難船小僧 夢野久作 Guide 扉 本文 目 次 難船小僧  船長の横顔をジッと見ていると、だんだん人間らしい感じがなくなって来るんだ。骸骨を渋紙で貼り固めてワニスで塗上げたような黒いガッチリした凸額の下に、硝子球じみたギョロギョロする眼玉が二つコビリ付いている。マドロス煙管をギュウと引啣えた横一文字の口が、旧式軍艦の衝角みたいな巨大な顎と一所に、鋼鉄の噛締機そっくりの頑固な根性を露出している。それが船橋の欄干に両肱を凭たせて、青い青い秋空の下に横たわる陸地の方を凝視めているのだ。  そのギロリと固定した視線の一直線上に、巨大な百貨店らしい建物の赤い旗がフラフラ動いている。その周囲に上海の市街が展開している上をフウワリと白い雲が並んで行く。  ……といったような無事平穏な朝だったがね。昭和二年頃の十月の末だったっけが……。  足音高く船橋に登って行った俺は、その船長の背後でワザと足音高く立停まった。 「おはよう……」  と声をかけたが渋紙面は見向きもしない。何しろ船長仲間でも指折の変人だからね。何か一心に考えていたらしい。  俺は右手に提げた黄色い、四角い紙包を船長の鼻の先にブラ下げてキリキリと回転さした。 「御註文の西蔵紅茶です。やッと探し出したんです」  船長はやっと吃驚したらしく首を縮めた。無言のまま六尺豊かの長身をニューとこっちへ向けて紅茶を受取った。 「ウウ……機関長か……アリガト……」  とプッスリ云った。コンナ時にニンガリともしないのがこの渋紙船長の特徴なんだ。取付きの悪い事なら日本一だろう。こんな男には何でも構わない。殴られたらなぐり返す覚悟でポンポン云ってしまった方が、早わかりするものだ。 「……昨夜、陸上で妙な話を聞いて来たんですがね。今度お雇いになったあの伊那一郎って小僧ですね。あの小僧は有名な難船小僧っていう曰く附きの代物だって、皆、云ってますぜ」  俺はそう云いさしてチョックラ船長の顔色を窺ってみたが、何の反応も無い。相も変らず茶色の謎語像みたいにプッスリしている。無愛相の標本だ。 「あの小僧が乗組んだ船はキット沈むんだそうです。I・INAって聞くと毛唐の高級船員なんか慄え上るんだそうです。乗ったら最後どんな船でも沈めるってんでね。……だから今度はこのアラスカ丸が危えってんで、大変な評判ですがね。陸上の方では……」  これだけ云っても船長の渋紙面は依然として渋紙面である。ネービー・カットの煙をプウと吹いた切り、軍艦みたいな顎を固定してしまった。しかし黒い硝子球は依然として俺の眼と鼻の間をギョロリと凝視している。モット俺の話を聞きたがっているらしいんだ。 「あの小僧は小ちゃくて容姿が美いので毛唐の変態好色連中が非常に好くんだそうです。あの小僧も亦、毛唐の高級に抱かれるとステキに金が儲かるんで、船にばっかり乗りたがるんだそうですが、不思議な事にあの小僧が乗った船で、沈まない船は一艘も無いんだそうです。初めてあの小僧を欧州航路に雇傭した郵船のバイカル丸が、ジブラルタルで独逸のU何号かに魚雷を喰わされた話は誰でも知っているでしょう。そん時に漂流端舟に這い上ってハンカチを振ったのが彼小僧のSOSの振出しだそうですがね。……それから第二丹洋丸がスコタラ沖でエムデンにアッパーカットを喰わされた時も、あの小僧は丁度、新式救命機の着込み方のモデルにされていたところだったそうで、そのまんま飛込んで助かっちまったんだそうです。……まあ運の良い奴といえばいえましょうが、彼小僧の運が良いたんびに船全体の運命がメチャメチャになるんだから敵いません。……まだ他にも二三艘、大きな船を沈めているんだそうですが、そんなに大きな船でなくとも、チョット乗った木葉船でも間違いなく沈めるってんで、迚も凄がられているんです。早い話が房州通いの白鷺丸にチョイと乗組んだと思うと、直ぐに横須賀の水雷艇と衝突させる。毛唐の重役の随伴をしてブライトスター石油社の超速自働艇に乗ると羽田沖で筋斗返りを打たせるといった調子で、どこへ行っても泣きの涙の三りんぼう扱いにされているうちに、運よく神戸でエムプレス・チャイナ号のAクラス・ボーイに紛れ込んで知らん顔をして上海まで来た。そいつを、どこかで伊那の顔を見識っていた毛唐の一等船客が発見して、あの小僧と一所なら船を降りると云って騒ぎ出した。そこで今度は事務長が面喰って、早速小僧を逐出しにかかったが、小僧がなかなか降りようとしない。食堂の柱へ噛り付いて泣き叫ぶ奴を、下級船員が寄ってたかって、拳銃や鉄棒を突付けてヘトヘトになるまで小突きまわして、泥棒猫でも逐い出すようにして桟橋へたたき出してしまった。そこで小僧はエムプレス・チャイナの給仕服のまま生命辛々の手提籠一個を抱えて税関の石垣の上でワイワイ泣いているのを、チャイナ号の向い合わせに繋留っていたアラスカ丸の船長……貴下が発見て拾い上げた……チャイナ号へ面当みたいに小僧の頭を撫でて、慰め慰め拾い上げて行った……という話なんです。現在、陸上では酒場でも税関でも海員の奴等が寄ると触るとその噂ばっかりで持切ってますぜ。アラスカ丸の船長はそんな曰く因縁、故事来歴附の小僧だって事を、知って拾ったんだか……どうだかってんでね。非道い奴はアラスカ丸が日本に着くまでに沈むか、沈まないかって賭をしている奴なんか居るんですぜ」  俺は元来デリケートに出来た人間じゃない。君等みたいな高等常識を持った記者諸君に「海上の迷信」なんて鹿爪らしい、学者振った話なんか出来る柄じゃ、むろんないんだ。尤も若いうちは不良の文学青年でバイロンの「海の詩」なんかを女学生に暗誦して聞かせたりなんかして得意になっていたもんだがね。しかしそれから後、永年荒っぽい海上生活を続けて来たお蔭で性根が丸で変ってしまった。身体こそこんなに貧弱な野郎だが、兇状持揃いの機関室でも、相当押え付けるだけの腕ッ節と度胸だけは口幅ったいが持っているつもりだ。現に船員連中から地獄の親方と呼ばれている位だ。……けども、その俺が、この渋紙船長の前に出ると、出るたんびに妙に顔負けしてしまう。いつもこうしてペラペラと安っぽく喋舌らせられるから妙なんだ。しかも忠告する気で云っている話が、ツイお伽話か何ぞのようにフワフワと浮付いてしまう。圧しの利かない事夥しい。 「何も御幣を担ぐんじゃありませんがね。そんな篦棒な話が在るかって反対もしてみたんですがね。今まであの小僧が乗った船が一艘残らず沈んだのが事実だったら、今度沈むのも事実に違いない。乗組員全体の生命にも拘わる話だ。何もあの小僧が居なけあ船が出ねえって理窟もあるめえし……お前んとこの船長がいくら変者だってそんな無鉄砲な酔狂をして乗組員を腐らせるような馬鹿でもあんめえ。あの小僧の曰く因縁、故事来歴を知らねえから平気で雇ったに違えねえんだ。悪い事あ云わねえから早く船長に話して、あの小僧を降してもらいな。多人数の云う事あ聴いとくもんだ。あとで必定後悔するもんだから……てな事を皆して色々云うもんですからね……ハハハ……」  船長の表情は依然として動かない。渋紙色の仮面が、頭の上の青空に凍り付いたように動かない。無表情もここまで来ると少々精神異状者じみて来る。俺は思い切りブツカルように云った。 「今の中に降しちゃったらどうです」  船長の左の眼の下にピクピクと皺が寄った。同時に片目を半分ほど細くして、唇の片隅を上の方へ歪めた。これがこの船長の笑い顔なんだが、知らない人間が見たらとても笑い顔とは思えない。単なる渋紙の痙攣としか見えないだろう。 「郵船名物のS・O・S・BOYだろう」  と船長が嗄れた声でプッスリと云った。同時に眉の間と頬ペタの頸筋近くに、新しい皴が二三本ギューと寄った。冷笑しているのだ。 「エヘッ、知ってるんですか。貴方も……」 「ムフムフ……」  と船長が笑いかけて煙草に噎せた。船橋から高らかに唾液を吐いた。 「ムフムフ、知らんじゃったがね。皆、そう云うとる」 「皆って誰がですか。どんな連中が……」 「船中で云うとるらしい。水夫の兼の野郎が代表で談判に来た。ツイ今じゃった」 「ヘエエ……何と云って」 「下さなければあの小僧をたたき殺すが宜えかチウてな。胸の処の生首の刺青をまくって見せよった。ムフムフ」 「ヘエ。それで……下さないんですか」  船長が片目を静かに閉じたり開いたりした。それからネービー・カットの煙を私の顔の真正面に吹き付けた。 「……迷信だよ……」 「それあそうでしょうけどね。迷信は迷信でしょうけどね」 「ムフムフ。ナンセン小僧をノンセンス小僧に切り変えるんだ。迷信が勝つか。俺達の動かす器械が勝つかだ」 「つまり一種の実験ですね」 「……ムフムフ。ノンセンスの実験だよ」 「……………」  二人の間に鉄壁のような沈黙が続いた。船長は平気でコバルト色の煙をプカプカやり出した。俺は、どうしたらこの船長を説き伏せる事が出来るかと考え続けた。 「君はいつからこの船に乗ったっけなあ」  と船長が突然に妙な事を云い出した。 「一昨年の今頃でしたっけなあ」 「乗る時に機械は検査したろうな」 「しましたよ。推進機の切端まで鉄槌でぶん殴ってみましたよ。それがどうかしたんですか」 「ムフムフ。その時に機械の間に、迷信とか、超科学の力とか、幽霊とか、妖怪とか、理外の理とかいうものが挟まったり、引っかかったりしているのを発見したかね。君が検査した時に……」 「それあ……そんな事はありません。この船の機械は全部近代科学の理論一点張りで出来て動いているんですがね」 「現在でもそうかね」 「……………」 「そんなら……宜えじゃろ。中学生にでもわかる話じゃろ。あのS・O・S小僧が颱風や、竜巻や、暗礁をこの船の前途に招寄せる魔力を持っちょる事が、合理的に証明出来るチウならタッタ今でもあの小僧を降す」 「……………」 「元来、物理、化学で固まった地球の表面を、物理、化学で固めた船で走るんじゃろ。それが信じられん奴は……君や僕が運用する数理計算が当てにならんナンテいう奴は、最初から船に乗らんが宜え」  俺はギューと参ってしまった。一言ない……面目ない……と思って残念ながら頭を下げた。 「ムフムフ。シッカリし給え。オイオイ伊那一郎……S・O・S……ハハハ。ここだここだ……上っち来い」  船長を探すらしく巨大なバナナを抱えて船長室を駈出して行く青服の少年を船長は手招きして呼び上げた。俺が買って来た西蔵紅茶の箱を、鼻の先に突付けて命令した。 「これを船長室へ持って行て蒸留水で入れちくれい。地獄の親方と一所に飲むけにナ」 「CAPTAIN」と真鍮札を打った扉を開くと強烈な酸類、アルカリ類、オゾン、アルコオルの異臭がムラムラと顔を撲つ。その中に厚硝子張、樫材の固定薬品棚、書類、ビーカー、レトルト、精巧な金工器具、銅板、鉛板、亜鉛板、各種の針金、酸水素瓦斯筒、電気鎔接機、天秤、バロメータなんぞが歯医者か理髪店の片隅みたいにゴチャゴチャと重なり合っている……というのがこのアラスカ丸の船長室なんだ。その片隅の八日巻の時計の下の折釘に、墨西哥かケンタッキーの山奥あたりにしかないようなスバらしく長い、物凄い銀色の拳銃が二挺、十数発の実弾を頬張ったまま並んで引っかかっているのだ。  話は脱線するがこのアラスカ丸の船長はむろん独身生活者で、女も酒も嫌いなんだ。上陸なんか滅多にしないんだ。その代りに応用化学の本家本元の仏蘭西の大学で、理学博士の学位を取っている一種の発明狂と来ているんだ。持っているパテントの数でも十や二十じゃ利かないだろう。みんなこの実験室でヒネリ出したっていうんだから豪勢なもんだろう。去年の冬だっけが、そんなパテントの権利も、巨万の財産も海員擁済会に寄附して、胃癌で死んじゃったが、惜しい人間だったよ。……その時分……昭和二年頃には、小型な、軽い、無尽蔵に強力な乾蓄電池の製作に夢中になっていたっけ。世界中の動力を蓄電池の一点張りにするてんで、誠に結構な話だが、その実験をするたんびに、船中の電動力を吸い集めて、電燈を薄暗くしちまったりヒューズを飛ばしたりするのには降参させられたよ。おまけに舶来の絹巻線が気に入らないと云って、自分で器械を作って絹巻線を製作しては切り棄て、作っては切り棄てる事二万哩。その仕事に行き詰まると、今のピストルを二挺持って上甲板に駈け上る。主檣に群がる軍艦鳥を両手でパンパンと狙い撃にして「アハハハハ」と高笑いしながら、落ちて来るのを見向きもしないでスタスタと実験室に引返すという変りようだからトテモ吾々凡俗には寄付けない。恐ろしく小面倒な動力の計算書なんかを一週間がかりで書き上げて甲板に持って行くと、「アリガトウ」と云って、見る片端から一枚一枚海の風に飛ばしてしまう。……ナアニ、タッタ一目でみんな頭に入れちゃうんだ。ズット後になって船体検査なんかが来ると自分で機械の側へ立って、何百という数字を暗記でペラペラ並べるんだから、計算した本人が舌を捲いちまう。……そうかと思うと独逸の潜航艇やエムデンの出現時間と、場所をギッシリ書き入れた海図を睨んで「モウわかった。彼奴等の根拠地と、通信網と、速力がわかった」と云うとその海図をクシャクシャにして海へ飛ばす。それから毛唐の嫌う金曜日金曜日に汽笛を鳴らして、到る処の港々を震駭させながら出帆する、倫敦から一気に新嘉坡まで、大手を振って帰って来る位の離れ業は平気の平左なんだから、到底吾々のアタマでは計り知る事の出来ないアタマだよ。  そうした一種の鬼気を含んだ船長の顔と、部屋の隅でバナナを切っている伊那少年の横顔を見比べると、まるで北極と南洋ほど感じが違う。  毬栗の丸い恰好のいい頭が、若い比丘尼みたいに青々としている。皮膚の色は近頃流行のオリーブって奴だろう。眼の縁と頬がホンノリして唇が苺みたいだ。睫毛の濃い、張りのある二重瞼、青々と長い三日月眉、スッキリした白い鼻筋、紅い耳朶の背後から肩へ流れるキャベツ色の襟筋が、女のように色っぽいんだ。青地に金モールの給仕服が身体にピッタリと吸付いているが、振袖を着せたら、お化粧をしなくとも坊主頭のまんま、生娘に見えるだろう。なるほど毛唐が抱いてみたがる筈だ……と思っているトタンに、白いバナナの皿を捧げた小僧がクルリとこっち向きになって頭を一つ下げた。俺の顔を、憐れみを乞うようにソッと見上げた。それから恋人に出会った少女みたいな桃色の、悩ましげな微笑を一つニッコリとして見せたもんだ。  俺はゾッとしてしまったよ。……まったく……魔物らしい妖気が、小僧の背後の暗闇から襲いかかって来たように思ったもんだよ。  俺は紅茶もバナナも良い加減にして故郷の地獄……機関室へ帰って来た。今にも「オホホホ」と笑い出しそうな人形じみた小僧の、変態的な愛嬌顔と向い合っているよりも、機関室の連中の真黒な、猛獣面と睨み合っている方が、ドレ位気が楽だか知れないと思って……。  ところが機関室に帰ってみると船員の伊那少年に対する憎しみが……否、恐怖が、予想外に酷いのに驚いた。船長が是非ともあの小僧を乗組ませると云うんならこっちでも量見がある……というので大変な鼻息だ。水夫連中は沖へ出次第に小僧を餌にして鱶を釣ると云っているそうだし、機関室の連中は汽鑵に突込んで石炭の足しにするんだと云ってフウフウ云っている。海員なんてものはコンナ事になると妙に調子付いて面白半分にドンナ無茶でも遣りかねないから困るがね。現に水夫の中でも兄い分の「向う疵の兼」がわざわざ鉄梯子を降りて、俺に談判を捻じ込んで来た位だ。 「向う疵の兼」というのは恐ろしい出歯だから一名「出歯兼」ともいう。クリクリ坊主の額が脳天から二つに割れて、又喰付き合った創痕が、眉の間へグッと切れ込んでいるんだ。そいつが出刃包丁を啣えた女の生首の刺青の上に、俺達の太股ぐらいある真黒な腕を組んで、俺の寝台にドッカリと腰を卸して出ッ歯をグッと剥き出したもんだ。 「チョットお邪魔アしますが親方ア。今、船長の処へ行って来たんでがしょう。親方ア」 「ウン。行って来たよ。それがどうしたい」 「すみませんが船長があの小僧の事を何と云ってたか聞かしておくんなさい。……わっしゃ親方が船長に何とか云ったらしいんで、水夫連中の代表になって、船長の云い草を聞かしてもらいに来たんですが」 「アハハハ。それあ御苦労だが、何とも云わなかったよ」 「お前さん何にも船長に云わなかったんけエ」 「ウン。ちょっと云うには云ったがね。何も返事をしなかったんだ。船長は……」 「ヘエー。何も返事をしねえ」 「ウン。いつもああなんだからな船長は……」 「あの小僧を大事にしてくれとも何とも……親方に頼まなかったんけえ」 「馬鹿。頼まれたって引受けるもんか」 「エムプレス・チャイナへ面当てにした事でもねえんだな」 「むろんないよ。船長はあの小僧を、皆が寄って集って怖がるのが、気に入らないらしいんだ」 「よしッ。わかったッ。そんで船長の了簡がわかったッ」 「馬鹿な。何を云うんだ。船長だって何もお前達の気持を踏み付けて、あの小僧を可愛がろうってえ了簡じゃないよ。今にわかるよ」 「インニャ。何も船長を悪く云うんじゃねえんでがす。此船の船長と来た日にゃ海の上の神様なんで、万に一つも間違いがあろうたあ思わねえんでがすが、癪に障るのはあの小僧でがす。……手前の不吉な前科も知らねえでノメノメとこの船へ押しかけて来やがったのが癪に触るんで……遠慮しやがるのが当前だのに……ねえ……親方……」 「それあそうだ。自分の過去を考えたら、遠慮するのが常識的だが、しかし、そこは子供だからなあ。何も、お前達の顔を潰す気で乗った訳じゃなかろう」 「顔は潰れねえでも、船が潰れりゃ、おんなじ事でさあ」 「まあまあそう云うなよ。俺に任せとけ」 「折角だがお任かせ出来ねえね。この向う疵は承知しても他の奴等が承知出来ねえ。可哀相と思うんなら早くあの小僧を卸してやっておくんなさい。面を見ても胸糞が悪いから」 「アッハッハッ。恐ろしく担ぐじゃねえか」 「担ぐんじゃねえよ。親方。本気で云うんだ。この船がこの桟橋を離れたら、あの小僧の生命がねえ事ばっかりは間違いねえんで……だから云うんだ」 「よしよし。俺が引受けた」 「ヘエ。どう引受けるんで……」 「お前達の顔も潰れず、船も潰れなかったら文句はあるめえ。つまりあの小僧の生命を俺が預かるんだ。船長が飼っているものを、お前達が勝手にタタキ殺すってのは穏やかじゃねえからナ。犬でも猫でも……」 「ヘエ。そんなもんですかね。ヘエ。成る程。親方がそこまで云うんなら私等あ手を引きましょうが、しかし機関室の兄貴達に、先に手を出されたら承知しませんよ。モトモトあの小僧は甲板組の者ですからね」 「わかってるよ。それ位の事あ」 「ありがとうゴンス。出娑婆った口を利いて済みません。兄貴達も容赦して下せえ」  と会釈をして兼は甲板へ帰った。生命知らずの兇状持ばかりを拾い込んでいる機関部へ来て、これだけの文句を並べ得る水夫は兼の外には居ない。現に機関部の連中は、私の寝室の入口一パイに立塞がって、二人の談判に耳を傾けていたが……むろんデッキ野郎の癖に、わざわざ親方の私の処へ押しかけて来る兼の利いた風な態度を憎んで、今にも飛びかかりそうな眼付をしながら扉の蔭に犇いていたものであるが、兼が「兄貴達も容赦してくれ」と云って頭をグッと下げた会釈ぶりが気に入ったらしく、皆顔色を柔らげて道を開けて通してやった。平生なら甲板から塵一本、機関室へ落し込んでも、只はおかない連中であるが……。  そんな訳で、風前の燈火みたような小僧の生命を乗せたアラスカ丸が、無事に上海を出た。S・O・Sどころか時化一つ喰わずに門司を抜けて神戸に着いた。それから船長一流の冒険だが六時間の航程を節約るために、鳴戸の瀬戸の渦巻を七千噸の巨体で一気に突切って、御本尊のS・O・S・BOYを慄え上がらせながら平気の平左で横浜に着いてしまった。  横浜で印度綿花と南洋材を全部上げてしまうと、今度は晩香坡行の木綿類を吃水一パイに積込む。同時にアラスカ近海の難航海に堪え得るだけの食料や石炭を、船が割れる程突込む訳だが、その作業は平生の通り二三日がかりで遣るのでさえ相当忙しいのに、向岸の晩香坡から突然に大至急云々の電報が来て、二十四時間以内の出帆という事になったので、その忙がしさといったら話にならない。おまけに横浜市内の道路工事の影響とかで、臨時人夫が間に合わないと来たので、機関部の石炭運びなんかは、文字通りの地獄状態に陥ってしまったものだ。  それも一口に地獄と云っただけじゃ局外者にはわからないだろう。普通の客船は別であるが、外国通いの気の利いた荷物船になればなるほど、荷物をウンと詰め込まれる。人間の通れる……荷役の出来る処ならばどこでも構わない。空隙のあらん限り押し込んでしまうので、石炭を積む処は炭庫以外に殆んど無いと云っていい。そこへ今度のアラスカまわりみたいな難航路になると必要以上の石炭を積んでおかないとドンナ海難にぶつかって、どこへ流されるかわからないので、楕円形の船の胴体と、四角い部屋部屋が交錯して作っているあらゆる狭い、人間の通れないような歪み曲った空隙に石炭をギッシリと詰め込まなければならない。その作業の危険さと骨の折れる事といったら、それこそこの世の生き地獄と云っても形容が足りないだろう。この船の料理部屋の背後の空隙なんかへ行く連中は、ドン底の水槽の鉄蓋まで突き抜けた鉄骨の隙間に、一枚の板を渡して在る。左右の壁には火のような蒸気の鉄管が一面にぬたくっているので、通り抜けただけでも呼吸が詰まって眼がまわる上に、手でも足でも触れたら最後大火傷だ。そこに濛々と渦巻く熱気と、石炭の粉の中に、臨時に吊した二百燭光の電球のカーボンだけが、赤い糸か何ぞのようにチラチラとしか見えていない。そこを二三度も石炭籠を担いで往復してから急に上甲板の冷めたい空気に触れると、眼がクラクラして、足がよろめいて、鬼のような荒くれ男が他愛なくブッ倒おれるんだ。ところがブッ倒おれたと見ると直ぐに、兄イ連が舷側に引ずり出して頭から潮水のホースを引っかけて、尻ペタを大きなスコップでバチンバチンとブン殴るんだから、息のある奴なら大抵驚いて立ち上る。 「見やがれ。コン畜生。死ばるんなら手際よくクタバレ」  といった調子である。残酷なようであるが、限られた人数で限られた時間に仕事をしなければ、機関長の沽券にかかわるんだから止むを得ない。所謂、近代文明って奴の裡面には到る処にこうした恐ろしい地獄が転がっているんだ。勿論、俺自身が、その中からタタキ上げて来たんだから部下に文句は云わさないがね……。  その俺が横浜桟橋のショボショボ雨の中に突立って、積込む石炭を一々検査していると汗と炭粉で菜葉服を真黒にした二等機関士のチャプリン髭が、喘ぎ喘ぎ駈け降りて来て「トテモ手が足りません。何とかして下さい」と云うんだ。 「馬鹿。そう右から左へ人が雇えるか」  と一喝すると「それでもデッキの方で誰か一人でもいいんですから」と泣きそうな顔をする。 「馬鹿ッ。デッキの方だって相当忙がしいんだ。殴られるぞ」 「……でも船長室のボーイが遊んでいます」 「あんな奴が何の役に立つんだ」 「……でも、みんなそう云っているんです。この際、紅茶のお盆なんか持ってブラブラしている奴はタタキ殺しちまえって……」 「君から船長にそう云い給え」 「ドウモ……そいつが苦手なんで」 「よし。俺が云ってやろう」  忙がしいのでイライラしていた俺は、二等運転手の話が五月蠅かったんだろう。そのまま一気にタラップを馳上って、船長室に飛込んだ。船長は相も変らず渋紙色の無表情な顔をして、湯気の立つ紅茶を啜っていた。傍の鉛張りの実験台の上で、問題の伊那少年が銀のナイフでホットケーキを切っていた。  俺は菜葉服のポケットに両手を突込んだまま小僧の無邪気な、ういういしい横顔をジロリと見た。 「この小僧を借してくれませんか」  伊那少年の横顔からサッと血の気が失せた。魘えたように眼を丸くして俺と船長の顔を見比べた。ホットケーキを切りかけた白い指が、ワナワナと震えた。……船長も内心愕然としたらしい。飲みさしの紅茶を静かに下に置いた。すぐに云った。 「どうするんだ」 「石炭運びの手が足りないって云うんです。みんなブツブツ云っているらしいんです……済みませんが……」 「臨時は雇えないのか」 「急には雇えません。二十四時間以内の積込みですからね。明日の間になら合うかも知れませんが……皆モウ……ヘトヘトなんで……」  船長の額に深い竪皺が這入った。コメカミがピクリピクリと動いた。当惑した時の緊張した表情だ。こうした場合の、そうした船員の気持が、わかり過ぎる位わかっているんだからね。  それから船長は白いハンカチで唇のまわりを叮寧に拭いた。ソロソロと立ち上って伊那少年を見下した。伊那少年も唇を真白にして、涙ぐんだ瞳を一パイに見開いて船長の顔を見上げたもんだ。  その時の船長の云うに云われぬ悲痛な、同時に冷え切った鋼鉄のような表情ばかりは、今でも眼の底にコビリ付いているがね。  船長はコメカミをピクピクさせながら大きく二度ばかり眼をしばたたいた。俺の顔をジッと見て念を押すように云った。 「大丈夫だろうな」  俺は無言のまま無造作にうなずいた。  俺と一所に静かに、二三度うなずいた船長は伊那少年を顧みて、硝子のような眼球をギラリと光らした。決然とした低い声で云った。 「……ヨシッ……行けッ……」 「ウワア──アッ……」  と伊那少年は悲鳴を揚げながら船長室を飛出したが……その形容の出来ない恐怖の叫び、悲痛の響、絶体絶命の声が俺は、今でも思い出すたんびにゾッとする。伊那少年は石炭運びの恐ろしさを知っていたのだ。否、ソレ以上の恐ろしい運命が、石炭運びの仕事の中に入れ交っているのを予感していたのだね。  しかし伊那少年は逃れ得なかった。船長室の外には、俺のアトから様子を見に来た向う疵の兼が立っていた。大手を拡げて伊那少年を抱きすくめてしまったもんだ。 「ギャア──。ウワアッ。助けて助けて……カンニンして下サアイ。僕はこの船を降りますから……どうぞどうぞ……助けてエ助けてエッ……」 「アハハハ。どうもしねえだよ。仕事を手伝いせえすれあ、ええんだ」 「許して……許して下さあい。僕……僕は……お母さんが……姉さんが家に居るんですから……」  伊那少年は濡れたデッキに押え付けられたまま、手足をバタバタさして泣き叫んだ。 「ウハハハハ。何を吐かすんだ小僧。心配しるなって事……俺が引受けるんだ。この兼が受合うたら、指一本指さしゃしねえかんな。……云う事を聴かねえとコレだぞ」  兼は横に在った露西亜製の大スコップを引寄せた。そうして手を合わせて拝んでいる少年を片手で宙に吊した。小雨の中で金モール服がキリキリと廻転した。 「致します致します。何でも致します。……すぐに……すぐに船から下して下さい。殺さないで下さい」 「知ってやがったか。ワハハハハハハハ」  兼は大口を開いて笑いながら私たちを見まわした。船長も二等運転手も、多分俺の顔も石のように剛ばっていた。あんまり兼の笑い顔が恐ろしかったので……額の向疵までが左右に開いて笑ったように見えたので……。 「……サ柔順しく働らけ。誰も手前の事なんか云ってる奴は居ねえんだからな。ハハハ」  小雨の中に肩をすぼめて艙口を降りて行く伊那少年の背後姿は、世にもイジラシイ憐れなものであった。  そうして俺達はソレッキリ伊那少年の姿を見なかったのだ。  犬吠埼から金華山沖の燈台を離れると、北海名物の霧がグングン深くなって行く。汽笛を矢鱈に吹くので汽鑵の圧力計がナカナカ上らない。速力も半減で、能率の不経済な事夥しい。  一等運転手と船長と、俺とが、食堂でウイスキー入りの紅茶を飲みながらコンナ話をした。 「今度は霧が早く来たようだね」 「すぐ近くに氷山がプカプカやっているんじゃねえかな。霧が恐ろしく濃いようだが……」 「そういえば少し寒過ぎるようだ。コンナ時にはウイスキー紅茶に限るて……」 「紅茶で思い出したがアノS・O・Sの伊那一郎は船長が降したんですか」  船長は木像のように表情を剛ばらせた。無言のまま頭を軽く左右に振った。 「おかしいな。横浜以来姿が見えませんぜ」 「ムフムフ。何も云やせん。あの時、君に貸してやった切りだ」 「ジョジョ冗談じゃない。僕に責任なんか無いですよ。デッキの兼に渡した切り知りませんが、貴方も見ていたでしょう」 「殺ったんじゃねえかな……兼が」  と云ううちに一等運転手が自分でサッと青い顔になった。 「……まさか。本人も降りると云ってたんだからな……無茶な事はしまいよ」 「しかし降りるなら降りるで挨拶ぐらいして行きそうなもんだがねえ」 「ムフムフ。まだ船の中に居るかも知れん……どこかに隠れて……」  と船長が云って冷笑した。例の通り渋紙の片隅へ皺を寄せて……硝子球をギョロリと光らして……。俺は何かしらゾッとした。そのまま紅茶をグッと飲んで立上った。  こうした俺たちの会話は、どこから洩れたか判然らないが忽ち船の中へパッと拡がった。 「捜し出せ捜し出せ。見当り次第海にブチ込め。ロクな野郎じゃねえ」  と騒ぎまわる連中も居たが、そんな事ではいつでも先に立つ例の向う疵の兼が、この時に限って妙に落付いて、 「居るもんけえ。飲まず食わずでコンナ船の中へ居れるもんじゃねえちたら。逃げたんだよ」  と皆を制したのでソレッキリ探そうとする者もなかった。しかし、それでも伊那少年の行方は妙に皆の気にかかってしまったらしく、狭い廊下や、デッキの片隅を行く船員の眼はともすると暗い処を覗きまわって行くようであった。  船を包む霧は益々深く暗くなって来た。  モウ横浜を出てから十六日目だから、大圏コースで三千哩近くは来ている。ソロソロ舵をE・S・Eに取らなければ……とか何とか船長と運転手が話し合っているが、俺はどうも、そんなに進んでいるような気がしなかった。しかもその割りに石炭の減りようが烈しいように思った。これは要するに俺の腹加減で永年の経験から来た微妙な感じに過ぎないのだが、それでも用心のために警笛を吹く度数を半分から三分の一に減らしてもらった。同時に一時間八浬の経済速度の半運転を、モウ一つ半分に落したものだから、七千噸の巨体が蟻の匍うようにしか進まなかった。 「オイ。どこいらだろうな」 「そうさなあ。どこいらかなあ」  といったような会話がよく甲板の隅々で聞こえた。むろん片手を伸ばすと指の先がボーッと見える位ヒドイ霧だから話している奴の正体はわからない。 「汽笛を鳴らすと矢鱈にモノスゴイが、鳴らさないと又ヤタラに淋しいもんだなあ」 「アリュウシャン群島に近いだろうな」 「サア……わからねえ。太陽も星もねえんだかんな。六分儀なんかまるで役に立たねえそうだ」 「どこいらだろうな」 「……サア……どこいらだろうな」  コンナ会話が交換されているところへ、老人の主厨が飼っている斑のフォックステリヤが、甲板に馳け上って来ると突然に船首の方を向いてピッタリと立停まった。クフンクフンと空中を嗅ぎ出した。同時にワンワンワンワンと火の附くように吠え初めた。 「オイ。陸だ陸だッ」  とアトから跟いて来た主厨の禿頭が叫ぶ。成る程、波の形が変化して、眼の前にボーッと島の影が接近している。 「ウワッ……陸だッ……大変だッ」 「後退……ゴスタン……陸だ陸だッ」 「大変だ大変だ。ぶつかるぞッ……」  ワアワアワアワアと蜂の巣を突いたような騒ぎの中に、船は忽ちゴースタンして七千噸の惰力をヤット喰止めながら沖へ離れた。船首にグングンのしかかって来る断崖絶壁の姿を間一髪の瀬戸際まで見せ付けられた連中の額には皆生汗が滲んだ。 「あぶねえあぶねえ。冗談じゃねえ。汽笛を鳴らさねえもんだから反響がわからねえんだ。だから陸に近いのが知れなかったんだ」 「機関長の奴ヤタラにスチームを惜しみやがるもんだからな……テキメンだ」 「今の島はどこだったろう」 「セント・ジョジじゃねえかな」 「……手前……行ったことあんのか」 「ウン。飛行機を拾いに行った事がある」 「何だ何だセント・ジョジだって……」 「ウン。間違えねえと思う。波打際の恰好に見おぼえがあるんだ」 「篦棒めえ。セント・ジョジったらアリュウシャン群島の奥じゃねえか」 「ウン。船が霧ん中でアリュウシャンを突ん抜けて白令海へ這入っちゃったんだ」 「間抜けめえ。船長がソンナ半間な処へ船を遣るもんけえ」 「駄目だよ。船長にはもうケチが附いてんだよ。S・O・S小僧に祟られてんだ」 「でも小僧はモウ居ねえってんじゃねえか」 「居るともよ。船長がどこかに隠してやがるんだ。夜中に船長室を覗いたらシッカリ抱き合って寝てたっていうぜ」 「ゲエッ。ホントウけえ」 「……真実だよ……まだ驚く話があるんだ。主厨の話だがね、あのS・O・S小僧ってな女だっていうぜ。……おめえ川島芳子ッてえ女知らねえか」 「知らねえね。○○女優だろう」 「ウン……あんな女だっていうぜ。毛唐の船長なんか、よくそんな女をボーイに仕立てて飼ってるって話だぜ。寝台の下の箱に入れとくんだそうだ。自分の喰物を領けてね」 「フウン。そういえば理窟がわかるような気もする。女ならS・O・Sに違えねえ」 「だからよ。この船の船霊様ア、もうトックの昔に腐っちゃってるんだ」 「ああ嫌だ嫌だ。俺アゾオッとしちゃった」 「だからよ。船員は小僧を見付次第タタキ殺して船霊様を浄めるって云ってんだ。汽鑵へブチ込めやあ五分間で灰も残らねえってんだ」 「おやじの量見が知れねえな」 「ナアニヨ。S・O・Sなんて迷信だって機関長に云ってんだそうだ。俺の計算に、迷信が這入ってると思うかって機関長に喰ってかかったんだそうだ」 「機関長は何と云った」 「ヘエエッて引き退って来たんだそうだ」 「ダラシがねえな。みんなと一所に船を降りちまうぞって威かしゃあいいのに」 「駄目だよ。ウチの船長は会社の宝物だからな。チットぐれえの気紛なら会社の方で大目に見るにきまっている。船員だって船長が桟橋に立って片手を揚げれや百や二百は集まって来るんだ」 「それあそうかも知れねえ」 「だからよ。晩香坡に着いてっからS・O・Sの女郎をヒョッコリ甲板に立たせて、ドンナもんだい。無事に着いたじゃねえかってんで、コチトラを初め、今まで怖がっていた毛唐連中をギャフンと喰らわせようって心算じゃねえかよ」 「フウン。タチがよくねえな。事によりけりだ。コチトラ生命がけじゃねえか」 「まったくだよ。船長はソンナ事が好きなんだからな」 「機関長も船長にはペコペコだからな」 「ウムウム。この塩梅じゃどこへ持ってかれるかわからねえ」 「まったくだ。計算にケチが付かねえでも、アタマにケチが付けあ、仕事に狂いが来るのあ、おんなじ事じゃねえかな」 「そうだともよ。スンデの事にタッタ今だって、S・O・Sだったじぇねえか」 「ああ。いやだいやだ……ペッペッ……」  コンナ会話を主檣の蔭で聞いた俺は、何ともいえない腐った気持になって、霧の中を機関室へ降りて行った。……これが迷信というものだかどうだか知らないが、自分の頭の中まで濃霧に鎖されたような気になって……。  それから三日ばかりした真夜中から、波濤の音が急に違って来たので眼が醒めた。アラスカ沿岸を洗う暖流に乗り込んだのだ……と思ったのでホッとして万年寝床の中に起上った。  同時に船橋から電話が来て、すぐに半運転を全運転に切りかえる。霧笛をやめる。探照燈を消す。機関室は生き上ったように陽気になった。一等運転手の声が電話口に響いた。 「石炭はドウダイ」 「桑港まで請け合うよ。霧は晴れたんかい」 「まだだよ。海路は見通しだが空一面に残ってるもんだから天測が出来ねえ」 「位置も方角もわからねえんだな」 「わからねえがモウ大丈夫だよ。サッキ女帝星座が、ちょうどそこいらと思う近処へウッスリ見えたからな。すぐに曇ったようだが、モウこっちのもんだよ」 「アハハハ。S・O・Sはどうしたい」 「どっかへフッ飛んじゃったい。船長は晩香坡から鮭と蟹を積んで桑港から布哇へ廻わって帰るんだってニコニコしてるぜ」 「安心したア。お休みい……」 「布哇でクリスマスだよオオ──だ……」 「勝手にしやがれエエ……エ……だ……」 「アハアハアハアハアハ……」  ところがこうした愉快な会話が、霧が晴れると同時にグングン裏切られて行ったから不思議であった。  夜が明けて、霧が晴れてから、久し振りに輝き出した太陽の下を見ると、船はたしかに計算より遅れている。しかも航路をズッと北に取り過ぎて、晩香坡とは全然方角違いのアドミラルチー湾に深入りして雪を被った聖エリアスの岩山と、フェア・ウェザー山の中間にガッチリと船首を固定さしているのには呆れ返った。……船長と運転手の計算も、又は俺の腹加減までもが、ガラリと外れてしまっていたのだ。  そればかりではない。  船に乗ってアラスカ近海へ廻わった経験のある人間でなければ、あの近海の波の大きさと、恐ろしさはチョット見当が付きかねるだろう。こんな処でイクラ法螺を吹いても、あの波濤のスバラシサばっかりは説明が出来ないと思うが、何もかも無い。これが波かと思う紺青色の大山脈が、海抜五千米突の聖エリアス山脈を打ち越す勢いで、青い青い澄み切った空の下を涯てしもなく重なり合いながら押し寄せて来る。アラスカ丸は七千噸だから荷物船では第一級の大型だったが、たとい七千噸が七万噸でもあの波に引っかかったら木っ葉も同然だ。  一つの波の絶頂に乗上げると、岩と氷河で固めた恐ろしい恰好の聖エリアスが直ぐ鼻の先に浮き上る。文句なしに手が届きそうに見える。これは、空気が徹底的に乾燥しているから、そんなに近くに見えるんだが、水蒸気の多い日本から行くと特別にソンナ感じがするんだ。望遠鏡で覗いてもチットも霞んで見えない。山腹を這う蟻まで見えやしまいかと思うくらいハッキリと岩の角々が太陽に輝いている……と思う間に、その大山脈の絶頂から真逆落しに七千噸の巨体が黒煙を棚引かせて辷り落ちる。スキーの感じとソックリだね。高い高い波の横っ腹に引き残して来る推進器の泡をジイッと振り返っていると、七千噸の船体が千噸ぐらいにしか感じられなくなって来る。  ……と思ううちに、やがて谷底へ落ち付いた一刹那、次の波の横っ腹に艦首を突込んでドンイイインと七噸から十噸ぐらいの波に艦首の甲板をタタキ付けられる。グーンと沈んで甲板をザアザアザアと洗われながら次の大山脈のドテッ腹へ潜り込む。何しろ船脚がギッシリと重いのだから一度、大きな波にたたかれると容易に浮き上らない。船室という船室の窓が、青い、水族館みたいな波の底の光線に鎖されたまま、堅板や、内竜骨が、水圧でもって……キイッ……キイッ……キシキシキシキシと鳴るのを聞いていると、それだけの水圧を勘定に入れた、材料強弱の公式一点張りで出来上っている船体だとわかり切っていても決していい心持ちはしない。そのうちにヤット波の絶頂まで登り詰めてホットしたと思う束の間に、又もスクリュウを一シキリ空転さして、潮煙を捲立てながら、文字通り千仭の谷底へ真逆落しだ。これを一日のうちに何千回か何万回か繰返すと、機関室の寝床にジッと寝転んでいても、ヘトヘトに疲れて来る。 「オイオイ。機関長か……」  船長室から電話がかかる。 「僕です。何か用ですか」 「ウン。もっとスピードが出せまいか」 「出せますが、何故ですか」 「船がチットも進まんチウて一等運転手が訴えて来おるんだ」 「今十六節出ているんですがね。義勇艦隊のスピードですぜ」 「馬鹿。出せと云ったら出せ」 「ドレ位ですか」 「十八ばっか出しちくれい」 「最大限ですね」 「ウン。石炭は在るかな」 「まだ在ります。全速力で四五日分……」 「……ヨシ……」  ガチャリと電話が切れたと思うと、やがて船腹を震撼する波濤の轟音が急に高まって来た。タッタ二節の違いでも波が倍以上大きくなったような気がする。又実際、船体のコタエ方は倍以上違って来るので、石炭の消費量でもチットやソットの違いじゃない。  そのうちに高緯度の癖で、いつとなく日ばボンヤリと暮れて、地獄座のフットライト見たいなオーロラがダラダラと船尾にブラ下った。その下の波の大山脈の重なりを、夜通しがかりで白泡を噛みながら昇ったり降ったり、シーソーを繰り返して翌る朝の薄明りになってみると、不思議な事に船体は、昨日の朝の通り聖エリアスとフェア・ウェザーの中間に船首を固定さしている。昨日から固定していたんだか、夜の間に逆戻りしたんだかわからない。 「どうしたんだ」 「シッカリしろ」  とか何とか運転手と文句を云い合っているうちに、昨日の朝の通りの白い太陽がギラギラと出て来た。空気が乾燥しているから岸の形がハッキリしている。山腹を這う蟻の影法師まで見えそうである。  流石に沈着な船長もコレには少々驚いたらしい。船橋に上って、珍らしそうに白い太陽を凝視している。その横に一等運転手がカラも附けないまま寒そうに震えている。 「逆戻りしたんだな」 「イヤ。波に押し戻されているんです。十八節の速力がこの波じゃチットモ利かないんです」 「そんな馬鹿な事が……」 「いや実際なんです。去年の波とはタチが違うらしいんです」 「おんなじ波じゃないか」 「イヤ。たしかに違います」  一等運転手と船長がコンナ下らない議論をしているところへ、俺は危険を冒して梯子を這い登って行った。船長は、真向いの聖エリアスの岩山に負けない位のゴツゴツした表情で云った。 「モウ……スピードは出ないな。機関長……」 「出ませんな。安全弁が夜通しブウブウいっていたんですから」 「……弱ったな……」  この船長が、コンナ弱音を吐いたのを俺はこの時に初めて聞いた。 「……妙ですねえ。今度ばかりは……変テコな事ばかりお眼にかかるじゃないですか」 「あの小僧を乗せたせいじゃないかな。チョットでも……」  と一等運転手がヨロケながら独言のように云った。蒼白い、剛わばった顔をして……俺は強く咳払いをした。 「エヘン。そうかも知れねえ。しかし最早船には居ねえ筈だからな」  船長は何も云わなかった。苦い苦い顔をしたまま十八倍の双眼鏡を聖エリアスに向けた。  三人はそのまま気拙い思いをして別れたが、それから第三日目の朝になっても、依然としてフェア・ウェザーとセント・エリアスが真正面に見えた時には、流石の俺も、ジイイーンと痺れ上るような不思議を、脳髄の中心に感じた。同時に何ともいえない神秘的な気持になって、胸がドキドキした事を告白する。自分の魂が、船体と一所に、どうにもならない不可思議な力にガッシリと掴まれているような気がしたからだ。  石のように固ばった俺と、一等運転手と、船長の顔がモウ一度、船長室でブツカリ合った。 「ここいらを北上する暖流の速力が変ったっていう報告はまだ聞きませんよ」  運転手が裁判の被告みたような口調で船長に云った。船長が他所事のようにネービー・カットの煙を吹いた。 「ムフムフ。変ったにしたところが、一時間十八節の船を押し流すような海流が、地球表面上に発生し得る理由はないてや」  と飽くまでも科学者らしく嘯いた。俺もエンチャントレスに火を付けながら首肯いた。 「とにかく俺のせいじゃないよ。石炭はたしかに減っているんだからな」  一等運転手も眼を白くしてコックリと首肯いた。同時に一層青白くなりながら白い唇を動かした。 「……何か……あの小僧の持物でも……船に……残っているんじゃ……ないでしょうか」  船長は片目をつむって、唇を歪めて冷笑した。しかし一等運転手は真顔になって、真剣に腰を屈めながら、船長室内のそこ、ここを覗きまわり初めた。おしまいには船長と俺が腰をかけている寝台までも抱え上げて覗いたが、寝台の下には独逸や仏蘭西の科学雑誌が一パイに詰まっているキリであった。ボーイのスリッパさえ発見出来なかった。  とうとう船全体が、動かす事の出来ない迷信に囚われて、スッカリ震え上がらせられてしまった。乗組員の眼付は皆オドオドと震えていた。  ……船が動かない……S・O・S小僧の祟りだ……。  晴れ渡った青い青い空、澄み渡った太陽。静かな、切れるような冷めたい風の中で、碧玉のような大濤に揺られながらの海難……。  ……行けども行けども涯てしのない海難……S・O・Sの無電を打つ理由もない海難……理由のわからない……前代未聞の海難……。 「サアサア。みんな文句云うところアねえ、在りったけの石炭を悉皆、汽鑵にブチ込むんだ。それで足りなけあ船底の木綿の巻荷をブチ込むんだ。それでも足りなけあ俺から先に汽鑵の中へ匍い込むんだ。ハハハ。サアサア。みんな石炭運びだ石炭運びだ……」  事実石炭は最早、残りがイクラも無かったのだ。横浜で積込んだ時の苦労を逆に繰返して、飛んでもない遠方から掘り出すようにしいしい、機関室へ拾い集めるのであったが、その作業を初めると間もなく、残炭を下検分に廻わった二等機関士のチャプリン髭が、俺の部屋へ転がり込んで来た。 「……タ……大変です。S・O・Sの死骸が見つかりました」 「ナニ。S・O・S……伊那の死骸がか……」 「エエ。そうなんです……ああ驚いた。ちょっとその水を一パイ。ああたまらねえ」 「サア飲め。意気地無し。どこに在ったんだ」 「ああ驚いちゃった。料理部屋の背面なんです。あすこの石炭の山の上にエムプレス・チャイナの青い金モール服を着たまんま半腐りの骸骨になって寝ていたんです。イガ栗頭の恰好があいつに違いないんですが」 「骸骨……?……」 「ええ。あそこは鉄管がゴチャゴチャしていてステキに暑いもんですから腐りが早かったんでしょう。白い歯を一パイに剥き出してね。蛆一匹居なかったんですが……随分臭かったんですよ」  俺は黙って鉄梯子を昇って、中甲板の水夫部屋に来た。入口に掴まって仁王立ちになったまま大声で怒鳴った。 「おおい。兼公居るかア。出歯の兼公……生首の兼公は居ねえかア……」 「おおおオ──……」  と隅ッコの暗い寝台棚から、寝ぼけたらしい声がした。 「誰だあ……」 「おれだあ……」 「おお。地獄の親方さんか。これあどうも……」 「済まねえが一寸、顔を貸してくれい」 「ウワアア。とうとう見付かったかね」 「シッ……」  と眼顔で制しながら兼公を水夫食堂へ誘い込んだ。天井の綱にブラ下りながら兼に金口煙草を一本呉れた。兼はしきりに頭を掻いた。 「どうも横浜じゃ、警察が怖わーがしたからね。つい秘密にしちゃったんで……」 「石炭運びの途中で殺ったんか」 「図星なんで……ヘエ。もっとも最初から殺る気じゃなかったんで、みんながあの小僧は女だ女だって云いましたからね。仕事にかからせる前にチョット調べて見る気であすこに引っぱり込んだんで……ヘエ……」 「馬鹿野郎……そんで女だったのか」 「それがわからねえんで……あすこへ捻じ伏せて洋服を引んめくりにかかったら恐ろしく暴れやがってね」 「当前だあ……それからどうした」 「イキナリ飛び付きやがって、ここん処をコレ……コンナに喰い切りやがったんで……」  兼は菜葉服とメリヤスの襯衣をまくって、左腕の力瘤の上の繃帯を出して見せた。 「まだ腫れてんで……ズキズキしてるんですがね……恐ろしいもんですね」 「間抜けめえ。そん時に手前裸体だったのか」 「エヘヘヘヘヘ」 「変な笑い方をしるねえ。それからどうした」 「わっしゃカーッとなっちゃってね。コイツ奴、降りるといったって他の船へ乗れあ、又、災難をしやがるんだからここで片付けた方が早道だ。男だか女だか殺してから検査た方が早道だと思っちゃったところへ、血だらけの口をしたS・O・Sの野郎が、私の横ッ面へ喰い切った肉をパッと吹っかけて「悪魔」とか何とか悪態を吐きやがったんで……手前の悪魔は棚へ上げやがってね。……おまけに後で船長に告訴けてやるから……とか何とか吐かしやがったんでイヨイヨ助けておけないと思って、首ッ玉をギューッと……まったくなんで……ヘエ……」 「非道い事をするなあ。そんで女だったかい」 「……それがその……野郎なんで……」 「プッ。馬鹿だなあ。それからどうしたい」 「それっきりでさ。……ウンザリしちゃって放ったらかして来ちゃったんです」 「何故海に投り込まねえ」 「それが誰にも見つからねえように放り込みたかったんで……親方や機関室の兄貴達にも申し訳ねえし、おまけに上海で、あっしが談判に行った時に船長が入歯をガチガチさして、こんな事を云ったんです。あの小僧をタタキ殺すのに文句はないが……」 「チョット待ってくれ。たたき殺すのに文句はないって云ったんだね」 「そうなんで……しかし死骸は勿論、髪の毛一本でも外へ持ち出したら只はおかないぞッ……てね。そう云って船長に白眼み付けられた時にゃ、あっしゃゾッとしましたぜ。あんな気味の悪い面ア初めてお眼にかかったんで……ヘエ……まったくなんで……」 「フーム。妙な事を云ったもんだな」 「そう云ったんで……何だかわからねえけども……万一見付かって首になっちゃ詰まらねえ。事によるとあの二挺のパチンコで穴を明けられちゃ叶わねえと思って、そのまんまにしといたんです。まったくなんです」 「案外意気地がねえんだな……手前は……」 「まったくなんで……それからっていうものあの死骸の事が気になって気になって今日は運び出そうか、明日は片付けようかと思ううちに、だんだん船にケチが附いて来るでしょう……死骸は腐って手が付けられなくなって来るし、わっしゃもう少しで病気になるところだったんで……もう懲り懲りしました。どうぞ勘弁しておくんなさい。あやまっても追付くめえけんど……」 「ハハハ。そんな事アもうどうでもいいんだ。今日は文句はねえ。手前行って大ビラであの死骸を片付けて来い。船長には俺が行って話を付けてやる」 「ヘエッ。本当ですかい親方ア」 「同じ事を二度たあ云わねえ」 「……ありが……ありがとう御座んす。すぐに片付けます。……ああサッパリした」 「馬鹿野郎……片付けてからサッパリしろ」  兼はS・O・Sの金モールの骸骨を胴中から真二つにスコップでたたき截って、大きなバケツ二杯に詰めて出て来た。甲板に出て生命綱に掴まり掴まり二つのバケツを海の上へ投げ出したが、その骨の一片が、波にぶつかって、又、兼の足元へ跳ね返って来た時、兼は真青になってその骨を引掴むと危くツンノメリながら、 「南無阿弥陀仏ッ……」  と遠くへ投げた。  それは兼の一生懸命の震え上った念仏らしかったが、とてもその恰好が滑稽だったので、見ていた俺はたった一人で腹を抱えさせられた。  アラスカ丸は、それから何の故障もなくスラスラと晩香坡へ着いた。  同じ波の上を、同じスピードで……馬鹿馬鹿しい話だが、まったくなんだ。  ところで話はこれからなんだ。  船長の横顔は見れば見るほど人間らしい感じがなくなって来るんだ。  骸骨を渋紙で貼り固めてワニスで塗り上げたような黒光りする凸額の奥に、硝子玉じみたギラギラする眼球が二個コビリ付いている。それがマドロス煙管を横一文字にギューと啣えたまま、船橋の欄干に両肱を凭たせて、青い青い空の下を凝視しているんだ。その乾涸びた、固定した視線の一直線上に、雪で真白になった晩香坡の桟橋がある。その向う一面に美しい燈火がズラリと並んでいようという……ところまで、やっと漕ぎ付けたんだがね。文字通りに……。  その桟橋の上に群がっている人間は、五日ほど遅れて着いたアラスカ丸をどうしたのかと気づかって、待ちかねていた連中なんだ。 「S・O・Sの野郎……骸骨になってまで祟りやがったんだナ……」  船長が突然に振返って俺の顔を見た。白い義歯を一ぱいに剥き出して物凄く哄笑したもんだ。 「アハハハハ。イヤ……面白い実験だったね。やっぱり理外の理って奴は、あるもんかなあ……タハハハ。ガハハハハハ……」 底本:「夢野久作全集6」ちくま文庫、筑摩書房    1992(平成4)年3月24日第1刷発行 ※表題の「難船小僧」には、「S・O・S・BOY」とルビがふられています。 入力:柴田卓治 校正:kazuishi 2004年6月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。