわびけん。他が姿を見るよりも、連忙しく走り迎へつ、「喲、黄金丸、今日はなにとてかくは遅かりし。待たるる身より待つわが身の、気遣はしさを猜してよ。去る日の事など思ひ出でて、安き心はなきものを」ト、喞言がましく聞ゆれば、黄金丸は呵々と打ち笑ひて、「さな恨みそ。今日は朱目ぬしに引止められて、思はず会話に時を移し、かくは帰着の後れしなり。構へて待たせし心ならねば……」ト、詫ぶるに鷲郎も深くは咎めず、やがて笑ひにまぎらしつつ、そのまま中に引入れて、共に夕餉も喰ひ果てぬ。  暫して黄金丸は、鷲郎に打向ひて、今日朱目が許にて聞きし事ども委敷語り、「かかる良計ある上は、速かに彼の聴水を、誑き出して捕んず」ト、いへば鷲郎もうち点頭き、「狐を釣るに鼠の天麩羅を用ふる由は、われ猟師に事へし故、疾よりその法は知りて、罠の掛け方も心得つれど、さてその餌に供すべき、鼠のあらぬに逡巡ひぬ」ト、いひつつ天井を打眺め、少しく声を低めて、「御身がかつて救けたる、彼の阿駒こそ屈竟なれど。他頃日はわれ曹に狎みて、いと忠実に傅けば、そを無残に殺さんこと、情も知らぬ無神狗なら知らず、苟にも義を知るわが們の、作すに忍びぬ処ならずや」「実に御身がいふ如く、われも途すがら考ふるに、まづ彼の阿駒に気は付きたれど。われその必死を救ひながら、今また他が命を取らば、怎麼にも恩を被するに似て、わが身も快くは思はず。とてもかくてもこの外に、鼠を探し捕らんに如かじ」ト、言葉いまだ畢らざるに、忽ち「呀」と叫ぶ声して、鴨居より撲地ト顛落るものあり。二匹は思はず左右に分れ、落ちたるものを佶と見れば、今しも二匹が噂したる、かの阿駒なりけるが。なにとかしたりけん、口より血夥しく流れ出るに。鷲郎は急ぎ抱き起しつ、「こや阿駒、怎麼にせしぞ」「見れば面も血に塗れたるに、……また猫にや追はれけん」「鼬にや襲はれたる」「疾くいへ仇敵は討ちてやらんに」ト、これかれ斉しく勦はり問へば。阿駒は苦しき息の下より、「いやとよ。猫にも追はれず、鼬にも襲はれず、妾自らかく成り侍り」「さは何故の生害ぞ」「仔細ぞあらん聞かまほし」ト、また連忙しく問かくれば。阿駒は潸然と涙を落し、「さても情深き殿たち哉。かかる殿のためにぞならば、捨る命も惜くはあらず。──妾が自害は黄金ぬしが、御用に立たん願に侍り」「さては今の物語を」「爾は残らず……」「鴨居の上にて聞いて侍り。──妾去る日烏円めに、無態の恋慕しかけられて、已に他が爪に掛り、絶えなんとせし玉の緒を、黄金ぬしの御情にて、不思議に繋ぎ候ひしが。彼時わが雄は烏円のために、非業の死をば遂げ給ひ。残るは妾ただ一匹、年頃契り深からず、石見銀山桝落し、地獄落しも何のその。縦令ひ石油の火の中も、盥の水の底までも、死なば共にと盟ふたる、恋し雄に先立たれ、何がこの世の快楽ぞ。生きて甲斐なきわが身をば、かく存命へて今日までも、君に傅きまゐらせしは、妾がために雄の仇なる、かの烏円をその場を去らせず、討ちて給ひし黄金ぬしが、御情に羈されて、早晩かは君の御為に、この命を進らせんと、思ふ心のあればのみ。かくて今宵図らずも、殿たち二匹の物語を、鴨居の上にて洩れ聞きつ。さても嬉しや今宵こそ、御恩に報ゆる時来れと、心私かに喜ぶものから。今殿たちが言葉にては、とても妾を牙にかけて、殺しては給はらじと、思ひ定めつさてはかく、われから咽喉を噛みはべり。恩のために捨る命の。露ばかりも惜しくは侍らず。まいてや雄は妾より、先立ち登る死出の山、峰に生ひたる若草の、根を齧りてやわれを待つらん。追駆け行くこそなかなかに、心楽しく侍るかし。願ふはわが身をこのままに、天麩羅とやらんにしたまひて、彼の聴水を打つて給べ。日頃大黒天に願ひたる、その甲斐ありて今ぞかく、わが身は恩ある黄金ぬしの、御用に立たん嬉れしさよ。……ああ苦しや申すもこれまで、おさらばさらば」ト夕告の、とり乱したる前掻き合せ。西に向ふて双掌を組み、眼を閉ぢてそのままに、息絶えけるぞ殊勝なる。  二匹の犬は初より耳側てて、阿駒が語る由を聞きしが。黄金丸はまづ嗟嘆して、「さても珍しき鼠かな。国には盗人家に鼠と、人間に憎まれ卑めらるる、鼠なれどもかくまでに、恩には感じ義には勇めり。これを彼の猫の三年飼ても、三日にして主を忘るてふ、烏円如きに比べては、雪と炭との差別あり。むかし唐土の蔡嘉夫といふ人間、水を避けて南壟に住す。或夜大なる鼠浮び来て、嘉夫が床の辺に伏しけるを、奴憐みて飯を与へしが。かくて水退きて後、件の鼠青絹玉顆を捧げて、奴に恩を謝せしとかや。今この阿駒もその類か。復讐の報恩に復讐の、用に立ちしも不思議の約束、思へば免れぬ因果なりけん。さばれ生とし生ける者、何かは命を惜まざる。朝に生れ夕に死すてふ、蜉蝣といふ虫だにも、追へば逃れんとするにあらずや。ましてこの鼠の、恩のためとはいひながら、自ら死して天麩羅の、辛き思ひをなさんとは、実に得がたき阿駒が忠節、賞むるになほ言葉なし。……とまれ他が願望に任せ、無残なれども油に揚げ。彼の聴水を釣よせて、首尾よく彼奴を討取らば、聊か菩提の種ともなりなん、善は急げ」ト勇み立ちて、黄金丸まづ阿駒の死骸を調理すれば、鷲郎はまた庭に下り立ち、青竹を拾ひ来りて、罠の用意にぞ掛りける。 第十回  不題彼の聴水は、去る日途中にて黄金丸に出逢ひ、已に命も取らるべき処を、辛うじて身一ツを助かりしが。その時よりして畏気附き、白昼は更なり、夜も里方へはいで来らず、をさをさ油断なかりしが。その後他の獣們の風聞を聞けば、彼の黄金丸はその夕、太く人間に打擲されて、そがために前足痿えしといふに。少しく安堵の思ひをなし、忍び忍びに里方へ出でて、それとなく様子をさぐれば、その痍意外重くして、日を経れども愈えず。さるによつて明日よりは、木賊ヶ原の朱目が許に行きて、療治を乞はんといふことまで、怎麼にしけんさぐり知つ、「こは棄ておけぬ事どもかな、他もし朱目が薬によりて、その痍全く愈えたらんには、再び怎麼なる憂苦をや見ん。とかく彼奴を亡きものにせでは、枕を高く眠られじ」ト、とさまかうさま思ひめぐらせしが。忽ち小膝を礑と撲ち、「爰によき計こそあれ、頃日金眸大王が御内に事へて、新参なれども忠だちて働けば、大王の寵愛浅からぬ、彼の黒衣こそよかんめれ。彼の猿弓を引く業に長けて、先つ年他が叔父沢蟹と合戦せし時も、軍功少からざりしと聞く。その後叔父は臼に撲たれ、他は木から落猿となつて、この山に漂泊ひ来つ、金眸大王に事へしなれど、むかし取たる杵柄とやら、一束の矢一張の弓だに持たさば、彼の黄金丸如きは、事もなく射殺してん。まづ他が許に往きて、事の由来を白地に語り、この件を頼むに如かじ」ト思ふにぞ、直ちに黒衣が許へ走り往きつ、ひたすらに頼みければ。元より彼の黒衣も、心姦佞し悪猿なれば、異議なく承引ひ、「われも久しく試さねば、少しは腕も鈍りたらんが。多寡の知れたる犬一匹、われ一矢にて射て取らんに、何の難き事かあらん。さらば先づ弓矢を作りて、明日他の朱目が許より、帰る処を待ち伏せて、見事仕止めてくれんず」ト、いと頼もしげに見えければ。聴水は打ち喜び、「万づは和主に委すべければ、よきに計ひ給ひてよ。謝礼は和主が望むにまかせん」ト。それより共に手伝ひつつ、櫨の弓に鬼蔦の弦をかけ、生竹を鋭く削りて矢となし、用意やがて備ひける。  さて次日の夕暮、聴水は件の黒衣が許に往きて、首尾怎麼にと尋ぬるに。黒衣まづ誇貌に冷笑ひて「さればよ聴水ぬし聞き給へ。われ今日かの木賊ヶ原に行き、路傍なる松の幹の、よき処に坐をしめて、黄金丸が帰来を待ちけるが。われいまだ他を見しことなければ、もし過失ちて他の犬を傷け、後の禍をまねかんも本意なしと、案じわづらひてゐけるほどに。暫時して彼方より、茶色毛の犬の、しかも一足痿えたるが、覚束なくも歩み来ぬ。兼て和主が物語に、他はその毛茶色にて、右の前足痿えしと聞しかば。必定これなんめりと思ひ。矢比を測つて兵と放てば。竄点誤たず、他が右の眼に篦深くも突立ちしかば、さしもに猛き黄金丸も、何かは以てたまるべき、忽ち撲地と倒れしが四足を悶掻いて死でけり。仕済ましたりと思ひつつ、松より寸留々々と走り下りて、他が躯を取らんとせしに、何処より来りけん一人の大男、思ふに撲犬師なるべし、手に太やかなる棒持ちたるが、歩み寄てわれを遮り、なほ争はば彼の棒もて、われを打たんず勢に。われも他さへ亡きものにせば、躯はさのみ要なければ、わが功名を横奪されて、残念なれども争ふて、傷けられんも無益しと思ひ、そのまま棄てて帰り来ぬ。されども聴水ぬし、他は確に仕止めたれば、証拠の躯はよし見ずとも、心強く思はれよ。ああ彼の黄金丸も今頃は、革屋が軒に鉤下げられてん。思へばわれに意恨もなきに、無残なことをしてけり」ト、事実しやかに物語れば、聴水喜ぶこと斜ならず、「こは有難し、われもこれより気強くならん。原来彼の黄金丸は、われのみならず畏くも、大王までを仇敵と狙ふて、他が足痍愈なば、この山に討入て、大王を噬み斃さんと計る由。……怎麼に他獅子(畑時能が飼 ひし犬の名)の智勇ありとも、わが大王に牙向はんこと蜀犬の日を吠ゆる、愚を極めし業なれども。大王これを聞し召して、聊か心に恐れ給へば、佻々しくは他出もしたまはず。さるを今和主が、一箭の下に射殺したれば、わがために憂を去りしのみか、取不直大王が、眼上の瘤を払ひしに等し。今より後は大王も、枕を高く休みたまはん、これ偏へに和主が働き、その功実に抜群なりかし。われはこれより大王に見え、和主が働きを申上げて、重き恩賞得さすべし。」とて、いと嬉しげに立去りけり。 第十一回  かくて聴水は、黒衣が棲居を立出でしが、他が言葉を虚誕なりとは、月に粲めく路傍の、露ほども暁得らねば、ただ嬉しさに堪えがたく、「明日よりは天下晴れて、里へも野へも出らるるぞ。喃、嬉れしやよろこばしや」ト。永く牢に繋れし人間の、急に社会へ出でし心地して、足も空に金眸が洞に来れば。金眸は折しも最愛の、照射といへる侍妾の鹿を、辺近くまねき寄て、酒宴に余念なかりけるが。聴水はかくと見るより、まづ慇懃に安否を尋ね。さて今日斯様のことありしとて、黒衣が黄金丸を射殺せし由を、白地に物語れば。金眸も斜ならず喜びて、「そは大なる功名なりし。さばれ爾何とて他を伴はざる、他に褒美を取らせんものを」ト、いへば聴水は、「僕も然思ひしかども、今ははや夜も更けたれば、今宵は思ひ止まり給ふて、明日の夜更に他をまねき、酒宴を張らせ給へかし。さすれば僕明日里へ行きて、下物数多索めて参らん」ト、いふに金眸も点頭きて、「とかくは爾よきに計らへ」「お命畏まり候」とて。聴水は一礼なし、己が棲居へ帰りける。  さてその翌朝、聴水は身支度なし、里の方へ出で来つ。此処の畠彼処の廚と、日暮るるまで求食りしかど、はかばかしき獲物もなければ、尋ねあぐみて只ある藪陰に憩ひけるに。忽ち車の軋る音して、一匹の大牛大なる荷車を挽き、これに一人の牛飼つきて、罵立てつつ此方をさして来れり。聴水は身を潜めて件の車の上を見れば。何処の津より運び来にけん、俵にしたる米の他に、塩鮭干鰯なんど数多積めるに。こは好き物を見付けつと、なほ隠れて車を遣り過し、閃りとその上に飛び乗りて、積みたる肴をば音せぬやうに、少しづつ路上に投落すを、牛飼は少しも心付かず。ただ彼牛のみ、車の次第に軽くなるに、訝しとや思ひけん、折々立止まりて見返るを。牛飼はまだ暁得らねば、かへつて牛の怠るなりと思ひて、ひたすら罵り打ち立てて行きぬ。とかくして一町ばかり来るほどに、肴大方取下してければ、はや用なしと車を飛び下り。投げたる肴を一ツに拾ひ集め、これを山へ運ばんとするに。層意外に高くなりて、一匹にては持ても往かれず。さりとて残し置かんも口惜し、こは怎麼にせんと案じ煩ひて、霎時彳みける処に。彼方の森の陰より、驀地に此方をさして走せ来る獣あり。何者ならんと打見やれば。こは彼の黒衣にて。小脇に弓矢をかかへしまま、側目もふらず走り過ぎんとするに。聴水は連忙しく呼び止めて、「喃々、黒衣ぬし待ちたまへ」と、声を掛れば。漸くに心付きし乎、黒衣は立止まり、聴水の方を見返りしが。ただ眼を見張りたるのみにて、いまだ一言も発し得ぬに。聴水は可笑しさを堪えて、「慌し何事ぞや。面の色も常ならぬに……物にや追はれ給ひたる」ト、問かくれば。黒衣は初めて太息吻き、「さても恐しや。今かの森の中にて、黄金……黄金色なる鳥を見しかば。一矢に射止めんとしたりしに、豈計らんや他は大なる鷲にて、われを見るより一攫みに、攫みかからんと走り来ぬ。ああ 恐しや恐しや」ト、胸を撫でつつ物語れば。聴水は打ち笑ひ、「そは実に危急かりし。さりながら黒衣ぬし、今日は和主は客品にて、居ながら佳肴を喰ひ得んに、なにを苦しんでか自ら猟に出で、かへつてかかる危急き目に逢ふぞ。毛を吹いて痍を求むる、酔狂もよきほどにしたまへ。そはともあれわれ今日は大王の御命を受け、和主を今宵招かんため、今朝より里へ求食り来つ、かくまで下物は獲たれども、余りに層多ければ、独りにては運び得ず、思量にくれし処なり。今和主の来りしこそ幸なれ、大王もさこそ待ち侘びて在さんに、和主も共に手伝ひて、この下物を運びてたべ。情は他しためならず、皆これ和主に進らせんためなり」ト、いふに黒衣も打ち笑て、「そはいと易き事なり。幸ひこれに弓あれば、これにて共に扛き往かん。まづ待ち給へせん用あり」ト。やがて大なる古菰を拾ひきつ、これに肴を包みて上より縄をかけ。件の弓をさし入れて、人間の駕籠など扛くやうに、二匹前後にこれを担ひ、金眸が洞へと急ぎけり。 第十二回  聴水黒衣の二匹の獣は、彼の塩鮭干鰯なんどを、総て一包みにして、金眸が洞へ扛きもて往き。やがてこれを調理して、数多の獣類を呼び集ひ、酒宴を初めけるほどに。皆々黒衣が昨日の働きを聞て、口を極めて称賛すに、黒衣はいと得意顔に、鼻蠢めかしてゐたりける。金眸も常に念頭に懸けゐて、後日の憂ひを気遣ひし、彼の黄金丸を失ひし事なれば、その喜悦に心弛みて、常よりは酒を過ごし、いと興づきて見えけるに。聴水も黒衣も、茲を先途と機嫌を取り。聴水が唄へば黒衣が舞ひ、彼が篠田の森を躍れば、これはあり合ふ藤蔓を張りて、綱渡りの芸などするに、金眸ますます興に入りて、頻りに笑ひ動揺めきしが。やがて酔も十二分にまはりけん、照射が膝を枕にして、前後も知らず高鼾、霎時は谺に響きけり。かくて時刻も移りしかば、はや退らんと聴水は、他の獣們に別を告げ、金眸が洞を立出でて、倰僜く足を踏〆め踏〆め、わが棲居へと辿りゆくに。この時空は雲晴れて、十日ばかりの月の影、隈なく冴えて清らかなれば、野も林も一面に、白昼の如く見え渡りて、得も言はれざる眺望なるに。聴水は虚々と、わが棲へ帰ることも忘れて、次第に麓の方へ来りつ、只ある切株に腰うちかけて、霎時月を眺めしが。「ああ、心地好や今日の月は、殊更冴え渡りて見えたるぞ。これも日頃気疎しと思ふ、黄金奴を亡き者にしたれば、胸にこだはる雲霧の、一時に晴れし故なるべし。……さても照りたる月哉、われもし狸ならんには、腹鼓も打たんに」ト、彼の黒衣が虚誕を、それとも知らで聴水が、佻々しくも信ぜしこそ、年頃なせし悪業の、天罰ここに報い来て、今てる空の月影は、即ちその身の運のつき、とは暁得らずしてひたすらに、興じゐるこそ愚なれ。  折しも微吹く風のまにまに、何処より来るとも知らず、いとも妙なる香あり。怪しと思ひなほ嗅ぎ見れば、正にこれおのが好物、鼠の天麩羅の香なるに。聴水忽ち眼を細くし、「さても甘くさや、うま臭や。何処の誰がわがために、かかる馳走を拵へたる。将往きて管待うけん」ト、径なき叢を踏み分けつつ、香を知辺に辿り往くに、いよいよその物近く覚えて、香頻りに鼻を撲つにぞ。心魂も今は空になり、其処か此処かと求食るほどに、小笹一叢茂れる中に、漸く見当る鼠の天麩羅。得たりと飛び付き咬はんとすれば、忽ち発止と物音して、その身の頸は物に縛められぬ。「南無三、罠にてありけるか。鈍くも釣られし口惜しさよ。さばれ人間の来らぬ間に、逃るるまでは逃れて見ん」ト。力の限り悶掻けども、更にその詮なきのみか咽喉は次第に縊り行きて、苦しきこといはん方なし。  恁る処へ、左右の小笹哦嗟々々と音して、立出るものありけり。「さてはいよいよ猟師よ」ト、見やればこれ人間ならず、いと逞ましき二匹の犬なり。この時右手なる犬は進みよりて、「やをれ聴水われを見識れりや」ト、いふに聴水覚束なくも、彼の犬を見やれば、こは怎麼に、昨日黒衣に射らせたる黄金丸なるに。再び太く驚きて、物いはんとするに声は出でず、眼を見はりて悶ゆるのみ。犬はなほ語を続ぎて、「怎麼に苦しきか、さもありなん。されど耳あらばよく聞けかし。爾よくこそわが父を誑かして、金眸には咬はしたれ。われもまた爾がためには、罪もなきに人間に打たれて、太く足を傷けられたれば、重なる意恨いと深かり。然るに爾その後は、われを恐れて里方へは、少しも姿を出さざる故、意恨をはらす事ならで、いとも本意なく思ふ折から。朱目ぬしが教へに従ひ、今宵此処に罠を掛て、私かに爾が来るを待ちしに。さきにわがため命を棄し、阿駒が赤心通じけん、鈍くも爾釣り寄せられて、罠に落ちしも免がれぬ天命。今こそ爾を思ひのままに、肉を破り骨を砕き、寸断々々に噛みさきて、わが意恨を晴らすべきぞ。思知つたか聴水」ト、いひもあへず左右より、掴みかかつて噛まんとするに。思ひも懸けず後より、「喲黄金丸暫く待ちね。某聊か思ふ由あり。這奴が命は今霎時、助け得させよ」ト、声かけつつ、徐々と立出るものあり。二匹は驚き何者ぞと、月光に透し見れば。何時のほどにか来りけん、これなん黄金丸が養親、牡牛文角なりけるにぞ。「これはこれは」トばかりにて、二匹は再び魂を消しぬ。 第十三回  恁る処へ文角の来らんとは、思ひ設けぬ事なれば、黄金丸驚くこと大方ならず。「珍らしや文角ぬし。什麼何として此処には来たまひたる。そはとまれかくもあれ、その後は御健勝にて喜ばし」ト、一礼すれば文角は点頭き、「その驚きは理なれど、これには些の仔細あり。さて其処にゐる犬殿は」ト、鷲郎を指し問へば。黄金丸も見返りて、「こは鷲郎ぬしとて、去る日斯様々々の事より、図らず兄弟の盟ひをなせし、世にも頼もしき勇犬なり。さて鷲郎この牛殿は、日頃某が噂したる、養親の文角ぬしなり」ト、互に紹介すれば。文角も鷲郎も、恭しく一礼なし、初対面の挨拶もすめば。黄金丸また文角にむかひて、「さるにても文角ぬしには、怎麼なる仔細の候て、今宵此処には来たまひたる」ト、連忙しく尋ぬれば。「さればとよよく聞ね、われ元より御身たちと、今宵此処にて邂逅はんとは、夢にだも知らざりしが。今日しも主家の廝に曳かれて、この辺なる市場へ、塩鮭干鰯米なんどを、車に積て運び来りしが。彼の大藪の陰を通る時、一匹の狐物陰より現はれて、わが車の上に飛び乗り、肴を取て投げおろすに。這ツ憎き野良狐めト、よくよく見れば年頃日頃、憎しと思ふ聴水なれば。這奴いまだ黄金丸が牙にかからず、なほこの辺を徘徊して、かかる悪事を働けるや。将一突きに突止めんと、気はあせれども怎麼にせん、われは車に繋けられたれば、心のままに働けず。これを廝に告げんとすれど、悲しや言語通ぜざれば、他は少しも心付かで、阿容々々肴を盗み取られ。やがて市場に着きし後、代物の三分が一は、あらぬに初めて心付き。廝は太く狼狽へて、さまざまに罵り狂ひ。さては途中にふり落せしならんと、引返して求むれど、これかと思ふ影だに見えぬに、今はた詮なしとあきらめしが。諦められぬはわが心中。彼の聴水が所業なること、目前見て知りしかば、いかにも無念さやるせなく。殊には他は黄金丸が、倶不戴天の讐なれば、意恨はかの事のみにあらず。よしよし今宵は引捕へて、後黄金丸に逢ひし時、土産になして取らせんものと、心に思ひ定めつつ。さきに牛小屋を忍び出でて、其処よ此処よと尋ねめぐり、端なくこの場に来合せて、思ひもかけぬ御身たちに、邂逅ふさへ不思議なるに、憎しと思ふかの聴水も、かく捕はれしこそ嬉しけれ」ト、語るを聞きて黄金丸は、「さは文角ぬしにまで、かかる悪戯作しけるよな。返す返すも憎き聴水、いで思ひ知らせんず」ト、噬みかかるをば文角は、再び霎時と押し隔て、「さな焦燥ちそ黄金丸。他已に罠に落ちたる上は、俎板の上なる魚に等しく、殺すも生すも思ひのままなり。されども彼の聴水は、金眸が股肱の臣なれば、他を責めなば自から、金眸が洞の様子も知れなんに、暫くわが為さんやうを見よ」ト、いひつつ進みよりて、聴水が襟頭を引掴み、罠を弛めてわが膝の下に引き据えつ。「いかにや聴水。かくわれ曹が計略に落ちしからは、爾が悪運もはやこれまでとあきらめよ。原来爾は稲荷大明神の神使なれば、よくその分を守る時は、人も貴みて傷くまじきに。性邪悪にして慾深ければ、奉納の煎豆腐を以て足れりとせず。われから宝珠を棄てて、明神の神祠を抜け出で、穴も定めぬ野良狐となりて、彼の山に漂泊ひ行きつ。金眸が髭の塵をはらひ、阿諛を逞ましうして、その威を仮り、数多の獣類を害せしこと、その罪諏訪の湖よりも深く、また那須野が原よりも大なり。さばれ爾が尾いまだ九ツに割けず、三国飛行の神通なければ、つひに鈍くも罠に落ちて、この野の露と消えんこと、けだし免れぬ因果応報、大明神の冥罰のほど、今こそ思ひ知れよかし。されども爾確乎に聞け。過ちて改むるに憚ることなく、末期の念仏一声には、怎麼なる罪障も消滅するとぞ、爾今前非を悔いなば、速かに心を翻へして、われ曹がために尋ぬることを答へよ。已に爾も知る如く、年頃われ曹彼の金眸を讐と狙ひ。機会もあらば討入りて、他が髭首掻んと思へと。怎麼にせん他が棲む山、路嶮にして案内知りがたく。加之洞の中には、怎麼なる猛獣侍べりて、怎麼なる守備ある事すら、更に探り知る由なければ、今日までかくは逡巡ひしが、早晩爾を捕へなば、糺問なして語らせんと、日頃思ひゐたりしなり。されば今われ曹が前にて、彼の金眸が洞の様子、またあの山の要害怎麼に、委敷く語り聞かすべし。かくてもなお他を重んじ、事の真実を語らずば、その時こそは爾をば、われ曹三匹更る更る。角に掛け牙に裂き、思ひのままに憂苦を見せん。もしまたいはば一思ひに、息の根止めて楽に死なさん。とても逃れぬ命なれば、臨終の爾が一言にて、地獄にも落ち極楽にも往かん。とく思量して返答せよ」ト、あるいは威しあるいは賺し、言葉を尽していひ聞かすれば。聴水は何思ひけん、両眼より溢落る涙堰きあへず。「ああわれ誤てり誤てり。道理切めし文角ぬしが、今の言葉に僕が、幾星霜の迷夢醒め、今宵ぞ悟るわが身の罪障思へば恐しき事なりかし。とまれ文角ぬし、和殿が言葉にせめられて、今こそ一期の思ひ出に、聴水物語り候べし。黄金ぬしも聞き給へ」ト、いひつつ咳一咳して、喘と吻く息も苦しげなり。 第十四回  この時文角は、捕へし襟頭少し弛めつ、されども聊か油断せず。「いふ事あらば疾くいへかし。この期に及びわれ曹を欺き、間隙を狙ふて逃げんとするも、やはかその計に乗るべきぞ」ト、いへば聴水頭を打ちふり、「その猜疑は理なれど、僕すでに罪を悔い、心を翻へせしからは、などて卑怯なる挙動をせんや。さるにても黄金ぬしは、怎麼にしてかく恙なきぞ」ト。訝り問へば冷笑ひて、「われ実に爾に誑られて、去る日人間の家に踏み込み、太く打擲されし上に、裏の槐の樹に繋がれて、明けなば皮も剥れんずるを、この鷲郎に救ひ出され、危急き命は辛く拾ひつ。その時足を挫かれて、霎時は歩行もならざりしが。これさへ朱目の翁が薬に、かく以前の身になりにしぞ」ト、足踏して見すれば。聴水は皆まで聞かず、「いやとよ、和殿が彼時人間に打たれて、足を傷られたまひし事は、僕私かに探り知れど。僕がいふはその事ならず。──さても和殿に追はれし日より、わが身仇敵と附狙はれては、何時また怎麼なる事ありて、われ遂に討たれんも知れず。とかく和殿を亡き者にせでは、わが胸到底安からじト、左様右様思ひめぐらし。機会を窺ふとも知らず、和殿は昨日彼の痍のために、朱目の翁を訪れたまふこと、私かに聞きて打ち喜び。直ちにわが腹心の友なる、黒衣と申す猿に頼みて、途中に和殿を射させしに、見事仕止めつと聞きつるが。……さては彼奴に欺かれしか」ト。いへば黄金丸呵々と打ち笑ひ、「それにてわれも会得したり。いまだ鷲郎にも語らざりしが。昨日朱目が許より帰途、森の木陰を通りしに、われを狙ふて矢を放つものあり。畢竟村童們が悪戯ならんと、その矢を嘴に咬ひ止めつつ、矢の来し方を打見やれば。こは人間と思ひのほか、大なる猿なりければ。憎き奴めと睨まへしに、そのまま這奴は逃げ失せぬ。されどもわれ彼の猿に、意恨を受くべき覚なければ、何故かかる事を作すにやト、更に心に落ちざりしに、今爾が言葉によりて、他が狼藉の所以も知りぬ。然るに他今日もまた、同じ処に忍びゐて。われを射んとしたりしかど。此度もその矢われには当らず、肩の辺をかすらして、後の木根に立ちしのみ」ト。聞くに聴水は歯を咬切り、「口惜しや腹立ちや。聴水ともいはれし古狐が、黒衣ごとき山猿に、阿容々々欺かれし悔しさよ。かかることもあらんかと、覚束なく思へばこそ、昨夕他が棲を訪づれて、首尾怎麼なりしと尋ねしなれ。さるに他事もなげに、見事仕止めて帰りぬト、語るをわれも信ぜしが。今はた思へば彼時に、躯は人間に取られしなどと、いひくろめしも虚誕の、尾を見せじと思へばなるべし。かくて他われを欺きしも、もしこの後和殿に逢ふことあらば、事発覚れんと思ひしより、再び今日も森に忍びて、和殿を射んとはしたりしならん。それにて思ひ合すれば、さきに藪陰にて他に逢ひし時、太く物に畏ぢたる様子なりしが、これも黄金ぬしに追はれし故なるべし。さりとは露ほども心付かざりしこそ、返す返すも不覚なれ。……ああ、これも皆聴水が、悪事の報なりと思へば、他を恨みん由あらねど。這奴なかりせば今宵もかく、罠目の恥辱はうけまじきに」ト、悔の八千度百千度、眼を釣りあげて悶えしが。ややありて胸押し鎮め、「ああ悔いても及ぶことかは。とてもかくても捨る命の、ただこの上は文角ぬしの、言葉にまかせて金眸が、洞の様子を語り申さん。──そもかの金眸大王が洞は、麓を去ること二里あまり、山を越え谷を渉ること、その数幾つといふことを知らねど。もし間道より登る時は、僅十町ばかりにして、その洞口に達しつべし。さてまた大王が配下には、鯀化(羆)黒面(猪)を初めとして、猛き獣們なきにあらねど。そは皆各所の山に分れて、己が持場を守りたれば、常には洞の辺にあらずただ僕とかの黒衣のみ、旦暮大王の傍に侍りて、他が機嫌を取ものから。このほど大王何処よりか、照射といへる女鹿を連れ給ひ、そが容色に溺れたまへば、われ曹が寵は日々に剥がれて、私かに恨めしく思ひしなり。かくて僕去る日、黄金ぬしに追れしより、かの月丸が遺児、僕及び大王を、仇敵と狙ふ由なりと、金眸に告げしかば。他れもまた少しく恐れて、件の鯀化、黒面などを呼びよせ、洞ちかく守護さしつつ、自身も佻々しく他出したまはざりしが。これさへ昨日黒衣めが、和殿を打ちしと聞き給ひ、喜ぶこと斜ならず、忽ち守護を解かしめつ。今宵は黄金丸を亡き者にせし祝なりとて、盛に酒宴を張らせたまひ。僕もその席に侍りて、先のほどまで酒酌みしが、独り早く退り出つ、その帰途にかかる状態、思へば死神の誘ひしならん」ト。いふに黄金丸は立上りて、彼方の山を佶と睨めつ、「さては今宵彼の洞にて、金眸はじめ配下の獣們、酒宴なして戯れゐるとや。時節到来今宵こそ。宿願成就する時なれ。阿那喜ばしやうれしや」ト、天に喜び地に喜び、さながら物に狂へる如し。聴水はなほ語を続ぎて、「実に今宵こそ屈竟なれ。さきに僕退出し時は、大王は照射が膝を枕として、前後も知らず酔臥したまひ。その傍には黒衣めが、興に乗じて躍りゐしのみ、余の獣們は腹を満たして、各自棲居に帰りしかば、洞には絶えて守護なし。これより彼処へ向ひたまはば、かの間道より登たまへ。少しは路の嶮岨けれど、幸ひ今宵は月冴えたれば、辿るに迷ふことはあらじ。その間道は……あれ臠はせ、彼処に見ゆる一叢の、杉の森の小陰より、小川を渡りて東へ行くなり。さてまた洞は岩畳み、鬼蔦あまた匐ひつきたれど、辺りに榎の大樹あれば、そを目印に討入りたまへ」ト、残る隈なく教ふるにぞ。鷲郎聞きて感嘆なし、「げにや悪に強きものは、また善にも強しといふ。爾今前非を悔いて、吾曹がために討入りの、計策を教ふること忠なり。さればわれその厚意に愛で、おつつけ彼の黒衣とやらんを討て、爾がために恨を雪がん。心安く成仏せよ」「こは有難き御命かな。かくては思ひ置くこともなし、疾くわが咽喉を噬みたまへ」ト。覚悟極むればなかなかに、些も騒がぬ狐が本性。天晴なりと称へつつ、黄金丸は牙を反らし、やがて咽喉をぞ噬み切りける。 第十五回  黄金丸はまづ聴水を噬みころして、喜ぶこと限りなく、勇気日頃に十倍して、直ちに洞へむかはんと、連忙しく用意をなし。文角鷲郎もろともに、彼の聴水が教へし路を、ひたすら急ぎ往くほどに、やがて山の峡間に出でしが、これより路次第に嶮岨く。荊棘いやが上に生ひ茂りて、折々行方を遮り。松柏月を掩ひては、暗きこといはんかたなく、動もすれば岩に足をとられて、千仞の渓に落ちんとす。鷲郎は原来猟犬にて、かかる路には慣れたれば、「われ東道せん」とて先に立ち、なほ路を急ぎけるほどに、とかくして只ある尾上に出でしが。此処はただ草のみ生ひて、樹は稀なれば月光に、路の便もいと易かり。かかる処に路傍の叢より、つと走り出でて、鷲郎が前を横切るものあり。「這伏勢ござんなれ」ト、身構へしつつ佶と見れば、いと大なる黒猿の、面蘇枋に髣髴たるが、酒に酔ひたる人間の如く、倰僜きよろめき彼方に行きて、太き松の幹にすがりつ、攀登らんとあせれども、怎麼にしけん登り得ず。幾度かすべり落ちては、また登りつかんとするに。鷲郎は見返りて、黄金丸に打向ひ、「怎麼に黄金丸、彼処を見ずや。松の幹に攀らんとして、頻りにあせる一匹の猿あり。もし彼の黒衣にてはあらぬか」ト、指し示せば黄金丸は眺めやりて、「いかさま見違ふべきもあらぬ黒衣なり。彼奴松の幹に登らんとして登り得ぬは、思ふに今まで金眸が洞にありて、酒を飲みしにやあらん。引捕へて吟味せば、洞の様子も知れなんに……」「他果して黒衣ならば、われまづ往きて他を噬まん。さきに聴水とも約したれば」ト、いひつつ走りよりて、「やをれ黒衣、逃るとて逃さんや」ト、一声高く吠えかくれば。猿は礑と地に平伏して、熟柿臭き息を吻き、「こは何処の犬殿にて渡らせ給ふぞ。僕はこの辺に棲む賤しき山猿にて候。今宣ふ黒衣とは、僕が無二の友ならねば、元より僕が事にも候はず」ト。いふ時鷲郎が後より、黄金丸は歩み来て、呵々と打笑ひ、「爾黒衣。縦令ひ酒に酔ひたりともわが面は見忘れまじ。われは昨日木賊ヶ原にて、爾に射られんとせし黄金丸なるぞ」ト、罵れば。他なほ知らぬがほにて、「黄金殿か白銀殿か、われは一向親交なし。鉄を掘りに来給ふとも、この山には銅も出はせじ」ト、訳も解らぬことをいふに。「酔ひたる者と問答無益し、ただ一噬み」ト寄らんとすれば、黒衣は慌しく松の幹にすがりつつ、「こは情なの犬殿かな。和殿も知らぬことはあるまじ、わが先祖巌上甕猿は。和殿が先祖文石大白君と共に、斉く桃太郎子に従ひて、淤邇賀島に押し渡り、軍功少からざりけるに。何時のほどよりか隙を生じて、互に牙を鳴し争ふこと、実に本意なき事ならずや。さるによつて僕は、常に和殿們を貴とみ、早晩は款を通ぜんとこそ思へ、聊かも仇する心はなきに、何罪科あつて僕を、噬んとはしたまふぞ。山王権現の祟りも恐れ給はずや」ト、様々にいひ紛らし、間隙を見て逃げんと構ふるにぞ。鷲郎大に焦燥ちて、「爾悪猿、怎麼に人間に近ければとて、かくはわれ曹を侮るぞ。われ曹疾くより爾が罪を知れり。たとひ言葉を巧にして、いひのがれんと計るとも、われ曹いかで欺かれんや。重ねて虚誕いへぬやう、いでその息の根止めてくれん」ト、㗲叫んで飛びかかるほどに。元より悟空が神通なき身の、まいて酒に酔ひたれば、争で犬にかなふべき、黒衣は忽ち咬ひ殺されぬ。 第十六回  鷲郎は黒衣が首級を咬ひ断離り、血祭よしと喜びて、これを嘴に提げつつ、なほ奥深く辿り行くに。忽ち路窮まり山聳えて、進むべき岨道だになし。「こは訝かし、路にや迷ふたる」ト、彼方を透し見れば、年経りたる榎の小暗く茂りたる陰に、これかと見ゆる洞ありけり。「さては金眸が棲居なんめり」ト、なほ近く進み寄りて見れば、彼の聴水がいひしに違はず、岩高く聳えて、鑿もて削れるが如く、これに鬼蔦の匐ひ付きたるが、折から紅葉して、さながら絵がける屏風に似たり。また洞の外には累々たる白骨の、堆く積みてあるは、年頃金眸が取り喰ひたる、鳥獣の骨なるべし。黄金丸はまづ洞口によりて。中の様子を窺ふに、ただ暗うして確とは知れねど、奥まりたる方より鼾の声高く洩れて、地軸の鳴るかと疑はる。「さては他なほ熟睡してをり、この隙に跳り入らば、輒く打ち取りてん」ト。黄金丸は鷲郎と面を見合せ、「脱給ふな」「脱りはせじ」ト、互に励ましつ励まされつ。やがて両犬進み入りて、今しも照射ともろともに、岩角を枕として睡りゐる、金眸が脾腹を丁と蹴れば。蹴られて金眸岸破と跳起き、一声嘷えて立上らんとするを、起しもあへず鷲郎が、襟頭咬はへて引据ゆれば。その隙に逃げんとする、照射は洞の出口にて、文角がために突止められぬ、この時黄金丸は声をふり立て、「やをれ金眸確に聞け。われは爾が毒牙にかかり、非業にも最期をとげたる、月丸が遺児、黄金丸といふ犬なり。彼時われ母の胎内にありしが、その後養親文角ぬしに、委敷き事は聞きて知りつ。爾がためには父のみか、母も病て歿りたれば、取不直両親の讐、年頃積る意恨の牙先、今こそ思ひ知らすべし」ト。名乗りかくれば金眸は、恐ろしき眼を見張り、「爾は昨日黒衣がために、射殺されたる野良犬ならずや。さては妄執晴れやらで、わが酔臥せし隙に著入り、祟をなさんず心なるか。阿那嗚呼の白物よ」ト。いはせも果てず冷笑ひ、「愚や金眸。爾も黒衣に欺かれしよな。他が如き山猿に、射殺さるべき黄金丸ならんや。爾が股肱と頼みつる、聴水もさきに殺しつ。その黒衣といふ山猿さへ、われはや咬ひ殺して此にあり」ト、携へ来りし黒衣が首級を、金眸が前へ投げ遣れば。金眸は大に怒り、「さては黒衣が虚誕なりしか。さばれ何ほどの事かあらん」ト、いひつつ、鷲郎を払ひのけ、黄金丸に掴みかかるを、引ぱづして肩を噛めば。金眸も透さず黄金丸が、太股を噛まんとす。噛ましはせじと横間より、鷲郎は躍り掛て、金眸が頬を噛めば。その隙に黄金丸は跳起きて、金眸が脊に閃りと跨り、耳を噛んで左右に振る。金眸は痛さに身を悶きつつ、鷲郎が横腹を引𤔩めば、「呀嗟」と叫んで身を翻へし、少し退つて洞口の方へ、行くを続いて追かくれば。猛然として文角が、立閉がりつつ角を振りたて、寄らば突かんと身構たり。「さては加勢の者ありや。這ものものし金眸が、死物狂ひの本事を見せん」ト、いよいよ猛り狂ふほどに。その嘷ゆる声百雷の、一時に落ち来るが如く、山谷ために震動して、物凄きこといはん方なし。  去るほどに三匹の獣は、互ひに尽す秘術剽挑、右に衝き左に躍り、縦横無礙に暴れまはりて、半時ばかりも闘ひしが。金眸は先刻より飲みし酒に、四足の働き心にまかせず。対手は名に負ふ黄金丸、鷲郎も尋常の犬ならねば、さしもの金眸も敵しがたくや、少しひるんで見えける処を、得たりと著入る黄金丸、金眸が咽喉をねらひ、頤も透れと噬みつけ、鷲郎もすかさず後より、金眸が睾丸をば、力をこめて噬みたるにぞ。灸所の痛手に金眸は、一声嗡と叫びつつ、敢なく躯は倒れしが。これに心の張り弓も、一度に弛みて両犬は、左右に摚と俯伏して、霎時は起きも得ざりけり。  文角は今まで洞口にありて、二匹の犬の働きを、眼も放たず見てありしが、この時徐ろに進み入り、悶絶なせし二匹をば、さまざまに舐り勦はり。漸く元に復りしを見て、今宵の働きを言葉を極めて称賛へつ。やがて金眸が首級を噬み切り、これを文角が角に着けて、そのまま山を走せ下り、荘官が家にと急ぎけり、かくて黄金丸は主家に帰り、件の金眸が首級を奉れば。主人も大概は猜しやりて、喜ぶことななめならず、「さても出来したり黄金丸、また鷲郎も天晴れなるぞ。その父の讐を討しといはば、事私の意恨にして、深く褒むるに足らざれど。年頃数多の獣類を虐げ、あまつさへ人間を傷け、猛威日々に逞しかりし、彼の金眸を討ち取りて、獣類のために害を除き、人間のために憂を払ひしは、その功けだし莫大なり」トて、言葉の限り称賛へつ、さて黄金丸には金の頸輪、鷲郎には銀の頸輪とらして、共に家の守衛となせしが。二匹もその恩に感じて、忠勤怠らざりしとなん。めでたしめでたし。 底本:「日本児童文学名作集(上)」岩波文庫、岩波書店    1994(平成6)年2月16日第1刷発行 底本の親本:「こがね丸」博文館    1891(明治24)年1月初版発行 ※「ルビは現代仮名遣い」とする底本の編集方針にそい、ルビの拗促音は小書きしました。 ※ルビの「却説く」は、歴史的仮名遣いのままと思われますが、底本通りとしました。 ※「堪え」のように歴史的仮名遣いの規則に合わない表記も、すべて底本通りとしました。 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:hongming 校正:門田裕志 2001年12月22日公開 2012年9月19日修正 青空文庫作成ファイル: 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