水の女 折口信夫 Guide 扉 本文 目 次 水の女 一 古代詞章の上の用語例の問題 二 みぬまという語 三 出雲びとのみぬは 四 筑紫の水沼氏 五 丹生と壬生部 六 比沼山がひぬま山であること 七 禊ぎを助ける神女 八 とりあげの神女 九 兄媛弟媛 一〇 ふぢはらを名とする聖職 一一 天の羽衣 一二 たなばたつめ 一三 筬もつ女 一四 たなという語 一五 夏の祭り 一 古代詞章の上の用語例の問題  口頭伝承の古代詞章の上の、語句や、表現の癖が、特殊な──ある詞章限りの──ものほど、早く固定するはずである。だから、文字記録以前にすでにすでに、時代時代の言語情調や、合理観がはいってくることを考えないで、古代の文章および、それから事実を導こうなどとする人の多いのは、──そうした人ばかりなのは──根本から、まちごうた態度である。  神聖観に護られて、固定のままあるいは拗曲したままに、伝った語句もある。だがたいていは、呪詞諷唱者・叙事詩伝誦者らの常識が、そうした語句の周囲や文法を変化させて辻褄を合せている。口頭詞章を改作したり、模倣したような文章・歌謡は、ことに時代と個性との理会程度に、古代の表現法を妥協させてくる。記・紀・祝詞などの記録せられる以前に、容易に原形に戻すことのできぬまでの変化があった。古詞および、古詞応用の新詞章の上に、十分こうしたことが行われた後に、やっと、記録に適当な──あるものは、まだ許されぬ──旧信仰退転の時が来た。奈良朝の記録は、そうした原形・原義と、ある距離を持った表現なることを、忘れてはならぬ。たとえば天の御蔭・日の御蔭・すめらみこと・すめみまなどいう語も、奈良朝あるいは、この近代の理会によって用いられている。なかには、一語句でいて、用語例の四つ五つ以上も持っているのがある。  言語の自然な定義変化のほかに、死語・古語の合理解を元とした擬古文の上の用語例、こういう二方面から考えてみねば、古い詞章や、事実の真の姿は、わかるはずはない。 二 みぬまという語  これから言う話なども、この議論を前提としてかかるのが便利でもあり、その有力な一つの証拠にも役立つわけなのである。  出雲国造神賀詞に見えた、「をち方のふる川岸、こち方のふる川ぎしに生立(おひたてるヵ)若水沼間の、いやわかえに、み若えまし、すゝぎふるをとみの水のいや復元に、み変若まし、……」とある中の「若水沼間」は、全体何のことだか、国学者の古代研究始まって以来の難義の一つとなっている。「生立」とあるところから、生物と見られがちであった。ことに植物らしいという予断が、結論を曇らしてきたようである。宣長以上の組織力を示したただ一人の国学者鈴木重胤は、結局「くるす」の誤りという仮定を断案のように提出している。だが、何よりも先に、神賀詞の内容や、発想の上に含まれている、幾時代の変改を経てきた、多様な姿を見ることを忘れていた。  早くとも、平安に入って数十年後に、書き物の形をとり、正確には、百数十年たってはじめて公式に記録せられたはずの寿詞であったことが、注意せられていなかった。口頭伝承の久しい時間を勘定にいれないでかかっているのは、他の宮廷伝承の祝詞の古い物に対したとおなじ態度である。 「ふる川の向う岸・こちら岸に、大きくなって立っているみぬまの若いの」と言うてくると、灌木や禾本類、ないしは水藻などの聯想が起らずにはいない。ときどきは「生立」に疑いを向けて、「水沼間」の字面の語感にたよって、水たまり・淵などと感じるくらいにとどまったのは、無理もないことである。実は、詞章自身が、口伝えの長い間に、そういう類型式な理会を加えてきていたのである。  一番これに近い例としては、神功紀・住吉神出現の段「日向の国の橘の小門のみな底に居て、水葉稚之出居神。名は表筒男・中筒男・底筒男の神あり」というのがある。これも表現の上から見れば、水中の草葉・瑞々しい葉などを修飾句に据えたものと考えていたのらしい。変った考えでは、みつはは水走で、禊ぎの水の迸る様だとするのもある。  みぬま・みつは、おなじ語に相違ない。それに若さの形容がつき纏うている。だが神賀詞に比べると「出居」という語が「水葉」の用法を自由にしている。動物・人間ともとれる言い方である。ただそうすれば、みつは云々の句に、呪詞なり叙事詩なりの知識が、予約せられていると見ねばならぬ。それにしても、この表記法では、すでに固定して、記録時代の理会が加っているものと言えよう。  この二つの詞章の間に通じている、一つの事実だけは、やっと知れる。それはこの語が禊ぎに関聯したものなることである。みぬま・みつはと言い、その若いように、若くなるといった考え方を持っていたらしいとも言える。古代の禊ぎの方式には、重大な条件であったことで、夙く行われなくなった部分があったのだ。詞章は変改を重ねながら、固定を合理化してゆく。みつは・みぬまと若やぐ霊力とを、いろいろな形にくみ合せて解釈してくる。それが、詞章の形を歪ませてしまう。  宮廷の大祓式は、あまりにも水との縁が離れ過ぎていた。祝詞の効果を拡張し過ぎて、空文を唱えた傾きが多い。一方また、神祇官の卜部を媒にして、陰陽道は、知らず悟らぬうちに、古式を飜案して行っていた。出雲国造の奏寿のために上京する際の禊ぎは、出雲風土記の記述によると、わりに古い型を守っていたものと見てよい。そうしてすくなくとも、これにはあって、宮廷の行事および呪詞にない一つは、みぬまに絡んだ部分である。大祓詞および節折りの呪詞の秘密な部分として、発表せられないでいたのかも知れない。だが、大祓詞は放つ方ばかりを扱うたことを示している。禊ぎに関して発生した神々を説く段があって、その後新しい生活を祝福する詞を述べたに違いない。そして大直日の祭りとその祝詞とが神楽化し、祭文化し、祭文化する以前には、みぬまという名も出てきたかも知れない。 三 出雲びとのみぬは  神賀詞を唱えた国造の国の出雲では、みぬまの神名であることを知ってもいた。みぬはとしてである。風土記には、二社を登録している。二つながら、現に国造のいる杵築にあったのである。でも、みぬまとなると、わからなくなった呪詞・叙事詩の上の名辞としか感ぜられなかったのであろう。  水沼の字は、おなじ風土記仁多郡の一章に二とこまで出ている。 三津郷……大穴持命の御子阿遅須枳高日子命……大神夢に願ぎ給はく「御子の哭く由を告れ」と夢に願ぎましゝかば、夢に、御子の辞通ふと見ましき。かれ寤めて問ひ給ひしかば、爾時に「御津」と申しき。その時何処を然言ふと問ひ給ひしかば、即、御祖の前を立去於坐して、石川渡り、阪の上に至り留り、此処と申しき。その時、其津の水沼於而、御身沐浴ぎ坐しき。故、国造の神吉事奏して朝廷に参向ふ時、其水沼出而用ゐ初むるなり。  出雲風土記考証の著者後藤さんは、やはり汲出説である。この条は、この本のあちこちに散らばったあぢすき神の事蹟と、一続きの呪詞的叙事詩であったようだ。おそらく、国造代替りまたは、毎年の禊ぎを行う時に唱えたものであろうと思う。禊ぎの習慣の由来として、みぬまの出現を言う条があり、実際にも、みぬまがはたらいたものと見られる。だが、その詞は、神賀詞とは別の物で、あぢすき神と禊ぎとの関係を説く呪詞だったのである。その詞章が、断篇式に神賀詞にもはいっていって、みぬまおよび関係深い白鳥の生き御調がわり込んできたものであるらしい。  水沼間・水沼・弥努波(または、婆)と三様に、出雲文献に出ているから、「水汲」と訂すのは考えものである。後世の考えから直されねばならぬほど、風土記の「水沼」は、不思議な感じを持っているのだ。人間に似たもののように伝えられていたのだ。この風土記の上られた天平五年には、その信仰伝承が衰微していたのであろう。だから儀式の現状を説く古の口述が、あるいは禊ぎのための水たまりを聯想するまでになっていたのかも知れぬ。もちろんみぬまなる者の現れる事実などは、伝説化してしもうていたであろう。三津郷の名の由来でも、「三津」にみつまの「みつ」を含み、あるいは三沢(後藤さん説)にみぬ(沢をぬ・ぬまと訓じたと見て)の義があったものと見る方がよいかも知れない。でないと、あぢすき神を学んでする国造の禊ぎに、みぬまの出現する本縁の説かれていないことになる。「つ」と「ぬ」との地名関係も「つ」から「さは」に変化するのよりは自然である。 四 筑紫の水沼氏  筑後三瀦郡は、古い水沼氏の根拠地であった。この名を称えた氏は、幾流もあったようである。宗像三女神を祀った家は、その君姓の者と伝えているが、後々は混乱しているであろう。宗像神に事えるがゆえに、水沼氏を称したのもあるようである。この三女神は、分布の広い神であるが、性格の類似から異神の習合せられたのも多いのである。宇佐から宗像、それから三瀦というふうに、この神の信仰はひろがったと見るのが、今のところ、正しいであろう。だが、三瀦の地で始めて、この家名ができたと見ることはできない。  それよりも早く神の名のみぬまがあったのである。宗像三女神が名高くなったのは鐘が岬を中心にした航路(私は海の中道に対して、海北の道中が、これだと考えている)にいて、敬拝する者を護ったからのことと思う。水沼神主の信仰が似た形を持ったがために、宗像神に習合しなかったとは言えぬ。そういうことの考えられるほど、みぬま神は、古くから広く行きわたっていたのである。三瀦の地名は、みぬま・みむま(倭名鈔)・みつまなど、時代によって、発音が変っている。だが全体としては、古代の記録無力の時代には、もっと音位が自由に動いていたのである。  結論の導きになることを先に述べると、みぬま・みぬは・みつは・みつめ・みぬめ・みるめ・ひぬま・ひぬめなどと変化して、同じ内容が考えられていたようである。地名になったのは、さらに略したみぬ・みつ・ひぬなどがあり、またつ・ぬを領格の助辞と見てのきり棄てたみま・みめ・ひめなどの郡郷の称号ができている。 五 丹生と壬生部  数多かった壬生部の氏々・村々も、だんだん村の旧事を忘れていって、御封という字音に結びついてしもうた。だが早くから、職業は変化して、湯坐・湯母・乳母・飯嚼のほかのものと考えられていた。でも、乳部と宛てたのを見ても、乳母関係の名なることは察しられる。また入部と書いてみぶと訓ましているのを見れば、丹生(にふ)の女神との交渉が窺れる。あるいは「水に入る」特殊の為事と、み・にの音韻知識から、宛てたものともとれる。  後にも言うが、丹生神とみぬま神との類似は、著しいことなのである。それに大和宮廷の伝承では、丹生神を、後入のみぬま神と習合して、みつはのめとしたらしいのを見ると、ますます湯坐・湯母の水に関した為事を持ったことも考えられる。  事実、壬生と産湯との関係は、反正天皇と丹比ノ壬生部との旧事によってわかる。出産時の奉仕者の分業から出た名目は、おそらくにふ・みふの用語例を、分割したものであったろう。万葉には、赭土すなわち、丹をとる広場すなわち、原と解している歌もあるから、丹生の字面もそうした合理見から出ていると見られる。にふべからみふべ・みぶと音の転じたことも考えてよい。  産湯から育みのことに与る壬生部は、貴種の子の出現の始めに禊ぎの水を灌ぐ役を奉仕していたらしい。これが、御名代部の一成因であった。壬生部の中心が、氏の長の近親の女であったことも確かである。こうして出現した貴種の若子は、後にその女と婚することになったのが、古い形らしい。水辺または水神に関係ある家々の旧事に、玉依媛の名を伝えるのは、皆この類である。祖(母)神に対して、乳母神をば(小母)と言ったところから、母方の叔母すなわち、父から見た妻の弟という語ができた。これがまた、神を育む姥(をば・うば)神の信仰の元にもなる。  大嘗の中臣天神寿詞は、飲食の料としてばかり、天つ水の由来を説いているが、日のみ子甦生の呪詞の中に、産湯を灌ぐ儀式を述べる段があったのであろう。「夕日より朝日照るまで天つ祝詞の太のりと詞をもて宣れ。かくのらば、……」──朝日の照るまで天つ祝詞の……と続くのでない。祝詞の発想の癖から言うと、ここで中止して、秘密の天つのりとに移るのである。この天つ祝詞にそうした産湯のことが含まれていたらしいことは、反正天皇の産湯の旧事に、丹比ノ色鳴ノ宿禰が天神寿詞を奏したと伝えている。貴種の出現は、出産も、登極も一つであった。産湯を語り、飲食を語る天神寿詞が、代々の壬生部の選民から、中臣神主の手に委ねられていって、そうした部分が脱落していったものらしい。  けれども中臣が奏する寿詞にも、そうしたみふ類似の者の顕れたことは、天子の祓えなる節折りに、由来不明の中臣女の奉仕したことからも察しられる。中臣天神寿詞と、天子祓えの聖水すなわち産湯とが、古くはさらに緊密に繋っていて、それに仕えるにふ神役をした巫女であったと考えることは、見当違いではないらしい。丹比氏の伝えや、それから出たらしい日本紀の反正天皇御産の記事は、一つの有力な種子である。履中天皇紀は、ある旧事を混同して書いているらしい。二股船を池に浮べた話・宗像三女神の示現などは、出雲風土記のあぢすきたかひこの神・垂仁のほむちわけなどに通じている。だから、みつはわけ天皇にも、生れて後の物語が、丹比壬生部に伝っていたことが推定できる。 六 比沼山がひぬま山であること  みぬま・みつはは一語であるが、みつはのめの、みつはも、一つものと見てよい。「罔象女」という支那風の字面は、この丹比神に一種の妖怪性を見ていたのである。またこの女性の神名は、男性の神名おかみに対照して用いられている。「おかみ」は「水」を司る蛇体だから、みつはのめは、女性の蛇または、水中のある動物と考えていたことは確からしい。大和を中心とした神の考え方からは、おかみ・みつはのめ皆山谷の精霊らしく見える。が、もっと広く海川について考えてよいはずである。  竜に対するおかみ、罔象に当るみつはのめの呪水の神と考えられた証拠は、神武紀に「水神を厳ノ罔象女となす」とあるのでもわかる。だが大体に記・紀に見えるみつはのめは、禊ぎに関係なく、女神の尿または涙に成ったとしている。逆に男神の排泄に化生したものとする説もあったかも知れぬと思われるのは、穢れから出ていることである。  阿波の国美馬郡の「美都波迺売神社」は、注意すべき神である。大和のみつはのめと、みつは・みぬまの一つものなることを示している。美馬の郡名は、みぬまあるいはみつま・みるめと音価の動揺していたらしい地名である。地名も神の名から出たに違いない。「のめ」という接尾語が気になるが、とようかのめ・おほみやのめなど……のめというのは、女性の精霊らしい感じを持った語である。神と言うよりも、一段低く見ているようである。みつはのめの社も、阿波出の卜部などから、宮廷の神名の呼び方に馴れて、のめを添えたしかつめらしい称えをとったのであろう。摂津の西境一帯の海岸は、数里にわたって、みぬめの浦(または、みるめ)と称えられていた。ここには汶売神社があって、みぬめは神の名であった。前に述べた筑後の水沼君の祀った宗像三女神は、天真名井のうけひに現れたのである。だから、禊ぎの神という方面もあったと思う。が、おそらくは、みぬま・宗像は早く習合せられた別神であったらしい。  丹後風土記逸文の「比沼山」のこと。ひちの郷に近いから、山の名も比治山と定められてしもうている。丹波の道主ノ貴が言うのに、ひぬま(氷沼)の……というふうの修飾を置くからと見ると、ひぬまの地名は、古くあったのである。このひぬまも、みぬまの一統なのであった。  第一章に言うたようなことが、この語についても、遠い後代まで行われたらしい。「烏羽玉のわが黒髪は白川の、みつはくむまで老いにけるかな」(大和物語)という檜垣ノ嫗の歌物語も、瑞歯含むだけはわかっても、水は汲むの方が「老いにけるかな」にしっくりせぬ。これはみつはの女神の蘇生の水に関聯した修辞が、平安に持ち越してわからなくなったのを、習慣的に使うたまでだろうと説きたい。この歌などの類型の古いものは、もっとみつはの水を汲む為事が、はっきり詠まれていたであろう。とにかく、老年変若を希う歌には「みつは……」と言い、瑞歯に聯想し、水にかけて言う習慣もあったことも考えねばならぬと思う。  丹比のみづはわけという名は、瑞歯の聯想を正面にしているが、初めは、みつは神の名をとったことはすでに述べた。詞章の語句または、示現の象徴が、無限に譬喩化せられるのが、古代日本の論理であった。みつはが同時に瑞歯の祝言にもなったのである。だがこれは後についてきた意義である。本義はやはり、別に考えなくてはならぬ。  みぬま・みつは・みつま・みぬめ・みるめ・ひぬま。これだけの語に通ずるところは、水神に関した地名で、これに対して、にふ(丹生)と、むなかたの三女神が、あったらしいことだ。  丹後の比沼山の真名井に現れた女神は、とようかのめで、外宮の神であった。すなわちその水および酒の神としての場合の、神名である。この神初めひぬまのまなゐの水に浴していた。阿波のみつはのめの社も、那賀郡のわなさおほその神社の存在を考えに入れてみると、ひぬま真名井式の物語があったろう。出雲にもわなさおきなの社があり、あはきへ・わなさひこという神もあった。阿波のわなさ・おほそとの関係が思われる。丹波の宇奈韋神が、外宮の神であることを思えば、酒の水すなわち食料としての水の神は、処女の姿と考えられてもいたのだ。これがみつはの一面である。 七 禊ぎを助ける神女  出雲の古文献に出たみぬまは早く忘れられた神名であった。みつはは、まず水中から出て、用い試みた水を、あぢすきたかひこの命に浴せ申した。その縁で、国造神賀詞奏上に上京の際、先例通りそのみつはが出て後、この水を用い始めるという習慣のあったことを物語るのである。風土記のすでに非常に曖昧なところがあるのは、古詞をある点まで、直訳し、また異訳して、理会できぬところはその俤を出そうとしたからであろう。それが神賀詞となると、口拍子にのり過ぎて、一層わからなくなっているのである。おちこちの二か処の古川というのが、川岸というようになり、植物化して考えられていった。もっとも、神功紀のすら、植物と考えていたらしい書きぶりである。その詞章の表現は、やや宙ぶらりである。何としても「みつは……」は、序歌風に使われてい、みつはの神の若いと同様、若やかに生い出ずる神とでも説くべきであろう。  思うに、みつはの中にも、稚みつはと呼ばれるものが、禊ぎの際に現れて、その世話をする。この神の発生を説いて、禊ぎ人の穢れから化生したという古い説明が伝わらなくなったのかも知れぬ。とにかく、この女神が出て、禊ぎの場処を上・下の瀬と選び迷うしぐさをした後、中つ瀬の適しい処に水浴をする。このふるまいを見習うて禊ぎの処を定めたらしい。これが久しく意義不明のまま繰返され、みぬまとしての女が出て、禊ぎの儀式の手引きをした。それがしだいに合理化して、水辺祓除のかいぞえに中臣女のような為事をするようになり、そのことに関した呪詞の文句がいよいよ無意義になり、他の知識や、行事・習慣から解釈して、発想法を拗れさせてきた。そこに、だいたいはきまって、一部分おぼろな気分表現が、出てきたのだろう。  大湯坐・若湯坐の発生も知れる。みぬまに、候補者または「控え」の義のわかみぬまがあったのであろう。大和宮廷の呪詞・物語には、みつはをただの雨雪の神として、おかみに対する女性の精霊と見た傾きがあり、丹生女神とすら、いくぶん、別のものらしく考えた痕があるのは、後入の習合だからであろう。  いざなぎの禊ぎに先だって、よもつひら坂に現れて「白す言」あった菊理媛(日本紀一書)は、みぬま類の神ではないか。物語を書きつめ、あるいはもともと原話が、錯倒していたため、すぐ後の檍原の禊ぎの条に出るのを、平坂の黄泉道守の白言と並べたのかも知れぬ。その言うことをよろしとして散去したとあるのは、禊ぎを教えたものと見るべきであろう。くゝりは水を潜ることである。泳の字を宛てているところから見れば、神名の意義も知れる。くゝり出た女神ゆえの名であろう。いざなぎの尊ばかりの行動として伝えたため、この神は陰の者になったのであろう。例の神功紀の文は、このくゝり媛からみつはへ続く禊ぎの叙事詩の断篇化した形である。住吉神の名は、底と中と表とに居て、神の身を新しく活した力の三つの分化である。「つゝ」という語は、蛇(=雷)を意味する古語である。「を」は男性の義に考えられてきたようであるが、それに並べて考えられた汶売・宗像・水沼の神は実は神ではなかった。神に近い女、神として生きている神女なる巫女であったのである。海北ノ道ノ主ノ貴は、宗像三女神の総称となっているが、同じ神と考えられてきた丹波の比沼ノ神に仕える丹波ノ道ノ主ノ貴は、東山陰地方最高の巫女なる神人の家のかばねであった。 八 とりあげの神女  国々の神部の乞食流離の生活が、神を諸方へ持ち搬んだ。これをてっとりばやく表したらしいのは、出雲のあはきへ・わなさひこなる社の名である。阿波から来経──移り来て住みつい──たことを言うのだから。前に述べかけた阿波のわなさおほそは、出雲に来経たわなさひこであり、丹波のわなさ翁・媼も、同様みぬまの信仰と、物語とを撒いて廻った神部の総名であったに違いない。養い神を携えあるいたわなさの神部は、みぬま・わなさ関係の物語の語りてでもあった。わなさ物語の老夫婦の名の、わなさ翁・媼ときまるのは、もっともである。論理の単純を欲すれば、比沼・奈具の神も、阿波から持ち越されたおほげつひめであり、とようかのめであり、外宮の神だとも言えよう。だが、わなさ神部の本貫については、まだまだ問題がありそうである。  私は実のところ、比沼のうなゐ神は禊ぎのための神女であり、その仕える神の姿をも、兼ね示すようになったものと信じている。丹波ノ道主ノ貴の家から出る「八処女」の古い姿なのである。この神女は、伊勢に召されるだけではなかった。宮廷へも、聖職奉仕に上っている。この初めを説く物語が、さほひめ皇后の推奨によるものとしていたのである。知られ過ぎた段だが、後々の便宜のために、引いておく。 亦、天皇、其后へ、命詔しめして言はく、「凡、子の名は必、母名づけぬ。此子の御名をば、何とか称へむ。」かれ、答へ白さく、……。又詔命しむるは、「いかにして、日足しまつらむ。」答へ白さく、「御母を取り、大湯坐・若湯坐定め(御母を取り……湯坐に定めてと訓む方が正しいであろう。また、取御母を養護御母のように訓んで、……に──としての義──大湯坐……を定めてとも訓める)て、ひたし奉らば宜けむ。」かれ、其后の白しに随以て日足し奉るなり。又、其后に問ひて曰はく、「汝所堅之美豆能小佩(こおびか)は、誰かも解かむ。」答へ申さく、「旦波比古多々須美智能宇斯王の女、名は兄比売・弟比売、此二女王ぞ、浄き公民(?)なる。かれ、使はさば宜けむ。……」 又、其后の白しのまゝに、みちのうしの王の女等、比婆須比売命、次に弟比売命(次に弟比売命……命……命とあるべきところだ)次に、歌凝比売命、次に円野比売命、併せて四柱を喚上げき。(垂仁記) 唯、妾死すとも、天皇の恩を忘れ敢へじ。願はくは、妾の掌れる后宮の事、宜しく好仇に授け給ふべし。丹波国に五婦人あり。志並に貞潔なり。是、丹波道主王の女なり。〔道主王は、稚日本根子大日々天皇の子(孫)彦坐 王の子なり。一に云はく、彦湯産隅王の子なり。〕当に掖廷に納れて、后宮の数に盈つべしと。天皇聴す。……丹波の五女を喚して、掖廷に納る。第一を日葉酢姫と曰ひ、第二を渟葉田瓊入媛と曰ひ、第三を真砥野媛と曰ひ、第四を䈥瓊入媛と曰ひ、第五を竹野媛と曰ふ。(垂仁紀)  この後が、古事記では、弟王二柱、日本紀では、竹野媛が、国に戻される道で、一人は恥じて峻淵に(紀では自堕輿とある)堕ち入って死ぬ。それから、堕国と言うた地名を、今では弟国と言うとあるいはながひめ式の伝えになっている。  思うに、悪女の呪いのこの伝えにもあったのが、落ちたものであろう。ほむちわけのみこのもの言わぬ因縁を説いたのが、古事記では、すでに、出雲大神の祟りと変っている。出雲と唖王子とを結びつけた理由は、ほかにある。紀の自堕輿而死の文面は「自ら堕り、興して死す」と見るべきで、輿は興の誤りと見た方がよさそうだ。「おつ」・「おちいる」という語の一つの用語例に、水に落ちこんで溺れる義があったのだろう。自殺の方法のうち、身投げの本縁を言う物語を含んだものである。水の中で死ぬることのはじめをひらいた丹波道主貴の神女は、水の女であったからと考えたのである。 九 兄媛弟媛  やをとめを説かぬ記・紀にも、二人以上の多人数を承認している。神女の人数を、七処女・八処女・九の処女などと勘定している。これは、多数を凡そ示す数詞が変化していったためである。それとともに実数の上に固定を来した場合もあった。まず七処女が古く、八処女がそれに替って勢力を得た。これは、神あそびの舞人の数が、支那式の「佾」を単位とする風に、もっとも叶うものと考えられだしたからだ。ただの神女群遊には、七処女を言い、遊舞には八処女を多く用いる。現に、八処女の出処比沼山にすら、真名井の水を浴びたのは、七処女としている。だから、七──古くは八処女の八も──が、正確に七の数詞と定まるまでには、不定多数を言い、次には、多数詞と序数詞との二用語例を生じ、ついに、常の数詞と定まった。この間に、伝承の上の矛盾ができたのである。  神女群の全体あるいは一部を意味するものとして、七処女の語が用いられ、四人でも五人でも、言うことができたのだ。その論法から、八処女も古くは、実数は自由であった。その神女群のうち、もっとも高位にいる一人がえ(兄)で、その余はひっくるめておと(弟)と言うた。古事記はすでに「弟」の時代用語例に囚われて、矛盾を重ねている。兄に対して大あるごとく、弟に対して稚を用いて、次位の高級神女を示す風から見れば、弟にも多数と次位の一人とを使いわけたのだ。すなわち神女の、とりわけ神に近づく者を二人と定め、その中で副位のをおとと言うようになったのである。  こうした神女が、一群として宮廷に入ったのが、丹波道主貴の家の女であった。この七処女は、何のために召されたか。言うまでもなくみづのをひもを解き奉るためである。だが、紐と言えば、すぐ聯想せられるのは、性的生活である。先達諸家の解説にも、この先入が主となって、古代生活の大切な一面を見落されてしもうた。事は、一続きの事実であった。「ひも」の神秘をとり扱う神女は、条件的に「神の嫁」の資格を持たねばならなかったのである。みづのをひもを解くことがただちに、紐主にまかれることではない。一番親しく、神の身に近づく聖職に備るのは、最高の神女である。しかも尊体の深い秘密に触れる役目である。みづのをひもを解き、また結ぶ神事があったのである。  七処女の真名井の天女・八処女の系統の東遊天人も、飛行の力は、天の羽衣に繋っていた。だが私は、神女の身に、羽衣を被るとするのは、伝承の推移だと思う。神女の手で、天の羽衣を着せ、脱がせられる神があった。その神の威力を蒙って、神女自身も神と見なされる。そうして神・神女を同格に観じて、神をやや忘れるようになる。そうなると、神女の、神に奉仕した為事も、神女自身の行為になる。天の羽衣のごときは、神の身についたものである。神自身と見なし奉った宮廷の主の、常も用いられるはずの湯具を、古例に則る大嘗祭の時に限って、天の羽衣と申し上げる。後世は「衣」という名に拘って、上体をも掩うものとなったらしいが、古くはもっと小さきものではなかったか。ともかく禊ぎ・湯沐みの時、湯や水の中で解きさける物忌みの布と思われる。誰一人解き方知らぬ神秘の結び方で、その布を結び固め、神となる御躬の霊結びを奉仕する巫女があった。この聖職、漸く本義を忘れられて、大嘗の時のほかは、低い女官の平凡な務めになっていった。「御湯殿の上の日記」は、その書き続がれた年代の長さだけでも、為事の大事であったことがわかる。元は、御湯殿における神事を日録したものらしい。宮廷の主上の日常御起居において、もっとも神聖な時間は、湯を奉る際である。この時の神ながらの言行は記し留めねばならない。こうしてはじまった日記が、聖躬の健康などに関しても書くようになり、はては雑事までも留めるに到ったものらしい。由緒知らぬが棄てられぬ行事として長い時代を経たのである。御湯殿の神秘は、古い昔に過ぎ去った。髪やかづらを重く見る時代が来て、御櫛笥殿の方に移り、そこに奉仕する貴女の待遇が重くなっていった。 一〇 ふぢはらを名とする聖職  この沐浴の聖職に与るのは、平安前には「中臣女」の為事となった期間があったらしい。宮廷に占め得た藤原氏の権勢も、その氏女なる藤原女の天の羽衣に触れる機会が多くなったからである。 わが岡の龗に言ひて降らせたる、雪のくだけし、そこに散りけむ(万葉巻二)  天武の夫人、藤原ノ大刀自は、飛鳥の岡の上の大原に居て、天皇に酬いている。この歌のごときは「降らまくは後」とのからかいに対する答えと軽く見られている。が、藤原氏の女の、水の神に縁のあったことを見せているのである。「雨雪のことは、こちらが専門なのです」こういった水の神女としての誇りが、おもしろく昔の人には感じられたのであろう。藤井が原を改めて藤原としたのも、井の水を中心としたからである。中臣女や、その保護者の、水に対する呪力から、飛鳥の岡の上の藤原とのりなおして、一つに奇瑞を示したからであろうと考える。中臣寿詞を見ても、水・湯に絡んだ聖職の正流のような形を見せている。中臣女の役が、他氏の女よりも、恩寵を得る機会を多からしめた。光明皇后に、薬湯施行に絡んで、廃疾人として現れた仏身を洗うた説話の伝っているのも、中臣女としての宮廷神女から、宮廷の伝承を排して、后位に備るにさえ到った史実の背景を物語るのである。藤原の地名も、家名も、水を扱う土地・家筋としての称えである。衣通媛の藤原郎女であり、禊ぎに関聯した海岸に居り、物忌みの海藻の歌物語を持ち、また因縁もなさそうな和歌ノ浦の女神となった理由も、やや明るくなる。  私は古代皇妃の出自が水界に在って、水神の女であることならびに、その聖職が、天子即位甦生を意味する禊ぎの奉仕にあったことを中心として、この長論を完了しようとしているのである。学校の私の講義のそれに触れた部分から、おし拡げた案が、向山武男君によって提出せられた。それによると、衣通媛の兄媛なる允恭の妃の、水盤の冷さを堪えて、夫王を動して天位に即かしめたという伝えも、水の女としての意義を示しているとするのだ。名案であると思う。穢れも、荒行に似た苦しい禊ぎを経れば、除き去ることができ、また天の羽衣を奉仕する水の女の、水に潜いて、冷さに堪えたことを印象しているのである。水盤をかかえたというのは、斎河水の中に、神なる人とともに、水の中に居て久しきにも堪えたことをいうのらしい。やはりこの皇后の妹で、衣通媛のことらしい田井中比売の名代を河部と言うたことなどもおほゝどのみこの家に出た水の女の兄媛・弟媛だったことを示すのだ。  だが、衣通媛の名代は、紀には藤原部としている。藤原の名が、水神に縁深い地名であり、家の名・団体の名にもなって、かならずしも飛鳥の岡の地に限らなかったことを見せる。ふぢはふちと一つで「淵」と固定して残った古語である。かむはたとべの親は、山背ノ大国ノ不遅(記には、大国之淵)であった。水神を意味するのが古い用語例ではないか。ふかぶちのみづやればなの神・しこぶちなどから貴・尊なども、水神に絡んだ名前らしく思われる。神聖な泉があれば、そこには、ふちのいる淵があるものと見て、川谷に縁のない場処なら、ふちはらと言うたのであろう。  みづのをひものみづは瑞と考えられそうである。だが、それよりもまだ原義がある。このみづは「水」という語の語原を示している。聖水に限った名から、日常の飲料をすら「みづ」と言うようになった。聖水を言う以前は、禊ぎの料として、遠い浄土から、時を限ってより来る水を言うたらしい。満潮に言うみつも、その動詞化したものであろう。だから、常世波として岸により、川を溯り、山野の井泉の底にも通じて春の初めの若水となるものである。みつ〳〵しは、このみづをあびたものの顔から姿に言う語で、勇ましく、猛々しく、若々しく、生き生きしているなどと分化する。初春の若水ならぬ常の日の水をも、祝福して言うたところから拡がったものであろう。満潮時をば、人の生れる時と考えるのも、常世から魂のより来ると考えたためであるらしい。みつぬかしは(三角柏・御綱柏)や、みづきと通称せられるいろいろの木も、禊ぎに用いた植物で、海のあなたから流れよって、根をおろしたと信じられていたものらしい。  みつはまた地名にもなった。そうした常世波のみち来る海浜として、禊ぎの行われたところである。御津とするのは後の理会で「つ」そのものからして「み」を敬語と逆推してとり放したのであった。常世波を広く考えて、遠くよりより来る船の、その波に送られて来着く場処としてのみつを考え、さらに「つ」とも言うようになったのである。だから、国造の禊ぎする出雲の「三津」、八十島祓えや御禊の行われた難波の「御津」などがあるのだ。津と言うに適した地形であっても、かならずしもどこもかしこも、津とは称えないわけなのである。後にはみつの第一音ばかりで、水を表して熟語を作るようになった。 一一 天の羽衣  みづのをひもは、禊ぎの聖水の中の行事を記念している語である。瑞という称え言ではなかった。このひもは「あわ緒」など言うに近い結び方をしたものではないか。  天の羽衣や、みづのをひもは、湯・河に入るためにつけ易えるものではなかった。湯水の中でも、纏うたままはいる風が固定して、湯に入る時につけ易えることになった。近代民間の湯具も、これである。そこに水の女が現れて、おのれのみ知る結び目をときほぐして、長い物忌みから解放するのである。すなわちこれと同時に神としての自在な資格を得ることになる。後には、健康のための呪術となった。が、もっとも古くは、神の資格を得るための禁欲生活の間に、外からも侵されぬよう、自らも犯さぬために生命の元と考えた部分を結んでおいたのである。この物忌みの後、水に入り、変若返って、神となりきるのである。だから、天の羽衣は、神其物の生活の間には、不要なので、これをとり匿されて地上の人となったというのは、物忌み衣の後の考え方から見たのである。さて神としての生活に入ると、常人以上に欲望を満たした。みづのをひもを解いた女は、神秘に触れたのだから、神の嫁となる。おそらく湯棚・湯桁は、この神事のために、設けはじめたのだろう。  御湯殿を中心とした説明も、もはやせばくるしく感じだされた。もっと古い水辺の禊ぎを言わねばならなくなった。湯と言えば、温湯を思うようになったのは、「出づるゆ」からである。神聖なことを示す温い常世の水の、しかも不慮の湧出を讃えて、ゆかはと言い、いづるゆと言うた。「いづ」の古義は、思いがけない現出を言うようである。おなじ変若水信仰は、沖縄諸島にも伝承せられている。源河節の「源河走河や。水か、湯か、潮か。源河みやらびの御甦生どころ」などは、時を定めて来る常世浪に浴する村の巫女の生活を伝えたのだ。  常世から来るみづは、常の水より温いと信じられていたのであるが、ゆとなるとさらに温度を考えるようになった。ゆはもと、斎である。しかしこのままでは、語をなすに到らぬ。斎用水あるいはゆかはみづの形がだんだん縮って、ゆ一音で、斎用水を表すことができるようになった。だから、ゆは最初、禊ぎの地域を示した。斎戒沐浴をゆかはあみ(紀には、沐浴を訓む)と言うこともある。だんだんゆかはを家の中に作って、ゆかはあみを行うようになった。「いづるゆかは」がいでゆであるから推せば、ゆかはも早くぬる水になっていたであろう。ゆかはが家の中の物として、似あわしくなく感じられだしてくると、ゆかはを意味するゆがしだいにぬる水の名となってゆくのは、自然である。 一二 たなばたつめ  ゆかはの前の姿は、多くは海浜または海に通じる川の淵などにあった。村が山野に深く入ってからは、大河の枝川や、池・湖の入り込んだところなどを択んだようである。そこにゆかはだな(湯河板挙)を作って、神の嫁となる処女を、村の神女(そこに生れた者は、成女戒を受けた後は、皆この資格を得た)の中から選り出された兄処女が、このたな作りの建て物に住んで、神のおとずれを待っている。これが物見やぐら造りのをさずき(また、さじき)、懸崖造りなのをたなと言うたらしい。こうした処女の生活は、後世には伝説化して、水神の生け贄といった型に入る。来るべき神のために機を構えて、布を織っていた。神御服はすなわち、神の身とも考えられていたからだ。この悠遠な古代の印象が、今に残った。崖の下の海の深淵や、大河・谿谷の澱のあたり、また多くは滝壺の辺などに、筬の音が聞える。水の底に機を織っている女がいる。若い女とも言うし、処によっては婆さんだとも言う。何しろ、村から隔離せられて、年久しくいて、姥となってしもうたのもあり、若いあわれな姿を、村人の目に印したままゆかはだなに送られて行ったりしたのだから、年ぱいはいろいろに考えられてきたのである。村人の近よらぬ畏しい処だから、遠くから機の音を聞いてばかりいたものであろう。おぼろげな記憶ばかり残って、事実は夢のように消えた後では、深淵の中の機織る女になってしまう。  七夕の乞巧奠は漢土の伝承をまる写しにしたように思うている人が多い。ところが存外、今なお古代の姿で残っている地方地方が多い。  たなばたつめとは、たな(湯河板挙)の機中にいる女ということである。銀河の織女星は、さながら、たなばたつめである。年に稀におとなう者を待つ点もそっくりである。こうした暗合は、深く藤原・奈良時代の漢文学かぶれのした詩人、それから出た歌人を喜ばしたに違いない。彼らは、自分の現実生活をすら、唐代以前の小説の型に入れて表して、得意になっていたくらいだから、文学的には早く支那化せられてしもうた。それから見ると、陰陽道の方式などは、徹底せぬものであった。だから、どこの七夕祭りを見ても、固有の姿が指摘せられる。  でも、たなばたが天の川に居るもの、星合ひの夜に奠るものと信じるようになったのには、都合のよい事情があった。驚くばかり多い万葉の七夕歌を見ても、天上のことを述べながら、地上の風物からうける感じのままを出しているものが多い。これは、想像力が乏しかったから、とばかりは言えないのである。古代日本人の信仰生活には、時間空間を超越する原理が備っていた。呪詞の、太初に還す威力の信念である。このことは藤原の条にも触れておいた。天香具山は、すくなくとも、地上に二か所は考えられていた。比沼の真名井は、天上のものと同視したらしく、天ノ狭田・長田は、地上にも移されていた。大和の高市は天の高市、近江の野洲川は天の安河と関係あるに違いない。天の二上は、地上到る処に、二上山を分布(これは逆に天に上したものと見てもよい)した。こうした因明以前の感情の論理は、後世までも時代・地理錯誤の痕を残した。  湯河板挙の精霊の人格化らしい人名に、天ノ湯河板挙があって、鵠を逐いながら、御禊ぎの水門を多く発見したと言うている。地上の斎河を神聖視して、天上の所在と考えることもできたからである。こうした習慣から、神聖観を表すために「天」を冠らせるようにもなった。 一三 筬もつ女  地上の斎河に、天上の幻を浮べることができるのだから、天漢に当る天の安河・天の河も、地上のものと混同して、さしつかえは感じなかったのである。たなばたつめは、天上の聖職を奉仕するものとも考えられた。「あめなるや、弟たなばたの……」と言うようになったわけである。天の棚機津女を考えることができれば、それにあたかも当る織女星に習合もせられ、また錯誤からくる調和もできやすい。  おと・たなばたを言うからは、水の神女に二人以上を進めたこともあるのだ。天上の忌服殿に奉仕するわかひるめに対するおほひるめのあったことは、最高の巫女でも、手ずから神の御服を織ったことを示すのだ。  古代には、機に関した讃え名らしい貴女の名が多かった。二三をとり出すと、おしほみゝの尊の后は、たくはた・ちはた媛(また、たくはた・ちゝ媛)と申した。前にも述べた大国不遅の女垂仁天皇に召された水の女らしい貴女も、かりはたとべ(いま一人かむはたとべをあげたのは錯誤だ)、おと・かりはたとべと言う。くさか・はたひ媛は、雄略天皇の皇后として現れた方である。  神功皇后のみ名おきなが・たらし媛の「たらし」も、記に、帯の字を宛てているのが、当っているのかも知れぬ。 ひさかたの天かな機。「女鳥のわがおほきみの織す機。誰が料ろかも。」  記・紀の伝えを併せ書くと、こういう形になる。皇女・女王は古くは、皆神女の聖職を持っておられた。この仁徳の御製と伝える歌なども、神女として手ずから機織る殿に、おとずれるまれびとの姿が伝えられている。機を神殿の物として、天を言うのである。言いかえれば、処女の機屋に居てはたらくのは、夫なるまれびとを待っていることを、示すことにもなっていたのであろう。 天孫又問ひて曰はく、「其秀起たる浪の穂の上に、八尋殿起てゝ、手玉もゆらに織紝る少女は、是誰が子女ぞ。」答へて曰はく、「大山祇ノ神の女等、大は磐長姫と号り、少は、木華開耶姫と号る。」……(日本紀一書)  これは、海岸の斎用水に棚かけわたして、神服織る兄たなばたつめ・弟たなばたつめの生活を、ややこまやかに物語っている。丹波道主貴の八処女のことを述べたところで、いはなが媛の呪咀は「水の女」としての職能を、、見せていることを言うておいた。このはなさくや媛も、古事記すさのをのよつぎを見ると、それを証明するものがある。すさのをの命の子やしまじぬみの神、大山祇神の女「名は、木花知流比売」に婚うたとある。この系統は皆水に関係ある神ばかりである。だから、このはなちるひめも、さくやひめとほとんどおなじ性格の神女で、禊ぎに深い因縁のあることを示しているのだと思う。 一四 たなという語  漢風習合以前のたなばたつめの輪廓は、これでほぼ書けたと思う。だが、七月七日という日どりは、星祭りの支配を受けているのである。実は「夏と秋とゆきあひの早稲のほの〴〵と」と言うている、季節の交叉点に行うたゆきあい祭りであったらしい。  初春の祭りに、ただ一度おとずれたぎりの遠つ神が、しばしば来臨するようになった。これは、先住漢民族の茫漠たる道教風の伝承が、相混じていたためもある。ゆきあい祭りを重く見るのも、それである。春と夏とのゆきあいに行うた鎮花祭と同じ意義のもので、奈良朝よりも古くから、邪気送りの神事が現れたことは考えられる。鎮花祭については、別に言うおりもあろう。ただ、木の花の散ることの遅速によって、稲の花および稔りの前兆と考え、できるだけ躊躇わせようとしたのが、意義を変じて、田には稲虫のつかぬようにとするものと考えられた。それと同時に、農作は、村人の健康・幸福と一つ方向に進むものと考えた。だから、田の稲虫とともに村人に来る疫病は、逐わるべきものとなった。春祭りの「春田打ち」の繰り返しのような行事が、だんだん疫神送りのような形になった。 一五 夏の祭り  七夕祭りの内容を小別けしてみると、鎮花祭の後すぐに続く卯月八日の花祭り、五月に入っての端午の節供や田植えから、御霊・祇園の両祭会・夏神楽までも籠めて、最後に大祓え・盂蘭盆までに跨っている。夏の行事の総勘定のような祭りである。  柳田先生の言われたように、卯月八日前後の花祭りは、実は村の女の山入り日であった。おそらくは古代は、山ごもりして、聖なる資格を得るための成女戒をうけたらしい日である。田の作物を中心とする時代になって、村の神女の一番大切な職分は、五月の田植えにあるとするに到った。それで、田植えのための山入りのような形をとった。これで今年の早処女となる神女が定まる。男もおおかた同じころから物忌み生活に入る。成年戒を今年授かろうとする者どもはもとより、受戒者もおなじく禁欲生活を長く経なければならぬ。霖雨の候の謹身であるから「ながめ忌み」とも「雨づゝみ」とも言うた。後には、いつでもふり続く雨天の籠居を言うようになった。  このながめいみに入った標は、宮廷貴族の家長の行うたみづのをひもや、天の羽衣ようの物をつけることであった。後代には、常もとりかくようになったが、これは田植えのはじまるまでのことで、いよいよ早苗をとり出すようになると、この物忌みのひもは解き去られて、完全に、神としてのふるまいが許される。それまでの長雨忌みの間を「馬にこそ、ふもだしかくれ」と歌われた繋・絆(すべて、ふもだし)の役目をするのが、ひもであった。こういう若い神たちには、中心となる神があった。これら眷属を引き連れて来て、田植えのすむまで居て、さなぶりを饗けて還る。この群行の神は皆簔を着て、笠に顔を隠していた。いわば昔考えたおにの姿なのである。 底本:「古代研究Ⅰ─祭りの発生」中央公論新社    2002(平成14)年8月10日発行 初出:「民族 第二巻第六号」    1927(昭和2年)年9月    「民族 第三巻第二号」    1928(昭和3年)年1月 ※訓点送り仮名は、底本では、本文中に小書き右寄せになっています。 ※底本の題名の下に書かれている「昭和二年九月、三年一月「民族」第二巻第六号、第三巻第二号」はファイル末の「初出」欄に移しました。 入力:高柳典子 校正:多羅尾伴内 2003年12月27日作成 2013年1月6日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。