朝夕 林芙美子 Guide 扉 本文 目 次 朝夕  わかればなしが持ちあがるのも、すべてはゆきなりの事だと、芯から声をあげて、嘉吉もなか子もあはあはあはと笑ひあつたのだが、嘉吉の心の中には、ゆきなりとは云ひぢよう、ゆきなりの事だと云ひきれないものがあつたし、なか子の心のうちには、これからひとり者になつてゆく淋しさを愉しんでゐるふうな、そんな吻つとしたところがあつた。で、ふたりが、いまさらゝしく声をたてゝ笑ひあふのも、これでおしまひだねと云つた風に、嘉吉は久須を引き寄せて、茶を淹れながら、ま、お前は気の軽い女だから俺ほどには思ふまいが、たよりだけは屡々くれるやうにと、二つの湯飲茶碗の糸底を、猫板の上にかつん、かつんと音をさせて並べた。 「まだ、あんたはそんなことを云つてゐるのね。わかれてしまふつて云つたところで、お互ひ、よくなつてゆけば、またかうして一緒になれるンですよ。あんまり腠理のこまかいこと云ふもンぢやないわよ、悲しくなるぢやないの‥‥」 「ふゝん、悲しくなるか、だが、わかればなしを持ちだしたのはあんたぢやないか」  なか子は黙つてゐた。切角気持ちよく、さつきはあんなにあはあは笑へたのに一寸拍子が逆になると、嘉吉の方が弱り出してしまふので、それが、なか子には余計に歯がゆく思へる。──嘉吉はそこへ寝そべつて、いまさらゝしく四囲を眺めてゐたが、風に吹かれてゐるやうな女の顔を見ると、これが四年も連れ添つてゐた女なのかと思ひ、額に浮んでゐる小皺のやうなものにも、まるで、手擦れのした道具のやうな愛惜を感じた。 「ま、何でもいゝさ、お互ひ躯を丈夫にしてるこつたよ」 「厭ね、まだ、本当に別れてしまつたつて云ふわけぢやなし、そんなこと云ふのおかしいわよ」 「‥‥‥‥」  こんどは嘉吉の方がむつゝりと黙つてしまつて、女の心のなかに何とない余裕のあることを見てとり、これは、案外、本当のわかればなしになつてしまふかも知れないぞと、頭を畳へおとして眼を絞るやうに固くとぢてしまふ。 「一寸、何? 灯火がまぶしいの?」 「‥‥‥‥」  嘉吉が、顰め面をして瞼をとじてゐるので、なか子が灯火でもまぶしいのだらうと嘉吉の顔の上の電気を、くたびれたやうな蚊帳の吊手で引つぱつて、灯火を部屋の隅の方へ持つて行つてやつた。さうして立ちあがつた序手に、鏡台の前に坐り、蜂蜜を小指にすくつて荒れた唇につけてゐる。──ふたりにとつて、別に派手なおもひ出もなかつたが、三四年も一緒だと、三四年の間の汐のしぶきが、どぶんどぶんと打ちよせて来て、鏡を見ながら、なか子は自分がづぶ濡れになつたやうな寒さを感じた。だが、いまさら、現在のやうな生活を続けてゆかうとは思はなかつたし、薄情のやうだけれども、嘉吉の性格には最早、飽き飽きさせられてゐた。「わかれるにしても、昔のやうに何でも自由になる時ならば寝覚めもいいけれど、いまのやうな一文なしになつてしまつて、あんたに何もしてやれないじやあ、どうにも気色が悪い」とわかればなしが出ると、嘉吉はそんな人情家ぶつたことを云つて、なか子に後の句をつがせなかつたが、なか子にとつては、それは擽ぐつたい話で、嘉吉が華かであつたからと云つて、別に愉しい思ひをしたわけではなし、なか子にとつてはむしろ地味すぎる位な生活で、四年の間、こんな男の世話になつて、よくも煤けてゐられたものだと考へる。──昔のやうに何でも自由になつてゐたら、と、嘉吉はよく云ひ云ひするけれども、たかゞ一軒立ての洋品屋で、それも大した繁昌とは思はれなかつたし、先妻の亡くなつたぢき後へ這入つて行つたので、なか子のやうな派手な女にとつては、陰気な暮しむきに見えた。先妻の使つてゐた鏡台の前に坐つても、妙に白いお化けが覗きこんで来るやうで仕方がない。──そのお化けの名はつると云つた。嘉吉が三十二で、亡妻のつるが二十九の時に神楽坂の藁店に、いまの小さい洋品店を開いたのだが間口三間ばかりの、北向きの引つこんだ家で、日あたりが悪いせいか、なか子は始めての冬に神経痛で寝ついてしまつた。  洋品店と云つても、学生相手の安物ばかりで、襯衣とか、靴下とかの小物類が売れてゆく位で、陳列の中の鳥打帽子や、絹ポプリンのY襯衣なぞは、四年の間そこへ飾りつぱなしで、いくら陽がさゝぬとは云つても埃つぽくなつてしまつて色褪せてゐる。 「おい、なか子、一寸来て御覧、うちの符牒を教へてあげるから‥‥」  なか子が、嘉吉の家へ這入つて二日目であつた。早々と店を閉じてしまふと、レヂスターの横の卓子の上に、マフラアや、ハンカチや襯衣なぞの箱を並べて、うちの符牒は「つるまひおりたよしせ○」と云ふのだからよく覚えておくといゝと云つて、これはいくらだとか、これはどの位だとか、数理にはうといなか子へ「おる」は五二銭、「つま」は十三銭と早口に言つて応用させてみせるのであつた。 「此符牒は仕入れ値段の符牒だから、これから一割なり二割なり儲うけて云はなけりや駄目だよ。先の奴は、何時でも符牒だと云ふことを忘れてしまふて、元々で売つてたことがあつたが、あはてゝ売らぬやうにしなきや駄目だ」  さう云つて、二三日は「つるまひおりたよしせ○」を、しつゝこい程、なか子へ尋づねてゐたが、なか子も、その符牒はあんまりひどいと云つて、もう、そんな符牒なんか面倒だと怒り出したことがあつた。なるほど考へてみれば、亡妻のつると、嘉吉の嘉の字を織りこんで、此符牒はあんまり芽出度すぎる。嘉吉は怒つてしまつて、むきにつんつんしてゐるなか子が、急に可愛くなつてしまつた。では、デパート並に、もう値段をちやんと入れておいてやらう、その方が買ふ方も売る方もさばさばしてよからうと、急にゴム印を買つて来て、符牒の上へ一々値段をくつゝけてくれた。だが、浮世ぐらしのやうななか子には、「はい、そのすてゝこは六十銭でございます」とか「その襯衣はゴム織の上等で、壱円二拾銭なら本当に高く戴いてないつもりでございます」なんぞ、芯から面倒で、第一、拾円札で壱円八拾九銭なぞと云ふ買物になると、一々奥の嘉吉へ「あなたやつて頂戴よ」と云つて走り込んで来た。始めの程は、嘉吉も笑つてゐたが、二年になつても三年になつても家の商売に馴れやうとはせずに、何時も家ぢゆうの陽のあたる処を見つけては、その陽溜りへ講談本なぞを展げてゐたり、夏になると、ひといちばい暑つがりやで、台所の板の間へ茣蓙を敷いて、まるで生魚のやうにごろんごろんとしてゐるのであつた。嘉吉も、これはひどい女を背負ひこんでしまつたものだと考へる時もあつたが、奇妙に、台所仕事が手綺麗で、何でもないやうな容子をしてゐて、案外膳の上には嘉吉の好きなお菜が一二品並び、商売のあつたやうな日なぞは、猫板の上に銚子が乗つてゐることもあつた。どつちかと云へば、嘉吉よりもなか子の方が仲々酒好きで、時々台所で冷酒をひつかけてゐるのを嘉吉は屡々とがめる事があつたが、「わたしは好きぢやないのよ、好きなのは腹の虫なンだから仕方がないわよ」と云つて、夜なぞ酔つたまぎれに寝床へ這入ると、きまつて、お化けだお化けだと唸つてみせた。──本当にお化けが出るのでもなければ、良心がとがめて、架空のお化けを感じて云ふと云ふのでもない。只酒を飲んで、「あゝいゝ気持ちだわ」と云ふことが、何となく亭主の前では憚ばかられて、口の先では、「お化けだよウ」と呶鳴り、心のうちでは牛の舌のやうな奴をべろんと出していゝ気持に、船底枕をごりごりゆすぶつて嘉吉を気味悪るがらせておくのであつた。嘉吉は嘉吉で、隣の寝床で「お化けだお化けだ」と云はれると、何となく、背中が冷たくなるのであつたが、こいつ、照れ隠くしかも知れぬと、云はせたいだけ云はせて森としてゐる。嘉吉が森としてゐると、なか子は「どうだ参いつたか」と、何時の間にか子供のやうに黙りこむのであつたが、今度はかへつて、亡くなつたお神さんと、毎晩こんな風に寝てゐたのだらうと、急に、背筋がぞくぞくしてしまつて、「起きてゝよ、ねえ」と云つて、嘉吉の枕を引つぱるのであつた。枕を引つぱられると、嘉吉も、そうそう寝た真以は出来ず、××××××で惰勢に墜ちてしまふのであつたが、不思議に厭になつて来る女ではなかつた。寝物語りに他の男の事を考へてゐる時があるのよ、とまるで娼婦のやうなことを平気で云つたが、死んだ女房のやうに、とぼけて寝てしまふやうなことはしなかつたし、根が、小料理屋へ努めてゐた女なので、あけすけなのでもあらう、世の常の女房のやうに、×××××を時雨のやうに味気ないものだとは云はせないで、嘉吉に対して、まるでもう、野山でたわむれる獣か何かのやうなふるまひなのである。どこから、そのやうな力が湧いて来るのか、日中、嘉吉は襯衣箱や、鬼足袋の上にはたきをあてながら、不図、そんなことを凝つと考へてゐる折があつた。  なか子が家へ入りこんで二年目位から、店のなかは砂が乾いてしまつたやうに品物が一つならべの状態で、ハンカチも半ダースと同じものを注文されると、ていさいの悪い断りやうをしなければならない程、品物がどうも手薄になつてしまつて、嘉吉の立居ふるまひにどう云ふものか活気がなくなつてゐた。──根からの小商人で、此様な店を出したのも、誰からも助けを受けたわけではなく、云へば、自分一人で造つた身代故、品物が手薄になつた処で誰もとがめる者はなかつたが、それだけに、嘉吉もなか子も、何となく、行末の短じかさを感じるのであつた。 「ねえ、私、もう一度前のお店へ行つて働いてみませうか?」  何かしら、自分が働きさへすれば、金はすぐ、その日からでも転びこんで来るやうに、何となく昔の水商売をなつかしく考へ、折があつたら、もういちど、女中働きにでも出てみやうかと、風呂屋の帰へりや、八百屋の帰へりなぞに、なか子はそれとなく、お座敷女中入用の広告を見てまはることがあつた。 「莫迦なことを云つちやいけない。自分の年齢を考へて御覧よ。女も二十二三までだよ、そんな処で働くのは‥‥もう二十七八にもなつて、まだ娘みたいな気でゐるのかい?」  さう云はれると、「どうせ、娘みたいなもンよ、私はまだ子供を生んでないンですもの」と口返答をして、無理には云はないよと云つた太々しさで、一日一日が過ぎるのであつた。──だが、二人が顔をつきあはせると何と云ふこともなくすぐわかればなしになつてしまつて、そのわかれ話が、夜更けまで持ちこしになると、たちまち、明日の日は、どこの家よりも店開きが遅くれてしまつて、小さな商ひを逃がす事が度々であつた。  なか子が嘉吉と連れ添つて三年目の夏の初めには、たうとう一台ある自転車にまで手をつけ、売り払つてしまふと、店のなかはひねもの屋の陳列場みたいに、がらんとしてしまつて、メリヤスの空箱ばかりが、整然と並べられて、それが、また、妙に、此洋品店の左前を物語つてゐた。  嘉吉は気の小さい男のくせに、意地つ張りで、なか子を家に入れた頃は、その意地つ張りも持ちこたへてゐたが、なか子のやうな女を背負ひこむと、前の女房ではどうやら持ちこたへてゐた商ひが、たちまち、一文商売のやうにつまらなく思へて来て、不図、相場と云ふものに手を出して見たりした。その相場も沢山な資本がないところから、みすみす悪い合百師にひつかゝつて、すつてんてんになつたり、競馬にも凝り出したが、終ひには、新聞に出てゐる高利の金さへも当つてみやうと、眼を皿のやうにして、小さい金融会社を、あつちこつちと探がしてみるのであつた。あせればあせつてゆく程、砂地がずりさがつて行くやうに、何も彼も風にもつてゆかれて家の中ががらんとなつて行く。──店の中へ何も並べるものがなくなると、浅草あたりの化粧品問屋から、安いポマードや水白粉のやうなものを仕入れて来て、一つならべに陳列に出しておいたが、結局そんなことは、嘉吉のみえのやうなもので、家賃も一ヶ年あまりもとゞこほり、しまひには家主のお神さんが店の先きで泣いてしまふほどの詰りやうでどうにも首がまはらなくなつてしまつたのである。  唇に蜂蜜を塗り、舌の先きで丁寧に嘗めまはしてゐたなか子は思ひ出したやうに立ちあがると、押入れから褞袍を出して嘉吉の裾へかけてやつた。嘉吉は、もう、女からわかればなしを持ちかけられるやうでは、男も下の下だわいと、瞼を閉じたまゝ不吉なことばかりを、あれこれと考へ耽けつてゐた。 「だつて、さつきの話ね、二人ともさばさばしてるンぢやないのさ、こんな店なんて未練なンか持たない方がいゝわ。第一、ハンカチ一つ買ふんだつて、デパートで買ひたがるンですもの、しかも、こんな小さな店なんか、こゝ二三千円がとこ、誰かがくれたつてどうにもたつてゆきやアしませんよね」 「そりやアさうさ。かう、百貨店がによきによき出来たり、少しばかりたつぷりした資本でもつて、マアケツトみたいなものをやられたンぢや、誰だつて、こんな陰気な店なんかふりむいちやくれないよ──時世が変はつてしまつたのだし、こゝ二三千円、誰かくれたとした処で、俺はこんな商売はもう止めだ」 「ぢや、何をするの?」 「何をするつて、先きだつものは金だよ、何をするにしたつて、何とか資本がなくちや、どうにも仕様がないさ‥‥」 「ねえ」 「うん‥‥」 「いつたい、雑作だのがらくたを仕末してどの位出来る?」 「雑作なんて、家主に家賃のかただぜ、がらくた売つた処が二束三文で、せいぜい一晩泊りで、近かくの温泉へ行ける位のもんだらう‥‥」 「温泉か、温泉もいゝわね。桜もそろそろ咲きかけてるのに、厭ね、私たち‥‥」  なか子は五六年前、観桜会とかで足が痺れる程、一日立ちづめで働いた料理屋の生活を思ひ出してゐた。嘉吉は嘉吉で戸外の寒いやうな風の音をきくと、酒でものみたいやうな気持ちになるのであつた。 「ねえ、あと五六日で四月ぢやないの?」 「考へてみると、一緒にならなきやよかたつて云ふンだらう?」 「どうとも御判断に任かせます」  すると、嘉吉は褞袍を蹴るやうにして起きあがると、冷へた茶をごくんと飲んで、「仕末して、いつそわかればなしが決まつたんだ、温泉にでも行つてみるか」と云つた。  いまゝで煤けたやうに悄気てゐたなか子は、嘉吉に、温泉にでも行くかと云はれると、娘のやうに眼を晴々とさせて、「まア」と嬌声をあげた。一日のばしにして細々と長らへてゐるより、いつそ、ばたばたと売り払つて温泉にでも行つて、それから二人でちりぢりになつても、遅くはないし、かへつて後くされがなくていゝかも知れないと、「そりア素的よ。考へて御覧なさいな、こんな処でくよくよしてたつて仕方がないぢやないの」と、早、なか子は店から帳面を取つて来て嘉吉の前へ広ろげるのであつた。 「その白い処へ何がどれ位つて、一寸書いて御覧なさいよ」 「がらくたの相場かい?」 「がらくただつて、レジスターだの、陳列箱だの色々あるぢやないの?」 「うん、あるにはあるさ、だけど、あんなのはみんな担保にはいつてしまつて仕様のないもんばかりだぜ‥‥」 「まア、担保つて、何時、そんなことをしたの?」 「何時つて、とつくだよ、吾々は何も身についたものありやアしないさ」  なか子は、そんなものまで嘉吉が金に替へてゐるとは思はなかつた。 「ぢや、夜逃げでもしなきや、昼の日なか何も売れやしないぢやないの?」 「さうなんだよ」 「厭ね、別に贅沢してるつてわけでもないのに、相場だの競馬だのつて、こんな小さなうちなんか雀の涙よ。おまけに私に黙つて高利の金を借りたりさ、厭々‥‥」  なか子はそれでも、温泉へ行くと云ふことがうれしかつた。何でもいゝ家中の物を売り払つて汽車へ乗つてみたくて仕方がなかつた。「ねえ、何とかやりくりして行きませうよ、お互ひそんな思ひ出位あつてもいゝぢやないの」と、なか子は部屋の隅の電気をまぶし気に見あげた。  その翌る日、人目にたゝぬやうに、嘉吉は通りすがりの年寄りの屑屋を呼び、台所道具から寝具に至るまで二束三文に売り払つてしまつた。──埃のたつやうな花びよりであつたが、藁店の路地の通りは、何時ものやうに森閑としてゐる。なか子は、打水をするやうな様子をして、家主の神さんや、問屋の番頭が来はせぬかと、冷々しながら屑屋が帰へつて行くまでは、馬穴をさげて溝板の上をざぶざぶ濡らして歩いてゐた。屑屋が、幾度も足を運んで、細々した荷物を運んで行くと、二人は、がらんとした奥の居間で顔を視合はせて呆んやり笑つた。 「いくらに売れたの?」 「るたよまる、さ」 「さう、仕方がないわね、弐拾七円八拾銭なんて、もう一寸で参拾円ぢやないの?」 「これだけ買つてけば上等の方さ‥‥」  鏡台も長火鉢も売つてしまつた。流石に箪笥は大きかつたので、そのまゝにしておくことにしたのだが、何となく、なか子にはその箪笥を嘉吉が売りおしんでゐるやうな気がしてならなかつた。──日が暮れると、お互ひに着られるだけのものを身につけて小さいトランクへ二人のものを押しこみ、宵の口に戸締りをしてしまふと、二人はわざと肩をならべて戸外へ出て行つた。「あゝさばさばした」なか子は、まるで里帰へりのやうな陽気さであつたが、流石に嘉吉の心の内には苦味いものが走つてゐた。丁度六年もあの店に坐り、小さいながらも今日までやつて来た事を考へると、鼻の裏が何となく熱い。路地の出しなに、何気なく振り返へつて見ると、黄昏の灯火の下の屋根看板が、嘉吉にはおういと手を差しのべて呼び迎へてゐるやうに見えた。あの家にも別れ、此女とも別れてしまつたら、いつたい、自分はどこをどう歩き、どこに住んでいゝのかと、嘉吉の心の裡には何とも云ひやうのない落莫としたものが去来するのであつた。  神楽坂の通りは埃が激しくて、うすら寒むかつたが、町が明るく人通りが壮んなので、何となく活気があつた。 「ねえ、小山は、また陳列を増やしたのね、羊印のメリヤス類ときたら、家より一割五分も高く売つてるのに、どうしてあんな店がさかるのか、本当にわけが判からないわね」 「そりやア、資本だよ。あゝして陳列を増やしたり、ミツマメホールを造つたりすれば、どうしたつて足が向いてゆくよ」  二坪ほどの一枚硝子のはまつた陳列の中に、洒落れたスウイス製のスポーツ襯衣や、中折帽子、ステツキの類まで飾ざられて、トンボの眼のやうに頭髪を光からせた洋服姿の店員が、呆んやり煙草を吸つたりしてゐる小山洋品店の前まで来ると、二人は思はず陳列の前に暫く立ちどまつてしまつた。別に立ちどまつたところで、かへつて二人とも懐古的になるだけのもので、一つ一つの品物が、二人の眼の中へ鮮かに印象されてゐると云ふわけのものでもない。  埃の激しい町を、嘉吉となか子はそれから当てもなく新宿の方へ出て行つた。 「歯ブラシを一つ買ひたい」  嘉吉が歯ブラシをほしいと云ふので、二人は人ごみのなかを抜けて百貨店へ這入つて行つた。夜間営業で、店内は頭痛のするやうな明るさで、造花の桜の枝が方々に飾ざつてある。化粧品売場で、安い歯ブラシをあれこれと選らんで、嘉吉が不図なか子の方を振りかへると、なか子は黙つて頬紅の円い箱を飾棚の蔭の方へ滑らせてゐた。これは悪いところを見たと、嘉吉は周章して勘定を払ひ、なか子をうながしてづんづん百貨店の裏口へ出て行つた。嘉吉はさり気ない風であつたが心のうちでは、かへつて無数の百貨店へ復讐したやうな気持ちでさへあつた。なか子は、お花見時は随分埃が激しいけれど、月が赤くつていゝとか、汽車へ乗るのは何年振りだらうとか、平気な顔をしてゐる。  その夜の汽車で二人は熱海へ発つて行つた。  海からはよほど遠い山手よりの小さい宿屋へ泊つた。部屋の窓を開けると、大きな月が靄でかすんでゐる。嘉吉にとつて、女を連れて旅をすると云ふことはかつて一度もないことなので、再び青春が還へつて来たやうに、なか子よりも酒がすゝんだ。あんな店がなんだ。もつと大きい商売をしてお前を愕かせてやるつもりだ。と、何時にない上機嫌で、嘉吉はなか子の肩をびしやびしやと打つたりする。──嘉吉があんな店は何だと、捨てゝ来た店の話を始めるとなか子は亡くなつた前の女房の骨壺が、かたかた音をたてゝ空を走つて来るやうなそんな、錯覚にとらはれるのであつた。女の古里へ分骨して、神棚の上に、小さい骨壺がそのまゝになつてゐたが、なか子は、嘉吉もその亡妻の骨のことを、いま考へてゐるのではないだらうかと、「あんな家なんか」と云はれる度に眉を顰かめて見せた。  嘉吉は酔ひがまはつて来ると、「せめて五百円位あつたら」とか、「わかれたところで仕様がないぢやないか」と、子供のやうになか子の膝で声をたてゝ泣き始めたりする。  熱海へは二晩泊つた。  もう羽織をぬぎたい程な温かさで、裏山の梅の木林には、小さい芽がもえてゐた。呆んやりして土手の上の梅林を見てゐると、その梅林の上を汽車が走つてゐるのが時々見える。なか子はそんな景色を見ると、不図嘉吉と死んでしまひたいやうな気もするのであつたが、それはただ空想してみるだけのことで、伸びたみゝずのやうに、温い陽射しのなかへ、なか子は宿から講談本を借りて来てごろりとしてゐた。 「さア、いよいよ今夜は御帰京だな‥‥」 「‥‥‥‥」  なか子は、何時まで未練だらだらなのと云つた嶮はしい眼つきで黙つてゐる。──二人はまた夜の汽車へ乗つた。二夜を旅空であかしたけれども、これといつて、二人に徹して来るものもなく、只、他愛のない離別の雰囲気が二人を何時までも苦しめるばかりであつた。──なか子にしても、さて、現実にぶつかつて見ると、年齢もとつてゐる、自分の躯のつかれもよく知つてゐた。嘉吉とちりぢりになつて、すぐその日から幸福がやつて来やうとは思はれなかつた。嘉吉にしても、金さへあれば、妻の一人や二人そんなに未練もなかつたが 金もなく家も捨てゝしまへば、妻と別れて孤独になることは何としても淋しくて耐へられない。文字通りの身一つで、これから立つてゆかなければならないと云ふことは妻の前では雄々しいことではあつたが、四十近かい男にとつては、何とない風の吹くやうな空威張りのところが漂ひ、嘉吉にはその空虚さが何となくたまらなかつた。まだ、妻と二人で飢えた方が、どんなにか気安いのだ。  東京へ帰へつて来ると、二人は汽車の中で相談したやうに、新宿裏の小料理屋をたづねて、女中の口を探がしてみることにした。兎に角、なか子の落ちつき場所をこしらへておいて、それから、自由な方向へ嘉吉が歩ゆんで行くと云ふのだ。 「ねえ、何だか雨が降つて来さうね」 「あゝ、少し降るぜ」  嘉吉は、陽にやけたインバネスの肩羽根をくるりと後へめくつて、空を見上げた。わかればなしを持ち出したものゝ、こゝまで突きあたつて見れば、こいつも淋しいのに違ひないと、嘉吉は、いつそ口が見つからなかつたら、町裏の木賃宿にでも泊る、そんな覚悟でゐた。軒並みにカフヱーやとんかつ屋や、小料理屋の並んでゐる新宿裏の路地へ這入ると、なか子は風呂敷包を嘉吉にあづけて、それらしい小料理屋へ一軒づゝ這入つて行つた。だが、結局決まつたのは小さい縄のれんのやうな飲食店で、なか子は出て来るなり面目のないやうな顰めた顔をして走つて来た。 「いゝさ、当分だもの、腰かけにいゝよ、気のおけない家ぢやないか」  嘉吉は何故か晴々とした気持ちでなか子を慰さめることが出来、かうして歩いてみて始めて、お前も自分の年齢を考へたゞらうと云はぬばかりの口ぶりで嘉吉はなか子へ風呂敷包を渡した。 「ぢやア、住所がきまつたら知らせやう。それにしても四五日は俺もあつちこつち歩いてみなけりやならないだらうし‥‥、ま、躯を大事に‥‥」  さう云つて、嘉吉が、砂利の上に降ろしてゐたトランクを持ちあげると、なか子も二三歩それに寄り添つて歩きながら、「さつき、分けて貰つたけど、これ持つてらつしやいよ」と、ハンドバツグの中から、ありたけの銀貨をつまんで嘉吉の手へ周章てゝ握ぎらせるのであつた。  大粒な雨が、家々の軒に光つて降り始めた。「もう、いゝよ。早く行つて気晴らしに働いた方がいゝ」さう云つて走りかけてゐた嘉吉も、大粒な雨に吃驚してガソリン屋の軒へ這入つて行つたが、雨の歩道に突き出てゐる真黒い自分の影を見ると、実際、それは、途方にくれた姿なのであつた。 「大丈夫?」 「大丈夫だよ」  ガソリン屋の軒で 二人は、藁店の家で笑ひあつたやうに、口のうちであはあは笑ひあふやうな気持ちであつた。なか子は思ひきつて軒を離れた。何時までたつても際限がないことだし 結局こんなになるものなのなら、いつそさつぱりと、自由な方向へ歩いて行つた方がいゝのだと なか子は後も振りかへらないで、船板に小磯と書いてある縄のれんの家へ這入つて行つた。土間の客は女連れで、鍋物をつゝきながら酒を呑んでゐた。なか子が帳場へ這入つて行くと、赤ん坊に乳房をふくませてゐた神さんが、裏座敷の二畳の部屋へなか子を連れてゆき、「そこいらへ荷物を置いて、表へ出てゝ頂戴」と云つた。二階が二間ばかりあつて、茶碗を叩いて唄たつてゐる客達があつた。女中達は、二人ばかりで、どれも丸髷に結ひ、渋い滝縞のまがひお召か何かで、仲々、小料理屋の縄のれんと云つても馬鹿にはならなかつた。  疲かれてはゐたが、なか子も地味な矢絣の錦紗に、無地羽二重の片側帯を締めてゐた。女中達は、まづなか子の着物や帯に眼をやり、「暇で困るのよ」と、何気なくこぼしてゐた。  嘉吉はなか子が去つて行くと、つくづく旅行者のやうな気持ちで、古ぼけたトランクをもてあましながら、軒をひろつて、四谷の方へぶらぶらと歩いた。雨は一寸した驟雨で、泡沫が乾いてゆくと、撒水車の通つた後のやうに、埃くさい街の舗道が、水できらきら光つてゐた。──嘉吉は、洋品店の前で何度か立ちどまつた。鳥打帽子、ネクタイ、Y襯衣、パジヤマ、色々な品物が渦をなして嘉吉の眼の中へ流れ込んで来る。──嘉吉は次から次へと洋品店の前へ来ると足を止めた。いつそ、此足で神楽坂の家へ帰へつてみやうかと思つた。帰へれないまでも自分の家がどのやうになつてゐるのか、せめて遠くからでも眺めてみたいと思ふのであつたが、夜も更けかけてゐる。稲田屋旅館と云ふ商人宿の看板が眼に止まると、嘉吉はふらふらと硝子戸を肩で開けて這入つて行つた。──生涯に於て、嘉吉はこのみぢめさを始めで終りであるやうにと、山から出て来たばかりのやうな、耳朶の真黒い小女が茶を淹れて来ると、暫くは呆んやりとそんな事を祈つてゐた。淋しいと云ふことが、掌のやうなものならば、その痩せた手のやうなものが無数に嘉吉の周囲からつかみかゝつて来る。佗しくて仕方がなかつた。嘉吉は茶をひといきに飲み、二三丁とは離れてゐない処に、なか子が一文も持たないで他人に酌をしてゐる様子を考へると、熱海にもう一晩泊つて来たらよかつたと、愚にもつかぬ思ひごとをしたり、早くから床を敷かせると、嘉吉は女のやうに瞼を熱くするのであつた。言ふことも書くことも出来なかつたが、離れてみると、なか子へ対する愛情が滝のやうに溢ふれ、漂動してゐて、何かとらへどころのなかつた不安が、金や生活ではなく、小さな女の愛情に廻流してゐたのだと、嘉吉はなか子へ向つて、「おゝい、おゝい」といまさら呼びかけるやうな気持ちであつた。  裏窓の下を郊外電車が走つてゐる。嘉吉は何時の間にか、頭の上に灯火をつけたまゝ疲れて鼾をたてゝ寝てしまつた。  なか子にしたところで、今度のことは、何となく気にいらないわかれかたで、あんなに、嘉吉の気質に倦き倦きしてゐながら、びつしより濡れたやうになつて働き口をみつけに何処かへ行つてしまつたとなると、女中部屋に眠つてゐても何となく寝覚めが悪るかつた。気の小さいひとだから、自殺でもしやしないだらうか、そんなことも考へる。だが、ひよいとしたら藁店の家へ帰つて平気で寝てゐるんぢやないだらうかと、なか子は嘉吉の不甲斐なさよりも、自分のおちぶれを身に浸みて感じるのであつた。いつそ、こんな佗しい思ひをするのならば、まだ藁店の店を何とか食ひつないでゐる方がよかつたとも思ふのであつたが、ミツマメホールまで経営して客を惹いてゐる小山洋品店や、あの辺一帯の大小の洋品店のことを思ふと、みんな、みんな、自分の店のやうに、はあはああえいでゐるやうな気もして来る。  嘉吉の前ではどうしてもつけてみる気がしかなかつたが、百貨店でそつとしのばせて来た頬紅も、電気の下でみると案外派手な色であつたので、なか子は、舌打ちしたいやうな気持ちで、あゝ私はいつたいどうなるのだらうと、横になつてゐても眼がさえざえして眠ることも出来なかつた。  その翌日の夕方、嘉吉がインバネスもトランクも持たないで尋づねて来た。なか子はうれしかつたが、わざとふくれた顔をして看板屋の軒下へ嘉吉をひつぱつて行つた。 「どう、勤まりさうかい?」 「あんまりいゝところぢやないわ‥‥」 「さうだろうね‥‥」 「昨夜、どこで泊つたの?」 「昨夜か、昨夜は、ついそこの商人宿へ泊つたさ」 「さう、藁店へは帰へつてみなかつた?」 「莫迦だな、帰へれやしないぢやないか、下手アまごつくと飛んだ目に逢ふよ」 「何か判断がついた?」 「あゝ別にいゝ判断もつかないが、今朝は浅草へ一寸行つて来たンだがね、化粧品の夜店をするンだつたら、委託販売でもつて、少々の品物は借してやらうつて処があるンだが、どうだらうと思つてさ‥‥」  四年の間に、何十度となく別れ話しが持ちあがつてゐながら、いざ、ちりぢりに別かれてしまふと、お互ひの一文なしがさせるわざなのか、年齢から来る未練なのか、やつぱり、肩を寄せてゐると、嘉吉もなか子も淋しいながらもお互ひの心が温まつて行つた。 「夜店?」 「あゝ、どう考へる?」 「さうね、夜店もいゝけど、此頃ぢやア、百貨店も出来てるンだし、ひところみたいぢやないわね。人足も早くなつたし、──でどんなものなの、やつてみると云ふのは?」 「品物かい?」 「えゝ」 「レモン化粧水とか、艶出し油とか、肌色白粉とか、何だかそンなものだけど、元価が一本平均つお位なンだから、まお位に売つて御覧、日に二十本出てくれると四円は大丈夫ぢやないか、え?」 「だけど、そりやア話ですよ。土地にもよるけど、かへつて田舎まはりして、何々百貨店の見切品とか何とかした方が効果はあるわね、東京で夜店なんて、素人の私だつて駄目なこつたと思ふわ」 「うん、ま、夜店も思はしくないとは思ふが、いまのところ、田舎まはりの旅費だつて大儀だからね」 「だつて、東京で夜店出すにしたつて、雨風のこと考へないぢや黙目よ。日に四円だつて、丸々百弐拾円儲けられたら、夜店商人が首を吊りましたなんて話もないはづよ。ね、もうこれから梅雨季にでもなつて御覧なさい、それこそ干上つちやうぢやないの」 「ま、さう、むきになつて云はなくつてもいゝよ。まだ商売はこれからなンだから、──ところで、文房具はどうだらうね?」 「さうね、化粧品より文房具の方がいゝかも知れないわ?」  二人は看板屋の軒から、何時か歩き始めてゐた。嘉吉もなか子も、夜店の話にすつかり興奮してしまつてゐる。あなたと云ふひとは、私がゐないぢや何も出来ないひとなのねと、なか子は、時々嘉吉にあきれて見せながら、「景気が悪くなつて別れたンぢや気色が悪いつてあんたが云ふけど、こんなにとことんまで来ると今度は私の方が気の毒で見ちやゐられない」歩きながら、なか子があゝと溜息をつくのであつた。──嘉吉は、自分が生きてゐるのか、それともぶらぶら足だけが歩いてゐるのか、今では自分で自分の体工合が判らなくなつてゐた。夜店を出すとは云つたものゝ元手なしの委託販売でもなかつた。拾円ばかりの保証金をおさめてさへおけば、その金高より一寸出た位の品物を借してくれると云ふだけで、嘉吉の云ふ、日に四円の儲けは、嘉吉の描いたお伽話なのであらう。 「一寸、宿まで行つてみないか?」  嘉吉の憔悴した容子を見ると、なか子も厭とは云へなかつた。宿へ行くと、羽織のないなか子を、帳場の者達が、まるでつれ込みか何かのやうにじろじろ眺めてゐる。  部屋の中には、火のない歪んだ箱火鉢に、艶のない落書だらけの机がひとつ、その机のそばには嘉吉のトランクがきちんと寄せてあつた。二人とも、どこへ坐つていゝか判らなかつた。なか子は、わざと大きな音をたてゝ窓硝子をがらがらと開けて、その窓ぶちへ腰を降ろした。郊外行きの茶色の電車が眼の下を走つてゐる。 「あんた、こゝへ寝たの?」 「あゝ」 「随分がらがらした部屋だわね」 「商人宿だもの、こんなものさ‥‥」  立つたまゝ呆んやりしてゐた嘉吉も、なか子のそばへ寝転ぶと、 「酒でも呑みたいね」と云つて笑つた。 「あなた、随分髪が伸びてゝよ、床屋へ行つてらつしやいよ」 「あゝ、床屋も行きたいけど、こんな宿屋にゐて第一落ちつかないぢやないか」 「さうね、そこへ行くと、女つて何処へ行つても落ちつけるけど、男つて、こんなになつたらさうもゆかないでせうね」  嘉吉は、言葉つきまでよそよそしくなつたなか子の横顔を眺めながら、頬紅を万引してた時のなか子の方が、よつぽど自分の女房らしかつたと思へた。いまは言葉があらたまつたゞけでも、一里や二里の距離は出来たわいと、嘉吉は、なか子の足をゆすぶると、「おい、おい」と小さい声で呼んだ。 「厭よ、何さッ!」なか子は、まるで鷲のやうに荒く身づくろひして吃驚してゐる嘉吉のそばから立ちあがつた。 「帰へるの?」 「えゝこゝにかうしてゐたつて仕方がないぢやないの!」 「‥‥‥‥」 「ねえ、どうすればいゝのさア、──あなた、インバネスどうかしたの?」 「売つちやつた!」 「さう、ま、温くなつたからいゝけど、まるで裸にならない前に、その夜店でも何でもいゝわ、とつゝきなさいよねえ」 「余計なお世話だ!」 「まア! 怒つたの?」 「仕方がないぢやないか、君のやうに浮の空ぢやないよ、あれかこれか、頭が痛くなる程考へてるンだ! 只、別れてしまへば、君はそれで楽々出来るだらうさ、えゝ? 女にやすたりはないからね。──夫婦つてものは、そんなものかねえ、悪くなつたら、わかれてしまつてはいさよならなんて‥‥」  嘉吉は、自分で自分の言葉に沈没して行くのであつた。 「まア、また、そんなこと云つて、厭ねヱ‥‥ちやんと、あんなに気持ちよく話しあつて、当分どうにかなるまでつて云つてあるぢやありませんか、──あなただつて、私のやうなものより、いゝ奥さま貰つて、赤ちやんでも出来たら幸せぢやないのウ‥‥」  嘉吉は起きあがるなり、なか子の胸倉を突いて引き倒ふした。展いた窓から、広告球がくるくる舞つてなか子の眼へ写つて来る。  平手打ちを食つて、頬が焼けつくやうであつたが、なか子は泣かなかつた。眼をつぶつて森としてゐた。嘉吉はなか子の上に馬乗りになつてせいせい云つてゐたが、胸を締めてゐた両の手を休めると、お互ひに森となつて、よくお化けだお化けだと云つてゐたことを二人とも不図思ひ出してゐたのだ。  嘉吉の心の中には溢ふれるやうな暴力的なものもあつたが、最早、分別がつきすぎてゐる。「どうした? 御免よ!」さう云つてなか子の首を抱いて優さしく起こしてやつた。 「男も、こんなになつたらお終ひさ」 「‥‥‥‥」 「帯を締めなほして、早く帰へつた方がいゝぜ」  嘉吉は窓の手欄に首を垂れて、もしやもしやした頭髪の中へ両手を入れて、狂人のやうに雲埃を払つた。──なか子は、横になつたまゝ空に浮いてゐる広告球に呆んやり眼をやつてゐる。別れたところで、本気になつて殴つてくれる男もみつかりさうではなかつたし、抱き起こしてくれる男もなほさら見つかりさうもない。嘉吉のいまの胸の苦るしさよりも、あの昼の月のやうな広告球を見てゐると自分の孤独さに、なか子は甘くなつて涙が溢ふれるやうなのであつた。 「ねえ、私、帰へるの止めるわよ!」 「‥‥‥‥」 「もう、一緒にゐますよ、わかれるにしたつて、何とか、お互ひがもつとよくなつてからでないと、まるで、お化けの引力みたいに、ずるずる引づりあつてるみたいぢやないの」  なか子は起き上ると、黙つてゐる嘉吉と並んで窓ぶちに腰をかけた。俯いて電車道に雲埃を払らつてゐる良人の頭の上の痩せてひらひらしてゐる手へ、自分の小さい櫛を持たせてやつた。嘉吉の手は櫛を受けとると、あゝこれはいゝものをくれたとその小さい束髪櫛で、がりがり音をたてゝ頭の地を掻き始めるのであつた。  なか子は、明日は明日のことだと、嘉吉の疲れた肩の上にばらばら埃のやうに散りかゝる雲埃の一つ一つをぢつと眺めてゐた。 底本:「林芙美子全集 第十五巻」文泉堂出版    1974(昭和52)年4月20日発行 初出:「文藝春秋 13巻3号」文藝春秋社    1935(昭和10年)3月 ※「×」は、底本が用いた伏せ字用の記号です。 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※疑問点の修正に当たっては、初出誌を参照しました。 入力:林 幸雄 校正:花田泰治郎 2005年6月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。