西洋人情話英国孝子ジョージスミス之伝 三遊亭圓朝 鈴木行三校訂・編纂 Guide 扉 本文 目 次 西洋人情話英国孝子ジョージスミス之伝      一  御免を蒙りまして申上げますお話は、西洋人情噺と表題を致しまして、英国の孝子ジョージ、スミスの伝、これを引続いて申上げます。外国のお話ではどうも些と私の方にも出来かねます。又お客様方にお分り難いことが有りますから、地名人名を日本にしてお話を致します。英国のリバプールと申しまする処で、英国の竜動より三時間で往復の出来る処、日本で云えば横浜のような繁昌な港で、東京で申せば霊岸島鉄砲洲などの模様だと申すことで、その世界に致してお話をします。スマイル、スミスと申しまする人は、彼国で蒸汽の船長でございます。これを上州前橋竪町の御用達で清水助右衞門と直してお話を致します。其の子ジョージ、スミスを清水重二郎という名前に致しまして、其の姉のマアリーをおまきと云います。エドワルド、セビルという侠客がございますが、これを江戸屋の清次郎という屋根屋の棟梁で、侠気な人が有ったというお話にします。又外国では原語でございますとジョン、ハミールトンという人が、ナタンブノルという朋友の同類と、かのスマイル、スミスを打殺しまして莫大の金を取ります。このナタンブノルを井生森又作と致しジョン、ハミールトンを前橋の重役で千二百石取りました春見丈助利秋という者にいたしてお話を此方のことに直しましただけの事で、原書をお読み遊ばした方は御存じのことでございましょうが、これは或る洋学先生が私に口移しに教えて下すったお話を日本の名前にしてお和かなお話にいたしました。そのおつもりでお聴きの程を願います。徳川家が瓦解になって、明治四五年の頃大分宿屋が出来ましたが、外神田松永町佐久間町あの辺には其の頃大きな宿屋の出来ましたことでございますが、其の中に春見屋という宿屋を出しましたのが春見丈助という者で、表構は宏高といたして、奥蔵があって、奉公人も大勢使い、実に大した暮しをして居ります。娘が一人有って、名をおいさと申します。これはあちらではエリザと申しまするのでお聞分を願います。十二歳になって至って親孝行な者で、その娘を相手にして春見丈助は色々の事に手出しを致したが、皆失敗って損ばかりいたし、漸うに金策を致して山師で威した宿屋、実に危い身代で、お客がなければ借財方からは責められまするし、月給を遣らぬから奉公人は暇を取って出ます、終にはお客をすることも出来ません、適にお客があれば機繰の身上ゆえ、客から預かる荷物を質入にしたり、借財方に持って行かれますような事でございますから、客がぱったり来ません。丁度十月二日のことでございます。歳はゆかぬが十二になるおいさという娘が、親父の身代を案じましてくよ〳〵と病気になりましたが、医者を呼びたいと思いましても、診察料も薬礼も有りませんから、良い医者は来て呉れません。幸い貯えて有りました烏犀角を春見が頻に定木の上で削って居ります所へ、夕景に這入って来ました男は、矢張前橋侯の藩で極下役でございます、井生森又作という三十五歳に相成りましてもいまだ身上が定らず、怪しい形で柳川紬の袷一枚で下にはシャツを着て居りますが、羽織も黒といえば体が好いけれども、紋の所が黒くなって、黒い所は赤くなって居りますから、黒紋の赤羽織といういやな羽織をまして兵児帯は縮緬かと思うと縮緬呉絽で、元は白かったが段々鼠色になったのをしめ着て、少し前歯の減った下駄に、おまけに前鼻緒が緩んで居りますから、親指で蝮を拵えて穿き土間から奥の方へ這入って来ました。 又「誠に暫く」 丈「いや、これは珍らしい」 又「誠に存外の御無音」 丈「これはどうも」 又「一寸伺わなけりゃならんのだが、少し仔細有って信州へ行って居りましたが、長野県では大きに何も彼もぐれはまに相成って、致し方なく、東京までは帰って来たが、致方がないから下谷金杉の島田久左衞門という者の宅に居候の身の上、尊君にお目に懸りたいと思って居て、今日図らず尋ね当りましたが、どうも大した御身代で、お嬢様も御壮健でございますか」 丈「はい、丈夫でいるよ、貴公もよく来てくれたなア」 又「いやどうも、成程これだけの構えでは奉公人なども大勢置かんならんねえ」 丈「いや奉公人も大勢置いたが、宿屋もあわんから奉公人には暇を出して、身上を仕舞おうと思って居るのさ」 又「はてね、どういう訳で」 丈「さア色々仔細有って、実に負債でな、どうも身代が追付かぬ、先ずどうあっても身代限をしなければならぬが、身代限をしても追付かぬことがある」 又「そりゃア困りましたな、就ちゃア僕がそれ君にお預け申した百金は即刻御返金を願いたい、直に返しておくんなさえ」 丈「百円今こゝには無い」 又「無いと云っては困ります、僕が君に欺かれた訳ではあるまいが、これをこうすればあゝなる、この機械を斯うすれば斯ういう銭儲けがあると、貴君の仰ゃり方が実しやかで、誠に智慧のある方の云うことだから、間違いはなかろうと思って、懇意の所から色々才覚をして出した所が目的が外れてしまって仕方がないが、百円の処は、是だけは君がどうしても返して呉れなければ、僕の命の綱で、只今斯くの如き見る影もない食客の身分だから、どうかお察し下さい」 丈「返して呉れと云っても仕方がないわ、それに此の節は勧解沙汰が三件もあり、裁判所沙汰が二件もあるし、それに控訴もあるような始末だから、何と云っても仕方がない」 又「裁判沙汰が十有ろうが八つ有ろうが、僕の知ったことではない、相済まぬけれども是だけの構えを一寸見ても大したものだ、それに外を廻って見ても、又座敷で一寸茶を入れるにも、それその銀瓶があって、其の他、諸道具といい大した財産だ、あの百金は僕の命の綱、これがなければ何うにも斯うにも方が付かぬ、君の都合は僕は知らないから、此の品を売却しても御返金を願う」 丈「この道具も皆抵当になっているから仕方がないわさ」 又「御返金がならなければ止むを得んから、旧来御懇意の君でも勧解へ持出さなければならぬが、どうも君を被告にして僕が願立てるというのは甚だ旧友の誼みに悖るから、したくはないが、拠ない訳だ」 丈「今と云っても仕方が無いと申すに」 又「はて、是非とも御返金を願う」  と云って坐り込んで、又作も今身代限りになる訳でいると云うから、身代限りにならぬうちに百円取ろうとする。春見は困り果てゝ居ります所へ入って来ましたのは、前橋竪町の御用達の清水助右衞門という豪家でございます。此の人も色々遣り損なって損をいたして居りますが、漸々金策を致しまして三千円持って仕入れに参りまして、春見屋へ来まして。 助「はい、御免なさいまし、御免下さいまし」 丈「どなたか知らぬが、用があるならずっと此方へ這入っておくんなさい」 助「御免を蒙ります、誠に御無沙汰しました、助右衞門でございます」 丈「おゝ〳〵、どうもこれはなつかしい、久々で逢った、まア〳〵此方へ、いつも壮健で」 助「誠に存外御無沙汰致しましたが、貴方様にも何時もお変りなく、一寸伺いたく思いやすが、何分にも些と訳あって取紛れまして御無沙汰致しましたが、段々承れば宿屋店をお出しなすったそうで、世界も変れば変るもので、春見様が宿屋になって泊り客の草履をお直しなさるような事になって、誠にお傷わしいことだ、それを思えば助右衞門などは何をしても好い訳だと思って、忰や娘に意見を申して居ります、旦那様もお身形が変りお見違げえ申す様になりました、誠にまアあんたもおふけなさいました」 丈「こう云う訳になって致方がない、前橋の方も尋ねたいと思って居たが、何分貧乏暇なしで御無沙汰になった、よく来た、どうして出て来たのだ」 助「はい、私も人に損を掛けられて仕様がねい、何かすべいと思っていると、段々聞けば県庁が前橋へ引けるという評判だから、此所で取付かなければなんねいから、洋物屋をすれば、前には唐物屋と云ったが今では洋物屋と申しますそうでござりやすが、屹度当るという人が有りますから、此処で一息吹返さなければなんねいと思って、田地からそれにまア御案内の古くはなったが、土蔵を抵当にしまして、漸々のことで利の食う金を借りて、三千円資本を持って出て参ったでがんすから、宿屋へ此の金を預けて仕入をするのだが、滅多に来ねえから、馴染もねえ所へ預けるのも心配だから、身代の手堅い処がと、段々考えたところが、春見様が宿屋店を出しておいでなさると云うから、買出しするにも安心と考えてまいりました、当分買出しに行きますまで、どうか御面倒でも三千円お預かり下さるように願います」 丈「成程左様か」  と話をしていると、井生森又作は如才ない狡猾な男でございますから、是だけの宿屋に番頭も何もいないで、貧乏だと悟られて、三千円の金を持って帰られてはいけないと思って、横着者でございますから直ぐに羽織を脱いでそれへ出てまいり。 又「お初にお目に懸りました、手前は当家の番頭又作と申すもので、旦那から承わって居りましたが、ようこそお出でゞ、此の後とも幾久しく宜しゅう願います、えゝ当家も誠に奉公人も大勢居りましたが、女共を置きましたところが何かぴら〳〵なまめいてお客が入りにくいから、皆一同に暇を出して、飯焚男も少々訳が有って暇を出しまして、私一人に相成りました、どうかお荷物をお預けなすったら、何は久助は何処へ行ったな」 助「横浜でも買出しをして、それから東京でも買出しをして、遅くもどうかまア十一月中頃までに帰ろうと、こう心得まして出ました」 丈「成程、それでは兎も角も三千円の金を確かに預かりましょう」 助「就きましては、誠に斯様な事を申しては済みませんが、私の身に取っては三千円は実に大した金で、今は大い損をした暁のことで、此の三千円は命の綱で大事な金でがんすから、此方にお預け申して、さア旦那様を疑ぐる訳じゃ有りませんが、どうか三千円確かに預かった、入用の時には渡すという預り証文を一本御面倒でも戴きたいもので」 丈「成程これはお前の方で云わぬでも当然の事で、私の方で上げなければならん、只今書きましょう」  と筆を取って金三千円確かに預かり置く、要用の時は何時でも渡すという証文を書いて、有合した判をぽかりっと捺して、 丈「これで好いかえ」 助「誠に恐入ります、これでもう大丈夫」  とこれを戴いて懐中物の中へ入れます。紙入も二重になって居て大丈夫なことで、紙入も落さんようにして、 助「大宮から歩いて参りまして草臥れましたから、どうかお湯を一杯戴きたいもので」 又「誠に済みませんが、〓(「※」は「「箍」で下「手へん」のかわりに「木へん」をあてる」)が反ねましてお湯を立てられません、それに奉公人が居りませんから、つい立てません、相済みませんが、此の先きに温泉がありますから、どうかそれへお出でなすって下さい」 助「温泉というと伊香保や何かの湯のような訳でがんすか」 又「なアに桂枝や沃顛という松本先生が発明のお薬が入って居りまして、これは繁昌で、其の湯に入ると顔が玉のように見えると云うことでございます」 助「東京へは久しぶりで出てまいって、それに又様子が変りましたな、どうも橋が石で出来たり、瓦で家が出来たり、方々が変って見違えるように成りました、その温泉は何処らでがんすか」 又「此処をお出でになりまして、向うの角にふらふが立って居ります」 助「なんだ、ぶら〳〵私が歩くか」 又「なアに西洋床が有りまして、有平見た様な物が有ります、その角に旗が立って居りますから、彼処が宜しゅうございます」 助「私はこれ髻がありますから、髪も結って来ましょうかねえ」 又「行って入らっしゃいまし、残らず置いて入らっしゃいまし」 丈「証書の入った紙入を持って行って、板の間に取られるといけないよ」 助「板の間に何が居りますか」 丈「なアに泥坊がいるから取られてはいけん」 助「これはまア私が命の綱の証文だから、これは肌身離されません」 主「それでも湯に入るのに手に持っては行けないだろう」 助「事に依ったら頭へ縛り付けて湯に入ります、行ってめえります、左様なら」 又「いって入っしゃいまし……とうとう出掛けたが、是は君、えゝどうも、富貴天に有りと云うが、不思議な訳で、君は以前お役柄で、元が元だから金を持って来ても是程に貧乏と知らんから、そこで三千円という大金を此の苦しい中へ持って来て、纒った大金が入るというのは実に妙だ、それも未だ君にお徳が有るのさ、直ぐ其の内を百金御返金を願う」 丈「これさ、今持って来たばかりで酷いじゃアないか」 又「此の内百金僕に返しても、此の金は一時に持って往くのじゃない、追々安い物が有れば段々に持って往く金だから、其の中に君が才覚して償えば宜しい、僕には命代りの百円だ、返し給え」 丈「それじゃア此の内から返そう」  と百円包になって居るのを渡します。扨渡すと金が懐へ入りましたから、気が大きくなり 又「どうだい、番頭の仮色を遣って金を預けさせるようにした手際は」  まア愉快というので、お酒を喫べて居りますとは清水助右衞門は少しも存じませんから、四角へまいりまして見ると、西洋床というのは玻璃張の障子が有って、前に有平のような棒が立って居りまして、前には知らない人がお宮と間違えてお賽銭を上げて拝みましたそうでございます。助右衞門は成程有平の看板がある、是だなと思い、 助「御免なさいまし、〳〵、〳〵、此処が髪結床かね」  中床さんが髭を抜いて居りましたが、 床「何ですえ、広小路の方へ往くのなら右へお出でなさい」 助「髪結床は此方でがんすか」 床「両国の電信局かね」 助「こゝは、髪結う所か」  と云っても玻璃障子で聞えません。 床「何ですえ」 助「髪を結って貰いたえもんだ」 床「へいお入んなさい、表の障子を明けて」 助「はい御免、大い鏡だなア、髪結うかねえ」 床「此方は西洋床ですから旧弊頭は遣りません…おや、あなたは前橋の旦那ですねえ」 助「誰だ、何うして私を知っているだ」 床「私やア廻りに歩いた文吉でございます」 助「おゝそうか、文吉か、見違るように成った、もうどうも成らなかったが辛抱するか」 文「大辛抱でございます旦那どうもねえ、前橋にいる時には道楽をして、若い衆の中へ入って悪いことをしたり何かして御苦労を掛けましたから、書ければ一寸郵便の一本も出すんでげすが、何うも人を頼みに往くのもきまりが悪くて、存じながら御無沙汰をしました、宜く出てお出でなすった、東京見物ですかえ」 助「なアに、当時は己も損をして商売替をしべいと思って、唐物を買出しに来たゞが、馴染が少ないから横浜へ往って些とべい買出しをしべいと思って東京でも仕入れようと思って出て来た」 文「へい、商売替ですか、洋物は宜うがすねえ、これから開けるのだそうでげすなア、斬髪になってしまえば、香水なども売れますぜ、お遣りなさい結構でげすな、それに前橋へ県が引けると云うからそうなれば、福々ですぜ、宿屋は何処へお泊りです」 助「馬喰町にも知った者は有るが、家を忘れたから、春見様が丁度彼所に宿屋を出して居るから、今着いて荷を預けて湯に入いりに来た」 文「何んでげす、春見へ、彼処はいけません、いけませんよ」 助「いかねえって、どうしたんだ」 文「あれは大変ですぜ、身代限りになり懸って、裁判所沙汰が七八つとか有ると云って、奉公人にも何にも給金を遣らないから、皆な出て行ってしまって、客の荷でも何でも預けると直ぐに質に入れたり何かするから、泊人はございません、何か預けるといけませんよ」 助「それは魂消た、春見様は元御重役だぜ」 文「御重役でもなんでも、今はずう〴〵しいのなんて、米屋でも薪屋でも、魚屋でも何でも、物を持って往く気づかいありません」 助「そりゃア知んねえからなア」 文「何か預けた物がありますか」 助「有るって無えって、命と釣替の」  と云いながら出に掛ったが、玻璃でトーンと頭を打つけて、慌てるから表へ出られやしません。 文「玻璃戸が閉っていて外が見えても出られませんよ、怪我をするといけませんよ」 助「なに此の儘では居られない」  と云うので取って返して来て、がらりと明けて中へ這入って。 助「御免なせえまし」  と土間から飛上って来て見ると、其処らに誰も居りませんから、つか〳〵と奥へ往きますと、奥で二人で灯火を点けて酒を飲んでいたが、此方も驚いて。 丈「やアお帰りか」 助「先刻お預け申しました三千円の金を、たった今直ぐにお返しを願います」  と云うから番頭驚いて。 又「あなたは髪も結わず、湯にもお入りなさらんで何うなさいました」 助「髪も湯も入りません、今横浜に安い物が有るから、今晩の中に往って居らなければならんから、直ぐに行くから、どうか只今お預け申しました鞄を証書とお引換にお渡しを願います」  と紙入から書付を出して春見の前へ突付けて。 助「どうか三千円お戻しを願います」 丈「それは宜いが、まア慌てちゃいけん、横浜あたりへ往って、あの狡猾世界でうか〳〵三千円の物を買えば屹度損をするから、慌てずにそういう物があるか知らぬけれども、是から往って物を見て値を付けて、そこで其の内を五百円買うとか二百円買うとか仕なければ、固より慣れぬ商売の事だから、慌てちゃアいかん、何ういう訳だかまア緩りと昔話も仕たいから、まア泊んなさい」 又「只今主人の申します通り、横浜は狡猾な人の多く居ります所だから、損をするのは極って居りますゆえ、三千円一度に持って往って損をするといけないから、まア〳〵今晩は緩りとお泊りなさいまし、して明日十二時頃からお出でなすって、品物を見定めて、金子も一時に渡さずに、徐々持って往って、追々とお買出しをなすった方が宜しゅうございます」 助「それは御尤様でございますが、親切な確かな人に聞いた事でございます、今夜の内に何うしても斯うしても横浜まで往かなければ成らぬ、売れてしまわぬ前に私が往けば安いというので、確かなものに聞きました、どうかお願いでございますからお返しなすって下せい、成程文吉の云った通り是だけの大い家に奉公人が一人も居ねいのは変だ」 丈「何を」 助「へい、なに三千円お返し下さい」 丈「返しても宜しいけれどもそんなに慌てゝ急がんでも宜いじゃないか、先其の内千円も持って行ったら宜かろう」 助「へい急ぎます、金がなければならぬ訳でがんすから、何うかお渡し下さい」  と助右衞門は何うしても聞き入れません。こゝが妙なもので、三千円のうち、当人に内々で百円使い込んで居るとこでございますから、春見のいう言葉が自然におど付きますから、此方は猶更心配して、 助「さアどうかお返しなすって下せえ、今預ったべいの金だから返すことが出来ないことはあんめい」 丈「金は返すには極って居る事だから返すが、何ういう訳だか慌てゝ帰って来たが、お前が損をすると宜くないからそれを心配するのだ」 又「只今主人のいう通り、慌てずに緩りお考えなさい」 助「黙ってお在でなせい、あんたの知ったことじゃアない、三千円の金は通例の金じゃアがんせん、家蔵を抵当にして利の付く金を借りて、三千円持ってまいります時、婆や忰がお父さん慣れないことをして又損をしやすと、今度は身代限りだから駄目だ、止した方が宜かろうと云うのを、なアに己も清水助右衞門だ、確かに己が儲けるからと云って、私が難かしい才覚を致してまいった三千円で、私が命の綱の金でがんすから、損を仕ようが、品物を少なく買おうが多く買出ししようが私の勝手だ、あなた方の口出しする訳じゃねえから、どうか、さア、どうか返して下さい」 丈「今は此処にない蔵にしまって有るから待ちなさい」  と云いながら往こうとすると逃げると思ったから、つか〳〵と進んで助右衞門が春見の袖にぴったりと縋って放しませんから。 丈「これ何をする、これさ何をするのだ」 助「申し、春見様、私が商法をしまして是で儲かれば、貴方の事だからそりゃア三百円ぐらいは御用達てますが、今は命より大事の三千円の金だからそれを返して下さらなけりゃア国へ帰れません」  と云うので、一生懸命に袖へ縋られた時には、是は自分の身代の傾いた事を誰かに聞いたのだろう、罪な事だが是非に及ばん、今此の三千円が有ったら元の春見丈助になれるだろうと、有合せた槻の定木を取って突然振向くとたんに、助右衞門の禿げた頭をポオンと打ったから、頭が打割れて、血は八方へ散乱いたして只た一打でぶる〳〵と身を振わせて倒れますと、井生森又作は酷い奴で、人を殺して居る騒ぎの中で血だらけの側にありました、三千円の預り証文をちょろりと懐へ入れると云う。これがお話の発端でございます。      二  清水助右衞門は髪結文吉の言葉を聞き、顔色変えて取ってかえし、三千両の預り証書を春見の前へ突き出し、返してくれろと急の催促に、丈助は其の中已に百円使い込んで居るから、あとの金は残らず返すから、これだけ待ってくれろと云えば仔細は無かったのだが、此の三千円の金が有ったなら、元の如く身代も直り、家も立往くだろう、又娘にも難儀を掛けまいと、むら〳〵と起りました悪心から致して、有合う定木をもって清水助右衞門を打殺す。側にいた井生森又作は、そのどさくさ紛れに右三千円の預り証書を窃取るというお話は、前日お聞きになりました所でござりますが、此の騒ぎを三畳の小座敷で聞いて居りましたのは、当年十二歳に相成るおいさと云う孝行な娘でございますから、お父様は情ない事をなさる、と発明な性質ゆえ、袖を噛んで泣き倒れて居ります。春見は人が来てはならんと、助右衞門の死骸を蔵へ運び、葛籠の中へ入れ、血の漏らんように薦で巻き、すっぱり旅荷のように拵え、木札を附け、宜い加減の名前を書き、井生森に向い。 丈「金子を三百円やるから、どうか此の死骸を片附ける工風はあるまいか」 又「おっと心得た、僕の縁類が佐野にあるから、佐野へ持って往って、山の中の谷川へ棄てるか、又は無住の寺へでも埋めれば人に知れる気遣はないから心配したもうな」  と三百円の金を請取り、前に春見から返して貰った百円の金もあるので、又作は急に大尽に成りましたから、心勇んで其の死骸を担ぎ出し、荷足船に載せ、深川扇橋から猿田船の出る時分でございますから、此の船に載せて送る積りで持って往きました。扨お話二つに分れまして、春見丈助は三千円の金が急に入りましたから、借財方の目鼻を附け、奉公人を増し、質入物を受け出し、段々景気が直って来ましたから、お客も有りますような事で、どんどと十月から十二月まで栄えて居りました。此方は前橋竪町の清水助右衞門の忰重二郎や女房は、助右衞門の帰りの遅きを案じ、何時まで待っても郵便一つ参りませんので、母は重二郎に申付け、お父様の様子を見て来いと云うので、今年十七歳になる重二郎が親父を案じて東京へ出てまいり、神田佐久間町の春見丈助の門口へ来ますと、二階には多人数のお客が居りますから、女中はばた〳〵廊下を駆けて居ります。 重「御免なせい〳〵、〳〵」 女「はい入らっしゃいまし、まア此方へお上んなさいまし」 重「春見丈助様のお宅は此方でございやすか」 女「はい春見屋は手前でございますが、何方から入っしゃいました」 重「ひえ、私は前橋竪町の清水助右衞門の忰でござりやすが、親父が十月国を出て、慥か此方へ着きやんした訳になって居りやんすがいまだに何の便りもございませんから、心配して尋ねてまいりましたが、塩梅でも悪くはないかと、案じて様子を聞きにまいりましたのでがんすと云って、どうかお取次を願いていもんです」 女「左様でございますか、少々お控えを願います」  と奥へ入り、暫くして出てまいり。 女「お前さんねえ、只今仰しゃった事を主人へ申しましたら、そう云うお方は此方へはいらっしゃいませんが、門違いではないかとの事でございますよ」 重「なんでも此方へ来ると云って家を出やんしたが…此方へは来ねえですか」 女「はい、お出ではございません宿帳にも附いて居りません」 重「はてねえ、何うした事だかねえ、左様なら」  と云いながら出ましたが、外に尋ねる当もなく、途方に暮れてぶら〳〵と和泉橋の許までまいりますと、向うから来たのは廻りの髪結い文吉で、前橋にいた時分から馴染でございますから。 文「もし〳〵其処へお出でなさるのは清水の若旦那ではありませんか」 重「はい、おや、やア、文吉かえ」 文「誠にお久し振でお目にかゝりましたが、見違えるように大きくお成んなすったねえ、私が前橋に居りやした時分には、大旦那には種々御厄介になりまして、余り御無沙汰になりましたから、郵便の一つも上げてえと思っては居りやしたが、書けねえ手だもんだから、つい〳〵御無沙汰になりやした、此間お父さんが出ていらっしゃいやしたから、お前さんも東京を御見物に入らしったのでございやしょう」 重「親父の来たのを何うしてお前は知っているだえ」 文「へい、先々月お出でなすって、春見屋へ宿をお取んなすったようで」 重「宅へもそう云って出たのだが、余り音信がないから何処へ往ったかと思っているんだよ」 文「なに春見屋で来ねえって、そんな事はありやせん、前々月の二日の日暮方、私は海老床という西洋床を持って居りますが、其処へ旦那がお出でなすったから、久し振でお目にかゝり、何処へお宿をお取りなさいましたと云うと、春見屋へ宿を取り、買出しをしに来たと仰しゃるから、それはとんでもない事をなすった、あれは身代限になり掛っていてお客の金などを使い込み、太い奴でございます、大きな野台骨を張っては居りますが、月給を払わないもんだから奉公人も追々減ってしまい、蕎麦屋でも、魚屋でも勘定をしねえから寄附く者はねえので、とんだ所へお泊りなすったと云うと、旦那が権幕を変えて、駈け出してお出でなさったが、それ切りお帰りなさらないかえ」 重「国を出た切り帰らねえから心配して来たのだよ」 文「それは変だ、私が証拠人だ、春見屋へ往って掛合ってあげやしょう旦那は来たに違いねえんだ、春見屋は此の頃様子が直り、滅法景気が宜くなったのは変だ」 重「文吉、汝一緒に往って、確り掛合ってくれ」 文「さアお出でなさい」  と親切者でございますゆえ、先に立って春見屋へ参り。 文「此間は暫く、あの清水の旦那が此方へ泊ったのは私が慥かに知ってるが、先刻此の若旦那が尋ねて来たら、来ねえと云ったそうだから、また来やしたが、此の文吉が証拠人だ、なんでも旦那は入らしったに違いないから、お取次を願います」 女「はい一寸承って見ましょう」  と奥へまいり、此の事を申すと、春見はぎっくり胸に当りましたが、素知らぬ顔にもてなして、此方へと云うので、女中が出てまいり、 女「まア、お通りなさいまし」  と云うから、文吉が先に立ち、重二郎を連れて奥へ通りました。 丈「さア〳〵此方へお這入り」 重「誠に久しくお目にかゝりませんでございました」 丈「どうも見違えるように大きくおなりだねえ、今女どもが取次をしたが、新参で何も心得んものだから知らんが、お父さんは前々月の二日に一寸私の所へお出でになったよ」 重「左様でございますか、先刻お女中が此方へ来ねえと云いましたから、はてなと思いやしたのは、宅を出る時は春見様へ泊り、遅くも十一月の末には帰ると云いましたのが、十二月になっても便りがありやせんから、母も心配して、見て来るが宜いというので、私が出て参りまして」 丈「成程、だが今云う通り一寸お出でになり、どう云う訳だか取急ぎ、横浜へ買出しに往くと云って、直ぐ往こうとなさるから、久振で逢って懐かしいから、今晩一泊なすって緩々お話もしたいと留めても聞入れず、振り切って横浜へいらしったが、それっ切り未だお宅へ帰らんかえ」 重「へい、そんなら親父は来たことは来たが、此方には居ねえんですか困ったのう、文吉どん」 文「もし旦那、御免なせえ、私は元錨床と云って西洋床をして居りました時、此方の二階のお客に旧弊頭もありますので、時々お二階へ廻りに来た文吉という髪結でございます」 丈「はアお前が文吉さんか、誠に久しく逢いませんでした」 文「先々月の二日清水の旦那が此方へお泊りなすって、荷物をお預け申して湯に入いるって錨床へ入らしったところが、私が上州を廻っている時分御厄介になった清水の旦那だから、何御用でというと金を持って仕入れに来たが、泊る所に馴染がねえから、春見屋へ泊ったと仰しゃったから、それはとんでもねえ処へ、いえなに宜い処へお泊りなすったという訳でねえ」 丈「一寸お出でにはなったが、取急ぎ横浜へ往くと云ってお帰りになった」 文「もし先々月の二日でございますぜ」 丈「左様よ」 文「あの清水の旦那が金を沢山春見屋へ預けたと仰しゃるから、それはとんだ処へ、いえなにどうも誠にどうもねえ」 丈「来たことは来たが、お連か何か有ると見え、いくら留めても聞入れず、買出しの事故そうはいかんと云って荷物を持って取急いでお帰りになったが、それ切り帰られないかえ」 文「それ清水の旦那が荷をお前さんへ預け、床へ来ると私がいて、旦那どうして此方へ出ていらしったと云うと、商売替をする積りで、滅法界金を持って来て、迂濶り春見屋へ預けたと云うから、それはとんだ、むゝなに、一番宜い処へお預けなすったという訳で、へい」 丈「今もいう通り直ぐに横浜へ往くと云って、お帰りなすったよ」 文「ふん、へい、十月二日に、旦那が此方へ……」 丈「幾度云っても其の通り来たことは来たが、直ぐにお帰りになったのだよ」 重「仕様がありませんなア」 文「だって旦那え、まアどうも、…へい左様なら」  と取附く島もございませんから、そとへ出て重二郎は文吉に別れ、親父が横浜へ往ったとの事ゆえ、横浜を残らず捜しましたが居りませんので、また東京へ帰り、浅草、本郷と捜しましたが知れません。仕方がないから重二郎は前橋へ立帰りました。お話跡へ戻りまして、井生森又作は清水助右衞門の死骸を猿田船に積み、明くれば十月三日市川口へまいりますと、水嵩増して音高く、どうどうっと水勢急でございます。只今の川蒸汽とは違い、埓が明きません。市川、流山、野田、宝珠花と、船を附けて、関宿へまいり、船を止めました。尤も積荷が多いゆえ、捗が行きませんから、井生森は船中で一泊して、翌日は堺から栗橋、古河へ着いたのは昼の十二時頃で、古河の船渡へ荷を揚げて、其処に井上と申す出船宿で、中食も出来る宿屋があります。井生森は其処へ入り、酒肴を誂え、一杯遣って居りながら考えましたが、これから先人力を雇って往きたいが、此の宿屋から雇って貰っては、足が附いてはならんからと一人で飛出し、途中から知れん車夫を連れてまいり、此の荷を積んでどうか佐野まで急いでやってくれと、酒を呑ませ、飯を喰わせ、五十銭の酒手を遣りました。車夫は年頃四十五六で小肥満とした小力の有りそうな男で、酒手を請取り荷を積み、身支度をして梶棒を掴んだなり、がら〳〵と引出しましたが、古河から藤岡までは二里余の里程。船渡を出たのは二時頃で、道が悪いから藤岡を越す頃はもう日の暮れ〴〵で、雨がぽつり〳〵と降り出しました。向うに見えるは大平山に佐野の山続きで、此方は都賀村、甲村の高堤で、此の辺は何方を見ても一円沼ばかり、其の間には葭蘆の枯葉が茂り、誠に物淋しい処でございます。車夫はがら〳〵引いてまいりますと、積んで来た荷の中の死骸が腐ったも道理、小春なぎの暖い時分に二晩留め、又打かえって寒くなり、雨に当り、いきれましたゆえ、臭気甚しく、鼻を撲つばかりですから、 車「フン〳〵、おや旦那え〳〵」 又「なんだ、急いで遣ってくれ」 車「なんだか酷く臭いねえ、あゝ臭い」 又「なんだ」 車「何だか知んねえが誠に臭い」  と云われ、又作はぎっくりしましたが、云い紛らせようと思い、 又「詰らん事をいうな、此の辺は田舎道だから肥の臭いがするのは当然だわ」 車「私だって元は百姓でがんすから、肥の臭いのは知って居りやんすが、此処は沼ばかりで田畑はねえから肥の臭いはねえのだが、酷く臭う」  と云いながら振り返って鼻を動かし、 車「おゝ、これこれ、此の荷だ、どうも臭いと思ったら、これが臭いのだ、あゝ此の荷だ」  と云われて又作愈々驚き、 又「何を云うのだ、なんだ篦棒め、荷が臭いことが有るものか」 車「だって旦那、臭いのは此の荷に違いねえ」 又「これ〳〵何を云うのだ」  と云ったが最う仕方がありませんから、云いくろめようと思いまして、 又「これは俗に云う干鰯のようなもので、田舎へ積んで往って金儲けを仕ようと思うのだ、実は肥になるものよ」 車「肥の臭いか干鰯の臭いかは在所の者は知ってるが、旦那今私が貴方の荷が臭いと云った時、顔色が変った様子を見ると、此の中は死人だねえ」 又「馬鹿を云え、東京から他県へ死人を持って来るものがあるかえ、白痴たことを云うなえ」 車「駄目だ、顔色を変えてもいけねい、己今でこそ車を引いてるが、元は大久保政五郎の親類で、駈出しの賭博打だが、漆原の嘉十と云った長脇差よ、ところが御維新になってから賭博打を取捕えては打切られ、己も仕様がないから賭博を止め、今じゃア人力車を引いてるが、旦那貴方は何処のもんだか知んねえが、人を打殺して金を奪り、其の死人を持って来たなア」 又「馬鹿を云え、とんでもない事をいう、どう云う次第でそんな事を云うのだ」 車「おれ政五郎親分の処にいた頃、親方が人を打殺して三日の間番をさせられた時の臭いが鼻に通って、いまだに忘れねえが、其の臭いに違えねいから隠したって駄目だ、死人なら死人だとそう云えや、云わねえと己れ了簡があるぞ」 又「白痴た奴だ、どうもそんな事を云って篦棒め、手前どう云う訳で死人だと云うのだ、失敬なことを云うな」 車「なに失敬も何もあるものか、古河の船渡で車を雇うのに、値切もしずに佐野まで極め、其の上五十銭の祝儀もくれ、酒を呑ませ飯まで喰わせると云うから、有り難い旦那だと思ったが、唯の人と違い、死人じゃ往けねえが、併し死人だと云えば佐野まで引いて往ってくれべいが、隠しだてをするなら、後へ引返して、藤岡の警察署へ往って、其の荷を開いて検めて貰うべい」 又「馬鹿なことを云うな、駄賃は多分に遣るから急いで遣れ」 車「駄賃ぐらいでは駄目だ、内済事にするなら金を弐拾両よこせ」 又「なに弐拾両、馬鹿なことを云うなえ」 車「いやなら宜いわ」  と云いながら梶棒を藤岡の方へ向けましたから、井生森又作は大きに驚き慌てゝ、 又「おい車夫、待て、これ暫く待てと云うに、仕様のない奴だ、太え奴だなア」 車「何方が太えか知れやしねえ」 又「そう何もかも手前に嚊ぎ附けられては止むを得ん、実は死人だて、就ては手前に金子二拾両遣るが、何卒此の事を口外してくれるな、打明けて話をするが、此の死骸は実は僕が権妻同様のものだ」 車「それなら貴方の妾か」 又「なに僕の妾というではない、去る恩人の持ちものだが、不図した事から馴れ染め、人目を忍んで逢引をして居ると、その婦人が懐妊したので堕胎薬を呑ました所、其の薬に中って婦人は達ての苦み、虫が被って堪らんと云って、僕の所へ逃出して来て、子供は産れたが、婦人は死んでしまった所密通をした廉と子を堕胎した廉が有るから、拠なく其の死骸を旅荷に拵え、女の在所へ持って往き、親達と相談の上で菩提所へ葬る積りだが、手前にそう見顕わされて誠に困ったが、金を遣るから急いで足利在まで引いてくれ」 車「そう事が定れば宜いが…なんだって女子と色事をして子供を出かし、子を堕胎そうとして女が死んだって…人殺しをしながら惚気を云うなえ、もう些と遣しても宜いんだが、二十両に負けてくれべい、だが臭い荷を引張って往くのは難儀だアから、彼処の沼辺の葦の蔭で、火を放けて此の死人を火葬にしてはどうだ、そうして其の骨を沼の中へ打擲り込んでしまえば、少しぐれえ焼けなくっても構った事はねえ、もう来月から一杯に氷が張り、来年の三月でなければ解けねえから、知れる気遣えはねえが、どうだえ」 又「これは至極妙策、成程宜い策だが、ポッポと火を焚いたら、又巡行の査官に認められ、何故火を焚くと云って咎められやしないか」 車「大丈夫だよ、時々私らが寒くって火を焚く事があるが、巡査がこれなんだ、其処で火を焚いて、消さないか、と云うから、へい余り寒うございますから火を焚いて烘って居りますが、只今踏消して参りますと云うと、そんなら後で消せよと云って行くから、大丈夫だ、さア此処へ下すべい」  と之れから車を沼の辺まで引き込み、彼の荷を下し、二人で差担ぎにして、沼辺の泥濘道を踏み分け、葭蘆茂る蔭に掻き据えまして、車夫は心得て居りますから、枯枝などを掻き集め、燧で火を移しますると、ぽっ〳〵と燃え上る。死人の膏は酷いから容易には焼けないものであります。日の暮れ方の薄暗がりに小広い処で、ポッポと焚く火は沼の辺故、空へ映りまして炎々としますから、又作は気を揉み巡査は来やしないかと思っていますと、 車「旦那、もう真黒になったろうが、貴方己がにもう十両よこせよ」 又「足元を見て色々な事を云うなえ」 車「足元だって、己れはア女の死骸と云って己を欺かしたが、こりゃア男だ、女の死骸に□□があるかえ」  と云われて又驚き、 又「えゝ何を云うのだ」 車「駄目だよ、お前は人を打殺して金を奪って来たに違えねえ、もう十両呉れなけりゃア又引き返そうか」 又「仕方がない遣るよ、余程狡猾な奴だ」 車「汝れ方が狡猾だ」  と云いながら人力車の梶棒を持って真黒になった死骸を沼の中へ突き込んでいます。又作は近辺を見返ると、往来はぱったり止まって居りますから、何かの事を知った此の車夫、生けて置いては後日の妨げと、車夫の隙を伺い、腰の辺をポオーンと突く、突かれて嘉十はもんどり切り、沼の中へ逆とんぼうを打って陥りましたが、此の車夫は泳ぎを心得て居ると見え、抜手を切って岸辺へ泳ぎ附くを、又作が一生懸命に車の簀蓋を取って、車夫の頭を狙い打たんと身構えをしました。是からどういう事に相成りますか、一寸一息致しまして申上げましょう。      三  さて春見丈助は清水助右衞門を打殺しまして、三千円の金を奪い取りましたゆえ、身代限りに成ろうとする所を持直しまして、する事為す事皆当って、忽ち人に知られまする程の富豪になりました。又一方は前橋の竪町で、清水助右衞門と云って名高い富豪でありましたが、三千円の金を持って出た切り更に帰って来ませんので、借財方から厳しく促られ遂に身代限りに成りまして、微禄いたし、以前に異る裏家住いを致すように成りました。実に人間の盛衰は計られぬものでございます。春見が助右衞門を殺します折に、三千円の預り証書を春見の目の前へ突付け掛合う中に、殺すことになりまして、人を殺す程の騒ぎの中ですから、三千円の証書の事には頓と心付きませんでしたが、後で宜く考えて見ますと、助右衞門が彼の時我が前に証書を出して、引換えに金を渡せと云って顔色を変えたが彼の証書の、後にないところを見れば、他に誰も持って行く者はないが、井生森又作はあア云う狡猾な奴だから、ひょっと奪ったかも知れん、それとも助右衞門の死骸の中へでも入っていったか、何しろ又作が帰らなければ分らぬと思って居りましたが、三ヶ年の間又作の行方が知れませんから、春見は心配で寝ても寝付かれませんから、悪い事は致さぬものでございますが、凡夫盛んに神祟りなしで、悪運強く、する事なす事儲かるばかりで、金貸をする、質屋をする、富豪と云われるように成って、霊岸島川口町へ転居して、はや四ヶ年の間に前の河岸にずうっと貸蔵を七つも建て、奥蔵が三戸前あって、角見世で六間間口の土蔵造、横町に十四五間の高塀が有りまして、九尺の所に内玄関と称えまする所があります。実に立派な構えで、何一つ不自由なく栄燿栄華は仕ほうだいでございます。それには引換え清水助右衞門の忰重二郎は、母諸共に千住へ引移りまして、掃部宿で少し許りの商法を開きました所が、間が悪くなりますと何をやっても損をいたしますもので、彼をやって損をしたからと云って、今度は是れをやると又損をして、遂に資本を失すような始末で、仕方がないから店をしまって、八丁堀亀島町三十番地に裏屋住いをいたして居りますと、母が心配して眼病を煩いまして難渋をいたしますから、屋敷に上げてあった姉を呼戻し、内職をして居りましたが、其の前年の三月から母の眼がばったりと見えなくなりましたゆえ、姉はもう内職をしないで、母の介抱ばかりして居ります。重二郎は其の時廿三歳でございますが、お坊さん育ちで人が良うございますから智慧も出ず、車を挽くより外に何も仕方がないと、辻へ出てお安く参りましょうと云って稼いで居りましたが、何分にも思わしき稼ぎも出来ず、遂に車の歯代が溜って車も挽けず、自分は姉と両人で、二日の間は粥ばかり食べて母を養い、孝行を尽し介抱いたして居りましたが、最う世間へ無心に行く所もありませんし、何うしたら宜しかろうと云うと、人の噂に春見丈助は直き近所の川口町にいて、大した身代に成ったという事を聞きましたから、元々馴染の事ゆえ、今の難渋を話して泣付いたならば、五円や十円は恵んで呉れるだろうというので、姉と相談の上重二郎が春見の所へ参りましたが、家の構えが立派ですから、表からは憶して入れません。横の方へ廻ると栂の面取格子が締って居りますから、怖々格子を開けると、車が付いて居りますから、がら〳〵〳〵と音がします。驚きながら四辺を見ますと、結構な木口の新築で、自分の姿を見ると、単物の染っ返しを着て、前歯の滅りました下駄を穿き、腰に穢い手拭を下げて、頭髪は蓬々として、自分ながら呆れるような姿ゆえ、恐る〳〵玄関へ手を突いて、 重「お頼み申します〳〵」 男「どーれ」  と利助という若い者が出てまいりまして、 利「出ないよ」 重「いえ乞食ではございません」 利「これは失敬、何処からお出でになりました」 重「私ア少し旦那様にお目にかゝって御無心申したい事がありまして参りました」 利「何処からお出でゞございますか」 重「はい、私ア前橋の竪町の者でございまして、只今は御近辺に参って居りますが、清水助右衞門の忰が参ったと何卒お取次を願います」 利「誠にお気の毒でございますが、此の節は無心に来る者が多いから、主人も困って、何方がお出でになってもお逢いにはなりません、種々な名を附けてお出でになります、碌々知らんものでも馴々しく私は書家でございます、拙筆を御覧に入れたいと、何か書いたものを持って来て何と云っても帰らないから、五十銭も遣って、後で披けて見ると、子供の書いたような反故であることなどが度々ありますから、お気の毒だが主人はお目にかゝる訳にはまいりません」 重「縁のない所からまいった訳ではありません、前橋竪町の清水助右衞門の忰重二郎が参ったとお云いなすって下さいまし」 利「お気の毒だが出来ません、それに旦那様は御不快であったが、今日はぶら〳〵お出掛になってお留守だからいけません」 重「どうか其様なことを仰しゃらないでお取次を願います」 利「お留守だからいけませんよ」  と頻りに話をしているのを、何だかごた〳〵していると思って、そっと障子を明けて見たのは、春見の娘おいさで、唐土手の八丈の着物に繻子の帯を締め、髪は文金の高髷にふさ〳〵と結いまして、人品の好い、成程八百石取った家のお嬢様のようでございます。今障子を開けて、心付かず話の様子を聞くと、清水助右衞門の忰だから驚きましたのは、七年前自分のお父さんが此の人のお父さんを殺し、三千円の金を取り、それから取付いて此様に立派な身代になりましたが、此の重二郎はそれらの為に斯くまでに零落れたか、可愛そうにと、娘気に可哀そうと云うのも可愛そうと云うので、矢張惚れたのも同じことでございます。 い「あの利助や」 利「へい〳〵、出ちゃいけませんよ、〳〵」 い「あのお父さんは奥においでなさるから其の方にお逢わせ申しな」 利「お留守だと云いましたよ、いけませんよ」 い「そんな事を云っちゃアいけないよ、お前は姿のいゝ人を見るとへい〳〵云って、姿の悪い人を見ると蔑んでいけないよ、此の間も立派な人が来たから飛出して往って土下座したって、そうしたら菊五郎が洋服を着て来たのだってさ」 利「どうも仕方がないなア、此方へお入り」  と通しまして直に奥へまいり、 利「えゝ旦那様、見苦しいものが参って旦那様にお目にかゝりたいと申しますから、お留守だと申しましたところが、お嬢さまがお逢わせ申せ〳〵と仰しゃいまして困りました」 丈「居ると云ったら仕方がないから通せ」 利「此方へお入り」 重「はい〳〵」  と怖々上って縁側伝いに参りまして、居間へ通って見ますと、一間は床の間、一方は地袋で其の下に煎茶の器械が乗って、桐の胴丸の小判形の火鉢に利休形の鉄瓶が掛って、古渡の錫の真鍮象眼の茶托に、古染付の結構な茶碗が五人前ありまして、朱泥の急須に今茶を入れて呑もうと云うので、南部の万筋の小袖に白縮緬の兵子帯を締め、本八反の書生羽織で、純子の座蒲団の上に坐って、金無垢の煙管で煙草を吸っている春見は今年四十五歳で、人品の好い男でございます。只見ると重二郎だから恟りしましたが、横着者でございますから 丈「さア〳〵此方へ」 重「誠に暫く御機嫌宜しゅう」 丈「はい〳〵、誠に久しく逢いません、私も此方へ転居して暫く前橋へも往きませんが、お変りはないかね、お父さんは七年前帰らんと云って尋ねて来た事があったが、お帰りに成ったかね」 重「其の後いまだに帰りませんし便りもありませんで、死んだか生きて居るか分りません、御存じの通り三千円の金を持って出て、それも田地や土蔵を抵当に入れて才覚したものでござりやんすから、貸方から喧ましく云われ、抵当物は取られ、お母と両人で手振編笠で仕方がねえから、千住へまいって小商いを始めましたが、お母が長々の眼病で、とうとう眼がつぶれ、生計に困り、無心を云う所も無えで、仕方なく亀島町の裏屋ずまいで、私は車を挽き、姉は手内職をして居りましたが、段々寒くなるし、車を引いても雨降り風間には仕事がなく、実に翌日にも差迫る身の上に成りまして、何うしようと思っていた処、春見様が此方においでなさるという事が知れましたから、願ったら出来ようかと思って姉と相談の上で出ましたが、親子三人助かりますから、どうかお恵みなすって下さいまし」  と泣きながらの物語に春見も気の毒千万な事に思い、せめては百円か二百円恵んで遣ろうかと思ったが、いや〳〵〓(「※」は「「愍」で「民」のかわりに「求」をあてる」)いに恵み立てをすると、彼の様な見苦しい者に多くの金を恵むのは変だという所から、其の筋の耳になって、七ヶ年前の事が顕われては遁れ難き我身の上ゆえ、寧そ荒々しく云って帰した方が宜しかろうと思いまして、 丈「重二郎さん、誠に気の毒だが貸す事は出来ない、そう云う事を云って歩いても貸す人はないよ、難儀をするものは世間には多人数あって、僕は交際も広いから一々恵み尽されません、そうして故なく人に恵みをすべきものでもなく、又故なく貰うべきものでもなく、其の儀は奉公人にも言い付けてあることで、誠に気の毒だが出来ません、お前も血気な若い身分でありながら、車を挽いてるようではならん、当節は何をしても立派に喰える世の中だのに、人の家に来て銭を貰うとは余り智慧のないことだお前はお坊さん育ちで何も知るまいが、人が落目になった所を〓(「※」は「「愍」で「民」のかわりに「求」をあてる」)いに助ければ、助けた人も共に倒れるようになるもので、たとえば車に荷を積んで九段のような坂を引いて上って力に及ばんで段々下へ落る時、只た一人でそれを押えて止めようとすると、其の人も共に落ちて来て怪我をするようになるから、それよりも下り掛った時は構わないで打棄って置いて其の車が爼橋まで下ってから、一旦空車にして、後で少しばかりの荷を付けて上げた方が宜しいようなもので、今〓(「※」は「「愍」で「民」のかわりに「求」をあてる」)いに恵むものがあってはお前のためにならん、人の身は餓死するようにならんければ奮発する事は出来ない、それでなければお前の為にならん」 重「誠にお恥かしい事でございますが、一昨々日から姉も私もお飯を喫べません、お粥ばかり喫べて居ります、病人の母が心配しますから、お飯があるふりをしては母に喫べさせ、姉も私も芋を買って来て、お母が喫べて余ったお粥の中へ入れ、それを喫べて三日以来辛抱して居りましたが、明日しようがねえ、何うしたら宜かろうかと思って、此方へ出ました訳でございますから、若しお恵みが出来なければ、私だけ此方の家へ無給金で使って呉れゝば私一人の口が減るから、そうすれば姉が助かります、どうか昔馴染だと思って」 丈「これ〳〵昔馴染とは何の事だ、屋敷にいる時は手前の親を引立ってやった事はあるが、恩を受けたことは少しもない、それを昔馴染などとは以の外のことだ、一切出来ません、奉公人も多人数居って多過ぎるから減そうと思っているところだから、奉公に置く事も出来ません帰えって下さい、此の開明の世の中に、腹の減るまでうか〳〵として居るとは愚を極めた事じゃねえか、それに商業繁多でお前と長く話をしている事は出来ない、帰って下さい」  と云い捨て、桑の煙草盆を持って立上り、隔の襖を開けて素気なく出て往きます春見の姿を見送って、重二郎は思わず声を出して、ワッとばかりに泣き倒れまして、 重「はい、帰ります〳〵、貴方も元は御重役様であった時分には、私が親父は度々お引立になったから、貴方を私が家へ呼んで御馳走をしたり、立派な進物も遣った事がありますから、少しばかりの事を恵んでも、此の大え身代に障る事もありますまい、人の難儀を救わねえのが開化の習いでございますか、私は旧弊の田舎者で存じませぬ、もう再び此の家へはまいりません只今貴方の仰しゃった事は、仮令死んでも忘れません、左様なら」  と泣々ずっと起って来ますと、先刻から此の様子を聞いていまして、気の毒になったか、娘のおいさが紙へ三円包んで持ってまいり、 い「もし重二郎さん、お腹も立ちましょうが、お父さんは彼の通りの強情者でございますから、どうかお腹をお立ちなさらないで下さいまし、これは私の心ばかりでございますが、お母さんに何か暖かい物でも買って上げて下さい」 重「いゝえ戴きません、人は恵む者がある内は、奮発の附かないものだと仰しゃった事は死んでも忘れません」 い「あれさ、そんな事を云わないでこれは私の心ばかりでございますから、どうかお取り下さい」  と無理に手へ掴ませてくれても、重二郎は貰うまいと思ったが、これを貰わなければ明日からお母に食べさせるのに困るから、泣々貰いまして、あゝ親父と違って、此の娘は慈悲のある者だと思って、おいさの顔を見ると、おいさも涙ぐんで重二郎を見る目に寄せる秋の波、春の色も面に出でゝ、真に優しい男振りだと思うも、末に結ばれる縁でございますか。 い「どうかお母さんに宜しく、お身体をお大切になさいまし」  と云って見送る。重二郎も振返り〳〵出て往きました。其の跡へ入って来たのは怪しい姿で、猫の腸のような三尺を締め、紋羽の頭巾を被ったまゝ、 男「春見君は此方かえ〳〵」 利「はい、何方ですえ」 男「井生森又作という者、七ヶ年前に他県へ参って身を隠して居たが、今度東京へ出て参ったから、春見君に御面会いたしたいと心得て参ったのだ、取次いでおくんなせえ」 利「生憎主人は留守でございますから、どうか明日お出でを願いとうございます」 又「いや貧乏暇なしで、明日明後日という訳にはいかないから、お気の毒だがお留守なら御帰宅までお待ち申そう」 利「これは不都合な申分です、知らん方を家へ上げる訳にはゆきません、主人に聞かんうちは上げられません」 又「何だ僕を怪しいものと見て、主人に聞かんうちは上げられないと云うのか、これ僕が春見のところへまいって、一年や半年寝ていて食って居ても差支えない訳があるのだ、一体手前妙な面だ、半間な面だなア、面が半間だから云う事まで半間だア」 利「おや〳〵失敬な事を云うぜ」 又「さア手前じゃア分らねえ、直ぐに主人に逢おう」 利「いけません、いけません」 又「いけんとは何だ、通さんと云えば踏毀しても通るぞ」 利「そんな事をすると巡査を呼んで来ますよ」 又「呼んで来い〳〵、主人に逢うと云うのだ、何を悪い事をした、手前の知った事じゃアねえ」  と云いながら又作が無法に暴れながら、ずッと奥へ通りますと、八畳の座敷に座布団の上に坐り、白縮緬の襟巻をいたし、咬え烟管をして居ります春見丈助利秋の向へ憶しもせずピッタリと坐り、 又「誠に暫く、一別已来御壮健で大悦至極」 丈「これさ誰か取次をせんか、ずか〳〵と無闇に入って来て驚きましたわな」 又「なにさ、僕が斯様な不体裁な姿でまいったゆえ、君の所の雇人奴が大きに驚き、銭貰いかと思い、怪しからん失敬な取扱いをしたが、それはまア宜しいが、君はまア図らざる所へ御転住で」 丈「いや実にどうも暫くであった、どうしたかと思っていたが、七ヶ年以来何の音信もないから様子が頓と分らんで心配して居ったのよ」 又「さア僕も此の頃帰京いたしお話は種々ありますが、何しろ雇人の耳に入っては宜しくないから、久々だから何処かで一杯やりながら緩々とお話がしたいね」 丈「此方でも聞きてえ事もあるから、有合物で一盞やろう」  と六畳の小間へ這入り、差向い、 丈「此処は滅多に奉公人も来ないから、少しぐらい大きな声を出しても聞えることじゃアねえ、話は種々あるが、七年前旅荷にして持出した死骸は何うした」 又「それに就て種々話があるが、彼の時死骸を荷足船で積出し、深川の扇橋から猿田船へ移し、上乗をして古河の船渡へ上り、人力車へ乗せて佐野まで往って仕事を仕ようとすると、其の車夫は以前長脇差の果で、死人が日数が経って腐ったのを嗅ぎ附け、何んでも死人に相違ないと強請がましい事を云い、三十両よこせと云うから、止を得ず金を渡し、死人を沼辺へ下して火葬にして沼の中へ投り込んでしまったから、浮上っても真黒っけだから、知れる気遣いないが、彼の様子を知った車夫、生かして置いてはお互いの身の上と、罪ではあるが隙を窺い、沼の中へ突き落し、這い上ろうとする所を人力車の簀葢を取って額を打据え、殺して置いて、其の儘にドロンと其処を立退き、長野県へ往ってほとぼりの冷るのを待ち、石川県へ往ったが、懐に金があるから何もせず、見てえ所は見、喰いてえ物は喰い、可なり放蕩も遣った所が、追々金が乏しくなって来たから、商法でも仕ようと思い、坂府へ来た所、坂府は知っての通り芸子舞子は美人揃い、やさしくって待遇が宜いから、君から貰った三百円の金はちゃ〳〵ふうちゃに遣い果して仕方なく、知らん所へ何時まで居るよりも東京へ帰ったら、又どうかなろうと思い、早々東京へ来て、坂本二丁目の知己の許に同居していたが、君の住所は知れずよ、永くべん〳〵として居るのも気の毒だから、つい先々月亀島町の裏長屋を借り請け、今じゃア毎夜鍋焼饂飩を売歩く貧窮然たる身の上だが、つい鼻の先の川口町に君が是れだけの構いをして居るとは知らなかったが、今日はからず標札を見て入って来たのだが、大した身代になって誠に恐悦」 丈「あれからぐっと運が向き、為る事なす事間がよく、是まで苦もなく仕上げたが、見掛けは立派でも内幕は皆機繰だから、これが本当の見掛倒しだ」 又「金は無いたって、あるたって、表構えで是だけにやってるのだから大したものだねえ、時に暫く無心を云わなかったが、どうか君百円ばかりちょっと直に貸して呉れ給え、斯うやって何時まで鍋焼饂飩も売っては居られんじゃないか、これから君が後立てになり、何か商法の工夫をして、宜かろうと思うものを立派に開店して、奉公人でも使うような商人にして下せえな」 丈「商人にして呉れろって、君には三百円という金を与えたのに、残らず遣ってしまい、帰って来て困るから資本を呉れろとは、負えば抱かろうと云うようなもので、それじア誠に無理じゃアないか」 又「なにが、無理だと、何処が無理だえ」 丈「そんなに大きな声をしなくても宜しいじゃねえか」 又「君が是だけの構をして居るに、僕が鍋焼饂飩を売って歩き、成程金を遣ったから困るのは自業自得とは云うものゝ、君が斯うなった元はと云えば、清水助右衞門を殺し、三千円の金を取り、其の中僕は三百円しか頂戴せんじゃねえか、だから千や二千の資本を貸して、僕の後立になっても君が腹の立つ事は少しもあるめえ」 丈「如何にも貸しも仕ようが、見掛ばかりで手元には少しも金はねえから、其の内君の宅へ届けようか」 又「届けるって九尺弐間の棟割長屋へ君の御尊来は恐入るから、僕が貰いに来ても宜しい」 丈「そんな姿で度々宅へ来られては奉公人の手前もあるじゃねえか」 又「さア当金百円貸して、後金千円位の資本を借りてもよかろう」 丈「それじゃア貸しても遣ろうが、何時迄もぐず〴〵しても居られめえから、何か商法を開き、悪い事を止めて女房でも持たんければいかんぜ、早く身を定めなさい、時に助右衞門を殺して旅荷に拵えた時、三千円の預り証書を君が懐へ入れて、他県へ持って往ったのだろうな」 又「どうも怪しからん嫌疑を受けるものだねえ」 丈「いや、とぼけてもいけねえ、彼の事は君より他に知ってる者はないのに、後で捜してもねえからよ、彼の証書が人の手に入れば君も僕も身の上に係わる事だぜ」 又「それは心得てるよ、僕も同意してやった事だから、露われた日にゃ同罪さア」 丈「隠してもいけねえよ」 又「隠しはしねえ、僕が真実に預り証書を持って居ても、これを証にして訴える訳にはいかん、三百円貰ったのが過りだから仕方がねえ、役に立たぬ証書じゃねえか」 丈「君が若し彼の証書を所持して居るなら千円やるから僕にそれを呉れたまえよ」 又「ねえと云うのに、僕の懐に若し其の証書があれば、千や二千の破れ札を欲しがって来やアしねえ、助右衞門は僕が殺したのではねえ、君が殺したのだから、君が重罪で僕も同類だけれど、其の証書をもって自訴すれば僕の処分は軽い、君と僕と遣りっこにすればそうだから、証書があれば否応なしに五六千円の金を出さなければなるめえ、又預り証書があれば御息女のおいささんを女房に貰うか、入婿にでもなって幅を利かされても仕方がねえ身の上じゃねえか、貸したまえ、今千円の札を持って帰っても、これ切り参りませんという銭貰いじゃアねえ、金が有れば遣ってしまい、なくなれば又借りに来る、是れだけの金主を見附けたのだから僕の命のあらん限は君は僕を見捨ることは出来めえぜ」 丈「明後日は晦日で少し金の入る目的があるから、人に知れんような所で渡してえが、旨い工夫はあるまいか」 又「それは訳アねえ、僕が鍋焼饂飩を売ってる場所は、毎晩高橋際へ荷を降して、鍋焼饂飩と怒鳴って居るから、君が饂飩を喰う客の積りで、そっと話をすれば知れる気遣はあるめえ」 丈「そんなら遅くも夜の十二時頃までには往くから、十一時頃から待ってゝくれ」 又「百円は其の時屹度だよ、千円もいゝかね」 丈「千円の方は遅くも来月中旬までには相違なく算段するよ、これだけの構をしていても金のある道理はない、七ヶ年の間皆遣り繰りでやって来たのだからよ」 又「じゃア飯を喰って帰ろう」  とずう〳〵しい奴で、種々馳走になり、横柄な顔をして帰りました故、奉公人は皆不思議がって居りました。これから助右衞門の女房や忰が難儀を致しますお話に移りますのでございますが、鳥渡一息吐きまして申上げます。      四  春見丈助は清水助右衞門を殺し、奪取った三千円の金から身代を仕出し、大したものになりましたのに引替え、助右衞門の忰重二郎は人力を挽いて漸々其の日〳〵を送る身の上となりましたから、昔馴染の誼みもあると春見の所へ無心に参れば、打って変った愛想づかし、実に悪むべきは丈助にて、それには引替え、娘おいさの慈悲深く恵んでくれた三円で重二郎は借金の目鼻を附け、どうやら斯うやら晦日まで凌ぎを附けると、晦日には借金取が来るもので、お客様方にはお覚えはございますまいが、我々どもの貧乏社会には目まぐらしい程まいります。 米屋「はい御免よ、誠に御無沙汰をしました、時にねえ余り延々に成りますから、今日は是非お払いを願いたいものだ」 まき「誠にお気の毒さまで、毎度おみ足を運ばせて済みませんが、御存じの通り母が眼病でございまして、弟も車を挽いて稼ぎますが」 米「おい〳〵お母さんが眼病で、弟御が車を挽く事はお前さんが番毎云いなさるから、耳に胼胝のいる程だが、姉さんまアお母さんはあゝやって眼病で煩ってるし、兄さんは軟弱い身体で車を挽いてるから気の毒だと思い、猶予をして盆の払いが此の暮まで延々になって来たのだが、来月はもう押詰り月ではありませんか、私も商売だから貸すもいゝが、これじゃア困るじゃアないか、私は人が好いから、お前方も顔向けが出来まいと察して来ないのだが、私が米を売らなけりゃお前さん喰わずに居ますかえ、それもこれだけ払うから後の米を貸して下さいと云えば、随分貸してもやろうが、間が悪いと云って外の米屋で買うとは何の事だえ、勧解へでも持出さなければならない、勘定をしなさい」 ま「それでは誠に困ります」 重「あの姉さん少しお待ちなさい、貴方の方のお払いは何程溜って居りやすか」 米「えゝ二円五十銭でございます」 重「此処に一円二十銭ありやんすが、これをお持ちなすってお帰んなすって、あとの米を又少しの間拝借が出来ますならば、命から二番目の大事な金でございやすが、これを上げますから、あとの米を壱円べい送って戴きていもんでござりやす」 米「壱円弐拾銭あるのか、篦棒らしい、商売だからお払いさえ下されば米は送ります」  と金を撿め請取を置いて出て往きますと、摺違って損料屋が入ってまいりました。 ま「おや、又」 損「なんです、おや又とは」 ま「いえ、あの能くいらっしゃいましたと申したのでございます」 損「嘘を云いなさんな、今米屋が帰った跡へ直に私が催促に来たから、おや又と云ったのだろう、借金取を見ておや又とは甚だ失敬だ、私も困りますから返して下さい、料銭を払わないと止むを得ないから蒲団を持って往くよ」 ま「でも此の通り寒くなって母が困りますから、最う少々貸して置いて下さいまし」 損「其方も困るだろうが私も困らアね、引続いて長い間留めて置き、蒲団は汚し料銭は少しも払わず、何うにも斯うにも仕方がないから、私ア蒲団を持って往きますよ」 ま「何卒御勘弁を願います」 損「勘弁は出来ません」  と云いながら、ずか〳〵と慈悲容赦も荒々しく、二枚折の反故張屏風を開け、母の掛けて居りまする四布蒲団を取りにかゝりますから、 重「何をなさる、被て居るものを取ればまるで追剥ですなア」 損「これ何をいうのだ、私の物を私が持って往くのに追剥という事があるものか、料銭が溜ったから蒲団を持って往くのが追剥ぎか」 重「誠に相済みません、何卒御勘弁を」  と云っているのを、同じ長屋にいるお虎という婆さんが見兼て出てまいり、 虎「まアお待ちなさいな、斯うやってお母さんが眼が悪く、兄さんが一生懸命に人力を挽いて稼いでも歯代がたまって困ると云うくらいだから、料銭の払えないのは尤もな話だのに、可愛そうに病人が被ているものを剥いで往くとは余り慈悲ないじゃないか」 損「お虎さん、お前さんは知らないのだが、蒲団を貸して二ヶ月料銭を払わないから、損料代が四円八十銭溜って居りますよ」 重「へい、そんなになりますかえ」 損「なりますとも、一晩四布が五銭に、三布布団が三銭、〆八銭、三八二円四十銭が二ヶ月で四円八十銭に成りますわねえ」 虎「高いねえ、こんな穢い布団でかえ」 損「穢い布団じゃアなかったのだが、段々此の人達が被古して汚したので、前は新しかったのです」 虎「成程御尤もですが、其処がお話合で、私も斯うやって仲へ入り、口を利いたもんだから三円だけ立替えて上げたら、お前さん此の布団を貸してやって下さるかえ、此の汚れたのは持って帰って小綺麗なのと取替えて持って来て貸して下さるか」 損「それは料銭さえ払って下されば貸して上げますともさ」 虎「それじゃア持合せていますから私が立替えて上げるが、端銭はまけて置いておくれな、明日一円上げますからさ」 損「宜うございます、八十銭の損だが、お虎さんにめんじて負けて置きましょう、そんならさっぱりとしたのと取替えて来ます、左様なら」 虎「屹度持って来ておくれ、左様なら」  と損料屋の後姿を見送って、おまきに向い、 虎「まアおまきさん御覧よ、酷い奴じゃないか、彼奴はもと番太郎で、焼芋を売ってたが、そのお前芋が筋が多くて薄く切って、そうして高いけれども数が余計にあるもんだから、子供が喜んで買うのが売出しの始めで、夏は金魚を売ったり心太を売ったりして、無茶苦茶に稼いで、堅いもんだから夜廻りの拍子木も彼の人は鐘をボオンと撞くと、拍子木をチョンと撃つというので、ボンチョン番太と綽名をされ、差配人さんに可愛がられ、金を貯めて家を持ち、損料と小金を貸して居るが、尻の穴が狭くて仕様のない奴だよ」 ま「叔母さんがお出でなさらないと私はどう仕ようかと思いました、毎度種々御贔屓になりまして有り難うございます」 虎「時にねえまアちゃんや、私ゃ悪い事は云わないから、此間話した私の主人同様の地主様で、金貸で、少し年は取っていますが、厭やなのを勤めるのが、そこが勤めだから、厭でも応と云って旦那の云うことを聞けば、お母さんにも旨い物を食べさせ、好いものを着せられ、お前も芝居へも往かれるから、私の金主で大事の人だから、彼の人の云うことを応と聞いて囲者におなりよ」 ま「有り難う存じますが、なんぼ零落れましても、まさかそんな事は出来ません」 虎「まさかそんな事とは何だえ、それじゃアどう有っても否かえ」 ま「私も元は清水と申して、上州前橋で御用達をいたしました者の娘、如何に零落れ裏店に入っていましても、人に身を任せて売淫同様な真似をして、お金を取るのは、母もさせる事ではありませんし、私も死んでも否だと思って居ります」 虎「はい、お立派でございますねえ、御用達のお嬢さんだから喰わずに居ても淫売同様な真似はしないと、よく御覧、近辺の小商いでもして、可なりに暮して居るものでも、小綺麗な娘があれば皆な旦那取りをして居るよ、私なんぞも若い時分には旦那が十一人あったが、まだ足りなくって小浮気もしたことがあった位だから、お前だって大事のお母さんに孝行したいと思うならばねえ」 ま「誠に有り難う存じますが、そればかりはお断り申します」 虎「否なら無理にお願い申しませんよ、それじゃア私の金主の八木さんから拝借した三円のお金を、今損料屋が来てお母さんの被ている蒲団を引剥ぎにかゝったから、お気の毒だと思い、立替えたが、今の三円は直ぐ返して下さいな、さアお前が応とさえ云えば又旦那に話の仕様もあるが、否だと云い切っては何も気を揉んで昨今のお前さんに金を貸す訳はないから返して下さい」 ま「お金がないのを見かけ、無理に立替えて返せと仰しゃっても致方がございません」 虎「そんな不理窟を云ったっていけないよ、損料屋が蒲団を持っていったら此の寒いのに病人を裸体で置くつもりかえ、さっさと返して下さいな」 重「小母さんお待ちなすって下さい、姉さまが人さまの妾にはならないと云うのも御尤もな次第、と云って貴方に返す金はありやせんから、何卒私を其の旦那の処で、姉の代りに使って下さいますめえか」 虎「おふざけでないよ、お前さんがいくら器量が好くても、今は男色はお廃しだよ」 重「いゝえ左様ではございませぬ、どのような御用でもいたしやすから願いやす」 婆「これサ、旦那の処で一月働いたって三円の立前は有りゃアしねえ、一日弐拾銭出せば力のある人が雇えるから、お前さんなぞを使うものかねえ、返して下さいよ」  と云って中々聞き入れません。此の婆は元は深川の泥水育ちのあば摺れもので、頭の真中が河童の皿のように禿げて、附け髷をして居ますから、お辞儀をすると時々髷が落ちまする、頑丈な婆さんですから、金がなけりゃ此れを持って往くと云いながら、彼の損料蒲団へ手を掛けようとすると、屏風の中から母が這い出して。 母「御尤もでございますが、私の宅の娘は年は二十五にもなり、体格も大きいけれども、是迄屋敷奉公をして居りやしたから、世間の事を知らねえ娘で、中々人さまの妾になって旦那さまの機嫌気づまを取れる訳でもございやせん、と申して、お借り申した三円のお金は返さねえでは済みませんが、金はなし、損料布団を取られては私が誠に困りますから」  と云いながら手探りにて取出したのは黒塗の小さい厨子で、お虎の前へ置き。 母「これは私が良人の形見でございまして、七ヶ年前出た切り行方が知れませんが、大方死んだろうと考えていますから、良人の出た日を命日として此の観音さまへ線香を上げ、心持ばかりの追善供養を致しやして、良人に命があらば、何卒帰って親子四人顔が合わしていと、無理な願掛けをして居りやんした、此の観音さまは上手な彫物師が国へ来た時、良人が注文して彫らせた観音さまで金無垢でがんすから、潰しにしても大く金になると、良人も云えば人さまも云いやすが、金才覚の出来るまで三円の抵当に此の観音さまをお厨子ぐるみ預かって、どうか勘弁して下さいやし」 ま「お母さん、とんでもない事を仰しゃる、それを上げて済みますか、命から二番目の大切な品では有りませんか」 母「えゝ命から次の大事なものでも拠ない、斯ういう切迫詰りになって、人の手に観音様が入ってしまうのは、親子三人神仏にも見離されたと諦めて、お上げ申さなければ話が落着かねえではないか、あゝ早く死にてい、私が死ねば二人の子供も助かるべいと思うが、因果と眼も癒らず、死ぬ事も出来ましねえ、お察しなすっておくんなさい」  と泣き倒れまする。 虎「誠にお気の毒ですねえ、おや大層まア立派な観音さま、何だか知りませんが、まア〳〵金の抵当に預って置きましょう、成程丈も一寸八分もありましょう、これなれば五円や十円のものはあろう」  と云いながら艶消しの厨子へ入ったまゝ懐へ入れて帰りました。お虎婆は夜に入って楽みに寝酒を呑んでいます所へ入って来たのは、鉄砲洲新湊町に居りまする江戸屋の清次という屋根屋の棟梁で、年は三十六で、色の浅黒い口元の締った小さい眼だが、ギョロリッとして怜悧相で垢脱けた小意気な男でございます。形は結城の藍微塵に唐桟の西川縞の半纒に、八丈の通し襟の掛ったのを着て門口に立ち。 清「お母ア宅か、お虎宅かえ」 虎「誰だえ、おや棟梁さんか、お上んなさい」 清「滅法寒くなったのう、相変らず酒か」 虎「棟梁さんは毎も懐手で好い身の上だねえ」 清「己は遊人じゃアねえよ、此の節は前とは違って請負仕事もまご〳〵すると損をするのだ、むずかしい世の中になったのよ」 虎「棟梁さんは今盛りで、好い男で、独り置くのは惜しいねえ、姉さんの死んだのは歳年に成りましたっけねえ」 清「もう五年に成るがお母アが最う些と若ければ女房に貰うんだがのう」 虎「調子の宜いことを云ってるよ」 清「女房で思い出したが、此の長屋の親孝行な娘は好い器量だなア」 虎「あれは本当にいゝ娘だよ」 清「顔ばかりじゃねえ、何処から何処まで申分がねえ女だが、あれを女房に貰いていが礼はするが骨を折って見てくれめえか、そうすれば親も弟も皆引取っても宜いが、どうだろう」 虎「いけないよ、年は二十五だが、男の味を知らないで、応とさえ云えば、立派な旦那が附いて、三十円遣るというのに、まさか囲者には成らないと云うのだよ、何ういう訳だか、本当に馬鹿気ているよ」 清「いくら苦しくても其の方が本当だ、其のまさかと云う処が此方の望みだ」 虎「外の好い少女を呼んで遊んでおいでな、あんなものを□□て寝ても石仏を□□て寝るようなもので、些とも面白くもなんともないよ」 清「己はそれが望みだ、あの焼穴だらけの前掛けに、結玉だらけの細帯で、かんぼ窶して居るが、それで宜いのだから本当にいゝのだ」 虎「棟梁は余程惚れたねえ、だが仕方がないよ」 清「己も沢山は出せねえが、只た一度で十円出すぜ」 虎「え、十円……鼻の先に福がぶら下ってるに、三円の金に困ってるとは、本当に馬鹿な女だ」  と話している所へおまきが門口へ立ちまして、 ま「伯母さん、御免なさい」 虎「はい、どなたえ」 ま「あのまきでございますが」  という声を聞き。 虎「おい棟梁、一件が来たよ、隣のまアちゃんが来たってばさア」 清「なに来たア極りが悪いなア」 虎「はい、只今明けますよ、棟梁さん早く二階へ上っておいでよ、はい今明けますよ、棟梁さん早く二階へ上ってお出でよ…はい今明けますよ…私が様子を宜くして、あの子を欺して二階へ上げるから、お前さんが彼の娘の得心するように旨く調子よく、そこは棟梁さんだから万一して岡惚れしないものでもないよ、はい只今明けますよ…あの道は又乙なものだから…はいよ、今明けますよ…あの子の頸玉へ□□り附いて無理に□いておしまいよ…今明けますよ…早く二階へお上り」  と云われ、清次は煙草盆を手に提げ二階へ上るのを見て、婆は土間へ下り、上総戸を明け。 虎「さアお入り、まアちゃん先刻は悪い事をいって堪忍しておくれよ、詰らねえ事を催促して、何だかお母さんの大事なものだって…お厨子入りの仏さまを本当に持って来なければ宜かったと思っていたが、私もつい酔った紛れでした事だが、堪忍しておくれよ、まア宜く来たねえ」 ま「はい、先程は折角御親切に云って下さいましたのに、承知致しませんでお腹立もございましょうが、まさか母や弟の居ります前で結構な事でございますから、何卒妾にお世話を願いますとは伯母さん、申されませんでしたが、実に今年の暮も往き立ちませんで、何かと母も心配して居りますから、私の様な者でも一晩お相手をして些とでもお金を下されば、母の為と思いまして、どの様にも御機嫌を取りましょうから、貴方宜いお方をお世話なすって、先程母のお預け申した観音様のお厨子を返しては下さいませんか」  と云われ、お虎はほく〳〵悦び。 虎「何かい、お前は彼のお母さんの為に…どうも感心、宜くまア本当に孝行だよ、仕方がないから諦めたのだろうが、否なお爺さんでは私も無理にとも云い難いが、鉄砲洲の屋根屋の棟梁で、江戸屋の清次さんという粋な女惚れのする人が、お前の親孝行で、心掛が宜く、器量も好いから、己アほんとうに女房に貰いたいと云ってるんだが、只た一晩でお金を五円あげるとさ、私ゃア誰にも云わないよ、丁度今二階に棟梁が来て居るから往って御覧、好い男だよ」 ま「それでは其のお方様に私が身を任せれば、お金を五円下さいますか、そうすれば其の内三円お返し申しますからどうか観音様を返して下さいまし」 虎「それは直にお厨子はお返し申しますがね、そんなら少し待っておいで」  と婆はみし〳〵と二階へ上ってまいりまして。 虎「棟梁、フヽフン、彼の子も苦し紛れに往生して、親の為になる事なら旦那を取ろうと得心をしたよ、ちょいと今あの子も切迫詰り、明日に困る事があるのだが、拾円のお金を遣っておくれな」 清「それは遣るよ」 虎「彼の子の云うには、私もねえ元は立派な御用達の娘でございますから、淫売をしたと云われては世間へ極りが悪いから、惚合って逢ったようにして、□寝をされた事は世間へ知れない様にして下さいと云うから其の積りで、そうして棟梁も拾円遣ったなんぞと云うと、彼の娘は人が好いから真赤になって、金を置いて駆出すから、金の事は何も云っちゃアいけないよ、今あの子を連れて来るから、お金を拾円お出しよ」 清「さア持って往きねえ、したが昔ならお大名へお妾に上げて、支度金の二百両と三百両下がる器量を持って、我々の自由になるとは可愛そうだなア」 虎「それじゃアあの子が二階へ上ったら私は外してお湯に往くよ、先刻往ったがもう一遍往くよ、早くしておくれでないといけねえよ」  と梯子を降りながら拾円の中を五円は自分の懐へ入れてしまい、おまきに向い、 虎「今棟梁に話した所がねえ、大そうに悦んで、己も仕手方を使い、棟梁とも云われる身の上で淫売を買ったと云われては、外聞が悪いから、相対同様にしてえと云って、お金を五円おくれたからお前もお金の事を云っちゃアいけねえよ、安っぽくなるから、宜いかえ」 ま「伯母さん誠に有り難うございます」 虎「黙って沢山貰った積りでおいでよ、人が来るといけないから早く二階へお上りよ」 ま「何卒観音様のお厨子を…はい有り難うございます、拝借のお金はこれへ置きます、伯母さん何処へいらっしゃいます」 虎「早くお上り」  と無理に娘おまきを二階へ押上げお虎は戸を締めて其の儘表へ出て参りました。おまきは間がわるいから清次の方へお尻をむけて、もじ〳〵しています。清次も間が悪いが声をかけ、 清「姉さん、此方へお出でなさい、何だか極りが悪いなア、姉さんそう間を悪がって逃げてゝはいけねえ、実はねえ、私アお前さんを慰みものに仕ようと云ったのではない、お母さんが得心すれば嫁に貰っても宜いんだが、女房になってくれる気はねえかえ」  と云われて、おまきは両手を附き、首を垂れ、 ま「私も親父が家出を致して、いまだに帰りませんから、親父が帰った上、母とも相談致さなければ亭主は持たない身の上でございますから、そんな事はいけません、傍へお出でなすってはいけませんよ」 清「なんだなア、いけませんでは困るじゃないか、冗談云っちゃアいけねえぜ」 ま「誠に棟梁さん相済みませんが、下の伯母さんに三円お金の借がございまして、そのお金の抵当に、身に取りまして大事な観音様をお厨子ぐるみに取られ、母は眼病でございまして、其の観音様を信じ、又親父が遺してまいりました遺物同様の大事な品でございますから、是を取られては神仏にも見離されたかと申して泣き倒れて居りまして、余り泣きましては又眼にも身体にもさわろうかと存じまして、子の身として何うも見ては居られませんから、実は旦那を取りますからお厨子を返して下さいと伯母さんには済みませんが嘘をつき、五円戴いた内で、三円伯母さんにお返し申し、お厨子を返して貰いましたから、弐円の金子は棟梁さんにお返し申しますから、あと三円のところは、何卒お慈悲に親子三人不憫と思召し、来年の正月までお貸しなすって下さる訳には参りますまいか、申し何うぞお願いでございます」 清「えゝ、それは誠にお気の毒だ、お前の云うことを聞いて胸が一杯になった、三円の金に困って、お父さんの遺物の守りを婆さんに取られ、旦那取をすると云わなければお母さんが歎くと云って、正直に二円返すから、あとの三円は貸して呉れろと、そう云われては貸さずには居られない、色気も恋も醒めてしまった、余り実地過るが、それじゃア婆が最う五円くすねたな、太え奴だなア、それはいゝが、その大事な観音様と云うのはどんな観音様だえ、お見せ」 ま「はい、親父の繁昌の時分に彫らせたものでございます」  と云いながら差出す。 清「結構なお厨子だ、艶消しで鍍金金物の大したものだ」  と開いて見れば、金無垢の観音の立像でございます。裏を返して見れば、天民謹んで刻すとあり、厨子の裏に朱漆にて清水助右衞門と記して有りますを見て、清次は小首を傾け。 清「此の観音さまは見た事があるが、慥か持主は上州前橋の清水という御用達で、助右衞門様のであったが、何うしてこれがお前の手に入ったえ」 ま「はい、私は其の清水助右衞門の娘でございます」  と云われ清次は大いに驚きましたが、此の者は何者でございますか、次に委しく申上げましょう。      五  家根屋の棟梁清次は、おまきが清水助右衞門の娘だと申しましたに恟りいたしまして、 清「えゝ、清水のお嬢様ですか、これはまアどうも面目次第もねえ」  とおど〳〵しながら、 清「まア、お嬢様、おまえさんはお少さい時分でありましたから、顔も忘れてしまいましたが、今年で丁度十四年前、私が前橋にくすぶっていた時、清水の旦那には一通りならねえ御恩を戴いた事がありましたが、あれだけの御身代のお娘子が、何うして裏長家へ入っていらっしゃいます、その眼の悪いのはお内儀でございやすか」 ま「はい〳〵七年以来微禄しまして、此様な裏長屋に入りまして、身上の事や何かに心配して居りますのも、七年前に父が東京へ買出しに出ましたぎり、今だに帰りませず、音も沙汰もございません故、母は案じて泣いて計り居りましたのが、眼病の原で、昨年から段々重くなり、此の頃はばったり見えなくなりましたから、弟と私と内職を致して稼ぎましても勝手が知れませんから、何をしても損ばかりいたし、お恥かしい事でございますが、お米さえも買う事が出来ません所から、お金の抵当に此処の伯母さんに此の観音様を取られましたから、母は神仏にも見離されたかと申して泣き続けて居りますから、どうか母の気を休めようと思い、旦那を取ると申しまして、実は伯母さんから観音様を取返したのでございます」 清「どうも誠にどうも思いがけねえ事で、水の流れと人の行末とは申しますが、あれ程な御大家が其様にお成りなさろうとは思わなかった、お父様は七年前国を出て、へいどうも、何しろお母さんにお目にかゝり、委しいお話も伺いますが、私は家根屋の清次と云って、お母さんは御存じでございやすが、此様な三尺に広袖ではきまりが悪いから、明日でも参ってお目にかゝりましょう」 ま「いゝえ、母は目が見えませんから知れません、お馴染ならば母に逢って、どうぞ力になって下さいまし」 清「そんなら一緒に参りましょう、とんでもねえ話だが、此処の婆がお前さんに金を拾円上げましたかえ」 ま「いゝえ、五円戴きました、三円お金の借りを返しまして弐円残って居りますから、あなたへ弐円お返し申したのでございます」 清「太え婆だ十円取って五円くすねたのだ仕様のねえ狡猾婆だ、そんなら御一緒にお前さんの家へ行きましょう」  とこれから二人連立って外へ出ると、一軒置いて隣は清水重二郎の家でございます。 ま「お母さん只今帰りました」 母「何処へ往ったのだえ」 ま「はい桂庵のお虎さんの所へ参りました」  と云いながら清次に向い。 ま「あなた、此方へお入り遊ばしまし」 清「えい御免なせえ」  と上って見ると、九尺二間の棟割長屋ゆえ、戸棚もなく、傍の方へ襤褸夜具を積み上げ、此方に建ってあります二枚折の屏風は、破れて取れた蝶番の所を紙捻で結びてありますから、前へも後へも廻る重宝な屏風で、反古張の行灯の傍に火鉢を置き、土の五徳に蓋の後家になって撮の取れている土瓶をかけ、番茶だか湯だかぐら〳〵煮立って居りまして、重二郎というおとなしい弟が母の看病をして居ります。 清「えゝ、お母さん〳〵」 母「はい、何方でがんすか」 ま「あの此の方はお虎さんの家に来ていらっしゃった家根屋の棟梁さんで、お母さんを知っていらっしゃいまして、何うしてこんな姿におなりだお気の毒な事だと云って、見舞に来て下すった、前橋にいた時分のお馴染だという事でございます」 母「はい、私は眼がわるくなりやんして、お顔を見ることも出来ませんが、何方でございましたか」 清「えゝ、お内室さんあんたはまアどうして此様にお成りなさいました、十四年前お宅で御厄介になりやした家根屋の清次でございやす」 母「おゝ、清次か、おゝ〳〵まアどうもまア、思いがけない懐かしい事だなア、此様に零落やしたよ、恥かしくって合す顔はございやせんよ」 清「えゝ御尤でございやす、あれだけの御身代が東京へ来て、裏家住いをなさろうとは夢にも私は存じやせんでした、お嬢様も少さかったから私も気が付かなかったが、観音様のお厨子に旦那のお名前があって分りましたが、承われば旦那には七年前お国を出たぎり帰らないとの事、とんだ訳でございやす、忘れもしやせん、私が道楽をして江戸を喰詰め前橋へまいって居って、棟梁の処から弁当を提げて、あなたの処へ仕事に往った時、私アあのくらいな土庇はねえと、いまだに眼に附いています、椹の十二枚八分足で、大したものだ、いまだに貴方のお暮しの話をして居りますが、あの時私ア道楽の罰で瘡をかいて、医者も見放し、棟梁の処に雑用が滞り、薬代も払えず、何うしたらよかろうと思ってると、旦那が手前の病気は薬や医者では治らねえから、是れから直に湯治に往け、己が二十両遣ると仰しゃってお金を下すった、其の時分の弐拾両はたいしたものだ、其の金を貰って草津へ往き、すっかり湯治をして帰りに沢渡へ廻り、身体を洗って帰って来た時、旦那が、清次、手前の病気の治るように此の観音様を信心して遣ったから拝めと、お前様もそう云って他人の私を子か何かのように親切にして下さいやして、誠に有難いと思い、其の時の御恩は死んでも忘れやせん、私アこれから東京へ帰ったが、此の時節に成りやしたから大阪へ往ったり、又少とばかり知る者があって長崎の方へ往って、くすぶって居て、存じながら手紙も上げず、御無沙汰をしやしたが、漸々此方へ帰り、今では鉄砲洲の新湊町に居り、棟梁の端くれをいたし、仕手方を使う身分に成りましたから、前橋の方へ御機嫌伺いにまいりましょうと思って居りやす所へ、嬉しい一生懸命で拝んだ観音様だから忘れは仕ません、その観音様から清水様のお嬢さんという事が分り、誠に不思議な事でございます、大した事も出来ませんが、是から先は及ばずながら力になります心持でございます、気を落してはいけません、確かりしておいでなさい、旦那は七年前東京へお出でなされ、お帰りのないのに捜しもしなさらないのかね」 母「はい、能くまア恩を忘れず尋ねておくんなさいました、今まで情を掛けた者はあっても、此方が落目になれば尋ねる者は有りませんが貴方も知ってる通り、段々世の中が変って来て、お屋敷がなくなったから御用がない所から、止せばえゝに、種々はア旦那どんも手を出したが皆な損ばかりして、段々身代を悪くしたんだア、するともう一旗揚げねえばなんねえと云って、田地も家も蔵も抵当とやらにして三千円の金を借り、其の金を持って唐物屋とか洋物屋とかを始めると云って横浜から東京へ買え出しに出たんだよ、ところが他に馴染の宿屋がねえと云って、春見丈助様は前橋様の御重役で、神田の佐久間町へ宿屋を出したと云うから、其処に泊っていて買え出しをすると云って、家を出たぎり帰らず、余り案じられて堪んねえから、重二郎を捜しにやった所が、此方へ来た事は来たが、直ぐ横浜へ往ったが、未だ帰らねえかと云われ、忰も驚いて帰り、手分をして諸方を捜したが、一向に知れず、七年以来手紙も来ねえからひょっと船でも顛覆えって海の中へ陥没ってしまったか、又は沢山金を持って居りやしたから、泥坊に金を奪られたのではないかと、出た日を命日と思っていたが、抵当に入れた田地家蔵は人に取られ、身代限りをして江戸へ来ても馴染がねえから、何をしても損をしたんだよ、貧乏の苦労をするせいか、とうとう終に眼は潰れ、孝行な子供二人に苦労を掛けやんす、清次どん力になって、どうぞ子供等二人を可愛がっておくんなさいよ」  と涙ながらに物語りましたから、清次も貰い泣きをして。 清「へい〳〵それはまアお気の毒な訳で、及ばずながら、何の様にもお世話を致しますが、私も貧乏で有りやすから大した事も出来ますめえが、あなた方三人ぐれい喰わせるのに心配は有りません」  と云いながら、おまきに向い。 清「お嬢さん、此処にいらっしゃるのは御子息様でございやすか、始めてお目にかゝります」 重「私は重二郎と申しやす不調法ものですが、どうか何分宜しく願います」 清「へい〳〵及ばずながらお世話致しましょう、私はもう帰りやす、沢山の持合せはございませんが此処に金が十円有りますから、置いてまいります、お足しには成りますめえが、又四五日の内に手間料が取れると持って来ます」 重「これはどうも戴いては済みません」  と推返すを又押戻して。 清「あれさ取って置いて下せえ、七年前に出た旦那が帰らねえのは不思議な訳だが、其処へ泊って買出しをすると云った、春見屋という宿屋が怪しいと思いますが、過去った事だから仕方がない、早く私が知ったらば、調べ方も有ったろうに、えゝ仕様がねえ、何しろ私は外に用がありますから、又近え内にお尋ね申しやす、時節を待っておいでなさい」 母「茶はないがお湯でも上げて、何ぞ菓子でも上げてえもんだが、貧乏世帯だから仕方がない、どうか又四五日内にお出でなすって下さい」 清「又良いお医者様が有ったらばお世話致します、お構いなすって下さいますな」  と云いながら立上るから、誠に有難うございますと娘と忰は見送ります。 清「左様なら」  と清次は表へ出て、誠にお気の毒だと、真実者ゆえ心配しながら、鉄砲洲新湊町へ帰ろうと思いますと、ちらり〳〵雪の花が降り出しまして、往来はぱったりと途絶え、夜も余程更けて居ります。川口町から只今の高橋の袂へかゝりますと、穿いて居りました下駄を、がくりと踏みかえす途端に横鼻緒が緩みました。 清「あゝ痛え〳〵、下駄を横に顛覆すと滅法界痛えもんだ、これだこれじゃア穿く事が出来ねえ」  と独語を云いながら、腰を掛るものがないから、河岸に並んで居ります、蔵の差かけの下で、横鼻緒をたって居りますと、ぴゅーと吹掛けて来る雪風に、肌が裂れるばかり、慄いあがる折から、橋の袂でぱた〳〵〳〵と団扇の音が致しまして、皺枯れ声で 商「鍋焼饂飩」  と呼んで居ります所へ、ぽかり〳〵と駒下駄穿いて来る者は、立派な男で装は臘虎の耳つきの帽子を冠り、白縮緬の襟巻を致し、藍微塵の南部の小袖に、黒羅紗の羽織を着て、ぱっち尻からげ、表附きの駒下駄穿き、どうも鍋焼饂飩などを喰いそうな装では有りませんが、ずっと饂飩屋の傍へ寄り。 男「饂飩屋さん一杯おくれ」 饂「へい只今上げます」  と云いながら顔を見合わせ、 饂「え是は」 男「大きに待遠だったろうな、もっと早く出ようと心得たが、何分出入が多人数で、奉公人の手前もあって出る事は出来なかった」 饂「待つのは長いもので、おまけに橋の袂だから慄え上るようで、拳骨で水鼻を摩って今まで待っていたが、雪催しだから大方来なかろう、そうしたら明日は君の宅へ往く積りだった」 男「此間君が己の宅へ、まア鍋焼饂飩屋の姿で、ずか〳〵入って来たから、奉公人も驚き、僕も困ったじゃアないか」 又「何で困る、君は今川口町四十八番地へあの位な構えをして、其の上春見と人にも知られるような身代になりながら、僕は斯様な不体裁だ、身装が出来るくらいなら君の処へ無心には往かんが、実は身の置処がなくって饂飩屋になった又作だ、こゝで千円の資本を借り、何か商法に取附くのだ、君も又貸したって、宜しいじゃアねえか」 丈「それも宜いが、郵便を遣すにも態と鍋焼饂飩屋又作と書かれては困るじゃねえか」 又「そうしなければ君が出て来ねえからだ、若し来なければ態と何本も〳〵郵便を遣る積りだ、まア宜いじゃねえか、あれだけの構えで、千円ぐらい貸しても宜い訳だ、元は一つ屋敷に居り、君は大禄を取り、僕は小身もの、御維新の後、君は弁才があって誠しやかに斯ういう商法を遣れば盛大に成ろうと云うから、僕が命の綱の金を君に預けた所、商法は外れ、困ってる所へ三千円の金を持って出て来た清水助右衞門を打殺し……」 丈「おい〳〵静かにしたまえ」 又「だから云やアしないから千円の金を貸したまえと斯う云うのだ」 丈「それが有るから斯うやって金を貸す方で、足手を運んで、雪の降るのに態々橋の袂まで来たのだから、本当に宜い金貸をもって仕合ではないか」 又「僕も金箱と思ってるよ、じたばたすれば巡査が聞付けて来るように態と大きな声をするぞ、事が破れりゃア同罪だ」 丈「静かに〳〵、生憎今日は晦日で金円が入用で、纒まった金は出来んが、此処へ五十円持って来たから、是だけ請取って置いてくれ、残金は来月五日の晩には遅くも十二時までに相違なく君の宅まで持って往くから待って居てくれたまえ」 又「だから百円だけ持って来てくれというに、刻むなア、五十円ばかりの破れ札だが、受取って置こう、そんなら来月五日の晩の十二時までに、宜しい心得た、千円だぜ」 丈「千円の所は遣るめえもんでもないが、君、助右衞門を殺した時三千円の預り証書を着服したろうから、あれを返して呉れなければいかんぜ」 又「そんなものは有りゃアしねえが、又君が軽く金を持って来て、此の外に百円か二百円遣るからと云えば、預り証書も出めえもんでもねえから、五日の晩には待ち受けるぜ」 丈「もう宅へ帰るか」 又「五十円の金が入ったから、直に帰ろう、えゝ寒かった、一緒に往こう」 丈「君は大きな声で呶鳴るから困るじゃアないか、僕は先へ往くよ」 又「どうせ彼方へ帰るんだ、一緒に往こう」  と鍋焼饂飩と立派な男と連れ立って往きます。此方に最前から図らず立聞きを致しております清次は驚きました。最も細かい事は小声ですから能くは分りませんが、清水助右衞門を殺した時に三千円を、という事を慥かに聞いて、さては三千円の金を持って出た清水の旦那を殺した悪人は、彼等二人に相違ない、何処へ行くかと、見え隠れに跡を附けてまいりますと、一人は川口町四十八番地の店蔵で、六間間口の立派な構の横町の方にある内玄関の所を、ほと〳〵と叩くと、内から開きを明け、奉公人が出迎えて中へ入る。饂飩屋は亀島橋を渡って、二丁目三十番地の裏長屋へ入るから、窃と尾いて往くと、六軒目の長屋の前へ荷を下して、がちりっと上総戸を明けて入るから、清次は心の内で、此奴此処に住んでるのか、不思議な事もあるものだ、清水重二郎様のお宅は此処から丁度四軒目で、一つ長屋に敵同志が住んで居ながら、是れでは知れない筈だ、よし〳〵五日の晩には見現わして、三千円の金を取返して、清水の旦那の仇を復さずに置くものか、と切歯をしながら其の夜は帰宅致しまして、十二月五日の夜明店に忍んで井生森又作の様子を探り、旧悪を見顕わすという所はちょっと一息つきまして、直ぐに申上げます。      六  さて重二郎は母の眼病平癒のために、暇さえあれば茅場町の薬師へ参詣を致し、平常は細腕ながら人力車を挽き、一生懸命に稼ぎ、僅かな銭を取って帰りますが、雨降り風間にあぶれることも多い所から歯代が溜りまして、どうも思うように往き立ちません所へ、清次から十円という纒まった金を恵まれましたので息を吹返し、まア〳〵これでお米を買うが宜しいとか、店賃を納めたが宜かろうとか、寒いから質に入れてある布子を出して来たら宜かろうと、母子三人が旱魃に雨を得たような、心持になり、久し振で汚れない布子を被て、重二郎が茅場町の薬師へお礼参りにまいりました。丁度十二月の三日の夕方でございます。薬師様のお堂へまいり、柏手を打って頻りに母の眼病平癒を祈り、帰ろうといたしますと、地内に宮松という茶屋があります。是れは棒の時々飛込むような、怪しい茶屋ではありません。其処から出て来た女は年頃三十八九で色浅黒く、小肥りに肥り、小ざっぱりとした装をいたし人品のいゝ女で、ずか〳〵と重二郎の傍へ来て、 女「もし貴方はあのなんでございますか、あの清水重二郎様と仰しゃいますか」 重「はい私は清水重二郎でございますが、あなたは何処のお方ですか」 女「あのお手間は取らせませんから、ちょっと此の二階までいらっしって下さいまし」 重「はい、なんでがんすか、私ア急ぎやすが、何処のお方でがんすえ」 女「いえ、春見のお嬢様でございますが、一寸お目にかゝりお詫び事をしたいと仰しゃってゞすが、お手間は取らせませんから、ちょっと此の二階へお上んなさいましよ」 重「先達ては御恵みを受け、碌々お礼も申上げやせんでしたが、今日は少々急ぎますから」  と云いながら往きにかゝるを引き留め。 女「お急ぎでもございましょうが、まアいらっしゃいまし」  と無理に手を取って、宮松の二階へ引上げました、重二郎も三円貰った恩義がありますから、礼を云おうと思ってまいりました。 女「此方へお這入んなさいまし」  と云われ重二郎は奥の小座敷へ這入ると、文金の高髷に唐土手の黄八丈の小袖で、黒縮緬に小さい紋の付いた羽織を着た、人品のいゝ拵えで、美くしいと世間の評判娘、年は十八だが、世間知らずのうぶな娘が、恥かしそうにちょい〳〵と重二郎の顔を見ては下を俯いて居まして、 いさ「此方へお這入り遊ばしまし、どうぞ〳〵此方へ」 重「此間は私お宅へ出やした時、あなたが可愛相だと云って金をお恵み下され、早速お返し申そうと思いましたが、いまだにお返し申す時節がまいりません、どうか遅くも押詰りまでには御返金致します心持ちで、お礼にも出ませんでした」 い「此間は折角お出で遊ばしましたが、父はあの通り無愛相ものですからお前さんにお気の毒な、まア素気ない事を申しましたから嘸お腹が立ちましたろうと、実は蔭でお案じ申して居りましたが、今日は貴方が薬師様へお参りに入っしゃるという事を聞きましたから、兼と二人で、のう兼」 兼「本当でございますよ。お嬢様が貴方のことを案じて、何うかして何処かでお目にかゝりたいもんだが、何うしたら宜かろうかといろ〳〵私にお聞きなさいますから、私も困りましたが、貴方のお宅の近所で聞いたら、貴方は間さえあれば薬師様へお参りにいらっしゃるとの事ゆえ、今日は貴方のお参りにいらっしゃるお姿をちらりと見ましたから、駈けて帰り、宅の方は宜いようにして、お嬢様と一緒に先刻から此処にまいって待って居りましたが、本当に宜くいらっしゃいました、嬢さまが頻りに心配なすっていらっしゃいますよ」 い「兼や、あの御膳を」  と云えば、おかねはまめまめしく。 兼「あなたお急ぎでございましょうが、嬢さまが一と口上げて、御膳を上げたいと仰しゃいますから」 重「私アお飯はいけません、お母が待って居ますから直ぐに帰ります」 兼「なんでございますねえ、本当にお堅いねえ、嬢様が余程なんしていらっしゃいますのに、貴方お何歳でいらっしゃいますえ」 重「私ア二十三でございます」 か「本当に御孝行ですねえ、嬢様は貴方の事ばかり云っていらっしゃいますよ、そうして嬢様はひとさわがしいがや〳〵した事はお嫌いで、余所の姉さん達のように俳優を大騒ぎやったりする事はお嫌いで、貴方の事ばかり云っていらっしゃいますから、本当に貴方、嬢様を可愛そうだと思って、お参りにお出でのたびに一寸逢って上げて下さい、此方でも首尾して待って居りますから、それも出来ずば、月に三度宛も嬢様に逢って上げてくださるように願います」 重「とんでもない事を仰しゃいます、お嬢様は御大家の婿取り前の独り娘、私ア賤しい身の上、たとえ猥らしい事はないといっても、男女七歳にして席を同じゅうせず、今差向いで話をして居れば、世間で可笑しく思います、若し新聞にでも出されては私ア宜うがんすが、あなたはお父様へ御不孝になりやんすから、そんな事の無い内に私ア帰ります」 兼「あなた、お厭やなら仕方がありませんが、嬢様何とか仰しゃいな、何故此方へお尻を向けていらっしゃいます、宅でばかり斯う云おう、あゝ云おうと仰しゃって本当に影弁慶ですよ、そうして人の前では何も云えないで、私にばかり代理を務めさせて、ほんとうに困りますじゃア有りませんか、ようお嬢様」 い「誠に申しにくいけれども、どうか御膳だけ召上ってください、若しお厭やならばお母様はお加減が悪くていらっしゃるから、お肴を除けて置いて、あのお見舞に上げたいものだねえ」 兼「あなた召上らんでも、お帰りの時重箱は面倒だから、折詰にでもして上げましょう、嬢様お話を遊ばせ、私は貴方のお母さんのお眼の癒るよう、嬢様の願いの叶うように、一寸薬師様へお代参をして、お百度を五十度ばかりあげて帰ってまいって、まだ早い様なれば、又五十度上げて来ます、直ぐに往って来ます」  と仲働のお兼が気をきかし、其の場を外して梯子を降りる、跡には若い同士の差向い、心には一杯云いたい事はあるが、おぼこ気の口に出し兼ね、もじ〳〵して居ましたがなに思いましたか、おいさは帯の間へ手を入れて取出す金包を重二郎の前に置き。 い「重さん、これは誠にお恥かしゅうございまして、少しばかりでございますが、お母さまが長い間お眼が悪く、貴方も御苦労をなさいますと承わりましたから、お足しになるようにと思いますが、思うようにも行届きませんが、これでどうぞ何かお母さんのお口に合った物でも買って上げて下さいまし、ほんの少しばかりでございますが、お見舞の印にお持ちなすって下さいまし」 重「へい〳〵此間はまア三円戴き、それで大きに私も凌ぎを附けやしたが又こんなに沢山金を戴いては私済みやせんから、これを戴くのは此間の三円お返し申した上のことゝ致しましょう」 い「そんなことを仰しゃいますな、折角持って来たものですからどうか受けてください、お恥かしい事でございますが、私は貴方を心底思って居りまして済みません、あなたの方では御迷惑でも、それは兼が宜く存じて居ります、此の間お別れ申した日から片時も貴方の事は忘れません」  と云いながら指環を抜取りまして、重二郎の前へ置き。 い「これは詰らない指環でございますが、貴方どうぞお嵌めなすって、そうして貴方の指環を私にくださいまし、あなた若し嵌めるのがお厭やなら蔵って置いてくださいまし、私は何も知りませんが、西洋とかでは想った人の指環を持って居れば、生涯其の人に逢う事がなくても亭主と思って暮すものだと申します、私はほんとうに貴方を良人と思って居りますから、どうぞこれを嵌めてください」  と恥かしい中から一生懸命に慄えながら、重二郎の手へ指環を載せ、じっと手を握りましたが、此の手を握るのは誠に愛の深いもので、西洋では往来で交際の深い人に逢えば互に手を握ります、追々開けると口吸するようになると云いますが、是は些と汚いように存じますが、そうなったら圓朝などはぺろ〳〵甞めて歩こうと思って居ります。今おいさにじっと手を握られた時は、流石に物堅き重二郎も木竹では有りませんから、心嬉しく、おいさの顔を見ますと、蕾の花の今半ば開かんとする処へ露を含んだ風情で、見る影もなき重二郎をば是ほどまでに思ってくれるかと嬉しく思い、重二郎も又おいさの手をじっと握りながら、 重「おいさゝん、今仰しゃった事がほんとうなら飛立つ程嬉しいが、只今も申す通り、私は今じゃア零落れて裏家住いして、人力を挽く賤しい身の上、お前さんは川口町であれだけの御身代のお嬢様釣合わぬは不縁の元、迚もお父さんが得心して女房にくれる気遣いもなければ、又私が母に話しても不釣合だから駄目だと云って叱られます、姉も堅いから承知しますめえ、と云って親の許さぬ事は出来ませんが、あなたそれ程まで思ってくださるならば、人は七転び八起きの譬で、運が向いて来て元の様になれんでも、切めて元の身代の半分にでも身上が直ったらおいささん、お前と夫婦に成りましょう、私も女房を持たずに一生懸命に稼ぎやすが、貴方も亭主を持たずに待って居てください」 い「本当に嬉しゅうございます、私は一生奉公をしても時節を待ちますから、お身を大事に重二郎さん、あなた私を見捨てると聴きませんよ」  と慄声で申しましたが、嬉涙に声塞り後は物をも云われず、さめ〴〵とし襦袢の袖で涙を拭いて居ります。想えば思わるゝで、重二郎も心嬉しく、せわ〳〵しながら。 重「私はもう帰りますが、今の事を楽みに時節の来るまで稼ぎやすよ」 い「御身代の直るように私も神信心をして居ります、どうぞお母様にお目にはかゝりませんが、お大事になさるように宜く仰しゃってくださいまし」 重「此の包は折角の思召でございますから貰って往きます」  と云っている処へお兼が帰ってまいり、 兼「もう明けても宜しゅうございますか、お早ければ最う一遍往ってまいります」  と云いながら隔の襖を明け、 兼「なんだかお堅い事ねえ、本当に嬢様は泣虫ですよ、お気が小さくっていらっしゃいますから、あなた不憫と思って時々逢って上げて下さいまし、あの最うお帰りですか、又お参りにいらっしゃって、間さえあれば毎日でも首尾を見て此処にいますから、時々逢って上げて下さいよ、どうも素気ないことねえ、表は人が通りますから、裏からいらっしゃいまし、左様なら」  と重二郎は宅へ帰りまして、母にも姉にも打明けて云われず、と云って問われた時には困りますから、其の指環を知れないように蔵う処はあるまいかと考え、よし〳〵と云いながら紙へくるんで腹帯の間へ挟んで、時節を待ち、真実なおいさと夫婦になろうと思うも道理、二十三の水の出花であります。お話変って、十二月五日の日暮方、江戸屋の清次が重二郎の居ります裏長屋の一番奥の、小舞かきの竹と申す者の宅へやってまいり、 清「竹、宅か」 竹「やア兄い、大きに御無沙汰をして、からどうも仕様がねえ、貧乏暇なしで、聞いておくんねえ、此間甚太ッぽうがお前さん世話アやかせやがってねえ、からどうも喧嘩っ早いもんだからねえ、尤も金次の野郎が悪いんでございやさアねえ、湯屋でもってからに金次の野郎が挨拶しずにぐんとしゃがむと、お前さん甚太っぽーの頭へ尻を載せたんでごぜいやす、そうすると甚太っぽーが怒って、下から突いたから前へのめって湯を呑んだという騒ぎで、此の野郎と云うのが喧嘩のはじまりで、甚太っぽーの顳顬を金次が喰取って酸っぺいって吐出したのです、後で段々聞いて見ると梅干が貼って有ったのだそうで、こりゃア酸ぺいねえ」 清「詰らねえ事を云ってるな、少し頼みがあるが、襤褸の蒲団と小さな火鉢へ炭団を埋けて貸してくれねえか、夫を人に知れねえ様に彼処の明店へ入れて置いてくれ」 竹「なんです、火でも放けるのかえ」 清「馬鹿ア云うなえ、火を放ける奴がある者か」  小舞かきの竹は勝手を知っていますから、明店の上総戸を明けて中へ這入り、菰を布き、睾丸火鉢を入れ、坐蒲団を布きましたから、其の上に清次は胡座をかき。 清「用があったら呼ぶから、もういゝや」 竹「時々茶でも持って来ようかねえ」 清「一生懸命の事だから来ちゃアいけねえ」  と云われ、竹は其の儘そっと出て往く。隣りは又作の住いですが、未だ帰らん様子でございます、暫くたつと、がら〳〵下駄を穿いて帰って参り、がらりとがたつきまする雨戸を明けて上へあがり、擦附木でランプへ火を点し、鍋焼饂飩の荷の間から縁のとれかゝった広蓋を出し、其の上に思い付いて買って来た一升の酒に肴を並べ、其の前に坐り、 又「何時まで待っても来んなア」  と手酌で初める所を、清次はそっと煙管の吸口で柱際の壁の破れを突つくと、穴が大きくなったから。破穴から覘いていますが、これを少しも知りませんで、又作はぐい飲み、猪口で五六杯あおり附け、追々酔が廻って来た様子で、旱魃の氷屋か貧乏人が無尽でも取ったというようににやり〳〵と笑いながら、懐中から捲出したは、鼠色だか皮色だか訳の分らん胴巻様の三尺の中から、捻紙でぎり〳〵巻いてある屋根板様のものを取出し、捻紙を解き、中より書附を出し、開いてにやりと笑い、又元の通り畳んで、ぎり〳〵巻きながら、彼方此方へ眼を附けていますから、何をするかと清次は見ていると、饂飩粉の入っています処の箱を持出し、饂飩粉の中へ其の書附様のものを隠し、蓋を致しまして襤褸風呂敷にて是を包み、独楽の紐など継ぎ足した怪しい細引で其の箱を梁へ吊し、紐の端を此方の台所の上り口の柱へ縛り附け、仰ぬいて見たところ、屋根裏が燻っていますから、箱の吊して有るのが知れませんから、先ずよしと云いながら、またぐび〳〵酒を呑んで居ます中に、追々夜が更けてまいりますと、地主の家の時計がじゃ〳〵ちんちんと鳴るのは最早十二時でございます。此の長家は稼ぎ人が多いゆえ、昼間の疲れで何処も彼もぐっすり寝入り、一際寂といたしました。すると路地を入いって、溝板の上を抜け足で渡って来る駒下駄の音がして又作の前に立ち止り、小声で、 男「又作明けても宜いか」 又「やア入りたまえ、速かに明けたまえ、明くよ」 男「大きな声だなア」  と云いながら、漸く上総戸を明け、跡を締め。 男「締りを仕ようか」 又「別に締りはない、たゞ栓張棒が有るばかりだが、泥坊の入る心配もない、此の如き体裁だが、どうだ」 男「随分穢いなア」 又「実に貧窮然たる有様だて」 男「大きに遅参したよ」 又「今日君が来なければ、些としょむずかしい事を云おうと思っていた」 春「大きな声だなア、隣へ聞えるぜ」 又「両隣は明店で、あとは皆稼ぎ人ばかりだから、十時を打つと直きに寝るものばかりだから、安心してまア一杯遣りたまえ、寒い時分だから」 春「さア約束の千円は君に渡すが、どうか此の金で取附いてどんな商法でも開きなさい、共に力に成ろうから、何でも身体を働いて遣らなくっちゃアいけんぜ、君は怠惰者だからいかん、運動にもなるから働きなさい、酒ばかり飲んでいてはいかんぜ、何でも身を粉に砕いて取附かんではいかん」 又「それは素よりだ、何時まで斯うやって鍋焼饂飩を売ってゝも感心しないが、これでも些とは資本が入るねえ、古道具屋へ往って、黒い土の混炉が二つ、行平鍋が六つ、泥の鍋さ、是は八丁堀の神谷通りの角の瀬戸物屋で買うと廉いよ、四銭五厘ずつで六つ売りやす、それから中段の箱の中へ菜を煠でて置くのだが、面倒臭いから洗わずに砂だらけの儘釜の中へ入れるのだ、それから饂飩粉を買いに往んだが、饂飩粉は一貫目三十一銭で負けてくれた、所で饂飩屋はこれを七玉にして売ると云うが、それは嘘だ実は九玉にして売るのだが、僕は十一にして売るよ、花松魚は紙袋へ入れて置くのだが、是も猫鰹節を細かに削ったものさ、海苔は一帖四銭二厘にまけてくれるよ、六つに切るのを八つに切るのだ、是に箸を添えて出す、清らかにしなければならんのだが、余り清らかでねえことさ、これでその日を送る身の上、行灯は提灯屋へ遣ると銭を取られるから僕が書いた、鍋の格好が宜しくないが、うどんとばかり書いて鍋焼だけは鍋の形で見せ、醤油樽の中に水を入れ、土瓶に汁が入っているという、本当に好くしても売れねえ、斯ういう訳で、あの寒い橋の袂でこれを売って其の日を送るまでさ、旧時は少々たりとも禄を食んだものが、時節とは云いながら、残念に心得て居ります、処へ君に廻り逢って大きに力を得た、其の千円で取附くよ」 春「千円は持って来たが、三千円の預り証書と引替に仕ようじゃないか」 又「よく預り証書〳〵と云うなア」 春「隠してもいかん、助右衞門を打殺して旅荷に拵えようとする時に、君が着服したに相違ない、隠さずに出したまえ」 又「有っても無くても兎も角も金を見ねえうちは証文も出ない訳さ」 春「そんなら」  と云いながら懐からずっくり取出すと。 又「有難え、えーおー有難い、是だけが僕の命の綱だ」 春「此間は何を云うにも往来中で、委しい話も出来なかったが、助右衞門の死骸はどうしたえ」 又「お宅から船へ積んで深川扇橋へ持って往き、猿田船へ載せ、僕が上乗をして古河の船渡から上って、人力を誂え、二人乗の車へ乗せて藤岡を離れ、都賀村へ来ると、ぶんと死骸の腐った臭いがすると車夫が嗅ぎ附け、三十両よこせとゆするから、遣るかわりに口外するなと云うと、火葬にすると云って、沼縁へ引込んで、葭蘆の茂った中で、こっくり火葬にして、沼の中へ放り込んだ上、何かの様子を知った人力車夫の嘉十、活して置いては後日の妨げと思い、簀蓋を取って打殺し、沼へ投り込んで、それから、どろんとなって、信州で其の年を送って、石川県へ往って三年ばかり経って大阪へまいった所、知ての通り芸子舞子の美人揃いだからたまらない、君から貰った三百円もちゃ〳〵ふうちゃさ、止むを得ず立帰った所が、まア斯ういう訳で取附く事が出来ねえから、鍋焼饂飩と化けてると、川口町に春見氏とあって河岸蔵は皆な君のだとねえ、あのくれいになったら千円ぐらいはくれても当然だ」 春「金は遣るから預り証書を出したまえよ」 又「無いよ、どうせ人を害せば斬罪だ、僕が証書を持ってゝ自訴すれば一等は減じられるが、君は逃れられんさ、宜しいやねえ、まア宜いから心配したもうな」 春「出さんなら千円やらんよ」 又「だって無いよ、さア見たまえ」  と最前預かり証書は饂飩粉の中へ隠しましたゆえ平気になり、衣物をぼん〳〵取って振い、下帯一つになって。 又「此の通り有りゃアしない、宅も狭いから何処でも捜して見たまえ」  と云われ春見も不思議に思い、あの証書を他へ預けて金を借るような事は身が恐いから有るまいが、畳の下にでも隠して有ろうも知れぬから、表へ出してやって、後で探そうと思い。 春「まア宜い、仕方がないが、斯う家鴨ばかりでは喰えねえ、向河岸へ往って何か肴を取って来たまえ」  と云いながら、懐中から金を一円取出して又作の前へ置く。 又「これは御散財だねえ千円の金を持って来た上で肴代を出すとは、悪事をした報いだ」  と云いながら出て往く、跡にて春見は家内を残らず探したが知れません。何処へ隠したか、何処へ置いて来たか、穴でも掘って埋けてあるのではないか、床下にでも有りはしないか、何しろ彼奴の手に証書を持たして置いては、千円遣っても保つ金ではない、遣い果して又後日ねだりに来るに違いない、是が人の耳になれば遂に悪事露顕の原だから、罪なようだが、彼奴を殺してしまい此家へ火を放け、証書も共に焼いてしまうより外に仕様がない、又作を縊り殺し、此の家へ火を放ければ、又作は酒の上で喰い倒れて、独身者ゆえ無性にして火事を出して焼死んだと、世間の人も思うだろうから、今宵又作を殺して此の家へ火を放けようと、悪心も増長いたしましたもので、春見は思い謀って居りますところへ、又作が酒屋の御用を連れて帰ってまいり。 又「大きに御苦労、平常己が借りがあるものだから、番頭めぐず〳〵云やアがったが、今日は金を見せたもんだから、直ぐよこしやアがった、肴も序でに御用に持たして来たよ、大きに御苦労だった、毎もは借りるが今日は現金だ、番頭に宜く云ってくんな」  と云いながら上へ上り、是から四方山の話を致しながら、春見は又作に盞を差し、自分は飲んだふりをして、あけては差すゆえ、又作はずぶろくに酔いました。 又「大きに酩酊致した、あゝ好い心持だ、ひどく酔った」 春「君、僕も酩酊致したから最う立ち帰るよ、千円の金は宜しいかえ、確に渡したよ」 又「宜しい、金は死んでも離さない、宜しい、大丈夫心配したもうな」 春「それじゃア締りを頼むよ」  と云うと、又作は横に倒れるを見て、春見は煎餅のような薄っぺらな損料蒲団を掛けて遣る中に、又作はぐう〳〵と巨蟒のような高鼾で前後も知らず、寝ついた様子に、春見は四辺を見廻すと、先程又作が梁へ吊した、細引の残りを見附け、それを又作の首っ玉へ巻き附け、力に任せて縊附けたから、又作はウーンと云って、二つ三つ足をばた〳〵やったなり、悪事の罰で丈助のために縊り殺されました。春見は口へ手を当て様子を窺うとすっかり呼吸が止った様子ゆえ、細引を解き、懐中へ手を入れ、先刻渡した千円の金を取返し、薪と木片を死人の上へ積み、縁の下から石炭油の壜を出し、油を打ッ注け、駒下駄を片手に提げ、表の戸を半分明け、身体を半ば表へ出して置いて、手らんぷを死骸の上へ放り付けますと、見る〳〵内にぽっ〳〵と燃上る、春見は上総戸を閉てる間もなく跣足の儘のめるように逃出しました。する内に火は㷔々と燃え移り、又作の宅は一杯の火に成りましたが、此の時隣りの明店にいた清次は大いに驚き、まご〳〵しては焼け死ぬから、兎も角も眼の悪い重二郎のお母に怪我があってはならんと、明店を飛出す、是から大騒動のお話に相成ります。      七  西洋の人情話の作意はどうも奥深いもので、証拠になるべき書付を焼捨てようと思って火を放けると、其の為に大切の書付が出るようになって居りますが、実に面白く念の入りました事で、前回に申上げました通り、春見丈助は井生森又作を縊り殺して、死骸の上に木片を積み、石炭油を注ぎ掛けて火を放けて逃げますと云うのは、極悪非道な奴で、火は一面に死骸へ燃え付きましたから、隣りの明店に隠れて居りました江戸屋の清次は驚きましたが、通常の者ならば仰天して逃げ途を失いますが、そこが家根屋で火事には慣れて居りますから飛出しまして、同じ長家に居る重二郎の母を助けようと思ったが、否々先程又作が箱の中へ入れて隠した書付が、万一として彼の三千円の預り証書ではないか、それに就ては何卒消されるものなら長家の者の手を仮りて消し止めたいと思い、取って返して突然又作の家を明けると、火はぽッ〳〵と燃上りまして火の手が強く、柱に縛付けてあった細引へ火が付きますと、素より年数の経って性のぬけた細引でございますから、焼け切れますると、彼の箱が一つ竈へ当り、其の機みに路地へ転げ落ちましたから、清次はいや是だと手早く其の箱を抱えて、 清「竹え、長家から火事が出た、消せ〳〵」  と云って呶鳴りましたから、長家の者が出てまいり揉み消しましたから、火事は漸々隣りの明家へ付いたばかりで消えましたが、又作は真黒焦になってしまいましたけれども、誰あって春見丈助が火を放けたとは思いませんので、どうも食倒れの奴を長家へ置くのが悪いのだ、大方又作は食い酔ってらんぷを顛倒したのだろう、まア仕方がないと云うので、届ける所へ届けて事済みに成りました。左様な事と存じませんのは、親に似ません娘のおいさで、十二歳の時に清水助右衞門が三千円持って来た時、親父が助右衞門を殺して其の金を奪取り、それから取付いてこれだけになったのは存じて居りますし、また助右衞門の家は其の金を失ってから微禄いたして、今は裏家住いするようになったが、可愛相にと敵同志でございますが、重二郎と言い交せましたのは、悪縁で、おいさは何うかお母さんの眼が癒ればいゝがと、薬師様へ願掛をして居ります。丁度十一日の事で、娘は家を脱け出して日暮方からお参りに往きました。此方では重二郎が約束はしませんが、おいさが一の日は内の首尾が出いゝと云ったこともあるし、今日往ったら娘に逢えようかと思って、薬師様へまいり、お百度を踏んで居りますと、お兼という春見の女中が出てまいりまして、まア此方へと云うので、宮松の二階へ連れて往って。 兼「誠に今日はお目にかゝれるだろうと思って来ましたが、お間が宜くって、ねえお嬢様」 重「今日は私も少しお目にかゝりたいと思っていましたが、少し長屋に騒動があって、どうも」 兼「そうですって、あなたのお長屋から火事が出ましたって、お嬢さんも御心配なさいますから、あの御近所へ出て様子を聞きましたが、それでもマア直に消えましたって、大きに安心しましたよ」 重「あの私も少しお話がしたい事がありますがあんたのお名は何とか申しましたっけねえ」 兼「はい私はかねと申しますので」 重「どうかお嬢様に少しお話がありますから、あなたは少し此処へお出でなさらねえように願いたいもので」 兼「今度は貴方の方からそう仰しゃいますように成りましたねえ、今度は二百度を踏んで来ますよ」  と云いながら出て往きますと、後は両人が差向いで いさ「誠に此の間は失礼をいたしました、お母様のお眼は如何でございます」 重「此間貰った十円の金と指環はあなたへお返し申しますから、お受け取りなすって下さいまし」 い「あれ、折角お母様に上げたいと思って上げたのに、お返しなさるって、そうして指環も返そうと仰しゃるのは、貴方お気に入らないのでございますか」 重「此間も云う通り、釣合わぬは不縁の元、零落果てた此の重二郎、が貴方と釣合うような身代になるのはいつの事だか知れません、あなたがそれまで亭主を持たずには居られますめえし、私だっても年頃になれば女房を持たねえ訳にはいきません、此間あんたが嬉しい事を云ったから女房にしようと約束はしたが、まだ同衾をしねえのが仕合せだから、どうか貴方はいゝ所から婿を取って夫婦中よくお暮しなすって、私が事はふッつりと思い切って下さらないと困る事がありますから、何卒思い切って下さい、よう〳〵」 い「はい〳〵」  と云って重二郎の顔を見詰めて居りましたが、ぽろりと膝へ泪をこぼして、 い「重さん、私は不意気ものでございますから、貴方に嫌われるのは当前でございますが、たとえ十年でも二十年でも亭主はもつまい、女房はもたないと云い交せましたから、真実そうと思って楽んで居りましたのに、貴方がそう仰しゃれば私は死んでしまいますが、万一許嫁の内儀さんでも田舎から東京へ出て来てそれを女房になさるなら、それで宜しゅうございますから、私は女房になれないまでも御飯炊にでも遣ってあなたのお側にお置きなすって下さいまし」 重「勿体ない、御飯炊どころではないが云うに云われない訳があって、あんたを女房にする事は出来ません、私もお前さんのような実意のあるものを女房にしたいと思って居りましたが、訳があってそう云うわけに出来ないから、どうか私が事は思い切り、良い亭主を持って、死ぬのなんのと云うような心を出さないで下さい、お前さんが死ぬと云えば私も死なゝければならないから、どうか思い切って下さい」 い「お前さんの御迷惑になるような事なら思切りますけれど、お前さんの御迷惑にならないように死にさえすればようございましょう」 重「どうかそんな事を云わねえで死ぬのは事の分るまで待って下さい、後で成程と思う事がありますから、どうか二三日待って下さい、久しく居るのも親の位牌に済みませんから」  と云いながら起とうとするを、 い「まア待って下さい」  と袖に縋るのを振切って往きますから、おいさは欄干に縋って重二郎を見送りしまゝ、ワッとばかりに泣き倒れました所へ、お兼が帰ってまいり、漸々労わり連立って家へ帰りました。すると丁度其の暮の十四日の事で、春見は娘が病気で二三日食が少しもいかないから、種々心配いたし、名人の西洋医、佐藤先生や橋本先生を頼んで見て貰っても何だかさっぱり病症が分らず、食が少しもいきませんから、流石の悪者でも子を思う心は同じ事で、心配して居ります所へ。 男「えゝ新湊町の屋根屋の棟梁の清次さんという人が、あなたにお目にかゝりたいと申して参りました」 丈「なんだか知れないが病人があって取込んで居るから、お目にかゝる訳にはいかないから、断れよ」 男「是非お目にかゝりたいと申して居ります」 丈「なんだかねえ、此間大工の棟梁にどうも今度の家根屋はよくないと云ったから、大方それで来たのだろう、どんな装をして来たえ、半纒でも着て来たかえ」 男「なアに整然とした装をして羽織を着てまいりました」 丈「それではまア此方へ通せ」  と云うので下男が取次ぎますと、清次が重二郎を連れて這入って来ましたから、重二郎を見るとお兼が奥へ飛んで来まして。 兼「お嬢様、重さんが家根屋さんを連れて来ましたよ、此間あなたに愛憎尽しを云ったのを悪いと思って来たのでしょう」 い「そうかえ、そんなら早く奥の六畳へでもお通し申して逢わしておくれ」 兼「そんな事を仰しゃってもいけません、私が今様子を聞いて来ますから」  と障子の外に立聞きをします時、 丈「さア此方へ〳〵」 清「へい新湊町九番地にいる家根屋の清次郎と申します者で、始めてお目に懸りました」 丈「はい始めて、私は春見丈助、少し家内に病人があって看病をしたので、疲れて居りますからこれ火を上げろ、お連があるならお上げなさい」 清「えゝ少し旦那様に内々お目にかゝってお話がしとうございまして参りましたが、お家の方に知れちゃア宜しくありませんから、どうか人の来ねえ所へお通しを願いたいもので」 丈「此間大工の棟梁が来て、家根の事をお話したから、其の事だろうと思っていましたが、何しろお話を聞きましょう、これ胴丸の火鉢を奥の六畳へ持って往け」 清「旦那、まアお先へ」  と先きへ立たせて跡から重二郎の尾いて来ることは春見は少しも知りません。 丈「これよ、茶と菓子を持って来いよ、かすてらがよいよ、これ〳〵、何か此の方が内々の用談があってお出でになったのだから、皆な彼方へ往って、此方へ来ないようにするがいゝ、お連れがあるようですね」 清「重二郎さん、此方へお這入り」 重「誠に久しくお目にかゝりませんでした」 丈「おや〳〵清水の息子さんか、此間は折角お出でだったが、取込んでいて失敬を云って済みません、何かえ清次さんのお連かえ」 清「旦那え、私が前橋にくすぶって居りましたとき、清水さんの御厄介になりました、その若旦那で、今は零落れて直き亀島町にお出でなさるのを聞いて驚きましたから、其様にぐず〳〵していないで、春見様は直き此の向うにいて立派な御身代になっておいでなさるから、お父さんがお預け申した金を返してお貰い申すがいゝじゃないかと云っても、若いお方ですから、ついおっくうがってお在なさるから、今日は私がお連れ申しましたが、どうか七年前の十月の二日にお預け申した三千円の金はお返しなすって下さい」 丈「なに三千円、僕が預かった覚えはないが、どう云う訳で重二郎殿が清次さんお前さんにそんな事を云ったのだえ」 清「へい、段々旦那も身代が悪くなって、商法を始めるのに就いて高利を借り三千円の金を持って東京へ買出しに出て来て、馴染の宿屋もねえ事ですから、元前橋で御重役をなすった貴方が、東京へ宿屋を出してお在なさるから、彼方へ行って金を預けて買出しをすれば大丈夫だと、宅へ云置いて出て来た儘帰って来ねえで、素より家蔵を抵当にして借りた高利だから、借財方から責められ、重さんのお母さんが心配して眼が潰れて見る影もねえ御難渋、私も見かねて貴方へ預けた金を取りに来やした、預けたに違えねえ三千円、元は大小を挿した立派な貴方、開化になっても士族さんは士族さん、殊にこれだけの身代で、預ったものを預からないと云っては御名義にも係わりますから、旦那、返して遣って下せえな」 丈「お黙んなさい、預かった覚えは毛頭ありません、何を証拠に三千円の金を、私が何んで預りましょう、殊に七年あと清水さんが私の所へ参った事はありません」 重「それは些とお言葉が違いましょう、私が七年前に親父を捜しに来た時、成程清水助右衞門が来たと云った事があるが、貴方はお侍さんにも似合いませんねえ」 丈「成程それは来ました、さア来ましたが、直に横浜へ往くと云うから、まア一晩泊ったら宜かろうと云ったが聞き入れず、直に出て往きなすって泊りはせんと云いました」 重「それだからさ」 清「まア黙ってお出でなせえ、旦那え、今三千円の金があれば清水の家も元のように立ちやす、そうすれば貴方も寝覚がいゝから、どうか返して下せえ、親子三人、浮び上ります」 丈「浮び上るか沈んでしまうか知りませんが、七年前預けたものを今まで取りに来ない筈はありますまい、殊に十円や廿円の金じゃアなし、三千円という大金ではないか」 清「旦那静かになせえ証拠のないものは取りに来ません、三千円確かに預かった、入用の時は何時でも返えそうという証書があります」 丈「なに証書がある、証書があれば見ましょう〳〵」  と春見は心の中に思うのに、又作を殺し、家まで焼いてしまったから、証書のある筈はないと思いまして、気強く、 丈「さア見ましょう〳〵」 清「旦那、これにあります」 と家根板のような物に挟んである証書を出して、春見に手渡にしませんで、 清「旦那これが証拠でございます」  と云われた時は流石の春見も面色土の如くになって、一言半句も有りません。 清「旦那え、これだけ立派な証拠があるのに、年月が経っても返さなければ泥坊より苛いじゃねえか、難渋を云って頼んでも理に違っちゃアこれ程も恵まねえ世の中じゃアありませんか、何故貴方預かった覚えはないと仰しゃいました」 丈「お静かにして下さい、〳〵、実は預かったに違いないが、清水殿が金を預けて横浜へ参り、年月を経っても取りに来ないところから、段々僕も微禄して此の三千円があれば元の様になれるかと思い、七年経っても取りに来ないからよもや最う取りに来やアしまいと心得て、人間の道にあるまじき、人の預けた金を遣い、預かった覚えはないと云ったのは重々申訳がないが、只今早速御返金に及ぶから、何卒男と見掛けてお頼み申すから棟梁さん内聞にして呉れまいか」 清「そりゃア宜しゅうございますが、品に寄ったら訴えなければならねえが、旦那、無利息じゃアありますまい、貴方も銀行や株式の株を幾許か持っていなさるお身の上だから、預金の取扱い方も御存じでしょうが、此の金を預けてから七年になるから、七朱にしても、千四百七十円になりますが、利息を付けて貰わなけりゃアならねえぜ」 丈「至極御尤もでござるから、只今直ぐに上げます、少しお待ち下さい」  と直ぐに立って蔵へまいり、三千円の外に千四百七十円耳を揃えて持ってまいり、 丈「へい、どうかお受取り下さい」  と出しましたから、数を改めて、 清「重さんおしまいなさい」  と云うから、重二郎は予て用意をして来た風呂敷へ金包を包んで腰へしっかり縛り付けました。 清「旦那金は確に受取りましたから証書はお返し申しますが、金ばかりじゃア済みますめえぜ」 丈「三千円返して、証文の面に利子を付けるという事はないが、此方の身に過りがあるから、利子まで付けて遣ったが、外に何があるえ」 清「外に何も貰うものはねえが、此の金を預けた清水助右衞門さんの屍骸を返して貰えてえ」  と云われて春見は恟りして思わず後へ下ると、清次は膝を進ませて、 「お前さんが七年前に清水さんを殺した其の白骨でも出さなけりゃア、跡に残った女房子が七回忌になりやしても、訪い吊いも出来やせん」  と云いながら、ぐるりっと上げ胡坐を掻きましたが、此の納りは何う相成りましょうか、次回までお預かりにいたしましょう。      八  引続きまする西洋の人情噺も、此の一席で満尾になります故、くだ〳〵しい所は省きまして、善人が栄え、悪人が亡び、可愛いゝ同志が夫婦になり、失いました宝が出るという勧善懲悪の脚色は芝居でも草双紙でも同じ事で、別して芝居などは早分りがいたしますが、朝幕で紛失した宝物を、一日掛って詮議を致し、夕方には屹度出て、めでたし〳〵と云って打出しになりますから、皆様も御安心でお帰りになりますが、何も御見物と狂言中の人と親類でも何でもないに、そこが勧善懲悪と云って妙なもので、善人が苦しむ計りで悪人が終いまで無事でいましては御安心が出来ません。然し善という事はむずかしいもので、悪事には兎角染り易いものでござります。彼の春見丈助利秋は元八百石も領しておりました立派な侍でありながら、利慾のため人を殺して奪いました其の金で、悪運強く霊岸島川口町で大した身代になりましたが、悪事というものは、何のように隠しても隠し遂せられないもので、どうして彼の人があのように金が出来たろう、何だか訝しいねえ、此の頃こういう事を聞いたが、万一したらあんな奴が泥坊じゃアないか知らんと、話しますを聞いた奴は、直にそれを泥坊だと云い伝え、又それから聞いた奴は尾に鰭をつけて、彼れは大泥坊で手下が三百人もあるなどと云うと、それから探索掛の耳になって、調べられると云うようになるもので、天に口なし、人を以て云わしむるという譬の通りでございます。彼の春見は清水助右衞門の悴重二郎がいう通り、利子まで添えて三千円の金を返したのは、横着者ながら、どうか此の事を内聞にして貰いたいと、それがため別に身代に障る程の金高でもありませんから、清く出しましたが、家根屋の清次が助右衞門の死骸を出せと云うに驚き内心には何うして清次が彼の助右衞門を殺した事を知っているかと思い、身を慄わせて面色変り、後の方へ退りながら小声になって。 丈「清さん、あゝ悪い事は出来ないものだ、其の申訳は春見丈助必らず致します、どうか此処では話が出来ませんから、蔵の中でお話を致します、他へ洩れんようにお話をいたしたいから、一緒にお出でを願います」 清「蔵の中でなくても此処でも宜いじゃアありませんか」 丈「此処でも宜しいが、奉公人に知れんようにしたい、娘も今年十八になるから、此の事を話せば病にも障ろうと思って、誠に不憫でござる、是非お話申したい事がございますから、どうか蔵の中へお出で下さい」 清「参りやしょう〳〵」 丈「どうか事静かに願います、決して逃げ匿れは致しません」  と云いながら先に立って蔵の戸をがら〳〵と開けて内へ入りましたから、清次は腹の中で思うに、春見は元侍だから刄物三昧でもされて、重二郎に怪我でもあってはならんと思いまして、煙草盆の火入れを火の入ったまゝ片手に提げ後へ隠して蔵の中へ入りましたから、重二郎も恐る〳〵入りますと、春見は刀箪笥から刀を出し、此方の箪笥から紋付の着物を出して、着物を着替え、毛布を其処へ敷き延べて、 丈「只今申訳を致します」  と云って刄物を出したから、清次は切り付けるかと思い、覚悟をしていますと、春見は突然短刀を抜いて腹へ突き立ってがばりっと前へのめったから、清次は直に春見の側へ往こうと思ったが、此奴死んだふりをしたのではないかと思うゆえ、 清「言訳をしようと思って腹を切んなすったかえ」 丈「さゝ人を殺し多くの金を奪い取った重罪の春見丈助、縲絏に掛っては、只今は廃刀の世なれども是まで捨てぬ刀の手前、申訳のため切腹しました、臨終の際に重二郎殿、清次殿御両人に頼み置きたき事がござる、悪人の丈助ゆえ、お聞き済みがなければ止むを得ざれど、お聞届け下されば忝ない、清次殿どうして貴殿は僕が助右衞門殿を殺したことを御存じでござるな」 清「頼みと云うのはどう云う事か知れねえが、其の頼みによっては又旦那に話して聞きもしようが、言訳に困って腹を切るのは昔のことだが、どうもお前さんは太い人だねえ、清水の旦那を殺し、又作という奴に悪智を授けて、屍骸を旅荷に造り、佐野の在へ持って往き、始末をつけようとする途中、古河の人力車夫に嗅ぎ付けられ、沼縁へ持って往って火葬にした事は、私ゃア能く知ってるぜ」 丈「さゝゝそれがさ、天命とは云いながら、知れ難い事を御存じあるのは誠に不思議でござるて」 清「その又作という奴が、三千円の証書をもっているから、又作を殺して、それを取ろうとする謀計の罠を知って、実はお前さんが又作を縊り殺し、火を放けて逃げた時、其の隣の明店で始末を残らず聞いていたのだ、何んと悪い事は出来ねえものだねえ」 丈「どうも左もなくば知れる道理はござらぬが、それが知れると云うのは天命遁れ難い訳でござる」 清「その又作が火葬にして沼の中へ放り込んだ白骨を捜し出すか、出る所へ出るか、二つに一つの掛合に来たのに、腹を切って私に頼むと云うのは一体どういう頼みですえ」 丈「さればでござる、御存じの通りいさと申す手前一人の娘が、如何なる悪縁か重二郎殿を思い初めましたを、重二郎殿が親の許さぬ淫奔は出来ぬと仰しゃったから、一室にのみ引籠り、只くよ〳〵と思い焦れて遂に重き病気になり、病臥して居ります、斯る次第ゆえ、此の始末を娘が聞知る時は、憂に迫り病重って相果てるか、願の成らぬに力を落し、自害をいたすも知れざるゆえ、何卒此の事ばかりは娘へ内聞にして下さらば、手前の此の身代は重二郎殿へ残らず差上げます、これ此の身代は助右衞門殿の三千円の金から成立ったものなれば、取りも直さず、皆助右衞門殿が遺された財産で、重二郎殿が所有たるべきものでござる、諸方へ貸付けてある金子の書類は此の箪笥の引出にあって、娘いさが残らず心得て居ります、敵同志の此の家の跡を続ぐのはお厭であろうが重二郎殿、我なき後は他に便りなき娘のおいさを何とぞ不憫と思召され、女房に持ってはくださるまいか、いやさ敵同志の丈助の娘を女房に持たれまいが、さゝ御尤もでござるが彼は我実子にあらず、我剣道の師にて元前橋侯の御指南番たりし、荒木左膳と申す者の娘の子なり」 清「ふう、それを何うしてお前さんの娘にはしなすったえ」 丈「さゝ其の仔細お聞き下され」  と苦しき息をつきまして、 丈「今を去ること十九年以前、左膳の娘花なる者が、奥向へ御奉公中、先殿様のお手が付き懐妊の身となりしが、其の頃お上通りのお腹様嫉妬深く、お花を悪み、遂に咎なき左膳親子は放逐を仰付けられ、浪々中お花は十月の日を重ね、産落したは女の子、母のお花は産後の悩みによって間もなく歿せしため、跡に残りし荒木左膳が老体ながらも御主君のお胤と大事にかけて養育なせしが、其の後左膳も病に臥し、死する臨終に我を枕元に招き、我が亡き跡にて此の孫を其の方の娘となし、成長の後身柄ある家へ縁付けくれ、頼む、と我師の遺言、それよりいさを養女となせしが、娘と申せど主君のお胤なれば、何とぞ華族へ縁付けたく、それに付ても金力なければ事叶わずと存ぜしゆえ、是まで種々の商法を営みしも、慣れぬ事とて皆な仕損じ、七年前に佐久間町へ旅人宿を開きし折、これ重二郎殿、君の親御助右衞門殿が尋ね来て、用心のため預けられた三千円の金を見るより、あゝ此の金があったなら我望の叶う事もあらんと、そゞろに発りし悪心より人を殺した天罰覿面、斯る最後を遂げるというも自業自得、我身は却って快きも、只不憫な事は娘なり、血縁にあらねば重二郎どの、女房に持ってくださらば心のこさず臨終いたす、お聞済くだされ」  と血に塗れたる両手を合せ、涙ながらに頼みます恩愛の情の切なるに、重二郎と清次と顔を見合わせて暫く黙然といたして居りますと、蔵の外より娘のおいさが、網戸を叩きまして、 い「申し、清次さん、此所開けて下さいまし」 清「おゝ誰だえ」 い「はい、いさでござります、どうぞ開けて、死目に一度逢わせてください」  というから、清次は慌てゝ戸を開けますと、おいさは転げ込んで父の膝に縋り付き、泣倒れまして、 い「もうしお父様、お情ない事になりました、生の親より深い御恩を受けました上、斯ういう事になりましたも皆な私を思召しての事でございますから、皆様どうぞ代りに私を殺して、お父様をお助けなされて下さいまし」  と嘆く娘を丈助は押留め。 丈「あゝこれ、お前を殺すくらいなら、彼の様な悪い事はいたさぬわい、只今も願う如く、予てお前の望みの通り重二郎殿と末長う夫婦になって、我が亡後の追善供養を頼みます、申し御両君如何でございます」 清「ふう、どうして重二郎さんに此の家の相続が出来ますものかね」 重「それに貴方が変死した後で、お上への届けもむずかしゅうござりましょう」 丈「その御心配には及びませぬ、と申すは七ヶ年以前、貴君の親御より十万円恩借ありて、今年返済の期限来り、万一延滞候節は所有地家蔵を娘諸共、貴殿へ差上候と申す文面の証書を認めて、残し置き、拙者は返金に差迫り、発狂して切腹致せしとお届けあらば、貴殿へ御難義はかゝりますまい」  と云いながら硯箱を引寄せますゆえ、おいさは泣々蓋を取り、泪に墨を磨り流せば、手負なれども気丈の丈助、金十万円の借用証書を認めて、印紙を貼って、実印を捺し、ほッ〳〵〳〵と息をつき、 丈「臨終の願いに清次殿、お媒人となって、おいさと重二郎どのに婚礼の三々九度、此所で」  と云う声もだん〳〵と細くなりますゆえ、二人も不憫に思い、蔵前の座敷に有合う違棚の葡萄酒とコップを取出して、両人の前へ差出せば、涙ながらにおいさが飲んで重二郎へ献しまするを見て、丈助は悦び、にやりと笑いながら。 丈「跡方は清次どのお頼み申す早く此の場をお引取りなされ」  と云いつゝ短刀を右手の肋へ引き廻せば、おいさは取付き嘆きましたが、丈助は立派に咽喉を掻切り、相果てました。それより早々其の筋へ届けますと、証書もありますから、跡方は障りなく春見の身代は清水重二郎所有となり、前橋竪町の清水の家を起しましたゆえ、母は悦びて眼病も全快致しましたは、皆な天民の作の観音と薬師如来の利益であろうと、親子三人夢に夢を見たような心地で、其の悦び一方ならず、おいさを表向に重二郎の嫁に致し、江戸屋の清次とは親類の縁を結ぶため、重二郎の姉おまきを嫁に遣って、鉄砲洲新湊町へ材木店を開かせ、両家ともに富み栄え、目出たい事のみ打続きましたが、是というも重二郎同胞が孝行の徳により、天が清次の如き義気ある人を導いて助けしめ、遂に悪人亡びて善人栄えると申す段切に至りましたので、聊か勧善懲悪の趣意にも叶いましょうと存じ、長らく弁じまして、嘸かし御退屈でござりましたろうが、此の埋合せには、又其の内に極面白いお話をお聞に入れる積りでござりますれば、相変らず御贔屓を願い上げます。 (拠若林玵藏、伊藤新太郎筆記) 底本:「圓朝全集 巻の九」近代文芸資料複刻叢書、世界文庫    1964(昭和39)年2月10日発行 底本の親本:「圓朝全集 巻の九」春陽堂    1927(昭和2)年8月12日発行 ※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。 ただし、話芸の速記を元にした底本の特徴を残すために、繰り返し記号はそのまま用いました。 また、総ルビの底本から、振り仮名の一部を省きました。 底本中ではばらばらに用いられている、「其の」と「其」、「此の」と「此」、「彼の」と「彼」は、それぞれ「其の」「此の」「彼の」に統一しました。 また、底本中では改行されていませんが、会話文の前後で段落をあらため、会話文の終わりを示す句読点は、受けのかぎ括弧にかえました。 入力:小林 繁雄 校正:かとうかおり 2001年1月8日公開 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。