オンチ 夢野久作 Guide 扉 本文 目 次 オンチ        一  大戦後の好景気に煽られた星浦製鉄所は、昼夜兼行の黒烟を揚げていた。毎日の死傷者数名という景気で、数千人を収容する工場の到る処に、殺人的な轟音と静寂とがモノスゴく交錯していた。  汽鑵場の裏手に在る庭球場は、直ぐ横の赤煉瓦壁に静脈管のように匐い付いている蒸気管のシイシイ、スウスウ、プウプウいう音で、平生でも審判の宣告や、選手の怒号が殆んど聞こえなかった。テニスの連中はだから皆ツンボ・コートと呼んでいたが、それがこの頃では一層甚しくなって来たために不愉快なのであろう。滅多にテニスをしに来る者が無くなった。  しかしその淋しい審判席の近くに、誰が蒔いたかわからないコスモスの花が咲乱れる頃になると、十月十七日の起業祭が近付いて来るので、正午休みの時間に、時々職工達が芝居の稽古に来る事があった。  秋日のカンカン照っているテニス・コートの上で、菜葉服の職工連が、コスモスの花を背景にして、向い合ったり、組み合ったりして色々なシグサを遣るのはナカナカの奇観であった。近まわりの工場の連中がワイワイ取巻いて見ているうちに、お釜帽を冠った機械油だらけの職工が、板片の上に小石を二つ三つ並べて、腰元らしく尻を振り振り登場すると皆、一時にドッと笑い出したりした。勿論セリフは全くわからないし、身形も作らない作業姿なので、最初は何が何だかサッパリわからなかったが、だんだんと場面が進行するにつれて外題がわかって来た。二人きりで相手を蹴倒おすのは「熱海海岸」。鉄砲を撃つのは「山崎街道」。大勢で棒を担いで並ぶのは「稲瀬川勢揃い」。中には何が何やらわからない新劇もあるが、そんなものでも誰云うとなく「嬰児殺し」だの「夜の宿」だのとわかって来るようになったので、しまいには一組も稽古に来ないようになってしまった。  つまり演る方では大丈夫、わからないつもりで演っているのを、見物の方で一生懸命になって筋を読み取ろうとする。寄ってたかって外題の当てっこを競争するようになったので、各工場の演物を秘密にしたい気持から、どこか、ほかの処で稽古をするようになったらしかった。        二  十月十日の水曜日の午前九時頃のこと。汽鑵部の夜勤を終った職工が三人、そのツンボ・コートを通抜けて来た。  中央に立って歩いて来るのは、この製鉄所切っての怪力の持主で、名前は又野末吉、綽名をオンチという古参の火夫であった。体重百四十斤に近い、六尺豊かの図体で、大一番の菜葉服の襟首や、袖口や、ズボンの裾から赤黒い、逞ましい筋肉が隆々とハミ出しているところは、如何にも単純な飾り気のない性格に見える。のみならず、いつもニコニコしている小さな眼の光りが、処女のように柔和なので、さながらに巨大な赤ん坊のように見えた。  その大股にノッシノッシと歩く又野の右側から、チョコチョコと跟いて来る小柄な男は、油差しの戸塚という青年で、敏捷らしい眼に鉄縁の近眼鏡をかけている。色の黒い、顔の小さい、栗鼠という綽名に相応しい感じの男。又、左側に大股を踏んばって、又野と歩調を合わせて来るスラリとした好男子は、修繕工の三好といって、相当学問のある才物らしく、大きな擬鼈甲縁の眼鏡をかけているが、三人とも無言のまま大急ぎでツンボ・コートを通抜けて、広い面積に投散らしてある鉄材の切屑をグルリとまわって、事務室の前から正門を通る広い道路まで来ると、やっと又野が口を利き出した。 「ああ。やっとこさ話の出来る処まで来た」 「まったく……あのスチームの音は非道いね。創立以来のパイプだから、塞ごうたって塞ぎ切れるもんじゃねえ」  三好が振返って冷笑した。「会社全体が、あの通り調子付いていやがるんだからな」 「シッカリ働け。ボーナスが大きいぞ」と又野が巨大な肩をゆすぶって見せた。三好が今一度冷笑した。 「テヘッ。当てになるけえ。儲けとボーナスは重役のオテモリにきまってらあ。働らくものはオンチばかりだ」 「この野郎……」と又野が好人物らしく笑いながら拳固を振上げた。三好が一間ばかり横に飛び退いた。 「アハハハ。その代り起業祭の角力の懸賞はオンチのものだろう」と戸塚がオダテるように又野を見上げた。又野が苦い顔をして笑った。 「インニャ。俺あ今年や角力取らん」 「エッ」二人とも驚いたらしく又野の顔を左右から見上げた。又野は真剣な──しかし淋しそうな顔をしていた。 「馬鹿な……オンチだなあ……みんな期待しているんじゃねえか。鼻の先に水引がブラ下がっているんじゃねえか。今年の起業祭には会社が五千円ぐらいハズムってんだから懸賞の金だって大きいにきまっているんだぜ。何故、取らねえんだ……オンチ……」 「ウウン。それじゃけに俺あ取らん。キット取れるものをば毎年、取りに出るチウ事は、何ぼオンチでも面火が燃えるてや……のう……」  といううちに又野はモウ赤面しながら苦笑した。正直一徹な性格が、その苦笑の中に溢れ出ていた。 「惜しいなあ。みんな君の力を見たがっているんだになあ」  と三好が諛うように又野を見上げた。その時に又野がパッタリと立止まった。 「アッ。きょうは十日……俸給日じゃろ」 「アハハ。いよいよオンチだなあ。だからこうして事務室の方へまわっているんじゃねえか」 「俺あ徹夜が一番、苦手じゃ。睡うて腹が減って叶わん。頭がボーとなって来る」  又野が毛ムクジャラの手の甲で顔をゴシゴシとこすった。ほかの二人も立止まった。 「ハハハ。俸給を忘れる奴があるかえ」と、笑いながら三好がポケットからバットの箱を出した。 「俸給は十時から渡すんだっけな」と戸塚もカメリヤの袋を出しかけた。 「……オイ……あれを見い……」  と又野が突然に背後を指した。  鉄屑の堆積越しにコスモスのチラチラ光るテニス・コートの向うから、事務員風の男が来かかっている。霜降背広に、カラの高い無帽の男で顔はよくわからないが、黒い鞄を両手で抱え込んで、何か考え考え俯向き勝ちの小急ぎに、仄白いサーブ・ラインを横切って来る。  その背後から今一人、鳥打帽を目深く冠って、黒い布片で覆面をした菜葉服の男が、新しい地下足袋を踏み締め踏み締め、殺気立った足取で跟いて来る。軍手を穿めた手にステッキ位の黒い棒をシッカリと構えているが、腰を屈げているので背丈の高さはわからない。 「ヘヘッ。……初めやがった。どこの工場だろう」  と三好が朗らかな口調で云った。三人は黙って見ていた。  そのうちに事務員風の男が、自分の影法師を踏み踏み、コートの真中あたりまで来たと思うと、その背後から、急に歩度を早めた菜葉服の男が躍りかかって、無帽の男の頭を黒い棒で殴り付けた。事務員風の男は一タマリもなく、黒い鞄を投出してバッタリと俯向けに倒おれた。 「アッ。殺りおったぞ……」  と又野が引返して駆出そうとするのを、三好と戸塚が腰に抱き附いて引止めた。 「……馬鹿……まあ見てろ……」 「……何……何かい……」  行きかけた又野が青くなって振返った。歯の根をガタガタいわせていた。 「……ヒ……人殺しやないか……」  三好が白い歯を剥出して笑い笑い又野の前に立塞がった。 「アハハ……馬鹿だな。よく見てろったら……あれあ芝居だよ。芝居の稽古だよ。第三工場の奴かも知れねえ」  又野が太い溜息を吐いた。そのまま棒立ちになって見ていた。  テニス・コートの上の菜葉服は、黒い棒を投棄てた。それは重たい鉄棒らしかったが、直ぐに事務員風の男の頭の処に走り寄って、顔を覗き込んだ。すると思いがけなく事務員風の男が半身を起して、盲目滅法に掴みかかったので、菜葉服の男は面喰ったらしい。その手を払い除けると、一度投棄てた黒い棒を取上げて身軽く事務員風の男の背後にまわった。こちらに背中を向けて黒い棒を振上げると、手といわず頭といわずメチャメチャに殴り付けて、とうとう地面に平ったくなるまでタタキ付けてしまったらしい。それはさながらに蛇をタタキ殺す時のように執拗な、空恐ろしいような乱打の連続であった。それから立上ってズボンのポケットから白い、折目正しいハンカチを引出して、帽子をすこし阿弥陀にしながら大急ぎで額の汗を拭いた。すべてが声の無いフイルムそのままの光景であった。 「ソレ見ろ。芝居じゃねえか」 「しかし真剣にやりよるのう」 「何だろう……探偵劇かな」  大急ぎで汗を拭いた覆面の菜葉服は、コートの上に投出された鞄を引っ抱えるとキョロキョロとそこいらを見まわした。遥かに三人の姿を認めたらしく、白い軍手を揚げてチョット帽子を冠り直すと、そのまま第三工場の鋳造部附属の木工場の蔭へ走り込んで行った。  コスモスが風に吹かれて眩しく揺れ乱れた。  その時に、あとに残った事務員風の男は、すこしばかり身動きしかけたようであったが、そのままグーッと身体を伸ばした。その拍子に白い額が真赤に血に染まっているのが見えた。 「アッ……本物だっ……」  三人の職工は誰が先ともわからないまま現場に駈付けた。  しかし、すべては手遅れであった。事務員風の男は頭蓋骨をメチャメチャに砕かれていたが、その悽惨な死に顔は、真正面に眼を当てられない位であった。その枕元に突立った三人は、無表情に弛んだ真青な顔を見交すばかりであった。  そのうちに両眼に涙を一パイに溜めた又野が、唇をワナワナと震わした。感情に堪えられなくなったらしくグッと唾液を呑んで、足元の無残な血だらけの顔を力強く指した。 「……ミ……見い……これが……芝居かッ……」  又野の両頬を涙がズウーと伝い落ちた。火の付くような悲痛な声を出した。 「……わ……わ……汝輩が二人で……コ……殺いたんぞッ……」  二人は恨めしそうな眼付で、左右から又野の顔を見上げた。しかし今にも飛びかかりそうな又野の、烈しい怒りの眼付を見ると、何等の抗弁もし得ないまま一縮みになってうなだれた。申合わせたように自分自分の影法師を凝視しつつ、意気地なく帽子を脱いだ。  それを見ると又野も、思い出したように急いでお釜帽子を脱いだ。死骸の顔を正視しつつ軍人のように上半身を傾けて敬礼した。何事か祈るように両眼を閉じると熱い涙をポタポタとコートの赤土の上に落した。 「……すまん……済みまっシェン……」  遥か向うを通る四五人の職工が、鉄片の堆積越しにこちらを見て、ゲラゲラと笑いながら事務室の中へ這入って行った。やはり芝居の稽古と思ったのであろう。  その間に死骸の顔の血を、自分の西洋手拭で拭いてやっていた戸塚は、突然に大きな声で叫んだ。 「……ウワアッ……西村さんだっ……」 「ナニ。何だって……」  とほかの二人……又野と三好が顔を近寄せて来た。スチームの音で聞こえなかったらしい。 「事務所の西村さんだよ。俸給係の……」 「何だ……俸給がどうかしたんか」 「馬鹿ッ。この顔を見ろッ。俸給係の西村さんだぞッ。俺達の俸給が持ってかれたんだッ」  と早口に叫んだ戸塚は、ほかの二人が呆気に取られているうちに素早く、直ぐ横の木工場に飛込んで行った。犯人のアトを追って行ったらしかった。  しかし戸塚は、そのまま帰って来なかった。  木工場と鋳造場と、その向うの薄板工場と、第一工場のデッキの下を潜り抜けて、購買組合の前から通用門を抜けると往来へ出る。そこから一気に警察へ駈け込んで行ったのであった。        三  警察はちょうど無人であった。海岸に漂着死体が在るという報告で、出動した後だったので、居残っていた田原という警部が、戸塚の話を聞いて、外から帰って来たばかりの思想係りの楠という刑事を呼んで一所に出かけようとした。そこへ又けたたましく電話がかかったので、田原警部が剣を釣りながら聞いてみると、今度は製鉄所の事務室から三好という職工が掛けたものであった。  田原警部はチエッと舌打をした。直ぐに小使を呼んで名刺の裏に鉛筆で走り書きをして海岸に走らせた。 「楠君。君、署長に電話をかけてこの男の話を取次いでくれ給え。製鉄所の公会堂で武道試合を見ている筈だから……多分、非常召集になるだろう。遣り切れんよ全く……」  騒ぎがだんだん大きくなって行った。盗まれた現金が十二万円という大金で、且つ、被害者の西村というのが、非常に評判のいい好人物だったせいでもあったろう。一つには死骸が二人の職工の手で事務室へ抱え移されていたために、現場の模様が全くわからなくなったので、取調べがだんだん大仕掛になって行って、犯人が逃込んだと思われる、木工、鋳造、薄板、第一工場の全部の職工が一人一人に訊問されたせいでもあったろう。  もちろんその時には星浦警察署と町の青年の全員が工場の周囲を蟻の這い出る隙もないくらい包囲していた。取調べには署長以下、警部と、部長と刑事の全員が大童になってスピードをかけたものであったが、それでも見当が付かなかったらしく、夕方になって、現場を見ていた三人の職工が今一度呼出されて、念入りな訊問の仕直しを喰ったが、それでも三人の答えは前の時とチットも変らないばかりでなく、ピッタリと一致するところばかりなので、何事もなく放免された。  製鉄所の裏門から銀行へ行って、製鉄所の資金の一部と、職工の俸給の全部を受取った西村は、札束の全部を、いつもの通りに黒ズックの鞄へ入れて、いつもの通りに銀行の前から人力車に乗って製鉄所の裏門の前まで来た。それから矢張り、いつもの通りの近道伝いにテニス・コートを通り抜けて、事務室へ帰る途中を要撃されたものに相違ない。むろん西村はあのテニス・コートが、そんなに恐ろしい処と知らなかったであろう。八方に見透しの利く安全無比の通路と思って通ったものであろう。同時に犯人は、工場内部の事情に精通している職工の一人に相違あるまい……という警察側の見込らしかった。  三人が警察の門を出た時には四隣がモウ真暗になっていた。生れて初めて警察官の取調を受けた又野は、すっかり毒気を抜かれたせいであったろう。昼間の昂奮も、怒りも忘れたように、元の木阿弥のオンチ然たる悄気返った態度に帰って、三好と戸塚の後からトボトボと出て来たが、そのまま三人が三人とも黙々として、人通りの多い明るい道を合宿所の方向へ歩き出した。  その中に三人が揃って薄暗い横町に曲り込むと、三人とも夢から醒めたように顔を見交した。 「オイ」 「何だい」  三人が揃って黒板塀の間に立佇まった。三好が帽子を脱いで頭を掻き掻き云った。 「俺は何だか大切な事を一つ警察で話し忘れて来たような気がするがなあ」 「何だい。すっかり話しちゃったじゃねえか」と戸塚が眼をパチパチさせた。 「ウン俺も何か知らん、一番大切な事をば云い忘れて来たような気がしてならん」  又野が街燈の光りを仰ぎながら初めて微笑した。戸塚が、その顔を振返りながら不安らしく云った。 「何も忘れた事あねえぜ。西村さんが殺されてよ……軍手をはめた手でなあ」 「そうよ。あの鉄の棒は警察で引上げて行ったろう。四分の一吋ぐらいの細いパイプだったが……なあ又野……」 「ウン。犯人は地下足袋を穿いとったって俺あ云うたが……」 「ウン。俺も地下足袋だと云ったがなあ」 「犯人が木工場へ這入るとコスモスの処を風が吹いたなあ」 「馬鹿。そんな事を云ったのかい」 「見た通りに云えと云うたから云うたてや」 「アハハハハハ犯人とコスモスと関係があるのかい……馬鹿だなあ」 「アッ。そうだ。あの菜葉服の野郎が白いハンカチで汗を拭いたって事を云い忘れてた」  と云ううちに三好が唇を噛んで警察の方向を振り返った。 「ウン。そうじゃそうじゃ。そういえば俺も思い出いた。云うのを忘れとった。四角に折ってあったなあ」  又野が、悪い事をした子供のように肩を窄めた。その横で戸塚が冷笑した。 「アハ。汗を拭くのは大抵ハンカチにきまってるじゃねえか」 「ウン。それもそうじゃなあ」 「しかし出来るだけ詳しく話せって云ったからな」 「ウン。それあそう云ったさ。しかしハンカチ位の事あ、どうでもいいだろう」と戸塚が事もなげに云い消した。三好が頭を掻いた。 「そうだろうか」 「そうだともよ。ナアニ。じきに捕まるよ。指紋てえ奴があるからな」 「木工場も鋳物工場の奴等も、呉工廠から廻わって来た仕事が忙がしいので、犯人が通ったか通らないか気が付かなかったらしいんだな。なあ戸塚……お前が通り抜けた時も、何とも云わなかったかい」 「ウン。慌てていたせいか、鋳型を一箇所踏潰したんで、怒鳴り付けられただけだ」  又野が大きな欠伸を一つした。 「ああ睡むい。帰ろう帰ろう」  しかし三人の職工の予期に反して、この犯人はなかなか捕まらなかった。  二千人以上居る職工の身元の全部が、虱潰しに調べ上げられたが、その結果は意外にも一人も居ない筈の赤い主義者の潜行分子が二三人発見されただけで終った。いよいよ職工以外の人間に着眼されなければならぬ順序になったが、しかしどこから見当を附けていいか、わからないらしかった。  新聞では盛んに書き立てた……白昼の製鉄所構内で衆人環視の中に行われた、天魔の如く大胆なる殺人強盗……犯人は大地に消え込んだか……実見者又野末吉氏談……前代未聞の怪事件なぞと……殊に後頭部を粉砕されながらも勇敢に抵抗した西村会計部員の奇蹟的な気強さを、製鉄所長と医学博士の談話入りで賞讃した。  西村の葬式は会社葬で執行された。職工たちの俸給はそれから二日遅れただけで、滞りなく渡された。  起業祭も寧ろ平常よりも盛大に行われた。又野は皆から勧められて渋々角力に出場したが、懸賞附の五人抜にはどうしても出なかったので、賞金は柔道の出来る構内機関手の手に落ちた。  そのうちに一箇月経つと警察もとうとう投出したらしく「遂に迷宮に入る」という新聞記事が出た。「十二万円の金の在所と、犯人を指摘した者には一割の賞金を出す」という製鉄所名前の広告と一所に……。星浦製鉄所の内外はこの話で持ち切った。又野の処へ改めて話を聞きに来る者もチョイチョイ出て来たが、又野は五月蠅がって何も話さなかった。ほかの二人の職工を引合いに出すような事もしなかった。        四 「なあ又野……戸塚の野郎が、何か大事な事を云い忘れているってこの間、警察署を出てから云ったなあ……暗い横町で……」 「ウン。云うとったが……それがどうかしたんかい」 「イヤ。別にどうって事はねえんだけど……」  菜葉服の三好と又野が、テニス・コートの審判席の処に跼んでいた。二人の背後にはまだ半枯れのコスモスが一パイに咲き乱れていた。久し振り半運転にした汽鑵場裏は、物を忘れたようにシインとして、晴れ渡った青空から太陽が暑いくらい降り注いでいた。  瘠せっぽちの三好は神経質らしく、擬鼈甲縁の眼鏡をかけ直して云った。 「戸塚の野郎は、俺あ赤じゃねえかと思うんだがなあ」  逞ましい腕を組んでいた又野が血色のいい顔を不愉快そうに撫でまわした。 「どうしてかいな」 「どうしてって事もねえけど、何だかソンナ気がするんだ。第一、彼奴はツイこの頃就職して来やがったんだろう。それから、あんなに慣れ慣れしく俺達に近寄って来やがった癖に、あの事件から後、急に俺達と他所他所しくし初めただろう。出勤にも帰宅にも一人ポッチで、例の処へ誘っても一所に来やがらねえ。おまけにアレから後というもの、ショッチュウ何か考えているような恰好をしているじゃねえか」 「ウン。そう云うてみれあ、そげなところもあるなあ。あれから後、このテニス・コートを何度も何度もウロウロしているのを見た事がある」 「なあ。そうだろう。俺も見たんだ。だから怪しいと思ったんだ。そうしたらこの頃はチョットもここいらへ姿を見せなくなった代りに、隙さえあれば第一工場に遊びに行きやがって、あそこのデッキ連中と心安くしているようだし、死んだ西村さんの家へ行って色々世話をしているかと思うと、事務所の連中とも交際うようになって、行きと帰りには毎日のように事務室に寄って行くらしい気ぶりじゃねえか」 「ウン。そらあ俺も気は附いとる。しかし何も、それじゃけに戸塚が、赤チウ証拠にゃあなるめえ」 「ウン。それあ証拠にゃあなるめえさ」  と三好は慌てて鼈甲縁をかけ直した。 「証拠にゃならねえが……俺達が味方にならねえと諦らめて、ほかの処へ同志を作りに行ったものと思えば、そうも見えるだろう」  そう云ううちに三好は、菜葉服のポケットからバットを出して、又野にも一本取らせて火を点けてやった。  二人はコートの端の草の上に尻餅を突いた。工場の上を長閑に舞っている二羽の鳶を二人とも仰ぎ見た。その上を流れる白い雲も……。 「恐ろしい疑い深い人間やなあお前は……」  又野はイヨイヨ不愉快そうに顔を撫でた。その横頬を熱心に見ながら三好は笑った。 「ハハハ。まだあるんだぜ。戸塚があの死体を西村さんと云い出すなり、直ぐに俸給泥棒と察して、追かけて行った時の素早かった事はどうだい。普通じゃなかったぜ。あの意気込は……」 「あの男は頭が良えけになあ。何でも素早いたい。今に限った事じゃなか」 「それがあの時は特別だったような気がするんだ。何もかも最初から知り抜いていたような気がするんだ。この頃になってやっと気が付いたんだが」 「フーン。そげな事が出来るかなあ」 「そればかりじゃないんだ。彼奴は警察でわざと大事な事を云い落しやがったんじゃねえかと思うんだ。俺に云い中てられて、慌てて云い消しよったろう」 「ハンカチの話かな」 「ウン。あのハンカチの一件は一番カンジンの話なんだが、戸塚の野郎が正直に話すか知らんと思ったから、俺は別々に訊問された時もわざと云わずにおいたんだ。そうして様子を探ってみたんだ」 「疑い深いなあ……お前は……」 「まだあるんだ。あの時の犯人は新しい地下足袋を穿いていたろう。コートの湿めった処に太陽足袋の足跡が、ハッキリと残っているのを君も僕も見たじゃないか。西村さんを抱え上げた時に……」 「ウン……見たよ」 「あれを戸塚が見やがった時に気が附きやがったに違いないんだ」 「何を……」 「犯人がインテリだって事を……」 「インテリたあ何かいな……インテリて……」 「学問のある奴だって事よ。知識階級……つまり紳士って意味だね。ねえ。そうだろう。あんなに真白い、四角く折ったハンカチなんか菜葉服の野郎が持つもんじゃねえ。タッタ一撃で殺っ付けるつもりだったのが、案外な抵抗を喰ったもんだから思わず汗が出たんだね。そいつを拭こうとして、うっかりポケットからインテリの証拠を引っぱり出して拭いちゃったんだ。新しい地下足袋ってのは間に合わせの変装用に買ったものに違えねえんだ」 「お前のアタマの方が、戸塚の頭よりもヨッポド恐ろしいぞ」 「アハハハ。冷やかすなってこと……アタマは生きてる中使っとくもんだ。まだあるんだぜ。……いいかい……西村さんが十四銀行から金を出して来るのはいつも十の日の朝で、九時キッカリらしいんだ。それから人力車に乗って裏門で降りて、ここを通って事務室へ行くんだろう……なあ……しかもここは、いつも芝居の稽古をやっている処だし、どんなに大きな声を出したってスチームの音で消えちまうんだから、誰が見ていたって本当の人殺しとは思わない。まさかに真昼間、あんな大胆な真似をする者が居ようなんて思い付く者は一人も居ないだろう。見ている人間は皆芝居の稽古だと思ってボンヤリ眺めているだろう……だから、真夜中の淋しい処で殺るよりもズッと安全だっていう事を前から何度も何度も考えて、請合い大丈夫と思い込んで計画した仕事に違いないんだから、ヨッポド凄い頭脳の奴なんだ。職工なんかにこの智恵は出ねえね。インテリだね。どうしても……」 「フーム……」  又野はバットを横啣えにしたまま白い眼で三好をかえりみた。膝を抱えたまま……。 「お前もインテリじゃなかとな」  三好は又野に睨まれてチョット鼻白んだ。 「インテリじゃねえけども……あれから毎日毎日考えてたんだ。だからわかったんだ」 「犯人の見当が付いたんか……そうして……」 「付いてる」 「エッ……」 「チャンと犯人の目星は付いてるよ」  又野はジロリとそこいらを見まわした。真正直な、緊張した表情でバットの灰を弾いた。 「戸塚が犯人て云うのか……お前は……」 「プッ……戸塚が犯人なもんけえ。俺達と一所に見てたじゃねえか。犯人なもんけえ」 「誰や……そんなら……」  又野が突然にアグラを掻いて、真剣な態度で三好の方向に向き直った。バッタが驚いて二三匹草の中から飛上った。  三好は答えなかった。事務室の方向を鼈甲縁越しにジイッと見ていたが、そのまま非常に緊張した、青褪めた顔をして云った。 「誰にも云っちゃいけないぜ。懸賞金は山分けにするから……」 「そげなものはどうでも良え。西村さんの仇讐をば取ってやらにゃ」  三好はやっと振り返った。 「それよりも、もし戸塚が万が一にも赤い主義者だったら大変じゃねえか。君は在郷軍人だろう」 「ウン。在郷軍人じゃが、それがどうしたんかい」 「どうしたんかいじゃねえ。彼奴の手に渡ると十二万円が赤の地下運動の軍資金になっちまうぜ」 「ウン。それあそうたい」 「腕を貸してくれるな……君は……」 「ウン。間違いのない話ちう事がわかったら貸さん事もない」 「そんなら耳を貸せ」  三好は又野の耳に口を当てて囁いた。 「その犯人が今ここに来る」 「エッ……」 「見ろ……今事務室の方からテニスの道具を持った連中が五人来るだろう。あの中に犯人が居ると俺は思うんだ。いつでもここでテニスを遣りよる連中だ。ここで何度も何度もテニスを遣って、ドンナ大きな声を出しても、ほかに聞こえない事をチャンと知っている奴が、思い付いた事に違えねえじゃねえか。見てろ……俺の云う事が当るか当らねえか……」 「サア……」  そう云う又野の表情が、いくらか緊張から解放されかけた。三好の推測が、すこし当推量に過ぎるのを笑うつもりらしかった……が……その笑いかけた顔が間もなく、前よりもズッと青白く緊張して来た。審判席の草叢の中から、コスモスの花の中へジリジリと後退りをし初めたが、その肩に手をかけて、又野と同じ方向を見ていた三好も、すこし慌て気味で中腰になった。 「オイ。いけねえいけねえ。あの中に戸塚が居やがる」 「……ウン……居る。あの奴もテニスの連中に眼を付けとるばい。……不思議だ……」  又野が深い、長い溜息を吐いた。 「不思議どころじゃねえ。早く隠れるんだ。俺達二人が揃っているのを戸塚に見られちゃ面白くねえ。……こっちに来たまえ」  三好と又野は慌てて草の中から立上った。二人とも何気なくバットの吸いさしを投棄てて、薄暗い汽鑵場へ引返した。ボイラーから程遠い浴場の煉瓦壁に、三ツ並んで残っている古いパイプの穴から、肩をクッ付け合わせてテニス・コートを覗いた。二人の眼の前にコスモスが眩しくチラチラして邪魔になった。  ネットはもう張られていた。  第一製鋼工場の副主任の中野学士と、職工の戸塚と、事務室の若い人間が三人来て軟球の乱打ちを初めていた。中野学士と戸塚が揃いの金口を啣えていた。 「オイ、三好。中野さんと戸塚の野郎は前から心安いんか」  三好が仄白い光りの中で片目をつぶって笑った。 「戸塚は中野さんの世話で製鉄所へ入ったんだ。自分でそう云ってたじゃねえか」 「そうじゃったかなあ……忘れた……」 「中野さんの処へ戸塚の妹が、女中になって住込んでいる。その縁故なんだ」 「そうじゃったかなあ……なるほど……」 「中野さんは九大出の秀才で、柔道が三段とか四段とか……」 「うん。それは知っとる。瘠せとるがちょっと強い。一度、肩すかしで投げられた事がある」 「この頃、社長の星浦さんの我儘娘を貰うことになっているんだ……中野さんが……」 「知っとる。あの孔雀さんちうモガじゃろ」 「ウン。それで社長から海岸通りに大きな地面を貰っているんだが、結婚前に家を建てなくちゃならんし、自動車も買わなくちゃならねえてんで、中野さんが慌て出している。相場に手を出したり、高利貸から金を借りたりしているっていう戸塚の話だ」 「戸塚の妹が喋舌ったんか」 「そうらしいよ」  コスモスの向うの中野学士はほかの四人の指導者格らしく、中央のネット際に立って前後でボールを打ち合っている四人に色々苦情を云い初めた。 「戸塚ッ……お前はどこでテニスを遣ったんだっけね」 「中学で遣ったんです。後衛でしたが」 「スタートが遅いね。我流だね。ホラホラ……」 「ええ。この拝借した地下足袋が痛くって……」 「ハハハ……俺の足は小さい上に、足袋が新しいからね」 「これ……太陽足袋ですね」 「ウン……辷らないと云うから試しに買ってみたんだが……やっぱりテニス靴の方がいいね。窮屈で、重たくて、辷る事は同じ位、辷るんだからあそこに投込んでおいたんだ」 「いつ頃お求めになったんですか」 「……………」 「非常に丈夫そうですが、どこでお求めになったんで……」 「……………」  中野学士は返事をしなかった。直ぐに真向うの事務員の一人を叱り飛ばした。 「馬鹿……そんな遠くからトップを打ったって利かん利かん……ソレこの通り……ハッハッハ……」  と高笑いをするうちに、その事務員の足の下へ火の出るようなヴォーレーをタタキ返した。その得意そうな背後姿を睨みながら、戸塚が地下足袋の裏面をチョット裏返してみた。そうして何気ない恰好で、飛んで来る球に向って身構えたが、間もなく顔中に勝ち誇ったような冷笑を浮かみ上がらせた。  三好と又野は壁の穴から身を退いて、恐る恐る顔を見交した。二人とも笑えないほど緊張していた。やがて又野が深い、長い溜息を一つした。 「……そうかなあ……彼奴かなア……」  セカセカと眼鏡をかけ直しながら三好はうなずいた。又野は茫然となった。 「そうかなあ……ヘエーッ……」 「まだ疑っているのかい。タッタ今、自分で犯人だって事を自白したじゃねえか」 「……フーム……」 「又野君……」 「……………」 「今夜、俺と一所に来てくれるかい」 「どこへ……」  三好の眼鏡が場内の電燈を反射してキラリと光った。命令するように云った。 「どこへでもいいから一所に来てくれ。六時のボーが鳴ったら俺が迎えに行く。俺一人じゃ出来ねえ仕事だかんな」  又野が黙って腕を組み直して考え込んだ。三好が冷然と見上げ見下した。 「嫌になったのかい。それとも怖くなったんかい……」 「ヨシッ……行く……」 「きっとだよ」 「間違いない」 「大仕事になるかも知れないよ」 「わかっとる」 「生命がけの仕事になるかも……」 「ハハハ。わかっとるチウタラ……」        五  星浦製鉄所はさながらの不夜城であった。鎔鉱炉、平炉から流れ出すドロドロの鉄の火の滝。ベセマー炉から中空に吹上げる火の粉と、高熱瓦斯の大光焔。入れ代り立代り開く大汽鑵の焚口。移動する白熱の大鉄塊。大坩堝の光明等々々が、無数の煙突から吐出す黄烟、黒烟に眼も眩むばかりに反映して、羅馬の滅亡の名画も及ばぬ偉観、壮観を浮き出させている。その底に整然、雑然と並んでいる青白いアーク燈の瞬きが、さながらに興国日本の、冷静な精神を象徴しているようで、何ともいえず物凄い。  第一製鋼工場の平炉は今しも、底の方に沈んでいる最極上の鋼鉄の流れを放流しつくして、不純な鉱石混りの、俗に「鈹」と称するドロドロの火の流れを、工場裏の真暗い広場に惜し気もなく流し捨てている。  暗黒の底に水飴のように流れ拡がる夥しい平炉の白熱鉱流は、広場の平面に落ち散っている紙屑、藁屑、鋸屑、塗料、油脂の類を片端から燃やしつつグングンと流れ拡がって行く。その端々、隅々から赤や、青や、茶色の焔がポーッと燃え上るたんびにそこいら中が明るくなって、又、前にも増した暗黒を作って行く物すごい光景を、薄板工場の中から湧き起るケタタマシイ雑音の交錯が伴奏しつつ、星だらけの霜の夜を更けさせて行く。  その数百坪に亘る「鈹」の火の海の上へ、工場の甲板から突出ている船橋めいたデッキの突端に、鳥打帽、菜葉服姿の中野学士が凝然と突立って見下している。地の下から噴き出す何かの可燃性瓦斯が、火の海の中央を噴破って、プクリプクリと眩しい泡を立てている、その一点を凝視したまま動かない。その瘠せた細面にかけた金縁の眼鏡に火の海が反射して小さな閃光を放っている。  その背後にモウ一人、職工姿の戸塚が、影法師のように重なり合って突立っている。鳥打帽を冠って、眼鏡をかけているところまで中野学士とソックリである。それが中野学士の背後から覗き込むようにして、何かヒソヒソ囁やいている様子であったが、やがて返事を催促するかのように中野学士の肩に両手をかけてゆすぶった。 「返事はどうですか……中野さん……」 「……………」 「ここで返事すると云ったじゃありませんか……ええ……」 「……………」 「貴方は今夜は現場勤務じゃないでしょう。出勤簿には欠勤の処に印を捺しておられるでしょう」  中野学士が微かにうなずいた。それから悠々と金口煙草を一本出してライターを灯けた。 「……あっしを……それじゃ……オビキ出すために、あんな事を云ったんですか……ここまで……」  戸塚は脅びえたように足の下の火の海を見た。中野学士がそう云う戸塚の顔を振返って冷然と笑った。白い歯並が暗に光った。 「暑いじゃないですかここは……丸で蒸されるようだ」 「……フフン……百二三十度ぐらいだろうな……この空気は……フフン……」 「……あっちに行って話しましょうよ。もっと涼しい処で……」 「……イヤ。僕はここに居る。ここで考えなくちゃならん」 「何をお考えになるんですか」 「この鈹の利用方法さ」 「この火の海のですか」 「ウン……この鈹の中には最小限七パーセント位の鉄分を含んでいる。この中から純粋の鉄を取るのは、非常に面倒な工程が要るので、こうやって放置して、冷却してから打割って海へ棄てるんだが、折角、こうして何千度という高熱に熱したものを、無駄にするのは惜しいものなんだ。ほかの技師連中はコイツをブロックにするとか、瓦を作るとか云って騒いでいるが、僕一人で反対して頑張っているんだ。だから、いつも職工が帰ってからここに来て、この火の海の中から簡単に純鉄を取る方法を考えているんだがね」 「今も考えているんですかい」 「ウン……重大なヒントが頭の中で閃めきかけているんだ。暫く黙っていてくれ給え」  戸塚は自烈度そうにそこいらを見まわして舌打ちをした。 「チエッ……いい加減、馬鹿にしてもらいますめえぜ。十二万円の話はドウしてくれるんですか」 「十二万円……何が十二万円だい」 「……………」 「十二万円儲かる話でもあるのかい」  戸塚は唖然となったらしい。狭いデッキの上で、すこし中野学士から離れた。 「……呆れたね……」 「そんな話は知らないよ僕は……夢を見ているんじゃないか君は……」  戸塚の眼が眼鏡の下でキラリと光った。菜葉服の腕をマクリ上げかけたが又、思い直したらしく、鳥打帽を脱いで頭を下げた。 「……イヤ……中野さん。決して無理は云いません。四半分でいいんで……ねえ。それ位の事はわかってくれてもいいでしょう。貴方は大学を一番で出た優等生だ。これからの出世は望み次第だ。第一頭がいいからね。西村さんを殺った腕前なんざ凄いもんだぜ」  中野学士の眼鏡が反撃するようにピカリと赤く光った。 「……失敬な……失敬な事を云うな。西村を殺ったのは貴様か、三好と二人の中の一人だろう」  戸塚は冷然と笑った。 「ヘヘヘ。その証拠は……」 「九月の末に、お前と三好と俺とでテニスを遣った事があるだろう」 「ありましたよ。三好が、あっしに勧めて貴方にお弟子入りをしようじゃないかと云い出したんです。三好が、一番下手なんで、貴方が三好ばかりガミガミ云ったもんだから、あれっきり来なくなっちゃったんですが……」 「ウム。あの時に会計部の西村がコートの横を通りかかったろう」 「ヘヘ。よく記憶えているんですね」 「今度の事件で思い出したんだ。……あの時も半運転だったからスチームの音がしなかったが、その西村の顔をジロリと見た貴様が……イヤ……三好だっけな……スチームが一パイ這入ってれあここで鵞鳥を絞め殺したって、生きながら猿の皮を剥いだって大丈夫だ……てな事を云ったじゃないか」 「そんならそれを聞いた貴方と、三好と、あっしと、三人の中の一人が犯人でしょう」 「俺はソンナ事をする必要はない」 「必要はなくても貴方に間違いないですよ」 「何……何だと……」 「ヘヘヘ……あの時に貴方の仕事を、ズッと向うの事務所の前から拝見していたのは、あっしと三好と、又野の三人ですぜ。貴方は近眼だからわからなかったんでしょうけど……貴方は警察に呼ばれて話をしたのが又野一人と思っていらっしたんですか。又野が一番正直者ですから代表に名前を出されただけなんですぜ。ヘヘヘ……貴方にも似合わない迂濶な新聞の読み方をしたもんですなあ」 「……………」 「ねえ。そうでしょう。立役者は何といったって貴方一人だ。貴方にはチャンとした必要があったんだ。だからあの話から思い付いて、万が一にも抜目の無えつもりでキチンとした計画を立てたのが、いけなかったんですね。つまり貴方の頭が良過ぎたんだ」 「……………」 「ねえ。そうでしょう。今貴方がお穿きになっているその新しい太陽足袋ですね。そいつがきょう、テニス・コートで物をいっちゃったんでさあ。あの話は、ほかの連中もみんな聞いているんですからね。あっしが出る処へ出れあ、証人はいくらでも……」 「よしッ。わかったッ。もう云うな……半分くれてやる」 「エッ。半分……」と戸塚が叫んだ。 「……ヘエッ……半分ですって……」 「同じ事を二度とは云わん。テニスの道具を蔵ってあるあの部屋のラケット箱の下に床板の外れる処が在る。その下に在る新聞紙包みをここへ持って来い」  戸塚は茫然となって相手の顔を見た。相手の顔はニコニコしていた。 「……馬鹿……何をボンヤリしているんだ。その新聞紙包みをここに持って来いよ。分けてやるからな。テニス倉庫の鍵はこれだ。ホラ……」  戸塚は何という事なしに、慌てて頭を一つ下げた。鍵を受取ってポケットに入れようとしたが、その一刹那に片手でデッキの欄干に掴まっていた中野学士が鮮やかな足払いをかけた。 「アッ」と叫ぶなり戸塚はモンドリ打って火の海へ落ちて行った。 「ボオオ──ンンン……」  それは十海里も沖で打った大砲のような音であった。火の海の表面から湧き起った仄黄色い水蒸気と、煙と、焔の一団が、渦巻き合いながら中空の暗へ消え入ると、あとに等身大の大の字形の黒い斑点が残っていたが、それとてもやがて又、何の痕跡も留めない赤い火の海平面に復帰して行った。  ただ、それだけであった。        六  中野学士はポケットから白いハンカチを出して顔を押えていた。それでも噎せるような焼死体の異臭に鼻を撲たれてペッペッと唾液を吐いた。  その序にニッコリと笑って平炉の広い板張のデッキへ帰りかけたが、そのニコニコ笑が突然に、金縁眼鏡の下で氷り付いてしまった。  板張りのデッキへ帰る三尺幅ぐらいの鉄の橋の向うに一人の巨漢がこっちを向いて仁王立になっている。火の海の光りを反映した、その顔は怒りに燃えているようである。高やかに組んでいる両腕の太さは普通人の股ぐらいに見える。  中野学士は思わず半歩ほど後へ退った。キッと身構えをしてその男を白眼んだ。折柄、遥か向うで開いた汽鑵場のボイラーの焚口が、向い合った二人の姿を切抜いたように照し出した。  中野学士はジリジリと身構えを直しながらも左右の拳を握り締めた。「何だ君は……」  相手の巨漢は動かなかった。「俺は汽鑵部の又野という釜焚きだ」 「知っている。……職場以外の人間がこのデッキへ上る事は厳禁だぞ。俺はここの主任だぞッ」  中野学士の語尾が少し甲走った。又野の瞳がキラキラと光った。 「知っとる……貴様は今、何をしよった。俺の仲間の戸塚をどうしたんか」 「戸塚は自分で辷って落ちたんだ」 「……嘘吐け……」 「退けと云うたら退け……」  中野学士は相手が自分を殺すような乱暴者でない事を確信していたらしい。同時に自分の柔道の段位にも、相当の自信を持っていたらしく、イキナリ真正面から又野を突き退けてデッキの平面に立つと、間髪を容れず、立直って来る又野の足を目がけて、猛烈な足払いをかけた……が……ビクともしない……と思った瞬間に又野の巨大な両手が、中野学士の襟首にかかって、ギューギューと絞付けて来た。 「エベエベエベエベエベエベ……」  という奇妙な声を上げたと思うと中野学士は、背中と尻のふくらみを又野の両手に掴まれたまま、軽々と差上げられていた。  又野は怒りの余り、中野学士を火の海へ投込むつもりらしかったが……トタンに、それと察した中野学士が無言のままメチャクチャに手足を振まわし初めたので、又野は思わずヨロヨロとなってデッキの端に立止まった。  その時に誰かわからない真黒い影が、突然に平炉の蔭から飛出して来た。又野の腰を力一パイ突飛ばすとそのまま、後も見ずに逃げて行った。 「アッ……」  と又野は前へのめったが、振返る間もなく中野学士を掴んだままギリギリと一廻転して、真逆様に落ちて行った。  しかし又野は下まで落ちて行かなかった。  ちょうど又野の両足の間に、鉄板の腐蝕した馬蹄型の穴が在った。そこに又野の左足の踵が引っかかったために、片足で逆釣りに釣られたまま中野学士の背中と尻をシッカリと掴んでいた。同時に中野学士の顔は、四尺ばかりを隔てた真上から火の海に直面してしまったので、その恐ろしい火熱に焙られた中野学士は地獄のような悲鳴をあげた。 「……ガガアーッガガアーッ……助けて助けてッ……」  金剛力に掴まれた中野学士の服地がベリベリと破れ裂け初めた。 「動いちゃイカンイカン。中野さん。助けます助けます……動いちゃ……イカン……」  又野も絶体絶命の涙声を振り絞った。 「オーイ。誰か来いッ。誰かア……誰か来てくれエエーイッ。オオ──オオ──イッ。あばれちゃいかん。あぶないあぶない……」 「何だ何だ」という声がデッキの上の闇から聞こえて、ガタガタと二三人走って来る足音がした。  しかし中野学士の耳には這入らないらしかった。火焔と同じくらいの熱度を保った空気に迫られて動くまいとしても動かずにいられなかったのであろう。死物狂いに手足を振り動かして火の海に背中を向けようとした。 「ギャアギャアギャア……ギャギャギャギャッ……」  と人間離れのした声を立てた。その背中を掴んでいる又野も、絶体絶命の赤鬼みたような表情に変った。自分の踵がポリポリポリと砕けて脱け落ちそうな苦しみの中に、息も絶え絶えになって喘いだ。 「ハッハッハッハッ……あばれちゃ……いかん……ハッハッハッハッ……動いちゃ……」  折柄起った薄板工場の雑音のために、その声は掻き消されて行った。  その時に中野学士の胸のポケットからハミ出していた白いハンカチが、フワリと火の海の上に落ちてメラメラと燃え上った。トタンに中野学士が人間の力とは思われぬ力と声を出した。 「……グワ──アアッ……」  中野学士のお尻の処の布地が、又野の指の間で破れて、片足が足首の処まで火の海の中へ落ち込んだのであった。同時に硫黄臭い水蒸気と、キナ臭い煙を多量に交えた焔が燃え上って、又野の顔から胸の処まで包んだ。しかしそれでも又野は中野学士の背中を離さなかった。中野学士も又野の両腕にシッカリと抱き付いたまま膝から下を燃やしていた。  近付いて来た足音が、その上で立止まった。 「ここだここだ。ワッ。臭いッ」 「ウア──。大変だ。人間が焼け死によるぞッ」        七  暁の光りと、明け残った半月の光りが、雪のように真白な大地の霜を、静かに照していた。  星浦駅前の砂利だらけの広場に、淡い影法師を落しながら、鼈甲縁の眼鏡をかけた三好がスタスタと遣って来た。とても職工とは見えないスマートな茶縞の背広服に黒い冬オーバーの襟を深く立てて、左脇に四角い新聞紙包みをシッカリと抱えている。  一番汽車に乗るつもりであろう。暗い待合室に這入ったが、まだ時間が早いし、切符売場の窓が開いていないので、ちょっと舌打をしたまま悠々と出て行こうとした。その序に、黄色い電燈に照らされた待合室を見まわすと、ギョッとしたらしく立止まった。  改札口に近い右手の片隅には、青いネルの布片に頬冠りをして毛布で身体を包んだ老婆が、シッカリとバスケットに獅噛み付いて眠っていた。  その反対側の入口に近い処に、全身を繃帯で真白に包んだ、スバラシク巨大な大入道が、腰をかけていた。その左足には石膏か何か嵌まっているらしく、普通の人間の胴ぐらいの大きさになっている。おまけに履物も何も履いていないので、綿と繃帯で包んだ白い象の足みたいな足の裏が泥だらけになっている。  三好は、あんまり意外千万な人間の姿を見てビックリしたらしく立竦んだ。……コンナ人間がこの霜朝に汽車に乗ってどこへ行くのだろう。もしや、これはどこかのお祭りの人形か、それとも何かの標本ではないか……と疑ったらしく、すっかり気を取られて見上げ見下していたが、そのうちにその真白な、潜水器じみた巨大な頭の穴から、ジロジロと光る眼が、一心に三好を見ているのに気が付いた。  三好は思わずドキンとした。白い大入道の中味が、生きた人間である事を発見したので……そうしてその眼の光りが、何となく見覚えがあるようで……しかも何かしらニコニコと笑っているような気はいに惹き付けられて、真正面からソーッとその暗い、繃帯の穴を覗き込んでいたが、忽ちハッと全身を固張らせる拍子に、一尺ばかり飛上った、そのまま後も見ずに待合室を飛び出して行こうとする背後から、何かしら巨大な、フワフワするものが抱き付いた。振返ってみる迄もなく、それが今の白坊主である事がわかった。 「ウワアッ」  と三好は夢中になって藻掻いたが、白坊主の力は意外に強く、肩先を羽がい締めにして来るので呼吸が詰まりそうになって来た。そのうちに白坊主は三好を抱えたまま、よろよろとよろめいて背後の腰かけに尻餅を突いた。 「ダアッ……ガワガワガワガワ……ウガ──ッ……」  三好の叫び声を聞いた駅夫や駅員と、あとから人力車に乗って来た乗客が二三人、近寄って来たが、あんまり奇妙な光景なので、茫然として入口に突立ったまま見ていた。  その時に白坊主が、三好の耳に鼻の穴を近づけた。カスレた声で囁いた。 「……俺が誰か……わかるか……」 「ウア──ッ……ウワア──ッ……」  と三好は悲鳴を揚げて藻掻き狂った。相手の声を聞くと同時に、恐怖が数倍したらしかった。スマートな長身の若紳士が、真白い大入道に抱き付かれて、半狂乱に暴れている光景……それを通じてわかる白入道の超人的な怪力と、血も涙もない冷静な怒り……見ている連中は石のように固くなってしまった。 「……幽霊だあッ……ウワア──ッ……」 「幽霊じゃない……」  白坊主が底力のある声で云った。 「貴様に焼き殺され損のうた又野たい。死んだ三人の仇讐をば取りに来たとたい」 「ウワーッ。助けてくれ……俺が悪かった。俺が悪かった。十二万円遣る……ホラ……」  三好が投げ出した新聞紙包みが、白坊主の肩を越して、背後の腰掛にドタンと落ちた。 「ハハハ。十二万円ぐらいじゃ足らん」  白坊主の声がだんだん慥かに、大きくなって来た。取巻いている人間が皆聞いていた。 「……十二万円ぐらいの事でここまで来はせん。……俺は五体中を火傷した儘、今朝、製鉄所の病院で息を吹き返いた。……それでヒョッと貴様が、昨夜のうちに金を探し出いて、ここへ来はせんかと思うて、死ぬる思いで、暗いうちに病院を脱出いて、塀を乗越いて、ここへ来たんだぞ。眼の眩むほど痛いのを辛棒して待っておったんだぞ。貴様の生命を貰おうと思うて……」  そう云ううちに白坊主は、相手の返事を聞くべく、すこしばかり両手を緩めた。 「ウワ──ッ。違う違う……皆さん。こいつの云う事は皆嘘です。キチガイです。どぞ……どうぞ……助けて下さい。僕を殺しに来ているんです。キチガイ病院から抜け出して……」 「ハハハ……何とでも云え……今度の事件は皆、貴様がたくらんだ事じゃ。戸塚に智恵を附けて、中野学士をそそのかして西村を殺させた。それから俺を使うて、あげな非道い事をさせたに違わん。俺は今朝、気が付いてから色々考えとるうちに、やっとわかったんじゃ。貴様こそ、この製鉄所に入込んどる赤い主義者の頭株に違いないぞ……もう助からんぞ……」 「ウハアッ……違う違う。タ、助けて下さい。皆さん助けて下さい。……コイツはキチガイ……」 「畜生……まだ云うかッ……」  白坊主は三好を抱えたまま腰かけの上に坐り直した。両腕にグッと力を入れ初めた。 「ギャアギャアギャアギャアギャアギャア……」  それは鳥とも獣とも付かぬ声であった。必死の努力で手足を突張りながら、白い繃帯の上から又野の両腕に噛み付いたが、何の役にも立たない事がわかると、又叫び初めた。 「ギャギャギャギャ、ギイギイギイギイッ……」  往来を通りかかっていた人が皆、走り集まって来たので待合室の中が急に、暗くなった。  その中で三好の左右の肩骨がゴクンゴクンと折れ離れる音がした。 「ダダッ。ガガッ。ギイギイギイ──ッ……」  青鬼のようになった三好の両眼が、酸漿のように真赤になった……と思ううちに鼻の穴と、唇の両端から血がポタポタと滴たり出した。  余りの恐ろしさに見物人がドロドロと背後に雪崩れた。その背後から佩剣の音がガチャガチャと聞こえて来た。 「どこだ……どこか……」 「ここです」 「ここで絞め殺されよります」  と店員風の若い男が二人を指した。その間を押し分けた制服の巡査が、肩を怒らして這入って来たが、白い大入道に抱きすくめられて血を吐いている人間の姿を見ると、 「アッ」  と云って棒立ちになった。  その巡査の眼の前の混凝土の上に又野は、三好の死骸をドタリと突き放した。血に染まった丸坊主の両腕を突出してヨロヨロと立上った。腰をかがめてヒョコリとお辞儀をした。 「酒田さん。私は昨夜、第一工場で貴方のお世話になった又野です。大火傷をしました製鉄所の職工です」 「……何だ……又野か……」  巡査はホッとしたらしかった。そうして背後を振返りながら群衆を追い払った。 「退け退けッ」  疎らになった群衆の背後から、今出たばかりの旭がキラキラと映し込んで来た。  白坊主の又野は眼を細くしてその光りを仰いだ。嬉しそうな、落付いた声で云った。 「十二万円は私の背後に在ります。その新聞紙包です。……私は犯人の三好を絞め殺しました。これで、やっと腹が癒えました。……縛って……下さいまっせ──」  そうして気力が尽きたらしく、両手を前に突出したまま、見物人の中央にバッタリと倒おれた。 底本:「夢野久作全集10」ちくま文庫、筑摩書房    1992(平成4)年10月22日第1刷発行 入力:柴田卓治 校正:ちはる 2001年3月23日公開 2006年2月22日修正 青空文庫作成ファイル: 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