月蝕 夢野久作 Guide 扉 本文 目 次 月蝕    ★ 鋼のように澄みわたる大空のまん中で 月がすすり泣いている。 ………けがらわしい地球の陰影が 自分の顔にうつるとて………… それを大勢の人間から見られるとて………… …………身ぶるいして嫌がっている。    ★ ………しかし……… 逃れられぬ暗い運命は………… 刻々に彼女に迫って来る。 大空のただ中に…………    ★ ……はじまった…… 月蝕が…………    ★ 彼女はいつとなく死相をあらわして来た。 水々しい生白い頬………… ……目に見えぬ髪毛を、長々と地平線まで引きはえた……… それが冷たく……美しく……透きとおる……  コメカミのあたりから水気が…………ヒッソリとしたたる。    ★ 彼女はもう………… 仕方がないとあきらめて 暗い…………醜い運命の手に………… 自分の美をまかせてしまうつもりらしい。    ★ 顋のあたりが すこしばかり切り欠かれる。 …………黒い血がムルムルと湧く。 …………暗い腥いにおいが大空に流れ出す。 …………それが一面に地平線まで拡がってゆく。 彼女を取巻く星の光がギラギラと冴えかえった。    ★ 彼女の瞼が一しきりふるえて やがて力なく黝ずんで来る。 鼻の横に黒い血の磈が盛り上る。 …………深く斬込まれた刃の蔭に 赤茶気た肉がヒクメク。    ★ 世界は暗くなった。 すべての生物は鉛のように重たく 針のように痛々しい心を ジッと抱いて動かなくなった。    ★ けれども暗い……鋼鉄よりもよく切れる円形の刃は 彼女の青ざめた横頬を なおもズンズンと斬り込んでゆく。 そこから溢れ出る暗い…………腥いにおいにすべては溺れ込んでゆく。 …………山も…………海も…………森も…………家も…………道路も………… …………そこいらから見上げている人間たちも…………    ★ その中にただ一つ残る白い光………… 彼女の額と鼻すじが もうすこしで………… 黒い刃の蔭に蔽われそうになった。    ★ 空一面の夥しい星が 小さな声で囁き合って 又ヒッソリと静まった。    ★ 陰惨な最後の時………… 顔を蔽いつくす血の下に 観念して閉じていた白い瞼を パッチリと彼女は見開いた。    ★ 案外に平気な顔で 下界の人々を流し眼に見まわした ニッコリと笑った。    ★ …………ホホホホホホホ…… これはお芝居なのよ。 ……大空の影と光りの……。 だから妾は痛くも苦しくも……… ……何ともないのよ………… そうしてもうじきおしまいになるのよ。    ★ …………でも皆さんホントになすったでしょう。 ……あたし名優でしょう…… オホホホホホ……………    ★ ではサヨウナラ………… みなさんおやすみなさい。 ……ホホホホホ…………………… ホホホホホ…………………………… 底本:「夢野久作全集3」ちくま文庫、筑摩書房    1992(平成4)年8月24日第1刷発行 底本の親本:「日本探偵小説全集 第十一篇 夢野久作集」改造社    1929(昭和4)年12月3日発行 入力:柴田卓治 校正:しず 2000年5月19日公開 2003年10月24日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。