中国怪奇小説集 酉陽雑爼(唐) 岡本綺堂 Guide 扉 本文 目 次 中国怪奇小説集 酉陽雑爼(唐)  第三の男は語る。 「唐代は詩文ともに最も隆昌をきわめ、支那においては空前絶後ともいうべき時代でありますから、小説伝奇その他の文学に関する有名の著作も甚だ多く、なにを紹介してよろしいか頗る選択に苦しむのでありますが、その中でわたくしは先ず『酉陽雑爼』のお話をすることに致します。これも『捜神記』と同様に、早くわが国に渡来して居りますので、その翻案がわが文学の上にもしばしばあらわれて居ります。  この作者は唐の段成式であります。彼は臨淄の人で、字を柯古といい、父の文昌が校書郎を勤めていた関係で、若いときから奇編秘籍を多く読破して、博覧のきこえの高い人物でありました。官は太常外卿に至りまして、その著作は『酉陽雑爼』(正編二十巻、続集十巻)をもって知られて居ります」    古塚の怪異  唐の判官を勤めていた李邈という人は、高陵に庄園を持っていたが、その庄に寄留する一人の客がこういうことを懺悔した。 「わたくしはこの庄に足を留めてから二、三年になりますが、実はひそかに盗賊を働いていたのでございます」  李邈もおどろいた。 「いや、飛んでもない男だ。今も相変らずそんな悪事を働いているのか」 「もう唯今は決して致しません。それだから正直に申し上げたのでございます。御承知の通り、大抵の盗賊は墓あらしをやります。わたくしもその墓荒しを思い立って、大勢の徒党を連れて、さきごろこの近所の古塚をあばきに出かけました。塚はこの庄から十里(六丁一里)ほどの西に在って、非常に高く、大きく築かれているのを見ると、よほど由緒のあるものに相違ありません。松林をはいって二百歩ほども進んでゆくと、その塚の前に出ました。生い茂った草のなかに大きい碑が倒れていましたが、その碑はもう磨滅していて、なんと彫ってあるのか判りませんでした。ともかくも五、六十丈ほども深く掘って行くと、一つの石門がありまして、その周囲は鉄汁をもって厳重に鋳固めてありました」 「それをどうして開いた」 「人間の糞汁を熱く沸かして、幾日も根よく沃ぎかけていると、自然に鉄が溶けるのです。そうして、ようようのことで、その石門をあけると驚きました。内からは雨のように箭を射出して来て、たちまち五、六人を射倒されたので、みな恐れて引っ返そうとしましたが、わたくしは肯きませんでした。ほかに機関があるわけではないから、あらん限りの箭を射尽くさせてしまえば大丈夫だというので、こちらからも負けずに石を投げ込みました。内と外とで箭と石との戦いが暫く続いているうちに果たして敵の矢種は尽きてしまいました。  それから松明をつけて進み入ると、行く手に又もや第二の門があって、それは訳なく明きましたが、門の内には木で作った人が何十人も控えていて、それが一度に剣をふるったから堪まりません。さきに立っていた五、六人はここで又斬り倒されました。こちらでも棒をもってむやみに叩き立てて、その剣をみな撃ち落した上で、あたりを見まわすと、四方の壁にも衛兵の像が描いてあって、南の壁の前に大きい漆塗りの棺が鉄の鎖にかかっていました。棺の下には金銀や宝玉のたぐいが山のように積んである。さあ見付けたぞとは言ったが、前に懲りているので、迂闊に近寄る者もなく、たがいに顔をみあわせていると、俄かに棺の両角から颯々という風が吹き出して、沙を激しく吹きつけて来ました。あっと言ううちに、風も沙もますます激しくなって、眼口を明けていられないどころか、地に積む沙が膝を埋めるほどに深くなって来たので、みな恐れて我れ勝ちに逃げ出しましたが、逃げおくれた一人は又もや沙のなかへ生け埋めにされました。  外へ逃げ出して見かえると、門は自然に閉じて、再びはいることは出来なくなっています。たといはいることが出来ても、とても二度と行く気にはなれないので、誰も彼も早々に引き揚げて来ました。その以来、わたくしどもは誓って墓荒しをしないことに決めました。あの時のことを考えると、今でも怖ろしくてなりません」  この話はこれで終りであるが、そのほかにも墓を発いて種々の不思議に出逢った話はたくさんに言い伝えられている。  近い頃、幾人の盗賊が蜀の玄徳の墓をあばきにはいると、内には二人の男が燈火の下で碁を打っていて、ほかに侍衛の軍人が十余人も武器を持って控えていたので、盗賊どももおどろいて謝まり閉口すると、碁にむかっていた一人が見かえって、おまえ達は酒をのむかと言い、めいめいに一杯の酒を飲ませた上に、玉の腰帯ひとすじずつを呉れたので、盗賊どもは喜んで出て来ると、かれらの口は漆を含んだように閉じられてしまった。帯と思ったのは巨きい蛇であった。    王申の禍  唐の貞元年間のことである。望苑駅の西に王申という百姓が住んでいた。  彼は奇特の男で、路ばたにたくさんの楡の木を栽えて、日蔭になるような林を作り、そこに幾棟の茅屋を設けて、夏の日に往来する人びとを休ませて水をのませた。役人が通行すれば、別に茶をすすめた。こうしているうちに、ある日ひとりの若い女が来て水を求めた。女は碧い肌着に白い着物をきていた。 「わたくしはここから十余里の南に住んでいた者ですが、夫に死に別れて子供はなし、これから馬嵬駅にいる親類を頼って行こうと思っているのでございます」と、女は話した。その物言いもはきはきしていて、その挙止も愛らしかった。  王申も気の毒に思って、水を与えるばかりでなく、内へ呼び入れて、飯をも食わせてやって、きょうはもう晩いから泊まってゆけと勧めると、女はよろこんで泊めて貰うことになった。その明くる日、ゆうべのお礼に何かの御用を致しましょうというので、王の妻が試しに着物を縫わせると、針の運びの早いのは勿論、その手ぎわが実に人間わざとは思われないほどに精巧を極めているので、王申も驚かされた。殊に王の妻は一層その女を愛するようになって、しまいには冗談のようにこんな事を言い出した。 「聞けばお前さんは近しい親類もないということだが、いっそ私の家のお嫁さんになっておくれでないかね」  王の家には、ことし十三になる息子がある。──十三の忰に嫁を迎えるのは珍しくない。──両親も内々相当の娘をこころがけていたのであった。それを聞いて、女は笑って答えた。 「仰しゃる通り、わたくしは頼りの少ない身の上でございますから、もしお嫁さんにして下されば、この上もない仕合わせでございます」  相談はすぐに決まって、王の夫婦も喜んだ。善は急げというので、その日のうちに新しい嫁入り衣裳を買い調えて、その女を息子の嫁にしてしまったのである。その日は暮れても暑かったが、この頃ここらには盗賊が徘徊するので、戸締りを厳重にして寝ると、夜なかになって王の妻は不思議の夢をみた。息子が散らし髪で母の枕元にあらわれて、泣いて訴えるのである。 「わたしはもう食い殺されてしまいます」  妻はおどろいて眼をさまして、夫の王をよび起した。 「今こんな忌な夢をみたから、息子の部屋へ行って様子をみて来ましょうか」 「よせ、よせ」と、王は寝ぼけ声で叱った。「新夫婦の寝床をのぞきに行く奴があるものか。おまえはいい嫁を貰ったので、嬉しまぎれにそんな途方もない夢をみたのだ」  叱られて、妻もそのままに眠ったが、やがて又もや同じ夢をみたので、もう我慢が出来なくなった。再び夫をよび起して、無理に息子の寝間へ連れて行って、外から試みに声をかけたが、内にはなんの返事もない。戸を叩いてもやはり黙っているので、王も不安を感じて来て、戸を明けようとすると堅くとざされている。思い切って、戸をこじ明けてはいってみると、部屋のうちには怖ろしい物の影が見えた。  それはおそらく鬼とか夜叉とかいうのであろう。からだは藍のような色をして、その眼は円く晃っていた。その歯は鑿のように見えた。その異形の怪物はおどろく夫婦を衝き退けて、風のように表のかたへ立ち去ってしまったので、かれらはいよいよおびやかされた。して、息子はと見ると、唯わずかに頭の骨と髪の毛とを残しているのみで、その形はなかった。    画中の人  これも貞元の末年のことである。開州の軍将に冉従長という人があって、財を軽んじて士を好むというふうがあるので、儒生や道士のたぐいは多くその門に集まって来たが、そのなかに寗采という画家もまじっていた。  その寗采があるとき竹林の七賢人の図をかいて、それが甚だ巧みに出来たので、観る者いずれも感嘆していると、一坐の客のうちに郭萱といい柳城という二人の秀才があって、たがいに平生から軋り合っていたが、柳城はその図をひとめ見て、あざ笑いながら主人の冉従長に言った。 「この画は人間の体勢に巧みであるが、人間の意趣というものが本当に現われていない。わたしはこの画に対してなんらの筆を着けずに、一層の精彩を加えてお見せ申そうと思うが、いかがでしょう」  冉はすこし驚いた。 「あなたにどんな芸があるか知らないが、なんらの筆を加えずに、この画の精彩を添えるというようなことが出来ますか」 「それは出来ます」と、柳は平気で答えた。「わたしはこの画のなかへはいって直すのです」  それを聞いて、郭萱も笑い出した。 「子供だましのような事を言ってはいけない。なんにも筆を入れないで、あの画を直すことが出来る筈がないではないか」 「いや、それが出来るのだ」 「出来るものか」 「そんなら賭けをするか」と、柳は言った。 「むむ、五千の銭を賭ける」  郭は銭を賭けることになった。主人の冉も賭けた。すると、柳は壁にかけてある画の前に立ったかと思うと、忽ちに身を跳らせて消えてしまったので、一坐の者はみな驚いて、ここかそこかと探し廻ったが、どこにもその姿はみえなかった。やがて、画の中から柳の声が聞えた。 「おい、郭君。まだおれの言うことを信じないのか」  一坐は又おどろいて眺めていると、柳は再び姿をあらわして、画の上から降りて来た。そうして、七賢人のうちの阮籍を指さした。 「みんなが待ち遠しいだろうと思いましたから、唯あれだけを繕って置きました」  人びとは眼を定めてよく視ると、なるほど阮籍だけは以前の図と違って、その口は仰いでうそぶくがごとくに見えたので、いずれもいよいよ驚嘆した。冉も郭も彼が道士の道に精通していることを初めて覚った。  こんな噂が世間に拡まっては、身の禍いになると思ったらしい。それから五、六日の後に、柳はそこを立ち去って行くえを晦ました。    北斗七星の秘密  唐の玄宗皇帝の代に、一行という高僧があって、深く皇帝の信任を得ていた。  一行は幼いとき甚だ貧窮であって、隣家の王という老婆から常に救われていた。彼は立身の後もその恩を忘れず、なにか王婆に酬いたいと思っていると、あるとき王婆の息子が人殺しの罪に問われることになったので、母は一行のところへ駈け付けて、泣いて我が子の救いを求めたが、彼は一応ことわった。 「わたしは決して昔の恩を忘れはしない。もし金や帛が欲しいというのならば、どんなことでも肯いてあげる。しかし明君が世を治めている今の時代に、人殺しの罪を赦すなどということは出来るものでない。たとい私から哀訴したところで、上でお取りあげにならないに決まっているから、こればかりは私の力にも及ばないと諦めてもらいたい」  それを聞いて、王婆は手を戟にして罵った。 「なにかの役にも立とうかと思えばこそ、久しくお前の世話をしてやったのだ。まさかの時にそんな挨拶を聞くくらいなら、お前なんぞに用はないのだ」  彼女は怒って立ち去ろうとするのを、一行は追いかけて、頻りによんどころない事情を説明して聞かせたが、王婆は見返りもせずに出て行ってしまった。 「どうも困ったな」  一行は思案の末に何事をか考え付いた。都の渾天寺は今や工事中で、役夫が数百人もあつまっている。その一室を空明きにさせて、まん中に大瓶を据えた。それから又、多年召仕っている僕二人を呼んで、大きい布嚢を授けてささやいた。 「町の角に、住む人もない荒園がある。おまえ達はそこへ忍び込んで、午の刻(午前十一時─午後一時)から夕方まで待っていろ。そうすると七つの物がはいって来る。それを残らずこの嚢に入れて来い。数は七つだぞ。一つ不足しても勘弁しないからそう思え」  僕どもは指図通りにして待っていると、果たして酉の刻(午後五時─七時)を過ぎる頃に、荒園の草をふみわけて豕の群れがはいってきたので、一々に嚢をかぶせて捕えると、その数はあたかも七頭であった。持って帰ると、一行は大いに喜んで、その豕をかの瓶のなかに封じ込めて、木の蓋をして、上に大きい梵字を書いた。それが何のまじないであるかは、誰にもわからなかった。  あくる朝になると、宮中から急使が来て、一行は皇帝の前に召出された。 「不思議のことがある」と、玄宗は言った。「太史(史官)の奏上によると、昨夜は北斗七星が光りを隠したということである。それは何の祥であろう。師にその禍いを攘う術があるか」 「北斗が見えぬとは容易ならぬことでござります」と、一行は言った。「御用心なさらねばなりませぬ。匹夫匹婦もその所を得ざれば、夏に霜を降らすこともあり、大いに旱することもござります。釈門の教えとしては、いっさいの善慈心をもって、いっさいの魔を降すのほかはござりませぬ」  彼は天下に大赦の令をくだすことを勧めて、皇帝もそれにしたがった。その晩に、太史がまた奏上した。 「北斗星が今夜は一つ現われました」  それから毎晩一つずつの星が殖えて、七日の後には七星が今までの通りに光り輝いた。大赦の令によって王婆の息子が救われたのは言うまでもない。    駅舎の一夜  孟不疑という挙人(進士の試験に応ずる資格のある者)があった。昭義の地方に旅寝して、ある夜ある駅に泊まって、まさに足をすすごうとしているところへ、淄青の張という役人が数十人の供を連れて、おなじ旅舎へ乗り込んで来た。相手が高官とみて、孟は挨拶に出たが、張は酒を飲んでいて顧りみないので、孟はその倨傲を憤りながら、自分は西の部屋へ退いた。  張は酔った勢いで、しきりに威張り散らしていた。大きい声で駅の役人を呼び付けて、焼餅を持って来いと呶鳴った。どうも横暴な奴だと、孟はいよいよ不快を感じながら、ひそかにその様子をうかがっていると、暫くして注文の焼餅を運んで来たので、孟はまた覗いてみると、その焼餅を盛った盤にしたがって、一つの黒い物が入り込んで来た。それは猪のようなものであるらしく、燈火の下へ来てその影は消えた。張は勿論、ほかの者もそれに気が注かなかったらしいが、孟は俄かに恐怖をおぼえた。 「あれは何だろう」  孤駅のゆうべにこの怪を見て、孟はどうしても眠ることが出来なかったが、張は酔って高鼾で寝てしまった。供の者は遠い部屋に退いて、張の寝間は彼ひとりであった。その夜も三更(午後十一時─午前一時)に及ぶころおいに、孟もさすがに疲れてうとうとと眠ったかと思うと、唯ならぬ物音にたちまち驚き醒めた。一人の黒い衣を着た男が張と取っ組み合っているのである。やがて組んだままで東の部屋へ転げ込んで、たがいに撲り合う拳の音が杵のようにきこえた。孟は息を殺してその成り行きをうかがっていると、暫くして張は散らし髪の両肌ぬぎで出て来て、そのまま自分の寝床にあがって、さも疲れたように再び高鼾で寝てしまった。  五更(午前三時─五時)に至って、張はまた起きた。僕を呼んで燈火をつけさせ、髪をくしけずり、衣服をととのえて、改めて同宿の孟に挨拶した。 「昨夜は酔っていたので、あなたのことをちっとも知らず、甚だ失礼をいたしました」  それから食事を言い付けて、孟と一緒に仲よく箸をとった。そのあいだに、彼は小声で言った。 「いや、まだほかにもお詫びを致すことがある。昨夜は甚だお恥かしいところを御覧に入れました。どうぞ幾重にも御内分にねがいます」  相手があやまるように頼むので、孟はその上に押して聞くのを遠慮して、ただ、はいはいとうなずいていると、張は自分も早く出発する筈であるが、あなたもお構いなくお先へお発ち下さいと言った。別れるときに、張は靴の中から金一鋌を探り出して孟に贈って、ゆうべのことは必ず他言して下さるなと念を押した。  何がなんだか判らないが、孟は張に別れて早々にここを出発した。まだ明け切らない路を急いで、およそ五、六里も行ったかと思うと、人殺しの賊を捕えるといって、役人どもが立ち騒いでいるのを見た。その子細を聞きただすと、淄青の評事の役を勤める張という人が殺されたというのである。孟はおどろいて更に詳しく聞き合わせると、賊に殺されたと言っているけれども、張が実際の死にざまは頗る奇怪なものであった。  孟がひと足さきに出たあとで、張の供の者どもは、出発の用意を整えて、主人と共に駅舎を出た。あかつきはまだ暗い。途中で気がついてみると、馬上の主人はいつか行くえ不明になって、馬ばかり残っているのである。さあ大騒ぎになって、再び駅舎へ引っ返して詮議すると、西の部屋に白骨が見いだされた。肉もない、血も流れていない。ただそのそばに残っていた靴の一足によって、それが張の遺骨であることを知り得たに過ぎなかった。  こうしてみると、それが普通の賊の仕業でないことは判り切っていた。駅の役人も役目の表として賊を捕えるなどと騒ぎ立てているものの、孟にむかって窃かにこんなことを洩らした。 「この駅の宿舎には昔から凶いことがしばしばあるのですが、その妖怪の正体は今にわかりません」    小人  唐の太和の末年である。松滋県の南にひとりの士があって、親戚の別荘を借りて住んでいた。初めてそこへ着いた晩に、彼は士人の常として、夜の二更(午後九時─十一時)に及ぶ頃まで燈火のもとに書を読んでいると、たちまち一人の小さい人間が門から進み入って来た。  人間といっても、かれは極めて小さく、身の丈わずかに半寸に過ぎないのである。それでも葛の衣を着て、杖を持って、悠然とはいり込んで来て、大きい蠅の鳴くような声で言った。 「きょう来たばかりで、ここには主人もなく、あなた一人でお寂しいであろうな」  こんな不思議な人間が眼の前にあらわれて来ても、その士は頗る胆力があるので、素知らぬ顔をして書物を読みつづけていると、かの人間は機嫌を損じた。 「お前はなんだ。主人と客の礼儀をわきまえないのか」  士はやはり相手にならないので、かれは机の上に登って来て、士の読んでいる書物を覗いたりして、しきりに何か悪口を言った。それでも士は冷然と構えているので、かれも燥れてきたとみえて、だんだんに乱暴をはじめて、そこにある硯を書物の上に引っくり返した。士もさすがにうるさくなったので、太い筆をとってなぐり付けると、彼は地に墜ちてふた声三声叫んだかと思うと、たちまちにその姿は消えた。  暫くして、さらに四、五人の女があらわれた。老いたのもあれば、若いのもあり、皆そのたけは一寸ぐらいであったが、柄にも似合わない大きい声をふり立てて、士に迫って来た。 「あなたが独りで勉強しているのを見て、殿さまが若殿をよこして、学問の奥義を講釈させて上げようと思ったのです。それが判らないで、あなたは乱暴なことをして、若殿にお怪我をさせるとは何のことです。今にそのお咎めを蒙るから、覚えておいでなさい」  言うかと思う間もなく、大勢の小さい人間が蟻のように群集してきて、机に登り、床にのぼって、滅茶苦茶に彼をなぐった。士もなんだか夢のような心持になって、かれらを追い攘うすべもなく、手足をなぐられるやら、噛まれるやら、さんざんの目に逢わされた。 「さあ、早く行け。さもないと貴様の眼をつぶすぞ」と、四、五人は彼の面にのぼって来たので、士はいよいよ閉口した。  もうこうなれば、かれらの命令に従うのほかはないので、士はかれらに導かれて門を出ると、堂の東に節使衙門のような小さい門がみえた。 「この化け物め。なんで人間にむかって無礼を働くのだ」と、士は勇気を回復して叫んだが、やはり多勢にはかなわない。又もやかれらに噛まれて撲られて、士は再びぼんやりしているうちに、いつか其の小さい門の内へ追いこまれてしまった。  見れば、正面に壮大な宮殿のようなものがあって、殿上には衣冠の人が坐っている。階下には侍衛らしい者が、数千人も控えている。いずれも一寸あまりの小さい人間ばかりである。衣冠の人は士を叱った。 「おれは貴様が独りでいるのを憐れんで、話し相手に子供を出してやると、飛んでもない怪我をさせた。重々不埒な奴だ。その罪を糺して胴斬りにするから覚悟しろ」  指図にしたがって、数十人が刃をぬき連れてむかって来たので、士は大いに懼れた。彼は低頭して自分の罪を謝すと、相手の顔色も少しくやわらいだ。 「ほんとうに後悔したのならば、今度だけは特別をもって赦してやる。以後つつしめ」  士もほっとして送りだされると、いつか元の門外に立っていた。時はすでに五更で、部屋に戻ると、机の上には読書のともしびがまだ消え残っていた。  あくる日、かの怪しい奴らの来たらしい跡をさがしてみると、東の古い階段の下に、粟粒ほどの小さい穴があって、その穴から守宮が出這入りしているのを発見した。士はすぐに幾人の人夫を雇って、その穴をほり返すと、深さ数丈のところにたくさんの守宮が棲んでいて、その大きいものは色赤くして長さ一尺に達していた。それが恐らくかれらの王であるらしい。あたりの土は盛り上がって、さながら宮殿のように見えた。 「こいつらの仕業だな」  士はことごとくかれらを焚き殺した。その以来、別になんの怪しみもなかった。    怪物の口  臨湍寺の僧智通は常に法華経をたずさえていた。彼は人跡稀れなる寒林に小院をかまえて、一心に経文読誦を怠らなかった。  ある年、夜半にその院をめぐって、彼の名を呼ぶ者があった。 「智通、智通」  内ではなんの返事もしないと、外では夜のあけるまで呼びつづけていた。こういうことが三晩もやまないばかりか、その声が院内までひびき渡るので、智通も堪えられなくなって答えた。 「どうも騒々しいな。用があるなら遠慮なしにはいってくれ」  やがてはいって来た物がある。身のたけ六尺ばかりで、黒い衣をきて、青い面をしていた。かれは大きい目をみはって、大きい息をついている。要するに、一種の怪物である。しかもかれは僧にむかってまず尋常に合掌した。 「おまえは寒いか」と、智通は訊いた。「寒ければ、この火にあたれ」  怪物は無言で火にあたっていた。智通はそのままにして、法華経を読みつづけていると、夜も五更に至る頃、怪物は火に酔ったとみえて、大きい目を閉じ、大きい口をあいて、炉に倚りかかって高いびきで寝入ってしまった。智通はそれを観て、香をすくう匙をとって、炉の火と灰を怪物の口へ浚い込むと、かれは驚き叫んで飛び起きて、門の外へ駈け出したが、物につまずき倒れるような音がきこえて、それぎり鎮まった。  夜があけてから、智通が表へ出てみると、かれがゆうべ倒れたらしい所に一片の木の皮が落ちていた。寺のうしろは山であるので、彼はその山へ登ってゆくと、数里(六丁一里)の奥に大きな青桐の木があった。梢はすでに枯れかかって、その根のくぼみに新しく欠けたらしい所があるので、試みにかの木の皮をあててみると、あたかも貼り付けたように合った。又その根の半分枯れたところに洞があって、深さ六、七寸、それが怪物の口であろう。ゆうべの灰と火がまだ消えもせずに残っていた。  智通はその木を焚いてしまった。    一つの杏  長白山の西に夫人の墓というのがある。なんびとの墓であるか判らない。  魏の孝昭帝のときに、令して汎く天下の才俊を徴すということになった。清河の崔羅什という青年はまだ弱冠ながらもかねて才名があったので、これも徴されてゆく途中、日が暮れてこの墓のほとりを過ぎると、たちまちに朱門粉壁の楼台が眼のまえに現われた。一人の侍女らしい女が出て来て、お嬢さまがあなたにお目にかかりたいと言う。崔は馬を下りて付いてゆくと、二重の門を通りぬけたところに、また一人の女が控えていて、彼を案内した。 「何分にも旅姿をしているので、この上に奥深く通るのは余りに失礼でございます」と、崔は一応辞退した。 「お嬢さまは侍中の呉質というかたの娘御で、平陵の劉府君の奥様ですが、府君はさきにおなくなりになったので、唯今さびしく暮らしておいでになります。決して御遠慮のないように」と、女はしいて崔を誘い入れた。  誘われて通ると、あるじの女は部屋の戸口に立って迎えた。更にふたりの侍女が燭をとっていた。崔はもちろん歓待されて、かの女と膝をまじえて語ると、女はすこぶる才藻に富んでいて、風雅の談の尽くるを知らずという有様である。こんな所にこんな人が住んでいる筈はない、おそらく唯の人間ではあるまいと、崔は内心疑いながらも、その話がおもしろいのに心を惹かされて、さらに漢魏時代の歴史談に移ると、女の言うことは一々史実に符合しているので、崔はいよいよ驚かされた。 「あなたの御主人が劉氏と仰しゃることは先刻うかがいましたが、失礼ながらお名前はなんと申されました」と、崔は訊いた。 「わたくしの夫は、劉孔才の次男で、名は瑤、字は仲璋と申しました」と、女は答えた。「さきごろ罪があって遠方へ流されまして、それぎり戻って参りません」  それから又しばらく話した後に、崔は暇を告げて出ると、あるじの女は慇懃に送って来た。 「これから十年の後にまたお目にかかります」  崔は形見として、玳瑁のかんざしを女に贈った。女は玉の指輪を男に贈った。門を出て、ふたたび馬にのってゆくこと数十歩、見かえればかの楼台は跡なく消えて、そこには大きい塚が横たわっているのであった。こんなことになるかも知れないと、うすうす予期していたのではあるが、崔は今さら心持がよくないので、後に僧をたのんで供養をして貰って、かの指輪を布施物にささげた。  その後に変ったこともなく、崔は郡の役人として評判がよかった。天統の末年に、彼は官命によって、河の堤を築くことになったが、その工事中、幕下のものに昔話をして、彼は涙をながした。 「ことしは約束の十年目に相当する。どうしたらよかろうか」  聴く者も答うるところを知らなかった。工事がとどこおりなく終って、ある日、崔は自分の園中で杏の実を食っている時、俄かに思い出したように言った。 「奥さん。もし私を嘘つきだと思わないならば、この杏を食わせないで下さい」  彼は一つの杏を食い尽くさないうちに、たちまち倒れて死んだ。    剣術  韋行規という人の話である。  韋が若いとき京西に遊んで、日の暮れる頃にある宿場に着いた。それから更にゆく手を急ごうとすると、駅舎の前にはひとりの老人が桶を作っていた。 「お客人、夜道の旅はおやめなさい。ここらには賊が多うございます」と、彼は韋にむかって注意した。 「賊などは恐れない」と、韋は言った。「わたしも弓矢を取っては覚えがある」  老人に別れを告げて、彼は馬上で夜道を急いでゆくと、もう夜が更けたと思う頃に、草むらの奥から一人があらわれて、馬のあとを尾けて来るらしいので、韋は誰だと咎めても返事をしない。さてこそ曲者と、彼は馬上から矢をつがえて切って放すと、確かに手堪えはありながら、相手は平気で迫って来るので、更に二の矢を射かけた。続いて三発、四発、いずれも手堪えはありながら、相手はちっとも怯まない。そのうちに、矢種は残らず射尽くしてしまったので、彼も今更おそろしくなって、馬を早めて逃げ出すと、やがて又、激しい風が吹き起り、雷もすさまじく鳴りはためいて来たので、韋は馬を飛び降りて大樹の下に逃げ込んだ。  見れば、空中には電光が飛び違って、さながら鞠を撃つ杖のようである。それが次第に舞い下がって、大樹の上にひらめきかかると、何物かが木の葉のようにばらばらと降って来た。木の葉ではなく板の札である。それが忽ちに地に積もって、韋の膝を埋めるほどに高くなったので、彼はいよいよ驚き恐れた。 「どうぞ助けてください」  彼は弓矢をなげ捨てて、空にむかって拝すること数十回に及ぶと、電光はようやく遠ざかって、風も雷もまたやんだ。まずほっとして見まわすと、大樹の枝も幹も折れているばかりか、自分の馬も荷物もどこへか消え失せてしまったのである。  こうなると、もう進んでゆく勇気はないので、早々にもと来た道を引っ返したが、今度は徒あるきであるから捗どらず、元の宿まで帰り着いた頃には夜が明けて、かの老人は店さきで桶の箍をはめていた。まさに尋常の人ではないと見て、韋は丁寧に拝して昨夜の無礼を詫びると、老人は笑いながら言った。 「弓矢を恃むのはお止しなさい。弓矢は剣術にかないませんよ」  彼は韋を案内して、宿舎のうしろへ連れてゆくと、そこには荷物を乗せた馬が繋いであった。 「これはあなたの馬ですから、遠慮なしに牽いておいでなさい。唯ちっとばかりあなたを試して見たのです。いや、もう一つお目にかける物がある」  老人はさらに桶の板一枚を出してみせると、ゆうべの矢はことごとくその板の上に立っていた。    刺青  都の市中に住む悪少年どもは、かれらの習いとして大抵は髪を切っている。そうして、膚には種々の刺青をしている。諸軍隊の兵卒らもそれに加わって乱暴をはたらき、蛇をたずさえて酒家にあつまる者もあれば、羊脾をとって人を撃つ者もあるので、京兆(京師の地方長官)をつとめる薛公が上に申し立ててかれらを処分することとなり、里長に命じて三千人の部下を忍ばせ、見あたり次第に片端から引っ捕えて、ことごとく市に於いて杖殺させた。  そのなかに大寧坊に住む張幹なる者は、左の腕に『生不怕京兆尹』右の腕に『死不怕閻羅王』と彫っていた。また、王力奴なるものは、五千銭をついやして胸から腹へかけて一面に山水、邸宅、草木、鳥獣のたぐいを精細に彫らせていた。  かれらも無論に撃ち殺されたのである。その以来、市中で刺青をしている者どもは、みな争ってそれを焼き消してしまった。  また、元和の末年に李夷簡という人が蜀の役人を勤めていたとき、蜀の町に住む趙高という男は喧嘩を商売のようにしている暴れ者で、それがために幾たびか獄屋に入れられたが、彼は背中一面に毘沙門天の像を彫っているので、獄吏もその尊像を憚って杖をあてることが出来ない。それを幸いにして、彼はますますあばれ歩くのである。 「不埒至極の奴だ。毘沙門でもなんでも容赦するな」  李は彼を引っくくらせて役所の前にひき据え、新たに作った筋金入りの杖で、その背中を三十回余も続けうちに撃ち据えさせた。それでも彼は死なないで無事に赦し還された。  これでさすがに懲りるかと思いのほか、それから十日ほどの後、趙は肌ぬぎになって役所へ呶鳴り込んで来た。 「ごらんなさい。あなた方のおかげで毘沙門天の御尊像が傷だらけになってしまいました。その修繕をしますから、相当の御寄進をねがいます」  李が素直にその寄進に応じたかどうかは、伝わっていない。    朱髪児  厳綬が治めていた太原市中の出来事である。  町の小児らが河に泳いでいると、或る物が中流をながれ下って来たので、かれらは争ってそれを拾い取ると、それは一つの瓦の瓶で、厚い帛をもって幾重にも包んであった。岸へ持って来て打ち毀すと、瓶のなかからは身のたけ一尺ばかりの赤児が跳り出したので、小児らはおどろき怪しんで追いまわすと、たちまち足もとに一陣の旋風が吹き起って、かの赤児は地を距る数尺の空を踏みながら、再び水中へ飛び去ろうとした。  岸に居あわせた船頭がそれを怪物とみて、棹をとって撃ち落すと、赤児はそのまま死んでしまったが、その髪は朱のように赤く、その眼は頭の上に付いていた。    人面瘡  数十年前のことである。江東の或る商人の左の二の腕に不思議の腫物が出来た。その腫物は人の面の通りであるが、別になんの苦痛もなかった。ある時たわむれに、その腫物の口中へ酒をそそぎ入れると、残らずそれを吸い込んで、腫物の面は、酔ったように赤くなった。食い物をあたえると、大抵の物はみな食った。あまりに食い過ぎたときには、二の腕の肉が腹のようにふくれた。なんにも食わせない時には、その臂がしびれて働かなかった。 「試みにあらゆる薬や金石草木のたぐいを食わせてみろ」と、ある名医が彼に教えた。  商人はその教えの通りに、あらゆる物を与えると、唯ひとつ貝母という草に出逢ったときに、かの腫物は眉をよせ、口を閉じて、それを食おうとしなかった。 「占めた。これが適薬だ」  彼は小さい葦の管で、腫物の口をこじ明けて、その管から貝母の搾り汁をそそぎ込むと、数日の後に腫物は痂せて癒った。    油売  都の宣平坊になにがしという官人が住んでいた。彼が夜帰って来て横町へはいると、油を売る者に出逢った。  その油売りは大きい帽をかぶって、驢馬に油桶をのせていたが、官人のゆく先に立ったままで路を避けようともしないので、さき立ちの従者がその頭を一つ引っぱたくと、頭はたちまちころりと落ちた。そうして、路ばたにある大邸宅の門内にはいってしまった。  官人は不思議に思って、すぐにその跡を付けてゆくと、かれのすがたは門内の大きい槐の下に消えた。いよいよ怪しんで、その邸の人びとにも知らせた上で、試みにかの槐の下を五、六尺ほど掘ってみると、その根はもう枯れていて、その下に畳一枚ほどの大きい蝦蟆がうずくまっているのを発見した。蝦蟆は銅で作られた太い筆筒二本をかかえ、その筒のなかには樹の汁がいっぱいに流れ込んでいた。又そのそばには大きい白い菌が泡を噴いていて、菌の笠は落ちているのであった。  これで奇怪なる油売りの正体は判った。  菌は人である。蝦蟆は驢馬である。筆筒は油桶である。この油売りはひと月ほども前から城下の里へ売りに来ていたもので、それを買う人びとも品がよくて価の廉いのを内々不思議に思っていたのであるが、さてその正体があらわれると、その油を食用に供した者はみな煩い付いて、俄かに吐いたり瀉したりした。    九尾狐  むかしの説に、野狐の名は紫狐といい、夜陰に尾を撃つと、火を発する。怪しい事をしようとする前には、かならず髑髏をかしらに戴いて北斗星を拝し、その髑髏が墜ちなければ、化けて人となると言い伝えられている。  劉元鼎が蔡州を治めているとき、新破の倉場に狐があばれて困るので、劉は捕吏をつかわして狐を生け捕らせ、毎日それを毬場へ放して、犬に逐わせるのを楽しみとしていた。こうして年を経るうちに、百数頭を捕殺した。  後に一頭の疥のある狐を捕えて、例のごとく五、六頭の犬を放したが、犬はあえて追い迫らない。狐も平気で逃げようともしない。不思議に思って大将の家の猟狗を連れて来た。監軍もまた自慢の巨犬を牽いて来たが、どの犬も耳を垂れて唯その狐を取り巻いているばかりである。暫くすると、狐は跳って役所の建物に入り、さらに脱け出して城の墻に登って、その姿は見えなくなった。  劉はその以来、狐を捕らせない事にした。道士の術のうちに天狐の法というのがある。天狐は九尾で金色で、日月宮に使役されているのであるという。    妬婦津  伝えて言う、晋の大始年中、劉伯玉の妻段氏は字を光明といい、すこぶる嫉妬ぶかい婦人であった。  伯玉は常に洛神の賦を愛誦して、妻に語った。 「妻を娶るならば、洛神のような女が欲しいものだ」 「あなたは水神を好んで、わたしをお嫌いなさるが、わたしとても神になれないことはありません」  妻は河に投身して死んだ。それから七日目の夜に、彼女は夫の夢にあらわれた。 「あなたは神がお好きだから、わたしも神になりました」  伯玉は眼が醒めて覚った。妻は自分を河へ連れ込もうとするのである。彼は注意して、その一生を終るまで水を渡らなかった。  以来その河を妬婦津といい、ここを渡る女はみな衣裳をつくろわず、化粧を剥がして渡るのである。美服美粧して渡るときは、たちまちに風波が起った。ただし醜い女は粧飾して渡っても、神が妬まないと見えて無事であった。そこで、この河を渡るとき、風波の難に逢わない者は醜婦であるということになるので、いかなる醜婦もわざと衣服や化粧を壊して渡るのもおかしい。  斉の人の諺に、こんなことがある。 「よい嫁を貰おうと思ったら、妬婦津の渡し場に立っていろ。渡る女のよいか醜いかは自然にわかる」    悪少年  元和の初年である。都の東市に李和子という悪少年があって、その父を努眼といった。和子は残忍の性質で、常に狗や猫を掻っさらって食い、市中の害をなす事が多かった。  彼が鷹を臂に据えて往来に立っていると、紫の服を着た男二人が声をかけた。 「あなたは李努眼の息子さんで、和子という人ではありませんか」  和子がそうだと答えて会釈すると、二人はまた言った。 「少し子細がありますから、人通りのない所で話しましょう」  五、六歩さきの物蔭へ連れ込んで、われわれは冥府の使いであるから一緒に来てくれと言ったが、和子はそれを信じなかった。 「おまえ達は人間ではないか。なんでおれを欺すのだ」 「いや、われわれは鬼である」  ひとりがふところを探って一枚の諜状を取り出した。印の痕もまだあざやかで、李和子の姓名も分明にしるしてあった。彼に殺された犬猫四百六十頭の訴えに因って、その罪を論ずるというのである。  和子も俄かにおどろき懼れて、臂の鷹をすてて拝礼し、その上にこう言った。 「わたくしも死を覚悟しました。しかしちっとのあいだ猶予して、わたくしに一杯飲ませてください」  あなた方にも飲ませるからと言って、無理に勧めてそこらの店屋へ案内したが、二人は鼻を掩うてはいらない。さらに杜という相当の料理屋へ連れ込んだが、二人のすがたは他人に見えず、和子が独りで何か話しているので、気でも違ったのではないかと怪しまれた。彼は九碗の酒を注文して、自分が三碗を飲み、余の六碗を西の座に据えて、なんとか助けてもらう方便はあるまいかと頼んだ。  二人は顔をみあわせた。 「われわれも一酔の恩を受けたのであるから、なんとか取り計らうことにしましょう。では、ちょっと行って来るから待っていて下さい」  出て行ったかと思うと、二人は又すぐに帰って来た。 「君が四十万の銭をわきまえるならば、三年の命を仮すことにしましょう」  和子は承諾して、あしたの午の刻までにその銭を調えることに約束した。二人は酒の代を払った上に、その酒を和子に返した。で、彼は試みに飲んでみると、その味は水のごとくで、歯に沁みるほどに冷たくなっていた。和子は急いで我が家へ帰って、衣類諸道具を売り払って四十万の紙銭を買った。  約束の時刻に酒を供えて、かの紙銭を焚くと、きのうの二人があらわれてその銭を持って行くのを見た。それから三日の後に、和子は死んだ。  鬼界の三年は、人間の三日であった。    唐櫃の熊  唐の寧王が鄠県の界へ猟に出て、林のなかで獲物をさがしていると、草の奥に一つの櫃を発見した。蓋の錠が厳重に卸してあるのを、家来に命じてこじ明けさせると、櫃の内から一人の少女が出た。その子細をたずねると、彼女は答えた。 「わたくしは姓を莫と申しまして、父はむかし仕官の身でござりました。昨夜劫盗に逢いましたが、そのうちの二人は僧で、わたくしを拐引してここへ運んで参ったのでござります」  愁いを含んで訴える姿は、又なく美しく見えたので、王は悦んで自分の馬へ一緒に乗せて帰った。そのときあたかも一頭の熊を獲たので、少女の身代りにその熊を櫃に入れて、もとの如くに錠をおろして置いた。  その頃、帝は美女を求めていたので、王はかの少女を献上し、且つその子細を申し立てると、帝はそれを宮中に納れて才人の列に加えた。それから三日の後に、京兆の役人が奏上した。  鄠県の食店へ二人の僧が来て、一昼夜万銭で部屋を借り切りにした。何か法事をおこなうのだといっていたが、ただ一つの櫃を舁き込んだだけであった。その夜ふけに、ばたばたいう音がきこえて、翌あさの日の出る頃まで戸を明けないので、店の主人が怪しんで、戸をあけて窺うと、内から一頭の熊が飛び出して、人を突き倒して走り去った。二人の僧は熊に啖われたと見えて、骸骨をあらわして死んでいた。  帝はその奏聞を得て大いに笑った。すぐに寧王のもとへその事を知らせてやって、君はかの悪僧らをうまく処置してくれたと褒めた。少女は新しい唄を歌うのが上手で、莫才人囀と言いはやされた。    徐敬業  唐の徐敬業は十余歳にして弾射を好んだ。小弓をもって弾丸を射るのである。父の英公は常に言った。 「この児の人相は善くない。後には我が一族を亡ぼすものである」  敬業は射術ばかりでなく、馬を走らせても消え行くように早く、旧い騎手も及ばない程であった。英公は猟を好んだので、あるとき敬業を同道して、森のなかへはいって獣を逐い出させた。彼のすがたが森の奥に隠れた時に、英公は風上から火をかけた。父は我が子の将来をあやぶんで焼き殺そうとしたのである。  敬業は火につつまれて、逃るるところのないのを覚るや、乗馬の腹を割いてその中に伏していた。火が過ぎて、定めて焼け死んだと思いのほか、彼は馬の血を浴びて立ち上がったので、父の英公もおどろいた。  敬業は後に兵を挙げて、則天武后を討とうとして敗れた。    死婦の舞  鄭賓于の話である。彼が曾て河北に客となっているとき、村名主の妻が死んでまだ葬らないのがあった。日が暮れると、その家の娘子供は、どこかで音楽の声がきこえるように思ったが、その声は次第に近づいて庭さきへ来た。妻の死骸は動き出した。  音楽の声は室内へはいって、梁か棟のあいだに在るかと思うと、死骸は起って舞いはじめた。声はさらに表の方へ出ると、それに導かれたように死骸もあるき出して、ついに門外へ立ち去った。家内一同はおどろき懼れたが、月の暗い夜であるので、追うことも出来なかった。  夜ふけに名主は外から帰って来て、その話を聞くと、彼はふとい桑の枝を折り取った。それから酒をしたたかに飲んで、大きい声で罵りわめきながら、墓場の森の方角へたずねてゆくと、およそ五、六里(六丁一里)の後、柏の樹の森の上で又もやかの音楽の声がきこえた。  近寄ってみると、樹の下に明るい火が燃えて、そこに妻の死骸が舞っているのである。彼は桑の杖を振りあげて死骸を撃った。  死骸が倒れると、怪しい楽の声もやんだ。彼は死骸を背負って帰った。 底本:「中国怪奇小説集」光文社    1994(平成6)年4月20日第1刷発行 ※校正には、1999(平成11)年11月5日3刷を使用しました。 入力:tatsuki 校正:小林繁雄 2003年7月31日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。