小春の狐 泉鏡花 Guide 扉 本文 目 次 小春の狐        一  朝──この湖の名ぶつと聞く、蜆の汁で。……燗をさせるのも面倒だから、バスケットの中へ持参のウイスキイを一口。蜆汁にウイスキイでは、ちと取合せが妙だが、それも旅らしい。……  いい天気で、暖かかったけれども、北国の事だから、厚い外套にくるまって、そして温泉宿を出た。  戸外の広場の一廓、総湯の前には、火の見の階子が、高く初冬の空を抽いて、そこに、うら枯れつつも、大樹の柳の、しっとりと静に枝垂れたのは、「火事なんかありません。」と言いそうである。  横路地から、すぐに見渡さるる、汀の蘆の中に舳が見え、艫が隠れて、葉越葉末に、船頭の形が穂を戦がして、その船の胴に動いている。が、あの鉄鎚の音を聞け。印半纏の威勢のいいのでなく、田船を漕ぐお百姓らしい、もっさりとした布子のなりだけれども、船大工かも知れない、カーンカーンと打つ鎚が、一面の湖の北の天なる、雪の山の頂に響いて、その間々に、 「これは三保の松原に、伯良と申す漁夫にて候。万里の好山に雲忽ちに起り、一楼の明月に雨始めて晴れたり……」  と謡うのが、遠いが手に取るように聞えた。──船大工が謡を唄う──ちょっと余所にはない気色だ。……あまつさえ、地震の都から、とぼんとして落ちて来たものの目には、まるで別なる乾坤である。  脊の伸びたのが枯交り、疎になって、蘆が続く……傍の木納屋、苫屋の袖には、しおらしく嫁菜の花が咲残る。……あの戸口には、羽衣を奪われた素裸の天女が、手鍋を提げて、その男のために苦労しそうにさえ思われた。 「これなる松にうつくしき衣掛れり、寄りて見れば色香妙にして……」  と謡っている。木納屋の傍は菜畑で、真中に朱を輝かした柿の樹がのどかに立つ。枝に渡して、ほした大根のかけ紐に青貝ほどの小朝顔が縋って咲いて、つるの下に朝霜の焚火の残ったような鶏頭が幽に燃えている。その陽だまりは、山霊に心あって、一封のもみじの音信を投げた、玉章のように見えた。  里はもみじにまだ早い。  露地が、遠目鏡を覗く状に扇形に展けて視められる。湖と、船大工と、幻の天女と、描ける玉章を掻乱すようで、近く歩を入るるには惜いほどだったから……  私は── (これは城崎関弥と言う、筆者の友だちが話したのである。)  ──道をかえて、たとえば、宿の座敷から湖の向うにほんのりと、薄い霧に包まれた、白砂の小松山の方に向ったのである。  小店の障子に貼紙して、  (今日より昆布まきあり候。)  ……のんびりとしたものだ。口上が嬉しかったが、これから漫歩というのに、こぶ巻は困る。張出しの駄菓子に並んで、笊に柿が並べてある。これなら袂にも入ろう。「あり候」に挨拶の心得で、 「おかみさん、この柿は……」  天井裏の蕃椒は真赤だが、薄暗い納戸から、いぼ尻まきの顔を出して、 「その柿かね。へい、食べられましない。」 「はあ?」 「まだ渋が抜けねえだでね。」 「はあ、ではいつ頃食べられます。」  きく奴も、聞く奴だが、 「早うて、……来月の今頃だあねえ。」 「成程。」  まったく山家はのん気だ。つい目と鼻のさきには、化粧煉瓦で、露台と言うのが建っている。別館、あるいは新築と称して、湯宿一軒に西洋づくりの一部は、なくてはならないようにしている盛場でありながら。 「お邪魔をしました。」 「よう、おいで。」  また、おかしな事がある。……くどいと不可い。道具だてはしないが、硝子戸を引きめぐらした、いいかげんハイカラな雑貨店が、細道にかかる取着の角にあった。私は靴だ。宿の貸下駄で出て来たが、あお桐の二本歯で緒が弛んで、がたくり、がたくりと歩行きにくい。此店で草履を見着けたから入ったが、小児のうち覚えた、こんな店で売っている竹の皮、藁の草履などは一足もない。極く雑なのでも裏つきで、鼻緒が流行のいちまつと洒落れている。いやどうも……柿の渋は一月半おくれても、草履は駈足で時流に追着く。 「これを貰いますよ。」  店には、ちょうど適齢前の次男坊といった若いのが、もこもこの羽織を着て、のっそりと立っていた。 「貰って穿きますよ。」  と断って……早速ながら穿替えた、──誰も、背負って行く奴もないものだが、手一つ出すでもなし、口を利くでもなし、ただにやにやと笑って見ているから、勢い念を入れなければならなかったので。…… 「お幾干。」 「分りませんなあ。」 「誰かに聞いてくれませんか。」  若いのは、依然としてにやにやで、 「誰も今居らんのでね……」 「じゃあ帰途に上げましょう。じきそこの宿に泊ったものです。」 「へい、大きに──」  まったくどうものんびりとしたものだ。私は何かの道中記の挿絵に、土手の薄に野茨の実がこぼれた中に、折敷に栗を塩尻に積んで三つばかり。細竹に筒をさして、四もんと、四つ、銭の形を描き入れて、傍に草鞋まで並べた、山路の景色を思出した。        二 「この蕈は何と言います。」  山沿の根笹に小流が走る。一方は、日当の背戸を横手に取って、次第疎に藁屋がある、中に半農──この潟に漁って活計とするものは、三百人を越すと聞くから、あるいは半漁師──少しばかり商いもする──藁屋草履は、ふかし芋とこの店に並べてあった──村はずれの軒を道へ出て、そそけ髪で、紺の筒袖を上被にした古女房が立って、小さな笊に、真黄色な蕈を装ったのを、こう覗いている。と笊を手にして、服装は見すぼらしく、顔も窶れ、髪は銀杏返が乱れているが、毛の艶は濡れたような、姿のやさしい、色の白い二十あまりの女が彳む。  蕈は軸を上にして、うつむけに、ちょぼちょぼと並べてあった。  実は──前年一度この温泉に宿った時、やっぱり朝のうち、……その時は町の方を歩行いて、通りの煮染屋の戸口に、手拭を頸に菅笠を被った……このあたり浜から出る女の魚売が、天秤を下した処に行きかかって、鮮しい雑魚に添えて、つまといった形で、おなじこの蕈を笊に装ったのを見た事があったのである。  銀杏の葉ばかりの鰈が、黒い尾でぴちぴちと跳ねる。車蝦の小蝦は、飴色に重って萌葱の脚をぴんと跳ねる。魴鮄の鰭は虹を刻み、飯鮹の紫は五つばかり、断れた雲のようにふらふらする……こち、めばる、青、鼠、樺色のその小魚の色に照映えて、黄なる蕈は美しかった。  山国に育ったから、学問の上の知識はないが……蕈の名の十やら十五は知っている。が、それはまだ見た事がなかった。……それに、私は妙に蕈が好きである。……覗込んで何と言いますかと聞くと「霜こしや。」と言った。「ははあ、霜こし。」──十一月初旬で──松蕈はもとより、しめじの類にも時節はちと寒過ぎる。……そこへ出盛る蕈らしいから、霜を越すという意味か、それともこの蕈が生えると霜が降る……霜を起すと言うのかと、その時、考うる隙もあらせず、「旦那さんどうですね。」とその魚売が笊をひょいと突きつけると、煮染屋の女房が、ずんぐり横肥りに肥った癖に、口の軽い剽軽もので、 「買うてやらさい。旦那さん、酒の肴に……はははは、そりゃおいしい、猪の味や。」と大口を開けて笑った。──紳士淑女の方々に高い声では申兼ねるが、猪はこのあたりの方言で、……お察しに任せたい。  唄で覚えた。 薬師山から湯宿を見れば、ししが髪結て身をやつす。  いや……と言ったばかりで、外に見当は付かない。……私はその時は前夜着いた電車の停車場の方へ遁足に急いだっけが──笑うものは笑え。──そよぐ風よりも、湖の蒼い水が、蘆の葉ごしにすらすらと渡って、おろした荷の、その小魚にも、蕈にも颯とかかる、霜こしの黄茸の風情が忘れられない。皆とは言わぬが、再びこの温泉に遊んだのも、半ばこの蕈に興じたのであった。  ──ほぼ心得た名だけれど、したしいものに近づくとて、あらためて、いま聞いたのである。 「この蕈は何と言います。」  何が何でも、一方は人の内室である、他は淑女たるに間違いない。──その真中へ顔を入れたのは、考えると無作法千万で、都会だと、これ交番で叱られる。 「霜こしやがね。」と買手の古女房が言った。 「綺麗だね。」  と思わず言った。近優りする若い女の容色に打たれて、私は知らず目を外した。 「こちらは、」  と、片隅に三つばかり。この方は笠を上にした茶褐色で、霜こしの黄なるに対して、女郎花の根にこぼれた、茨の枯葉のようなのを、──ここに二人たった渠等女たちに、フト思い較べながら指すと、 「かっぱ。」  と語音の調子もある……口から吹飛ばすように、ぶっきらぼうに古女房が答えた。 「ああ、かっぱ。」 「ほほほ。」  かっぱとかっぱが顱合せをしたから、若い女は、うすよごれたが姉さんかぶり、茶摘、桑摘む絵の風情の、手拭の口に笑をこぼして、 「あの、川に居ります可恐いのではありませんの、雨の降る時にな、これから着ますな、あの色に似ておりますから。」 「そんで幾干やな。」  古女房は委細構わず、笊の縁に指を掛けた。 「そうですな、これでな、十銭下さいまし。」 「どえらい事や。」  と、しょぼしょぼした目を睜った。睨むように顔を視めながら、 「高いがな高いがな──三銭や、えっと気張って。……三銭が相当や。」 「まあ、」 「三銭にさっせえよ。──お前もな、青草ものの商売や。お客から祝儀とか貰うようには行かんぞな。」 「でも、」  と蕈が映す影はないのに、女の瞼はほんのりする。  安値いものだ。……私は、その言い値に買おうと思って、声を掛けようとしたが、隙がない。女が手を離すのと、笊を引手繰るのと一所で、古女房はすたすたと土間へ入って行く。  私は腕組をしてそこを離れた。  以前、私たちが、草鞋に手鎌、腰兵粮というものものしい結束で、朝くらいうちから出掛けて、山々谷々を狩っても、見た数ほどの蕈を狩り得た験は余りない。  たった三銭──気の毒らしい。 「御免なして。」   と背後から、跫音を立てず静に来て、早や一方は窪地の蘆の、片路の山の根を摺違い、慎ましやかに前へ通る、すり切草履に踵の霜。 「ああ、姉さん。」  私はうっかりと声を掛けた。        三 「──旦那さん、その虫は構うた事には叶いませんわ。──煩うてな……」  もの言もやや打解けて、おくれ毛を撫でながら、 「ほっといてお通りなさいますと、ひとりでに離れます。」 「随分居るね、……これは何と言う虫なんだね。」 「東京には居りませんの。」 「いや、雨上りの日当りには、鉢前などに出はするがね。こんなに居やしないようだ。よくも気をつけはしないけれど、……(しょうじょう)よりもっと小さくって煙のようだね。……またここにも一団になっている。何と言う虫だろう。」 「太郎虫と言いますか、米搗虫と言うんですか、どっちかでございましょう。小さな児が、この虫を見ますとな、旦那さん……」  と、言が途絶えた。 「小さな児が、この虫を見ると?……」 「あの……」 「どうするんです。」 「唄をうとうて囃しますの。」 「何と言って……その唄は?」 「極が悪うございますわ。……(太郎は米搗き、次郎は夕な、夕な。)……薄暮合には、よけい沢山飛びますの。」  ……思出した。故郷の町は寂しく、時雨の晴間に、私たちもやっぱり唄った。 「仲よくしましょう、さからわないで。」  私はちょっかいを出すように、面を払い、耳を払い、頭を払い、袖を払った。茶番の最明寺どののような形を、更めて静に歩行いた。──真一文字の日あたりで、暖かさ過ぎるので、脱いだ外套は、その女が持ってくれた。──歩行きながら、 「……私は虫と同じ名だから。」  しかし、これは、虫にくらべて謙遜した意味ではない。実は太郎を、浦島の子に擬えて、潜に思い上った沙汰なのであった。  湖を遥に、一廓、彩色した竜の鱗のごとき、湯宿々々の、壁、柱、甍を中に隔てて、いまは鉄鎚の音、謡の声も聞えないが、出崎の洲の端に、ぽッつりと、烏帽子の転がった形になって、あの船も、船大工も見える。木納屋の苫屋は、さながらその素袍の袖である。  ──今しがた、この女が、細道をすれ違った時、蕈に敷いた葉を残した笊を片手に、行く姿に、ふとその手鍋提げた下界の天女の俤を認めたのである。そぞろに声掛けて、「あの、蕈を、……三銭に売ったのか。」とはじめ聞いた。えんぶだごんの価値でも説く事か、天女に対して、三銭也を口にする。……さもしいようだが、対手が私だから仕方がない。「ええ、」と言うのに押被せて、「馬鹿々々しく安いではないか。」と義憤を起すと、せめて言いねの半分には買ってもらいたかったのだけれど、「旦那さんが見てであったしな。……」と何か、私に対して、値の押問答をするのが極が悪くもあったらしい口振で。……「失礼だが、世帯の足になりますか。」ときくと、そのつもりではあったけれど、まるで足りない。煩っていなさる母さんの本復を祈って願掛けする、「お稲荷様のお賽銭に。」と、少しあれたが、しなやかな白い指を、縞目の崩れた昼夜帯へ挟んだのに、さみしい財布がうこん色に、撥袋とも見えず挟って、腰帯ばかりが紅であった。「姉さんの言い値ほどは、お手間を上げます。あの松原は松露があると、宿で聞いて、……客はたて込む、女中は忙しいし、……一人で出て来たが覚束ない。ついでに、いまの(霜こし)のありそうな処へ案内して、一つでも二つでも取らして下さい、……私は茸狩が大好き。──」と言って、言ううちに我ながら思入って、感激した。  はかない恋の思出がある。  もう疾に、余所の歴きとした奥方だが、その私より年上の娘さんの頃、秋の山遊びをかねた茸狩に連立った。男、女たちも大勢だった。茸狩に綺羅は要らないが、山深く分入るのではない。重箱を持参で茣蓙に毛氈を敷くのだから、いずれも身ぎれいに装った。中に、襟垢のついた見すぼらしい、母のない児の手を、娘さん──そのひとは、厭わしげもなく、親しく曳いて坂を上ったのである。衣の香に包まれて、藤紫の雲の裡に、何も見えぬ。冷いが、時めくばかり、優しさが頬に触れる袖の上に、月影のような青地の帯の輝くのを見つつ、心も空に山路を辿った。やがて皆、谷々、峰々に散って蕈を求めた。かよわいその人の、一人、毛氈に端坐して、城の見ゆる町を遥に、開いた丘に、少しのぼせて、羽織を脱いで、蒔絵の重に片袖を掛けて、ほっと憩らったのを見て、少年は谷に下りた。が、何を秘そう。その人のいま居る背後に、一本の松は、我がなき母の塚であった。  向った丘に、もみじの中に、昼の月、虚空に澄んで、月天の御堂があった。──幼い私は、人界の茸を忘れて、草がくれに、偏に世にも美しい人の姿を仰いでいた。  弁当に集った。吸筒の酒も開かれた。「関ちゃん──関ちゃん──」私の名を、──誰も呼ぶもののないのに、その人が優しく呼んだ。刺すよと知りつつも、引つかんで声を堪えた、茨の枝に胸のうずくばかりなのをなお忍んだ──これをほかにしては、もうきこえまい……母の呼ぶと思う、なつかしい声を、いま一度、もう一度、くりかえして聞きたかったからであった。「打棄っておけ、もう、食いに出て来る。」私は傍の男たちの、しか言うのさえ聞える近まにかくれたのである。草を噛んだ。草には露、目には涙、縋る土にもしとしとと、もみじを映す糸のような紅の清水が流れた。「関ちゃん──関ちゃんや──」澄み透った空もやや翳る。……もの案じに声も曇るよ、と思うと、その人は、たけだちよく、高尚に、すらりと立った。──この時、日月を外にして、その丘に、気高く立ったのは、その人ただ一人であった。草に縋って泣いた虫が、いまは堪らず蟋蟀のように飛出すと、するすると絹の音、颯と留南奇の香で、もの静なる人なれば、せき心にも乱れずに、衝と白足袋で氈を辷って肩を抱いて、「まあ、可かった、怪我をなさりはしないかと姉さんは心配しました。」少年はあつい涙を知った。  やがて、世の状とて、絶えてその人の俤を見る事の出来ずなってから、心も魂もただ憧憬に、家さえ、町さえ、霧の中を、夢のように徜徉った。──故郷の大通りの辻に、老舗の書店の軒に、土地の新聞を、日ごとに額面に挿んで掲げた。表三の面上段に、絵入りの続きもののあるのを、ぼんやりと彳んで見ると、さきの運びは分らないが、ちょうど思合った若い男女が、山に茸狩をする場面である。私は一目見て顔がほてり、胸が躍った。──題も忘れた、いまは朧気であるから何も言うまい。……その恋人同士の、人目のあるため、左右の谷へ、わかれわかれに狩入ったのが、ものに隔てられ、巌に遮られ、樹に包まれ、兇漢に襲われ、獣に脅かされ、魔に誘われなどして、日は暗し、……次第に路を隔てつつ、かくて両方でいのちの限り名を呼び合うのである。一句、一句、会話に、声に──がある……がある……! が重る。──私は夜も寝られないまで、翌日の日を待ちあぐみ、日ごとにその新聞の前に立って読み耽った。が、三日、五日、六日、七日になっても、まだその二人は谷と谷を隔てている。!……も、──も、丶も、邪魔なようで焦ったい。が、しかしその一つ一つが、峨々たる巌、森とした樹立に見えた。丶さえ深く刻んだ谷に見えた。……赤新聞と言うのは唯今でもどこかにある……土地の、その新聞は紙が青かった。それが澄渡った秋深き空のようで、文字は一ずつもみじであった。作中の娘は、わが恋人で、そして、とぼんと立って読むものは小さな茸のように思われた。──石になった恋がある。少年は茸になった。「関弥。」ああ、勿体ない。……余りの様子を、案じ案じ捜しに出た父に、どんと背中を敲かれて、ハッと思った私は、新聞の中から、天狗の翼をこぼれたようにぽかんと落ちて、世に返って、往来の人を見、車を見、且つ屋根越に遠く我が家の町を見た。──  なつかしき茸狩よ。  二十年あまり、かくてその後、茸狩らしい真似をさえする機会がなかったのであった。 「……おともしますわ。でも、大勢で取りますから、茸があればいいんですけど……」  湯の町の女は、先に立って導いた。……  湖のなぐれに道を廻ると、松山へ続く畷らしいのは、ほかほかと土が白い。草のもみじを、嫁菜のおくれ咲が彩って、枯蘆に陽が透通る。……その中を、飛交うのは、琅玕のような螽であった。  一つ、別に、この畷を挟んで、大なる潟が湧いたように、刈田を沈め、鳰を浮かせたのは一昨日の夜の暴風雨の余残と聞いた。蘆の穂に、橋がかかると渡ったのは、横に流るる川筋を、一つらに渺々と汐が満ちたのである。水は光る。  橋の袂にも、蘆の上にも、随所に、米つき虫は陽炎のごとくに舞って、むらむらむらと下へ巻き下っては、トンと上って、むらむらとまた舞いさがる。  一筋の道は、湖の只中を霞の渡るように思われた。  汽車に乗って、がたがた来て、一泊幾干の浦島に取って見よ、この姫君さえ僭越である。 「ほんとうに太郎と言います、太郎ですよ。──姉さんの名は?……」 「…………」 「姉さんの名は?……」  女は幾度も口籠りながら、手拭の端を俯目に加えて、 「浪路。……」  と言った。  ──と言うのである。……読者諸君、女の名は浪路だそうです。        四  あれに、翁が一人見える。  白砂の小山の畦道に、菜畑の菜よりも暖かそうな、おのが影法師を、われと慰むように、太い杖に片手づきしては、腰を休め休め近づいたのを、見ると、大黒頭巾に似た、饅頭形の黄なる帽子を頂き、袖なしの羽織を、ほかりと着込んで、腰に毛巾着を覗かせた……片手に網のついた畚を下げ、じんじん端折の古足袋に、藁草履を穿いている。 「少々、ものを伺います。」  ゆるい、はけ水の小流の、一段ちょろちょろと落口を差覗いて、その翁の、また一息憩ろうた杖に寄って、私は言った。  翁は、頭なりに黄帽子を仰向け、髯のない円顔の、鼻の皺深く、すぐにむぐむぐと、日向に白い唇を動かして、 「このの、私がいま来た、この縦筋を真直ぐに、ずいずいと行かっしゃると、松原について畑を横に曲る処があるでの。……それをどこまでも行かせると、沼があっての。その、すぼんだ処に、土橋が一つ架っているわい。──それそれ、この見当じゃ。」  と、引立てるように、片手で杖を上げて、釣竿を撓めるがごとく松の梢をさした。 「じゃがの。」  と頭を緩く横に掉って、 「それをば渡ってはなりませぬぞ。(と強く言って)……渡らずと、橋の詰をの、ちと後へ戻るようなれど、左へ取って、小高い処を上らっしゃれ。そこが尋ねる実盛塚じゃわいやい。」  と杖を直す。  安宅の関の古蹟とともに、実盛塚は名所と聞く。……が、私は今それをたずねるのではなかった。道すがら、既に路傍の松山を二処ばかり探したが、浪路がいじらしいほど気を揉むばかりで、茸も松露も、似た形さえなかったので、獲ものを人に問うもおかしいが、且は所在なさに、連をさし置いて、いきなり声を掛けたのであったが。 「いいえ、実盛塚へは──行こうかどうしようかと思っているので、……実はおたずね申しましたのは。」 「ほん、ほん、それでは、これじゃろうの。」  と片手の畚を動かすと、ひたひたと音がして、ひらりと腹を飜した魚の金色の鱗が光った。 「見事な鯉ですね。」 「いやいや、これは鮒じゃわい。さて鮒じゃがの……姉さんと連立たっせえた、こなたの様子で見ればや。」  と鼻の下を伸して、にやりとした。  思わず、その言に連れて振返ると、つれの浪路は、尾花で姿を隠すように、私の外套で顔を横に蔽いながら、髪をうつむけになっていた。湖の小波が誘うように、雪なす足の指の、ぶるぶると震えるのが見えて、肩も袖も、その尾花に靡く。……手につまさぐるのは、真紅の茨の実で、その連る紅玉が、手首に珊瑚の珠数に見えた。 「ほん、ほん。こなたは、これ。(や、爺い……その鮒をば俺に譲れ。)と、姉さんと二人して、潟に放いて、放生会をさっしゃりたそうな人相じゃがいの、ほん、ほん。おはは。」  と笑いながら、ちょろちょろ滝に、畚をぼちゃんとつけると、背を黒く鮒が躍って、水音とともに鰭が鳴った。 「憂慮をさっしゃるな。割いて爺の口に啖おうではない。──これは稲荷殿へお供物に献ずるじゃ。お目に掛けましての上は、水に放すわいやい。」  と寄せた杖が肩を抽いて、背を円く流を覗いた。 「この魚は強いぞ。……心配をさっしゃるな。」 「お爺さん、失礼ですが、水と山と違いました。」  私も笑った。 「茸だの、松露だのをちっとばかり取りたいのですが、霜こしなんぞは、どの辺にあるでしょう。御存じはありませんか。」 「ほん、ほん。」  と黄饅頭を、点頭のままに動かして、 「茸──松露──それなら探さねば爺にかて分らぬがいやい。おはは、姉さんは土地の人じゃ。若いぱっちりとした目は、爺などより明かじゃ。よう探いてもらわっしゃい。」 「これはお隙づいえ、失礼しました。」 「いや、何の嵩高な……」 「御免。」 「静にござれい。──よう遊べ。」 「どうかしたか、──姉さん、どうした。」 「ああ、可恐い。……勿体ないようで、ありがたいようで、ああ、可恐うございましたわ。」 「…………」 「いまのは、山のお稲荷様か、潟の竜神様でおいでなさいましょう。風のない、うららかな、こんな時にはな、よくこの辺をおあるきなさいますそうですから。」  いま畚を引上げた、水の音はまだ響くのに、翁は、太郎虫、米搗虫の靄のあなたに、影になって、のびあがると、日南の背も、もう見えぬ。 「しかし、様子は、霜こしの黄茸が化けて出たようだったぜ。」 「あれ、もったいない。……旦那さん、あなた……」        五 「わ、何じゃい、これは。」 「霜こし、黄い茸。……あはは、こんなばば蕈を、何の事じゃい。」 「何が松露や。ほれ、こりゃ、破ると、中が真黒けで、うじゃうじゃと蛆のような筋のある(狐の睾丸)じゃがいの。」 「旦那、眉毛に唾なとつけっしゃれい。」 「えろう、女狐に魅まれたなあ。」 「これ、この合羽占地茸はな、野郎の鼻毛が伸びたのじゃぞいな。」  戻道。橋で、ぐるりと私たちを取巻いたのは、あまのじゃくを訛ったか、「じゃあま。」と言い、「おんじゃ。」と称え、「阿婆。」と呼ばるる、浜方屈竟の阿婆摺媽々。町を一なめにする魚売の阿媽徒で。朝商売の帰りがけ、荷も天秤棒も、腰とともに大胯に振って来た三人づれが、蘆の横川にかかったその橋で、私の提げた笊に集って、口々に喚いて囃した。そのあるものは霜こしを指でつついた。あるものは松露をへし破って、チェッと言って水に棄てた。 「ほれ、ほんとうの霜こしを見さっしゃい。これじゃがいの。」  と尻とともに天秤棒を引傾げて、私の目の前に揺り出した。成程違う。 「松露とは、ちょっと、こんなものじゃ。」  と上荷の笊を、一人が敲いて、 「ぼんとして、ぷんと、それ、香しかろ。」  成程違う。 「私が方には、ほりたての芋が残った。旦那が見たら蛸じゃろね。」 「背中を一つ、ぶん撲って進じようか。」 「ばば茸持って、おお穢や。」 「それを食べたら、肥料桶が、早桶になって即死じゃぞの、ぺッぺッぺッ。」  私は茫然とした。  浪路は、と見ると、悄然と身をすぼめて首垂るる。  ああ、きみたち、阿媽、しばらく!……  いかにも、唯今申さるる通り、較べては、玉と石で、まるで違う。が、似て非なるにせよ、毒にせよ。これをさえ手に狩るまでの、ここに連れだつ、この優しい女の心づかいを知ってるか。  ──あれから菜畑を縫いながら、更に松山の松の中へ入ったが、山に山を重ね、砂に砂、窪地の谷を渡っても、余りきれいで……たまたま落ちこぼれた松葉のほかには、散敷いた木の葉もなかった。  この浪路が、気をつかい、心を尽した事は言うまでもなかろう。  阿媽、これを知ってるか。  たちまち、口紅のこぼれたように、小さな紅茸を、私が見つけて、それさえ嬉しくって取ろうとするのを、遮って留めながら、浪路が松の根に気も萎えた、袖褄をついて坐った時、あせった頬は汗ばんで、その頸脚のみ、たださしのべて、討たるるように白かった。  阿媽、それを知ってるか。  薄色の桃色の、その一つの紅茸を、灯のごとく膝の前に据えながら、袖を合せて合掌して、「小松山さん、山の神さん、どうぞ茸を頂戴な。下さいな。」と、やさしく、あどけない声して言った。 「小松山さん、山の神さん、  どうぞ、茸を頂戴な。  下さいな。──」  真の心は、そのままに唄である。  私もつり込まれて、低声で唄った。 「ああ、ありました。」 「おお、あった。あった。」  ふと見つけたのは、ただ一本、スッと生えた、侏儒が渋蛇目傘を半びらきにしたような、洒落ものの茸であった。 「旦那さん、早く、あなた、ここへ、ここへ。」 「や、先刻見た、かっぱだね。かっぱ占地茸……」 「一つですから、一本占地茸とも言いますの。」  まず、枯松葉を笊に敷いて、根をソッと抜いて据えたのである。  続いて、霜こしの黄茸を見つけた──その時の歓喜を思え。──真打だ。本望だ。 「山の神さんが下さいました。」  浪路はふたたび手を合した。 「嬉しく頂戴をいたします。」  私も山に一礼した。  さて一つ見つかると、あとは女郎花の枝ながらに、根をつらねて黄色に敷く、泡のようなの、針のさきほどのも交った。松の小枝を拾って掘った。尖はとがらないでも、砂地だからよく抜ける。 「松露よ、松露よ、──旦那さん。」 「素晴しいぞ。」  むくりと砂を吹く、飯蛸の乾びた天窓ほどなのを掻くと、砂を被って、ふらふらと足のようなものがついて取れる。頭をたたいて、 「飯蛸より、これは、海月に似ている、山の海月だね。」 「ほんになあ。」  じゃあま、あばあ、阿媽が、いま、(狐の睾丸)ぞと詈ったのはそれである。  が、待て──蕈狩、松露取は闌の興に入った。  浪路は、あちこち枝を潜った。松を飛んだ、白鷺の首か、脛も見え、山鳥の翼の袖も舞った。小鳥のように声を立てた。  砂山の波が重り重って、余りに二人のほかに人がない。──私はなぜかゾッとした。あの、翼、あの、帯が、ふとかかる時、色鳥とあやまられて、鉄砲で撃たれはしまいか。──今朝も潜水夫のごときしたたかな扮装して、宿を出た銃猟家を四五人も見たものを。  遠くに、黒い島の浮いたように、脱ぎすてた外套を、葉越に、枝越に透して見つけて、「浪路さん──姉さん──」と、昔の恋に、声がくもった。──姿を見失ったその人を、呼んで、やがて、莞爾した顔を見た時は、恋人にめぐり逢った、世にも嬉しさを知ったのである。  阿婆、これを知ってるか。  無理に外套に掛けさせて、私も憩った。  着崩れた二子織の胸は、血を包んで、羽二重よりも滑である。  湖の色は、あお空と、松山の翠の中に朗に沁み通った。  もとのように、就中遥に離れた汀について行く船は、二艘、前後に帆を掛けて辷ったが、その帆は、紫に見え、紅く見えて、そして浪路の襟に映り、肌を染めた。渡鳥がチチと囀った。 「あれ、小松山の神さんが。」  や、や、いかに阿媽たち、──この趣を知ってるか。── 「旦那、眉毛を濡らさんかねえ。」 「この狐。」  と一人が、浪路の帯を突きざまに行き抜けると、 「浜でも何人抜かれたやら。」一人がつづいて頤で掬った。 「また出て、魅しくさるずらえ。」 「真昼間だけでも遠慮せいてや。」 「女の狐の癖にして、睾丸をつかませたは可笑なや、あはははは。」 「そこが化けたのや。」 「おお、可恐やの。」 「やあ、旦那、松露なと、黄茸なと、ほんものを売ってやろかね。」 「たかい銭で買わっせえ。」  行過ぎたのが、菜畑越に、縺れるように、一斉に顔を重ねて振返った。三面六臂の夜叉に似て、中にはおはぐろの口を張ったのがある。手足を振って、真黒に喚いて行く。  消入りそうなを、背を抱いて引留めないばかりに、ひしと寄った。我が肩するる婦の髪に、櫛もささない前髪に、上手がさして飾ったように、松葉が一葉、青々としかも婀娜に斜にささって、(前こぞう)とか言う簪の風情そのままなのを、不思議に見た。茸を狩るうち、松山の松がこぼれて、奇蹟のごとく、おのずから挿さったのである。 「ああ、嬉しい事がある。姉さん、茸が違っても何でも構わない。今日中のいいものが手に入ったよ──顔をお見せ。」  袖でかくすを、 「いや、前髪をよくお見せ。──ちょっと手を触って、当てて御覧、大したものだ。」 「ええ。」  ソッと抜くと、掌に軽くのる。私の名に、もし松があらば、げにそのままの刺青である。 「素晴らしい簪じゃあないか。前髪にささって、その、容子のいい事と言ったら。」  涙が、その松葉に玉を添えて、 「旦那さん──堪忍して……あの道々、あなたがお幼い時のお話もうかがいます。──真のあなたのお頼みですのに、どうぞしてと思っても、一つだって見つかりません……嘘と知っていて、そんな茸をあげました。余り欲しゅうございましたので、私にも、私にかってほんとうの茸に見えたんですもの。……お恥かしい身体ですが、お言のまま、あの、お宿までもお供して……もしその茸をめしあがるんなら、きっとお毒味を先へして、血を吐くつもりでおりました。生命がけでだましました。……堪忍して下さいまし。」 「何を言うんだ、飛んでもない。──さ、ちょっと、自分の手でその松葉をさして御覧。……それは容子が何とも言えない、よく似合う。よ。頼むから。」  と、かさに掛って、勢よくは言いながら、胸が迫って声が途切れた。 「後生だから。」 「はい、……あの、こうでございますか。」 「上手だ。自分でも髪を結えるね。ああ、よく似合う。さあ、見て御覧。何だ、袖に映したって、映るものかね。ここは引汐か、水が動く。──こっちが可い。あの松影の澄んだ処が。」 「ああ、御免なさい。堪忍して……映すと狐になりますから。」 「私が請合う、大丈夫だ。」 「まあ。」 「ね、そのままの細い翡翠じゃあないか。琅玕の珠だよ。──小松山の神さんか、竜神が、姉さんへのたまものなんだよ。」  ここにも飛交う螽の翠に。── 「いや、松葉が光る、白金に相違ない。」 「ええ。旦那さんのお情は、翡翠です、白金です……でも、私はだんだんに、……あれ、口が裂けて。」 「ええ。」 「目が釣上って……」 「馬鹿な事を。──蕈で嘘を吐いたのが狐なら、松葉でだました私は狸だ。──狸だ。……」  と言って、真白な手を取った。  湖つづき蘆中の静な川を、ぬしのない小船が流れた。 大正十三(一九二四)年一月 底本:「泉鏡花集成7」ちくま文庫、筑摩書房    1995(平成7)年12月4日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第二十二巻」岩波書店    1940(昭和15)年11月20日第1刷発行 入力:門田裕志 校正:今井忠夫 2003年8月31日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。