中国怪奇小説集 子不語 岡本綺堂 Guide 扉 本文 目 次 中国怪奇小説集 子不語  第十四の男は語る。 「わたくしは随園戯編と題する『子不語』についてお話し申します。  この作者は清の袁枚で、字を子才といい、号を簡斎といいまして、銭塘の人、乾隆年間の進士で、各地方の知県をつとめて評判のよかった人でありますが、年四十にして官途を辞し、江寧の小倉山下に山荘を作って小倉山房といい、その庭園を随園と名づけましたので、世の人は随園先生と呼んで居りました。彼は詩文の大家で、種々の著作もあり、詩人としては乾隆四家の一人に数えられて居ります。  子不語の名は『子は怪力乱神を語らず』から出ていること勿論でありますが、後にそれと同名の書のあることを発見したというので、さらに『新斉諧』と改題しましたが、やはり普通には『子不語』の名をもって知られて居ります。なにしろ正編続編をあわせて三十四巻、一千十六種の説話を蒐集してあるという大作ですから、これから申し上げるのは、単にその片鱗に過ぎないものと御承知ください」    老嫗の妖  清の乾隆二十年、都で小児が生まれると、驚風(脳膜炎)にかかってたちまち死亡するのが多かった。伝えるところによると、小児が病いにかかる時、一羽の鵂鶹──一種の怪鳥で、形は鷹のごとく、よく人語をなすということである。──のような黒い鳥影がともしびの下を飛びめぐる。その飛ぶこといよいよ疾ければ、小児の苦しみあえぐ声がいよいよ急になる。小児の息が絶えれば、黒い鳥影も消えてしまうというのであった。  そのうちに或る家の小児もまた同じ驚風にかかって苦しみ始めたが、その父の知人に鄂某というのがあった。かれは宮中の侍衛を勤める武人で、ふだんから勇気があるので、それを聞いて大いに怒った。 「怪しからぬ化け物め。おれが退治してくれる」  鄂は弓矢をとって待ちかまえていて、黒い鳥がともしびに近く舞って来るところを礑と射ると、鳥は怪しい声を立てて飛び去ったが、そのあとには血のしずくが流れていた。それをどこまでも追ってゆくと、大司馬の役を勤める李氏の邸に入り、台所の竈の下へ行って消えたように思われたので、鄂はふたたび矢をつがえようとするところへ、邸内の者もおどろいて駈け付けた。主人の李公は鄂と姻戚の関係があるので、これも驚いて奥から出て来た。鄂が怪鳥を射たという話を聞いて、李公も不思議に思った。 「では、すぐに竈の下をあらためてみろ」  人びとが打ち寄って竈のあたりを検査すると、そのそばの小屋に緑の眼をひからせた老女が仆れていた。  老女は猿のような形で、その腰には矢が立っていた。しかし彼女は未見の人ではなく、李公が曾て雲南に在ったときに雇い入れた奉公人であった。雲南地方の山地には苗または猺という一種の蛮族が棲んでいるが、老女もその一人で、老年でありながら能く働き、且は正直律義の人間であるので、李公が都へ帰るときに家族と共に伴い来たったものである。それが今やこの怪異をみせたので、李氏の一家は又おどろかされた。老女は矢傷に苦しみながらも、まだ生きていた。  だんだん考えてみると、彼女に怪しい点がないでもない。よほどの老年とみえながら、からだは甚だすこやかである。蛮地の生まれとはいいながら、自分の歳を知らないという。殊に今夜のような事件が出来したので、主人も今更のようにそれを怪しんだ。あるいは妖怪が姿を変じているのではないかと疑って、厳重にかの女を拷問すると、老女は苦しい息のもとで答えた。 「わたくしは一種の咒文を知っていまして、それを念じると能く異鳥に化けることが出来ますので、夜のふけるのを待って飛び出して、すでに数百人の子供の脳を食いました」  李公は大いに怒って、すぐにかの女をくくりあげ、薪を積んで生きながら焚いてしまった。その以来、都に驚風を病む小児が絶えた。    羅刹鳥  これも鳥の妖である。清の雍正年間、内城の某家で息子のために媳を娶ることになった。新婦の里方も大家で、沙河門外に住んでいた。  新婦は轎に乗せられ、供の者大勢は馬上でその前後を囲んで練り出して来る途中、一つの古い墓の前を通ると、俄かに旋風のような風が墓のあいだから吹き出して、新婦の轎のまわりを幾たびかめぐったので、おびただしい沙は眼口を打って大勢もすこぶる辟易したが、やがてその風も鎮まって、無事に婿の家へ行き着いた。  轎はおろされて、介添えの女がすだれをかかげてかの新婦を連れ出すと、思いきや轎の内には又ひとりの女が坐っていた。それは年頃も顔かたちも風俗も、新婦と寸分ちがわない女で、みずから轎を出て来て、新婦と肩をならべて立った。それには人びとも驚かされたが、女は二人ながら口をそろえて、自分が今夜の花嫁であるという。その声音までが同じであるので、婿の家も供の者も、どちらが真者であるか偽者であるかを鑑別することが出来なくなった。さりとて今夜の婚儀を中止するわけにも行かなかったと見えて、ともかくも婿ひとりに媳ふたりという不思議な婚礼を済ませて、奉公人どもはめいめいの寝床へ退がった。  舅も自分の室へはいって枕に就いた。  それから間もなく、新夫婦の寝間からけたたましい叫び声が洩れきこえたので、舅は勿論、家内一同がおどろいて駈け付けると、婿は寝床の外に倒れ、ひとりの媳は床の上に倒れ、あたりにはなま血が淋漓としてしたたっているので、人びとは又もや驚かされた。  それにしても他のひとりの媳はどうしたかと見まわすと、梁の上に一羽の大きい怪鳥が止まっていた。鳥は灰黒色の羽を持っていて、口喙は鈎のように曲がっていた。殊に目立つのはその大きい爪で、さながら雪のように白く光っていた。ひとりの女の正体がこれであるのは誰にも想像されることであるから、大勢は騒ぎ立てて捕えようとしたが、短い武器では高い梁の上までとどかないので、さらに弓矢や長い矛を持ち出して追い立てると、怪鳥は青い燐のような眼をひからせ、大きい翅をはたはたと鳴らして飛びめぐった末に、門を破って逃げ去った。  そこで、倒れている婿と媳とを介抱して、事の子細を問いただすと、婿は血の流れる眼をおさえながら言った。 「寝間へはいったものの、媳ふたりではどうすることも出来ないので、しばらく黙ってむかい合っているうちに、左側にいた女がたちまちに袖をあげてわたしの顔を払ったかと思うと、両の眼玉は抉り取られてしまった。その痛みの劇しさに悶絶して、その後のことはなんにも知らない」  媳はまた言った。 「わたしは婿殿の悲鳴におどろいて、どうしたのかと思って覗こうとすると、その顔を不意に払われて倒れてしまいました」  彼女も両眼を抉り取られているのであった。それでも二人とも命に別条がなかったのが嘆きのうちの喜びで、婿も媳も厚い手当てを加えられて数月の後に健康の人となった。そうして、盲目同士の夫婦はむつまじく暮らした。  怪鳥の正体はわからない。伝うるところによると、墓場などのあいだに太陰積尸の気が久しく凝るときは化して羅刹鳥となり、好んで人の眼を食らうというのである。    平陽の令  平陽の令を勤めていた朱鑠という人は、その性質甚だ残忍で、罪人を苦しめるために特に厚い首枷や太い棒を作らせたという位である。殊に婦女の罪案については厳酷をきわめ、そのうちでも妓女に対しては一糸を着けざる赤裸にして、その身体じゅうを容赦なく打ち据えるばかりか、顔の美しい者ほどその刑罰を重くして、その髪の毛をくりくり坊主に剃り落すこともあり、甚だしきは小刀をもって鼻の孔をえぐったりすることもあった。 「こうして世の道楽者を戒めるのである。美人の美を失わしむれば、自然に妓女などというものは亡びてしまうことになる。しかも色を見て動かざる鉄石心を有した者でなければ、容易にそれを実行することは出来ない」と、彼は常に人に誇っていた。  そのうちに任期が満ちて、彼は山東の別駕に移されたので、家族を連れて新任地へ赴く途中、荏平という所の旅館に行き着いた。その旅館には一つの楼があって、厳重に扉を封鎖してあるので、彼は宿の主人に子細をたずねると、楼中にはしばしば怪しいことがあるので、多年開かないのであると答えた。それを聞いて、彼はあざ笑った。 「それではおれをあの楼に泊めてくれ」 「お泊まりになりますか」 「なんの怖いことがあるものか。おれの威名を聞けば、大抵の化け物は向うから退却してしまうに決まっているのだ」  それでも主人は万一を気づかってさえぎった。彼の妻子らもしきりに諫めた。しかも強情我慢の彼はどうしても肯かないのである。 「おまえ達はほかの部屋に寝ろ。おれはどうしてもあの楼に一夜を明かすのだ」  あくまでも強情を張り通して、彼は妻子眷族を別室に宿らせ、自分ひとりは剣を握り、燭をたずさえ、楼に登って妖怪のあらわれるのを待っていると、宵のうちには別に何事もなかったが、夜も三更(午後十一時─午前一時)に至る時、扉をたたいて進み入ったのは、白い鬚を垂れて紅い冠をかぶった老人で、朱鑠を仰いでうやうやしく一揖した。 「貴様はなんの化け物だ」と、朱は叱り付けた。 「それがしは妖怪ではござらぬ。このあたりの土地の神でござる。あなたのような貴人がここへお出でになったのは、まさに妖怪どもが殲滅の時節到来いたしたものと思われます。それゆえ喜んでお出迎いに罷り出でました」  老人はまず自分の身の上を明かした後に、朱にむかって斯ういうことを頼んだ。 「もう暫くお待ちになると、やがて妖怪があらわれて参ります。その姿が見えましたならば、その剣をぬいて片端からお斬り捨てください。及ばずながらそれがしも御助力いたします」 「よし、よし、承知した」と、朱は喜んで引き受けた。 「なにぶんお願い申します」  約束を固めて老人は立ち去った。朱は剣を按じて、さあ来いと待ちかまえていると、果たして青い面の者、白い面の者、種々の怪しい者がつづいてこの室内に入り込んで来たので、彼は手あたり次第にばたばたと斬り倒した。最後に牙の長いくちばしの黒い者があらわれたので、彼はそれをも斬り伏せた。もうあとに続く者はない。これで妖怪を残らず退治したかと思うと、彼は大いなる満足と愉快を感じて、すぐに旅館の主人を呼んだ。  その頃にはもう早い雞が啼いていた。主人をはじめ家内の者どもが燭を照らして駈けつけて見ると、床には幾個の死骸が横たわっていた。それをひと目見て、人々はおどろいて叫んだ。 「あなたは大変なことをなされました」  倒れている死骸は、朱の妻や妾や、忰や娘であった。最後に斬られたのは従僕であったらしい。かれらは主人の安否を気づかって、ひそかに様子をうかがいに来たところを、片端から斬り倒されたのであろう。そう判ると、朱は声をあげて嘆いた。 「化け物め。すっかりおれを玩具にしやあがった」  言うかと思うと、彼もそこに倒れたままで息が絶えた。    水鬼の箒  張鴻業という人が秦淮へ行って、潘なにがしの家に寄寓していた。その房は河に面したところにあった。ある夏の夜に、張が起きて厠へゆくと、夜は三更を過ぎて、世間に人の声は絶えていたが、月は大きく明るいので、張は欄干によって暫くその月光を仰いでいると、たちまち水中に声あって、ひとりの人間のあたまが水の上に浮かみ出た。 「この夜ふけに泳ぐ奴があるのかしら」  不審に思いながら、月あかりに透かしみると、黒いからだの者が水中に立っていた。顔は眼も鼻も無いのっぺらぽうで、頸も動かない。さながら木偶の坊のようなものである。張はその怪物にむかって石を投げ付けると、彼はふたたび水の底に沈んでしまった。  事件は単にそれだけのことであったが、明くる日の午後、ひとりの男がその河のなかで溺死したという話を聞いて、さては昨夜の怪物は世にいう水鬼であったことを張は初めて覚った。  水鬼は命を索めるという諺があって、水に死んだ者のたましいは、その身代りを求めない以上は、いつまでも成仏できないのである。したがって、水鬼は誰かを水中に引き込んで、その命を取ろうとすると言い伝えられているが、眼のあたりに、その水鬼の姿を見たのは今が初めてであるので、張も今更のように怖ろしくなって、それを同宿の人びとに物語ると、そのなかに米あきんどがあって、自分もかつて水鬼の難に出逢ったことがあると言った。その話はこうである。 「わたしがまだ若い時のことでした。嘉興の地方へ米を売りに行って、薄暗いときに黄泥溝を通ると、なにしろそこは泥ぶかいので、わたしは水牛を雇って、それに乗って行くことにしました。そうして、溝の中ほどまで来かかると、泥のなかから一つの黒い手が出て来て、不意にわたしの足を掴んで引き落そうとしました。こんな所では何事が起るかも知れないと思って、わたしもかねて用心していたので、すぐに足を縮めてしまうと、その黒い手はさらに水牛の足をつかんだので、牛はもう動くことが出来ない。わたしもおどろいて救いを呼ぶと、往来の人びとも加勢に駈けつけて、力をあわせて牛を牽いたが、牛の四足は泥のなかへ吸い込まれたようになって、曳けども押せども動かない。百計尽きて思いついたのが火牛のはかりごとで、試みに牛の尾に火をつけると、牛も熱いのに堪えられなくなったと見えて、必死の力をふるって起ちあがると、ようように泥の中から足を抜くことが出来ました。それから検めてみると、牛の腹の下には古い箒のようなものがしっかりと搦みついていて、なかなか取れませんでした。それがまた、非常になまぐさいような臭いがして寄り付かれません。大勢が杖をもって撃ち叩くと、幽鬼のむせび泣くような声がして、したたる水はみな黒い血のしずくでした。大勢はさらに刃物でそれをずたずたに切って、柴の火へ投げ込んで焚いてしまいましたが、その忌な臭いはひと月ほども消えなかったそうです。しかしそれから後は、黄泥溝で溺れ死ぬ者はなくなりました」    僵尸(屍体)を画く  杭州の劉以賢は肖像画を善くするを以って有名の画工であった。その隣りに親ひとり子ひとりの家があって、その父が今度病死したので、せがれは棺を買いに出る時、又その隣りの家に声をかけて行った。 「となりの劉先生は肖像画の名人ですから、今のうちに私の父の顔を写して置いてもらいたいと思います。あなたから頼んでくれませんか」  隣りの人はそれを劉に取次いだので、劉は早速に道具をたずさえて行くと、忰はまだ帰って来ないらしく、家のなかには人の影もみえなかった。しかし近所に住んでいて、その家の勝手もよく知っているので、劉は構わずに二階へあがると、寝床の上には父の死骸が横たわっていた。劉はそこにある腰掛けに腰をおろして、すぐに画筆を執りはじめると、その死骸は忽ち起きあがった。劉ははっと思うと同時に、それが走屍というものであることを直ぐに覚った。  走屍は人を追うと伝えられている。自分が逃げれば、死骸もまた追って来るに相違ない。いっそじっとしていて、早く画をかいてしまう方がいいと覚悟をきめて、劉は身動きもしないで相手の顔を見つめていると、死骸も動かずに劉を見つめている。  その人相をよく見とどけて、劉は紙をひろげて筆を動かし始めると、死骸もおなじように臂を動かし、指を働かせている。劉は一生懸命に筆を動かしながら、時どきに大きい声で人を呼んだが、誰も返事をする者がない。鬼気はいよいよ人に逼って、劉の筆のさきも顫えて来た。  そのうちに忰の帰って来たらしい足音がきこえたので、やれ嬉しやと思っていると、果たして忰は二階へあがって来たが、父の死骸がこの体であるのを見て、あっと叫んで仆れてしまった。その声を聞きつけて、隣りの人は二階からのぞいたが、これも驚いて梯子からころげ落ちた。  こういう始末であるから、劉はますます窮した。それでも逃げることは出来ない。逃げれば追いかけて来て掴み付かれる虞れがあるので、我慢に我慢して描きつづけていると、そこへ棺桶屋が棺を運び込んで来たので、劉はすぐに声をかけた。 「早く箒を持って来てくれ。箒草の箒を……」  棺桶屋はさすがに商売で、走屍などにはさのみ驚かない。走屍を撃ち倒すには箒草の箒を用いることをかねて心得ているので、劉のいうがままに箒を持って来て、かの死骸を撃ち払うと、死骸は元のごとく倒れた。気絶した者には生姜湯を飲ませて介抱し、死骸は早々に棺に納めた。    美少年の死  京城の金魚街に徐四という男があった。家が甚だ貧しいので、兄夫婦と同居していた。ある冬の夜に、兄は所用あって外出し、今夜は戻らないという。兄嫁は賢しい女であるので、夫の出たあとで徐四に言った。 「今夜は北風が寒いから、煖坑(床下に火を焚いて、その上に寝るのである)でなければ、とても寝られますまい。しかしこの家にはたった一つの煖坑しかないのですから、夫の留守にあなたと一つ床に枕をならべて寝るわけには行きません。わたしは母の家へ帰って寝かしてもらうことにしますから、あなた一人でお寝みなさい」  義弟は承知して出してやった。表には寒い風が吹きまくって、月のひかりが薄あかるい。その夜も二更とおぼしき頃に、門をたたいて駈け込んで来た者がある。それは一個の美少年で、手に一つの嚢をさげていた。徐四が怪しんで問うまでもなく、少年は泣いて頼んだ。 「どうぞ救ってください。わたしは実は男ではありません。後生ですから、なんにも聞かずに今夜だけ泊めてください。そのお礼にはこれを差し上げます」  少年はふくろを解いて、見ごとな毛裘をとり出した。それは貂の皮で作られたもので、金や珠の頸かざりが燦然として輝いているのを見れば、捨て売りにしても価い万金という代物である。徐四もまだ年が若い。相手が美しい女で、しかも高価の宝をいだいているのを見て、こころ頗る動いたが、かんがえてみるとどうも唯者でない。迂闊に泊めてやって、どんな禍いを招くようなことになるかも知れない。さりとて情なく断わるにも忍びないので、かれは咄嗟の思案でこう答えた。 「では、まあともかくも休んでおいでなさい。となりへ行ってちょっと相談して来ますから」  女を煖坑の上に坐らせて、徐四はすぐに表へ出て行ったが、となりの人に相談したところで仕様がないと思ったので、かれは近所の善覚寺という寺へかけ付けて、方丈の円智という僧をよび起して相談することにした。円智はここらでも有名の高僧で、徐四も平素から尊敬しているのであった。  その話を聴いて、円智も眉をひそめた。 「それはおそらく高位顕官の家のむすめか妾で、なにかの子細あって家出したものであろう。それをみだりに留めて置いては、なにかの連坐を受けないとも限らない。さりとて追い出すのも気の毒であると思うならば、おまえは今夜この寺に泊まって家へ戻らぬ方がよい。万一の場合には、わたしの留守の間に入り込んで来たのだといえば、申し訳は立つ。夜が明ければ、女はどこへか立ち去るに相違ないから、その時刻を見計らって帰ることにしなさい」  なるほどと徐四もうなずいて、その夜を善覚寺で明かすことにした。それで済めば無事であったが、外宿した徐四の兄は夜ふけの寒さに堪えかねて、わが家へ毛皮の衣を取りに帰ると、寝床の煖坑の下には男の沓がぬいである。見れば、男と女とが一つ衾に眠っている。さてはおれの留守の間に、妻と弟めが不義をはたらいたかと、彼は烈火の怒りに前後をかえりみず、腰に帯びている剣をぬいて、枕をならべている男と女の首をばたばたと斬り落した。  言うまでもなく、それは兄の思いちがいで、女はかの美少年であった。男は善覚寺の若僧であった。  高僧の弟子にも破戒のやからがあって、かの若僧は徐四の話を洩れ聴いて不埒の料簡を起したらしく、そっと寺ちゅうをぬけ出して徐四の留守宅へ忍び込んだのである。それから先はどうしたのか、勿論わからない。  あやまって二人を殺したことを発見して、兄はすぐに自首して出た。しかし右の事情であるから、誤殺であることは明白である。美少年と若僧とは不義姦通である。殺したものに悪意なくして、殺された者どもは不義のやからであるというので、兄は無事に釈放された。  ここに判らないのは、美少年に扮していたかの女の身の上である。官でその首を市にかけて、心あたりの者を求めたが、誰も名乗って出る者はなかった。 「可哀そうに、あの女はここの家へ死にに来たようなものだ」  徐四は形見の毛裘や頸飾りを売って、その金を善覚寺に納め、永く彼女の菩提を弔った。    秦の毛人  湖広に房山という高い山がある。山は甚だ嶮峻で、四面にたくさんの洞窟があって、それがあたかも房のような形をなしているので、房山と呼ばれることになったのである。  その山には毛人という者が棲んでいる。身のたけ一丈余で、全身が毛につつまれているので、人呼んで毛人というのである。この毛人らは洞窟のうちに棲んでいるらしいが、時どきに里へ降りて来て、人家の雞や犬などを捕り啖うことがある。迂闊にそれをさえぎろうとすると、かれらはなかなかの大力で、大抵の人間は投げ出されたり、撲り付けられたりするので、手の着けようがない。弓や鉄砲で撃っても、矢玉はみな跳ねかえされて地に落ちてしまうのである。  しかも昔からの言い伝えで、毛人を追い攘うには一つの方法がある。それは手を拍って、大きな声で囃し立てるのである。 「長城を築く、長城を築く」  その声を聞くと、かれらは狼狽して山奥へ逃げ込むという。  新しく来た役人などは、最初はそれを信じないが、その実際を見るに及んで、初めて成程と合点するそうである。  長城を築く──毛人らが何故それを恐れるかというと、かれらはその昔、秦の始皇帝が万里の長城を築いたときに駆り出された役夫である。かれらはその工事の苦役に堪えかねて、同盟脱走してこの山中に逃げ籠ったが、歳久しゅうして死なず、遂にかかる怪物となったのであって、かれらは今に至るも築城工事に駆り出されることを深く恐れているらしく、人に逢えば長城はもう出来あがってしまったかと訊く。その弱味に付け込んで、さあ長城を築くぞと囃し立てると、かれらはびっくり敗亡して、たちまちに姿を隠すのであると伝えられている。  秦代の法令がいかに厳酷であったかは、これで想いやられる。    帰安の魚怪  明代のことである。帰安県の知県なにがしが赴任してから半年ほどの後、ある夜その妻と同寝していると、夜ふけてその門を叩く者があった。知県はみずから起きて出たが、暫くして帰って来た。 「いや、人が来たのではない。風が門を揺すったのであった」  そう言って彼は再び寝床に就いた。妻も別に疑わなかった。その後、帰安の一県は大いに治まって、獄を断じ、訴えを捌くこと、あたかも神のごとくであるといって、県民はしきりに知県の功績を賞讃した。  それからまた数年の後である。有名の道士張天師が帰安県を通過したが、知県はあえて出迎えをしなかった。 「この県には妖気がある」と、張天師は眉をひそめた。そうして、知県の妻を呼んで聞きただした。 「お前は今から数年前の何月何日の夜に、門を叩かれたことを覚えているか」 「おぼえて居ります」 「現在の夫はまことの夫ではない。年を経たる黒魚(鱧の種類)の精である。おまえの夫はかの夜すでに黒魚のために食われてしまったのであるぞ」  妻は大いにおどろいて、なにとぞ夫のために仇を報いてくだされと、天師にすがって嘆いた。張天師は壇に登って法をおこなうと、果たして長さ数丈ともいうべき大きい黒魚が、正体をあらわして壇の前にひれ伏した。 「なんじの罪は斬に当る」と、天師はおごそかに言い渡した。「しかし知県に化けているあいだにすこぶる善政をおこなっているから、特になんじの死をゆるしてやるぞ」  天師は大きい甕のなかにかの魚を押し籠めて、神符をもってその口を封じ、県衙の土中に埋めてしまった。  そのときに、魚は甕のなかからしきりに哀れみを乞うと、天師はまた言い渡した。 「今は赦されぬ。おれが再びここを通るときに放してやる」  張天師はその後ふたたび帰安県を通らなかった。    狗熊  清の乾隆二十六年のことである。虎邙に乞食があって一頭の狗熊を養っていた。熊の大きさは川馬のごとくで、箭のような毛が森立している。  この熊の不思議は、物をいうことこそ出来ないが、筆を執って能く字をかき、よく詩を作るのである。往来の人が一銭をあたえれば、飼いぬしの乞食がその熊を見せてくれる。さらに百銭をあたえて白紙をわたせば、飼い主は彼に命じて唐詩一首を書かせてくれる。まことに不思議の芸であった。  ある日、飼い主が外出して、獣だけ独り残っているところへ、ある人が行って例のごとくに一枚の紙をあたえると、熊は詩を書かないで、思いも寄らないことを書いた。  自分は長沙の人で、姓は金、名は汝利というものである。若いときにこの乞食に拐引されて、まず唖になる薬を飲まされたので、物をいうことが出来なくなった。その家には一頭の狗熊が飼ってあって、自分を赤裸にしてそれと一緒に生活させ、それから細い針を用いて自分の全身を隙間なく突き刺して、熱血淋漓たる時、一方の狗熊を殺してその生皮を剥ぎ、すぐに自分の肌の上を包んだので、人の生き血と熊の生き血とが一つに粘り着いて、皮は再び剥がれることなく、自分はそのままの狗熊になってしまった。それを鉄の鎖につないで、こうして芸を売らせているので、今日までにすでに幾万貫の銭を儲けたであろう。何をいうにも口を利くことが出来ないので、おめおめと彼に引き廻されているのである。  これを書き終って、熊はわが口を指さして、血の涙を雨のごとくに流した。  観るひと大いにおどろいて、その書いたものを証拠に訴え出ると、飼い主の乞食はすぐに捕われて、すべてその通りであると白状したので、かれは立ちどころに杖殺され、狗熊の金汝利は長沙の故郷へ送り還された。    人魚  著者の甥の致華という者が淮南の分司となって、四川の𧃰州城を過ぎると、往来の人びとが何か気ちがいのように騒ぎ立っている。その子細をきくと、或る村民の妻徐氏というのは平生から非常に夫婦仲がよかったが、昨夜も夫とおなじ床に眠って、けさ早く起きると、彼女のすがたは著るしく変っていた。  徐氏の顔や髪や肌の色はすべて元のごとくであるが、その下半身がいつか魚に変ってしまったのである。乳から下には鱗が生えてなめらかになまぐさく、普通の魚と同様であるので、夫もただ驚くばかりで、どうする術も知らなかった。妻は泣いて語った。 「ゆうべ寝る時分には別に何事もなく、ただ下半身がむず痒いので、それを掻くとからだの皮が次第に逆立って来たようですから、おそらく痺癬でも出来たのだろうかと思っていました。すると、五更ののちから両脚が自然に食っ付いてしまって、もう伸ばすことも縮めることも出来なくなりました。撫でてみると、いつの間にか魚の尾になっているのです。まあ、どうしたらいいでしょう」  夫婦はただ抱き合って泣くばかりであるという。  致華はその話を聞いて、試みに供の者を走らせて実否を見とどけさせると、果たしてそれは事実であると判った。但し致華は官用の旅程を急ぐ身の上で、そのまま出発してしまったために、人魚ともいうべき徐氏をどう処分したか、彼女を魚として河へ放すことにしたか、あるいは人として家に養って置くことにしたか、それらの結末を知ることが出来なかったそうである。    金鉱の妖霊  乾麂子というのは、人ではない。人の死骸の化したるもの、すなわち前に書いた僵尸のたぐいである。雲南地方には金鉱が多い。その鉱穴に入った坑夫のうちには、土に圧されて生き埋めになって、あるいは数十年、あるいは百年、土気と金気に養われて、形骸はそのままになっている者がある。それを乾麂子と呼んで、普通にはそれを死なない者にしているが、実は死んでいるのである。  死んでいるのか、生きているのか、甚だあいまいな乾麂子なるものは、時どきに土のなかから出てあるくと言い伝えられている。鉱内は夜のごとくに暗いので、穴に入る坑夫は額の上にともしびをつけて行くと、その光りを見てかの乾麂子の寄って来ることがある。かれらは人を見ると非常に喜んで、烟草をくれという。烟草をあたえると、立ちどころに喫ってしまって、さらに人にむかって一緒に連れ出してくれと頼むのである。その時に坑夫はこう答える。 「われわれがここへ来たのは金銀を求めるためであるから、このまま手をむなしゅうして帰るわけにはゆかない。おまえは金の蔓のある所を知っているか」  かれらは承知して坑夫を案内すると、果たしてそこには大いなる金銀を見いだすことが出来るのである。そこで帰るときには、こう言ってかれらを瞞すのを例としている。 「われわれが先ず上がって、それからお前を籃にのせて吊りあげてやる」  竹籃にかれらを入れて、縄をつけて中途まで吊りあげ、不意にその縄を切り放すと、かれらは土の底に墜ちて死ぬのである。ある情けぶかい男があって、瞞すのも不憫だと思って、その七、八人を穴の上まで正直に吊りあげてやると、かれらは外の風にあたるや否や、そのからだも着物も見る見る融けて水となった。その臭いは鼻を衝くばかりで、それを嗅いだ者はみな疫病にかかって死んだ。  それに懲りて、かれらを入れた籃は必ず途中で縄を切って落すことになっている。最初から連れて行かないといえば、いつまでも付きまとって離れないので、いつもこうして瞞すのである。但しこちらが大勢で、相手が少ないときには、押えつけ縛りあげて土壁に倚りかからせ、四方から土をかけて塗り固めて、その上に燈台を置けば、ふたたび祟りをなさないと言い伝えられている。  それと反対に、こちらが小人数で、相手が多数のときは、死ぬまでも絡み付いていられるので、よんどころなく前にいったような方法を取るのである。    海和尚、山和尚  潘なにがしは漁業に老熟しているので、常にその獲物が多かった。ある日、同業者と共に海浜へ出て網を入れると、その重いこと平常に倍し、数人の力をあわせて纔かに引き上げることが出来た。見ると、網のなかに一尾の魚もない。ただ六、七人の小さい人間が坐っていて、漁師らをみて合掌頂礼のさまをなした。かれらの全身は毛に蔽われてさながら猿のごとく、その頭の天辺だけは禿げたようになって一本の毛も見えなかった。何か言うようでもあるが、その語音はもとより判らない。  とにかくに異形の物であるので、漁師らも網を開いて放してやると、かれらは海の上をゆくこと数十歩にして、やがて浪の底に沈んでしまった。土人の或る者の説によると、それは海和尚と呼ぶもので、その肉を乾して食らえば一年間は飢えないそうである。  また、別に山和尚というものがある。  李姓のなにがしという男が中州に旅行している時、その土地に大水が出たので、近所の山へ登って避難することになったが、水はいよいよ漲って来たので、その人はよんどころなく更に高い山頂に逃げのぼると、そこに小さい草の家が見いだされた。それは山に住む農民が耕地を見まわりの時に寝泊まりするところで、家の内には草を敷いてある。やがて日も暮れかかるので、彼はそのあき家にはいって一夜を明かすことにした。  その夜半である。  大水をわたって来る者があるらしいので、李はそっと表をうかがうと、ひとりの真っ黒な、脚のみじかい和尚が水面を浮かんで近寄って来る。それが怪物らしいので、彼は大きい声をあげて人を呼ぶと、黒い和尚も一旦はやや退いたが、やがてまた進んで来るので、彼も今は途方にくれて、一方には人の救いを呼びつづけながら、一方にはそこにある竹杖をとって無暗に叩き立てているところへ、他の人びともあつまって来た。  大勢の人かげを見て、怪物はどこへか立ち去ってしまって、夜のあけるまで再び襲って来なかった。水が引いてから土地の人の話を聞くと、それは山和尚というもので、人が孤独でいるのを襲って、その脳を食らうのであると。    火箭  乾隆六年、嘉興の知府を勤める楊景震が罪をえて軍台に謫戍の身となった。彼は古北の城楼に登ると、楼上に一つのあかがねの匣があって、厳重に封鎖してある。伝うるところによれば、明代の総兵戚継光の残して置いたもので、ここへ来た者がみだりに開いて看てはならないというのである。  楊はしばらくその匣を撫でまわしていたが、やがて匣の上に震の卦が金字で彫ってあるのを見いだして、彼は笑った。 「卦は震で、おれの名の震に応じている。これはおれが開くべきものだ」  遂にその匣の蓋をひらくと、たちまちにひと筋の火箭が飛び出して、むこう側の景徳廟の正殿の柱に立った。それから火を発して、殿宇も僧房もほとんど焼け尽くした。    九尾蛇  茅八という者が若いときに紙を売って江西に入った。その土地の深山に紙廠が多かった。廠にいる人たちは、日が落ちかかると戸を閉じて外へ出ない。 「山の中には怖ろしい物が棲んでいる。虎や狼ばかりでない」  茅もそこに泊まっているうちに、ある夜の月がひどく冴え渡った。茅は眠ることが出来ないので、戸をあけて月を眺めたいと思ったが、おどされているので、再三躊躇した。しかも武勇をたのんで、思い切って出た。  行くこと数十歩ならず、たちまち数十の猴の群れが悲鳴をあげながら逃げて来て、大樹をえらんで攀じのぼったので、茅もほかの樹にのぼって遠くうかがっていると、一匹の蛇が林の中から出て来た。蛇は太い柱のごとく、両眼は灼々とかがやいている。からだの甲は魚鱗の如くにして硬く、腰から下に九つの尾が生えていて、それを曳いてゆく音は鉄の甲のように響いた。  蛇は大樹の下に来ると、九つの尾を逆しまにしてくるくると舞った。尾の端には小さい穴がある。その穴から涎がはじくようにほとばしって、樹の上の猴を撃った。撃たれた猴は叫んで地に落ちると、その腹は裂けていた。蛇はしずかにその三匹を食らって、尾を曳いて去った。  茅は懼れて帰った。その以来、彼も暗くなると表へ出なかった。 底本:「中国怪奇小説集」光文社文庫、光文社    1994(平成6)年4月20日初版1刷発行 ※校正には、1999(平成11)年11月5日3刷を使用しました。 入力:tatsuki 校正:小林繁雄 2003年7月31日作成 青空文庫作成ファイル: 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