平将門 幸田露伴 Guide 扉 本文 目 次 平将門  千鍾の酒も少く、一句の言も多いといふことがある。受授が情を異にし啐啄が機に違へば、何も彼もおもしろく無くつて、其れも是もまづいことになる。だから大抵の事は黙つてゐるに越したことは無い、大抵の文は書かぬが優つてゐる。また大抵の事は聴かぬがよい、大抵の書は読まぬがよい。何も申の歳だからとて、視ざる聴かざる言はざるを尚ぶわけでは無いが、嚢を括れば咎無しといふのは古からの通り文句である。酒を飲んで酒に飲まれるといふことを何処かの小父さんに教へられたことがあるが、書を読んで書に読まれるなどは、酒に飲まれたよりも詰らない話だ。人を飲むほどの酒はイヤにアルコホルの強い奴で、人を読むほどの書も性がよろしくないのだらう。そんなものを書いて貰はなくてもよいから、そんなものを読んでやらなくてもよい理屈で、「一枚ぬげば肩がはら無い」世をあつさりと春風の中で遊んで暮らせるものを、下らない文字といふものに交渉をもつて、書いたり読んだり読ませたり、挙句の果には読まれたりして、それが人文進歩の道程の、何のとは、はてあり難いことではあるが、どうも大抵の書は読まぬがよい、大抵の文は書かぬがよい。酒をつくらず酒飲まずなら、「下戸やすらかに睡る春の夜」で、天下太平、愚痴無智の尼入道となつて、あかつきのむく起きに南無阿弥陀仏でも吐出した方が洒落てゐるらしい。何かの因果で、宿債未だ了せずとやらでもある、か毛武総常の水の上に度〻遊んだ篷底の夢の余りによしなしごとを書きつけはしたが、もとより人を酔はさう意も無い、書かずともと思つてゐるほどだから、読まずともとも思つてゐる。たゞ宿酔猶残つて眼の中がむづゝく人もあらば、羅山が詩にした大河の水ほど淡いものだから、却つて胃熱を洗ふぐらゐのことはあらうか。飲むも飲まぬも読むも読まぬも、人〻の勝手で、刀根の川波いつもさらつく同様、紙に鉛筆のあたり傍題。  六人箱を枕の夢に、そも我こそは桓武天皇の後胤に鎮守府将軍良将が子、相馬の小次郎将門なれ、承平天慶のむかしの恨み、利根の川水日夜に流れて滔〻汨〻千古経れども未だ一念の痕を洗はねば、儞に欝懐の委曲を語りて、修羅の苦因を晴るけんとぞ思ふ、と大ドロ〳〵で現はれ出た訳でも何でも無いが、一体将門は気の毒な人である。大日本史には叛臣伝に出されて、日本はじまつて以来の不埒者に扱はれてゐるが、ほんとに悪むべき窺窬の心をいだいたものであらうか。それとも勢に駆られ情に激して、水は静かなれども風之を狂はせば巨浪怒つて騰つて天を拍つに至つたのだらうか。先づそこから出立して考へて見ることを敢てしないで、いきなり幸島の偽闕、平親王呼はり、といふところから不届至極のしれ者とされゝば、一言も無いには定まつて居るが、事跡からのみ論じて心理を問は無いのは、乾燥派史家の安全な遣り方であるにせよ、情無いことであつて、今日の裁判には少し潤ひがあつて宜い訳だ。そこで自然と古来の史書雑籍を読んで、それに読まれてしまつた人で無い者の間には、不服を称ふる者も出て来て、現に明治年間には大審院、控訴院、宮内省等に対して申理を求めんとした人さへあつたほどである。然無くても古より今に至るまで、関東諸国の民、あすこにも此所にも将門の霊を祀つて、隠然として其の所謂天位の覬覦者たる不届者に同情し、之を愛敬してゐることを事実に示してゐる。此等は抑〻何に胚胎してゐるのであらうか、又抑何を語つてゐるのだらうか。たゞ其の驍勇慓悍をしのぶためのみならば、然程にはなるまいでは無いか。考へどころは十二分にある。  心理から事跡を曲解するのは不都合であるが、事跡から心理を即断するのも不都合である。まして事跡から心理を即断して、そして事実を捏造し出すに至つては、愈〻以て不都合である。日本外史はおもしろい書であるが、それに拠ると、将門が在京の日に比叡の山頂に藤原純友と共に立つて皇居を俯瞰して、我は王族なり、当に天子となるべし、卿は藤原氏なり、関白となるべし、と約束したとある。これは神皇正統記やなぞに拠つたのであるが、これでは将門は飛んでも無い純粋の謀反人で、其罪逃るゝよしも無い者である。然しさういふ事が有り得るものであらうか。楚の項羽や漢の高祖が未だ事を挙げざる前、秦の始皇帝の行列を観て、項羽は取つて以て代るべしと言ひ、高祖は大丈夫応に是の如くなるべしと言つたといふ、其の史記の記事から化けて出たやうなことだ。二人の言ですら、性格描写として看れば非常に巧妙であるが、事実としては、史記に酔はぬ限は受取れない。黄石公を実在の人として受取るほどに読まれてしまへば、二人の言を受取らうし、大鏡を信仰しきつて、正統記を有難がればそれまでだが、どうも史記の香がしてならない。丁度将門乱の時の朱雀帝頃は漢文学の研究の大に行はれた時で、天慶の二年十一月、天皇様が史記を左中弁藤原在衡を侍読として始めて読まれ、前帝醍醐天皇様は三善清行を御相手に史記を読まれた事などがある。それは兎に角大日本史も山陽同様に此事を記してゐるが、大日本史の筆法は博く采ることはこれ有り、精しく判ずることは未だしといふ遣り方である。で、織田鷹洲などは頭から叡山〻上の談を受取らない。清宮秀堅も受取らない。秀堅は鷹洲のやうに将門に同情してゐる人では無くて、「平賊の事、言ふに足らざる也、彼や鴟梟之性を以て、豕蛇の勢に乗じ、肆然として自から新皇と称し、偽都を建て、偽官を置き、狂妄ほとんど桓玄司馬倫の為に類す、宜なるかな踵を回さずして誅に伏するや」と云つて居るほどである。然し下瞰京師のことに就ては、「将門はもと検非違使佐たらんことを求めて得ず、憤を懐いて郷に帰り、遂に禍を首むるのみ、後に興世を得て始めて僣称す。猶源頼朝の蛭が島に在りしや、僅に伊豆一国の主たらんことを願ひしも、大江広元を得るに及びて始めて天下を攘みしが如き也、正統記大鏡等、蓋し其跡に就いて而して之を拡張せる也、故に採らず」と云つてゐる。此言は心裏を想ひやつて意を立てゝゐるのだから、此も亦中ると中らざるとは別であるが、而も正統記等が其跡に就いて拡張したのであらうといふことは、一箭双鵰鵬を貫いてゐる。宮本仲笏は、扶桑略記に「純友遙に将門謀反之由をきゝて亦乱逆を企つ」とあるのに照らして見れば、是れ将門と相約せるにあらざること明らかなりと云つてゐる。純友の南海を乱したのが同時であつたので、如何にも将門純友が合謀したことは、たとへば後の石田三成と上杉景勝とが合謀した如くに見え、そこで天子関白の分ちどりといふ談も起つたのであらう。純友は伊予掾で、承平年中に南海道に群盗の起つた時、紀淑人が伊予守で之を追捕した其の事を助けてゐたが、其中に賊の余党を誘つて自分も賊をはじめたのである。将門の事とはおのづから別途に属するので、将門の方は私闘──即ち常陸大掾国香や前常陸大掾源護一族と闘つたことから引つゞいて、終に天慶二年に至つて始めて私闘から乱賊に変じたのである。其間に将門は一旦上京して上申し、私闘の罪を赦されたことがある位である、それは承平七年の四月七日である。さすれば純友と将門と合謀の事は無い。随つて叡山瞰京の事も、演劇的には有つた方が精彩があるかも知れないが、事実的には受取りかねるのである。そこで夙に覬覦の心を懐いてゐたといふことは、面白さうではあるが、正統記に返還して宜いのである。正統記の作者は皇室尊崇の忠篤の念によつて彼の著述をしたのであるから、将門如きは出来るだけ筆墨の力によつて対治して置きたい余りに、深く事実を考ふるに及ばずして書いたのであらう。山陽外史に至つては多く意を経ないで筆にしたに過ぎない。  将門が検非違使の佐たらんことを求めたといふことも、神皇正統記の記事からで、それは当時の武人としては有りさうな望である。然し検非違使でゞもあれば兎に角、検非違使の別当は参議以上であるから、無位無官の者が突然にそれを望むべくは無い。して見れば検非違使の佐か尉かを望んだとして解すべきである。これならば釣合はぬことでは無い。其代りに将門の器量は大に小さくなることであつて、そんなケチな官を望む者が、純友と共に天子関白わけ取りを心がけるとなると、前後が余りに釣合はぬことになる。明末の李自成が落第に憤慨して流賊となつたやうなものであると、秀堅は論じてゐるが、それは少しをかしい。彼国の及第は大臣宰相にもなるの径路であるから、落第は非常の失望にもならうが、我邦で検非違使佐や尉になれたからとて、前途洋〻として春の如しといふ訳にはならない。随つて摂政忠平が省みなかつたために検非違使佐や尉になれ無いとて、謀反をしようとまで憤怨する訳もない。此事は、よしやかゝる望を抱いたことが将門にあつたとしても、謀反といふこととは余りに懸離れて居て、提燈と釣鐘、釣合が取れ無さ過ぎる。鷹洲は此事を頭から受取らないが、鷹洲で無くても、警部長になれなかつたから謀反をするに至つたなどといふのは、如何に関東武士の覇気勃〻たるにせよ、信じ難いことである。で、正統記に読まれることは御免を蒙らう。随つて将門始末に読まれることも御免蒙らう。  将門謀反の初発心の因由に関する記事は、皆受取れないが、一体当時の世態人情といふものは何様なであつたらう。大鏡で概略は覗へるが、世の中は先づ以て平和で、藤原氏繁盛の時、公卿は栄華に誇つて、武士は漸く実力がありながら官位低く、屈して伸び得ず、藤原氏以外の者はたまたま菅公が暫時栄進された事はあつても遂に左遷を免れないで筑紫に薨ぜられた。丁度公の薨ぜられた其年に将門は下総に勇ましい産声をあげたのである。抑醍醐帝頃は後世から云へばまことに平和の聖世であるが、また平安朝の形式成就の頂点のやうにも見えるが、然し実際は何に原因するかは知らず随分騒がしい事もあり、嶮しい人心の世でもあつたと覚えるのは、史上に盗の多いので気がつく。仏法は盛んであるが、迷信的で、僧侶は貴族側のもので平民側のものでは無かつた。上に貴胄の私曲が多かつたためでもあらうか、下には武士の私威を張ることも多かつた。公卿や嬪媛は詩歌管絃の文明にも酔つてゐたらうが、それらの犠牲となつて人民は可なり苦んでゐたらしい。要するに平安朝文明は貴族文明形式文明風流文明で、剛堅確実の立派なものと云はうよりは、繊細優麗のもので、漸〻と次の時代、即ち武士の時代に政権を推移せしむる準備として、月卿雲客が美女才媛等と、美しい衣を纏ひ美しい詞を使ひ、面白く、貴く、長閑に、優しく、迷信的空想的詩歌的音楽的美術的女性的夢幻的享楽的虚栄的に、イソップ物語の蟋蟀のやうに、いつまでも草は常緑で世は温暖であると信じて、恋物語や節会の噂で日を送つてゐる其の一方には、粗い衣を纏ひ麤い詞を使ひ、面白くなく、鄙しく、行詰つた、凄じい、これを絵画にして象徴的に現はせば餓鬼の草子の中の生物のやうな、或は小説雑話にして空想的に現はせば、酒呑童子や鬼同丸のやうなものもあつたのであらう。醍醐天皇の御代と云へば、古今集だの、延喜式だのの出来た時であるが、其御代の昌泰二年には、都で放火殺人が多くて、四衛府兵をして夜を警めしめられ、其三年には上野に群盗が起り、延喜元年には阪東諸国に盗起り、其三年には前安芸守伴忠行は盗の為に殺され、其前後博奕大に行はれて、五年には逮捕をせねばならぬやうになり、其冬十月には盗賊が飛騨守の藤原辰忠を殺し、六年には鈴鹿山に群盗あり、十五年には上野介藤原厚載も盗に殺され、十七年には朝に菊宴が開かれたが、世には群盗が充ち、十九年には前の武蔵の権介源任が府舎を焼き官物を掠め、現任の武蔵守高向利春を襲つたりなんどするといふ有様であつた。幸に天皇様の御聖徳の深厚なのによつて、大なることには至らなかつたが、盗といふのは皆一揆や騒擾の気味合の徒で、たゞの物取りといふのとは少し違ふのである。此様な不祥のある度に威を張るのは僧侶巫覡で、扶桑略記だの、日本紀略だの、本朝世紀などを見れば、厭はしいほど現世利益を祈る祈祷が繰返されて、何程厭はしい宗教状態であるかと思はせられる。既に将門の乱が起つた時でも、浄蔵が大威徳法で将門を詛ひ、明達が四天王法で将門を調伏し、其他神社仏寺で祈立て責立てゝ、とう〳〵祈り伏せたといふ事になつてゐる。かういふ時代であるから、下では石清水八幡の本宮の徒と山科の八幡新宮の徒と大喧嘩をしたり、東西両京で陰陽の具までを刻絵した男女の神像を供養礼拝して、岐神(さいの神、今の道陸神ならん)と云つて騒いだり、下らない事をしてゐる。先祖ぼめ、故郷ぼめの心理で、今までの多くの人は平安朝文明は大層立派なもののやうに言做してゐる者も多いことであるが、少し料簡のある者から睨んだら、平安朝は少くも政権を朝廷より幕府へ、公卿より武士へ推移せしむるに適した準備を、気長に根深く叮嚀に順序的に執行して居たのである。かういふ時代に将門も純友も生長したのである。純友が賊衆追捕に従事して、そして盗魁となつたのも、盗賊になつた方が京官になるよりも、有理であり、真面目な生活であると思つたところより、乱暴をはじめて、後に従五位下を以て招安されたにもかゝはらず、猶ほ伊予、讃岐、周防、土佐、筑前と南海、山陽、西海を狂ひまはつたのかも知れない。純友は部下の藤原恒利といふ頼み切つた奴に裏斬りをされて大敗した後ですら、余勇を鼓して一挙して太宰府を陥れた。苟も太宰府と云へば西海の重鎮であるが、それですら実力はそんなものであつたのである。当時崛強の男で天下の実勢を洞察するの明のあつた者は、君臣の大義、順逆の至理を気にせぬ限り、何ぞ首を俯して生白い公卿の下に付かうやと、勝手理屈で暴れさうな情態もあつたのである。  将門は然しながら最初から乱賊叛臣の事を敢てせんとしたのではない。身は帝系を出でゝ猶未だ遠からざるものであつた。おもふに皇を尊び公に殉ずる心の強い邦人の常情として、初めは尋常におとなしく日を送つて居たのだらう。将門の事を考ふるに当つて、先づ一寸其の家系と親族等を調べて見ると、ざつと是の如くなのである。桓武天皇様の御子に葛原親王と申す一品式部卿の宮がおはした。其の宮の御子に無位の高見王がおはす。高見王の御子高望王が平の姓を賜はつたので、従五位下、常陸大掾、上総介等に任ぜられたと平氏系図に見えてゐる。桓武平氏が阪東に根を張り枝を連ねて大勢力を植つるに至つたことは、此の高望王が上総介や常陸大掾になられたことから起るのである。高望王の御子が、国香、良兼、良将、良繇、良広、良文、良持、良茂と数多くあつた。其中で国香は従五位上、常陸大掾、鎮守府将軍とある。此の国香本名良望は蓋し長子であつた。これは即ち高望王亡き後の一族の長者として、勢威を有してゐたに相違無い。良兼は陸奥大掾、下総介、従五位上、常陸平氏の祖である。次に良将は鎮守府将軍、従四位下或は従五位下とある。将門は此の良将の子である。次に良繇は上総介、従五位上とある。それから良広には官位が見えぬが、次に良文が従五位上で、村岡五郎と称した、此の良文の後に日本将軍と号した上総介忠常なども出たので、千葉だの、三浦だの、源平時代に光を放つた家〻の祖である。次に良持は下総介、従五位下、長田の祖である。次に良茂は常陸少掾である。  扨将門は良将の子であるが、長子かといふに然様では無い。大日本史は系図に拠つたと見えて第三子としてゐるが、第二子としてゐる人もある。長子将持、次子将弘、第三子将門、第四子将平、第五子将文、第六子将武、第七子将為と系図には見えるが、将門の兄将弘は将軍太郎と称したとある。将持の事は何も分らない。将弘が将軍太郎といひ、将門が相馬小次郎といひ、系図には見えぬが、千葉系図には将門の弟に御廚三郎将頼といふがあつて、其次が大葦原四郎といつた事を考へると、将門は次男かとも思はれる。よし三男であつたにしろ、将持といふものは蚤く消えてしまつて、次男の如き実際状態に於て生長したに相違無い。イヤそれどころでは無い、太郎将弘が早世したから、将門は実際良将の相続人として生長したのである。将門の母は犬養春枝の女である。此の犬養春枝は蓋し万葉集に名の見えてゐる犬養浄人の裔であらう。浄人は奈良朝に当つて、下総少目を勤めた人であつて、浄人以来下総の相馬に居たのである。此相馬郡寺田村相馬総代八幡の地方一帯は多分犬養氏の蟠拠してゐたところで、将門が相馬小次郎と称したのは其の因縁に疑無い。寺田は取手駅と守谷との間で、守谷の飛地といふことであり、守谷が将門拠有の地であつたことは人の知るところである。将門は斯様いふ大家族の中に生れて来て、沢山の伯父や叔父を有ち、又伯父国香の子には貞盛、繁盛、兼任、伯父良兼の子には公雅、公連、公元、叔父良広の子には経邦、叔父良文の子には忠輔、宗平、忠頼、叔父良持の子には致持、叔父良茂の子には良正、此等の沢山の従兄弟を有した訳である。  此の中で生長した将門は不幸にして父の良将を亡つた。将門が何歳の時であつたか不明だが、弟達の多いところを見ると、蓋し十何歳であつたらしい。幼子のみ残つて、主人の亡くなつた家ほど難儀なものはない。母の里の犬養老人でも丈夫ならば、差詰め世話をやくところだが、それは存亡不明であるが、多分既に物故してゐたらしい年頃である。そこで一族の長として伯父の国香が世話をするか、次の伯父の良兼が将門等の家の事をきりもりしたことは自然の成行であつたらう。後に至つて将門が国香や良兼と仲好くないやうになつた原因は、蓋し此時の国香良兼等が伯父さん風を吹かせ過ぎたことや、将門等の幼少なのに乗じて私をしたことに本づくと想像しても余り間違ふまい。さて将門が漸く加冠するやうになつてから京上りをして、太政大臣藤原忠平に仕へた。これは将門自分の意に出たか、それとも伯父等の指揮に出たか不明であるが、何にせよ遙〻と下総から都へ出て、都の手振りを学び、文武の道を修め、出世の手蔓を得ようとしたことは明らかである。勿論将門のみでは無い、此頃の地方の名族の若者等は因縁によつて都の貴族に身を寄せ、そして世間をも見、要路の人〻に技倆骨柄を認めて貰ひ、自然と任官叙位の下地にした事は通例であつたと見える。現に国香の子の常平太貞盛もまた都上りをして、何人の奏薦によつたか、微官ではあるが左馬允となつてゐたのである。今日で云へば田舎の豪家の若者が従兄弟同士二人、共に大学に遊んで、卒業後東京の有力者間に交際を求め、出世の緒を得ようとしてゐるやうなものである。此処で考へらるゝことは、将門も鎮守府将軍の子であるから、まさかに後の世の曾我の兄弟のやうに貧窮して居たのではあるまいが、一方は親無しの、伯父の気息のかゝつてゐるために世に立つてゐる者であり、一方は一族の長者常陸大掾国香の総領として、常平太とさへ名乗つて、仕送りも豊かに受けてゐたものである貞盛の方が光つて居たらうといふことは、誰にも想像されることである。ところが異しいこともあればあるもので、将門の方で貞盛を悪く思ふとか悪く噂するとかならば、媢嫉猜忌の念、俗にいふ「やつかみ」で自然に然様いふ事も有りさうに思へるが、別に将門が貞盛を何様の斯様のしたといふことは無くて、却つて貞盛の方で将門を悪く言つたことの有るといふ事実である。  勿論事実といつたところで古事談に出て居るに過ぎない。古事談は顕兼の撰で、余り確実のものとも為しかねるが、大日本史も貞盛伝に之を引いてゐる。それは斯様である。将門の在京中に、貞盛が嘗て式部卿敦実親王のところに詣つた。丁度其時に将門もまた親王の御許へ伺候して帰るところで、従兄弟同士はハタと御門で行逢ふた。彼方がジロリと見れば、此方もギロリと見て過ぎたのであらう。貞盛は親王様に御目にかゝつて、残念なることには今日郎等無くして将門を殺し得ざりし、郎等ありせば今日殺してまし、彼奴は天下に大事を引出すべき者なり、と申したといふ事である。これは甚だ不思議なことで、貞盛が呂公や許子の術を得て居たか何様かは知らないが、人相見でも無くて思ひ切つたことを貴人の前で言つたものである。此時は将門純友叡山で相談した後であるとでも云は無ければ理屈の立たぬことで、将門はまだ国へも帰らず刀も抜かず、謀反どころか喧嘩さへ始めぬ時である。それを突然に、郎等だにあらば打殺してましものをと言ふのは、余りに従兄弟同士として貴人の前に口外するには太甚しいことである。親王様に貞盛がこれだけの事を申したとすれば、もう此時貞盛と将門とは心中に刃を研ぎあつてゐたとしなければならぬ。未だ父の国香が殺された訳でも無し、将門が何を企てゝ居たにせよ、貞盛が牒者をして知つてゐるといふ訳も無いのに、たゞ悪い者でござる、御近づけなさらぬが宜しいとでも云ふのならば、後世の由井正雪熊沢蕃山出会の談のやうな事で、まだしも聞えてゐるが、打殺さぬが口惜しいとまで申したとは余り奇怪である。然すれば貞盛の家と将門とが、もう此時は火をすつた中であつて、貞盛が其事を知つてゐたために、行く〳〵は無事で済むまいとの予想から、そんな事を云つたものだと想像して始めて解釈のつく事である。こゝへ眼を着けて見ると、古事談の記事が事実であつたとすると、国香が将門に殺されぬ前に、国香の忰は将門を殺さうとしてゐたといふ事を認め、そして殺さぬを残念と思つたほどの葛藤が既に存在して居たと睨まねばならぬことになるのである。戯曲的の筋は夙く此の辺から始まつてゐるのである。  将門は京に居て龍口の衛士になつたか知らぬが、系図に龍口の小次郎とも記してあるに拠れば、其のくらゐなものにはなつたのかも知れぬ。が、其の詮議は擱いて、将門と貞盛の家とは、中睦じく無くなつたには相違無い。それは今昔物語に見えてゐる如くに、将門の父の良将の遺産を将門が成長しても国香等が返さなかつたことで、此の様な事情は古も今もやゝもすれば起り易いことで、曾我の殺傷も此から起つてゐる。今昔物語が信じ難い書であることは無論だが、此の事実は有勝の事で、大日本史も将門始末も皆採つてゐる。将門在京中に既に此事があつて、貞盛と将門とは心中互におもしろく無く思つてゐたところから、貞盛の言も出たとすれば合点が出来るのである。  今一つは将門と源護一族との間の事である。これは其原因が不明ではあるが、因縁のもつれであるだけは明白である。護は常陸の前の大掾で、そのまゝ常陸の東石田に居たのである。東石田は筑波の西に当るところで、国香もこれに居たのである。護は世系が明らかでないが、其の子の扶、隆、繁と共に皆一字名であるところを見ると、嵯峨源氏でゞもあるらしく思はれる。何にせよ護も名家であつて、護の女を将門の伯父上総介良兼は妻にしてゐる。国香も亦其一人を嫁にして貞盛の妻にしてゐる。常陸六郎良正もまた其一人を妻にしてゐる。此の良正は系図では良茂の子になつてゐるが、おそらくは誤りで、国香の同胞で一番季なのであらう。  将門と護とは別に相敵視するに至る訳は無い筈であるが、此の護の一族と将門と私闘を起したのが最初で、将門の伯叔父の多いにかゝはらず、護の家と縁組をしてゐる国香の家、良兼の家、良正の家が特に将門を悪んで之を攻撃してゐるところを見ると、何でも源護の家を中心とし、之に関聯して紛糾した事情が有つての大火事と考へられる。将門始末では、将門が護の女を得て妻としようとしたが護が与へなかつたので、将門が怒つたのが原因だと云つて居る。して見れば将門は恋の叶はぬ焦燥から、車を横に推出したことになる。さすれば良正か貞盛か二人の中の一人が、将門の望んだ女を得て妻としてしまつた為に起つた事のやうに思はれるが、如何に将門が乱暴者でも、人の妻になつてしまつた者を何としようといふこともあるまい。又それが遺恨の本になるといふことも、成程野暮な人の間に有り得るにしても、皆が一致して手甚く将門を包囲攻撃するに至るのは、何だか逆なやうである。思ふ女をば奪はれ、そして其女の縁に連る一族総体から、此の失恋漢、死んでしまへと攻立てられたといふのは、何と無く奇異な事態に思へる。又たとへ将門の方から手出しをしたにせよ、恋の叶はぬ忌〻しさから、其女の家をはじめ、其姉妹の夫たちの家まで、撫斬りにしようといふのも何となく奇異に過ぎ酷毒に過ぎる。何にせよ決してたゞ一条の事ではあるまい、可なり錯綜した事情が無ければならぬ。貞盛が将門を殺したがつた事も、恋の叶つた者の方が恋の叶はぬ者を生かして置いては寝覚が悪いために打殺すといふのでは、何様も情理が桂馬筋に働いて居るやうである。  故蹟考ではかう考へてゐる。将門が迎へた妻は、源護の子の扶、隆、繁の中で、懸想して之を得んとしたものであつた。然るに其の婦人は源家へ嫁すことをせずして相馬小次郎将門の妻となつた。そこで媢嫉の念禁じ難く、兄弟姉妹の縁に連なる良兼貞盛良正等の力を併せて将門を殺さうとし、一面国香良正等は之を好機とし、将門を滅して相馬の夥しい田産を押収せんとしたのである。と云つて居る。成程源家の子のために大勢が骨折つて貰ひ得て呉れようとした美人を貰ひ得損じて、面目を失はせられ、しかも日比から彼が居らなくばと願つて居た将門に其の婦人を得られたとしては、要撃して恨を散じ利を得んとするといふことも出て来さうなことである。然しこれも確拠があつてでは無い想像らしい。たゞ其中の将門を滅せば田産押収の利のあるといふことは、拠るところの無い想像では無い。  要するに委曲の事は徴知することが出来ない。耳目の及ぶところ之を知るに足らないから、安倍晴明なら識神を使つて委細を悟るのであるが、今何とも明解することは我等には不能だ。天慶年間、即ち将門死してから何程の間も無い頃に出来たといふ将門記の完本が有つたら訳も分かるのであらうが、今存するものは残闕であつて、生憎発端のところが無いのだから如何とも致方は無い。然し試みに考へて見ると、将門が源家の女を得んとしたことから事が起つたのでは無いらしい、即ち将門始末の説は受取り兼ねるのであつて、むしろ将門の得た妻の事から私闘は起つたのらしい。何故といへば将門記の中の、将門が勝を得て良兼を囲んだところの条の文に、「斯の如く将門思惟す、凡そ当夜の敵にあらずといへども(良兼は)脈を尋ぬるに疎からず、氏を建つる骨肉なり、云はゆる夫婦は親しけれども而も瓦に等しく、親戚は疎くしても而も葦に喩ふ、若し終に(伯父を)殺害を致さば、物の譏り遠近に在らんか」とあつて、取籠めた伯父良兼を助けて逃れしめてやるところがある。その文気を考へると、妻の故の事を以て伯父を殺すに至るは愚なことであるといふのであるから、将門が妻となし得なかつた者から事が起つたのでは無くて、将門が妻となし得たものがあつてそれから伯父と弓箭をとつて相見ゆるやうにもなつたのであるらしい。それから又同記に拠ると、将門を告訴したものは源護である。記に「然る間前の大掾源護の告状に依りて、件の護並びに犯人平将門及び真樹等召進ずべきの由の官符、去る承平五年十二月二十九日符、同六年九月七日到来」とあるから、原告となつた者は護である。真樹は佗田真樹で、国香の属僚中の錚〻たるものである。これに依つて考へれば、良正良兼は記の本文記事の通り、源家が敗戦したによつて婦の縁に引かれて戦を開いたのだが、最初はたゞ源護一家と将門との間に事は起つたのである。して見れば将門が妻としたものに関聯して源護及び其子等と将門とは闘ひはじめたのである。  戯曲はこゝに何程でも書き出される。かつて同じ千葉県下に起つた事実で斯ういふのがあつた。将門ほど強い男でも何でも無いが、可なりの田邑を有してゐる片孤があつた。其の児の未だ成長せぬ間、親戚の或る者は其の田邑を自由にして居たが、其の児の成人したに至つて当然之を返附しなければならなくなつた。ところで其の親戚は自分の娘を其の男に娶らせて、自己は親として其の家に臨む可く計画した。娘は醜くも無く愚でもなかつたが、男は自己が拘束されるやうになることを厭ふ余りに其の娘を強く嫌つて、其の婚儀を勧めた一族達と烈しく衝突してしまつた。悲劇はそこから生じて男は放蕩者となり、家は乱脈となり、紛争は転輾増大して、終に可なりの旧家が村にも落着いて居られぬやうになつた。これを知つてゐる自分の眼からは、一齣の曲が観えてならない。真に夢の如き想像ではあるが、国香と護とは同国の大掾であつて、二重にも三重にもの縁合となつて居り、居処も同じ地で、極めて親しかつたに違ひ無い。若し将門が護の女を欲したならば、国香は出来かぬる縁をも纏めようとしたことであらう。其の方が将門を我が意の下に置くに便宜ではないか。して見れば将門始末の記するが如きことは先づ起りさうもない。もし反対に、護の女を国香が口をきいて将門に娶らせようとして、そして将門が強く之を拒否した場合には、国香は源家に対しても、自己の企に於ても償ひ難き失敗をした訳になつて、貞盛や良兼や良正と共に非常な嫌な思ひをしたことであらうし、護や其子等は不面目を得て憤恨したであらう。将門の妻は如何なる人の女であつたか知らぬが、千葉系図や相馬系図を見れば、将門の子は良兌、将国、景遠、千世丸等があり、又十二人の実子があつたなどと云ふ事も見えるから、桔梗の前の物語こそは、薬品の桔梗の上品が相馬から出たに本づく戯曲家の作意ではあらうが、妻妾共に存したことは言ふまでも無い。で、将門が源家の女を蔑視して顧みず、他より妻を迎へたとすると、面目を重んずる此時代の事として、国香も護の子等も、殊に源家の者は黙つて居られないことになる。そこで談判論争の末は双方後へ退らぬことになり、武士の意気地上、護の子の扶、隆、繁の三人は将門を敵に取つて闘ふに至つたらうと想像しても非常な無理はあるまい。  闘は何にせよ将門が京より帰つて後数年にして発したので、其の場所は下総の結城郡と常陸の真壁郡の接壌地方であり、時は承平五年の二月である。どちらから戦をしかけたのだか明記はないが、源の扶、隆等が住地で起つたのでも無く、将門の田園所在地から起つたのでも無い。将門の方から攻掛けたやうに、歴史が書いてゐるのは確実で無い。将門と源氏等と、どちらが其の本領まで戦場から近いかと云へば、将門の方が近いくらゐである。相馬から出たなら遠いが、本郷や鎌庭からなら近いところから考へると、将門が結城あたりへ行かうとして出た途中を要撃したものらしい。左も無くては釣合が取れない。若し将門が攻めて行つたのを禦いだものとしては、子飼川を渉つたり鬼怒川を渡つたりして居て、地理上合点が行かぬ。将門記に其の闘の時の記事中見ゆる地名は、野本、大串、取木等で、皆常陸の下妻附近であるが、野本は下総の野爪、大串は真壁の大越、取木は取不原の誤か、或は本木村といふのである。攻防いづれがいづれか不明だが、記には「爰に将門罷まんと欲すれども能はず、進まんと擬するに由無し、然して身を励まして勧拠し、刃を交へて合戦す」とあるに照らすと、何様も扶等が陣を張つて通路を截つて戦を挑んだのである。此の闘は将門の勝利に帰し、扶等三人は打死した。将門は勝に乗じて猛烈に敵地を焼き立て、石田に及んだ。国香は既に老衰して居た事だらう、何故といへば、国香の弟の弟の第二子若くは第三子の将門が既に三十三歳なのであるから。国香は戦死したか、又焼立てられて自殺したか、後の書の記載は不詳である。双方の是非曲直は原因すら不明であるから今評論が出来ぬが、何にせよ源護の方でも鬱懐已む能はずして是に至つたのであらうし、将門の方でも刀を抜いて見れば修羅心熾盛になつて、遣りつけるだけは遣りつけたのだらう。然しこゝに注意しなければならぬのは、是はたゞ私闘であつて、謀反をして国の治者たる大掾を殺したのではない事である。  貞盛は国香の子として京に在つて此事を聞いて暇を請うて帰郷した。記に此場合の貞盛の心を書いて、「貞盛倩〻案内を検するに、およそ将門は本意の敵にあらず、これ源氏の縁坐也云〻。孀母は堂に在り、子にあらずば誰か養はん、田地は数あり、我にあらずば誰か領せん、将門に睦びて云〻、乃ち対面せんと擬す」とある。国香死亡記事の本文は分らないが、此の文気を観ると、将門が国香を心底から殺さうとしたので無いことは、貞盛が自認してゐるので、源氏の縁坐で斯様の事も出来たのであるから、無暗に将門を悪むべくも無い、一族の事であるから寧ろ和睦しよう、といふのである。前に云つた通り将門は自分を攻めに来た良兼を取囲んだ時もわざと逃がした人である、国香を強ひて殺さう訳は無い。貞盛の此の言を考へると、全く源氏と戦つたので、余波が国香に及んだのであらう。伯父殺しを心掛けて将門が攻寄せたものならば、貞盛に斯様いふ詞の出せる訳も無い。但し国香としては田邑の事につきて将門に対して心弱いこともあつた歟、さらずも居館を焼亡されて撃退することも得せぬ恥辱に堪へかねて死んだのであらうか。こゝにも戯曲的光景がいろ〳〵に描き出さるゝ余地がある。まして国香の郎党佗田真樹は弱い者では無い、後に至つて戦死して居る程の者であるから、将門の兵が競ひかゝつて国香を攻めたのならば、何等かの事蹟を生ずべき訳である。  良正は高望王の庶子で、妻は護の女であつた。護は老いて三子を尽く失つたのだから悲嘆に暮れたことは推測される。そこで父の歎、弟の恨、良正の妻は夫に対して報復の一ト合戦をすゝめたのも無理は無い。云はれて見れば後へは退けぬので、良正は軍兵を動かして水守から出立した。水守は筑波山の南の北条の西である。兵は進んで下総堺の小貝川の川曲に来た。川曲は「かはわた」と訓んだのであらう、今の川又村の地で当時は川の東岸であつたらしい。一水を渡れば豊田郡で将門領である。貞盛が此時加担して居なかつたのであるのは注意すべきだ。将門の方でも、其義ならば伯父とは云へ一ト塩つけてやれと云ふので出動した。時は其年の十月廿一日であつた。将門の軍は勝を得て、良正は散〻に打なされて退いた。此も私闘である。将門はまだ謀反はして居らぬ、勝つて本郷へ帰つた。 「負け碁は兎角あとをひく也」で、良正は独力の及ぶ可からざるを以て下総介良兼(或はいふ上総介)に助勢を頼んで将門に憂き目を見せようとした。良兼は護の縁につながつて居る者の中の長者であつた。良兼の妻も内から牝鶏のすゝめを試みた。雄鶏は終に閧の声をつくつた。同六年六月二十六日、十二分に準備したる良兼は上総下総の兵を発して、上総の地で下総へ斗入してゐる武射郡の径路から下総の香取郡の神崎へ押出した。神崎は滑川より下、佐原より上の利根川沿岸の地だ。それより大河を渡つて常陸の信太郡の江前の津へかゝつた。江前はえのさきで、今の江戸崎である。それから翌日、良正がゐる筑波の南の水守へ到着したといふ事だ。私闘は段〻と大きくなつた。関を打破つて通りこそせざれ、間道〻〻を通つて、苟も何の介といふ者が、官司の禁遏を省みず武力で争はうといふのである。良正は喜んで迎へた。貞盛も参会した。良兼は貞盛に対つて、常平太何事ぞ我等と与にせざるや、財物を掠められ、家倉を焼かれ、親類を害せられて、穏便を旨とするは何ぞや、早〻合力して将門を討ち候へと、叔父様顔の道理らしく説いた。言はれて見れば其の通りであるから、貞盛も吾が女房の兄弟の仇、言はず語らずの父の讐であるから、心得た、と言切つた。姉妹三人の夫たる叔父甥三人は、良兼を大将にして下野を指して出発した。下野から南に下つて小次郎めを圧迫しようといふのだ。将門はこれを聞いて、御座んなれ二本棒ども、とでも思つたらう。財布の大きいものが、博奕はきつと勝つと定まつては居ないのだ。何程の事かあらん、一ト当てあてゝやれと、此方からも下野境まで兵を出したが、如何さま敵は大軍で、地も動き草も靡くばかりの勢堂〻と攻めて来た。良兼の軍は馬も肥え人も勇み、鎧の毛もあざやかに、旗指物もいさぎよく、弓矢、刀薙刀、いづれ美〻しく、掻楯ひし〳〵と垣の如く築き立てゝ、勢ひ猛に壮んに見えた。将門の軍は二度の戦に甲冑も摺れ、兵具も十二分ならず、人数も薄く寒げに見えた。譬へば敵の毛羽艶やかに峨冠紅に聳えたる鶏の如く、此方は見苦しき羽抜鳥の肩そぼろに胸露はに貧しげなるが如くであつたが、戦つて見ると羽ふくよかなる地鶏は生命知らずの軍鶏の敵では無かつた。将門の手下の勇士等は忽ちに風の木の葉と敵を打払つた。良兼の勢は先を争つて逃げる、将門は鞭を揚げ名を呼はつて勢に乗つて吶喊し駆け崩した。敵はきたなくも下野の府に閉塞されてしまつた。こゝで将門が刻毒に攻立てたら、或は良兼等を酷いめにあはせ得たかも知らぬが、将門の性質の美の窺知らるゝところはここにあつて、妻の故を以て伯父を殺したと云はるゝを欲せぬために一方をゆるして其の逃ぐるに任せた。良兼等は危い生命を助かつて、辛くも遁れ去つてしまつた。そこで将門は明かな勝利を得て、府の日記へ、下総介が無道に押寄せて合戦しかけた事と、これを追退けてしまつたことをば明白に記録して置いて、悠然と自領へ引取つた。火事は大分燃広がつた、私闘は余国までの騒ぎになつたが、しかもまだ私闘である、謀反をしたのでは無かつた。これだけの大事になつたのであるから、四方隣国も皆手出しこそせざれ、目を側だてゝ注意したに相違ない。将門が国庁の記録に事実をとゞめ、四方に実際を知らしめたのは、為し得て男らしく立派に智慮もあり威勢もあることであつた。  源護の方は事を起した最初より一度も好い目を見無かつた。痴者が衣服の焼け穴をいぢるやうに、猿が疵口を気にするやうに、段〻と悪いところを大きくして、散〻な事になつたが、いやに賢く狡滑なものは、自分の生命を抛出して闘ふといふことをせずに、いつも他の勢力や威力や道理らしいことやを味方にして敵を窘めることに長けたものだ。何様いふ告訴状を上つたか知らぬが、多分自分が前の常陸大掾であつたことと、現常陸大掾であつた国香の死したことを利用して、将門が暴威に募り乱逆を敢てしたことを申立てたに相違無く、そしてそれから後世の史をして将門常陸大掾国香を殺すと書かしめるに至らせたのであらう。去年十二月二十九日の符が、今年九月になつて、左近衛番長の正六位上英保純行、英保氏立、宇自加支興等によつて齎らされ、下毛下総常陸等の諸国に朝命が示され、原告源護、被告将門、および国香の麾下の佗田真樹を召寄せらるゝ事になつた、そこで将門は其年十月十七日、急に上京して公庭に立つた。一部始終を申立てた。阪東訛りの雑つた蛮音で、三戦連勝の勢に乗じ、がん〳〵と遣付たことであらう。もとより事実を陰蔽して白粉を傅けた談をするが如きことは敢てし無かつたらう。箭が来たから箭を酬いた、刀が加へられたから刀を加へた、弓箭取る身の是非に及ばず合戦仕つて幸に斬り勝ち申したでござる、と言つたに過ぎまい。勿論私に兵仗を動かした責罰譴誨は受けたに相違あるまいが、事情が分明して見れば、重罪に問ふには足ら無いことが認められたのに、かてゝ加へて皇室御慶事があつたので、何等罪せらるゝに至らず、承平七年四月七日一件落着して恩詔を拝した。検非違使庁の推問に遇うて、そして将門の男らしいことや、勇威を振つたことは、却つて都の評判となつて同情を得たことと見える。然し干戈を動かしたことは、深く公より譴責されたに疑無い。で、同年五月十一日に京を辞して下総に帰つた。  とは記に載つてゐるところだが、これは疑はしい。こゝに事実の前後錯誤と年月の間違があるらしい。将門は幾度も符を以て召喚されたが、最初一度は上洛し、後は上洛せずに、英保純行に委曲を告げたのである。将門はそれで宜いが、良兼等は其儘指を啣へて終ふ訳には、これも阪東武者の腹の虫が承知しない。甥の小僧つ子に塩をつけられて、国香亡き後は一族の長者たる良兼ともある者が屈してしまふことは出来ない。護も貞盛も女達も瞋恚の火を燃さない訳は無い。将門が都から帰つて来て流石に謹慎して居る状を見るに及んで、怨を晴らし恥辱を雪ぐは此時と、良兼等は亦復押寄せた。其年八月六日に下総境の例の小貝川の渡に良兼の軍は来た。今度は良兼もをかしな智慧を出して、将門の父良将祖父高望王の像を陣頭に持出して、さあ箭が放せるなら放して見よ、鉾先が向けらるゝなら向けて見よと、取つて蒐つた。籠城でもした末に百計尽き力乏しくなつてならばいざ知らず、随分いやな事をしたものだが、如何に将門勇猛なりとも此には閉口した。「親の位牌で頭こつつり」といふ演劇には、大概な暴れ者も恐れ入る格で、根が無茶苦茶な男では無い将門は神妙におとなしくして居た。おとなしくした方が何程腹の中は強いか知れないのだが、差当つて手が出せぬのを見ると、良兼の方は勝誇つた。豊田郡の栗栖院、常羽御厩や将門領地の民家などを焼払つて、其翌日さつと引揚げた。  芝居で云へば性根場といふところになつた。将門は一ト塩つけられて怒気胸に充ち塞がつたが、如何とも為ん方は無かつた。で、其月十七日になつて兵を集めて、大方郷堀越の渡に陣を構へ、敵を禦がうとした。大方郷は豊田郡大房村の地で、堀越は今水路が変つて渡頭では無いが堀籠村といふところである。併し将門は前度とは異つて、手痛くは働か無かつた。記には、脚気を病んで居て、毎事朦〻としてゐたといふが、そればかりが原因か、或は都での訓諭に恐懼して、仮りにも尊族に対して私に兵具を動かすことは悪いと思つた、しほらしい勇士の一面の優美の感情から、吽と忍耐したのかも知れない。弱くない者には却つて此様いふ調子はあるものである。で、はか〴〵しい抵抗も何等敢てしなかつたから、良兼の軍は思ふが儘に乱暴した。前の恨を霽らすは此時と、郡中を攻掠し焚焼して、随分甚い損害を与へた。将門は猨島郡の葦津江、今の蘆谷といふところに蟄伏したが、猶危険が身に逼るので、妻子を船に乗せて広河の江に泛べ、おのれは要害のよい陸閉といふところに籠つた。広河の江といふのは飯沼の事で、飯沼は今は甚しく小さくなつてゐるが、それは徳川氏の時になつて、伊達弥惣兵衛為永といふものが、享保年間に飯沼の水が利根川より高いこと一丈九尺、鬼怒川より高いこと横根口で六尺九寸、内守谷川辰口で一丈といふことを知つて、大工事を起して、水を落し、数千町歩の新田を造つたからである。陸閉といふ地は不明だが、蓋し降間の誤写で、後の岡田郡降間木村の地だらうといふことである。降間木ももと降間木沼とかいふ沼があつたところである。さあ物語は一大関節にさしかゝつた。将門が斯様におとなしくして居て、むしろ敵を避け身を屈して居るやうになつたところで、良兼方の一分は立つたのだから、其儘に良兼方が凱歌を奏して退いて終つたれば、或は和解の助言なども他から入つて、宜い程のところに双方折合ふといふことも成立つたか知れないのである。ところが転石の山より下るや其の勢必ず加はる道理で、終に良兼将門は両立す可からざる運命に到着した。それは将門が安穏を得させようとして跡を埋め身を隠させた其の愛妻を敵が発見したことであつた。どうも良兼方の憎悪は此の妻にかゝつて居たらしい。それ占めたといふのであつたらう、忽ちに手対ふ者を討殺し、七八艘の船に積載した財貨三千余端を掠奪し、かよわい妻子を無漸にも斬殺してしまつたのが、同月十九日の事であつた。元来火薬が無かつた訳では無いから、如何に一旦は神妙にしてゐても、此処に至つて爆発せずには居ない。後の世の頼朝が伊豆に潜んで居た時も、たゞおとなしく世を終つたかも知れないが、伊東入道に意中の女は引離され児は松川に投入れらるゝに及んで、ぶる〳〵と其の巨きい頭を振つて牙を咬んで怒り、せめては伊豆一国の主になつて此恨を晴らさうと奮ひ立つたとある。人間以上に心を置けば、恩愛に惹かれて動転するのは弱くも浅くも甲斐無くもあるが、人間としては恩愛の情の已み難いのは無理も無いことである。如何に相馬小次郎が勇士でも心臓が筑波御影で出来てゐる訳でもあるまいから、落さうと思つた妻子を殺されては、涙をこぼして口惜がり、拳を握りつめて怒つたことであらう。これはまた暴れ出さずには居られない訳だ。しかしまだ私闘である、私闘の心が刻毒になつて来たのみである、謀反をしようとは思つて居ないのである。  記の此処の文が妙に拗れて居るので、清宮秀堅は、将門の妻は殺されたのでは無くて上総に拘はれたので、九月十日になつて弟の謀によつて逃帰つたといふ事に読んでゐる。然し文に「妻子同共討取」とあるから、何様も妻子は殺されたらしく、逃還つたのは一緒に居た妾であるらしい。が、「爰将門妻去夫留、忿怨不レ少」「件妻背二同気之中一、迯二帰於夫家一」とあるところを見ると、妻が拘はれたやうでもある。「妾恒存二真婦之心一」「妾之舎弟等成レ謀」とあるところを見ると、妾のやうでもある。妻妾二字、形相近いから何共紛らはしいが、妻子同共討取の六字があるので、妻子は殺されたものと読んで居る人もある。どちらにしても強くは言張り難いが、「然而将門尚与二伯父一為二宿世之讐一」といふ句によつて、何にせよ此事が深い怨恨になつた事と見て差支は無い。しばらく妻子は殺されて、拘はれた妾は逃帰つた事と見て置く。  此事あつてより将門は遺恨已み難くなつたであらう、今までは何時も敵に寄せられてから戦つたのであるが、今度は我から軍を率ゐて、良兼が常陸の真壁郡の服織、即ち今の筑波山の羽鳥に居たのを攻め立つた。良兼は筑波山に拠つたから羽鳥を焼払ひ、戦書を贈つて是非の一戦を遂げようとしたが、良兼は陣を堅くして戦は無かつたので、将門は復讐的に散〻敵地を荒して帰つた。斯様なれば互に怨恨は重なるのみであるが、良兼の方は何様しても官職を帯びて居るので、官符は下つて、将門を追捕すべき事になつた。良兼、護、今は父の後を襲ふた常陸大掾貞盛、良兼の子の公雅、公連、それから秦清文、此等が皆職を帯びて、武蔵、安房、上総、下総、常陸、下野諸国の武士を駆催して将門を取つて押へようとする。将門は将門で後へは引け無くなつたから勢威を張り味方を募つて対抗する。諸国の介や守や掾やは、騒乱を鎮める為に戮力せねばならぬのであるが、元来が私闘で、其の情実を考へれば、強ち将門を片手落に対治すべき理があるやうにも思へぬから、官符があつても誰も好んで矢の飛び剣の舞ふ中へ出て来て危い目に逢はうとはしない。将門は一人で、官職といへば別に大したものを有してゐるのでも無い、たゞ伊勢太神宮の御屯倉を預かつて相馬御厨の司であるに過ぎぬのであるに、父の余威を仮るとは言へ、多勢の敵に対抗して居られるといふものは、勇悍である故のみでは無い、蓋し人の同情を得てゐたからであつたらう。然無くば四方から圧逼せられずには済まぬ訳である。  良兼は何様かして勝を得ようとしても、尋常の勝負では勝を取ることが難かつた。そこで便宜を伺ひ巧計を以て事を済さうと考へた。怠り無く偵察してゐると、丁度将門の雑人に支部子春丸といふものがあつて、常陸の石田の民家に恋中の女をもつて居るので、時〻其許へ通ふことを聞出した。そこで子春丸をつかまへて、絹を与へたり賞与を約束したりして、将門の営の勝手を案内させることにした。将門は此頃石井に居た。石井は「いはゐ」と読むので、今の岩井が即ちそれだ。子春丸は恋と慾とに心を取られ、良兼の意に従つて、主人の営所の勝手を悉く良兼の士に教へた。良兼はほくそ笑んで、手腕のある者八十余騎を択んで、ひそ〳〵と不意打をかける支度をさせた。十二月の十四日の夕に良兼の手の者は発して、首尾よく敵地に突入し、風の如くに進んで石井の営に斫入つた。将門の士は十人にも足らなかつたが、敵が襲ふのを注進した者があつて、急に起つて防ぎ戦つた。将門も奮闘した。良兼の上兵多治良利は一挙に敵を屠らんと努力したが、運拙く射殺されたので、寄手は却つて散〻になつて、命を落す者四十余人、可なり手痛き戦はしたが、敵地に踏込むほどの強い武者共が随分巧みに、うま〳〵近づいたにもかゝはらず、此の突騎襲撃も成功しなかつた。双方が精鋭驍勇、死物狂ひを極め尽した活動写真的の此の華〻しい騎馬戦も、将門方の一騎士が結城寺の前で敵が不意打に来たなと悟つて、良兼方の騎士の後から尾行して居て、鴨橋(今の結城郡新宿村のかま橋)から急に駈抜けて注進したため、危くも将門は勝を得てしまつた。良兼は此の失敗に多く勇士を失ひ、気屈して、勢衰へ、怏〻として楽まず、其後は何も仕出し得ず、翌年天慶二年の六月上旬病死して終つた。子春丸は事あらはれて、不意討の日から幾程も無く捕へられて殺されてしまつた。  突騎襲撃の不成功に終つた翌年の春、良兼は手を出すことも出来無くなつてゐるし、貞盛も為すこと無く居ねばならぬので、かくては果てじと、貞盛は京上りを企てた。都へ行つて将門の横暴を訴へ、天威を藉りてこれを亡ぼさうといふのである。将門はこれを覚つて、貞盛に兎角云ひこしらへさせては面倒であると、急に百余騎を率ゐて追駈けた。二月の二十九日、山道を心がけた貞盛に、信濃の小県の国分寺の辺で追ひついて戦つた。貞盛も思ひ設けぬでは無かつたから防ぎ箭を射つた。貞盛方の佗田真樹は戦死し、将門方の文屋好立は負傷したが助かつた。貞盛は辛くも逃れて、遂に京に到り、将門暴威を振ふの始終を申立てた。此歳五月改元、天慶元年となつて、其の六月、朝廷より将門を召すの符を得て常陸に帰り、常陸介藤原維幾の手から将門に渡した。将門は符を得ても命を奉じ無かつた。維幾は貞盛の叔母婿であつた。  貞盛が京上りをした翌天慶二年の事である。武蔵の国にも紛擾が生じた。これも当時の地方に於て綱紀の漸く弛んだことを証拠立てるものであるが、それは武蔵権守興世王と、武蔵介経基と、足立郡司判官武芝とが葛藤を結んで解けぬことであつた。武芝は武蔵国造の後で、足立埼玉二郡は国中で早く開けたところであり、それから漸く人烟多くなつて、奥羽への官道の多摩郡中の今の府中のあるところに庁が出来たのであるが、武芝は旧家であつて、累代の恩威を積んでゐたから、当時中〻勢力のあつたものであらう、そこへ新に権守になつた興世王と新に介になつた経基とが来た。経基は清和源氏の祖で六孫王其人である。興世王とは如何なる人であるか、古より誰も余り言はぬが、既に王といはれて居り、又経基との地位の関係から考へて見ても、帝系に出でゝ二代目位か三代目位の人であらう。高望王が上総介、六孫王が武蔵介、およそかゝる身分の人〻がかゝる官に任ぜられたのは当時の習であるから、興世王も蓋し然様いふ人と考へて失当でもあるまい。其頃桓武天皇様の御子万多親王の御子の正躬王の御後には、住世、基世、助世、尚世、などいふ方〻があり、又正躬王御弟には保世、継世、家世など皆世の字のついた方が沢山あり、又桓武天皇様の御子仲野親王の御子にも茂世、輔世、季世など世のついた方〻が沢山に御在であるところから推して考へると、興世王は或は前掲二親王の中のいづれかの後であつたかとも思へるが、系譜で見出さぬ以上は妄測は力が無い。たゞ時代が丁度相応するので或はと思ふのである。日本外史や日本史で見ると、いきなり「兇険にして乱を好む」とあつて、何となく熊坂長範か何ぞのやうに思へるが、何様いふものであらうか。扨此の興世王と経基とは、共に我の強い勢の猛しい人であつたと見え、前例では正任未だ到らざるの間は部に入る事を得ざるのであるのに、推して部に入つて検視しようとした。武芝は年来公務に恪勤して上下の噂も好いものであつたが、前例を申して之を拒んだ。ところが、郡司の分際で無礼千万であると、兵力づくで強ひて入部し、国内を凋弊し、人民を損耗せしめんとした。武芝は敵せないから逃げ匿れると、武芝の私物まで検封してしまつた。で、武芝は返還を逼ると、却つて干戈の備をして頑として聴かず、暴を以て傲つた。是によつて国書生等は不治悔過の一巻を作つて庁前に遺し、興世王等を謗り、国郡に其非違を分明にしたから、武蔵一国は大に不穏を呈した。そして経基と興世王ともまた必らずしも睦まじくは無く、様〻なことが隣国下総に聴えた。将門は国の守でも何でも無いが、今は勢威おのづから生じて、大親分のやうな調子で世に立つて居た。武蔵の騒がしいことを聞くと、武芝は近親では無いが、一つ扱つてやらう、といふ好意で郎等を率へて武蔵へ赴いた。武芝は喜んで本末を語り、将門と共に府に向つた。興世王と経基とは恰も狭服山に在つたが、興世王だけは既に府に在るに会ひ、将門は興世王と武芝とを和解せしめ、府衙で各〻数杯を傾けて居つたが、経基は未だ山北に在つた。其中武芝の従兵等は丁度経基の営所を囲んだやうになつた。経基は仲悪くして敵の如き思ひをなしてゐる武芝の従兵等が自分の営所を囲んだのを見て、たゞちに逃れ去つてしまつて、将門の言によりて武芝興世王等が和して自分一人を殺さうとするのであると合点した。そこで将門興世王を大に恨んで、京に馳せ上つて、将門興世王謀反の企を致し居る由を太政官に訴へた。六孫王の言であるから忽ち信ぜられた。将門が兵を動かして威を奮つてゐることは、既に源護、平良兼、平貞盛等の訴によりて、かねて知れて居るところへ、経基が此言によつて、今までのさま〴〵の事は濃い陰影をなして、新らしい非常事態をクッキリと浮みあらはした。  将門の方は和解の事画餅に属して、おもしろくも無く石井に帰つたが、三月九日の経基の讒奏は、自分に取つて一方ならぬ運命の転換を齎らして居るとも知る由無くて居た。都ではかねてより阪東が騒がしかつた上に愈〻謀反といふことであるから、容易ならぬ事と公卿諸司の詮議に上つたことであらう。同月二十五日、太政大臣忠平から、中宮少進多治真人助真に事の実否を挙ぐべき由の教書を寄せ、将門を責めた。将門も謀反とあつては驚いたことであらうが、たとひ驕倣にせよ実際まだ謀反をしたのでは無いから、常陸下総下毛武蔵上毛五箇国の解文を取つて、謀反の事の無実の由を、五月二日を以て申出た。余国は知らず、常陸から此の解文は出しさうも無いことであつた。少くとも常陸では、将門謀反の由の言を幸ひとして、虚妄にせよ将門を誣ひて陥れさうなところである。貞盛の姑夫たる藤原維幾が、将門に好感情を有してゐる筈は無いが、まさか未だ嘗て謀反もして居らぬ者に謀反の大罪を与へることは出来兼ねて解文を出したか、それとも短兵急に将門から攻められることを恐れて、責め逼らるゝまゝに已むを得ず出したか、一寸奇異に思はれる。然し五箇国の解文が出て見れば、経基の言はあつても、差当り将門を責むべくも無く、実際また経基の言は未然を察して中つてゐるとは云へ、興世王武芝等の間の和解を勧めに来た者を、目前の形勢を自分が誤解して、盃中の蛇影に驚き、恨みを二人に含んで、誣ひるに謀反を以てしたのではあるから、「虚言を心中に巧みにし」と将門記の文にある通りで、将門の罪せらる可き理拠は無い。又若し実際将門が謀反を敢てしようとして居たならば、不軌を図るほどの者が、打解けて語らつたことも無い興世王や経基の処へわざ〳〵出掛けて、半日片時の間に経基に見破らるべき間抜さをあらはす筈も無いから、此時は未だ叛を図つたとは云へない。むしろ種〻の事情が分つて見れば、東国に於ける将門の勢威を致した其の材幹力量は多とすべきであるから、是の如き才を草莱に埋めて置かないで、下総守になり鎮守府将軍になりして其父の後を襲がせ、朝廷の為に用を為させた方が、才に任じ能を挙ぐる所以の道である、それで或は将門を薦むる者もあり、或は将門の為に功果ある可きの由が廷に議せられたことも有つたか知れない、記に「諸国の告状に依り、将門の為に功果有るべきの由宮中に議せらるゝ」と記されて居るのも、虚妄で無くて、有り得べきことである。傭前介藤原子高を殺し播磨介島田惟幹を殺した後にさへ、純友は従五位を授けられんとしてゐる、其は天慶二年の事である。何にせよ善かれ悪かれ将門は経基の訴の後、大なる問題、注意人物の雄として京師の人〻に認められたに疑無いから、経基の言は将門の運命に取つては一転換の機を為してゐるのである。  良兼は今はもう将門の敵たるに堪へ無くなつて、此年六月上旬病死して居るのであるが、死前には病牀に臥しながら鬚髪を除いて入道したといふから、是も亦一可憐の好老爺だつたらうと思はれる。貞盛は良兼には死なれ、孤影蕭然、たゞ叔母婿の維幾を頼みにして、将門の眼を忍び、常陸の彼方此方に憂き月日を送つて居た。良兼が死んでは、下総一国は全く将門の旗下になつた。  興世王は経基が去つて後も武蔵に居たが、経基の奏によつておのづから上の御覚えは宜くなかつたことだらう、別に推問を受けた記事も見えぬが、新に興世王の上に一官人が下つて来た。それは百済貞連といふもので、目下の者とさへ睦ぶことの出来なかつた興世王だから、どうして目上の者と親しむことが成らう、忽ち衝突してしまつた。ところが貞連は意有つてか無心でか知らぬが、まるで興世王を相手にしないで、庁に坐位をも得せしめぬほどにした。上には上があり、強い者には強いものがぶつかる。興世王もこれには憤然とせざるを得なかつたが、根が負け嫌ひの、恐ろしいところの有る人とて、それなら汝も勝手にしろ、乃公も勝手にするといつた調子なのだらう、官も任地も有つたものでは無い、ぶらりと武蔵を出て下総へ遊びに来て、将門の許に「居てやるんだぞぐらゐな居候」になつた。「王の居候」だからおもしろい。「置候」の相馬小次郎は我武者に強いばかりの男では無い、幼少から浮世の塩はたんと嘗めて居る苦労人だ。田原藤太に尋ねられた時の様子でも分るが、ようございますとも、いつまででも遊んでおいでなさい位の挨拶で快く置いた。誰にでも突掛かりたがる興世王も、大親分然たる小次郎の太ッ腹なところは性に合つたと見えて、其儘遊んで居た。多分二人で地酒を大酒盃かなんかで飲んで、都出の興世王は、どうも酒だけは西が好い、いくら馬処の相馬の酒だつて、頭の中でピン〳〵跳ねるのはあやまる、将門、お前の顔は七ツに見えるぜ、なんのかのと管でも巻いてゐたか何様か知らないが、細くない根性の者同士、喧嘩もせずに暮して居た。  大親分も好いが、縄張が広くなれば出入りも多くなる道理で、人に立てられゝば人の苦労も背負つてやらねばならない。こゝに常陸の国に藤原玄明といふ者があつた。元来が此は是れ一個の魔君で、余り性の良い者では無かつた。図太くて、いらひどくて、人をあやめることを何とも思はないで、公に背くことを心持が好い位に心得て、やゝもすれば上には反抗して強がり、下には弱みに付入つて劫やかし、租税もくすねれば、押借りも為ようといふ質で、丁度幕末の悪侍といふのだが、度胸だけは吽と堪へたところのある始末にいかぬ奴だつた。善悪無差別の悪平等の見地に立つて居るやうな男だが、それでも人の物を奪つて吾が妻子に呉れてやり、金持の懐中を絞つて手下には潤ひをつけてやるところが感心な位のものだつた。で、こくめいな長官藤原維幾は、玄明が私した官物を弁償せしめんが為に、度〻の移牒を送つたが、斯様いふ男だから、横道に構へ込んで出頭などはしない。末には維幾も勘忍し兼ねて、官符を発して召捕るよりほか無いとなつて其の手配をした。召捕られては敵はないから急に妻子を連れて、維幾と余り親しくは無い将門が丁度隣国に居るを幸に、下総の豊田、即ち将門の拠処に逃げ込んだが、行掛けの駄賃にしたのだか初対面の手土産にしたのだか、常陸の行方郡河内郡の両郡の不動倉の糒などといふ平常は官でも手をつけてはならぬ筈のものを掻浚つて、常陸の国ばかりに日は照らぬと極め込んだ。勿論これだけの事をしたのには、維幾との間に一ト通りで無いいきさつが有つたからだらうが、何にせよ悪辣な奴だ。維幾は怒つて下総の官員にも将門にも移牒して、玄明を捕へて引渡せと申送つた。ところが尋常一様の吏員の手におへるやうな玄明では無い。いつも逃亡致したといふ返辞のみが維幾の所へは来た。維幾も後には業を煮やして、下総へ潜かに踏込んで、玄明と一ト合戦して取挫いで、叩き斫るか生捕るかしてやらうと息巻いた。維幾も常陸介、子息為憲もきかぬ気の若者、官権実力共に有る男だ。斯様なつては玄明は維幾に敵することは出来無い。そこで眼も光り口も利ける奴だから、将門よりほかに頼む人は無いと、将門の処へ駈込んで、何様ぞ御助け下さいと、切りに将門を拝み倒した。元来親分気のある将門が、首を垂れ膝を折つて頼まれて見ると、余り香ばしくは無いと思ひながらも、仕方が無い、口をきいてやらう、といふことになつた。居候の興世王は面白づくに、親分、縋つて来る者を突出す訳にはいかねえぢや有りませんか位の事を云つたらう。で、玄明は気が強くなつた。将門は常陸は元から敵にした国ではあり、また維幾は貞盛の縁者ではあり、貞盛だつて今に維幾の裾の蔭か袖の蔭に居るのであるから、うつかり常陸へは行かれない。興世王はじめ皆相談にあづかつたに相違ないが、好うございますは、事と品とによれば刃金と鍔とが挨拶を仕合ふばかりです、といふ者が多かつたのだらう、とう〳〵天慶二年十一月廿一日常陸の国へ相馬小次郎郎党を率ゐて押出した。興世王ばかりではあるまい、平常むだ飯を食つて居る者が、桃太郎のお供の猿や犬のやうな顔をして出掛けたに違無い。維幾の方でも知らぬ事は無い、十分に兵を用意した。将門は、件の玄明下総に入つたる以上は下総に住せしめ、踏込んで追捕すること無きやうにありたいと申込んだ。維幾の方にも貞盛なり国香なりの一まきが居たらう。維幾は将門の申込に対して、折角の御申状ではあるが承引致し申さぬ、とかう仰せらるゝならば公の力、刀の上で此方心のまゝに致すまで、と刎付けた。然らば、然らば、を双方で言つて終つたから、論は無い、後は斫合ひだ。揉合ひ押合つた末は、玄明の手引があるので将門の方が利を得た。大日本史や、記に「将門撃つて三千人を殺す」とあるのは大袈裟過ぎるやうだが、敵将維幾を生捕りにし、官の印鑰を奪ひ、財宝を多く奪ひ、営舎を焚き、凱歌を挙げて、二十九日に豊田郡の鎌輪、即ち今の鎌庭に帰つた。勢といふ条、こゝに至つては既に遣り過ぎた。大親分も宜いけれども、奉行や代官を相手にして談判をした末、向ふが承知せぬのを、此奴めといふので生捕りにして、役宅を焚き、分捕りをして還つたといふのでは、余り強過ぎる。  玄明の事の起らぬ前、官符があるのであるから、将門が微力であるか維幾が猛威を有してゐるならば、将門は先づ維幾のために促されて都へ出て、糺問されねばならぬ筈の身である。それが有つたからといふのも一つの事情か知らぬが、又貞盛縁類といふことも一ツの理由か知らぬが、又打つてかゝつて来たからといふのも一の所以か知らぬが、常陸介を生捕り国庁を荒し、掠奪焚焼を敢てし、言はず語らず一国を掌握したのは、相馬小次郎も図に乗つて暴れ過ぎた。裏面の情は問ふに及ばず、表面の事は乱賊の所行だ。大小は違ふが此類の事の諸国にあつたのは時代的の一現象であつたに疑無いけれど、これでは叛意が有る無いにかゝはらず、大盗の所為、又は暴挙といふべきものである。今で云へば県庁を襲撃し、県令を生擒し、国庫に入る可き財物を掠奪したのに当るから、心を天位に掛けぬまでも大罪に相違無い。将門は玄明、興世王なんどの遣口を大規模にしたのである。将門猶未だ僣せずといへども、既に叛したのである。純友の暴発も蓋し此様いふ調子なのであつたらう。延喜年間に盗の為に殺された前安芸守伴光行、飛騨守藤原辰忠、上野介藤原厚載、武蔵守高向利春などいふものも、蓋し維幾が生擒されたやうな状態であつたらう。孔孟の道は尊ばれたやうでも、実は文章詩賦が流行つたのみで、仏教は尊崇されたやうでも、実は現世祈祷のみ盛んで、事実に於て神祠巫覡の徒と妥協を遂げ、貴族に迎合し、甚しく平等の思想に欠け、人は恋愛の奴隷、虚栄の従僕となつて納まり返り、大臣からしてが賭をして他の妻を取るほど博奕思想は行はれ、官吏は唯民に対する誅求と上に対する阿諛とを事としてゐる、かゝる世の中に腕節の強い者の腕が鳴らずに居られよう歟。此の世の中の表裏を看て取つて、構ふものか、といふ腹になつて居る者は決して少くは無く、悪平等や撥無邪正の感情に不知不識陥つて居た者も所在にあつたらう。将門が恰も水滸伝中の豪傑が危い目に度〻逢つて終に官に抗し威を張るやうな徑路を取つたのも、考へれば考へどころはある。特に長い間引続いた私闘の敵方荷担人の維幾が向ふへまはつて互に正面からぶつかつたのだから堪らない。此方が勝たなければ彼方が勝ち、彼方が負けなければ此方が負け、下手にまごつけば前の降間木につぐんだ時のやうな目に遇ふのだらう。玄明をかくまつた行懸りばかりでは無い、自分の頸にも縄の一端はかゝつてゐるものだから、向ふの頸にも縄の一端をかづかせて頸骨の強さくらべの頸引をして、そして敵をのめらせて敲きつけたのだ。常陸下総といへば人気はどちらも阪東気質で、山城大和のやうに柔らかなところでは無い。野山に生へる杉の樹や松の樹までが、常陸ッ木下総ッ木といへば、大工さんが今も顔をしかめる位で、後年の長脇差の侠客も大抵利根川沿岸で血の雨を降らせあつてゐるのだ。神道徳次は小貝川の傍、飯岡の助五郎、笹川の繁蔵、銚子の五郎蔵と、数へ立つたら、指がくたびれる程だ。元来が斯様いふ土地なので、源平時分でも徳川時分でも変りは無いから、平安朝時代でも異なつては居ないらしい。現に将門の叔父の村岡五郎の孫の上総介忠常も、武蔵押領使、日本将軍と威張り出して、長元年間には上総下総安房を切従へ、朝廷の兵を引受けて二年も戦ひ、これも叛臣伝中の人物となつてゐる。かういふ土地、かういふ時勢、かういふ思潮、かういふ内情、かういふ行懸り、興世王や玄明のやうなかういふ手下、とう〳〵火事は大きな風に煽られて大きな燃えくさに甚だしい焔を揚げるに至つた。もういけない。将門は毒酒に酔つた。興世王は将門に対つて、一国を取るも罪は赦さるべくも無い、同じくば阪東を併せて取つて、世の気色を見んには如かじと云ひ出すと、如何にも然様だ、と合点して終つた。興世王は実に好い居候だ。親分をもり立てゝ大きくしようと心掛けたのだ。天井が高くなければ頭を聳えさせる訳には行かない。蔭で親分を悪く言ひながら、台所で偸み酒をするやうな居候とは少し違つて居た。併し此の居候のお蔭で将門は段〻罪を大きくした。興世王の言を聞くと、もとより焔硝は沢山に籠つて居た大筒だから、口火がついては容赦は無い。ウム、如何にも、いやしくも将門、刹帝利の苗裔三世の末葉である、事を挙ぐるもいはれ無しとはいふ可からず、いで先づ掌に八箇国を握つて腰に万民を附けん、と大きく出た。かう出るだらうと思つて、そこで性に合つて居た興世王だから、イヨー親分、と喜んで働き出した。藤原の玄明や文室の好立等のいきり立つたことも言ふ迄は無い。ソレッといふので下野国へと押出した。馬を駈けさせては馬場所の士だ。将門が猛威を張つたのは、大小の差こそあれ大元が猛威を振つたのと同じく騎隊を駆使したためで、古代に於ては汽車汽船自働車飛行機のある訳では無いから、驍勇な騎士を用ゐれば、其の速力や負担力に於て歩兵に陪蓰するから、兵力は個数に於て少くて実量に於て多いことになる。下総は延喜式で左馬寮御牧貢馬地として、信濃上野甲斐武蔵の下に在るやうに見えるが、兵部省諸国馬牛牧式を見ると、高津牧、大結牧、本島牧、長州牧など、沢山な牧があつて、兵部省へ貢馬したものである。鎌倉時代足利時代から徳川時代へかけて、地勢上奥羽と同じく産馬地として鳴つて居る。特に将門は武人、此の牧場多き地に生長して居れば、十分に馬政にも注意し、騎隊の利をも用ゐるに怠らなかつたらう。  天慶の二年十一月二十一日に常陸を打従へて、すぐ其の翌月の十一日出発した。馬は竜の如く、人は雲の如く、勇威凛〻と取つてかゝつたので、下野の国司は辟易した。経基の奏の後、阪東諸国の守や介は新らしい人〻に換へられたが、斯様いふ時になると新任者は勝手に不案内で、前任者は責任の解けたことであるから、いづれにしても不便不利であつて、下野の新司の藤原の公雅は抵抗し兼ねて印鑰を差出して降つて終つた。前司の大中臣全行も敵対し無かつた。国司の館も国府も悉く虜掠されて終ひ、公雅は涙顔天を仰ぐ能はず、すご〳〵と東山道を都へ逃れ去つた。同月十五日馬を進めて上野へ将門等は出た。介の藤原尚範も印鑰を奪はれて終つた。十九日国庁に入り、四門の陣を固めて、将門を首め興世王、藤原玄茂等堂〻と居流れた。(玄茂も常陸の者である、蓋し玄明の一族、或は玄茂即玄明であらう。)此時、此等の大変に感じて精神異常を起したものか、それとも玄明等若しくは何人かの使嗾に出でたか知らぬが、一伎あらはれ出でゝ、神がゝりの状になり、八幡大菩薩の使者と口走り、多勢の中で揚言して、八幡大菩薩、位を蔭子将門に授く、左大臣正二位菅原道真朝臣之を奉ず、と云つた。一軍は訳も無く忻喜雀躍した。興世王や玄茂等は将門を勧めた。将門は遂に神旨を戴いた。四陣上下、挙つて将門を拝して、歓呼の声は天地を動かした。  此の仕掛花火は唯が製造したか知らぬが、蓋し興世玄明の輩だらう。理屈は兎もあれ景気の好い面白い花火が揚れば群衆は喝采するものである。群衆心理なぞと近頃しかつめらしく言ふが、人は時の拍子にかゝると途方も無いことを共感協行するものである。昔はそれを通り魔の所為だの天狗の所為だのと言つたものである。群衆といふことは一体鰯だの椋鳥だの鴉だの鰊だのの如きものの好んで為すところで、群衆に依つて自族を支へるが、個体となつては余りに弱小なものの取る道である。人間に在つても、立教者は孤独で信教者は群集、勇者は独往し怯者は同行する、創作者は独自で模倣者は群集、智者は寥〻、愚者は多〻であつて、群衆して居るといへば既にそれは弱小蠢愚の者なる事を現はして居る位のものである。群衆心理は即ち衆愚心理なのであるから、皆自から主たる能はざるほどの者共が、相率ゐて下らぬ事を信じたり、下らぬ事を怒つたり悲しんだり喜んだり、下らぬ行動を敢てしたりしても何も異とするには足らない。魚は先頭魚の後へついて行き、鳥は先発鳥の後へつくものである。群衆は感の一致から妄従妄動するもので、浅野内匠頭の家は潰され城は召上げられると聞いた時、一二が籠城して戦死しようと云へば、皆争つて籠城戦死しようとしたのが即ち群衆心理である。其実は主家の為に忠に死するに至つた者は終に何程も有りはし無かつた。感の一致が月日の立つと共に破れると、御金配分を受けて何処かへ行つてしまふのが却つて本態だつたのである。そこで衆愚心理を見破つて、これを正しく用ゐるのが良い政治家や軍人で、これを吾が都合上に用ゐるのが奸雄や煽動家である。八幡大菩薩の御託宣は群衆を動かした。群衆は無茶に歓んだ。将門は新皇と祭り上げられた。通り魔の所為だ、天狗の所為だ。衆愚心理は巨浪を猨島に持上げてしまつた。将門は毒酒を甘しとして其の第二盃を仰いでしまつた。  道真公が此処へ陪賓として引張り出されたのも面白い。公の貶謫と死とは余ほど当時の人心に響を与へてゐたに疑無い。現に栄えてゐる藤原氏の反対側の公の亡霊の威を藉りたなどは一寸をかしい。たゞ将門が菅公薨去の年に生れたといふ因縁で、持出したのでもあるまい。本来託宜といふことは僧道巫覡の徒の常套で、有り難過ぎて勿体無いことであるが、迷信流行の当時には託宣は笑ふ可きことでは無かつたのである。現に将門を滅ぼす祈祷をした叡山の明達阿闍梨の如きも、松尾明神の託宣に、明達は阿倍仲丸の生れがはりであるとあつたといふことが扶桑略記に見えてゐるが、これなぞは随分変挺な御託宣だ。宇佐八幡の御託宣は名高いが、あれは別として、一体神がゝり御託宣の事は日本に古伝のあることであつて、当時の人は多く信じてゐたのである。此の八幡託宣は一場の喜劇の如くで、其の脚色者も想像すれば想像されることではあるが、或は又別に作者があつたのでは無く、偶然に起つたことかも知れない。古より東国には未だ曾て無い大動揺が火の如くに起つて、瞬く間に無位無官の相馬小次郎が下総常陸上野下野を席捲したのだから、感じ易い人の心が激動して、発狂状態になり、斯様なことを口走つたかとも思はれる。然らずば、一時の賞賜を得ようとして、斯様なことを妄言するに至つたのかも知れない。  田原藤太が将門を訪ふた談は、此の前後の事であらう。秀郷は下野掾で、六位に過ぎぬ。左大臣魚名の後で、地方に蟠踞して威望を有して居たらうが、これもたゞの人ではない。何事の罪を犯したか知らぬが、延喜十六年八月十二日に配流されたとある。同時に罪を得たものは、同国人で同姓の兼有、高郷、興貞等十八人とあるから、何か可なりの事件に本づいたに相違無い。日本紀略にも罪状は出て居らぬが、都まで通つた悪事でもあり、人数も多いから、いづれ党を組み力を戮せて為た事だらう。何にしても前科者だ、一筋で行く男では無い。将門を訪ふた談は、時代ちがひの吾妻鏡の治承四年九月十九日の条に、昔話として出て居るので、「藤原秀郷、偽はりて門客に列す可きの由を称し、彼の陣に入るの処、将門喜悦の余り、梳けづるところの髪を肆らず、即ち烏帽子に引入れて之に謁す。秀郷其の軽忽なるを見、誅罰す可きの趣を存じ退出し、本意の如く其首を獲たり云〻」といふので、源平盛衰記には、「将門と同意して朝家を傾け奉り、日本国を同心に知らんと思ひて、行向ひて角といふ」と巻二十二に書き出して、世に伝へたる髪の事、飯粒の事を書いて居る。盛衰記に書いてある通りならば、秀郷は随分怪しからぬ料簡方の男で、興世王の事を為さずして終つたが、興世王の心を懐いてゐた人だと思はれる。斎藤竹堂が論じた如く、秀郷の事跡を観れば朝敵を対治したので立派であるが、其の心術を考へれば悪むべきところのあるものである。然し源平盛衰記の文を証にしたり、日本外史を引いて論じられては、是非も共に皆非であつて、田原藤太も迷惑だらう。吾妻鏡は「偽はりて称す云〻」と記し、大日本史は「秀郷陽に之に応じ、其の営に造りて謁を通ず」と記してゐる。此の意味で云へば、将門の勢が浩大で、独力之を支ふることが出来無かつたから、下野掾の身ではあるが、尺蠖の一時を屈して、差当つての難を免れ、後の便宜にもとの意で将門の許を訪ふたといふのであるから、咎むべきでは無い。竹堂の論もむだ言である。が、盛衰記の記事が真相を得て居るのだらうか、大日本史の記事の方が真相を得て居るだらうか。秀郷の後の千晴は、安和年中、橘繁延僧連茂と廃立を謀るに坐して隠岐に流されたし、秀郷自身も前に何かの罪を犯してゐるし、時代の風気をも考へ合せて見ると、或は盛衰記の記事、竹堂の論の方が当つて居るかと思へる。然し確証の無いことを深刻に論ずるのは感心出来無いことだ、憚るべきことだ、田原藤太を強ひて、何方へ賭けようかと考へた博奕打にするには当らない。  将門に逐ひ立てられた官人連は都へ上る、諸国よりは櫛の歯をひくが如く注進がある。京師では驚愕と憂慮と、応変の処置の手配とに沸立つた。東国では貞盛等は潜伏し、維幾は二十九日以来鎌輪に幽囚された。  将門は旧恩ある太政大臣忠平へ書状を発した。其書は満腔の欝気を伸べ、思ふ存分のことを書いて居るが、静かに味はつて見ると、強い言の中に柔らかな情があり、穏やかに委曲を尽してゐる中に手強いところがあつて中〻面白い。 将門謹み言す。貴誨を蒙らずして、星霜多く改まる、渇望の至り、造次に何でか言さん。伏して高察を賜はらば、恩幸なり恩幸なり。」然れば先年源ノ護等の愁状に依りて将門を召さる。官符をかしこみ、忩然として道に上り、祗候するの間、仰せ奉りて云はく、将門之事、既に恩沢に霑ひぬ。仍つて早く返し遣る者なりとなれば、旧堵に帰着し、兵事を忘却し、弓弦を綬くして安居しぬ。」然る間に前下総国介平良兼、数千の兵を起し、将門を襲ひ攻む。将門背走相防ぐ能はざるの間、良兼の為に人物を殺損奪掠せらるゝの由は、具さに下総国の解文に注し、官に言上しぬ、爰に朝家諸国に勢を合して良兼等を追捕す可きの官符を下され了んぬ。而るに更に将門等を召すの使を給はる、然るに心安からざるに依りて、遂に道に上らず、官使英保純行に付いて、由を具して言上し了んぬ。未だ報裁を蒙らず、欝包の際、今年の夏、同じく平貞盛、将門を召すの官符を奉じて常陸国に到りぬ。仍つて国内頻りに将門に牒述す。件の貞盛は、追捕を免れて跼蹐として道に上れる者也、公家は須らく捕へて其の由を糺さるべきに、而もかへつて理を得るの官符を給はるとは、是尤も矯飾せらるゝ也。」又右少弁源相職朝臣仰せの旨を引いて書状を送れり、詞に云はく、武蔵介経基の告状により、定めて将門を推問すべきの後符あり了んぬと。」詔使到来を待つの比ほひ、常陸介藤原維幾朝臣の息男為憲、偏に公威を仮りて、ただ寃枉を好む。爰に将門の従兵藤原玄明の愁訴により、将門其事を聞かんが為に彼国に発向せり。而るに為憲と貞盛等と心を同じうし、三千余の精兵を率ゐて、恣に兵庫の器仗戎具並びに楯等を出して戦を挑む。是に於て将門士卒を励まし意気を起し、為憲の軍兵を討伏せ了んぬ。時に州を領するの間滅亡する者其数幾許なるを知らず、況んや存命の黎庶は、尽く将門の為に虜獲せらるゝ也。」介の維幾、息男為憲を教へずして、兵乱に及ばしめしの由は、伏して過状を弁じ了んぬ。将門本意にあらずと雖も、一国を討滅しぬれば、罪科軽からず、百県に及ぶべし。之によりて朝議を候ふの間、しばらく坂東の諸国を虜掠し了んぬ。」伏して昭穆を案ずるに、将門は已に栢原帝王五代之孫なり、たとひ永く半国を領するとも、豈非運と謂はんや。昔兵威を振ひて天下を取る者は、皆史書に見るところ也。将門天の与ふるところ既に武芸に在り、等輩を思惟するに誰か将門に比ばんや。而るに公家褒賞の由无く、屡譴責の符を下さるゝは、身を省みるに恥多し、面目何ぞ施さん。推して之を察したまはば、甚だ以て幸なり。」抑将門少年の日、名簿を太政大殿に奉じ、数十年にして今に至りぬ。相国摂政の世に意はざりき此事を挙げんとは。歎念の至り、言ふに勝ゆ可からず。将門傾国の謀を萌すと雖、何ぞ旧主を忘れんや。貴閣且つ之を察するを賜はらば甚だ幸なり。一を以て万を貫く。将門謹言。    天慶二年十二月十五       謹〻上 太政大殿少将閣賀恩下  此状で見ると将門が申訳の為に京に上つた後、郷に還つておとなしくしてゐた様子は、「兵事を忘却し、弓弦を綬くして安居す」といふ語に明らかに見はれてゐる。そこを突然に良兼に襲はれて酷い目に遇つたことも事実だ。で、其時に将門は正式の訴状を出して其事を告げたから、朝廷からは良兼を追捕すべきの符が下つたのだ。然るに将門は公の手の廻るのを待たずに、良兼に復讐戦を試みたのか、或は良兼は常陸国から正式に解文を出して弁解したため追捕の事が已んだのを見て、勘忍ならずと常陸へ押寄せたのであつたらう。其時良兼が応じ戦は無いで筑波山へ籠つたのは、丁度将門が前に良兼に襲はれた時応戦し無かつたやうなもので、公辺に対して自分を理に敵を非に置かうとしたのであつた。将門は腹立紛れに乱暴して帰つたから、今度は常陸方から解文を上して将門を訴へた。で、将門の方へ官符が来て召問はるべきことになつたのだ。事情が紛糾して分らないから、官使純行等三人は其時東国へ下向したのである。将門は弁解した、上京はしなかつた。そこへ又後から貞盛は将門の横暴を直訴して頂戴した将門追捕の官符を持つて帰つて来たのである。これで極めて鮮やかに前後の事情は分る。貞盛は将門追捕の符を持つて帰つたが、将門の方から云へば貞盛は良兼追捕の符の下つた時、良兼同罪であつて同じく配符の廻つて居た者だから、追捕を逃れ上京した時、公に於て取押へて糺問さるべき者であるにかゝはらず、其者に取つて理屈の好い将門追捕の符を下さるゝとは怪しからぬ矯飾であると突撥ねてゐるのである。こゝまでは将門の言ふところに点頭の出来る情状と理路とがある。玄明の事に就ては少し無理があり、信じ難い情状がある。玄明を従兵といふのが奇異だ。行方河内両郡の食糧を奪つたものを執へんとするものを、寃枉を好むとは云ひ難い。為憲貞盛合体して兵を動かしたといふのは、蓋し事実であらうが、要するに維幾と対談に出かけたところからは、将門のむしやくしや腹の決裂である。此書の末の方には憤怨恨悱と自暴の気味とがあるが、然し天位を何様しようの何のといふそんな気味は少しも無い。むしろ、乱暴はしましたが同情なすつても宜いではありませんか、あなたには御気の毒だが、男児として仕方が無いぢやありませんか、といふ調子で、将門が我武者一方で無いことを現はしてゐて愛す可きである。  将門は厭な浮世絵に描かれた如き我武者一方の男では無い。将門の弟の将平は将門よりも又やさしい。将門が新皇と立てられるのを諫めて、帝王の業は智慧力量の致すべきでは無い、蒼天もし与みせずんば智力また何をか為さん、と云つたとある。至言である。好人である。斯様いふ弟が有つては、日本ではだめだが国柄によつては将門も真実の天子となれたかも知れない。弓削道鏡の一類には玄賓僧都があり、清盛の子に重盛があり、将門の弟に将平の有つたのは何といふ面白い造物の脚色だらう。何様も戯曲には真の歴史は無いが、歴史には却つて好い戯曲がある。将門の家隷の伊和員経といふ者も、物静かに将門を諫めたといふ。然し将門は将平を迂誕だといひ、員経を心無き者だといつて容れなかつた由だが、火事もこゝまで燃えほこつては、救はんとするも焦頭爛頭あるのみだ。「とゞの詰りは真白な灰」になつて何も浮世の埒が明くのである。「上戸も死ねば下戸も死ぬ風邪」で、毒酒の美さに跡引上戸となつた将門も大酔淋漓で島広山に打倒れゝば、「番茶に笑んで世を軽う視る」といつた調子の洒落れた将平も何様なつたか分らない。四角な蟹、円い蟹、「生きて居る間のおの〳〵の形」を果敢なく浪の来ぬ間の沙に痕つけたまでだ。  将平員経のみではあるまい、群衆心理に摂収されない者は、或は口に出して諫め、或は心に秘めて非としたらうが、興世王や玄茂が事を用ゐて、除目が行はれた。将門の弟の将頼は下野守に、上野守に常羽御厩別当多治経明を、常陸守に藤原玄茂を、上総守に興世王を、安房守に文室好立を、相模守に平将文を、伊豆守に平将武を、下総守に平将為を、それ〴〵の受領が定められた。毒酒の宴は愈〻はづんで来た。下総の亭南、今の岡田の国生村あたりが都になる訳で、今の葛飾の柳橋か否か疑はしいが檥橋といふところを京の山崎に擬らへ、相馬の大井津、今の大井村を京の大津に比し、こゝに新都が阪東に出来ることになつたから、景気の好いことは夥しい。浮浪人や配流人、なま学者や落魄公卿、いろ〳〵の奴が大臣にされたり、参議にされたり、雑穀屋の主人が大納言金時などと納まりかへれば、掃除屋が右大弁汲安などと威張り出す、出入の大工が木工頭、お針の亭主が縫殿頭、山井庸仙老が典薬頭、売卜の岩洲友当が陰陽博士になるといふ騒ぎ、たゞ暦日博士だけにはなれる者が無かつたと、京童が云つたらしい珍談が残つてゐる。  上総安房は早くも将門に降つたらう。武蔵相模は新皇親征とあつて、馬蹄戞〻大軍南に向つて発した。武蔵も論無く、相模も論無く降伏したらしく別に抵抗をした者の談も残つて居ない。諸国が弱い者ばかりといふ訳ではあるまいが、一つには官の平生の処置に悦服して居なかつたといふ事情があつて、むしろ民庶は何様な新政が頭上に輝くかと思つたために、将門の方が勝つて見たら何様だらうぐらゐに心を持つてゐたのであらう。それで上野下野武蔵相模たちまちにして旧官は逐落され、新軍は勢を得たのかと想像される。相模よりさきへは行かなかつたらしいが、これは古の事で上野は碓氷、相模は箱根足柄が自然の境をなしてゐて、将門の方も先づそこらまで片づけて置けば一段落といふ訳だつたからだらう。相州秦野あたりに、将門が都しようかとしたといふ伝説の残つてゐるのも、将門軍がしばらくの間彷徨したり駐屯したりしてゐた為に生じたことであらう。燎原の勢、八ヶ国は瞬間にして馬蹄の下になつてしまつた。実際平安朝は表面は衣冠束帯華奢風流で文明くさかつたが、伊勢物語や源氏物語が裏面をあらはしてゐる通り、十二単衣でぞべら〳〵した女どもと、恋歌や遊芸に身の膏を燃して居た雲雀骨の弱公卿共との天下であつて、日本各時代の中でも余り宜しく無く、美なること冠玉の如くにして中空しきのみの世であり、やゝもすれば暗黒時代のやうに外面のみを見て評する人の多い鎌倉時代などよりも、中味は充実してゐない危い代であつたのは、将門ばかりでは無い純友などにも脆く西部を突崩されて居るのを見ても分る。元の忽必然が少し早く生れて、平安朝に来襲したならば、相模太郎になつて西天を睥睨してウムと堪へたものは公卿どもには無くつて、却つて相馬小次郎将門だつたかも知れはし無い。「荒壁に蔦のはじめや飾り縄」で、延喜式の出来た時は頼朝が頤で六十余州を指揮する種子がもう播かれてあつたとも云へるし、源氏物語を読んでは大江広元が生まれない遥に前に、気運の既に京畿に衰えてゐることを悟つた者が有つたかも知れないとも云へる。忠常の叛、前九年、後三年の乱は、何故に起つた。直接には直接の理由が有らうが、間接には粉面涅歯の公卿共がイソップ物語の屋根の上の羊みたやうにして居たからだ。奥州藤原家が何時の間にか、「だんまり虫が壁を透す」格で大きなものになつてゐたのも、何を語つてゐるかと云へば、「都のうつけ郭公待つ」其間におとなしくどし〳〵と鋤鍬を動かして居たからだ。天下枢機の地に立つ者が平安朝ほど惰弱苟安で下らない事をしてゐたことは無い位だ。だから将門が火の手をあげると、八箇国はべた〳〵となつて、京では七斛余の芥子を調伏祈祷の護摩に焚いて、将門の頓死屯滅を祈らせたと云伝へられて居る。八箇国を一月ばかりに切従へられて、七斛の芥子を一七日に焚いたなぞは、帯紐の緩み加減も随分太甚しい。  相模から帰つた将門は、天慶三年の正月中旬、敵の残党が潜んでゐる虞のある常陸へと出馬して鎮圧に力めた。丁度都では此時参議右衛門督藤原忠文を征東大将軍として、東征せしむることになつた。忠文は当時唯一の将材だつたので、後に純友征伐にも此人が挙げられて居る。忠文は命を受けた時、方に食事をしてゐたが、命を聞くと即時に箸を投じて起つて、節刀を受くるに及んで家に帰らずに発したといふ。生ぬるい人のみ多かつた当時には立派な人だつた。しかし戦ふに及ばぬ間に将門が亡びたので賞に及ばなかつたのを恨んで、拳を握つて爪が手の甲にとほり、怨言を発して小野宮大臣を詛つたといふところなどは余り小さい。将門が常陸へ入ると那珂久慈両郡の藤原氏どもは御馳走をして、へいこらへいこらをきめた。そこで貞盛為憲等の在処を申せと責めたが、貞盛為憲等は此等の藤原氏どもに捕へられるほど間抜でも弱虫でも無かつた。其中将門軍の多治経明等の手で、貞盛の妻と源扶の妻を吉田郡の蒜間江で捕へた。蒜間江は今の茨城郡の涸沼である。  前には将門の妻が執へられ、今は貞盛の妻が執へられた。時計の針は十二時を指したかと思ふと六時を指すのだ。女等は衣類まで剥取られて、みじめな態になつたが、この事を聞いた将門は良兼とは異つた性格をあらはした。流浪の女人を本属にかへすは法式の恒例であると、相馬小次郎は法律に通じ、思ひやりに富んで居た。衣一襲を与へて放ち還らしめ、且つ一首の歌を詠じた。よそにても風のたよりに我ぞ問ふ枝離れたる花のやどりを、といふのである。貞盛の妻は恩を喜んで、よそにても花の匂の散り来れば吾が身わびしとおもほえぬかな、と返歌した。歌を詠みかけられて返しをせぬと、七生唖にでもなるやうに思つてゐたらしい当時の人のことで此の返しはあつたのだらう。此歌此事を引掛けて、源護の家と将門との争闘の因縁にでもこじつけると、古い浄瑠璃作者が喉を鳴らしさうな材料になる。扶の妻も歌を詠んだ。流石に平安朝の匂のする談で、吹きすさぶ風の中にも春の日は花の匂のほのかなるかな、とでも云ひたい。清宮秀堅がこゝに心をとめて、「将門は凶暴といへども草賊と異なるものあり、良兼を放てる也、父祖の像を観て走れる也、貞盛扶の妻を辱かしめざる也」と云つて居るが、実に其の通りである。将門は時代が遠く事実が詳しく知れぬから、元亀天正あたりの人のやうに細かい想像をつけることは叶はぬが、何様も李自成やなんぞのやうなものでは無い。やはり日本人だから日本人だ。興世王や玄明を相手に大酒を飲んで、酔払つて管さへ巻かなかつたらば、氏は異ふが鎮西八郎為朝のやうな人と後の者から愛慕されただらうと思はれる。  戯曲はこゝにまた一場ある。貞盛の妻は放されて何様したらう。およそ情のある男女の間といふものは、不思議に離れてもまた合ふもので、虫が知らせるといふものか何うか分らぬが、「慮つて而して知るにあらず、感じて而して然るなり」で、動物でも何でも牝牡雌雄が引分けられてもいつか互に尋ねあてゝ一所になる。銀杏の樹の雄樹と雌樹とが、五里六里離れて居てもやはり実を結ぶ。漢の高祖の若い時、あちこちと逃惑つて山の中などに隠れて居ても、妻の呂氏がいつでも尋ねあてた。それは高祖の居るところに雲気が立つて居たからだといふが、いくら卜者の娘だつて、こけの烏のやうに雲ばかりを当にしたでは無からう。あれ程の真黒焦の焼餅やきな位だから、吾が夫のことでヒステリーのやうになると、忽ちサイコメトリー的、千里眼になつて、「吾が行へを寝ぬ夢に見る」で、あり〳〵と分つて後追駈けたものであらうかも知れぬ。貞盛の妻もこゝでは憂き艱難しても夫にめぐり遇ひたいところだ。やうやくめぐり遇つたとするとハッとばかりに取縋る、流石の常平太も女房の肩へ手をかけてホロリとするところだ。そこで女房が敵陣の模様を語る。柔らかいしつとりとした情合の中から、希望の火が燃え出して、扨は敵陣手薄なりとや、いで此機をはづさず討取りくれん、と勇気身に溢れて常平太貞盛が突立上る、チョン、チョ〳〵〳〵〳〵と幕が引けるところで、一寸おもしろい。が、何の書にもかういふところは出て居ない。  然し実際に貞盛は将門の兵の寡いことをば、何様して知つたか知り得たのである。将門精兵八千と伝へられてゐるが、此時は諸国へ兵を分けて出したので、旗本は甚だ手薄だつた。貞盛はかねて糸を引き謀を通じあつてゐた秀郷と、四千余人を率ゐて猛然と起つた。二月一日矢合せになつた。将門の兵は千人に満たなかつたが、副将軍春茂(春茂は玄茂か)陣頭経明遂高、いづれも剛勇を以て誇つてゐる者どもで、秀郷等を見ると将門にも告げずに、それ駈散らせと打つて蒐つた。秀郷、貞盛、為憲は兵を三手に分つて巧みに包囲した。玄明等大敗して、下野下総界より退いた。勝に乗じて秀郷の兵は未申ばかりに川口村に襲ひかゝつた。川口村は水口村の誤で下総の岡田郡である。将門はこゝで自から奮戦したが、官と賊との名は異なり、多と寡との勢は競は無いで退いた。秀郷貞盛は息をつかせず攻め立てた。勝てば助勢は出て来る、負ければ怯気はつく。将門の軍は日に衰へた。秀郷の兵は下総の堺、即ち今の境町まで十三日には取詰めた。敵を客戦の地に置いて疲れさせ、吾が兵の他から帰り来るを待たうと、将門は見兵四百を率ゐて、例の飯沼のほとり、地勢の錯綜したところに隠れた。秀郷等は偽宮を焼立てゝ敵の威を削り気を挫いた。十四日将門は猨島郡の北山に遁れて、疾く吾が軍来れと待ち望んで居た。大軍が帰つて来ては堪らぬから、秀郷貞盛は必死に戦つた。此の日南風急暴に吹いて、両軍共に楯をつくことも出来ず、皆ばら〳〵と吹倒されてしまつた。人〻面〻相望むやうになつた。修羅心は互に頂上に達した。牙を咬み眼を瞋らして、鎬を削り鍔を割つて争つた。こゝで勝たずに日がたてば、秀郷等は却つて危ふくなるのであるから、死身になつて堪へ堪へたが、風は猛烈で眼もあけられなかつたため、秀郷の軍は終に利を失つた。戦の潮合を心得た将門は、轡を聯ね馬を飛ばして突撃した。下野勢は散〻に駈散らされて遁迷ひ、余るところは屈竟の者のみの三百余人となつた。此時天意かいざ知らず、二月の南風であつたから風は変じて、急に北へとまはつた。今度は下野軍が風の利を得た。死生勝負此の一転瞬の間ぞ、と秀郷貞盛は大童になつて闘つた。将門も馬を乗走らせて進み戦つたが、たま〳〵どつと吹く風に馬が駭いて立つた途端、猛風を負つて飛んで来た箭は、はつたとばかりに将門の右の額に立つた。憐れむべし剛勇みづから恃める相馬小次郎将門も、こゝに至つて時節到来して、一期三十八歳、一燈忽ち滅えて五彩皆空しといふことになつた。  本幹已に倒れて、枝葉全からず、将門の弟の将頼と藤原玄茂とは其歳相模国で斬られ、興世王は上総へ行つて居たが左中弁将末に殺され、遂高玄明は常陸で殺されてしまひ、弟将武は甲斐の山中で殺された。  将門の女で地蔵尼といふのは、地蔵菩薩を篤信したと、元亨釈書に見えてゐる。六道能化の主を頼みて、父の苦患を助け、身の悲哀を忘れ、要因によつて、却つて勝道を成さんとしたのであると考へれば、まことに哀れの人である。信田の二郎将国といふのは将門の子であると伝へられて、系図にも見えてゐるが、此の人の事が伝説的になつたのを足利期に語りものにしたのであらうか、まことにあはれな「信田」といふものがある。しかし直接に将門の子とはして無い、たゞ相馬殿の後としてある。そして二郎とは無くて小太郎とあるが、まことに古樸の味のあるもので、想ふに足利末期から徳川初期までの多くの人〻の涙をしぼつたものであらう。信田の三郎先生義広も常陸の信田に縁のある人ではあるが、それは又おのづから別で、将門の後の信田との関係はない。義広は源氏で、頼朝の伯父である。  将門には余程京都でも驚きおびえたものと見える。将門死して二十一年の村上天皇天徳四年に、右大将藤原朝臣が奏して云はく、近日人〻故平将門の男の京に入ることを曰ふと。そこで右衛門督朝忠に勅して、検非違使をして捜し求めしめ、又延光をして満仲、義忠、春実等をして同じく伺ひ求めしむといふことが、扶桑略記の巻二十六に出てゐる。馬鹿〻〻しいことだが、此の様な事もあつたかと思ふと、何程都の人〻が将門に魘えたかといふことが窺知られる。菅公に魘え、将門に魘え、天神、明神は沢山に世に祀られてゐる。此中に考ふべきことが有るのではあるまいか。こんな事は余談だ、余り言はずとも「春は紺より水浅黄よし」だ。 (大正九年四月) 底本:「筑摩現代文学大系3 幸田露伴 樋口一葉集」筑摩書房    1978(昭和53)年1月15日初版第1刷発行    1984(昭和59)年10月1日初版第3刷発行 入力:志田火路司 校正:林 幸雄 2002年1月25日公開 2009年9月17日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。