盲腸 横光利一 Guide 扉 本文 目 次 盲腸  Fは口から血を吐いた。Mは盲腸炎で腹を切つた。Hは鼻毛を抜いた痕から丹毒に浸入された。此の三つの報告を、彼は同時に耳に入れると、痔が突発して血を流した。彼は三つの不幸の輪の中で血を流しながら頭を上げると、さてどつちへ行かうかとうろうろした。 「やられた。しかし、」とFから第二の報告が舞ひ込んだ。 「顔が二倍になつた。」とHから。 「もう駄目だ。」とMから来た。  ──俺は下から──と彼は云つた。  彼はもうどつちへも行くまいと決心した。死ぬ者を見るより見ない方が記憶に良い。彼は三点の黒い不幸の真中を、円タクに乗つて、ひとり明るい中心を狙ふやうにぐるぐると廻り出した。血は振り廻されるやうに流れて来た。  ──俺は下から、  ──俺は下から、  下から不幸が流れ出す故に、頭の上の明るい幸福を追つ馳けるのだ──だが、廻れば廻るほど、彼に付着して来たものは借金だつた。──幸福とは何物だ?──推進機から血を流して借金を追ひ廻す──その結果が一層不幸であると分つてゐても、明るい空を追つかけ廻したそのことだけでも幸福だ。──それが喜ばしい生活なら、下から不幸が流れ出して了ふまで、幸福な頭の方へ馳け廻らう。──死ねば不幸はなくなるだらう。──死なねば、幸はなくなるまい。──四人の中で死んだ者が幸福だ。──誰がその富籤を引き当てるか。──彼は競争する選手のやうに、円タクに乗つて飛んでゐた。  と、Mが死んだ。  彼は廻り続けた円タクの最後の線をひつ張つてMの病室へ飛び込んだ。が、Mの病室は空虚だつた。医者が出て来て彼に云つた。 「今日、退院なさいました。」 「どこへ行つたのです?」 「さア、それは分りません。」  ──それや、さうだ。  ──だが身体の中で何の必要もない盲腸で殺られると云ふことは?  ──身体の中に、誰でも一つ、幸福を抱いてゐると云ふことになつて来る。  彼は円タクに乗つて、盲腸のやうな身体をホテルに着けた。ホテルのボーイは彼に云つた。 「もう部屋は一つもございません。」  その次のホテルも彼に云つた。 「もう部屋は一つもございません。」  ──死を幸福だと思ふものに、ホテルは部屋を借す必要は少しもない。  彼はまたぶらりと円タクの中へ飛び込んだ。 「どこへ参りませう。」と運転手は彼に訊いた。 「どこへでもやつてくれ。」  円タクは走り出した。彼は運転手の後から声をかけた。 「明るい街を通つてくれ、明るい街を。暗い街を通つたら金は出さぬぞ。」  ──盲腸が円タクの中で叫んでゐる。  彼はにやりと笑ひ出した。  ──此の盲腸は、今度は誰を殺すのだらう。  ──だが、身体の中に、誰でも一つの盲腸を持つてゐると云ふことは?  彼は街路を、血管の中の虫のやうに馳け廻つた。だが、此の盲腸はどこへ行くと云ふのだらう。 底本:「定本横光利一全集 第二巻」河出書房新社    1981(昭和56)年8月31日初版発行 底本の親本:「文藝時代」    1927(昭和2)年4月1日発行、第4巻第4号 初出:「文藝時代」    1927(昭和2)年4月1日発行、第4巻第4号 ※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、旧字、旧仮名の底本の表記を、新字旧仮名にあらためました。 入力:高寺康仁 校正:松永正敏 2001年12月11日公開 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。