俳諧瑣談 寺田寅彦 Guide 扉 本文 目 次 俳諧瑣談      一  ドイツの若い物理学者のLというのがせんだって日本へ遊びに来ていた。数年前にも一度来たことがあるのでだいぶ日本通になっている。浮世絵などもぽつぽつ買い込んで行ったようである。このドイツ人がある日俳句を作ったと言って友だちの日本人に自慢をした。それは 鎌倉に鶴がたくさんおりました というのである。なるほどちゃんと五、七、五の音数律には適合している。いわれを聞いてみると、「昔頼朝時代などには鎌倉へんに鶴がたくさんにいて、それに関連した史実などもあったが今日ではもう鶴などは一羽も見られなくなって、世の中が変わってしまった」という感慨を十七字にしたのだそうである。それを私に伝えた日本の理学者は世にも滑稽なる一笑話として、それを伝えたのである。  なるほどおかしいことはおかしいが、しかし、この話は「俳句とは何か」という根本的な問題を考える場合に一つの参考資料として役立つものであろうと思われる。すなわち、これが俳句になっていないとすれば、何ゆえにそれが俳句になっていないかという質問に対するわれわれの説明が要求されるのである。この説明はそうそう簡単にはできないであろう。  以上の笑話はまた一方で大多数の外国人がわが俳句というものをどういうふうに、どの程度に理解しているかということを研究する場合に一つの資料となるものであろうと思われる。      二  近刊の雑誌「東炎」に志田素楓氏が、芭蕉の古池の句の外国語訳を多数に収集紹介している。これははなはだ興味の深いコレクションである。そのうちで日本人の訳者五名の名前を見るといずれも英語にはすこぶる熟達した人らしく思われるが、しかし自身で俳諧の道に深い体験をもっているのかどうか不明な人たちばかりのようである。残りの十人の外国人ももちろん自身に俳句らしい俳句を作ったことのない人たちばかりであるに相違ない。  俳句を充分に理解しうるためには、その人は立派な俳句の作り得られる人でなければならないと思われる。はたしてそうだとすれば、これらの十五種の「古池や」の翻訳のうちで、もし傑作があったら、それは単なる偶然に過ぎないであろう。  一流の俳人で同時に一流の外国語学者でない限り、俳句の翻訳には手を下さないほうが安全であろう。 (昭和八年十一月、渋柿)      三  故坂本四方太氏とは夏目先生の千駄木町の家で時々同席したことがあり、また当時の「文章会」でも始終顔を合わせてはいたが、一度もその寓居をたずねたことはなかった。それにもかかわらず自分は同氏の住み家やその居室を少なくとも一度は見たことがあるような錯覚を年来もちつづけて来た。そうしてそれがだんだんに固定し現実化してしまって今ではもう一つの体験の記憶とほとんど同格になってしまっている。どうしてそんなことになったかと考えてみるが、どうもよくはわからない。  夏目先生が何かの話のおりに四方太氏のことについて次のようなことを言ったという記憶がある。「四方太という人は実にきちんとした人である。子供もなく夫婦二人きり全くの水入らずでほんとうに小ぢんまりとした、そうして几帳面な生活をしている」といったような意味のことであったと思う。同じようなことを一度ならず何度も聞かされたように思う。  この、きちんとして、小ぢんまりしているという言葉が自分の頭にある四方太氏の風貌ときわめて自然に結びついて、それが自分の想像のスケッチブックのあるページへ「坂本四方太寓居の図」をまざまざと描き上げさせる原動力になったものらしい。その想像の画面に現われた四方太の住み家の玄関の前には一面に白い霜柱が立っている。きれいに片付いた六畳ぐらいの居間の小さな火鉢の前に寒そうな顔色をして端然と正座しているのである。  文章会で四方太氏が自分の文章を読み上げる少しさびのある音声にも、関西なまりのある口調にも忘れ難い特色があったが、その読み方も実にきちんとした歯切れのいい読み方であった。「ホッ、ホッ、ホッ」と押し出すような特徴ある笑声を思い出すのである。  ある冬の日の本郷通りで会った四方太氏は例によってきちんとした背広に外套姿であったが、首には玉子色をしたビロードらしい襟巻をしていた。その襟巻を行儀よく二つ折りにした折り目に他方の端をさし込んだその端がしわ一つなくきちんとそろって結び文の端のように、おたいこ結びの帯の端のように斜めに胸の上に現われていた。こういういで立ちをした白皙無髯、象牙で刻したような風貌が今でも実にはっきりと思い出されるのである。  この街頭における四方太氏のいで立ちを夏目先生に報告したら、どういうわけか先生がひどくおもしろがって腹が痛くなるほど笑われたことも思い出すのである。このおかしかったわけは今でもわからない。  そのころであったと思う。自分は白いネルをちょん切っただけのものを襟巻にしていた。それが知らぬ間にひどくよごれてねずみ色になっているのを先生が気にしていた。いつか行ったとき無断で没収され、そうして強制的にせんたくを執行された上で返してくれたことがあった。そのネルの襟巻と四方太氏の玉子色の上等の襟巻との対照もおかしいものの一つではあったかもしれない。  夏目先生は四方太氏のきちんとした日常をうらやましく思うおりもあったかもしれないと思う。先生はきちんとした事が好きであったにかかわらずきちんとしうるためにはあまりに暖かい心臓の持ち主であったかもしれないと思うからである。自分は四方太氏にもやさしい親しみを感ずることはできたが、しかしあまりにきちんとして近より難いような気もしたのであった。今日になって漱石四方太二人の俳句や文章を並べてみても、この対照が実にはっきり見えるような気がするのはあながち自分ばかりではないかもしれない。      四  去年の夏であったか、ある朝玄関へだれか来たようだと思っていると、女中が出ての取り次ぎによると「俳句をおやりになるAさんというかたがお見えになりました」というのである。聞いたことのない名前である。出て見るとまだ若い学生のような人であるが、無帽の着流しで、どこかの書生さんといった風体である。玄関で立ったまま来意を聞くとさげていた小さなふろしき包みを解いて中からだいぶよごれた帳面を出した。それになんでもいいから俳句を書いてもらいたいという。近くに田舎へ帰るので、できるだけ多くの俳人に自筆の句をもらってみやげにしたいというのである。帳面は俳句日記かなんかの古物であったかと思うが、明けて見るとなるほどいろいろの人の手跡でいろいろの句がきたなく書き散らしてある。自分は俳人でもないからと一応断わってみたが、たってと言われるので万年筆でいいかげんの旧作一句をしたためて帳面を返した。すると今度はふろしきの中から一冊の仮りとじの小さな句集のようなものを取り出して自分の前に置いた。手に取って見るとそれは知名の某俳人の句集であったが、その青年のいうところによると、その俳人がこの人のためにもし何かのたしになるならと言って若干冊だけ恵与されたものだそうである。しかしそれをどうすればよいのかわからなかったので、はなはだ露骨ではあったが「これを私に買えとおっしゃるのですか」と聞いてみたら、やはり究極のところはそうであったのである。  こういう些細なことも昭和俳諧史のどこかのページの端に書き残しておいてもいいと思うので単なる現象記録としてここにしるしておくことにした。  俳諧一串抄に「俳諧はその物その事を全くいわずただ傍をつまみあげてその響きをもってきく人の心をさそう」という文句がある。  うちへ来たこの俳諧青年はやはりこの俳諧の心得の応用の一端を試みたのかもしれない。  このあいだ、ある歌人が来ての話の末に「今の若い人にさびしおりなどと言ってもだれも相手にしないであろう」という意味の意見を聞かされた。しかしこの青年などはさびしおりを処世術に応用しているほうかもしれないのである。      五  昨夜古いギリシアの兵法書を読んでいたら「夜打ちをかける心得」を説いたくだりに、狗吠や鶏鳴を防止するためにこれらの動物のからだのある部分を焼くべしということが書いてある。お灸でもすえるのかと思う。この本の脚注に、昔パルティア人が馬のいななくを防ぐためにそのしっぽをしっかりと緊縛するという方法をとった。そうすると馬は尻尾の痛苦に辟易していななく元気がなくなると書いてある。どうも西洋人のすることは野蛮で残酷である。東洋では枚をふくむという、もっと温和な方法を用いていたのである。同じ注に、欧州大戦のときフランスに出征中のアメリカ軍では驢馬のいななくのを防ぐために「ある簡単なる外科手術を施行した」とある。やはり西洋人は残酷である。  昨夜これを読んだけさ「南北新話」をあけて見ると 夜の明けやすい白無垢は損 惟光が馬はしのばずいなないて という付け合わせが例句として引用されている。その前に「前句のすがたをうずたかく見いだしたる句に」という前置きがあり、後に「これ扇に夕がおのころならん」とある。 「うずたかく」とはいかなる点をさすのか自分にはよくわからない。しかし、ともかくも連句というものの世界の広大無辺なことを思わせる一例であろう。少し変わった言い方をすると「俳諧の道は古代ギリシアの兵法にも通う」のである。これは一笑に値する。      六  昔、ラスキンが人から剽窃呼ばわりをされたのに答えて、独創ということも、結局はありったけの古いものからうまい汁を吸って自分の栄養にしてからの仕事だというような意味のことを言った。  蕪村は「諸流を尽くしこれを一嚢中にたくわえ自らよくその物をえらび用にしたがっていだす」と言っているそうである。つまり同じことを言っているらしい。こんな例をあげればいくらでも出てくるであろう。あまりにわかり切ったことだからである。  しかし自分が平生不思議に思うことは、昔でも今でも俳人の世界ではいろいろの党派のようなものができて、そうして各流派流派の「主張」とか「精神」とかいうものを固執して他流を排斥しあるいは罵詈するようなこともかなり多い。門外の風来人から見ると、どの流派にもみんなそれぞれのおもしろいところとおもしろくないところもあるように思われ、またいろいろの「主張」がいったい本質的にどこがちがうのかわからないような場合もかなりあるように思われる。  もっともそういえば仏教でも耶蘇教でもフイフイ教でも同じになるかもしれないし、そうなればいったい何をおがんだらよいかわからなくなって困るかもしれない。  俳諧が宗教のように「おがむ」ことならば宗派があるのは当然かもしれない。しかし俳諧はまた一方では科学的な「認識」でありうる。そのためにはただ一面だけを固執する流派は少し困るかもしれない。  露月の句に「薬には狸なんどもよかるべく」というのがある。狸も食ってみなければ味がわからない。食えば何かの薬にはなるかもしれないのである。      七  高等学校の一年から二年に進級した夏休みに初めて俳句というものに食いついて、夢中になって「新俳句」を読みふけった。天地万象がそれまでとはまるでちがった姿と意味をもって眼前に広がるような気がした。  蒸し暑い夕風の縁側で父を相手に宣教師のようなあつかましさをもって「新俳句」の勝手なページをあけては朗読の押し売りをしたが、父のほうではいっこう感心してくれなかった。たとえば 古井戸をのぞけばわっと鳴く蚊かな   杜昌 といったような句でも、当時の自分には、いくら説明したくても説明のできない幻想の泉となり、不可思議な神秘の世界をのぞく窓となるのであったが、父に言わせると「ただ、言っただけではないか」というのであった。  そのころより少し前に、父は陸軍の同僚数名と連句の会をやっていたことがある。その同僚中に一人宗匠格の人があってそれが指導者になっていたらしい。その宗匠が「扇開けば薄墨の月」という付け句をしたのを、さすが宗匠はうまいと言ってひどく感心していたことを思い出すのである。前句は何であったか忘れてしまった。 「赤い椿白い椿と落ちにけり」(碧梧桐)でも父の説に従えばなるほど「言うただけ」である。しかしこの句が若かった当時の自分の幻想の中に天に沖する赤白の炎となってもえ上がったことも事実である。 「俳句は読者を共同作者として成立する」と言ったフランス人の言葉もまるでうそではないようである。どうしても発句だけでは、その評価は時と場所と人との函数として零から無限大まで変化しうる可能性をもっている。  しかし連句になると、もうそれほどの自由がきかなくなるのではないかと思われる。一重の網をのがれた魚でも三十六重の網には引っかかるのである。一枚の芸術写真に興味のない人でも映画はおもしろがるのである。  それだのに現代において俳句のほうに大衆性があって、連句のほうは至って影が薄いのはどういうわけであろう。  俳句の享楽は人の句を読むことよりもより多く自分で作ることにあるらしい。この点スキーやダンスに似ている。そうしてだれでもある程度まではできるから楽しみになる。しかし連句は読んでおもしろくても作るのはなかなかたいへんである。この点映画と同じである。そうしてしかも現在の大衆にはわかりにくい象徴的な前衛映画である。  現代の俳句界はジャーナリズムの力を借りることなしには大衆を包括することができないのに、今のジャーナリズムの露骨主義と連句の暗示芸術というものとは本来別世界の産物である。しかし、現状をはなれて抽象的に考えてみると連句的ジャーナリズムやジャーナリズム的連句といったようなものの可能性も全然ないとは考えられない。たとえばロシア映画のあるものは前者の類型であり、アメリカ映画のあるものは後者の仲間であると言ってもそうはなはだしい牽強付会ではあるまいと思われる。      八  連句の映画化ということについては、自分はこれまでに幾度もいろいろな場所で所見を述べたことがある。これについては同じような意見をもった人も少なくないようである。  これに対立してまた、映画的な連句の新形式を予想することも可能である。これが、もしうまく行ったら、このほうはきっと現代の大衆に理解されやすく、模倣されやすく、従って享楽されやすいものになりそうである。  昔漱石虚子によって試みられた「俳体詩」というものは、そういうものの無意識な萌芽のようなものであったかと思われる。しかしまだ芸術映画の理論などの問題にならない時代における最初の試みであったから、今から見るとそういう見地からは幼稚なものであったかもしれない。  自分のここで映画的連句というのは一定のストーリーに基づいたシナリオ的な連句のつもりである。しかしシナリオ的な叙事詩とはだいぶちがうつもりである。一方では季題や去り嫌いや打ち越しなどに関する連句的制約をある程度まで導入して進行の沈滞を防ぎ楽章的な形式の斉整を保つと同時に、また映画の編集法連結法に関するいろいろの効果的様式を取り入れて一編の波瀾曲折を豊富にするという案である。  なんだか夢のような話であるが、しかし百年たたないうちにそんな新詩形が東洋の日本で生まれ出て、それが西洋へ輸入され、高慢な西洋人がびっくりしてそうして争ってまねをはじめるということにならないとも限らない。      九  短歌には作者自身が自分の感情に陶酔して夢中になって詠んだように見えるのがかなり多い。しかし俳句ではたとえ形式の上からは自分の感情を直写しているようでも、そこではやはり、その自分の感情が花鳥風月と同様な一つの対象となっていて、それを別の観察者としての別の自分が観察し記録し描写しているように感ぜられるものが多い。こういう意味で、歌は宗教のようであり、俳句は哲学のようであると言ったような気もする。  それとは関係はないかもしれないが自分は近ごろこんな空想を起こしてみたことがある。それは「歌人で気違いになったり自殺したりする人の数と、俳人で同様なことになる人の数とを比較してみたら、ことによると前者のほうが比率の上で多いということになりはしないか」というのである。これは完全な資料によって統計的に調べてみなければなんとも言われないことである。しかし、自分の知っているきわめて狭い範囲の資料から見ると、どうも、そういう傾向が見えるようである。ある歌人の話では、比較的少数なその一派で気の狂った人が五六人はあるという。ある俳人の一門では長年の間に一人二人自殺した人はあったが、それはその人たちが長く俳句から遠ざかった後のことであったという。  要するにこれは全く自分の空想に過ぎないが、しかし自分の考えている歌と俳句との作者のその創作の瞬間における「自分」というものに対する態度の相違から考えると、そのような空想が万一事実として現われて来るとしても別に不思議はないような気がするのである。  こう言ったからといって、歌を作る人が皆ああであって俳句をやる人がことごとくこうであるといったような意味ではもちろんない。ただ統計的のことを言っているのである。  それからまた、もし以上の空想がいくぶん事実に近いということになったとしても、それは歌や俳句の力で人をどうするというわけではなくて、ただ歌をやる人と俳句をやる人とで本来の素質に多少の通有的相違があるということを暗示するに過ぎないであろう。  しかし、ともかくも、たとえば、三原山投身者だけについてでも、もしわかるものならその中で俳句をやっていた人が何プロセントあったか調べてみたいような気がする。俳諧の目を通して自然と人生を見ている人が、容易なことでそんな絶望的気持ちになったり、またそんなに興奮したりしようとは、どうしても自分には思われないからである。  友人の話であるが、ある俳人で長い病の後に死が迫ったときに聖書と句集とを胸の上において死んで行った人があるそうである。「宗教だけでは、どうもさびしかったらしい」と友人が付け加えて話した。 (昭和九年三月、俳句研究) 底本:「日本の名随筆 別巻25 俳句」作品社    1993(平成5)年3月25日第1刷発行    1999(平成11)年11月20日第6刷発行 底本の親本:「寺田寅彦全集 第十二巻」岩波書店    1961(昭和36)年9月7日 入力:門田裕志 校正:浅原庸子 2006年1月23日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。