婦人改造と高等教育 与謝野晶子 Guide 扉 本文 目 次 婦人改造と高等教育 婦人教育の推移 婦人の自由思想 いわゆる中流婦人 生きたい意欲 婦人と智力 智力的対等 婦人と大学教育 婦人と読物 読書と家政 婦人教育の推移  我国の婦人界は人の視聴を引く鮮かな現象に乏しいので毎年同じほどの平調な経過を取って行くように思われますけれど、七、八年前の婦人界を顧みて比較するとその変化の非常なのに驚かれます。例えば小松原英太郎氏が文部大臣であった頃と今日との教育主義の推移はどうでしょう。あの頃は世界の大勢に逆行し併せて我我若い婦人の内部要求を無視した旧式な賢母良妻主義が一般女子教育家の聡明を脅かして、近く叙勲された女流教育家たちなどが倉皇てて「女学生べからず訓十カ条」を制定するような状態であったのです。そういう保守的逆潮に対して微力の許す限り不承認の意向を述べた私などは大分厭な批難を旧い人たちから受けたようでしたが、それが今日ではどの有力な教育家も賢母良妻主義以上の教育を主張しない者は殆どなく、文部大臣自ら学制改革案で女子大学の必要を公認し、また途中で遇う男子に目も触れるなと教えた当年の「べからず訓」制定者たちが若い婦人を指揮して街頭に立ち、通行の男子に呼び掛けて花を売るという有様にまで変っております。  またその頃に比べると、婦人問題に関する男子側の言論が非常に殖えました。単に婦人のための問題としてだけでなく、男子自身に係り、社会と交渉し、国民の消長に関する大事として論ぜられることが多くなりました。人類の半数以上は婦人であるのに、男子だけが旧思想や旧制度から解放されて自由な真人間の生活を営み、依然として婦人を第二位に置こうとするのはやはり男子の我儘を通そうとする旧思想の維持であって、そういう偏頗な生活は決して全人類の幸福を齎すものでなく、結局男子自身に取っても不幸の本であることが予感される所から、在来は婦人の独立問題を一種のハイカラ思想とし欧米の模倣として反感を持っている学者新聞記者たちまでが、とにかく婦人の向上を計る運動の正当なことを是認し、進んで婦人界改造の奨励者擁護者となる傾向の加わりつつあることは感謝すべき事実です。同時に若い婦人の間にも幾人かの自由思想家を出だし、それら諸氏の言論が男子側の言論と待って、直接間接に世人の婦人観を動揺させていることは想像するにかたくありません。これは確に日本人の進歩だと思います。 婦人の自由思想  第一婦人自身を改造する問題である以上、これに対する婦人の言論が盛になり、その言論の裏書として婦人の実際生活が改造されねばならないはずですが、今の婦人界の表面には極めて少数の自由思想家があるばかりで、それに味方し、もしくは反対する優勢な婦人思想家の続出する様子がありません。その少数の自由思想家という人たちもいわゆる「新しい女」の名に由って喧伝せられ、その言論は比較的世人の注意を引いているようですけれど、思想としては最も太切な個人的自発の力に乏しく、さればといって社会的及び科学的知識の体系を備えて男子側の思想家と論理的に太刀打の出来る程度に達しているものでもないのです。それらの言論が多少でも世人の注意を惹くのは、とにかくその人たちの半透明な自覚と、大胆な発言とが因となり、男子側の識者が欧米から得た新知識に由って婦人運動に厚意を持つのと、一般の若い男女が旧思想に対する反動として無自覚に新しいものを歓迎する心理とが縁となっているからだと思います。またその人たちの言論に現れた思想がどれだけその人たちの実際生活を改造しているかというと、かえってその思想に背馳した経過を取っているように見受けられるのが遺憾です。 いわゆる中流婦人  私はまた自由思想に目の開きかけた新しい婦人が中流階級の諸所に黙って分布されていることを知っています。世に「新しい女」を以て目されている婦人たちよりも教育あり、見識あり、徳操あり、社会的経験ある人たちをその中に発見します。それらの婦人たちが団体的勢力を作って先頭に立たれたならその結果はいわゆる「新しい女」たちの運動に幾倍するであろうと思うのですが、そういう人たちは既に家庭の人になっていて社会的に活動する勇気を持っていません。衣食の生活に憂いがないのですから活動の余裕はあるのですが、良人や親戚に対する気兼から引込思案になってしまうのです。それなら肝腎の家庭だけにはその人たちの理想が実現されているかというと、それはどうも曖昧です。やはり在来の習慣に妥協し、また世間普通の主婦がするように時時の流行に従ったりして無反省に日を送って行くという風です。例えばその人たちが子供を育てるにしても、食物や服装などに注意が届くだけで、精神的の教育については自分の意見を基礎にした方針というようなものが決っていません。殊に女の子を育てるには一己の見識がありそうなものですけれど、他の家庭で琴が流行れば琴を習わせ、舞が流行れば舞を習わせるという有様です。学校教育の外に幼い時から遊芸を学ばせるという事が好いか悪いか、遊芸というものの将来の価値は如何、そういう余技に精力を消費させるということが昔から女子を知識から遠ざからしめた一因になってはいないか、こういう点について深い反省が払われていないのを見ると在来の無知な類型的婦人と異らないことになります。また真剣に子女の教育を思う家庭の婦人なら今の小学初め他の中等程度の学校教育に対して幾多の不満がなければなりませんが、その人たちは学校の為すがままに放任しています。例えば小学で作文を教えるのを見ると、大抵の教師が或題の下に予めこういう風に作れといって旧套的な概念を授けて書かせます。それでどの生徒の作った文章もその内容は同じ物で、唯だ文字の末節が少し異るばかり、生徒自身が頭脳を働かせて個性の新味を示した物は殆ど現われておりません。そういう教育法は人間の個性を殺すものですから母たる者は学校に向って抗議するのが当然ですけれど、窃に聡明を以て任じているそれらの新主婦たちは全くこういう事実を等閑に附しております。  私は突飛な、また過激な言動が必ずしも改革者の言動であるとは思いませんが、こういう平穏な、悪くいえば煮え切らない婦人界の進歩的傾向を歯痒く感じます。 生きたい意欲  ここに私の希望を述べます。私たち日本婦人は遅蒔ながら今こそ一斉に目を覚して自分自身を反省せねばならない時です。何がために生きているのかを知らずに盲目的な日送りをしていた私たちは何よりも先ず自分の生きて行きたいと望む意欲が人生の基礎であり、その意欲を実現することが人生の目的であることを徹底して知るのが第一です。自己の絶対的尊厳の意味もそれで領解されます。何時でも自己が主で、家庭生活も社会生活も自己の幸福のために人間の作為するものであるということを知るのが同時に必要です。目の開いた人間の意欲は狭い利己主義の自己にのみ停滞していません。それらの機関を善用して家庭生活、社会生活、国家生活及び世界的生活までを自己の内容に取り入れ、最初は五尺大であった自己を宇宙大の自己にまで延長するために必要な自由を欲し、自己以外の権威に圧制されることを欲しません。  私は生きようと望む意欲を愛その物だと考えています。愛は徹頭徹尾自己の生に執着する心ですが、利己主義の愛から始まって宇宙を包容する愛にまで拡大されねば愛自身の満足を贏ち得ないものだと考えています。従って愛は自由を要求します。その自由は何に由って得られるかというと智力に富むことが必要です。  私どもはこの智力の点に最も無力であることを知ると同時に、それの開発に非常な勤勉を払わねばなりません。いつの昔にか婦人が男子の下風に立って侮蔑を受ける端緒を開いた最大原因は智力を鈍らせたからだと思います。智力は人生の眼です、これがなければ愛も盲目の愛であり、生活も蛇に怖じない盲人の妄動になってしまいます。 婦人と智力  野蛮時代には人間の強弱を主として腕力で測りました。また腕力の変形である武力で測りました。けれど今では強弱の意味が精神的のものに移り、主として智力の多少が人類を強くも弱くもすることになりました。腕力や武力を以て優越の地位を占めようとすることは野蛮の遺風であり、それが今日にもなお役立つことのあるのは文明の矛盾だとせられております。この度の大戦争などはどう考えても一時の変調であって、将来の生活に対しては時代遅れの武断主義者を除く外何人も武力を拒否する予感を持っていない者はありません。またやむをえず維持されている現今の武力もその裏面には智力が支配していて、単独に役立つ武力というものはなくなっております。それですから今後の強弱は男も女も智力の多少が最大要素です。  女の無智は今更のことでなく、昔からそれがために女自身も苦痛と侮蔑を受け、男も多大の迷惑を被っています。女が饒舌だというのも、一は物事を正視してその大体と中枢とを掴むことが出来ず、枝葉に走って筋の通らぬ感情的な発言をくだくだしく並べるからであり、一は静かに内省し黙想する所がないために充実し精練された言語で簡明に述べるだけの何らの深奥な思想や的確な意見を持っていないからで、要するに原因は無智にあります。また女が感情に偏するといわれ、気分に左右されるといわれるほど僅の事にも喜怒哀楽の変化が著しく、男をして女子と小人は養いがたしとまで歎ぜしめたのも感情を調整するに必要な智力を欠いているからです。また女が専ら愛情の世界に住もうとするのも無智の弱点を無意識に掩蔽しようとするからであって、女が特に男子よりも愛の深い先天性を備えているという訳ではなさそうです。その愛というのも智力に介添されない盲目の愛ですから大抵利己主義的の愛に停まっています。ワイニンゲルが「女は我子に対しては母であるが、他人の子に対しては全く継母である」という意味の事をいっている通り、自分に親しい恋人や子に対しては絶対服従をも厭わぬ位に犠牲的な愛情を捧げながら、自分に叛いて少しでも厚意を持たない者に対しては忽ち冷酷な態度を以て対し、愛する者の言うことは一も二もなく盲従しながら、反対な者の言行は悉く猜疑の目を向けます。殊に同性に対しては意識無意識に敵視する感が附き纏い、相手の弱点を発見せねば已まず、表面では褒めそやしながら時を置かずに蔭口を利く風があって、男同志が偽らず飾らずに心と心を照し合うような女同志の親友というものは殆どないといって宜しい。これらも公平な智力の判断を欠いていて他人の長所を尊敬することが出来ないためであり、みずから内に恃む所が乏しいので動もすれば我が弱点に乗ぜられはしないかと思って出来るだけ自己を隠蔽し、かえって他人の弱点を摘発して無意識に自分の慰安にしようとするためであると思います。また女のヒステリイというものも生理的に原因する所と無智から起す感情の我儘とが相半しているのであって、もし理性的に自制することに力めたならヒステリイに由って自他の苦痛を作ることはきっと半減するに至るでしょう。女が自分の見識や立案で自分を整調し外界を改造する征服性を欠いて、他人の意匠や指導に従って安易な路に就こうとする順応性に長じているのも、要するに無智がしからしめた第二の性癖だと思います。 智力的対等  それで私どもは何よりも智力の優強者とならねばなりません。私どもが男子と対等の位地に進みたいと主張するのも一概に男子と職業を同じくしよう、その実力もないのに男子と政治上や民法上の同権を得ようという意味ではなく、先ず智力において対等の強さを得ようとするのです。これは婦人が物質的から精神的に進み、依頼主義を取って男子の足手まといになっていた者が一人前の独立を遂げようとするので、男子の側から考えて頂いても真の伴侶が出来ることですから当然歓迎さるべき性質のものだと思います。私どもは男子側が私どもの希望を容れて高い智力の教養を許されるなら、決して男子に反抗するような不遜な態度を取ろうとする者ではありません。私どもは今日の場合、智力においても何においても明かに男子の優越を認めて、私ども婦人が遙に劣弱な位地にあることを愧じ、敬虔な心から事ごとに男子の教に聞いて、大急ぎで男子と対等な処まで智力の充実を計りたいと思っています。男女の智力の不権衡が人生の調子をどれだけ狂わせているか知れないことに気が附いている聡明な男子、真の聡明な男子ならきっと私どもに対し厚意の助勢を惜まれないだろうと信じます。 婦人と大学教育  この意味において私どもは大隈内閣の文部省が女子大学の必要を公認したことを感謝します。またなるべくどの男子の大学でも婦人の聴講生を許すに至ることを希望します。また世の父兄が高等女学校乃至現在の女子大学程度の授業を以て女子に高等教育を授けたかの如く誤解されないように希望します。男子の大学とても皆が皆今の状態では高等の智力を鍛える処とは限っておりませんが、まして高等女学校は夐かに男子の中学に及ばず、女子大学は到底男子の高等学校に比較しがたいものです。それらの卒業程度を以て父兄が女子の高等教育を打切るのも早計ですし、それらの卒業生の社会に出た後の成績を以て女子の高等教育を是非するのも軽率です。しかし如何に高級な女子大学が多数に設けられ、男子の大学が女子の共学を許すにしても、現在の家庭の経済事情と現在の女子の知識状態では大学教育まで受け得る婦人が極めて少数であることは明白です。また女子の高等教育を一般に是認させる必要から特に大学教育を云云しますけれど、智力の充実は必ず大学教育に限った訳でもありませんから、日本人はこの意味をよく領解して大学過重の弊に陥らないようにし、父兄と女子自身との心掛次第で如何なる高度の智力でも修養し得るものであることを知って、女学生は勿論、既に人の妻たり母たる生活に入った若い婦人までが、読書と社会的接触とに由って出来るだけ各自の智力を高くかつ博くするように努力して欲しいと思います。  私の言う智力とは学識の量をいうので無く、物事に対する理解力を意味するのです。学識の量をいうのなら到底専門学者に及ばない訳ですが、理解力は学者的態度を取るに及ばず、実際生活の直接経験と書物に現れた学者先覚者の議論の過程及び結論とを以て常に自分の常識を新しく補充しながら、何事に対しても部分に偏せず、表面に停滞せず、全体と核心とに正しく透徹した理解味到を持とうと注意さえすれば自然に花の綻ぶように内から開けて来る直覚作用です。 婦人と読物  私の度度述べることですが、特に「女の読物」として書かれた低級な物ばかりを読むのは、大人が子供のお伽話を読み耽るのと同じく、自分をわざわざ低能化しつつあるのだと思います。私どもは婦人に関する或特殊の必要な書物の外はなるたけ男の読物を読む習慣を附けて、現代人として知るべきことを男と対等に知識しようと努力せねばなりません。女の間に歓迎される種種の婦人雑誌などはいずれも女の感情に媚びて編輯された甘たるい分子が多く、男の世界では既に常識になっているほどの科学的及び社会的知識すら供給しない物です。私どもは最早娯楽のために物を読むような呑気な生活をしていられないのですから、出来るだけ自分の力以上の読物を研究的に読もうと心掛けねばなりません。  今日では教育があるといわれる若い婦人さえ若い男子の読む十分の一の読書をもしない有様です。近頃の新聞や男子の読む雑誌にはかなり有益な学説が掲載され、また現代人として真面目に考えて見ねばならぬ個人及び社会の問題がいくつも記載されているのですけれど、婦人はそういう太切な点に目を着けず、唯だ自分に解りやすい感情的凡俗的の記事ばかりを愛読しております。それですから男子の前で話が少しでも智力を要する問題に及ぶと厚顔ましく支離滅裂な冗弁を並べるか、謙遜して口を噤んでしまうかの外ありません。偶ま若い婦人で思想論などをする知名な人があっても、それが多くは婦人の発言である所から世の注意を惹くだけで、大抵の男子には出来る議論であり、男子の議論としてなら一顧の価もない程度のものなんです。例えば日本民族の将来とか、日本政界の近状とかいうことを質問されて、即座に一応の論理と実感味とを備えた明快な解答の出来る婦人が幾人あるでしょう。この一事でも婦人が国民としてまたは社会の一員としての生活に平生何の省慮も持っていないことが明白です。またそういう公人的の問題でなくて、現に母として子を教育している人に「教育の目的」を問い久しく妻たる境遇にある人に「結婚の意義」を問うた場合、人前に出せるだけの情理を一貫した意見を述べ得る婦人が幾人あるでしょう。婦人自身に最も切実なそういう問題に対してさえ一定の見識がなく、それについて是非解決せねばならぬほどの強烈な疑惑煩悶もないのが我我婦人の実状です。 読書と家政  婦人に読書を勧めることに対して、婦人を家政から遠ざからしめるものだとの批難があるかも知れませんが、近頃米国で婦人の参政権を許した各州の成績を男子側から公式に報告せられた所では、どの州の婦人も一斉に予期以上の良好な成績を挙げていて、家政を疎かにした婦人は選挙の時にさえ一人もなかったといいます。智力の優った米国婦人の行為を私どもが一足飛びに学ぶことは困難でしょうが、屋外行動の伴う政治に関係するのでなく、私どもは家庭内にあって読書の時間を得ようとするのですから、心掛次第で十分家事と並行させることが出来ると確信しています。日本婦人の平生は家政以外のくだらない事で随分だらだらと無駄な時間を費しています。その家政というのも少し努力すれば簡易に済ますことの出来る余地がいくらもあります。また茶の湯とか、挿花とか、遊芸とかの稽古事で過当な時間と精力を費しているのも非現代的だと考えます。私どもは倫敦の婦人が少しの暇さえあれば家庭でも電車の中でも書物を披いている熱心と聡明とを学ばねばなりません。  それから私ども婦人の互に戒めねばならぬことは、どんなに読書をしても、またどんな物事に理解が出来初めても、それを誇るべきことのように思ってはならないことです。私どもはあくまでも謙譲と慎重とで終始しなくてはなりません。さなきだに婦人の性情には少し学問でもすると半可通を振廻したがる悪習が潜んでおります。そういう女性の悪習を一掃することも私どもが智力を養う理由の一つであることを自覚して掛りたいと思います。仏蘭西未来派のサンポワン女史が三、四年来、婦人自ら内にある女性を絶滅せねばならぬと叫んでいるのも、女性の一切を不純不良な物として誇張した嫌はありますが、婦人がとかく見て見ぬ振をしていた自分の最大欠点を暴露してそれを絶滅しようとする誠意と勇気とは私どもの学ぶべき所です。  高度の智力は婦人をして自重と謙譲と貞淑との必要を明かに理解させますから、家庭及び社会がその程度にまで婦人みずから教育しようとする気風を奨励擁護して頂きたいと思います。その程度にまで達しない粗末至極な教育を施して置きながら、学問が一概に婦人を生意気にし徳操的に堕落させる物のように臆断する世人の多いのは心外です。低級な学問をした者が軽挙妄動し諸種の誘惑に身を誤りやすいのは男も同じ事でしょう。婦人の智力の向上は婦人自身の発奮が何より太切ですけれど、周囲もまた男女に由って教育の待遇を分つ悪習を自ら反省して頂かねばなりません。(一九一五年十二月) (『大阪毎日新聞』一九一六年一月一日) 底本:「与謝野晶子評論集」岩波文庫、岩波書店    1985(昭和60)年8月16日初版発行    1994(平成6年)年6月6日10刷発行 底本の親本:「人及び女として」天弦堂書房    1916(大正5)年4月初版発行 初出:「大阪毎日新聞」    1916(大正5)年1月1日 入力:Nana ohbe 校正:門田裕志 2002年1月10日公開 2012年9月14日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。