渾沌未分 岡本かの子 Guide 扉 本文 目 次 渾沌未分  小初は、跳ね込み台の櫓の上板に立ち上った。腕を額に翳して、空の雲気を見廻した。軽く矩形に擡げた右の上側はココア色に日焦けしている。腕の裏側から脇の下へかけては、さかなの背と腹との関係のように、急に白く柔くなって、何代も都会の土に住み一性分の水を呑んで系図を保った人間だけが持つ冴えて緻密な凄みと執拗な鞣性を含んでいる。やや下ぶくれで唇が小さく咲いて出たような天女型の美貌だが、額にかざした腕の陰影が顔の上半をかげらせ大きな尻下りの眼が少し野獣じみて光った。  額に翳した右の手先と、左の腰盤に当てた左の手首の釣合いが、いつも天候を気にしている職業人のみがする男型のポーズを小初にとらせた。中柄で肉の締っているこの女水泳教師の薄い水着下の腹輪の肉はまだ充分発達しない寂しさを見せてはいるが、腰の骨盤は蜂型にやや大きい。そこに母性的の威容と逞ましい闘志とを潜ましている。  蒼空は培養硝子を上から冠せたように張り切ったまま、温気を籠らせ、界隈一面の青蘆の洲はところどころ弱々しく戦いている。ほんの局部的な風である。大たい鬱結した暑気の天地だ。荒川放水路が北方から東南へ向けまず二筋になり、葛西川橋の下から一本の大幅の動きとなって、河口を海へ融かしている。 「何という判らない陽気だろう」  小初は呟いた。  五日後に挙行される遠泳会の晴雨が気遣われた。  西の方へ瞳を落すと鈍い焔が燻って来るように、都会の中央から市街の瓦屋根の氾濫が眼を襲って来る。それは砂町一丁目と上大島町の瓦斯タンクを堡塁のように清砂通りに沿う一線と八幡通りに沿う一線に主力を集め、おのおの三方へ不規則に蔓延している。近くの街の屋根瓦の重畳は、躍って押し寄せるように見えて、一々は動かない。そして、うるさいほど肩の数を聳かしている高層建築と大工場。灼熱した塵埃の空に幾百筋も赫く爛れ込んでいる煙突の煙。  小初は腰の左手を上へ挙げて、額に翳している右の腕に添え、眩しくないよう眼庇しを深くして、今更のように文化の燎原に立ち昇る晩夏の陽炎を見入って、深い溜息をした。  父の水泳場は父祖の代から隅田川岸に在った。それが都会の新文化の発展に追除けられ追除けられして竪川筋に移り、小名木川筋に移り、場末の横堀に移った。そしてとうとう砂村のこの材木置場の中に追い込まれた。転々した敗戦のあとが傷ましくずっと数えられる。だが移った途端に東京は大東京と劃大され砂村も城東区砂町となって、立派に市域の内には違いなかった。それがわずかに「わが青海流は都会人の嗜みにする泳ぎだ。決して田舎には落したくない。」そういっている父の虚栄心を満足させた。父は同じ東京となった放水路の川向うの江戸川区には移り住むのを極度に恐れた。葛西という名が、旧東京人の父には、市内という観念をいかにしても受付けさせなかった。ついに父は荒川放水を逃路の限りとして背水の陣を敷き、青海流水泳の最後の道場を死守するつもりである。  このように夏稼ぎの水泳場はたびたび川筋を変えたが、住居は今年の夏前までずっと日本橋区の小網町に在った。父は夏以外ふだんの職業として反物のたとう紙やペーパアを引受けていた。和漢文の素養のある上に、ちょっと英語を習った。それでアドレスや請求文を書いて、父はイギリスの織物会社からしきりにカタログを取り寄せた。中や表紙の図案を流用しながら、自分の意匠を加えて、画工に描き上げさせ、印刷屋に印刷させて、問屋の註文に応じていた。ちらしや広告の文案も助手を使って引き受けていた。  だが地元の織物組合は進歩した。画工も進歩した。今更中間のブローカー問屋や素人の父の型の極った意匠など必要はなくなった。父の住居附きのオフィスは年々寂寥を増した。しばらく持ち堪えてはいたが、その後いろいろな事業に手を出した末が、地所ぐるみ人に取られた。その前に先祖から伝えられていた金も道具も失くしていた。だからこの夏期は夜番と云いつくろって父娘二人水泳場へ寝泊りである。  駸々と水泳場も住居をも追い流す都会文化の猛威を、一面灰色の焔の屋根瓦に感じて、小初は心の髄にまで怯えを持ったが、しかししばらく見詰めていると、怯えてわが家没落の必至の感を深くするほど、不思議とかえって、その猛威がなつかしくなって来た。結局は、どうなりこうなりして、それがまた自分を救ってくれる力となるのではあるまいかと感ぜられて来た。その都会の猛威に対する自分のはらはらしたなつかしさは肉体さえも抱え竦められるようである。このなつかしさに対しては、去年の夏から互に許し合っている水泳場近くの薄給会社員の息子薫少年との小鳥のような肉体の戯れはおかしくて、想い出すさえ恥じを感ずる。  それに引きかえて、自分への興味のために、父の旧式水泳場をこの材木堀に無償で置いてくれ、生徒を世話してくれたり、見張りの船を漕いでくれたりして遠巻きに自分に絡まっている材木屋の五十男貝原を見直して来た。必要がいくらかでも好みに変って来たのであろうか。小初は自分の切ない功利心に眼をしばだたいた。  とにかく、父や自分の仇敵である都会文化の猛威に対して、少しも復讐の気持が起らず、かえって、その逞ましさに慄えて魅着する自分は、ひょっとして、大変な錯倒症の不良娘なのではあるまいか。だが何といっても父や自分の魂の置場はあそこ──都会──大東京の真中よりほかにないのだから仕方がない、是非もない……。 「小初先生。時間ですよ。翡翠の飛込みのお手本をやって下さい」  水だらけの子供を十人ばかり乗せ、櫓台の下へ田舟を漕ぎ近づけて、材木屋の貝原が、大声を挙げた。飛騨訛りがそう不自然でなく東京弁に馴致された言葉つきである。 「お手本をも一度みんなに見せといて、それからやらせます」  脂肪づいた小富豪らしい身体に、小初と同じ都鳥の紋どころの水着を着て、貝原はすっかり水泳場の助手になり済ましている。小初はいつもよりいくらか滑らかに答えた。 「いますぐよ。少しぐらい待ってよ」  だが、息づまるような今までの気持からいくらか余裕をつけようとして、小初はもう一度放水路の方を見やった。一めん波が菱立って来た放水路の水面を川上へ目を遡らせて行くと、中川筋と荒川筋の堺の堤の両端を扼している塔橋型の大水門の辺に競走のような張りを見せて舟々は帆を上げている。小初の声は勇んだ。 「確かだわ。今晩は夕立ち、明日から四五日お天気は大丈夫よ」 「まあ、そんなところですなあ。遠泳会はうまく行くね」  掌を差し出して風の脈に触れてみてから貝原は相槌を打った。  肩や両脇を太紐で荒くかがって風の抜けるようにしてある陣羽織式の青海流の水着を脱ぐと下から黒の水泳シャツの張り付いた小初の雄勁な身体が剥き出された。こういう職務に立つときの彼女の姿態に針一突きの間違いもなく手間の極致を尽して彫り出した象牙細工のような非人情的な完成が見られた。人間の死体のみが持つ虚静の美をこの娘は生ける肉体に備えていた。小初は、櫓板の端にすらりと両股を踏み立て、両手を前方肩の高さに伸し、胸を張って呼吸を計った。やや左手の眼の前に落ちかかる日輪は爛れたような日中のごみを風に吹き払われ、ただ肉桃色の盆のように空虚に丸い。  ざわざわ鳴り続け出した蘆洲の、ところどころ幾筋も風筋に当る部分は吹き倒れて泡をたくさん浮かした上げ潮が凪ぎあとの蘆洲の根方にだぶつくのが覗ける。  青海流の作法からいうと翡翠の飛込み方は、用意の号令で櫓の端へ立ち上って姿勢を調え、両腕を前方へさし延べるときが挙動の一である。両手を後へ引いて飛込みの姿勢になるときが二で、跳ね出す刹那が三の、すべてで三挙動である。いま小初は黙って「一」の動作を初めたが、すぐ思い返して途中からの「二」と号令をかけ跳び込みの姿勢を取った。  それは、まったく翡翠が杭の上から魚影を覗う敏捷でしかも瀟洒な姿態である。そして、このとき今まで彫刻的に見えた小初の肉体から妖艶な雰囲気が月暈のようにほのめき出て、四囲の自然の風端の中に一箇不自然な人工的の生々しい魅惑を掻き開かせた。と見る間に「三!」と叫んで小初は肉体を軽く浮び上らせ不思議な支えの力で空中の一箇所でたゆたい、そこで、見る見る姿勢を逆に落しつつ両脚を梶のように後へ折り曲げ両手を突き出して、胴はあくまでしなやかに反らせ、ほとんど音もなく水に体を鋤き入れた。  目を眩しそうにぱちつかせて、女教師の動作の全部を見届けた貝原は 「型が綺麗だなあ」  と思わず嘆声を挙げてやや晦冥になりかけて来た水上三尺の辺を喰い付きそうな表情で見つめた。  都会の中央へ戻りたい一心から夢のような薫少年との初恋を軽蔑し、五十男の世才力量に望をかけて来た転機の小初は、翡翠型の飛込みの模範を示す無意識の中にも、貝原に対して異性の罠を仕込んでいた。子供のうちから新舞踊を習わせられ、レヴュウ・ガールとも近附のある小初は、媚というねたねたしたものを近代的な軽快な魅力に飜訳し、古典的な青海流の飛込みの型にそっと織り込ますことぐらい容易である。生ぬるい水中へぎゅーんと五体がただ一つの勢力となって突入し、全皮膚の全感覚が、重くて自由で、柔軟で、緻密な液体に愛撫され始めると何もかも忘れ去って、小初は「海豚の歓び」を歓び始める。小初の女学校時代からのたった一人の親友、女流文学者豊村女史にある時、小初は水中の世界の荒唐無稽な歓びを、切れ切れの体験的な言葉で語った。すると友達はその感情に関係ある的確な文学的表現を紹介した。 クッションというなら全部クッションだ。 羽根布団というなら全部羽根布団だ。 だが、水の中は、溶けて自由な もっといいもの──愛。 跳ねて破れず、爪割いて 掻き毮らりょうか──愛。 それで海豚は眼を細めている。 一生、陸に上らぬ。  これは希臘の擬古狂詩の断片をざっと飜訳したものだそうだ。それと同じような意味を父の敬蔵は老荘の思想から採って、「渾沌未分の境涯」だといつも小初に説明していた。  瞼に水の衝動が少くなると小初は水中で眼を開いた。こどもの時分から一人娘を水泳の天才少女に仕立てるつもりの父親敬蔵は、かなり厳しい躾け方をした。水を張った大桶の底へ小石を沈めておいて、幼い小初に銜え出さしたり、自分の背に小初を負うたまま隅田川の水の深瀬に沈み、そこで小初を放して独りで浮き上らせたり、とにかく、水というものから恐怖を取り去り、親しみを持たせるため家伝を倍加して小初を躾けた。  水中は割合に明るかった。磨硝子色に厚みを保って陽気でも陰気でもなかった。性を脱いでしまった現実の世界だった。黎明といえば永遠な黎明、黄昏といえば永遠に黄昏の世界だった。陸上の生活力を一度死に晒し、実際の影響力を鞣してしまい、幻に溶かしている世界だった。すべての色彩と形が水中へ入れば一律に化生せしめられるように人間のモラルもここでは揮発性と操持性とを失った。いわば善悪が融着してしまった世界である。ここでは旧套の良心過敏性にかかっている都会娘の小初の意地も悲哀も執着も性を抜かれ、代って魚介鼈が持つ素朴不逞の自由さが蘇った。小初はしなやかな胴を水によじり巻きよじり巻き、飽くまで軟柔の感触を楽んだ。  小初は掘り下げた櫓台下の竪穴から浅瀬の泥底へ水を掻き上げて行くと、岸の堀垣の毀れから崩れ落ちた土が不規則なスロープになって水底へ影をひくのが朦朧と目に写って来た。  この辺一体に藻や蘆の古根が多く、密林の感じである。材木繋留の太い古杭が朽ちてはうち代えられたものが五六本太古の石柱のように朦朧と見える。  その柱の一本に掴って青白い生ものが水を掻いている。薫だ。薫は小初よりずっと体は大きい。顎や頬が涼しく削げ、整った美しい顔立ちである。小初はやにわに薫の頸と肩を捉えて、うす紫の唇に小粒な白い歯をもって行く。薫は黙って吸わせたままに、足を上げ下げして、おとなしく泳いでいたが、小初ほど水中の息が続かないので、じきに苦悶の色を見せはじめた。それからむやみに水を掻き裂きはじめた。とうとう絶体絶命の暴れ方をしだした。小初は物馴れた水に溺れかけた人間の扱い方で、相手に纏いつかれぬよう捌きながら、なお少しこの若い生ものの魅力の精をば吸い取った。  借家を探しに行った父親の敬蔵が帰って来て雨上りの水泳場で父娘二人きりの夕飯が始まった。借家はもう半月もして水泳場が閉鎖すると同時にたちまち二人に必要になるのだが、価値の釣り合などで敬蔵はなかなか見つけかねた。場所はまだ下町の中央に未練があって、毎日、その方面へ探しに行くらしかった。帰って来たときの疎髯を貯えた父の立派な顔が都会の紅塵に摩擦された興奮と、疲れとで、異様に歪んで見えた。もしかすると、どこかで一杯ひっかけた好きな洋酒の酔いがまだ血管の中に残っているのかも知れない。  都会育ちの美食家の父娘は、夕飯の膳を一々伊勢丹とかその他洲崎界隈の料理屋から取り寄せた。  自転車で岡持ちを運んで来る若者は遠路をぶつぶつ叱言いったが、小初の美貌と、父親が宛てがう心づけとで、この頃はころころになって、何か新らしく仕込んだ洒落の一つも披露しながら、片隅の焜炉で火を焙して、お椀の汁を適度に温め、すぐ箸が執れるよう膳を並べて帰って行く。 「不味いものを食うくらいならいっそ、くたばった方がいい」  これは、美味のないとき、膳の上の食品を罵倒する敬蔵の云い草だが、ひょっとすると、それが辛辣な事実で父娘の身の上の現実ともなりかねない今日この頃では、敬蔵もうっかり自分の言葉癖は出しにくかった。父娘は夜な夜な「最後の晩餐」という敬虔な気持で言葉少なに美味に向った。  いったいが言葉少なの父娘だった。わけて感情を口に出すのを敬蔵は絶対に避けた。そういうことは嫌味として旧東京の老人はついにそれに対する素直な表現欲を失っていた。感情の表現にはむしろ反語か、遠廻しの象徴の言葉を使った。 「隣近所にお化粧のアラを拾うやつもなくてさばさばしたろう」  これが唯一の、娘も共に零落させた父の詫びの表明でもあり、心やりの言葉でもあった。小初は父の気持ちを察しないではないが、「何ぼ何でもあんまり負け惜しみ過ぎる」と悲しく疎まれた。  今夜はまたとても高踏的な漢籍の列子の中にあるという淵の話を持ち出して父は娘に対する感情をカモフラージュした。 「淵には九つの性質がある。静水をじっと湛えているのも淵だ。流れて来た水のしばらく淀むところも淵だ。底から湧いた水が豊かに溜り、そしてまた流れ出るところも淵だ。滴たって落つる水を受け止めているのも淵だ──」  父親は大体こんなふうに淵が水を受け入れる諸条件を九つの範疇にまとめて、 「これを九淵の説と云って、水はいろいろの変化で向うが、それを受け容れる淵はたった一つなのだ。この淵の無心な気持ちになっていれば世間がどう変りこっちにどう仕向けようと、余悠綽々なのだ。ここのところをわが青海流では、 死屍水かかずしてよく浮く といって、平泳ぎのこころだ」 「それは、よくおとうさんがおっしゃる、あの渾沌未分の兄弟か何かなの」  小初は食後の小楊枝を使いながら父親を弥次った。自分が人を揶揄することを好んで人から揶揄されることを嫌うのは都会的諷刺家の性分で、父親はそれが娘だとぐっと癪に触った。しばらく黙っていたが、跳ね返す警句を思いつく気力もなく、 「兄弟分でもなんでもない、全く一つのものだ」  と低い声音に渾身の力を籠めて言った。これだけ真面目に敬蔵が娘に云うことはめったにない。窮してやむを得ずこれだけまともに言ったのだ。そのせいか、彼はそのあと急に気まりの悪い衰えた顔つきをして、そっと汗を拭いた。  父親は電球の紐を伸して、水泳場の下へ入って行った。そこでしばらくごそごそしている様子だった。 「いい具合に宵闇だ。数珠子釣りに行って来るかな」  そういって、道具を乗せて田舟を漕ぎ出して行った。父のその様子を、小初は気の毒な儚い気持ちで見送ったが、結局何か忌々しい気持になった。そして一人留守番のときの用心に、いつものように入口に鍵をかけ、電燈を消して、蚊帳の中に這入り、万一忍び込むものがあるときの脅しに使う薄荷入りの水ピストルを枕元へ置いた。小初は横になり体を楽にするとピストルの薄荷がこんこん匂った。こんこん匂う薄荷が眼鼻に沁み渡ると小初は静かにもう泣いていた。思えば都会偏愛のあわれな父娘だ。それがため、父はいらだたしさにさもしく老衰して行き、自分は初恋から卑しく五十男に転換して行く……。くらやみの中で自分の功利心がぴっかり眼を見開いているのに小初の一方の心では昼間水中で味った薫の若い肉体との感触を憶い出している……。  少したつと小初はまた起き上った。父の様子を見ようと裏口の窓を開けた。雨上りの夜の天地は濃い墨色の中にたっぷり水気を溶して、艶っぽい涼味が潤沢だった。下げ汐になった前屈みの櫓台の周囲にときどき右往左往する若鰡の背が星明りに閃く。父はあまり遠くない蘆の中で、カンテラを燃して数珠子釣りをやっている。洲の中の環虫類を糸にたくさん貫いて、数珠輪のようにして水に垂らす。蘆の根方に住んでいる小鰻がそれに取りつく、環をそっと引き上げて、未練に喰い下って来る小鰻を水面近くまでおびき寄せ、わきから手網で、さっと掬い上げる。環虫類も何だか虫の中では醜い衰亡者のように思えるし、鰻だとて、やはり時代文化に取り残されたような魚ではないか。衰亡の人間が衰亡の虫を囮につかって衰亡の魚を捉えて娯しみにする。その灯明り──何と憐れ深い情景であろう。むかし父親にとってこの方法の鰻取りは単なる娯しみに過ぎなかったが、今は必死の副業である。 「ゆうべ、少し漁れ過ぎてね。始末に困るんだよ」  こんな鷹揚なものの云い方をしながら父親は獲物を鰻仲買に渡した。憐れな父子と思いながら小初はいつか今夜の父の漁れ高を胸に計算していた自分が悲しかった。  西空は一面に都会の夜街の華々しいものが踊りつ、打ち合いつ、砕けつする光の反射面のようである。特に歓楽の激しい地域を指示するように所々に群るネオンサインが光のなかへ更に強い光の輪郭を重ねている。さらにこの夜空のところどころにときどき大地の底から発せられるような奇矯な質を帯びた閃光がひらめいて、琴のかえ手のように幽毅に、世の果ての審判のように深刻に、夜景全局を刹那に地獄相に変貌せしめまた刹那にもとの歓楽相に戻す。それは何でもない。間近い城東電車のポールが電力線にスパークする光なのだが、小初は眺めているうちに──そうさ、自分に関係のない歓楽ならさっさと一閃きに滅びてしまうがいい、と思った。そのときどこからともなく、ハイヤーの滑って来る轟がして、表通りで停まったらしい。  がっしりした男の足音が、水泳場の方へ昇って来た。 「どなた」  貝原が薄暗のなかでちょっとはにかんだような恰好で立ち止った。 「私ですよ。少し遅くなりましたが、街へ踊りに出かけましょう。出ていらっしゃいませんか」 「なぜ、裏梯子から上っていらっしゃらないの」 「薄荷水をピストルで眼の中へ弾き込まれちゃかないませんからなあ」  小初は電球を捻って外出の支度をした。箪笥から着物を出して、荒削りの槙柱に縄で括りつけたロココ式の半姿見へ小初は向った。今は失くした日本橋の旧居で使っていた道具のなかからわずかに残しておいたこの手のこんだ彫刻縁の姿見で化粧をするのは、小初には寂しい。小初はまた貝原に待たれているという意識から薫のことがしとしとと身に沁みて来た。だがそれはほんの肉体的のものである。少くともいまはそう思い直さねばならない。くず折れてはならない。すべては水の中の気持で生きなければならない。向って来るものはみんな喰べて、滋養にして、私は逞ましい魚にならなければならない。小初はぐっと横着な気持になって、化粧の出来上った顔に電球を持ち添えて 「これでは、どう」と窓の葦簾張りから覗いている貝原に見せた。 「結構ですなあ。さあ出かけましょう。老先生には許可を得てますよ」  小初は電燈を消して、洲の中の父の灯をちょっと見返ってから、貝原と水泳場を脱け出した。  貝原は夏中七八遍も小初を踊りに連れ出したことがあるので、ちょっとした小初の好きな喰べものぐらい心得ていた。浅夜に瀟洒な鉄線を組み立てている清洲橋を渡って、人形町の可愛らしい灯の中で青苦い香気のある冷し白玉を喰べ、東京でも東寄りの下町の小さい踊り場を一つ二つ廻って、貝原はあっさり小初の相手をして踊る。  この界隈の踊り場には、地つきの商店の子弟が前垂を外して踊りに来る。すこし馴染になった顔にたまたま小初は相手をしてやると、 「へえ、へえ、済みません」  お客にするように封建的な揉み手をして礼をいう。小初はそれをいじらしく思って木屑臭い汗の匂を我慢して踊ってやる。  ときどき銀座界隈へまで出掛けることもある。そうすると今度はニュー・グランドとか風月堂とかモナミとか、格のある店へ入る。そこのロッジ寄りに席を取って、サッパーにしては重苦しい、豪華な肉食をこの娘はうんうん摂る。貝原は不思議がりもせず、小初をこういう性質もある娘だと鵜呑みにして、どっちにも連れて行く。  月が、日本橋通りの高層建築の上へかかる時分、貝原は今夜は珍らしく新川河岸の堀に臨む料理屋へ小初を連れ込んだ。 「待合?」  小初は堅気な料理屋と知っていて、わざと呆けて貝原に訊いた。貝原は何の衝動も見せず 「そんなところへ、若い女の先生を連れて来はしません」と云った。 「でも、いま時分、こんなに遅く、いいのかしらん」 「なに、ちっとばかり、資金を廻してある家なので、自由が利くんです」  涼しい食物の皿が五つ六つ並んで、腹の減った小初が遠慮なく箸を上げていると、貝原はビールの小壜を大事そうに飲んでいる。ぽつぽつ父親の噂を始めた。 「どうも、うちの老先生のようじゃ、とても身上の持ち直しは覚束ないですねえ。事業というものは片っぽうで先走った思い付きを引締めて、片っぽうはひとところへ噛り付きたがる不精な考えを時勢に遅れないように掻き立てて行く。ここのところがちょっとしたこつです。ところが、老先生にはこの両方の極端のところだけあって、中辺のじっくりした考えが生れ付き抜けていなさる。これじゃ網のまん中に穴があるようなもので、利というものは素通りでさ」貝原は、父親には、反感を持っていないようなものの、何の興味もないらしい口調だった。 「あたし、何にも知らないけれど、あんた、この頃でもうちの父に、何かお金のことで面倒を見ているの」 「いや、金はもう、老先生には鐚一文出しません。失くなすのは判っているんだから。それに老先生だって、一度あたしが保証の印を捺して、いまでもどんなに迷惑しているか、まさか忘れもしなさらないと見え、その後何にもいい出しなさりはしませんがね」  貝原は宮大工上りの太い手首の汗をカフスに滲ませまいとして、ぐっと腕捲りして、煽風器に当てながら、ぽつりぽつり、まだ、通しものの豆を噛んでいる。  小初は一しきり料理を喰べ終ると、いかにも東京の料理屋らしい洗煉された夏座敷をじろじろ見廻しながら、 「あなた、道楽なさったの」と何の聯想からかいきなり貝原に訊いた。 「若いときはしました。しかし、今の家内を貰ってから、福沢宗になりましてね、堅蔵ですよ」 「お金をたくさん持って面白い」 「何とか有効に使わなくちゃならないと考えて来るようになっちゃ、もう面白くありませんな」 「そう」  小初は、もう料理のコースの終りのメロンも喰べ終って、皮にたまった薄青い汁を小匙の先で掬っていた。  ふっとした拍子に貝原と小初は探り会う眼を合せた。 「今夜、何か話があるの」  小初の義務的な質問が、小初の顔立ちを引締まらせた。小初がずっと端麗に見える。その威厳がかえって貝原を真向きにさせた。貝原は悪びれず、 「相当な年配の男のいうことですから、あなたも本気で聴いて下さい。これは家内とも相談しての上ですから──まあ、私だちちっぽけなりにも身上も出来てみれば、出来のいい品のある子供が欲しいです。うちに一人ありますが、ひと口に云うとから駄目なのです。人を扱いつけてる職業ですから私にはすぐ判ります。血筋というものは争われません。何代か前からきっと立派な血が流れて来ていて、それが子孫に現われて来るんですね」 「これは家内とも相談ですが」と貝原は再び儀式的の掛け合いのように念を押して、 「小初先生。世の中には、相当な知識階級の女でも、何か資金の都合のため、人の世話になるという手があります。先生をおもちゃにする気は毛頭ありません。あなたの持っている血筋をここに新らしく立てる私の家の系図へちっとばかり注ぎ入れて頂きたいのです」  貝原の平顔は両顎がやや張って来て、利を掴むときのような狡猾な相を現わして来た。がそれもじきにまた曖昧になり、やがて単純な弱気な表情になって、ぎごちなく他所見をした。  小初は貝原の様子などには頓着せず、貝原の言葉について考え入った。──自分の媚を望むなら、それを与えもしよう。肉体を望むなら、それを与えもしよう。魂があると仮定して、それを望むなら与えもしよう。自分がこの都会の中心に復帰出来るための手段なら、総てを犠牲に投げ出しもしよう。だがこの宮大工上りの五十男の滑稽な申込みようはどうだ。 「貝原さん、子供が欲しいなんて云わずに真直ぐに私が欲しいと云ったらどうですの」 「ああ。そうですか。でもあんまり失礼だと思いまして」  貝原がようやくまともに向けた顔を真直ぐに見て、さびしい声で小初は云った。 「それで子供を生んでもらうためなんてしらじらしい、ありきたりの嘘を云ったのですか。失礼とか恥かしいとか云っている世の中じゃないと思うわ。そんなことに捉われていたから、東京人は田舎者にずんずん追いこくられてしまったのよ。私たち必死で都会を取り返さなけりゃならないのよ」小初はきつい眼をしながら云い続けた。「それには私達、どんな取引きだってするというのよ」  小初のきつい眼から涙が二三滴落ちた。貝原は身の置場所もなく恐縮した。小初は涙を拭いた。そして今度はすこし優しい声音で云った。 「でも貝原さん、何もかも遠泳会過ぎにして下さい、ね。私、あなたのいい方だってことはよく知ってるのよ」  二三日晴天が続いた。川上はだいぶ降ったと見えて、放水路の川面は赭土色を増してふくれ上った。中川放水路の堤の塔門型の水門はきりっと閉った。水泳場のある材木堀も界隈の蘆洲の根方もたっぷりと水嵩を増した。  普通の顔をして貝原は毎日水泳場へ手伝いに来た。自分の持ちものの材木の流出を防いだり櫓台の錨に石を結びつけたりした。そして見ないような振りをして、やっぱり小初の挙動に気をつけていた。  小初は四日目に来た薫を、ちょっと周囲から遠ざかった蘆洲の中の塚山へ連れて行った。二人は甲羅干の風をしながら水着のまま並んで砂の上に寝そべった。小初は薫を詰るように云った。 「あんた、何でもあたしの方から仕向けなければ……狡いのか、意気地なしなのか、どっちなのよ」  小初の言葉のしんにはきりきり真面目さが透っていながら手つきはいくらかふざけたように、薫の背筋の溝に砂をさあっと入れる。 「よしよ。僕、今日苦しんでるんだ」  薫は肘で払い除けるが、小初は関わず背筋へ入れた砂をぽんぽんと平手で叩き均らして、 「ちっとも苦しんでるように見えないわ」 「この間、水の中で君に…………、こんなに腫れた」  薫は黒くなっている唇の角をそうっと大事に差し出して見せる。 「あら、それで怒ってるの」 「違う──君はとても強い。なまじっかなこと云い出せないもの」  じりじりと照りつける陽の光と腹匍いになった塚の熱砂の熱さとが、小初の肉体を上下から挟んで、いおうようない苦痛の甘美に、小初を陥れる。小初は、「がったん、すっとこ、がったん、すっとこ」そういいながら、あらためて前に組み合せた両肘の上に下膨れの顔を載せて眠りそうな様子をする。 「なに、云ってるの」 「機械のベルトの音」  ちょうど、水泳場と塚山と三角になる地点に貝原の持ちの製板場があって、機械の止まっているのが覗かれる。 「きゅう、きれきれきれきれきれ。これは機械鋸が木を挽く音」 「ふざけるの、よしよ。真面目な相談だよ。僕は知ってる」 「知ってる? 何を」 「どうせ貝原に買われて行くんでしょう」 「誰が、どこへ」 「知ってる。みんな」 「そんなこと、誰が云った」 「誰も云わない。だけど、僕、その位なこと、わかる男だ」  薫は女のような艶めかしい両腕で涙を拭いた。小初は砂金のように濃かく汗の玉の吹き出た薫の上半身へ頭を靠れ薫の手をとった。不憫で、そして、いま「男だ」と云ったばかりの薫の声が遠い昔から自分に授っていた決定的な男性の声のような頼母しさを感じて嬉し泣きに泣けて来た。 「許す?」 「許すも許さないもありゃあしない」 「薫さん、ついてお出でよ。東京の真中で大びらに恋をしよう、ね」  小初の涙が薫の手の甲を伝って指の間から熱砂のなかに沁み入った。薫はそれを涼しいもののように眼を細めて恍惚と眺め入っていたが、突然野太い男のバスの声になって 「そりゃ、貝原さんはいい人さ、小初先生と僕のことだって大目に見ての上で世話する気かも知れませんさ。だけど、僕あ嫌いです。いくら、僕、中学出たての小僧だって、僕あそんな意気地無しにあ、なれません」 「じゃあ、どうすればいいの」 「どうも出来ません。僕あ、どうせ来月から貧乏な老朽親爺に代って場末のエナ会社の書記にならなけりゃならないし、小初先生は東京の真中で贅沢に暮らさなけりゃならない人なんだもの」  ダンスの帰りの料理屋でのいきさつ──小初を世話する約束のほぼ出来上ったことを貝原は友達である薫の父親にゆうべ打ち明けに行ったことを薫はとうとう小初にはなした。  薫の弱い消極的な諦めが、むしろ悲壮に炎天下で薫の顔を蒼く白ました。 「何も、決定的な事じゃあるまいし……」と小初は云ったが語尾は他人のように声が遠のいて行った。小初は今日まで、貝原との約束をどう薫に打ち明けようか、思いなやんでいたのである。それに自分だとてまだ貝原との約束を全然決定し切れない心に苦しめられていたのであるけれど、薫の方から、云い出されてかえって小初の心はしんと静まり返ってゆくのだった。そしてだんだん虚脱に似た無批判になってゆく心境のなかにいつか涼しい一脈の境界が透って来た。父に聞いた九淵のはなし、友が訳した希臘の狂詩──水中に潜む渾沌未分の世界……「どうでもいいわ」……小初はすべてをぶん流したあとの涼やかさを想像した。小初の泣き顔の涙も乾いて遠くの葦の葉ずれが、ひそひそと耳にささやくように聞える。小初はまたしても眠くなった。  薫は腹這いから立ち上った。腰だけの水泳着の浅いひだから綺麗な砂をほろほろ零しながらいい体格の少年の姿で歩き出した。小初はしばらくそれを白日の不思議のように見上げていた。小初は急に突きのめされるような悲哀に襲われた。自分の肉体のたった一つの謬着物をもぎ取られて、永遠に帰らぬ世界へ持ち去られるような気持ちに、小初は襲われた。  小初もあわてて立ち上った。小初は薫の後を追って薫の腕へぎりぎりと自分の腕を捲きつけた。 「薫さん、だけど薫さん、遠泳会にはきっと来てね。精いっぱい泳ぎっこね。それでお訣れならお訣れとしようよ」 「うん」 「きっとよ、ね、きっと」 「うん、うん」  そして、薫が萎れてのろのろと遠ざかって行くのが今さら身も世もなく、小初には悲しくなった。  小初は元の砂地に坐って薫の後姿を見送った。風のないしんとした蘆洲のなかへ薫の姿は見えなくなって行った。  小初は眠れなかった。急に重くなって来た気圧で、息苦しく、むし暑く、寝返りばかりうっていたせいでもあるが、とてもじっとしていられない悲しい精力が眠気を内部からしきりに小突き覚ました。傍で寝ている酒気を帯びた父の鼾が喉にからまって苦しそうだ。父は中年で一たん治まった喘息が、またこの頃きざして来た。昨今の気候の変調が今夜は特別苦しそうだ。明日の遠泳会にも出られそうでない……。だが小初にはそんなことはどうでも、遠泳会の後に控えている貝原との問題を、どう父に打ち明けたものかしらと気づかわれる。薫との辛い気持も尾をひいているのに、父を見れば父を見るで、また父の気持ちを兼ねなければならない……小初は心づかれが一身に担い切れない思いがする。父は娘を神秘な童女に思い做して、自家偶像崇拝慾を満足せしめたい旧家の家長本能を、貝原との問題に対してどう処置するであろうか。自分の娘は超人的な水泳の天才である。この誇りが父の畢世の理想でもあり、唯一の事業でもあった。そのため、父は母の歿後、後妻も貰わないで不自由を忍んで来たのであったが、蔭では田舎者と罵倒している貝原から妾に要求され、薫と男女関係まであることを知ったなら父の最後の誇りも希望も毮り落されてしまうのである。  うっかり打ちあけられるものではない……。だが都会人の気の弱いものが、一たん飜ると思い切った偽悪者になることも、小初はよく下町で見受けている例である。貝原もそれを見越して父に安心しているのではないか。案外もろく父もそこに陥ちいらぬとも限らない。陥ちいってくれることを自分は父に望むのか。それを望むよりほか二人の生きて行く道はないのか……。  船虫が蚊帳の外の床でざわざわ騒ぐ。野鼠でも柱を伝って匍い上って来たのだろうか。小初は団扇で二つ三つ床を叩いて追う。その音に寝呆けて呼びもしない父が、「え?」と返事をして寝返りをうつ、うつろな声。──あわれな父とそしてあわれな娘。  小初は父の脱いだ薄い蒲団をそっと胸元へ掛け直してやった。  小初は闇のなかでぱっちり眼を開けているうちに、いつか自分の体を両手で撫でていた。そして嗜好に偏る自身の肉体について考え始めた。小初は子供のうち甘いものを嫌って塩せんべいしか偏愛して喰べようとしなかった自分を思い出した。自分は肉体も一種を限ってのほか接触には堪えかねる素質を持っているのではないかと考えられて来た。自分は薫をさまで心で愛しているとは思わない。それだのになぜこうまで薫の肉体に訣れることが悲しいのか、単純な何の取柄もない薫より、世の中をずっと苦労して来た貝原にむしろ性格の頼み甲斐を感じるのに、肉体ばかりはかえって強く離反して行こうとするのが、今日このごろはなおさらまざまざ判って来た。  自分の肉体がむしろ憎い──一方の生活慾を満足させようとあせりながら、その方法(貝原に買われること)に離反する。矛盾と我儘に自分を悩め抜く自分の肉体が今は小初に憎くなった。──こんな体……こんな私……いっそなくなってしまえばいい……。小初は子供のように野蛮に自分の体の一ヶ処を捻ってみた。痛いのか情けないのか、何か恨みに似たような涙がするすると流れ出た。また捻った……また捻った……すると思考がだんだん脱落していって頭が闇の底の方へ楽々と沈んで行った。  小初は朝早く眼が覚めた。空は黄色く濁って、気圧は昨夜よりまだ重かった。寝巻一重の肌はうすら冷たい。 「秋が早く来過ぎたかしらん」  小初は独りごちながら窓から外を覗いてみた。  靄だ。  よく見ていると靄は水上からだんだん灰白色の厚味を増して来る。近くの蘆洲は重たい露でしどろもどろに倒れている。  今日は青海流水泳場の遠泳会の日なのである。  小初は気が重かった。体もどこか疲れていた。けれども、父親の老先生が朝食後ひどく眩暈を催して水にはいれぬことになってしまったので、小初先生が先導と決った。  十時頃から靄は雨靄と変ってしまった。けだるい雨がぽつりぽつり降って来た。  小初は気のない顔をして少しずつ集って来る生徒達に応待していたが、助手格の貝原が平気な顔で見張船の用意に出かけたりする働き振りに妙な抵抗するような気持が出て、不自然なほど快活になった。 「みなさん。大丈夫よ。いまじき晴れて来ますわよ」  小初が赤い小旗を振って先に歩き出すと、雨で集りの悪い生徒達の団体がいつもの大勢の時より、もっと陽気に噪ぎ出した。  薫も途中から来て交った。濡れた道を遠泳会の一行は葛西川の袂まで歩いた。そこから放水路の水へ滑り込んで、舟に護られながら海へ下って行くのだ。  小初が先頭に水に入った。男生、女生が二列になってあとに続いた。列には泳ぎ達者が一人ずつ目印の小旗を持って先頭に泳いだ。  水の濁りはだいぶとれたが、まだ草の葉や材木の片が泡に混って流れている。大潮の日を選んであるので、流れは人数のわずかな遠泳隊をついつい引き潮の勢いに乗せて海へ曳いて行く。  靄に透けてわずかに見える両岸が唯一の頼みだった。小初のすぐあとに貝原が目印の小旗を持って泳いで来る。薫はときどき小初の側面へ泳ぎ出る。黙って泳いでいる。生徒達は今日の遠泳会を一度も船へ上って休まず、コースを首尾好く泳ぎ終せれば一級ずつ昇級するのである。彼等は勇んで「ホイヨー」「ホイヨー」と、掛声を挙げながら、ついて来る。  行く手に浮寝していた白い鳥の群が羽ばたいて立った。勇み立って列の中で抜手を切る生徒があると貝原が大声で怒鳴った。 「くたびれるから抜手を切っちゃいかん」  河口西側の蘆洲をかすめて靄の隙から市の汚水処分場が見え出した。  ここまで来ると潮はかなり引いていて、背の高い子供は、足を延ばすと、爪先がちょいちょい底の砂に触れた。  小初は振り返って云った。 「さあ、ここからみんな抜き手よ」  やがて一行は扇形に開く河口から漠々とした水と空間の中へ泳ぎ入った。小初はだんだん泳ぎ抜き、離れて、たった一人進んでいるのか退いているのか、ただ無限の中に手足を動かしている気がし出した。小初が無闇に泳ぎ抜くのは、小初が興奮しているからである。初め小初は時々自分の側面に出て来る薫の肉体に胸が躍った。が、その感じが貝原の小初を呼び立てる高声に交り合ううち、両方から同時に受ける感じがだんだんいまわしくなって来た。反感のような興奮がだんだん小初の心身を疲らせて来ると薫の肉体を見るのも生々しい負担になった。貝原の高声もうるさくなった。小初は無闇やたらに泳ぎ出した。生徒達の一行にさえ頓着なしに泳ぎだした。するうち小初に不思議な性根が据って来た。  こせこせしたものは一切抛げ捨ててしまえ、生れたてのほやほやの人間になってしまえ。向うものが運命なら運命のぎりぎりの根元のところへ、向うものが事情なら、これ以上割り切れない種子のところに詰め寄って、掛値なしの一騎打の勝負をしよう。この勝負を試すには、決して目的を立ててはいけない。決して打算をしてはいけない。自分の一切を賽にして、投げてみるだけだ。そこから本当に再び立ち上がれる大丈夫な命が見付かって来よう。今、なんにも惜むな。今、自分の持ち合せ全部をみんな抛げ捨てろ──一切合財を抛げ捨てろ──。  渾沌未分…………  渾沌未分…………  小初がひたすら進み入ろうとするその世界は、果てしも知らぬ白濁の波の彼方の渾沌未分の世界である。 「泳ぎつく処まで……どこまでも……どこまでも……誰も決してついて来るな」  と口に出しては云わなかったが、小初は高まる波間に首を上げて、背後の波間に二人の男のついて来るのを認めた。薫は黙って抜き手を切るばかり、貝原は懸命な抜き手の間から怒鳴り立てた。 「ばか……どこまで行くんだ……ばか、きちがい……小初……先生……小初先生……ばか……ばか……」  風の加った雨脚の激しい海の真只中だ。もはや、小初の背後の波間には追って来る一人の男の姿も見えない。灰色の恍惚からあふれ出る涙をぼろぼろこぼしながら、小初はどこまでもどこまでも白濁無限の波に向って抜き手を切って行くのであった。 (昭和十一年九月) 底本:「ちくま日本文学全集 岡本かの子」筑摩書房    1992(平成4)年2月20日第1刷発行    1998(平成10)年3月15日第2刷発行 底本の親本:「岡本かの子全集」冬樹社    1974(昭和49)年~1978(昭和53)年 初出:「文芸」    1936(昭和11)年9月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:土屋隆 校正:門田裕志、小林繁雄 2007年8月29日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。