若菜集 島崎藤村 Guide 扉 本文 目 次 若菜集 二 六人の処女 三 生のあけぼの 四 深林の逍遙、其他 序 こゝろなきうたのしらべは ひとふさのぶだうのごとし なさけあるてにもつまれて あたゝかきさけとなるらむ ぶだうだなふかくかゝれる むらさきのそれにあらねど こゝろあるひとのなさけに かげにおくふさのみつよつ そはうたのわかきゆゑなり あぢはひもいろもあさくて おほかたはかみてすつべき うたゝねのゆめのそらごと 一 秋の思   秋 秋は来ぬ   秋は来ぬ 一葉は花は露ありて 風の来て弾く琴の音に 青き葡萄は紫の 自然の酒とかはりけり 秋は来ぬ   秋は来ぬ おくれさきだつ秋草も みな夕霜のおきどころ 笑ひの酒を悲みの 盃にこそつぐべけれ 秋は来ぬ   秋は来ぬ くさきも紅葉するものを たれかは秋に酔はざらめ 智恵あり顔のさみしさに 君笛を吹けわれはうたはむ   初恋 まだあげ初めし前髪の 林檎のもとに見えしとき 前にさしたる花櫛の 花ある君と思ひけり やさしく白き手をのべて 林檎をわれにあたへしは 薄紅の秋の実に 人こひ初めしはじめなり わがこゝろなきためいきの その髪の毛にかゝるとき たのしき恋の盃を 君が情に酌みしかな 林檎畑の樹の下に おのづからなる細道は 誰が踏みそめしかたみぞと 問ひたまふこそこひしけれ   狐のわざ 庭にかくるゝ小狐の 人なきときに夜いでて 秋の葡萄の樹の影に しのびてぬすむつゆのふさ 恋は狐にあらねども 君は葡萄にあらねども 人しれずこそ忍びいで 君をぬすめる吾心   髪を洗へば 髪を洗へば紫の 小草のまへに色みえて 足をあぐれば花鳥の われに随ふ風情あり 目にながむれば彩雲の まきてはひらく絵巻物 手にとる酒は美酒の 若き愁をたゝふめり 耳をたつれば歌神の きたりて玉の簫を吹き 口をひらけばうたびとの 一ふしわれはこひうたふ あゝかくまでにあやしくも 熱きこゝろのわれなれど われをし君のこひしたふ その涙にはおよばじな   君がこゝろは 君がこゝろは蟋蟀の 風にさそはれ鳴くごとく 朝影清き花草に 惜しき涙をそゝぐらむ それかきならす玉琴の 一つの糸のさはりさへ 君がこゝろにかぎりなき しらべとこそはきこゆめれ あゝなどかくは触れやすき 君が優しき心もて かくばかりなる吾こひに 触れたまはぬぞ恨みなる   傘のうち 二人してさす一張の 傘に姿をつゝむとも 情の雨のふりしきり かわく間もなきたもとかな 顔と顔とをうちよせて あゆむとすればなつかしや 梅花の油黒髪の 乱れて匂ふ傘のうち 恋の一雨ぬれまさり ぬれてこひしき夢の間や 染めてぞ燃ゆる紅絹うらの 雨になやめる足まとひ 歌ふをきけば梅川よ しばし情を捨てよかし いづこも恋に戯れて それ忠兵衛の夢がたり こひしき雨よふらばふれ 秋の入日の照りそひて 傘の涙を乾さぬ間に 手に手をとりて行きて帰らじ   秋に隠れて わが手に植ゑし白菊の おのづからなる時くれば 一もと花の暮陰に 秋に隠れて窓にさくなり   知るや君 こゝろもあらぬ秋鳥の 声にもれくる一ふしを         知るや君 深くも澄める朝潮の 底にかくるゝ真珠を         知るや君 あやめもしらぬやみの夜に 静にうごく星くづを         知るや君 まだ弾きも見ぬをとめごの 胸にひそめる琴の音を         知るや君   秋風の歌 さびしさはいつともわかぬ山里に     尾花みだれて秋かぜぞふく しづかにきたる秋風の 西の海より吹き起り 舞ひたちさわぐ白雲の 飛びて行くへも見ゆるかな 暮影高く秋は黄の 桐の梢の琴の音に そのおとなひを聞くときは 風のきたると知られけり ゆふべ西風吹き落ちて あさ秋の葉の窓に入り あさ秋風の吹きよせて ゆふべの鶉巣に隠る ふりさけ見れば青山も 色はもみぢに染めかへて 霜葉をかへす秋風の 空の明鏡にあらはれぬ 清しいかなや西風の まづ秋の葉を吹けるとき さびしいかなや秋風の かのもみぢ葉にきたるとき 道を伝ふる婆羅門の 西に東に散るごとく 吹き漂蕩す秋風に 飄り行く木の葉かな 朝羽うちふる鷲鷹の 明闇天をゆくごとく いたくも吹ける秋風の 羽に声あり力あり 見ればかしこし西風の 山の木の葉をはらふとき 悲しいかなや秋風の 秋の百葉を落すとき 人は利剣を振へども げにかぞふればかぎりあり 舌は時世をのゝしるも 声はたちまち滅ぶめり 高くも烈し野も山も 息吹まどはす秋風よ 世をかれ〴〵となすまでは 吹きも休むべきけはひなし あゝうらさびし天地の 壺の中なる秋の日や 落葉と共に飄る 風の行衛を誰か知る   雲のゆくへ 庭にたちいでたゞひとり 秋海棠の花を分け 空ながむれば行く雲の 更に秘密を闡くかな   小詩二首     一 ゆふぐれしづかに      ゆめみんとて よのわづらひより      しばしのがる きみよりほかには      しるものなき 花かげにゆきて      こひを泣きぬ すぎこしゆめぢを      おもひみるに こひこそつみなれ      つみこそこひ いのりもつとめも      このつみゆゑ たのしきそのへと      われはゆかじ なつかしき君と      てをたづさへ くらき冥府までも      かけりゆかん     二 しづかにてらせる      月のひかりの などか絶間なく      ものおもはする さやけきそのかげ      こゑはなくとも みるひとの胸に      忍び入るなり なさけは説くとも      なさけをしらぬ うきよのほかにも      朽ちゆくわがみ あかさぬおもひと      この月かげと いづれか声なき      いづれかなしき   強敵 一つの花に蝶と蜘蛛 小蜘蛛は花を守り顔 小蝶は花に酔ひ顔に 舞へども〳〵すべぞなき 花は小蜘蛛のためならば 小蝶の舞をいかにせむ 花は小蝶のためならば 小蜘蛛の糸をいかにせむ やがて一つの花散りて 小蜘蛛はそこに眠れども 羽翼も軽き小蝶こそ いづこともなくうせにけれ   別離 人妻をしたへる男の山に登り其 女の家を望み見てうたへるうた 誰かとゞめん旅人の あすは雲間に隠るゝを 誰か聞くらん旅人の あすは別れと告げましを 清き恋とや片し貝 われのみものを思ふより 恋はあふれて濁るとも 君に涙をかけましを 人妻恋ふる悲しさを 君がなさけに知りもせば せめてはわれを罪人と 呼びたまふこそうれしけれ あやめもしらぬ憂しや身は くるしきこひの牢獄より 罪の鞭責をのがれいで こひて死なんと思ふなり 誰かは花をたづねざる 誰かは色彩に迷はざる 誰かは前にさける見て 花を摘まんと思はざる 恋の花にも戯るゝ 嫉妬の蝶の身ぞつらき 二つの羽もをれ〳〵て 翼の色はあせにけり 人の命を春の夜の 夢といふこそうれしけれ 夢よりもいや〳〵深き われに思ひのあるものを 梅の花さくころほひは 蓮さかばやと思ひわび 蓮の花さくころほひは 萩さかばやと思ふかな 待つまも早く秋は来て わが踏む道に萩さけど 濁りて待てる吾恋は 清き怨となりにけり   望郷 寺をのがれいでたる僧のうたひ しそのうた いざさらば これをこの世のわかれぞと のがれいでては住みなれし 御寺の蔵裏の白壁の 眼にもふたたび見ゆるかな いざさらば 住めば仏のやどりさへ 火炎の宅となるものを なぐさめもなき心より 流れて落つる涙かな いざさらば 心の油濁るとも ともしびたかくかきおこし なさけは熱くもゆる火の こひしき塵にわれは焼けなむ 二 六人の処女   おえふ 処女ぞ経ぬるおほかたの われは夢路を越えてけり わが世の坂にふりかへり いく山河をながむれば 水静かなる江戸川の ながれの岸にうまれいで 岸の桜の花影に われは処女となりにけり 都鳥浮く大川に 流れてそゝぐ川添の 白菫さく若草に 夢多かりし吾身かな 雲むらさきの九重の 大宮内につかへして 清涼殿の春の夜の 月の光に照らされつ 雲を彫め濤を刻り 霞をうかべ日をまねく 玉の台の欄干に かゝるゆふべの春の雨 さばかり高き人の世の 耀くさまを目にも見て ときめきたまふさま〴〵の ひとりのころもの香をかげり きらめき初むる暁星の あしたの空に動くごと あたりの光きゆるまで さかえの人のさまも見き 天つみそらを渡る日の 影かたぶけるごとくにて 名の夕暮に消えて行く 秀でし人の末路も見き 春しづかなる御園生の 花に隠れて人を哭き 秋のひかりの窓に倚り 夕雲とほき友を恋ふ ひとりの姉をうしなひて 大宮内の門を出で けふ江戸川に来て見れば 秋はさみしきながめかな 桜の霜葉黄に落ちて ゆきてかへらぬ江戸川や 流れゆく水静かにて あゆみは遅きわがおもひ おのれも知らず世を経れば 若き命に堪へかねて 岸のほとりの草を藉き 微笑みて泣く吾身かな   おきぬ みそらをかける猛鷲の 人の処女の身に落ちて 花の姿に宿かれば 風雨に渇き雲に饑ゑ 天翅るべき術をのみ 願ふ心のなかれとて 黒髪長き吾身こそ うまれながらの盲目なれ 芙蓉を前の身とすれば 泪は秋の花の露 小琴を前の身とすれば 愁は細き糸の音 いま前の世は鷲の身の 処女にあまる羽翼かな あゝあるときは吾心 あらゆるものをなげうちて 世はあぢきなき浅茅生の 茂れる宿と思ひなし 身は術もなき蟋蟀の 夜の野草にはひめぐり たゞいたづらに音をたてて うたをうたふと思ふかな 色にわが身をあたふれば 処女のこゝろ鳥となり 恋に心をあたふれば 鳥の姿は処女にて 処女ながらも空の鳥 猛鷲ながら人の身の 天と地とに迷ひゐる 身の定めこそ悲しけれ   おさよ 潮さみしき荒磯の 巌陰われは生れけり あしたゆふべの白駒と 故郷遠きものおもひ をかしくものに狂へりと われをいふらし世のひとの げに狂はしの身なるべき この年までの処女とは うれひは深く手もたゆく むすぼほれたるわが思 流れて熱きわがなみだ やすむときなきわがこゝろ 乱れてものに狂ひよる 心を笛の音に吹かん 笛をとる手は火にもえて うちふるひけり十の指 音にこそ渇け口唇の 笛を尋ぬる風情あり はげしく深きためいきに 笛の小竹や曇るらん 髪は乱れて落つるとも まづ吹き入るゝ気息を聴け 力をこめし一ふしに 黄楊のさし櫛落ちてけり 吹けば流るゝ流るれば 笛吹き洗ふわが涙 短き笛の節の間も 長き思のなからずや 七つの情声を得て 音をこそきかめ歌神も われ喜を吹くときは 鳥も梢に音をとゞめ 怒をわれの吹くときは 瀬を行く魚も淵にあり われ哀を吹くときは 獅子も涙をそゝぐらむ われ楽を吹くときは 虫も鳴く音をやめつらむ 愛のこゝろを吹くときは 流るゝ水のたち帰り 悪をわれの吹くときは 散り行く花も止りて 慾の思を吹くときは 心の闇の響あり うたへ浮世の一ふしは 笛の夢路のものぐるひ くるしむなかれ吾友よ しばしは笛の音に帰れ 落つる涙をぬぐひきて 静かにきゝね吾笛を   おくめ こひしきまゝに家を出で こゝの岸よりかの岸へ 越えましものと来て見れば 千鳥鳴くなり夕まぐれ こひには親も捨てはてて やむよしもなき胸の火や 鬢の毛を吹く河風よ せめてあはれと思へかし 河波暗く瀬を早み 流れて巌に砕くるも 君を思へば絶間なき 恋の火炎に乾くべし きのふの雨の小休なく 水嵩や高くまさるとも よひ〳〵になくわがこひの 涙の滝におよばじな しりたまはずやわがこひは 花鳥の絵にあらじかし 空鏡の印象砂の文字 梢の風の音にあらじ しりたまはずやわがこひは 雄々しき君の手に触れて 嗚呼口紅をその口に 君にうつさでやむべきや 恋は吾身の社にて 君は社の神なれば 君の祭壇の上ならで なににいのちを捧げまし 砕かば砕け河波よ われに命はあるものを 河波高く泳ぎ行き ひとりの神にこがれなん 心のみかは手も足も 吾身はすべて火炎なり 思ひ乱れて嗚呼恋の 千筋の髪の波に流るゝ   おつた 花仄見ゆる春の夜の すがたに似たる吾命 朧々に父母は 二つの影と消えうせて 世に孤児の吾身こそ 影より出でし影なれや たすけもあらぬ今は身は 若き聖に救はれて 人なつかしき前髪の 処女とこそはなりにけれ 若き聖ののたまはく 時をし待たむ君ならば かの柿の実をとるなかれ かくいひたまふうれしさに ことしの秋もはや深し まづその秋を見よやとて 聖に柿をすゝむれば その口唇にふれたまひ かくも色よき柿ならば などかは早くわれに告げこぬ 若き聖ののたまはく 人の命の惜しからば 嗚呼かの酒を飲むなかれ かくいひたまふうれしさに 酒なぐさめの一つなり まづその春を見よやとて 聖に酒をすゝむれば 夢の心地に酔ひたまひ かくも楽しき酒ならば などかは早くわれに告げこぬ 若き聖ののたまはく 道行き急ぐ君ならば 迷ひの歌をきくなかれ かくいひたまふうれしさに 歌も心の姿なり まづその声をきけやとて 一ふしうたひいでければ 聖は魂も酔ひたまひ かくも楽しき歌ならば などかは早くわれに告げこぬ 若き聖ののたまはく まことをさぐる吾身なり 道の迷となるなかれ かくいひたまふうれしさに 情も道の一つなり かゝる思を見よやとて わがこの胸に指ざせば 聖は早く恋ひわたり かくも楽しき恋ならば などかは早くわれに告げこぬ それ秋の日の夕まぐれ そゞろあるきのこゝろなく ふと目に入るを手にとれば 雪より白き小石なり 若き聖ののたまはく 智恵の石とやこれぞこの あまりに惜しき色なれば 人に隠して今も放たじ   おきく くろかみながく     やはらかき をんなごころを     たれかしる をとこのかたる     ことのはを まこととおもふ     ことなかれ をとめごころの     あさくのみ いひもつたふる     をかしさや みだれてながき     鬢の毛を 黄楊の小櫛に     かきあげよ あゝ月ぐさの     きえぬべき こひもするとは     たがことば こひて死なんと     よみいでし あつきなさけは     誰がうたぞ みちのためには     ちをながし くにには死ぬる     をとこあり 治兵衛はいづれ     恋か名か 忠兵衛も名の     ために果つ あゝむかしより     こひ死にし をとこのありと     しるや君 をんなごころは     いやさらに ふかきなさけの     こもるかな 小春はこひに     ちをながし 梅川こひの     ために死ぬ お七はこひの     ために焼け 高尾はこひの     ために果つ かなしからずや     清姫は 蛇となれるも     こひゆゑに やさしからずや     佐容姫は 石となれるも     こひゆゑに をとこのこひの     たはぶれは たびにすてゆく     なさけのみ こひするなかれ     をとめごよ かなしむなかれ     わがともよ こひするときと     かなしみと いづれかながき     いづれみじかき 三 生のあけぼの   草枕 夕波くらく啼く千鳥 われは千鳥にあらねども 心の羽をうちふりて さみしきかたに飛べるかな 若き心の一筋に なぐさめもなくなげきわび 胸の氷のむすぼれて とけて涙となりにけり 蘆葉を洗ふ白波の 流れて巌を出づるごと 思ひあまりて草枕 まくらのかずの今いくつ かなしいかなや人の身の なきなぐさめを尋ね侘び 道なき森に分け入りて などなき道をもとむらん われもそれかやうれひかや 野末に山に谷蔭に 見るよしもなき朝夕の 光もなくて秋暮れぬ 想も薄く身も暗く 残れる秋の花を見て 行くへもしらず流れ行く 水に涙の落つるかな 身を朝雲にたとふれば ゆふべの雲の雨となり 身を夕雨にたとふれば あしたの雨の風となる されば落葉と身をなして 風に吹かれて飄り 朝の黄雲にともなはれ 夜白河を越えてけり 道なき今の身なればか われは道なき野を慕ひ 思ひ乱れてみちのくの 宮城野にまで迷ひきぬ 心の宿の宮城野よ 乱れて熱き吾身には 日影も薄く草枯れて 荒れたる野こそうれしけれ ひとりさみしき吾耳は 吹く北風を琴と聴き 悲み深き吾目には 色彩なき石も花と見き あゝ孤独の悲痛を 味ひ知れる人ならで 誰にかたらん冬の日の かくもわびしき野のけしき 都のかたをながむれば 空冬雲に覆はれて 身にふりかゝる玉霰 袖の氷と閉ぢあへり みぞれまじりの風勁く 小川の水の薄氷 氷のしたに音するは 流れて海に行く水か 啼いて羽風もたのもしく 雲に隠るゝかさゝぎよ 光もうすき寒空の 汝も荒れたる野にむせぶ 涙も凍る冬の日の 光もなくて暮れ行けば 人めも草も枯れはてて ひとりさまよふ吾身かな かなしや酔ふて行く人の 踏めばくづるゝ霜柱 なにを酔ひ泣く忍び音に 声もあはれのその歌は うれしや物の音を弾きて 野末をかよふ人の子よ 声調ひく手も凍りはて なに門づけの身の果ぞ やさしや年もうら若く まだ初恋のまじりなく 手に手をとりて行く人よ なにを隠るゝその姿 野のさみしさに堪へかねて 霜と霜との枯草の 道なき道をふみわけて きたれば寒し冬の海 朝は海辺の石の上に こしうちかけてふるさとの 都のかたを望めども おとなふものは濤ばかり 暮はさみしき荒磯の 潮を染めし砂に伏し 日の入るかたをながむれど 湧きくるものは涙のみ さみしいかなや荒波の 岩に砕けて散れるとき かなしいかなや冬の日の 潮とともに帰るとき 誰か波路を望み見て そのふるさとを慕はざる 誰か潮の行くを見て この人の世を惜まざる 暦もあらぬ荒磯の 砂路にひとりさまよへば みぞれまじりの雨雲の 落ちて潮となりにけり 遠く湧きくる海の音 慣れてさみしき吾耳に 怪しやもるゝものの音は まだうらわかき野路の鳥 嗚呼めづらしのしらべぞと 声のゆくへをたづぬれば 緑の羽もまだ弱き それも初音か鶯の 春きにけらし春よ春 まだ白雪の積れども 若菜の萌えて色青き こゝちこそすれ砂の上に 春きにけらし春よ春 うれしや風に送られて きたるらしとや思へばか 梅が香ぞする海の辺に 磯辺に高き大巌の うへにのぼりてながむれば 春やきぬらん東雲の 潮の音遠き朝ぼらけ   春    一 たれかおもはむ たれかおもはむ鶯の 涙もこほる冬の日に 若き命は春の夜の 花にうつろふ夢の間と あゝよしさらば美酒に うたひあかさん春の夜を 梅のにほひにめぐりあふ 春を思へばひとしれず からくれなゐのかほばせに 流れてあつきなみだかな あゝよしさらば花影に うたひあかさん春の夜を わがみひとつもわすられて おもひわづらふこゝろだに 春のすがたをとめくれば たもとににほふ梅の花 あゝよしさらば琴の音に うたひあかさん春の夜を    二 あけぼの 紅細くたなびけたる 雲とならばやあけぼのの        雲とならばや やみを出でては光ある 空とならばやあけぼのの        空とならばや 春の光を彩れる 水とならばやあけぼのの        水とならばや 鳩に履まれてやはらかき 草とならばやあけぼのの        草とならばや    三 春は来ぬ 春はきぬ   春はきぬ 初音やさしきうぐひすよ こぞに別離を告げよかし 谷間に残る白雪よ 葬りかくせ去歳の冬 春はきぬ   春はきぬ さみしくさむくことばなく まづしくくらくひかりなく みにくゝおもくちからなく かなしき冬よ行きねかし 春はきぬ   春はきぬ 浅みどりなる新草よ とほき野面を画けかし さきては紅き春花よ 樹々の梢を染めよかし 春はきぬ   春はきぬ 霞よ雲よ動ぎいで 氷れる空をあたゝめよ 花の香おくる春風よ 眠れる山を吹きさませ 春はきぬ   春はきぬ 春をよせくる朝汐よ 蘆の枯葉を洗ひ去れ 霞に酔へる雛鶴よ 若きあしたの空に飛べ 春はきぬ   春はきぬ うれひの芹の根を絶えて 氷れるなみだ今いづこ つもれる雪の消えうせて けふの若菜と萌えよかし    四 眠れる春よ ねむれる春ようらわかき かたちをかくすことなかれ たれこめてのみけふの日を なべてのひとのすぐすまに さめての春のすがたこそ また夢のまの風情なれ ねむげの春よさめよ春 さかしきひとのみざるまに 若紫の朝霞 かすみの袖をみにまとへ はつねうれしきうぐひすの 鳥のしらべをうたへかし ねむげの春よさめよ春 ふゆのこほりにむすぼれし ふるきゆめぢをさめいでて やなぎのいとのみだれがみ うめのはなぐしさしそへて びんのみだれをかきあげよ ねむげの春よさめよ春 あゆめばたにの早わらびの したもえいそぐ汝があしを かたくもあげよあゆめ春 たえなるはるのいきを吹き こぞめの梅の香ににほへ    五 うてや鼓 うてや鼓の春の音 雪にうもるゝ冬の日の かなしき夢はとざされて 世は春の日とかはりけり ひけばこぞめの春霞 かすみの幕をひきとぢて 花と花とをぬふ糸は けさもえいでしあをやなぎ 霞のまくをひきあけて 春をうかゞふことなかれ はなさきにほふ蔭をこそ 春の台といふべけれ 小蝶よ花にたはぶれて 優しき夢をみては舞ひ 酔ふて羽袖もひら〳〵と はるの姿をまひねかし 緑のはねのうぐひすよ 梅の花笠ぬひそへて ゆめ静なるはるの日の しらべを高く歌へかし   小詩 くめどつきせぬ わかみづを きみとくまゝし かのいづみ かわきもしらぬ わかみづを きみとのまゝし かのいづみ かのわかみづと みをなして はるのこゝろに わきいでん かのわかみづと みをなして きみとながれん 花のかげ   明星 浮べる雲と身をなして あしたの空に出でざれば などしるらめや明星の 光の色のくれなゐを 朝の潮と身をなして 流れて海に出でざれば などしるらめや明星の 清みて哀しききらめきを なにかこひしき暁星の 空しき天の戸を出でて 深くも遠きほとりより 人の世近く来るとは 潮の朝のあさみどり 水底深き白石を 星の光に透かし見て 朝の齢を数ふべし 野の鳥ぞ啼く山河も ゆふべの夢をさめいでて 細く棚引くしのゝめの 姿をうつす朝ぼらけ 小夜には小夜のしらべあり 朝には朝の音もあれど 星の光の糸の緒に あしたの琴は静なり まだうら若き朝の空 きらめきわたる星のうち いと〳〵若き光をば 名けましかば明星と   潮音 わきてながるゝ やほじほの そこにいざよふ うみの琴 しらべもふかし もゝかはの よろづのなみを よびあつめ ときみちくれば うらゝかに とほくきこゆる はるのしほのね   酔歌 旅と旅との君や我 君と我とのなかなれば 酔ふて袂の歌草を 醒めての君に見せばやな 若き命も過ぎぬ間に 楽しき春は老いやすし 誰が身にもてる宝ぞや 君くれなゐのかほばせは 君がまなこに涙あり 君が眉には憂愁あり 堅く結べるその口に それ声も無きなげきあり 名もなき道を説くなかれ 名もなき旅を行くなかれ 甲斐なきことをなげくより 来りて美き酒に泣け 光もあらぬ春の日の 独りさみしきものぐるひ 悲しき味の世の智恵に 老いにけらしな旅人よ 心の春の燭火に 若き命を照らし見よ さくまを待たで花散らば 哀しからずや君が身は わきめもふらで急ぎ行く 君の行衛はいづこぞや 琴花酒のあるものを とゞまりたまへ旅人よ   二つの声    朝 たれか聞くらん朝の声 眠と夢を破りいで 彩なす雲にうちのりて よろづの鳥に歌はれつ 天のかなたにあらはれて 東の空に光あり そこに時あり始あり そこに道あり力あり そこに色あり詞あり そこに声あり命あり そこに名ありとうたひつゝ みそらにあがり地にかけり のこんの星ともろともに 光のうちに朝ぞ隠るゝ    暮 たれか聞くらん暮の声 霞の翼雲の帯 煙の衣露の袖 つかれてなやむあらそひを 闇のかなたに投げ入れて 夜の使の蝙蝠の 飛ぶ間も声のをやみなく こゝに影あり迷あり こゝに夢あり眠あり こゝに闇あり休息あり こゝに永きあり遠きあり こゝに死ありとうたひつゝ 草木にいこひ野にあゆみ かなたに落つる日とともに 色なき闇に暮ぞ隠るゝ   哀歌     中野逍遙をいたむ 『秀才香骨幾人憐、秋入長安夢愴然、琴台旧譜壚前柳、風流銷尽二千年』、これ中野逍遙が秋怨十絶の一なり。逍遙字は威卿、小字重太郎、予州宇和島の人なりといふ。文科大学の異材なりしが年僅かに二十七にしてうせぬ。逍遙遺稿正外二篇、みな紅心の余唾にあらざるはなし。左に掲ぐるはかれの清怨を写せしもの、『寄語残月休長嘆、我輩亦是艶生涯』、合せかゝげてこの秀才を追慕するのこゝろをとゞむ。     思君九首     中野逍遙 思君我心傷    思君我容瘁 中夜坐松蔭    露華多似涙 思君我心悄    思君我腸裂 昨夜涕涙流    今朝尽成血 示君錦字詩    寄君鴻文冊 忽覚筆端香    窻外梅花白 為君調綺羅    為君築金屋 中有鴛鴦図    長春夢百禄 贈君名香篋    応記韓寿恩 休将秋扇掩    明月照眉痕 贈君双臂環    宝玉価千金 一鐫不乖約    一題勿変心 訪君過台下    清宵琴響揺 佇門不敢入    恐乱月前調 千里囀金鶯    春風吹緑野 忽発頭屋桃    似君三両朶 嬌影三分月    芳花一朶梅 渾把花月秀    作君玉膚堆 かなしいかなや流れ行く 水になき名をしるすとて 今はた残る歌反古の ながき愁ひをいかにせむ かなしいかなやする墨の いろに染めてし花の木の 君がしらべの歌の音に 薄き命のひゞきあり かなしいかなや前の世は みそらにかゝる星の身の 人の命のあさぼらけ 光も見せでうせにしよ かなしいかなや同じ世に 生れいでたる身を持ちて 友の契りも結ばずに 君は早くもゆけるかな すゞしき眼つゆを帯び 葡萄のたまとまがふまで その面影をつたへては あまりに妬き姿かな 同じ時世に生れきて 同じいのちのあさぼらけ 君からくれなゐの花は散り われ命あり八重葎 かなしいかなやうるはしく さきそめにける花を見よ いかなればかくとゞまらで 待たで散るらんさける間も かなしいかなやうるはしき なさけもこひの花を見よ いと〳〵清きそのこひは 消ゆとこそ聞けいと早く 君し花とにあらねども いな花よりもさらに花 君しこひとにあらねども いなこひよりもさらにこひ かなしいかなや人の世に あまりに惜しき才なれば 病に塵に悲に 死にまでそしりねたまるゝ かなしいかなやはたとせの ことばの海のみなれ棹 磯にくだくる高潮の うれひの花とちりにけり かなしいかなや人の世の きづなも捨てて嘶けば つきせぬ草に秋は来て 声も悲しき天の馬 かなしいかなや音を遠み 流るゝ水の岸にさく ひとつの花に照らされて 飄り行く一葉舟 四 深林の逍遙、其他   深林の逍遙 力を刻む木匠の うちふる斧のあとを絶え 春の草花彫刻の 鑿の韻もとゞめじな いろさま〴〵の春の葉に 青一筆の痕もなく 千枝にわかるゝ赤樟も おのづからなるすがたのみ 檜は荒し杉直し 五葉は黒し椎の木の 枝をまじゆる白樫や 樗は茎をよこたへて 枝と枝とにもゆる火の なかにやさしき若楓   山精 ひとにしられぬ たのしみの ふかきはやしを たれかしる ひとにしられぬ はるのひの かすみのおくを たれかしる   木精 はなのむらさき はのみどり うらわかぐさの のべのいと たくみをつくす 大機の 梭のはやしに きたれかし   山精 かのもえいづる くさをふみ かのわきいづる みづをのみ かのあたらしき はなにゑひ はるのおもひの なからずや   木精 ふるきころもを ぬぎすてて はるのかすみを まとへかし なくうぐひすの ねにいでて ふかきはやしに うたへかし あゆめば蘭の花を踏み ゆけば楊梅袖に散り 袂にまとふ山葛の 葛のうら葉をかへしては 女蘿の蔭のやまいちご 色よき実こそ落ちにけれ 岡やまつゞき隈々も いとなだらかに行き延びて ふかきはやしの谷あひに 乱れてにほふふぢばかま 谷に花さき谷にちり 人にしられず朽つるめり せまりて暗き峡より やゝひらけたる深山木の 春は小枝のたゝずまひ しげりて広き熊笹の 葉末をふかくかきわけて 谷のかなたにきて見れば いづくに行くか滝川よ 声もさびしや白糸の 青き巌に流れ落ち 若き猿のためにだに 音をとゞむる時ぞなき   山精 ゆふぐれかよふ たびびとの むねのおもひを たれかしる 友にもあらぬ やまかはの はるのこゝろを たれかしる   木精 夜をなきあかす かなしみの まくらにつたふ なみだこそ ふかきはやしの たにかげの そこにながるゝ しづくなれ   山精 鹿はたふるゝ たびごとに 妻こふこひに かへるなり のやまは枯るゝ たびごとに ちとせのはるに かへるなり   木精 ふるきおちばを やはらかき 青葉のかげに 葬れよ ふゆのゆめぢを さめいでて はるのはやしに きたれかし 今しもわたる深山かぜ 春はしづかに吹きかよふ 林の簫の音をきけば 風のしらべにさそはれて みれどもあかぬ白妙の 雲の羽袖の深山木の 千枝にかゝりたちはなれ わかれ舞ひゆくすがたかな 樹々をわたりて行く雲の しばしと見ればあともなき 高き行衛にいざなはれ 千々にめぐれる巌影の 花にも迷ひ石に倚り 流るゝ水の音をきけば 山は危ふく石わかれ 削りてなせる青巌に 砕けて落つる飛潭の 湧きくる波の瀬を早み 花やかにさす春の日の 光烱照りそふ水けぶり 独り苔むす岩を攀ぢ ふるふあゆみをふみしめて 浮べる雲をうかゞへば 下にとゞろく飛潭の 澄むいとまなき岩波は 落ちていづくに下るらん   山精 なにをいざよふ むらさきの ふかきはやしの はるがすみ なにかこひしき いはかげを ながれていづる いづみがは   木精 かくれてうたふ 野の山の こゑなきこゑを きくやきみ つゝむにあまる はなかげの 水のしらべを しるやきみ   山精 あゝながれつゝ こがれつゝ うつりゆきつゝ うごきつゝ あゝめぐりつゝ かへりつゝ うちわらひつゝ むせびつゝ   木精 いまひのひかり はるがすみ いまはなぐもり はるのあめ あゝあゝはなの つゆに酔ひ ふかきはやしに うたへかし ゆびをりくればいつたびも かはれる雲をながむるに 白きは黄なりなにをかも もつ筆にせむ色彩の いつしか淡く茶を帯びて 雲くれなゐとかはりけり あゝゆふまぐれわれひとり たどる林もひらけきて いと静かなる湖の 岸辺にさける花躑躅 うき雲ゆけばかげ見えて 水に沈める春の日や それ紅の色染めて 雲紫となりぬれば かげさへあかき水鳥の 春のみづうみ岸の草 深き林や花つゝじ 迷ふひとりのわがみだに 深紫の紅の 彩にうつろふ夕まぐれ   母を葬るのうた うき雲はありともわかぬ大空の     月のかげよりふるしぐれかな きみがはかばに     きゞくあり きみがはかばに     さかきあり くさはにつゆは     しげくして おもからずやは     そのしるし いつかねむりを     さめいでて いつかへりこん     わがはゝよ 紅羅ひく子も     ますらをも みなちりひぢと     なるものを あゝさめたまふ     ことなかれ あゝかへりくる     ことなかれ はるははなさき     はなちりて きみがはかばに     かゝるとも なつはみだるゝ     ほたるびの きみがはかばに     とべるとも あきはさみしき     あきさめの きみがはかばに     そゝぐとも ふゆはましろに     ゆきじもの きみがはかばに     こほるとも とほきねむりの     ゆめまくら おそるゝなかれ     わがはゝよ   合唱    一 暗香 はるのよはひかりはかりとおもひしを     しろきやうめのさかりなるらむ    姉 わかきいのちの     をしければ やみにも春の     香に酔はん せめてこよひは     さほひめよ はなさくかげに     うたへかし    妹 そらもゑへりや     はるのよは ほしもかくれて     みえわかず よめにもそれと     ほのしろく みだれてにほふ     うめのはな    姉 はるのひかりの     こひしさに かたちをかくす     うぐひすよ はなさへしるき     はるのよの やみをおそるゝ     ことなかれ    妹 うめをめぐりて     ゆくみづの やみをながるゝ     せゝらぎや ゆめもさそはぬ     香なりせば いづれかよるに     にほはまし    姉 こぞのこよひは     わがともの うすこうばいの     そめごろも ほかげにうつる     さかづきを こひのみゑへる     よなりけり    妹 こぞのこよひは     わがともの なみだをうつす     よのなごり かげもかなしや     木下川に うれひしづみし     よなりけり    姉 こぞのこよひは     わがともの おもひははるの     よのゆめや よをうきものに     いでたまふ ひとめをつゝむ     よなりけり    妹 こぞのこよひは     わがともの そでのかすみの     はなむしろ ひくやことのね     たかじほを うつしあはせし     よなりけり    姉 わがみぎのてに     くらぶれば やさしきなれが     たなごころ ふるればいとゞ     やはらかに もゆるかあつく     おもほゆる    妹 もゆるやいかに     こよひはと とひたまふこそ     うれしけれ しりたまはずや     うめがかに わがうまれてし     はるのよを    二 蓮花舟 しは〳〵もこほるゝつゆははちすはの     うきはにのみもたまりけるかな    姉 あゝはすのはな     はすのはな かげはみえけり     いけみづに ひとつのふねに     さをさして うきはをわけて     こぎいでん    妹 かぜもすゞしや     はがくれに そこにもしろし     はすのはな こゝにもあかき     はすばなの みづしづかなる     いけのおも    姉 はすをやさしみ     はなをとり そでなひたしそ     いけみづに ひとめもはぢよ     はなかげに なれが乳房の     あらはるゝ    妹 ふかくもすめる     いけみづの 葉にすれてゆく     みなれざを なつぐもゆけば     かげみえて はなよりはなを     わたるらし    姉 荷葉にうたひ     ふねにのり はなつみのする     なつのゆめ はすのはなふね     さをとめて なにをながむる     そのすがた    妹 なみしづかなる     はなかげに きみのかたちの     うつるかな きみのかたちと     なつばなと いづれうるはし     いづれやさしき    三 葡萄の樹のかげ はるあきにおもひみたれてわきかねつ     ときにつけつゝうつるこゝろは    妹 たのしからずや     はなやかに あきはいりひの     てらすとき たのしからずや     ぶだうばの はごしにくもの     かよふとき    姉 やさしからずや     むらさきの ぶだうのふさの     かゝるとき やさしからずや     にひぼしの ぶだうのたまに     うつるとき    妹 かぜはしづかに     そらすみて あきはたのしき     ゆふまぐれ いつまでわかき     をとめごの たのしきゆめの     われらぞや    姉 あきのぶだうの     きのかげの いかにやさしく     ふかくとも てにてをとりて     かげをふむ なれとわかれて     なにかせむ    妹 げにやかひなき     くりごとも ぶだうにしかじ     ひとふさの われにあたへよ     ひとふさを そこにかゝれる     むらさきの    姉 われをしれかし     えだたかみ とゞかじものを     かのふさは はかげのたまに     てはふれて わがさしぐしの     おちにけるかな    四 高楼 わかれゆくひとををしむとこよひより     とほきゆめちにわれやまとはん    妹 とほきわかれに     たへかねて このたかどのに     のぼるかな かなしむなかれ     わがあねよ たびのころもを     とゝのへよ    姉 わかれといへば     むかしより このひとのよの     つねなるを ながるゝみづを     ながむれば ゆめはづかしき     なみだかな    妹 したへるひとの     もとにゆく きみのうへこそ     たのしけれ ふゆやまこえて     きみゆかば なにをひかりの     わがみぞや    姉 あゝはなとりの     いろにつけ ねにつけわれを     おもへかし けふわかれては     いつかまた あひみるまでの     いのちかも    妹 きみがさやけき     めのいろも きみくれなゐの     くちびるも きみがみどりの     くろかみも またいつかみん     このわかれ    姉 なれがやさしき     なぐさめも なれがたのしき     うたごゑも なれがこゝろの     ことのねも またいつきかん     このわかれ    妹 きみのゆくべき     やまかはは おつるなみだに     みえわかず そでのしぐれの     ふゆのひに きみにおくらん     はなもがな    姉 そでにおほへる     うるはしき ながかほばせを     あげよかし ながくれなゐの     かほばせに ながるゝなみだ     われはぬぐはん   梭の音 梭の音を聞くべき人は今いづこ 心を糸により初めて 涙ににじむ木綿縞 やぶれし窻に身をなげて 暮れ行く空をながむれば ねぐらに急ぐ村鴉 連にはなれて飛ぶ一羽 あとを慕ふてかあ〳〵と   かもめ 波に生れて波に死ぬ 情の海のかもめどり 恋の激浪たちさわぎ 夢むすぶべきひまもなし 闇き潮の驚きて 流れて帰るわだつみの 鳥の行衛も見えわかぬ 波にうきねのかもめどり   流星 門にたち出でたゞひとり 人待ち顔のさみしさに ゆふべの空をながむれば 雲の宿りも捨てはてて 何かこひしき人の世に 流れて落つる星一つ   君と遊ばん 君と遊ばん夏の夜の 青葉の影の下すゞみ 短かき夢は結ばずも せめてこよひは歌へかし 雲となりまた雨となる 昼の愁ひはたえずとも 星の光をかぞへ見よ 楽みのかず夜は尽きじ 夢かうつゝか天の川 星に仮寝の織姫の ひゞきもすみてこひわたる 梭の遠音を聞かめやも   昼の夢 花橘の袖の香の みめうるはしきをとめごは 真昼に夢を見てしより さめて忘るゝ夜のならひ 白日の夢のなぞもかく 忘れがたくはありけるものか ゆめと知りせばなまなかに さめざらましを世に出でて うらわかぐさのうらわかみ 何をか夢の名残ぞと 問はゞ答へん目さめては 熱き涙のかわく間もなし   東西南北 男ごころをたとふれば つよくもくさをふくかぜか もとよりかぜのみにしあれば きのふは東けふは西 女ごころをたとふれば かぜにふかるゝくさなれや もとよりくさのみにしあれば きのふは南けふは北   懐古 天の河原にやほよろづ ちよろづ神のかんつどひ つどひいませしあめつちの 始のときを誰か知る それ大神の天雲の 八重かきわけて行くごとく 野の鳥ぞ啼く東路の 碓氷の山にのぼりゆき 日は照らせども影ぞなき 吾妻はやとこひなきて 熱き涙をそゝぎてし 尊の夢は跡も無し 大和の国の高市の 雷山に御幸して 天雲のへにいほりせる 御輦のひゞき今いづこ 目をめぐらせばさゞ波や 志賀の都は荒れにしと むかしを思ふ歌人の 澄める怨をなにかせん 春は霞める高台に のぼりて見ればけぶり立つ 民のかまどのながめさへ 消えてあとなき雲に入る 冬はしぐるゝ九重の 大宮内のともしびや さむさは雪に凍る夜の 竜のころもはいろもなし むかしは遠き船いくさ 人の血潮の流るとも 今はむなしきわだつみの まん〳〵としてきはみなし むかしはひろき関が原 つるぎに夢を争へど 今は寂しき草のみぞ ばう〳〵としてはてもなき われ今秋の野にいでて 奥山高くのぼり行き 都のかたを眺むれば あゝあゝ熱きなみだかな   白壁 たれかしるらん花ちかき 高楼われはのぼりゆき みだれて熱きくるしみを うつしいでけり白壁に 唾にしるせし文字なれば ひとしれずこそ乾きけれ あゝあゝ白き白壁に わがうれひありなみだあり   四つの袖 をとこの気息のやはらかき お夏の髪にかゝるとき をとこの早きためいきの 霰のごとくはしるとき をとこの熱き手の掌の お夏の手にも触るゝとき をとこの涙ながれいで お夏の袖にかゝるとき をとこの黒き目のいろの お夏の胸に映るとき をとこの紅き口唇の お夏の口にもゆるとき 人こそしらね嗚呼恋の ふたりの身より流れいで げにこがるれど慕へども やむときもなき清十郎   天馬    序 老は若は越しかたに 文に照らせどまれらなる 奇しきためしは箱根山 弥生の末のゆふまぐれ 南の天の戸をいでて よな〳〵北の宿に行く 血の深紅の星の影 かたくななりし男さへ 星の光を眼に見ては 身にふりかゝる凶禍の 天の兆とうたがへり 総鳴に鳴く鶯の にほひいでたる声をあげ さへづり狂ふ音をきけば げにめづらしき春の歌 春を得知らぬ処女さへ かのうぐひすのひとこゑに 枕の紙のしめりきて 人なつかしきおもひあり まだ時ならぬ白百合の 籬の陰にさける見て 九十九の翁うつし世の こゝろの慾の夢を恋ひ 音をだにきかぬ雛鶴の 軒の榎樹に来て鳴けば 寝覚の老嫗後の世の 花の台に泣きまどふ 空にかゝれる星のいろ 春さきかへる夏花や 是わざはひにあらずして よしや兆といへるあり なにを酔ひ鳴く春鳥よ なにを告げくる鶴の声 それ鳥の音に卜ひて よろこびありと祝ふあり 高き聖のこの村に 声をあげさせたまふらん 世を傾けむ麗人の 茂れる賤の春草に いでたまふかとのゝしれど 誰かしるらん新星の まことの北をさししめし さみしき蘆の湖の 沈める水に映つるとき 名もなき賤の片びさし 春の夜風の音を絶え 村の南のかたほとり その夜生れし牝の馬は 流るゝ水の藍染の 青毛やさしき姿なり 北に生れし雄の馬の 栗毛にまじる紫は 色あけぼのの春霞 光をまとふ風情あり 星のひかりもをさまりて 噂に残る鶴の音や 啼く鶯に花ちれば 嗚呼この村に生れてし 馬のありとや問ふ人もなし    雄馬 あな天雲にともなはれ 緑の髪をうちふるひ 雄馬は人に随ひて 箱根の嶺を下りけり 胸は踴りて八百潮の かの蒼溟に湧くごとく 喉はよせくる春濤を 飲めども渇く風情あり 目はひさかたの朝の星 睫毛は草の浅緑 うるほひ光る眼瞳には 千里の外もほがらにて 東に照らし西に入る 天つみそらを渡る日の 朝日夕日の行衛さへ 雲の絶間に極むらん 二つの耳をたとふれば いと幽なる朝風に そよげる草の葉のごとく 蹄の音をたとふれば 紫金の色のやきがねを 高くも叩く響あり 狂へば長き鬣の うちふりうちふる乱れ髪 燃えてはめぐる血の潮の 流れて踴る春の海 噴く紅の光には 火炎の気息もあらだちて 深くも遠き嘶声は 大神の住む梁の 塵を動かす力あり あゝ朝鳥の音をきゝて 富士の高根の雪に鳴き 夕つげわたる鳥の音に 木曽の御嶽の巌を越え かの青雲に嘶きて 天より天の電影の 光の末に隠るべき 雄馬の身にてありながら なさけもあつくなつかしき 主人のあとをとめくれば 箱根も遠し三井寺や 日も暖に花深く さゝなみ青き湖の 岸の此彼草を行く 天の雄馬のすがたをば 誰かは思ひ誰か知る しらずや人の天雲に 歩むためしはあるものを 天馬の下りて大土に 歩むためしのなからめや 見よ藤の葉の影深く 岸の若草香にいでて 春花に酔ふ蝶の夢 そのかげを履む雄馬には 一つの紅き春花に 見えざる神の宿あり 一つうつろふ野の色に つきせぬ天のうれひあり 嗚呼鷲鷹の飛ぶ道に 高く懸れる大空の 無限の絃に触れて鳴り 男神女神に戯れて 照る日の影の雲に鳴き 空に流るゝ満潮を 飲みつくすとも渇くべき 天馬よ汝が身を持ちて 鳥のきて啼く鳰の海 花橘の蔭を履む その姿こそ雄々しけれ    牝馬 青波深きみづうみの 岸のほとりに生れてし 天の牝馬は東なる かの陸奥の野に住めり 霞に霑ひ風に擦れ 音もわびしき枯くさの すゝき尾花にまねかれて 荒野に嘆く牝馬かな 誰か燕の声を聞き たのしきうたを耳にして 日も暖かに花深き 西も空をば慕はざる 誰か秋鳴くかりがねの かなしき歌に耳たてて ふるさとさむき遠天の 雲の行衛を慕はざる 白き羚羊に見まほしく 透きては深く柔軟き 眼の色のうるほひは 吾が古里を忍べばか 蹄も薄く肩痩せて 四つの脚さへ細りゆき その鬣の艶なきは 荒野の空に嘆けばか 春は名取の若草や 病める力に石を引き 夏は国分の嶺を越え 牝馬にあまる塩を負ふ 秋は広瀬の川添の 紅葉の蔭にむちうたれ 冬は野末に日も暮れて みぞれの道の泥に饑ゆ 鶴よみそらの雲に飽き 朝の霞の香に酔ひて 春の光の空を飛ぶ 羽翼の色の嫉きかな 獅子よさみしき野に隠れ 道なき森に驚きて あけぼの露にふみ迷ふ 鋭き爪のこひしやな 鹿よ秋山妻恋に 黄葉のかげを踏みわけて 谷間の水に喘ぎよる 眼睛の色のやさしやな 人をつめたくあぢきなく 思ひとりしは幾歳か 命を薄くあさましく 思ひ初めしは身を責むる 強き軛に嘆き侘び 花に涙をそゝぐより 悲しいかなや春の野に 湧ける泉を飲み干すも 天の牝馬のかぎりなき 渇ける口をなにかせむ 悲しいかなや行く水の 岸の柳の樹の蔭の かの新草の多くとも 饑ゑたる喉をいかにせむ 身は塵埃の八重葎 しげれる宿にうまるれど かなしや地の青草は その慰藉にあらじかし あゝ天雲や天雲や 塵の是世にこれやこの 轡も折れよ世も捨てよ 狂ひもいでよ軛さへ 噛み砕けとぞ祈るなる 牝馬のこゝろ哀なり 尽きせぬ草のありといふ 天つみそらの慕はしや 渇かぬ水の湧くといふ 天の泉のなつかしや せまき厩を捨てはてて 空を行くべき馬の身の 心ばかりははやれども 病みては零つる泪のみ 草に生れて草に泣く 姿やさしき天の馬 うき世のものにことならで 消ゆる命のもろきかな 散りてはかなき柳葉の そのすがたにも似たりけり 波に消え行く淡雪の そのすがたにも似たりけり げに世の常の馬ならば かくばかりなる悲嘆に 身の苦悶を恨み侘び 声ふりあげて嘶かん 乱れて長き鬣の この世かの世の別れにも 心ばかりは静和なる 深く悲しき声きけば あゝ幽遠なる気息に 天のうれひを紫の 野末の花に吹き残す 世の名残こそはかなけれ   鶏 花によりそふ鶏の 夫よ妻鳥よ燕子花 いづれあやめとわきがたく さも似つかしき風情あり 姿やさしき牝鶏の かたちを恥づるこゝろして 花に隠るゝありさまに 品かはりたる夫鳥や 雄々しくたけき雄鶏の とさかの色も艶にして 黄なる口觜脚蹴爪 尾はしだり尾のなが〳〵し 問ふても見まし誰がために よそほひありく夫鳥よ 妻守るためのかざりにと いひたげなるぞいぢらしき 画にこそかけれ花鳥の それにも通ふ一つがひ 霜に侘寝の朝ぼらけ 雨に入日の夕まぐれ 空に一つの明星の 闇行く水に動くとき 日を迎へんと鶏の 夜の使を音にぞ鳴く 露けき朝の明けて行く 空のながめを誰か知る 燃ゆるがごとき紅の 雲のゆくへを誰か知る 闇もこれより隣なる 声ふりあげて鳴くときは ひとの長眠のみなめざめ 夜は日に通ふ夢まくら 明けはなれたり夜はすでに いざ妻鳥と巣を出でて 餌をあさらんと野に行けば あなあやにくのものを見き 見しらぬ鶏の音も高に あしたの空に鳴き渡り 草かき分けて来るはなぞ 妻恋ふらしや妻鳥を ねたしや露に羽ぬれて 朝日にうつる影見れば 雄鶏に惜しき白妙の 雲をあざむくばかりなり 力あるらし声たけき 敵のさまを懼れてか 声色あるさまに羞ぢてかや 妻鳥は花に隠れけり かくと見るより堪へかねて 背をや高めし夫鳥は 羽がきも荒く飛び走り 蹴爪に土をかき狂ふ 筆毛のさきも逆立ちて 血潮にまじる眼のひかり 二つの鶏のすがたこそ 是おそろしき風情なれ 妻鳥は花を馳け出でて 争闘分くるひまもなみ たがひに蹴合ふ蹴爪には 火焔もちるとうたがはる 蹴るや左眼の的それて 羽に血しほの夫鳥は 敵の右眼をめざしつゝ 爪も折れよと蹴返しぬ 蹴られて落つるくれなゐの 血潮の花も地に染みて 二つの鶏の目もくるひ たがひにひるむ風情なし そこに声あり涙あり 争ひ狂ふ四つの羽 血潮に滑りし夫鳥の あな仆れけん声高し 一声長く悲鳴して あとに仆るゝ夫鳥の 羽に血潮の朱に染み あたりにさける花紅し あゝあゝ熱き涙かな あるに甲斐なき妻鳥は せめて一声鳴けかしと 屍に嘆くさまあはれ なにとは知らぬかなしみの いつか恐怖と変りきて 思ひ乱れて音をのみぞ 鳴くや妻鳥の心なく 我を恋ふらし音にたてて 姿も色もなつかしき 花のかたちと思ひきや かなしき敵とならんとは 花にもつるゝ蝶あるを 鳥に縁のなからめや おそろしきかな其の心 なつかしきかな其の情 紅に染みたる草見れば 鳥の命のもろきかな 火よりも燃ゆる恋見れば 敵のこゝろのうれしやな 見よ動きゆく大空の 照る日も雲に薄らぎて 花に色なく風吹けば 野はさびしくも変りけり かなしこひしの夫鳥の 冷えまさりゆく其姿 たよりと思ふ一ふしの いづれ妻鳥の身の末ぞ 恐怖を抱く母と子が よりそふごとくかの敵に なにとはなしに身をよする 妻鳥のこゝろあはれなれ あないたましのながめかな さきの楽しき花ちりて 空色暗く一彩毛の 雲にかなしき野のけしき 生きてかへらぬ鳥はいざ 夫か妻鳥か燕子花 いづれあやめを踏み分けて 野末を帰る二羽の鶏   松島瑞巌寺に遊び葡萄   栗鼠の木彫を観て 舟路も遠し瑞巌寺 冬逍遙のこゝろなく 古き扉に身をよせて 飛騨の名匠の浮彫の 葡萄のかげにきて見れば 菩提の寺の冬の日に 刀悲しみ鑿愁ふ ほられて薄き葡萄葉の 影にかくるゝ栗鼠よ 姿ばかりは隠すとも かくすよしなし鑿の香は うしほにひゞく磯寺の かねにこの日の暮るゝとも 夕闇かけてたゝずめば こひしきやなぞ甚五郎 底本:「藤村詩集」新潮文庫、新潮社    1968(昭和43)年2月10日発行    1997(平成9)年10月15日55刷 ※ルビの一部を新仮名遣いとする扱いは、底本通りにしました。 入力:佐野女子高等学校2-1(H11) 校正:門田裕志、小林繁雄 2005年5月8日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。