将軍 芥川龍之介 Guide 扉 本文 目 次 将軍      一 白襷隊  明治三十七年十一月二十六日の未明だった。第×師団第×聯隊の白襷隊は、松樹山の補備砲台を奪取するために、九十三高地の北麓を出発した。  路は山陰に沿うていたから、隊形も今日は特別に、四列側面の行進だった。その草もない薄闇の路に、銃身を並べた一隊の兵が、白襷ばかり仄かせながら、静かに靴を鳴らして行くのは、悲壮な光景に違いなかった。現に指揮官のM大尉なぞは、この隊の先頭に立った時から、別人のように口数の少い、沈んだ顔色をしているのだった。が、兵は皆思いのほか、平生の元気を失わなかった。それは一つには日本魂の力、二つには酒の力だった。  しばらく行進を続けた後、隊は石の多い山陰から、風当りの強い河原へ出た。 「おい、後を見ろ。」  紙屋だったと云う田口一等卒は、同じ中隊から選抜された、これは大工だったと云う、堀尾一等卒に話しかけた。 「みんなこっちへ敬礼しているぜ。」  堀尾一等卒は振り返った。なるほどそう云われて見ると、黒々と盛り上った高地の上には、聯隊長始め何人かの将校たちが、やや赤らんだ空を後に、この死地に向う一隊の士卒へ、最後の敬礼を送っていた。 「どうだい? 大したものじゃないか? 白襷隊になるのも名誉だな。」 「何が名誉だ?」  堀尾一等卒は苦々しそうに、肩の上の銃を揺り上げた。 「こちとらはみんな死に行くのだぜ。して見ればあれは××××××××××××××そうって云うのだ。こんな安上りな事はなかろうじゃねえか?」 「それはいけない。そんな事を云っては×××すまない。」 「べらぼうめ! すむもすまねえもあるものか! 酒保の酒を一合買うのでも、敬礼だけでは売りはしめえ。」  田口一等卒は口を噤んだ。それは酒気さえ帯びていれば、皮肉な事ばかり並べたがる、相手の癖に慣れているからだった。しかし堀尾一等卒は、執拗にまだ話し続けた。 「それは敬礼で買うとは云わねえ。やれ×××××とか、やれ×××××だとか、いろんな勿体をつけやがるだろう。だがそんな事は嘘っ八だ。なあ、兄弟。そうじゃねえか?」  堀尾一等卒にこう云われたのは、これも同じ中隊にいた、小学校の教師だったと云う、おとなしい江木上等兵だった。が、そのおとなしい上等兵が、この時だけはどう云う訣か、急に噛みつきそうな権幕を見せた。そうして酒臭い相手の顔へ、悪辣な返答を抛りつけた。 「莫迦野郎! おれたちは死ぬのが役目じゃないか?」  その時もう白襷隊は、河原の向うへ上っていた。そこには泥を塗り固めた、支那人の民家が七八軒、ひっそりと暁を迎えている、──その家々の屋根の上には、石油色に襞をなぞった、寒い茶褐色の松樹山が、目の前に迫って見えるのだった。隊はこの村を離れると、四列側面の隊形を解いた。のみならずいずれも武装したまま、幾条かの交通路に腹這いながら、じりじり敵前へ向う事になった。  勿論江木上等兵も、その中に四つ這いを続けて行った。「酒保の酒を一合買うのでも、敬礼だけでは売りはしめえ。」──そう云う堀尾一等卒の言葉は、同時にまた彼の腹の底だった。しかし口数の少い彼は、じっとその考えを持ちこたえていた。それだけに、一層戦友の言葉は、ちょうど傷痕にでも触れられたような、腹立たしい悲しみを与えたのだった。彼は凍えついた交通路を、獣のように這い続けながら、戦争と云う事を考えたり、死と云う事を考えたりした。が、そう云う考えからは、寸毫の光明も得られなかった。死は×××××にしても、所詮は呪うべき怪物だった。戦争は、──彼はほとんど戦争は、罪悪と云う気さえしなかった。罪悪は戦争に比べると、個人の情熱に根ざしているだけ、×××××××出来る点があった。しかし×××××××××××××ほかならなかった。しかも彼は、──いや、彼ばかりでもない。各師団から選抜された、二千人余りの白襷隊は、その大なる×××にも、厭でも死ななければならないのだった。…… 「来た。来た。お前はどこの聯隊だ?」  江木上等兵はあたりを見た。隊はいつか松樹山の麓の、集合地へ着いているのだった。そこにはもうカアキイ服に、古めかしい襷をあやどった、各師団の兵が集まっている、──彼に声をかけたのも、そう云う連中の一人だった。その兵は石に腰をかけながら、うっすり流れ出した朝日の光に、片頬の面皰をつぶしていた。 「第×聯隊だ。」 「パン聯隊だな。」  江木上等兵は暗い顔をしたまま、何ともその冗談に答えなかった。  何時間かの後、この歩兵陣地の上には、もう彼我の砲弾が、凄まじい唸りを飛ばせていた。目の前に聳えた松樹山の山腹にも、李家屯の我海軍砲は、幾たびか黄色い土煙を揚げた。その土煙の舞い上る合間に、薄紫の光が迸るのも、昼だけに、一層悲壮だった。しかし二千人の白襷隊は、こう云う砲撃の中に機を待ちながら、やはり平生の元気を失わなかった。また恐怖に挫がれないためには、出来るだけ陽気に振舞うほか、仕様のない事も事実だった。 「べらぼうに撃ちやがるな。」  堀尾一等卒は空を見上げた。その拍子に長い叫び声が、もう一度頭上の空気を裂いた。彼は思わず首を縮めながら、砂埃の立つのを避けるためか、手巾に鼻を掩っていた、田口一等卒に声をかけた。 「今のは二十八珊だぜ。」  田口一等卒は笑って見せた。そうして相手が気のつかないように、そっとポケットへ手巾をおさめた。それは彼が出征する時、馴染の芸者に貰って来た、縁に繍のある手巾だった。 「音が違うな、二十八珊は。──」  田口一等卒はこう云うと、狼狽したように姿勢を正した。同時に大勢の兵たちも、声のない号令でもかかったように、次から次へと立ち直り始めた。それはこの時彼等の間へ、軍司令官のN将軍が、何人かの幕僚を従えながら、厳然と歩いて来たからだった。 「こら、騒いではいかん。騒ぐではない。」  将軍は陣地を見渡しながら、やや錆のある声を伝えた。 「こう云う狭隘な所だから、敬礼も何もせなくとも好い。お前達は何聯隊の白襷隊じゃ?」  田口一等卒は将軍の眼が、彼の顔へじっと注がれるのを感じた。その眼はほとんど処女のように、彼をはにかませるのに足るものだった。 「はい。歩兵第×聯隊であります。」 「そうか。大元気にやってくれ。」  将軍は彼の手を握った。それから堀尾一等卒へ、じろりとその眼を転ずると、やはり右手をさし伸べながら、もう一度同じ事を繰返した。 「お前も大元気にやってくれ。」  こう云われた堀尾一等卒は、全身の筋肉が硬化したように、直立不動の姿勢になった。幅の広い肩、大きな手、頬骨の高い赭ら顔。──そう云う彼の特色は、少くともこの老将軍には、帝国軍人の模範らしい、好印象を与えた容子だった。将軍はそこに立ち止まったまま、熱心になお話し続けた。 「今打っている砲台があるな。今夜お前たちはあの砲台を、こっちの物にしてしまうのじゃ。そうすると予備隊は、お前たちの行った跡から、あの界隈の砲台をみんな手に入れてしまうのじゃ。何でも一遍にあの砲台へ、飛びつく心にならなければいかん。──」  そう云う内に将軍の声には、いつか多少戯曲的な、感激の調子がはいって来た。 「好いか? 決して途中に立ち止まって、射撃なぞをするじゃないぞ。五尺の体を砲弾だと思って、いきなりあれへ飛びこむのじゃ、頼んだぞ。どうか、しっかりやってくれ。」  将軍は「しっかり」の意味を伝えるように、堀尾一等卒の手を握った。そうしてそこを通り過ぎた。 「嬉しくもねえな。──」  堀尾一等卒は狡猾そうに、将軍の跡を見送りながら、田口一等卒へ目交せをした。 「え、おい。あんな爺さんに手を握られたのじゃ。」  田口一等卒は苦笑した。それを見るとどう云う訣か、堀尾一等卒の心の中には、何かに済まない気が起った。と同時に相手の苦笑が、面憎いような心もちにもなった。そこへ江木上等兵が、突然横合いから声をかけた。 「どうだい、握手で××××のは?」 「いけねえ。いけねえ。人真似をしちゃ。」  今度は堀尾一等卒が、苦笑せずにはいられなかった。 「××れると思うから腹が立つのだ。おれは捨ててやると思っている。」  江木上等兵がこう云うと、田口一等卒も口を出した。 「そうだ。みんな御国のために捨てる命だ。」 「おれは何のためだか知らないが、ただ捨ててやるつもりなのだ。×××××××でも向けられて見ろ。何でも持って行けと云う気になるだろう。」  江木上等兵の眉の間には、薄暗い興奮が動いていた。 「ちょうどあんな心もちだ。強盗は金さえ巻き上げれば、×××××××云いはしまい。が、おれたちはどっち道死ぬのだ。×××××××××××××××××××××たのだ。どうせ死なずにすまないのなら、綺麗に×××やった方が好いじゃないか?」  こう云う言葉を聞いている内に、まだ酒気が消えていない、堀尾一等卒の眼の中には、この温厚な戦友に対する、侮蔑の光が加わって来た。「何だ、命を捨てるくらい?」──彼は内心そう思いながら、うっとり空へ眼をあげた。そうして今夜は人後に落ちず、将軍の握手に報いるため、肉弾になろうと決心した。……  その夜の八時何分か過ぎ、手擲弾に中った江木上等兵は、全身黒焦になったまま、松樹山の山腹に倒れていた。そこへ白襷の兵が一人、何か切れ切れに叫びながら、鉄条網の中を走って来た。彼は戦友の屍骸を見ると、その胸に片足かけるが早いか、突然大声に笑い出した。大声に、──実際その哄笑の声は、烈しい敵味方の銃火の中に、気味の悪い反響を喚び起した。 「万歳! 日本万歳! 悪魔降伏。怨敵退散。第×聯隊万歳! 万歳! 万々歳!」  彼は片手に銃を振り振り、彼の目の前に闇を破った、手擲弾の爆発にも頓着せず、続けざまにこう絶叫していた。その光に透かして見れば、これは頭部銃創のために、突撃の最中発狂したらしい、堀尾一等卒その人だった。      二 間牒  明治三十八年三月五日の午前、当時全勝集に駐屯していた、A騎兵旅団の参謀は、薄暗い司令部の一室に、二人の支那人を取り調べて居た。彼等は間牒の嫌疑のため、臨時この旅団に加わっていた、第×聯隊の歩哨の一人に、今し方捉えられて来たのだった。  この棟の低い支那家の中には、勿論今日も坎の火っ気が、快い温みを漂わせていた。が、物悲しい戦争の空気は、敷瓦に触れる拍車の音にも、卓の上に脱いだ外套の色にも、至る所に窺われるのであった。殊に紅唐紙の聯を貼った、埃臭い白壁の上に、束髪に結った芸者の写真が、ちゃんと鋲で止めてあるのは、滑稽でもあれば悲惨でもあった。  そこには旅団参謀のほかにも、副官が一人、通訳が一人、二人の支那人を囲んでいた。支那人は通訳の質問通り、何でも明瞭に返事をした。のみならずやや年嵩らしい、顔に短い髯のある男は、通訳がまだ尋ねない事さえ、進んで説明する風があった。が、その答弁は参謀の心に、明瞭ならば明瞭なだけ、一層彼等を間牒にしたい、反感に似たものを与えるらしかった。 「おい歩兵!」  旅団参謀は鼻声に、この支那人を捉えて来た、戸口にいる歩哨を喚びかけた。歩兵、──それは白襷隊に加わっていた、田口一等卒にほかならなかった。──彼は戸の卍字格子を後に、芸者の写真へ目をやっていたが、参謀の声に驚かされると、思い切り大きい答をした。 「はい。」 「お前だな、こいつらを掴まえたのは? 掴まえた時どんなだったか?」  人の好い田口一等卒は、朗読的にしゃべり出した。 「私が歩哨に立っていたのは、この村の土塀の北端、奉天に通ずる街道であります。その支那人は二人とも、奉天の方向から歩いて来ました。すると木の上の中隊長が、──」 「何、木の上の中隊長?」  参謀はちょいと目蓋を挙げた。 「はい。中隊長は展望のため、木の上に登っていられたのであります。──その中隊長が木の上から、掴まえろと私に命令されました。」 「ところが私が捉えようとすると、そちらの男が、──はい。その髯のない男であります。その男が急に逃げようとしました。……」 「それだけか?」 「はい。それだけであります。」 「よし。」  旅団参謀は血肥りの顔に、多少の失望を浮べたまま、通訳に質問の意を伝えた。通訳は退屈を露さないため、わざと声に力を入れた。 「間牒でなければ何故逃げたか?」 「それは逃げるのが当然です。何しろいきなり日本兵が、躍りかかってきたのですから。」  もう一人の支那人、──鴉片の中毒に罹っているらしい、鉛色の皮膚をした男は、少しも怯まずに返答した。 「しかしお前たちが通って来たのは、今にも戦場になる街道じゃないか? 良民ならば用もないのに、──」  支那語の出来る副官は、血色の悪い支那人の顔へ、ちらりと意地の悪い眼を送った。 「いや、用はあるのです。今も申し上げた通り、私たちは新民屯へ、紙幣を取り換えに出かけて来たのです。御覧下さい。ここに紙幣もあります。」  髯のある男は平然と、将校たちの顔を眺め廻した。参謀はちょいと鼻を鳴らした。彼は副官のたじろいだのが、内心好い気味に思われたのだ。…… 「紙幣を取り換える? 命がけでか?」  副官は負惜みの冷笑を洩らした。 「とにかく裸にして見よう。」  参謀の言葉が通訳されると、彼等はやはり悪びれずに、早速赤裸になって見せた。 「まだ腹巻をしているじゃないか? それをこっちへとって見せろ。」  通訳が腹巻を受けとる時、その白木綿に体温のあるのが、何だか不潔に感じられた。腹巻の中には三寸ばかりの、太い針がはいっていた。旅団参謀は窓明りに、何度もその針を検べて見た。が、それも平たい頭に、梅花の模様がついているほか、何も変った所はなかった。 「何か、これは?」 「私は鍼医です。」  髯のある男はためらわずに、悠然と参謀の問に答えた。 「次手に靴も脱いで見ろ。」  彼等はほとんど無表情に、隠すべき所も隠そうとせず、検査の結果を眺めていた。が、ズボンや上着は勿論、靴や靴下を検べて見ても、証拠になる品は見当らなかった。この上は靴を壊して見るよりほかはない。──そう思った副官は、参謀にその旨を話そうとした。  その時突然次の部屋から、軍司令官を先頭に、軍司令部の幕僚や、旅団長などがはいって来た。将軍は副官や軍参謀と、ちょうど何かの打ち合せのため、旅団長を尋ねて来ていたのだった。 「露探か?」  将軍はこう尋ねたまま、支那人の前に足を止めた。そうして彼等の裸姿へ、じっと鋭い眼を注いだ。後にある亜米利加人が、この有名な将軍の眼には、Monomania じみた所があると、無遠慮な批評を下した事がある。──そのモノメニアックな眼の色が、殊にこう云う場合には、気味の悪い輝きを加えるのだった。  旅団参謀は将軍に、ざっと事件の顛末を話した。が、将軍は思い出したように、時々頷いて見せるばかりだった。 「この上はもうぶん擲ってでも、白状させるほかはないのですが、──」  参謀がこう云いかけた時、将軍は地図を持った手に、床の上にある支那靴を指した。 「あの靴を壊して見給え。」  靴は見る見る底をまくられた。するとそこに縫いこまれた、四五枚の地図と秘密書類が、たちまちばらばらと床の上に落ちた。二人の支那人はそれを見ると、さすがに顔の色を失ってしまった。が、やはり押し黙ったまま、剛情に敷瓦を見つめていた。 「そんな事だろうと思っていた。」  将軍は旅団長を顧みながら、得意そうに微笑を洩した。 「しかし靴とはまた考えたものですね。──おい、もうその連中には着物を着せてやれ。──こんな間牒は始めてです。」 「軍司令官閣下の烱眼には驚きました。」  旅団副官は旅団長へ、間牒の証拠品を渡しながら、愛嬌の好い笑顔を見せた。──あたかも靴に目をつけたのは、将軍よりも彼自身が、先だった事も忘れたように。 「だが裸にしてもないとすれば、靴よりほかに隠せないじゃないか?」  将軍はまだ上機嫌だった。 「わしはすぐに靴と睨んだ。」 「どうもこの辺の住民はいけません。我々がここへ来た時も、日の丸の旗を出したのですが、その癖家の中を検べて見れば、大抵露西亜の旗を持っているのです。」  旅団長も何か浮き浮きしていた。 「つまり奸佞邪智なのじゃね。」 「そうです。煮ても焼いても食えないのです。」  こんな会話が続いている内、旅団参謀はまだ通訳と、二人の支那人を検べていた。それが急に田口一等卒へ、機嫌の悪い顔を向けると、吐き出すようにこう命じた。 「おい歩兵! この間牒はお前が掴まえて来たのだから、次手にお前が殺して来い。」  二十分の後、村の南端の路ばたには、この二人の支那人が、互に辮髪を結ばれたまま、枯柳の根がたに坐っていた。  田口一等卒は銃剣をつけると、まず辮髪を解き放した。それから銃を構えたまま、年下の男の後に立った。が、彼等を突殺す前に、殺すと云う事だけは告げたいと思った。 「儞、──」  彼はそう云って見たが、「殺す」と云う支那語を知らなかった。 「儞、殺すぞ!」  二人の支那人は云い合せたように、じろりと彼を振り返った。しかし驚いたけはいも見せず、それぎり別々の方角へ、何度も叩頭を続け出した。「故郷へ別れを告げているのだ。」──田口一等卒は身構えながら、こうその叩頭を解釈した。  叩頭が一通り済んでしまうと、彼等は覚悟をきめたように、冷然と首をさし伸した。田口一等卒は銃をかざした。が、神妙な彼等を見ると、どうしても銃剣が突き刺せなかった。 「儞、殺すぞ!」  彼はやむを得ず繰返した。するとそこへ村の方から、馬に跨った騎兵が一人、蹄に砂埃を巻き揚げて来た。 「歩兵!」  騎兵は──近づいたのを見れば曹長だった。それが二人の支那人を見ると、馬の歩みを緩めながら、傲然と彼に声をかけた。 「露探か? 露探だろう。おれにも、一人斬らせてくれ。」  田口一等卒は苦笑した。 「何、二人とも上げます。」 「そうか? それは気前が好いな。」  騎兵は身軽に馬を下りた。そうして支那人の後にまわると、腰の日本刀を抜き放した。その時また村の方から、勇しい馬蹄の響と共に、三人の将校が近づいて来た。騎兵はそれに頓着せず、まっ向に刀を振り上げた。が、まだその刀を下さない内に、三人の将校は悠々と、彼等の側へ通りかかった。軍司令官! 騎兵は田口一等卒と一しょに、馬上の将軍を見上げながら、正しい挙手の礼をした。 「露探だな。」  将軍の眼には一瞬間、モノメニアの光が輝いた。 「斬れ! 斬れ!」  騎兵は言下に刀をかざすと、一打に若い支那人を斬った。支那人の頭は躍るように、枯柳の根もとに転げ落ちた。血は見る見る黄ばんだ土に、大きい斑点を拡げ出した。 「よし。見事だ。」  将軍は愉快そうに頷きながら、それなり馬を歩ませて行った。  騎兵は将軍を見送ると、血に染んだ刀を提げたまま、もう一人の支那人の後に立った。その態度は将軍以上に、殺戮を喜ぶ気色があった。「この×××らばおれにも殺せる。」──田口一等卒はそう思いながら、枯柳の根もとに腰を下した。騎兵はまた刀を振り上げた。が、髯のある支那人は、黙然と首を伸ばしたぎり、睫毛一つ動かさなかった。……  将軍に従った軍参謀の一人、──穂積中佐は鞍の上に、春寒の曠野を眺めて行った。が、遠い枯木立や、路ばたに倒れた石敢当も、中佐の眼には映らなかった。それは彼の頭には、一時愛読したスタンダアルの言葉が、絶えず漂って来るからだった。 「私は勲章に埋った人間を見ると、あれだけの勲章を手に入れるには、どのくらい××な事ばかりしたか、それが気になって仕方がない。……」  ──ふと気がつけば彼の馬は、ずっと将軍に遅れていた。中佐は軽い身震をすると、すぐに馬を急がせ出した。ちょうど当り出した薄日の光に、飾緒の金をきらめかせながら。      三 陣中の芝居  明治三十八年五月四日の午後、阿吉牛堡に駐っていた、第×軍司令部では、午前に招魂祭を行った後、余興の演芸会を催す事になった。会場は支那の村落に多い、野天の戯台を応用した、急拵の舞台の前に、天幕を張り渡したに過ぎなかった。が、その蓆敷の会場には、もう一時の定刻前に、大勢の兵卒が集っていた。この薄汚いカアキイ服に、銃剣を下げた兵卒の群は、ほとんど看客と呼ぶのさえも、皮肉な感じを起させるほど、みじめな看客に違いなかった。が、それだけまた彼等の顔に、晴れ晴れした微笑が漂っているのは、一層可憐な気がするのだった。  将軍を始め軍司令部や、兵站監部の将校たちは、外国の従軍武官たちと、その後の小高い土地に、ずらりと椅子を並べていた。そこには参謀肩章だの、副官の襷だのが見えるだけでも、一般兵卒の看客席より、遥かに空気が花やかだった。殊に外国の従軍武官は、愚物の名の高い一人でさえも、この花やかさを扶けるためには、軍司令官以上の効果があった。  将軍は今日も上機嫌だった。何か副官の一人と話しながら、時々番付を開いて見ている、──その眼にも始終日光のように、人懐こい微笑が浮んでいた。  その内に定刻の一時になった。桜の花や日の出をとり合せた、手際の好い幕の後では、何度か鳴りの悪い拍子木が響いた。と思うとその幕は、余興掛の少尉の手に、するすると一方へ引かれて行った。  舞台は日本の室内だった。それが米屋の店だと云う事は、一隅に積まれた米俵が、わずかに暗示を与えていた。そこへ前垂掛けの米屋の主人が、「お鍋や、お鍋や」と手を打ちながら、彼自身よりも背の高い、銀杏返しの下女を呼び出して来た。それから、──筋は話すにも足りない、一場の俄が始まった。  舞台の悪ふざけが加わる度に、蓆敷の上の看客からは、何度も笑声が立ち昇った。いや、その後の将校たちも、大部分は笑を浮べていた。が、俄はその笑と競うように、ますます滑稽を重ねて行った。そうしてとうとうしまいには、越中褌一つの主人が、赤い湯もじ一つの下女と相撲をとり始める所になった。  笑声はさらに高まった。兵站監部のある大尉なぞは、この滑稽を迎えるため、ほとんど拍手さえしようとした。ちょうどその途端だった。突然烈しい叱咤の声は、湧き返っている笑の上へ、鞭を加えるように響き渡った。 「何だ、その醜態は? 幕を引け! 幕を!」  声の主は将軍だった。将軍は太い軍刀の𣠽に、手袋の両手を重ねたまま、厳然と舞台を睨んで居た。  幕引きの少尉は命令通り、呆気にとられた役者たちの前へ、倉皇とさっきの幕を引いた。同時に蓆敷の看客も、かすかなどよめきの声のほかは、ひっそりと静まり返ってしまった。  外国の従軍武官たちと、一つ席にいた穂積中佐は、この沈黙を気の毒に思った。俄は勿論彼の顔には、微笑さえも浮ばせなかった。しかし彼は看客の興味に、同情を持つだけの余裕はあった。では外国武官たちに、裸の相撲を見せても好いか?──そう云う体面を重ずるには、何年か欧洲に留学した彼は、余りに外国人を知り過ぎていた。 「どうしたのですか?」  仏蘭西の将校は驚いたように、穂積中佐をふりかえった。 「将軍が中止を命じたのです。」 「なぜ?」 「下品ですから、──将軍は下品な事は嫌いなのです。」  そう云う内にもう一度、舞台の拍子木が鳴り始めた。静まり返っていた兵卒たちは、この音に元気を取り直したのか、そこここから拍手を送り出した。穂積中佐もほっとしながら、彼の周囲を眺め廻した。周囲にい並んだ将校たちは、いずれも幾分か気兼そうに、舞台を見たり見なかったりしている、──その中にたった一人、やはり軍刀へ手をのせたまま、ちょうど幕の開き出した舞台へ、じっと眼を注いでいた。  次の幕は前と反対に、人情がかった旧劇だった。舞台にはただ屏風のほかに、火のともった行燈が置いてあった。そこに頬骨の高い年増が一人、猪首の町人と酒を飲んでいた。年増は時々金切声に、「若旦那」と相手の町人を呼んだ。そうして、──穂積中佐は舞台を見ずに、彼自身の記憶に浸り出した。柳盛座の二階の手すりには、十二三の少年が倚りかかっている。舞台には桜の釣り枝がある。火影の多い町の書割がある。その中に二銭の団洲と呼ばれた、和光の不破伴左衛門が、編笠を片手に見得をしている。少年は舞台に見入ったまま、ほとんど息さえもつこうとしない。彼にもそんな時代があった。…… 「余興やめ! 幕を引かんか? 幕! 幕!」  将軍の声は爆弾のように、中佐の追憶を打ち砕いた。中佐は舞台へ眼を返した。舞台にはすでに狼狽した少尉が、幕と共に走っていた。その間にちらりと屏風の上へ、男女の帯の懸かっているのが見えた。  中佐は思わず苦笑した。「余興掛も気が利かなすぎる。男女の相撲さえ禁じている将軍が、濡れ場を黙って見ている筈がない。」──そんな事を考えながら、叱声の起った席を見ると、将軍はまだ不機嫌そうに、余興掛の一等主計と、何か問答を重ねていた。  その時ふと中佐の耳は、口の悪い亜米利加の武官が、隣に坐った仏蘭西の武官へ、こう話しかける声を捉えた。 「将軍Nも楽じゃない。軍司令官兼検閲官だから、──」  やっと三幕目が始まったのは、それから十分の後だった。今度は木がはいっても、兵卒たちは拍手を送らなかった。 「可哀そうに。監視されながら、芝居を見ているようだ。」──穂積中佐は憐むように、ほとんど大きな話声も立てない、カアキイ服の群を見渡した。  三幕目の舞台は黒幕の前に、柳の木が二三本立ててあった。それはどこから伐って来たか、生々しい実際の葉柳だった。そこに警部らしい髯だらけの男が、年の若い巡査をいじめていた。穂積中佐は番附の上へ、不審そうに眼を落した。すると番附には「ピストル強盗清水定吉、大川端捕物の場」と書いてあった。  年の若い巡査は警部が去ると、大仰に天を仰ぎながら、長々と浩歎の独白を述べた。何でもその意味は長い間、ピストル強盗をつけ廻しているが、逮捕出来ないとか云うのだった。それから人影でも認めたのか、彼は相手に見つからないため、一まず大川の水の中へ姿を隠そうと決心した。そうして後の黒幕の外へ、頭からさきに這いこんでしまった。その恰好は贔屓眼に見ても、大川の水へ没するよりは、蚊帳へはいるのに適当していた。  空虚の舞台にはしばらくの間、波の音を思わせるらしい、大太鼓の音がするだけだった。と、たちまち一方から、盲人が一人歩いて来た。盲人は杖をつき立てながら、そのまま向うへはいろうとする、──その途端に黒幕の外から、さっきの巡査が飛び出して来た。「ピストル強盗、清水定吉、御用だ!」──彼はそう叫ぶが早いか、いきなり盲人へ躍りかかった。盲人は咄嗟に身構えをした。と思うと眼がぱっちりあいた。「憾むらくは眼が小さ過ぎる。」──中佐は微笑を浮べながら、内心大人気ない批評を下した。  舞台では立ち廻りが始まっていた。ピストル強盗は渾名通り、ちゃんとピストルを用意していた。二発、三発、──ピストルは続けさまに火を吐いた。しかし巡査は勇敢に、とうとう偽目くらに縄をかけた。兵卒たちはさすがにどよめいた。が、彼等の間からは、やはり声一つかからなかった。  中佐は将軍へ眼をやった。将軍は今度も熱心に、じっと舞台を眺めていた。しかしその顔は以前よりも、遥かに柔しみを湛えていた。  そこへ舞台には一方から、署長とその部下とが駈けつけて来た。が、偽目くらと挌闘中、ピストルの弾丸に中った巡査は、もう昏々と倒れていた。署長はすぐに活を入れた。その間に部下はいち早く、ピストル強盗の縄尻を捉えた。その後は署長と巡査との、旧劇めいた愁歎場になった。署長は昔の名奉行のように、何か云い遺す事はないかと云う。巡査は故郷に母がある、と云う。署長はまた母の事は心配するな。何かそのほかにも末期の際に、心遺りはないかと云う。巡査は何も云う事はない、ピストル強盗を捉えたのは、この上もない満足だと云う。  ──その時ひっそりした場内に、三度将軍の声が響いた。が、今度は叱声の代りに、深い感激の嘆声だった。 「偉い奴じゃ。それでこそ日本男児じゃ。」  穂積中佐はもう一度、そっと将軍へ眼を注いだ。すると日に焼けた将軍の頬には、涙の痕が光っていた。「将軍は善人だ。」──中佐は軽い侮蔑の中に、明るい好意をも感じ出した。  その時幕は悠々と、盛んな喝采を浴びながら、舞台の前に引かれて行った。穂積中佐はその機会に、ひとり椅子から立ち上ると、会場の外へ歩み去った。  三十分の後、中佐は紙巻を啣えながら、やはり同参謀の中村少佐と、村はずれの空地を歩いていた。 「第×師団の余興は大成功だね。N閣下は非常に喜んでいられた。」  中村少佐はこう云う間も、カイゼル髭の端をひねっていた。 「第×師団の余興? ああ、あのピストル強盗か?」 「ピストル強盗ばかりじゃない。閣下はあれから余興掛を呼んで、もう一幕臨時にやれと云われた。今度は赤垣源蔵だったがね。何と云うのかな、あれは? 徳利の別れか?」  穂積中佐は微笑した眼に、広い野原を眺めまわした。もう高粱の青んだ土には、かすかに陽炎が動いていた。 「それもまた大成功さ。──」  中村少佐は話し続けた。 「閣下は今夜も七時から、第×師団の余興掛に、寄席的な事をやらせるそうだぜ。」 「寄席的? 落語でもやらせるのかね?」 「何、講談だそうだ。水戸黄門諸国めぐり──」  穂積中佐は苦笑した。が、相手は無頓着に、元気のよい口調を続けて行った。 「閣下は水戸黄門が好きなのだそうだ。わしは人臣としては、水戸黄門と加藤清正とに、最も敬意を払っている。──そんな事を云っていられた。」  穂積中佐は返事をせずに、頭の上の空を見上げた。空には柳の枝の間に、細い雲母雲が吹かれていた。中佐はほっと息を吐いた。 「春だね、いくら満洲でも。」 「内地はもう袷を着ているだろう。」  中村少佐は東京を思った。料理の上手な細君を思った。小学校へ行っている子供を思った。そうして──かすかに憂鬱になった。 「向うに杏が咲いている。」  穂積中佐は嬉しそうに、遠い土塀に簇った、赤い花の塊りを指した。Ecoute-moi, Madeline………──中佐の心にはいつのまにか、ユウゴオの歌が浮んでいた。      四 父と子と  大正七年十月のある夜、中村少将、──当時の軍参謀中村少佐は、西洋風の応接室に、火のついたハヴァナを啣えながら、ぼんやり安楽椅子によりかかっていた。  二十年余りの閑日月は、少将を愛すべき老人にしていた。殊に今夜は和服のせいか、禿げ上った額のあたりや、肉のたるんだ口のまわりには、一層好人物じみた気色があった。少将は椅子の背に靠れたまま、ゆっくり周囲を眺め廻した。それから、──急にため息を洩らした。  室の壁にはどこを見ても、西洋の画の複製らしい、写真版の額が懸けてあった。そのある物は窓に倚った、寂しい少女の肖像だった。またある物は糸杉の間に、太陽の見える風景だった。それらは皆電燈の光に、この古めかしい応接室へ、何か妙に薄ら寒い、厳粛な空気を与えていた。が、その空気はどう云う訣か、少将には愉快でないらしかった。  無言の何分かが過ぎ去った後、突然少将は室外に、かすかなノックの音を聞いた。 「おはいり。」  その声と同時に室の中へは、大学の制服を着た青年が一人、背の高い姿を現した。青年は少将の前に立つと、そこにあった椅子に手をやりながら、ぶっきらぼうにこう云った。 「何か御用ですか? お父さん。」 「うん。まあ、そこにおかけ。」  青年は素直に腰を下した。 「何です?」  少将は返事をするために、青年の胸の金鈕へ、不審らしい眼をやった。 「今日は?」 「今日は河合の──お父さんは御存知ないでしょう。──僕と同じ文科の学生です。河合の追悼会があったものですから、今帰ったばかりなのです。」  少将はちょいと頷いた後、濃いハヴァナの煙を吐いた。それからやっと大儀そうに、肝腎の用向きを話し始めた。 「この壁にある画だね、これはお前が懸け換えたのかい?」 「ええ、まだ申し上げませんでしたが、今朝僕が懸け換えたのです。いけませんか?」 「いけなくはない。いけなくはないがね、N閣下の額だけは懸けて置きたい、と思う。」 「この中へですか?」  青年は思わず微笑した。 「この中へ懸けてはいけないかね?」 「いけないと云う事もありませんが、──しかしそれは可笑しいでしょう。」 「肖像画はあすこにもあるようじゃないか?」  少将は炉の上の壁を指した。その壁には額縁の中に、五十何歳かのレムブラントが、悠々と少将を見下していた。 「あれは別です。N将軍と一しょにはなりません。」 「そうか? じゃ仕方がない。」  少将は容易に断念した。が、また葉巻の煙を吐きながら、静かにこう話を続けた。 「お前は、──と云うよりもお前の年輩のものは、閣下をどう思っているね?」 「別にどうも思ってはいません。まあ、偉い軍人でしょう。」  青年は老いた父の眼に、晩酌の酔を感じていた。 「それは偉い軍人だがね、閣下はまた実に長者らしい、人懐こい性格も持っていられた。……」  少将はほとんど、感傷的に、将軍の逸話を話し出した。それは日露戦役後、少将が那須野の別荘に、将軍を訪れた時の事だった。その日別荘へ行って見ると、将軍夫妻は今し方、裏山へ散歩にお出かけになった、──そう云う別荘番の話だった。少将は案内を知っていたから、早速裏山へ出かける事にした。すると二三町行った所に、綿服を纏った将軍が、夫人と一しょに佇んでいた。少将はこの老夫妻と、しばらくの間立ち話をした。が、将軍はいつまでたっても、そこを立ち去ろうとしなかった。「何かここに用でもおありですか?」──こう少将が尋ねると、将軍は急に笑い出した。「実はね、今妻が憚りへ行きたいと云うものだから、わしたちについて来た学生たちが、場所を探しに行ってくれた所じゃ。」ちょうど今頃、──もう路ばたに毬栗などが、転がっている時分だった。  少将は眼を細くしたまま、嬉しそうに独り微笑した。──そこへ色づいた林の中から、勢の好い中学生が、四五人同時に飛び出して来た。彼等は少将に頓着せず、将軍夫妻をとり囲むと、口々に彼等が夫人のために、見つけて来た場所を報告した。その上それぞれ自分の場所へ、夫人に来て貰うように、無邪気な競争さえ始めるのだった。「じゃあなた方に籤を引いて貰おう。」──将軍はこう云ってから、もう一度少将に笑顔を見せた。…… 「それは罪のない話ですね。だが西洋人には聞かされないな。」  青年も笑わずにはいられなかった。 「まあそんな調子でね、十二三の中学生でも、N閣下と云いさえすれば、叔父さんのように懐いていたものだ。閣下はお前がたの思うように、決して一介の武弁じゃない。」  少将は楽しそうに話し終ると、また炉の上のレムブラントを眺めた。 「あれもやはり人格者かい?」 「ええ、偉い画描きです。」 「N閣下などとはどうだろう?」  青年の顔には当惑の色が浮んだ。 「どうと云っても困りますが、──まあN将軍などよりも、僕等に近い気もちのある人です。」 「閣下のお前がたに遠いと云うのは?」 「何と云えば好いですか?──まあ、こんな点ですね、たとえば今日追悼会のあった、河合と云う男などは、やはり自殺しているのです。が、自殺する前に──」  青年は真面目に父の顔を見た。 「写真をとる余裕はなかったようです。」  今度は機嫌の好い少将の眼に、ちらりと当惑の色が浮んだ。 「写真をとっても好いじゃないか? 最後の記念と云う意味もあるし、──」 「誰のためにですか?」 「誰と云う事もないが、──我々始めN閣下の最後の顔は見たいじゃないか?」 「それは少くともN将軍は、考うべき事ではないと思うのです。僕は将軍の自殺した気もちは、幾分かわかるような気がします。しかし写真をとったのはわかりません。まさか死後その写真が、どこの店頭にも飾られる事を、──」  少将はほとんど、憤然と、青年の言葉を遮った。 「それは酷だ。閣下はそんな俗人じゃない。徹頭徹尾至誠の人だ。」  しかし青年は不相変、顔色も声も落着いていた。 「無論俗人じゃなかったでしょう。至誠の人だった事も想像出来ます。ただその至誠が僕等には、どうもはっきりのみこめないのです。僕等より後の人間には、なおさら通じるとは思われません。……」  父と子とはしばらくの間、気まずい沈黙を続けていた。 「時代の違いだね。」  少将はやっとつけ加えた。 「ええ、まあ、──」  青年はこう云いかけたなり、ちょいと窓の外のけはいに、耳を傾けるような眼つきになった。 「雨ですね。お父さん。」 「雨?」  少将は足を伸ばしたまま、嬉しそうに話頭を転換した。 「また榲桲が落ちなければ好いが、……」 (大正十年十二月) 底本:「芥川龍之介全集4」ちくま文庫、筑摩書房    1987(昭和62)年1月27日第1刷発行    1996(平成8)年7月15日第8刷発行 底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房    1971(昭和46)年3月~1971(昭和46)年11月 入力:j.utiyama 校正:かとうかおり 1999年1月12日公開 2004年3月9日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。