妖怪年代記 泉鏡花 Guide 扉 本文 目 次 妖怪年代記      一  予が寄宿生となりて松川私塾に入りたりしは、英語を学ばむためにあらず、数学を修めむためにあらず、なほ漢籍を学ばむことにもあらで、他に密に期することのありけるなり。  加州金沢市古寺町に両隣無き一宇の大廈は、松山某が、英、漢、数学の塾舎となれり。旧は旗野と謂へりし千石取の館にして、邸内に三件の不思議あり、血天井、不開室、庭の竹藪是なり。  事の原由を尋ぬるに、旗野の先住に、何某とかや謂ひし武士のありけるが、過まてることありて改易となり、邸を追はれて国境よりぞ放たれし。其室は当時家中に聞えし美人なりしが、女心の思詰めて一途に家を明渡すが口惜く、我は永世此処に留まりて、外へは出でじと、其居間に閉籠り、内より鎖を下せし後は、如何かしけむ、影も形も見えずなりき。  其後旗野は此家に住ひつ。先住の室が自ら其身を封じたる一室は、不開室と称へて、開くことを許さず、はた覗くことをも禁じたりけり。  然るからに執念の留まれるゆゑにや、常には然せる怪無きも、後住なる旗野の家に吉事ある毎に、啾々たる婦人の泣声、不開室の内に聞えて、不祥ある時は、さも心地好げに笑ひしとかや。  旗野に一人の妾あり。名を村といひて寵愛限無かりき。一年夏の半、驟雨後の月影冴かに照して、北向の庭なる竹藪に名残の雫、白玉のそよ吹く風に溢るゝ風情、またあるまじき観なりければ、旗野は村に酌を取らして、夜更るを覚えざりき。  お村も少しくなる口なるに、其夜は心爽ぎ、興も亦深かりければ、飲過して太く酔ひぬ。人静まりて月の色の物凄くなりける頃、漸く盃を納めしが、臥戸に入るに先立ちて、お村は厠に上らむとて、腰元に扶けられて廊下伝ひに彼不開室の前を過ぎけるが、酔心地の胆太く、ほと〳〵と板戸を敲き、「この執念深き奥方、何とて今宵に泣きたまはざる」と打笑ひけるほどこそあれ、生温き風一陣吹出で、腰元の携へたる手燭を消したり。何物にか驚かされけむ、お村は一声きやつと叫びて、右側なる部屋の障子を外して僵れ入ると共に、気を失ひてぞ伏したりける。腰元は驚き恐れつゝ件の部屋を覗けば、内には暗く行灯点りて、お村は脛も露に横はれる傍に、一人の男ありて正体も無く眠れるは、蓋此家の用人なるが、先刻酒席に一座して、酔過して寝ねたるなれば、今お村が僵れ込みて、己が傍に気を失ひ枕をならべて伏したりとも、心着かざる状になむ。此腰元は春といひて、もとお村とは朋輩なりしに、お村は寵を得てお部屋と成済し、常に頤以て召使はるゝを口惜くてありけるにぞ、今斯く偶然に枕を並べたる二人が態を見るより、悪心むらむらと起り、介抱もせず、呼びも活けで、故と灯火を微にし、「かくては誰が眼にも……」と北叟笑みつゝ、忍やかに立出で、主人の閨に走行きて、酔臥したるを揺覚まし、「お村殿には御用人何某と人目を忍ばれ候」と欺きければ、短慮無謀の平素を、酒に弥暴く、怒気烈火の如く心頭に発して、岸破と蹶起き、枕刀押取りて、一文字に馳出で、障子を蹴放して驀地に躍込めば、人畜相戯れて形の如き不体裁。前後の分別に遑無く、用人の素頭、抜手も見せず、ころりと落しぬ。      二  旗野の主人は血刀提げ、「やをれ婦人、疾く覚めよ」とお村の肋を蹴返せしが、活の法にや合ひけむ、うむと一声呼吸出でて、あれと驚き起返る。  主人はハツタと睨附け、「畜生よ、男は一刀に斬棄てたれど、汝には未だ為むやうあり」と罵り狂ひ、呆れ惑ふお村の黒髪を把りて、廊下を引摺り縁側に連行きて、有無を謂はせず衣服を剥取り、腰に纏へる布ばかりを許して、手足を堅く縛めけり。  お村は夢の心地ながら、痛さ、苦しさ、恥しさに、涙に咽び、声を震はせ、「こは殿にはものに狂はせ給ふか、何故ありての御折檻ぞ」と繰返しては聞ゆれども、此方は憤恚に逆上して、お村の言も耳にも入らず、無二無三に哮立ち、お春を召して酒を取寄せ、己が両手に滴らしては、お村の腹に塗り、背に塗り、全身余さず酒漬にして、其まゝ庭に突出だし、竹藪の中に投入れて、虫責にこそしたりけれ。  深夜の出来事なりしかば、内の者ども皆眠りて知れるは絶えてあらざりき。「かまへて人に語るべからず。執成立せば面倒なり」と主人はお春を警めぬ。お村が苦痛はいかばかりなりけむ、「あら苦し、堪難や、あれよ〳〵」と叫びたりしが、次第にものも得謂はずなりて、夜も明方に到りては、唯泣く声の聞えしのみ、されば家内の誰彼は藪の中とは心着かで、彼の不開室の怪異とばかり想ひなし、且恐れ且怪みながら、元来泣声ある時は、目出度きことの兆候なり、と言伝へたりければ、「いづれも吉兆に候ひなむ」と主人を祝せしぞ愚なりける。午前少しく前のほど、用人の死骸を発見したる者ありて、上を下へとかへせしが、主人は少しも騒ぐ色なく、「手討にしたり」とばかりにて、手続を経てこと果てぬ。お村は昨夜の夜半より、藪の真中に打込まれ、身動きだにもならざるに、酒の香を慕ひて寄来る蚊の群は謂ふも更なり、何十年を経たりけむ、天日を蔽隠して昼猶闇き大藪なれば、湿地に生ずる虫どもの、幾万とも知れず群り出でて、手足に取着き、這懸り、顔とも謂はず、胸とも謂はず、むず〳〵と往来しつ、肌を嘗められ、血を吸はるゝ苦痛は云ふべくもあらざれば、悶え苦み、泣き叫びて、死なれぬ業を歎きけるが、漸次に精尽き、根疲れて、気の遠くなり行くにぞ、渠が最も忌嫌へる蛇の蜿蜒も知らざりしは、せめてもの僥倖なり、されば玉の緒の絶えしにあらねば、現に号泣する糸より細き婦人の声は、終日休む間なかりしとぞ。  其日も暮れ、夜に入りて四辺の静になるにつれ、お村が悲喚の声冴えて眠り難きに、旗野の主人も堪兼ね、「あら煩悩し、いで息の根を止めむず」と藪の中に走入り、半死半生の婦人を引出だせば、総身赤く腫れたるに、紫斑々の痕を印し、眼も中てられぬ惨状なり。  かくても未だ怒は解けず、お村の後手に縛りたる縄の端を承塵に潜らせ、天井より釣下げて、一太刀斬附くれば、お村ははツと我に返りて、「殿、覚えておはせ、御身が命を取らむまで、妾は死なじ」と謂はせも果てず、はたと首を討落せば、骸は中心を失ひて、真逆様になりけるにぞ、踵を天井に着けたりしが、血汐は先刻脛を伝ひて足の裏を染めたれば、其が天井に着くとともに、怨恨の血判二つをぞ捺したりける。此一念の遺物拭ふに消えず、今に伝へて血天井と謂ふ。  人を殺すにも法こそあれ、旗野がお村を屠りし如きは、実に惨中の惨なるものなり。家に仕ふる者ども、其物音に駈附けしも、主人が血相に恐をなして、留めむとする者無く、遠巻にして打騒ぎしのみ。殺尽せしお村の死骸は、竹藪の中に埋棄てて、跡弔もせざりけり。      三  はじめお村を讒ししお春は、素知らぬ顔にもてなしつゝ此家に勤め続けたり。人には奇癖のあるものにて、此婦人太く蜘蛛を恐れ、蜘蛛といふ名を聞きてだに、絶叫するほどなりければ、況して其物を見る時は、顔の色さへ蒼ざめて死せるが如くなりしとかや。  お村が虐殺に遭ひしより、七々日にあたる夜半なりき。お春は厠に起出でつ、帰には寝惚けたる眼の戸惑ひして、彼血天井の部屋へ入りにき。それと遽に心着けば、天窓より爪先まで氷を浴ぶる心地して、歯の根も合はず戦きつゝ、不気味に堪へぬ顔を擡げて、手燭の影幽に血の足痕を仰見る時しも、天井より糸を引きて一疋の蜘蛛垂下り、お春の頬に取着くにぞ、あと叫びて立竦める、咽喉を伝ひ胸に入り、腹より背に這廻れば、声をも得立てず身を悶え虚空を掴みて苦みしが、はたと僵れて前後を失ひけり。夜更の事とて誰も知らず、朝になりて見着けたる、お春の身体は冷たかりき、蜘蛛の這へりし跡やらむ、縄にて縊りし如く青き条をぞ画きし。  眼前お春が最期を見てしより、旗野の神経狂出し、あらぬことのみ口走りて、一月余も悩みけるが、一夜月の明かなりしに、外方に何やらむ姿ありて、旗野をおびき出すが如く、主人は居室を迷出でて、漫ろに庭を徜徉ひしが、恐しき声を発して、おのれ! といひさま刀を抜き、竹藪に躍蒐りて、えいと殺ぎたる竹の切口、斜に尖れる切先に転べる胸を貫きて、其場に命を落せしとぞ。仏家の因果は是ならむかし。  旗野の主人果てて後、代を襲ぐ子とても無かりければ、やがて其家は断絶にけり。  数歳の星霜を経て、今松川の塾となれるまで、種々人の住替りしが、一月居しは皆無にて、多きも半月を過ぐるは無し。甚だしきに到りては、一夜を超えて引越せしもあり。松川彼処に住ひてより、別に変りしこともなく、二月余も落着けるは、いと珍しきことなりと、近隣の人は噂せり。さりながらはじめの内は十幾人の塾生ありて、教場太く賑ひしも、二人三人と去りて、果は一人もあらずなりて、後にはたゞ昼の間通学生の来るのみにて、塾生は我一人なりき。  前段既に説けるが如く、予が此塾に入りたりしは、学問すべきためにはあらで、いかなる不思議のあらむかを窺見むと思ひしなり。我には許せ。性として奇怪なる事とし謂へば、見たさ、聞きたさに堪へざれども、固より頼む腕力ありて、妖怪を退治せむとにはあらず、胸に蓄ふる学識ありて、怪異を研究せむとにもあらず。俗に恐いもの見たさといふ好事心のみなり。  さて松川に入塾して、直ちに不開室を探検せんとせしが、不開室は密閉したるが上に板戸を釘付にしたれば開くこと無し。僅に板戸の隙間より内の模様を窺ふに、畳二三十も敷かるべく、柱は参差と立ならべり。日中なれども暗澹として日の光幽に、陰々たる中に異形なる雨漏の壁に染みたるが仄見えて、鬼気人に逼るの感あり。即ち隙見したる眼の無事なるを取柄にして、何等の発見せし事なく、踵を返して血天井を見る。こゝも用無き部屋なれば、掃除せしこともあらずと見えて、塵埃床を埋め、鼠の糞梁に堆く、障子襖も煤果てたり。そこぞと思ふ天井も、一面に黒み渡りて、年経る血の痕の何処か弁じがたし、更科の月四角でもなかりけり、名所多くは失望の種となる。されどなほ余すところの竹藪あり、蓋し土地の人は八幡に比し、恐れて奥を探る者無く、見るから物凄き白日闇の別天地、お村の死骸も其処に埋めつと聞くほどに、うかとは足を入難し、予は先づ支度に取懸れり。  誰にか棄てられけむ、一頭流浪の犬の、予が入塾の初より、数々庭前に入来り、そこはかと餌を𩛰るあり。予は少しく思ふよしあれば、其頭を撫で、背を摩りなどして馴近け、賄の幾分を割きて与ふること両三日、早くも我に臣事して、犬は命令を聞くべくなれり。      四  水曜日は諸学校に授業あるに関らず、私塾大抵は休暇なり。予は閑に乗じ、庭に出でて彼の竹藪に赴けり。然るに予てより斥候の用に充てむため馴し置きたる犬の此時折よく来りければ、彼を真先に立たしめて予は大胆にも藪に入れり。行くこと未だ幾干ならず、予に先むじて駈込みたる犬は奥深く進みて見えずなりしが、哬呀何事の起りしぞ、乳虎一声高く吠えて藪中俄に物騒がし、其響に動揺せる満藪の竹葉相触れてざわ〳〵〳〵と音したり。予はひやりとして立停まりぬ。稍ありて犬は奥より駈来り、予が立てる前を閃過して藪の外へ飛出だせり。其剣幕に驚きまどひて予も慌たゞしく逃出だし、只見れば犬は何やらむ口に銜へて躍り狂ふ、こは怪し口に銜へたるは一尾の魚なり、そも何ぞと見むと欲して近寄れば、獲物を奪ふとや思ひけむ、犬は逸散に逃去りぬ。予は茫然として立ちたりけるが、想ふに藪の中に住居へるは、狐か狸か其類ならむ。渠奴犬の為に劫かされ、近鄰より盗来れる午飯を奪はれしに極まりたり、然らば何ほどのことやある、と爰に勇気を回復して再び藪に侵入せり。  畳翠滋蔓繁茂せる、竹と竹との隙間を行くは、篠突く雨の間を潜りて濡れまじとするの難きに肖たり。進退頗る困難なるに、払ふ物無き蜘蛛の巣は、前途を羅して煙の如し。蛇も閃きぬ、蜥蜴も見えぬ、其他の湿虫群をなして、縦横交馳し奔走せる状、一眼見るだに胸悪きに、手足を縛され衣服を剥がれ若き婦人の肥肉を酒塩に味付けられて、虫の膳部に佳肴となりしお村が当時を憶遣りて、予は思はずも慄然たり。  こゝはや藪の中央ならむと旧来し方を振返れば、真昼は藪に寸断されて点々星に髣髴たり。なほ何程の奥やあると、及び腰に前途を視む。時其時、玄々不可思議奇絶怪絶、紅きものちらりと見えて、背向の婦人一人、我を去る十歩の内に、立ちしは夢か、幻か、我はた現心になりて思はず一歩引退れる、とたんに此方を振返りし、眼口鼻眉如何で見分けむ、唯、丸顔の真白き輪郭ぬつと出でしと覚えしまで、予が絶叫せる声は聞えで婦人が言は耳に入りぬ、「こや人に説ふ勿れ、妾が此処にあることを」一種異様の語気音調、耳朶にぶんと響き、脳にぐわら〳〵と浸み渡れば、眼眩み、心消え、気も空になり足漾ひ、魂ふら〳〵と抜出でて藻脱となりし五尺の殻の縁側まで逃げたるは、一秒を経ざる瞬間なりき。腋下に颯と冷汗流れて、襦袢の背はしとゞ濡れたり。馳せて書斎に引籠り机に身をば投懸けてほつと吐く息太く長く、多時観念の眼を閉ぢしが、「さても見まじきものを見たり」と声を発して呟きける。「忍ぶれど色に出にけり我恋は」と謂ひしは粋なる物思ひ、予はまた野暮なる物思に臆病の色頬に出でて蒼くなりつゝ結ぼれ返るを、物や思ふと松川はじめ通学生等に問はるゝ度に、口の端むず〳〵するまで言出だしたさに堪ざれども、怪しき婦人が予を戒め、人に勿謂ひそと謂へりしが耳許に残り居りて、語出でむと欲する都度、おのれ忘れしか、秘密を漏らさば、活けては置かじと囁く様にて、心済まねば謂ひも出でず、もしそれ胸中の疑磈を吐きて智識の教を請けむには、胸襟乃ち春開けて臆病疾に癒えむと思へど、無形の猿轡を食まされて腹のふくるゝ苦しさよ、斯くて幽玄の裡に数日を閲せり。  一夕、松川の誕辰なりとて奥座敷に予を招き、杯盤を排し酒肴を薦む、献酬数回予は酒といふ大胆者に、幾分の力を得て積日の屈託稍散じぬ。談話の次手に松川が塾の荒涼たるを歎ちしより、予は前日藪を検せし一切を物語らむと、「実は……」と僅に言懸けける、正に其時、啾々たる女の泣声、針の穴をも通らむず糸より細く聞えにき。予は其を聞くと整しく口をつぐみて悄気返れば、春雨恰も窓外に囁き至る、瀟々の音に和し、長吁短歎絶えてまた続く、婦人の泣音怪むに堪へたり。      五 「あれは何が泣くのでせう」と松川に問へば苦い顔して、談話を傍へそらしたるにぞ推しては問はで黙して休めり。ために折角の酔は醒めたれども、酔うて席に堪へずといひなし、予は寝室に退きつ。思へば好事には泣くとぞ謂ふなる密閉室の一件が、今宵誕辰の祝宴に悠々歓を尽すを嫉み、不快なる声を発して其快楽を乱せるならむか、あはれ忌むべしと夜着を被りぬ。眼は眠れども神は覚めたり。  寝られぬまゝに夜は更けぬ。時計一点を聞きて後、漸く少しく眠気ざし、精神朦々として我我を弁ぜず、所謂無現の境にあり。時に予が寝ねたる室の襖の、スツとばかりに開く音せり。否唯音のしたりと思へるのみ、別に誰そやと問ひもせず、はた起直りて見むともせず、うつら〳〵となし居れり。然るにまた畳を摺来る跫音聞えて、物あり、予が枕頭に近寄る気勢す、はてなと思ふ内に引返せり。少時してまた来る、再び引返せり、三たびせり。  此に於て予は猛然と心覚めて、寝返りしつゝ眼を睜き、不図一見して蒼くなりぬ。予は殆ど絶せむとせり、そも何者の見えしとするぞ、雪もて築ける裸体の婦人、あるが如く無きが如き灯の蔭に朦朧と乳房のあたりほの見えて描ける如く彳めり。  予は叫ばむとするに声出でず、蹶起きて逃げむと急るに、磐石一座夜着を圧して、身動きさへも得ならねば、我あることを気取らるまじと、愚や一縷の鼻息だもせず、心中に仏の御名を唱へながら、戦く手足は夜着を煽りて、波の如くに揺らめいたり。  婦人は予を凝視むるやらむ、一種の電気を身体に感じて一際毛穴の弥立てる時、彼は得もいはれぬ声を以て「藪にて見しは此人なり、テモ暖かに寝たる事よ」と呟けるが、まざ〳〵と聞ゆるにぞ、気も魂も身に添はで、予は一竦に縮みたり。  斯くて婦人が無体にも予が寝し衾をかゝげつゝ、衝と身を入るゝに絶叫して、護謨球の如く飛上り、室の外に転出でて畢生の力を籠め、艶魔を封ずるかの如く、襖を圧へて立ちけるまでは、自分なせし業とは思はず、祈念を凝せる神仏がしかなさしめしを信ずるなり。  寒さは寒し恐しさにがた〳〵震少しも止まず、遂に東雲まで立竦みつ、四辺のしらむに心を安んじ、圧へたる戸を引開くれば、臥戸には藻脱の殻のみ残りて我も婦人も見えざりけり。其夜の感情、よく筆に写すを得ず、いかむとなれば予は余りの恐しさに前後忘却したればなり。  然らでも前日の竹藪以来、怖気の附きたる我なるに、昨夜の怪異に胆を消し、もはや斯塾に堪らずなりぬ。其日の中に逃帰らむかと已に心を決せしが、さりとては余り本意無し、今夜一夜辛抱して、もし再び昨夜の如く婦人の来ることもあらば度胸を据ゑて其の容貌と其姿態とを観察せむ、あはよくば勇を震ひて言葉を交し試むべきなり。よしや執着の留りて怨を後世に訴ふるとも、罪なき我を何かせむ、手にも立たざる幻影にさまで恐るゝことはあらじ、と白昼は何人も爾く英雄になるぞかし。逢魔が時の薄暗がりより漸次に元気衰へつ、夜に入りて雨の降り出づるに薄ら淋しくなり増りぬ。漫に昨夜を憶起して、転た恐怖の念に堪へず、斯くと知らば日の中に辞して斯塾を去るべかりし、よしなき好奇心に駆られし身は臆病神の犠牲となれり。  只管洋灯を明くする、これせめてもの附元気、机の前に端坐して石の如くに身を固め、心細くも唯一人更け行く鐘を数へつゝ「早一時か」と呟く時、陰々として響き来る、怨むが如き婦人の泣声、柱を回り襖を潜り、壁に浸入る如くなり。  南無三膝を立直し、立ちもやらず坐りも果てで、魂宙に浮く処に、沈んで聞こゆる婦人の声、「山田山田」と我が名を呼ぶ、哬呀と頭を掉傾け、聞けば聞くほど判然と疑も無き我が名の山田「山田山田」と呼立つるが、囁く如く近くなり、叫ぶが如くまた遠くなる、南無阿弥陀仏コハ堪らじ。      六  今はハヤ須臾の間も忍び難し、臆病者と笑はば笑へ、恥も外聞も要らばこそ、予は慌しく書斎を出でて奥座敷の方に駈行きぬ。蓋し松川の臥戸に身を投じて、味方を得ばやと欲ひしなり。  既にして、松川が閨に到れば、こはそもいかに彼の泣声は正に此室の裡よりす、予は入るにも入られず愕然として襖の外に戦きながら突立てり。  然るに松川は未だ眠らでぞある。鬱し怒れる音調以て、「愛想の尽きた獣だな、汝、苟くも諸生を教へる松川の妹でありながら、十二にもなつて何の事だ、何うしたらまたそんなに学校が嫌なのだ。これまで幾度と数知れず根競と思つて意見をしても少しも料簡が直らない、道で遊んで居ては人眼に立つと思ふかして途方も無い学校へ行くてつちやあ家を出て、此頃は庭の竹藪に隠れて居る。此間見着けた時には、腹は立たないで涙が出たぞ」と切歯をなして憤る。  傍より老いたる婦人の声として「これお長、母様のいふ事も兄様のおつしやる事もお前は合点が行かないかい、狂気の様な娘を持つた私や何といふ因果であらうね。其癖、犬に吠えられた時、お弁当のお菜を遣つて口塞をした気転なんぞ、満更の馬鹿でも無いに」と愚痴を零すは母親ならむ。  松川は腹立たしげに「其が馬鹿智慧と謂ふもんだ、馬鹿に小才のあるのはまるつきりの馬鹿よりなほ不可い。彼の時藪の中から引摺出して押入の中へ入れて置くと、死ぬ様な声を出して泣くもんだから──何時だつけ、むゝ俺が誕生の晩だ──山田に何が泣いてるのだと問はれて冷汗を掻いたぞ。貴様が法外な白痴だから己に妹があると謂ふことは人に秘して居る位、山田の知らないのも道理だが、これ〳〵で意見をするとは恥かしくつて言はれもしない。それでも親の慈悲や兄の情で何うかして学校へも行く様に真人間にして遣りたいと思へばこそ性懲を附けよう為に、昨夜だつて左様だ、一晩裸にして夜着も被せずに打棄つて置いたのだ。すると何うだ、己にお謝罪をすれば未しも可愛気があるけれど、いくら寒いたつて余りな、山田の寝床へ潜込みに行きをつた。彼が妖怪と思違ひをして居るのも否とは謂はれぬ。妖怪より余程怖い馬鹿だもの、今夜はもう意見をするんぢやあないから謝罪たつて承知はしない、撲殺すのだから左様思へ」と笞の音ひうと鳴りて肉を鞭つ響せり。女はひい〳〵と泣きながら、「姉様謝罪をして頂戴よう、あいたゝ、姉様よう」と、哀なる声にて助を呼ぶ。  今姉さんと呼ばれしは松川の細君なり。「これまで幾度謝罪をして進げましても、お前様の料簡が直らないから、もうもう何と謂つたつて御肯入れなさらない、妾が謂つたつて所詮駄目です、あゝ、余り酷うございますよ。少し御手柔に遊ばせ、あれ〳〵それぢやあ真個に死んでしまひますわね、母様、もし旦那つてば、御二人で御折檻なさるから仕様が無い、えゝ何うせうね、一寸来て下さい」と声震はし「山田さん、山田さん」我を呼びしは、さては是か。 底本:「日本の名随筆 別巻64 怪談」作品社    1996(平成8)年6月25日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第二十七卷」岩波書店    1942(昭和17)年10月 ※疑問点の確認、修正に当たっては、親本を参照しました。 入力:土屋隆 校正:門田裕志 2006年3月20日作成 青空文庫作成ファイル: 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