秋日記 原民喜 Guide 扉 本文 目 次 秋日記  緑色の衝立が病室の内部を塞いでいたが、入口の壁際にある手洗の鏡に映る姿で、妻はベッドに寝たまま、彼のやって来るのを知るのだった。一号室の扉のところまで来ると、奥にいる妻の気配や、そちらへ近づいて行こうとする微かに改まった気分を意識しながら、衝立をめぐって、ベッドのところへ彼がやって来ると、妻はいたずらっぽい微笑で彼を迎える。すると彼には一昨日ここを訪れた時からの隔りがたちまち消えてしまう。小さな卓の花瓶にコスモスの花が、紅い小さなボンボンダリアと一緒に挿してあるのが眼に留ると、彼は一昨日は見なかったダリアの花に、ささやかな変化を見出すのではあったが、午後の明るい光線と澄んだ空気は窓の外から、今もこちら側を覗いている。……  ベッドの脇の椅子に腰をおろした彼は、かえって病人のような気持がするのだった。午後になると微熱が出て、眼にうつる世界がかすかに消耗されてゆく、そうすると、彼には外界もそれを映すものも冴えて美しくなった。彼の棲んでいる世界はいま奇妙な結晶体であった。彼はその限られた世界の中を滑り歩いていたし、そうして、妻の病室へやって来る時、その世界はいちばん透きとおっていた。  白いカバアの掛った掛蒲団の上に、小豆色の派手な鹿子絞の羽織がふわりと脱捨ててあるのが、雪の上の落葉のようにあざやかに眼にうつるが、枕に顔を沈めている妻は、その顔には何か冴え冴えしたものがあった。二日まえのことだが、彼はこの部屋が薄暗くなり廊下の方がざわつく頃まで、じっと妻の言葉をきいていた。そして、結局しょんぼりと廊下の外へ出て行った。すると翌日、病院へ使いに行った女中が妻の手紙を持って戻り彼に手渡した。小さく折畳んだ便箋に鉛筆で細かに、こまかな心づかいが満たされていた。(あなたがしょんぼりと廊下の方へ出てゆかれた後姿を見送って、おもわず涙が浮びました。体の方は大丈夫なのでしょうね、余計な心配をかけて済みませんでした、……)努めて無表情に読過そうとしたが、彼は底の方で疼くようなものを感じた。  こうした手紙をもらうようになったのか──それは彼にとっては、やはり新鮮なおどろきであった。妻は入院の費用にあてるため、郷里に置いてある箪笥を本家で買いとってもらうことを相談した。彼がさびしく同意すると、妻は寝たままで、一頻り彼の無能を云うのであった。十年前嫁入道具の一つとして郷里の土蔵に持込まれたまま、一度も使用されず、その箪笥がひと手に渡るのは彼にとっても身を削がれるような気持だった。だが、身の落目をとりかえすため奮然として闘うてだてが今あるのだろうか。彼は妻の言葉を聞きながら、薄暗くなってゆく窓の外をぼんやり眺めていた。おぼろな空のむこうに、遙かな暗い海のはてに、火を吐いて沈んでゆく艨艟や、熱い砂地に晒されている白骨の姿が、──それは、はっきりした映像としてではなく、何か凍てついた暗雲のようにいつも心を翳らせている。それから、何気ない日々のくらしも、彼の周囲はまだ穏かではあったが、見えない大きい力によって、刻々に壊されているのではないか。どうにもならない転落の中間に、ぽつんと放り出された二人ではないか。そうおもいながら、あのとき彼は妻にかえす言葉を喪っていたのだが……。書斎の椅子にぐったりとして、彼は女中が持って帰った妻の手紙を、その小さな紙片をもとどおりに折畳んだ。悲壮がはじまっていた。そしてそれは、ひっそりとしているのであった。  その年の秋も、いらだたしい光線のなかに雨雲が引裂かれていた。そうした、ある落着かない気分の夕刻近く、彼は妻に附添ってその大きな病院の門をくぐった。二階の廊下をいく曲りして静かな廊下に出たところに一号室があった。その部屋の窓からは、遙かに稲田や人家が展望された。前にいた人が残して行ったらしい大きな古びた財布が片隅にあった。一わたり部屋を見まわすと、すぐに妻はベッドに臥さった。はじめて落着く場所にかえったような安らかさと、これから始ろうとする試煉にうち克とうとする初々しさが、痩せた妻の身振りのなかにぱっと呼吸づいていた。だが、彼はひとり置去りにされたように、とぼとぼと日が暮れて家に戻って来たのだった。  この時から、二つにたち割られた場所のなかで、彼の逍遥がはじまった。隔日に学校へ通勤している彼は、休みの日を午後から病院へ出掛けて行くのだったが、どうかすると、学校の帰りをそのまま立寄ることもあった。巷で運よく見つけた電熱器を病室の片隅に取つけると、それで紅茶も沸かせた。ベッド脇に据えつけられている小さな戸棚には、林檎やバタがあった。いつのまにか、そこは居心地のいい場所になっていたのだ。  いく日も雨が降りつづいた。粗末な学校の廊下も窓もびっしりと湿り、稀れにしかやって来ない電車は、これも雨に痛めつけられていたし、電車の窓の外に見える野づらや海も茫として色彩を失っていた。だが、高台の上に立つ、大きな病院の建物は、牢固な壁や整った窓が下界の雨をすっかり遮っていた。 「あなたが学校まで歩いてゆく路と、家からこの病院まで来る道とどちらが遠いの」と妻はたずねた。「同じ位だね」と彼がこたえると「まあ、そんなに遠い路をこれまで歩いていたのですか」と妻は彼がこの二年間通っていた路の長さがはじめて分ったような顔つきであった。その路の話なら、これまで寝ている妻に何度も語っていたし、彼にとってはもう慣れていて左程苦痛ではなかった。妻はもっといろんなことを訊ねたいような顔つきで、留守にした家のこまごました事柄が絶えず眼さきにちらついているようであった。だが、彼はそうした妻の顔を眺めながら、つきつめた想いで、何かはてしないものを考えていた。いつも二人は相対したまま、相手のなかに把えどころのない解答を求めあっているのであった。そうして時間はすぐに過ぎて行った。夕ぐれが近づいて、立去る時刻が迫ると、彼は静かなざわめきに急き立てられるような気がした。窓の外に雨はまだ絶望的に降りつのっていた。 「バスでお帰りなさい、バスの時間表がここにあるから、も少し待っていればいいでしょう」と妻は雨に濡れて行こうとする彼をひき留めた。  停車場とその病院の間を往来するバスが、病院の玄関に横づけにされた。すると、折鞄を抱えた若い医師が二人、彼の座席のすぐ側に乗込んで腰を下ろした。雨はバスの屋根を洗うように流れ、窓の隙間からしぶきが吹込んだ。「よく降りますね、今年は雨の豊年でしょうか」と医師たちは身を縮めて話し合っていた。やがて、バスは揺れて、真暗な坂路を走って行った。  銀行の角でバスを降りると、彼はずぶ濡れの鋪道を電車駅の方へ歩いた。雨に痛めつけられた人々がホームにぼんやり立並んでいた。次の停留場で電車を降りると、袋路の方は真暗であった。彼はその真暗な奥の方へとっとと歩いて行った。  さきほどから、何か真暗な長いもののなかを潜り抜けて行くような気持が引続いていた。よく降りますね、今年は雨の豊年でしょうか、──そういう言葉がふと非力な人間の呟きとして甦って来るのであった。そういえばバスや電車の席にぐったりと凭掛っている人間の姿も、何か空漠としたものに身を委ねているようである。日々のいとなみや、動作まですべて、眼には見えない一本の糸によってあやつられているのであろうか。彼は書斎のスタンドを捻り、椅子に凭掛ったまま、屋根の上を流れる雨の音をきいていた。病室の妻や、病院の姿が、真暗な雨のなかに点る懐しい小さな灯のようにおもえた。  ながい間、書斎の壁に貼りつけていた火口湖の写真が、いつ、どこへ仕舞込んでしまったものか、もう見あたらなかった。が彼はよく、その火口湖の姿をおもい浮べながら、過ぎ去った日のことを考えた。それは彼が妻とはじめてその湖水のほとりを訪れた時、何気なく購い求めた写真であった。毎朝その写真の湖水のところに、窓から射し込む柔かな陽光が縺れ、それをぼんやり甘えた気持で眺める彼であった。……彼は山の中ほどで、息が切なくなっていた。すると妻が彼の肩を軽く叩いてくれた。それから、ふと思いがけぬところに、バスの乗場があり、バスは滑らかに山霧のなかを走った。──それはまだ昨日の出来事のように鮮かであった。だが、二度目にひとりで、その同じ場所を訪れた時の記憶もヒリヒリと眼のまえに彷徨っていた。みじめな、孤独な、心呆けした旅であった。優しいはずの湖水の眺めが、まっ暗な幻影で覆われていた。殆ど自殺未遂者のような顔つきで、彼はそのひとり旅から戻って来た。すると、間もなく彼の妻が喀血したのだった。四年前の秋のことであった。妻の病気によって、あのとき、彼は自らの命を繋ぎとめたのかもしれなかった。  久し振りに爽やかな光線が庭さきにちらついていたが、彼は重苦しい予想で、ぐったりとしていた。再検査の紙が彼のところにも送附されて来たのだった。それは、ただ医師の診断を受けて、書込んでもらえばよかったのだが、そういうものが舞込んで来ることに、彼は容易ならぬものを感じた。彼は昨日も訪れたばかりの妻のところへ、また出掛けて行きたくなった。  街は日の光でひどく眩しかった。それは忽ち喘ぐように彼を疲らせてしまった。だが、病院の玄関に辿り着くと、朝の廊下は水のように澄んでいた。ひっそりとした扉をあけて、彼が病室の方へ這入って行くと、妻は思いがけない時刻にやって来た彼の姿を珍しげに眺め、ひどく嬉しそうにするのであった。その紙片を見せると、妻はしばらく黙って考えていた。 「診察なら、津軽先生にしてもらえばいいでしょう」と、妻はすぐにまた晴れやかな調子にかえった。 「お天気がいいので訪ねて来てくれたのかと思ったら、そんなことの相談でしたの」と妻は軽く諧謔をまじえだした。「御飯を食べてお帰りなさい、久し振りに旦那さんと一緒に御飯なりと頂きましょうよ」  妻は努めて、そして無造作に、いま重苦しい考を追払おうとしていた。……赤いジャケツを着た、はち切れそうな娘が、運搬車を押して昼食を持って来た。糖尿試験食の皿と普通の皿と、ベッド・テーブルの上に並べられると、御馳走のある試験食の方の皿から、普通食の皿へ、妻は箸でとって彼に頒つのだった。  翌日、約束の時間に出掛けて行くと、妻のところに立寄った津軽先生は、軽く彼に会釈して、廊下の外へ彼を伴なって行った。医局の前を通りすぎて、広い部屋に入ると、彼は上衣のボタンをはずした。妻のひどく信頼している津軽先生は、指さきから、ものごしにいたるまで、静かにととのった気品があった。一度は軍医として出征したこともあるのだが、荒々しいものの、まるで感じられない人柄であった。その、いつも妻の体を調べている指さきが、いま彼の背を綿密に打診していた。すると、かすかに甘えたいような魔術が読みとられた。津軽先生はペンを執って、再検査の用紙の胸部疾患の欄に二三行書込んで行った。「脚気の気味もあるようですね」と先生は呟いた。  診察がすむと、彼はぐったりして、廊下の方へ出て行ったが、眼のまえの空間が茫と疼く疲労感で一杯になっていた。それから、妻の病室へ戻って来ると、パッと何か渦巻く色彩があった。いま妻のベッドの脇には、近所の細君が二人づれで見舞に来ていた。テーブルの上に菊の花が乱れた儘になっていた。いつもくすんだ身なりをしている隣組の女たちの、こうした、たまの盛装が、この部屋の空気を落着かなくしているのだろうか。……「ひどい南風ですね」と細君のひとりは窓の方を眺めながら云った。そういえば、リノリウムの廊下まで、べとべとと湿気ていたし、ガラス窓の外は茫と白くふくれ上って揺れかえしているのであった。見舞客が帰って行くと、妻はぐったりした顔つきで、枕に頭を沈めた。その頬はかすかに火照っているようであった。  その南風が吹き募ると、海と空が茫と脹らんで白く燃え上るようであった。どうかすると真夏よりも酷しい光線で野の緑が射とめられていた。落着のないクラスの生徒たちは、この風が吹きまくるとき、ことに騒々しかった。彼はときどき教壇の方から眼を運動場のはてにある遠い緑の塊りに対けていた。舞上る砂埃に遮られて、それは森とも丘とも見わけのつかぬ茫漠とした眺めではあったが、あの混濁のなかに一つの清澄が棲んでいて、それが頻りに向うから彼の魂を誘っているようだった。すぐ表の坂を轟々と戦車が通りすぎて行った。すると、かぼそい彼の声は騒音と生徒の喚きで、すっかり捩ぎとられてしまうのであった。  その風が鎮まると、漸く秋らしい青空が眺められた。澄んだ午後の光線は電車の中にも流れ込んでいた。痩せ細った老人が萎びたコスモスの花を持って、恐しい顔つきのまま座席に蹲っている。ある小駅につづく露次では、うず高くつみ重ねられた芋俵をめぐって、人が蟻のように動いていた。よじくれた榎と叢のはてに、浅い海が白く光っていた。そうした眺めは、彼にとってはもう久しく見馴れている風景ではあったが、なぜか近頃、はっきりと輪郭をもって、小さな絵のように彼の眼の前にとまった。その絵を妻に頒ち与えたいような気持で、病院の方へ足を運んでいることがあった。  胸の奥に軽く生暖かい疼きを感じながら、彼は繊細なものの翳や、甘美な聯想にとり縋るように、歩き廻っていた。家と病院と学校と、その三つの間を往ったり来たりする靴が、溝に添う曲り角を歩いていた。そこから坂道を登って行けば病院だったが、その辺を歩いている時、ふと彼の時間は冷やかな秋の光で結晶し、永遠によって貫かれているような気がした。それから、病院の長い長い廊下や、(それは夢のなかの廊下ではなかったが)大概、彼が行くときか帰りかにきっと出逢う中風患者の姿、(冷たい雨の日も浴衣がけで何やら大袈裟な身振りで、可憐に片手を震わせていた)合同病室の扉の方から喰み出している痩せた女の黄色い顔、一つの角を曲ると忽ち轟然とひびいて来る庖厨部の皿の音、──そうした病院の風景を家に帰って振返ってみると、彼には半分夢のなかの印象か、ひそかに愛読している書物のなかにある情景のようにおもえた。  だが、彼の妻が白い寝巻の上にパッと派手な羽織をひっかけ、「その辺まで見送ってあげましょう」と、外の廊下の曲り角まで一緒について来て、「ここでおわかれ」と云った時、彼はかすかに後髪を牽かれるようなおもいがした。そこには、妻の振舞のあざやかさがひとり取残されていた。  ひとりで、附添も置かず、その部屋で暮している妻は、彼が訪れて行くたびに、何かパッと新鮮な閃きをつたえた。 「熱はもうすっかり退がりました。津軽先生が、この薬とてもよく効くとおっしゃるの」そう云って黒い小粒の薬を彼に見せながら、「そのうち気胸もしてみようかとおっしゃるの、でも、糖尿の方があるので……」と、妻は仔細そうな顔をする。「先生も尿の検査にはなかなか骨が折れるとおっしゃるの」  彼は妻の口振りから津軽先生の動作まで目に浮ぶようであった。……明るい窓辺で、静かにグラスの目盛を測っている津軽先生は、時々ペンを執って、何か紙片に書込んでいる。それは毎日、同じ時刻に同じ姿勢で確実に続けられて行く。と、ある日、どうしたことかグラスの尿はすべて青空に蒸発し、先生の眼前には露に揺らぐコスモスの花ばかりがある。先生はうれしげに笑う。妻はすっかり恢復しているのだった。 「わかったの、わかったのよ」  妻は彼が部屋に這入って行くと、待兼ねていたように口をきった。 「もうこれからは、独りで病気の加減を知ることが出来そうよ、どうすればいいかわかって」そう云って妻は大きな眼をみはった。 「尿を舐めてみたの、すると、とてもあまかった。糖がすっかり出てしまうのね」  妻はさびしげに笑った。だが、笑う妻の顔には悲痛がピンと漲っていた。この病院でも医者はつぎつぎに召集されていたし、津軽先生もいつまでも妻をみてくれるとは請合えなかった。三カ月の予定で糖尿の療法を身につけるため入院した妻は、毎日三度の試験食を丹念に手帳に書きとめているのだった。  ある午後、彼の眼の前には、透きとおった、美しい、少し冷やかな空気が真二つにはり裂け、その底にずしんと坐っている妻の顔があった。 「この頃は、毎朝、お祈りをしているの、もう祈るよりほかないでしょう、つまらないこと考えないで一生懸命お祈りするの」  そう云って妻はいまもベッドの上に坐り直り、祈るような必死の顔つきであった。すると、白い壁や天井がかすかに眩暈を放ちだす、あの熱っぽいものが、彼のうちにも疼きだした。彼はそっと椅子を立上って窓の外に出る扉を押した。そのベランダへ出ると、明るい灝気がじかに押しよせて来るようだった。すぐ近くに見おろせる精神科の棟や、石炭貯蔵所から、裏門の垣をへだてて、その向うは広漠とした田野であった。人家や径が色づいた野づらを匐っていたが、遮るもののない空は大きな弧を描いて目の前に垂れさがっていた。   ………………………… 「こんどおいでのとき聖書を持って来て下さい」  妻はうち砕かれた花のような笑みを浮べていた。……家へ戻ってから、ふと古びた小型のバイブルをとり出してみて、彼はハッとするのだった。それは彼が少年の頃、亡くなった姉から形見に貰ったものであった。二十年も前のことだが、死ぬ前、姉は県病院に入院していた。二度ばかり見舞に行って、それきり姉とは逢えなかったのだが、この姉の追憶はいつも彼を甘美な少年の魂に還らせていた。そういえば、彼が妻の顔をぼんやり眺めながら、この頃何かしきりに考えていたのはそのことだったのだろうか。静かな病室のなかで、うっとりと、ふと何か口をついて、喋りたくなりながら、口には出なかったのは、そのことだったのだろうか。  真昼の電車の窓から海岸の叢に白く光る薄の穂が見えた。砂丘が杜切れて、窪地になっているところに投げ出されている叢だったが、春さきにはうらうらと陽炎が燃え、雲雀の声がきこえた。その小景にこころ惹かれ、妻に話したのも、ついこのあいだのようだったが、そこのところが今、白い穂で揺れていた。薄は気がつくと、しかし沿線のいたるところにあった。電車の後方の窓から見ると、遙かにどこまでも遠ざかってゆく線路のまわりにチラチラと白いものが閃いた。ある朝、学校へ出掛けて行く彼は、電車の窓に迫って来る崖の上に、さわさわと露に揺れる丈高い草を刈り取っている女の姿を見た。崖下の叢もうっすらと色づいていた。それから間もなく、田のあちこちが黒いおもてを現して来た。刈あとの切株のほとりに、ふと大きな牛の胴を見ることもあった。時雨に濡れて、ある駅から乗込んだ画家は、すぐまた次の駅で降りて行った。そうした情景を彼もまた画家のような気持で眺めるのだった。  それから、ある午後、彼が教室で授業していると、ふと窓の外の方があやしく気にかかった。リーダーを持ったまま、彼は硝子窓の方へ注意を対けていた。ひょろひょろの銀杏の梢に黄金色の葉がヒラヒラしているのだ。あ、あれだろうか、……何とも名ざし出来ない、美しい透明な世界がすぐそこにあるようだし、それはひっそりととおりすぎてゆくのであった。  彼はそっと窓の方の扉をあけて、いつものベランダに出てみた。冷たい空気が頬にあたり、すぐ真下に見える鈴懸の並木がはっと色づいていた。と、何かヒラヒラするものがうごき、無数の落葉が眼の奥で渦巻いた。いま建物の蔭から、見習看護婦の群が現れると、つぎつぎに裏門の方へ消えて行くのだった。その宿舎へ帰って行くらしい少女たちの賑やかな足並は、次第にやさしい祈りを含んでいるようにおもえた。と、この大きな病院全体が、ふと彼には寺院の幻想となっていた。高台の上に建つこの大伽藍は、はてしない天にむかって、じっと祈りを捧げているのではないか。明るい空気のなかに、かすかな靄が顫えながら立罩めてくるようだった。やがて彼は病室へ戻って来た。すると、妻はいままで閉じていた眼をパッと見ひらいた。「行ってみる時刻でしょう」と妻は愁わしげに云う。その日、津軽先生から話があるというので、外来患者控室の前で逢うことになっていた。  彼は廊下の椅子に腰を下ろして待った。約束の時刻は来ていたが先生の姿は見えなかった。すぐ目の前を、医者や看護婦や医学生たちが、いく人もいく人も通りすぎて行った。やがて廊下はひっそりとして、冷え冷えして来た。めっきり暗くなった廊下で彼はいつまでも待った。よくない予感がしきりにしていたが、そうして待たされているうちに、もう彼は何も考えようとはしなかった。ただ、この世の一切から見離されて、極地のはてに、置きざりにされたような、暗い、冷たい、突き刺すような感覚があった。 「遅くなりました」ふと目の前に津軽先生の姿が現れた。 「召集がかかりましたので」先生は笑いながら穏やかな顔つきであった。急に彼は眼の前が真暗になり、置きざりにされている感覚がまたパッと大きく口を開いた。誰か女のつれが向うの廊下からちらとこちらを覗いたようであった。 「インシュリンのことでしたね、あの薬はあなたの方では手に這入りませんか」 「まるで、あてがないのです」  彼は歪んだ声で悲しそうに応えた。その大きな病院でも今は容易にそれが得られなかったが、その注射薬がなければ、妻の病は到底助からないのであった。 「そうですか、それでは僕が出て行ったあとも、引きつづいて、ここへ取寄せるように手筈しておきましょう」  そういって先生はもう立去りそうな気配であった。彼はとり縋って、何かもっと訊ねたいことや、訴えたいものを感じながらも、押黙っていた。 「それでは失礼します、お大切に」先生は軽く頷きながら静かな足どりで立去ってしまった。  日が短くなっていた。病院を出て家に戻って来るまでに、あたりは見る見るうちに薄暗くなってゆき、それが落魄のおもいをそそるのでもあった。薄暗い病院の廊下から表玄関へ出ると、パッと向うの空は明るかった。だが、そこの坂を下って、橋のところまで行くうちに、靄につつまれた街は刻々にうつろって行く。どこの店でも早くから戸を鎖ざし、人々は黙々と家路に急いでいた。たまに灯をつけた書店があると、彼は立寄って書棚を眺めた。彼ははじめて、この街を訪れた漂泊者のような気持で、ひとりゆっくりと歩いていた。そうしているうちにも、何か急きたてるようなものがあたりにあった。日が暮れて路を見失った旅人の話、むかし彼が子供の頃よくきかされたお伽噺に出てくる夕暮、日没とともに忍びよる魔ものの姿、そうした、さまざまの脅え心地が、どこか遠くからじっと、この巷にも紛れ込んでくるのではあるまいか。 ……弥生も末の七日明ほのゝ空朧々として月は在明にて光をさまれる物から不二の峯幽にみえて上野谷中の花の梢又いつかはと心ほそしむつましきかきりは宵よりつとひて舟に乗て送る千しゆと云所にて船をあかれは前途三千里のおもひ胸にふさかりて幻のちまたに離別の泪をそゝく  彼は歩きながら『奥の細道』の一節を暗誦していた。これは妻のかたわらで暗誦してきかせたこともあるのだが、弱い己れの心を支えようとする祈りでもあった。  ……幻のちまたに離別の泪をそゝく  今も目の前を電車駅に通じる小路へ、人はぞろぞろと続いて行った。 (昭和二十二年四月号『四季』) 底本:「夏の花・心願の国」新潮文庫、新潮社    1973(昭和48)年7月30日初版発行 入力:tatsuki 校正:林 幸雄 2002年1月1日公開 2005年12月1日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。