田舎教師 田山花袋 Guide 扉 本文 目 次 田舎教師 一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 十一 十二 十三 十四 十五 十六 十七 十八 十九 二十 二十一 二十二 二十三 二十四 二十五 二十六 二十七 二十八 二十九 三十 三十一 三十二 三十三 三十四 三十五 三十六 三十七 三十八 三十九 四十 四十一 四十二 四十三 四十四 四十五 四十六 四十七 四十八 四十九 五十 五十一 五十二 五十三 五十四 五十五 五十六 五十七 五十八 五十九 六十 六十一 六十二 六十三 六十四 一  四里の道は長かった。その間に青縞の市のたつ羽生の町があった。田圃にはげんげが咲き、豪家の垣からは八重桜が散りこぼれた。赤い蹴出しを出した田舎の姐さんがおりおり通った。  羽生からは車に乗った。母親が徹夜して縫ってくれた木綿の三紋の羽織に新調のメリンスの兵児帯、車夫は色のあせた毛布を袴の上にかけて、梶棒を上げた。なんとなく胸がおどった。  清三の前には、新しい生活がひろげられていた。どんな生活でも新しい生活には意味があり希望があるように思われる。五年間の中学校生活、行田から熊谷まで三里の路を朝早く小倉服着て通ったことももう過去になった。卒業式、卒業の祝宴、初めて席に侍る芸妓なるものの嬌態にも接すれば、平生むずかしい顔をしている教員が銅鑼声を張り上げて調子はずれの唄をうたったのをも聞いた。一月二月とたつうちに、学校の窓からのぞいた人生と実際の人生とはどことなく違っているような気がだんだんしてきた。第一に、父母からしてすでにそうである。それにまわりの人々の自分に対する言葉のうちにもそれが見える。つねに往来している友人の群れの空気もそれぞれに変わった。  ふと思い出した。  十日ほど前、親友の加藤郁治と熊谷から歩いて帰ってくる途中で、文学のことやら将来のことやら恋のことやらを話した。二人は一少女に対するある友人の関係についてまず語った。 「そうしてみると、先生なかなかご執心なんだねえ」 「ご執心以上さ!」と郁治は笑った。 「この間まではそんな様子が少しもなかったから、なんでもないと思っていたのさ、現にこの間も、『おおいに悟った』ッて言うから、ラヴのために一身上の希望を捨ててはつまらないと思って、それであきらめたのかと思ったら、正反対だッたんだね」 「そうさ」 「不思議だねえ」 「この間、手紙をよこして、『余も卿等の余のラヴのために力を貸せしを謝す。余は初めて恋の物うきを知れり。しかして今はこのラヴの進み進まんを願へり、Physical なしに……』なんて言ってきたよ」  この Physical なしにという言葉は、清三に一種の刺戟を与えた。郁治も黙って歩いた。  郁治は突然、 「僕には君、大秘密があるんだがね」  その調子が軽かったので、 「僕にもあるさ!」  と清三が笑って合わせた。  調子抜けがして、二人はまた黙って歩いた。  しばらくして、 「君はあの『尾花』を知ってるね」  郁治はこうたずねた。 「知ってるさ」 「君は先生にラヴができるかね」 「いや」と清三は笑って、「ラヴはできるかどうかしらんが、単に外形美として見てることは見てるさ」 「Aのほうは?」 「そんな考えはない」  郁治は躊躇しながら、「じゃ Art は?」  清三の胸は少しくおどった。「そうさね、機会が来ればどうなるかわからんけれど……今のところでは、まだそんなことを考えていないね」こう言いかけて急にはしゃいだ調子で、 「もし君が Art に行けば、……そうさな、僕はちょうど小畑と Miss N とに対する関係のような考えで、君と Art に対するようになると思うね」 「じゃ僕はその方面に進むぞ」  郁治は一歩を進めた。  清三は今、車の上でその時のことを思い出した。心臓の鼓動の尋常でなかったことをも思い出した。そしてその夜日記帳に、「かれ、幸多かれ、願はくば幸多かれ、オヽ神よ、神よ、かの友の清きラヴ、美しき無邪気なるラヴに願はくば幸多からしめよ、涙多き汝の手をもって願はくば幸多からしめよ、神よ、願ふ、親しき、友のために願ふ」と書いて、机の上に打っ伏したことを思い出した。  それから十日ほどたって、二人はその女の家を出て、士族屋敷のさびしい暗い夜道を通った。その日は女はいなかった。女は浦和に師範学校の入学試験を受けに行っていた。 「どんなことでも人の力をつくせば、できないことはないとは思うけれど……僕は先天的にそういう資格がないんだからねえ」 「そんなことはないさ」 「でもねえ……」 「弱いことを言うもんじゃないよ」 「君のようだといいけれど……」 「僕がどうしたッていうんだ?」 「僕は君などと違ってラヴなどのできる柄じゃないからな」  清三は郁治をいろいろに慰めた。清三は友を憫みまた己を憫んだ。  いろいろな顔と事件とが眼にうつっては消えうつっては消えた。路には榛のまばらな並木やら、庚申塚やら、畠やら、百姓家やらが車の進むままに送り迎えた。馬車が一台、あとから来て、砂煙を立てて追い越して行った。  郁治の父親は郡視学であった。郁治の妹が二人、雪子は十七、しげ子は十五であった。清三が毎日のように遊びに行くと、雪子はつねににこにことして迎えた。繁子はまだほんの子供ではあるが、「少年世界」などをよく読んでいた。  家が貧しく、とうてい東京に遊学などのできぬことが清三にもだんだん意識されてきたので、遊んでいてもしかたがないから、当分小学校にでも出たほうがいいという話になった。今度月給十一円でいよいよ羽生在の弥勒の小学校に出ることになったのは、まったく郁治の父親の尽力の結果である。  路のかたわらに小さな門があったと思うと、井泉村役場という札が眼にとまった、清三は車をおりて門にはいった。 「頼む」  と声をたてると、奥から小使らしい五十男が出て来た。 「助役さんは出ていらっしゃいますか」 「岸野さんかな」  と小使は眼をしょぼしょぼさせて反問した。 「ああ、そうです」  小使は名刺と視学からの手紙とを受け取って引っ込んだが、やがて清三は応接室に導かれた。応接室といっても、卓や椅子があるわけではなく、がらんとした普通の六畳で、粗末な瀬戸火鉢がまんなかに置かれてあった。  助役は肥った背の低い男で、縞の羽織を着ていた。視学からの手紙を見て、「そうですか。貴郎が林さんですか。加藤さんからこの間その話がありました。紹介状を一つ書いてあげましょう」こう言って、汚ない硯箱をとり寄せて、何かしきりに考えながら、長く黙って、一通の手紙を書いて、上に三田ヶ谷村村長石野栄造様という宛名を書いた。 「それじゃこれを弥勒の役場に持っていらっしゃい」 二  弥勒まではそこからまだ十町ほどある。  三田ヶ谷村といっても、一ところに人家がかたまっているわけではなかった。そこに一軒、かしこに一軒、杉の森の陰に三四軒、野の畠の向こうに一軒というふうで、町から来てみると、なんだかこれでも村という共同の生活をしているのかと疑われた。けれど少し行くと、人家が両側に並び出して、汚ない理髪店、だるまでもいそうな料理店、子供の集まった駄菓子屋などが眼にとまった。ふと見ると平家造りの小学校がその右にあって、門に三田ヶ谷村弥勒高等尋常小学校と書いた古びた札がかかっている。授業中で、学童の誦読の声に交って、おりおり教師の甲走った高い声が聞こえる。埃に汚れた硝子窓には日が当たって、ところどころ生徒の並んでいるさまや、黒板やテーブルや洋服姿などがかすかにすかして見える。出はいりの時に生徒でいっぱいになる下駄箱のあたりも今はしんとして、広場には白斑の犬がのそのそと餌をあさっていた。  オルガンの音がかすかに講堂とおぼしきあたりから聞こえて来る。  学校の門前を車は通り抜けた。そこに傘屋があった。家中を油紙やしぶ皿や糸や道具などで散らかして、そのまんなかに五十ぐらいの中爺がせっせと傘を張っていた。家のまわりには油を布いた傘のまだ乾かないのが幾本となく干しつらねてある。清三は車をとどめて、役場のあるところをこの中爺にたずねた。  役場はその街道に沿った一かたまりの人家のうちにはなかった。人家がつきると、昔の城址でもあったかと思われるような土手と濠とがあって、土手には笹や草が一面に繁り、濠には汚ない錆びた水が樫や椎の大木の影をおびて、さらに暗い寒い色をしていた。その濠に沿って曲がって一町ほど行った所が役場だと清三は教えられた。かれはここで車代を二十銭払って、車を捨てた。笹藪のかたわらに、茅葺の家が一軒、古びた大和障子にお料理そば切うどん小川屋と書いてあるのがふと眼にとまった。家のまわりは畑で、麦の青い上には雲雀がいい声で低くさえずっていた。  弥勒には小川屋という料理屋があって、学校の教員が宴会をしたり飲み食いに行ったりするということをかねて聞いていた。当分はその料理屋で賄いもしてくれるし、夜具も貸してくれるとも聞いた。そこにはお種というきれいな評判な娘もいるという。清三はあたりに人がいなかったのをさいわい、通りがかりの足をとどめて、低い垣から庭をのぞいてみた。庭には松が二三本、桜の葉になったのが一二本、障子の黒いのがことにきわだって眼についた。  垣の隅には椿と珊瑚樹との厚い緑の葉が日を受けていた。椿には花がまだ二つ三つ葉がくれに残って見える。  このへんの名物だという赤城おろしも、四月にはいるとまったくやんで、今は野も緑と黄と赤とで美しくいろどられた。麦の畑を貫いた細い道は、向こうに見えるひょろ長い榛の並木に通じて、その間から役場らしい藁葺屋根が水彩画のように見渡される。  応接室は井泉村役場の応接室よりもきれいであった。そこからは吏員の事務をとっている室が硝子窓をとおしてはっきりと見えた。卓の上には戸籍台帳やら、収税帳やら、願届けを一まとめにした書類やらが秩序よく置かれて、頭を分けたやせぎすの二十四五の男と五十ぐらいの頭のはげた爺とが何かせっせと書いていた。助役らしい鬚の生えた中年者と土地の勢力家らしい肥った百姓とがしきりに何か笑いながら話していたが、おりおり煙管をトントンとたたく。  村長は四十五ぐらいで、痘痕面で、頭はなかば白かった。ここあたりによく見るタイプで、言葉には時々武州訛が交る。井泉村の助役の手紙を読んで、巻き返して、「私は視学からも助役からもそういう話は聞かなかったが……」と頭を傾けた時は、清三は不思議な思いにうたれた。なんだか狐につままれたような気がした。視学も岸野もあまり無責任に過ぎるとも思った。  村長はしばらく考えていたが、やがて、「それじゃもう内々転任の話もきまったのかもしれない。今いる平田という教員が評判が悪いので、変えるっていう話はちょっと聞いたことがあるから」と言って、 「一つ学校に行って、校長に会って聞いてみるほうがいい!」  横柄な口のききかたがまずわかいかれの矜持を傷つけた。  何もできもしない百姓の分際で、金があるからといって、生意気な奴だと思った。初めての教員、初めての世間への首途、それがこうした冷淡な幕で開かれようとはかれは思いもかけなかった。  一時間後、かれは学校に行って、校長に会った。授業中なので、三十分ほど教員室で待った。教員室には掛図や大きな算盤や書籍や植物標本やいろいろなものが散らばって乱れていた。女教員が一人隅のほうで何かせっせと調べ物をしていたが、はじめちょっと挨拶したぎりで、言葉もかけてくれなかった。やがてベルが鳴る、長い廊下を生徒はぞろぞろと整列してきて、「別れ」をやるとそのまま、蜘蛛の子を散らしたように広場に散った。今までの静謐とは打って変わって、足音、号令の音、散らばった生徒の騒ぐ音が校内に満ち渡った。  校長の背広には白いチョークがついていた。顔の長い、背の高い、どっちかといえばやせたほうの体格で、師範校出の特色の一種の「気取り」がその態度にありありと見えた。知らぬふりをしたのか、それともほんとうに知らぬのか、清三にはその時の校長の心がわからなかった。  校長はこんなことを言った。 「ちっとも知りません……しかし加藤さんがそう言って、岸野さんもご存じなら、いずれなんとか命令があるでしょう。少し待っていていただきたいものですが……」  時宜によればすぐにも使者をやって、よく聞きただしてみてもいいから、今夜一晩は不自由でもあろうが役場に宿ってくれとのことであった。教員室には、教員が出たりはいったりしていた。五十ぐらいの平田という老朽と若い背広の関という准教員とが廊下の柱の所に立って、久しく何事をか語っていた。二人は時々こっちを見た。  ベルがまた鳴った。校長も教員もみな出て行った。生徒はぞろぞろと潮のように集まってはいって来た。女教員は教員室を出ようとして、じろりと清三を見て行った。  唱歌の時間であるとみえて、講堂に生徒が集まって、やがてゆるやかなオルガンの音が静かな校内に聞こえ出した。 三  村役場の一夜はさびしかった。小使の室にかれは寝ることになった。日のくれぐれに、勝手口から井戸のそばに出て、平野をめぐる遠い山々のくらくなるのを眺めていると、身も引き入れられるような哀愁がそれとなく心をおそって来る。父母のことがひしひしと思い出された。幼いころは兄弟も多かった。そのころ父は足利で呉服屋をしていた。財産もかなり豊かであった。七歳の時没落して熊谷に来た時のことをかれはおぼろげながら覚えている。母親の泣いたのを不思議に思ったのをも覚えている。今は──兄も弟も死んでしまって自分一人になった今は、家庭の関係についても、他の学友のような自由なことはいっていられない。人のいい父親と弱々しく情愛の深い母親とを持ったこの身は、生まれながらにしてすでに薄倖の運命を得てきたのである。こう思うと、例のセンチメンタルな感情が激しく胸に迫ってきて、涙がおのずと押すように出る。  近い森や道や畠は名残りなく暮れても、遠い山々の頂はまだ明るかった。浅間の煙が刷毛ではいたように夕焼けの空になびいて、その末がぼかしたように広くひろがり渡った。蛙の声がそこにもここにも聞こえ出した。  ところどころの農家に灯がとぼって、唄をうたって行く声がどこか遠くで聞こえる。  かれはじっと立ちつくしていた。  ふと前の榛の並木のあたりに、人の来る気勢がしたと思うと、華やかに笑う声がして、足音がばたばたと聞こえる。小川屋に弁当と夜具を取りに行った小使が帰って来たのだと思っていると、夕闇の中から大きな夜具を被いた黒い影が浮き出すように動いて来て、そのあとに女らしい影がちょこちょこついて来た。  小使は室のうちにドサリと夜具を置いて、さも重かったというように呼吸をついたが、昼間掃除しておいた三分心の洋燈に火をとぼした。あたりは急に明るくなった。 「ご苦労でした」  こう言って、清三が戸内にはいって来た。  このとき、清三はそこに立っている娘の色白の顔を見た。娘は携えて来た弁当をそこに置いて、急に明るくなった一室をまぶしそうに見渡した。 「お種坊、遊んでいくが好いや」  小使はこんなことを言った。娘はにこにこと笑ってみせた。評判な美しさというほどでもないが、眉のところに人に好かれるように艶なところがあって、豊かな肉づきが頬にも腕にもあらわに見えた。 「お母、加減が悪いって聞いたが、どうだい。もういいかな」 「ああ」 「風邪だんべい」 「寒い思いをしてはいけないいけないッて言っても、仮寝なぞしているもんだから……風邪を引いちゃったんさ……」 「お母、いい気だからなア」 「ほんとうに困るよ」 「でも、お種坊はかせぎものだから、お母、楽ができらアな」  娘は黙って笑った。  しばらくして、 「お客様の弁当は、明日も持って来るんだんべいか」 「そうよ」 「それじゃ、お休み」  と娘は帰りかけると、 「まア、いいじゃねえか、遊んでいけやな」 「遊んでなんかいられねえ、これから跡仕舞いしねきゃなんねえ……それだらお休み」と出て行ってしまう。  弁当には玉子焼きと漬け物とが入れられてあった。小使は出流れの温い茶をついでくれた。やがて爺はわきに行って、内職の藁を打ち始めた。夜はしんとしている。蛙の声に家も身も埋めらるるように感じた。かれは想像にもつかれ、さりとて読むべき雑誌も持って来なかったので、包みの中から洋紙を横綴にした手帳を出して、鉛筆で日記をつけ出した。  四月二十五日と前の日に続けて書いて、ふと思いついて鉛筆を倒にして、ゴムでゴシゴシ消した。今日は少なくとも一生のうちで新しい生活にはいる記念の第一日である。小説ならば、編が改まるところである。で、かれは頁の裏を半分白いままにしておいて、次の頁から新たに書き始めた。  四月二十五日、(弥勒にて)……  一頁ほど簡単に書き終わって、ついでに今日の費用を数えてみた。新郷で買った天狗煙草が十銭、途中の車代が三十銭、清心丹が五銭、学校で取った弁当が四銭五厘、合計四十九銭五厘、持って来た一円二十銭のうちから差引き七十銭五厘がまだ蝦蟇口の中に残っていた。続いて今度ここに来るについての費用を計算してみた。  25.0…………………………認印  22.0…………………………名刺  3.5…………………………歯磨および楊子  8.5…………………………筆二本  14.0…………………………硯 1,15.0…………………………帽子 1,75.0…………………………羽織  30.0…………………………へこ帯  14.5…………………………下駄 ── 4,07.5  これに前の七十銭五厘を加えて総計四円七十八銭也と書いて、そしてこの金をつくるについて、父母の苦心したことを思い出した。わずか一円の金すら容易にできない家庭の憐むべきをつくづく味気なく思った。  夜着の襟は汚れていた。旅のゆるやかな悲哀がスウイトな涙を誘った。かれはいつかかすかに鼾をたてていた。  翌日は学校の予算表の筆記を頼まれて、役場で一日を暮らした。それがすんでから、父母に手紙を書いて出した。  夕暮れに校長の家から使いがある。  校長の家は遠くはなかった。麦の青い畑のところどころに黄いろい菜の花の一畦が交った。茅葺屋根の一軒立ちではあるが、つくりはすべて百姓家の構えで、広い入り口、六畳と八畳と続いた室の前に小さな庭があるばかりで、細君のだらしのない姿も、子供の泣き顔も、茶の間の長火鉢も畳の汚れて破れたのも、表から来る人の眼にみなうつった。校長の室には学校管理法や心理学や教育時論の赤い表紙などが見えた。 「君にはほんとうに気の毒でした。実はまだ手筈だけで、表向きにしなかったものだからねえ……」  と言って、細君の運んで来た茶を一杯ついで出して、「君もご存じかもしれないが、平田というあの年の老った教員、あれがもう老朽でしかたがないから、転校か免職かさせようと言っていたところに、ちょうど加藤さんからそういう話があるッて岸野君が言うもんだから、それでお頼みしようッていうことにしたのでした。ところが少し貴君のおいでが早かったものだから……」  言いかけて笑った。 「そうでしたか、少しも知りませんものでしたから……」 「それはそうですとも、貴君は知るわけはない。岸野さんがいま少し注意してくれるといいんですけれど、あの人はああいうふうで、何事にも無頓着ですからな」 「それじゃその教員がいたんですね?」 「ええ」 「それじゃまだ知らずにおりましたのですか」 「内々は知ってるでしょうけれど……表向きはまだ発表してないんです。二三日のうちにはすっかり村会で決めてしまうつもりですから、来週からは出ていただけると思いますが……」こう言って、少しとぎれて、 「私のほうの学校はみんないい方ばかりで、万事すべて円くいっていますから、始めて来た方にも勤めいいです。貴下も一つ大いに奮発していただきたい。俸給もそのうちにはだんだんどうかなりますから……」  煙草を一服吸ってトンとたたいて、 「貴下はまだ正教員の免状は持っていないんですね?」 「ええ」 「じゃ一つ、取っておくほうが、万事都合がいいですな。中学の証明があれば、実科を少しやればわけはありゃしないから……教授法はちっとは読みましたか」 「少しは読んでみましたけれど、どうもおもしろくなくって困るんです」 「どうも教授法も実地に当たってみなくってはおもしろくないものです。やってみると、これでなかなか味が出てくるもんですがな」  学校教授法の実験に興味を持つ人間と、詩や歌にあくがれている青年とがこうして長く相対してすわった。点心には大きい塩煎餅が五六枚盆にのせて出された。校長の細君は挨拶をしながら、顔の蒼白い、鼻の高い、眉と眉との間の遠い客の姿を見て、弱々しい人だと思った。次の間では話をしている間、今年生まれた子がしっきりなしに泣いたが、しかし主はそれをやかましいとも言わなかった。  襁褓があたりに散らばって、火鉢の鉄瓶はカラカラ煮え立っていた。  中学の話が出る。師範校の話が出る。教授上の経験談が出る。同僚になる人々の噂が出る。清三は思わず興に乗って、理想めいたことやら、家庭のための犠牲ということやらその他いろいろのことを打ち明けて語って、一生小学校の教員をする気はないというようなことまでほのめかした。清三は昨日学校で会った時に似ず、この校長の存外性質のよさそうなところのあるのを発見した。  校長の語るところによると、この三田ヶ谷という地は村長や子弟の父兄の権力の強いところで、その楫を取って行くのがなかなかむずかしいそうである。それに人気もあまりよいほうではない、発戸、上村君、下村君などいう利根川寄りの村落では、青縞の賃機が盛んで、若い男や女が出はいりするので、風俗もどうも悪い。七八歳の子供が卑猥きわまる唄などを覚えて来てそれを平気で学校でうたっている。 「私がここに来てから、もう三年になりますが、その時分は生徒の風儀はそれはずいぶんひどかったものですよ。初めは私もこんなところにはとてもつとまらないと思ったくらいでしたよ。今では、それでもだいぶよくなったがな」と校長は語った。  帰る時に、 「明日は土曜日ですから、日曜にかけて一度行田に帰って来たいと思いますが、おさしつかえはないでしょうか?」  かれはこうたずねた。 「ようござんすとも……それでは来週から勤めていただくように……」  その夜はやはり役場の小使室に寝た。 四  朝起きると春雨がしとしとと降っていた。  ぬれた麦の緑と菜の花の黄いろとはいつもよりはきわだって美しく野をいろどった。村の道を蛇の目傘が一つ通って行った。  清三は八時過ぎに、番傘を借りて雨をついて出た。それには三田ヶ谷村役場と黒々と大きく書きつけてあった。  小川屋のかたわらの川縁の繁みからは、雨滴れがはらはらと傘の上に乱れ落ちた。錆びた黒い水には蠑螈が赤い腹を見せている。ふと街道の取つきの家から、小川屋のお種という色白娘が、白い手拭いで髪をおおったまま、傘もささずに、大きな雨滴れの落ちる木陰を急いで此方にやって来たが、二三歩前で、清三と顔見合わせて、ちょっと会釈して笑顔を見せて通り過ぎた。  学校はまだ授業が始まらぬので、門から下駄箱の見えるほとりには、生徒の傘がぞろぞろと続いた。男生徒も女生徒も多くは包みを腰のところにしょって尻をからげて歩いて来る。雨の降る中をぬれそぼちながら、傘を車の輪のように地上に回して来る頑童もあれば、傘の柄を頸のところで押さえて、編棒と毛糸とを動かして歩いて来る十二三の娘もあった。この生徒らを来週からは自分が教えるのだと思って、清三はその前を通った。  明方から降り出した雨なので、路はまだそうたいして悪くなかった。車や馬の通ったところはグシャグシャしているが、拾えば泥濘にならぬところがいくらもある。路の縁の乾いた土には雨がまだわずかにしみ込んだばかりであった。  井泉村の役場に助役を訪ねてみたが、まだ出勤していなかった。路に沿った長い汚ない溝には、藻や藺や葦の新芽や沢瀉がごたごたと生えて、淡竹の雨をおびた藪がその上におおいかぶさった。雨滴れがばらばら落ちた。  路のほとりに軒の傾むいた小さな百姓家があって、壁には鋤や犁や古い蓑などがかけてある。髪の乱れた肥った嚊が柱によりかかって、今年生まれた赤児に乳を飲ませていると、亭主らしい鬚面の四十男は、雨に仕事のできぬのを退屈そうに、手を伸ばして大きなあくびをしていた。  鎮守の八幡宮の茅葺の古い社殿は街道から見えるところにあった。華表のかたわらには社殿修繕の寄付金の姓名と額とが古く新しく並べて書いてある。周囲の欅の大木にはもう新芽がきざし始めた。賽銭箱の前には、額髪を手拭いで巻いた子傅が二人、子守歌を調子よくうたっていた。  昨日の売れ残りのふかし甘薯がまずそうに並べてある店もあった。雨は細く糸のようにその低き軒をかすめた。  畑にはようやく芽を出しかけた桑、眼もさめるように黄いろい菜の花、げんげや菫や草の生えている畔、遠くに杉や樫の森にかこまれた豪農の白壁も見える。  青縞を織る音がところどころに聞こえる。チャンカラチャンカラと忙しそうな調子がたえず響いて来る。時にはあたりにそれらしい人家も見えないのに、どこで織ってるのだろうと思わせることもある。唄が若々しい調子で聞こえて来ることもある。  発戸河岸のほうにわかれる路の角には、ここらで評判だという饂飩屋があった。朝から大釜には湯がたぎって、主らしい男が、大きなのべ板にうどん粉をなすって、せっせと玉を伸ばしていた。赤い襷をかけた若い女中が馴染らしい百姓と笑って話をしていた。  路の曲がったところに、古い石が立ててある。維新前からある境界石で、「これより羽生領」としてある。  ひょろ長い榛の片側並木が田圃の間に一しきり長く続く。それに沿って細い川が流れて萌え出した水草のかげを小魚がちょろちょろ泳いでいる。羽生から大越に通う乗合馬車が泥濘を飛ばして通って行った。  来る時には、路傍のこけら葺の汚ないだるま屋の二階の屋根に、襟垢のついた蒲団が昼の日ののどかな光に干されて、下では蒼白い顔をした女がせっせと張り物をしていたが、今日は障子がびっしゃりと閉じられて、日当たりの悪いところには青ごけの生えたのが汚なく眼についた。  だんだん道が悪くなって来た。拾って歩いてもピシャピシャしないようなところはもうなくなった。足の踵を離さないようにして歩いても、すりへらした駒下駄からはたえずハネがあがった。風が出て雨も横しぶきになって袖もぬれてしまった。  羽生の町はさびしかった。時々番傘や蛇の目傘が通るばかり、庇の長く出た広い通りは森閑としている。郵便局の前には為替を受け取りに来た若い女が立っているし、呉服屋の店には番頭と小僧とがかたまって話をしているし、足袋屋の店には青縞と雲斎織りとが積み重ねられたなかで、職人がせっせと足袋を縫っていた。新式に硝子戸の店を造った唐物屋の前には、自転車が一個、なかばは軒の雨滴れにぬれながら置かれてある。  町の四辻には半鐘台が高く立った。  そこから行田道はわかれている。煙草屋、うどん屋、医師の大きな玄関、塀の上にそびえている形のおもしろい松、吹井が清い水をふいている豪家の前を向こうに出ると、草の生えた溝があって、白いペンキのはげた門に、羽生分署という札がかかっている。巡査が一人、剣をじゃらつかせて、雨の降りしきる中を出て来た。  それからまた裏町の人家が続いた。多くはこけら葺の古い貧しい家並みである。馬車屋の前に、乗合馬車が一台あって、もう出るとみえて、客が二三人乗り込んでいた。清三は立ちどまって聞いたが、あいにくいっぱいで乗せてもらう余地がなかった。  清三の姿はなおしばらくその裏町の古い家並みの間に見えていたが、ふと、とある小さな家の大和障子をあけてはいって行った。中には中年のかみさんがいた。 「下駄を一つ貸していただきたいんですが……、弥勒から雨に降られてへいこうしてしまいました」 「お安いご用ですとも」  かみさんは足駄を出してくれた。  足駄の歯はすれて曲がって、歩きにくいこと一通りでなかった。駒下駄よりはいいが、ハネはやっぱり少しずつあがった。  かれはついに新郷から十五銭で車に乗った。 五  家は行田町の大通りから、昔の城址のほうに行く横町にあった。角に柳の湯という湯屋があって、それと対して、きれいな女中のいる料理屋の入り口が見える。棟割長屋を一軒仕切ったというような軒の低い家で、風雨にさらされて黒くなった大和障子に糸のような細い雨がはすに降りかかった。隣には蚕の仲買いをする人が住んでいて、その時節になると、狭い座敷から台所、茶の間、入り口まで、白い繭でいっぱいになって、朝から晩までごたごたと人が出はいりするのが例であるが、今は建てつけの悪い障子がびっしゃりと閉って、あたりがしんとしていた。  清三は大和障子をがらりとあけて中にはいった。  年のころ四十ぐらいの品のいい丸髷に結った母親が、裁物板を前に、あたりに鋏、糸巻き、針箱などを散らかして、せっせと賃仕事をしていたが、障子があいて、子息の顔がそこにあらわれると、 「まア、清三かい」  と呼んで立って来た。 「まア、雨が降ってたいへんだったねえ!」  ぬれそぼちた袖やら、はねのあがった袴などをすぐ見てとったが、言葉をついで、 「あいにくだッたねえ、お前。昨日の工合いでは、こんな天気になろうとは思わなかったのに……ずっと歩いて来たのかえ」 「歩いて来ようと思ったけれど、新郷に安いかえり車があったから乗って来た」  見なれぬ足駄をはいているのを見て、 「どこから借りて来たえ、足駄を?」 「峰田で」 「そうかえ、峰田で借りて来たのかえ……。ほんとうにたいへんだったねえ」こう言って、雑巾を勝手から持って来ようとすると、 「雑巾ではだめだよ。母さん。バケツに水を汲んでくださいな」 「そんなに汚れているかえ」  と言いながら勝手からバケツに水を半分ほど汲んで来る。  乾いた手拭いをもそこに出した。  清三はきれいに足を洗って、手拭いで拭いて上にあがった。母親はその間に、結城縞の綿入れと、自分の紬の衣服を縫い直した羽織とをそろえてそこに出して、脱いだ羽織と袴とを手ばしこく衣紋竹にかける。  二人はやがて長火鉢の前にすわった。 「どうだったえ?」  母親は鉄瓶の下に火をあらけながら、心にかかるその様子をきく。  かいつまんで清三が話すと、 「そうだってねえ、手紙が今朝着いたよ。どうしてそんな不都合なことになっていたんだろうねえ」 「なあに、少し早く行き過ぎたのさ」 「それで、話はどうきまったえ?」 「来週から出ることになった」 「それはよかったねえ」  喜びの色が母親の顔にのぼった。  それからそれへと話は続いた。校長さんはどういう人だの、やさしそうな人かどうかの、弥勒という所はどんなところかの、下宿するよいところがあったかのと、いろいろなことを持ち出して母親は聞いた。清三はいちいちそれを話して聞かせた。 「お父さんは?」  しばらくして、清三がこうきいた。 「ちょっと下忍まで行ッて来るッて出かけて行ったよ。どうしても少しお銭をこしらえて来なくってはッてね……。雨が降るから、明日にしたらいいだろうと言ったんだけれど……」  清三は黙ってしまった。貧しい自分の家のことがいまさらに頭脳にくり返される。父親の働きのないことがはがゆいようにも思われるが、いっぽうにはまた、好人物で、善人で、人にだまされやすい弱い鈍い性質を持っていながら、贋物の書画を人にはめることを職業にしているということにはなはだしく不快を感じた。正直なかれの心には、父親の職業は人間のすべき正業ではないようにつねに考えられているのである。  だまされさえしなければ、今でも相応な呉服屋の店を持っていられたのである。こう思うと、何も知らぬ母親に対する同情とともに、正業でない職業とはいいながら、こうした雨の降る日に、わずか五十銭か一円の銭で、一里もあるところに出かけて行く老いた父親を気の毒に思った。  やがて鉄瓶がチンチン音を立て始めた。  母親は古い茶箪笥から茶のはいった罐と急須とを取った。茶はもう粉になっていた。火鉢の抽斗しの紙袋には塩煎餅が二枚しか残っていなかった。  清三は夕暮れ近くまで、母親の裁縫するかたわらの暗い窓の下で、熊谷にいる同窓の友に手紙を書いたり、新聞を読んだりしていた。友の手紙には恋のことやら詩のことやら明星派の歌のことやら我ながら若々しいと思うようなことを罫紙に二枚も三枚も書いた。  四時ごろから雨ははれた。路はまだグシャグシャしている。父親が不成功で帰って来たので、家庭の空気がなんとなく重々しく、親子三人黙って夕飯を食っていると、「ご免なさい」という声を先にたてて、建てつけの悪い大和障子をあけようとする人がある。  母親が立って行って、 「まア……さあ、どうぞ」 「いいえ、ちょっと、湯に参りましたのですが、帰りにねえ、貴女、お宅へあがって、今日は土曜日だから、清三さんがお帰りになったかどうか郁治がうかがって来いと申しますものですから……いつもご無沙汰ばかりいたしておりましてねえ、まアほんとうに」 「まア、どうぞおかけくださいまし……、おや雪さんもごいっしょに、……さア、雪さん、こっちにおはいりなさいましよ」  と女同士はしきりにしゃべりたてる。郁治の妹の雪子はやせぎすなすらりとした田舎にはめずらしいいい娘だが、湯上がりの薄く化粧した白い顔を夕暮れの暗くなりかけた空気にくっきりと浮き出すように見せて、ぬれ手拭いに石鹸箱を包んだのを持って立っていた。 「さア、こんなところですけど……」 「いいえ、もうそうはいたしてはおりませんから」 「それでもまア、ちょっとおかけなさいましな」  この会話にそれと知った清三は、箸を捨てて立ってそこに出て来た。母親どもの挨拶し合っている向こうに雪子の立っているのをちょっと見て、すぐ眼をそらした。  郁治の母親は清三の顔を見て、 「お帰りになりましたね、郁治が待っておりますから……」 「今夜あがろうと思っていました」 「それじゃ、どうぞお遊びにおいでくださいまし、毎日行ったり来たりしていた方が急においでにならなくなると、あれも淋しくってしかたがないとみえましてね……それに、ほかに仲のいいお友だちもないものですから……」  郁治の母親はやがて帰って行く。清三も母親もふたたび茶湯台に向かった。親子はやはり黙って夕飯を食った。  湯を飲む時、母親は急に、 「雪さん、たいへんきれいになんなすったな!」  とだれに向かって言うともなく言った。けれどだれもそれに調子を合わせるものもなかった。父親の茶漬けをかき込む音がさらさらと聞こえた。清三は沢庵をガリガリ食った。日は暮れかかる。雨はまた降り出した。 六  加藤の家は五町と隔たっておらなかった。公園道のなかばから左に折れて、裏町の間を少し行くと、やがていっぽう麦畑いっぽう垣根になって、夏は紅と白の木槿が咲いたり、胡瓜や南瓜が生ったりした。緑陰の重なった夕闇に螢の飛ぶのを、雪子やしげ子と追い回したこともあれば、寒い冬の月夜を歌留多にふかして、からころと跫音高く帰って来たこともあった。細い巷路の杉垣の奥の門と瓦屋根、それはかれにとってまことに少なからぬ追憶がある。  今日は桜の葉をとおして洋燈の光がキラキラと雨にぬれて光っていた。雪子の色の白いとりすました顔や、繁子のあどけなくにこにこと笑って迎えるさまや、晩酌に酔って機嫌よく話しかける父親の様子などがまだ訪問せぬうちからはっきりと目に見えるような気がする。笑い声がいつも絶えぬ平和な友の家庭をうらやましく思ったことも一度や二度ではなかった。  郡視学といえば、田舎ではずいぶんこわ持てのするほうで、むずかしい、理屈ぽい、とりつきにくい質のものが多いが、郁治の父親は、物のわかりが早くって、優しくって、親切で、そして口をきくほうにかけてもかなり重味があると人から思われていた。鬚はなかば白く、髪にもチラチラ交っているが、気はどちらかといえば若いほうで、青年を相手に教育上の議論などをあかずにして聞かせることもあった。清三と郁治と話している室に来ては、二人を相手にいろいろなことを語った。  門をあけると、ベルがチリチリンと鳴った。踏み石をつたって、入り口の格子戸の前に立つと、洋燈を持って迎えに出たしげ子の笑顔が浮き出すように闇の中にいる清三の眼にうつった。 「林さん?」  と、のぞくようにして見て、 「兄さん、林さん」  と高い無邪気な声をたてる。  父親は今日熊谷に行って不在であった。子供がいないので、室がきれいに片づいている。掃除も行き届いて、茶の間の洋燈も明るかった。母親は長火鉢の前に、晴れやかな顔をしてすわっていた。雪子は勝手で跡仕舞いをしていたが、ちょうどそれが終わったので、白い前掛けで手を拭き拭き茶の間に来た。  挨拶をしていると、郁治は奥から出て来て、清三をそのまま自分の書斎につれて行った。  書斎は四畳半であった。桐の古い本箱が積み重ねられて、綱鑑易知録、史記、五経、唐宋八家文などと書いた白い紙がそこに張られてあった、三尺の半床の草雲の蘭の幅のかかっているのが洋燈の遠い光におぼろげに見える。洋燈の載った朴の大きな机の上には、明星、文芸倶楽部、万葉集、一葉全集などが乱雑に散らばって置かれてある。  一年も会わなかったようにして、二人は熱心に話した。いろいろな話が絶え間なく二人の口から出る。 「君はどう決まった?」  しばらくして清三がたずねた。 「来年の春、高等師範を受けてみることにした。それまでは、ただおってもしかたがないからここの学校に教員に出ていて、そして勉強しようとおもう……」 「熊谷の小畑からもそう言って来たよ。やっぱり高師を受けてみるッて」 「そう、君のところにも言って来たかえ、僕のところにも言って来たよ」 「小島や杉谷はもう東京に行ったッてねえ」 「そう書いてあったね」 「どこにはいるつもりだろう?」 「小島は第一を志願するらしい」 「杉谷は?」 「先生はどうするんだか……どうせ、先生は学費になんか困らんのだから、どうでも好きにできるだろう」 「この町からも東京に行くものはあるかね?」 「そう」と郁治は考えて「佐藤は行くようなことを言っていたよ」 「どういう方面に?」 「工業学校にはいるつもりらしい」  同窓に関する話がつきずに出た。清三の身にしては、将来の方針を定めて、てんでに出たい方面に出て行く友だちがこのうえもなくうらやましかった。中学校にいるうちから、卒業してあとの境遇をあらかじめ想像せぬでもなかったが、その時はまたその時で、思わぬ運が思わぬところから向いて来ないとも限らないと、しいて心を安んじていた。けれどそれは空想であった。家庭の餓は日に日にその身を実際生活に近づけて行った。  かれはまた母親から優しい温かい血をうけついでいた。幼い時から小波のおじさんのお伽噺を読み、小説や歌や俳句に若い思いをわかしていた。体の発達するにつれて、心は燃えたり冷えたりした。町の若い娘たちの眼色をも読み得るようにもなった。恋の味もいつか覚えた。あるデザイアに促されて、人知れず汚ない業をすることもあった。世間は自分の前におもしろい楽しい舞台をひろげていると思うこともあれば、汚ない醜い近づくべからざる現象を示していると思うこともある。自己の満しがたい欲望と美しい花のような世界といかになり行くかを知らぬ自己の将来とを考える時は、いつも暗いわびしいたえがたい心になった。  熊谷にいる友人の恋の話から Art の君の話が出る。 「僕は苦しくってしかたがない」 「どうかする方法がありそうなもんだねえ」  二人はこんなことを言った。 「昨日公園で会ったんさ。ちょっと浦和から帰って来たんだッて、先生、いたずらに肥えてるッていう形だッた」  郁治はこう言って笑った。 「いたずらに肥えてるはいいねえ」  清三も笑った。 「君のシスタアが友だちだし、先生のエルダアブラザアもいるんだし、どうにか方法がありそうなもんだねえ」 「まア、放っておいてくれ、考えると苦しくなる」  胸にひそかに恋を包める青年の苦しさというような顔を郁治はして見せた。前にみずからも言ったように、郁治は好男子ではなかった。男らしいきっぱりとしたところはあるが、体格の大きい、肩の怒った、眼の鋭い、頬骨の出たところなど、女に好かれるような点はなかった。  若い者の苦しむような煩悶はかれの胸にもあった。清三にくらべては、境遇もよかった。家庭もよかった。高等師範にはいれぬまでも、東京に行って一二年は修業するほどの学費は出してやる気が父親にもある。それに体格がいいだけに、思想も健全で、清三のようにセンチメンタルのところはない。清三が今度の弥勒行きを、このうえもない絶望のように──田舎に埋れて出られなくなる第一歩であるかのように言ったのを、「だッて、そんなことはありゃしないよ、君、人間は境遇に支配されるということは、それはいくらかはあるには違いないが、どんな境遇からでも出ようと思えば、出て来られる」と言ったのでも、郁治の性格の一部はわかる。  その時、清三は、 「君はそういうけれど、それは境遇の束縛の恐ろしいことを君が知らないからだよ、つまり君の家庭の幸福から出た言葉だよ」 「そんなことはないよ」 「いや、僕はそう思うねえ、僕はこれっきり埋れてしまうような気がしてならないよ」 「僕はまた、かりに一歩譲って、人間がそういう種類の動物であると仮定しても、そういう消極的な考えには服従していられないねえ」 「じゃ、どんな境遇からでも、その人の考え一つで抜け出ることができるというんだねえ」 「そうさ」 「つまりそうすると、人間万能論だね、どんなことでもできないことはないという議論だね」 「君はじきそう極端に言うけれど、それはそこに取り除けもあるがね」  その時いつもの単純な理想論が出る。積極的な考えと消極的な考えとがごたごたと混合して要領を得ずにおしまいになった。  かれらの群れは学校にいるころから、文学上の議論や人生上の議論などをよくした。新派の和歌や俳句や抒情文などを作って、互いに見せ合ったこともある。一人が仙骨という号をつけると、みな骨という字を用いた号をつけようじゃないかという動議が出て、破骨だの、洒骨だの、露骨だの、天骨だの、古骨だのというおもしろい号ができて、しばらくの間は手紙をやるにも、話をするにも、みんなその骨の字の号を使った。古骨というのは、やはり郁治や清三と同じく三里の道を朝早く熊谷に通った連中の一人だが、そのほんとうの号は機山といって、町でも屈指の青縞商の息子で、平生は角帯などをしめて、つねに色の白い顔に銀縁の近眼鏡をかけていた。田舎の青年に多く見るような非常に熱心な文学好きで、雑誌という雑誌はたいてい取って、初めはいろいろな投書をして、自分の号の活字になるのを喜んでいたが、近ごろではもう投書でもあるまいという気になって、毎月の雑誌に出る小説や詩や歌の批評を縦横にそのなかまにして聞かせるようになった。それに、投書家交際をすることが好きで、地方文壇の小さな雑誌の主筆とつねに手紙の往復をするので、地方文壇消息には、武州行田には石川機山ありなどとよく書かれてあった。時の文壇に名のある作家も二三人は知っていた。  やはり骨の字の号をつけた一人で──これは文学などはあまりわかるほうではなく、同じなかまにおつき合いにつけてもらった組であるが、かれの兄が行田町に一つしかない印刷業をやっていて、その前を通ると、硝子戸の入り口に、行田印刷所と書いたインキに汚れた大きい招牌がかかっていて、旧式な手刷りが一台、例の大きなハネを巻き返し繰り返し動いているのが見える。広告の引き札や名刺が主で、時には郡役所警察署の簡単な報告などを頼まれて刷ることもあるが、それはきわめてまれであった、棚に並べたケースの活字も少なかった。文選も植字も印刷も主がみな一人でやった。日曜日などにはその弟が汚れた筒袖を着て、手刷り台の前に立って、刷れた紙を翻しているのをつねに見かけた。  金持ちの息子と見て、その小遣いを見込んで、それでそそのかしたというわけでもあるまいが、この四月の月の初めに、機山がこの印刷所に遊びに来て、長い間その主人兄弟と話して行ったが、帰る時、「それじゃ毎月七八円ずつ損するつもりなら大丈夫だねえ。原稿料は出さなくったって書き手はたくさんあるし、それに二三十部は売れるアね」と言った顔は、新しい計画に対する喜びに輝いていた。「行田文学」という小雑誌を起こすことについての相談がその連中の間に持ち上がったのはこれからである。  機山がその相談の席で、 「それから、羽生の成願寺に山形古城がいるアねえ。あの人はあれでなかなか文壇には聞こえている名家で、新体詩じゃ有名な人だから、まず第一にあの人に賛成員になってもらうんだね。あの人から頼んでもらえば、原杏花の原稿ももらえるよ」 「あの古城ッていう人はここの士族だッていうじゃないか」 「そうだッて……。だから、賛成員にするのはわけはないさ」  ちょうど清三が弥勒に出るようになった時なので、かれがまずその寺を訪問する責任を仲間から負わせられた。  その夜、「行田文学」の話が出ると、郁治が、 「寄ってみたかね?」 「あいにく、雨に会っちゃッたものだから」 「そうだったね」 「今度行ったら一つ寄ってみよう」 「そういえば、今日荻生君が羽生に行ったが会わなかったかねえ」 「荻生君が?」と清三は珍しがる。  荻生君というのは、やはりその仲間で、熊谷の郵便局に出ている同じ町の料理店の子息さんである。今度羽生局に勤めることになって、今車で行くというところを郁治は町の角で会った。 「これからずッと長く勤めているのかしら」 「むろんそうだろう。羽生の局をやっているのは荻生君の親類だから」 「それはいいな」 「君の話相手ができて、いいと僕も思ったよ」 「でも、そんなに親しくはないけれど……」 「じき親しくなるよ、ああいうやさしい人だもの……」  そこにしげ子が「昼間こしらえたのですから、まずくなりましたけれど……」とお萩餅を運んで、茶をさして来た。そのまま兄のそばにすわって、無邪気な口ぶりで二言三言話していたが、今度は姉の雪子が丈の高い姿をそこにあらわして、「兄さん、石川さんが」という。  やがて石川がはいって来た。  座に清三がいるのを見て、 「君のところに今寄って来たよ」 「そうか」 「こっちに来たッてマザアが言ったから」こう言って石川はすわって、「先生がうまくつとまりましたかね?」  清三は笑っている。  郁治は、「まだできるかできないか、やってみないんだとさ」  とそばから言う。  雪子もしげ子も石川の顔を見ると、挨拶してすぐ引っ込んで行ってしまった。郁治と清三と話している間は、話に気がおけないので、よく長くそばにすわっているが、他人が交るとすましてしまうのがつねである。それほど清三と郁治とは交情がよかった。それほど清三とこの家庭とは親しかった。郁治と清三との話しぶりも石川が来るとまるで変わった。 「いよいよ来月の十五日から一号を出そうと思うんだがね」 「もうすっかり決まったかえ」 「東京からも大家では麗水と天随とが書いてくれるはずだ……。それに地方からもだいぶ原稿が来るからだいじょうぶだろうと思うよ」  こう言って、地方の小雑誌やら東京の文学雑誌やらを五六種出したが、岡山地方で発行する菊版二十四頁の「小文学」というのをとくに抜き出して、 「たいていこういうふうにしようと思うんだ。沢田(印刷所)にも相談してみたが、それがいいだろうと言うんだけれど、どうも中の体裁はあまり感心しないから、組み方なんかは別にしようと思うんだがね」 「そうねえ、中はあまりきれいじゃないねえ」と二人は「小文学」を見ている。 「これはどうだろう」  と二段十八行二十四字詰めのを石川は見せた。 「そうねえ」  三人は数種の雑誌をひるがえしてみた。郁治の持っている雑誌もそこに参考に出した。洋燈は額を集めた三人の青年とそこに乱雑に散らかった雑誌とをくっきり照らした。  やがてその中の一つにあらかた定まる。  石川の持って来た雑誌の中に、「明星」の四月号があった。清三はそれを手に取って、初めは藤島武二や中沢弘光の木版画のあざやかなのを見ていたが、やがて、晶子の歌に熱心に見入った。新しい「明星派」の傾向が清三のかわいた胸にはさながら泉のように感じられた。  石川はそれを見て笑って、 「もう見てる。違ったもんだね、崇拝者は!」 「だって実際いいんだもの」 「何がいいんだか、国語は支離滅裂、思想は新しいかもしれないが、わけのわからない文句ばかり集めて、それで歌になってるつもりなんだから、明星派の人たちには閉口するよ」  いつかもやった明星派是非論、それを三人はまたくり返して論じた。 七  夜はもう十二時を過ぎた。雨滴れの音はまだしている。時々ザッと降って行く気勢も聞き取られる。城址の沼のあたりで、むぐりの鳴く声が寂しく聞こえた。  一室には三つ床が敷いてあった。小さい丸髷とはげた頭とが床を並べてそこに寝ていた。母親はつい先ほどまで眼を覚ましていて、「明日眠いから早くおやすみよ」といく度となく言った。 「ランプを枕元につけておいて、つい寝込んでしまうと危いから」とも忠告した。その母親も寝てしまって、父親の鼾に交って、かすかな呼吸がスウスウ聞こえる。さらぬだに紙の笠が古いのに、先ほど心が出過ぎたのを知らずにいたので、ホヤが半分ほど黒くなって、光線がいやに赤く暗い。清三は借りて来た「明星」をほとんどわれを忘れるほど熱心に読み耽った。 椿それも梅もさなりき白かりきわが罪問はぬ色桃に見る  わが罪問はぬ色桃に見る、桃に見る、あの赤い桃に見ると歌った心がしみじみと胸にしみた。不思議なようでもあるし、不自然のようにも考えられた。またこの不思議な不自然なところに新しい泉がこんこんとしてわいているようにも思われた。色桃に見ると四の句と五の句を分けたところに言うに言われぬ匂いがあるようにも思われた。かれは一首ごとに一頁ごとに本を伏せて、わいて来る思いを味わうべく余儀なくされた。この瞬間には昨夜役場に寝たわびしさも、弥勒から羽生まで雨にそぼぬれて来た辛さもまったく忘れていた。ふと石川と今夜議論をしたことを思い出した。あんな粗い感情で文学などをやる気が知れぬと思った。それに引きかえて、自分の感情のかくあざやかに新しい思潮に触れ得るのをわれとみずから感謝した。渋谷の淋しい奥に住んでいる詩人夫妻の佗び住居のことなどをも想像してみた。なんだか悲しいようにもあれば、うらやましいようにもある。かれは歌を読むのをやめて、体裁から、組み方から、表紙の絵から、すべて新しい匂いに満たされたその雑誌にあこがれ渡った。  時計が二時を打っても、かれはまだ床の中に眼を大きくあいていた。鼠の天井を渡る音が騒がしく聞こえた。  雨は降ったりはれたりしていた。人の心を他界に誘うようにザッとさびしく降って通るかと思うと、びしょびしょと雨滴れの音が軒の樋をつたって落ちた。  いつまであこがれていたッてしかたがない。「もう寝よう」と思って、起き上がって、暗い洋燈を手にして、父母の寝ている夜着のすそのところを通って、厠に行った。手を洗おうとして雨戸を一枚あけると、縁側に置いた洋燈がくっきりと闇を照らして、ぬれた南天の葉に雨の降りかかるのが光って見えた。  障子を閉てる音に母親が眼を覚まして、 「清三かえ?」 「ああ」 「まだ寝ずにいるのかえ」 「今、寝るところなんだ」 「早くお寝よ……明日が眠いよ」と言って、寝返りをして、 「もう何時だえ」 「二時が今鳴った」 「二時……もう夜が明けてしまうじゃないか、お寝よ」 「ああ」  で、蒲団の中にはいって、洋燈をフッと吹き消した。 八  翌日、午後一時ごろ、白縞の袴を着けて、借りて来た足駄を下げた清三と、なかばはげた、新紬の古ぼけた縞の羽織を着た父親とは、行田の町はずれをつれ立って歩いて行った。雨あがりの空はやや曇って、時々思い出したように薄い日影がさした。町と村との境をかぎった川には、葦や藺や白楊がもう青々と芽を出していたが、家鴨が五六羽ギャアギャア鳴いて、番傘と蛇の目傘とがその岸に並べて干されてあった。町に買い物に来た近所の百姓は腰をかけてしきりに饂飩を食っていた。  並んで歩く親子の後ろ姿は、低い庇や地焼の瓦でふいた家根や、襁褓を干しつらねた軒や石屋の工作場や、鍛冶屋や、娘の青縞を織っている家や、子供の集まっている駄菓子屋などの両側に連なった間を静かに動いて行った。と、向こうから頭に番台を載せて、上に小旗を無数にヒラヒラさしたあめ屋が太鼓をおもしろくたたきながらやって来る。  父親は近在の新郷というところの豪家に二三日前書画の幅を五六品預けて置いて来た。今日行っていくらかにして来なければならないと思って、午後から弥勒に行く清三といっしょに出かけて来たのである。  ここまで来る間に、父親は町の懇意な人に二人会った。一人は気のおけないなかまの者で、「どこへ行くけえ? そうけえ、新郷へ行くけえ、あそこはどうもな、吝嗇な人間ばかりで、ねっかららちがあかんな」と言って声高くその中年の男は笑った。一人は町の豪家の書画道楽の主人で、それが向こうから来ると、父親はていねいに挨拶をして立ちどまった。「この間のは、どうも悪いようだねえ、どうもあやしい」と向こうから言うと、「いや、そんなことはございません。出所がしっかりしていますから、折り紙つきですから」と父親はしきりに弁解した。清三は五六間先からふり返って見ると、父親がしきりに腰を低くして、頭を下げている。そのはげた額を、薄い日影がテラテラ照らした。  加須に行く街道と館林に行く街道とが町のはずれで二つにわかれる。それから向こうはひろびろした野になっている。野のところどころにはこんもりとした森があって、その間に白堊の土蔵などが見えている。まだ犁を入れぬ田には、げんげが赤い毛氈を敷いたようにきれいに咲いた。商家の若旦那らしい男が平坦な街道に滑らかに自転車をきしらして来た。  路は野から村にはいったり村から野に出たりした。樫の高い生垣で家を囲んだ豪家もあれば、青苔が汚なく生えた溝を前にした荒壁の崩れかけた家もあった。鶏の声がところどころにのどかに聞こえる。街道におろし菓子屋が荷を下していると、髪をぼうぼうさせた村の駄菓子屋のかみさんが、帯もしめずに出て来て、豆菓子や鉄砲玉をあれのこれのと言って入用だけ置かせている。  新郷へのわかれ路が近くなったころ、親子はこういう話をした。 「今度はいつ来るな、お前」 「この次の土曜日には帰る」 「それまでに少しはどうかならんか」 「どうだかわからんけれど、月末だから少しはくれるだろうと思うがね」 「少しでも手伝ってもらうと助かるがな」  清三は返事をしなかった。  やがて別れるところに来た。新郷へはこれから一田圃越せば行ける。 「それじゃ気をつけてな」 「ああ」  そこには庚申塚が立っていた。禿頭の父親が猫背になって歩いて行くのと、茶色の帽子に白縞の袴をつけた清三の姿とは、長い間野の道に見えていた。 九  その夜は役場にとまった。校長を訪ねたが不在であった。かれは日記帳に、「あゝわれつひに堪へんや、あゝわれつひに田舎の一教師に埋れんとするか。明日! 明日は万事定まるべし。村会の夜の集合! 噫! 一語以て後日に寄す」と書いた。なおくわしくその心持ちを書こうと思ったが、とうてい十分に書き現わし得ようとも思えぬので、記憶にとどめておくことにした。  翌日、朝九時に学校に行ってみた。けれどその平田というのがまだいたので、一まず役場に引き返した。一時間ばかりしてまた出かけた。  今度はもうその教員はいなかった。授業はすでに始まっていた。生徒を教える教員の声が各教場からはっきりと聞こえて来る。女教員のさえた声も聞こえた。清三の胸はなんとなくおどった。教員室にはいると、校長は卓に向かって、何か書類の調物をしていたが、 「さアはいりたまえ」と言って清三のはいって来るのを待って、そばにある椅子をすすめた。 「お気の毒でした。ようやくすっかり決まりました。なかなかめんどうでしてな……昨夜の相談でもいろいろの話が出ましてな」こう言って笑って、「どうも村が小さくって、それでやかましい学務委員がいるから困りますよ」  校長は言葉をついで、 「それで家のほうはどうするつもりです? 毎日行田から通うというわけにもいくまい。まア、当分は学校に泊まっていてもいいけれど……考えがありますか」 「どこか寄宿するよいところがございますまいか」とこれをきっかけに清三が問うた。 「どうも田舎だから、格好なところがなくって……」 「ここでなくっても、少しは遠くってもいいんですけれど……」 「そうですな……一つ考えてみましょう。どこかあるかもしれません」  二時間すんだところで、清三は同僚になるべき人々に紹介された。関という準教員は、にこにこと気がおけぬようなところがあった。大島という校長次席は四十五六ぐらいの年かっこうで、頭はもうだいぶ白く、ちょっと見ると窮屈そうな人であるが、笑うと、顔にやさしい表情が出て、初等教育にはさもさも熟達しているように見えた。「はあ、この方が林さん、私は大島と申します。何分よろしく」と言った言葉の調子にも世なれたところがあった。次に狩野という顔に疣のある訓導と杉田という肥った師範校出とが紹介された。師範校出はなんだかそッ気ないような挨拶をした、女教員は下を向いてにこにこしていた。  次の時間の授業の始まる前に、校長は生徒を第一教室に集めた。かれは卓のところに立って、新しい教員を生徒に紹介した。 「今度、林先生とおっしゃる新しい先生がおいでになりまして、皆さんの授業をなさることになりました。新しい先生は行田のお方で、中学のほうを勉強していらしって、よくおできになる先生でございますから、皆さんもよく言うことを聞いて勉強するようにしなければなりません」  校長のわきに立って、少しうつむきかげんに、顔を赤くしている新しい先生は、なんとなく困ったような恥ずかしそうな様子に生徒には見えた。生徒は黙って校長の言葉を聞いた。  次の時間には、その新しい先生の姿は、第三教室の卓の前にあらわれた。そこには高等一年生の十二三歳の児童がずらりと前に並んで、何かしきりにがやがや言っていたが、先生がはいって来ると、いずれも眼をそのほうに向けて黙ってしまった。  新しい教師は卓の前に来て椅子に腰を掛けたが、その顔は赤かった。読本を一冊持って来たが、卓の上に顔をたれたまま、しばしの間は、その教科書の頁をひるがえして見ていた。  後ろのほうでささやく声がおりおりした。  教室の硝子戸は埃にまみれて灰色に汚なくよごれているが、そこはちょうど日影が黄いろくさして、戸外では雀が百囀をしている。通りを荷車のきしる音がガタガタ聞こえた。  隣の教室からは、女教員の細くとがった声が聞こえ出した。  しばらくして思い切ったというように、新しい教師は顔をあげた。髪の延びた、額の広い眉のこいその顔には一種の努力が見えた。 「第何課からですか」  こう言った声は広い教室にひろがって聞こえた。 「第何課からですか」とくり返して言って、「どこまで教わりましたか」  こう言った時には、もう赤かった顔の色がさめていた。  答えがあっちこっちから雑然として起こった。清三は生徒の示した読本の頁をひろげた。もうこの時は初めて教場に立った苦痛がよほど薄らいでいた。どうせ教えずにはすまされぬ身である。どうせ自分のベストをつくすよりほかにしかたがないのである。人がなんと言おうが、どう思おうが、そんなことに頓着していられる場合でない。こう思ったかれの心は軽くなった。 「それでは始めますから」  新しい教師は第六課を読み始めた。  生徒は早いしかしなめらかな流るるような声を聞いた。前の老朽教師の低い蜂のうなるような活気のない声にくらべては、たいへんな違いである。しかしその声はとかく早過ぎて生徒の耳にとまらぬところが多かった。生徒は本よりも先生の顔ばかり見ていた。 「どうです、これでわかりますか」 「いま少しゆっくり読んでください」  いろいろな声があっちこっちから起こった。二度目には、つとめてゆっくりした調子で読んだ。 「どうです、このくらいならわかりますか」  にこにこと笑顔を見せて、なれなれしげにかれは言った。 「先生、あとのはよくわかりました」 「いま少し早くってもようございます」  などと生徒は言った。 「今までは先生にいく度読んでもらいました。二度ですか。三度ですか?」 「二度」 「二度です」  という声がそこにもここにも起こった。 「それじゃこれでいいですな」と清三は生徒の存外無邪気な調子に元気づいて、「でも、初めのが早過ぎましたからいま一度読んであげましょう、よく聞いておいでなさい」  今度のはいっそうはっきりしていた。早くもおそくもなかった。  読める人に手を上げさせて、前の列にいる色の白い可愛い子に読ませてみたり何かした。読めるのもあれば読めぬのもあった。清三は文章の中からむずかしい文字を拾って、それを黒板に書いて、順々に覚えさせていくようにした。ことにむずかしい字には圏点をつけてそのそばに片仮名でルビをふってみせた。卓の前に初めて立った時の苦痛はいつかぬぐうがごとく消えて、自分ながらやりさえすればやれるものだという快感が胸にあふれた。やがて時間が来てベルが鳴った。  昼飯は小川屋から運んで来てくれた。正午の休みに生徒らはみんな運動場に出て遊んだ。ぶらんこに乗るものもあれば、鬼事をするものもある。女生徒は男生徒とはおのずから別に組をつくって、綾を取ったり、お手玉をもてあそんだりしている。運動場をふちどって、白楊の緑葉がまばらに並んでいるが、その間からは広い青い野が見えた。  清三は廊下の柱によりかかって、無心に戯れ遊ぶ生徒らにみとれていた。そこにやって来たのは、関という教員であった。  やさしい眼色と、にこにこした円満な顔には、初めて会った時から、人のよさそうなという感を清三の胸に起こさせた。この人には隔てをおかずに話ができるという気もした。 「どうでした、一時間おすみになりましたか」 「え……」 「どうも初めてというものは、工合いの悪いものでしてな……私などもつい三月ほど前にここに来たのですが、始めは弱りましたよ」 「どうもなれないものですから」  この同情を清三もうれしく思った。 「私の前に勤めていた方はどういう方でした」 「あの方はもう年を取ったからやめさせるという噂が前からあったんです。今泉の人で、ずいぶん古くから教員はやっているんだそうですが……やはり若いものがずんずん出て来るものだから……それに教員をやめても困るッていう人ではありませんから」 「家には財産があるんですか」 「財産ということもありますまいが、子息が荒物屋の店をしておりますから」 「そうですか」  こんな普通な会話もこの若い二人を近づける動機とはなった。二人はベルの鳴るまでそこに立って話した。  午後には理科と習字とを教えた。  夜は宿直室に泊まった。宿直室は六畳で、その隣に小使室があった。小使室には大きな囲爐裏に火がかっかっと起こって、自在鍵につるした鉄瓶はつねに煮えくりかえっていた。その向こうは流し元で、手桶のそばに茶碗や箸が置いてあった。棚には桶と摺り鉢が伏せてあった。  その夜は大島訓導の宿直で、いろいろ打ち解けて話をした。かれは栃木県のもので、久しく宇都宮に教鞭をとっていたが、一昨年埼玉県に来るようになって、ちょっと浦和にいて、それからここに赴任したという。家は大越在で、十五歳になる娘と九歳になる男の児がある。初めて会った時と打ち解けて話し合った時と感じはまるで違っていた。大島先生は一合の晩酌に真赤になって、教育上の経験やら若い者のためになるような話やらを得意になってして聞かせた。  湯屋が通りにあった。細い煙筒から煙が青く黒くあがっているのを見たことがある。格子戸が男湯と女湯とにわかれて、はいるとそこに番台があった。湯気の白くいっぱいにこもった中に、箱洋燈がボンヤリと暗くついていて、筧から落ちる上がり水の音が高く聞こえた。湯殿は掃除が行き届かぬので、気味悪くヌラヌラと滑る。清三は湯につかりながら、自分の新しい生活を思い浮かべた。 十  ある朝、授業を始める前に、清三は卓の前に立って、まじめな調子で生徒に言った。 「今日は皆さんにおめでたいことを一つお知らせ致します。皇太子妃殿下節子姫には去る二十九日、新たに親王殿下をやすやすとご分娩あそばされました。これは皆さんも新聞紙上でお父様やお母様からすでにお聞きなされたことと存じます。皇室の御栄えあらせらるることは、われわれ国民にとってまことに喜びにたえませんことで、千秋万歳、皆さんの毎日お歌いになる君が代の唱歌にもさざれ石の巌となりて苔のむすまでと申してございます通りであります。しかるに、一昨日その親王殿下のご命名式がございまして、迪宮殿下裕仁親王と名告らせらるるということがご発表になりました」  こう言って、かれは後ろ向きになって、チョオクを取って、黒板に迪宮裕仁親王という六字を大きく書いてみせた。 十一 「どうぞ一つ名誉賛成員になっていただきたいと存じます……。それに、何か原稿を。どんなに短いものでも結構ですから」  清三はこう言って、前にすわっている成願寺の方丈さんの顔を見た。かねて聞いていたよりも風采のあがらぬ人だとかれは思った。新体詩、小説、その名は東京の文壇にもかなり聞こえている。清三はかつてその詩集を愛読したこともある。雑誌にのった小説を読んだこともある。一昨年ここの住職になるについても、やむを得ぬ先住からの縁故があったからで、羽生町で屈指な名刹とはいいながら、こうした田舎寺には惜しいということもうわさにも聞いていた。それが、こうした背の低い小づくりな弱々しそうな人だとは夢にも思いがけなかった。  かれは土曜日の家への帰りがけに、羽生の郵便局に荻生秀之助を訪ねたが、秀之助がちょうど成願寺の山形古城を知っていると言うので、それでつれだって訪問した。 「それはおもしろいですな……それはおもしろいですな」  こうくり返して主僧は言った。「行田文学」についての話が三人の間に語られた。 「むろん、ご尽力しましょうとも……何か、まア、初めには詩でもあげましょう。東京の原にもそう言ってやりましょう……」  主僧はこう言って軽く挨拶した。 「どうぞなにぶん……」  清三は頼んだ。 「荻生君もお仲間ですか」 「いいえ、私には……文学などわかりゃしませんから」と荻生さんはどこか町家の子息といったようなふうで笑って頭をかいた。中学にいるころから、石川や加藤や清三などとは違って、文学だの宗教だのということにはあまりたずさわらなかった。したがって空想的なところはなかった。中学を出るとすぐ、前から手伝っていた郵便局に勤めて、不平も不満足もなく世の中に出て行った。  主僧の室は十畳の一間で、天井は高かった。前には伽羅や松や躑躅や木犀などの点綴された庭がひろげられてあって、それに接して、本堂に通ずる廊下が長く続いた。瓦屋根と本堂の離れの六畳の障子の黒くなったのが見えた。書箱には洋書がいっぱい入れられてある。  主僧はめずらしく調子づいて話した。今の文壇のふまじめと党閥の弊とを説いて、「とても東京にいても勉強などはできない。田園生活などという声の聞こえるのももっともなことです」などと言った。風采はあがらぬが、言葉に一種の熱があって、若い人たちの胸をそそった。  詩の話から小説の話、戯曲の話、それが容易につきようとはしなかった。明星派の詩歌の話も出た。主僧もやはり晶子の歌を賞揚していた。「そうですとも、言葉などをあまりやかましく言う必要はないです、新しい思想を盛るにはやはり新しい文字の排列も必要ですとも……」こう言って林の説に同意した。  ふと理想ということが話題にのぼったが、これが出ると主僧の顔はにわかに生々した色をつけてきた。主僧の早稲田に通って勉強した時代は紅葉露伴の時代であった。いわゆる「文学界」の感情派の人々とも往来した。ハイネの詩を愛読する大学生とも親しかった。麻布の曹洞宗の大学林から早稲田の自由な文学社会にはいったかれには、冬枯れの山から緑葉の野に出たような気がした。今ではそれがこうした生活に逆戻りしたくらいであるから、よほど鎮静はしているが、それでもどうかすると昔の熱情がほとばしった。 「人間は理想がなくってはだめです。宗教のほうでもこの理想を非常に重く見ている。同化する、惑溺するということは理想がないからです。美しい恋を望む心、それはやはり理想ですからな、……普通の人間のように愛情に盲従したくないというところに力がある。それは仏も如是一心と言って霊肉の一致は説いていますが、どうせ自然の力には従わなければならないのはわかっていますが──そこに理想があって物にあこがれるところがあるのが人間として意味がある」  持ち前の猫背をいよいよ猫背にして、蒼い顔にやや紅を潮した熱心な主僧の態度と言葉とに清三はそのまま引き入れられるような気がした。その言葉はヒシヒシと胸にこたえた。かつて書籍で読み詩で読んだ思想と憧憬、それはまだ空想であった。自己のまわりを見回しても、そんなことを口にするものは一人もなかった。養蚕の話でなければ金もうけの話、月給の多いすくないという話、世間の人は多くパンの話で生きている。理想などということを言い出すと、まだ世間を知らぬ乳臭児のように一言のもとに言い消される。  主僧の言葉の中に、「成功不成功は人格の上になんの価値もない。人は多くそうした標準で価値をつけるが、私はそういう標準よりも理想や趣味の標準で価値をつけるのがほんとうだと思う。乞食にも立派な人格があるかもしれぬ」という意味があった。清三には自己の寂しい生活に対して非常に有力な慰藉者を得たように思われた。  主客の間には陶器の手爐りが二つ置かれて、菓子器には金米糖が入れられてあった。主僧とは正反対に体格のがっしりした色の黒い細君が注いで行った茶は冷たくなったまま黄いろくにごっていた。  一時間ののちには、二人の友だちは本堂から山門に通ずる長い舗石道を歩いていた。鐘楼のそばに扉を閉め切った不動堂があって、その高い縁では、額髪を手拭いでまいた子守りが二三人遊んでいる。大きい銀杏の木が五六本、その幹と幹との間にこれから織ろうとする青縞のはたをかけて、二十五六の櫛巻きの細君が、しきりにそれを綜ていた。 「おもしろい人だねえ」  清三は友をかえりみて言った。 「あれでなかなかいい人ですよ」 「僕はこんな田舎にあんな人がいようとは思わなかった。田舎寺には惜しいッていう話は聞いていたが、ほんとうにそうだねえ。……」 「話対手がなくって困るッて言っていましたねえ」 「それはそうだろうねえ君、田舎には百姓や町人しかいやしないから」  二人は山門を過ぎて、榛の木の並んだ道を街道に出た。街道の片側には汚ない溝があって、歩くと蛙がいく疋となくくさむらから水の中に飛び込んだ。水には黒い青い苔やら藻やらが浮いていた。  大和障子をなかばあけて、色の白い娘が横顔を見せて、青縞をチャンカラチャンカラ織っていた。  その前を通る時、 「あのお寺の本堂に室がないだろうか?」  こう清三はきいた。 「ありますよ。六畳が」  と友はふり返った。 「どうだろうねえ、君。あそこでおいてくれないかしらん」 「おいてくれるでしょう……この間まで巡査が借りて自炊をしていましたよ」 「もうその巡査はいないのかねえ」 「この間岩瀬へ転任になって行ったッて聞きました」 「一つ、君は懇意だから、頼んでみてくれませんか、自炊でもなんでもして、食事のほうは世話をかけずに、室さえ貸してもらえばいいが……」 「それはいい考えですねえ」と荻生君も賛成した。「ここからなら弥勒にも二里に近いし……土曜日に行田へ帰るにもあまり遠くないし……」 「それにいろいろ教えてももらえるしねえ、君。弥勒あたりのくだらんところに下宿するよりいくらいいかしれない」 「ほんとうですねえ、私も話相手ができていい」  荻生さんが来週の月曜日までに聞いておいてやるということに決まって、二人の友だちは分署の角で別れた。 十二  昨日の午後、月給が半月分渡った。清三の財布は銀貨や銅貨でガチャガチャしていた。古いとじの切れたよごれた財布! 今までこの財布にこんなに多く金のはいったことはなかった。それに、とにかく自分で働いて初めて取ったのだと思うと、なんとなく違った意味がある。母親が勝手に立とうとするのを呼びとめて、懐から財布を出して、かれはそこに紙幣と銀貨とを三円八十銭並べた。母親はさもさも喜ばしさにたえぬように息子の顔を見ていたが、「お前がこうして働いて取ってくれるようになったかと思うとほんとうにうれしい」としんから言った。息子は残りの半分はいま四五日たつとおりるはずであるということを語って、「どうも田舎はそれだから困るよ。なんでも三度四度ぐらいにおりることもあるんだッて……けちけちしてるから」  母親はその金をさも尊そうに押しいただくまねをして、立って神棚に供えた。神棚には躑躅と山吹とが小さい花瓶に生けて上げられてあった。清三は後ろ向きになった母親の小さい丸髷にこのごろ白髪の多くなったのを見て、そのやさしい心のいかに生活の嵐に吹きすさまれているかを考えて同情した。こればかりの金にすらこうして喜ぶのが親の心である。かれは中学からすぐ東京に出て行く友だちの噂を聞くたびにもやした羨望の情と、こうした貧しい生活をしている親の慈愛に対する子の境遇とを考えずにはいられなかった。  その土曜日は愉快に過ぎた。母親は自分で出かけて清三の好きな田舎饅頭を買ってきて茶を煎れてくれた。母親の小皺の多いにこにこした顔と息子の青白い弱々しい淋しい笑顔とは久しく長火鉢に相対してすわった。  清三は来週から先方のつごうさえよければ羽生の成願寺に下宿したいという話を持ち出して、若い学問のある方丈さんのことや、やさしい荻生君のことなどを話して聞かした。母親はそれまでには夜具や着物を洗濯してやりたい、それに袷を一枚こしらえたいなどと言った。父親の商売の不景気なことも続いて語った。清三のおさないころの富裕な家庭の話も出た。  夜は菓子を買って郁治の家に行った。雪子がにこにこと笑って迎えた。書斎での話は容易につきようともしなかった。同じことをくり返して語っても、それが同じこととは思えぬほど二人は親しかった。相対して互いに顔を見合わせているということが二人にとってこのうえもない愉快である。「行田文学」の話も出れば山形古城の話も出る。そこに郁治の父親がおりよく昨日帰ってきていたとて出てきて、「林さん、どうです、……学校のほうはうまくいきますか」などと言った。 「あそこの学校は軋轢がなくっていいでしょう。校長は二十七年の卒業生だが、わりあいにあれで話がわかっている男でしてな……村の受けもいいです」  郡視学はこんなことを語って聞かせた。  雪子が茶をさしにきた時、袂から絵葉書を出して、「浦和の美穂子さんから今、私のところにこんな手紙が来てよ」と二人に示した。美穂子はかの Art の君である。雪子はまだ兄の心の秘密を知らなかった。  絵葉書は女学世界についていた「初夏」という題で、新緑の陰にハイカラの女が細い流行の小傘をたずさえて立っていた。文句はべつに変わったこともなかった。  ──雪子さんお変わりございませんか。ここに参ってからもう二月になりました。寄宿の生活──それはほかからは想像ができないくらいでございます、この春、ごいっしょに楽しく遊んだことなどをおりおり考えることが、ございますよ。ご無沙汰のおわびまでに……美穂子  清三はその葉書を畳の上において、 「今度は貴嬢も浦和にいらっしゃるんでしょう?」 「私などだめ」  と雪子は笑った。  その笑顔を清三は帰路の闇の中に思い出した。相対していたのはわずかの間であった。その横顔を洋燈が照らした。つねに似ず美しいと思った。ツンとすましたようなところがあるのをいつも不愉快に思っていたが、今宵はそれがかえって品があるかのように見えた。美穂子の顔が続いて眼前を通る。雪子の顔と美穂子の顔が重なって一つになる……。田の畦に蛙の声がして、町の病院の二階の灯が窓からもれた。       *      *     *     *     *  町の裏に小さな寺があった。門をはいると、庫裡の藁葺屋根と風雨にさらされた黒い窓障子が見えた。本堂の如来様は黒く光って、木魚が赤いメリンスの敷き物の上にのせてある。その裏にある墓地には、竹藪が隣の地面を仕切って、墓石にはなめくじのはったあとがありありと残っていた。その多い墓石の中に清三の弟の墓があった。弟は一昨年の春十五歳で死んだ。その病は長かった。しだいにやせ衰えて顔は日に日に蒼白くなった。医師は診断書に肺結核と書いたが、父母はそんな病気が家の血統にあるわけがないと言って、その医師の診断書を信じなかった。清三は時々その幼い弟のことを思い起こすことがある。死んだ時の悲哀──それよりも、今生きていてくれたなら、話相手になって、どんなにうれしかったろうと思う。そのたびごとにかれは花をたずさえて墓参りをした。  日曜日の朝、かれは樒と山吹とを持って出かけた。庫裡で手桶を借りて、水をくんで、手ずから下げて裏へ回った。墓石はまだ建ててなく、風雨にさらされて黒くなった墓標が土饅頭の上にさびしく立っている。父母も久しくお参りをせぬとみえて、花立ては割れていた。水を入れてもかいがなかった。  清三の姿は久しくその前に立っていた。もう五月の新緑があたりをあざやかにして、老鶯の声が竹藪の中に聞こえた。  午後からは、印刷所に行ったり石川を訪問したりした。今日、弥勒に帰らぬと、明日は少なくも朝の四時に家を出なければ授業時間に間に合わぬと知ってはいるが、どうも帰るのがいやで──親しい友人と物語る楽しみを捨ててろくろく話す人もないところに帰って行くのがいやで、われしらず時間を過ごしてしまった。  夕飯を食ってから、湯に出かけたが、帰りにふたたび郁治を訪ねて、あきらかな夕暮れの野を散歩した。  城址はちょっと見てはそれと思えぬくらい昔のさまを失っていた。牛乳屋の小さい牧場には牛が五六頭モーモーと声を立てて鳴いていて、それに接した青縞機業会社の細長い建物からは、機を織る音にまじって女工のうたう声がはっきり聞こえる。夕日は昔大手の門のあったというあたりから、年々田に埋め立てられて、里川のように細くなった沼に画のようにあきらかに照りわたった。新たに芽を出した蘆荻や茅や蒲や、それにさびた水がいっぱいに満ちて、あるところは暗くあるところは明るかった。沼にかかった板橋を渡ると、細い田圃路がうねうねと野に通じて、車をひいて来る百姓の顔は夕日に赤くいろどられて見えた。  麦畑と桑畠、その間を縫うようにして二人は歩いた。話は話と続いて容易につきようとしなかった。路はいつか士族屋敷のあたりに出た。  家はところどころにあった。今日まで踏みとどまっている士族は少なかった。昔は家から家へと続いたものであるが、今は晨の星のように畠と畠の間に一軒二軒と残っている。昔ふうの黒いシタミや白い壁や大きい栗の木や柿の木や井字形の井戸側やまばらな生垣からは古い縁側に低い廂、文人画を張った襖などもあきらかに見すかされた。夏の日などそこを通ると、垣に目の覚めるようなあかい薔薇が咲いていることもあれば、新しい青簾が縁側にかけてあって、風鈴が涼しげに鳴っていることもある。秋の霧の深い朝には、桔橰のギイと鳴る音がして茘子の黄いろいのが垣から口を開いている。琴の音などもおりおり聞こえた。  この士族屋敷にはやはりもとの士族が世におくれて住んでいた。役場に出ているものもあれば、小学校の先生をしているものもある。財産があって無為に月日を送っているものもあれば、小規模の養蚕などをやって暮らしているものもある。金貸しなどをしているものもあった。  士族屋敷の中での金持ちの家が一軒路のほとりにあった。珊瑚樹の垣は茂って、はっきりと中は見えないが、それでも白壁の土蔵と棟の高い家屋とはわかった。門から中を見ると、りっぱな玄関があって、小屋のそばに鶏が餌をひろっている。  二人はその垣に添って歩いた。  垣がつきると、水のみちた幅のせまい川が気持ちよく流れている。岸には楊がその葉を水面にひたして漣をつくっている。細い板橋が川の折れ曲がったところにかかっている。  美穂子の家はそこから近かった。 「行ってみようか。北川は今日はいるだろう」  清三はこう言って友を誘った。  その家は大きな田舎道をへだててひろい野に向かっていた。古びた黒い門があった。やっぱり廂の低い藁葺の家で、土台がいくらか曲がっている。庭には松だの、檜だの、椿だのが茂っていた。今年の一月から三月にかけて、若い人々はよくこの家に歌留多牌をとりにきたものである。美穂子の姉の伊与子、妹の貞子、それに国府という人の妹に友子といって美しい人がいた。それらの少女連と、郁治や清三や石川や沢田や美穂子の兄の北川などの若い人々が八畳の間にいっぱいになって、竹筒台の五分心の洋燈の光の下に頭を並べて、夢中になって歌留多牌を取ると、そばには半白の、品のいい、桑名訛のある美穂子の母親が眼鏡をかけて、高くとおった声で若い人々のためにあきずに歌留多牌を読んでくれた。茶の時には蜜柑と五目飯の生薑とが一座の眼をあざやかにした。帰りはいつも十一時を過ぎていた。さびしい士族屋敷の竹藪の陰の道を若い男と女とは笑いさざめいて帰った。  北川は湯に行ってるすであった。「まア、よくいらっしゃいましたな……今、もうじき帰って参りますから……」母親はこう言って、にこにこして二人を迎えた。郁治はその笑顔に美穂子の笑顔を思い出した。声もよく似ている。  二人は庭に面した北川の書斎に通された。父親はどこに行ったか姿は見えなかった。  母親はしばし二人の相手をした。 「林さんは弥勒のほうにお出になりましたッてな、まア結構でしたな……母さん、さぞおよろこびでしたろうな」  こんなことを言った。  浦和にいる美穂子のうわさも出た。 「女がそんなことをしたッてしかたがないッて父親は言いますけれどもな……当人がなかなか言うことを聞きませんでな……どうせ女のすることだから、ろくなことはできんのは知れてるですけど……」 「でもお変わりはないでしょう」  清三がこうきくと、 「え、もう……お転婆ばかりしているそうでな」と母親は笑った。  すぐ言葉をついで、今度は郁治に、 「雪さんどうしてござるな」 「相変わらずぶらぶらしています」 「ちと、遊びにおつかわし。貞も退屈しておりますで……」  それこれするうちに、北川は湯から帰って来た。背の高い頬骨の出た男で、手織りの綿衣に絣の羽織を着ていた。話のさなかにけたたましく声をたてて笑う癖がある。石川や清三などとは違って、文学に対してはあまり興味をもっていない。学校にいたころは、有名な運動家でベースボールなどにかけては級の中でかれに匹敵するものはなかった。軍人志願で、卒業するとすぐ熱心に勉強して、この四月の士官学校の試験に応じてみたが、数学と英語とで失敗した。けれどあまり失望もしておらなかった。九月の学期には、東京に出て、しかるべき学校にはいって、十分な準備をすると言っている。  三人は胸襟を開いて語り合った。けれどここで語る話と清三と郁治と話す話とは、大いに異なっていた。同じ親しさでも単に学友としての親しさであった。打ち解けて語ると言っても心の底を互いに披瀝するようなことはなかった。  ここでは、学校の話と将来の希望と受験の準備の話などが多く出た。北川は東京で受けた士官学校入学試験の話を二人にして聞かせた。「どうも試験に余裕がなくって困った。英語の書き取りなど一度しか読んでくれないんだから困るよ。それに試験の場所が大きく広すぎて、声が散ってよく聞きとれないんだから、ドマドマしてしまったよ。おまけに代数がばかにむずかしかった」  代数の二次方程式の問題をかれは手帳に書きつけてきた。それを机の抽斗しやら押入れの中やら文庫の中やらあっちこっちとさがし回って、ようやくさがし出して二人に見せる。なるほど問題はむずかしかった。数学に長じた郁治にもできなかった。  北川は漢学には長じていた。父親は藩でも屈指の漢学者で、漢詩などをよく作った。今は町の役場に出るようになったのでよしたが、三年前までは、町や屋敷の子弟に四書五経の素読を教えたものである。午後三時ごろから日没前までの間、蜂のうなるような声はつねにこの家の垣からもれた。そのころ美穂子は赤いメリンスの帯をしめて、髪をお下げに結って、門の前で近所の友だちと遊んだ。清三はその時分から美穂子の眼の美しいのを知っていた。  郁治と清三が暇をつげたのは夜の九時過ぎであった。若い人々は話がないといっても話がある。二人はそこを出てしばしの間黙って歩いた。竹藪のガサガサする陰の道は暗かった。郁治の胸にも清三の胸にもこの際浦和の学校にいる美穂子のことがうかんだ。「あの時──郁治がそれと打ち明けた時、なぜ自分もラヴしているということを思いきって言わなかったろう」と清三は思った。けれど友の恋はまだ美穂子に通じてあるわけではない。恋された人の知らぬ前に恋した人の心を自分はその人から打ち明けられた。それだけかれは苦しかった。またそれだけかれはその問題につきつめていなかった。時には「まだ決まったというわけではない、ぶつかってみて、どうなることかわからない。……希望がすっかり破れてしまったというわけでもない……」などと思うこともある。友のために犠牲になるという気はむろんある。友の恋の成らんことを望む念もある。かれの性質からいっても、家庭の事情からいっても、現在の恋の状態からいっても、はげしく熱するにはまだだいぶ距離もあり余裕もあった。  しかしその夜は二人とも不思議に胸がおどっていた。黙って歩いていても、その心はいろいろなことを語っていた。野に出ようとすると、昨日の雨に路の悪くなっているところがあった。低い駒下駄はズブズブはいった。 「悪い路だね」  二人は互いにこう言いあった。しかし心では二人とも美穂子のことを考えていた。  郁治にしては、女に対する煩悶、それを残すところなくこの友に語りたいと思った。打ち明けて話したならいくらかこの胸が静まるだろうとも思った。しかしなぜかそれを打ち明けて語る気にはならなかった。  二人はやっぱり黙って歩いた。  城址の森が黒く見える。沼がところどころ闇の夜の星に光った。蘆や蒲がガサガサと夜風に動く。町の灯がそこにもここにも見える。  公園から町にはいった。もうそのころは二人は黙っていなかった。郁治は低い声で、得意の詩吟を始めた。心の感激の余波がそれにも残って聞かれる。別れの道の角に来ても、かれらはなんだかこのまま別れるのが物足らなかった。「僕の家に寄って茶でものんで行かんか」清三がこう誘うと、郁治はついて来た。  清三の母親は裁物板に向かってまだせっせっと賃仕事をしていた。茶を入れてもらってまた一時間ぐらい話した。語っても語ってもつきないのは若い人々の思いであった。十二時が鳴って、郁治が思いきって帰って行くのを清三はまた湯屋の角まで送る。町の大通りはもうしんとしていた。  翌日は母も清三も寝過ごしてしまった。時計は七時を過ぎていた。清三はあわてて茶漬をかっ込んで出かけた。いくら急いでも四里の長い長い路、弥勒に着いたころはもう十時をよほど過ぎた。学校の硝子窓には朝日がすでに長けて、校長の修身を教える声が高くあきらかにあたりに聞こえる。急いで行ってみると、受持ちの組では生徒がガヤガヤと騒いでいた。 十三  熊谷町にもかれの同窓の友はかなりにある。小畑というのと、桜井というのと、小島というのと──ことに小畑とはかれも郁治も人並みすぐれて交情がよかった。卒業して会われなくなってからは毎日のように互いに手紙の往復をして、戯談を言ったり議論をしたりした。月に一二度は清三はきっと出かけた。  行田町から熊谷町まで二里半、その路はきれいな豊富な水で満たされた用水の縁に沿ってはしった。一田圃ごとに村があり、一村ごとに田圃が開けるというふうで、夏の日には家の前の広場で麦を打っている百姓家や、南瓜のみごとに熟している畑や、豪農の白壁の土蔵などが続いた。秋の晴れた日には、田圃から村に稲を満載した車がきしって、黄いろく熟した田には、頬かむりをした田舎娘が、鎌の手をとめて街道を通って行く旅人の群れをながめた。その街道にはいろいろなものが通る。熊谷行田間の乗合馬車、青縞屋の機回りの荷車、そのころ流行った豪家の旦那の自転車、それに俥にはさまざまの人が乗って通った。よぼよぼの老いた車夫が町に買い物に行った田舎の婆さんを二人乗りに乗せて重そうにひいて行くのもあれば、黒鴨仕立のりっぱな車に町の医者らしい鬚の紳士が威勢よく乗って走らせて行くのもある。田植時分には、雨がしょぼしょぼと降って、こねかえした田の泥濘の中にうつむいた饅頭笠がいくつとなく並んで見える。いい声でうたう田植唄も聞こえる。植え終わった田の緑は美しかった。田の畔、街道の両側の草の上には、おりおり植え残った苗の束などが捨ててあった。五月晴れには白い繭が村の人家の軒下や屋根の上などに干してあるのをつねに見かけた。  用水のそばに一軒涼しそうな休み茶屋があった。楡の大きな木がまるでかぶさるように繁って、店には土地でできる甜瓜が手桶の水の中につけられてある。平たい半切に心太も入れられてあった。暑い木陰のない路を歩いてきて、ここで汗になった詰襟の小倉の夏服をぬいで、瓜を食った時のうまかったことを清三は覚えている。その店の婆さんに娘が一人あって東京の赤坂に奉公に出ていることも知っている。  関東平野を環のようにめぐった山々のながめ──そのながめの美しいのも、忘れられぬ印象の一つであった。秋の末、木の葉がどこからともなく街道をころがって通るころから、春の霞の薄く被衣のようにかかる二三月のころまでの山々の美しさは特別であった。雪に光る日光の連山、羊の毛のように白く靡く浅間ヶ嶽の煙、赤城は近く、榛名は遠く、足利付近の連山の複雑した襞には夕日が絵のように美しく光線をみなぎらした。行田から熊谷に通う中学生の群れはこの間を笑ったり戯れたり走ったりして帰ってきた。  熊谷の町はやがてその瓦屋根や煙突や白壁造りの家などを広い野の末にあらわして来る。熊谷は行田とは比較にならぬほどにぎやかな町であった。家並みもそろっているし、富豪も多いし、人口は一万以上もあり、中学校、農学校、裁判所、税務管理局なども置かれた。汽車が停車場に着くごとに、行田地方と妻沼地方に行く乗合馬車がてんでに客を待ちうけて、町の広い大通りに喇叭の音をけたたましくみなぎらせてガラガラと通って行った。夜は商家に電気がついて、小間物屋、洋物店、呉服屋の店も晴々しく、料理店からは陽気な三味線の音がにぎやかに聞こえた。  町は清三にとって第二の故郷である。八歳の時に足利を出て、通りの郵便局の前の小路の奥に一家はその落魄の身を落ちつけた。その小路はかれにとっていろいろな追憶がある。そこには郵便局の小使や走り使いに人に頼まれる日傭取りなどが住んでいた。山形あたりに生まれてそこここと流れ渡ってきても故郷の言葉が失せないという元気なお婆さんもあった。八歳から十七歳まで──小学校から中学の二年まで、かれは六畳、八畳、三畳のその小さい家に住んでいた。小学校は町の裏通りにあった。明神の華表から右にはいって、溝板を踏み鳴らす細い小路を通って、駄菓子屋の角を左に、それから少し行くと、向こうに大きな二階造りの建物と鞦韆や木馬のある運動場が見えた。生徒の騒ぐ音がガヤガヤと聞こえた。  校長の肥った顔、校長次席のむずかしい顔、体操の先生のにこにこした顔などが今もありありと眼に見える。卒業式に晴衣を着飾ってくる女生徒の群れの中にもかれの好きな少女が三四人あった。紫の矢絣の衣服に海老茶の袴をはいてくる子が中でも一番眼に残っている。その子は町はずれの町から来た。農学校の校長の娘だということを聞いたことがある。清三が中学の一年にいる時一家は長野のほうに移転して行ってしまったので、そのあきらかな眸を町のいずこにも見いだすことができなくなったが、それでも今も時々思い出すことがある。一人は芸者屋の娘で、今は小滝といって、一昨年一本になって、町でも流行妓のうちに数えられてある。通りで盛装した座敷姿にでっくわすことなどあると、「失礼よ、林さん」などとあざやかに笑って挨拶して通って行く。中学卒業の祝いの宴会にもやって来て、いい声で歌をうたったり、三絃をひいたりした。小畑がそばにすわって「小滝は僕らの芸者だ。ナア小滝」などと言って、酔った顔をその前に押しつけるようにすると、「いやよ、小畑さん、貴郎は昔から私をいじめるのねえ、覚えていてよ」と打つ真似をした。そのとき、「貴様は同級生の中で、誰が一番好きだ」という問題がゆくりなく出た。小学校時分の同級生がだいぶそのまわりにたかっていた。と、小滝は少しも躊躇の色を示さずに、「それア誰だッてそうですわねえ、……むろん林さん!」と言った。小滝も酔っていた。喝采の声が嵐のように起こった。それからは、小畑や桜井や小島などに会うと、小滝の話がよく出る。しまいには「小滝君どうした。健在かね」などと書いた端書を送ってよこした。「小滝」という渾名をつけられてしまったのである。清三もまたおもしろ半分に、小滝を「しら滝」に改めて、それを別号にして、日記の上表紙に書いたり手紙に署したりした。「歌妓しら滝の歌」という五七調四行五節の新体詩を作って、わざと小畑のところに書いてやったりした。  時には清三もまじめに芸者というものを考えてみることもある。その時にはきっと自分と小滝とを引きつけて考えてみる。ロマンチックな一幕などを描いてみることもあった。時にはまた節操も肉体もみずから守ることのできない芸者の薄命な生活を想像して同情の涙を流すことなどもあった。清三には芸者などのことはまだわからなかった。  かれはまた熊谷から行田に移転した時のことをあきらかに記憶している。父親がよそから帰って来て、突然今夜引っ越しをするという。明日になすったらいいではありませんかと母親が言ったが、しかし昼間公然と移転して行かれぬわけがあった。熊谷における八年の生活は、すくなからざる借金をかれの家に残したばかりであった。父親は財布の銭──わずかに荷車二三台を頼む銭をちゃらちゃらと音させながら出て行くと、そのあとで母親と清三とは、近所に知れぬように二人きりで荷造りをした。長い行田街道には冬の月が照った。二台の車の影と親子四人の影とが淋しく黒く地上に印した。これが一家の零落した縮図かと思うと、清三はたまらなく悲しかった。その夜行田の新居にたどり着いたのは、もうかれこれ十二時に近かった。燈光もない暗い大和障子の前に立った時には、涙がホロホロとかれの頬をつたって流れた。  けれどいかようにしても暮らして行かるる世の中である。それからもう四年は経過した。そのせまい行田の家も、住みなれてはさしていぶせくも思わなかった。かれはおりおり行田の今の家と熊谷の家と足利の家とを思ってみることがある。  熊谷の家は今もある。老いた夫婦者が住まっている。よく行った松の湯は新しく普請をして見違えるようにりっぱになった。通りの荒物屋にはやはり愛嬌者のかみさんがすわって客に接している。種物屋の娘は廂髪などに結ってツンとすまして歩いて行く。薬種屋の隠居は相変わらず禿頭をふりたてて忰や小僧を叱っている。郵便局の為替受け口には、黒繻子とメリンスの腹合せの帯をしめた女が為替の下渡しを待ちかねて、たたきを下駄でコトコトいわせている。そのそばにおなじみの白犬が頭を地につけて眼を閉じて眠っている。郵便集配人がズックの行嚢をかついではいって来る。  小畑は郡役所に勤めている官吏の子息、小島は町で有名な大きな呉服屋の子息、桜井は行田の藩士で明治の初年にこの地に地所を買って移って来た金持ちの子息、そのほか造酒屋、米屋、紙屋、裁判所の判事などの子息たちに同窓の友がいくらもあった。そしてそれがたいていは小学校からのなじみなので、行田の友だちの群れよりもいっそうしたしいところがある。小畑の家は停車場の敷地に隣っていて、そこからは有名な熊谷堤の花が見える。桜井の家は蓮正寺の近所で、お詣りの鰐口の音が終日聞こえる。清三は熊谷に行くと、きっとこの二人を訪問した。どちらの家でも家の人々とも懇意になって、わがままも言えば気のおけない言葉もつかう。食事時分には黙っていても膳を出してくれるし、夜遅くなれば友だちといっしょに一つ蒲団にくるまって寝た。 「どうした、いやにしょげてるじゃないか」 「どうかしたか」 「まだ老い込むには早いぜ!」 「少しは何か調べたか」 「なんだか顔色が悪いぜ!」  熊谷にくると、こうした活気ある言葉をあっちこっちから浴びせかけられる。いきいきした友だちの顔色には中学校時代の面影がまだ残っていて、硝子窓の下や運動場や湯呑場などで話し合った符牃や言葉がたえず出る。  また次のような話もした。 「Lはどうした」 「まだいる! そうかまだいるか」 「仙骨は先生に熱中しているが、実におかしくって話にならん」 「先生、このごろ、鬚など生やして、ステッキなどついて歩いているナ」 「杉はすっかり色男になったねえ、君」  かたわらで聞いてはちょっとわからぬような話のしかたで、それでぐんぐん話はわかっていく。  熊谷の町が行田、羽生にくらべてにぎやかでもあり、商業も盛んであると同じように、ここには同窓の友で小学校の教師などになるものはまれであった。角帯をしめて、老舗の若旦那になってしまうもののほかは、多くはほかの高等学校の入学試験の準備に忙しかった。活気は若い人々の上に満ちていた。これに引きくらべて、清三は自分の意気地のないのをつねに感じた。熊谷から行田、行田から羽生、羽生から弥勒とだんだん活気がなくなっていくような気がして、帰りはいつもさびしい思いに包まれながらその長い街道を歩いた。  それに人の種類も顔色も語り合う話もみな違った。同じ金儲けの話にしても、弥勒あたりでは田舎者の吝嗇くさいことを言っている。小学校の校長さんといえば、よほど立身したように思っている。また校長みずからも鼻を高くしてその地位に満足している。清三は熊谷で会う友だちと行田で語る人々と弥勒で顔を合わせる同僚とをくらべてみぬわけにはいかなかった。かれは今の境遇を考えて、理想が現実に触れてしだいに崩れていく一種のさびしさとわびしさとを痛切に感じた。  ある日曜日の午前に、かれは小畑と桜井とつれだって、中学校に行ってみた。中学校は町のはずれにあった。二階造りの大きな建物で、木馬と金棒と鞦韆とがあった。運動場には小倉の詰襟の洋服を着た寄宿舎にいる生徒がところどころにちらほら歩いているばかり、どの教室もしんとしていた。湯呑所には例のむずかしい顔をした、かれらが「般若」という綽名を奉った小使がいた。舎監のネイ将軍もいた。当直番に当たった数学の教師もいた。二階の階段、長い廊下、教室の黒板、硝子窓から梢だけ見える梧桐、一つとして追懐の伴わないものはなかった。かれらはその時分のことを語りながらあっちこっちと歩いた。  当直室で一時間ほど話した。同級生のことを聞かれるままその知れる限りを三人は話した。東京に出たものが十人、国に残っているものが十五人、小学校教師になったものが八人、ほかの五人は不明であった。三人は講堂に行ってオルガンを鳴らしたり、運動場に出てボールを投げてみたりした。  別れる前に、三人は町の蕎麦屋にはいった。いつもよく行く青柳庵という家である。奥の一間はこざっぱりした小庭に向かって、楓の若葉は人の顔を青く見せた。ざるに生玉子、銚子を一本つけさせて、三人はさも楽しそうに飲食した。 「この間、小滝に会ったぜ!」小畑は清三の顔を見て、「先生、このごろなかなか流行るんだそうだ。土地の者では一番売れるんだろうよ。湯屋の路地を通ると、今、座敷に出るところかなんかで、にこにこしてやって来たッけ」 「林さんは? ッて聞かなかったか?」  かたわらから桜井が笑いながら言った。  清三も笑った。 「Yはどうしたねえ」  清三は続いて聞いた。 「相変わらずご熱心さ」 「もうエンゲージができたのか」 「当人同士はできてるんだろうけれど、家では両方ともむずかしいという話だ」 「おもしろいことになったものだねえ」と清三は考えて、「YはいったいVのラヴァだったんだろう。それがそういうふうになるとは実際運命というものはわからんねえ」 「Vはどうしたえ」と桜井が小畑に聞く。 「先生、足利に行った」 「会社にでも出たのか」 「なんでも機業会社とかなんとかいうところに出るようになったんだそうだ」  三人はお代わりの天ぷら蕎麦を命じた。 「Art の君はどうした?」  小畑がきいた。 「浦和にいるよ」 「それは知ってるさ。どうしたッて言うのはそういう意味じゃないんだ」 「うむ、そうか──」と清三はうなずいて、「まだ、もとの通りさ」 「加藤も臆病者だからなア」  と小畑も笑った。  一本の酒で、三人の顔は赤くなった。勘定は蟇口から銀貨や銅貨をじゃらつかせながら小畑がした。可愛い娘の子が釣銭と蕎麦湯と楊枝とを持って来た。  その日の午後四時過ぎには、清三は行田と羽生の間の田舎道を弥勒へと歩いていた。野は日に輝いて、向こうの村の若葉は美しくあざやかに光った。けれど心は寂しく暗かった。かれは希望に充されて通った熊谷街道と、さびしい心を抱いて帰って行く弥勒街道とをくらべてみた。若い元気のいい友だちがうらやましかった。 十四  六月一日、今日成願寺に移る。こう日記にかれは書いた。荻生君が主僧といろいろ打ち合わせをしてくれたので、話は容易にまとまった。無人で食事の世話まではしてあげることはできないが、家にあるもので入り用なものはなんでもおつかいなさい。こう言って、主僧は机、火鉢、座蒲団、茶器などを貸してくれた。  本堂の右と左に六畳の間があった。右の室は日が当たって冬はいいが、夏は暑くってしかたがない。で、左の間を借りることにする。和尚さんは障子の合うのをあっちこっちからはずしてきてはめてくれる。かみさんはバケツを廊下に持ち出して畳を拭いてくれる。机を真中にすえて、持ってきた書箱をわきに置いて、角火鉢に茶器を揃えると、それでりっぱな心地のよい書斎ができた。荻生君はちょうど郵便局が閑なので、同僚にあとを頼んでやってきて、庭に生えた草などをむしった。清三が学校から退けて帰って来た時には、もうあたりはきれいになって、主僧と荻生君とは茶器をまんなかに、さも室の明るくなったのを楽しむというふうに笑って話をしていた。 「これはきれいになりましたな、まるで別の室のようになりましたな」  こう言って清三はにこにこした。 「荻生さんが草を取ってくれたんですよ」  主僧が笑いながら言うと、 「荻生君が? それは気の毒でしたねえ」 「いや、草を取って、庭をきれいにするということは趣味があるものですよ」と荻生君は言った。  そこに餅菓子が竹の皮にはいったまま出してあった。これも荻生君のお土産である。清三は、「これはご馳走ですな」と言いながら、一つ、二つ、三つまでつまんで、むしゃむしゃと食った。弁当腹で、長い路を歩いて来たので、少なからず飢を覚えていたのである。  その日の晩餐は寺で調理してくれた。里芋と筍の煮付け、汁には、たけたウドが入れられてあった。主僧は自分の分もここに持って来させて、ビールを二本奢って、三人して団欒して食った。文学の話、人生問題の話、近所の話、小学校の話、主僧のお得意の禅の話も出た。庭に近く柱によった主僧の顔が白く夕暮れの空気に見えた。  長い廊下に小僧が急ぎ足でこっちにやってくるのが見えたが、やがてはいって来て、一通の電報を主僧に渡した。  急いで封を切って読み終わった主僧の顔色は変わった。 「大島孤月が死んだ!」 「孤月さんが──」  二人もおどろきの目をみはった。  大島孤月といえば、文学好きの人はたいてい知っていた。某書肆の女婿で、創作家としてよりも書肆の支配人としての勢力の大きな人であった。昨年の秋泰西漫遊に出かけて、一月ほど前に帰朝した。送別会と歓迎会、その記事はいつも新聞紙上をにぎわした。雑誌にもいろいろなことが書いてあった。ここの主僧がまだ東京にいるころは、ことにこの人の世話になって、原稿を買ってもらったり、その家に置いてもらったりした。 「もう今日は行かれませんな」 「そう、馬車はありませんしな、車じゃたいへんですし……それに汽車に乗っても、あっちへ着いてから困るでしょう」  主僧は考えて、 「明日にしましょうかな」 「明日でいいなら──明日朝の馬車で久喜まで行って、奥羽線の二番に乗るほうがいいですな」 「行田から吹上のほうが便利じゃないでしょうか」 「いや、久喜のほうが便利です」  と荻生君は言った。  主僧はそれと心を定めたらしく、やがて、「人間というものはいつ死ぬかわかりませんな」と慨嘆して、 「ちょっと病気で病院にはいってるということは聞きましたけれど、死ぬなどとは夢にも思わなかったですよ。先生など幸福ではあるし、得意でもあるし、これからますます自分の懐抱を実行していかれる身なんですから」こう言って、自分の田舎寺に隠れた心の動機を考えて、主僧は黯然とした。 「世の中は蝸牛角上の争闘──私は東京にいるころには、つくづくそれがいやになったんですよ。人の弱点を利用したり、朋党を作って人をおとしいれたり、一歩でも人の先に出よう出ようとのみあくせくしている。実にあさましく感じたですよ。世の中は好いが好いじゃない、悪いが悪いじゃない、幸福が幸福じゃない。どんな人でもやっぱり人間は人間で、それ相応の安慰と幸福とはある。それに価値もある。何も名誉をおって、一生をあくせく暮らすには当たらない。それよりも、人間としての理想のライフを送るほうがどれほど人間としてえらいかしれない。どんなに零落して死んでもそのほうが意味がありますからなア」 「ほんとうにそうですとも」  清三は主僧の言葉に引き込まれるような気がした。 「不幸福な人だった!」  と主僧は思わず感激して独り言のように言った。得意なる地位を知ってるだけそれだけ、その背景が悲しかった。平生戯談ばかり言う男で、軽い皮肉をつねに人に浴びせかけた。まだ三十四五であったが、世の中の辛酸をなめつくして、その圭角がなくなって、心持ちは四十近い人のようであった。養子としての淋しい心の煩悶をも思いやった。「なんのかのと言って、誰もみな死んでしまうんですな……それを考えると、ほんとうにつまらない」主僧は深く動かされたような調子で言った。  こんなことでその夜は一室の空気がなんとなく低い悲哀につつまれた。やがて主僧は庫裡に引き上げたが、清三と荻生君との話も理に落ちてしまって、いつものように快活に語ることができなかった。  二人は暗い洋燈に対して久しく黙した。  翌日主僧は早く出かけた。  清三は大島孤月の病死と葬儀とについての記事をそれから毎日々々新聞紙上で見た。かれはその度ごとにいろいろな思いにうたれた。その人の作には感心してはおらぬが、出版者としての勢力が文壇に及ぼす関係などを想像してみたり、自分の崇拝している明星一派の不遇などをそれにくらべて考えてみたりした。時には、「とにかく不幸福といっても死んでこうして新聞に書かれれば光栄である」などと考えて、音も香もなく生まれて活きて死んでいく普通の多数の人々の上をも思いやった。その間に雨が降ったり風が吹いたりした。雨の降る日には本堂の四面の新緑がことにあざやかに見えて、庫裡の高い屋根にかけたトタンの樋からビショビショ雨滴れの落ちるのを見た。風の吹く日には、裏の林がざわざわ鳴って、なんだか海近くにでも住んでいるように思われた。弁当は朝に晩に、馬車継立所のそばの米ずしという小さな飲食店から赤いメリンスの帯をしめた十三四の娘が運んで来た。行田の家からもやがて夜具や机や書箱などをとどけてよこした。  かれは寺から町の大通りに真直に出て、うどんひもかわと障子に書いた汚ない飲食店の角を裏通りにはいって、細い煙筒に白い薄い煙のあがる碓氷社分工場の養蚕所や、怪しげな軒燈の出ている料理屋の前などを通って、それから用水の橋のたもとへといつも出る。時には大越に通う馬車がおりよくそこにいて、安くまけて乗せてもらって行くことなどもあった。  五六日して主僧は東京から帰って来た。葬儀の模様は新聞で見て知っていたが、くわしく聞いて、さらにあざやかにそのさまを眼の前に見るような気がした。文壇の大家小家はことごとく雨をついてその葬式について行ったという。雨がザンザン降って、新緑の中に造花生花のさまざまの色彩がさながら絵のような対照をなしたという。ことに、寺の本堂が狭かったので、中にはいれなかった人々は、蛇の目傘や絹張りの蝙蝠傘を雨滴れのビショビショ落ちる庇のところにさしかけて立っていた。読経は長かった。それがすむと形のごとき焼香があって、やがて棺は裏の墓地へと運ばれる。墓地への路には新しい筵が敷きつめられて、そこを白無垢や羽織袴が雨にぬれて往ったり来たりする。小説の某大家は柱によって、悲しそうな顔をしている。生前最も親しかった某画家は羽織を雨にめちゃめちゃにして、あっちこっちと周旋して歩いている。「君、実際、感に打たれましたよ。苦労をしぬいて、ようやく得意の境遇になって、これから多少志もとげようという時に当たって何が来たかと思うと、死!」こう若い和尚さんは話した。 「名誉をおって、都会の塵にまみれたって、しかたがありませんな……どんなに得意になったって、死が一度来れば、人々から一滴の涙をそそがれるばかりじゃありませんか。死んでからいくら涙をそそがれたってしかたがない!」  主僧の眉はあがっていた。  その夜は遅くまで、清三はいろいろなことを考えた。「名誉」「得意の境遇」それをかれは眼の前に仰いでいる。若い心はただそれのみにあこがれている。けれど今宵はなんだかその希望と野心の上に一つの新しい解決を得たように思われる。かれは綴の切れた藤村の「若菜集」を出して読みふけった。  本堂には如来様が寂然としていた。 十五  裏の林の中に葦の生えた湿地があって、もと池であった水の名残りが黒く錆びて光っている。六月の末には、剖葦がどこからともなくそこへ来て鳴いた。  寺では慰みに蚕を飼った。庫裡の八畳の一間は棚や、筵でいっぱいになって、温度を計るための寒暖計が柱にかけられてあった。かみさんが白い手拭いをかぶって、朝に夕に裏の畑に桑を摘みに行く。雨の降る日には、その晴れ間を待って和尚さんもいっしょになって桑摘みの手伝いをしてやる。ぬれた緑の葉は勝手の広い板の間に山のように積まれる。それを小僧が一枚々々拭いていると、和尚さんはそばで桑切り庖丁で丹念に細く刻む。  蚕の上簇りかけるころになると、町はにわかに活気を帯びてくる。平生は火の消えたように静かな裏通りにも、繭買い入れ所などというヒラヒラした紙が張られて、近在から売りに来る人々が多く集まった。頬鬚の生えた角帯の仲買いの四十男が秤ではかって、それから筵へと、その白い美しい繭をあけた。相場は日ごとに変わった。銅貨や銀貨をじゃらじゃらと音させて、景気よく金を払ってやった。料理店では三味線の音が昼から聞こえた。  ある日曜日であった。郁治が土曜日の晩から来て泊まっていた。「行田文学」の初号ができて持ってきたので、昨夜から文学の話が盛んにでた。ところが、ちょうど十時過ぎ、山門の鋪石道にガラガラと車の音がした。ついぞ今まで車のはいって来たことなどはないので、不思議に思って、清三が本堂の障子をあけてみると、白い羅紗の背広にイタリアンストロウの夏帽子をかぶった肥った男と白がかった夏外套をはおった背の高い男とが庫裡の入り口に車をつけて、今しもおりようとするところであった。やがて小僧がとり次ぐと、和尚さんの姿がそこに出て来た。久濶の友に訪われた喜びが、声やら言葉やら態度やらにあらわれて見えた。  やがてその客は東京から来た知名の文学者で、一人は原杏花、一人は相原健二という有名な「太陽」の記者だということがわかった。いずれも主僧が東京にいたころの友だちである。  清三の室は中庭の庭樹を隔てて、庫裡の座敷に対していたので、客と主僧との談話しているさまがあきらかに見えた。緑の葉の間に白い羅紗の夏服がちらちらしたり、おりおり声高く快活に笑う声がしたりする。その洋服や笑い声は若い青年にとってこの上もない羨望の種であった。 「原っていう人はあんな肥った人かねえ。あれであんなやさしいことを書くとは思わなかった」  郁治はこう言って笑った。  勝手へ行ってみると、かみさんと小僧とはご馳走の支度に忙しそうにしていた。和尚さんも時々出て来ていろいろ指揮をする。米ずしの若い衆は岡持に鯉のあらいを持って来る。通りの酒屋は貧乏徳利を下げて来る。小僧は竈の下と据風呂の釜とに火を燃しつける。活気はめずらしくがらんとした台所に満ちわたった。  酒はやがて始まった。だんだん話し声が高くなってきた。和尚さんもいつもに似ぬ元気な声を出して愉快そうに笑った。  正午近くになるとだいぶ酔ったらしく、笑う声がたえず聞こえた。縁側から厠へ行く客の顔は火のように赤かった。やがて和尚さんのまずい詩吟が出たかと思うと、今度は琵琶歌かとも思われるような一種の朗らかな吟声が聞こえた。  若い人たちはつれだって町に出かけた。懐に金はないが、月末勘定の米ずしに行けば、酒の一二本はいつも飲むことはできた。その場末の飲食店の奥の六畳には、衣服やら小児の襁褓やらがいっぱいに散らかされてあったが、それをかみさんが急いで片づけてくれた。古箪笥や行李などのあるそばで狭い猫の額のような庭に対して、なまりぶしの堅い煮付けでかれらは酒を飲んだり飯を食ったりした。  帰りに、荻生君を郵便局に訪ねてみるということになったが、こんなに赤い顔で、町の大通りは歩けないというので、桑のしげった麦のなかば刈られた裏通りの田圃を行った。荻生君は熊谷に行っていなかった。二人は引きかえして野を歩いた。小川には青い藻が浮いて、小さな雑魚がスイスイ泳いでいた。  寺に帰ると、座敷ではまだ酒を飲んでいた。騒ぐ声が嵐のように聞こえる。丈の高いほうが和尚さんの手を引っ張って、どこへかつれて行こうとする。洋服の原があとから押す。和尚さんはいつか僧衣を着せられている。「まア、いいよ、いいよ、君らがそんなに望むなら、お経ぐらい読むさ、その代わり君らが木魚をたたかなくってはいかんぜ!」  和尚さんも少なからず酔っていた。 「よし、よし、木魚はおれがたたく」  と雑誌記者は言った。  三人はよりつよられつして、足もと危く、長い廊下を本堂へとやって来る。庫裡からはかみさんと小僧とが顔を出して笑ってその酔態を見ている。三人は廊下から本堂にはいろうとしたが、階段のところでつまずいて、将棋倒しにころころと折りかさなって倒れた。笑う声が盛んにした。  雑誌記者は槌をとって木魚をたたいた。ポクポクポクポク、なかなかその調子がいい。和尚さんも原という文学者もそれを見て、「これはうまい、たたいたことがあるとみえるな」と笑った。雑誌記者は木魚をたたきながら、「それはそうとも、これで寺の小僧を三年したんだから」こう言って、トラヤアヤアヤアヤアとお経を読む真似をした。 「和尚──お経を読まなくっちゃいかんじゃないか」  こんなことを言ってなおしきりに木魚をたたいた。  主僧と原とは如来様の前に立ったり、古い位牌の前にたたずんだりして、いろいろな話をした。歴代の寺僧の大きな位牌のまんなかに、むずかしい顔をした本寺中興の僧の木像がすえてあった。それは恐ろしくむき出すような眼をしていた。和尚さんはその僧のことについて語った。本堂を再建したことや、その本堂が先代の時に焼けてしまったことや、この人の弟子に越前の永平寺へ行った人があったことなどを話した。メリンスの敷き物の上に鐘がのせられてあって、そのそばに、頭のはげた賓頭顱尊者があった。原は鐘をカンカンと鳴らしてみた。  雑誌記者から読経をしいられるので、和尚さんは隙をみて庫裡のほうへ逃げて行ってしまった。酔った二人は木魚と鐘とをやけにたたいて笑った。  ドタドタとけたたましい音をさせて、やがて二人は廊下から庫裡へ行ってしまった。あとで、六畳にいる若い友だちは笑った。 「文学者なんていうものは存外のんきな無邪気なものだねえ」  清三はこういうと、 「想像していたのとはまるで違うね」  若い人々には、かねがねその名を聞いて想像していた文学者や雑誌記者がこうした子供らしい真似をしようとは思いもかけなかった。しかしこうしたことをする心持ちや生活は、かれらには十分にはわからぬながらもうらやましかった。  東京の客は一夜泊まって、翌日の正午、降りしきる雨をついて乗合馬車で久喜に向かって立った。袴をぬらして清三が学校から帰って来て、火種をもらおうと庫裡にはいってみると、主僧はさびしそうにぽつねんとひとり机にすわって書を見ていた。  剖葦はしきりに鳴いた。梅雨の中にも、時々晴れた日があって、あざやかな碧の空が鼠色の雲のうちから見えることもある。美しい光線がみなぎるように裏の林にさしわたると、緑葉が蘇えったように新しい色彩をあたりに見せる。芭蕉の広葉は風にふるえて、山門の壁のところには蜥蜴が日に光ってちょろちょろしている。前の棟割長屋では、垣から垣へ物干竿をつらねて、汚ない襤褸をならべて干した。栗の花は多く地に落ちて、泥にまみれて、汚なく人に踏まれている。蚊はもう夕暮れには軒に音を立てるほど集まって来て、夜は蚊遣り火の煙が家々からなびいた。清三は一円五十銭で、一人寝の綿蚊帳を買って来て、机をその中に入れて、ランプを台の上にのせて外に出して、その中で毎夜遅くまで書を読んだ。自分のまわりには──日ごとによせられる友だちの手紙には、一つとして将来の学問の準備について言って来ないものはない。高等師範に志しているものは親友の郁治を始めとして、三四人はあるし、小島は高等学校の入学試験をうけるのでこのごろは忙しく暮らしていると言って来るし、北川は士官学校にはいる準備のために九月には東京に出ると言っているし、誰とて遊んでいるものはなかった。清三もこれに励まされて、いろいろな書を読んだ。主僧に頼んで、英語を教えてもらったり、その書庫の中から論理学や哲学史などを借りたりした。机のまわりには、文芸倶楽部や明星や太陽があるかと思うと、学校教授法や通俗心理学や新地理学や、代数幾何の書などが置かれてある。主僧が早稲田に通うころ読んだというシェークスピアのロメオやテニソンのエノックアーデンなどもその中に交っていた。  若いあこがれ心は果てしがなかった。瞬間ごとによく変わった。明星をよむと、渋谷の詩人の境遇を思い、文芸倶楽部をよむと、長い小説を巻頭に載せる大家を思い、友人の手紙を見ると、しかるべき官立学校に入学の計画がしてみたくなる。時には、主僧にプラトンの「アイデア」を質問してプラトニックラヴなどということを考えてみることもあった。「行田文学」にやる新体詩も、その狭い暑苦しい蚊帳の中で、外のランプの光が蒼い影をすかしてチラチラする机の上で書いた。  学校の校長は、検定試験を受けることをつねにすすめた。「資格さえあれば、月給もまだ上げてあげることができる。どうです、林さん、わけがないから、やっておきなさい!」と言った。  このごろでは二週間ぐらい行田に帰らずにいることがある。母が待っているだろうとは思うが、懐が冷やかであったり、二里半を歩いて行くのがたいぎであったり、それよりも少しでも勉強しようと思ったりして、つねに寺の本堂の一間に土曜日曜を過ごした。しかしこれといって、勉強らしい勉強をもしなかった。土曜日には小畑が熊谷からきて泊まって行った。郁治が三日ぐらい続けて泊まって行くこともあった。それに、荻生君は毎日のようにやって来た。学校から帰ってみると、あっちこっちを明けっ放して顔の上に団扇をのせて、いい心地をして昼寝をしていることもある。かれは郵便局の閑な時をねらって、同僚にあとを頼んで、なんぞといっては、よく寺に遊びに来た。  若い二人はよく菓子を買って来て、茶をいれて飲んだ。くず餅、あんころ、すあまなどが好物で、月給のおりた時には、清三はきっと郵便局に寄って、荻生君を誘って、角の菓子屋で餅菓子を買って来る。三度に一度は、「和尚さん、菓子はいかが」と庫裡に主僧を呼びに来る。清三の財布に金のない時には荻生君が出す。荻生君にもない時には、「和尚さんはなはだすみませんが、二三日のうちにおかえししますから、五十銭ほど貸してください」などと言って清三が借りる。不在に主僧がその室に行ってみると、竹の皮に食い余しの餅菓子が二つ三つ残って、それにいっぱいに蟻がたかっていることなどもあった。  梅雨の間は二里の泥濘の路が辛かった。風のある日には吹きさらしの平野のならい、糸のような雨が下から上に降って、新調の夏羽織も袴もしどろにぬれた。のちにはたいてい時間を計って行って、十銭に負けてもらって乗合馬車に乗った。ある日、その女も同じ馬車に乗って発戸河岸の角まで行った。その女というのは、一月ほど前から、町の出はずれの四辻でよく出会った女で、やはり小学校に勤める女教員らしかった。廂髪に菫色の袴をはいて海老茶のメリンスの風呂敷包みをかかえていた。その四辻には庚申塚が立っていた。この間郁治といっしょに弥勒に行く時にも例のごとくその女に会った。 「どうしてああいう素振りをするのか僕にはわからんねえ」と清三が笑いながら言うと、「しっかりしなくっちゃいかんよ、君」と郁治は声をあげて笑った。その時、どこに勤めるのだろうという評判をしたが、馬車にいっしょに乗り合わせて、発戸にある井泉村の小学校に勤める人だということがわかった。色の白い鼻のたかい十九ぐらいの女であった。  雨の盛んに降る時には、学校の宿直室に泊まることもあった。学校に出てから、もう三月にもなるのでだいぶ教師なれがして、郡視学に参観されても赤い顔をするような初心なところもとれ、年長の生徒にばかにされるようなこともなくなった。行田や熊谷の小学校には、校長と教員との間にずいぶんはげしい暗闘があるとかねて聞いていたが、弥勒のような田舎の学校には、そうしたむずかしいこともなかった。師範出の杉田というのがいやにいばるのが癪にさわるが、自分は彼奴等のように校長になるのを唯一の目的に一生小学校に勤めている人間とは種類が違うのだと思うと、べつにヤキモキする必要もなかった。校長もどっちかといえば、気が小さく神経過敏に過ぎるのがいやだが、しかしがいして温良な君子で、わる気というようなところは少しもなかった。関さんは例の通りの好人物、大島さんは話し好きの合い口──清三にとってこの小学校はあまりいごこちの悪いほうではなかった。  清三は一人でよくオルガンをひいた。型の小さい安いオルガンで、音もそうたいしてよくはなかったが、みずから好奇に歌などを作って、覚束ない音楽の知識で、譜を合わせてみたりなんかする。藤村詩集にある「海辺の曲」という譜のついた歌はよく調子に乗った。それから若菜集の中の好きな句を選んで譜をつけてひいてもみた。梅雨の降りしきる夕暮れの田舎道、小さなしんとした学校の窓から、そうしたさまざまの歌がたえず聞こえたが、しかし耳を傾けて行く旅客もなかった。  清三の教える室の窓からは、羽生から大越に通う街道が見えた。雨にぬれて汚ない布を四面に垂れた乗合馬車がおりおり喇叭を鳴らしてガラガラと通る。田舎娘が赤い蹴出しを出して、メリンスの帯の後ろ姿を見せて番傘をさして通って行く。晴れた日には、番台を頭の上にのせて太鼓をたたいて行くあめ屋、夫婦づれで編笠をかぶって脚絆をつけて歩いて行くホウカイ節、七色の護謨風船を飛ばして売って歩く爺、時には美しく着飾った近所の豪家の娘なども通った。県庁の役人が車を五六台並べて通って行った時には、先生も生徒もみんな授業をよそにして、その威勢のいいのにみとれていた。  清三の父親は、どうかすると、商売のつごうで、この近所まで来ることがある。縞の単衣に古びた透綾の夏羽織を着て、なかばはげた頭には帽子もかむらず、小使部屋からこっそりはいってきて、「清三はいましたか」と聞いた。初めはさすがにこうした父親を同僚に見られるのを恥ずかしく思ったが、のちにはなれて、それほどいやとも思わなくなった。近所に用事が残っているというので、清三は寺に帰るのをやめて、親子いっしょに煎餅蒲団にくるまって宿直室に寝ることなどもあった。  その時はきっと二人して手拭いを下げて前の洗湯に行く。小川屋から例の娘が弁当をこしらえて持って来る。食事がすむと、親子は友だちのように睦まじく話した。家の困る話なども出た。ありもせぬ財布から五十銭借りられて行くことなどもある。  七月にはいっても雨は続いて降った。晴れ間には日がかっと照って、鼠色の雲の絶え間から碧の空が見える。畑には里芋の葉が大きくなり、玉蜀黍の広葉がガサガサと風になびいた。熊谷の小島は一高の入学試験を受けに東京に出かけたが、時々絵葉書で状況を報じた。英語がむずかしかったことなどをも知らせて来た。郵便脚夫は毎日雨にぬれて山門から本堂にやって来る。若い心にはどのようなことでもおもしろい種になるので、あっちこっちから葉書や手紙が三四通は必ず届いた。喝!──と一字書いた端書があるかと思うと、蕎麦屋で酒を飲んで席上で書いた熊谷の友だちの連名の手紙などもある。石川からは、相変わらずの明星攻撃、文壇照魔鏡という渋谷の詩人夫妻の私行をあばいた冊子をわざと送り届けてよこした。中にも郁治から来たのが一番多かった。恋の悩みは片時もかれをして心を静かならしめることができなかった。郁治はある時は希望に輝き、ある時は絶望にもだえ、ある時は自己の心の影を追って、こうも思いああも思った。清三の心もそれにつれて動揺せざるを得なかった。自己の失恋の苦痛を包むためには、友の恋に対する同情の文句がおのずから誇大的にならざるを得なかった。──独りもだゆるの悲哀は美しきかな、君が思ひに泣かぬことはあらじ──わざと和文調に書いて、末に、「この子もと罪のきづなのわなは知らず迷うて来しを捕はれの鳩」という歌を書きなどした。浦和の学校にいる美穂子の写真が机の抽斗しの奥にしまってあった。雪子といま一人きよ子という学校友だちと三人して撮した手札形で、美穂子は腰かけて花を持っていた。それを雪子のアルバムからもらおうとした時、雪子は、「それはいけませんよ。変なふうに写っているんですもの」と言って容易にそれをくれると言わなかった。雪子は被皮を着て、物に驚いたような頓狂な顔をしていた。それに引きかえて、美穂子は明るい眼と眉とをはっきりと見せて、愛嬌のある微笑を口元にたたえていた。清三は読書につかれた時など、おりおりそれを出して見る。雪子と美穂子とをくらべてみることもある。このごろでは雪子のことを考えることも多くなった。その時はきっと「なぜああしらじらしい、とりすましたふうをしているんだろう。いま少し打ち解けてみせてもよさそうなものだ」と思う。郁治の手紙は小さい文箱にしまっておいた。  前の土曜日には、久しぶりで行田に帰った。小畑が熊谷からやって来るという便があったが、運わるく日曜が激しい吹き降りなので、郁治と二人樋から雨滴れが滝のように落ちる暗い窓の下で暮らした。  次の土曜日には、羽生の小学校に朝から講習会があった。校長と大島と関と清三と四人して出かけることになる。大きな講堂には、近在の小学校の校長やら訓導やらが大勢集まって、浦和の師範から来た肥った赤いネクタイの教授が、児童心理学の初歩の講演をしたり、尋常一年生の実地教授をしてみせたりした。教員たちは数列に並んで鳴りを静めて謹聴している。志多見という所の校長は県の教育界でも有名な老教員だが、銀のような白い髯をなでながら、切口上で、義務とでも思っているような質問をした。肥った教授は顔に微笑をたたえて、一々ていねいにその質問に答える。十一時近く、それがすむと、今度は郁治の父親や水谷というむずかしいので評判な郡視学が、教授法についての意見やら、教員の心得についての演説やらをした。梅雨は二三日前からあがって、暑い日影はキラキラと校庭に照りつけた。扇の音がパタパタとそこにも、ここにも聞こえる。女教員の白地に菫色の袴が眼にたって、額には汗が見えた。成願寺の森の中の蘆荻はもう人の肩を没するほどに高くなって、剖葦が時を得顔にかしましく鳴く。  講習会の終わったのはもう十二時に近かった。詰襟の服を着けた、白縞の袴に透綾の羽織を着たさまざまの教員連が、校庭から門の方へぞろぞろ出て行く。校庭には有志の寄付した標本用の樹木や草花がその名と寄付者の名とを記した札をつけられて疎らに植えられてある。石榴の花が火の燃えるように赤く咲いているのが誰の眼にもついた。木には黄楊、椎、檜、花には石竹、朝顔、遊蝶花、萩、女郎花などがあった。寺の林には蝉が鳴いた。 「湯屋で、一日遊ぶようなところができたって言うじゃありませんか、林さん、行ってみましたか」校門を出る時、校長はこう言った。 「そうですねえ、広告があっちこっちに張ってありましたねえ、何か浪花節があるって言うじゃありませんか」  大島さんも言った。  上町の鶴の湯にそういう催しがあるのを清三も聞いて知っていた。夏の間、二階を明けっ放して、一日湯にはいったり昼寝でもしたりして遊んで行かれるようにしてある。氷も菓子も麦酒も饂飩も売る。ちょっとした昼飯ぐらいは食わせる準備もできている。浪花節も昼一度夜一度あるという。この二三日梅雨があがって暑くなったので非常に客があると聞いた。主僧は昨日出かけて半日遊んで来て、 「どうせ、田舎のことだから、ろくなことはできはしないけれど、ちょっと遊びに行くにはいい。貞公、うまい金儲けを考えたもんだ」と前の地主に話していた。 「どうです、林さんに一つ案内してもらおうじゃありませんか。ちょうど昼時分で、腹も空いている……」  校長はこう言って同僚を誘った。みんな賛成した。  上町の鶴の湯はにぎやかであった。赤いメリンスの帯をしめた田舎娘が出たりはいったりした。あっちこっちから贈ったビラがいっぱいに下げてあって、貞さんへという大きな字がそこにもここにも見えた。氷見世には客が七八人もいて、この家のかみさんが襷をかけて、汗をだらだら流して、せっせと氷をかいている。  先生たちは二階に通った。幸いにして客はまだ多くなかった。近在の婆さんづれが一組、温泉にでも来たつもりで、ゆもじ一つになって、別の室にごろごろしていた。八畳の広間には、まんなかに浪花節を語る高座ができていて、そこにも紙や布のビラがヒラヒラなびいた。室は風通しがよかった。奥の四畳半の畳は汚ないが、青田が見通しになっているので、四人はそこに陣取った。  一風呂はいって、汗を流して来るころには、午飯の支度がもうできていた。赤い襷をかけた家の娘が茶湯台を運んで来た。肴はナマリブシの固い煮付けと胡瓜もみと鶏卵にささげの汁とであった。しかし人々にとっては、これでも結構なご馳走であった。校長は洋服の上衣もチョッキもネクタイもすっかり取って汚れ目の見える肌襦袢一つになって、さも心地のよさそうな様子であぐらをかいていたが、 「みんな平らに、あぐらをかきたまえ。関君、どうです、服で窮屈にしていてはしかたがない」こう言って笑って、「私が一つビールを奢りましょう。たまには愉快に話すのもようござんすから」  やがてビールが命ぜられる。 「姐さん、氷をブッカキにして持って来てくださいな」  娘はかしこまって下りて行く。校長が関さんのコップにつごうとすると、かれは手でコップの蓋をした。 「一杯飲みたまえ、一杯ぐらい飲んだってどうもなりやしないから」 「いいえ。もうほんとうにたくさんです。酒を飲むと、あとが苦しくって……」  とコップをわきにやる。 「関君はほんとうにだめですよ」  と、言って、大島さんはなみなみとついだ自分の麦酒を一呼吸に飲む。 「弱卒は困りますな」  こう言って校長は自分のになみなみと注いだ。泡が山をなして溢れかけるので、あわてて口をつけて吸った。娘がそこにブッカキを丼に入れて持って来た。みんなが一つずつ手でつまんで麦酒の中に入れる。酒を飲まぬ関さんも大きいのを一つ取って、口の中にほおばる。やがて校長の顔も大島さんの顔もみごとに赤くなる。 「講習会なんてだめなものですな」  校長の気焔がそろそろ出始めた。  大島さんがこれに相槌をうった。各小学校の評判や年功加俸の話などが出る。郡視学の融通のきかない失策談が一座を笑わせた。けれど清三にとっては、これらの物語は耳にも心にも遠かった。年齢が違うからとはいえ、こうした境遇にこうして安んじている人々の気が知れなかった。かれは将来の希望にのみ生きている快活な友だちと、これらの人たちとの間に横たわっている大きな溝を考えてみた。 「まごまごしていれば、自分もこうなってしまうんだ!」  この考えはすでにいく度となくかれの頭を悩ました。これを考えると、いつも胸が痛くなる。いてもたってもいられないような気がする。小さい家庭の係累などのためにこの若い燃ゆる心を犠牲にするには忍びないと思う。この間も郁治と論じた。「えらい人はえらくなるがいい。世の中には百姓もあれば、郵便脚夫もある。巡査もあれば下駄の歯入れ屋もある。えらくならんから生きていられないということはない。人生はわれわれの考えているようなせっぱつまったものではない。もっと楽に平和に渡って行かれるものだ。うそと思うなら、世の中を見たまえ。世の中を……」こう言って清三は友の巧名心を駁した。けれどその言葉の陰にはまるでこれと正反対の心がかくれていた。それだけかれは激していた。かれは泣きたかった。  それを今思い出した。「自分も世の中の多くの人のように、暢気なことを言って暮らして行くようになるのか」と思って、校長の平凡な赤い顔を見た。  つい麦酒を五六杯あおった。  青い田の中を蝙蝠傘をさした人が通る、それは町の裏通りで、そこには路にそって里川が流れ、川楊がこんもり茂っている。森には蝉の鳴き声が喧しく聞こえた。  一時間たつと、三人はみんな倒れてしまった。校長は肱枕をして足を縮めて鼾をかいているし、大島さんは仰向けに胸を露わに足をのばしているし、清三は赤い顔をして頭を畳につけていた。独り関さんは退屈そうに、次の広間に行ってビラなどを見た。  三時過ぎに、清三が寺に帰って来ると、荻生君は風通しのよい本堂の板敷きに心地よさそうに昼寝をしている。  午後の日影に剖葦がしきりに鳴いた。 十六  暑いある日の午後、白絣に袴という清三の学校帰りの姿が羽生の庇の長い町に見えた。今日月給が全部おりて、懐の財布が重かった。いま少し前、郵便局に寄って、荻生君に借りた五十銭を返し、途中で買って来たくず餅を出して、二人で茶を飲み飲み楽しそうに食った。「どうも、これも長々ありがとう」と言って、二月ほど前から借りていた鳥打ち帽を取って返した。 「まだいいよ、君」 「でも、今日夏帽子を買うから」 「買うまでかぶっていたまえ、おかしいよ」 「なアに、すぐそこで買うから」 「足元を見られて高く売りつけられるよ」 「なアに大丈夫だ」  で、日のカンカン照りつける町の通りを清三は帽子もかぶらずに歩いた。通りに硝子戸をあけ放した西洋雑貨商があって、毛糸や麦稈帽子が並べてある。  清三は麦稈帽子をいくつか出させて見せてもらった。十六というのがちょうどかれの頭に合った。一円九十銭というのを六十銭に負けさせて買った。町の通りに新しい麦稈帽子がきわだって日にかがやいた。 十七  美穂子は暑中休暇で帰って来た。  その家へ行く路には夏草が深く茂っていた。里川の水は碧くみなぎって流れている。蘆の緑葉に日影がさした。  家の入り口には、肌襦袢や腰巻や浴衣が物干竿に干しつらねてある。郁治は清三とつれだって行った。  美穂子は白絣を着ていた。帯は白茶と鶯茶の腹合わせをしていた。顔は少し肥えて、頬のあたりがふっくりと肉づいた。髪は例の庇髪に結って、白いリボンがよく似合った。  ビールの空罎に入れられた麦湯が古い井字形の井戸に細い綱でつるして冷やされてあった。井戸側には大きな葉の草がゴチャゴチャ生えている。流しには菖蒲、萱などが一面にしげって、釣瓶の水をこぼすたびにしぶきがそれにかかる。二三日前までは老母が夕べごとにそこに出て、米かし桶の白い水を流すのがつねであったが、娘が帰って来てからは、その色白の顔がいつもはっきりと薄暮の空気に見えるようになった。そのころには奥で父親の謡がいつも聞こえた。  美穂子は細い綱をスルスルとたぐった。ビールの罎がやがて手に来る。結わえた綱を解いて、それを勝手へ持って来て、土瓶に移して、コップ三つと、砂糖を入れた硝子器とを盆にのせて、兄の話している座敷へ持って行く。 「なんにも、ご馳走はございませんけど、……これは一日井戸につけておいたんですから、お砂糖でも入れて召し上がって……」  麦湯は氷のように冷えていた。郁治も清三も二三杯お代わりをして飲んだ。美穂子は兄のそばにすわって、遠慮なしにいろいろな話をした。 「寄宿生活はずいぶんたいへんでしょう」  清三はこうきくと、 「えゝえゝ、ずいぶんにぎやかですよ。ほかの女学校などと違って、監督がむずかしいのですけど、それでもやっぱり……」 「女学校の寄宿舎なんて、それはたいへんなものさ。話で聞いてもずいぶん愛想がつきるよ」と北川は笑って、「やっぱり、男の寄宿とそうたいして違いはないんだね」 「まさか兄さん」  と美穂子は笑った。  その室には西日がさした。松の影が庭から縁側に移った。垣の外を荷車の通る音がする。  この春と同じように、二人の友だちは家への帰途を黙って歩いた。言いたいことは郁治の胸にも清三の胸にも山ほどある。しかし二人ともそれに触れようとしなかった。城址の錆びた沼に赤い夕日がさして、ヤンマが蘆の梢に一疋、二疋、三疋までとまっている。子児が長いもち竿を持って、田の中に腰までつかって、おつるみの蜻蛉をさしていた。  石橋近くに来た時、 「今年は夏休みをどうする……どこかへ行くかね?」  郁治は突然こうたずねた。 「まだ、考えていないけれど、ことによると、日光か妙義に行こうと思うんだ。君は?」 「僕はそんな余裕はない。この夏は英語をいま少し勉強しなくっちゃならんから」  美穂子がこの夏休暇をここに過ごすということがなんの理由もなしに清三の胸に浮かんで、妬ましいような辛い心地がした。  今夜は父母の家に寝て、翌朝早く帰ろうと思った。現に、郁治にもそう言った。けれど路の角で郁治と別れると、急に、ここにいるのがたまらなくいやになって、足元から鳥の立つように母親を驚かして帰途についた。明朝郁治がやって来て驚くであろうという一種復仇の快感と、束縛せられている力からまぬがれ得たという念と、たとえがたいさびしい心細い感とを抱いて、かれはその長い夕暮れの街道をたどった。  寺に帰った時は日が暮れてからもう一時間ぐらいたった。和尚さんは庫裡の六畳の長火鉢のあるところで酒を飲んでいたが、つねに似ず元気で、「まア一杯おやんなさい」と盃をさして、冷やっこをべつに皿に分けて取ってくれた。今まで聞かなかった主僧の幼いころの話が出る。九歳の時、この寺の小僧によこされて、それから七八年の辛抱、その艱難は一通りでなかった。玄関のそばの二畳にいて、この成願寺の住職になることをこのうえもない希望のように思っていた。今でも成願寺住職実円と書いた落書きがよく見ると残っている。主僧は酔って「衆寮の壁」というついこのごろ作った新体詩を歌って聞かせた。 「どうです、君も何か一つ書いてみませんか」  こう言って和尚さんは勧めた。  清三の胸はこうした言葉にも動かされるほど今宵は感激していた。何か一つ書いてみよう。かれはエルテルを書いてその実際の苦痛を忘れたゲエテのことなどを思い出した。自分には才能という才能もない。学問という学問もない。友だちのように順序正しく修業をする境遇にもいない。人なみにしていては、とてもだめである。かれは感情を披瀝する詩人としてよりほかに光明を認め得るものはないと思った。 「一つ運だめしをやろう。この暑中休暇に全力をあげてみよう。自分の才能を試みてみよう」  かれは和尚さんから、種々の詩集や小説を借りることにした。翌日学校から帰って来ると、和尚さんは東京の文壇に顔を出しているころ集めた本をなにかと持って来て貸してくれた。国民小説という赤い表紙の四六版の本の中には、「地震」と「うき世の波」と「悪因縁」という三編がある。それがおもしろいから読めと和尚さんは言った。「むさし野」という本もそのうちにあった。かれは「むさし野」に読みふけった。  七月はしだいに終わりに近づいた。暑さは日に日に加わった。久しく会わなかった発戸の小学校の女教員に例の庚申塚の角でまた二三度邂逅した。白地の単衣に白のリボン、涼しそうな装をして、微笑を傾けて通って行った。その微笑の意味が清三にはどうしてもわからなかった。学校では暑中休暇を誰もみんな待ちわたっている。暑い夏を葡萄棚の下に寝て暮らそうという人もある。浦和にある講習会へ出かけて、検定の資格を得ようとしているものもある。旅に出ようとしているものもある。東京に用足しに行こうと企てているものもある、月の初めから正午ぎりになっていたが、前期の日課点を調べるので、教員どもは一時間二時間を教室に残った。それに用のないものも、午から帰ると途中が暑いので、日陰のできるころまで、オルガンを鳴らしたり、雑談にふけったり、宿直室へ行って昼寝をしたりした。清三は日課点の調べにあきて、風呂敷包みの中から「むさし野」を出して清新な趣味に渇した人のように熱心に読んだ。「忘れ得ぬ人々」に書いた作者の感慨、武蔵野の郊外をザッと降って通る林の時雨、水車の月に光る橋のほとりに下宿した若い教員、それらはすべて自分の感じによく似ていた。かれはおりおり本を伏せて、頭脳を流れて来る感興にふけらざるを得なかった。  三十日の学課は一時間で終わった。生徒を集めた卓の前で、 「皆さんは暑中休暇を有益に使わなければなりません。あまりに遊び過ごすと、せっかくこれまで教わったことをみんな忘れてしまいますから、毎日一度ずつは、本を出してお復習をなさい。それから父さん母さんに世話をやかしてはいけません。桃や梨や西瓜などをたくさん食べてはいけません。暑いところを遊んで来て、そういうものをたくさんに食べますと、お腹をこわすばかりではありません。恐ろしい病気にかかって、夏休みがすんで、学校に来たくッても来られないようになります。よく遊び、よく学び、よく勉めよ。本にもそう書いてありましょう。九月の初めに、ここで先生といっしょになる時には、誰が一番先生の言うことをよく守ったか、それを先生は今から見ております」こう言って、清三は生徒に別れの礼をさせた。お下げに結った女生徒と鼻を垂らした男生徒とがぞろぞろと下駄箱のほうに先を争って出て行った、いずれの教室にも同じような言葉がくり返される。女教員は菫色の袴をはっきりと廊下に見せて、一二、一二をやりながら、そこまで来て解散した。校庭には九連草の赤いのが日に照らされて咲いていた。紫陽花の花もあった。 十八  暑中休暇はいたずらに過ぎた。自己の才能に対する新しい試みもみごとに失敗した。思いは燃えても筆はこれに伴わなかった。五日ののちにはかれは断念して筆を捨てた。  寺にいてもおもしろくない。行田に帰っても、狭い家は暑く不愉快である。それに、美穂子が帰っているだけそれだけ、そこにいるのが苦痛であった。かれは一人で赤城から妙義に遊んだ。  旅から帰って来たのは八月の末であった。その時、美穂子は、すでに浦和の寄宿舎に帰っていた。行田から羽生、羽生から弥勒という平凡な生活はまた始まった。 十九  学校には新しいオルガンが一台購ってあった。初めての日はちょうど日曜日で、校長も大島さんも来なかった。その夜は宿直室にさびしく寝た。盂蘭盆を過ぎたあとの夜は美しく晴れて、天の川があきらかに空に横たわっている。垣にはスイッチョが鳴いて、村の子供らのそれをさがす提灯がそこにもここにも見える。日中は暑いが、夜は露が草の葉に置いて、人の話声がどこからともなく聞こえた。  初めの十日間は授業は八時から十時、次の十日間は十二時まで、それから間もなく午後二時の退校となる。もうそのころは秋の気はあたりに満ちて、雨の降る日など単衣一枚では冷やかに感じられた。物思うかれの身に月日は早くたった。  高等学校の入学試験を受けに行った小島は第四に合格して、月の初めに金沢へ行ったという噂を聞いたが、得意の文句を並べた絵葉書はやがてそこから届いた。その地にある兼六公園の写真はかれの好奇心をひくに十分であった。友の成功を祝した手紙を書く時、かれは机に打っ伏して自己の不運に泣かざるを得なかった。  本堂の机の上には乱れ髪、落梅集、むさし野、和尚さんが早稲田に通うころよんだというエノックアーデンの薄い本がのせられてあった。かれは、「響りんりん」という故郷を去るの歌をつねに好んで吟誦した。その調子には言うに言われぬ悲哀がこもった。庫裡の玄関の前に、春は芍薬の咲く小さい花壇があったが、そこにそのころ秋海棠の絵のようにかすかに紅を見せている。中庭の萩は今を盛りに咲き乱れた。  夜ごとの月はしだいにあきらかになった。墓地と畠とを縁取った榛の並木が黒く空に見えて、大きな芋の葉にはキラキラと露が光った。  夕飯のあとに、清三は墓地を歩いてみることなどもあった。新墓の垣に紅白の木槿が咲いて、あかい小さい蜻蛉がたくさん集まって飛んでいる。卒塔婆の新しいのに、和尚さんが例の禿筆をとったのがあちこちに立っている。土饅頭の上に茶碗が水を満たして置いてあって、線香のともったあとの白い灰がありありと残って見えた。花立てにはみそ萩や女郎花などが供えられてある。古い墓も無縁の墓もかなり多かった。一隅には行き倒れや乞食の死んだのを埋葬したところもあった。清三は時には好奇に碑の文などを読んでみることがある。仙台で生まれて、維新の時には国事に奔走して、明治になってからここに来て、病院を建てて、土地の者に慈父のように思われたという人の石碑もあった。製糸工場の最初の経営者の墓は、花崗石の立派なもので、寄付金をした有志の姓名は、金文字で、高い墓石に刻りつけられてあった。それから日清の役にこの近在の村から出征して、旅順で戦死した一等卒の墓もあった。  この墓地とはまったく離れて、裏の林の奥に、丸い墓石が数多く並んでいる。これは歴代の寺の住職の墓である。杉の古樹の陰に笹やら楢やらが茂って、土はつねにじめじめとしていた。晴れた日には、夕方の光線が斜めに林にさし透って、向こうに広い野の空がそれとのぞかれた。雨の日には、梢から雨滴れがボタボタ落ちて、苔蘚の生えた坊主の頭顱のような墓石は泣くように見られた。ここの和尚さんもやがてはこの中にはいるのだなどと清三は考えた。肥った背の高いかみさんと田舎の寺に埋めておくのは惜しいような学問のある和尚さんとが、こうした淋しい平凡な生活を送っているのも、考えると不思議なような気がする。ふと、二三日前のことを思い出して、かれは微笑した。かれは日記に軽い調子で、 「夕方知らずして、主の坊が Wife とともに湯の小さきに親しみて(?)入れるを見て、突然のことに気の毒にもまた面喰はされつ」と書いたのを思い出した。湯殿は庫裡の入り口からはいられるようになっていた。和尚さんは二月ばかり前に、葬儀に用いる棒や板などのたくさん本堂にあったのを利用して大工を雇って来て、そこに格好の湯殿を作って、丸い風呂を据えて湯を立てた。煙が勝手から庫裡までなびいた。その日は火をもらおうと思って、茶の間へ行ってみると、そこには誰もいないで、笑い声が湯殿のほうから聞こえた。何気なしに行ってのぞいてみると、夫妻は小さい据風呂に目白の推し合いのようにしてはいっている。主僧は平気で笑って、「これはえらいところを見られましたな」と言った。清三にはこの滑稽な事実が、単に滑稽な事実ではなくって、それを通して主僧の生活の状態と夫妻の間柄とがいっそうあきらかに見えたような気がした。こうして無意味に──若い時の希望も何もかも捨ててしまって、ただ目の前の運命に服従して、さて年を過ごして、歴代の住職の墓の中に! 清三は自分の運命に引きくらべてみた。  時には一葉舟の詩人を学んで、「雲」の研究をしてみようなどと思いたつこともあった。信濃の高原に見るような複雑した雲の変化を見ることはできなかったが、ひろい関東平野を縁取った山々から起こる雲の色彩にはすぐれたものが多かった。裏に出ると、浅間の煙が正面に見えて、その左に妙義がちょっと頭を出していて、それから荒船の連山、北甘楽の連山、秩父の連山が波濤のように連なりわたった。両神山の古城址のような形をした肩のところに夕日は落ちて、いつもそこからいろいろな雲がわきあがった。右には赤城から日光連山が環をなして続いた。秩父の雲の明色の多いのに引きかえて、日光の雲は暗色が多かった、かれは青田を越えて、向こうの榛の並木のあたりまで行った。野良の仕事を終わって帰る百姓は、いつも白地の単衣を着て頭の髪を長くした成願寺の教員さんが手帳を持ちながらぶらぶら歩いて行くのに邂逅して挨拶をした。時には田の畔にたたずんで何かしきりに手帳に書きつけているのを見たこともあった。清三の手帳には日付と時刻とその時々に起こったさまざまの雲の状態と色彩と、時につれて変化して行く暮雲のさまとがだんだんくわしく記された。 「平原の雲の研究」という文をかれは書き始めた。  彼岸の中日には、その原稿がもうたいていできかかっていた。その日は本堂の如来様にはめずらしく蝋燭がともされて、和尚さんが朝のうち一時間ほど、紫の衣に錦襴の袈裟をかけて読経をした。庭の金木犀は風につれてなつかしい匂いを古びた寺の室に送る。参詣者は朝からやってきて、駒下駄の音がカラコロと長い鋪石道に聞こえた。墓に詣ずる人々は、まず本堂に上がって如来様を拝み、庫裡に回って、そこに出してある火鉢で線香に火をつけ、草の茂った井戸から水を汲んで、手桶を下げて墓へ行った。寺では二三日前から日傭取りを入れて掃除をしておいたので、墓地はきれいになっていて、いつものように樒の枯葉や犬の糞などが散らかっていなかった。参詣するもののうちには、町の豪家の美しい少女もいれば、島田に結った白粉のなかばはげた田舎娘もあった。清三はかみさんからもらった萩の餅に腹をふくらし、涼しい風に吹かれながら午睡をした。夢うつつの中にも鐘の音、駒下駄の音、人の語り合う声などがたえず聞こえた。  結願の日から雨がしとしとと降った。さびしい今年の秋が来た。  かれのこのごろの日記には、こんなことが書いてある。 十月一日。 去月二十八日より不着の新聞今日一度に来る。夜、善綱氏(小僧)に算術教ふ。エノックアーデン二十頁のところまで進む。このごろ日脚西に入り易く、四時過ぎに学校を出で、五時半に羽生に着けば日まったく暮る。夜、九時、湯に行く。秋の夜の御堂に友の涙冷やかなり。 二日。晴。 馴れし木犀の香やうやく衰へ、裏の栗林に百舌鳥なきしきる。今日より九時始業、米ずしより夜油を買ふ。 三日。 モロコシ畑の夕日に群れて飛ぶあきつ赤し、熊谷の小畑に手紙出す、夕波の絵かきそへて。 四日。晴。 久しく晴れたる空は夜に入りて雨となりぬ。裏の林に、秋雨の木の葉うつ音しづか。故郷の夢見る。 五日。土曜日。 雨をつきて行田に帰る。 六日。 一日を楽しき家庭に暮らす。小畑と小島に手紙出す。夜、細雨静かなり。 七日。 朝早く行く。稲、黄いろく色づき、野の朝の雨斜なり。夜は学校にとまる。 八日。 雨はげしく井戸端の柳の糸乱る。今宵も学校にとまる。 九日。 早く帰る。秋雨やうやく晴れて、夕方の雲風に動くこと早く夕日金色の色弱し。木犀の衰へたる香かすかに匂ふ。夜、新聞を見、行田への荷物包む。星かくれて、銀杏の実落つること繁し。栗の林に野分たちて、庫裡の奥庭に一葉ちるもさびしく、風の音にコホロギの声寒し。 十日。 朝、行田に蚊帳を送り、夕方着物を受け取る。小畑より久しぶりにて同情の手紙を得たり。曰く「この秋の君の心! 思へばありしことども思ひ偲ばる。『去年冬の、今年の春!』といふ君が言葉にも千万無量の感湧き出でて、心は遠く成願寺のあたり」云々。夜、星清くすんで南に低く飛ぶもの二つ、小畑に返事を書く。曰く、「愚痴はもうやめた。言ふまい、語るまい、一人にて泣き、一人にてもだえん。」  清三はこのごろの日記の去年の冬、今年の春にくらべて、いかにその調子が変わったかを考えざるを得なかった。去年の冬はまだ世の中はこうしたものだとは知らなかった。美しいはでやかな希望も前途に輝いていた。歌留多を取っても、ボールを投げてもおもしろかった。親しい友だちの胸に利己のさびしい影を認めるほど眼も心もさめておらなかった。卒業の喜び、初めて世に出ずる希望──その花やかな影はたちまち消えて、秋は来た、さびしい秋は来た。裏の林に熟み割れた栗のいがが見えて、晴れた夜は野分がそこからさびしく立った。長い廊下の縁は足の裏に冷やかに、本堂のそばの高い梧桐からは雨滴れが泣くように落ちた。 二十  男生徒女生徒打ち混ぜて三十名ばかり、田の間の細い路をぞろぞろと通る。学校を出る時は、「亀よ亀さんよ」をいっせいにうたってきたが、それにもあきて、今ではてんでに勝手な真似をして歩いた。何かべちゃべちゃしゃべっている女生徒もあれば、後ろをふり返って赤目をしてみせている男生徒もある。赤いマンマという花をつまんで列におくれるものもあれば、蜻蛉を追いかけて畑の中にはいって行くものもある。尋常二年級と三年級、九歳から十歳までのいたずら盛り、総じて無邪気に甘えるような挙動を、清三は自己の物思いの慰藉としてつねにかわいがったので、「先生──林先生」と生徒は顔を見てよくそのあとを追った。  学校から村を抜けて、発戸に出る。青縞を織る機の音がそこにもここにも聞こえる。色の白い若い先生をわざわざ窓から首を出して見る機織女もある。清三は袴を着けて麦稈帽子をかぶって先に立つと、関さんは例の詰襟の汚れた白い夏服を着て生徒に交って歩いた。女教師もその後ろからハンケチで汗を拭き拭きついてきた。秋はなかば過ぎてもまだ暑かった。発戸の村はずれの八幡宮に来ると、生徒はばらばらとかけ出してその裏の土手にはせのぼった。先に登ったものは、手をあげて高く叫んだ。ぞろぞろとついて登って行って手をあげているさまが、秋の晴れた日の空気をとおしてまばらな松の間から見えた。その松原からは利根川の広い流れが絵をひろげたように美しく見渡された。  弥勒の先生たちはよく生徒を運動にここへつれて来た。生徒が砂地の上で相撲をとったり、叢の中で阜斯を追ったり、汀へ行って浅瀬でぼちゃぼちゃしたりしている間を、先生たちは涼しい松原の陰で、気のおけない話をしたり、新刊の雑誌を読んだり、仰向けに草原の中に寝ころんだりした。平凡なる利根川の長い土手、その中でここ十町ばかりの間は、松原があって景色が眼覚めるばかり美しかった。ひょろ松もあれば小松もある。松の下は海辺にでも見るようなきれいな砂で、ところどころ小高い丘と丘との間には、青い草を下草にした絵のような松の影があった。夏はそこに色のこいなでしこが咲いた。白い帆がそのすぐ前を通って行った。  清三はここへ来ると、いつも生徒を相手にして遊んだ。鬼事の群れに交って、女の生徒につかまえられて、前掛けで眼かくしをさせられることもある。また生徒を集めていっしょになって唱歌をうたうことなどもあった。こうしている間はかれには不平も不安もなかった。自己の不運を嘆くという心も起こらなかった。無邪気な子供と同じ心になって遊ぶのがつねである。しかし今日はどうしてかそうした快活な心になれなかった。無邪気に遊び回る子供を見ても心が沈んだ。こうして幼い生徒にはかなき慰藉を求めている自分が情けない。かれは松の陰に腰をかけてようようとして流れ去る大河に眺めいった。  一日、学校の帰りを一人さびしく歩いた。空は晴れて、夕暮れの空気の影濃かに、野には薄の白い穂が風になびいた。ふと、路の角に来ると、大きな包みを背負って、古びた紺の脚絆に、埃で白くなった草鞋をはいて、さもつかれはてたというふうの旅人が、ひょっくり向こうの路から出て来て、「羽生の町へはまだよほどありますか」と問うた。 「もう、じきです、向こうに見える森がそうです」  旅人はかれと並んで歩きながら、なおいろいろなことをきいた。これから川越を通って八王子のほうへ行くのだという。なんでも遠いところから商売をしながらやって来たものらしい。そのことばには東北地方の訛があった。 「この近所に森という在郷がありますか」 「知りませんな」 「では高木というところは」 「聞いたようですけど……」  やはりよくは知らなかった。旅人は今夜は羽生の町の梅沢という旅店にとまるという。清三は町にはいるところで、旅店へ行く路を教えてやって、田圃の横路を右に別れた。見ていると、旅人はさながら疲れた鳥がねぐらを求めるように、てくてくと歩いて町へはいって行った。何故ともなく他郷という感が激しく胸をついて起こった。かれも旅人、われも同じく他郷の人! こう思うと、涙がホロホロと頬をつたって落ちた。 二十一  秋は日に日に深くなった。寺の境にひょろ長い榛の林があって、その向こうの野の黄いろく熟した稲には、夕日が一しきり明るくさした。鴻の巣に通う県道には、薄暮に近く、空車の通る音がガラガラといつも高く聞こえる。そのころ機動演習にやって来た歩兵の群れや砲車の列や騎馬の列がぞろぞろと通った。林の角に歩兵が散兵線を布いていると思うと、バリバリと小銃の音が凄まじく聞こえる。寺でも、庫裡と本堂に兵士が七八人も来て泊まった。裏の林には馬が二三十頭もつながれて、それに飲ませる水を入れた四斗桶がいくつとなく本堂の前の庭に並べられる。サアベルの音、靴の音、馬のいななく声、にわかにあたりは騒々しくなった。夜は町の豪家の門に何中隊本部と書いた寒冷紗の布が白く闇に見えて、士官や曹長が剣を鳴らして出たりはいったりした。  それが一日二日で通過してしまうと、町はしんとしてもとの静謐にかえった。清三は二三日前の土曜日に例のごとく行田に行ったが、帰って来て、日記に、「母はつとめて言はねど、父君のさてはなんとか働きたまはば、わが一家は平和ならましを。この思ひ、いつも帰行の時に思ひ浮かばざることなし」と書いた。怠けがちに日を送って、母親にのみ苦労をかける父親がかれにははがゆくってしかたがなかった。かれは病身でそして思いやりの深い母親に同情した。顳顬に即効紙をはって、夜更けまで賃仕事にいそしむ母親の繰り言を聞くと、いかなる犠牲も堪えなければならぬといつも思う。時には、父親に内所で、財布の底をはたいて小遣いを置いて来ることなどもある。それを父親は母親から引き出してつかった。  二三日前に帰った時にも、あっちこっちに一円二円と細かい不義理ができて困っているという話を母親から聞いた。 「行田文学」は四号で廃刊するという話があった、石川はせっかく始めたことゆえ、一二年は続けたいが、どうも費用がかさんで、印刷所に借金ができるようでも困るからという。郁治はどうせそんな片々たるものを出したって、要するに道楽に過ぎんのだからやめてしまうほうが結局いいしかただと賛成する。清三はせっかく四号までだしたのだから、いま少し熱心に会員を募ったり寄付をしてもらったりしたならば、続刊の計画がたつだろうと言ってみたがだめだった。日曜日には荻生君が熊谷から来るのを待ち受けて、いっしょに羽生へ帰って来た。荻生さんは心配のなさそうな顔をしておもしろい話をしながら歩いた。途中で、テバナをかんで見せた。それがいかにも巧みなので、清三は体をくずして笑った。清三は荻生さんの無邪気でのんきなのがうらやましかった。  朝霧の深い朝もあった。野は秋ようやく逝かんとしてまた暑きこと一二日、柿赤く、蜜柑青しと、日記に書いた日もあった。秋雨はしだいに冷やかに、漆のあかく色づいたのが裏の林に見えて、前の銀杏の実は葉とともにしきりに落ちた。掃いても掃いても黄いろい銀杏の葉は散って積もる。清三は幼いころ故郷の寺で、遊び仲間の子供たちといっしょに、風の吹いた朝を待ちつけて、銀杏の実を拾ったことを思い出した。それがまだ昨日のように思われる。そこに現に子供の群れの中に自分もいっしょになって銀杏を拾っているような気もする。月日がいつの間にかたって、こうして昔のことを考える身となったことが不思議にさえ思われた。このごろは学校でオルガンに新曲を合わせてみることに興味をもって、琴の六段や長唄の賤機などをやってみることがある。鉄幹の「残照」は変ロ調の4/4でよく調子に合った。遅くまでかかって熱心に唱歌の楽譜を浄写した。  月の初めに、俸給の一部をさいて、枕時計を買ったので、このごろは朝はきまって七時には眼がさめる。それに、時を刻むセコンドの音がたえず聞こえて、なんだかそれが伴侶のように思われる。一人で帰って来ても、時計が待っている。夜更けに目がさめてもチクタクやっている。物を思う心のリズムにも調子を合わせてくれるような気がする。かれは小畑にやる端書に枕時計の絵をかいて、「この時計をわが友ともわが妻とも思ひなしつつ、この秋を寺籠りするさびしの友を思へ」と言ってやった。学校からの帰途には、路傍の尾花に夕日が力弱くさして、蓼の花の白い小川に色ある雲がうつった。かれは独歩の「むさし野」の印象をさらに新しく胸に感ぜざるを得なかった。寺の前の不動堂の高い縁側には子傅の老婆がいつも三四人集って、手拍子をとって子守唄を歌っている。そのころ裏の林は夕日にかがやいて、その最後の余照は山門の裏の白壁の塀にあきらかに照った。  荻生さんはいつもやって来た。いっしょに町に出て、しるこを食うことなどもあった。「それは僕だってのんきにばかりしているわけではありませんさ。けれどいくら考えたってしかたがないですもの、成るようにしきゃならないんですもの」荻生さんは清三のつねに沈みがちなのを見て、こんなことを言った。荻生さんは清三のつねに悲しそうな顔をしているのを心配した。  後の月は明るかった。裏の林に野分の渡るのを聞きながら、庫裡の八畳の縁側に、和尚さんと酒を飲んだ。夜はもう寒かった。轡虫の声もかれがれに、寒そうにコオロギが鳴いていた。  秋は日に日に寒くなった。行田からは袷と足袋とを届けて来る。 二十二  小畑から来た手紙の一。 今日、ある人(しひて名を除く)から聞けば、君と加藤の妹との間には多少の意義があるとのことに候ふが、それはほんたうか如何、お知らせくだされたく候。 先日、加藤に会ひし時、それとなく聞きしに、そんなことは知らぬと申し候。けれどこれは兄が知らぬからとて、事実無根とは断言出来難しなど笑ひ申し候。君にも似合はぬ仕事かな。ある事はありてよし、なきことはなくてよし。一臂の力を借さぬでもないのに、なんとか返事ありたく候。 加藤の浮かれ加減はお話にもならず、手紙が浦和から来たとて、その一節を写してみてくれろといふ始末、存外熱くなりておれることと存じ候。 秋寒し、近況如何。  手紙の二。 お返事難有う。 そんなことをしていられるかどうか考えてみよとのご反問の手厳しさ。君の心はよくわかった。けれど、「あんなおしゃらくは嫌ひだ」は少しひどすぎたりと思ふ。あの背の高い後ろ姿のいいところが気に入る人もあるよ。またあの背の高いお嫌ひな人が君でなくってはならなかったらどうする。 「嫌ひだ」と言うたからとて、さうかほんたうに嫌ひだったのかと新事実を発見したほどに思ふやうな僕にては無之候。かう申せばまた誤解呼はりをするかもしれねど、簡単に誤解呼はりをする以上の事実があるのを僕は確かな人から聞いたの故だめに候。 この次の日曜には、行田からいま一息車を飛ばしてやって来たまへ。この間、白滝の君に会ったら、「林さん、お変りなくって?」と聞いていた。また例の蕎麦屋でビールでも飲んで語らうぢゃないか。小島からこの間便りがあった。このごろに杉山がまた東京の早稲田に出て行くさうだ。歌を難有う。思はんやさはいへそぞろむさし野に七里を北へ下野の山、七里を北といへば足利ではないか。君の故郷ぢゃないか。いつか聞いた君のフアストラヴの追憶ではないか。  手紙の三。 君の胸には何かがあるやうだ。少なくともこの間の返事で僕はさう解釈した。解釈したのが悪いと言はれてもこれもしかたがなしと存じ候。 加藤このごろ別号をつくりたりと申し居り候。未央生の号を書きていまだ君のあたりを驚かさず候ふや。未央と申せば、すでにご存じならん。未央は美穂に通ずるは言ふまでもなきことに候。「予にして加藤の二妹のいづれを取らんやといへば、むしろしげ子を。温順にして情に富めるしげ子を」をさなき教へ子を恋人にする小学教師のことなど思ひ出して微笑み申し候。また君の相変らぬ小さき矜持をも思ひ出し候。  手紙の四。 久しぶりで快談一日、昨年の冬ごろのことを思ひ出し候。 あの日は遅くなりしことと存じ候。君の心のなかばをばわれ解したりと言ひてもよかるべしと存じ候。恋──それのみがライフにあらず。真に然り、真に然り、君の苦衷察するにあまりあり。君のごとき志を抱いて、世に出でし最初の秋をかくさびしく暮らすを思へば、われらは不平など言ひてはをられぬはずに候。  手紙の五。(はがき) 運命一たび君を屈せしむ。なんぞ君の永久に屈することあらん。君の必ずふるって立つの時あるを信じて疑はず。   意気の子の一人さびしの夜の秋木犀の香りしめりがちなる  これらの手紙をそろえて机の上においた。そして清三は考えた。自分の書いてやった返事と、その返事の友の心にひき起こしたこととを細かに引きくらべて考えてみた。さらに自己のまことの心とその手紙の上にあらわれた状態とのいかに離れているかを思った。美穂子のことからひいて雪子しげ子のことを頭に浮かべた。表面にあらわれたことだけで世の中は簡単に解釈されていく。打ち明けて心の底を語らなければ、──いや心の底をくわしく語っても、他人はその真相を容易に解さない。親しい友だちでもそうである。かれは痛切に孤独を感じた。誰も知ってくれるもののない心の寂しさをひしと覚えた。凩が裏の林をドッと鳴らした。 二十三  天長節には学校で式があった。学務委員やら村長やら土地の有志者やら生徒の父兄やらがぞろぞろ来た。勅語の箱を卓の上に飾って、菊の花の白いのと黄いろいのとを瓶にさしてそのそばに置いた。女生徒の中にはメリンスの新しい晴れ衣を着て、海老茶色の袴をはいたのもちらほら見えた。紋付きを着た男の生徒もあった。オルガンの音につれて、「君が代」と「今日のよき日」をうたう声が講堂の破れた硝子をもれて聞こえた。それがすむと、先生たちが出口に立って紙に包んだ菓子を生徒に一人一人わけてやる。生徒はにこにこして、お時儀をしてそれを受け取った。ていねいに懐にしまうものもあれば、紙をあけて見るものもある。中には門のところでもうむしゃむしゃ食っている行儀のわるい子もあった。あとで教員連は村長や学務委員といっしょに広い講堂にテーブルを集めて、役場から持って来た白の晒布をその上に敷いて、人数だけの椅子をそのまわりに寄せた。餅菓子と煎餅とが菊の花瓶の間に並べられる。小使は大きな薬罐に茶を入れて持って来て、めいめいに配った茶碗についで回った。  大君のめでたい誕生日は、茶話会では収まらなかった。小川屋に行って、ビールでも飲もうという話は誰からともなく出た。やがて教員たちはぞろぞろと田圃の中の料理屋に出かける。一番あとから校長が行った。小川屋の娘はきれいに髪を結って、見違えるように美しい顔をして、有り合わせの玉子焼きか何かでお膳を運んだ。一人前五十銭の会費に、有志からの寄付が五六円あった。それでビールは景気よく抜かれる。村長と校長とは愉快そうに今年の豊作などを話していると、若い連中は若い連中で検定試験や講習会の話などをした。大島さんがコップにビールをつごうとすると、女教員は手で蓋をしてコップをわきにやった。「一杯ぐらい、女だって飲めなくては不自由ですな」と大島さんは元気に笑った。西日が暖かに縁側にさして、狭い庭には大輪の菊が白く黄いろく咲いていた。畑も田ももうたいてい収穫がすんで、向こうのまばらな森の陰からは枯草を燃やす煙がところどころにあがった。そばの街道を喇叭の音がして、例の大越がよいの乗合馬車が通った。  その夜は学校にとまった。翌日は午後から雨になった。黄いろく色づき始めた野の楢林から雨滴れがぽたぽた落ちる。寺に帰ってみると、障子がすっかりはりかえられて、室が明るくなっている。荻生さんが天長節の午後から来て、半日かかってせっせとはって行ったという。その友情に感激して、その後会った時に礼を言うと、「あまり黒くなっていたから……」と荻生さんはべつになんとも思っていない。「君は僕の留守に掃除はしてくれる、ご馳走は買っておいてくれる、障子ははりかえてくれる。まるで僕の細君みたようだね」と清三は笑った。和尚さんも、「荻生君はほんとうにこまめで親切でやさしい。女だと、それはいい細君になるんだッたが惜しいことをしました」こういってやっぱり笑った。  晴れた日には、農家の広場に唐箕が忙わしく回った。野からは刈り稲を満載した車がいく台となくやって来る。寒くならないうちに晩稲の収穫をすましてしまいたい、蕎麦も取ってしまいたい、麦も蒔いてしまいたい。百姓はこう思ってみな一生懸命に働いた。十月の末から十一月の初めにかけては、もう関東平野に特色の木枯がそろそろたち始めた。朝ごとの霜は藁葺の屋根を白くした。  寺の庫裡の入り口の広場にも小作米がだんだん持ち込まれる。豊年でもなんとか理屈をつけてはかりを負けてもらう算段に腐心するのが小作人の習いであった。それにいつも夕暮れの忙わしい時分を選んで馬に積んだり車に載せたりして運んで来た。和尚さんは入り口に出て挨拶して、まずさしで、俵から米を抜いて、それを明るい戸外に出して調べてみる。どうもこんな米ではしかたがないとか、あそこはこんな悪い米ができるはずがないがとかいろいろな苦情を持ち出すと、小作人は小作人で、それ相応な申しわけをして、どうやらこうやら押しつけて帰って行く。豆を作ったものは豆を持って来る。蕎麦をつくったものは蕎麦粉を納めに来る。「来年は一つりっぱにつくってみますから、どうか今年はこれで勘弁していただきたい。」誰もみんなそんなことを言った。 「どうも小作人などというものはしかたがないものですな」と和尚さんは清三に言った。  収穫がすむと、町も村もなんとなくにぎやかに豊かになった。料理屋に三味線の音が夜更けまで聞こえ、市日には呉服屋唐物屋の店に赤い蹴出しの娘をつれた百姓なども見えた。学校の宿直室に先生のとまっているのを知って、あんころ餅を重箱にいっぱい持って来てくれるのもあれば、鶏を一羽料理して持って来てくれるものもある。寺では夷講に新蕎麦をかみさんが手ずから打って、酒を一本つけてくれた。  木枯の吹き荒れた夜の朝は、楢や栗の葉が本堂の前のそこここに吹きためられている。銀杏の葉はすっかり落ちつくして、鐘楼の影がなんとなくさびしく見える。十一月の末には手水鉢に薄氷が張った。  行田の友だちも少なからず変わったのを清三はこのごろ発見した。石川は雑誌をやめてから、文学にだんだん遠ざかって、訪問しても病気で会われないこともある。噂では近ごろは料理屋に行って、女を相手に酒を飲むという。この前の土曜日に、清三は郁治と石川と沢田とに誘われて、このごろ興行している東京の役者の出る芝居に行ったが、友の調子もいちじるしくさばけて、春あたりはあえて言わなかった戯談などをも人の前で平気で言うようになった。郁治の調子もなんとなくくだけて見えた。清三ははしゃぐ友だちの群れの中で、さびしい心で黙って舞台を見守った。  二幕目が終わると、 「僕は帰るよ」  こう言ってかれは立ち上った。 「帰る?」  みんなは驚いて清三の顔を見た。戯談かと思ったが、その顔には笑いの影は認められなかった。 「どうかしたのか」  郁治はこうたずねた。 「うむ、少し気分が悪いから」  友だちはそこそこに帰って行く清三の後ろ姿を怪訝そうに見送った。後ろで石川の笑う声がした。清三は不愉快な気がした。戸外に出るとほっとした。  それでも郁治とは往来したが、もう以前のようではなかった。  一夜、清三は石川に手紙を書いた。初めはまじめに書いてみたが、あまり余裕がないのを自分で感じて、わざと律語に書き直してみた。 意気を血を、叫ぶ声先づ消えて、 さてはまた、野に霜結んで枯るるごと、 卿等の声はまた立たず。 何んぞや一婦の痴に酔ひて、 俗の香巷に狂ふ。 あゝ止みなんか、また前日の意気なきや。 終に止みなんか、卿等の痴態!  さて最後に咄! という字を、一字書いて、封筒に入れてみたが、これでは友に警告するのになんだかはなはだふまじめになるような気がする。いろいろ考えたすえ、「こんなことはつまらぬ、言ってやったってしかたがない」と思って破って捨てた。  初冬の暖かい日はしだいに少なくなって、野には寒い寒い西風が吹き立った。日向の学校の硝子にこの間まで蠅がぶんぶん飛んでいたが、それももう見えなくなった。田の刈ったあとの氷が午後まで残っていることもある。黄いろく紅く色づいた楢や榛や栗の林も連日の西風にその葉ががらがらと散って、里の子供が野の中で、それを集めて焚火などをしているのをよく見かける。大越街道を羽生の町へはいろうとするあたりからは、日光の山々を盟主にした野州の連山がことにはっきりと手にとるように見えるが、かれはいつもそこに来ると足をたたずめて立ちつくした。かれの故郷なる足利町は、その波濤のように起伏した皺の多い山の麓にあった。一日、かれはその故郷の山にすでに雪の白く来たのを見た。  和尚さんも長い夜を退屈がって、よく本堂にやって来て話した。夜など茶をいれましたからと小僧を迎えによこすこともある。庫裡の奥の六畳、その間には、長火鉢に鉄瓶が煮えたって、明るい竹筒台の五分心の洋燈のもとに、かみさんが裁縫をひろげていると、和尚さんは小さい机をそのそばに持って来て、新刊の雑誌などを見ている。さびしい寺とは思えぬほどその一間は明るかった。茶請は塩煎餅か法事でもらったアンビ餅で、文壇のことやそのころの作者気質や雑誌記者の話などがいつもきまって出たが、ある夜、ふと話が旅行のことに移って行った。和尚さんはかつて行っていた伊勢の話を得意になって話し出した。主僧は早稲田を出てから半歳ばかりして、伊勢の一身田の専修寺の中学校に英語国語の教師として雇われて二年ほどいた。伊勢の大廟から二見の浦、宇治橋の下で橋の上から参詣人の投げる銭を網で受ける話や、あいの山で昔女がへらで銭を受けとめた話などをして聞かせた。朝熊山の眺望、ことに全渓みな梅で白いという月ヶ瀬の話などが清三のあくがれやすい心をひいた。それから京都奈良の話もその心をひき寄せるに十分であった。和尚さんの行った時は、ちょうど四月の休暇のころで、祇園嵐山の桜は盛りであった。 「行違ふ舞子の顔やおぼろ月」という紅葉山人の句を引いて、新京極から三条の橋の上の夜のにぎわいをおもしろく語った。その時は和尚さんもうかれ心になって雪駄を買って、チャラチャラ音をさせて、明るいにぎやかな春の町を歩いたという。奈良では大仏、若草山、世界にめずらしいブロンズの仏像、二千年昔の寺院などいうのをくまなく見た。清三の孤独なさびしい心はこれを聞いて、まだ見ぬところまだ見ぬ山水まだ見ぬ風俗にあくがれざるを得なかった。「一生のうち一度は行ってみたい」こう思ってかれは自己のおぼつかない前途を見た。  年の暮れはしだいに近寄って来た。行田の母からは、今年の暮れはあっちこっちの借銭が多いから、どうか今から心がけて、金をむやみに使ってくれぬようにと言ってよこした。蒲団が薄いので、蝦のようにかがめて寝る足は終夜暖まらない。宅に言ってやったところでだめなのは知れているし、でき合いを買う余裕もないので、どうかして今年の冬はこれで間に合わせるつもりで、足のほうに着物や羽織や袴をかけたが、日ごとにつのる夜寒をしのぐことができなかった。やむなくかれは米ずしから四布蒲団を一枚借りることにした。その日の日記に、かれは「今夜よりやうやく暖かに寝ることを得」と書いた。  行田から羽生に通う路は、吹きさらしの平野のならい、顔も向けられないほど西風が激しく吹きすさんだ。日曜日の日の暮れぐれに行田から帰って来ると、秩父の連山の上に富士が淡墨色にはっきりと出ていて、夕日が寒く平野に照っていた。途中で日がまったく暮れて、さびしい田圃道を一人てくてくと歩いて来ると、ふとすれ違った人が、 「赤城山なア、山火事だんべい」  と言って通った。  ふり返ると、暗い闇を通して、そこあたりと覚しきところにはたして火光があざやかに照って見えた。山火事! 赤城の山火事! 関東平野に寒い寒い冬が来たという徴であった。  今年の冬籠りのさびしさを思いながら清三は歩いた。 二十四 「林さん、……貴郎は家の兄と美穂子さんのこと知ってて?」  雪子は笑いながらこうきいた。 「少しは知っています」  清三はやや顔を赤くして、雪子の顔を見た。 「このごろのこともご存じ?」 「このごろッて……この冬休みになってからですか」 「ええ」  雪子は笑ってみせた。 「知りません」 「そう……」  とまた笑って口をつぐんでしまった。  昨日、冬期休暇になったので、清三は新しい年を迎えるべく羽生から行田の家に来た。美穂子が三四日前に、浦和から帰って来ているということをも聞いた。今朝加藤の家を訪問したが、郁治は出ていなかった。すぐ帰りかけたのを母親と雪子が、「もう帰るでしょうから」とてたってとめた。  清三は、くわしく聞きたかったが、しかしその勇気はなかった。胸がただおどった。  雪子が笑っているので、 「いったいどうしたんです?」 「どうしたっていうこともないんですけど……」  やっぱり笑っていた。やがて、 「変なことおうかがいするようですけど……貴郎は兄と北川さんとのことで、何か思っていらっしゃることはなくって?」 「いいえ」 「じゃ、貴郎、二人の中にはいってどうかしたッていうようなことはなくって」 「知りません」 「そう」  雪子はまた黙ってしまった。  しばらくしてから、 「私、小畑さんから変なこと言われたから、……」 「変なことッて? どんなことです」 「なんでもありませんけどもね」  話が謎のようでいっさい要領を得なかった。  午後、とにかく北川に行ってみようと思って沼の縁を通っていると、向こうから郁治がやって来た。 「やあ!」 「どこに行った?」 「北川へちょっと」 「僕も今行こうと思っていた」と清三はわざと快活に、「Art 先生帰っているッていうじゃないか」 「うむ」  二人はしばし黙って歩いた。 「いったいどうしたんだ?」  しばらくして清三がきいた。 「何が?」 「しらばっくれてるねえ、君は? 僕はちゃんと聞いて知ってるよ」 「何を?」 「大いに発展したッていうじゃないか」 「誰が話した?」 「ちゃんと知ってるさ!」 「誰も知ってるものはないはずだがな」と言って考えて、「ほんとうに誰が話した?」 「ちゃんと材料は上がってるさ」 「誰だろうな!」 「あててみたまえ」  少し考えて、 「わからん」 「小畑が君、君のシスタアに何か言ったことがあるかえ? 僕のことで」 「ああ、妹がしゃべッたんだな、彼奴、ばかな奴だな!」 「まア、そんなことはいいから、僕のいうことを返事しまたえ」 「何を」 「小畑が君のシスタアに何か言ったかッていうことだよ」 「知らんよ」 「知らんことはないよ、僕が君と Art の関係について、中にはいってるとかどうしたとか言ったことがあるそうだね」 「うむ、そういえばある」と郁治は思い出したというふうで、「君が北川によく行くのはどうかしたんじゃないかなんて言ったことがある」 「君のシスタアについても何か先生言いやしなかったか」 「戯談は言ったかもしらんが、くわしくはよく知らん」  二人は黙って歩いた。 二十五  郁治と美穂子との「新しき発展」について、清三はいろいろとくわしく聞いた。雪子から美穂子にやる手紙の中に郁治が長い手紙を入れてやったのは一月ほど前であった。やがて郁治にあてて長い返事が来た。その返事をかれはその夜とある料理屋で酒を飲みながら清三に示した。その手紙には甘い恋の言葉がところどころにあった。郁治の手紙を寄宿舎の暗い洋燈の光のもとでくり返しくり返し読んだことなどが書いてある。お互いにまだ修業中であるから、おっしゃるとおり、社会に成功するまで、かたい交際を続けたいということも書いてある。これで見ると、郁治もそんなことを言ってやったものとみえる。清三はその長い手紙を細かく読むほどの余裕はなかった。かれは飛び飛びにそれを見たが、ところどころの甘い蜜のような言葉はかれの淋しい孤独の眼の前にさながらさまざまの色彩でできた花環のようにちらついて見えた。酒に酔って得意になって、友のさびしい心をも知らずに、平気におのろけを言う郁治の態度が、憎くもあり腹立しくもあり気の毒にもなった。清三はただフンフンと言って聞いた。 「その代わり僕は僕のできる限りにおいて、君のために尽力するさ!」  こんなことを郁治はいく度も言った。 「小畑もそんなことを言っていたよ。僕だッて、君の心地ぐらいは知っているさ」  こんなことをも言った。  郁治はまた石川のこのごろ溺れている加須の芸者の話をした。 「先生、このごろは非常に熱心だよ。君も知ってるだろうが、自転車を買ってね、遠乗りをするんだとかなんとか言って、毎日のように出かけて行くよ。東京から来た小蝶とかいう女で、写真を大事にして持っていたよ。金持ちの息子なんていうものの心はまるでわれわれとは違うねえ君。勉強なんぞしないでも、りっぱに一人前になっていかれるんだからねえ」  できるだけの力をつくすと言った言葉、その言葉の陰に雪子がいることを清三はあきらかに知っていた。けれどそれが清三にはあまりうれしくは思われなかった。つんとすました雪子の姿が眼の前を通ってそして消えた。かれはいまさらに美穂子の姿のいっそう強い影をその心に印しているのを予想外に思った。こういう道行きになるのはかれもかねてよく知っていたことである。ある時はそうなるのを友のために祈ったことすらある。けれど想像していた時と事実となった時との感ははなはだしく違った。  清三の心はさびしかった。自己の境遇が実際生活の上からも、恋愛の上からも、学問修業という上からも、ますます消極的に傾いてきて、たとえば柱と柱との間に小さく押しつけられてしまったような気がした。初めはどうしても酔わなかった酒が、あとになるとその反動で激しく発して来て、帰るころには、歌をうたったり詩を吟じたりして郁治を驚かした。  しかし一段落を告げたというような気がないでもなかった。恋を失ったのはつらいが、恋に自由を奪われなかったのはうれしいような気もする。今までの友だちに対しての心持ちも少しく離れて、かえって自己をあきらかに眼の前に見るように思った。  かれは懐に金を七円持っていた。その中のいく分を父母の補助に出すつもりであったが、旅行をする気がないでもないので、わざとそれをしまっておいた。年の暮れももう近寄って来た。西風が毎日のように関東平野の小さな町に吹きあれた。乾物屋の店には数の子が山のように積まれ、肴屋には鮭が板台の上にいくつとなく並べられた。旧暦で正月をするのがこの近在の習慣なので、町はいつもに変わらずしんとして、赤い腰巻をした田舎娘も見えなかった。郡役所と警察署と小学校とそれにおもだった富豪などの注連飾りがただ目に立った。  六畳には炬燵がしてあった。清三は多くそこに日を暮らした。雑誌を読んだり、小説を読んだり、時には心理学をひもといてみることなどもあった。そばでは母親が賃仕事のあい間を見て清三の綿衣を縫っていた。午後にはどうかすると町へ行って餅菓子を買って来て茶をいれてくれることなどもある。一夜凩が吹き荒れて、雨に交って霙が降った。父と母と清三とは炬燵を取りまいて戸外に荒るるすさまじい冬の音を聞いていたが、こうした時に起こりかけた一家の財政の話が愚痴っぽい母親の口から出て、借金の多いことがいく度となくくり返された。 「どうも困るなア」  清三は長大息を吐いた。 「いま少し商売がうまく行くといいんだが、どうも不景気でなア。何をやったッてうまいことはありやしない」  父親はこう言った。 「ほんとうにお前には気の毒だけれど毎月いま少し手伝ってもらわなくっては──」母親は息子の顔を見た。 「それは私は倹約をしているんですよ、これで……」と清三は言って、「煙草もろくろく吸わないぐらいにしているんですけれど……」 「お前にはほんとうに気の毒だけれど……」 「父さんにもいま少しかせいでもらわなくっちゃ──」  清三は父に向かって言った。  父は黙っていた。  財政の内容を持ち出して、母親がくどくどとなお語った。清三は母親に同情せざるを得なかった。かれは熱心に借金の不得策なのを説いて、貧しければ貧しいように生活しなければならぬことを言った。最後にかれはしまっておいた金を三円出して渡した。  友だちを訪問しても、もう以前のようにおもしろくなかった。郁治はたえずやって来るが、こっちからはめったに出かけて行かない。会うとかならず美穂子の話が出る。それを聞くのが清三にはこの上なくつらかった。北川にも行ってみようとは時々思うが、なんだか女々しいような気がしてよした。散歩もこのごろは野が寒く、それにあたりに見るものもなかった。かれは退屈すると一軒おいて隣の家に出かけて行って、日当たりのいい縁側に七歳八歳ぐらいの娘の児を相手に、キシャゴ弾きなどをして遊んだ。  髪の長い眉の美しい児がその中にあった。警察に転任して来た警部とかの娘で、まだ小学校へもあがらぬのに、いろはも数学もよく覚えていた。百人一首もとびとびに諳誦して、恋歌などを無意味なかわいい声で歌って聞かせた。清三は一から十六までの数を加減して試みてみたが、たいていはまちがいなくすらすらと答えた。かれはセンチメンタルな心の調子で、この娘の児のやがて生いたたん行く末を想像してみぬわけにはいかなかった。「幸あれよ。やさしき恋を得よ」こう思ったかれの胸には限りなき哀愁がみなぎりわたった。  熊谷に出かけた日は三十日で、西風が強く吹いた。小島も桜井も東京から帰っていた。小畑はことに熱心にかれを迎えた。けれどかれの心は昔のように快活にはなれなかった。旧友はみな清三の蒼い顔に沈んだ調子と消極的な言葉とをあやしみ見た。清三はまたいっそう快活になった友だちに対してなんだか肩身が狭いような気がした。  熊谷の町はにぎやかであった。ここでは注連飾りが町家の軒ごとに立てられて、通りの角には年の暮れの市が立った。橙、注連、昆布、鰕などが行き通う人々の眼にあざやかに見える。どの店でも弓張り提灯をつけて、肴屋には鮭、ごまめ、数の子、唐物屋には毛糸、シャツ、ズボン下などが山のように並べられてある。夜は人がぞろぞろと通りをひやかして通った。  大晦日の朝、清三はさびしい心を抱いて、西風に吹かれながら、例の長い街道をてくてくと行田に帰った。いまさらに感ぜられるのは、境遇につれて変わり行く人々の感情であった。昨年の今ごろ、こうしたことがあろうとは夢にも思っておらなかった。親しい友だちの間柄がこういうふうに離れ離れになろうとは知らなかった。人は境遇の動物であるという言葉をかれはこのごろある本で読んだことがある。その時は、そんなことがあるものかとよそごとに思ってすてた。けれどそれは事実であった。  家に帰ってみると、借金取りはあっちこっちから来ていた。母親がいちいち頭を下げて、それに応対しているさまは見るにしのびない。父親は勘定が取れぬので、日の暮れるころ、しょぼしょぼとしおたれた姿で帰って来る。「あゝあゝ、しかたがねえ!」と長大息をついて、予算の半分ほどもない財布を母に渡した。清三は見かねて、金をまた二円出した。  夜になってから、母親は巾着の残りの銭をじゃらじゃら音をさせながら、形ばかりの年越しをするために町に買い物に行った。のし餅を三枚、ゴマメを一袋、鮭を五切れ、それに明日の煮染にする里芋を五合ほど風呂敷に包んで、重い重いと言ってやがて帰って来た。その間に父親は燈明を神棚と台所と便所とにつけて、火鉢には火をかっかっと起こしておいた。やがて年越しの膳はできる。  父親ははげた頭を下げて、しきりに神棚を拝んでいたが、やがて膳に向かって、「でも、まあ、こうして親子三人年越しのお膳に向かうのはめでたい」と言って、箸を取った。豆腐汁に鮭、ゴマメは生で二疋ずつお膳につけた。一室は明るかった。  母親は今夜中に仕立ててしまわねばならぬ裁縫物があるので、遅くまでせっせと針を動かしていた。清三はそのそばで年賀状を十五枚ほど書いたが、最後に毎日つける日記帳を出して、ペンで書き出した。 三十一日。 今歳もまた暮れ行く。 思ひに思ひ乱れてこの三十四年も暮れ行かんとす。 思ふまじとすれど思はるるは、この年の暮れなり。 かくて最後の決心はなりぬ。 無言、沈黙、実行。 われは運命に順ふの人ならざるべからず。とても、とても、かくてかかる世なれば、われはた多くは言はじ。 明星、新声来る。 ああ終に終に三十四年は過ぎ去りぬ。わが一生において多く忘るべからざる年なりしかな。 言はじ、言はじ、ただ思ひいたりし一つはこれよ、曰く、かかる世なり、一人言はで、一人思はむ。ああ。  かれは日記帳を閉じてそばにやって新着の明星を読み出した。 二十六 一月一日。(三十五年) これは三年の前、小畑と優なる歌記さんと企てて綴りたるが、その白きままにて今日まで捨てられたるを取り出でて、今年の日記書きて行く。 □去年、それもまだ昨日、終に世のかくてかかるよと思ひ定めては、またも胸の乱れて口やかましく情とくすべも知らず。草深き里に一人住み、一人自から高うせんに如かじ。かくては意気なしと友の笑はんも知らねど、とてもかからねばならぬわが世の運命、それに逆はん勇なきにはさらさらあらねど、二十余年めぐみ深き母の歎きに、ままよ二年三年はかくてありともくやしからじと思へばこそよ。さてかく行かんとする今年の日記よ、言はじ、ただ世にかしこかれよ、ただ平和なれよ。終にただ無言なれよ。 □恋は遂に苦しきもの、われ今またこれを捨つるもくやしからじ。加藤のそれ、かれの心事、懐に剣をかくすを知らぬにあらねど、争はんはさすがにうしろめたく、さらばとてかれもまたかかる人とは思ひ捨てんこそ世にかしこかるべし。 □今日始めて熊谷の小畑に手紙出す。 二日。 昨夜鈴木にて一夜幼き昔を語りあかす。 □ああわれをして少年少女を愛せしめよ。またもかくての世に神は幸を幼きものにのみ下したまへり、ああわれをして幼きものを愛せしめよ。 □ Art ! それやなんなるぞ、とてもあさましき恋に争はんとにはあらじと思へば、時にいふがごとき冷静も乱れんも知れじを、ああなどて好ましからぬ思ひの添ふぞ、はかなきことなるかな。ああ終に終にかくてかかるなり。 □夕方西に紅の細き雲棚引き、上るほど、うす紫より終に淡墨に、下に秩父の山黒々とうつくしけれど、そは光あり力あるそれにはあらで、冬の雲は寒く寂しき、例へんに恋にやぶれ、世に捨てられて終に冷えたるある者の心のごときか。 三日。 昼より風出でて梢鳴ることしきりなり、冬の野は寒きかな、荒む嵐のすさまじきかな。人の世を寒しと見て野に立てば、さてはいづれに行かん。夕べの迷ひにまたも神に「救へ」と呼ばんの願ひなきにあらず。 四日。 夕方、沢田来る。加藤われらを勧めて北川にかるた取りに行く。かれやなんらの友情も知らぬもの、友を売りてわが利を得んとするものか。また例の「君の望むことにてわが力にてでき得べき限りにおいて言へ」を言ふ。われ曰く「なし」と。この言はたして、かれの心よりの言葉か。 五日。 たま〳〵学友会の大会に招かれて行く。すなはち立ちて、「集会において時間の約を守るべきこと」につきて述ぶ。かくのごとき会合において演壇に立ちしは初めてなれば心少しくためらひなきにあらざりしが、思ひしより冷静をもってをはりたり。余興として小燕林の講談あり。 六日。 加藤と雪子と鈴木君の妹の君とかるた取る。 □夜、戸の外に西風寒く吹く。ああわれはこの力弱き腕を自己を、高きに進ますすら容易ならざるに、なほも一人の母と一人の父とのために走らざるべからざるか、さもあらばあれ、冷酷なる運命の道にすさむ嵐をしてそのままに荒しめよ。われに思ふ所あり、なんぞ妄りに汝の渦中に落ち入らんや。  松は男の立ち姿  意地にゃまけまい、ふけふけ嵐、  枝は折れよと根は折れぬ(正直正太夫) □このごろの凩に、さては南の森陰に、弟の弱きむくろはいかにあるらん。心のみにて今日も訪はず。かくて明日は東に行く身なり。 七日。 羽生の寺に帰る。 心にはかくと思ひ定めたれど、さすがに冬枯れの野は淋しきかな。 □○子よ、御身は今はたいかにおはすや。笑止やわれはなほ御身を恋へり。さはれ、ああさはれとてもかかる世ならばわれはただ一人恋うて一人泣くべきに、何とて御身を煩はすべきぞ。 主の僧ととろろ食うて親しく語る。夜、寒し。 九日。 今朝、この冬、この年の初雪を見る。 夜、荻生君来たり、わがために炭と菓子とをもたらす。冷やかなる人の世に友の心の温かさよ。願はくばわれをして友に誠ならしめよ。(夜十時半記) □十日より二十日まで この間十日余り一日、思ひは乱れて寺へも帰らず。かくて老いんの願ひにはあらねど、さすが人並賢く悟りたるものを、さらでも尚とやせんかくやすらんのまどひ、はては神にすがらん力もなくて、人とも多くは言はじな、語らじなと思へば、いとものうくて、日ごろ親しき友に文書かんも厭や、行田へ行かんも厭ふにはあらねどまたものうく、かくて絵もかけず詩も出でず、この十日は一人過ぎぬ。 □土曜日に荻生君来たり一夜を語る。情深く心小さき友! □加藤は恋に酔ひ、小畑はみずから好んで俗に入る。この間、かれの手紙に曰く「好んで詩人となるなかれ、好んで俗物となるなかれ」と。ああさても好んでしかも詩人となり得ず、さらばとて俗物となり得ず。はては惑ひのとやかくと、熱き情のふと消え行くらんやう覚えて、失意より沈黙へ、沈黙より冷静に、かくて苦笑に止まらん願ひ、とはにと言はじ、かくてしばしよと思へば悲しくもあらじ。さはれ木枯吹きすさむ夜半、幸多き友の多くを思ひては、またもこの里のさすがにさびしきかな、ままよ万事かからんのみ、奮励一番飛び出でんかの思ひなきにあらねど、また静かにわが身の運命を思へば……、ああしばしはかくてありなん。 乱るる心を静むるのは幼き者と絵と詩と音楽と。 近き数日、黙々として多く語らず、一人思ひ思ふ。………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………  こういうふうにかれの日記は続いた。昨年の春ごろにくらべて、心の調子、筆の調子がいちじるしく消極的になったのをかれも気がつかずにはいられなかった。時には昨年の日記帳をひもといて読んでみることなどもあるが、そこには諧謔もあれば洒落もある。笑いの影がいたるところに認められる。今とくらべて、世の中の実際を知らぬだけそれだけのんきであった。  消極的にすべてから──恋から、世から、友情から、家庭からまったく離れてしまおうと思うほどその心は傷ついていた。寺の本堂の一間はかれにはあまりに寂しかった。それに二里足らずの路を朝に夕べに通うのはめんどうくさい。かれは放浪する人々のように、宿直室に寝たり、村の酒屋に行って泊まったり、時には寺に帰って寝たりした。自炊がものういので、弁当をそこここで取って食った。駄菓子などで午餐をすましておくことなどもある。本堂の一間に荻生さんが行ってみると、主はたいてい留守で、机の上には塵が積もったまま、古い新声と明星とがあたりに散らばったままになっている。和尚さんは、「林君、どうしたんですか、あまり久しく帰って来ませんが……学校に何か忙しいことでもあるんですかねえ」と言った。荻生さんが心配して忙しい郵便事務の閑をみて、わざわざ弥勒まで出かけて行くと、清三はべつに変わったようなところもなく、いつも無性にしている髪もきれいに刈り込んで、にこにこして出て来た。「どうもこの寒いのに、朝早く起きて通うのが辛いものだからねえ、君、ここで小使といっしょに寝ていれば、小供がぞろぞろやってくる時分までゆっくりと寝ていられるものだから」などと言った。八畳の一間で、長押の釘には古袴だの三尺帯だのがかけてある。机には生徒の作文の朱で直しかけたのと、かれがこのごろ始めた水彩画の写生しかけたのとが置いてあった。教授が終わって校長や同僚が帰ってから、清三は自分で出かけて菓子を買って来て二人で食った。かれは茶を飲みながら二三枚写生したまずい水彩画を出して友に示した。学校の門と、垣で夕日のさし残ったところと、暮靄の中に富士の薄く出ているところと、それに生徒の顔の写生が一枚あった。荻生さんは手に取って、ジッと見入って、「君もなかなか器用ですねえ」と感心した。清三はこのごろ集めた譜のついた新しい歌曲をオルガンに合わせてひいてみせた。  冬はいよいよ寒くなった。昼の雨は夜の霙となって、あくれば校庭は一面の雪、早く来た生徒は雪達磨をこしらえたり雪合戦をしたりしてさわいでいる。美しく晴れた軒には雀がやかましく百囀をしている。雪の来たあとの道路は泥濘が連日乾かず、高い足駄もどうかすると埋まって取られてしまうことなどもある。乗合馬車は屋根の被いまではねを上げて通った。  机の前の障子にさし残る冬の日影は少なくとも清三の心を沈静させた。なるようにしかならんという状態から、やがて「自己のつくすだけをつくしていさぎよく運命に従おう」という心の状態になった。嘆息と涙とのあとに、静かなさびしいしかし甘い安静が来た。霙の降る夜半に、「夜は寒みあられたばしる音しきりさゆる寝覚めを(母いかならん)」と歌って家の母の情を思ったり、「さむきさびしき夜半の床も、さはれ心静かなれば、さすがに苦しからじ」と日記に書いてみずから独り慰めたりした。またある時は、「思うことなくて暮らさばや、わが世の昨日は幸なきにもあらず、幸ありしにもあらず」と書いた。またある日の日記には、「昨夜、一個の老鼠、係蹄にかかる。哀れなる者よ。汝も運命のしもとを免がれ得ぬ不運児か。ひそかに救け得させべくば救けも得さすべきを、われも汝をかくすべき縁持つ人間なればぞ、哀れなるものよ、むしろ汝は夜ごとの餌に迷ふよりは、かくてこのままこの係蹄に終われ。哀れなるものよ」と書いてあった。日曜日を羽生の寺にも行田の家にも行かず、「今日は日曜日、またしても一日をかくてここに過ごさんと一人朝は遅くまでいねたり」と書いて宿直室に過ごした。  郁治も桜井も小畑も高等師範の入学試験を受けるために浦和に行ったという知らせがあった。孝明天皇祭の日を久しぶりで行田に帰ってみると、話相手になるような友だちはもう一人もいなかった。雪子は例のしらじらしい態度でかれを迎えた。かれはむしろ快活な無邪気なしげ子をなつかしく思うようになった。帰る時、母親は昨日からたんせいして煮てあった鮒のかんろ煮を折りに入れて持たせてよこした。  このごろはまったく世に離れて一人暮らした。新聞もめったには手にしたことはない。第五師団の分捕問題、青森第三連隊の雪中行軍凍死問題、鉱毒事件、二号活字は一面と二面とに毎日見える。平生ならば、新聞を忠実に注意して見るかれのこととて、いろいろと話の種にしたり日記をつけておいたりするのであるが、このごろはそんなことはどうでもよかった。人が話して聞かせても、「そうですか」と言って相手にもならなかった。愛読していた涙香の「巌窟王」も中途でよしてしまった。学校の庭の後ろには、竹藪が五十坪ほどあって、夕日がいつもその葉をこして宿直室にさしこんで来るが、ある夜、その向こうの百姓家から「福は内、鬼は外」と叫ぶ爺の声がもれて聞こえた。「あ、今日は節分かしらん」と思って、清三は新聞の正月の絵付録日記を出してみた。それほどかれは世事にうとく暮らした。  毎日四時過ぎになると、前の銭湯の板木の音が、静かな寒い茅葺屋根の多い田舎の街道に響いた。  羽生の和尚さんと酒を飲んで、 「どうです、一つ社会を風靡するようなことをやろうじゃありませんか。なんでもいいですから」  こんなことを言うかと思うと、「自分はどんな事業をするにしても、社会の改良でも思想界の救済でも、それは何をするにしても、人間として生きている上は生きられるだけの物質は得なければならない。そしてそれはなるべく自分が社会につくした仕事の報酬として受けたいと自分は思う。それには自分は小学校の教員からだんだん進んで中学程度の教員になろうか。それとも自分はこの高き美しき小学教員の生涯を以て満足しようか」などと考えることもある。一方には多くの友だちのようにはなばなしく世の中に出て行きたいとは思うが、また一方では小学教員を尊い神聖なものにして、少年少女の無邪気な伴侶として一生を送るほうが理想的な生活だとも思った。友に離れ、恋に離れ、社会に離れて、わざとこの孤独な生活に生きようというような反抗的な考えも起こった。  ある日校長が言うた。「どうです。そうして毎日宿直室に泊まっているくらいなら、寺から荷物を持って来て、ここに自炊なりなんなりしているようにしたら……。そうすれば、私のほうでもわざわざ宿直を置かないでいいし、君にも間代が出なくって経済になる。第一、二里の道を通うという労力がはぶける」羽生の和尚さんもこの間行った時、「いったいどうなさるんです、こうあけていらしっては間代を頂戴するのもお気の毒だし……それに、冬は通うのにずいぶん大変ですからなア」と言った。清三は寺に寄宿するころの心地と今の心地といちじるしく違ってきたことを考えずにはいられなかった。そのころからくらべると、希望も目的も感情もまったく違ってきた。「行田文学」も廃刊した。文学に集まった友の群れも離散した。かれ自身にしても、文学書類を読むよりも、絵画の写生をしたり、音楽の譜の本を集めてオルガンを鳴らしてみたりすることが多くなった。それに、行田にもそうたびたびは行きたくなくなった。かれは月の中ごろに蒲団と本箱とを羽生の寺から運んで来た。 二十七 「喜平さんな、とんでもねえこんだッてなア」 「ほんにさア、今朝行く時、己アでっくわしただアよ、網イ持って行くから、この寒いのに日振りに行くけえ、ご苦労なこっちゃなアッて挨拶しただアよ。わからねえもんただよなア」 「どうしてまアそんなことになったんだんべい?」 「ほんにさ、あすこは掘切で、なんでもねえところだがなア」 「いったいどこだな」 「そら、あの西の勘三さんの田ン中の掘切で死ねていたんだッてよ。泥深い中に体が半分突っささったまま、首イこうたれてつめたくなったんだッてよ」 「あっけねえこんだなア」 「今日ははア、御賽日だッてに。これもはア、そういう縁を持って生まれて来たんだんべい」 「わしらもはア、この春ア、日振りなんぞはよすべいよ」  湯気の籠った狭い銭湯の中で、村の人々はこうした噂をした。喜平というのは、村はずれの小屋に住んでいる、五十ばかりの爺で、雑魚や鰌を捕えては、それを売って、その日その日の口をぬらしていた。毎日のように汚ないふうをして、古いつくろった網をかついで、川やら掘切やらに出かけて行った。途中で学校の先生や村役場の人などにでっくわすと、いつもていねいに辞儀をした。それが今日掘切の中でこごえて死んでいたという。清三は湯につかりながら、村の人々のさまざまに噂し合うのを聞いていた。こうして生まれて生きて死んで行く人をこうして噂し合っている村の人々のことを考えずにはいられなかった。古網を張ったまま、泥の中にこごえた体を立てて死んでいた爺のさまをも想像した。茫とした湯気の中に水槽に落ちる水の音が聞こえた。 二十八  授業もすみ、同僚もおおかた帰って、校長と二人で宿直室で話していると、そこに、雑魚売りがやって来た。 「旦那、鮒をやすく買わんけい」  障子をあけると、にこにこした爺が、笭箵をそこに置いて立っていた。 「鮒はいらんなア」 「やすく負けておくで、買ってくんなせい」  校長さんは清三を顧みて、「君はいりませんか、やすけりゃ少し買って甘露煮にしておくといいがね」と言った。で、二人は縁側に出てみた。  二つの笭箵には、五寸ぐらいから三寸ぐらいの鮒が金色の腹を光らせてゴチャゴチャしている。 「少し小さいな」  と校長さんは言った。  「小さいどころか、甘露煮にするにはこのくらいがごくだアな。それに、板倉で取れたんだで、骨は柔らけい」  種類としては質のいい鮒なのを校長はすぐ見てとった。利根川を渡って一里、そこに板倉沼というのがある。沼のほとりに雷電を祭った神社がある。そこらあたりは利根川の河床よりも低い卑湿地で、小さい沼が一面にあった。上州から来る鮒や雑魚のうまいのは、ここらでも評判だ。 「幾がけだね?」 「七なら高くはねえと思うんだが」 「七は高い!」 「目方をよくしておくだで七で買ってくんなせい」 「五ぐらいならいいが」 「五なんてそんな値はねえだ。じゃいま半分引くべい」  清三は校長さんの物を買うのに上手なのを笑って見ていた。六がけで話が決まって、小使がそこに桶と摺り鉢とを運んで来た。ピンとするほどはかりをまけた鮒はヒクヒクと鰓を動かしている。爺はやがて銭を受け取って軽くなった笭箵をかついで帰って行く。 「やすい、やすい。これを煮ておきゃ、君、十日もありますよ」  こう言って校長さんは、鮒の中でも大きいのを一尾つかんで、「どうも、上州の鮒はいい、コケがまるでこっちで取れたのとは違うんですからな」と言って清三に示した。半分に分けて、小桶に入れて、小使が校長さんの家に持って行った。  その日は鮒の料理に暮れた。爼板の上でコケを取って、金串にそれをさして、囲爐裏に火を起こして焼いた。小使はそのそばでせっせと草鞋を造っている。一疋で金串がまったく占められるような大きなのも二つ三つはあった。薄くこげるくらいに焼いて、それを藁にさした。 「ずいぶんあるもんだね」と数えてみて、「十九串ある」 「やすかっただ、校長さん負けさせる名人だ。これくらいの鮒で六っていう値があるもんかな」  小使はそばから言った。  試みに煮てみようと言うので、五串ばかり小鍋に入れて、焜爐にかけた。寝る時味わってみたが骨はまだ固かった。  自炊生活は清三にとって、けっきょく気楽でもあり経済でもあった。多くは豆腐と油揚げと乾鮭とで日を送った。鮒の甘露煮は二度目に煮た時から成功した。砂糖をあまり使い過ぎたので、分けてやった小使は「林さんの甘露煮は菓子を食うようだア」と言った。生徒は時々萩の餅やアンビ餅などを持って来てくれる。もろこしと糯米の粉で製したという餡餅などをも持って来てくれる。どうかして勉強したい。田舎にいて勉強するのも東京に出て勉強するのも心持ち一つで同じことだ。学費を親から出してもらう友だちにも負けぬように学問したいと思って、心理学や倫理学などをせっせと読んだが、余儀なき依頼で、高等の生徒に英語を教えてやったのが始まりで、だんだんナショナルの一や二を持って教わりに来るものが多くなって、のちには、こう閑をつぶされてはならないと思いながら、夜はたいてい宿直室に生徒が集まるようになった。  二月の末には梅が咲き初めた。障子をあけると、竹藪の中に花が見えて、風につれていい匂いがする。  一日、かれは机に向かって、 鄙はさびしきこの里に   さきて出でにし白梅や、 一枝いだきてただ一人   低くしらぶる春の歌、  と歌って、それを手帳に書いた。淋しい思いが脈々として胸に上った。ふとそばに古い中学世界に梅の絵に鄙少女を描いた絵葉書のあるのを発見した。かれはそれを手に取ってその歌を書いて、「都を知らぬ鄙少女」と署して、さてそれを浦和の美穂子のもとに送ろうと思った。けれど監督の厳重な寄宿舎のことを思ってよした。ふと美穂子の姉にいく子というのがあって、音楽が好きで、その身も二三度手紙をやり取りしたことがあるのを思い出して、譜をつけてそこにやることにした。  かれは夕暮れなど校庭を歩きながら、この自作の歌を低い声で歌った、「低くしらぶる春の歌」と歌うと、つくづく自分のさびしいはかない境遇が眼の前に浮かび出すような気がして涙が流れた。  このごろ、友だちから手紙の来るのも少なくなった。熊谷の小畑にも、この間行った時、処世上の意見が合わないので、議論をしたが、それからだいぶうとうとしく暮らした。郁治から来る手紙には美穂子のことがきっと書いてあるので、返事を書く気にもならなかった。それに引きかえて、弥勒の人々にはだいぶ懇意になった。このころでは、どこの家に行っても、先生先生と立てられぬところはない。それに、同僚の中でも、師範校出のきざな意地の悪い教員が加須に行ってしまったので、気のおける人がなくなって、学校の空気がしっくり自分に合って来た。  物日の休みにも、日曜日にも、たいてい宿直室でくらした。利根川を越えて一里ばかり、高取というところに天満宮があって、三月初旬の大祭には、近在から境内に立錐の地もないほど人々が参詣した。清三も昔一度行ってみたことがある。見世物、露店──鰐口の音がたえず聞こえた。ことに、手習いが上手になるようにと親がよく子供をつれて行くので、その日は毎年学校が休みになる。午後清三が宿直室で手紙を書いていると、参詣に行った生徒が二組三組寄って行った。 二十九  発戸には機屋がたくさんあった。市ごとに百反以上町に持って出る家がすくなくとも七八軒はある。もちろん機屋といっても軒をつらねて部落をなしているわけではない。ちょっと見ると、普通の農家とはあまり違っていない。蠶豆、莢豌豆の畑がまわりを取り巻いていて、夏は茄子や胡瓜がそこら一面にできる。玉蜀黍の広葉もガサガサと風になびく。  けれど家の中にはいると、様子がだいぶ違う、藍瓶が幾つとなく入り口の向こうにあって、そこに染工職人がせっせと糸を染めている。白い糸が山のように積んであると、そのそばで雇い人がしきりにそれを選り分けている。反物を入れる大きな戸棚も見える。  前の広庭には高い物干し竿が幾列びにも順序よく並んでいて、朝から紺糸がずらりとそこに干しつらねられる。糸を繰る座繰りの音が驟雨のようにあっちこっちからにぎやかに聞こえる。  機屋のまわりには、賃機を織る音が盛んにした。  あたりの村落のしんとしているのに引きかえて、ここには活気が充ちていた。金持ちも多かった。他郷からはいって来た若い男女もずいぶんあった。  発戸は風儀の悪い村と近所から言われている。埼玉新報の三面種にもきっとこの村のことが毎月一つや二つは出る。機屋の亭主が女工を片端から姦して牢屋に入れられた話もあれば、利根川に臨んだ崖から、越後の女と上州の男とが情死をしたことなどもある。街道に接して、だるま屋も二三軒はあった。  八月が来ると、盛んな盆踊りが毎晩そこで開かれた。学校に宿直していると、その踊る音が手にとるように講堂の硝子にひびいてはっきりと聞こえる。十一時を過ぎても容易にやみそうな気勢もない。昨年の九月、清三が宿直に当たった時は、ちょうど月のさえた夜で、垣には虫の声が雨のように聞こえていた。「発戸の盆踊りはそれは盛んですが、林さん、まだ行ってみたことがないんですか。それじゃぜひ一度出かけてみなくってはいけませんな……けれど、林さんのような色男はよほど注意しないといけませんぜ、袖ぐらいちぎられてしまいますからな」と訓導の杉田が笑いながら言った。しかし清三は行ってみようとも思わなかった。ただそのおもしろそうな音が夜ふけまで聞こえるのを耳にしたばかりであった。  そのほかにも、発戸のことについて、清三の聞いたことはいくらもあった。一二年前まではここに男ぶりのいい教員などが宿直をしていると、発戸の女は群れをなして、ずかずかと庭からはいって来て、ずうずうしく話をしていくことなどもあったという。それから生徒を見ても、発戸の風儀の悪いのはわかった。同じ行儀の悪いのでもそこから来る生徒は他とは違っていた。野卑な歌を口ぐせに教場で歌って水を満たした茶碗を持って立たせられる子などもあった。  春になって、野に菫が咲くころになると、清三は散歩を始めた。古ぼけた茶色の帽子をかぶった背のすらりとしたやせぎすな姿はそこにもここにも見えた。百姓は学校の若い先生が野川の橋の上に立って、ぼんやりと夕焼けの雲を見ているのを見たこともあるし、朝早く役場の向こうの道を歩いているのに出会うこともあった。役場の小使と立ち話をしていることもあれば、畠にいる人々と挨拶していることもある。時には、学校の女生徒を、二三人つれて、林の中で花を摘ませて花束を作らせたりなんかしていることなどもある。  弥勒野の林の角で、夕暮れの空を写生していると、 「やア、先生だ、先生だ!」 「先生が何か書いてらア」 「やア画を描いてるんだ!」 「あの雲を描いてるんだぜ」  などと近所の生徒がぞろぞろとそのまわりに集まって来る。 「うまいなア、先生は」 「それは当たり前よ、先生じゃねえか」 「あああれがあの雲だ」 「その下のがあの家だ」  黙って筆を運ばせていると、勝手なことを言ってしゃべっている。どうしてあんなうまく書けるのかと疑うかのように、じっと先生の顔をのぞきこむ子などもあった。翌日学校に行くと、その生徒たちはめずらしいことを見て知っているというふうにそれを他の生徒に吹聴した。「先生、昨日書いてた絵を見せてください!」などと言った。  清三はだんだん近所のことにくわしくなった。林の奥に思いもかけぬ一軒家があることも知った。豪農の家の樫の垣の向こうに楊の生えた小川があって、そこに高等二年生で一番できる女生徒の家があることをも知った。その家には草の茂った井戸があって桔橰がかかっていた。ちょうどその時その娘はそこに出ていた。「お前の家はここだね」と言って通り抜けようとすると、「おっかさん、先生が通るよ!」と言った。母親は小川で後ろ向きになってせっせと何か物を洗っていた。加須に通う街道には畠があったり森があったり榛の並木があったりした。ある時楢の林の中に色のこい菫が咲いていたのを発見して、それを根ごしにして取って来て鉢に植えて机の上に置いた。村をはずれると、街道は平坦な田圃の中に通じて、白い塵埃がかすかな風にあがるのが見えた。機回りの車やつかれた旅客などがおりおり通った。  ある夜、学校の前の半鐘が激しく鳴った。竹藪の向こうに出て見ると、空がぼんやり赤くなっている。やがてその火事は手古林であったことがわかった。翌々日の散歩に、ふと気がつくと、清三はその焼けた家屋の前に立っているのを発見した。この間焼けたのはこの家だなとかれは思った。それは村道に接した一軒家で、藁でかこった小屋掛けがもうその隅にできていた。焼けあとには灰や焼け残りの柱などが散らばっていて、井戸側の半分焼けた流しもとでは、襷をした女がしきりに膳椀を洗っている。小屋掛けの中からは村の人が出たりはいったりしている。かれは平和な田舎に忽然として起こった事件を考えながら歩いた。一夜の不意のできごとのために、一家の運命に大きな頓座を来たすべきことなどをも思いやらぬわけにはいかなかった。金銭のとうとい田舎では新たに一軒の家屋を建てるためにもある個人の一生を激しい労働についやさねばならぬのである。かれはただただ功名に熱し学問に熱していた熊谷や行田の友人たちをこうしたハードライフを送る人々にくらべて考えてみた。続いて日ごとに新聞紙上にあらわれる豪い人々のライフをも描いてみた。豪い人にはそれはなりたい、りっぱな生活を送りたい。しかし平凡に生活している人もいくらもある。一家の幸福──弱い母の幸福を犠牲にしてまでも、功名におもむかなくってはならぬこともない。むしろ自分は平凡なる生活に甘んずる。こう考えながらかれは歩いた。  寒い日に体を泥の中につきさしてこごえ死んだ爺の掘切にも行ってみたことがある。そこには葦と萱とが新芽を出して、蛙が音を立てて水に飛び込んだ。森の中には荒れはてた社があったり、林の角からは富士がよく見えたり、田に蓮華草が敷いたようにみごとに咲いていたりした。それにこうして住んでみると、聞くともなしに村のいろいろな話が耳にはいる。家事を苦にして用水に身を投げた女の話、旅人にだまされて林の中に引っ張り込まれて強姦された村の子守りの話、三人組の強盗が抜刀で上村の豪農の家にはいって、主人と細君とをしばり上げて金を奪って行った話、繭の仲買いの男と酌婦と情死した話など、聞けば聞くほど平和だと思った村にも辛い悲しいライフがあるのを発見した。地主と小作人との関係、富者と貧者のはなはだしい懸隔、清い理想的の生活をして自然のおだやかな懐に抱かれていると思った田舎もやっぱり争闘の巷利欲の世であるということがだんだんわかってきた。  それに、田舎は存外猥褻で淫靡で不潔であるということもわかってきた。人々の噂話にもそんなことが多い。やれ、どこの娘はどうしたとか、どこのかみさんはどこの誰と不義をしているとか、誰はどこにこっそり妾をかこっておくとか、女のことで夫婦喧嘩が絶えないとか、そういうことがたえず耳を打つ。それに、そうした噂がまんざら虚偽でないという証拠も時には眼にもうつった。  かれは一日、また利根川のほとりに生徒をつれて行ったが、その夜、次のような新体詩を作って日記に書いた。 松原遠く日は暮れて   利根のながれのゆるやかに ながめ淋しき村里の   ここに一年かりの庵 はかなき恋も世も捨てて   願ひもなくてただ一人 さびしく歌ふわがうたを   あはれと聞かんすべもがな  かれは時々こうしたセンチメンタルな心になったが、しかしこれはその心の状態のすべてではなかった。村の若い者が夜遅くなってから、栗橋の川向こうの四里もある中田まで、女郎買いに行く話などをもおもしろがって聞いた。大越から通う老訓導は、酒でものむと洒脱な口ぶりで、そこから近いその遊廓の話をして聞かせることがある。群馬埼玉の二県はかつて廃娼論の盛んであった土地なので、その管内にはだるまばかり発達して、遊廓がない。足利の福井は遠いし、佐野のあら町は不便だし、ここらから若者が出かけるには、茨城県の古河か中田かに行くよりほかしかたがない。中田には大越まで乗合馬車の便がある。大越から土手の上を二里ほど行って、利根の渡しをわたれば中田はすぐである。「店があれでも五六軒はありますかなア。昔、奥州街道が栄えた時分には、あれでもなかなかにぎやかなものでしたが、今ではだめですよ。私など、若い時にはそれはよく出かけたものですなア。利根川の渡しをいつも夕方に渡って行くんだが、夕焼けの雲が水にうつって、それはおもしろかったのですよ」と老訓導は笑って語った。  時には、 「今の若い者はどうもかた過ぎる。学問をするから、どうしてもそんなことはばかばかしくってする気になれんのかしれんが、海老茶とか庇髪とかに関係をつけると、あとではのっぴきならんことが起こって、身の破滅になることもある。それに、一人で書ばかり読んでいるのは、若い者には好し悪しですよ、神経衰弱になったり、華厳に飛び込んだりするのはそのためだと言うじゃありませんか。青瓢箪のような顔をしている青年ばかりこしらえちゃ、学問ができて思想が高尚になったって、なんの役にもたたん、ちと若い者は浩然の気を養うぐらいの元気がなくっちゃいけませんなア」  などという。  清三が書籍ばかり見て、蒼い顔をして、一人さびしそうにして宿直室にいると、「あんまり勉強すると、肺病が出ますぜ、少し遊ぶほうがいい。学校の先生だッて、同じ人間だ。そう道徳倫理で束縛されては生命がつづかん」こう言って笑った。校長が師範学校から出た当座、まだ今の細君ができない時分、川越でひどい酌婦にかかって、それがばれそうになって転校した話や、ついこの間までいた師範出の教員が小川屋の娘に気があって、毎晩張りに行った話などをして聞かせたのもやはり、この老訓導であった。宿直室に来てから、清三はいろいろな実際を見せられたり聞かせられたりした。中学校の学窓や親の家や友だちのサアクルや世離れた寺の本堂などで知ることのできないことをだんだん知った。  発戸のほうに散歩をしだしたのは、田植え唄が野に聞こえるころからであった。花が散ってやがて若葉が新しい色彩を村にみなぎらした。路の角で機を織っている女の前に立って村の若者が何かしゃべっていると、女は知らん顔でせっせと梭を運んでいる。機屋の前には機回りの車が一二台置いてあって、物干しに並べてかけた紺糸が初夏の美しい日に照らされている。藍の匂いがどこからともなくプンとして来る。竹藪の陰からやさしい唄がかすかに聞こえる。  加須街道方面とはまったく違った感じをかれに与えた。むこうはしんとしている。人気にとぼしい。娘などもあまり通らない。がいして活気にとぼしいが、こちらはどの家にもこの家にも糸を繰る音と機を織る音とがひっきりなしに聞こえる。村から離れて、田圃の中に、飲食店が一軒あって夕方など通ると、若い者が二三人きっと酒を飲んでいる。亭主はだらしないふうで、それを相手にむだ話をしている。嚊は汚ない鼻たらしの子供を叱っている。  発戸の右に下村君、堤、名村などという小字があった、藁葺屋根が晨の星のように散らばっているが、ここでは利根川は少し北にかたよって流れているので、土手に行くまでにかなりある。土手にはやはり発戸河岸のようにところどころに赤松が生えていた。しの竹も茂っていた。朝露のしとどに置いた草原の中に薊やら撫子やらが咲いた。  土手の上をのんきそうに散歩しているかれの姿をあたりの人々はつねに見た。松原の中にはいって、草をしいて、喪心した人のように、前に白帆のしずかに動いて行くのを見ていることもある。「学校の先生さん、いやに蒼い顔しているだア。女さア欲しくなったんだんべい」と土手下の元気な婆が言った。機織り女の中にも、清三の男ぶりのいいのに大騒ぎをして、その通るのを待ち受けて出て見るものもある。下村君の村落にはいろうとするところに、大和障子を半分あけて、せっせと終日機を織っている女がある。丸顔の、眼のぱっちりした、眉の切れのいい十八九の娘であった。清三はわざわざ回り道していつもそこを通った。見かえる清三の顔を娘も見かえした。  ある時こういうことがあった。土手の松原から発戸のほうに下りようとすると、向こうから機織り女が三人ほどやって来た。清三はなんの気もなしに近寄って行くと、女どもはげたげた笑っている。一人の女が他の一人を突つくと、一人はまた他の一人を突っついた。清三は不思議なことをしていると思ったばかりで、同じ調子で、ステッキを振りながら歩いて行った。坂には両側からしげった楢の若葉が美しく夕日に光ってチラチラした。通りすがる時、女どもは路をよけて、笑いたいのをしいて押さえたというような顔をして、男を見ている、からかう気だなということが始めてわかったが、しかしべつだん悪い気もしなかった。侮辱されたとも気まりが悪いとも思わなかった。むしろこっちからも相手になってからかってやろうかと思うくらいに心の調子が軽かった。通り過ぎて一二間行ったと思うと、女どもはげたげた笑った。清三がふり返ると一番年かさの女がお出でお出でをして笑っている。こっちでも笑って見せると、ずうずうしく二歩三歩近寄って来て、 「学校の先生さん!」  一人が言うと、 「林さん!」 「いい男の林さん!」  と続いて言った。名まで知っているのを清三は驚いた。 「いい男の林さん」もかれには、いちじるしく意外であった。曲がり角でふり返って見ると、女どもは坂の上の路にかたまって、こちらを見ていた。  川向こうの上州の赤岩付近では、女の風儀の悪いのは非常で、学校の教員は独身ではつとまらないという話を思い出した。なんでもそこでは、先生が独身で下宿などをしてると、夏の夜など五人も六人も押しかけて行って、無理やりにつれ出してしまうという。しかたがないから、夜は鍵をかけておく。こうそこにつとめていた人が話した。かれは心にほほえみながら歩いた。  だるまやもそこに一二軒はあった。昼間はいやに蒼い顔をした女がだらしのないふうをして店に出ているが、夜になると、それがみんなおつくりをして、見違ったようにきれいな女になって、客を対手にキャッキャッと騒いでいる。だんだん夏が来て、その店の前の棚の下には縁台が置かれて、夕顔の花が薄暮の中にはっきりときわだって見える。 「貴郎、どうしたんですよ、このごろは」 「だッてしかたがない、忙しいからナア」 「ちゃんと種は上がってるよ、そんなこと言ったッて」 「種があるなら上げるさ」 「憎らしい、ほんとうに浮気者!」  ピシャリと女が男の肩を打った。 「痛い! ばかめ」  と男が打ちかえそうとする。女は打たれまいとする。男の手と女の腕とが互いにからみあう。女は体を斜めにして、足を縁台の外に伸ばすと、赤い蹴出しと白い腿のあたりとが見えた。  清三はそうしたそばを見ぬようにして通った。  夜はことに驚かれた。路のほとりに若い男女がいく組みとなく立ち話をしている。闇には、白地の浴衣がそこにもここにも見える。笑う声があっちこっちにした。  今年の夏休みがやがて来た。小畑と郁治とは高等師範の入学試験に合格して、この九月からは東京に行くことにきまった。桜井は浅草の工業学校に入学した。その合格の知らせが来たのは五月ごろであったが、かれは心の煩悶をなるたけ表面に出さぬようにして、落ち着いた平凡なふつうの祝い状を三人に出しておいた。六月に、行田に行った時に、ちょっと郁治に会ったが、もう以前のような親しみはなかった。会えば、さすがに君僕で隠すところなく話すが、別れていれば思い出すことがすくなく、したがって、訪問もめったにしなかった。  美穂子にも一度会った。頬のあたりが肥えて、眼にはやさしい表情があった。けれど清三の心はもうそれがために動かされるほどその影がこくうつっておらなかった。ただ、見知り越しの女のように挨拶して通った。やがて八月の中ごろになって郁治は東京に行った。石川もこのごろは病気で鎌倉に行っている。熊谷の友だちで残っているものは、学校にいるころもそう懇意にしていなかった人々ばかりだ。清三もつまらぬから、どこか旅でもしてみようかと思った。けれど母親の苦しい家計を見かねて五円渡してしまったので、財布にはもういくらも残っていない。近所の山にも行かれそうにもない。で、月の二十日には、どうせ狭い暑い家に寝てるよりは学校の風通しのよい宿直室のほうがいいと思って、弥勒へと帰って来た。途中で、久しぶりで成願寺に寄ってみると、和尚さんは昼寝をしていた。  風通しのよい十畳で話した。和尚さんはビールなどを出してチヤホヤした。ふと、そこに廂髪に結って、紫色の銘仙の矢絣を着て、白足袋をはいた十六ぐらいの美しい色の白い娘が出て来た。  帰りに荻生さんに会って聞くと、 「あれは、君、和尚さんの姪だよ。夏休みに東京から来てるんだよ。どうも、田舎の土臭い中に育った娘とは違うねえ。どこかハイカラのところがあるねえ」  こう言って笑った。荻生さんはいぜんとしてもとの荻生さんで、町の菓子屋から餅菓子を買って来てご馳走した。郵便事務の暑い忙しい中で、暑中休暇もなしに、不平も言わずに、生活している。友だちのズンズン出て行くのをうらやもうともしない。清三の心持ちでは、荻生さんのようなあきらめのよい運命に従順な人は及びがたいとは思うが、しかしなんとなくあきたらないような気がする。楽しみもなく道楽もなくよくああして生きていられると思う。その日、「どうです、あまりつまらない。一つ料理屋へでも行って、女でも相手にして酒でも飲もうじゃありませんか」と言うと、「酒を飲んだッてつまらない」と言って賛成しなかった。清三は暑い木陰のないほこり道を不満足な心持ちを抱いて学校に帰って来た。 三十  盆踊りがにぎやかであった。空は晴れて水のような月夜が幾夜か続いた。樽拍子が唄につれて手にとるように聞こえる。そのにぎやかな気勢をさびしい宿直室で一人じっとして聞いてはいられなかった。清三は誘われてすぐ出かけた。  盆踊りのあるところは村のまん中の広場であった。人が遠近からぞろぞろと集まって来る。樽拍子の音がそろうと、白い手拭いをかむった男と女とが手をつないで輪をつくって調子よく踊り始める。上手な音頭取りにつれて、誰も彼も熱心に踊った。  九時過ぎからは、人がますます多く集まった。踊りつかれると、あとからもあとからも新しい踊り手が加わって来る。輪はだんだん大きくなる。樽拍子はますますさえて来る。もうよほど高くなった月は向こうのひろびろした田から一面に広場を照らして、木の影の黒く地に印した間に、踊り子の踊って行くさまがちらちらと動いて行く。  村にはぞろぞろと人が通った。万葉集のかがいの庭のことがそれとなく清三の胸を通った。男はみな一人ずつ相手をつれて歩いている。猥褻なことを平気で話している。世の覊絆を忘れて、この一夜を自由に遊ぶという心持ちがあたりにみちわたった。垣の中からは燈光がさして笑い声がした。向こうから女づれが三四人来たと思うと、突然清三は袖をとらえられた。 「学校の先生!」 「林さん!」 「いい男!」 「林先生!」  嵐のように声を浴びせかけられたと思ったのも瞬間であった。両手を取られたり後ろから押されたり組んだ白い手の中にかかえ込まれたりして、争おうとする間に二三間たじたじとつれて行かれた。 「何をするんだ、ばか!」  と言ったがだめだった。  月は互いに争うこの一群をあきらかに照らした。女のキャッキャッと騒ぐ声があたりにひびいて聞こえた。 「ヤア、学校の先生があまっちょにいじめられている!」と言って笑って通って行くものもあった。樽拍子の音が唄につれて、ますます景気づいて来た。 三十一  秋季皇霊祭の翌日は日曜で、休暇が二日続いた。大祭の日は朝から天気がよかった。清三はその日大越の老訓導の家に遊びに行って、ビールのご馳走になった。帰途についたのはもう四時を過ぎておった。  古い汚ない廂の低い弥勒ともいくらも違わぬような町並みの前には、羽生通いの乗合馬車が夕日を帯びて今着いたばかりの客をおろしていた。ラムネを並べた汚ない休み茶屋の隣には馬具や鋤などを売る古い大きな家があった。野に出ると赤蜻蛉が群れをなして飛んでいた。  利根川の土手はここからもうすぐである。二三町ぐらいしか離れていない。清三はふとあることを思いついて、細い道を右に折れて、土手のほうに向かった。明日は日曜である。行田に行く用事がないでもないが、行かなくってはならないというほどのこともない。老訓導にも校長にも今日と明日は留守になるということを言っておいた。懐には昨日おりたばかりの半月の月給がはいっている。いい機会だ! と思った心は、ある新しい希望に向かってそぞろにふるえた。  土手にのぼると、利根川は美しく夕日にはえていた。その心がある希望のために動いているためであろう。なんだかその波の閃めきも色の調子も空気のこい影もすべて自分のおどりがちな心としっくり相合っているように感じられた。なかばはらんだ帆が夕日を受けてゆるやかにゆるやかに下って行くと、ようようとした大河の趣をなした川の上には初秋でなければ見られぬような白い大きな雲が浮かんで、川向こうの人家や白壁の土蔵や森や土手がこい空気の中に浮くように見える。土手の草むらの中にはキリギリスが鳴いていた。  土手にはところどころ松原があったり渡船小屋があったり楢林があったり藁葺の百姓家が見えたりした。渡し船にはここらによく見る機回りの車が二台、自転車が一個、蝙蝠傘が二個、商人らしい四十ぐらいの男はまぶしそうに夕日に手をかざしていた。船の通る少し下流に一ところ浅瀬があって、キラキラと美しくきらめきわたった。  路は長かった。川の上にむらがる雲の姿の変わるたびに、水脈のゆるやかに曲がるたびに、川の感じがつねに変わった。夕日はしだいに低く、水の色はだんだん納戸色になり、空気は身にしみわたるようにこい深い影を帯びてきた。清三は自己の影の長く草の上にひくのを見ながら時々みずからかえりみたり、みずからののしったりした。立ちどまって堕落した心の状態を叱してもみた。行田の家のこと、東京の友のことを考えた。そうかと思うと、懐から汗によごれた財布を出して、半月分の月給がはいっているのを確かめてにっこりした。二円あればたくさんだということはかねてから小耳にはさんで聞いている。青陽楼というのが中田では一番大きな家だ。そこにはきれいな女がいるということも知っていた。足をとどめさせる力も大きかったが、それよりも足を進めさせる力のほうがいっそう強かった。心と心とが戦い、情と意とが争い、理想と欲望とがからみ合う間にも、体はある大きな力に引きずられるように先へ先へと進んだ。  渡良瀬川の利根川に合するあたりは、ひろびろとしてまことに阪東太郎の名にそむかぬほど大河のおもむきをなしていた。夕日はもうまったく沈んで、対岸の土手にかすかにその余光が残っているばかり、先ほどの雲の名残りと見えるちぎれ雲は縁を赤く染めてその上におぼつかなく浮いていた。白帆がものうそうに深い碧の上を滑って行く。  透綾の羽織に白地の絣を着て、安い麦稈の帽子をかぶった清三の姿は、キリギリスが鳴いたり鈴虫がいい声をたてたり阜斯が飛び立ったりする土手の草路を急いで歩いて行った。人通りのない夕暮れ近い空気に、広いようようとした大河を前景にして、そのやせぎすな姿は浮き出すように見える。土手と川との間のいつも水をかぶる平地には小豆や豆やもろこしが豊かに繁った。ふとある一種の響きが川にとどろきわたって聞こえたと思うと、前の長い長い栗橋の鉄橋を汽車が白い煙を立てて通って行くのが見えた。  土手を下りて旗井という村落にはいったころには、もうとっぷりと日が暮れて、灯がついていた。ある百姓家では、垣のところに行水盥を持ち出して、「今日は久しぶりでまた夏になったような気がした」などと言いながら若いかみさんが肥えた白い乳を夕闇の中に見せてボチャボチャやっていた。鉄道の踏切を通る時、番人が白い旗を出していたが、それを通ってしまうと、上り汽車がゴーと音を立てて過ぎて行った。かれは二三度路で中田への渡し場のありかをたずねた。夜が来てからかれは大胆になった。もう後悔の念などはなくなってしまった。ふと路傍に汚ない飲食店があるのを発見して、ビールを一本傾けて、饂飩の盛りを三杯食った。ここではかみさんがわざわざ通りに出て渡船場に行く路を教えてくれた。  十日ばかりの月が向こう岸の森の上に出て、渡船場の船縁にキラキラと美しく砕けていた。肌に冷やかな風がおりおり吹いて通って、やわらかな櫓の音がギーギー聞こえる。岸に並べた二階家の屋根がくっきりと黒く月の光の中に出ている。  水を越して響いて来る絃歌の音が清三の胸をそぞろに波だたせた。  乗り合いの人の顔はみな月に白く見えた。船頭はくわえ煙管の火をぽっつり紅く見せながら、小腰に櫓を押した。  十分のちには、清三の姿は張り見世にごてごてと白粉をつけて、赤いものずくめの衣服で飾りたてた女の格子の前に立っていた。こちらの軒からあちらの軒に歩いて行った。細い格子の中にはいって、あやうく羽織の袖を破られようとした。こうして夜ごとに客を迎うる不幸福な女に引きくらべて、こうして心の餓え、肉の渇きをいやしに来た自分のあさましさを思って肩をそびやかした。廓の通りをぞろぞろとひやかしの人々が通る。なじみ客を見かけて、「ちょいと貴郎!」なぞという声がする。格子に寄り合うて何かなんなんと話しているものもある。威勢よくはいってトントン階段を上がって行くものもある。二階からは三絃や鼓の音がにぎやかに聞こえた。  五六軒しかない貸座敷はやがてつきた。一番最後の少し奥に引っ込んだ石菖の鉢の格子のそばに置いてある家には、いかにも土百姓の娘らしい丸く肥った女が白粉をごてごてと不器用にぬりつけて二三人並んでいた。その家から五六軒藁葺の庇の低い人家が続いて、やがて暗い畠になる。清三はそこまで行って引き返した。見て通ったいろいろな女が眼に浮かんで、上がるならあの女かあの女だと思う。けれど一方ではどうしても上がられるような気がしない。初心なかれにはいくたび決心しても、いくたび自分の臆病なのをののしってみてもどうも思いきって上がられない。で、今度は通りのまん中を自分はひやかしに来た客ではないというようにわざと大跨に歩いて通った。そのくせ、気にいった女のいる張り見世の前は注意した。  河岸の渡し場のところに来て、かれはしばらく立っていた。月が美しく埠頭にくだけて、今着いた船からぞろぞろと人が上がった。いっそ渡しを渡って帰ろうかとも思ってみた。けれどこのまま帰るのは──目的をはたさずに帰るのは腑甲斐ないようにも思われる。せっかくあの長い暑い二里の土手を歩いて来て、無意味に帰って行くのもばかばかしい。それにただ帰るのも惜しいような気がする。渡し船の行って帰って来る間、かれはそこに立ったりしゃがんだりしていた。  思いきって立ち上がった。その家には店に妓夫が二人出ていた。大きい洋燈がまぶしくかれの姿を照らした。張り見世の女郎の眼がみんなこっちに注がれた。内から迎える声も何もかもかれには夢中であった。やがてがらんとした室に通されて、「お名ざし」を聞かれる。右から二番目とかろうじてかれは言った。  右から二番目の女は静枝と呼ばれた。どちらかといえば小づくりで、色の白い、髪の房々した、この家でも売れる女であった。眉と眉との遠いのが、どことなく美穂子をしのばせるようなところがある。  清三にはこうした社会のすべてがみな新らしくめずらしく見えた。引き付けということもおもしろいし、女がずっとはいって来て客のすぐ隣にすわるということも不思議だし、台の物とかいって大きな皿に少しばかり鮨を入れて持って来るのも異様に感じられた。かれは自分の初心なことを女に見破られまいとして、心にもない洒落を言ったり、こうしたところには通人だというふうを見せたりしたが、二階回しの中年の女には、初心な人ということがすぐ知られた。かれはただ酒を飲んだ。  厠は階段を下りたところにあった。やはり石菖の鉢が置いてあったり、釣り荵が掛けてあったりした。硝子の箱の中に五分心の洋燈が明るくついて、鼻緒の赤い草履がぬれているのではないがなんとなくしめっていた。便所には大きなりっぱな青い模様の出た瀬戸焼きの便器が据えてある。アルボースの臭に交って臭い臭気が鼻と目とをうった。  女の室は六畳で、裏二階の奥にある。古い箪笥が置いてあった。長火鉢の落としはブリキで、近在でできたやすい鉄瓶がかかっている。そばに一冊女学世界が置いてあるのを清三が手に取って見ると、去年の六月に発行したものであった。「こんなものを読むのかえ、感心だねえ」と言うと、女はにッと笑ってみせた。その笑顔を美しいと清三は思った。室の裏は物干しになっていて、そこには月がやや傾きかげんとなってさしていた。隣では太鼓と三絃の音がにぎやかに聞こえた。 三十二  翌日は昼過ぎまでいた。出る時、女が送って出て、「ぜひ近いうちにね、きっとですよ」と私語くように言った。昨夜、床の中で聞いた不幸な女の話が流るるように胸にみなぎった。  渡しをわたって栗橋に出て昨日の路を帰るのはなんだか不安なような気がした。土手で知ってる人に会わんものでもない。行田に行ったというものが方角違いの方面を歩いていては人に怪しまれる。で、かれは昨夜聞いておいた鳥喰のほうの路を選んで歩き出した。初会にも似合わず、女はしんみりとした調子で、その父母の古河の少し手前の在にいることを打ち明けて語った。その在郷に行くにはやはり鳥喰を通って行くのだそうだ。鳥喰の河岸には上州の本郷に渡る渡良瀬川のわたし場があって、それから大高島まで二里、栗橋に出て行くよりもかえって近いかもしれなかった。清三の麦稈帽子は毎年出水につかる木影のない低地の間の葉のなかば赤くなった桑畑に見え隠れして動いて行った。行く先には田があったり畠があったりした。川原の草藪の中にはやはりキリギリスが鳴いた。  河岸の渡し場では赤い雲が静かに川にうつっていた。向こう岸の土手では糸経を着て紺の脚絆を白い埃にまみらせた旅商人らしい男が大きな荷物をしょって、さもさも疲れたようなふうをして歩いて行った。そこからは利根渡良瀬の二つの大きな河が合流するさまが手に取るように見える。栗橋の鉄橋の向こうに中田の遊廓の屋根もそれと見える。かれはしばし立ちどまって、別れて来た女のことを思った。  本郷の村落を通って、路はまた土手の上にのぼった。昨日向こう岸から見て下った川を今日はこの岸からさかのぼって行くのである。昨日の心地と今日の心地とを清三はくらべて考えずにはいられなかった。おどりがちなさえた心と落ちついたつかれた心! わずかに一日、川は同じ色に同じ姿に流れているが、その間には今まで経験しない深い溝が築かれたように思われる。もう自分は堕落したというような悔いもあった。  麦倉河岸には涼しそうな茶店があった。大きな栃の木が陰をつくって、冷めたそうな水にラムネがつけてあった。かれはラムネに梨子を二個ほど手ずから皮をむいて食って、さて花茣蓙の敷いてある木の陰の縁台を借りてあおむけに寝た。昨夜ほとんど眠られなかった疲労が出て、頭がぐらぐらした。涼しい心地のいい風が川から来て、青い空が葉の間からチラチラ見える。それを見ながらかれはいつか寝入った。  かれが寝ている間、渡し場にはいろいろなことがあった。鶏のひよっ子を猫がねらって飛びつこうとするところを茶店の婆さんはあわてておうと、猫が桑畑の中に入ってニャアニャア鳴いた。渡し舟は着くたびにいろいろな人を下ろしてはまたいろいろな人を載せて行った。自転車を走らせて来た町の旦那衆もあれば、反物を満載した車をひいて来た人足もある。上流の赤岩に煉瓦を積んで行く船が二艘も三艘も竿を弓のように張って流れにさかのぼって行くと、そのかたわらを帆を張った舟がギーと楫の音をさせて、いくつも通った。一時間ほどたって婆さんが裏に塵埃を捨てに行った時には、縁台の上の客は足をだらりと地に下げて、顔を仰向けに口を少しあいて、心地よさそうに寝ていたが、魚釣りに行った村の若者が笭箵を下げて帰る時には、足を二本とも縁台の上に曲げて、肱を枕にして高い鼾をかいていた。その横顔を夕日が暑そうに照らした。額には汗がにじみ、はだけた胸からは財布が見えた。  かれが眼をさましたころは、もう五時を過ぎていた。水の色もやや夕暮れ近い影を帯びていた。清三は銀側の時計を出して見て、思いのほか長く寝込んだのにびっくりしたが、落ちかけていた財布をふと開けてみて銭の勘定をした。六円あった金が二円五十銭になっている。かれはちょっと考えるようなふうをしたが、その中から二十銭銀貨を一つ出して、ラムネ二本の代七銭と、梨子二個の代三銭との釣り銭を婆さんからもらって、白銅を一つ茶代に置いた。  大高島の渡しを渡るころには、もう日がよほど低かった。かれは大越の本道には出ずに、田の中の細い道をあちらにたどりこちらにたどりして、なるたけ人目にかからぬようにして弥勒の学校に帰って来た。  かれの顔を見ると、小使が、 「荻生さんなア来さしゃったが、会ったんべいか」 「いや──」 「行田に行ったんなら、ぜひ羽生に寄るはずだがッて言って、不思議がっていさっしゃったが、帰りにも会わなかったかな」 「会わない──」 「待っていさッしゃったが、羽生で待ってるかもしんねえッて三時ごろ帰って行かしった……」 「そうか──羽生には寄らなかったもんだから」  こう言ってかれは羽織をぬいだ。 三十三  次の土曜日にも出かけた。その日も荻生さんはたずねて来たがやっぱり不在だった。行田の母親からも用事があるから来いとたびたび言って来る。けれど顔を見せぬので、父親は加須まで来たついでにわざわざ寄ってみた。べつだん変わったところもなかった。このごろは日課点の調べで忙しいと言った。先月は少し書籍を買ったものだから送るものを送られなかったという申しわけをして、机の上にある書籍を出して父親に見せた。父親はさる出入り先から売却を頼まれたという文晁筆の山水を長押にかけて、「どうも少し怪しいところがあるんじゃが……まアまアこのくらいならとにかく納まる品物だから」などとのんきに眺めていた。母親の手紙では、家計が非常に困っているような様子であったが、父親にはそんなふうも見えなかった。帰りに、五十銭貸せと言ったが、清三の財布には六十銭しかなかった。月末まで湯銭くらいなくては困ると言うので、二十銭だけ残して、あとをすっかり持たせてやった。父親は包みを背負って、なかばはげた頭を夕日に照らされながら、学校の門を出て行った。  金のない幾日間の生活は辛かったが、しかし心はさびしくなかった。朝に晩に夜にかれはその女の赤い襠裲姿と、眉の間の遠い色白の顔とを思い出した。そのたびごとにやさしい言葉やら表情やらが流るるようにみなぎりわたった。その女は初会から清三の人並みすぐれた男ぶりとやさしいおとなしい様子とになみなみならぬ情を見せたのであるが、それが一度行き二度行くうちにだんだんとつのって来た。  清三は月末の来るのを待ちかねた。菓子を満足に食えぬのが中でも一番辛かった。机の抽斗しの中には、餅菓子とかビスケットとか羊羮とかいつもきっと入れられてあったが、このごろではただその名残りの赤い青い粉ばかりが残っていた。やむなくかれは南京豆を一銭二銭と買ってくったり、近所の同僚のところを訪問して菓子のご馳走になったりした。のちには菓子屋の婆を説きつけて、月末払いにして借りて来た。  音楽はやはり熱心にやっていた。譜を集めたものがだいぶたまった。授業中唱歌の課目がかれにとって一番おもしろい楽しい時間で、新しい歌に譜を合わせたものを生徒に歌わせて、自分はさもひとかどの音楽家であるかのようにオルガンの前に立って拍子を取った。一人で室にいる時も口癖に唱歌の譜が出た。この間、女の室で酒に酔って、「響りんりん」を歌ったことが思い出された。女は黙ってしみじみと聞いていた。やがて「琵琶歌ですか、それは」と言った。信濃の詩人が若々しい悲哀を歌った詩は、青年の群れの集まった席で歌われたり、さびしい一人の散歩の野に歌われたり、無邪気な子供らの前でオルガンに合わせて歌われたり、そうした女のいる狭い一室で歌われたりした。清三はその時女にその詩の意味を解いて聞かせて、ふたたび声を低くして誦した。二人の間にそれがあるかすかなしかし力ある愛情を起こす動機となったことを清三は思い起こした。  弥勒野にふたたび秋が来た。前の竹藪を通して淋しい日影がさした。教員室の硝子窓を小使が終日かかって掃除すると、いっそう空気が新しくこまやかになったような気がした。刈り稲を積んだ車が晴れた野の道に音を立てて通った。  東京に行った友だちからは、それでも月に五六たび音信があった。学窓から故山の秋を慕った歌なども来た。夕暮れには、赤い夕焼けの雲を望んで、弥勒の野に静かに幼な児を伴侶としているさびしき、友の心を思うと書いてあった。弥勒野から都を望む心はいっそう切であった。学窓から見た夕焼けの雲と町に連なるあきらかな夜の灯がいっそう恋しいとかれは返事をしてやった。  羽生の野や、行田への街道や、熊谷の町の新蕎麦に昨年の秋を送ったかれは、今年は弥勒野から利根川の河岸の路に秋のしずかさを味わった。羽生の寺の本堂の裏から見た秩父連山や、浅間嶽の噴煙や赤城榛名の翠色にはまったく遠ざかって、利根川の土手の上から見える日光を盟主とした両毛の連山に夕日の当たるさまを見て暮らした。  ある日、荻生さんが来た。明日が土曜日であった。 「君、少し金を持っていないだろうか」  荻生さんは三円ばかり持っていた。 「気の毒だけども、家のほうに少しいることがあって、翌日行くのにぜひ持って行かなけりゃならないんだが……月給はまだ当分おりまいし、困ってるんだが、どうだろう、少しつごうしてもらうわけにはいかないだろうか。月給がおりると、すぐ返すけれど」  荻生さんはちょっと困ったが、 「いくらいるんです?」 「三円ばかり」 「僕はちょうどここに三円しか持っていないんですが、少しいることもあるんだが……」 「それじゃ二円でもいい」  荻生さんはやむを得ず一円五十銭だけ貸した。  翌朝、それと同じ調子で、清三は老訓導に一円五十銭貸してくれと言った。老訓導は「僕もこの通り」と、笑って銅貨ばかりの財布を振って見せた。関さんもやっぱり持っていなかった。いく度か躊躇したが、思い切って最後に校長に話した。校長は貸してくれた。昨日の朝、行田から送って来る新聞の中に交って、見なれぬ男の筆跡で、中田の消印のおしてある一通の封書のはいっていたのを誰も知らなかった。  午後から行田の家に行くとて出かけたかれは、今泉にはいる前の路から右に折れて、森から田圃の中を歩いて行った。しばらくして利根川の土手にあがる松原の中にその古い中折の帽子が見えた。大高島に渡る渡船の中にかれはいた。 三十四  渡良瀬川の渡しをかれはすくなくとも月に二回は渡った。秋はしだいにたけて、楢の林の葉はバラバラと散った。虫の鳴いた蘆原も枯れて、白の薄の穂が銀のように日影に光る。洲のあらわれた河原には白い鷺がおりて、納戸色になった水には寒い風が吹きわたった。  麦倉の婆の茶店にももう縁台は出ておらなかった。栃の黄ばんだ葉は小屋の屋根を埋めるばかりに散り積もった。農家の庭に忙しかった唐箕の音の絶えるころには、土手を渡る風はもう寒かった。  その長い路を歩く度数は、女に対する愛情の複雑してくる度数であった。追憶がだんだんと多くなってきた、帰りを雨に降られて本郷の村落のとっつきの百姓家にその晴れ間を待ったこともある。夜遅く栗橋に出て大越の土手を終夜歩いて帰って来たこともある。女の心の解しがたいのに懊悩したことも一度や二度ではなかった。遊廓にあがるものの初めて感ずる嫉妬、女が回しを取る時の不愉快にもやがてでっくわした。待っても待っても、女はやって来ない。自己の愛する女を他人が自由にしている。全身を自己に捧げていると女は称しながら、それがはたしてそうであるか否かのわからない疑惑──男が女に対するすべての疑惑をだんだん意識してきた。女はまた女で、その男の疑惑につれて、時々容易に示さない深い情を見せて、男の心をたくみに奪った。「もうこれっきり行かん。あれらは男の機嫌をとるのを商売にしているんだ。あれらの心は幾様にも働くことができるようにできている。自分に対すると同じような媚と笑いと情とをすぐ隣の室で他の男に与えているのだ。忘れても行かん。忘れても行かん。今まで使った金が惜しい」などと、憤慨して帰って来ることもあったが、しかしそれは複雑した心の状態を簡単に一時の理屈で解釈したもので、女の心にはもっとまじめなおもしろいところがあることがだんだんわかった。怒ったり泣いたり笑ったりしている間に、二人の間柄には、いろいろな色彩やら追憶が加わった。  女のもとにせっせと通って来るなかに、清三の知っている客がすくなくとも三人はあった。一人は栗橋の船宿の息子で、家には相応に財産があるらしく、角帯に眼鏡をかけて鳥打ち帽などをかぶってよく来た。色の白い丈のすらりとした好男子であった。一人は古河の裁判所の書記で、年はもう三十四五、家には女房も子供もあるのだが、根が道楽の酒好きで三日とかかずにやって来る。女はそのしつこいのに困りぬいて、「お客で来るのだからしかたがないけれど、ああいう人に勤めなけりゃならないと思うと、つくづくいやになってしまうよ。貴郎、早くこういうところから出してくださいな」などと言って甘えた、そういう時には、「栗橋のにそう言って出してもらってやろうか」などと柄にもない口を清三はきいた。と、女はきまって、男の膝をぴしゃりと平手で打って、これほど思って苦労しているのにという紋切り形の表情をしてみせた。それからいま一人塚崎の金持ちの百姓の息子が通って来た。田舎の女郎屋のこととて、室のつくりも完全していないので、落ち合うとその様子がよくわかる。その息子は丸顔の坊ちゃん坊ちゃんした可愛い顔をしていた。「可愛いおとなしい人よ。なんだか弟のような気がしてしかたがない」と女はのろけた。  そのほかにもまだあるらしかったが、よくわからなかった。鬚の生えた中年の男も来るようであった。清三は女の胸に誰が一番深く影を印しているかをさぐってみたが、どうもわからなかった。自分の影が一番深いようにも思われることもあれば、要するにうまくまるめられているのだと思うこともある。あの時、女はしみじみと泣いてそのあわれむべき境遇を語った。黒目がちな眼からは、涙がほろほろとこぼれた。清三はその時自己の境遇と女に対する自己の関係とをまじめに考えた。自分は小学校教員である。そういうことがちょっとでも知れれば勤めていることはできぬ身の上である。それに、家はかろうじて生活していく貧しい生活である。この女といっしょになることができないのは初めからわかりきったことである。この女がある人に身請けされるなり、年季が満ちて故郷に帰ることができるなりするのをむしろ女のために祝している。清三はゆくりなき縁で、こうした関係となっていく二人の状態を不思議にも意味深くも感じた。清三はまた一歩を進めて、今の生活のたつきをも捨てて、貧しい父母──ことに自分を唯一の力と頼む母をも捨てて、この女といっしょになる場合を想像してみた。功名のために、青雲の志を得んがために、母を捨てることができなかったように、やっぱりかれにはどうしてもそうした気にはなれなかった。帰りは、時々時雨が来たり日影がさしたりするという日の午後であった。いつもわたる渡良瀬川の渡しを渡って土手の上に来ると、ちょうど眼の前を、白いペンキ塗りの汚れた通運丸が、煙筒からは煤煙をみなぎらし、推進器からは水を切る白い波を立てて川をくだって行くのが手にとるように見えた。甲板の上には汚れた白い服を着たボーイが二三人仕事をしているのが小さく見えた。清三は立ちどまってじっとそれを見つめた。白い煙が細くズッと立つと思うと、汽笛のとがった響きが灰色に曇った水の上にけたたましく響きわたった。利根川はようようとして流れて下る、逝く者かくのごとしという感が清三の胸をおそってきた。 三十五  清三の中田通いは誰にも知られずに冬が来てその年も暮れた。その間にも危険に思ったことは二三度はある。一度は村の見知り越しの若者の横顔を張り見世の前でちらと見た。一度は大高島の渡船の中で村の学務委員といっしょになった。いま一度は大越の土手を歩いているとひょっくり同僚の関さんにでっくわした。その時はこれはてっきり看破されたと胸をドキつかせたが、清三のいつもの散歩癖を知っている関さんは、べつに疑うような口吻をももらさなかった。  けれど菓子屋、酒屋、小川屋、米屋などに借金がだんだんたまった。「林さん、どうしたんだろう。このごろは払いがたまって困るがなア」と小川屋の主婦は娘に言った。菓子屋の婆は「今月は少しゃ入れてもらわねえじゃ──よく言ってくんなれ」と学校の小使に頼んだ。小使は小使で「どうしたんだんべい。林さんもとは金持っていたほうだが、このごろじゃねっからお菜も買いやしねえ。いつも漬け物で茶をかけて飯をすましてしまうし、肉など何日にも煮て食ったためしがねえ」などとこのごろはあまり菜の残りのご馳走にあずからないで、ぶつぶつと不平そうに独り言を言った。同僚の関さんや羽生の荻生さんなどが訪ねて来ても、以前のようにビールも出さなかった。  様子の変なのを一番先きに気づいたのは、やはり行田の母親であった。わざわざ三里の路をやって来ても、そわそわといつも落ち着いていないばかりではない。友だちが東京から帰って来ていても訪問しようでもなく、昔のように相談をしかけてもフムフムと聞いているだけで相手にもなってくれない。それに、なんのかのと言って、毎月のものをおいて行かない。あれほど好きであった雑誌をろくろく買わず、常得意の町の本屋にもカケをこしらえない。母親は息子のこのごろどうかしているのをそれとなく感じて時々心を読もうとするような眼色をして、ジッと清三の顔を見つめることがある。  ある時こんなことを言った。 「この間ね、いい嫁があるッて、世話しようッて言う人があるんだがね……お前ももう身もきまったことだし、どうだ、もらう気はないかえ?」  清三は母の顔をじっと見て、 「だッて、自分が食べることさえたいていじゃないんだから」 「それはそうだろうけれど、お前ぐらいの月給で、女房子を養っている人はいくらもあるよ。いっしょになって、学校の近くに引っ越して、倹約して暮らすようにすれば、人並みにはやっていけないことはないよ」 「でもまだ早いから」 「でも、こうして離れていては、お前がどんなことをしているかわからないし」と笑ってみせて、 「それに、お前だッて不自由な思いをして、いつまで学校にいたッてしかたがないじゃないか」 「お母さん、そんなこと言うけれど、僕はまだこれで望みもあるんです。いま少し勉強して中学の教員の免状ぐらいは取りたいと思っているんだから……今から女房などを持ったッてしかたがありゃしない」 「そんな大きな望みを出したッてしかたがないじゃないかねえ」 「だって、僕一人田舎に埋もれてしまうのはいやですもの。一二年はまアしかたがないからこうしているけれど、いつかどうかして東京に出て勉強したいと思っているんです。音楽のほうをこのごろ少しやってるから、来年あたり試験を受けてみようと思っているんです。今から女房など持っちゃわざわざ田舎に埋れてしまうようなもんだ」 「だッて、はいれたところで学費はどうするんのさねえ?」 「音楽学校は官費があるから」 「そうして家はどうするのだえ?」 「その時は父さんと母さんで暮らしてもらうのさ。三年ぐらいどうにでもしてもらわなくっちゃ」 「それはできないことはないだろうけれど、父さんはああいうふうだし、私ばかり苦労しなくっちゃならないから」  清三は黙ってしまった。  またある時は次のような会話をした。 「お前、加藤の雪さんをもらう気はない?」 「雪さん? なぜ?」 「くれてもいいような母さんの口ぶりだッたからさ」 「どうして?」 「それとはっきり言ったわけじゃないけれど、たって望めばくれるような様子だッたから」 「いやなこった。あんな白々しい、おしゃらくは!」 「だッて、郁治さんとはお前は兄弟のようだし、くれさえすりゃ望んでも欲しいくらいな娘じゃないかね」 「いやなこった」 「このごろはどうかしたのかえ? 加藤にもめったに行かんじゃないか?」 「利益交換なぞいやなこった!」  こう言って、清三はぷいと立ってしまった。母親にはその意味がわからなかった。  一月には郁治も美穂子も帰っていた。郁治にも二三度会って話をした。美穂子についての話はもうしなかつた。郁治はむしろ消極的に恋愛の無意味を語った。「なぜあんなに熱心になったか自分でもわからない。ちょうどさかりがついたもののようなものだったんだね」と言って笑った。そのくせ郁治と美穂子とはよく相携えて散歩した。男は高師の制帽をかぶり、女は新式の庇髪に結って、はでな幅の広いリボンをかけた。小畑の手紙によると二人はもう恋愛以上の交際を続けているらしかった。清三はいやな気がした。  ちょうどそのころ熊谷の小滝の話が新聞に出ていた。「小滝の落籍」という見出しで、伊勢崎の豪商に根曳きされる話がひやかし半分に書いてある。小滝には深谷の金持ちの息子で、今年大学に入学した情人があった。その男に小滝は並々ならぬ情を見せたが、その家には許婚のこれも東京の跡見女学校にはいっている娘があって、とうてい望みを達することができぬので、泣きの涙で、今度いよいよ落籍されることになったと書いてある。その豪商は年は四十五六で、女房も子もある。「どうせ一二年辛い年貢を納めると、また舞いもどって二度のお勤め、今晩は──と例のあでやかな声が聞かれるだろうから、今からおなじみの方々はその時を待っているそうだ」などとひやかしてあった。ほんとうの事情は知らぬが、清三はそうした社会に生い立った女の身の上を思わぬわけにはいかなかった。思いのままにならぬ世の中に、さらに思いのままにならぬ境遇に身をおいて、うき草のように浮き沈みしていくその人々の身の上がしみじみと思いやられる。小滝のある間は──その美しい姿と艶なる声とのする間は、友人が離散し去っても、幼いころの追憶が薄くなっても、熊谷の町はまだかれのためになつかしい町、恋しい町、忘れがたい町であったが、今はそれさえ他郷の人となってしまった。神燈の影艶かしい細い小路をいくら歩いても、にこにこといつも元気のいい顔を見せて、幼いころの同窓のよしみを忘れない「われらの小滝」を見ることはできなくなったのである。清三は三が日をすますと、母親のとめるのをふりはなって、今までにかつてないさびしい心を抱いて、西風の吹き荒れる三里の街道を弥勒へと帰って来た。  それでも懐には中田に行くための金が三円残してあった。 三十六  三月のある寒い日であった。  渡良瀬川の渡し場から中田に来る間の夕暮れの風はヒュウヒュウと肌を刺すように寒く吹いた。灰色の雲は空をおおって、おりおり通る帆の影も暗かった。  灯のつくころ、中田に来て、いつもの通り階段を上がったが、なじみでない新造が来て、まじめな顔をして、二階の別の室に通した。いつも──客がいる時でも、行くとすぐ顔を見せた女がやって来ない。不思議にしていると、やがてなじみの新造が上って来て、 「おいらんもな、おめでたいことで──この十五日に身ぬけができましたでな」  清三は金槌か何かでガンと頭を打たれたような気がした。 「貴郎さんにもな、ぜひゆく前に一度お目にかかりたいッて言っていましたけれど──貴郎はちょうどお見えにならんし、急なものだで、手紙を上げてる暇もなし、おいらんも残念がっていましたけれど、しかたがなしに、貴郎が来たらよく言ってくれッてな──それにこれを渡してくれッておいて行きましたから」と風呂敷包みを渡した。中には一通の手紙と半紙に包んだ四角なものがはいっていた。手紙には金釘のような字で、おぼつかなく別れの紋切り形の言葉が書いてあった。残念々々残念々々という字がいくつとなく眼にはいった。しかし身請けされて行ったところは書いてなかった。  半紙に包んだのは写真であった。  おばさんは手に取って、 「おいらんも罪なことをする人だよ」  と笑った。  身請けされて行った先は話さなかった。相方はかねて知っている静枝の妹女郎が来た。顔の丸い肥った女だッた。清三は黙って酒を飲んだ。黙ってその妹女郎と寝た。妹女郎は行った人の話をいろいろとして聞かした。清三は黙って聞いた。  翌日は早く帰途についた。存外心は平静であった。「どうせこうなる運命だッたんだ」とみずから口に出して言ってみた。「なんでもない、あたり前のことだ」と言ってみた。けれど平静であるだけそれだけかれは深い打撃を受けていた。  土手に上がる時、 「憎い奴だ、復讐をしてやらなけりゃならん、復讐! 復讐!」  と叫んだ。しかし心はそんなに激してはおらなかった。  麦倉の茶店では、茶をのみながら、 「もうここに休むこともこれぎりだ」  大高島の渡しを渡って、いつものように間道を行こうとしたが、これも思い返して、 「なアに、もうわかったッてかまうもんか」  で、大越に出て、わざと老訓導の家を訪うた。  老訓導は清三のつねに似ずきわだってはしゃいでいるのを不思議に思った。清三は出してくれたビールをグングンとあおって飲んだ。 「何か一つ大きなことでもしたいもんですなア──なんでもいいから、世の中をびっくりさせるようなことを」  こんなことを言った。そしてこれと同じことを昨年羽生の寺で和尚さんに言ったことを思い出した。たまらなくさびしい気がした。 三十七  その年の九月、午後の残暑の日影を受けて、上野公園の音楽学校の校門から、入学試験を受けた人々の群れがぞろぞろと出て来た。羽織袴もあれば洋服もある。廂髪に董色の袴をはいた女学生もある。校内からは、ピアノの音がゆるやかに聞こえた。  その群れの中に詰襟の背広を着て、古い麦稈帽子をかむって、一人てくてくと塀ぎわに寄って歩いて行く男があった。靴は埃にまみれて白く、毛繻子の蝙蝠傘はさめて羊羮色になっていた。それは田舎からわざわざ試験を受けに来た清三であった。  はいっただけでも心がふるえるような天井の高い室、鬚の生えた肥ったりっぱな体格をした試験委員、大きなピヤノには、中年の袴をはいた女が後ろ向きになってしきりに妙な音を立てていた。清三は田舎の小学校の小さなオルガンで学んだ研究が、なんの役にもたたなかったことをやがて知った。一生懸命で集めた歌曲の譜もまったく徒労に属したのである。かれは初歩の試験にまず失敗した。顔を真赤にした自分の小さなあわれな姿がいたずらに試験官の笑いをかったのがまだ眼の前にちらついて見えるようであった。「だめ! だめ!」と独りで言ってかれは頭を振った。  公園のロハ台は木の影で涼しかった。風がおりおり心地よく吹いて通った。かれは心を静めるためにそこに横になった。向こうには縁台に赤い毛布を敷いたのがいくつとなく並んで、赤い襷であやどった若い女のメリンスの帯が見える。中年増の姿もくっきりと見える。赤い地に氷という字を白く抜いた旗がチラチラする。  動物園の前には一輌の馬車が待っていた。白いハッピを着た御者はブラブラしていた、出札所には田舎者らしい二人づれが大きな財布から銭を出して札を買っていた。  東京に出たのは初めてである。試験をすましたら、動物園も見よう、博物館にもはいろう、ひととおり市中の見物もしよう、お茶の水の寄宿舎に小畑や郁治をも訪ねよう、こういろいろ心の中に計画してやって来た。田舎の空気によごれた今までの生活をのがれて、新しい都会の生活をこれから開くのだと思うと、中学を出たころの若々しい気分にもなれた。昨日吹上の停車場をたつ時には、久しぶりで、さまざまの希望の念が胸にみなぎったのである。かれはロハ台に横たわりながら、その希望と今の失望との間にはさまった一場の光景をまた思い浮かべた。  ロハ台から起き上がる気分になるまでには、少なくとも一時間はたった。馬車はもういなかった。なにがし子爵夫人ともいいそうなりっぱな貴婦人が、可愛らしい洋服姿の子供を三四人つれてそこから出て来て、嬉々として馬車に乗ると、御者は鞭を一当あてて、あとに白い埃を立てて、ガラガラときしって行った。その白い埃を見つめたのをかれは覚えている。「せめて動物園でも見て行こう」と思ってかれは身を起こした。  丹頂の鶴、たえず鼻を巻く大きな象、遠い国から来たカンガルウ、駱駝だの驢馬だの鹿だの羊だのがべつだん珍らしくもなく歩いて行くかれの眼にうつった。ライオンの前ではそれでも久しく立ちどまって見ていた。養魚室の暗い隧道の中では、水の中にあきらかな光線がさしとおって、金魚や鯛などが泳いでいるのがあざやかに見えた。水珠がそこからもここからもあがった。  鴎や鴛鴦やそのほかさまざまの水鳥のいる前のロハ台にかれはまた腰をおろした。あたりをさまざまな人がいろいろなことを言ってぞろぞろ通る。子供は鳥のにぎやかに飛んだり鳴いたりするのをおもしろがって、柵につかまって見とれている。しばらくしてかれはまた歩き出した。鷹だの狐だの狸だのいるところを通って、猿が歯をむいたり赤い尻を振り立てているところを抜けて、北極熊や北海道の大きな熊のいるところを通った。孔雀のみごとな羽もさして興味をひかなかった。かれははいった時と同じようにして出て行った。  東照宮の前では、女学生がはでな蝙蝠傘をさして歩いていた。パノラマには、古ぼけた日清戦争の画かなんかがかかっていて、札番が退屈そうに欠をしていた。  竹の台に来て、かれはまた三たびロハ台に腰をかけた。  眼下に横たわっている大都会、甍が甍に続いて、煙突からは黒いすさまじい煙があがっているのが見える。あちこちから起こる物音が一つになって、なんだかそれが大都会のすさまじい叫びのように思われる。ここに罪悪もあれば事業もある。功名もあれば富貴もある。飢餓もあれば絶望もある。新聞紙上に毎日のようにあらわれて来る三面事故のことなども胸にのぼった。  竹の台からおりると、前に広小路の雑踏がひろげられた。馬車鉄道があとからあとからいく台となく続いて行く。水撒夫がその中を平気で水をまいて行く。人力車が懸け声ではしって行く。  しばらくして、清三の姿は、その通りの小さい蕎麦屋に見られた。 「いらっしゃい!」  と若い婢の黄いろい声がした。 「ざる一つ!」  という声がつづいてした。  清三は夕日のさし込んで来る座敷の一隅で、誂えの来る間を、大きな男が大釜の蓋を取ったり閉てたりするのを見ていた。釜の蓋を取ると、湯気が白くぱッとあがった。長い竹の箸でかき回して、ザブザブと水で洗って、それをざるに手で盛った。「お待ち遠さま」と婢はそれを膳に載せて運んで来た。足の裏が黒かった。  清三はざるを二杯、天ぷらを一杯食って、ビールを一本飲んだ。酔いが回って来ると、少し元気がついた。 「帰ろう。小畑や加藤を訪問したッてしかたがない」  懐から財布を出して勘定をした。やがて雑踏の中を停車場に急いで行くかれの姿が見られた。 三十八  荻生さんが和尚さんを訪ねて次のような話をした。 「どうも困りますんですがな」  と荻生さんが例の人のいい調子で、さも心配だという顔をすると、 「それは困りますな」  と和尚さんも言った。 「どうも思うようにいかんもんですから、ついそういうことになるんでしょうけれど……」 「校長からお聞きですか」 「いいえ、校長からじかに聞いたというわけでもないんですけれど……借金もできたようですし、それに清三君が宿直室にいると、女がぞろぞろやって来るんだッて言いますからねえ」 「いったい、あそこは風儀が悪いところですからなア」 「ずいぶんおもしろいんですッて……清三君一人でいると、学校の裏の垣根のところから、声をかけたり、わざと土塊をほうり込んだりするんですッて。そうして誰もいないと、庭から回ってはいって来るんだそうです」 「そして、その中に誰か相手ができてるんですか」 「よくわかりませんけれど、できてるんだそうです」 「どうせ、機織かなんかなんでしょう?」 「え」 「困るですな。そういう女に関係をつけては」  と和尚さんも嘆じた。  しばらくしてから、 「早くかみさんを持たせたら、どうでしょう」 「この間も行田に行きましたから、ついでに寄ったんですが、お袋さんもそう言っていました」 「加藤君のシスターはもらえないのですか」 「先生がいやだッて言うんです……」 「だッて、前にラブしていたんじゃないですか」 「どうですか、清三君、よく話さんですけれど、加藤君と何か仲たがいかなんかしたらしいですな」 「そんなことはないでしょう」 「いや、あるらしいです」  と荻生さんはちょっととぎれて、「この間も言ってましたよ、僕はこういう運命ならしかたがない。一生独身で子供を相手にして暮らしても遺憾がないッて言ってましたよ」 「独身もいいが──そんなことをしてはしかたがない」 「ほんとうですとも」  と荻生さんは友だち思いの心配そうに、「校長が可愛がってくれてるからいいですけれど、郡視学の耳にでもはいるとたいへんですからな。それに狭い田舎ですから、すぐぱッとしてしまいますから……今度来たら、それとなく言っていただきたいものですが……」 「それは言いましょう」  と和尚さんは言った。 「それに、清三君は体が弱いですからな……」  と荻生さんはやがて言葉をついだ。 「やっぱり胃病ですか」 「え、相変わらず甘いものばかり食っているんですから。甘いものと、音楽と、絵の写生とこの三つが僕のさびしい生活の慰藉だなどと前から言っていましたが、このごろじゃ──この夏の試験を失敗してからは、集めた譜は押し入れの奥に入れてしまって、唱歌の時間きりオルガンも鳴らさなくなりましたから」 「よほど失望したんですね」 「え……それは熱心でしたから、試験前の二月ばかりというものは、そのことばかり言ってましたから」 「つまり今度のことなどもそれから来てるんですな」と和尚さんは考えて、「ほんとうに気の毒ですな。ずいぶんさびしい生活ですものなア。それにまじめな性分だけ、いっそうつらいでしょうから」 「私みたいにのんきだといいんですけれど……」 「ほんとうに、君とは違いますね」  と和尚さんは笑った。 三十九  清三の借金はなかなか多かった。この二月ばかり、自炊をする元気もなく、三度々々小川屋から弁当を運ばせたので、その勘定は七八円までにのぼった。酒屋に三円、菓子屋に三円、荒物屋に五円、前からそのままにしてある米屋に三円、そのほか同僚から一円二円と借りたものもすくなくなかった。荻生さんにも四円ほど借りたままになっていた。  中田に通うころに和尚さんに融通してもらった二円も返さなかった。  金の価値の貴い田舎では、何よりも先にこれから信用がくずれて行った。 四十  ところがどうした動機か、清三は急にまじめになった。もちろん校長からこんこんと説かれたこともあった。和尚さんからもそれとなく忠告された。けれどもそのためばかりではなかった。  頭が急に新しくなったような気がした。自己のふまじめであったのがいまさらのように感じられてきた。落ちて行く深い谷から一刻も早く浮かびあがらなければならぬと思った。  失望と空虚とさびしい生活とから起こった身体の不摂生、このごろでは何をする元気もなく、散歩にも出ず、雑誌も読まず、同僚との話もせず、毎日の授業もお勤めだからしかたがなしにやるというふうに、蒼白い不健康な顔ばかりしていた。どことなく体がけだるく、時々熱があるのではないかと思われることなどもあった。持病の胃はますますつのって、口の中はつねにかわいた。──ふまじめな生活がこの不健康な肉体を通じて痛切なる悔恨をともなって来た。弱かったがしかし清かった一二年前の生活が眼の前に浮かんで通った。 「絶望と悲哀と寂㝠とに堪へ得られるやうなまことなる生活を送れ」 「絶望と悲哀と寂㝠とに堪へ得らるるごとき勇者たれ」 「運命に従ふものを勇者といふ」 「弱かりしかな、ふまじめなりしかな、幼稚なりしかな、空想児なりしかな、今日よりぞわれ勇者たらん、今日よりぞわれ、わが以前の生活に帰らん」 「第一、体を重んぜざるべからず」 「第二、責任を重んぜざるべからず」 「第三、われに母あり」  かれは「われに母あり」と書いて、筆を持ったまま顔をあげた。胸が迫ってきて、蒼白い頬に涙がほろほろと流れた。  かれは中田に通い始めるころから、日記をつけることを廃した。めったなことを書いておいて、万一他人に見らるる恐れがないではないと思ったからである。かれは柳行李をあけて、そのころの日記を出して見た。九月二十四日──秋季皇霊祭。その文字に朱で圏点が打ってあった。その次の土曜日の条に、大高島から向こう岸の土手に渡る記事が書いてあった。日記はたえだえながらも、その年の十月の末ころまでつづいていた。利根川の暮秋のさまや落葉や木枯のことも書いてある。十月の二十三日の条に「この日、雨寒し──」と書いてあった、あとは白紙になっている。その時、「日記なんてつまらんものだ。やはり他人に見せるという色気があるんだ。自分のやったことや心持ちが十分に書けぬくらいならよすほうがいい。自分の心の大部分を占めてる女のことを一行も書くことのできぬような日記ならだんぜんよしてしまうほうがいい」こう思って筆をたったのを覚えている。その間の一年と二三か月の月日のことを清三は考えずにはおられなかった。その間はかれにとっては暗黒な時代でもあり、また複雑した世相にふれた時代でもあった。事件や心持ちを十分に書けぬような日記ならよすほうがいいと言ったが、それと反対に日記に書けぬようなことはせぬというところに、日記を書くということのまことの意味があるのではないかとかれは考えた。  かれはふたたび日記を書くべく罫紙を五六十枚ほど手ずから綴じて、その第一頁に、前の三か条をれいれいしく掲げた。  明治三十六年十一月十五日  かれはこう書き出した。 四十一 「過去は死したる過去として葬らしめよ」 「われをしてわが日々のライフの友たる少年と少女とを愛せしめよ」 「生活の資本は健康と金銭とを要す」 「われをして清き生活をいとなましめよ」  こういう短い句は日記の中にたえず書かれた。  またある日はこういうことを書いた。 「野心を捨てて平和に両親の老後を養い得ればこれ余の成功にあらずや、母はわれとともに住まんことを予想しつつあり」  またある時は次のようなことを書いた。 「親しかりし昔の友、われより捨て去りしは愚かなりき。情薄かりき。われをしてふたたびその暖かき昔の友情を復活せしめよ。しょせん、境遇は境遇なり、運命は運命なり、かれらをうらやみて捨て去りしわれの小なりしことよ。喜ぶべきかな友情の復活! 一昨日小畑より打ち解けたる手紙あり。今日また加藤より情に満たされたる便りあり。小畑は自分の読み古したる植物の書籍近きに送らんといふ。うれし」  校長も同僚も清三の態度のにわかに変わったのを見た。清三は一昨年あたり熱心に集めた動植物の標本の整理に取りかかった。野から採って来て紙に張ったままそのままにしてあったのを一つ一つ誰にもわかるように分類してみた。今年の夏休暇に三日ほど秩父の三峰に関さんと遊びに行った時採集して来たものの中にはめずらしいものがあった。関さんは文部の中学教員検定試験を受ける準備として、しきりに動植物を研究していた。その旅でも実際について関さんはしきりに清三にその趣味を鼓吹した。  小畑からやがてその教科書類が到着した。この秋まで音楽に熱心であった心はだんだんその方面に移っていった。わからぬところは関さんに聞いた。  村の百姓たちはふたたび若い学校の先生の散歩姿を野道に見るようになった。写生しているそのまわりに子供たちが圏をかいていることもある。かれは弥勒野の初冬の林や野を絵はがきにして、小畑や加藤に送った。  三たびこのさびしい田舎に寒い西風の吹き荒れる年の暮れが来た。前の竹藪には薄い夕日がさして、あおじやつぐみの鳴き声が垣に近く聞こえる。二十二日ごろから、日課点の調べが忙しかった。旧の正月に羽生で挙行せられる成績品展覧会に出品する準備もそれそうおうに整頓しておかなければならなかった。図画、臨本模写、考案画、写生画、模様画、それに綴り方に作文、昆虫標本、植物標本などもあった。それを生徒の多くの作品の中から選ぶのはひととおりの労力ではなかった。どうか来年は好成績を博したいものだと校長は言った。  それにどうしてか、このごろはよく風邪をひいた。散歩したとては、咳嗽が出たり、湯にはいったとては熱が出たりした。煙草を飲むと、どうも頭の工合いが悪い。今までに覚えたことのない軽い一種の眩惑を感じる。「君、どうかしたんじゃありませんか、医師に見てもらうほうがいいですぜ」と関さんは二十四日の授業を終わって別れようとする時に言った。  荻生さんを羽生に訪問した時には、そう大して苦しくもなかった。けれど成願寺に行って久しぶりで和尚さんに会って話そうと思った希望は警察署の前まで来て中止すべく余儀なくされた。熱も少なくとも三十八度五分ぐらいはある。それに咳嗽が出る。ちょうどそこに行田に戻り車がうろうろしていたので、やすく賃銭をねぎって乗った。寒い路を日の暮れ暮れにようやく家に着いた。  年の暮れを一室に籠って寝て送った。母親は心配して、いろいろ慰めてくれた。幸いにして熱は除れた。大晦日にはちょうど昨日帰ったという加藤の家を音信るることができた。郁治は清三のやせた顔と蒼白い皮膚とを見た。話しぶりもどことなく消極的になったのを感じた。なんぞと言うとすぐ衝突して議論をしたり、大晦日の夜を感激して暁の三時まで町中や公園を話し歩いたりした三年前にくらべると、こうも変わるものかと思われた。二人はこのごろ東京の新聞ではやる宝探しや玄米一升の米粒調べの話などをした。万朝報の宝を小石川の久世山に予科の学生が掘りに行ってさがし当てたことをおもしろく話した。続いて、日露談判の交渉がむずかしいということが話題にのぼった。「どうも、東京では近来よほど殺気立っている。新聞の調子を見てもわかるが、どこかこういつもに違ってまじめなところがある。いよいよ戦端が開けるかもしれない」と郁治は言った。清三もこのごろでは新聞紙上で、この国家の大問題を熱心に見ていた。「そんな大きな戦争を始めてどうするんだろう」といつも思っていた。二人はその問題についていろいろ話した。陸軍では勝算があるが、海軍では噸数がロシアのほうがまさっていて、それに戦闘艦が多いなどと郁治は話した。  元日の朝、床の間の花瓶にかれはめずらしく花を生けた。早咲きの椿はわずかに赤く花を見せたばかりで、厚いこい緑の葉は、黄いろい寒菊の小さいのと趣に富んだ対照をなした。べつに蔓うめもどきの赤い実の鈴生りになったのを揷していると、母親は「私、この梅もどきッていう花大好きさ、この花を見るとお正月が来たような気がする」こう言って通った。父親は今朝猫の額のような畠の角で、霜解けの土をザクザク踏みながら、白い手を泥だらけにして、しきりに何かしていたが、やがてようやく芽を出し始めた福寿草を鉢に植えて床の間に飾った。朝日の影が薄く障子にさした。親子は三人楽しそうに並んで雑煮を祝った。  清三の日記は次のごとく書かれた。 明治三十七年 一月一日──新しき生命と革新とを与ふべく、新しく苦心と成功と喜びと悲しみとをくだすべく新年は来たれり。若き新年は向上の好機なり。願はくば清く楽しき生活をいとなましめよ。 △「新年を床の青磁の花瓶に母が好みの蔓梅もどき」△小畑に手紙出す、これより勉強して二年三年ののち、検定試験を受けんとす、科目は植物に志す由言ひやる。△風邪心地やうやくすぐれたれば、明日あたりは野外写生せんとて画板など繕ふ。 二日──「たたずの門」のあたりに写生すべき所ありたれど、風吹きて終日寒ければやむ。△きく子が数へし玄米一合の粒数七二五六。 三日──昨夜入浴せしため感冒ふたたびもとにもどる。△休暇中に野外写生の望み絶ゆ。 四日──万朝報の米調べ発表。玄米一升七三二五〇粒。△今年は倹約せんと思ふ。財嚢のつねに虚なるは心を温めしむる現象にあらず。しょせん生活に必要なるだけの金は必要なり。 五日──年賀の礼今年は欠く。 六日──牧野雪子(雪子は昨年の暮れ前橋の判事と結婚せり)より美しき絵葉書の年賀状来たる。△腫物再発す。 七日──病後療養と腫物のため帰校をのばす。△紅葉秋濤著「寒牡丹」読みかけてやめる。 罪悪が発端なり。△中学世界買って来てよむ。△加藤帰京す。 八日──健康を得たし、健康を得たし、健康を得たし。 九日──「寒牡丹」読みて夜にはいって読了す。罪悪に伴なふ悲劇中の苦悶、女主人公ルイザの熱誠なる執着、四百頁の大団円はラブの成功に終はる。△煙草は感冒の影響にて、にわかにその量を減じ、あらば吸ひ、なくば吸はぬといふやうになりたり。長くこの方法が惰性となればよけれどいかにや。明日はまた利根河畔の人となるべし。△日露の危機、外交より戦期にうつらんとすと新聞紙しきりに言ふ。吾人の最も好まぬ戦争は遂にさくべからざるか。  さびしい寒い宿直室の生活はやがてまた始まった。昨年の十一月から節約に節約を加えて、借金の返却を心がけたので、財嚢はつねにつねに冷やかであった。胃が悪く気分がすぐれぬので、つとめて運動をしようと思って、生徒を相手に校庭でよくテニスをやった。かれの蒼白い髪の生えたすらりとやせた姿はいつも夕暮れの空気の中にあざやかに見えた。かれは土曜日の日記の中に、「平日の課業を正直にすませ、満足に事務を取り、温かき晩餐ののち、その日の新聞をよみ終はりて、さて一日の反省になんらもだゆることなく、安息すべき明日の日曜を思へば、テニスの運動の影響とて、右手の筋肉の筆とるにふるへるのほかたえて平和ならざるなし」と書いた。また「Mの都合あれば帰宅したけれど思いとまる。節約の結果三銭の刻み煙草四日を保つ」と書いた。しかしかれは夜眠られなくって困った。眠ったと思うとすぐ夢におそわれる。たいていは恐ろしい人に追いかけられるとか刀で斬られるとかする夢で、眼がさめると、ぐっしょり寝汗をかいている。心持ちの悪いことはたとえようがなかった。  中学校々友会の会報が年二季に来た。同窓の友の消息がおぼろ気ながらこれによって知られる。アメリカに行ったものもあれば、北海道に行ったものもある。今季の会報には寄宿舎生徒松本なにがしがみずから棄てて自殺した顛末が書いてあった。深夜、ピストルの音がして人々が驚いてはせ寄ったことがくわしく記してあった。かれは今まで思ったことのない「死」について考えた。夜はその夢を見た。寄宿舎の窓に灯が明るくついて、人がガヤガヤしている。ピストルが続けざまに鳴った。自殺した男が窓から飛んで来た。  朝ごとの霜は白かった。夜半の霙で竹の葉が真白になっていることもあった。ラッケットをさばいて校庭に立っているかれのやせぎすな姿を人々はつねに見た。解けやらぬ小川の氷の上にはあおじが飛び、空しい枝の桑畠にはつぐみが鳴き、榛の根の枯草からは水鶏が羽音高く驚き立った。楢や栗の葉はまったく落ちつくして、草の枯れた利根川の土手はただ一帯に代赭色に塗られて見えた。田には大根の葉がひたと捨てられてあった。  月の中ごろに、母親から来た小荷物には、毛糸のシャツがはいっていた。手紙には「寒さ激しく御座候間あまり寒き時は湯をやすみ、風ひかぬやう御用心くだされたく候、朝夕よきこと悪しきことにつけお前一人便りに御座候間御身大切に御守り被下度候」と書いてあった。このごろは母を思うの情がいっそう切になって、土曜日に帰る途でも、稚児を背に負った親子三人づれの零落した姿などを見ては涙をこぼした。母親もこのごろ清三のきわだってやさしくなったのを喜んだが、しかしまた心配にならぬでもなかった。にわかに気の弱くなったのは病気のためではないかと思った。清三が行くと、賃仕事を午後から休んで、白玉のしる粉などをこしらえてもてなした。寝汗が出るということを聞いて、「お前、ほんとうにお医者にかかって見てもらわなくっていいのかね」と顔に心配の色を見せて言った。  時には荻生さんを羽生から誘って来て、宿直室に一夜泊まらせることなどもあった。荻生さんはこのごろ話のある養子の口のことを語って、「その家は君、相応に財産があるんですって、いまに、りっぱな旦那になったら、たんとご馳走をしますよ。君ぐらい一人置いてあげてもいい」などと戯談を言って快活に笑った。荻生さんは床にはいると、すぐ鼾をたてて安らかに熟睡した。こうして安らかに世を送り得る人を清三はうらやましく思った。  関さんはすいかずらやじゃのひげや大黄などを枯れ草の中に見いだして教えてくれた。寒い冬の中にもきわだって暖かい春のような日があった。野は平らかに、静かに、広く、さびしく、しかも心地よく刈り取られて、榛のひょろ長い空しい幹が青い空におすように見られた。かれは午前七時にはかならず起きて、燃ゆるような朝日の影の霜けぶりの上に昇るのを見ながら、いつも深呼吸を四五十度やるのを例にしていた。「どうして、こう気分がすぐれないんだろう。どうかしなくってはしかたがない」などと時にはみずから励ました。しかしやっぱり胃腸の工合いはよくなかった。寝汗も出た。 四十二  ある暖かい日曜に、関さんとつれだって、羽生の原という医師のもとに診てもらいに出かけた。町の横町に、黒い冠木の門があって、庭の松がこい緑を見せた。白い敷布をかけた寝台が診察室にあって、それにとなった薬局には、午前十時ごろの暖かい冬の日影のとおった硝子の向こうに、いろいろの薬剤を盛った小さい大きい瓶が棚の上に並べてあるのが見えた。医師は三十七八の髪を長くしたていねいな腰の低い人で、聴診器を耳に当てて、まず胸から腹のあたりを見た。次に、肌をぬがせて背中のあたりを見て、コツコツと軽くたたいた。 「やはり、胃腸が悪いんでしょうな」  こう言って型のごとき薬を医師はくれた。  春のような日であった。連日の好晴に、霜解けの路もおおかた乾いて、街道にはところどころ白い埃も見えた。霞につつまれて、頂の雪がおぼろげに見える両毛の山々を後ろにして、二人は話しながらゆるやかに歩いた。野の角に背を後ろに日和ぼっこをして、ブンブン糸繰り車をくっている猫背の婆さんもあった。名代の角の饂飩屋には二三人客が腰をかけて、そばの大釜からは湯気が白く立っていた。野には、日当たりのいい所には草がすでにもえて、なず菜など青々としている。関さんはところどころで、足をとめて、そろそろ芽を出し始めた草をとった。そしてそれを清三に見せた。風呂敷にも包まずに持っている清三の水薬の瓶には、野の暖かい日影がさしとおった。 四十三 「先生」  とやさしい声がした。  障子をあけると、廂髪に結って、ちょっと見ぬ間に非常に大人びた女生徒の田原ひでがにこにこと笑って立っていた。昨年の卒業生で、できのいいので評判であったが、卒業すると、すぐ浦和の師範学校に行った。高等二年生の時から清三が手がけて教えたので、ことにかれをなつかしがっている。高等四年のころに、新体詩などを作ったり和文を書いたりして清三に見せた。家はちょっとした農家で、散歩の折りに清三が寄ってみたこともあった。あまり可愛がるので、「林先生は田原さんばかり贔屓にしている」などと生徒から言われたこともあった。丸顔の色の白い田舎にはめずらしいハイカラな子で、音楽が好きで、清三の教えた新体詩をオルガンに合わせてよく歌った。師範学校の寄宿舎からも、つねに自然の、運命の、熱情のと手紙をよこした。教え子の一人よりなつかしき先生へと書いて来たこともあった。時には、詩をくださいなどと言って来ることもあった。 「田原さん!」  清三は立ち上がった。 「どうしたんです?」  続いてたずねた。 「今日用事があって、家に参りましたから、ちょっとおうかがいしましたの」  言葉から様子からこうも変わるものかと思うほど大人びてハイカラになったのを清三は見た。 「先生、ご病気だって聞きましたから」 「誰に?」 「関先生に──」 「関さんにどこで会ったんです?」 「村の角でちょっと──」 「なアにたいしたことはないんですよ」と笑って、「例の胃腸です──あまり甘いものを食い過ぎるものだから」  ひで子は笑った。  先生と生徒とは日曜日の午後の明るい室に相対してしばし語った。寄宿舎の話などが出た。今年卒業するはずの行田の美穂子の話も出た。いぜんとして昔の親しみは残っているが、女には娘になったへだてがどことなく出ているし、男には生徒としてよりも娘という感じがいつものへだてのない会話をさまたげた。机の上には半分ほど飲んだ水薬の瓶が夕日に明るく見えていた。清三は今朝友から送って来た「音楽の友」という雑誌をひろげてひで子に見せた。口絵には紀元二百年ごろの楽聖セント、セリシアの像が出ていた。オルガンの妙音から出た花と天使の幻影とを楽聖はじっと見ている。清三はこの人はローマの貴族に生まれて、熱心なるエホバの信者で、オルガンの創造者であるということを話して聞かせた。美容花のごとくであったということをも語った。  オルガンの音がやがて聞こえ出した。小使が行ってみると、若い先生が指を動かしてしきりに音を立てているかたわらに、海老茶の袴を着けたひで子は笑顔をふくんで立った。  校庭は静かであった。午後の日影に雀がチャチャと鳴きしきった。テニスコートの線があきらかに残っていて、宿直室の長い縁側の隅にラケットやボールや網が置いてあるのが見える。庭の一隅には教授用の草木が植えられてあった。  ひで子を送って清三はそこに出て来た。  薔薇の新芽が出ているのが目についた。清三はこれをひで子に示して、 「もう芽が出ましたね、早いもんだ、もうじき春ですな」 「ほんとうに早いこと!」  とひで子はその一葉をつまみ取った。  やがて校外の路を急いで帰って行く海老茶袴の姿が見えた。 四十四  日露開戦、八日の旅順と九日の仁川とは急雷のように人々の耳を驚かした。紀元節の日には校門には日章旗が立てられ、講堂からはオルガンが聞こえた。  東京の騒ぎは日ごとの新聞紙上に見えるように思われた。一月以前から政治界の雲行きのすみやかなのは、田舎で見ていても気がもめた。召集令はすでにくだった。村役場の兵事係りが夜に日をついで、その命令を各戸に伝達すると、二十四時間にその管下に集まらなければならない壮丁たちは、父母妻子に別れを告げる暇もなく、あるは夕暮れの田舎道に、あるは停車場までの乗合馬車に、あるは楢林の間の野の路に、一包みの荷物をかかえて急いで国事におもむく姿がぞくぞくとして見られた。南埼玉の一郡から徴集されたものが三百余名、そのころはまだ東武線ができぬころなので、信越線の吹上駅、鴻巣駅、桶川駅、奥羽線の栗橋駅、蓮田駅、久喜駅などがその集まるおもなる停車場であった。  交通の衝に当たった町々では、いち早く国旗を立ててこの兵士たちを見送った。停車場の柵内には町長だの兵事係りだの学校生徒だの親類友だちだのが集まって、汽車の出るたびごとに万歳を歓呼してその行をさかんにした。清三は行田から弥勒に帰る途中、そうした壮丁に幾人もでっくわした。  旅順仁川の海戦があってから、静かな田舎でもその話がいたるところでくり返された。町から町へ、村から村へ配達する新聞屋の鈴の音は忙しげに聞こえた。新聞紙上には二号活字がれいれいしくかかげられて、いろいろの計画やら、風説やらが記されてある。十二日は朝から曇った寒い日であったが、予想のごとく、敵の浦塩艦隊が津軽海峡に襲来して、商船奈古浦丸を轟沈したという知らせが来た。その津軽海峡の艫作崎というのはどこに当たるか、それをたしかめるため、校長は教授用の大きな大日本地図を教員室にかけた。老訓導も関さんも女教師もみなそこに集まった。 「ははア、こんなところですかな」  と老訓導は言った。  清三は浦塩から一直線にやって来た敵の艦隊と轟沈されたわが商船とを想像して、久しくその掛け図の前に立っていた。  湯屋でも、理髪舗でも、戦争の話の出ぬところはなかった。憎いロシアだ、こらしてやれという爺もあれば、そうした大国を敵としてはたして勝利を得らるるかどうかと心配する老人もあった。子供らは旗をこしらえて戦争の真似をした。けれどがいして田舎は平和で、夜はいつものごとく竹藪の外に藁屋の灯の光がもれた。ちょうど旧暦の正月なので、街道の家々からは、酒に酔って笑う声や歌う声もした。  このごろかれは朝は六時半に起床し、夜は九時に寝た。正月の餅と饂飩とに胃腸をこわすのを恐れたが、しかしたいしたこともなくてすぎた。節約に節約を加えた経済法はだんだん成功して負債もすくなくなり、校長の斡旋で始めた頼母講にも毎月五十銭をかけることもできるようになった。午後の二時ごろにはいつも新聞が来た。戦争の始まってから、互いにかわった新聞を一つずつ取って交換して見ようという約束ができた。国民に万朝報に東京日日に時事、それに前の理髪舗から報知を持って来た。  この多くの新聞を読むことと、日記をつけることと、運動をすることと、節倹をすることと、風を引かぬようにつとむることと、煙草をやめることと、土曜日の帰宅を待つことと、それくらいがこのごろの仕事で、ほかにこれといって変わったこともなかった。しかし煙草と菓子とをやめるは容易ではなかった。気分がよかったり胃がよかったりすると、机のまわりに餅菓子のからの竹皮や、日の出の袋などがころがった。  写生にはだいぶ熱中した。天気のよい暖かい日には、画板と絵の具とをたずさえてよく野に出かけた。稲木、榛の林、掘切の枯葦、それに雪の野を描いたのもあった。ある日学校の付近の紅梅をえがいてみたが、色彩がまずいので、花が桃かなんぞのように見えた、嫁菜、蓬、なずななどの緑をも写した。  月の末に、小畑から手紙が届いた。少しく病をえて、この春休みを故郷に送るべく決心した。久しぶりで一度会いたい。こちらから出かけて行くから、日取りを知らせてよこせとのことであった。旅順における第一回の閉塞の記事が新聞紙上に載せられてある日であった。清三は喜んで返事を出した。金曜日には行くという返事が折りかえして来る。清三は荻生さんにも来遊をうながした。その前夜は月が明るかった。かれはそれに対して、久しぶりで友のことを思った。 四十五  小畑は昔にくらべていちじるしく肥えていた。薄い鬚などを生やして頭をきれいに分けた。高等師範の制服がよく似合って見える。以前の快活な調子で「こういう生活もおもしろいなア」などと言った。  荻生さんは清三と小畑と教員たちとが、ボールを取って校庭に立ったのを縁側からおりる低い階段の上に腰かけて見ていた。小畑の球はよく飛んだ。引きかえて、清三の球には力がなかった。二三度勝負があった。清三の額には汗が流れた。心臓の鼓動も高かった。  苦しそうに呼吸をつくのを見て、 「君はどうかしたのか」  こう言って、小畑は清三の血色の悪い顔を見た。 「体が少し悪いもんだから」 「どうしたんだ?」 「持病の胃腸さ、たいしたことはないんだけれど……」 「大事にしないといかんよ」  小畑はふたたび友の顔を見た。  三人は快活に話した。清三が出して見せる写生を一枚ごとに手に取って批評した。荻生さんの軽い駄洒落もおりおりは交った。そこに関さんがやって来て、昆虫採集の話や植物採集の話が出る。三峰で採集したものなどを出して見せる。小畑は学校にあるめずらしい標本や昨年の秋に採集に出かけた時のことなどを話して聞かせる、にぎやかな声がいつもはしんとした宿直室に満ちわたった。  夕飯は小川屋に行って食った。雨気を帯びた夕日がぱッと障子を明るく照らして、酒を飲まぬ荻生さんの顔も赤い。小畑は美穂子や雪子のことはなるたけ口にのぼさぬようにした。かれは談笑の間にもいちじるしく清三の活気がなくなったのを見た。  荻生さんは清三のいない時に、 「あれでも去年はなかなか盛んだったんですからな」  こう言って、女が学校にやって来たことなどを小畑に話して聞かせた。小畑は少なからず驚かされた。  夜は小川屋から一組の蒲団を運んで来た。まだ寒いので、荻生さんは小使部屋に行ってはよく火を火鉢に入れて持って来た。菓子もつき、湯茶もつき、話もつきてようやく寝ようとしたのは十一時過ぎであった。便所に出て行った小畑は帰って来て、「雨が降ってるねえ」と声低く言った。 「雨!」  と明日朝早く帰るはずの荻生さんは困ったような声を立てた。 「明日は土曜、明後日は日曜だ。行田には今週は帰らんつもりだから、雨は降ったッてかまいやしない。君も、明日一日遊んで行くサ。めったに三人こうしていっしょになることはありゃしない」と清三はこう荻生さんに言ったが、戸外にようやく音を立て始めた点滴を聞いて、「愉快だなア! こうしたわれわれの会合の背景が雨になったのはじつに愉快だ。今夜はしめやかに昔を語れッて、天が雨を降らしてくれたようなものだ!」  興が大いに起こって来たというふうである。小畑の胸にもかれの胸にも中学校時代のことがむらむらと思い出された。清三は帰りがおそくなるといつもこうして一枚の蒲団の中にはいって、熊谷の小畑の書斎に泊まるのがつねであった。顔と顔とを合わせて、眠くなってどっちか一方「うんうん」と受け身になるまで話をするのが例であった。 「あのころが思い出されるねえ」  と小畑は寝ながら言った。  荻生さんが一番先に鼾声をたてた。「もう、寝ちゃった! 早いなア」と小畑が言った。その小畑もやがて疲れて熟睡してしまった。清三は眼がさめて、どうしても眠られない。戸外にはサッと降って通る雨の音が聞こえる。いろいろな感があとからあとから胸をついてきて、胸がいっぱいになる。こうしたやさしい友もある世の中に長く生きたいという思いがみなぎりわたったが、それとともに、涙がその蒼白い頬をほろほろと伝って流れた。中田の女のことも続いて思い出された。長い土手を夕日を帯びてたどって行く自分の姿がまるでほかの人であるかのようにあざやかに見えた。涙が寝衣の袖で拭いても拭いても出た。  翌朝、小畑は言った。 「昨夜、君はあれからまた起きたね」 「どうも眠られなくってしかたがないから、起きて新聞を読んだ」 「何かごそごそ音がするから、目をあいてみると、君はランプのそばで起きている。君の顔が白くはっきりときわだっていたのが今でも見える」こう言って清三の顔を見て、「夜、寝られないかえ?」 「どうも寝られんで困る」 「やはり神経衰弱だねえ」  土曜日は半日授業があった。荻生さんは朝早く雨をついて帰った。小畑は校長や清三の授業ぶりを参観したり、教員室で関さんの集めた標本を見たり、時間ごとに教員につれられてぞろぞろと教場から出て来る生徒の群れを見たりしていた。女教員は黄いろい声を立てて生徒を叱った。竹藪の中には椿が紅く咲いて、その縁にある盛りをすぎた梅の花は雨にぬれて泣くように見えた。清三は袴をはいて、やせはてた体と蒼白い顔とを教室の卓の前に浮き出すように見せて、高等二年生に地理を教えていた。午後からは、二人はまた宿直室で話した。三時には馬車が喇叭を鳴らして羽生から来たが、御者は今朝荻生さんに頼んでやった豚肉の新聞包みを小使部屋にほうり込むようにして置いて行った。包みの中には葱と手紙とが添えてあった。手紙には明日午後から羽生に来い。待っている! と書いてあった。  雨は終日やまなかった。硬い田舎の豚肉も二人を淡く酔わせるには十分であった。二人は高等師範のことやら、旧友のことやら、戦争のことやらをあかず語った。 「今年はだめだが、来年は一つぜひ検定を受けてみたいんだが」  と清三は言った。  日曜日には馬車に乗って羽生に出かけた。旅順が陥落したという評判が盛んであった。まだそんなに早く取れるはずがないという人々もあった。街道を鈴を鳴らして走って行く号外売りもあった。荻生さんは、銀行の二階を借りて二人を迎えた。ご馳走にはいり鳥と鶏肉の汁と豚鍋と鹿子餅。 「今日はなんだか飯のほうが副食物のようだね」と清三は笑った。  清三のいないところで、小畑は荻生さんに、 「林君、どうかしてますね、体がどうもほんとうじゃないようですね?」 「僕もじつは心配してるんですがね」 「何か悪い病気じゃないだろうか」 「さア──」 「今のうちにすすめて根本から療治させるほうがいいですぜ。手おくれになってはしかたがないから」 「ほんとうですよ」 「持病の胃が悪いんだなんて言ってるけれど──ほんとうにそうかしらん」 「町の医師は腸が悪いんだッて言うんですけれど」 「しっかりした医師に見せたほうがいいと思うね」 「ほんとうですよ」  翌日の朝、銀行の二階で三人はわかれた。小畑は清三に言った。 「ほんとうに身体をたいせつにしたまえ」 四十六  戦争はだんだん歩を進めて来た。定州の騎兵の衝突、軍事公債応募者の好況、わが艦隊の浦塩攻撃、旅順口外の激戦、臨時議会の開院、第二回閉塞運動、広瀬中佐の壮烈なる戦死、第一軍の出発につれて第二軍の編制、国民は今はまじめに戦争の意味と結果とを自覚し始めた。野はだんだん暖かくなって、菜の花が咲き、菫が咲き、蒲公英が咲き、桃の花が咲き、桜が咲いた。号外の来るたびに、田舎町の軒には日章旗が立てられ、停車場には万歳が唱えられ、畠の中の藁屋の付近からも、手製の小さい国旗を振って子供の戦争ごっこしているのが見えた。学校では学年末の日課採点に忙わしく、続いて簡易な試験が始まり、それがすむと、卒業証書授与式が行なわれた。郡長は卓の前に立って、卒業生のために祝辞を述べたが、その中には軍国多事のことが縷々として説かれた。「皆さんは記念とすべきこの明治三十七年に卒業せられたのであります。日本の歴史の中で一番まじめな時、一番大事な時、こういう時に卒業せられたということは忘れてはなりません。皆さんは第二の日本国民として十分なる覚悟をしなければなりません」平凡なる郡長の言葉にも、時世の言わせる一種の強味と憧憬とがあらわれて、聴く人の心を動かした。  写生帳には瓶の梅花、水仙、学校の門、大越の桜などがあった。沈丁花の花はやや巧みにできたが、葉の陰影にはいつも失敗した。それから緋縅蝶、紋白蝶なども採集した。小畑が送ってくれた丘博士訳の進化論講話が机の上に置かれて、その中ごろに菫の花が枝折りの代わりにはさまれてあった。菓子は好物のうぐいす餅、菜は独活にみつばにくわい、漬け物は京菜の新漬け。生徒は草餅や牡丹餅をよく持って来てくれた。  利根川の土手にはさまざまの花があった。ある日清三は関さんと大越から発戸までの間を歩いた。清三は一々花の名を手帳につけた。──みつまた、たびらこ、じごくのかまのふた、ほとけのざ、すずめのえんどう、からすのえんどう、のみのふすま、すみれ、たちつぼすみれ、さんしきすみれ、げんげ、たんぽぽ、いぬがらし、こけりんどう、はこべ、あかじくはこべ、かきどうし、さぎごげ、ふき、なずな、ながばぐさ、しゃくなげ、つばき、こごめざくら、もも、ひぼけ、ひなぎく、へびいちご、おにたびらこ、ははこ、きつねのぼたん、そらまめ。 四十七  新たにつくった学校の花壇にもいろいろの草花が集められた。農家の垣には梨の花と八重桜、畠には豌豆と蚕豆、麦笛を鳴らす音が時々聞こえて、燕が街道を斜めに突っ切るように飛びちがった。蟻、蜂、油虫、夜は名の知れぬ虫がしきりにズイズイと鳴き、蛙の声はわくようにした。  あけび、ぐみ、さぎごけ、きんぽうげ、じゅうにひとえ、たけにぐさ、きじむしろ、なんてんはぎなどを野からとって来て花壇に移した。やがて山吹が散ると、芍薬、牡丹、つつじなどが咲き始めた。  この春をかれはまったく花に熱中して暮らした。新緑をとおした日の光が洪水のように一室にみなぎりわたった。かれはそこで田原秀子にやる手紙を書き、めずらしいいろいろの花を封じ込めてやった。ひで子からも少なくとも一週に一度はかならず返事が来た。歌が書いてあったり、新体詩が書いてあったりした。わが愛するなつかしの教え子とこっちから書いてやると、あっちからは、恋しきなつかしき先生まいると書いてよこした。 四十八  このごろ移転問題が親子の間にくり返された。  学校に自炊していては不自由でもあり不経済でもある。家のつごうからいってもべつに行田に住んでいなければならぬという理由もない。父の商売の得意先もこのごろでは熊谷妻沼方面よりむしろ加須、大越、古河に多くなった。離れていて、土曜日に来るのを待つのもつらい。「それにお前も、もう年ごろだから、相応なのがあったら一人嫁をもらって、私にも安心させておくれよ」  母はこう言って笑った。  清三は以前のように反対しようともしなかった。昨年からくらべると、心もよほど折れてきた。たえず動揺した「東京へ」もだいぶ薄らいだ。ある時小畑へやる手紙に、「当年のしら滝は知らずしらずの間に終に母を護るの子たらんといたし居り候」と書いたこともある。 「羽生がいいよ……あまり田舎でもしかたがないし、羽生なら知ってる人も二三人はあるからね」  母がこう言うと、 「そうだ、引っ越すなら、羽生がいい。得意先にもちょうどつごうがいい」  父も同意する。  そこには和尚さんもいれば、荻生さんもいる。学校にも一里半ぐらいしかないから、通うのにもそう難儀ではない。清三もこう思った。  荻生さんにも頼んだ。ある日曜日を父親といっしょに羽生に出かけて行ってみたこともあった。その日は第二軍が遼東半島に上陸した公報の来た日で、一週間ほど前の九連城戦捷とともに人々の心はまったくそれに奪われてしまった。街道にも町にも国旗が軒ごとにたえず続いた。 「万歳、万歳!」  突然町の横町からこおどりして飛んで出て来るものもあった。どこの家でもその話ばかりで持ち切って、借家などを教えてくれるものもなかった。  ねぎ、しゅろ、ひるがお、ままこのしりぬぐいなどが咲き、梨、桃、梅の実は小指の頭ぐらいの大きさになる。ところどころに茶摘みをする女の赤い襷と白い手拭いとが見え、裸で茶を製している茶師の唄が通りに聞こえた、志多見原にはいちやくそう、たかとうだいなどの花があった。やがて麦の根元は黄ばみ、菖蒲の蕾は出で、樫の花は散り、にわやなぎの花は咲いた。蚕はすでに三眠を過ぎた。  続いてしらん、ぎしぎし、たちあおい、かわほね、のいばら、つきみそう、てっせん、かなめ、せきちくなどが咲き、裏の畑の桐の花は高く薫った。かや、あし、まこも、すげなどの葉も茂って、剖葦はしきりに鳴く。  金州の戦い、大連湾の占領──第三軍の編制、旅順の背面攻撃。 「敵も旅順は頑強にやるつもりらしいですな。どうも海軍だけではだめのようですな」などと校長が言った。旅順の陥落についての日が同僚の間に予想される。あるいは六月の中ごろといい、あるいは七月の初めといい、あるいは八月にはどんなにおくれても取れるだろうと言った。やがて鶏一羽と鶏卵十五個の賭をしようということになる。そして陥落の公報が達した日には、休日であろうがなんであろうが、職員一統学校に集まって大々的祝宴会を開こうと決議した。  六月にはいると、麦は黄熟して刈り取られ、胡瓜の茎短きに花をもち、水草のあるところには螢が闇を縫って飛んだ。ほそい、ゆきのした、のびる、どくだみ、かもじぐさ、なわしろいちご、つゆぐさなどが咲いた。雨は降っては晴れ、晴れてはまた降った。ある日、美穂子の兄からめずらしくはがきが届いた。かれは士官学校を志願したが、不合格で、今では一年志願兵になって、麻布の留守師団にいた。「十中八九は戦地におもむく望みあり、幸いに祝せよ」と得意そうに書いてあった。それに限らず、かれは野から畠から町から鋤犁を捨て算盤を捨て筆を捨てて国事におもむく人々を見て、心を動かさざるを得なかった。海の外には同胞が汗を流し血を流して国のために戦っている。そこには新しい意味と新しい努力がある。平生政見を異にした政治家も志を一にして公に奉じ、金を守るにもっぱらなる資本家も喜んで軍事公債に応じ、挙国一致、千載一遇の壮挙は着々として実行されている。新聞紙上には日ごとに壮烈なる最後をとげた士官や、勇敢なる偉勲を奏した兵士の記事をもって満たされ、それにつづいて各地方の団隊の熱心なる忠君愛国の状態が見るように記されてある。「自分も体が丈夫ならば──三年前の検査に戊種などという憐むべき資格でなかったならば、満洲の野に、わが同胞とともに、銃を取り剣をふるって、わずかながらも国家のためにつくすことができたであろうに」などと思うことも一度や二度ではなかった。かれはまた第二軍の写真班の一員として従軍した原杏花の従軍記のこのごろ「日露戦争実記」に出始めたのを喜んで読んだ。恋愛を書き、少女を描き、空想を生命とした作者が、あるいは砲煙のみなぎる野に、あるいは死屍の横たわれる塹壕に、あるいは機関砲のすさまじく鳴る丘の上に、そのさまざまの感情と情景を叙した筆は、少なくともかれの想像をそこにつれて行くのに十分であった。三年前にイタリヤンストロウの意気な帽子をかぶって、羽生の寺の山門からはいって来たその人──酔って詩を吟じて、はては本堂の木魚や鐘をたたいたその人が、第二軍の司令部に従属して、その混乱した戦争の巴渦の中にはいっているかと思うと、いっそうその記事がはっきりと眼にうつるような気がする。急行軍の砲車、軍司令官の戦場におもむく朝の行進、砲声を前景にした茶褐色のはげた丘、その急忙の中を、水筒を肩からかけ、ピストルを腰に巻いて、手帳と鉛筆とを手にして飛んで歩いている一文学者の姿をかれはうらやましく思った。  ある日和尚さんに、 「原さんからもお便りがありますか」  と聞くと、 「え、この間金州から絵葉書が来ました」  と和尚さんは机の上から軍事郵便と赤い判の押してある一枚の絵ハガキを取って示した。それには同じく従軍した知名な画家が死屍のそばに菖蒲が紫に咲いているところを描いていた。 「いい記念ですな」 「え、こういう花がたくさん戦場に咲いてるとみえますな」 「戦記にも書いてありましたよ」  と清三は言った。 四十九  梅雨の中に一日カッと晴れた日があった。薄い灰色の中からあざやかな青い空が見えて、光線がみなぎるように青葉に照った。行田からの帰り途、長野の常行寺の前まで来ると、何かことがあるとみえて、山門の前には人が多く集まって、がやがやと話している。小学校の生徒の列も見えた。  青葉の中から白い旗がなびいた。  戦死者の葬式があるのだということがやがてわかった。清三は山門の中にはいってみた。白い旗には近衛歩兵第二連隊一等卒白井倉之助之霊と書いてあった。五月十日の戦いに、靉河の右岸で戦死したのだという。フロックコートを着た知事代理や、制服を着けた警部長や、羽織袴の村長などがみな会葬した。村の世話役があっちこっちに忙しそうにそこらを歩いている。  遺骨をおさめた棺は白い布で巻かれて本堂にすえられてあった。ちょうど主僧のお経がすんで知事代理が祭文を読むところであった。その太いさびた声が一しきり広い本堂に響きわたった。やがてそれに続いて小学校の校長の祭文がすむと、今度は戦死者の親友であったという教員が、奉書に書いた祭文を高く捧げて、ふるえるような声で読み始めた。その声は時々絶えてまた続いた。嗚咽する声があっちこっちから起こった。  柩が墓に運ばれる時、広場に集まった生徒は両側に列を正して、整然としてこれを見送った。それを見ると、清三はたまらなく悲しくなった。軍司令部といっしょに原杏花が出発する時、小学校の生徒が両側に整列して、万歳を唱えた。その時かれは「爾、幼き第二の国民よ、国家の将来はかかって汝らの双肩にあるのである。健在なれ、汝ら幼き第二の国民よ」と心中に絶叫したと書いてある。その時ほど熱い涙が胸に迫ったことはなかったと書いてある。清三も今そうした思いに胸がいっぱいになった。幼い第二の国民に柩を送られる一戦死者の霊──  砲煙のみなぎった野に最後の苦痛をあじわって冷たく横たわった一兵卒の姿と、こうした梅雨晴れのあざやかな故郷の日光のもとに悲しく営まれる葬式のさまとがいっしょになって清三の眼の前を通った。 「どうせ人は一度は死ぬんだ」  こう思ったかれの頬には涙がこぼれた。  かれはいつか寺を出て、例の街道を歩いていた。光線はキラキラした。青葉と青空の雲の影とが野の上にあった。  二三日前からしきりに報ぜられる壱岐沖の常陸丸遭難と得利寺における陸軍の戦捷とがくり返しくり返し思い出される。初瀬吉野宮古の沈没などをも考えて、「はたして最後の勝利を占めることができるだろうか」という不安の念も起こった。  野にとうご草があるのを見て、それをとった。そばにある名を知らぬ赤い草花は学校の花壇に植えようと思って、根から掘って紙に包み、汚れた手をみそはぎの茂る小川で洗った。ふと一昨日浦和のひで子から来た手紙を思い出して、考えはそれに移る。羽生に移転してからの新家庭に、そのあきらかな笑顔を得たならば、いかに幸福であろうと思った。かれはこのごろひで子を自分の家庭にひきつけて考えることが多くなった。  羽生町の入り口では、東武鉄道の線路人夫がしきりに開通工事に忙しがっていたが、そのそばの藁葺家には、色のさめた国旗がヒラヒラと日に光った。 五十  羽生に移転する前日の日記に、かれはこう書いた。 「二十六年故山を出でて、熊谷の桜に近く住むこと数年、三十三年にはここ忍沼のほとりに移りてより、また数年を出でずして蝸牛のそれのごとく、またも重からぬ殻を負ひて、利根河畔羽生に移らんとす。奇しきは運命のそれよ、おもしろきは人生のそれよ、回顧一番、笑って昔古びたる城下の緑を出でて去らんのみ。歴史の章はかくのごとく、またかくのごとくして改められん」  羽生の大通りをちょっと裏にはいったところにその貸屋があった。探してくれたのは荻生さんで、持主は二三年前まで、通りで商売をしていた五十ばかりの気のよさそうな人であった。下が六畳に四畳半、二階が六畳、前に小さな庭があって、そこに丈の低い柿の木が繁っていた。家賃が二円五十銭、敷金が三月分あるのだが、荻生さんのお友だちならそれはなくってもよいという。父親も得意回りのついでに寄ってみて、「まア、あれならいい!」と賛成した。  一週間の農繁休暇を利用して、いよいよ移転することになった。平生親しくした友だちは多くは離散して、その時町にいるものは、活版屋をしている沢田君ぐらいのものであった。清三はその往来した友の家々を暇乞いをして歩いた。北川の家には母親が一人いた。入り口ですまそうとするのを、「まアまアほんとうにお久しぶりでしたね」と無理に奥の座敷へと請された。美穂子については、「あれも今年は卒業するのですけれど、意気地がなくって、学校が勤まりますかどうですか」などと言った。移転のことを聞いては「まアまアお名残り惜しい、……けれどまア貴君の身体がおきまりになって、お引っ越しなさるんですから、結構ですねえ、お母さんもさぞお喜びでしょう。薫がおれば、お手伝いぐらいいたすんですけれど、あれもこの七月には戦地に参るそうですから……」それからそれと、戦争の話やら町の話やらが続いた。母親の眼には、蒼白い顔をした眼の濁った体のやせた清三の姿がうつった。忍沼のさびた水にはみぞかくしの花がところどころに白く見えた。加藤の家には母親も繁子も留守で、めずらしく父親がいた。上がって教育上の話などを一時間ばかりもした。羽生からいますこし近いところにいい口があったら、転任させてもらいたいということをも頼んだ。石川の店では、小僧が忙しそうに客に応対していた。そこへ番頭が向こうから自転車をきしらして帰って来て、ひらりと飛び下りた。沢田さんは真黒になって働きながら、「こっちのほうに来た時にはぜひ寄ってください」と言った。清三は最後に弟の墓を訪うた。祖父の墓は足利にある。祖母の墓は熊谷にある。こうして、ところどころに墓を残して行く一家族の漂泊的生活をかれは考えて黯然とした。一人他郷に残される弟はさびしかろうなどとも思った。あじさいの花は墓を明るくした。  道具とてもない一家の移転の準備は簡単であった。箪笥と戸棚とを薦でからげ、夜具を大きなさいみの風呂敷で包んだ。陶器はすべて壊れぬように、箪笥の衣類の中や蒲団の中などに入れた。最後に椿や南天の草花などを掘って、根を薦包みにして庭の一隅に置いた。  降るかと思った空は午前のうちに晴れた。荷物を満載した三台の引っ越し車はガラガラと町の大通りをきしって行く。ところどころで、母親と清三とが知人にでっくわして挨拶しているさまが浮き出すように見える。車の一番上に積まれた紙屑籠につめたランプのホヤがキラキラ光る。  長野の手前で、額が落ちかかりそうになったのを清三は直した。母親はにこにことうれしそうな顔色で、いろいろな話をしながら歩いて行く。熊谷から行田に移転した時の話も出る。 「こうして、たいした迷惑を人にもかけずに、昼間引っ越して行かれるのは、みんなお前のおかげだよ」などと言った。長野をはずれようとするところで、向こうから号外売りが景気よく鈴を鳴らして走って来た。清三は呼びとめて一枚買った。竹敷を出た上村艦隊が暴雨のために敵を逸して帰着したということが書いてある。車力は「残念ですなア。敵をにがしてしまって……常陸丸ではこの近辺で死んだ人がいくらもあるですぜ。佐間では三人まであるですぜ」などと話し合った。  ある豪農の塀の前では、平生引っ越し車などに見なれないので犬がほえた。榛の並木に沿った小川では、子供が泥だらけになって、さで網で雑魚をすくっている。繭売りの車がぞろぞろ通った。  新しい家では、今朝早く来た父親と、局を休んで手伝いに来てくれた荻生さんとが、バタバタ畳をたたいたり、雑巾がけをしたり、破れた障子をつくろったりしていた。大家さんは火鉢と茶道具とを運んで来て、にこにこ笑いながら、「何かいるものがありましたなら遠慮なくおっしゃい」と言って、禿頭に頬冠をして尻をまくった父親の姿を立って見ていた。それも十二時ごろにはたいてい片づいて、蕎麦屋からは蕎麦を持って来る。荻生さんは買って来た大福餅を竹の皮包みから出してほおばる。そこの小路にガタガタと車のはいる音がして、清三と母親の顔が見えた。  車力は繩をといて、荷物を庭口から縁側へと運び入れる。父親と荻生さんが先に立って箪笥や行李や戸棚や夜具を室内に運ぶ。長火鉢、箪笥の置き場所を、あれのこれのと考える。母親は襷がけになって、勝手道具を片づけていたが、そこに清三が外から来て、呼吸をきらして水を飲んだ。  母親は手をとどめて、じっと見て、 「どうしたの?」 「少し手伝ったら、呼吸がきれてしかたがない」 「お前は無理をしてはいけないよ。父さんがするから、あまり働かずにおおきよ」  このごろ、ことに弱くなった清三が、母親にはこのうえない心配の種であった。  やがてどうやらこうやらあたりが片づく。「こうしてみると、なかなか住心地がいい」と父親は長火鉢の前で茶を飲みながら言った。車力は庭の縁側に並んで、振舞われた蕎麦をズルズルすすった。  清三と荻生さんは二階に上がって話した。南と西北とがあいているので風通しがいい。それに裏の大家の庭には、栗だの、柿だの、木犀だの、百日紅だのが繁っている。青空に浮いた白い雲が日の光を帯びて、緑とともに光る。二人は足を投げ出して、のんきに話をしていると、そこに母親が茶をいれて持って来てくれる。大福餅を二人して食った。  夜は清三は二階に寝た。久しぶりで家庭の団欒の楽しさを味わったような気がする。雨戸を一枚あけたところから、緑をこしたすずしい夜風がはいって、蚊帳の青い影がかすかに動いた。かれはまんなかに広く蒲団を敷いて、闇の空にチラチラする星の影を見ながら寝た。母親が階段を上って来て、あけ放した雨戸をそッとしめて行ったのはもう知らなかった。  翌日は弥勒に出かけて、人夫を頼んで、書籍寝具などを運んで来た。二階の六畳を書斎にきめて、机は北向きに、書箱は壁につけて並べておいて、三尺の床は古い幅物をかけた。荻生さんが持って来てくれた菖蒲の花に千鳥草を交ぜて相馬焼きの花瓶にさした。「こうしてみると、学校の宿直室よりは、いくらいいかしれんね」と荻生さんはあたりを見回して言った。親しい友だちが同じ町に移転して来たので、なんとなくうれしそうににこにこしている。寺の本堂に寄宿しているころは、清三は荻生さんをただ情に篤い人、親切な友人と思っただけで、自分の志や学問を語る相手としてはつねに物足らなく思っていた。どうしてああ野心がないだろう。どうしてああ普通の平凡な世の中に安心していられるだろうと思っていた。時には自分とは人間の種類が違うのだとさえ思ったことがある。それが今ではまるで変わった。かれは日記に「荻生君はわが情の友なり、利害、道義もってこの間を犯し破るべからず」と書いた。また「かつてこの友を平凡に見しは、わが眼の発達せざりしためのみ。荻生君に比すれば、われははなはだ世間を知らず、人情を解せず、小畑加藤をこの友に比す、今にして初めて平凡の偉大なるを知る」と書いた。  前の足袋屋から天ぷら、大家から川魚の塩焼きを引っ越しの祝いとして重箱に入れてもらった。いずれも「あいそ」という鱗のあらい腹の側の紅い色をした魚で、今が利根川でとれる節だという。米屋、炭屋、薪屋なども通いを持って来た。父親は隣近所の組合を一軒一軒回って歩いた。清三は午後から二階の六畳に腹ばいになって、東京や行田や熊谷の友人たちに転居の端書を書いた。寺にも出かけて行ったが、ちょうど葬式で、和尚さんは忙しがっていたので、転居のことを知らせておいて帰って来た。  大家の主人はおもしろい話好きの人であった。店は息子に譲って、自分は家作を五軒ほど持って、老妻と二人で暮らしているというのんきな身分、釣と植木が大好きで、朝早く大きな麦稈帽子をかぶって、笭箵を下げて、釣竿を持って、霧の深い間から木槿の赤く白く見える垣の間の道を、てくてくと出かけて行く。そして日の暮れるころには、笭箵の中に金色をした鮒や鯉をゴチャゴチャ入れて帰って来る。店子はおりおり擂り鉢にみごとな鮒を入れてもらうことなどもある。釣に行かぬ時は、たいてい腰を曲げて盆栽や草花などを丹念にいじくっている。そうかといってべつにたいしたものがあるのでもない。楓に、欅に、檜に、蘇鉄ぐらいなものだが、それを内に入れたり出したりして、楽しみそうに眺めている。花壇にはいろいろ西洋種もまいて、天竺牡丹や遊蝶草などが咲いている。コスモスもだいぶ大きくなった。また時には、はだしになって垣の隅の畠を一生懸命に耕していることなどもあった。  農繁休暇はなおしばし続いた。一週間で授業を始めてみたが、麦刈り養蚕田植えなどがまだすっかり終わらぬので、出席生徒の数は三分の一にも満たなかった。で、いま一週間休暇をつづけることにする。清三は午後は二階の風通しのいいところでよく昼寝をした。あまり長く寝込んで西日に照らされて、汗をぐっしょりかいていることなどもあった。町も郊外もしばしの間はめずらしく、雨の降らぬ日には、たいてい画架をかついで写生に出かけた。警察のそばの道に沿った汚ない溝には白い小さい花がポチポチ咲いて、さびた水に夢見るような赤いねむの花がかすかにうつった。寺の門、町はずれから見たる日光群山、桑畑の鶏、路傍の吹き井、うどんひもかわと書いた大和障子などの写生がだんだんできた。  夜は大家の中庭の縁側に行って話した。戦争の話がいつも出る。二三日前荻生さんから借りた戦争画報を二三冊また借してやったが、それについてのいろいろの質問が出る。「どうももう旅順が取れそうなものですがなア」とさももどかしそうに主人は言って、「それにもう、陸軍のほうもよほど行ったんでしょう。第一軍は九連城を取ってから、ねっから進まんじゃありませんか。第二軍は蓋平からもうよほど行ったんですか」  清三は新聞や雑誌で、得た知識で、第一軍第二軍が近いうちに連絡して遼陽のクロパトキン将軍の本営に迫る話をして聞かした。旅順の方面については、海陸ともにひしひしと押し寄せて、敵はもう袋の鼠になってしまったから、こっちのほうは遼陽よりも早く片づくはずである。「来月の十五日ぐらいまでにはきっと取れるッて校長なども言うんです。私はいま少し遅くなるかもしれないと思いますけれど、なにしろもうじきですな」などと清三は言って聞かせた。 「なにしろ、日本は小さいけれども、挙国一致ですからかないませんやな。どんな百姓でも、無知な人間でも、戦争ッていえば一生懸命ですからな……天子様も国民の後援があって、さぞ御心丈夫でいらっしゃるでしょう」と感嘆したような調子で言って、「日本は昔からお武士でできた国ですからなア!」  大家はまた釣の話をして聞かせることがあった。清三が胃腸を悩んでいるとかいうのを聞いて、「どうです、一ついっしょに出かけてみませんか。そういう病気には、気が落ち着いてごくいいですがな」こんなことを言って誘った。その場所はここから一里ぐらい行ったところで、田のところどころに掘切がある。そこには葦荻が人をかくすぐらいに深く生い茂っている。鮒や鯉やたなごなどのたくさんいるのといないのとがある。そのいるところを大家さんはよく知っていた。  二人で話している縁側の上に、中老の品のいい細君は、岐阜提灯をつるしてくれた。  時には母親と荻生さんと三人つれだって町を歩くこともあった。今年は「から梅雨」で、雨が少なかった。六月の中ごろにすでに寒暖計が八十九度まであがったことがあった。七月にはいってから、にわかに暑さが激しく、田舎町の夜には、縁台を店先に出して、白地の浴衣をくっきりと闇に見せて、団扇をバタバタさせている群れがそこにもここにも見えた。母親は買い物をする町の店に熟していないので、そうした夜の散歩には、荻生さんがここが乾物屋、ここが荒物屋、呉服屋ではこの家が一番かたいなどと教えてくれた。下駄屋の店には、中年のかみさんが下駄の鼻緒の並んだ中に白い顔を見せてすわっていた。鍛冶屋にはランプが薄暗くついて、奥では話し声が聞こえていた。水のような月が白い雲に隠れたりあらわれたりして、そのたびごとにもつれた三つの影が街道にうつったり消えたりする。  用水の橋の上は涼しかった。納涼に出た人々がぞろぞろ通る。冬や春は川底に味噌漉のこわれや、バケツの捨てたのや、陶器の欠片などが汚なく殺風景に見えているのだが、このごろは水がいっぱいにみなぎり流れて、それに月の光や、橋のそばに店を出している氷屋の提灯の灯影がチラチラとうつる、流れる水の影が淡く暗く見える。向こうの料理店から、三絃の音が聞こえた。  三人は氷店に休んで行くこともある。母親は帰りに、八百屋に寄って、茄子や白瓜などを買う。局の前で、清三は母親を先に帰して、荻生さんの室で十時過ぎまで話して行くことなどもあった。 五十一  七月十五日の日記にかれはこう書いた。 「杜国亡びてクルーゲル今また歿す。瑞西の山中に肺に斃れたるかれの遺体は、故郷のかれが妻の側に葬らるべし。英雄の末路、言は陳腐なれど、事実はつねに新たなり。英雄クルーゲル元トランスヴァール共和国大統領ホウル・クルーゲル歿す。歴史はつねにかくのごとし」 五十二  医師はやっぱり胃腸だと言った。けれど薬はねっから効がなかった。咳がたえず出た。体がだるくってしかたがなかった。ことに、熱が時々出るのにいちばん困った。朝は病気が直ったと思うほどいつも気持ちがいいが、午後からはきっと熱が出る。やむなく発汗剤をのむと、汗がびっしょりと出て、その心持ちの悪いことひととおりでない。顔には血の気がなくなって、肌がいやに黄ばんで見える。かれはいく度も蒼白い手を返して見た。 「お前ほんとうにどうかしたのじゃないかね。しっかりした医師にかかってみるほうがいいんじゃないかね」  母親は心配そうにかれの顔を見た。  学校はやがて始まった。暑中休暇まではまだ半月ほどある。それに七時の授業始めなので、朝が忙しかった。母親は四時には遅くも起きて竃の下を焼きつけた。清三は薬瓶と弁当とをかかえて、例の道をてくてくと歩いて通った。一里半の通いなれた路──それにもかれはいちじるしい疲労を覚えるほどその体は弱くなっていた。それに、このごろでは滋養品をなるたけ多く取る必要があるので、毎日牛乳二合、鶏卵を五個、その他肉類をも食った。移転の借金をまだ返さぬのに、毎日こうして少なからざる金がかかるので、かれの財布はつねにからであった。馬車に乗りたくも、そんな余裕はなかった。 五十三  八阪神社の祭礼はにぎやかであった。当年は不景気でもあり、国家多事の際でもあるので、山車も屋台もできなかったが、それでも近在から人が出て、紅い半襟や浅黄の袖口やメリンスの帯などがぞろぞろと町を通った。こういう人たちは、氷店に寄ったり、瓜店の前で庖丁で皮をむいてもらって立ち食いをしたり、よせ切れの集まった呉服屋の前に長い間立ってあれのこれのといじくり回したりした。大きな朱塗の獅子は町の若者にかつがれて、家から家へと悪魔をはらって騒がしくねり歩いた。清三が火鉢のそばにいると、そばの小路に、わいしょわいしょという騒がしい懸け声がして、突然獅子がはいって来た。草鞋をはいた若者は、なんの会釈もなく、そのままずかずかと畳の上にあがって、 「やあ!」  と大きな獅子の口をあけて、そのまま勝手もとに出て行った。  母親は紙に包んだおひねりを獅子の口に入れた。一人息子のために、悪魔を払いたまえ! と心に念じながら……。 五十四  母親は二階の床の間に、燃ゆるような撫子と薄紫のあざみとまっ白なおかとらのおと黄いろいこがねおぐるまとを交ぜて生けた。時には窓のところにじっと立って、夕暮れの雲の色を見ていることもあった。そのやせた後ろ姿を清三は悲しいようなさびしいような心地でじっと見守った。  父親は二階の格子を取りはずしてくれた。光線は流るるように一室にみなぎりわたった。窓の下には足長蜂が巣を醸してブンブン飛んでいた。大家の庭樹のかげには一本の若竹が伸びて、それに朝風夕風がたおやかに当たって通った。 五十五  五月六日には体量十二貫五百目、このごろ郵便局でかかってみると、単衣のままで十貫六百目、荻生さんは十三貫三百目。  ある日、田原ひで子が学校に来て手紙を小使に頼んでおいて行った。手紙の中には、手ずから折った黄いろい野菊の花が封じ込んであった。「野の菊は妾の愛する花、師の君よ、師の君よ、この花をうつくしと思ひたまはずや」と書いてあった。  暑中休暇前一二日の出勤は、かれにとってことにつらかった。その初めの日は帰途に驟雨に会い、あとの一日は朝から雨が横さまに降った。かれは授業時間の間々を宿直室に休息せねばならぬほど困憊していた。それに今月の月給だけでは、薬代、牛乳代などが払えぬので、校長に無理に頼んで三円だけつごうしてもらった。  旅順陥落の賭に負けたからとて、校長は鶏卵を十五個くれたが、それは実は病気見舞いのつもりであったらしい。教員たちは、「もうなんのかのと言っても旅順はじきに相違ないから、その時には休暇中でも、ぜひ学校に集まって、万歳を唱えることにしよう」などと言っていた。清三は八月の月給を月の二十一日にもらいたいということをあらかじめ校長に頼んで、馬車に乗ってかろうじて帰って来た。  暑中休暇中には、どうしても快復させたいという考えで、清三は医師を変えてみる気になった。こんどの医師は親切で評判な人であった。診察の結果では、どうもよくわからぬが、十二指腸かもしれないから、一週間ばかりたって大便の試験をしてみようと言った。肺病ではないかときくと、そういう兆候は今のところでは見えませんと言った。今のところという言葉を清三は気にした。 五十六  滋養物を取らなければならぬので、銭もないのに、いろいろなものを買って食った。鯉、鮒、鰻、牛肉、鶏肉──ある時はごいさぎを売りに来たのを十五銭に負けさせて買った。嘴は浅緑色、羽は暗褐色に淡褐色の斑点、長い足は美しい浅緑色をしていた。それをあらくつぶして、骨をトントンと音させてたたいた。それにすらかれは疲労を覚えた。  泥鰌も百匁ぐらいずつ買って、猫にかかられぬように桶に重石をしてゴチャゴチャ入れておいた。十尾ぐらいずつを自分でさいて、鶏卵を引いて煮て食った。寺の後ろにはこの十月から開通する東武鉄道の停車場ができて、大工がしきりに鉋や手斧の音を立てているが、清三は気分のいい夕方などには、てくてく出かけて行って、ぽつねんとして立ってそれを見ていることがある。時には向こうの野まで行って花をさがして来ることもある。えのころ、おひしば、ひよどりそう、おとぎりそう、こまつなぎ、なでしこなどがあった。  新聞にはそのころ大石橋の戦闘詳報が載っていた。遼陽! 遼陽! という文字が至るところに見えた。ある日、母親は急性の胃に侵されて、裁縫を休んで寝ていた。物を食うとすぐもどした。そして吃逆も激しく出た。土用のあけた日で、秋風の立ったのがどことなく木の葉のそよぎに見える。座敷にさし入る日光から考えて、太陽も少しは南に回ったようだなどと清三は思った。そこに郁治がひょっくり高等師範の制帽をかぶった姿を見せた。この間うちから帰省していて、いずれ近いうちに新居を訪問したいなどという端書をよこしたが、今日は加須まで用事があってやって来たから、ふと来る気になって訪ねたという。郁治は清三のやせ衰えた姿に少なからず驚かされた。それに顔色の悪いのがことに目立った。  親しかった二人は、夕日の光線のさしこんだ二階の一間に相対してすわった。相変わらず親しげな調子であるが、言葉は容易に深く触れようとはしなかった。時々話がとだえて黙っていることなどもあった。 「小畑はこの間日光に植物採集に出かけて行ったよ」  こんなことを言って、郁治はとだえがちなる話をつづけた。  清三は、「君、帰ったら、ファザーに一つ頼んでみてくれたまえな。どうもこう体が弱っては、一里半の通勤はずいぶんつらいから、この町か、近在かにどこか転任の口はないだろうかッて……。弥勒ももうずいぶん古参だから、居心地は悪くはないけれど、いかにしても遠いからね、君」  こう言って転任運動を頼んだ。  夕餐には昨夜猫に取られた泥鰌の残りを清三が自分でさいてご馳走した。母親が寝ているので、父親が水を汲んだり米をたいたり漬け物を出したりした。  郁治は見かねてよほど帰ろうとしたが、あっちこっちを歩いて疲れているので、一夜泊めてもらって行くことにした。 「郁さんがせっかくおいでくだすったのに、あいにく私がこんなふうで、何もご馳走もできなくって、ほんとうに申しわけがない」  しげしげと母親は郁治の顔を見て、 「郁さんのように、家のも丈夫だといいのだけれど……どうも弱くってしかたがないんですよ。……それに郁さんなぞは。学校を卒業さえすれば、どんなにもりっぱになれるんだから、母さんももう安心なものだけれど……」  しみじみとした調子で言った。  美穂子の話が出たのは、二人が蚊帳の中にはいって寝てからであった。学校を出るまではお互いに結婚はしないが、親と親との口約束はもうすんだということを郁治は話した。 「それはおめでたい」  と清三がまじめに言うと、 「約束をきめておくなんて、君、つまらぬことだよ」 「どうして?」 「だッて、お互いに弱点が見えたりなんかして、中途でいやになることがないとも限らないからね」 「そんなことはいかんよ、君」 「だッてしかたがないさ、そういう気にならんとも限らんから」 「そんなふまじめなことを言ってはいかんよ、君たちのように前から気心も知れば、お互いの理想も知っているのだから、苦情の起こりっこはありゃしないよ。僕なども同じ仲間だから、君らの幸福なのを心から祈るよ、美穂子さんにも久しく会わないけれど、僕がそう言ったッて言ってくれたまえ」  いつもの軽い言葉とは聞かれぬほどまじめなので、 「うむ、そう言うよ」と郁治も言った。  蚊帳の外のランプに照らされた清三の顔は蒼白かった。咳がたえず出た。熱が少し出てきたと言って、枕もとに持って来ておいた水で頓服剤を飲んだ。二人の胸には、中学校時代、「行田文学」時代のことが思い出されたが、しかも二人とも何ごとをも語らなかった。郁治の胸にははなやかな将来が浮かんだ。「不幸な友!」という同情の心も起こった。  あまり咳が出るので、背をたたいてやりながら、 「どうもいかんね」 「うむ、治らなくって困る」  汗が寝衣をとおした。 「石川はどうした?」  と、しばらくしてから、清三がきいた。 「つい、この間、東京から帰って来た」と郁治は言って、「あまり道楽をするものだから、家でも困って、今度足どめに、いよいよ嫁さんが来るそうだ」 「どこから?」 「なんでも川越の財産家で跡見女学校にいた女だそうだ。容色望みという条件でさがしたんだから、きっと別嬪さんに違いないよ」 「先生も変わったね?」 「ほんとうに変わった。雑誌をやってる時分とはまるで違う」  それから同窓の友だちの話がいろいろ出た。窓からは涼しい風がはいる……。  翌朝、郁治が眼をさましたころには、清三は階下で父親を手伝って勝手もとをしていた。いまさらながら、友の衰弱したのを郁治は見た。小畑に聞いたが、これほどとは思わなかった。朝の膳には味噌汁に鶏卵が落としてあった。清三は牛乳一合にパンを少し食った。二人は二階にまたすわってみたが、もうこれといって話もなかった。  郁治が帰る時に、 「それじゃ学校の話、一つ運動してみてくれたまえ」  清三はくり返して頼んだ。  母親の病気ははかばかしくなかった。三度々々食物も満足に咽喉に通らなかった。父親が商売に出たあとでは、清三がお粥をこしらえたり、好きなものを通りに出て買って来てやったりする。また父親と縁側に東京仕入れの瓜を二つ三つ桶に浮かせて、皮を厚くむいて二人してうまそうに食っていることもある。そういう時には清三は皿に瓜のさいたのを二片三片入れて、食う食わぬにかかわらず、まず母親の寝ている枕もとに置いた。母子の情合いは病んでからいっそう厚くなったように思われた。どうかすると、清三の顔をじっと見て、母親が涙をこぼしていることもあった。清三はまた清三で、めったに床についたことのない母親の長い病気を気にして医師にかかることをうるさく勧めると、「お前の薬代さえたいへんなのに、私までかかっては、それこそしかたがない。私のはもう治るよ、明日は起きるよ」と母親は言った。  二階の一間は新聞が飛ぶほど風が吹き通すこともあれば、裏の木の上に夕月が美しくかかって見えることもあった。けれど東がふさがっているので、朝日にはつねに縁遠く清三は暮らした。朝の眺めとしては、早起きをした時北窓の雲に朝日が燃えるようにてりはえるのを見るくらいなものであった。  弥勒野はこのごろは草花がいつも盛りであった。清三は関さんに手紙を書いた。「このごろは座敷の運動のみにて、野に遠ざかり居り候へば、草花の盛りも見ず、遺憾に候。弥勒野、才塚野、君の採集にはさぞめづらしき花を加へたまひしならん。秋海棠今歳は花少なく、朝顔もかはり種なく、さびしく暮らし居り候」  毎日二三回ずつの下痢、胃はつねに激しき渇きを覚えた。動かずにじっとしていれば、健康の人といくらも変わらぬほどに気分がよいが、労働すれば、すぐ疲れて力がなくなる。医師は一週間目に大便の試験をしたが、十二指腸虫は一疋もいず、ベン虫の卵が一つあったばかりであった。けれどこれは寄生虫でないから害はない。ふつう健康体にもよくいる虫だと医師はのんきなことを言った。母親の病気はまだすっかり治らなかった。もうかれこれ十一二日目になる。按摩を頼んでもませてみたり、ご祈祷を近所の人がやって来て上げてくれたりした。ついでに清三もこのご祈祷を上げてもらった。  清三はこのころから夜が眠られなくて困った。いよいよ不眠性の容易ならざる病状が迫ってきたことを医師はようやく気がつき始めた。旅順の海戦──彼我の勝敗の決した記憶すべき十日の海戦の詳報のしきりに出るころであった。アドミラル、トオゴーの勇ましい名が、世界の新聞雑誌に記載せらるるころであった。  医師はある日やって来て、あわてて言った。「どうも永久的衰弱ですからなア」こう言ってすぐ言葉を続けて、「あまり無理をしてはいけません。第一、少しよくなっても、一里半も学校に通ってはいけません。一年ぐらい海岸にでも行っているといいですがな」  それから葡萄酒を飲用することを勧めた。 五十七  医師の言葉を書いて、ぜひ九月の学期までに近い所に転任したいが、君に一任してよきや、みずから運動すべきやと郁治のもとに書いてやると、折りかえして返事が来て、視学に直接に手紙をやれ、羽生の校長にも聞いてみろ、自分もそのうち出かけて運動してやると書いてあった。  だんだん秋風が立ち始めた。大家で飼っておいたくさひばりが夕暮れになるといつもいい声を立てて鳴いた。床柱の薔薇の一輪揷し、それよりも簀戸をすかして見える朝顔の花が友禅染めのように美しかった。  一日、午後四時ごろの暑い日影を受けて、例の街道を弥勒に行く車があった。それには清三が乗っていた。月の俸給を受け取るためにわざわざ出かけて来たのであった。学校はがらんとして、小使もいなかった。関さんも、昨日浦和に行ったとて不在であった。  宿直室にはなかば夕日がさしとおった。テニスをやるものもないとみえて、網もラッケットも縁側の隅にいたずらに束ねられてある。事務室の硯箱の蓋には塵埃が白く、椅子は卓の上に載せて片づけられたままになっている。影を長く校庭にひいた清三のやせはてた姿は、しずかに廊下をたどって行った。  教室にはいってみた。ボールドには、授業の最後の時間に数学を教えた数字がそのままになっている。12+15=27と書いてある。チョークもその時置いたままになっている。ここで生徒を相手に笑ったり怒ったり不愉快に思ったりしたことを清三は思い出した。東京に行く友だちをうらやみ、人しれぬ失恋の苦しみにもだえた自分が、まるで他人でもあるかのようにはっきりと見える。色の白い、肉づきのいい、赤い長襦袢を着た女も思い出された。  オルガンが講堂の一隅に塵埃に白くなって置かれてあった。何か久しぶりで鳴らしてみようと思ったが、ただ思っただけで、手をくだす気になれなかった。  やがて小使が帰って来た。かれもちょっと見ぬ間に、清三のいたく衰弱したのにびっくりした。  じろじろと不気味そうに見て、 「どうも病気がよくねえかね?」 「どうもいかんから、近いところに転任したいと思っているよ……今度の学期にはもう来られないかもしれない。長い間、おなじみになったが、どうもしかたがない……」 「それまでには治るべいかな」 「どうもむずかしい──」  清三は嘆息をした。  小川屋にはもう娘はいなかった。この春、加須の荒物屋に嫁いて行った。おばあさんが茶を運んで来た。  すぐ目につけて、 「林さんなア、どうかしたかね」 「どうも病気が治らなくって困る」 「それア困るだね」  しみじみと同情したような言葉で言った。夕飯は粥にしてもらって、久しぶりでさいの煮つけを取って食った。庭には鶏頭が夕日に赤かった。かれは柱によりかかりながら野を過ぎて行く色ある夕べの雲を見た。 五十八  転任については、郁治も来て運動してくれた。町の高等も尋常も聞いてみたが、欠員がなかった。弥勒の校長からは、「不本意ではあるが、病気なればしかたがない、いいように取り計らうから安心したまえ」と言って来た。けれど他から見ては、もう教員ができるような体ではなかった。  ある日、荻生さんが、母親に、 「どうも今度の病気は用心しないといけないって医師が言いましたよ。どうも肺という徴候はないようだが、ただの胃腸とも違うようなところがあると言ってました。なんにしても足に腫気がきたのはよくないですな……医師の見立てが違っているのかもしれませんから、行田の原田につれて行って見せたらどうです? 先生は学士ですし、評判がいいほうですから」  そして、そういうつもりがあるなら、自分が一日局を休んでつれて行ってやってもいいと言った。 「どうも、ご親切に……お礼の申し上げようもない」  母親の声は涙に曇った。  弥勒に俸給を取りに行った翌日あたりから、脚部大腿部にかけておびただしく腫気が出た。足も今までの足とは思えぬほどに甲がふくれた。それに、陰嚢もその影響を受けて、起ち居にもだんだん不自由を感じて来る、医師は罨法剤と睾丸帯とを与えた。  蘇鉄の実を煎じて飲ませたり、ご祈祷を枕もとであげてもらったり、不動岡の不動様の御符をいただかせたり、いやしくも効験があると人の教えてくれたものは、どんなことでもしてみたが、効がなかった。秋風が立つにつれて、容体の悪いのが目に立った。  やがて盂蘭盆がきた。町の大通りには草市が立って、苧殻や藺蓆やみそ萩や草花が並べられて、在郷から出て来た百姓の娘たちがぞろぞろ通った。寺の和尚さんは紫の衣を着て、小僧をつれて、忙しそうに町を歩いて行った。茄子や白瓜や胡瓜でこしらえた牛や馬、その尻尾には畠から取って来た玉蜀黍の赤い毛を使った。どこの家でも績殻で杉の葉を編んで、仏壇を飾って、代々の位牌を掃除して、萩の餅やら団子やら新里芋やら玉蜀黍やら梨やらを供えた。  女の児は新しい衣を着て、いそいそとしてあっちこっちに遊んでいた。  十三日の夜には迎え火が家々でたかれる。通りは警察がやかましいので、昔のように大仕掛けな焚火をするものもないが、少し裏町にはいると、薪を高く積んで火を燃している家などもあった。まわりに集まった子供らはおもしろがってそれを飛んだりまたいだりする。清三の家では、その日父親が古河に行ってまだ帰って来なかったので、母親は一人でさびしそうに入り口にうずくまって、績がらを集めて形ばかりの迎え火をした。大家の入り口にはいま少し前焚いた火の残りが赤く闇に見える。  軒には昨年の盆に清三が手ずから書いた菊の絵の燈籠がさげてある。清三は便所に通うのに不便なので、四五日前から、床を下の六畳に移した。  風にゆらぐ盆燈籠をかれはじっと見ていた。大家の軒の風鈴の鳴る音がかすかに聞こえる。仏壇には灯がついていて、蓮の葉の上に供えた団子だの、茄子や白瓜でつくった牛馬だの、真鍮の花立てにさしたみそ萩などが額縁に入れた絵のように見える。明るい仏壇の中はなんだか別の世界でもあるかのように清三には思われた。  母親がそこへはいって来て、 「病気でないと、政一(弟の名)のところにもお参りに行ってもらうんだけれど……今年は花も上げてくれる人もないッてさびしがっているだろう」 「ほんとうにさ……」 「父さんがつごうがよければ行ってもらいたいと思っていたんだけれど……」 「ほんとうに、遠くなって淋しがっているだろう」  清三は亡くなった弟をしみじみ思った。 「明日あたり私がお参りに行こうかと思っているけれど……」 「ナアに、治ってから行くからいいさ」  しばらく黙った。  母子の胸には今月の払いのことがつかえている。薬代、牛乳──それだけでもかなり多い。今月は父親のかせぎがねっからだめだった上に、母親も病気で毎月ほど裁縫をしなかった。先ほど、医師から勘定書きを書生が持って来たのを母親は申しわけなさそうにことわっていた。 「なアに、父さんが帰って来れば、どうにかなるから、心配せずにおいでよ」  と母親はその時言った。  父親が帰って来てもだめなことを清三は知っている。 「病気さえしなけりゃなア!」  と清三は突然言った。  やがて言葉をついで、「こんな病気にかかりさえしなけりゃ、今年はちっとは母さんにも楽をさせられたのになア!」  母親はオドオドして、 「そんなことを思わないほうがいいよ。それより養生して!」 「ナアに、こんな病気に負けておりゃせんから、母さん。心配しないほうがいいよ。今死んでは、生まれて来たかいがありゃしない」 「ほんとうともねえ、お前」 「世の中というものは思いのままにならないもんだ!」  言葉は強かったが、一種の哀愁は仏壇の灯のみ明るい一室に充ちわたった。         *    *    *    *    *  隣近所では病人が日増しに悪くなるのを知った。医師が毎日鞄を下げてやって来る。荻生さんが心配そうな顔をしてちょいちょい裏からはいって来る。一週間前までは、蒼白にやせはてた顔をして、頭髪をぼうぼうさせて、そこらをぶらぶらしている病人の姿を人々はよく見かけたが、このごろでは、もうどっと床について、枕を高く、やせこけて、螽斯のようになった手を蒲団の外になげだすようにして寝ているのが垣の間から見える。井戸端などで母親に容体を聞くと、「どうも少しでもいいほうに向かってくれるといいのですけれど……」と言って、さもさも心配にたえぬような顔をした。  肺病だろうということは誰も皆前から想像していた。「どうも咳嗽の出るのが変だと思ってました」と隣りの足袋屋の細君が言った。「どうも肺病だッてな、あの若いのに気の毒だなア。話好きなおもしろい人だのに……」と大家の主人も老妻に言った。「一人息子をあれまで育てて、これからかかろうという矢先にそんな悪い病気に取っつかれては……」と老妻はしみじみと同情した。あっちこっちから見舞いを持って行くものなどもだんだん多くなる。大家の主人がある日一日釣って来た鮒を摺り鉢に入れて持って行ってやると、めずらしがッて、病人はわざわざ起きて来て見た。それから梨を持って来るものもあれば林檎を持って来るものもある。中には五十銭銀貨を一つ包んで来るものもあった。  転任のむずかしいこと、たとえ転任ができても、この体では毎日の出勤はおぼつかないということがしだいに病人にもわかってきた。かれは郁治にあてて、病気で休んでいれば何か月間俸給がおりるかということを父の郡視学に聞いてもらうように手紙を書いた。やがてその返事が来て埼玉県令十号の十三条に六十日の病気欠席は全俸(願書診断書付き)その以後二か月半俸としてあることを報じて来た。 五十九  行田の町の中ほどに西洋造りのペンキ塗りのきわだって目につく家があった。陶器の標札には医学士原田龍太郎とあざやかに見えて、門にかけた原田医院という看板はもう古くなっていた。  午前十時ごろの晴れた日影は硝子をとおした診察室の白いカアテンを明るく照らした。  診察が終わって、そこから父親と荻生さんとにたすけられて出て来たのは、二三日来ますます衰弱した清三であった。荻生さんが万一を期して、ヤイヤイ言ってつれて来た親切は徒労に帰した。医師は父親と友とに絶望的宣告を与えたようなものであった。  荻生さんが懇意なので、別室できくと、 「いま少し早くどうかすることができそうなものだった」  医師はこう言った。 「やっぱり、肺でしょうか」 「肺ですな……もう両方とも悪くなっている!」  荻生さんはどうすることもできなかった。眼眩がしてそこに立っていられぬ病人をほとんどかかえるようにして車に乗せた。「車に乗せてつれて来るのはちとひどかったね」と言った医師の言葉を思い出して、「医師をよんでは車代がたいへんだから……五円ではあがらないから、私が車に乗せてつれて行ってあげる」と言ったことを悔いた。  その二里の街道には、やはり旅商人が通ったり、機回りの車が通ったり、自転車が走ったりしていた。尻をまくって赤い腰巻を出して歩いて行く田舎娘もあった。もう秋風が野に立って、背景をつくった森や藁葺屋根や遠い秩父の山々があざやかにはっきり見える。豊熟した稲は涼しい風になびきわたった。  幌をかけた車はしずかに街道をきしって行った。  七色の風船玉を売って歩く老爺のまわりには、村の子供がたかっていた。 六十  寺の和尚さんが鶏卵の折りを持って見舞いに来た。  和尚さんもしばらく会わぬ間に、こうも衰弱したかとびっくりした。  わざと戦争の話などをする。 「旅順がどうも取れないですな」 「どうしてこう長びくんでしょう」 「ステッセルも一生懸命だとみえますな。まだ兵力が足りなくって第八師団も今度旅順に向かって発つという噂ですな」 「第九に第十二に、第一に……、それじゃこれで四個師団……」 「どうもあそこを早く取ってしまわないんではしかたがないんでしょう」 「なかなか頑強だ!」  と言って、病人は咳嗽をした。  やがて、 「遼陽のほうは?」 「あっちのほうが早いかもしれないッていうことですよ。第一軍はもう楡樹林子を占領して遼陽から十里のところに行ってますし、第二軍は海城を占領して、それからもっと先に出ているようですし……」 「ほんとうに丈夫なら、戦争にでも行くんだがなア」  と清三は慨嘆して、「国家のために勇ましい血を流している人もあるし、千載の一遇、国家存亡の時にでっくわして、廟堂の上に立って天下とともに憂いている政治家もあるのに……こうしてろくろくとして病気で寝てるのはじつに情ない。和尚さん、人間もさまざまですな」 「ほんとうですな」  和尚さんも笑ってみせた。  しばらくして、 「原さんから便りがありますか?」 「え、もう帰って来ます。先生も海城で病気にかかって、病院に一月もいたそうで……来月の初めには帰って来るはずです」 「それじゃ遼陽は見ずに……」 「え」  衰弱した割合いには長く話した。寺にいる時分の話なども出た。  その翌日は弥勒の校長さんが見舞いにやって来た。 「こんなになってしまいました」  と細い手を出して見せた。 「学校のほうはいいようにしておきますから、心配せずにおいでなさい、欠席届けさえ出しておくと、二月は俸給がおりるんですから」  校長さんはこう言った。  戦争の話が出ると、 「おそくも、休暇中には旅順が取れると思ったですけれどなア。よほどむずかしいとみえますな。このごろじゃ容易に取れないなんて、悲観説が多いじゃないですか。常陸丸にいろいろ必要な材料が積んであったそうですな」  こんなことを言った。  二三日して、今度は関さんが来た。女郎花と薄とを持って来てくれた。弥勒の野からとったのであると言った。母親は金盥に水を入れて、とりあえずそれを病人の枕もとに置いた。清三はうれしそうな顔をしてそれを見た。  関さんはやがて風呂敷包みから、紙に包んだ二つの見舞いの金を出した。一つには金七円、生徒一同よりとしてあった。一つは金五円、下に教員連の名前がずらりと並べて書いてあった。 六十一  遼陽の戦争はやがて始まった。国民の心はすべて満州の野に向かって注がれた。深い沈黙の中にかえって無限の期待と無限の不安とが認められる。神経質になった人々の心はちょっとした号外売りの鈴の音にもすぐ驚かされるほどたかぶっていた。そうしている間にも一日は一日とたつ。鞍山站から一押しと思った首山堡が容易に取れない。第一軍も思ったように出ることができない。雨になるか風になるかわからぬうちに、また一日二日と過ぎた。──その不安の情が九月一日の首山堡占領の二号活字でたちまちにしてとかれたと思うと、今度は欝積した歓呼の声が遼陽占領の喜ばしい報につれて、すさまじい勢いで日本全国にみなぎりわたった。  遼陽占領! 遼陽占領! その声はどんなに暗い汚ない巷路にも、どんな深い山奥のあばら家にも、どんなあら海の中の一孤島にも聞こえた。号外売りの鈴の音は一時間といわずに全国に新しいくわしい報をもたらして行く。どこの家でもその話がくり返される、その激しかった戦いのさまがいろいろに色彩をつけて語り合わされる。太子河の軍橋を焼いて退却した敵将クロパトキンは、第一軍の追撃に会ってまったく包囲されてしまったという虚報さえ一時は信用された。  全都国旗をもって埋まるという記事があった。人民の万歳の声が宮城の奥まで聞こえたということが書いてあった。夜は提灯行列が日比谷公園から上野公園まで続いて、桜田門付近馬場先門付近はほとんど人で埋めらるるくらいであったという。京橋日本橋の大通りには、数万燭の電燈が昼のように輝きわたって、花電車が通るたびに万歳の声が終夜聞こえたという。  清三はもう十分に起き上がることができなかった。容体は日一日に悪くなった。昨日は便所からはうようにしてかろうじて床にはいった。でも、その枕もとには、国民新聞と東京朝日新聞とが置かれてあって、やせこけて骨立った手が時々それを取り上げて見る。  遼陽の占領が始めて知れた時、かれは限りない喜びを顔にたたえて、 「母さん! 遼陽が取れた!」  とさもさもうれしそうに言った。  それからいろいろな話を母親にしてきかせた。二千何人という死傷者の話をもしてきかせた。戦争の話をする時は、病気などは忘れたようであった。蒼白いやせた顔にもほのかに血が上った。医師が来て、新聞などは読まないほうがいいと言った。病人自身にしても、細かい活字をたどるのはずいぶん難儀であった。手に取っても五分と持っていられない。疲れてじきそばに置いてしまった。時には半分読みかけた頁を、鬚の生えたやせた顔の上に落として、しばらくじっとしていることなどもある。  日本が初めて欧州の強国を相手にした曠古の戦争、世界の歴史にも数えられるような大きな戦争──そのはなばなしい国民の一員と生まれて来て、その名誉ある戦争に加わることもできず、その万分の一を国に報いることもできず、その喜びの情を人並みに万歳の声にあらわすことすらもできずに、こうした不運な病いの床に横たわって、国民の歓呼の声をよそに聞いていると思った時、清三の眼には涙があふれた。  屍となって野に横たわる苦痛、その身になったら、名誉でもなんでもないだろう。父母が恋しいだろう。祖国が恋しいだろう。故郷が恋しいだろう。しかしそれらの人たちも私よりは幸福だ──こうして希望もなしに病の床に横たわっているよりは……。こう思って、清三ははるかに満州のさびしい平野に横たわった同胞を思った。 六十二  枕もとにすわった医師の姿がくっきりと見えた。  父親はそれに向かって黙然としていた。母親は顔をおおって、たえずすすりあげた。  室のまんなかにつったランプは、心が出過ぎてホヤがなかば黒くなっていた。室には陰深の気が充ちわたって、あたりがしんとした。鬚を長く、頬骨が立って、眼をなかば開いた清三の死に顔は、薄暗いランプの光の中におぼろげに見えた。  医師の注射はもう効がなかった。  母親のすすりあげる声がしきりに聞こえる。  そこに、戸口にけたたましい足音がして、白地の絣を着た荻生さんの姿があわただしくはいって来たが、ずかずかと医師と父親との間に割り込んですわって、 「林君! ……林君! もう、とうとうだめでしたか!」  こう言った荻生さんの頬を涙はホロホロと伝った。  母親はまたすすりあげた。  遼陽占領の祭りで、町では先ほどから提灯行列がいくたびとなくにぎやかに通った。どこの家の軒にも鎮守の提灯が並んでつけてあって、国旗が闇にもそれと見える。二三日前から今日占領の祭りをするという広告をあっちこっちに張り出したので、近在からも提灯行列の群れがいく組となくやって来た。荻生さんは危篤の報を得て、その国旗と提灯と雑踏の中を、人を突き退けるようにして飛んで来た。一時間ほど前には清三はその行列の万歳の声を聞いて、「今日は遼陽占領の祭りだね」と言って、そのにぎやかな声に耳を傾けていた……。  今、またその行列が通る。万歳を唱える声がにぎやかに聞こえる。やがて暇を告げた医師は、ちょうどそこに酸漿提灯を篠竹の先につけた一群れの行列が、子供や若者に取り巻かれてわいわい通って行くのに会った。 「万歳! 日本帝国万歳」 六十三  昼間では葬式の費用がかかるというので、その翌日、夜の十一時にこっそり成願寺に葬ることにした。  荻生さんは父親をたすけてなにかれと奔走した。町役場にも行けば、桶屋に行って棺をあつらえてもやった。和尚さんは戦地から原杏花が帰るのを迎えに東京に行ってあいにく不在なので、清三が本堂に寄宿しているころ、よく数学を教えてやった小僧さんがお経を読むこととなった。近所の法類からしかるべき導師を頼むほどの御布施が出せなかったのである。  夜は星が聰しげにかがやいていた。垣には虫の声が雨のように聞こえる。椿の葉には露がおいて、大家の高窓からもれたランプの光線がキラキラ光った。木の黒い影と家屋の黒い影とが重なり合った。  棺が小路を出るころには、町ではもう起きている家はなかった。組合のものが三人、大家のあるじ、それに父親に荻生さんとがあとについた。提灯が一つ造り花も生花もない列をさびしげに照らして、警察の角から、例の溝に沿った道を寺へと進んだ。  溝のさびた水が動いて行く提灯の光にかすかに見えた。おおいかぶさった木の葉裏が明るく照らされたり消えたりした。路傍の草にも、畠にも、藪にも虫の音はたえず聞こえる。一行は歩むにつれてバタバタと足音を立てる。誰も口をきくものはなかった。  寺の本堂は明け放されて、如来様の前に供えられた裸蝋燭の夜風にチラチラするのが遠くから見えた。やがて棺はかつき上げられて、読経が始まった。  丈の低い小僧はそれでも僧衣を着て、払子を持った。一行の携えて来た提灯は灯をつけられたまま、人々の並んだ後ろの障子の桟に引っかけられてある。広い本堂は蝋燭の立てられてあるにかかわらずなんとなく薄暗かった。父親の禿頭と荻生さんの白地の単衣がかすかにその中にすかされて見える。読経の声には重々しいところがなかった。いやにさえ走ったような調子であった。鉦がけたたましい音を立てて鳴る。 「ここでこうして林君のおとむらいをしようとは夢にも思いがけなかった」  荻生さんは菓子の竹皮包みを懐に入れてよく昼寝にここに来たころのことを思い出して、こう心の中に言った。  式がすんで、階段から父親がおりると、そこに寺のかみさんが立っていて、 「このたびはまア……とんでもないことで……それにお悔みにもまだ上がりもいたしませんで……あいにく宿で留守なものですから」  と、きれぎれの挨拶をした。  夜はもう薄ら寒かった。単衣一枚では肌がなんとなくヒヤヒヤする。棺はやがて人足にかつがれて、墓地へと運ばれて行く。  選ばれたのは、畠と寺とを劃った榛の木に近いところであった。ひょろ長い並木の影が夜の闇の中にかすかにそれと指さされる。垣の外にいたずらにのびた桑の広葉がガサガサと夜風になびく。  穴は型のごとく掘ってあった。赤土と水が出て、あたりは踏み立てられぬほど路がわるかった。組合の男はいち早く草履を踏み込んで、買いたての白足袋を散々にしたと言っている。穴掘り男は頭髪まで赤土だらけにしながら、「どうも水が多くって、かい出してもかい出しても出て来るので、困ったちゃねえだ!」などと言った。  父親は提灯を振りかざして、穴をのぞいてみた。穴の底の赤く濁った水が提灯にチラチラうつった。  荻生さんものぞいてみた。  やがて棺が穴に下ろされる。土塊のバタバタと棺に当たる音がする。時の間に墓は築かれて小僧の僧衣姿が黒くその前に立ったと思うと、例の調子はずれの読経が始まった。暗い闇の中の提灯は、木槿垣を背にして立った荻生さんの蒼白い顔と父親の禿頭とそのほかの群れのまるく並んでいるのをかすかに照らした。 六十四  一年ほどして、そこに自然石の石碑が建てられた。表には林清三君之墓、下に辱知有志と刻んであった。荻生さんと郁治とが奔走して建てたので、その醵金者の中には美穂子も雪子もしげ子もあった。  一人息子を失った母親は一時はほとんど生きがいもないようにまで思ったが、しかしそう悔んで嘆いてばかりもいられなかった。かれらは老いてもなお独り働いて食わなければならなかった。母親は息子の死んだ六畳でせっせと裁縫の針を動かした。父親の禿頭はやはりその街道におりおり見られた。  墓にはたえず花が手向けられた。花好きの母親はその節ごとに花を携えて来てはつねにその前に供えた。荻生さんも羽生の局に勤めている間はよく墓参りをした。ある秋の日、和尚さんは、廂髪に結って、矢絣の紬に海老茶の袴をはいた女学生ふうの娘が、野菊や山菊など一束にしたのを持って、寺の庫裡に手桶を借りに来て、手ずから前の水草の茂った井戸で水を汲んで、林さんの墓のありかを聞いて、その前で人目も忘れて久しく泣いていたということをかみさんから聞いた。 「どこの娘だか」  などとその時かみさんが言った。  ところがそれから二年ほどして、その墓参りをした娘が羽生の小学校の女教員をしているという話を聞いた。 「あの娘は林さんが弥勒で教えた生徒だとサ」とかみさんはどこかで聞いて来て和尚さんに話した。  秋の末になると、いつも赤城おろしが吹きわたって、寺の裏の森は潮のように鳴った。その森のそばを足利まで連絡した東武鉄道の汽車が朝に夕べにすさまじい響きを立てて通った。 底本:「田舎教師 他一編」旺文社文庫、旺文社    1966(昭和41)年8月10日初版発行    1985(昭和60)年重版発行 初出:「田舎教師」佐久良書房    1909(明治42)年10月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※「苧殻」と「績殻」、「蠶豆」と「蚕豆」の混在は底本どおりです。 ※「毛布」に対するルビの「けっとう」と「けっと」の混在は、底本通りです。 ※誤植を疑った箇所を、初出の表記にそって、あらためました。 ※本文中の編者による語注は省略しました。 ※本文中の挿画は省略しました。 入力:林 幸雄 校正:松永正敏 2007年2月2日作成 2020年3月7日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。