人々に答ふ 正岡子規 Guide 扉 本文 目 次 人々に答ふ 一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 十一 十二 十三 一  歌の事につきては諸君より種々御注意御忠告を辱うし御厚意奉謝候。なほまた或諸君よりは御嘲笑御罵詈を辱うし誠に冥加至極に奉存候。早速御礼かたがた御挨拶可申上之処、病気にかかり頃日来机に離れて横臥致しをり候ひしため延引致候。幾百年の間常に腐敗したる和歌の上にも、特に腐敗の甚しき時代あるが如く、われらの如き常病人も特に病気に罹る事有之閉口之外無之候。  何より御答へ可申かと惑ひ候へども思ひ出すままに一つづつ可申述候。三月十一日紙上に番外百中十首(松の山人投)として掲げある歌を、われらが変名にて掲げ候やの御尋ね有之候へども、右は尽く『柿園詠草』中にある歌にてわれらの歌とは全く異りをり候。『柿園詠草』中の歌を何人が投じて、如何にして紙上に載せられたるかは固よりわれらの知る所には無之候。さてまたこれらの歌がわれらの歌と相似たるやに評する人も有之候由承り候に付、彼歌に対する愚見を述べてそのしからざるを明かに致したく存候。 朝風に若菜売る児の声すなり朱雀の柳眉いそぐらむ  この歌は十首中にては第一と存候。全体面白く候へども「眉いそぐらむ」の語巧に失する者と存候。眉いそぐといふ事、昔よりいふか否かは知らねども、何だか変な言葉なるが上に、此処にこの擬人的形容を用うるはよろしからず。あるいは若菜売る児に対して、柳眉といひたる者にも候ふべけれど、さやうなシヤレのない方がかへつて趣深く聞え申候。尋常に柳が緑になると申したく候。 暮れぬめり菫咲く野の薄月夜雲雀の声は中空にして  この歌拙く候。「暮れぬめり」とありて「薄月夜」とあるは甚しき撞著と相見え候。「中空にして」の止まりも甚だ心得がたく、あるいは「暮れぬめり」に返る意にやとも思はるれど、さりとては余り拙くや候べき。 行くも花かへるも花の中道を咲き散る限り行きかへり見む  かくの如き歌はあるいは俗受けよろしかるべくや、われらはただ厭味たらだらに感ずるのみに候。咲き散る限りとは何の意とも知らず、もし花の咲いたり散つたりする間といふ意にて長き時間を含む者とすれば八田の「うつせみの我世の限り見るべきは」といひし類にて少しも実情らしき処なし、また時間に非ずして花の中道の長さをいふものとすれば、言葉の巧を弄したるのみにて何らの趣味も無之候。しかしこの歌は全体に厭味あれば一句を論ずるに及ぶまじく候。 桑とると霞わけこし里の児がえびらにかかる夕ぐれの雨  この歌さしたる難もなけれどまた何の趣も無之候。蚕飼する時節は長閑に感ぜらるる者なるに、この歌前半の長閑なるに似ず、後半は長閑に感ぜられず、これがために趣味少きにやと存候。えびらといふは如何なる物か知らねども、この歌にては桑の葉を摘み入れる筐の類かと見ゆるが不審に存候。俊頼の歌に「山里のこやのえびらに漏る月の影にも繭の筋は見えけり」とあるえびらは、家の中にある器具かと見え候へど、それを桑の葉入れにも用ゐ候にや。識者の教を煩はしたく候。 棹ふれし筏は一瀬過ぎながらなほ影なびく山吹の花 「棹ふれし筏」といふ言葉続きも「一瀬過ぎながら」の言葉続きもいと拙く覚え候。「ながら」といひて「なほ」と受けたるもうるさく、また「なびく」の語も「ゆらぐ」「動く」などに更め候方山吹に適切かと存候。この歌巧ならんとして言葉づかひ無理に相成候。 山里は卯の花垣のひまをあらみしのび音もらす時鳥かな  この歌尋常めきたれどもわれらは厭味を感じ候。この歌の作意は三、四の句にあるべく、その三、四が厭味を感ずる所に有之候。垣の隙があらいとて忍び音を漏らす訳は少しも無之、それを両者相関係するが如く言ひなすは言葉のシヤレと相見え申候。言葉のシヤレが行はるる処にはいつでも趣味乏しく候。(明治三十一年三月二十日) 二 蚊遣火の煙にとざす草の庵を人しも訪はば水鶏聞かせむ  この歌句法ととのはず、四、五の句に至りて調子抜けが致し候。四の句「人も訪へかし」などいふが如き言葉つきに改めなば、少しは続きよかるべくやと存候。さるにても「水鶏聞かせむ」の句の俗なるはまた一段の事に候。  水鶏聞くべしとか何とか改め候はんには、少し俗気少かるべく候へども、さりとて善き歌にも成り不申候。 一むらの杉の梢に山見えて月よりひびく滝の音かな  上三句は尋常の景尋常の語なれども、印象明瞭なる処かへつて他の巧を弄し詞をひねくりたる歌にまさりをり候。惜いかな四、五の句上に続き不申候。上三句の景より言へば山は杉林より隔りたる者の如く相見え、さまで近きとは覚えぬに、滝の音とあるを見れば極めて近き山ならざるべからず、ここにおいて前後の撞著を来し申候。「月よりひびく」などいふ語この作者の得意の所なるべけれど多少の厭味は免れず候。この歌の作意は滝は見えずして音ばかり聞ゆる故、月中に響あるが如くいひなしたる者なるべけれど、それがかへつて厭味を生ずる種に相成候。もしあからさまに見ゆる滝の下に立ちて見あげたる時、滝の上に月ありとせんか、この場合に「月より響く」などやうの形容を用うるは厭味少かるべく候。 五百重山霧深からし菅笠のしづくも落つる有明の月  この歌の意明ならず、第二句想像の語とすれば、旅人などの笠の雫を見て山は霧深からんといへるにや、さるにても言葉少し足らぬやうに存候。旅人の菅笠とでも言はざれば三句突然に出て面白からず候。「雫も落つる」の「も」の字も意味をなさず、余儀なき「も」とや申し候べき。(十首中この歌一首は『柿園詠草』中になきやうに覚え候、如何の訳にや) 雲かかるわたのみなかにあら汐を雨とふらせて鯨浮べり 「雨とふらせて」の句この歌の骨子にしてしかもこの歌の瑕瑾と存候。箇様な場合には「ふらせる」などいふやうな「せしむる」的の語を用うれば勢を損じて不面白候。むしろ「鯨の噴いた汐が雨となつた」と言ひはなす方よろしかるべく候。この人往々この種の句を挿んで雄壮なる歌をだいなしにする癖有之候。「笠置山あすの時雨をさきだてて乱るる雲に嵐吹くなり」の如きも四、五の句極めて面白しと思ふに二、三の句異様の言葉づかひなるがため興味索然と致候。かつ鯨の歌の第一句「雲かかる」の五字極めて拙く候。かく言ひては「雨とふらせて」と照応するためにこの蛇足の語を加へたる痕跡歴々として余り見つともなく候。かつ「海の真中に雲がかかる」といふことは聞えぬ言葉つづきと存候。渺々たる空間、渺々たる海上にある雲を「かかる」とはいふべからず候。縦しそれも許して置いた処で「雲かかる」といへば一片の雲と見ゆる処いと可笑しく候。試みにこの歌の景を想像可被成候。海は漫々として広く空は一面に晴れわたりたる処に、海の真中に鯨汐を噴けば、その鯨の真上ばかりに一塊の雲ある処を描き出だして、それが天然の景と見え可申候や。われらには人間がこしらへた雲とよりは相見え不申候。いつそ雲はない方がよろしく、もしくは雲の掩ひひろごりたる処を詠むがよろしく候。(三月二十二日) 三  前に挙げたる十首の歌を意味はそのままにて、言葉つきを全く改めて投書したる人(下総凡調子)有之候。この人の直し方は、極めて尋常に直したる者なれば、われらが非難したる言葉つづきの無理と厭味とを免れたれど、多くは平凡に流れ申候。その二、三を挙げんに おもしろく雲雀さひづる中空に月影見えて日は暮れにけり  言葉つづきは安らかになりたれど善き歌ともならず。 隅田川堤の桜咲き匂ふ花の下道行きかへり見む  到底厭味を脱却する能はずと相見え申候。 山里の卯の花垣の夕月夜しのび音もらす時鳥かな  平凡になりたれどかへつて原作の細工を施したるにまされりと存候。 五百重山朝霧深み旅人の小笠の雫間なくちるなり 「旅人の」の五字を加へたるは賛成に候。結末なほ飽き足らぬ心地致候。 青海原沖さけ見ればあらしほを空にいぶきて鯨浮べり 「雨とふらせて」「雲かかる」の二句を除きたるは至極賛成なるが、これも結末に今一歩と思ふ所なきにもあらず候。さはいへどこの歌一番の出来かと存候。  或人(八王子三田村玄竜子)曰く強き歌には強き調を用ゐ、弱き歌には弱き調を用うといふもさる事ながら、『古今集』の如く同一の調にて千態万状を詠みたるもまた面白しと存候。云々。  答へて曰く、御説一理なきにもあらず、されどそは『古今集』の如き文字の巧を弄したる俗調の上にはいふべからずと存候。歌にていはば万葉調、俳句にていはば曠野調、詩にていはば『詩経』とか何とかいふ、極古き調の上において始めてしか申すべきにやと存候。極めて古雅なる調を以て詠む時は、雄壮なる事もさほどに雄壮に聞えず、優美なる事もさほどに優美に聞えず候へども、その代り凡ての物を古雅化して些の俗気を帯びざる処に一種の面白みあり、故に万葉調を以て凡百の物事を詠まんとならば大体において賛成致候。さりながら古今調を以て詠まんとならば大不賛成に候。殊に『古今集』を目して千態万状を詠みある者かの如くいはるるは心得ず候。われらの目より見れば『古今集』は一態一状を詠みたる者かと怪しまるるほどに候。  或人(同)曰く蕪村派の俳句集と盛唐の詩集とを並べたるは不倫と存候。云々。  答へて曰く、この不倫とは唐詩を以て勝れりとなす者と存候。さて如何にして不倫とは言はるるやらん。もし詩と俳句とは詩形に長短あり、従つて規模に大小あり、故に比すべからずとならば異論も無之候へども、技倆の上に大差ありとの事ならば御同意難致候。李杜王孟の如き詩人を、蕪村時代の日本に生れて俳句を作らしめたりとも、彼らが蕪村より遥に立ちまさりたる技倆ありとも信じがたく、蕪村をして盛唐に生れしめなば、一屁ツ鋒詩人にて終りたらんとも信じがたく候。乍失敬俳句を十分に研究せずして、蕪村の句も月並宗匠の句も大同小異位に思はるるには無之候哉。歌よみが歌を天下第一の如く思ふと同じく、詩人が詩を天下第一の如く思ふも珍しき事にはあらず。なるべく公平の御論を願はしく候。或人自ら屑屋と名のり「屑籠の中よりふと竹の里人の歌論を見つけ出してこれを読むにイヤハヤ御高論……」などといふやうな調子にて、長々とひやかされたる処、誠にひやかしに妙を得たる人もある者かなと感服致し候ひしに、何がさて最後に歌論中のただ一箇処に対する長々しき攻撃有之、しかも屁の如き攻撃に勢も何も抜け申候。その要領をいへば「躬恒の心あてに折らばや折らむの歌を、竹の里人は誤解せり。竹の里人は知るまいが、白菊に霜置けば赤くなるものぞ。躬恒はその赤くなりていづれを白菊とも分ちかねたる所を詠めるなり。物知らぬ奴が歌など解するはかたはらいたし」などといふにあり、誠に以て驚き入りたる解釈に候。われら庭前の白菊も年々赤くなり、歌にも白菊の紫にうつろふよし詠めれば白菊は赤くなるものと兼ねて承知致しをり候処、屑屋先生の今更高慢に説明せらるるを見れば、遼東に白頭の豕を珍しがりたる如く、屑屋先生は白菊を余り御覧なされぬ者と相見え候。さてまた「置きまどはせる」といふ語が色の変つた意に取れ可申哉。またその色の変つた菊を、心あてに折らばやなどと仰山に出掛けて躬恒が苦心して折らんとしたるにや、笑止とも何とも申様がなく候。如何に理窟好の躬恒でも斯様な説を聞いたらさぞかし困り可申候。屑屋が躬恒の弁護などするは贔屓の引倒しにや候べき。(三月二十四日) 四  千葉稲城子に答へて曰く、撞著と誤解の事なほ誤解あるが如し。われらが撞著といひしは前に「客観的景色に重きを措き」とありて後に「客観的にのみ」とありしをいふなり。即ち「重きを措き」は「のみ」と断言したる後の言と意味同じからざるをいふ。 「国歌さへ知らぬ文学者」とは暗にわれらを指したる者か、われら実に国歌を知らず、慚愧に堪へず。されどわれらをして国歌を知らしめざる者、半ばわれらの罪にして半ば国歌の罪なりと信ず。何となればわれら国歌を研究せんとして歌集を繙きしことしばしばなるも、何時も四、五枚位読みては最早眠気さして読み得ぬまでに彼らはつまらぬなり。凡そ文学的の書は読みはじむれば知らず覚えず読み進むものなるに、独り歌なる者に至りては義務的に読まんとしてさへ、容易に読みがたき者、その趣味少きと変化なきとによらずんばあらず。いはんや国歌を知らぬ者われらのみにあらず、いはゆる歌よみなる者も多くは国歌を知らずと思はる。彼らにしてもし国歌を知る者ならば、国歌の陳腐を感ぜざる訳なければなり。彼らは三代集と近世歌人中の一、二の家集位を読みて、学者と心得をると見えたり。歌よみに学問させたくは思へども、歌以外の学問や外国の文学抔を勧めたとて効力もあるまじければ、せめては日本の歌集だけ通読してもらひたき者なり。われらの如く頭から歌を陳腐に思ふ者は、幾冊読みてもますます陳腐と頭痛を感ずるのみにて、何の結果もなけれど、彼陳腐な歌を作りて自ら喜ぶ歌よみをして、『古今集』以下の勅撰集を始め、代々の歌集をつづけさまに読ましめば、まさかに陳腐を感ぜざるを得ざるべし。  理窟と感情との密に相関係するは前にもいへり、今更繰り返すを用ゐず。ただ「歌にあらず」といふ事につきて一言せん。固より歌と歌ならざる者との境界は画然と分れたる者に非ざれば、論理的の厳格なる意味を以て「これは歌なり」「これは歌にあらず」と断定するは、歌非歌中間の歌にありては最も難し。殊に普通に歌を評する場合にありては「歌にあらず」の語を誇張的に用うること多し。即ち悪歌を指して爾かいふなり。なほ悪人を指して「人でなし」などといふが如し。故にこの両者を区別するを要す。またわれらが理窟は歌にあらずといふも大体の論にして、一字一語の理窟めきたる者ありとてそれを直ちに「歌にあらず」(厳格なる意味の)といふにあらず。もし厳格にいはば毫も理窟なき者は歌なり、全く理窟ばかりなる者は歌にあらずと断言すべし。されどその中間の者にありては、何処までを歌とし、何処よりを歌とせずと、その限界を議論的に説明するに由なし。実地に或製作をとらへて感情にてこれを判断するあるのみ。試みにこの間の事を言ひ得るだけ言はば、一分の理窟あれば一分だけ歌ならざる方に近づき、二分の理窟あれば二分だけ歌ならざる方に近づくとでもいはんのみ。しかしそれすら極端に推論せられては過誤を生ずべし。例へば一分の理窟ある製作は、些の理窟なき製作に比して、一分だけ劣れりなどと推論せらるるが如し。大体においてはこの推論に誤なけれども、実地に当りて見れば必ずや多少の除外例を生ぜん。極簡単の理窟を含む歌にて善しと思ふ者あり、些の理窟を含まざる歌にて悪しと思ふ者あるは事実なればなり。もし理窟といふ語を広き意味に解すれば解するほどこの除外例は多くなる道理なり。(理窟の意義に広狭ある事は「あきまろに答ふ」る文中にいへり)「我身一つの秋にはあらねど」の歌下二句には理窟を含めり。されどこの歌を以て直に「歌にあらず」(厳格なる意味の)とはなさず。但この歌が幾分か歌ならざる方に近づきをるは論を竢たず。  われらのいはゆる理窟に、理窟なりや否やの疑ありとの事なれども、理窟なりや否やは知識上の事なれば疑問となるまでの価値なし。(文学として許すべき理窟なりや否やこそ常に疑問となれ)しかれどもわれらの用うる「理窟」なる語が適当なりとか不適当なりとかの疑はあるべし。それならば文字は如何様に変へてもよろし。ただ語を以て意を害する莫れ。(三月二十九日) 五  文学の標準といふ事につきての論要領を得ず。「科学的定義を完全し」云々の語あれども、文学の標準に必ずしも科学的定義を附するに及ばず。また完全なる標準とかいふ語あれども、完全なる標準と不完全なる標準とは何に因つて区別するか。子は文学の標準なる語を全く誤解せり。また「英仏独の文学者すらも」云々の語あるは日本贔屓の人の言葉とも覚えず。子は英仏独の学者が為し得ざりし事を日本人は為し得ずとするが如し。われら敢て自ら矜るに非ざれどもそれほどまでに西人を崇拝しをらず、それほどまでに日本人を軽蔑しをらず。誤解する莫れ、われらは子の如き西人崇拝にあらず。  文学の標準とわれらの言ひしは何もむづかしき事にあらず。詩文を見、絵画彫刻を見て美なり美ならずと評するは、その評者の胸中に「文学美術の標準」あり、それに因りて評するなり。われらの言ひし文学の標準といふ者これのみ。即ち英仏独の文学者にもそれぞれの標準ありしなるべく、支那の文学者にもまたそれぞれの標準ありしなるべし。子にも標準あるべし。われらにも標準あるなり。ただ古今東西に通ずる標準と言ひしを以て誤解を来たせるが如し。文学の標準といへば古今東西に通ずる事は言はでも善かりしなり。既に標準といふ、古の歌を評すると今の歌を評するとによりて相異なるべくもあらず、東洋の歌を評すると西洋の歌を評するとによりて相異なるべくもあらず。古今東西に通ずるとはこの事なり。千人万人の標準が一定せりなどといふにあらず。  西洋や支那の「文学」といふ語の定義などを並べたるは全く無用に属す。何となれば古人のいはゆる文、文学なる者はわれらのいはゆる文学とその程度区域において相違ある者多きのみならず、全く意味を異にする者さへ少からず。支那にて文を道の意に用うるが如きこれなり。その根底において意味の異なる文の定義などを掲げて、駁撃せんとするは見当違ひたるを免れず。われらのいはゆる文学は理窟の外に立つ者にて道を載する者などに非ざるなり。われらのいはゆる文学はわれらがしばしば説明するが如きをいふなり。もしこれも文学といふ語が当らぬとならば美文となり言ふべし。字の定義などを説くは枝葉に渉るの嫌あればここに説かず。  文学は実用と娯楽とを兼ねたりとの説固よりわれらの説と異なり。(実用の語は普通の解釈に従ふ)理学にして文学に属すべきものありといふ事ならば、子のいはゆる文学はわれらのいはゆる文学と異なる事いよいよ明かなり。実用即ち教訓を垂るるといふに至りて益〻筋路の異なるを見る。普通の場合にては教訓的の者は文学の範囲外にあり。されどかかる者をも文学といふとならば子の勝手なり。他人これを如何ともする能はず。ただわれらのいふ文学と性質を異にすといふことを明言し置くに止めん。 「優艶天地を撼かす」といふ語少と変な語なれども、その意を察するに優美なる事をいふならん。支那の語にて優美なる詩が天地を撼かすとはいふまじと思へど、それも言葉咎めに類すれば言はず。ただ特に優とか艶とかいふ字をここに出だしたるは、かりそめの思ひつきなるべきも、和歌の弊風を自ら現したる者なり。歌よみは歌を優美に詠めよといふ、甚だしきは優美ならざるは歌にあらずとまでいふ者もあり。これ歌の腐敗したる一原因なり。われらをして言はしめば歌を詠むには優美にも詠め、雄壮にも詠め、古雅にも詠め、奇警にも詠め、荘重にも詠め、軽快にも詠めといはんとす。ここに用ゐし語は深き意味なしとするも、歌が一般に優とか艶とかいふことを離るる能はざりしは事実なり。 「国歌の人を鼓舞して忠誠を貫かしめ人を劇奨して孝貞を竭くさしめ」云々「豈翅に花を賞し月を愛で春霞に思を遣り風鳥に心を傾くる」云々の数行、文章も変だが議論も変なり。和歌が人を鼓舞し云々したる事もたまにはありしかも知らず、されどそは文学に多くあることにあらず。まして和歌の如く無気力なる者においてありさうにもなき事なり。「無味の感念」などいふ語奇妙な語にしてちよつと解しかぬれど、何だか花月を愛するを誹りたる者の如し。われらは花月を賞する上には趣味多し、教訓的の事には趣味少しといふ説なればとにかく大反対なり。(四月一日) 六 「国歌は国歌として独立し」などとは訳の分らぬ言葉なり。「俳句は俳句として独立し」ともいふべきにあらずや。独立とは他国文学の影響を受けぬといふことか知らねど、和歌に漢語を用うるは前にも言へるが如し。思想の上にも多少漢学仏教の影響を受けたるは事実なり。それでもなほ日本固有の処があるとの意味かも知れねど、その固有の処が極めて価値なき者ならば、なかなかにはづかしくて独立などといへた義理に非ざるべし。維新前後の歌などに残つてゐる日本固有の部分は、その価値なき者ならんと思ふなり。 「文人読者をして新思想を抱かしめ、知らず識らず旧思想を嫌悪否定するに至らしむるの用意なかるべからず」とは手段の緩急をいへるなり。われらは必ずしも「知らず識らず」的の緩手段をのみ取らんとは思はず。知りて改むる人もあるべしと信ずるを以てなり。  外国の文学思想を輸入すべしといふ事、外国の文学を剽窃せよといふにあらず。剽窃にあらずして輸入する事、歌人の腕次第なり。外国文学より得たる思想にても、日本歌人の脳中に入りて、それが歌となりて再び出づる時は、その思想は日本化せられをらざるべからず。既に日本化せられたる者は日本の思想なり。天真の桜花の、人造の薔薇のといふ譬喩はかたはらいたし。桜花をのみ無上にありがたがりて、外の花の美を知らぬ人とは、共に美術文学を語りがたし。  或人(秋田県樺園子)曰く、万葉の歌は十中八、九まで世道人心に関係あれば善し。古今以後の歌は徒に月を賞し花を玩ぶ。故に取らず。云々。  答へて曰く、かくの如き事は前にも度々言ひたれば、今更繰り返すもと思へどなほ少しいふべし。歌は世道人心に関係ある故善きにあらず。世道人心に関する歌にて善きもあり悪きもあり。歌は花月を弄びたるがために悪きにあらず。花月を弄びたる歌にて善きもあり悪きもあり。万葉の中には「田子の浦ゆうちいでて見れば真白にぞ不尽の高嶺に雪はふりける」「わかの浦に汐満ちくれば滷をなみ蘆辺をさしてたづ鳴きわたる」などといふ歌ありて、人も名歌とし、われらも爾か思へり。されどこれらは世道人心に何らの関係もなきなり。善を勧め悪を懲らし、人を教へ人を導くは道歌に如く者あるまじ。されど道歌なる者は総じてつまらぬ者なり。  また『万葉集』を評して「歌は国家治教の道なるにより、当時の人は思のままを述べたる者なり」などといへるは一文章の内既に撞著あり。国家治教とかを目的として歌詠まんには、思のままには詠まれぬ訳なり。思のままに歌詠みたらんには、国家治教などいへる事に関係なき歌も出来る訳なり。実にや万葉時代の人は、思のままを詠みたれば、国家治教などとは似てもつかぬ歌を多く詠みいでたるなり。  一般にいへば、歌は倫理的善悪の外に立つ処に妙味はあるなり。俗世間の渦巻く塵を雲の上で見てをる処に妙味はあるなり。倫理は徒に善を勧め徒に悪を懲らす傍にありて、歌は善とも悪ともいはず、ただかくの如く愉快にかくの如く平和なる場所あることを黙示するなり。世間は名利に趨り煩悩に苦しめられ、掌大の土地の上に気違ひの如く狂ひまはるを、歌人は独りこれを余所に見て花に遊び月に戯れ、無限の天地に清浄の空気を吸ひをるなり。彼俗人だちが歌を善悪の間、俗界の中に求むるはそもそも誤れり。(四月二日) 七 「もののふの八十氏川の網代木にいざよふ波のゆくへ知らずも」の歌を前に八田などの歌と共に挙げてかにかくと論ひしかば、八田などの歌と同じさまに誹りたりと思はれたるにや、これを難ぜらるる人多し。この歌を八田などの歌と同じ様に見たるにあらざることはその時の文にも記し置きたれど、言葉足らざれば意通ぜざりけん。故に今改めて彼歌を例に引きたる訳を申すべし。  世の歌よみに『万葉集』を崇拝する人あり、『古今集』を崇拝する人あり。いづれも一得一失はあるべけれど、大体の上よりはわれらは『万葉集』崇拝の方に賛成するなり。しかし『万葉集』崇拝家なる者は、多く万葉の区域(否、むしろ万葉中の或部分)を固守して一歩もその外に越えざるを以て、歌に入るべき事物材料極めて少く、ために吾人が感得する諸種の美を現すこと能はず。これわれらが万葉崇拝家に不満を抱く所なり。故に万葉崇拝家が常に手本として示す所の「もののふの」の歌を取りてことさらに云々したるなり。  美に簡単なる美あり、複雑なる美あり。世の文学者あるいは複雑のみを以て美となす。われら取らず。人あるいはわれらを以て複雑の美をのみ好むと為す。これ誤解なり。われらは簡単の美をも好み複雑の美をも好む。しかれども簡単の美を詠みたる歌は、複雑の美を詠みたる歌の如く、多く出来ざる事は数において明なり。例へばここに十箇の材料ありとせんに、これを一首に一箇づつ用ゐて歌を作りなば十首を得るのみなれど、二箇づつを用うれば九十首を得べく、三箇づつを用うれば九百首を得べく、四箇づつを用うれば九千首を得べき割合なり。かつ簡単なる美には趣味の少き物を詠むに不可なれども、複雑なる者には趣味の少き物も、趣味多き物と配合して用ゐ得る場合多し。また趣味のなき者とある者とを、ことさらに並べて反映せしむる事もあるべし。かたがた以て複雑的の者は多く出来得べく、簡単的の者は多く出来得べからざる理なり。しかるに和歌なる者は、千年来常に簡単の美をのみ現さんと務めたるを以て、終に重複また重複、陳腐また陳腐となりをはりたり。(これ歌の陳腐に流れたる一大原因なり) 「もののふの」の歌たけ高く詠まれたる由は前にもいへり。われらは人丸集中にこのたけ高き歌あるを喜ぶなり、『万葉集』中にこのたけ高き歌あるを喜ぶなり、日本文学の中にこのたけ高き歌あるを喜ぶなり。しかれどもこの歌は趣向の最簡単なる者なり、簡単に傾きたる和歌の中にても殊に簡単なる者なり。そのたけ高きもこの簡単なる処にある者なれど、さてこれを手本として歌を作らんには、さらでも陳腐なる歌のいよいよ陳腐ならん事を恐るるなり。この歌の如き調に倣ひたるは後世にありては恋歌に最も多し。 ほととぎす鳴くやさ月のあやめ草あやめも知らぬ恋もするかな 吉野川いは波高く行く水のはやくぞ人を思ひそめてし 春日野の雪間を分けて生ひ出づる草のはつかに見えし君かも の如きを初として、どの集にもこの集にも、かくの如き詠み方の恋歌は沢山に見ゆる故に、われらが見ると同じ歌を幾度も繰返して出したかと思ふばかりに陳腐とはなれり。しかしここに注意し置きたきは、われらが今論じつつあるは陳腐と否との論にして、雅俗の論にあらずといふ事なり。もし雅俗の点よりいはばこの種の歌は歌の中の雅なる者に属し、殊に恋歌の中の雅なる者に属す。恋歌には俗なる者、理窟ツぽき者多き中に、この種の恋歌は俗を脱し理窟を離る、右に挙げたる三首の如きはむしろ恋歌中の佳作なるべし。されど陳腐と否との点よりいはば(古今集時代即ち右に挙げたる歌の如きはいまだ陳腐ならず)後世に至るに従ひ、この種の歌ほど陳腐なるはあらず。われらの歌を評するには、第一に俗なる者は俗としてこれを斥け、第二に俗ならざる者の中にても、陳腐なる者は陳腐としてこれを斥く。ここに論ずる者陳腐の一点にあり。(名所としての「もののふの」の歌は次に論ぜん)(四月四日) 八 「もののふの八十氏川の網代木に」の歌に、名所の特色を現さずといふ事につきて、或人弁じて曰く、網代は宇治田上に限りたる者なれば特色なきに非ずと、網代が宇治の特色なることはわれらも知れり。されどこの歌は宇治川も網代木も、皆宇治川網代木その物を現はさんとの意にはあらで、単に下二句の感慨を引き出すための道具に過ぎざれば、名所の歌の手本にすべきに非ずといへるなり。言はば「山川のゐくひにかかる白波のゆくへも知らぬ」といひても、隅田川の百本杭といひても善き様なる処なれば、この歌を以て宇治川を詠じたる者とはなしがたし。  或人曰く、この歌の初三句意味なしとはいふべからず、「もののふの」とある故下二句に利くなりと。それはさる事もあるべし。さりながら「もののふの八十氏」といふ意味の語、初になくともなほこの歌は善く聞ゆるにやと覚ゆ。如何や。  或人曰く、名所の特色いちじるく現れをらずとも、その名所を過ぎて詠みたる歌ならば差支なかるべしと。この説には異論なし。ただ名所の特色なき歌を、名所の歌の手本として人に教ふるの不可なるをいへるなり。この「もののふの」の歌の如きは名所の歌としてはむしろ変例に属す。因みにいふ、名所といふ事については、古来歌よみは大なる謬見を抱きゐたり。昔の歌よみは、いはゆる名所なる者を一度も見ずしていい加減に歌に詠み込む者なれば、その名所の歌といふも多くはその地の特色を現したる者に非ず、ただ古歌に拠りてどこそこは千鳥の名所なり、どこそこは山吹の名所なりといふに過ぎず。さればその地に千鳥が啼かずとも、その地に山吹が咲かずとも、固よりそれらに頓著あるべくもあらず、甚しきはあるかなきか分らぬやうな名所を、平気に用ゐて澄ましてゐたるのんきさ加減は驚き入りたる次第といふべし。尤も主観的の歌の引合に名所を用うるは知らぬ処にても差支なかるべけれど、いやしくも客観的に詠む場合、即ち景色を詠む場合には、その地を知らざれば到底善き歌にはなるまじ。あるいは古歌古書に拠り、あるいは人伝に聞き、あるいは絵画写真にてその地の大概を知りたる後、これを歌に詠む事はなきにあらねど、それすら常にする事にあらず。それを京都の外一歩も踏み出さぬ公卿たちが、歌人は坐ながらに名所を知るなどと称して、名所の歌を詠むに至りては乱暴もまた極まれり。かくの如きは古今以後和歌が堂上にのみ行はれたる弊にして、和歌が堂上に盛なりし一事は、名所の歌のみならず、総ての歌を腐敗せしむる一原因とはなれり。されどこは公卿の罪にあらずしてむしろ在野の人の罪なり。在満らが和歌は堂上の専有物に非ずと大呼するまでは、在野の歌よみは皆堂上方に屈伏して自分を軽蔑しゐたりしなり。真淵・在満など出でてより後、和歌の権は公卿の手を離れたるも、その弊習はなほ全くこれを払ひ去る能はず。蒿蹊が『勝地吐懐篇』の凡例の下に「はた地理は知らでもよみうたにさはりなしといふは世の常なれど、たとへば或る名所集辛崎の条下に、朝妻読合とばかりかけるをみて、いとまぢかき所のやうに読みし人あり、辛崎は比叡の東阪本にて志賀郡、浅妻は筑間に隣りて坂田郡か、湖を中に隔てあはひ十里余やあらん」云々と書けるは、幾分か空想的名所歌の弊を看破したるには相違なけれど、さりとて名所を知るはこれらの誤謬なからしめんがためのみにはあらざるべし。誤謬なしとて特色なければ名所の歌にはあらじ。  附けていふ、前稿に歌の数を計算する処に錯列法を用ゐしはわれらの考へ誤りたるなり。改めて順列法に因りたる計算を記さんに、二箇づつを用ゐたる歌の数は四十五首、三箇づつを用うれば百五十首、四箇づつを用うれば三百七十五首となるなり。(四月七日) 九  或人曰く、子の歌は子の歌にてやるが善けれど一々古歌を打ち毀すは不服なり。云々。  答へて曰く、「旧思想を破壊し尽し」など前に言ひし故、あるいは誤解を来せしかも知らず。この旧思想といふは『古今集』以後今日までに行はるる理窟ツぽき思想、陳腐なる趣向などを指したるにて、総ての古歌の想を含みたるにあらず。われらが作る所の歌は固より歌の一部分と見てもよろしく、半部分と見てもよろしく、これらの外に万葉調の歌にて善き者も出来べく、古今調の歌にて善き者も出来べく、将た古人の調にもあらず、われらの調にもあらざる一種の新調にて善き歌も出来べく、決してわれらの歌に非ざれば歌に非ずなどといふ狭い量見は少しも持たず。しかし古人の歌でも名家の作でも理窟ツぽき思想、陳腐なる趣向はあくまで非難を試みるべし。  或人曰く、古来、歌といひ来りたるは子の作る所の如き者に非ず。されば子の作る所は一種特別の者なれば、歌といはずに、何とか外の名を用ゐては如何。云々。  答へて曰く、面白き事を承る者かな。われらは歌といふ語を拝借してもよろしからんとの考にて、歌と言ひ来りたるも、それが悪しとならば如何にも名づけ給はるべし。俳諧歌となりと、狂歌となりと、味噌となりと、糞となりと思ふやうに名づけられて苦しからず。われらは名称などにかかはらざるなり。されど言葉の遊びを主とする『古今集』の誹諧歌と、趣味を重んずるわれらの作とは、根底において同じからざるを忘れたまふな。地ぐちシヤレを喜ぶいはゆる狂歌と、地ぐちシヤレを擯斥するわれらの作と、立脚地を異にする事を忘れたまふな。それを承知の上でなら、何とでも名づけ給はるべし。  或人曰く、われわれが梅が香を鼻に感ずる上は、それを歌に詠まれぬ訳はあるまじ。云々。  答へて曰く、固より梅が香を歌に詠まれぬといふ訳は少しもなけれど、余り陳腐なる歌多き故、前に戯言を放ちたるなり。趣味あるやうに、陳腐ならぬやうに詠まば、梅が香も好題目なるべし。  或人曰く、漢語にても俗語にても、構はず用うる事になれば、無学なる者が、飛んでもない歌をうなり出すやうな弊害を生ぜざるか。  答へて曰く、弊害までを考へらるるはよほど深切な考なれども、われらはそんな事を考へずとも善かるべしと思ふ。弊害は固より起るべし。僅に一ヶ月を過ぎたる今日にてすら、飛んでもない見当違ひの歌は、いくらもわれらの几辺に飛び来るを見る。されど弊害は何処にもある事なり。従来の如く歌を詠むには、多少古語を学ばざるべからざる時代においては如何。歌よみは文法だの語格だの詠み方だのと、から威張に威張り、ひた拘りに拘りて、無趣味なる陳腐なる歌のみを作りしにあらずや。漢語や俗語を用ゐて、それで善き歌を作り得べしとの見込あらば、何処までもそれを用うることを勧むるが当然ならん。飛んでもない歌が出て来たらば、飛んでもない歌として斥けんのみ。  或人曰く、真淵を評して存外万葉の分らぬ、などとは片はら痛し。万葉を崇拝しても万葉を模せざる所が、真淵の真淵たる所以なり。云々。  答へて曰く、これも贔屓の引き倒しには非ざるか。真淵が万葉以外に一派を立てた(一派といひ得べきか否か知らず)のはえらしとするも、その一派なる者が万葉より劣りたる者ならんには、何の取得かあるべき。われらは真淵の歌は万葉に劣れりと信ず。むしろ万葉を模倣したらば最ちつと善き歌を得たらんかと思ふなり。故に彼は万葉の味を解せぬかと疑ひしなり。右は短歌の上なれど、長歌に至りては真淵は万葉を模したり。従つてその値打短歌の上にありとわれらは思ふ。難者の如きは真淵の長歌を以て短歌に劣れりとなすにやあらん。しからばわれらとは全く見様を異にするなり。(四月十二日) 十  或人(玄竜子)曰く、盛唐の詩集と蕪村派の句集とを並べいふことの不倫と申したるは、勝劣の心にはこれなく、につかはしからず類せずなむとの意にて、比較その当を得ざるなり。詩形とやらむ、規模とやらむ、技倆とやらむを云々するに非ず(略)おのれは晩唐諸家の文学に近きやと朧気ながら見受け申候。不倫と申すこと、要は蕪村一人の什を盛唐幾多の作家と比擬すること、及び晩唐の方にはかへつて比擬すべき作家あらむと思ひ、云々。  答へて曰く、われらは蕪村の句を以て盛唐諸家の什に似たりといひし事なし。「蕪村派の俳句集か盛唐の詩集か読ませたく」といひしのみ。かくいひし意は、歌の無趣味にして字句のたるみたる弊を救はんには、蕪村派の俳句集を読むが善かるべしとの考にて、特に蕪村派の俳句を挙げたるは、その最も趣味に富み字句しまりをる点において、他派の俳句に勝るを以てなり。その盛唐の詩集といひたるも、またその趣味に富み字句しまりをるがためなり。されど蕪村派の俳句の趣味と、盛唐の詩の趣味と同じといふにはあらず、蕪村派の俳句のしまり工合と、盛唐の詩のしまり工合と同じといふには非ざるなり。また蕪村の俳句はむしろ晩唐に類似を見るとの説も当らず。蕪村と似たる詩人を求むるに、殆ど似よりたる者を見ず。もし蕪村時代の俳句界に似たる者を求むれば、清初の詩界最もこれに近かるべし。諸家輩出せし処、詩想の精細になり婉麗になりながら、俗に堕ちざりし処などやや相似たり。されど蕪村を以て清初の誰に比すべきかと問はば、似たる者を見出だす能はず。  或人(稲城子)曰く、詩聖ホーマーの如きも単に美を愛せりとするか、美にして善なるものを愛せしにあらざるか。云々。  答へて曰く、美にして善なるも善し。美にして善悪の外に立ちたるも善し。われらはホーマーの詩を知らず、果してホーマーの詩は終始「善」を離れざるか。ホーマーの詩「善」を離れずとするも、われらはホーマーに倣はんと思はず、われらは善悪の外に美を認むればなり。われらはプラトーが真善美とやらを説いたからとて、それに従はざるべからずとは思はず。われらの美と信ずる所は、ホーマーもプラトーも如何ともする能はざるなり。  附けていふ。これらの事を厳密に論ぜんとならば、少くとも「善」の字の定義を定めざるべからず。もし天下の事物を尽く善悪の二に分つといふが如き論ならば格別、普通に用うるが如く、善悪は人間の行為を評するの語とせば、天然物は善悪の外に立つ者なり。天然物既に善悪の外にあらば、天然物を詠む詩歌にして、善悪以外に立つ者多きは当然の事なり。西洋の詩は東洋の詩に比して天然を詠ずる事少き故に、西洋人の論には、善と美とを一つにするやうの事をいふ者多きにやあらん。西洋人の論なりとて、一も二もなく崇拝するは固より愚者の事、論ずるに足らず。いはんや西洋とて尽く同一の論のみには非ざるをや。  或人(同)曰く、足下の理窟として排斥するものはこの善なるべし。しからば足下はこの倫理的の思想を棄てて、美の一方より歌をよむべしと強ふるものなり。吾人の感情をすてて、自然の美を求めよと教ふるものなり。しからば吾人歌を詠まんとして、先づ詠むべき趣向を考へざるべからず。云々。  答へて曰く、何らの誤解ぞ、何らの愚論ぞ。われらの理窟とする所は前にしばしばいへり、今更理窟と善とを一つにするとは呆れ返りたり。われらの美とする所は倫理的善悪にかかはらず、故に美は善悪の外にありても多く存在す。されど美にして善なる者なしといふに非ず。善なる者は美に非ずといふに非ず。何が故に善を排斥すといふか。少しにても善を排斥せんとしたることあらず。排斥せんとするは美ならざる者のみ。縦令「善」なりとも美ならずんば固よりこれを排斥するなり。「倫理的の思想を棄てて美の一方より歌をよむべし」とは半ばわれらの意を獲たり。但し「強ふる」にはあらず。美の感じなき者に歌を詠めとはいはぬなり。「吾人の感情を捨てて、自然の美を求めよと教ふ」とは訳の分らぬ言葉なり。自然の美を感ずるも感情なり。感情を捨てて自然の美を求むべきやうなし。あるいは「倫理的感情を捨てて」の意か。それにしても「自然の美を求めよ」といふはなほ誤れり。われらは自然の美をのみ取りて人事の美を捨つる者に非ざるなり。(四月十七日) 十一  或人(春園子)曰く、意匠即調と云ふ意味を解し得ざるが如き、云々。 (駿台小隠に代りて)答へて曰く、調といふ語は古来種々の意義に用ゐ来れりといへども、意匠といふ語と同じ意義に用ゐたる例はあるまじ。調はむしろ意匠に関係なき音調をいふが適当なり。その音調といふ事が、縦し意匠といくばくかの関係ありとするも、そは意匠の極小部分との関係なるべく、決して意匠即調といふを得ず。意匠は同じことにても、言ひやうによりて、調の高くなる事も卑くなる事もあるなり。  或人(同)曰く、文学豈独り階級あるを免れ得んや(略)画においては本画と浮世画、詩においては歌と俳句と、皆これ同じく社会に必要なる美術文学なり。しかしてまたその間各〻品格の差あるは免るべからざる事実ならずや(略)馬糞を詠み、焼芋を詠みたる俳句は縦令文学としては貴重すべき価値を有するともその品格は遂に高貴なる精神を養ふに適せざるが如し、云々。  答へて曰く、文学美術にも品格の差ありといふことは異論なし。品格の善きといふことは、普通に事物のゆるやかなる逼らざるやうな事をいふ。三十一字の歌の調は、十七字歌の調よりもゆるやかなる故、三十一字の方が品格善しといはば先づ可なり。馬糞を詠み、焼芋を詠みたる俳句云々といふを以て、俳句の品格を論ぜんとするは誤れり。馬糞焼芋を詠みたる俳句の下品なるは、俳句その物の下品なるにあらずして、馬糞焼芋の下品なるがためなり。三十一字歌を如何に上品とするも、馬糞焼芋を詠みたらば下品なること俳句に劣るまじ。また和歌は俳句に比して上品なりといふも、極大体の比較にして、実際一首一句の品格は、その意匠材料音調の上に係る者多し。歌の下品なる者と、俳句の上品なる者とを比較すれば、俳句は歌よりも上品なり。世人俳句を知らず、俗間伝ふる所の俗宗匠の句を以て俳句と為す、故に無下に下品なる者とのみ思ふなるべし。試に芭蕉時代蕪村時代の俳句を読め、必ずや思ひ半に過ぎん。また文学の階級といふ語は不穏当なり。上品下品の意ならば品格の高下などいふべし。文学の階級といはば品格のみを標準とすべきに非ず。(高貴なる精神を養ふに適せずとは解しがたし。思ふに筆到らざる者ならん)  或人(同)曰く、俳句は下級にあるだけ不自由も少く、範囲も広きは理の正にしかるべき所にして、感化力を社会の下層にまで及ぼさんとの必要は、品格を下したる所以ならずんばあらず。云々。  答へて曰く、これまた前と同じ誤謬に陥れり。されどその事は前に弁じ置きたれば言はず。感化力を社会の下層にまで及ぼさんとの必要は、品格を下したりとはいたく誤れり。俗宗匠が附点選抜を以て糊口となさんとするには、感化力を下等社会に及ぼすの必要あるかも知らず。芭蕉・蕪村らが俳句を作るに、種々の俗語漢語を用ゐ新材料を用ゐて自由に詠みたりとて、そは下等社会を感化せんとにもあらず、また自ら下等社会の人間なるが故に俳句を作るといふにもあらず。俳句を作るは俳句の美を感じたるが故なり。俗語漢語新材料を用うるは俗語漢語新材料の美を感じたるが故なり。下等社会と何らの関係もなきなり。歌よみは世間知らずにて、何でも和歌を本尊に立つる故僻見多し。和歌が堂上にのみ行はれたるが如きは、文学界の変象なれども、歌よみはそれを正当と心得たるにやあらん。和歌は長く上等社会にのみ行はれたるがために腐敗し、俳句はとかく下等社会に行はれやすかりしため腐敗せり。われらは和歌俳句の堂上に行はるるを望まず、和歌俳句の俗間にて作らるるを望まず。和歌俳句は長く文学者の間に作られん事を望むなり。(四月二十七日) 十二  或人(春園子)曰く、歌は俳句の長き物なり、俳句は歌の短き者なり、三十一文字なるが故に歌にして、十七文字なるが故に俳句なりと思ひ誤り、詩形即字句の外に各〻異なれる節あることを知らざるの輩、到底共に詩を談ずるに足らざるなり。云々。  答へて曰く、歌俳両者は、必要上その内容を異にしたりとの論の、妄なることは既にこれを言へり。されば歌は俳句の長き者、俳句は歌の短き者なりといふて何の故障も見ず、歌と俳句とはただ詩形を異にするのみ。しかれども論者の論の出づる所を思ふに、今までの歌と俳句とが上品下品の差別ありとするに基因せるならん。なるほど大体において歌は俳句よりも上品なるべけれど、論者の思へるが如くは歌も上品ならず、俳句も下品ならざるなり。論者は前に糞、焼芋といふ例を挙げたれど、焼芋の句は古俳書に見当らず、糞小便等の句は其角・蕪村などに一、二句あるのみ。決して糞の句などは俳句に多き者といふべからず。飜つて歌の上にこれら下品の材料ありやなしやと見るに、やはりこれあるを見る。しかも論者の崇拝する『万葉集』には糞、厠などを詠み込みたる歌あるにあらずや。上品下品をいはば、糞も厠も下品なるには相違なけれど、さりとて歌の可否を言はば、『万葉集』の中にもこの糞や厠の歌に劣りたる歌あげて数ふべからず、いはんや万葉以外の歌をや。そはとにかくに糞の歌も、厠の歌も、犢鼻褌の歌も、腋毛の歌も、瘡の歌も歌として書に載せられをる事実は争ふべきにあらず。歌必ずしも尽く上品ならんや。  或人(同)曰く、歌は歌ふといふことを旨として調ぶべき事、これまた吾人は万葉の歌に依て断ずる者なり云々。万葉の歌は言葉を練り、品格高く調ぶるを専らとし、これを第一義となし、思ひを述ぶるといふ方は、第二義となしたる者ぞ。これ歌ふ者なればなり。しかるに世くだつて、いつしかこの定義は破れにけり。故に後世の歌は専ら思を述ぶるといふ方に傾きて、言葉調などいふ事は思を述ぶる材料に過ぎざるやうに成りゆきて、歌は長く衰へにけり。云々。  答へて曰く、こは大間違なり。歌の歌ふべきことはいふまでもなし。古の歌を歌ひしのみならず、今の歌も歌ふなり。日本の歌を歌ふのみならず、支那西洋その他あらゆる国の歌は皆歌ふなり。歌ふ者なればこそ五言六言七言などそれぞれの調子もあれ、歌はぬ者ならば何しに字数平仄を合すべき。しかるに古の歌は歌ひて、今の歌は歌はずと思へるは間違なり。但歌ふ調子は古と今と異なるべし、同時代にても人によりて異なるべし。(調子の事は他日詳論すべし)また万葉は調または言葉を主とし、後世の歌は想を主とすといへるも間違なり。万葉の歌に想を主とせる者少からず。否万葉の歌は思ふままを詠みたるが多きなり。万葉の調の高きは、多少練磨の功なきに非ざるも、むしろ当時の人いまだ後世の如き卑き調を知らず、ただ思ふままに詠みたるからに、かへつて調の高きを致ししならん。『古今集』以後に至りては、詩想なる者漸く陳腐に帰し、ただ言葉の言ひかけ言ひまはしをのみつとめて無趣味の者を作れり。即ち言葉を練るといふ事は、万葉時代よりも多くして、想の方は万葉時代ほどに変化せざりしなり。論者の論あべこべなり。  或人(同)曰く、漢土においても詩と歌とは確然定義を異にし、詩は志を述べ歌は言を永うしといへるなり。しかるに何事ぞや、その志を述ぶるを定義とせる詩に訓して唐歌といひたるは、これやがて歌ふを旨とするなるわが国の歌を、誤りて、漢土の詩と同じく志を述ぶるものとなせるなり。云々。  答へて曰く、あまりの事に答へんすべも知らず。論者は支那の「詩」と支那の「歌」と如何なる差違ありとするか。日本の「ウタ」と支那の「歌」と如何なる類似ありとするか。支那の「詩」は志を述ぶるのみにて歌ふ者にあらずとするか。日本の「ウタ」は歌ふ者にして「心を種と」する者にあらずとするか。歌はぬ「詩」、心から出ぬ「ウタ」が世の中に成り立つべしとするか。明治の世に生れてかかる言をいはるるやうでは、チト頼もしからぬなり。今少し奮発して勉強せられては如何。「歌」の字の事はここに弁ずるまでもなし。宣長の『石上私淑言』を見るべし。  或人(同)曰く、歌ふを旨とすると、思を述ぶるを旨とするとは、詩旨においても詩形においても、自らその趣を異にすべきは当然の理義なるが故に、云々。  答へて曰く、前にもいふ通り、歌はぬ歌もなく、思を述べぬ歌もなければ、両者は全く一致して分つべき者にあらず。もし両者その一を欠けば歌とは言はぬなり。されば特に歌ふを主とすといふ歌もなく、思を主とすといふ歌もなきはずなり。但世人は緩く歌ふを指して歌ふといひ、詩想複雑にして音調また変化するを指して思を主とすといふにやあらん。(五月三日) 十三  或人(鳴雪氏)曰く、和歌が古来より人を感動せしめたる例少しとの説は誤れり。和歌が人を感動せしめたる例枚挙に遑あらず。あるいは一首の和歌のために命を助かり、領土を帰されしなどを始めとし、しばしば猛きもののふを動かしたること歴史伝説の上に詳なり。子がその例少しといふは、子自ら感動する歌少しとの事なるべし。云々。  答へて曰く、誠にしかなり。古来人を感動せしめたる例はいくらもあれど、その歌が余りつまらぬ歌にて、歌といふ名を与ふるさへいかがと思ふばかりなれば、それらをば余の考の中へ入れざりしなり。余の考の中に入るべき歌にて、人を感動せしめたる例を尋ぬるも、ちよつと思ひあたらざりける故、例少しと言ひ放したる者にて、余り粗漏なる書き様にぞありし。総て和歌俳句詩などが人を感動せしむる事は、必ずしもその和歌などの善きがために非ずして、相手(感動する人)とその場合とに因る者なり。相手が極めて趣味低き者ならんには、趣味低き歌はこれを感動せしむる事あるべきも、趣味高き歌はかへつてこれを感動せしむる能はず。いはゆる大声は俚耳に入らざる者なり。猛きもののふの心を和げなどいへど、猛きもののふといふ者、多くは趣味卑しき者なれば、彼らを感動せしめたりといふ歌は、趣味卑く取るにも足らぬぞ多き。またその歌は歌として取るに足らず、従つてその歌の善きに感じたるに非ざるも、その作者が意外に歌など作りしといふ事、あるいはその歌がその場合に善く適合せりといふ事のために人を感ぜしむる者あり。例へば小式部内侍が大江山の歌の如き、歌としてそれほどの値打もなけれど、歌を得作らじと思ひし人の即座に作りしと、その歌がその場合に善く適合したるとのために人を驚かしたりと覚ゆ。また太田道灌が歌を作りて「かかる言葉の花もありけり」と誉められたるが如き、歌の善き事が人を感ぜしめたるよりも、むしろ意外の人が歌詠みたりとの一事は人を驚かしたる者ありしなるべし。貞任の連歌に義家がそを追はずなりたりといふ事、宗任が梅の花の歌を詠みて公卿たちを驚かしたりといふ事抔、事実の有無は疑はしけれど、もしこの種類の事ありとせば、前者はきはどき場合に能くつらねたりといふ事に感じ、後者は思ひがけなき東夷の風流に感じたるに外ならじ。故にかくの如き歌は、後人のこれを見るにもその場合を聯想してこそ幾多の興味はあれ、単独に歌として文学上より批評を下さば、三文の値打もなき者比々これなり。されば人を感ぜしめたる歌は、必ずしも善き歌に非ずして、かへつて悪歌拙歌を多しとす。これら歌人ならざる者の場合を除きても、歌人などが贈答送別の歌に感じたる例少からず。されどこもその歌がその場合に適切なるがために多く感じたるにやあらん。縦しその人は自ら感じたる歌を善き歌と思ひたりとも、他の人必ずしもそを善しとは思はず。余らは伝説に残りたる「歌人の感じたりといふ歌」を見て、感動すること少く、かへつて普通に知られぬ歌にて非常の感動を生ぜしむる者多し。  以上述べたる場合、即ち或時或人に限りて感動したる場合を除き、何時にても誰にても感動する歌を見るに、なほ余は多くこれを浅薄と認めざるを得ず。その例として最多数の日本人を感動せしむる力ありと信ずる 敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花 の歌を見るに、余は毫もこの歌に感動せられざるのみならず、なかなかに浅薄拙劣なるを見る。全体の趣向も平凡なれども、かくこの趣向の平凡に聞ゆるは、いくばくかこの歌を見馴れ聞き馴れたるにも因るべければそは論ぜず。縦し平凡なる趣向なりとも、調子高く歌ひなばかへつて高尚なる歌となるべきを、この歌はまた無下に拙くつらねたる者にぞある。その大欠点は「人問はば」の一句にあり。上に「人問はば」とあらば、下に「と答へん」と置かざるべからず。「と答へん」の語なければ「人問はば」の語、浮きて利かず、従ひて厭味を生ずるなり。されど天下多数の人が感動するは、この平凡にして解しやすき趣向と、この厭味ある言葉(人問はば)の働きとにあるべく、宣長の作意もまたここにあるべし。宣長の詩趣の解し加減と、天下多数の人の詩趣の解し加減と、あたかも一致してこの大喝采を博せり。大喝采的の作必ずしも可ならざるなり。余もかつてこの歌に感じたる時代あり。されど数年間文学専攷の結果は、余の愚鈍をして半歩一歩の進歩を為さしめたりと信ず。少しく文字ある者は都々逸を以て俚野唾すべしとなす。しかも賤妓冶郎が手を拍つて一唱三歎する者はこの都々逸なり。いやしくも詩を作る者は雲井竜雄、西郷隆盛らの詩を以て、浅薄露骨以て詩と称するに足らずとなす。しかも書生が放吟し剣舞し、快と呼び壮と呼び、彼らをして怒髪天を衝かしむる者は、西郷・雲井らの詩ならざるべからず。やや美文を解する者は、ゝ山居士の抜刀隊の歌を以て、粗雑鹵莽取るに足らずとなす。しかも兵士が挺身肉薄敵城を乗り取らんとする時、彼らの勇気を鼓舞する者は、抜刀隊一曲の歌ならざるべからず。大喝采的の作は概ねかくの如し。彼らは平易にして趣味低きを要す。或時は露骨に叙し、或時は一種厭味の装飾を用うるを要す。語を更へて言はば、多数素人へのあてこみは少数黒人の最も厭忌する方法を取らざるべからず。黒人の婉曲にいへといふ処はこれを露骨にいひ、黒人の露骨にいへといふ処は、これに厭味ある形容抔を加へ、しかして後にあてこみ的大喝采的の作は成る。これ従来の大喝采的の作なり。故に余はむしろ大喝采的の作といふ一事を以てその卑俗を証せんとす。しかれどもこは過去の事実のみ。未来においてもかくの如くならざるべからざるか否かは疑問に属す。もし文学的趣味を具有して、大喝采を博する者あらば、これを以て彼非文学的の作に代へんこと、けだし歌人の職務なるべし。(五月十二日) (明治三十一年三月-五月) 底本:「歌よみに与ふる書」岩波文庫、岩波書店    1955(昭和30)年2月25日第1刷発行    1983(昭和58)年3月16日第8刷改版発行    2002(平成14)年11月15日第26刷発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。 入力:網迫、土屋隆 校正:米田 2010年8月18日作成 2011年5月16日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。