厳島合戦 菊池寛 Guide 扉 本文 目 次 厳島合戦  陶晴賢が主君大内義隆を殺した遠因は、義隆が相良遠江守武任を寵遇したからである。相良は筑前の人間で義隆に仕えたが、才智人に越え、其の信任、大内譜代の老臣陶、杉、内藤等に越えたので、陶は不快に感じて遂に義隆に反して、天文十九年義隆を殺したのだ。  此の事変の時の毛利元就の態度は頗る暖昧であった。陶の方からも義隆の方からも元就のところへ援助を求めて来ている。元就は其の子隆元、元春、隆景などを集めて相談したが、其の時家臣の熊谷伊豆守の、「兎に角今度の戦は陶が勝つのに相違ないから、兎に角陶の方へ味方をしておいて、後、時節を窺って陶を滅した方がよい」という意見が通って、陶に味方をしているのである。  厳島合戦は、毛利元就が主君の為めに、陶晴賢を誅した事になっているが、秀吉の山崎合戦のように大義名分的なものではないのである。兎に角元就は、一度は陶に味方をしてその悪業を見遁しているのである。  尤も元就は、大内義隆の被官ではあるが必ずしも家来ではない。だから晴賢討伐の勅命まで受けているが、それも政略的な意味で、必ずしも主君の仇に報ゆるという素志に、燃えていたわけではないのである。  只晴賢と戦争するについて、主君の為に晴賢の無道を討つという看板を掲げ、名分を正したに過ぎない。尤も勅命を受けたことも、正史にはない。  毛利が陶と不和になった原因は、寧ろ他にあるようだ。晴賢が、義隆を殺した以後二三年間は無事に交際していたのだが、元就が攻略した尼子方の備後国江田の旗返城を陶が毛利に預けないで、江良丹後守に預けた。これ等が元就が陶に不快を感じた原因である。  そして機を見るに敏なる元就は、陶が石州の吉見正頼を攻めに行った機に乗じて、安芸の桜尾、銀山等の城を落してしまった。  その上、吉見正頼の三本松の城へ加勢を遣した。この加勢の大将は城より出で、陶方に対して高声に言うには、「毛利右馬頭元就、正頼と一味し、当城へも加勢を入れ候。加勢の大将は某なり、元就自身は、芸州神領表へ討出で、桜尾、銀山の古城を尽く攻落して、やがて山口へ攻入るべきの状、御用心これあるべし」と叫んだ。  陶はさぞ吃驚しただろう。芸州神領表というのは、その辺一帯厳島の神領であったのである。  兎に角元就は、雄志大略の武将であった。幼年時代厳島に詣で、家臣が「君を中国の主になさしめ給え」と祈ったというのを笑って「何故、日本の主にならせ給えとは祈らぬぞ」と云った程の男だから、主君の仇を討つということなどよりも、陶を滅して、我取って代らんという雄志大略の方が強かったのである。  北条早雲が、横合からとび出して行って、茶々丸を殺して伊豆をとったやり方などよりは、よっぽど、理窟があるが、結局陶晴賢との勢力戦であったのであろう。  元来元就は、戦国時代の屈指の名将である。徳川家康と北条早雲とを一緒につきまぜて、二つに割った様な大将である。寛厚慈悲家康に過ぐるものがある。其の謀略を用いる点に於ては家康よりはずっと辛辣である。厳島合戦の時、恰度五十二歳の分別盛りである。長子隆元三十二歳、次子吉川元春二十三歳、三子隆景二十二歳。吉川元春は、時人梅雪と称した。  熊谷伊豆守の娘が醜婦で、誰も結婚する人が無いと聞き、其の父の武勇にめでて、「其の娘の為めにさぞや歎くらん。我婚を求むれば、熊谷、毛利の為めに粉骨の勇を励むらん」と言って結婚した男である。  乃木将軍式スパルタ式の猛将である。三男の隆景は時の人これを楊柳とよんで容姿端麗な武士であった。其の才略抜群で後秀吉が天下経営の相談相手となり、秀吉から「日本の蓋でも勤まる」と言われたが、而も武勇抜群で、朝鮮の役には碧蹄館に於て、十万の明軍を相手に、決戦した勇将である。だから元就は「子までよく生みたる果報めでたき大将である」と言われた。  だが此時毛利は芸州吉田を領し、其所領は、芸州半国にも足らず、其の軍勢は三千五、六百の小勢であった。これに対して、陶晴賢は、防、長、豊、筑四州より集めた二万余の大軍である。  だから平場の戦いでは、毛利は到底、陶の敵ではない。そこで元就が考えたのは、厳島に築城する事だ。  元就は、厳島に築城して、ここが毛利にとって大切な場所であるように見せかけ、ここへ陶の大軍を誘き寄せて、狭隘の地に於て、無二の一戦を試みようとしたのである。  元就が厳島へ築城を初めると、元就の隠謀を知らない家臣はみんな反対した。「あんな所へ城を築いて若しこれが陶に取られると、安芸はその胴腹に匕首を擬せられるようなものである」と。  元就はそういう家臣の反対を押切って、今の要害鼻に城を築いた。現在連絡船で厳島へ渡ると、その船着場の後の小高い山がこの城址である。城は弘治元年六月頃に完成した。  すると元就は家来達に対して、「お前達の諫を聞かないで厳島に城を築いて見たが、よく考えてみると、ひどい失策をしたもんだ。敵に取られる為に城を築いたようなもんだ。あすこを取られては味方の一大事である」と言った。  戦国の世は、日本同士の戦争であるから、スパイは、敵にも味方にも沢山入り混っていたわけだから、元就のこういう後悔はすぐ敵方へ知れるわけである。其上、其の頃一人の座頭が、吉田の城下へ来ていた。『平家』などを語って、いつか元就の城へも出入している。元就は、之を敵の間者と知って、わざと膝下へ近づけていた。ある日、元就、老臣共を集め座頭の聞くか聞かないか分らぬ位の所で、わざと小声で軍議を廻らし、「厳島の城を攻められては味方の難儀であるが、敵方の岩国の域主、弘中三河守は、こちらへ内通しているから、陶の大軍が厳島へ向わぬよう取計らってくれるであろう」と囁いていた。  座頭は鬼の首でもとったように、此事を陶方へ注進したのは勿論である。  弘治元年九月陶晴賢(隆房と云ったが、後晴賢と改む)二万七千余騎を引率し、山口をうち立ち、岩国永興寺に陣じ、戦評定をする。晴賢は飽く迄スパイの言を信じ、厳島へ渡って、宮尾城を攻滅し、そして毛利の死命を制せんという考である。  岩国の城主弘中三河守隆兼は、陶方第一の名将である。元就の策略を看破して諫めて、「元就が厳島に城を築いている事を後悔しているのならば、それを口にして言うわけはない。元就の真意は、厳島へ我が大軍をひきつけ、安否の合戦して雌雄を決せんとの謀なるべし。厳島渡海を止め、草津、二十日市を攻落し、吉田へ押寄せなば元就を打滅さんこと、時日を廻らすべからず」と言った。  だが頭のいい元就は、弘中三河守の諫言を封じる為に、座頭を使って、陶に一服盛ってあるのだから叶わない。晴賢は三河守の良策を蹴って、大軍を率いて七百余艘の軍船で厳島へ渡ってしまった。三河守も是非なく、陶から二日遅れて、厳島へ渡った。信長は桶狭間という狭隘の土地で今川義元を短兵急に襲って、首級をあげたが、併しそのやり方はいくらか、やまかんで僥倖だ。それに比べると、元就は、計りに計って敵を死地に誘き寄せている。同じ出世戦争でも、其の内容は、比べものにならないと思う。  厳島の宮尾城は、遂此の頃陶に叛いて、元就に降参した己斐豊後守、新里宮内少輔二人を大将にして守らせていた。陶から考えれば、肉をくらっても飽足らない連中である。  而も此の二人に陶を馬鹿にするような手紙を書かしているのである。つまり此の二人を囮に使い、その囮を鳴かしているようなわけである。厳島に渡った陶晴賢は、厳島神社の東方、塔の岡に陣した。柵を結んで陣を堅め、唐菱の旗を翻し、宮尾城を眼下に見下しているわけである。  陶が島に渡ったと聞くと、元就は、要害鼻の対岸、地御前の火立岩に陣を進めた。ここは厳島とは目と鼻の地で、海をへだててはいるが、呼ばば答えん程に近い。だが敵は二万数千余、兵船は海岸一帯を警備して、容易に毛利軍の渡海を許さない。而も毛利の兵船は僅か数十艘に過ぎない。だから元就はかねてから、伊予の村上、来島、能島等の水軍の援助を頼んでおいた。  この連中は所謂海賊衆で、当時の海軍である。  元就はこの連中に兵船を借りるとき、たった一日でいいから船を貸してくれと言った。所詮は戦に勝てば船は不用であるからと言った。水軍の連中思い切ったる元就の言分かな、所詮戦は毛利の勝なるべしと言って二百余艘の軍船が毛利方へ漕ぎ寄せた。  陶の方からも勿論来援を希望してあったので、この二百艘の船が厳島へ漕ぎ寄するかと見る間に、二十日市(毛利方の水軍の根拠地)の沖へ寄せたので、毛利方は喜び、陶方は失望した。  宛もよし、九月晦日は、俄かに暴風雨が起って、風波が高く、湖のような宮島瀬戸も白浪が立騒いだ。  此の夜は流石の敵も、油断をするだろうから、襲撃の機会到れりというので、元就は長男隆元、吉川元春など精鋭をすぐって、毛利家の兵船に分乗し、島の東北岸鼓の浦へ廻航した。其の時の軍令の一端は次の如しだ。 一、差物の儀無益にて候。 一、侍は縄しめ襷、足軽は常の縄襷仕るべく候事。 一、惣人数共に常に申聞候、白布にて鉢捲仕るべく候。 一、朝食、焼飯にて仕り候て、梅干相添申、先づ梅干を先へ給候て、後に焼飯給申すべく候。 一、山坂にて候条、水入腰に付申候事。 一、一切高声仕り候者これあらば、きつと成敗仕るべく候。 一、合言葉、勝つかとかけるべく候、勝々と答へ申す可く候。  とても縁起のよい合言葉である。勝つかと言えば勝々と答えるわけである。水軍へ対する軍令の一条に、 一、一夜陣の儀に候条、乗衆の兵糧つみ申すまじく候事。  とある。この厳島合戦は、元就の一夜陣として有名である。が、一夜の中に毛利一家の興廃を賭けたわけであるが、併し元就の心中には勝利に対する信念の勃々たるものがあったのではないかと思われる。  元就は鼓の浦へ着く前、今迄船中に伴って来た例の間者の座頭を捕え、「陶への内通大儀なり、汝が蔭にて入道の頭を見ること一日の中にあり、先へ行きて入道を待て」と云って、海に投じて血祭にした。鼓の浦へ着くと、元就「この浦は鼓の浦、上の山は博奕尾か、さては戦には勝ったぞ」と言った。隆元、元春、御意の通りだと言う。つまり鼓も博奕も共に打つものであるから、敵を討つということに縁起をかついだものである。博奕尾は、塔の岡から数町の所で、その博奕尾から進めば、塔の岡の背面に進めるわけである。  小早川隆景の当夜の行動には二説ある。隆景は之より先、漁船に身を隠して、宮尾城の急を救う為、宮尾城へ入ったと書いてあるが、これは恐らく俗説で、当夜熊谷信直の部下を従え、厳島神社の大鳥居の方面から敵の兵船の間を乗り入れて、敵が咎めると、「お味方に参った九州の兵だ」と言って易々と上陸し、塔の岡の坂下に陣して、本軍の鬨の声のあがるのを待っていた。  即ち毛利の第一軍は、地御前より厳島を迂廻し、東北岸鼓の浦に上陸し、博奕尾の険を越え、塔の岡の陶本陣の背面を攻撃し、第二軍は、宮尾城の城兵と協力し、元就軍の本軍が鬨の声を発するを機とし、正面より陶の本陣を攻撃するもので、小早川隆景これを率いた。  第三軍は、村上、来島等の海軍を以て組織し、厳島の対岸を警備し、場合に依ては、陶の水軍と合戦を試みんとするものだ。  元就が鼓の浦へ上陸しようとする時、雨が頻りに降ったので、輸送指揮官の児玉就忠が、元就に唐傘をさしかけようとしたので、元就は拳を以て之を払除けた。  陶の方は、塔の岡を本陣としたが、諸軍勢は、厳島の神社附近の地に散在し、其の間に何等の統制が無かったらしい。之より先弘中三河守は陶に早く宮尾城を攻略すべき事を進言したけれども、陶用いず、城攻めは、十月朔日に定まっていた。その朔日の早暁に、元就が殺到したわけである。  元就は鼓の浦へ着くと、乗っていた兵船を尽く二十日市へ漕ぎ帰らしめた。正に生還を期せぬ背水の陣である。吉川元春は先陣となって、えいえい声を掛けて坂を上るに、其声自ら鬨の声になって、陶の本陣塔の岡へ殺到した。  陶方も毛利軍の夜襲と知って、諸方より本陣へ馳せ集って防戦に努めたが、俄かに馳せ集った大軍であるから、配備は滅茶苦茶で、兵は多く土地は狭く、駈引自由ならざるところに、元就の諸将、揉みに揉んで攻めつけたから、陶軍早くも浮足たった。  かねて打合せてあった小早川隆景の軍隊は、本軍の鬨の声を聞くと、これも亦大喊声をあげて前面から攻撃した。大和伊豆、三浦越中、弘中三河守等の勇将は、敵は少し、恐るるに足らず、返せ返せと叫んで奮戦したが、一度浮足たった大軍は、どっと崩れるままに、我先に船に乗らんと海岸を目指して逃出した。晴賢は、自身采配を以て身を揉んで下知したが、一度崩れ立った大軍は、如何ともし難く、瞬く中に塔の岡の本陣は、毛利軍に蹂躙されてしまった。  敗兵が船に乗ったので、陶の水軍が、俄かに狼狽て出したところを、毛利の第三軍たる村上、来島等の水軍が攻めかかったので、陶の水軍は忽ち撃破されて、多くの兵船は、防州の矢代島を目指して逃げてしまった。  塔の岡の本陣を攻落された陶軍は、厳島神社の背面を西へ西へと逃走した。勇将弘中三河守は同中務と共に主君晴賢の退却を援護せんが為に、厳島神社の西方、滝小路(現在の滝町)を後に当て、五百騎ばかりにて吉川元春の追撃を迎え撃った。弘中父子必死に防戦したから、流石の吉川勢も斬立てられ、十四、五間ばかり退却した。元春自身槍をとって、奮戦していると、弘中軍の武将青景波多野等、滝町の横町、柳小路から吉川勢を横撃した。  此の時吉川勢殆んど危かったのを、熊谷伊豆守信直等馳合せて、其の急を救ったので、弘中衆寡敵せず、滝小路の民家に火を放って、弥山道の大聖院に引あげた。吉川勢は、其の火が厳島神社にうつる事を恐れて、消火に努めている間に、晴賢は勇将三浦等に守られて、大元浦に落ちのびた。大元浦は、厳島神社から西北二、三町のところである。そこへ吉川勢に代った小早川隆景が精鋭を率いて追撃して来た。  陶が此処にて討死しようとするのを三浦諫め、「一先ず山口へ引とり重ねて勢を催され候え。越中殿して討死つかまつらん」と晴賢を落し、斯くて、三浦越中守、羽仁越中守、同将監、大和伊豆守等骨を砕いて戦った。三浦は、隆景を討たんとし、隆景の郎党、草井、山県、南、井上等又隆景を救わんとして、尽く枕を並べて討死をした。殊に草井は、三浦に突伏せられながら、尚三浦の足にからみついたので、三浦、首を斬って捨てた。  三浦の奮戦察すべきである。  隆景の苦戦を知って、元春の軍、後援の為馳付けた。  三浦は随兵悉く討死し、只一人になって、山道に休んでいるところへ、二宮杢之介馳付けると、三浦偽って「味方で候ぞ」という。味方でのでの字の発音山口の音なるに依って、二宮敵なるを知って、合じるしを示さんことを迫る。三浦立上って奮戦したが、遠矢に射すくめられ二宮の為に討たれた。  大和伊豆守は、毛利方の香川光景と戦う。香川は大和と知合いの間柄だった。大和は、文武の達者で、和歌の名人であったから、元就かねて生擒にしまほしきと言っていたのを光景思出し、大和守に其意を伝えて、之を生擒にした。  陶入道は、尚西方に遁れたが、味方の兵船は影だになく、遂に大江浦にて小川伝いに山中に入り、其辺りにて自害したと言われている。  伊加賀民部、山崎勘解由等これに殉じた。晴賢の辞世は、 なにを惜しみなにをうらみむもとよりも    此の有様の定まれる身に  この時同じく殉死した垣並佐渡守の辞世は、 莫レ論二勝敗跡一 人我暫時情 一物不生地 山寒海水清  家臣は、晴賢の首を紫の袖に包み、谷の奥に隠しておいたが、晴賢の草履取り乙若というのがつかまった為、其在所が分った。  弘中三河守は、大聖院へひき上げたが、大元方面へ退いた味方の軍の形勢を見て、折あらば敵を横撃せんと、機会を覘っていたが、大元竜ヶ馬場方面も脆く敗退した為、大元と大聖院との間の竜ヶ馬場と称する山上へ登り、此処を最後の戦場として父子主従たった三人になる迄吉川軍と決戦して遂に倒れてしまった。  此の人こそ、厳島合戦に於ける悲劇的英雄である。  これで厳島合戦も毛利軍の大勝に帰したわけであるが、晴賢自殺の場所については、厳島の南岸の青海苔浦(青法ともかく)という説もあるが、晴賢は肥満していて歩行に困難であったと言うから、中央の山脈を越して南岸に出るわけは無いのである。  元就は合戦がすむと、古来此の島には、決して死人を埋葬しないことになっているので、戦死者の死骸は尽く対岸の大野に送らせ、潮水で社殿を洗い、元就は三子を伴って斎戒して、社前に詣で、此の大勝を得たことを奉謝している。  元就は斯くて十月五日に二十日市の桜尾城に於て凱旋式を挙行しているが、彼は敵将晴賢の首級に対してもこれを白布にて掩い、首実検の時も、僅かに其白布の右端を取っただけで、敵将をみだりに恥かしめぬだけの雅量を示している。其の後首級は、二十日市の東北にある洞雲寺という禅寺に葬らせた。  厳島合戦は戦国時代の多くの戦争の中で圧倒的な大勝であるが、其間に僥倖の部分は非常に少く、元就の善謀と麾下の団結と、武力との当然の成果と云って宜い位である。元就は分別盛りであるし、元春、隆景は働き盛りである。晴賢はうまうまとひっかけられて猛撃を喰い、忽ちノックダウンされたのも仕方がなかったと言うべきである。陶軍から言わしたら垣並の辞世にある通り、勝敗の跡を論ずる莫れであったに違いない。 底本:「日本合戦譚」文春文庫、文藝春秋社    1987(昭和62)年2月10日第1刷発行 ※底本では本文が「新字新仮名」引用文が「新字旧仮名」ですが、ルビは「新仮名」を共通して使用していると思われますので、ルビの拗音・促音は小書きにしました。 入力:網迫、大野晋、Juki 校正:土屋隆 2009年7月19日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。