連環記 幸田露伴 Guide 扉 本文 目 次 連環記  慶滋保胤は賀茂忠行の第二子として生れた。兄の保憲は累代の家の業を嗣いで、陰陽博士、天文博士となり、賀茂氏の宗として、其系図に輝いている。保胤はこれに譲ったというのでもあるまいが、自分は当時の儒家であり詞雄であった菅原文時の弟子となって文章生となり、姓の文字を改めて、慶滋とした。慶滋という姓があったのでも無く、古い書に伝えてあるように他家の養子となって慶滋となったのでも無く、兄に遜るような意から、賀茂の賀の字に換えるに慶の字を以てし、茂の字に換えるに滋の字を以てしたのみで、異字同義、慶滋はもとより賀茂なのである。よししげの保胤などと読む者の生じたのも自然の勢ではあるが、後に保胤の弟の文章博士保章の子の為政が善滋と姓の字を改めたのも同じことであって、為政は文章博士で、続本朝文粋の作者の一人である。保胤の兄保憲は十歳許の童児の時、法眼既に明らかにして鬼神を見て父に注意したと語り伝えられた其道の天才であり、又保胤の父の忠行は後の人の嘖々として称する陰陽道の大の験者の安倍晴明の師であったのである。此の父兄や弟や姪を有した保胤ももとより尋常一様のものでは無かったろう。  保胤の師の菅原文時は、これも亦一通りの人では無かった。当時の文人の源英明にせよ、源為憲にせよ、今猶其文は本朝文粋にのこり、其才は後人に艶称さるる人々も、皆文時に請いて其文章詞賦の斧正を受けたということである。ある時御内宴が催されて、詞臣等をして、宮鶯囀二暁光一いう題を以て詩を賦せしめられた。天皇も文雅の道にいたく御心を寄せられたこととて、 露は濃やかにして 緩く語る 園花の底、 月は落ちて 高く歌ふ 御柳の陰。 という句を得たまいて、ひそかに御懐に協いたるよう思したまいたる時、文時もまた句を得て、 西の楼 月 落ちたり 花の間の曲、 中殿 灯 残えんとす 竹の裏の声。 と、つらねた。天皇聞しめして、我こそ此題は作りぬきたりと思いしに、文時が作れるも又すぐれたりと思召して、文時を近々と召して、いずれか宜しきや、と仰せられた。文時は、御製いみじく、下七字は文時が詩にも優れて候、と申した。これは憚りて申すならんと、ふたたび押返し御尋ねになった。文時是非なく、実には御製と臣が詩と同じほどにも候か、と申した。猶も憚りて申すことと思召して、まこと然らば誓言を立つべしと、深く詩を好ませたもう余りに逼って御尋ねあると、文時ここに至って誓言は申上げず、まことには文時が詩は一段と上に居り候、と申して逃げ出してしまったので、御笑いになって、うなずかせたもうたということであった。こういう文時の詩文は菅三品の作として今に称揚せられて伝わっているが、保胤は実に当時の巨匠たる此人の弟子の上席であった。疫病の流行した年、或人の夢に、疫病神が文時の家には押入らず、其の前を礼拝して過ぐるのを見た、と云われたほど時人に尊崇された菅三品の門に遊んで、才識日に長じて、声名世に布いた保胤は、試に応じて及第し、官も進んで大内記にまでなった。  具平親王は文を好ませたまいて、時の文人学士どもを雅友として引見せらるることも多く、紀ノ斉名、大江ノ以言などは、いずれも常に伺候したが、中にも保胤は師として遇したもうたのであった。しかし保胤は夙くより人間の紛紜にのみ心は傾かないで、当時の風とは言え、出世間の清寂の思に胷が染みていたので、親王の御為に講ずべきことは講じ、訓えまいらすべきことは訓えまいらせても、其事一トわたり済むと、おのれはおのれで、眼を少し瞑ったようにし、口の中でかすかに何か念ずるようにしていたという。想を仏土に致し、仏経の要文なんどを潜かに念誦したことと見える。随分奇異な先生ぶりではあったろうが、何も当面を錯過するのでは無く、寸暇の遊心を聖道に運んでいるのみであるから、咎めるべきにはならぬことだったろう。もともと狂言綺語即ち詩歌を讃仏乗の縁として認めるとした白楽天のような思想は保胤の是としたところであったには疑無い。  この保胤に対しては親王も他の藻絵をのみ事とする詞客に対するとはおのずから別様の待遇をなされたであろうが、それでも詩文の道にかけては御尋ねの出るのは自然の事で、或時当世の文人の品評を御求めになった。そこで保胤は是非無く御答え申上げた。斉名が文は、月の冴えたる良き夜に、やや古りたる檜皮葺の家の御簾ところどころはずれたる中に女の箏の琴弾きすましたるように聞ゆ、と申した。以言はと仰せらるれば、白沙の庭前、翠松の陰の下に、陵王の舞楽を奏したるに似たり、と申す。大江ノ匡衡は、と御尋ねあれば、鋭士数騎、介冑を被り、駿馬に鞭打って、粟津の浜を過ぐるにも似て、其鉾森然として当るものも無く見ゆ、と申す。親王興に入りたまいて、さらば足下のは、と問わせたまうに、旧上達部の檳榔毛の車に駕りたるが、時に其声を聞くにも似たらん、と申した。長短高下をとかく申さで、おのずから其詩品を有りのままに申したる、まことに唐の司空図が詩品にも優りて、いみじくも美わしく御答え申したと、親王も御感あり、当時の人々も嘆賞したのであった。斉名、以言、匡衡、保胤等の文、皆今に存しているから、此評の当っているか、いぬかは、誰にでも検討さるることであるが、評の当否よりも、評の仕方の如何にも韵致があって、仙禽おのずから幽鳴を為せる趣があるのは、保胤其人を見るようで面白いと云いたい。  慾を捨て道に志すに至る人というものは、多くは人生の磋躓にあったり、失敗窮困に陥ったりして、そして一旦開悟して頭を回らして今まで歩を進めた路とは反対の路へ歩むものであるが、保胤には然様した機縁があって、それから転向したとは見えない。自然に和易の性、慈仁の心が普通人より長けた人で、そして儒教の仁、仏道の慈ということを、素直に受入れて、人は然様あるべきだと信じ、然様ありたいと念じ、学問修証の漸く進むに連れて、愈々日に月に其傾向を募らせ、又其傾向の愈々募らんことを祈求して已まぬのをば、是真実道、是無上道、是清浄道、是安楽道と信じていたに疑無い。それで保胤は性来慈悲心の強い上に、自ら強いてさえも慈悲心に住していたいと策励していたことであろうか、こういうことが語り伝えられている。如何なる折であったか、保胤は或時往来繁き都の大路の辻に立った。大路の事であるから、貴き人も行き、賤き者も行き、職人も行き、物売りも行き、老人も行けば婦人も行き、小児も行けば壮夫も行く、亢々然と行くものもあれば、踉蹌として行くものもある。何も大路であるから不思議なことは無い。たまたま又非常に重げな嵩高の荷を負うて喘ぎ喘ぎ大車の軛につながれて涎を垂れ脚を踏張って行く牛もあった。これもまた牛馬が用いられた世の事で何の不思議もないことであった。牛は力の限りを尽して歩いている。しかも牛使いは力むること猶足らずとして、これを笞うっている。笞の音は起って消え、消えて復起る。これも世の常、何の不思議も無いことである。しかし保胤は仏教の所謂六道の辻にも似た此辻の景色を見て居る間に、揚々たる人、踽々たる人、営々汲々、戚々たる人、嗚呼嗚呼、世法は亦復是の如きのみと思ったでもあったろう後に、老牛が死力を尽して猶笞を受くるのを見ては、ああ、疲れたる牛、厳しき笞、荷は重く途は遠くして、日は熾りに土は焦がる、飲まんとすれど滴水も得ぬ其苦しさや抑如何ばかりぞや、牛目づかいと云いて人の疎む目づかいのみに得知らぬ意を動かして何をか訴うるや、嗚呼、牛、汝何ぞ拙くも牛とは生れしぞ、汝今抑々何の罪ありて其苦を受くるや、と観ずる途端に発矢と復笞の音すれば、保胤はハラハラと涙を流して、南無、救わせたまえ、諸仏菩薩、南無仏、南無仏、と念じたというのである。こういうことが一度や二度では無く、又或は直接方便の有った場合には牛馬其他の当面の苦を救ってやったことも度々あったので、其噂は遂に今日にまで遺り伝わったのであろう。服牛乗馬は太古からの事で、世法から云えば保胤の所為の如きはおろかなことであるが、是の如くに感ずるのが、いつわりでも何でもなく、又是の如くに感じ是の如くに念ずるのを以て正である善であると信じている人に対しては、世法からの智愚の判断の如きは本より何ともすることの出来ぬ、力無いものである。又仏法から云っても是の如く慈悲の念のみの亢張するのが必ずしも可なるのでは無く、場合によっては是の如きは魔境に墜ちたものとして弾呵してある経文もあるが、保胤のは慈念や悲念が亢ぶって、それによって非違に趨るに至ったのでも何でもないから、本より非難すべくも無いのである。  ただし世法は慈仁のみでは成立たぬ、仁の向側と云っては少しおかしいが、義というものが立てられていて、義は利の和なりとある。仁のみ過ぎて、利の和を失っては、不埒不都合になって、やや無茶苦茶になって終う。で、保胤の慈仁一遍の調子では、保胤自身を累することの起るのも自然のことである。しかしそれも純情で押切る保胤の如き人に取っては、世法の如きは、灯芯の縄張同様だと云って終われればそれまでである。或時保胤は大内記の官のおもて、催されて御所へ参入しかけた。衛門府というのが御門警衛の府であって、左右ある。其の左衛門の陣あたりに、女が実に苦しげに泣いて立っていた。牛にさえ馬にさえ悲憐の涙を惜まぬ保胤である、若い女の苦しみ泣いているのを見て、よそめに過そうようは無い。つと立寄って、何事があって其様には泣き苦むぞ、と問慰めてやった。女は答えわずらったが親切に問うてくれるので、まことは主人の使にて石の帯を人に借りて帰り候が、路にておろかにも其を取りおとして失い、さがし求むれど似たるものもなく、いかにともすべきようなくて、土に穴あらば入りても消えんと思い候、主人の用を欠き、人さまの物を失い、生きても死にても身の立つべき瀬の有りとしも思えず、と泣きさくりつつ、たどたどしく言った。石の帯というは、黒漆の革の帯の背部の飾りを、石で造ったものをいうので、衣冠束帯の当時の朝服の帯であり、位階によりて定制があり、紀伊石帯、出雲石帯等があれば、石の形にも方なのもあれば丸なのもある。石帯を借らせたとあれば、女の主人は無論参朝に逼って居て、朋友の融通を仰いだのであろうし、それを遺失したというのでは、おろかさは云うまでも無いし、其の困惑さも亦言うまでも無いが、主人もこれには何共困るだろう、何とかして遣りたいが、差当って今何とすることもならぬ、是非が無い、自分が今帯びている石帯を貸してやるより道は無いと、自分が今催促されて参入する気忙しさに、思慮分別の暇も無く、よしよし、さらば此の石帯を貸さんほどに疾く疾く主人が方にもて行け、と保胤は我が着けた石帯を解きてするすると引出して女に与えた。女は仏菩薩に会った心地して、掌をすり合せて礼拝し、悦び勇んで、いそいそと忽ち走り去ってしまった。保胤は人の急を救い得たのでホッと一ト安心したが、ア、今度は自分が石帯無し、石帯無しでは出るところへ出られぬ。  いかに仏心仙骨の保胤でも、我ながら、我がおぞましいことをして退けたのには今さら困じたことであろう。さて片隅に帯もなくて隠れ居たりけるほどに、と今鏡には書かれているが、其片隅とは何処の片隅か、衛門府の片隅でも有ろうか不明である。何にしろまごまごして弱りかえって度を失っていたことは思いやられる。其の風態は想像するだにおかしくて堪えられぬ。公事まさにはじまらんとして、保胤が未だ出て来ないでは仕方が無いから、属僚は遅い遅いと待ち兼ねて迎え求めに出て来た。此体を見出しては、互に呆れて変な顔を仕合ったろう。でも公事に急かれては其儘には済まされぬので、保胤の面目無さ、人々の厄介千万さも、御用の進行の大切に押流されて了って人々に世話を焼かれて、御くらの小舎人とかに帯を借りて、辛くも内に入り、公事は勤め果したということである。  此の物語は疑わしいかどもあるが、まるで無根のことでも無かろうか。何にせよ随分突飛な談ではある。しかし大に歪められた談にせよ、此談によって保胤という人の、俗智の乏しく世法に疎かったことは遺憾無く現わされている。これでは如何に才学が有って、善良な人であっても、世間を危気無しには渡って行かれなかったろうと思われるから、まして官界の立身出世などは、東西相距る三十里だったであろう。  斯様な人だったとすれば、余程俗才のある細君でも持っていない限りは家の経済などは埒も無いことだったに相違無い。そこで志山林に在り、居宅を営まず、などと云われれば、大層好いようだが、実は為うこと無しの借家住いで、長い間の朝夕を上東門の人の家に暮していた。それでも段々年をとっては、せめて起臥をわが家でしたいのが人の通情であるから、保胤も六条の荒地の廉いのを購って、吾が住居をこしらえた。勿論立派な邸宅というのでは無かったに疑い無いが、流石に自分が造り得たのだから、其居宅の記を作って居る、それが今存している池亭記である。記には先ず京都東西の盛衰を叙して、四条以北、乾艮二方の繁栄は到底自分等の居を営むを許さざるを述べ、六条以北、窮僻の地に、十有余畝を得たのを幸とし、隆きに就きては小山を為り、窪きに就きては小池を穿ち、池の西には小堂を置きて弥陀を安んじ、池の東には小閣を開いて書籍を納め、池北には低屋を起して妻子を著けり、と記している。阿弥陀堂を置いたところは、如何にも保胤らしい好みで、いずれささやかな堂ではあろうが、そこへ朝夕の身を運んで、焼香供華、礼拝誦経、心しずかに称名したろう真面目さ、おとなしさは、何という人柄の善いことだろう。凡そ屋舎十の四、池水九の三、菜園八の二、芹田七の一、とあるので全般の様子は想いやられるが、芹田七の一がおもしろい。池の中の小島の松、汀の柳、小さな柴橋、北戸の竹、植木屋に褒められるほどのものは何一ツ無く、又先生の眉を皺めさせるような牛に搬ばせた大石なども更に見えなくても、蕭散な庭のさまは流石に佳趣無きにあらずと思われる。予行年漸く五旬になりなんとして適々少宅有り、蝸其舎に安んじ、虱其の縫を楽む、と言っているのも、けちなようだが、其実を失わないで宜い。家主、職は柱下に在りと雖も、心は山中に住むが如し。官爵は運命に任す、天の工均し矣。寿夭は乾坤に付す、丘の祷ることや久し焉。と内力少し気燄を揚げて居るのも、ウソでは無いから憎まれぬ。朝に在りて身暫く王事に随い、家にありては心永く仏那に帰す、とあるのは、儒家としては感服出来ぬが、此人としては率直の言である。夫の漢の文皇帝を異代の主と為す、と云っているのは、腑に落ちぬ言だが、其後に直に、倹約を好みて人民を安んずるを以てなり、とある。一体異代の主というのは変なことであるが、心裏に慕い奉る人というほどのことであろう。倹約を好んで人民を安んずる君主は、真に学ぶべき君主であると思っていたからであろうか、何も当時の君主を奢侈で人民を苦める御方と見做す如き不臣の心を持って居たでは万々あるまい、ただし倹約を好み人民を安んずるの六字を点出して、此故を以て漢文を崇慕するとしたに就ては、聊か意なきにあらずである。それは此記の冒頭に、二十余年以来、東西二京を歴見するに、云々と書き出して、繁栄の地は、高家比門連堂、其価値二三畝千万銭なるに至れることを述べて居るが、保胤の師の菅原文時が天暦十一年十二月に封事三条を上ったのは、丁度二十余年前に当って居り、当時文化日に進みて、奢侈の風、月に長じたことは分明であり、文時が奢侈を禁ぜんことを請うの条には、方今高堂連閣、貴賎共に其居を壮にし、麗服美衣、貧富同じく其製を寛にすると云い、富める者は産業を傾け、貧者は家資を失う、と既に其弊の見わるるを云って居る。物価は騰貴をつづけて、国用漸く足らず、官を売って財に換うるのことまで生ずるに至ったことは、同封事第二条に見え、若し国用を憂うならば則ち毎事必ず倹約を行え、と文時をして切言せしめている。爾後二十余年、世態愈々変じて、華奢増長していたろうから、保胤のようなおとなしい者の眼からは、倹約安民の上を慕わしく思ったのであろう。次に、唐の白楽天を異代の師と為す、詩句に長じて仏法に帰するを以てなり、と記している。白氏を詩宗としたのは保胤ばかりでなく、当時の人皆然りであった。ただ保胤の白氏を尊ぶ所以は、詩句に長じたからのみではなく、白氏の仏法に帰せるに取るあるのである。ところが白氏は台所婆なぞを定規にして詩を裁った人なので、気の毒に其の益をも得たろうが其弊をも受け、又白氏は唐人の習い、弥勒菩薩の徒であったろうに、保胤は弥陀如来の徒であったのはおかしい。次に、晋朝の七賢を異代の友と為す、身は朝に在って志は隠に在るを以てなり、と記している。竹林の七賢は、いずれ洒落た者どもには相違無いが、懐中に算籌を入れていたような食えない男も居て、案外保胤の方が善いお父さんだったか知れない。是の如く叙し来ったとて、文海の蜃楼、もとより虚実を問うべきではないが、保胤は日々斯様いう人々と遇っているというのである。そして、近代人世の事、一も恋うべき無し、人の師たるものは貴を先にし富を先にして、文を以て次せず、師無きに如かず、人の友たる者は勢を以てし利を以てし、淡を以て交らず、友無きに如かず、予門をふさぎ戸を閉じ、独り吟じ独り詠ず、と自ら足りて居る。応和以来世人好んで豊屋峻宇を起し、殆ど山節藻梲に至る、其費且つ巨千万、其住纔に二三年、古人の造る者居らずと云える、誠なるかな斯言、と嘲り、自分の暮歯に及んで小宅を起せるを、老蚕の繭を成すが如しと笑い、其の住むこと幾時ぞや、と自ら笑って居る。老蚕の繭を成せる如し、とは流石に好かった。此記を為せるは、天元五年の冬、保胤四十八九歳ともおもわれる。  保胤が日本往生極楽記を著わしたのは、此の六条の池亭に在った時であろうと思われる。今存している同書は朝散大夫著作郎慶保胤撰と署名してある、それに拠れば保胤が未だ官を辞せぬ時の撰にかかると考えられるからである。其書に叙して、保胤みずから、予少きより日に弥陀仏を念じ、行年四十以後、其志弥々劇しく、口に名号を唱え、心に相好を観じ、行住坐臥、暫くも忘れず、造次顛沛も必ず是に於てす、夫の堂舎塔廟、弥陀の像有り浄土の図ある者は、礼敬せざるなく、道俗男女、極楽に志す有り、往生を願う有る者は、結縁せざる莫し、と云って居るから、四十以後、道心日に募りて已み難く、しかも未だ官を辞さぬ頃、自他の信念勧進のために、往生事実の良験を録して、本朝四十余人の伝をものしたのである。清閑の池亭の中、仏前唱名の間々に、筆を執って仏菩薩の引接を承けた善男善女の往迹を物しずかに記した保胤の旦暮は、如何に塵界を超脱した清浄三昧のものであったろうか。此往生極楽記は其序に見える通り、唐の弘法寺の僧の釈迦才の浄土論中に、安楽往生者二十人を記したのに傚ったものであるが、保胤往生の後、大江匡房は又保胤の往生伝の先蹤を追うて、続本朝往生伝を撰している。そして其続伝の中には保胤も採録されているから、法縁微妙、玉環の相連なるが如しである。匡房の続往生伝の叙に、寛和年中、著作郎慶保胤、往生伝を作りて世に伝う、とあるに拠れば、保胤が往生伝を撰したのは、正しく保胤が脱白被緇の前年、五十一二歳頃、彼の六条の池亭に在った時ででもあったろう。  保胤が池亭を造った時は、自ら記して、老蚕の繭を成せるがごとしと云ったが、老蚕は永く繭中に在り得無かった。天元五年の冬、其家は成り、其記は作られたが、其翌年の永観元年には倭名類聚抄の撰者の源順は死んだ。順も博学能文の人であったが、後に大江匡房が近世の才人を論じて、橘ノ在列は源ノ順に及ばず、順は以言と慶滋保胤とに及ばず、と断じた。保胤と順とは別に関渉は無かったが、兎死して狐悲む道理で、前輩知友の段々と凋落して行くのは、さらぬだに心やさしい保胤には向仏の念を添えもしたろう。世の中は漸く押詰って、人民安からず、去年は諸国に盗賊が起り、今年は洛中にて猥りに兵器を携うるものを捕うるの令が出さるるに至った。これと云って保胤の身近に何事が有ったわけでは無いが、かねてからの道心愈々熟したからであろう。保胤は遂に寛和二年を以て、自分が折角こしらえた繭を咬破って出て、落髪出家の身となって終った。戒師は誰であったか、何の書にも見えぬが、保胤ほどの善信の人に取っては、道の傍の杉の樹でも、田の畦の立杭でも、戒師たるに足るであろうから、誰でも宜かったのである。多武峰の増賀上人、横川の源信僧都、皆いずれも当時の高僧で、しかも保胤には有縁の人であったし、其他にも然るべき人で得度させて呉れる者は沢山有ったろうが、まさか野菜売りの老翁が小娘を失った悲みに自剃りで坊主になったというような次第でもあるまいに、更に其噂の伝わらぬのは不思議である。匡房が続往生伝には、子息の冠笄纔に畢るに及んで、遂に以て入道す、とあるばかりだ。それによれば、何等の機縁が有ったのでも無く、我児が一人で世に立って行かれるようになったので、予ての心願に任せて至極安穏に、時至って瓜が蔕から離れるが如く俗世界からコロリと滑り出して後生願い一方の人となったのであろう。保胤の妻及び子は何様な人であったか、更に分らぬ。子は有ったに相違ないが、傍系の故だか、加茂氏系図にも見当らぬ。思うに妻も子も尋常無異の人で、善人ではあったろうが、所謂草芥とともに朽ちたものと見える。  保胤は入道して寂心となった。世間では内記の聖と呼んだ。在俗の間すら礼仏誦経に身心を打込んだのであるから、寂心となってからは、愈々精神を抖擻して、問法作善に油断も無かった。伝には、諸国を経歴して広く仏事を作した、とあるが、別に行脚の苦修談などは伝えられていない。ただ出家して後わずかに三年目には、自分に身を投げかけて来た者を済度して寂照という名を与えた。此の寂照は後に源信の為に宋に使したもので、寂心と源信とはもとより菩提の友であった。源信の方が寂心よりは少し年が劣って居たかも知らぬが、何にせよ幼きより叡山の慈慧に就いて励精刻苦して学び、顕密双修、行解並列の恐ろしい傑物であった。此の源信と寂心との間の一寸面白い談は、今其の出処を確記せぬが、閑居之友であったか何だったか、何でも可なり古いもので見たと思うのである。記憶の間違だったら抹殺して貰わねばならぬが。  或時寂心は横川の慧心院を訪うた。院は寂然として人も無いようであった。他行であるか、禅定であるか、観法であるか、何かは知らぬが、互に日頃から、見ては宜からぬ、見られては宜からぬ如き行儀を互に有たぬ同士であるから、遠慮無く寂心は安詳にあちこちを見廻った。源信は何処にも居なかった。やがて、ここぞと思う室の戸を寂心は引開けた。すると是は如何に、眼の前は茫々漠々として何一ツ見えず、イヤ何一ツ見えないのでは無い、唯是れ漫々洋々として、大河の如く大湖の如く大海の如く、漪々たり瀲々たり、汪々たり滔々たり、洶たり沸たり、煙波糢糊、水光天に接するばかり、何も無くして水ばかりであった。寂心は後へ一ト足引いたが、恰もそこに在った木枕を取って中へ打込み、さらりと戸をしめて院外へ出て帰ってしまった。源信はそれから身痛を覚えた。寂心が来て卒爾の戯れをしたことが分って、源信はふたたび水を現じて、寂心に其中へ投げ入れたものを除去させた。源信はもとの如くになった。  此の談は今の人には、ただ是れ無茶苦茶の譚と聞えるまでであろう。又これを理解のゆくように語りわけることも、敢てするに当るまい。が、これは源信寂心にはじまったことではなく、経に在っては月光童子の物語がこれと同じ事で、童子は水観を初めて成し得た時に、無心の小児に瓦礫を水中に投げ入れられて心痛を覚え、それを取出して貰って安穏を回復したというのである。伝に在っては、唐の法進が竹林中で水観を修めた時に、これは家人が縄床上に清水があるのを見て、二ツの小白石を其中に置いたので、それから背痛を覚え、後また其を除いて貰って事無きを得たという談がある。日本でも大安寺の勝業上人が水観を成じた時同じく石を投げ入れられて、これは胷が痛んだという談があって、何も希有な談でも何でもない。清水だろうが、洪水だろうが、瓦礫だろうが、小白石だろが、何だって構うことは無い、慧心寂心の間に斯様な話の事実が有ったろうが、無かったろうがそんなことは実は何様でもよい、ただ斯様いう談が伝わっているというだけである。いや実はそれさえ覚束ないのである。ただ寂心の弟子の寂照が後に源信の弟子同様の態度を取って支那に渡るに及んでいるほどであるから、寂心源信の間には、日ごろ経律の論、証解の談が互に交されていたろうことは想いやられる。勿論文辞に於ては寂心に一日の長があり、法悟に於ては源信に数歩の先んずるものが有ったろうが、源信もまた一乗要訣、往生要集等の著述少からず、寂心と同じように筆硯の業には心を寄せた人であった。  寂心は弥陀の慈願によって往生浄土を心にかけたのみの、まことに素直な仏徒ではあったが、此時はまだ後の源空以後の念仏宗のような教義が世に行われていたのでなく、したがって捨閉擱抛と、他の事は何も彼も擲ち捨てて南無阿弥陀仏一点張り、唱名三昧に二六時中を過したというのではなく、後世からは余業雑業と斥けて終うようなことにも、正道正業と思惟さるる事には恭敬心を以て如何にも素直にこれを学び之を行じたのであった。で、横川に増賀の聖が摩訶止観を説くに当って、寂心は就いて之を承けんとした。  増賀は参議橘恒平の子で、四歳の時につきものがしたように、叡山に上って学問をしよう、と云ったとか伝えられ、十歳から山へ上せられて、慈慧に就いて仏道を学んだ。聡明驚くべく、学は顕密を綜べ、尤も止観に邃かったと云われている。真の学僧気質で、俗気が微塵ほども無く、深く名利を悪んで、断岸絶壁の如くに身の取り置きをした。元亨釈書に、安和の上皇、勅して供奉と為す、佯狂垢汗して逃れ去る、と記しているが、憚りも無く馬鹿げた事をして、他に厭い忌まれても、自分の心に済むように自分は生活するのを可なりとした人であった。自分の師の慈慧が僧正に任ぜられたので、宮中に参って御礼を申上げるに際し、一山の僧侶、翼従甚だ盛んに、それこそ威儀を厳荘にし、飾り立てて錬り行った。一体本来を云えば樹下石上にあるべき僧侶が、御尊崇下さる故とは云え、世俗の者共月卿雲客の任官謝恩の如くに、喜びくつがえりて、綺羅をかざりて宮廷に拝趨するなどということのあるべきでは無いから、増賀には俗僧どもの所為が尽く気に入らなかったのであろう。衛府の大官が立派な長剣を帯びたように、乾鮭の大きな奴を太刀の如くに腰に佩び、裸同様のあさましい姿で、痩せた牝牛の上に乗跨がり、えらそうな顔をして先駆の列に立って、都大路の諸人環視の中を堂々と打たせたから、群衆は呆れ、衆徒は驚いて、こは何事と増賀を引退らせようとしたが、増賀は声を厲しくして、僧正の御車の前駈、我をさしおいて誰が勤むべき、と怒鳴った。盛儀も何様も散々な打壊しであった。こういう人だったから、或立派な家の法会があって、請われて其処へ趣く途中、是は名聞のための法会である、名聞のためにすることは魔縁である、と思いついたので、遂に願主と挘りあい的諍議を仕出して終って、折角の法会を滅茶滅茶にして帰った。随分厄介といえば厄介な僧である。  かかる狂気じみたところのある僧であったから、三条の大きさいの宮の尼にならせ給わんとして、増賀を戒師とせんとて召させたまいたる時、途轍も無き麤言を吐き、悪行をはたらき、殊勝の筵に列れる月卿雲客、貴嬪采女、僧徒等をして、身戦き色失い、慙汗憤涙、身をおくところ無からしめたのも、うそでは無かったろうと思われる。それを記している宇治拾遺の巻十二の文は、ここに抄出するさえ忌わしいから省くが、虎関禅師は、出麁語の三字きりで済ませているから上品ではあるが事情は分らぬ。大江匡房は詞藻の豊な人であって、時代も近い人だったから、記せぬわけにもゆかぬと思って書いたのであろうが、流石に筆鋒も窘蹙している。放臭風の三字を以て瀉下したことを写しているが、写し得ていない。誰人以二増賀一為二嫪毐之輩一、啓二達后闈一乎、と麁語を訳しているが、これも髣髴たるに至らず、訳して真を失っている。仕方が無い。匡房の才の拙なるにあらず、増賀の狂の甚しきのみと言って置こう。釈迦の弟子の中で迦留陀夷というのが、教壇の上で穢語を放って今に遺り伝わっているが、迦留陀夷のはただ阿房げているので、増賀のは其時既に衰老の年であったが、ふたたび宮闈などに召出されぬよう斬釘截鉄的に狂叫したのだとも云えば云えよう。実に断岸絶壁、近より難い、天台禅ではありながら、祖師禅のような気味のある人であった。  此の断岸絶壁のような智識に、清浅の流れ静かにして水は玉の如き寂心が魔訶止観を学び承けようとしたのであった。止観は隋の天台智者大師の所説にして門人灌頂の記したものである。たとい唐の毗陵の堪然の輔行弘決を未だ寂心が手にし得無かったにせよ、寂心も既に半生を文字の中に暮して、経論の香気も身に浸々と味わっているのであるから、止観の文の読取れぬわけは無い。然し甚源微妙の秘奥のところをというので、乞うて増賀の壇下に就いたのである。勿論同会の僧も幾人か有ったのである。増賀はおもむろに説きはじめた。止観明静、前代未だ聞かず、という最初のところから演べる。其の何様いうところが寂心の胷に響いたのか、其の意味がか、其の音声が乎、其の何の章、何の句がか、其の講明が乎演説が乎は、今伝えられて居らぬが、蓋し或箇処、或言句からというのでは無く、全体の其時の気味合からでも有ったろうか、寂心は大に感激した随喜した。そして堪り兼ねて流涕し、すすり泣いた。すると増賀は忽ち座を下りて、つかつかと寂心の前へ立つなり、しや、何泣くぞ、と拳を固めて、したたかに寂心が面を張りゆがめた。余の話の声など立てて妨ぐればこそ、感涙を流して謹み聞けるものを打擲するは、と人々も苦りきって、座もしらけて其儘になって終った。さてあるべきではないから、寂心も涙を収め、人々も増賀をなだめすかして、ふたたび講説せしめた。と、又寂心は感動して泣いた。増賀は又拳をもって寂心を打った。是の如くにして寂心の泣くこと三たびに及び、増賀は遂に寂心の誠意誠心に感じ、流石の増賀も増賀の方が負けて、それから遂に自分の淵底を尽して止観の奥秘を寂心に伝えたということである。何故に泣いたか、何故に打ったか、それは二人のみが知ったことで、同会の衆僧も知らず、後の我等も知らぬとして宜いことだろう。  寂心が出家した後を続往生伝には、諸国を経歴して、広く仏事を作した、とのみ記してあるばかりで、何様いうことがあったということは載せていないが、既に柔輭の仏子となった以上は別に何の事も有ろう訳も無い。しかし諸国を経歴したとある其の諸国とは何処何処であったろうかというに、西は播磨、東は三河にまで行ったことは、証があって分明するから、猶遠く西へも東へも行ったかと想われる。其の播磨へ行った時の事である。これは堂塔伽藍を建つることは、法の為、仏の為の最善根であるから、寂心も例を追うて、其のため播磨の国に行いて材木勧進をした折と見える。何処の町とも分らぬが、或処で寂心が偶然見やると、一人の僧形の者が紙の冠を被て陰陽師の風体を学び、物々しげに祓するのが眼に入った。もとより陰陽道を以て立っている賀茂の家に生れた寂心であるから、自分は其道に依らないで儒道文辞の人となり、又其の儒を棄て仏に入って今の身になってはいるものの、陰陽道の如何なるものかの大凡は知っているのである。陰陽道は歴緯に法り神鬼を駆ると称して、世俗の為に吉を致し凶を禳うものである。儒より云えば巫覡の道、仏より云えば旃陀羅の術である。それが今、かりにも法体して菩提の大道に入り、人天の導師ともならんと心掛けたと見ゆる者が、紙の冠などして、えせわざするを見ては、堪え得らるればこそ、其時は寂心馬に打乗り威儀かいつくろいて路を打たせていたが、忽ち滾るように馬から下り、あわてて走り寄って、なにわざし給う御房ぞ、と詰り咎めた。御房とは僧に対する称呼である。御房ぞと咎めたのは流石に寂心で、実に宜かった。しかし紙の冠して其様な事をするほどの者であったから、却ってけげんな顔をしたことであろう。祓を仕候也、と答えた。何しに紙の冠をばしたるぞ、と問えば、祓戸の神たちは法師をば忌みたまえば、祓をするほど少時は仕て侍るという。寂心今は堪えかねて、声をあげて大に泣きて、陰陽師につかみかかれば、陰陽師は心得かねて只呆れに呆れ、祓をしさして、これは如何に、と云えば、頼みて祓をさせたる主人も驚き呆れた。寂心は猶も独り感じ泣きて、彼の紙の冠を攫み取りて、引破りて地に抛ち、漣々たる涙を止めもあえず、何たる御房ぞや、尊くも仏弟子となりたまいながら、祓戸の神の忌みたまうとて如来の忌みたまうことを忘れて、世俗に反り、冠などして、無間地獄に陥る業を造りたまうぞ、誠に悲しき違乱のことなり、強いて然ることせんとならば、ただここにある寂心を殺したまえ、と云いて泣くことおびただしいので、陰陽師は何としようも無く当惑したが、飽まで俗物だから、俗にくだけて打明け話に出た。仰せは一々御もっともでござる、しかし浮世の過しがたさに、是の如くに仕る、然らずば何わざをしてかは妻子をばやしない、吾が生命をも続ぐことのなりましょうや、道業猶つたなければ上人とも仰がれず、法師の形には候えど俗人の如くなれば、後世のことはいかがと哀しくはあれど、差当りての世のならいに、かくは仕る、と語った。何時の世にも斯様いう俗物は多いもので、そして又然様いう俗物の言うところは、俗世界には如何にも正しい情理であると首肯されるものである。しかし折角殊勝の世界に眼を着け、一旦それに対って突進しようと心ざした者共が、此の一関に塞止められて已むを得ずに、躊躇し、徘徊し、遂に後退するに至るものが、何程多いことであろうか。額を破り胷を傷つけるのを憚からずに敢て突進するの勇気を欠くものは、皆此の関所前で歩を横にしてぶらぶらして終うのである。芸術の世界でも、宗教の世界でも、学問の世界でも、人生戦闘の世界でも、百人が九十九人、千人が九百九十九人、皆此処で後へ退って終うのであるから、多数の人の取るところの道が正しい当然の道であるとするならば、疑も無く此の紙の冠を被った世渡り人の所為は正しいのである、情理至当のことなのである。寂心は飾り気の無い此の御房の打明話には、ハタと行詰らされて、優しい自分の性質から、将又智略を以て事に処することを卑しみ、覇気を消尽するのを以て可なりとしているような日頃の修行の心掛から、却ってタジタジとなって押返されたことだったろう。ヤ、それは、と一句あとへ退った言葉を出さぬ訳にはゆかなかった。が、しかし信仰は信仰であった。さもあればあれ、と一ト休め息を休めて、いかで三世如来の御姿を学ぶ御首の上に、勿体無くも俗の冠を被玉うや、不幸に堪えずして斯様の事を仕給うとならば、寂心が堂塔造らん料にとて勧進し集めたる物どもを御房にまいらすべし、一人を菩薩に勧むれば、堂寺造るに勝りたる功徳である、と云って、弟子共をつかわして、材木とらんとて勧進し集めたる物共を皆運び寄せて、此の陰陽師の真似をした僧に与えやり、さて自分は為すべしと思えることも得為さず、身の影ひとつ、京へ上り帰ったということである。紙の冠被った僧は其後何様なったか知らぬが、これでは寂心という人は事業などは出来ぬ人である。道理で寂心が建立したという堂寺などの有ることは聞かぬ。後の高尾の文覚だの、黄蘗の鉄眼だのは、仕事師であるが、寂心は寂心であった。これでも別に悪いことは無い。  寂心が三河国を経行したというのは、晩秋過参州薬王寺有感という短文が残っているので此を証するのである。勿論入道してから三河へ行ったのか、猶在俗の時行ったのかは、其文に年月の記が無いから不詳であるが、近江掾になったことは有ったけれど、大江匡房の慶保胤伝にも、緋袍之後、不改其官と有り、京官であったから、三河へ下ったのは、僧になってからの事だったろうと思われる。文に、余は是れ羈旅の卒、牛馬の走、初尋寺次逢僧、庭前徘徊、灯下談話、とあるので、羈旅牛馬の二句は在俗の時のことのようにも想われるが、庭前灯下の二句は何様も行脚修業中のこととも想われる。薬王寺は碧海郡の古刹で、行基菩薩の建立するところである。何で寂心が三河に行ったか、堂寺建立の勧化の為だったか何様か、それは一切考え得るところが無いが、抖擻行脚の因みに次第次第三河の方へまで行ったとしても差支はあるまい。特に寂心が僧となっての二三年は恰も大江定基が三河守になっていた時である。定基は大江斉光の子で、斉光は参議左大弁正三位までに至った人で、贈従二位大江維時の子であった。大江の家は大江音人以来、儒道文学の大宗として、音人の子玉淵、千里、春潭、千古、皆詩歌を善くし、千里は和歌をも善くし、小倉百人一首で人の知っているものである。玉淵の子朝綱、千古、千古の子の維時は皆文章博士であり、維時の子の重光の子の匡衡も文章博士、維時の子の斉光は東宮学士、斉光の子の為基も文章博士であり、大江家の系図を覧れば、文章博士や大学頭の鈴なりで、定基は為基の弟、匡衡とは従兄弟同士である。で、定基は父祖の功により、早く蔵人に擢でられ、尋で二十何歳かで三河守に任ぜられたが、然様いう家柄の中に出来た人なので、もとより文学に通じ詞章を善くし、又是れ一箇の英霊底の丈夫であった。大江の家に対して、菅原古人以来、特に古人の曾孫に道真公を出したので大に家声を挙げた菅原家もまた当時に輝いていたが、寂心の師事した文時は実に古人六世の孫であり、匡衡の如きも亦文時に文章詩賦の点竄を乞うたというから、定基も勿論同じ文雅の道の流れのものとして、自然保胤即ち寂心とは知合で、無論年輩の関係から保胤を先輩として交っていたろうことは明らかである。  三河守定基は、まだ三十歳にもならないのに、三河守に任ぜられたことは、其父祖の功労によったことは勿論であるが、長男でもあらばこそ、次男の身を以て其処まで出世していたことは、一は其人物が英発して居って、そして学問詞才にも長け、向上心の強い、勇気のある、しかも二王の筆致を得ていたと後年になって支那の人にさえ称讃されたほどであるから、内に自から収め養うところの工夫にも切なる立派な人物、所謂捨てて置いても挺然として群を抜くの器量が有ったからであったろう。  此の定基が三十歳、人生はこれからという三十歳になるやならずに、浮世を思いきって、簪纓を抛ち棄て、耀ける家柄をも離れ、木の端、竹の片のような青道心になって、寂心の許に走り、其弟子となったのは、これも因縁成熟して其処に至ったのだと云えば、それまでであるが、保胤が長年の間、世路に彷徨して、道心の帰趨を抑えた後に、漸く暮年になって世を遁れ、仏に入ったとは異なって、別に一段の運命機縁にあやつられたものであった。定基は家柄なり、性分なりで、もとより学問文章に親んで、其の鋭い資質のまにまに日に日に進歩して居たが、豪快な気象もあった人のこととて合間合間には田猟馳聘をも事として鬱懐を開いて喜びとしていた。斯様いう人だったので、若し其儘に歳月を経て世に在ったなら、其の世に老い事に練れるに従って国家有用の材となって、おのずから出世栄達もした事だったろうが、好い松の樹檜の樹も兎角に何かの縁で心が折られたり止められたりして、そして十二分の発達をせずに異様なものになって終うのが世の常である。定基は図らずも三河の赤坂の長の許の力寿という美しい女に出会った。長というのは駅の長で、駅館を主どるものが即ち長である。其の土地の長者が駅館を主どり、駅館は官人や身分あるものを宿泊休憩せしめて旅の便宜を半公的に与える制度から出来たものである。何時からとも無く、自然の成りゆきで駅の長は女となり、其長の下には美女が其家の娘分のようになっていて、泊る貴人等の世話をやくような習慣になったものである。それでずっと後になっては、何処其処の長が家といえば、娼家というほどの意味にさえなった位であるが、初めは然程に堕落したものでは無かったから、長の家の女の腹に生れて立派な者になった人々も歴史に数々見えている。力寿という名は宇治拾遺などには見えず、後の源平時代くさくてやや疑わしいが、まるで想像から生み出されたとも思えぬから、まず力寿として置くが、何にせよこれが定基には前世因縁とも云うものであったか素晴らしく美しい可愛いものに見えて、それこそ心魂を蕩尽されて終ったのである。蓋し又実際に佳い女でもあったのであろう。そこで三河の守であるもの、定基は力寿を手に入れた。力寿も身の果報である、赤坂の長の女が三河守に思いかしずかれるのであるから、誠実を以て定基に仕えたことだったろう。  これだけの事だったらば、それで何事も無い、当時の一艶話で済んだのであろうが、其時既に定基には定まった妻があったのであって、其妻が徳川時代の分限者の洒落れた女房のように、わたしゃ此の家の床柱、瓶花は勝手にささしゃんせ、と澄ましかえって居てくれたなら論は無かったのだが、然様はいかなかった。一体女というものほど太平の恩沢に狎されて増長するものは無く、又嶮しい世になれば、忽ち縮まって小さくなる憐れなもので、少し面倒な時になると、江戸褄も糸瓜も有りはしない、モンペイはいて。バケツ提げて、ヒョタコラ姿の気息ゼイゼイ、御いたわしの御風情やと云いたい様になるのであるが、天日とこしえに麗わしくして四海波穏やかなる時には、鬚眉の男子皆御前に平伏して御機嫌を取結ぶので、朽木形の几帳の前には十二一重の御めし、何やら知らぬびらしゃらした御なりで端然としていたまうから、野郎共皆ウヘーとなって恐入り奉る。平安朝は丁度太平の満潮、まして此頃は賢女才媛輩出時代で、紫式部やら海老茶式部、清少納言やら金時大納言など、すばらしい女が赫奕として、やらん、からん、なん、かん、はべる、すべるで、女性尊重仕るべく、一切異議申間敷候と抑えられていた代であったから、定基の妻は中々納まっては居なかった、瞋恚の火むらで焼いたことであったろう。いや、むずかしくも亦おそろしく焼き立てたことであったろう。ところが、火の傍へ寄れば少くとも髭は焼かれるから、誰しも御免蒙って疎み遠ざかる。此の方を疎みて遠ざかれば、余分に彼方を親み睦ぶようになる。彼方に親しみ、此方に遠ざかれば、此方は愈々火の手をあげる。愈々逃げる、愈々燃えさかる。不動尊の背負って居らるる伽婁羅炎という火は魔が逃げれば逃げるだけ其火燄が伸びて何処までも追駈けて降伏させるというが、嫉妬の火もまた追駈ける性質があるから、鬚髭ぐらい焼かれる間はまだしもだが、背中へ追いかかって来て、身柱大椎へ火を吹付けるようにやられては、灸を据えられる訳では無いし、向直って闘うに至るのが、世間有勝の事である。即ち出すの引くのという騒動になるのである。ここになると小説を書く者などは、浅はかな然し罪深いもので、そりゃこそ、時至れりとばかり筆を揮って、有ること無いこと、見て来たように出たらめを描くのである。と云って置いて、此以下少しばかり出たらめを描くが、それは全く出たらめであると思っていただきたい。但し出たらめを描くようにさせた、即ち定基夫婦の別れ話は定基夫婦の実演した事である。  定基の妻の名は何と云ったか、何氏の女であったか、それは皆分らない。此頃の女は本名が無かった訳ではあるまいが、紫式部だって、本名はおむらだったかお里だったか、誰も知らない、清少納言だって、本名はおきよだったかおせいだったか、誰も知らない、知ってる方は手をあげなさいと云われたって、大抵の人は懐手で御免を蒙るでしょう。まさか赤ン坊の時から、紫式部や、おっぱい御上り、清少納言や、おしっこをなさい、ワンワン来い来い、などと云われたので無かろうことは分っているが、仙人の女王、西王母の、姓は侯、名は婉妗、などと見えすいた好い加減なことを答えるよりは面倒だから、其儘にして置こう。美人だったか、醜婦だったかも不明だが、先ず十人並の人だったとして置いて差支えは無かろうが、其の気質だけは温和で無くて、強い方だったろうことは、連添うた者と若い身そらで争い別れをしたことでも想いやられる。此女が定基に対して求めたことは無論恋敵の力寿を遠ざけることであったろうが、定基は力寿に首ったけだったから、それを承知すべくは無いし、又直截な性質の人だったから、吾が妻に対することでは有り、にやくやに云紛らして、拖泥滞水の挨拶を以て其場を済ませて置くというようなことも仕無かったろうから、次第次第に夫婦の間は険悪になっていったであろう。ところが、飢えたる者は人の美饌を享くるを見ては愈々飢の苦を感ずる道理がある。飽ける者は人の饑餓に臨めるを見ては、余計に之を哀れむの情を催す道理がある。ここに定基に取っては従兄弟同士である大江匡衡があった。匡衡は大江維時の嫡孫であって、家も其格が好い。定基は匡衡の父重光の弟の斉光の子で、しかも二男坊である。匡衡定基はおよそ同じほどの年頃であるが、才学は優劣無いにしても匡衡は既に文名を馳せて大に称せられている。それやこれやの関係で、自然定基は匡衡に雁行する位置に立って居る。そこへ持って来て匡衡は、定基が妻を迎えたと彼是同じ頃に矢張り妻を迎えたのである。いずれもまだ何年もたたぬ前のことである。匡衡は七歳にして書を読み、九歳にして詩を賦したと云われた英才で、祖父の維時の学を受け、長じて博学、渉らざるところ無しと世に称せられていた。其文章の英気があって、当時に水際だっていたことは、保胤の評語に、鋭卒数百、堅甲を擐き駿馬に鞭うって、粟津の浜を過ぐるが如し、とあったほどで、前にも既に其事は述べた。しかも和歌までも堪能で、男ぶりは何様だったか、ひょろりとして丈高く、さし肩であったと云われるから、ポッチャリとした御公卿さん達の好い男子では無かったろうと思われる。さし肩というのは、菩薩肩というのとは反対で、菩薩肩は菩薩像のような優しい肩つき、今でいう撫肩であり、さし肩というのは今いう怒り肩で漢語の所謂鳶肩である。鳶肩豺目結喉露唇なんというのは、物の出来る人や気嵩の人に、得てある相だが、余り人好きのする方では無い。だから男振りは好い方であったとも思われないが、此の匡衡の迎えた妻は、女歌人の中でも指折りの赤染右衛門で、其頃丁度匡衡もまだ三十前、赤染右衛門も二十幾歳、子の挙周は生れていたか、未だ生れていなかったか知らないが、若盛りの夫婦で、女貌郎才、相当って居り、琴瑟こまやかに相和して人も羨む中であったろうことは思いやられるのである。さて定基夫婦の間の燻りかえり、ひぞり合い、煙を出し火を出し合うようになっている傍に、従兄弟同士の匡衡夫婦の間は、詩思歌情、ハハハ、オホホで朝夕を睦び合っているとすれば、定基の方の側からは、自然と匡衡の方は羨ましいものに見え、従って自分の方の現在が余計忌々しいものに見えたに違い無く、匡衡の方からは、定基の方を、気の毒な、従って下らないものに見ていたと思われる。まして定基の妻からは、それこそ饑えたる者が人の美饌を享くるを見る感がしたろうことは自然であって、余計にもしゃくしゃが募ったろうことは測り知られる。  赤染右衛門は生れだちから苦労を背負って来た女で、まだ当人が物の色さえ知らぬころから、なさけ無い争の間に立たせられたのであった。というのは右衛門の母が、何様いう訳合があったか、何様いう身分の女であったのか、今は更に知れぬことであるが、右衛門が赤染を名乗ったのは、赤染大隅守時用の子として育ったからである。然るに歌人として名高い平兼盛が、其当時、生れた子を吾が女と称して引取ろうとしたのである。検非違使沙汰となった。検非違使庁は非違を検むるところであるから、今の警視庁兼裁判所のようなものである。母は其子を兼盛の胤では無いと云張り、兼盛は吾子だと争ったが、畢竟これは母が其子を手離したくない母性愛の本然から然様云ったのだと解せられもするが、又吾が手を離れた女の其子を強いても引取ろうとするのはよくよく正しい父性愛の強さからだとも解せられるのである。であるから男女の情理から判断すれば、兼盛の方に分があって、女には分が乏しい。まして生長し上った赤染右衛門は歌人であった兼盛の血を享けたと見えて、才学凡ならぬ優秀なものとなり、赤染時用という検非違使から大隅守になっただけで別に才学の噂も無い平凡官吏の胤とも思われない。であるから、当時を去ること遠からぬ清輔朝臣抄などにも、実には兼盛の女云々と出ているのである。よくよく事情を察するに、当時は恋愛至上主義の行われていた世で、女は愛情の命ずるがままに行動して、それで自から欺かぬ、よい事と許されていた惰弱時代であったから、右衛門の母は兼盛と、手を繋いで居た間に懐胎したが、何様いう因縁かで兼盛と別れて時用の許へ帰したのである。兼盛は卅六歌仙の一人であり、是忠親王の曾孫であり、父の篤行から平姓を賜わり、和漢の才もあった人ではあるが、従五位上駿河守になっただけで終った余り世栄を享けなかった人であるから、年齢其他の関係から、女には疎まれたのかも知れない。兼盛の集を見ると、「いひそめていと久しうなりにける人に」「返事もさらにせねば」「物などいへどいとつれなき人に」「女のもとにまかりて、ものなどいふにつれなきを思ひなげくほどに鳥さへなけば」「女よにこひしとも思はじといひたりければ」「女返しもせざりければ」「なをいとつらかりける女に」「いといたう恨みて」「思ひかけて久しくなりぬる人のことさまになりぬときゝて」などという前書の恋の歌が多い。後撰集雑二に「難波がた汀のあしのおいのよにうらみてぞふる人のこゝろを」というのが読人不知になって出て居るが、兼盛の歌である。新勅撰集恋二に「しら山の雪のした草われなれやしたにもえつゝ年の経ぬらん」とあるのも兼盛の歌である。後拾遺集恋一、「恋そめし心をのみぞうらみつる人のつらさを我になしつゝ」、続千載集恋五、「つらくのみ見ゆる君かな山の端に風まつ雲のさだめなき世に」も兼盛の歌である。猶まだ幾首も挙げることが出来るが、いずれも此方負け、力負けの哀しい歌のみで、しかも何となく兼盛がかわゆそうに年が相手よりも老いているような気味合が見える。此女が兼盛に一時は靡いたが、年もそぐわず、気も合わないで終に赤染氏に之いて了ったのではないか、それが右衛門の母では無かったかと想われてならない。然し勿論取留もないことで、女が何様いう人であったかさえも考え得無い。兼盛だとて王家を出で下って遠からぬ人ではあり、女児を得たい一心から相当に突張ったので、その噂が今にまで遺り伝っているのだろうが、生憎と赤染時用が其時は検非違使であったから敵わなかった。女児は女と共に赤染氏に取られて終った。それで其娘は生長して、赤染右衛門となったのである。だから当時の人が、それらの経緯を知らぬ筈はないから、右衛門が右衛門となるまでには、随分苦労をしたことだろうと十二分に同情されるのである。  然し右衛門は不幸の霜雪に圧虐されたままに消朽ちてしまう草や菅では無かった。当時の大権威者だった藤原道長の妻の倫子に仕えて、そして大に才名を馳せたのであった。倫子は左大臣源雅信の女で、もとより道長の正室であり、准三宮で、鷹司殿と世に称されたのである。此の倫子の羽翼の蔭に人となったことは、如何ばかり右衛門をして幸福ならしめたか知れないが、右衛門の天資が勝れていなければ、中々豪華驕奢の花の如く錦の如く、人多く事多き生活の中に織込まれた一員となって、末々まで道長の輝かしい光に浴するを得るには至らなかったろう。詩人や歌人というものは、もとより人情にも通じ、自然にも親しむものであるが、それでも兎角奇特性があって、随分良い人でも常識には些欠けていたり、妙にそげていたり、甚しいのになると何処か抜けていたりするものがあるが、右衛門は少しも然様いうところの無い、至極円満性、普通性の人で、放肆な気味合の強い和泉式部や、神経質過ぎる右大将道綱の母などとは選を異にしていた。これはずっと後の事であるが、吾が子の挙周の病気の重かった時、住吉の神に、みてぐら奉って、「千代経よとまだみどり児にありしよりたゞ住吉の松を祈りき」「頼みては久しくなりぬ住吉のまつ此度はしるしみせてよ」「かはらむと祈る命はをしからで別ると思はむほどぞ悲しき」と三首の歌を記したなどは、種々の書にも見えて、いかにも好い母である。其挙周を出世させようとして、正月の司召始まる夜、雪のひどく降ったのに鷹司殿にまいりて、任官の事を願いあげ、「おもへ君、かしらの雪をかきはらひ、消えぬさきにといそぐ心を」と詠んだので、道長も其歌を聞いて、哀れを催し、そこで挙周を其望み通り和泉守にしてやった。「払ひけるしるしも有りて見ゆるかな雪間をわけて出づる泉の」と、道長か倫子か知らぬがお歌を賜わった。それに返して、「人よりもわきて嬉しきいづみかな雪げの水のまさるなるべし」など詠んでいるところは、実に好くいえば如才ない、悪く云えば世智に長けた女である。いやそれよりもまだ驚くことは、夫の匡衡が或時家に帰って来ると、何か浮かぬ顔をして、物かんがえをしているようだ。そこで怪しく思って、何様遊ばしましたと問う。余り問われるので、匡衡先生も少し器量は善くないが泥を吐いた。実は四条中納言公任卿、中納言を辞そうとなさるのである。そこで同卿が紀ノ斉名に辞表を草するように御依頼なされた。斉名は筆を揮って書いた。ところで卿の御気に召さなかった。そして卿は更めて大江ノ以言に委嘱された。以言も骨を折って起草した。然るに以言の草稿をも飽足らず思召して、其果に此の匡衡に文案して欲しいとの御頼みなのだ。斉名の文は典雅荘重であり、以言の文は奇を出し才を騁せ、其風体各々異なれど、いずれも文章の海山の竜であり象である。然るに両人の文いずれも御心にあかずして、更に匡衡に篤く御頼みありたりとて、同題にして異色の文、既に二章まで成りたる上は、匡衡が作、いずれのところにか筆を立てむ。御辞退申兼ねて帰りては来たれども、これを思うに、われも亦御心に飽かずとせらるる文字をつらぬるに過ぎざらんと、口惜しくもまた心苦しくおもうのである、と話した。公任卿は元来学問詩歌の才に長けたまえるのに、かかる場合に立たせられた夫が、困りもし悶えもするのは文章で立っている身の道理千万の事と、右衛門は何の答をすることも出来ず、しばし思案に沈んだが、斯様いうところに口を出して夫を扶けられる者は中々あるものでは無い。勿論右衛門は歌を善くしたばかりではない、法華経廿八品を歌に詠じたり、維摩経十喩を詠んだりしているところを見ると、学問もあった人には相違ないが、夫のおもて業にしている文章の事などに、女の差出口などが何で出来るべきものであろう。然し流石に才女で、世の中の鹹いも酸いも味わい知っていた人であった。御道理でござりまする、まことに斉名以言の君の御文章の宜しからぬということは無いことと存じまする、ただし公任卿はゆゆしく心高き御方におわす、御先祖よりの貴かりし由を述べ立て、少しく沈滞の意をあらわして記したまわむには、恐らくは意にかないて善しとせられなむ、如何におぼす、と助言した。匡衡ここに於て成程と合点して、然様いう意味を含めて、辞表とは云え、やや威張ったような調子を交えて起草した。果してそれは公任卿の意にかなって、中納言左衛門督を罷めんことを請うの状は公に奉呈され、匡衡は少くとも公任卿には斉名以言よりも文威の高いものと認められて面目を施した。其文が今遺っているから面白い。読んで見ると其中に、「臣幸に累代上台の家より出でゝ、謬って過分顕赫の任に至る。才は拙くして零落せり、槐葉前蹤を期し難く、病重うして栖遅す、柳枝左の臂に生ふ可し」とあるところなどは、実に謙遜の中に衿持をあらわして、如何にもおもしろい。槐葉前蹤を期し難し、と云って、少し厭味を云って置いて、柳枝左臂に生ずべしと、荘子を引張り出してオホンと澄ましたところなどは、成程気位の高い公任卿を破顔させたろうと思われる。それから加之と云って、皇太后の御上を云い、「猶子の恩を蒙りて、兼ねて長秋の監たり、嘗薬の事、相譲るに人無し」といい、「暫く彼の仙院の塵を継いで、偏へに此の后闈の月に宿せん」と云ったあたり、此時代の文章として十分の出来である。公任卿は悦んだに相違無いが、匡衡の此手柄も右衛門の助言から出たのである。公任卿は中納言左衛門督は辞したが特に従二位に叙せられ、後には権大納言正二位にまでなられたこと人の知る通りである。右衛門の才は此話を考えると、中々隅へ置けるどころでは無い、男子であったらば随分栄達したであろう。これほどの女であるが、当時の風俗で、男女の間は自由主義が尚ばれていたから、これも後の談であるが、夫の匡衡には一時負かされた。匡衡は何様した因縁だったか、三輪の山のあたりの稲荷の禰宜の女に通うようになった。ここに三輪という地名を出したが、それは今昔物語なんどにも無く、自分の捏造でも無いが、地名も人名も何も無くては余り漠然としているから、赤染右衛門集に、三輪の山のあたりにや、と記してあるので用いたまでである。右衛門は如何に聡明怜悧な女でも、矢張り女だから、忌々しくもあり、勘忍もしがたいから、定石どおり焼き立てたにちがい無い。匡衡よりも多分器量の上だったに疑い無い右衛門に責められては、相手が上手だったから敵わない、一応は降参して、向後然様なところへはまいりませぬと謝罪して済んだが、そこには又あやしきは男女の縁で、焼木杭は火の着くこと疾く、復匡衡はそこへ通い出した。すると右衛門は、すっかり女の身許から、匡衡がそこへ泊った時までを確実に調べ上げて置いて、丁度匡衡の其処に居た折、「我が宿のまつにしるしも無かりけり杉むらならば尋ねきなまし」という歌を使に持たせて、受取証明を取ってこいと責めたてた。待つに松をかけて、吾家へ帰るべきを忘れたのを怨んだも好いが、相手の女が稲荷様の禰宜の女というので、杉村ならば帰ったろうにと云ったのは、冷視と蔑視とを兼ねて、狐にばかされているのが其様に嬉しいかと云わぬばかりに、ぴしゃりと一本見事に見舞っている。人に歌を読みかけられて返歌をせぬのは七生暗に生れるなどという諺のある日本の人、まして匡衡だって中古三十六歌仙の中に入っている男だから、是非無くも「人をまつ山路わかれず見えしかば思ひまどふにふみすぎにけり」と返事して使をかえした。然程に待っていてくれるとも分らず思いまどうて余の路に踏みまどうた、相済みませぬ、恐れ入りました、という謝まりの証文の一札の歌であって、胷中も苦しかったろうが歌も苦しい。ふみすぎにけり、で杉を使ったなどは随分せつない、歌仙の歌でも何でも有りはしない、音律不たしかな切な屁のような歌である。しかし是に懲らされて、狐は落されてしまったと見え、それからは、鳶肩長身、傲骨稜々たる匡衡朝臣も、おとなしくなって、好いお父さんになっていたという話である。此歌も余り拙いから、多分後の物語作者などが作ったのだろうと思われては迷惑であるから断って置くが、慥に右衛門集に出ているのである。  赤染右衛門は斯様いう女である。こういう女が身体の血の気も漲っていれば、心の火の熱も熾んな若盛りで、しかも婚後の温い生活を楽んでいる際に当って、近親の定基の家には、卑しい身分の一艶婦のために冷雨悲風が起って、其若い妻が泣きの涙でいるということを知っては、其儘に他所の事だと澄ましかえっては居にくいことである。まして段々と風波が募って、定基の妻が日に日に虐められるようになっては、右衛門に対して援を求めるように何等かのことをしたかも知れない。そこで何も弁護士然と出かけた訳では無かろうが、右衛門は定基の妻のために、折にふれて何かと口をきいたことは自然であったろう。定基の家と右衛門とは、ただ一家というばかりの親しさのみでは無かったようである。これは少し言過ぎるかも知らぬが、定基の兄の為基、これは系図には、歌人とあり、文章博士、正五位下、摂津守とある。此人と右衛門との間には、何様もなみならぬ心のゆきかいが有ったかと見ゆるのである。此の頃の雑談を書記した類の書籍にも、我が知れる限りでは右衛門為基の恋愛譚は見当らず、又果して恋物語などが有ったのか否かも不明であるが、為基と右衛門との間に、歌の贈答が少くなかったことは、顕証が存している。ただし其恋があったとしても、双方ともに遠慮がちで終ったのかも知れないし、且又為基は病弱で、そして蚤く亡くなったことは事実である。とにかく、此の事は別にして其儘遺して置くことにする。が、為基定基兄弟の母と右衛門との間にも後になって互に問いおとずれし合ったことのあったのは、これも贈答の歌が幾首も残っているので分明である。梅の花、常夏の花などにつけて、定基の母の歌をおこしたのに右衛門の返ししたのもあり、又右衛門の家に定基の母が宿って、夜ふかき月をながむるに虫の声のみして人皆寝しずまりたるに、「雲ゐにてながむるだにもあるものを袖にやどれる月を見るらむ」と老女の悲愴の感をのべたのがある。為基定基の弟に成基、尊基が無かった訳ではないが、頼もしくした二人に離れて、袖にやどれる月を見るかな、とは何という悲しい歌だろう。右衛門も感傷にたえで、「ありあけの月は袂にながれつゝかなしき頃の虫の声かな」と返している。此歌は続古今集に載せられている。一家の事だから、交通もかくの如く繁かったことだろう、何も不思議はない。  かかる一家の間柄である。かかる人品の赤染右衛門である。虐げられた定基の若妻に同情し、又無論のこと力寿の方の肩を持ちそうもない定基の母にも添うて、右衛門は或日定基にむかって、美しいのみの力寿に溺るることの宜からぬことを説き、妻をやさしくあつかうべきことを、説きすすめたのである。実にそれは、言葉にそつは無く、情理兼ね到って、美しくもまたことわりせめて上手に説いたことであったろう。元来財力あるものは財を他に貸して貧者を扶けることが出来る、才力ある者は才を他に貸して拙者を助けることが出来、自然と然様いうことの生ずるのが世の自然のありさまである。それで赤染右衛門ほどになると、自分の子の挙周が恋に落ちていた時になって、恋には最大武器である和歌を挙周に代って作ってやって、それを相手の女に寄せさせたことが数々有った、実に頼もしい有難いお母さんで、坊ちゃん挙周はお蔭で何程好い男になっていたか知れない。其歌は今に明らかに残っているから、嘘でも何でもない。ところが相手の女もまだ若くて、中々赤染右衛門の代作の手はしの利いている歌に返歌は出来なかったが、幸に其の姉分に和泉式部という偉い女歌人があったから、それに頼んで答をして貰った。和泉式部の代作の恋の歌も今確存しているのである。双方手だれのくせものであるから、何の事は無い恋愛弁理士同士の雄弁巧説、うるわしかりける次第なりと云った形で、斯様いうことのつづきの末が、高ノ武蔵守師直という厭なじじいが、卜部の兼好という生ぐさ坊主に艶書の注文をしたなどという談を生ずるに至っているのである。小倉百人一首に載っている、赤染右衛門、やすらはで寝なましものを小夜ふけて傾くまでの月をみしかな、は実に好い歌であるが、あれも右衛門自身の情から出た歌では無くて、人に代って其時の情状を写実に詠んだものである。恐れ入った妙作で、綿々たる情緒、傾くまでの月を見しかな、と彼の様に「かな」の二字のピンと響く「かな」は今に至るまで百千万度も使われたかなの中にも滅多には無い。あのような歌をよこされては、男子たるもの蜘蛛の糸に絡められた蜻蜓のようになって了って、それこそカナ縛りにされたことだったろう。これほどの赤染右衛門に出て来られて、有り余る才を向う側に用立てられて、しかも正しい道理のある方に立って物を云われては、定基たるものも敵う筈は無い、差当りだけでも、如何にも御もっともと、降伏せざるを得ないところであった。  ところが然様はいかなかった。定基に取っては力寿のかわゆさが骨身に徹していたのである。イヤ、骨身に徹するどころではない、魂魄なども疾くに飛出して終って、力寿の懐中の奥深くに潜り込んで居たのである。妻は既に妻ではないのであった、袖の上の飛花、脚の下の落葉ほどにも無いものであったのである。妻に深刻な眼で恨まれたこともあったろうが、それは籬の外の蛍ぐらいにしか見えなかったであろう。母に慈愛のまなざしで諭されたことも有ったろうが、それも勿体ないが雲辺の禽の影、暫時のほどしか心には留まらなかったのであったろう。如何に歌人でも才女でも、常識の円満に発達した、中々しっかり者の赤染右衛門でもが、高が従兄弟の妻である。そんなものが兎や角言ったとて、定基の耳には頭から入らなかったのであろう。別に抗弁するのでも無ければ、駁撃するというでも無く、樹間の蝉声、聴き来って意に入るもの無し、という調子にあしらって終った。右衛門も腕の力を暖簾にごまかされたようになっては、流石にあれだけの器量のある女だから、やっきとなって色々にかき口説いたろうが、人間には生れついて性格技能のほかに、丈の高さというものがあるのだから、定基の馬鹿に丈の高いのには、右衛門の手が届きかねたのであろう、何の手応えも生じかねたのである。世の中には何も出来ないで丈ばかり高いものがあるが、それは戦乱の世なら萱や薄のように芟り倒されるばかり、平和の世なら自分から志願して狂人になる位が結局で、社会の難物たるに止るものだが、定基は蓋し丈の高い人だったろう。そこで右衛門は自尊心や自重心を傷つけられたに過ぎぬ結果になって、甚だ面白く無く、手持無沙汰になって、定基の妻や母にも面目無く、いささか器量を下げて、腹の中は甚だ面白からず、何様ぞ宜く御考えなされまして、という位を定基に言って引退るよりほか無くなった。此処で何様いう風に右衛門が巧みに訴え、上手に弁じ、手強く筋を通して物語ったかは、一寸書き現わしたくもあるところだが、負けた相撲の手さばきを詳しく説くのもコケなことだから省いて置く。  定基の方は、好かない煙が鼻の先を通った程の事で済ませて了ったが、収まらないのは右衛門の腹の中だった。右衛門に取って直接に苦痛が有るの無いのということでは無いが、自分の思ったことが何の手応えも無く、風の中へ少しの灰を撒いたように消えて終ったというようなことは、誰に取っても口惜しいものである。まして相当の自負心のあるものには、自分が少しの打撃を蒙ったよりも忌わしい厭わしい感じを生じ勝のものである。それに加えて、相互の間に敬愛こそは有れ、憎悪も嫌悪もあるべき筈は無い自分に対してさえ、然様いう軽視若くは蔑視を与える如き男が、今は嫌厭から進んで憎悪又は虐待をさえ与えて居る其妻に対しては、なまじ横合からその妻に同情して其夫を非難するような気味の言を聞かされては、愈々其妻に対して厭悪の情を増し虐待の状を増すことであろうと思うと、其妻に対しても気の毒で堪らぬ上に、其男の憎らしさが込みあげて来てならぬ。吾が心の平衡が保てぬというほどでは無いが、硬粥が煮えるときにブツブツと小さな泡が立っては消え、消えては復立つというような、取留めのない平らかならぬものが腹中に間断なく起滅するのを免れなかったことだったろう。そこで右衛門は遂に夫の匡衡に委曲を語って、定基の近状の良くないことを云い、其妻のあわれなことを告げ、何とかしてやって欲しいことを訴えた。男は男で、他の斯様なことには取合いたがらぬものである。匡衡は一応はただ其儘に聞流そうとした。しかし右衛門は巧みに物語った。匡衡はここで取合わずに過して了えば、さも自分も定基と同じような場合にあっては吾が妻に対して冷酷である男のように、自分の妻から看做さるるであろうかのように感じずには居られなかったであったろう。そこで定基に対してよりは、自分の妻に対しての感じから動き出して、よし、それでは折を見て定基に話ししよう、ということになった。匡衡と右衛門との間は実に仲が好かったのであった。  男と女との間の睽きあったところへ口を出すほど危険なことは無い。もし其男女の仲が直れば、後で好く思われる筈は無い、双方の古疵を知っている一の他人であるからである。又仲直りが出来ずに終れば、もとより口をきいた甲斐もないのであるからである。しかし親類合のことであって見ると、又別である。が、匡衡も定基も血の気の多い、覇気満々の年頃ではあり、双方とも学問はあり才器はあり、かりそめの雑談を仕合っても互に負けては居ぬ頃合であるから、斯様いう談などは、好い結果を生じそうにないのが自然であった。然し双方とも幸に愚劣な高慢的な人で無かったから、何等の後の語り草になるほどのことも無くて済んでしまったが、互の感情は睽離し、そして匡衡は匡衡、定基は定基で、各々峭立して疎遠になるに終ったことだったろう。察するに一方は、路花墻柳の美に目を奪われるの甲斐無きことをあげて、修身斉家の大切なことを、それとなく諷したに違いない。それに対し反対の仕ようは無いから、一方は黙っていたに違いない。此の黙っているというのは誠に張合の無い困ったことだから、又更に一方は大江の家が儒を以て立っているのだから、家の内の斉わないで、妻を去るに至るの何のということは、よくよくの事でなければ、一家一門に取って取分け世間の非難を被って、非常に不利であることを云いもしたろう。これに対しても一方は又黙っていたろう。七出の目に就いても言議に及んだことであろう。七出というのは、子無きが一、淫佚が二、舅姑に事えざるが三、口舌多きが四、盗窃が五、妬忌が六、悪疾が七である。これに対しては定基の方からは、口舌、妬忌の二条を挙げて兎角を云うことも出来るわけだが、定基今差当って必ずしも妻を出そうと主張しているのでも無いから、やはり何も云わず黙っていたろう。何を云っても黙って居られる。自分も妻の右衛門同様、相手にされずに黙過されるに至っては匡衡も堪えきれなくなったろう。遂に力寿が非常に美い女だということが定基耽溺の基だというのに考えが触れて、美色ということに鉾が向いたろう。妲己や褒姒のような妖怪くさい恐ろしい美人を譬えに引くのも大袈裟だが、色を貪るという語に縁の有るところがら、楚王が陳を討破って後に夏姫を納れんとした時、申公巫臣が諫めた、「色を貪るを淫と為す、淫を大罰と為す」と云ったのを思い出して、色を貪るのを愚なことだと云いもしたろう。貪色の二字は実に女の美いのを愛ずる者にはピンと響かずには居ない語だ。夏姫というのは下らない女ではあったが、大層美い女だったには疑無い。荘王は巫臣の諫を容れて何事も無く済んだが、巫臣が不祥の女だと云った如く、到るところに不幸を播いた女であった。夏姫に力寿を比したでも何でも無かったろうが、貪色というが如き一語は定基には強く響いたことだろう。全く色を貪って居たには違無いのだから。すべて人は何様いう強いことを言われても、急所に触れないのは捨てても置けるものであるが、たまたま逆鱗即ち急所に触れることを言われると腹を立てるものである。グッと反対心敵対心の火炎を挙げるものである。ここまでは好くない顔はしていても、別に逆らうでもなく、聞流しに聞いていた定基も、ここに至って爆発した。一ツは此頃始終足の裏に踏付けた飯粒のような古女房を、何様しようか何様しようかと思って内々は問題にしていたせいでもあったろう、又一ツには譬えば絹の糸の結ばれて解き兼ねるようになっているのを如何に処理しようかと問題にして惑って居る時、好意ではあるにしても傍より急に其一端を強く引かれて愈々解き難くなったので、ええ面倒ナ切って終え、と剪刀を取出す気になるような、腹の中で決断がついて終ったせいもあったろう。定基は突然として、家にも似合わず、如是因、如是縁、如是因、如是縁、と繰返して謂って、如何にしても縁というものは是非の無いものと見えまする、聖人賢人でも気に入らぬ妻は離別された先蹤さえござる、まして我等は、と云って、背筋を立てた。匡衡は、ヤ、と云って聊か身を退いた。定基は幾月か扱っていた問題だったから、自然と後が口を衝いて出て来た。檀弓に見えて居る通り、子上の母死して喪せずの条によれば、孔子の御孫の子思子が妻を去られたことは分明である。又其章の、門人が子思子に問われた言葉に、「昔は子の先君子出母を喪せる乎」とあるによれば、子思子の父の子伯魚も妻を去られたようである。イヤ、それよりも同じ章の別の条に、「伯魚の母死す、期にして而して猶哭す」の文によれば、伯魚の母即ち孔子の妻も、吾が聖人孔夫子に去られたことは分明である。何様いう仔細あって聖人が子まであった夫人を去られたか、それはそれがし不学で未だ見及ばず聞及ばぬが、孔子は年十九にして宋の幵官氏を娶られ、其翌年に鯉字は伯魚を生ませたもうたのである。伯魚が出母の死に当り期にして猶哭せるは、自然であるが、孔子が幵官氏を出し玉うたのは、因縁不和とよりそれがしには合点がならぬ。聖人の徳、家を斉うるに足らなかったとは誰も申し得ぬ。しかし夫子も上智と下愚とはうつらずと申して居らるる。うつらずとは徳化も及ばざることでござろう。聖人の盛徳といえども、御年猶若かりし頃には、堪えかねて見放したもうて去られしもの歟、或は幵官氏に宜しからぬことのありし歟。すべて遠き古の事、考え知らんにも今如何ともし難けれど、我等凡愚にはただ因縁不可思議とのみ存ずる、何様いうものでござろうか、と意外な逆手に出られた。これは何も定基が匡衡より学識が勝れていた故というのでは無いが、定基の方は自分の境遇の現在から斯様いうことを実際の問題にして、いろいろ苦悩して考えていたからである。匡衡は一寸身を退かずには居られなかった。相撲なら、ここで定基の出足さえ速かったら、匡衡は手もなく推出されて終うところだったが、何も定基は勝負を争うつもりのわけでは無かったから、追窮するような態度に出無かった。が、匡衡の方では、明らかに自分が推戻されてたじたじとなったのを感じた。けれども匡衡も鳶肩倔強の男児だ、斯様なると話が学問がかったところで推出されじまいになるのには堪えられなかった。何も争いを仕に来たので無いのは知れきったことだが、負けたようになって引退ることは厭だった。そこは流石に才子で、粟津の浜に精兵を率いて駈通るような文章を作る男だけに、檀弓は六国の人、檀弓一篇は礼記に在りと雖も、もと伝聞に出ずるもので、多く信ず可からず、というような論は、云えば云えぬでは無いが、そんな迂なことを馬鹿正直に云うよりも、相手の推しを其儘にいなせて、「如何にも」と云ったまま少時考えたが、忽ち思い得たところがあったか薄笑いして、成程、聖人も性の合わぬ妻を去られたということは有ったでもござろう、然し聖人は妻を去られたにしても、其後他の婦人を迎えて妻とせられたことは無いように存ずる、其証は孔子の御子は伯魚一人限りで、幵官氏の出ただ一人、其他に伯魚の弟、妹というものは無かったのでござる、又孔子が継室を迎えられた、それは何氏であったということも、それがし不学で未だ見及ばず聞及ばぬでござるが、と談話は実に斡旋の妙を極めた。此度は定基の推した手を却って軽く引いて置いて、側から横へ推したようなものだった。定基は抵抗されたのでは無いが、思わぬ方へ身を持って行かれたのであった。妻を去るのは去るにしても、力寿を其後へ入れることは無くてあるべきように云われたのである。元来聖人などを持出したのが、変なことだったので、変なことの結果は変なことになって終ったのである。双方の話は生活の実際に就てであったのだが、歯に物の挟まった物の云い方を仕合った結果は、書物の古話になってしまった。しかしそれも好かった、書生の閑談で事は終って了って、何等のいさくさも無く稜立つことも無く済んで了った。  但し双方とも、平常の往来、学問文章の談論でなくて有ったことは互の腹に分って居ない筈は無かったのだから、匡衡の方は人が折角親切気で物を云ってやったに、分らぬ男だと思えば、定基の方は大きな御世話で先日は生才女、今日は生学者が何を云って来居るのだ、それも畢竟は家の女めが何か彼か外へ漏らすより、と腹なりを悪くしたに違無い。物の因縁というものは、善くなるのも悪くなるのも、都べて斯様いうもので、親切は却って仇となり、助けは却って障りとなって、正基は愈々妻を疎み、妻は愈々夫を恨み、無言の冷眼と嫉妬のひぞり言とは、日に戦ったが、定基は或はずみに遂に妻を去ろうと云い出して了った。女は流石に泣いたり笑ったりしたが、何様も仕方無く、遂に家を出て終った。当時の離別の形式などは今これを詳知する材料に乏しいが、いずれ美しく笑って別れるということは有ろう筈無く、男の瞋眼、女の怨気、あさましく、忌わしい限りを尽して別れたことであったろう。それで無くては別れられる訳も無いのだから。特に女に取っては、一生を全く墨塗りにされるのだから、定基の妻は恨みもしたろう、悪みもしたろう、人でも無いもののように今までの夫を蔑視もしたろう、行末悪かれ、地獄に墜ちよ、畜生になれ、修羅になって苦め、餓鬼になって悩め、と呪いもしたろう。そして自分の将来、何の光も無く、色も無く、香も無い、ただ真黒な冷い闇のみの世界を望み視ては、愴然栗然として堪えきれぬ思いをしたことであったろう。  およそ人間世界に夫婦別れをする女ほど同情に値するものはあるまい。それは決して純善から生ずるものでは無かろうから、同情に値しない個処が存在することを疑わない。たとえば定基の妻にしても妬忌の念が今少し寡かったら如何に定基が力寿に迷溺したにせよ、強いて之を去るまでには至らなかったろうと想われる。然し何が何様あろうとも、一生の苦楽を他人に頼る女のことであるから、善かれ悪かれ取宛てた籤の男に別れては堪るものではない。そこへ行くと男の方は五割も十割も割がよい。甚だしいのになると、雨晴れて簑を脱ぎ、水尽きて舟を棄つるような気分で女に別れて、ああせいせいしたなどと洒落れているのである。それでいて其男が甚い悪人でも無いというのが有るのだから、一体愛情というものの上には道徳が存するものか何様かと疑われるほどで、何にしても女は不利な地に立っている。定基は勿論悪人というのではないが、つまりは馬で言えば癇強な馬で、人としては生一本の人であったろう。で、女房を逐出し得てからは、それこそせいせいした心持になって、渾身の情を傾けて力寿を愛していたことであろう。任地の三河にあっては第一の地位の三河守であり、自分のほかは属官僕隷であり、行動は自由であり、飲食は最高級であり、太平の世の公務は清閑であり、何一ツ心に任せぬことも無く、好きな狩猟でもして、山野を馳駆して快い汗をかくか、天潤いて雨静かな日は明窓浄几香炉詩巻、吟詠翰墨の遊びをして性情を頤養するとかいう風に、心ゆくばかり自由安適な生活を楽んでいたことだったろう。ところが、それで何時迄も済めば其様な好いことは無いが、花に百日の紅無し、玉樹亦凋傷するは、人生のきまり相場で、造物豈独り此人を憐まんやであった。イヤ去られた妻の呪詛が利いたのかも知らぬ。いつからという事も無く力寿はわずらい出した。当時は医術が猶幼かったとは云え、それでも相応に手の尽しかたは有った。又十一面の、薬師の、何の修法、彼の修法と、祈祷の術も数々有った。病は苦悩の多く強いものでは無かったが、美しい花の日に瓶中に萎れゆくが如く、清らな瓜の筺裏に護られながら漸く玉の艶を失って行くように、次第次第衰え弱った。定基は焦躁しだした。怒りを人に遷すことが多くなった。愁を独りで味わっていることが多くなった。療治の法を求めるのに、やや狂的になった。或時はやや病が衰えて元気が回復したかのように、透徹るような瘻れた顔に薄紅の色がさして、それは実に驚くほどの美しさが現われることも有ったが、それは却って病気の進むのであった。病人は定基の愛に非常な感謝をして、定基の手から受ける薬の味の飲みにくいのをも、強いて嬉しげを装うて飲んだ。定基にはそれが分って実に苦かった。修法の霊水、本尊に供えたところの清水を頂かせると、それは甘美の清水であるので、病人は心から喜んで飲んで、そして定基を見て微かに笑う、其の此世に於て今はただ冷水を此様に喜ぶかと思うと、定基は堪らなく悲しくて腹の中で泣けて仕方がなかった。病気は少しも治る方へは向かなかった。良い馬が確かな脚取りを以て進むように、次第次第に悪い方へのみ進んだ。其の到着点の死という底無しの谷が近くなったことは定基にも想いやられるようになったし、力寿にもそれが想い知られているようになったことが、此方の眼に判然と見ゆるようになった。しかし二人とも其の忌わしいことには、心をも言葉をも触れさせないように力めた。互に相棄てたくない、執着の心が、世相の実在に反比例して強く働いたからである。  日影の動かない日は有り得ない。其時は来て其影は流れた。力寿は樹の葉が揺れ止んで風の無くなったのが悟られるように、遂に安らかに死んで終った。定基は自分も共に死んだようになったが、それは一時のことで、死なないものは死ななかった。たしかに生残っていた。別れたのだ。二つが一つになっていた魂が、彼は我を捨て、我は彼に従うことが叶わないで、彼は去り、我は遺ったのであった。ただ茫然漠然としていたのみであった。  生は相憐れみ、死は相捐つという諺がある。其諺通りなら定基は早速に僧を請じ経を誦させ、野辺の送りを営むべきであった。しかし普通の慣例の如くに然様いう社会事相を進捗させるには定基の愛着は余りにも深くて、力寿は死んで確かに我を捐てたけれども、我は力寿を捐つるには忍びなかった。簀を易え机を按き、花を供し香を焼くような事は僕婢の為すがままに任せていたが、僧を喚び柩に斂めることは、其命を下さなかったから誰も手をつけるものは無かった。一日過ぎ、二日過ぎた。病気の性の故であったろうか、今既に幾日か過ぎても、面ざし猶生けるが如くであった。定基は其の傍に昼も居た、夜も臥して、やるせない思いに、吾が身の取置きも吾が心よりとは無く、ただ恍惚杳渺と時を過した。古き文に、ここを叙して、「悲しさの余りに、とかくもせで、かたらひ伏して、口をすひたりけるに、あさましき香の口より出来たりけるにぞ、うとむ心いできて、なく〳〵はふりてける」と書いてある。生きては人たり、死しては物たり、定基はもとより人に愛着を感じたのである、物に愛着を感じたのでは無かった。しかし物猶人の如くであったから、いつまでも傍に居たのであろう。そして或時思いも寄らず、吾が口を死人の口に近づけたのであろう。口を吸いたりけるに、と素樸に書いた昔の文は実に好かった。あさましき香の口より出来りける、とあるが、それは実に誰もが想像し兼ねるほどの厭わしい、それこそ真にあさましい香であったろう。死に近づいている人の口臭は他の何物にも比べ難い希有の香のするもので、俗に仏様くさいと云って怖れ忌むものであるが、まして死んでから幾日か経ったものの口を吸ったのでは、如何に愛着したものでも堪らなかったろう。然し定基は流石に快男児だった、愛も痴もここまでに到れば突当りまで行ったものだった。其時その腐りかかった亡者が、嬉しゅうござんす定基さん、と云って楊枝のような細い冷い手を男の頸に捲きつけて、しがみ着いて来たら何様いうものだったか知らぬが、自然の法輪に逆廻りは無かったから、定基はあさましい其香に畏れ戦いて後へ退ったのである。人間というものは変なもので、縁もゆかりも無い遠い海の鰹や鮪の死骸などは、嘗めて味わって噛んで嚥んで了うのであるから、可愛いい女の口を吸うくらい、当りまえ過ぎるほど当りまえであるべきだが、然様は出来ないのである。ダーキーニなら、これは御馳走と死屍を食べも仕ようが、ダーキーニでは無かった定基は人間だったから後へ退って了ったのであった。ここを坊さんの虎関は、会失レ配、以二愛厚一緩レ喪、因観二九相一、深生二厭離一、と書いているが、それは文飾が届き過ぎて事実に遠くなっている。九相は死人の変化道程を説いたもので、膨張相、青瘀相、壊相、血塗相、膿瀾相、虫噉相、散相、骨相、土相をいうので、何も如何に喪を緩うしたとて、九相を観ずるまで長く葬らずに居たのでは無い、大納言の「口を吸ひたりけるに」の方が遥かに好い文である。そこで定基は力寿を葬ってしまった。葬という字は、死屍を、上も草なら下も草、草むらの中に捨てて了うことであり、ほうむるという言葉は、抛り放つことで、野か山へ抛り出して終うのである。何様も致しかたの無い人の終りは、然様するか然様されるのが自然なのである。生相憐み、死相捐つるのである、力寿定基は終に死相捐てたのである。  力寿に捐てられ、力寿を捐てた後の定基は何様なったか。何様も無い、斯様も無い、ただそこには空虚があったばかりであった。定基は其空虚の中に、頭は天を戴くでもなく、脚は地を履むでも無く、東西も知らず南北も弁えず、是非善悪吉凶正邪、何も分らずふらふらと月日を過した。其中に四月が来て、年々の例式で風祭りということをする時が来た。風祭りと云っても、万葉の歌の、花に嵐を厭うて「風な吹きそと打越えて、名に負へる森に風祭りせな」というような風流な風祭りではない。三河の当時の田舎の神祭りの式で、生贄を神に献じて暴風悪風の田穀を荒さぬようにと祈るのであった。趣意はもとより悪いことではない、例は年々行われて来たことだった。定基は三河の守である、式には勿論あずかったのである。ただ其の生贄を献げるというのは、野猪を生けながら神前に引据えて、男共が情も無くおろしたのであった。野猪は鈍物でも殺されるのを合点して忍従する訳は無いから、逃れようともすれば、抵抗もする。終に敵わずして変な声を出して哀しみ困んで死んでしまうのであった。定基はこれを見て、いやに思った。が、それは半途で止める訳にはゆかぬから、自ら堪えて其儘に済ませて終った。生贄ということは何時から始まったか知らぬが、吾が邦では清らな神代の古にはなかったようである。支那では古からあったことのようであるが、犠牲の観念は吾が神国にも支那の思想や文物の移入と共に伝わったのではないか、既に今昔物語には人身御供の物語が載っていて、遥かに後の宮本左門之助の武勇談などの祖と為っている。社会組織の発達の半途にあっては、生贄の是認せらるべき趨勢は有りもしようが、觳觫たる畜類の歩みなどを見ては、人の善良な側の感情から見て、神に献げるとは云え、何様も善いことか善くない事か疑わしいと思わずには居られないことである。換言すれば犠牲ということを可なりとする社会善というものが、果して善であろうか、然様で無かろうかも疑わしいことである。然し豪傑主義から云えば、勿論のこと、神に献げる犠牲などは論ずるにも足らぬことで、其様なことを否認などしては国家の組織は解体するのであるから、巌窟に孤独生活でも営んでいる者で無い限りは犠牲ということを疑ってはならぬのが、人間世界の実状である。扨それから少し後のことであった。今まで狩猟などをも悦んでいたことであるから定基のところへ生き雉子を献じたものがあった。定基は、此の雉子生けながら作りて食わん、味やよき、心みん、と言い出した。奴僕の中の心のあらい者は、主人を神とも思っているから、然様でござる、それは一段と味も勝り申そうと云い、少し物わかりのした者は、それは酷いとは思ったが、諫め止めるまでにも至らなかった。やがてむしらせると、雉子はばたばたとするのを、取って抑えてむしりにむしった。鳥は堪らぬから、涙の目をしばたたきて、あたりの人々を見る。目を見合せては流石に哀れに堪兼ねて立退くものもあったが、鳴き居るは、などと却って興じ笑いつつ猶もむしり立てる強者もあった。挘りおおせたから、おろさせると、刀に従って血はつぶつぶと出で、堪えがたい断末間の声を出して死んで終った。炒り焼きして心見よ、と云うと、情無い下司男は、其言葉通りにして見て、これはことの外に結構でござる、生身の炒り焼きは、死したるのよりも遥かに勝りたり、などと云った。いずれは此世の豪傑共である。定基はつくづくと見て居たが、終に堪えかねて、声を立てて泣き出して、自分の豪傑性を否認して終って、三河守も何もあらばこそ、衣袍取繕う遑も無く、半天の落葉ただ風に飛ぶが如く国府を後にして都へ出てしまった。  勿論官職位階は皆辞して終った。疑い訝る者、引留める者も有ったには相違無い、一族朋友に非難する者も有ったには相違無い。が、もう無茶苦茶無理やり、何でも構わずに非社会的の一個のただの生物になって仕舞った。犠牲を献げるのを正しいこととし、犠牲を献げるのを怠るごときは、神に対する甚しい非礼とし、不道とし、大悪とする。犠牲を要求するのは神の権威であり、高徳であり、一切を光被する最善最恵の神の自然の方則であり、或る場合には自ら進んで神の犠牲となり、自己の血肉肝脳を神に献げるのを最高最大最美最壮烈の雄偉な精神の発露として甘んずるのを純粋な道徳であるとする、従って然様して神に一致するを得るに至るを得、ということで社会は勇健に成立っているのである。如何にもそれで無くては堅固な社会は成立たぬであろう。犠牲の累積と連続とで社会というものは成立っているのである。犠牲の否認というが如きは最卑最小最劣の精神である、犠牲の強要強求乃至巧要巧求をするのは、豪傑乃至智者なのである。犠牲を甘受しなければ鮒一尾、卵一箇も摂れぬのである。旨く味わうが為に雉子の一羽や二羽の生づくりが何であろう。風の神にささげる野猪の一匹や二匹の生贄が何であろう。易牙は吾が子を炙り物にして君にささげたという。あの中間の犠牲取扱者は一体何様いうものであるか、卑怯者なのか豪傑なのか。既に犠牲の累積と連続とで社会が成立っている以上は、夥しい数の犠牲取扱人が居なければならぬが、イヤ、一切の人間が大抵相互に犠牲となり犠牲を取り犠牲取扱人となっているのが此の人間世界の実相なのである。人間同士、甘んじて犠牲となり合うのが愛であり、犠牲を強要しあうのが争闘であり、然様でない犠牲の自、他、中間の種々相は即ち娑婆世界の実相である。自分はもう幻影に過ぎなかった愛の世界を失って娑婆即ち忍苦の世界の者となったのみだ、其娑婆に在って又ふたたび幻影の世界を求めて、遅かれ速かれふたたび浅ましい物の香に接しようとも思わぬ、と取留めも無く、物を思うでもなく、思わぬでもなく、五月雨のしとしとと降る頃を、何か分らぬ時を過した。もう然様いう境界を透過した者から云わせれば、所謂黒山鬼窟裏の活計を為て居たのであった。そこへ従僕が突として現われて、手に何か知らぬ薄い筐様のものを捧げて来た。 「何か」と問うと、老いた其男の答は極めて物しずかであった。「其のさま卑しからぬ女の、物ごしもまことに宜しくはあれどいたく貧苦愁苦にやつれて見えたるが、願はくは此鏡を然るべく購ひ取りてたまはれかしとて持参り深々と頼み入りましてのことに、強くは拒み兼ねて、要無きこととは存じましたれど、御眼の前にもてまゐりたり」という。鏡が今の定基に何のかかわりがあろう。然し定基は何彼と尋ねると、いずれ五位六位ほどの妻であろうか、夫の長い病の末か、或は何様いうかの事情の果にいたく窮乏して、如何ともし難くなって、吾が随一の宝の鏡を犠牲にして売って急を凌ごうということらしい。鏡は当時猶なかなかに貴いものであったのである。定基は其筺を開いて鏡を見ようとすると、其包み紙の萎えたるに筆のあとも薄く、「今日のみと見るになみだのます鏡なれにし影を人にかたるな」と書いてあった。事情が何も分った訳ではないが、女の魂魄とする鏡を売ろうとするに臨みての女の心や其事情がまざまざと胷に浮んで来て、定基は闇然として眼を瞑って打仰いで、堪えがたい哀れを催した。そこで、鏡は吾に要なければ返し取らせよ、定めて何彼と物の用あろうほどに、我がものは何なりと惜みなく其人に取らせよ、よくよくあわれびをかけよ、と吩附けて、涙の漏る眼をおし拭うた。この鏡を売りに来た女は何様いうものであったか、定基に何か因縁のあったものか、文化文政度の小説ならば、何かの仔細を附加えそうなところだが、それは何も分明していない。恐らくは偶然に斯様いうことが湧いて来たのであろう。強いて筋道を求むれば、人が濁悪の世界を離れようとする時には、不思議に上求菩提の因縁となることが現出するもので、それは浄居天がさせるわざだ、という小乗的の談があるが、仮りに其談に従えば、浄居天が定基を喚びに来てくれたものであったろう。定基は其婦人の窮を救うために、種々の自分の財物を与え取らせた後不思議に清々しい好い心持になった。そして遂に愈々吾が家を棄てて出た。勿論定基の母は恩愛の涙を流したことでは有ろうが、これを塞ぎ遮ろうとするような人では無く、却って其背影に合掌したことであったろう。棄恩入無為、真実報恩者の偈は、定基の胷の中にも断えず唱えられたろうが、定基の母にも恩愛の涙と共に随喜の涙によって唱えられたことであったろう。  定基は東山如意輪寺に走った。そこには大内記慶滋保胤のなれの果の寂心上人が居たのである。定基は寂心の前に端座して吾が淵底を尽して寂心の明鑑を仰いだのである。寂心は出塵してから僅に二三年だが、今は既に泥水全く分れて、湛然清照、もとより浮世の膠も無ければ、仏の金箔臭い飾り気も無くなっていて、ただ平等慈悲の三昧に住していたのである。二人の談話は何様なものだったか、有ったか無かったか、それも分らぬ。ただ然し機縁契合して、師と仰がれ弟子と容れられ、定基は遂に剃髪して得度を受け、寂照という青道心になったのである。時に永延二年、齢はと云えば、まだ三十か三十一だったのである。よくも思いきったものであった。  寂照は入道してから、ただもう道心を持し、道行を励み道義を詮するほかに余念も無く、清浄安静に生活した。眼前は日に日に朗らかに開けて、大千世界を観ること漸くにして掌上の菓を視るが如くになり、未来は刻々に鮮やかに展じて、億万里程もただ一条の大路の砥の如く通ずるを信ずるに至ったでもあったろう。仏乗の研修は寂心の教導のみならず、寂心の友たり師たる恵心の指示をも得て、俊敏鋭利の根器に任せて精到苦修したことでもあったろう。恵心はもとより緻密厳詳の学風の人であったから、寂照はこれに従って大に益を得たことでもあろう、それで寂照を恵心の弟子のように云伝えることも生じたのであろう。しかも恵心はまた頭陀行を厳修したので、当時円融院の中宮遵子の御方は、新たに金の御器ども打たせたまいて供養せられたので、かくては却ってあまりに過ぎたりと云って、恵心は乞食をとどめたと云う噂さえ、大鏡にのこり伝わっているほどである。頭陀行というのは、仏弟子たるものの如法に行うべき十二の行をいうので、何も乞食をするのみが唯一の事ではないが、衣二、食四、住六の法式の中の、第三、常乞食の法が自然に十二行の中枢たるの観を為すに至っているので、頭陀行をすると云えば乞食をするということのようになっている。本来を云えば此の優美でも円満でも清浄でも無い娑婆世界を洗いかえそうというのが頭陀行で、そのために仏子となって仏法に帰依し、自分は汚い色目も分らぬ襤褸を着て甘んじ、慾得ずくからの職業産業から得るのでない食物を食って足れりとし、他を排しおのれを護る住宅でもないところに身を安んじ、そして一念ただ清涼無熱悩の菩提に帰向し了らんとするのが頭陀行である。其の頭陀行の中の常乞食は、一には因縁所生の吾が身を解脱に至らしむるまでの経程を為すのである、二には我に食を施す者をして仏宝法宝僧宝の三宝に帰依せしむ、三には我に食を施すものをして悲心を生ぜしむ、四には我に我心無し、仏の教行に順ずるなり、五には満ち易く養い易く、安易の法なり、六には諸悪の根幹たる憍慢を破る、七には最卑下の法を行ずるに因りて最頂上相の感得を致す、八には他の善根を修する者の倣うことを生ず、九には男女大小の諸の縁事を離る、十には次第に乞食するが故に、衆生の中に於て平等無差別の心を生ず。これであるから余りに鄭重な供養を提出された時に、恵心が其の燦爛たる膳部に対して「かくては余りに見ぐるし」と云ったのも無理はないことで、ぴかぴかきらきらしたものを「見ぐるしい」としたのは流石に恵心であった。其の恵心の弟子同様の寂照である。これは三河守だった昨日に引かえて、今日は見るかげも無い青道心である。次第乞食は之を苦しいとはせぬであったろうが、かなり苦しいことでもあったろう。次第乞食とは、良い家も貧しい家も撰まず、鉢を持して次第に其門に立って食を乞うのである。或日の事寂照は師の恵心の如く頭陀行をした。一鉢三衣、安詳に家々の前に立って食を乞うたのである。すると一軒の家に喚び入れられた。通って見ると、食物を体よくして「庭に畳を敷きて、供養しようとしたのである。何の心も無く其畳に居て、唱え言をして食わんとした。其時そこに向いて下してあった簾を捲上げたので、そなたを見ると、好き装束した女の姿が次第にあらわれた。簾は十分に上げられた。誰に言うたのか、女は「あの乞丐、如是てあらんを見んと思いしぞ」と言った。寂照は女を見た。女も寂照を見た。眼と眼とは確かに見合せた。女は正しく寂照が三河守定基であった時に逐出した其女であった。女の眼の中には無量なものがあった。怨恨の毒気のようなものもあった、勝利を矜るようなものもあった、冷やかなものもあった、甚だしい軽蔑もあった、軽蔑し罵倒し去っての哀れみのようなものもあった、猶自己が不幸に沈淪している苦痛を味わいかえして居るが如きものもあった、又其の反対に飽までも他を嘲りさいなむような、氷ででも出来た利刃の如きものもあって、それは定基の身体のあらゆるところを深く深く剜りまわろうとした。割り口説いて云えば斯様でもあるが、何もそれが一ツ一ツに存在しているのではなく、皆が皆一緒になって、青黄赤白、何の光りともない毒火の燄となって迸り出て掩いかかるのであった。そして女は極めて緩く鈍く薄笑いに笑った。それは笑いというべきものであったか、何であったか分らぬ、如何なる画にも彫刻にも無い、妖異で凄惨なものであった。  定基が定基であったなら、一石が池水に投ぜられたのであったから、波瀾淪漪はここに生ぜずには済まなかったろう。然し寂照は寂照であった、鳥影が池上に墜ちたのみであったから、白蘋緑蒲、かつて動かずであった。今は六波羅密の薄い衣に身を護られて、風の射る箭もとおらざる境界に在るものであった。忍辱波羅密、禅波羅密、般若波羅密の自然の動きは、逼り来る魔燄をも毒箭をも容易に遮断し消融せしめた。寂照はただ穏やかに合掌した。諸仏菩薩の虚空に充満して居られて此方を瞰ていらるるに対し、奉恩謝徳の念のみの湧き上るに任せた。我に吹掛ける火燄の大熱は、それだけ彼女の身を去って彼女に清涼を与えるわけになった。我に射掛くる利箭の毒は、それだけ彼女の懐を出でて彼女の胷裏を清浄にすることになった。我を切り、突き、剜らんとする一切兇悪の刀槍剣戟の類は、我に触れんとするに当って、其の刃頭が皆妙蓮華の莟となって地に落つるを観た。施行の食は彼の我に与うるによって彼の檀波羅密を成じ、我の彼に受けて酬いるに法を与うるを以てするの故に、我の檀波羅密を成じ、速疾得果の妙用を現ずるを観た。寂照は「あな、とうと」と云いて端然と食を摂り、自他平等利益の讃偈を唱えて、しずかに其処を去った。戒波羅密や精進波羅密、寂照は愈々道に励むのみであった。彼女は其後何様なったかは伝わって居らぬが、恐らくは当時の有識階級の女子であったから、多分は仏縁に引かれて化度されたでもあったろう。  寂照は寂心恵心の間に挟まり、其他の碩徳にも参学して、学徳日に進んで衆僧に仰がれ依らるるに至り、幾干歳も経ないで僧都になった。僧都だの僧正だのというのは、俗界から教界を整理する便宜上から出来たもので、本来から云えば、名誉でもなく、有るべき筈もないものだが、寂照が僧都にされたことは、赤染集に見えている。寂心は僧官などは受けなかったようだが、一世の崇仰を得たことは勿論であって、後には天が下を殆どおのが心のままにしたように謂われ、おのれも寛仁の二年の冬には、自己満足の喜びの余りに「此世をば吾が世とぞおもふ望月のかけたることも無しとおもへば」と、実にケチな歌を詠んで好い気になった藤原道長も、寂心を授戒の師と頼んだのであった。何も道長が寂心に三帰五戒を授かったからとて寂心の為に重きを成すのでは無いが、あの果報いみじくて憍慢至極であった御堂関白が、此の瘠せぼけたおとなしい寂心を授戒の師とし、自分は白衣の弟子として、しおらしく其前に坐ったかと思うと、おかしいような気がする。寂心は長保四年の十月に眠るが如く此世を去ったが、其の四十九日に当って、道長が布施を為し、其諷誦文を大江匡衡が作っている。そして其請状は寂照が記している。それは今に存しているが、匡衡の文の日付は長保四年十二月九日とある。然るに続往生伝には、寂心の往生は長徳三年とあって、五年ほどの差がある。続往生伝は匡衡の孫の成衡の子の匡房の撰だから、これも信ずべきであるが、何様して然様いう相違が生じたのであろう。世外の老人の死だから、五年やそこらは何れが真実でも差支は無いが、想うに書写輾転の間に生じた何れかの誤りなるのみであろう。長徳の方が正しいかも知れぬ。長保四年の冬には寂照が日本に居無かったかと思われるから。  長徳でも長保でもよい、寂心は晏然として死んだのである。勿論俗界の仕事師ではなかったから、大した事跡は遺さなかった。文筆の業も、在官の時、永観元年の改元の詔、同二年、封事を上らしめらるるの詔を草したのを首として、二十篇ばかりの文、往生極楽記などを遺したに過ぎないで終ったが、当時の人の心界に対して投げた此人の影は、定基を点化した一事に照しても明らかであった。そこで此人の往生に就ても面白い云伝えが残っている。普通の信心深い仏徒や居士の終りには、聖衆来迎、紫雲音楽めでたく大往生というのが常である。それで西方兜率天か何処か知らぬが遠いところへ移転したきりというのが定まりであるが、寂心の事を記したのは、それで終っていない。東山如意輪寺で型の如くに逝いた後、或人が夢みた。寂心上人は衆生を利益せんがために、浄土より帰りて、更に娑婆に在すということであった。かかることが歴然と寂心上人伝に記されているのである。わざわざ誰とも知れぬ人の何時の夢とも知れぬ夢などを死後の消息として書いてあるのは希有なことである。しかし其夢が、夢中に寂心上人が現われて自分で然様語ったのを聞いたのだか、其人が然様した上人の生れかわり、又は仙人の影法師かのようなものに遇ったというのだか、何だか分らずに朦朧と書いてある。一体これは何様いうことなのであろうか。何故然様いう夢を見たのであろうか。むかし呂洞賓という仙人は、仙道成就しても天に昇ったきりにならずに、何時迄も此世に化現遊戯して塵界の男女貴賎を点化したということで、唐から宋へかけて処処方方に詩歌だの事跡だのを遺して居り、宋の人の間には其信仰が普遍で、既に蘇東坡の文にさえ用いられているし、今でも法を修して喚べば出て来ると思われている。我邦でも弘法大師は今に存在して、遍路の行者とまでも云えない世の常の大師まいりをする位の者の間にも時によりて現われて、抜苦与楽転迷開悟の教を垂れて下さるという俗間信仰がある。いや其様なことを云うまでもなく、釈迦にさえも娑婆往来八千返の談があって、梵網経だか何だったかに明示されている。本来を云えば弥陀なり弥勒なり釈迦なりを頼んで、何かムニャムニャを唱えて、そして自分一人極楽世界へ転居して涼しい顔をしようと云うのは、随分虫のいいことで、世の諺に謂う「雪隠で饅頭を食う」料簡、汚い、けちなことである。証得妙果の境界に入り得たら、今度は自分が其の善いものを有縁無縁の他人にも施し与えようとすべきが自然の事である。そこで菩薩となり仏となったものは化他の業にいそしむことになるのが自然の法で、それが即ち菩薩なり仏なりなのである。弥陀の四十八願、観音の三十三身、何様な苦労をしても、何様なものに身を為しても、一切世間を善くしたい、救いたい、化度したいというのが、即ち仏菩薩なので、何も蓮花の上にゆったり坐って百味の飲食に啖い飽こうとしているのが仏菩薩でも何でも無い。寂心は若い時から慈悲心牛馬にまで及んだ人である。それが出家入道して、所証日に深く、浄土は隣家を看るよりも近々と合点せられるに至ったのである。終には此世彼世を一ト跨ぎの境界に至ったのである。そこで昔はあれほど想い焦れた浄土も吾が手のものとなったにつけて、浄土へ行きっ切りとなろう気はなく、自然と娑婆へ往来しても化他の業を執ろうという心が湧上ったに疑無く、言語の端にもおのずから其意が漏れて、それから或人の夢や世間の噂も出たのであろう。その保胤の時から慈悲牛馬に及んだ寂心が、自己の証得愈々深きに至って、何で世人の衆苦充満せる此界に喘ぎ悩んでいるのを傍眼にのみ見過し得ようや。まして保胤であった頃にも、其明眼からは既に認め得て其文章に漏らしている如く、世間は漸く苦しい世間になって、一面には文化の華の咲乱れ、奢侈の風の蒸暑くなってくる、他の一面には人民の生活は行詰まり、永祚の暴風、正暦の疫病、諸国の盗賊の起る如き、優しい寂心の心からは如何に哀しむべき世間に見えたことであろう。寂心は世を哀み、世は寂心の如き人を懐かしんでいた。寂心娑婆帰来の談の伝わった所以でもあろう。勿論寂心は辟支仏では無かったのである。  寂心の弟子であったが、恵心に就いても学んだであろう寂照は、其故に恵心の弟子とも伝えられている。恵心は台宗問目二十七条を撰して、宋の南湖の知礼師に就いて之を質そうとした。知礼は当時学解深厚を以て称されたものであったろう。此事は今詳しく語り得ぬが、恵心ほどの人が、何も事新しく物を問わないでも宜かりそうに思われる。然し恵心は如何にも謙虚の徳と自信の操との相対的にあった人で、加之毫毛の末までも物事を曖昧にして置くことの嫌いなような性格だったと概解しても差支無いかと考えられる。伝説には此人一乗要訣を撰した時には、馬鳴菩薩竜樹菩薩が現われて摩頂讃歎し、伝教大師は合掌して、我山の教法は今汝に属すと告げられたと夢みたということである。夢とはいえ、馬鳴竜樹にも会ったのである。又観世音菩薩、毘沙門天王にも夢に会ったとある。夢に会ったということと、現に会ったということとは、然程違うことでは無い。黒犬に腿を咬まれて驚いたなどという下らない夢を見る人は、窹めていても、蚤に猪の目を螫されて騒ぐくらいの下らない人なのである。竜樹や観音に応対した夢を見たなどとは、随分洒落ている、洒落た日常を有っていた人で無くては見られない。兎に角これだけの恵心が問目二十七条を撰した。これを支那の知礼法師に示して其答えを得ようというのである。いや、むしろ問を以て教となそうというのだったかも知れない。そこで此を持たせてやるのに、小僧さんの御使では仕方が無い。丁度寂照がかねてから渡宋して霊場参拝しようという念を抱いて居たので、これを托すことにした。其頃大陸へ渡るということは、今日南氷洋へ出掛けて鯨を取るというよりも大騒ぎなことであった。然し恵心に取っても寂照に取っても、双方共都合のよいことであったから寂照は母の意を問うた上で出ることにした。滄海波遥なる彼邦に吾が児を放ち遣ることは、明日をも知らぬ老いた母に取っては気の楽なことでは無かった。然し母も流石に寂照の母であった。恩愛の情は母子より深きは無い、今そなたと別れんことは実に悲しけれど、汝にして法のため道のために渡宋せんことは吾も亦随喜すべきである、我いかで汝の志を奪うべきや、と涙ながらに許してくれた。で、寂照は表を上りて朝許を受け、長保四年愈々出発渡宋することになった。  寂照には成基尊基の二弟があって、成基は此頃既に近江守にもなっていたであろうから、老母を後に出て行く寂照には、せめてもの心強さであったろう。然し寂照が老母を後に、老母が寂照を引留めずに、慈母孝子互に相別るるということは甚だしく当時の社会を感動せしめた。しかも上は宮廷より下は庶民までが尊崇している恵心院僧都の弟子であり、又僧都の使命を帯びているということもあり、彼の人柄も優にやさしかった大内記の聖寂心の弟子であるということもあり、三河守定基の出家因縁の前後の談の伝わって居たためもあり、老若男女、皆此噂を仕合った。で、寂照が願文を作って、母の為めに法華八講を山崎の宝寺に修し、愈々本朝を辞せんとした時は、法輪壮んに転じて、情界大に風立ち、随喜結縁する群衆数を知らず、車馬填咽して四面堵を成し、講師の寂照が如法に文を誦し経を読む頃には、感動に堪えかねて涕泣せざる者無く、此日出家する者も甚だ多く、婦女に至っては車より髪を切って講師に与うる者も出来たということである。席には無論に匡衡も参していたろう、赤染右衛門も居たろう。ただ彼の去られた妻が猶生きていて此処の参集に来合せたか否やは、知る由も無い。  寂照が去った其翌年の六月八日に、寂心が止観を承けた彼の増賀は死んだ。時に年八十七だったという。死に近づいた頃、弟子共に歌をよませ、自分も歌をよんだが、其歌は随分増賀上人らしい歌である。「みづはさす八十路あまりの老の浪くらげの骨にあふぞうれしき」というのであった。甥の春久上人という竜門寺に居たのが、介抱に来ていた。増賀は侍僧に、碁盤を持て来いと命じた。平生、碁なぞ打ったことの無い人であるので、侍僧はあやしく思ったが、これは仏像でも身近く据えようとするのかと思って取寄せて、前に置くと、我を掻き起せ、という。侍僧が掻き起すと、碁一局打とう、と春久に挑んだ。合点のゆかぬことだとは思ったが、怖ろしい人の云うことだから、言葉に従って春久は相手になると、十目ばかり互に石を下した時、よしよしもはや打つまい、と云って押し壊ってしまった。春久は恐る恐る、何とて碁をば打給いし、と問うと、何にもなし、小法師なりし時、人の碁打つを見しが、今念仏唱えながら、心に其が思いうかびしかば、碁を打たばやと思いて打ったるまでぞ、と何事も無き気配だった。又、泥障一ト懸持来れ、という。馬の泥障などは、臨終近き人に何の要あるべきものでも無く、寺院の物でもないが、とにかく取寄せて持来ると、身を掻抱かせて起上り、それを結びて吾が頸に懸けよ、という。是非なく言葉の如くにすると、増賀は強いておのが左右の肱を指延べて、それを身の翼のようになし、古泥障を纏いてぞ舞う、と云って二三度ふたふたとさせて、これ取去れ、と云った。取去って後、春久は、これは何したまえる、と恐る恐る問うと、若かりし頃、隣の房に小法師ばらの多く有りて笑い罵れるを覗きて見しに、一人の小法師、泥障を頸に懸けて、胡蝶胡蝶とぞ人は云えども古泥障を頸にかけてぞ舞うと歌いて舞いしを、おかしと思うたが、年頃は忘れたに、今日思い出られたれば、それ学びて見たまで、とケロリとしていた。九十に近い老僧が瘠せ枯びた病躯に古泥障を懸けて翼として胡蝶の舞を舞うたのであった。死に瀕したおぼえのある人は誰も語ることだが、将に死せんとする時は幼き折の瑣事が鮮やかに心頭に蘇えるものだという。晴れた天の日の西山に没せんとするや、反って東の山の山膚までがハッキリと見えるものだ。増賀上人の遥に遠い東の山には仔細らしい碁盤や滑稽な胡蝶舞、そんな無邪気なものが判然と見えたのであろう。然し其様なことを見ながらに終ったのではない、最期の時は人を去らせて、室内廓然、縄床に居て口に法花経を誦し、手に金剛の印を結んで、端然として入滅したということである。布袋や寒山の類を散聖というが、増賀も平安期の散聖とも云うべきか。いや、其様な評頌などは加えぬでもよい。  寂照は宋に入って、南湖の知礼に遇い、恵心の台宗問目二十七条を呈して、其答を求めた。知礼は問書を得て一閲して嘆賞し、東方に是の如き深解の人あるか、と感じた。そこで答釈を作ることになった。これより先に永観元年、東大寺の僧奝然、入宋渡天の願を立てて彼地へ到った。其前年即ち天元五年七月十三日、奝然は母の為に修善の大会を催した。母は六十にして既に老いたれど、身は万里を超えて遠く行かんとするので、再会の期し難きをおもい、逆修の植善を為さんとするのであった。丁度慶滋保胤が未だ俗を脱せずに池亭を作り設けた年であったが、保胤は奝然の為に筆を揮って其願文を草したのであった。中々の長文で、灑々数千言、情を尽し理を尽し、当時の社会を動かすには十分のものであった。それから又奝然上人の唐に赴くを餞して賦して贈る人々の詩の序をも保胤が撰した。今や其寂心は既に亡くなっているが、不思議因縁で寂心の弟子寂照が独り唐土に渡ったのである。奝然は印度へ行くのは止めて、大蔵五千四十八巻及び十六羅漢像、今の嵯峨清涼院仏像等を得て、寛和元年に帰朝したのであった。それより後十六七年にして寂照は宋に入ったのであるが、寂照は人品学識すべて奝然には勝って見えたので、彼土の人々も流石に神州の高徳と崇敬したのであった。で、知礼は寂照を上客として礼遇し、天子は寂照を延見せらるるに至った。宋主が寂照を見たまうに及びて、我が日本の事を問いたもうたので、寂照は紙筆を請いて、我が神聖なる国体、優美なる民俗を答え叙べた。文章は宿構の如くに何の滞るところも無く、筆札は遒麗にして二王の妙をあらわした。それは其筈で、何もこしらえ事をして飾り立てて我国のことを記したのでもなく、詞藻はもとより大江の家筋を受けていた定基法師であり、又翰墨の書は空海道風を去ること遠からず、佐理を四五年前に失ったばかりの時代の人であったのである。そこで宋主(真宗)は日本の国体に嘆美措く能わず、又寂照の風神才能に傾倒の情を発して、大にこれを悦び、紫衣束帛を賜わり、上寺にとどめ置かせたまいて号を円通大師と賜わった。前世因縁値遇だか何だかは知らぬが、此頃寂照は丁謂と相知るに至った。  丁謂は恐しいような、又然程でも無いような人であるが、とにかく異色ある人だったに違い無く、宋史の伝は之を貶するに過ぎている嫌がある。道仏の教が世に出てから、道仏に倚るの人は、歴史には大抵善正でない人にされていると解するのが当る。丁謂が寂照と知ったのは年猶若き時であり、後に貶所に在りて専ら浮屠因果の説を事としたと史にはある。さすれば謂は早くより因果の説を信じていたればこそ、後年貶謫されるに至って愈々深く之を信じたので、或は早く寂照に点化されたのかも知れない。楊億の談苑によれば、丁謂が寂照を供養したとある。何時から何時まで給助したのか知らぬが、有力な檀那が附かなくては、寂照も長く他邦には居れまいから、其事は実際だったに違無い。  丁謂は蘇州長州の人、少い時孫何と同じく文を袖にして王禹偁に謁したら、王は其文を見て大に驚き、唐の韓愈、柳宗元の後三百年にして始めて此作あり、と褒めたという。当時孫・丁と称されたということだが、孫、丁の名は少し後に出た欧陽修・王安石・三蘇の名に掩われて、今は知る者も少い。淳化三年進士及第して官に任じて、其政事の才により功を立てて累進して丞相に至り、真宗の信頼を得、乾興元年には晋国公に封ぜらるるに至った。蘇州節度使だった時、真宗の賜わった詩に、 践歴 功皆著しく、諮詢 務必ず成す。 懿才 曩彦に符し、佳器 時英を貫く。 よく経綸の業を展べ、旋陞る輔弼の栄。 嘉享 盛遇を忻び、尽瘁純誠を罄す。 の句がある。これでは寇準の如き立派な人を政敵にしても、永い間は勝誇った訳である。政治は力を用いるよりも智を用いるを主とし、法制よりも経済を重んじ、会計録というものを撰して上り、賦税戸口の準を為さんことを欲したという。文はもとより、又詩をも善くし、図画、奕棋、営造、音律、何にも彼にも通暁して、茶も此人から蔡嚢へかけて進歩したのであり、蹴鞠にまで通じていたか、其詩が温公詩話と詩話総亀とに見えている。真宗崩じて後、其后の悪みを受け、擅に永定陵を改めたるによって罪を被り、且つ宦官雷允恭と交通したるを論ぜられ、崖州に遠謫せられ、数年にして道州に徙され、致仕して光州に居りて卒した。つまり政敵にたたき落されて死地に置かれたのである。謂は是の如きの人なのである。  知礼の答釈は成った。寂照はこれを携えて、本国へと帰るべきことになったのである。然るに何様いうものだったか、其時は勢威日に盛んであった丁謂は、寂照を留めんと欲して、切に姑蘇の山水の美を説き、照の徒弟をして答釈を持帰らしめ、照を呉門寺に置いて、優遇至らざるなくした。寂照は既に仏子である。一切の河川が海に入ればただ是れ海なるが如く、一切の氏族が釈門に入れば皆釈氏である。別に東西の分け隔てをして日本に帰らねばならぬという要も無いのであるから、寂照は遂に呉門寺に止まった。寂照は戒律精至、如何にも立派な高徳であることが人々に認められたから、三呉の道俗漸く多く帰向して、寂照の教化は大に行われたと云われている。そして寂照は其儘に呉に在ったこと三十余年、仁宗の景祐元年、我が後一条天皇の長元七年、「雲の上にはるかに楽の音すなり人や聞くらんそら耳かもし」の歌を遺して、莞爾として微笑して終った。  丁謂もこれに先だつこと一年か二年、明道年間に死んだのであるが、寂照が平坦な三十年ばかりの生活をした間に、謂は嶮峻な世路を歩んで、上ったり下ったりしたのであった。別に其間に謂と照との談はない。謂は謂であり、照は照であったであろう。最初に謂がしきりに照を世話した頃、照は謂に其の有っていた黒金の水瓶に詩を添えて贈った。 提携す三五載、日に用ゐて曾て離れず。 暁井 残月を斟み、寒炉 砕澌を釈く。 鄱銀 侈をを免れ難く、莱石 虧を成し易し。 此器 堅く還実なり、公に寄す 応に知る可きなるべし。  答詩が有ったろうが、丁謂集を有せぬから知らぬ。謂に対しての照の言葉の残っているのはただこれだけである。謂が流された崖州は当時は甚だしい蛮島であった。謂の作、 今崖州に到る 事嗟く可し、夢中常に京華に在るが如し。 程途何ぞ啻一万里のみならん、戸口都べて無し三百家。 夜は聴く猿の孤樹に啼いて遠きを、暁には看る潮の上って瘴煙の斜なるを。 吏人は見ず中朝の礼、麋鹿 時々 県衙に到る。  かかるところへ、死ねがしに流されたのである。然し其処に在ること三年で、内地へ還るを得た時、 九万里 鵬 重ねて海を出で、一千里 鶴 再び巣に帰る。 の句をなした。それのみか然様いう恐ろしいところではあるが、しかし沈香を産するの地に流された因縁で、天香伝一篇を著わして、恵を後人に貽った。実に専ら香事を論賛したものは、天香伝が最初であって、そして今に伝わっているのである。かくて香に参した此人の終りは、宋人魏泰の東軒筆録に記されている。曰く、丁晋公臨終前半月、已に食はず、但香を焚いて危坐し、黙して仏経を誦す、沈香の煎湯を以て時々少許を呷る、神識乱れず、衣冠を正し、奄然として化し去ると。 底本:「昭和文学全集 第4巻」小学館    1989(平成元)年4月1日初版第1刷発行 底本の親本:「露伴全集 第六巻」岩波書店    1978(昭和53)年7月18日 ※底本では、右寄せ小書きになっている「ノ」と、やや大きく中央に来ている「ノ」が混在していますが、底本の扱いをなぞり、前者のみを訓点送り仮名として処理しました。 入力:kompass 校正:今井忠夫 2003年5月28日作成 2012年5月15日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。