吉原新話 泉鏡花 Guide 扉 本文 目 次 吉原新話        一  表二階の次の六畳、階子段の上り口、余り高くない天井で、電燈を捻ってフッと消すと……居合わす十二三人が、皆影法師。  仲の町も水道尻に近い、蔦屋という引手茶屋で。間も無く大引けの鉄棒が廻ろうという時分であった。  閏のあった年で、旧暦の月が後れたせいか、陽気が不順か、梅雨の上りが長引いて、七月の末だというのに、畳も壁もじめじめする。  もっともこの日、雲は拭って、むらむらと切れたが、しかしほんとうに霽ったのでは無いらしい。どうやら底にまだ雨気がありそうで、悪く蒸す……生干の足袋に火熨斗を当てて穿くようで、不気味に暑い中に冷りとする。  気候はとにかく、八畳の表座敷へ、人数が十人の上であるから、縁の障子は通し四枚とも宵の内から明放したが、夜桜、仁和加の時とは違う、分けて近頃のさびれ方。仲の町でもこの大一座は目に立つ処へ、浅間、端近、戸外へ人立ちは、嬉しがらないのを知って、家の姉御が気を着けて、簾という処を、幕にした。  廂へ張って、浅葱に紺の熨斗進上、朱鷺色鹿の子のふくろ字で、うめという名が一絞。紅の括紐、襷か何ぞ、間に合わせに、ト風入れに掲げたのが、横に流れて、地が縮緬の媚かしく、朧に颯と紅梅の友染を捌いたような。  この名は数年前、まだ少くって見番の札を引いたが、家の抱妓で人に知られた、梅次というのに、何か催のあった節、贔屓の贈った後幕が、染返しの掻巻にもならないで、長持の底に残ったのを、間に合わせに用いたのである。  端唄の題に出されたのも、十年近く以前であるから。見たばかりで、野路の樹とも垣根の枝とも、誰も気の着いたものはなかったが、初め座の定まった処へ、お才という内の姉御が、お茶聞しめせ、と持って出て、梅干も候ぞ。 「いかがですか、甘露梅。」  と、今めかしく註を入れたは、年紀の少い、学生も交ったためで。 「お珍らしくもありませんが、もう古いんですよ、私のように。」  と笑いながら、 「民さん、」  と、当夜の幹事の附添いで居た、佐川民弥という、ある雑誌の記者を、ちょいと見て、 「あの妓なんか、手伝ったのがまだそのままなんです。召あがれ。」と済まして言う。  様子を知った二三人が、ふとこれで気が着いた。そして、言合わせたように民弥を見た。  もっとも、そうした年紀ではなし、今頃はもう左衛門で、女房の実の名も忘れているほどであるから、民弥は何の気も無さそうに、 「いや、御馳走。」  時に敷居の外の、その長六畳の、成りたけ暗そうな壁の処へ、紅入友染の薄いお太鼓を押着けて、小さくなったが、顔の明い、眉の判然した、ふっくり結綿に緋の角絞りで、柄も中形も大きいが、お三輪といって今年が七、年よりはまだ仇気ない、このお才の娘分。吉野町辺の裁縫の師匠へ行くのが、今日は特別、平時と違って、途中の金貸の軒に居る、馴染の鸚鵡の前へも立たず……黙って奥山の活動写真へも外れないで、早めに帰って来て、紫の包も解かずに、…… 「道理で雨が霽ったよ。」  嬉々客設けの手伝いした、その──        二  お三輪がちょうど、そうやって晴がましそうに茶を注いでいた処。──甘露梅の今のを聞くと、はッとしたらしく、顔を据えたが、拗ねたという身で土瓶をトン。 「才ちゃん。」  と背後からお才を呼んで、前垂の端はきりりとしながら、褄の媚めく白い素足で、畳触りを、ちと荒く、ふいと座を起ったものである。  待遇に二つ三つ、続けて話掛けていたお才が、唐突に腰を折られて、 「あいよ。」  で、軽く衣紋を圧え、痩せた膝で振り返ると、娘はもう、肩のあたりまで、階子段に白地の中形を沈めていた。 「ちょっと、」……と手繰って言ったと思うと、結綿がもう階下へ。 「何だい。」とお才は、いけぞんざい。階子段の欄干から俯向けに覗いたが、そこから目薬は注せなそうで、急いで降りた。 「何だねえ。」 「才ちゃんや。」  と段の下の六畳の、長火鉢の前に立ったまま、ぱっちりとした目許と、可愛らしい口許で、引着けるようにして、 「何だじゃないわ。お気を着けなさいよ。梅次姉さんの事なんか言って、兄さんが他の方に極が悪いわ。」 「ううん。」と色気の無い頷き方。 「そうだっけ。まあ、可いやね。」 「可かない事よ……私は困っちまう。」 「何だねえ、高慢な。」 「高慢じゃないわ。そして、先生と云うものよ。」 「誰をさ。」 「皆さんをさ、先生とか、あの、貴方とか、そうじゃなくって。誰方も身分のある方なのよ。」 「そうかねえ。」 「そうかじゃありませんよ。才ちゃんてば。……それをさ、民さんだの、お前はんだのって……私は聞いていてはらはらするわ、お気を注けなさいなね。」 「ああ、そうだね、」  と納得はしたものの、まだ何だか、不心服らしい顔色で、 「だって可いやね、皆さんが、お化の御連中なんだから。」  習慣で調子が高い、ごく内の話のつもりが、処々、どころでない。半ば以上は二階へ届く。  一同くすくすと笑った。  民弥は苦笑したのである。  その時、梅次の名も聞えたので、いつの間にか、縁の幕の仮名の意味が、誰言うとなく自然と通じて、投遣りな投放しに、中を結んだ、紅、浅葱の細い色さえ、床の間の籠に投込んだ、白い常夏の花とともに、ものは言わぬが談話の席へ、仄な俤に立っていた。  が、電燈を消すと、たちまち鼠色の濃い雲が、ばっと落ちて、廂から欄干を掛けて、引包んだようになった。  夜も更けたり、座の趣は変ったのである。  かねて、こうした時の心を得て、壁際に一台、幾年にも、ついぞ使った事はあるまい、艶の無い、くすぶった燭台の用意はしてあったが、わざと消したくらいで、蝋燭にも及ぶまい、と形だけも持出さず──所帯構わぬのが、衣紋竹の替りにして、夏羽織をふわりと掛けておいた人がある──そのままになっている。  灯無しで、どす暗い壁に附着いた件の形は、蝦蟆の口から吹出す靄が、むらむらとそこで蹲踞ったようで、居合わす人数の姿より、羽織の方が人らしい。そして、……どこを漏れて来る燈の加減やら、絽の縞の袂を透いて、蛍を一包にしたほどの、薄ら蒼い、ぶよぶよとした取留の無い影が透く。        三  大方はそれが、張出し幕の縫目を漏れて茫と座敷へ映るのであろう……と思う。欄干下の廂と擦れ擦れな戸外に、蒼白い瓦斯が一基、大門口から仲の町にずらりと並んだ中の、一番末の街燈がある。  時々光を、幅広く迸しらして、濶と明るくなると、燭台に引掛けた羽織の袂が、すっと映る。そのかわり、じっと沈んで暗くなると、紺の縦縞が消々になる。  座中は目で探って、やっと一人の膝、誰かの胸、別のまた頬のあたり、片袖などが、風で吹溜ったように、断々に仄に見える。間を隔てたほどそれがかえって濃い、つい隣合ったのなどは、真暗でまるで姿が無い。  ふと鼠色の長い影が、幕を斜違いに飜々と伝わったり……円さ六尺余りの大きな頭が、ぬいと、天井に被さりなどした。 「今、起ちなすったのは魯智深さんだね。」  と主は分らず声を懸ける。 「いや、私は胡坐掻いています、どっしりとな。」  とわざと云う。……描ける花和尚さながらの大入道、この人ばかりは太ッ腹の、あぶらぼてりで、宵からの大肌脱。絶えずはたはたと鳴らす団扇づかい、ぐいと、抱えて抜かないばかり、柱に、えいとこさで凭懸る、と畳半畳だぶだぶと腰の周囲に隠れる形体。けれども有名な琴の師匠で、芸は嬉しい。紺地の素袍に、烏帽子を着けて、十三絃に端然と直ると、松の姿に霞が懸って、琴爪の千鳥が啼く。 「天井を御覧なさい、変なものが通ります。」 「厭ですね。」と優しい声。  当夜、二人ばかり婦人も見えた。  これは、百物語をしたのである。──  会をここで開いたのは、わざと引手茶屋を選んだ次第では無かった。 「ちっと変った処で、好事に過ぎると云う方もございましょう。何しろ片寄り過ぎますんで。しかし実は席を極めるのに困りました。  何しろこの百物語……怪談の会に限って、半夜は中途で不可ません。夜が更けるに従って……というのですから、御一味を下さる方も、かねて徹夜というお覚悟です。処で、宵から一晩の註文で、いや、随分方々へ当って見ました。  料理屋じゃ、のっけから対手にならず、待合申すまでも無い、辞退。席貸をと思いましたが、やっぱり夜一夜じゃ引退るんです。第一、人数が二十人近くで、夜明しと来ては、成程、ちょっとどこといって当りが着きません。こりゃ旅籠屋だ、と考えました。  これなら大丈夫、と極めた事にすると、どういたして、まるで帳場で寄せつけません、無理もございますまい。旅籠屋は人の寝る処を、起きていて饒舌ろうというんです。傍が御迷惑をなさる、とこの方を関所破りに扱います、困りました。  寺方はちょっと聞くと可いようで、億劫ですし、教会へ持込めば叱られます。離れた処で寮なんぞ借りられない事もありませんが──この中にはその時も御一所で、様子を御存じの方もお見えになります、昨年の盆時分、向島の或別荘で、一会催した事があるんです。  飛んだ騒ぎで、その筋に御心配を掛けたんです。多人数一室へ閉籠って、徹夜で、密々と話をするのが、寂とした人通の無い、樹林の中じゃ、その筈でしょう。  お引受け申して、こりや思懸けない、と相応に苦労をしました揚句、まず……昔の懺悔をしますような取詰め方で、ここを頼んだのでございます。  言訳を申すじゃありませんが、以前だとて、さして馴染も無い家が、快く承わってくれまして、どうやらお間に合わせます事が出来ました。  ちと唐突に変った誂えだもんですから、話の会だと言いますと、 (はあ、おはなの……)なんてな、此家の姉御が早合点で……」  と笑いながら幹事が最初挨拶した、──それは、神田辺の沢岡という、雑貨店の好事な主人であった。        四  連中には新聞記者も交ったり、文学者、美術家、彫刻家、音楽家、──またそうした商人もあり、久しく美学を研究して、近頃欧洲から帰朝した、子爵が一人。女性というのも、世に聞えて、……家のお三輪は、婦人何々などの雑誌で、写真も見れば、名も読んで知った方。  で、こんな場所は、何の見物にも、つい足踏をした事の無いのが多い。が、その人たちも、誰も会場が吉原というのを厭わず、中にはかえって土地に興味を持って、到着帳に記いたのもある。 「吉野橋で電車を下りますまでは無事だったんですよ。」  とそれについて婦人の一人、浜谷蘭子が言出すと、可恐く気の早いのが居て、 「ええ、何か出ましたかな。」 「まさか、」  と手巾をちょっと口に当てて、瞼をほんのりと笑顔になって、 「お化が貴下、わざわざ迎いに出はしませんよ。方角が分りませんもの。……交番がござんしたから、──伺いますが、水道尻はどう参りましょうかって聞いたんです。巡査さんが真面目な顔をして、 (水道はその四角の処にあります。)って丁寧に教えられて、困ったんです。」 「水を飲みたくって、それで尋ねたんだと思ったんでしょうよ。」とその連だったもう一人の、明座種子が意気な姿で、そして膝に手をきちんとして言う。 「私もはじめてです。両側はそれでも画に描いたようですな。」と岩木という洋画家が応じた。 「御同然で、私はそれでも、首尾よく間違えずに来たですよ。北廓だというから、何でも北へ北へと見当を着けるつもりで、宅から磁石を用意に及んだものです。」と云う堀子爵が、ぞんざいな浴衣がけの、ちょっきり結びの兵児帯に搦んだ黄金鎖には、磁石が着いていも何にもせぬ。  花和尚がその諸膚脱の脇の下を、自分の手で擽るように、ぐいと緊めて腹を揺った。 「そろそろ怪談になりますわ。」  確か、その時分であった。壇の上口に気勢がすると、潰しの島田が糶上ったように、欄干隠れに、少いのが密と覗込んで、 「あら、可厭だ。」  と一つ婀娜な声を、きらりと銀の平打に搦めて投込んだ、と思うが疾いが、ばたばたと階下へ駆下りたが、 「嘘、居やしないわ。」と高い調子。  二言、三言、続いて花やかに笑ったのが聞えた。駒下駄の音が三つ四つ。 「覚えていらっしゃいよ。」 「お喧しゅう……」  魯智深は、ずかずかと座を起って、のそりと欄干に腹を持たせて、幕を透かして通を瞰下し、 「やあ、鮮麗なり、おらが姉さん三人ござる。」 「君、君、その異形なのを空中へ顕すと、可哀相に目を廻すよ。」と言いながら、一人が、下からまた差覗いた。 「家の娘かね。」  と子爵が訊く。差向いに居た民弥が、 「いいえ。」 「何です。」 「やっぱり通り魔の類でしょうな。」 「しかし、不意だからちょっと驚きましたよ。」とその洋画家が……ちょうど俯向いて巻莨をつけていた処、不意を食った眼鏡が晃つく。  当夜の幹事が苦笑いして、 「近所の若い妓どもです……御存じの立旦形が一人、今夜来ます筈でしたが、急用で伊勢へ参って欠席しました。階下で担いだんでしょう。密と覗きに……」 「道理こそ。」 「(あら可厭だ)は酷いな。」        五 「おおおお、三人が手を曳ッこで歩行いて行きます……仲の町も人通りが少いなあ、どうじゃろう、景気の悪い。ちらりほらりで軒行燈に影が映る、──海老屋の表は真暗だ。  ああ、揃って大時計の前へ立佇った……いや三階でちょっとお辞儀をするわ。薄暗い処へ朦朧と胸高な扱帯か何かで、寂しそうに露れたのが、しょんぼりと空から瞰下ろしているらしい。」  と円い腕を、欄干が挫げそうにのッしと支いて、魯智深の腹がたぶりと乗出す…… 「どこだ、どれ、」  と向返る子爵の頭へ、さそくに、ずずんと身を返したが、その割に気の軽さ。突然見越入道で、蔽われ掛って、 「ももんがあ! はッはッはッ。」 「失礼、只今は、」  と、お三輪が湯を注しに来合わせて、特に婦人客の背後へ来て、極の悪そうに手を支いた。 「才ちゃんが、わけが分らなくって不可ません、芸者衆なんか二階へ上げまして。」  と言も極って含羞んだ、紅い手絡のしおらしさ。一人の婦人が斜めに振向き、手に持ったのをそのままに、撫子に映す扇の影。 「いいえ。そして……ちとお遊びなさいませ。」 「はい、あの、後にどうぞ。」  と嬉しそうに莞爾しながら、 「あの、明る過ぎましたら電燈をお消し下さいましな、燭台をそこへ出しておきました。」  と幹事に言う。雑貨店主が、 「難有う、よくお心の着きます事で。」 「あら、可厭だ。」……と蓮葉になる。 「二ツ、」  と一人高らかに呼わった。……芸者のと、(可厭だ)が二度目、という意味だけれども、娘には気が着かぬ。 「え?」  民弥が静に振返って、 「三輪ちゃんの年紀は二十かって?」 「あら、可厭だ。」 「三つ!」 「じゃ、三十かってさ。」と雑貨店主が莞爾する。 「知らないわ。」 「まあまあ、可いわ、お話しなさい。」と花和尚、この時、のさのさと座に戻る。 「お茶を入れかえて参ります。」  と、もう階子の口。ちょっと留まって、 「そして才ちゃんに、御馳走をさせましょうね。兄さん、(吃驚したように)……あの、先生。」 「心得たもんですな。」と洋画家が、煙草の濃い烟の中で。 「貴女方の御庇です……敬意を表して、よく小老実に働きますよ。」と民弥が婦人だちを見向いて云う。と二人が一所に、言合わせたように美しく莞爾して、 「どういたしまして。」 「いや、事実ですよ……家はこんなでも、裁縫に行く先方に、また、それぞれ朋だちがありましてな、それ引手茶屋の娘でも、大分工合が違って来ました。どうして滅多に客の世話なぞするのじゃありませんや。貴女がたの顔まで、ちゃんと心得ていて、先刻も手前ちょっと階下へ立違いますと、あちらが、浜谷さんで、こちらが、明座さんでしょう、なんてそう言います。  廓がはじめてだってお言いなさったのを聞いたと見えて、御見物なさいませんか、お供をして、そこいら、御案内をしましょう、と手前にそう言っていましたっけ。」と団扇を構えて雑貨店主。 「そう、まあ……見て来ましょうか。」 「ねえ。」と顔を見合わせた。  子爵が頭を振りながら、 「お止しなさい、お揃いじゃ、女郎が口惜しがるでしょう、罪だ。」        六 「なぜですか。」 「新橋、柳橋と見えるでしょう。」 「あら、可厭だ。」 「四つ、」  と今度は、魯智深が、透かさず指を立てて、ずいと揚げた。  すべてがこの調子で、間へ二ツ三ツずつ各自の怪談が挟まる中へ、木皿に割箸をざっくり揃えて、夜通しのその用意が、こうした連中に幕の内でもあるまい、と階下で気を着けたか茶飯の結びに、はんぺんと菜のひたし。……ある大籬の寮が根岸にある、その畠に造ったのを掘たてだというはしりの新芋。これだけはお才が自慢で、すじ、蒟蒻などと煮込みのおでんを丼へ。目立たないように一銚子附いて出ると、見ただけでも一口呑めそう……梅次の幕を正面へ、仲の町が夜の舞台で、楽屋の中入といった様子で、下戸までもつい一口飲る。  八畳一杯赫と陽気で、ちょうどその時分に、中びけの鉄棒が、近くから遠くへ、次第に幽かになって廻ったが、その音の身に染みたは、浦里時代の事であろう。誰の胸へも響かぬ。……もっとも話好きな人ばかりが集ったから、その方へ気が入って、酔ったものは一人も無い。が、どうして勢がこんなであるから、立続けに死霊、怨霊、生霊まで、まざまざと顕れても、凄い可恐いはまだな事──汐時に颯と支度を引いて、煙草盆の巻莨の吸殻が一度綺麗に片附く時、蚊遣香もばったり消えて、畳の目も初夜過ぎの陰気に白く光るのさえ、──寂しいとも思われぬ。 (あら可厭だ)……のそれでは無い。百万遍の数取りのように、一同ぐるりと輪になって、じりじりと膝を寄せると、千倉ヶ沖の海坊主、花和尚の大きな影が幕をはびこるのを張合いにして、がんばり入道、ずばい坊、鬼火、怪火、陰火の数々。月夜の白張、宙釣りの丸行燈、九本の蝋燭、四ツ目の提灯、蛇塚を走る稲妻、一軒家の棟を転がる人魂、狼の口の弓張月、古戦場の火矢の幻。  怨念は大鰻、古鯰、太岩魚、化ける鳥は鷺、山鳥。声は梟、山伏の吹く貝、磔場の夜半の竹法螺、焼跡の呻唸声。  蛇ヶ窪の非常汽笛、箒川の悲鳴などは、一座にまさしく聞いた人があって、その響も口から伝わる。……按摩の白眼、癩坊の鼻、婆々の逆眉毛。気味の悪いのは、三本指、一本脚。  厠を覗く尼も出れば、藪に蹲む癖の下女も出た。米屋の縄暖簾を擦れ擦れに消える蒼い女房、矢絣の膝ばかりで掻巻の上から圧す、顔の見えない番町のお嬢さん。干すと窄まる木場辺の渋蛇の目、死んだ頭の火事見舞は、ついおもだか屋にあった事。品川沖の姪の影、真乳の渡の朧蓑、鰻掻の蝮笊。  犬神、蛇を飼う婦、蟇を抱いて寝る娘、鼈の首を集める坊主、狐憑、猿小僧、骨なし、……猫屋敷。  で、この猫について、座の一人が、かつてその家に飼った三毛で、年久しく十四五年を経た牝が、置炬燵の上で長々と寝て、密と薄目を睜くと、そこにうとうとしていた老人の顔を伺った、と思えば、張裂けるような大欠伸を一つして、 (お、お、しんど)と言って、のさりと立った。  話した発奮に、あたかもこの八畳と次の長六畳との仕切が柱で、ずッと壁で、壁と壁との間が階子段と向合せに欞子窓のように見える、が、直ぐに隣家の車屋の屋根へ続いた物干。一跨ぎで出られる。……水道尻まで家続きだけれども、裏手、廂合が連るばかり、近間に一ツも明が見えぬ、陽気な座敷に、その窓ばかりが、はじめから妙に陰気で、電燈の光も、いくらかずつそこへ吸取られそうな気勢がしていた。  その物干の上と思う処で……        七 「ゴロロロロ、」  と濁った、太い、変に地響きのする声がした、──不思議は無い。猫が鳴いた事は、誰の耳にも聞えたが、場合が場合で、一同が言合わせたごとく、その四角な、大きな、真暗な穴の、遥かな底は、上野天王寺の森の黒雲が灰色の空に浸んで湧上る、窓を見た。  フト寂しい顔をしたのもあるし、苦笑いをしたのもあり、中にはピクリと肩を動かした人もあった。 「三輪ちゃん、内の猫かい。」  民弥は、その途端に、ひたと身を寄せたお三輪に訊ねた。……遠慮をしながら、成たけこの男の傍に居て、先刻から人々の談話の、凄く可恐い処というと、密と縋り縋り聞いていたのである。 「いいえ、内の猫は、この間死にました。」 「死んだ?」 「ええ、どこの猫でしょう……近所のは、皆たま(猫の名)のお友達で、私は声を知ってるんですけれど……可厭な声ね。きっと野良猫よ。」  それと極っては、内所の飼猫でも、遊女の秘蔵でも、遣手の懐児でも、町内の三毛、斑でも、何のと引手茶屋の娘の勢。お三輪は気軽に衝と立って、襟脚を白々と、結綿の赤い手絡を障子の桟へ浮出したように窓を覗いた。 「遁げてよ。もう居やしませんわ。」  一人の婦人が、はらはらと後毛のかかった顔で、 「姉さん。」 「はーい、」と、呼ばれたのを嬉しそうな返事をする。 「閉めていらっしゃいな。」  で、蓮葉にぴたり。  後に話合うと、階下へ用達しになど、座を起って通る時、その窓の前へ行くと、希代にヒヤリとして風が冷い。処で、何心なく障子をスーツと閉めて行く、……帰りがけに見るとさらりと開いている。が、誰もそこへ坐るのでは無いから、そのままにして座に戻る。また別人が立つ、やっぱりぞっとするから閉めて行く、帰りがけにはちゃんと開けてあった。それを見た人は色々で、細目の時もあり、七八分目の時もあり、開放しの時もあった、と言う。  さて、そのときまでは、言ったごとく、陽気立って、何が出ても、ものが身に染むとまでには至らなかったが、物語の猫が物干の声になってから、各自言合わせたように、膝が固まった。  時々灰吹の音も、一ツ鉦のようにカーンと鳴って、寂然と耳に着く。……  気合が更まると、畳もかっと広くなって、向合い、隣同士、ばらばらと開けて、間が隔るように思われるので、なおひしひしと額を寄せる。 「消そうか、」 「大人気ないが面白い。」  ここで電燈が消えたのである。── 「案外身に染みて参りました。人数の多過ぎなせいもありましょう。わざと灯を消したり、行燈に変えたりしますと、どうもちと趣向めいて、バッタリ機巧を遣るようで一向潮が乗りません。  前の向島の大連の時で、その経験がありますから、今夜は一番、明晃々とさして、どうせ顕れるものなら真昼間おいでなさい、明白で可い、と皆さんとも申合せていましたっけ。  いや、こうなると、やっぱり暗い方が配合が可うございます、身が入りますぜ、これから。」  と言う、幹事雑貨店主の冴えた声が、キヤキヤと刻込んで、響いて聞えて、声を聞く内だけ、その鼻の隆い、痩せて面長なのが薄ら蒼く、頬のげっそりと影の黒いのが、ぶよぶよとした出処の定かならぬ、他愛の無い明に映って、ちょっとでも句が切れると、はたと顔も見えぬほどになったのである。        八  灯は水道尻のその瓦斯と、もう二ツ──一ツは、この二階から斜違な、京町の向う角の大きな青楼の三階の、真角一ツ目の小座敷の障子を二枚両方へ明放した裡に、青い、が、べっとりした蚊帳を釣って、行燈がある、それで。──夜目には縁も欄干も物色われず、ただその映出した処だけは、たとえば行燈の枠の剥げたのが、朱塗であろう……と思われるほど定かに分る。……そこが仄明いだけ、大空の雲の黒さが、此方に絞った幕の上を、底知れぬ暗夜にする。……が、廓が寂れて、遠く衣紋坂あたりを一つ行く俥の音の、それも次第に近くはならず、途中の電信の柱があると、母衣が凧。引掛りそうに便なく響が切れて行く光景なれば、のべの蝴蝶が飛びそうな媚かしさは無く、荒廃したる不夜城の壁の崩れから、菜畠になった部屋が露出しで、怪しげな朧月めく。その行燈の枕許に、有ろう? 朱羅宇の長煙管が、蛇になって動きそうに、蓬々と、曠野に徜徉う夜の気勢。地蔵堂に釣った紙帳より、かえって侘しき草の閨かな。  風の死んだ、寂とした夜で、あたかも宙に拡げたような、蚊帳のその裙が、そよりと戦ぐともしないのに、この座の人の動くに連れて、屋の棟とともに、すっと浮いて上ったり、ずうと行燈と一所に、沈んで下ったりする。  もう一つは同じ向側の、これは低い、幕の下に懸って、真暗な門へ、奥の方から幽かに明の漏れるのが、戸の格子の目も疎に映って、灰色に軒下の土間を茫と這うて、白い暖簾の断れたのを泥に塗らした趣がある。それと二つである。  その家は、表をずッと引込んだ処に、城の櫓のような屋根が、雲の中に陰気に黒い。両隣は引手茶屋で、それは既に、先刻中引けが過ぎる頃、伸上って蔀を下ろしたり、仲の町の前後を見て戸を閉めたり、揃って、家並は残らず音も無いこの夜更の空を、地に引く腰張の暗い板となった。  時々、海老屋の大時計の面が、時間の筋を畝らして、幽な稲妻に閃めき出るのみ。二階で便る深夜の光は、瓦斯を合わせて、ただその三つの灯となる。  中のどれかが、折々気紛れの鳥影の映すように、飜然と幕へ附着いては、一同の姿を、種々に描き出す。……  時しもありけれ、魯智深が、大なる挽臼のごとき、五分刈頭を、天井にぐるりと廻して、 「佐川さんや、」  と顔は見えず……その天井の影が動く。話の切目で、咳の音も途絶えた時で、ひょいと見ると誰の目にも、上にぼんやりと映る、その影が口を利くかと思われる。従って、声もがッと太く渦巻く。 「変に静まりましたな、もって来いという間の時じゃ、何ぞお話し下さらんか。宵からまだ、貴下に限って、一ツも凄いのが出ませんでな、所望ですわ。」  成程、民弥は聞くばかりで、まだ一題も話さなかった。 「差当り心当りが無いものですから、」  とその声も暗さを辿って、 「皆さんが実によく、種々な可恐いのを御存じです。……確にお聞きになったり、また現に逢ったり見たりなすっておいでになります。  私は、又聞きに聞いたのだの、本で読んだのぐらいな処で、それも拵えものらしいのが多いんですから、差出てお話するほどのがありません。生憎……ッても可笑いんですが、ざらある人魂だって、自分で見た事はありませんでね。怪い光物といっては、鼠が啣え出した鱈の切身が、台所でぽたぽたと黄色く光ったのを見て吃驚したくらいなものです。お話にはなりません。  けれども、嬉しがって一人で聞かしてばかり頂いていたんでは、余り勝手過ぎます。申訳が無いようですから、詰らない事ですが、一つ、お話し申しましょうか。  日の暮合いに、今日、現に、此家へ参ります途中でした。」        九 「可恐い事、ちょっと、可恐くって。」  と例の美しい若い声が身近に聞えて、ぞっとするように袖を窄めた気勢がある。 「私に附着いていらっしゃい。」と蘭子が傍で、香水の優しい薫。 「いや、下らないんですよ、」  と、慌てたように民弥は急いで断って、 「ちと薄気味でも悪いようだと、御愛嬌になるんだけれど……何にも彼にも、一向要領を得ないんです、……時にだね、三輪ちゃん。」  とちと更まって呼んだ時に、皆が目を灌ぐと、どの灯か、仏壇に消忘れたようなのが幽に入って、スーと民弥のその居直った姿を映す。……これは生帷の五ツ紋に、白麻の襟を襲ねて、袴を着でいた。──あたかもその日、繋がる縁者の葬式を見送って、その脚で廻ったそうで、時節柄の礼服で宵から同じ着附けが、この時際立って、一人、舞台へ出たように目に留まった。麻は冷たい、さっくりとして膚にも着かず、肩肱は凜々しく武張ったが、中背で痩せたのが、薄ら寒そうな扮装、襟を引合わせているので物優しいのに、細面で色が白い。座中では男の中の第一年下の二十七で、少々しいのも気の弱そうに見えるのが、今夜の会には打ってつけたような野辺送りの帰りと云う。  気のせいか、沈んで、悄れて見える処へ、打撞かったその冷い紋着で、水際の立ったのが、薄りと一人浮出したのであるから、今その呼懸けたお三輪さえ、声に応じて、結綿の綺麗な姿が、可恐そうな、可憐な風情で、並んでそこへ、呼出されたように、座上の胸に描かれた。 「つかん事を聞くがね、どこかこの近所で、今夜あたりお産をしそうな人はあるまいか。」  と妙な事を沈んで聞く。 「今夜……ですか。」とお三輪はきっぱり聞返す。 「……そうだね、今夜、と極まった事も無いけれど、この頃にさ、そういう家がありやしないかい。」 「嬰児が生れる許?」 「そうさ、」 「この近所、……そうね。」  せっかく聞かされたものを、あれば可いが、と思う容子で、しばらくして、 「無いわ、ちっと離れていては悪くって、江戸町辺。」 「そこらにあるかい。」  と気を入れる。 「無い事よ、──やっぱり、」とうっかりしたように澄まして言う。 「何だい、詰らない。」  と民弥は低声に笑を漏らした。 「ちょいと、階下へ行って、才ちゃんに聞いて来ましょうか。」 「…………」 「ええ、兄さん、」  と遣ったが、フト黙って、 「私、聞いて来ましょう、先生。」 「何、可い、それには及ばんのだよ。……いいえ、少しね、心当りな事があるもんだから、そらね。」  と斜になって、俯向いて幕張の裾から透かした、ト酔覚のように、顔の色が蒼白い。 「向うに、暗く明の点いた家が一軒あるだろう……近所は皆閉っていて。」 「はあ、お医者様のならび、あすこは寮よ……」 「そうだ、公園近だね。あすこへ時々客では無い、町内の人らしいのが、引過ぎになってもちょいちょい出たり入ったりするから、少しその心当りの事もあるし、……何も夜中の人出入りが、お産とは極らないけれど、その事でね。もしかすると、そうではあるまいか、と思ったからさ。何だか余り合点み過ぎたようで妙だったね。」        十 「それに何だか、明も陰気だし、人の出入りも、ばたばたして……病人でもありそうな様子だったもんだから。」  と言って、その明を俯向いて見透かす、民弥の顔にまた陰気な影が映した。 「でもね、当りましたわ、先生、やっぱり病人があるのよ。それでもって、寝ないでいるの、お通夜をして……」 「お通夜?」  と一人、縁に寄った隅の方から、声を懸けた人がある。 「あの……」 「夜伽じゃないか。」と民弥が引取る。 「ああ、そうよ。私は昨夜も、お通夜だってそう言って、才ちゃんに叱られました。……その夜伽なのよ。」 「病人は……女郎衆かい。」 「そうじゃないの。」  とついまたものいいが蓮葉になって、 「照吉さんです、知ってるでしょう。」  民弥は何か曖昧な声をして、 「私は知らないがね、」  けれども一座の多人数は、皆耳を欹てた。──彼は聞えた妓である──中には民弥の知らないという、その訳をさえ、よく心得たものがある。その梅次と照吉とは、待宵と後朝、と対に廓で唄われた、仲の町の芸者であった。  お三輪はサソクに心着いたか、急に声も低くなって、 「芸者です、今じゃ、あの、一番綺麗な人なんです、芸も可いの。可哀相だわ、大変に塩梅が悪くって。それだもんですから、内は角町の水菓子屋で、出ているのは清川(引手茶屋)なんですけれど、どちらも狭いし、それに、こんな処でしょう、落着いて養生も出来ないからって……ここでも大切な姉さんだわ。ですから皆で心配して、海老屋でもしんせつにそう云ってね、四五日前から、寮で大事にしているんですよ。」 「そうかい、ちっとも知らなかった。」と民弥はうっかりしたように言う。 「夜伽をするんじゃ、大分悪いな。」と子爵が向うから声を懸けた。 「ええ、不可いんですって、もうむずかしいの。」  とお三輪は口惜しそうに、打附けて言ったのである。 「何の病気かね。」  と言う、魯智深の頭は、この時も天井で大きく動いた。 「何んですか、性がちっとも知れないんですって。」  民弥は待構えてでもいたように、 「お医師は廓のなんだろう、……そう言っちゃ悪いけれど。」 「いいえ、立派な国手も綱曳でいらっしゃったんですの。でもね、ちっとも分りませんとさ。そしてね、照吉さんが、病気になった最初っから、なぜですか、もうちゃんと覚悟をして、清川を出て寮へ引移るのにも、手廻りのものを、きちんと片附けて、この春から記けるようにしたっちゃ、威張っていた、小遣帳の、あの、蜜豆とした処なんか、棒を引いたんですってね。才ちゃんはそう言って、話して、笑いながら、ほろほろ涙を落すのよ。  いつ煩っても、ごまかして薬をのんだ事のない人が、その癖、あの、……今度ばかりは、掻巻に凭懸っていて、お猪口を頂いて飲むんだわ。それがなお心細いんだって、皆そう云うの。  私も、あの、手に持って飲まして来ます。 (三輪ちゃん、さようなら。)って俯向くんです、……枕にこぼれて束ね切れないの、私はね、櫛を抜いて密と解かしたのよ……雲脂なんかちっとも無いの、するする綺麗ですわ、そして煩ってから余計に殖えたようよ……髪ばかり長くなって、段々命が縮むんだわねえ。──兄さん、」  と、話に実が入るとつい忘れる。 「可哀相よ。そして、いつでもそうなの、見舞に行くたんびに(さようなら)……」        十一 「それはもう、きれいに断念めたものなの、……そしてね、幾日の何時頃に死ぬんだって──言うんですとさ、──それが延びたから今日はきっと、あれだって、また幾日の何時頃だって、どうしてでしょう。死ぬのを待っているようなの。  ですからね、照吉さんのは、気病だって。それから大事の人の生命に代って身代に死ぬんですって。」 「身代り、」と聞返した時、どのかまた明の加減で、民弥の帷子が薄く映った。且つそれよりも、お三輪の手絡が、くっきりと燃ゆるように、声も強い色に出て、 「ええ、」  と言う、目も睜られた気勢である。 「この方が怪談じゃ、」と魯智深が寂しい声。堀子爵が居直って、 「誰の身代りだな、情人のか。」 「あら、情人なら兄さんですわ、」  と臆せず……人見知をしない調子で、 「そうじゃないの、照吉さんのは弟さんの身代りになったんですって。──弟さんはね、先生、自分でも隠してだし、照吉さんも成りたけ誰にも知らさないようにしているんだけれど、こんな処の人のようじゃないの。  学校へ通って、学問をしてね、よく出来るのよ。そして、今じゃ、あの京都の大学へ行っているんです。卒業すれば立派な先生になるんだわ、ねえ。先生。  姉さんもそればっかり楽みにして、地道に稼いじゃ、お金子を送っているんでしょう。……ええ、あの、」  と心得たように、しかも他愛の無さそうに、 「水菓子屋の方は、あれは照吉さんの母さんがはじめた店を、その母さんが亡くなって、姉弟二人ぼっちになって、しようが無いもんですから、上州の方の遠い親類の人に来てもらって、それが世話をするんですけれど、どうせ、あれだわ。田舎を打棄って、こんな処へ来て暮そうって人なんだから、人は好いけれども商売は立行かないで、照吉さんには、あの、重荷に小附とかですってさ。ですから、お金子でも何でも、皆姉さんがして、それでも楽みにしているんでしょう。  そうした処が、この二三年、その弟さんが、大変に弱くなったの。困るわねえ。──試験が済めばもう卒業するのに、一昨年も去年もそうなのよ、今年もやっぱり。続いて三年病気をしたの。それもあの、随分大煩いですわ、いつでも、どっと寝るんでしょう。  去年の時はもう危ないって、電報が来たもんですから、姉さんが無理をして京都へ行ったわ。  二年続けて、彼地で煩らったもんですから、今年の春休みには、是非お帰んなさいって、姉さんも云ってあげるし、自分でも京都の寒さが不可いんだって、久しぶりで帰ったんです。  水菓子屋の奥に居たもんですから、内へも来たわ。若旦那って才ちゃんが言うのよ。お父さんはね、お侍が浪人をしたのですって、──石橋際に居て、寺子屋をして、御新造さんの方は、裁縫を教えたんですっさ、才ちゃんなんかの若い時分、お弟子よ。  あとで、私立の小学校になって、内の梅次さんも、子供の内は上ってたんですさ。お母さんの方は、私だって知ってるわ。品の可い、背のすらりとした人よ。水菓子屋の御新造さんって、皆がそう言ったの。  ですもの、照吉さんは芸者だけれど、弟さんは若旦那だわね。  また煩いついたのよ、困るわねえ。  そして長いの、どっと床に就いてさ。皆、お気の毒だって、やっぱり今の、あの海老屋の寮で養生をして、同じ部屋だわ。まわり縁の突当りの、丸窓の付いた、池に向いた六畳よ。  照吉さんも家業があるでしょう、だもんですから、ちょいとの隙も、夜の目も寝ないで、附っ切りに看病して、それでもちっとも快くならずに、段々塩梅が悪くなって、花が散る頃だったわ、お医者様もね、もうね。」  と言う、ちっと切なそうな息づかい。        十二  お三輪は疲れて、そして遣瀬なさそうな声をして、 「才ちゃんを呼んで来ましょうか、私は上手に話せませんもの。」と言う、覚束ない娘の口から語る、照吉の身の上は、一層夜露に身に染みたのであった。 「可いよ、三輪ちゃんで沢山だ。お話し、お話し、」と雑貨店主、沢岡が激ました。 「ええ、もうちっとだわ。──あの……それでお医者様が手放したもんですから、照吉さんが一七日塩断して……最初からですもの、断つものも外に無いの。そして願掛けをしたんですって。どこかねえ、谷中の方です。遠くまで、朝ねえ、まだ夜の明けない内に通ったのよ。そのお庇で……きっとそのお庇だわ。今日にも明日にも、といった弟さんが、すっかり治ってね。夏のはじめに、でもまだ綿入を着たなりで、京都へ立って行ったんです。  塩断をしたりなんかして、夜も寝なかった看病疲れが出たんだって、皆そう言ったの。すぐ後で、姉さんが病みついたんでしょう。そして、その今のような大病になったんでしょう。  ですがね、つい二三日前、照吉さんが、誰にも言わない事だけれどって、そう云って、内の才ちゃんに話したんですって。──あの、そのね、谷中へ願掛けをした、満願、七日目よ、……一七日なんですもの。いつもお参りをして帰りがけに、しらしらと夜の明ける時間なのが、その朝は、まだ真暗だったんですとさ。御堂を拝んで帰ろうとすると、上の見上げるような杉の大木の茂った中から、スーと音がして、ばったり足許へ落ちて来たものがあるの。常燈明の細い灯で、ちょいと見ると、鳥なんですって、死んだのだわねえ、もう水を浴びたように悚然として、何の鳥だかよくも見なかったけれど、謎々よ、……解くと、弟は助からないって事になる……その時は落胆して、苔の生えた石燈籠につかまって、しばらく泣きましたって、姉さんがね、……それでも、一念が届いて弟が助かったんですから……思い置く事はありません、──とさ。  ああ、きっとそれじゃ、……その時治らない弟さんの身代りに、自分がお約束をしたんだろう。それだから、ああやって覚悟をして死んで行くのを待っておいでだ。事によったら、月日なんかも、その時極めて頼んだのかも分らない、可哀相だ、つて才ちゃんも泣いていました。  そしてね、今度の世は、妹に生れて来て甘えよう、私は甘えるものが無い。弟は可羨しい、あんな大きななりをして、私に甘ったれますもの。でも、それが可愛くって殺されない。前へ死ぬ方がまだ増だ、あの子は男だから堪えるでしょう、……後へ残っちゃ、私は婦で我慢が出来ないって言ったんですとさ。……ちょいとどうしましょう。私、涙が出てよ。……  どうかして治らないものでしょうか。誰方か、この中に、お医者様の豪い方はいらっしゃらなくって、ええ、皆さん。」  一座寂然した。 「まあ、」 「ねえ……」  と、蘭子と種子が言交わす。 「弱ったな、……それは、」とちょいと間を置いてから、子爵が呟いたばかりであった。 「時に、」  と幹事が口を開いて、 「佐川さん、」 「は、」  と顔を上げたが、民弥はなぜかすくむようになって、身体を堅く俯向いてそれまで居た。 「お話しの続きです。──貴下がその今日途中でその、何か、どうかなすったという……それから起ったんですな、三輪ちゃんの今の話は。」 「そうでしたね。」とぼやりと答える。 「その……近所のお産のありそうな処は無いかって、何か、そういったような事から。」 「ええ、」  とただ、腕を拱く。 「どういう事で、それは、まず……」 「一向、詰らない、何、別に、」と可恐しく謙遜する。  人々は促した。──        十三 「──気が射したから、私は話すまい、と思った。けれども、行懸りで、揉消すわけにも行かなかったもんだから、そこで何だ。途中で見たものの事を饒舌ったが、」  と民弥は、西片町のその住居で、安価い竈を背負って立つ、所帯の相棒、すなわち梅次に仔細を語る。……会のあった明晩で、夏の日を、日が暮れてからやっと帰ったが、時候あたりで、一日寝ていたとも思われる。顔色も悪く、気も沈んで、太く疲れているらしかった。  寒気がするとて、茶の間の火鉢に対向いで、 「はじめはそんな席へ持出すのに、余り栄えな過ぎると思ったが、──先刻から言った通り──三輪坊がしたお照さんのその話を聞いてからは、自分だけかも知れないが、何とも言われないほど胸が鬱いだよ。第一、三輪坊が、どんなにか、可恐がるだろう、と思ってね。  場所が谷中だと言うんだろう、……私の出会ったのもやっぱりそこさ。──闇がり坂を通った時だよ。」 「はあ、」と言って、梅次は、団扇を下に、胸をすっと手を支いた。が、黒繻子の引掛け結びの帯のさがりを斜に辷る、指の白さも、団扇の色の水浅葱も、酒気の無い、寂しい茶の間に涼し過ぎた。  民弥は寛ぎもしないで、端然としながら、 「昨日は、お葬式が後れてね、すっかり焼香の済んだのが、六時ちっと廻った時分。後で挨拶をしたり、……茶屋へ引揚げて施主たちに分れると、もう七時じゃないか。  会は夜あかしなんだけれど、ゆっくり話そうって、幹事からの通知は七時遅からず。私にも何かの都合で、一足早く。承知した、と約束がしてある。……  久しぶりのお天気だし、涼いし、紋着で散歩もおかしなものだけれども、ちょうど可い。廓まで歩行いて、と家を出る時には思ったんだが、時間が遅れたから、茶屋の角で直ぐに腕車をそう言ってね。  乗ってさ。出る、ともう、そこらで梟の声がする。寂寥とした森の下を、墓所に附いて、薄暮合いに蹴込が真赤で、晃々輪が高く廻った、と思うと、早や坂だ。──切立てたような、あの闇がり坂、知ってたっけか。」 「根岸から天王寺へ抜ける、細い狭い、蔽被さった処でしょう。──近所でも芋坂の方だと、ちょいちょい通って知ってますけれど、あすこは、そうね、たった一度。可厭な処だわね、そこでどうかなすったんですか。」 「そうさ、よく路傍の草の中に、揃えて駒下駄が脱いであったり、上の雑樹の枝に蝙蝠傘がぶら下っていたり、鉄道で死ぬものは、大概あの坂から摺込むってね。手巾が一枚落ちていても悚然とする、と皆が言う処だよ。  昼でも暗いのだから、暮合も同じさ。別に夜中では無し、私は何にも思わなかったんだが、極って腕車から下りる処さ、坂の上で。あの急勾配だから。  下りるとね、車夫はたった今乗せたばかりの処だろう、空車の気前を見せて、一つ駆けで、顱巻の上へ梶棒を突上げる勢で、真暗な坂へストンと摺込んだと思うと、むっくり線路の真中を躍り上って、や、と懸声だ。そこはまだ、仄り明い、白っぽい番小屋の、蒼い灯を衝と切って、根岸の宵の、蛍のような水々した灯の中へ消込んだ。  蝙蝠のように飛ぶんだもの、離れ業と云って可い速さなんだから、一人でしばらく突立って見ていたがね、考えて見ると、面白くも何とも無いのさ。  足許だけぼんやり見える、黄昏の木の下闇を下り懸けた、暗さは暗いが、気は晴々する。  以前と違って、それから行く、……吉原には、恩愛もなし、義理もなし、借もなし、見得外聞があるじゃなし……心配も苦労も無い。叔母さんに貰った仲の町の江戸絵を、葛籠から出して頬杖を支いて見るようなもんだと思って。」        十四 「坂の中途で──左側の、」  と長火鉢の猫板を圧えて言う。 「樹の根が崩れた、じとじと湿っぽい、赤土の色が蚯蚓でも団ったように見えた、そこにね。」 「ええ」  と梅次は眉を顰めた。 「大丈夫、蛇の話じゃ無い。」とこれは元気よく云って、湯呑で一口。 「人が居たのさ。ぼんやりと小さく蹲んで、ト目に着くと可厭な臭気がする、……地へ打坐ってでもいるかぐらい、ぐしゃぐしゃと挫げたように揉潰した形で、暗いから判然せん。  が、別に気にも留めないで、ずっとその傍を通抜けようとして、ものの三足ばかり下りた処だった。 (な、な、)と言う。  雪駄直しだか、唖だか、何だか分らない。……聞えたばかり。無論、私を呼んだと思わないから、構わず行こうとすると、 (なあ、)と、今度はちっとぼやけたが、大きな声で、そして、 (袴着た殿い、な、)と呼懸ける、確かに私を呼んだんだ。どこの山家のものか知らんが、変な声で、妙なものいいさ。「袴着た、」と言うのか、「墓場来た、」と言うのか、どっちにしても「殿」は気障だ。  が、確に呼留めたに相違無いから、 (俺か。) (それよ、)……と、気になる横柄な返事をして、もやもやと背伸びをして立った……らしい、頭を擡げたのか、腰を起てたのか、上下同じほどに胴中の見えたのは、いずれ大分の年紀らしい。  爺か、婆か、ちょっと見には分らなかったが、手拭だろう、頭にこう仇白いやつを畳んで載せた。それが顔に見えて、面は俯向けにしながら、杖を支いた影は映らぬ。 (殿、な、何処へな。)  と、こうなんだ。  私は黙って視めたっけ。  じっと身動きもしないで、返事を待っているようだからね、 (吉原へ。)  と綺麗に言ったが、さあ、以前なら、きっとそうは言わなかったろう。その空がさっぱりと晴々した心持だから、誰に憚る処も無い。おつけ晴れたのが、不思議に嬉しくもあり、また……幼い了簡だけれども、何か、自分でも立派に思った。 (真北じゃな、ああ、)  とびくりと頷いて、 (火の車で行かさるか。)  馬鹿にしている、……此奴は高利貸か、烏金を貸す爺婆だろうと思ったよ。」  と民弥は寂しそうなが莞爾した。  梅次がちっと仰向くまで、真顔で聞いて、 「まったくだわねえ。」 「いや、」  民弥は、思出したように、室の内を眗しながら、 「烏金……と言えば、その爺婆は、荒縄で引括って、烏の死んだのをぶら下げていたのよ。」  梅次は胸を突かれたように、 「へい、」と云って、また、浅葱のその団扇の上へ、白い指。 「堪らない。幾日経ったんだか、べろべろに毛が剥げて、羽がぶらぶらとやっと繋って、地へ摺れて下ってさ、頭なんざ爛れたようにべとべとしている、その臭気だよ。何とも言えず変に悪臭いのは、──奴の身体では無い。服装も汚くはないんだね、折目の附いたと言いたいが、それよりか、皺の無いと言った方が適い、坊さんか、尼のような、無地の、ぬべりとしたのでいた。  まあ、それは後での事。 (何の車?……)と聞返した。 (森の暗さを、真赤なものが、めいらめいら搦んで、車が飛んだでやいの。恐ろしやな、活きながら鬼が曳くさを見るかいや。のう殿。私は、これい、地板へ倒りょうとしたがいの。……うふッ、)と腮の震えたように、せせら笑ったようだっけ、──ははあ……」        十五 「今の腕車に、私が乗っていたのを知って、車夫が空で駆下りた時、足の爪を轢かれたとか何とか、因縁を着けて、端銭を強請るんであろうと思った。  しかし言種が変だから、 (何の車?)ともう一度……わざと聞返しながら振返ると、 (火の車、)  と頭から、押冠せるように、いやに横柄に言って、もさりと歩行いて寄る。  なぜか、その人を咒ったような挙動が、無体に癪に障ったろう。 (何の車?)と苛々としてこちらも引返した。 (火の車。)  じりじりとまた寄った。 (何の車?) (火の車、) (火の車がどうした。)  とちょうど寄合わせた時、少し口惜いようにも思って、突懸って言った、が、胸を圧えた。可厭なその臭気ったら無いもの。 (私に貸さい、の、あのや、燃え搦まった車で、逢魔ヶ時に、真北へさして、くるくる舞いして行かさるは、少い身に可うないがいや、の、殿、……私に貸さい。車借りて飛ばしたい、えらく今日は足がなえたや、やれ、の、草臥れたいの、やれやれ、)  と言って、握拳で腰をたたくのが、突着けて、ちょうど私の胸の処……というものは、あの、急な狭い坂を、奴は上の方に居るんだろう。その上、よく見ると、尻をこっちへ、向うむきに屈んで、何か言っている。  癩に棒打、喧嘩にもならんではないか。 (どこへ行くんだい、そして、)ッて聞いて見た。 (同じ処への、) (吉原か。) (さればい、それへ。)  とこう言う。 (何しに行くんだね。) (取揚げに行く事よ。)  ああ、産婆か。道理で、と私は思った。今時そんなのは無いかも知れんが、昔の産婆さんにはこんな風なのが、よくあった。何だか、薄気味の悪いような、横柄で、傲慢で、人を舐めて、一切心得た様子をする、檀那寺の坊主、巫女などと同じ様子で、頼む人から一目置かれた、また本人二目も三目も置かせる気。昨日のその時なんか、九目という応接です。  なぜか、根性曲りの、邪慳な残酷なもののように、……絵を見てもそうだろう。産婦が屏風の裡で、生死の境、恍惚と弱果てた傍に、襷がけの裾端折か何かで、ぐなりとした嬰児を引掴んで、盥の上へぶら下げた処などは、腹を断割ったと言わないばかり、意地くねの悪い姑の人相を、一人で引受けた、という風なものだっけ。  吉原へ行くと云う、彼処等じゃ、成程頼みそうな昔の産婆だ、とその時、そう思ったから、……後で蔦屋の二階で、皆に話をする時も、フッとお三輪に、(どこかお産はあるか)って聞いたんだ。  もうそう信じていた。  でも、何だか、肝が起って、じりじりしてね、おかしく自分でも自棄になって、 (貸してやろう、乗っといで。) (柔順なものじゃ、や、よう肯かしゃれたの……おおおお。)と云って臀を動かす。  変なものをね、その腰へ当てた手にぶら下げているじゃないか。──烏の死骸だ。 (何にする、そんなもの。) (禁厭にする大事なものいの、これが荷物じゃ、火の車に乗せますが、やあ、殿。) (堪らない! 臭くって、)  と手巾へ唾を吐いて、 (車賃は払っておくよ。)  で、フイと分れたが、さあ、踏切を越すと、今の車はどこへ行ったか、そこに待っている筈のが、まるで分らない。似たやつどころか、また近所に、一台も腕車が無かった。……  変じゃないか。」        十六  しばらくして、 「お三輪が話した、照吉が、京都の大学へ行ってる弟の願懸けに行って、堂の前で気落した、……どこだか知らないが、谷中の辺で、杉の樹の高い処から鳥が落ちて死んだ、というのを聞いた時、……何の鳥とも、照吉は、それまでは見なかったんだそうだけれども、私は何だよ……  思わず、心が、先刻の暗がり坂の中途へ行って、そのおかしな婆々が、荒縄でぶら提げていた、腐った烏の事を思ったんだ。照吉のも、同じ烏じゃ無かろうかと……それに、可なり大きな鳥だというし……いいや!」  梅次のその顔色を見て、民弥は圧えるように、 「まさか、そんな事はあるまいが、ただそこへ考えが打撞っただけなんだよ。……  だから、さあ、可厭な気持だから、もう話さないでおきたかったんだけれども、話しかけた事じゃあるし、どうして、中途から弁舌で筋を引替えようという、器用なんじゃ無い。まじまじ遣った……もっとも荒ッぽく……それでも、烏の死骸を持っていたッて、そう云うと、皆が妙に気にしたよ。  お三輪は、何も照吉のが烏だとも何とも、自分で言ったのじゃ無いから、別にそこまでは気を廻さなかったと見えて、暗号に袖を引張らなかった。もうね、可愛いんだ、──ああ、可恐い、と思うと、極ったように、私の袂を引張たっけ、しっかりと持って──左の、ここん処に坐っていて、」  と猫板の下になる、膝のあたりを熟と視た。…… 「煙管?」 「ああ、」 「上げましょう。……」  と、トンと払いて、 「あい。……どうしたんです、それから、可厭ね、何だか私は、」と袖を合わせる。 「するとだ……まだその踏切を越えて腕車を捜したッてまでにも行かず……其奴の風采なんぞ悉しく乗出して聞くのがあるから、私は薄暗がりの中だ。判然とはしないけれど、朧気に、まあ、見ただけをね、喋舌ってる中に、その……何だ。  向う角の女郎屋の三階の隅に、真暗な空へ、切って嵌めて、裾をぼかしたように部屋へ蚊帳を釣って、寂然と寝ているのが、野原の辻堂に紙帳でも掛けた風で、恐しくさびれたものだ、と言ったっけ。  その何だよ。……  蚊帳の前へ。」 「ちょいと、」と梅次は、痙攣るばかり目を睜って膝をずらした。 「大丈夫、大丈夫、」  と民弥はまたわずかに笑を含みつつ、 「仲の町越しに、こちらの二階から見えるんだから、丈が……そうさ、人にして二尺ばかり、一寸法師ッか無いけれど、何、普通で、離れているから小さいんだろう。……婆さんが一人。  大きな蜘蛛が下りたように、行燈の前へ、もそりと出て、蚊帳の前をスーと通る。……擦れ擦れに見えたけれども、縁側を歩行いたろう。が、宙を行くようだ。それも、黒雲の中にある、青田のへりでも伝うッて形でね。  京町の角の方から、水道尻の方へ、やがて、暗い処へ入って隠れたのは、障子の陰か、戸袋の背後になったらしい。  遣手です、風が、大引前を見廻ったろう。  それが見えると、鉄棒が遠くを廻った。……カラカラ、……カンカン、何だか妙だね、あの、どうか言うんだっけ。」 「チャン、カン、チャンカン……ですか。」と民弥の顔を瞻めながら、軽く火箸を動かしたが、鉄瓶にカタンと当った。 「あ、」  と言って、はっと息して、 「ああ、吃驚した。」 「ト今度は、その音に、ずッと引着けられて、廓中の暗い処、暗い処へ、連れて歩行くか、と思うばかり。」        十七 「話してる私も黙れば、聞いている人たちも、ぴったり静まる……  と遣手らしい三階の婆々の影が、蚊帳の前を真暗な空の高い処で見えなくなる、──とやがてだ。  二三度続け様に、水道尻居まわりの屋根近な、低い処で、鴉が啼いた。夜烏も大引けの暗夜だろう、可厭な声といったら。  すたすたとけたたましい出入りの跫音、四ツ五ツ入乱れて、駆出す……馳込むといったように、しかも、なすりつけたように、滅入って、寮の門が慌しい。  私の袂を、じっと引張って、 (あれ、照吉姉さんが亡くなるんじゃなくッて)ッて、少し震えながらお三輪が言うと、 (引潮時だねちょうど……)と溜息をしたは、油絵の額縁を拵える職人風の鉄拐な人で、中での年寄だった。  婦人の一人が、 (姉さん、姉さん、)  と、お三輪を、ちょうどその時だった、呼んだのが、なぜか、気が移って、今息を引取ろうという……照吉の枕許に着いていて言うような、こう堅くなった沈んだ声だった。 (ははい、)  とこれも幽にね。  浜谷ッて人だ、その婦人は、お蘭さんというのが、 (内にお婆さんはおいでですか。)  と聞くじゃないか。」 「まあ、」と梅次は呼吸を引く。  民弥は静に煙管を置いて、 「お才さんだって、年じゃあるが、まだどうして、姉えで通る、……婆さんという見当では無い。皆、それに、それだと顔は知っている。  女中がわりに送迎をしている、前に、それ、柳橋の芸者だったという、……耳の遠い、ぼんやりした、何とか云う。」 「お組さん、」 「粋な年増だ、可哀相に。もう病気であんなになってはいるが……だって白髪の役じゃ無い。 (いいえ、お婆さんは居ませんの。) (そう……)  と婦人が言ったっけ。附着くようにして、床の間の傍正面にね、丸窓を背負って坐っていた、二人、背後が突抜けに階子段の大きな穴だ。  その二人、もう一人のが明座ッてやっぱり婦人で、今のを聞くと、二言ばかり、二人で密々と言ったが否や、手を引張合った様子で、……もっとも暗くってよくは分らないが。そしてスーと立って、私の背後へ、足袋の白いのが颯と通って、香水の薫が消えるように、次の四畳を早足でもって、トントンと階下へ下りた。  また、皆、黙ったっけ。もっとも誰が何をして、どこに居るんだか、暗いから分らない。  しばらく、袂の重かったのは、お三輪がしっかり持ってるらしい。  急に上って来ないだろう。 (階下じゃ起きているかい。) (起きてるわ、あの、だけど、才ちゃんは照吉さんの許へちょっと行ってるかも知れなくってよ。) (何は、何だっけ。) (お組さん、……ええ、火鉢の許に居てよ。でも、もうあの通りでしょう、坐眠をしているかも分らないわ。) (三輪ちゃんか、ちょっと見てあげてくれないか、はばかりが分らないのかも知れないぜ。)と一人気を着けた。 (ええ、)  てッたが、もう可恐くッて一人では立てません。  もう一ツ、袂が重くなって、 (一所に……兄さん、)  と耳の許へ口をつける……頬辺が冷りとするわね、鬢の毛で。それだけ内証のつもりだろうが、あの娘だもの、皆、聞えるよ。 (ちょいと、失礼。) (奥方に言いつけますぜ。)と誰か笑った、が、それも陰気さ。」        十八 「暗い階子をすっと抜ける、と階下は電燈だ、お三輪は颯と美しい。  見ると、どうです……二階から下して来て、足の踏場も無かった、食物、道具なんか、掃いたように綺麗に片附いて、門を閉めた。節穴へ明が漏れて、古いから森のよう、下した蔀を背後にして、上框の、あの……客受けの六畳の真中処へ、二人、お太鼓の帯で行儀よく、まるで色紙へ乗ったようでね、ける、かな、と端然と坐ってると、お組が、精々気を利かしたつもりか何かで、お茶台に載っかって、ちゃんとお茶がその前へ二つ並んでいます……  お才さんは見えなかった。  ところが、お組があれだろう。男なら、骨でなり、勘でなり、そこは跋も合わせようが、何の事は無い、松葉ヶ谷の尼寺へ、振袖の若衆が二人、という、てんで見当の着かないお客に、不意に二階から下りて坐られたんだから、ヤ、妙な顔で、きょとんとして。……  次の茶の室から、敷居際まで、擦出して、煙草盆にね、一つ火を入れたのを前に置いて、御丁寧に、もう一つ火入に火を入れている処じゃ無いか。  座蒲団は夏冬とも残らず二階、長火鉢の前の、そいつは出せず失礼と、……煙草盆を揃えて出した上へ、団扇を二本の、もうちっとそのままにしておいたら、お年玉の手拭の残ったのを、上包みのまま持って出て、別々に差出そうという様子でいる。  さあ、お三輪の顔を見ると、嬉しそうに双方を見較べて、吻と一呼吸を吐いた様子。 (才ちゃんは、)  とお三輪が、調子高に、直ぐに聞くと、前へ二つばかりゆっくりと、頷き頷き、 (姉さんは、ちょいと照吉さんの様子を見に……あの、三輪ちゃん。)  と戸棚へ目を遣って、手で円いものをちらりと拵えたのは、菓子鉢へ何か? の暗号。」  ああ、病気に、あわれ、耳も、声も、江戸の張さえ抜けた状は、糊を売るよりいじらしい。 「お三輪が、笑止そうに、 (はばかりへおいでなすったのよ。)  お組は黙って頭を振るのさ。いいえ、と言うんだ。そうすると、成程二人は、最初からそこへ坐り込んだものらしい。 (こちらへいらっしゃいな。)とその一人が、お三輪を見て可懐しそうに声を懸ける。 (佐川さん、)  と太く疲れたらしく、弱々とその一人が、もっとも夜更しのせいもあろう、髪もぱらつく、顔色も沈んでいる。 (どうしたんです。)と、ちょうど可い、その煙草盆を一つ引攫って、二人の前へ行って、中腰に、敷島を一本。さあ、こうなると、多勢の中から抜出したので、常よりは気が置けない。 (頭痛でもなさるんですか、お心持が悪かったら、蔭へ枕を出させましょうか。) (いいえ、別に……) (御無理をなすっちゃ不可ません。何だかお顔の色が悪い。) (そうですかね。)とお蘭さんが、片頬を殺ぐように手を当てる。 (ねえ、貴方、お話しましょう。) (でも……) (ですがね、)  とちらちらと目くばせが閃めく、──言おうか、言うまいかッて素振だろう。  聞かずにはおかれない。 (何です、何です、)  と肩を真中へ挟むようにして、私が寄る、と何か内証の事とでも思ったろう、ぼけていても、そこは育ちだ。お組が、あの娘に目で知らせて、二人とも半分閉めた障子の蔭へ。ト長火鉢のさしの向いに、結綿と円髷が、ぽっと映って、火箸が、よろよろとして、鉄瓶がぽっかり大きい。  お種さんが小さな声で、 (今、二階からいらっしゃりがけに、物干の処で、)  とすこし身を窘めて、一層低く、 (何か御覧なさりはしませんか。)  私は悚然とした。」        十九 「が、わざと自若として、 (何を、どんなものです。)って聞返したけれど、……今の一言で大抵分った、婆々が居た、と言うんだろう。」 「可厭、」と梅次は色を変えた。 「大丈夫、まあ、お聞き、……というものは──内にお婆さんは居ませんか──ッて先刻お三輪に聞いたから。……  はたして、そうだ。 (何ですか、お婆さんらしい年寄が、貴下、物干から覗いていますよ。)  とまた一倍滅入った声して、お蘭さんが言うのを、お種さんが取繕うように、 (気のせいかも知れません、多分そうでしょうよ……) (いいえ、確なの、佐川さん、それでね、ただ顔を出して覗くんじゃありません。梟見たように、膝を立てて、蹲んでいて、窓の敷居の上まで、物干の板から密と出たり、入ったり、) (ああ、可厭だ。)  と言って、揃って二人、ぶるぶると掃消すように袖を振るんだ。  その人たちより、私の方が堪りません。で無くってさえ、蚊帳の前を伝わった形が、昼間の闇がり坂のに肖ていて堪らない処だもの、……烏は啼く……とすぐにあの、寮の門で騒いだろう。  気にしたら、どうして、突然ポンプでも打撒けたいくらいな処だ。 (いつから?……) (つい今しがたから。) (全体前にから、あの物干の窓が気になってしようがなかったんですよ。……時々、電車のですかね、電ですか、薄い蒼いのが、真暗な空へ、ぼっと映しますとね、黄色くなって、大きな森が出て、そして、五重の塔の突尖が見えるんですよ……上野でしょうか、天竺でしょうか、何にしても余程遠くで、方角が分りませんほど、私たちが見て凄かったんです。  その窓に居るんですもの。) (もっとお言いなさいよ。) (何です。) (可厭だ、私は、) (もっととは?) (貴女おっしゃいよ、)  と譲合った。トお種さんが、障のお三輪にも秘したそうに、 (頭にね、何ですか、手拭のようなものを、扁たく畳んで載せているものなんです。貴下がお話しの通りなの、……佐川さん。)  私は口が利けなかった。──無暗とね、火入へ巻莨をこすり着けた。  お三輪の影が、火鉢を越して、震えながら、結綿が円髷に附着いて、耳の傍で、 (お組さん、どこのか、お婆さんは、内へ入って来なくッて?) (お婆さん……)  とぼやけた声。 (大きな声をおしでないよ。)  と焦ったそうにたしなめると、大きく合点々々しながら、 (来ましたよ。)  ときょとんとして、仰向いて、鉄瓶を撫でて澄まして言うんだ。」 「来たの、」  と梅次が蘇生った顔になる。 「三人が入乱れて、その方へ膝を向けた。  御注進の意気込みで、お三輪も、はらりとこっちへ立って、とんと坐って、せいせい言って、 (来たんですって。ちょいと、どこの人。)  と、でも、やっぱり、内証で言った。  胸から半分、障子の外へ、お組が、皆が、油へ水をさすような澄ました細面の顔を出して、 (ええ、一人お見えになりましてすよ。) (いつさ?) (今しがた、可厭な鴉が泣きましたろう……)  いや、もうそれには及ばぬものはまた意地悪く聞える、と見える。 (照吉さんの様子を見に、お才はんが駆出して行きなすった、門を開放したまんまでさ。)  皆が振向いて門を見たんだ。」──        二十 「その癖門の戸は閉っている。土間が狭いから、下駄が一杯、杖、洋傘も一束。大勢余り隙だから、歩行出したように、もぞりもぞりと籐表の目や鼻緒なんぞ、むくむく動く。  この人数が、二階に立籠る、と思うのに、そのまた静さといったら無い。  お組がその儀は心得た、という顔で、 (後で閉めたんでございますがね、三輪ちゃん、お才はんが粗々かしく、はあ、)  と私達を見て莞爾しながら、 (駆出して行きなすった、直き後でございますよ。入違いぐらいに、お年寄が一人、その隅こから、扁平たいような顔を出して覗いたんでございますよ。  何でも、そこで、お上さんに聞いて来た、とそう言いなすったようでしたっけ……すたすた二階へお上りでございました。)  さ、耳の疎いというものは。 (どこの人よ、)  とお三輪が擦寄って、急込んで聞く。 (どこのお婆さんですか。) (お婆さんなの、ちょいと……)  私たちが訊ねたい意は、お三輪もよく知っている。闇がり坂以来、気になるそれが、爺とも婆とも判別が着かんじゃないか。 (でしょうよ、はあ、……余程の年紀ですから。) (いいえさ、年寄だってね、お爺さんもお婆さんもありますッさ。) (それがね、それですがね三輪ちゃん。)  と頭を掉って、 (どっちだかよく分りません。背の低い、色の黄色蒼い、突張った、硝子で張ったように照々した、艶の可い、その癖、随分よぼよぼして……はあ、手拭を畳んで、べったり被って。)  女たちは、お三輪と顔を見合わせた。 (それですが、どうかしましたか。) (どうもこうもなくってよ……)とお三輪は情ない声を出す。 (不可ませんでしたかねえ。私はやっぱり会にいらしった方か、と思って。)  ……成程な、」  と民弥は言い掛けて苦笑した。 「会へいらしったには相違は無い。 (今時分来る人があって、お組さん。もう二時半だわ。) (ですがね、この土地ですし……ちょいと、御散歩にでもお出掛けなすったのが、帰って見えたかとも思いましたしさ……お怪の話をする、老人は居ないかッて、誰方かお才はんに話しをしておいでだったし、どこか呼ばれて来たのかとも、後でね、考えた事ですよ。いえね、そんな汚い服装じゃありません。茶がかった鼠色の、何ですか無地もので、皺のないのを着てでした。  けれども、顔で覗いてその土間へお入んさすった時は、背後向きでね、草履でしょう、穿物を脱いだのを、突然懐中へお入れなさるから、もし、ッて留めたんですが、聞かぬ振で、そして何です、そのまんま後びっしゃりに、ずるッかずるッかそこを通って、)  と言われた時は、揃って畳の膝を摺らした。 (この階子段の下から、向直ってのっそりのっそり、何だか不躾らしい、きっと田舎のお婆さんだろうと思いました。いけ強情な、意地の悪い、高慢なねえ、その癖しょなしょなして、どうでしょう、可恐い裾長で、……地へ引摺るんでございましょうよ。  裾端折を、ぐるりと揚げて、ちょいと帯の処へ挟んだんですがねえ、何ですか、大きな尻尾を捲いたような、変な、それは様子なんです。……  おや、無面目だよ、人の内へ、穿物を懐へ入れて、裾端折のまんま、まあ、随分なのが御連中の中に、とそう思っていたんですがね、へい、まぐれものなんでございますかい。)  わなわな震えて聞いていたっけ、堪らなくなった、と見えてお三輪は私に縋り着いた。  いや、お前も、可恐ながる事は無い。……  もう、そこまでになると、さすがにものの分った姉さんたちだ、お蘭さんもお種さんも、言合わせたように。私にも分った。言出して見ると皆同一。」……        二十一 「茶番さ。」 「まあ!」 「誰か趣向をしたんだね、……もっとも、昨夜の会は、最初から百物語に、白装束や打散らし髪で人を怯かすのは大人気無い、素にしよう。──それで、電燈だって消さないつもりでいたんだから。  けれども、その、しないという約束の裏を行くのも趣向だろう。集った中にや、随分娑婆気なのも少くない。きっと誰かが言合わせて、人を頼んだか、それとも自から化けたか、暗い中から密と摺抜ける事は出来たんだ。……夜は更けたし、潮時を見計らって、……確にそれに相違無い。  トそういう自分が、事に因ると、茶番の合棒、発頭人と思われているかも知れん。先刻入ったという怪しい婆々が、今現に二階に居て、傍でもその姿を見たものがあるとすれば……似たようなものの事を私が話したんだから。 (誰かの悪戯です。) (きっとそう、)  と婦人だちも納得した。たちまち雲霧が晴れたように、心持もさっぱりしたろう、急に眠気が除れたような気がした、勇気は一倍。  怪しからん。鳥の羽に怯かされた、と一の谷に遁込んだが、緋の袴まじりに鵯越えを逆寄せに盛返す……となると、お才さんはまだ帰らなかった。お三輪も、恐いには二階が恐い、が、そのまま耳の疎いのと差対いじゃなお遣切れなかったか、また袂が重くなって、附着いて上ります。  それでも、やっぱり、物干の窓の前は、私はじめ悚然としたっけ。  ばたばたと忙しそうに皆坐った、旧の処へ。  で、思い思いではあるけれども、各自暗がりの中を、こう、……不気味も、好事も、負けない気も交って、その婆々だか、爺々だか、稀有な奴は、と透かした。が居ない……」  梅次が、確めるように調子を圧えて、 「居ないの、」 「まあ、お待ち、」  と腕を組んで、胡坐を直して、伸上って一呼吸した。 「そこで、連中は、と見ると、いやもう散々の為体。時間が時間だから、ぐったり疲切って、向うの縁側へ摺出して、欄干に臂を懸けて、夜風に当っているのなどは、まだ確な分で。突臥したんだの、俯向いたんだの、壁で頭を冷してるのもあれば、煙管で額へ突支棒をして、畳へ踣めったようなのもある。……夜汽車が更けて美濃と近江の国境、寝覚の里とでもいう処を、ぐらぐら揺って行くようで、例の、大きな腹だの、痩せた肩だの、帯だの、胸だの、ばらばらになったのが遠灯で、むらむらと一面に浮いて漾う。 (佐川さん、)  と囁くように、……幹事だけに、まだしっかりしていた沢岡でね。やっぱり私の隣りに坐ったのが、 (妙なものをお目に懸けます。) (え、)  それ、婆々か、と思うとそうじゃ無い。 (縁側の真中の──あの柱に、凭懸ったのは太田(西洋画家)さんですがね、横顔を御覧なさい、頬がげっそりして面長で、心持、目許、ね、第一、髪が房々と真黒に、生際が濃く……灯の映る加減でしょう……どう見ても婦人でしょう。婦人も、産後か、病上りてった、あの、凄い蒼白さは、どうです。  もう一人、)  と私の脇の下へ、頭を突込むようにして、附着いて、低く透かして、 (あれ、ね、床の間の柱に、仰向けに凭れた方は水島(劇評家)さんです。フト口を開きか何か、寝顔はという躾で、額から顔へ、ぺらりと真白は手巾を懸けなすった……目鼻も口も何にも無い、のっぺらぽう……え、百物語に魔が魅すって聞いたが、こんな事を言うんですぜ。)  ところが、そんなので無いのが、いつか魅し掛けているので気になる……」        二十二 「そうすると、趣向をしたのはこの人では無いらしい、企謀んだものなら一番懸けに、婆々を見着けそうなものだから。 (ねえ、こっちにもう一つ異体なのは、注連でも張りそうな裸のお腹、……) (何じゃね、)と直きに傍だったので、琴の師匠は聞着けたが、 (いいえ、こちらの事で。)幹事が笑うと、欠伸まじりで、それなり、うとうと。 (まあ、これは一番正体が知れていますが、それでも唐突に見ると吃驚しますぜ。で、やっぱりそれ、燭台の傍の柱に附着いて胡坐でさ。妙に人相形体の変ったのが、三つとも、柱の処ですからね。私も今しがた敷居際の、仕切の壁の角を、摺出した処ですよ。  どうです、心得ているから可いようなものの、それでいながら変に凄い。気の弱い方が、転寝からふっと覚際に、ひょっと一目見たら、吃驚しますぜ。  魔物もやっぱり、蛇や蜘蛛なんぞのように、鴨居から柱を伝って入って来ると見えますな。) (可厭ですね。)  婦人は二人、颯と衣紋を捌いて、欞子窓の前を離れた、そこにも柱があったから。  そして、お蘭さんが、 (ああ、また……開いていますね。)  と言うんだ。……階下から二階へ帰掛けに、何の茶番が! で、私がぴったり閉めた筈。その時は勿論、婆々も爺々も見えなかった、──その物干の窓が、今の間に、すかり、とこう、切放したように、黒雲立って開いている。  お種さんが、 (憚り様、どうかそこをお閉め下さいまし。)  こう言って声を懸けた。──誰か次の室の、その窓際に坐っているのが見えたんだろう。  お聞き……そうすると……壁腰、──幹事の沢岡が気にして摺退いたという、敷居外の柱の根の処で、 (な、)  と云う声だ! 私は氷を浴びたように悚然とした。 (閉い言うて、云わしゃれても、な、埒明かん。閉めれば、その跡から開けるで、やいの。)  聞くと、筋も身を引釣った、私は。日暮に谷中の坂で聞いた、と同じじゃないか。もっとも、年寄りは誰某と人を極めないと、どの声も似てはいるが。  それに、言い方が、いかにも邪慳に、意地悪く聞えたせいか、幹事が、対手は知らず、ちょっと詰るように、 (誰が明けます。) (誰や知らん。) (はあ、閉める障子を明ける人がありますか。) (棺の蓋は一度じゃが、な、障子は幾度でも開けられる、閉てられるがいの。) (可いから、閉めて下さい、夜が更けて冷えるんですから、)と幹事も不機嫌な調子で言う。 (惜きましょ。透通いて見えん事は無けれどもよ……障子越は目に雲霧じゃ、覗くにはっきりとよう見えんがいの。) (誰か、物干から覗くんですかね。) (彼にも誰にも、大勢、な、) (大勢、……誰です、誰です。)  と、幹事もはじめて、こう逆に捻向いて背後を見た。 (誰や言うてもな、殿、殿たちには分らぬ、やいの、形も影も、暗い、暗い、暗い、見えぬぞ、殿。) (明るくしよう、)  と幹事も何か急込んで、 (三輪ちゃん、電燈を、電燈を、)  と云ったが、どうして、あの娘が動き得ますか。私の膝に、可哀相に、襟を冷たくして突臥したッきり。 「措きませ、措きませい。無駄な事よ、殿、地獄の火でも呼ばぬ事には、明るくしてかて、殿たちの目に、何が見えよう。……見えたら異事じゃぞよ、異事じゃぞよ、の。見えぬで僥倖いの、……一目見たら、やあ、殿、殿たちどうなろうと思わさる。やあ、)  と口を、ふわふわと開けるかして、声が茫とする。」        二十三 「幹事が屹として、 (誰です、お前さんは、)  と聞いた。この時、睡っていない人が一人でもあるとすれば、これは、私はじめ待構えた問だった。 (私か、私か、……殿、)  と聞返して、 (同じ仲間のものじゃが、やいの。) (夥間? 私たちの?) (誰がや、……誰がや、)  と嘲るように二度言って、 (殿たちの。私が言うは近間に居る、大勢の、の、その夥間じゃ、という事いの。) (何かね、廓の人かね。) (されば、松の森、杉の林、山懐の廓のものじゃ。) (どこから来ました。) (今日は谷中の下闇から、) (佐川さん、)  と少し声高に、幹事が私を呼ぶじゃないか。  私は黙っていたんだ。  しばらくして、 (何をしに……) (「とりあげ」をしょうために、な、殿、「とりあげ」に来たぞ、やいの。) (嬰児を産ませるのか。) (今、無い、ちょうど間に合うて「とりあげ」る小児は無い。) (そんな、誂えたようなお産があるものか、お前さん、頼まれて来たんじゃ無いのかね。) (さればのう、頼まれても来たれど、な、催促にももう来たがいの。来たれどもの、仔細あってまだ「とりあげ」られぬ。) (むむ、まだ産れないのか。) (何がいの、まだ、死にさらさぬ。) (死……死なぬとは?) (京への、京へ、遠くへ行ている、弟和郎に、一目未練が残るげな。)  幹事はハタと口をつぐんだ。 (そこでじゃがや、姉めが乳の下の鳩落な、蝮指の蒼い爪で、ぎりぎりと錐を揉んで、白い手足をもがもがと、黒髪を煽って悶えるのを見て、鳥ならば活きながら、羽毛を挘った処よの。さて、それだけで帰りがけじゃい、の、殿、その帰るさに、これへ寄った。) (そこに居るのは誰だ。)  と向うの縁側の処から、子爵が声を懸けた。……私たちは、フト千騎の味方を得たように思う。  ト此方で澄まして、 (誰でも無いがの。) (いや、誰でも構わん。が、洒落も串戯も可加減にした方が可いと思う。こう言うと大人気ないが、婦人も居てだ。土地っ児の娘も聞いてる……一座をすれば我々の連中だ。悪戯も可いが、余り言う事が残酷過ぎる。……外の事じゃない。  弟を愛して、──それが出来得る事でも出来ない事でも、その身代りに死ぬと云って覚悟をしている大病人。現に、夜伽をして、あの通り、灯がそこに見えるじゃないか。  それこそ、何にも知らぬ事だ。ちっとも差支えは無いようなものの、あわれなその婦を、直ぐ向うに苦しませておいて、呑気そうに、夜通しのこの会さえ、何だか心ないような気がして、私なんぞは鬱いでいるんだ。  仕様もあろうのに、その病人を材料にして、約束の生命を「とりあげ」に来たが、一目弟を見たがるから猶予をした、胸に爪を立てて苦しませたとはどうだ。  聞いちゃおられん、余り残酷で。可加減にしておきなさい。誰だか。)  と凜々と云う。  聞きも果てずに、 (酷いとは、酷いとは何じゃ、の、何がや、向うの縁側のその殿、酷いとはいの、やいの、酷いとはいの。)  と畳掛けるように、しかも平気な様子。──向うの縁側のその殿──とは言種がどうだい。」        二十四 「子爵が屹となって、坐り直った様だっけ。 (知らんか、残酷という事を、知らなけりゃ聞かせようじゃないか、前へ出ないか、おい、こっちへ入らんか。) (行こうのう、殿、その傍へ参ろうじゃがの、そこに汚穢いものがあろうがや。早やそれが、汚穢うて汚穢うてならぬ。……退けてくされませ、殿、)と言うんだ。 (汚いもの、何がある。) (小丼に入れた、青梅の紫蘇巻じゃ。や、香もならぬ、ふっふっ。ええ、胸悪やの、先刻にから。……早く退けしゃらぬと、私も嘔吐そう、嘔吐そう、殿。)  茶うけに出ていた甘露梅の事だ。何か、女児も十二三でなければ手に掛けないという、その清浄な梅漬を、汚穢くてならぬ、嘔吐すと云う。 (吐きたければ吐け、何だ。) (二寸の蚯蚓、三寸の蛇、ぞろぞろと嘔吐すが怪しゅうないか。)  余り言種が自棄だから、 (蛇や蚯蚓は構わんが、そこらで食って来た饂飩なんか吐かれては恐縮だ。悪い酒を呷ったろう。佐川さん、そこらにあったら片附けておやんなさい。)  私は密と押遣って、お三輪と一所に婦人だちを背後へ庇って、座を開く、と幹事も退いて、私に並んで楯になる。  次の間かけて、敷居の片隅、大きな畳の穴が開いた。そこを……もくもく、鼠に茶色がかった朦朧とした形が、フッ、と出て、浮いて、通った。──  どうやら、臀から前へ、背後向きに入るらしい。  ト前へ被さった筈だけれども、琴の師匠の裸の腹はやっぱり見えた。縁側の柱の元へ、音もなく、子爵に並んだ、と見ると、……気のせいだろう、物干の窓は、ワヤワヤと気勢立って、奴が今居るあたりまで、ものの推込んだ様子がある。なぜか、向うの、その三階の蚊帳が、空へずッと高くなったように思う。  ちょうど、子爵とその婆との間に挟まる、柱に凭れた横顔が婦人に見える西洋画家は、フイと立って、真暗な座敷の隅へ姿を消した。真個に寐入っていたのでは無かったらしい。 (残酷というのはね、仮にもしろ、そんな、優しい、可憐い、──弟のために身代りになるというような、若い人の生命を「とりあげ」に来たなどという事なんだ。世の中には、随分、娑婆塞げな、死損いな、)  と子爵も間近に、よくその婆々を認めたろう、……当てるように、そう言って、 (邪魔な生命もあるもんだ。そんな奴の胸に爪を立てる方がまだしもだな。) (その様な生命はの、殿、殿たちの方で言うげな、……病ほうけた牛、痩せさらぼえた馬で、私等がにも役にも立たぬ。……あわれな、というはの、膏の乗った肉じゃ、いとしいというはの、薫の良い血じゃぞや。な、殿。──此方衆、鳥を殺さしゃるに、親子の恩愛を思わっしゃるか。獣を殺しますに、兄弟の、身代りの見境があるかいの。魚も虫も同様での。親があるやら、一粒種やら、可愛いの、いとしいの、分隔てをめされますかの。  弱いものいうたら、しみしんしゃくもさしゃらず……毛を毮る、腹を抜く、背を刮く……串刺じゃ、ししびしおじゃ。油で煮る、火炎で焼く、活きながら鱠にも刻むげなの、やあ、殿。……餓じくばまだしもよ、栄耀ぐいの味醂蒸じゃ。  馴れれば、ものよ、何がそれを、酷いとも、いとしいとも、不便なとも思わず。──一ツでも繋げる生命を、二羽も三頭も、飽くまでめさる。また食おうとさしゃる。  誰もそれを咎めはせまい。咎めたとて聞えまい、私も言わぬ、私もそれを酷いと言わぬぞ。知らぬからじゃ、不便もいとしいも知らねばこそいの。──何と、殿、酷い事を知らぬものは、何と殿、殿たちにも結構に、重宝にあろうが、やいの、のう、殿。) (何とでも言え、対手にもならん。それでも何か、そういうものは人間か。)  と吐出すように子爵が言った。」        二十五 「ト其奴が薄笑いをしたようで、 (何じゃ、や、人間らしく無いと言うか。誰が人間になろうと云うた。殿たち、人間がさほど豪いか、へ、へ、へ、)  とさげすんで、 (この世のなかはの、人間ばかりのもので無い。私等が国はの、──殿、殿たちが、目の及ばぬ処、耳に聞えぬ処、心の通わぬ処、──広大な国じゃぞの。  殿たちの空を飛ぶ鳥は、私等が足の下を這廻る、水底の魚が天翔ける。……烏帽子を被った鼠、素袍を着た猿、帳面つける狐も居る、竈を炊く犬も居る、鼬が米舂く、蚯蚓が歌う、蛇が踊る、……や、面白い世界じゃというて、殿たちがものとは較べられぬ。  何──不自由とは思わねども、ただのう、殿たち、人間が無いに因って、時々来ては攫えて行く……老若男女の区別は無い。釣針にかかった勝負じゃ、緑の髪も、白髪も、顔はいろいろの木偶の坊。孫等に人形の土産じゃがの、や、殿。殿たち人間の人形は、私等が国の玩弄物じゃがの。  身代りになる美い婦なぞは、白衣を着せて雛にしょう。芋殻の柱で突立たせて、やの、数珠の玉を胸に掛けさせ、)  いや、もう聞くに堪えん。 (まあ、面を取れ、真面目に話す。)と子爵が憤ったように言う。 (面、) (面だ。)  面だ、面だ、と囁く声が、そこここに、ひそひそ聞えた。眠らずにいた連中には、残らず面に見えたらしい。  成程、そう言えば、端近へ出てから、例の灯の映る、その扁平い、むくんだ、が瓜核といった顔は、蒼黄色に、すべすべと、皺が無く、艶があって、皮一重曇った硝子のように透通って、目が穴に、窪んで、掘って、眉が無い。そして、唇の色が黒い。気が着くと、ものを云う時も、奴、薄笑をする時も、さながら彫刻けたもののようで静としたッきり、口も頬もビクとも動かぬ。眉……眉はぬっぺりとして跡も無い、そして、手拭を畳んだらしいものを、額下りに、べたん、と頭へ載せているんだ。 (いや、いや、)  と目鼻の動かぬ首を振って、 (除るまい、除らぬは慈悲じゃ。この中には、な、画を描き彫刻をする人もある、その美しいものは、私等が国から、遠く指す花盛じゃ、散らすは惜しいに因って、わざと除らぬぞ!……何が、気の弱い此方たちが、こうして人間の面を被っておればこそ、の、私が顔を暴露いたら、さて、一堪りものう、髯が生えた玩弄物に化ろうが。) (灯を点けよう、何しろ。)  と、幹事が今は蹌踉けながら手探りで立とうとする。子爵が留めて、 (お待ちなさい。串戯も嵩じると、抜差しが出来なくなる。誰か知らんが、悪戯がちと過ぎます。面は内証で取るが可い、今の内ならちっとも分らん、電燈を点けてからは消え憎くなるだろう。)  子爵はどこまでも茶番だ、と信ずるらしい。  ……後で聞くと、中には、対方を拵えて応答をする、子爵その人が、悪戯をしているんだ、と思ったのもあったんだ。 (明るさ、暗さの差別は無いが、の、の、殿、私がしょう事、それをせねば、日が出ましても消えはせぬが。) (可、何をしに来たんだ、ここへ。……まあ、仮にそっちが言う通りのものだとすると。) (されば、さればの、殿。……)  とまた落着いたように、ぐたりと胸を折った、蹲った形が挫げて見えて、 (身代りが、──その儀で、やいの、の、殿、まだ「とりあげ」が出来ぬに因って、一つな、このあたりで、間に合わせに、奪ろう!……さて、どれにしょうぞ、と思うて見入って、視め廻いていたがやいの、のう、殿。)  皆、──黙った。 (殿、ふと気紛れて出て、思懸のう懇申した験じゃ、の、殿、望ましいは婦人どもじゃ、何と上﨟を奪ろうかの。)  婦人たちのその時の様子は、察して可かろう。」        二十六 「奴は勝ほこった体で、毛筋も動かぬその硝子面を、穴蔵の底に光る朽木のように、仇艶を放って眗しながら、 (な、けれども、殿、殿たちは上﨟を庇わしゃろうで、懇申した効に、たってとはよう言わぬ。選まっしゃれ、選んで指さっしゃれ、それを奪ろう。……奪ろう。……それを奪ろう! やいの、殿。)  と捲し掛けて、 (ここには見えぬ、なれども、殿たちの妻、子、親、縁者、奴婢、指さっしゃれば、たちどころに奪って見しょう。)  と言語道断な事を。  とはたはたと廂の幕が揺動いて、そのなぐれが、向う三階の蚊帳を煽った、その時、雨を持った風が颯と吹いた。 (また……我を、と名告らっしゃれ……殿、殿ならば殿を奪ろう。) (勝手にしろ、馬鹿な。)  と唾吐くように、忌々しそうに打棄って、子爵は、くるりと戸外を向いた。 (随意にしょうでは気迷うぞいの、はて?……)  とその面はつけたりで、畳込んだ腹の底で声が出る。 (さて……どれもどれも好ましい。やあ、天井、屋の棟にのさばる和郎等! どれが望みじゃ。やいの、)  と心持仰向くと、不意に何と……がらがら、どど、がッと鼠か鼬だろう、蛇も交るか、凄じく次の室を駆けて荒廻ると、ばらばらばらばらと合せ目を透いて埃が落ちる。 (うむ、や、和郎等。埃を浴びせた、その埃のかかったものが欲いと言うかの──望みかいの。)  ばたばた、はらはらと、さあ、情ない、口惜いが、袖や袂を払いた音。 (やれ羽打つ、へへへ、小鳥のように羽掻を煽つ、雑魚のように刎ねる、へへ。……さて、騒ぐまい、今がはそで無い。そうでは無いげじゃ。どの玩弄物欲しい、と私が問うたでの、前へ悦喜の雀躍じゃ、……這奴等、騒ぐまい、まだ早い。殿たち名告らずば、やがて、選ろう、選取りに私が選って奪ろう!) (勝手にして、早く退座をなさい、余りといえば怪しからん。無礼だ、引取れ。)  と子爵が喝した、叱ったんだ。 (催促をせずと可うござる。)  と澄まし返って、いかにも年寄くさく口の裡で言った、と思うと、 (やあ、)  と不意に調子を上げた。ものを呼びつけたようだっけ。幽に一つ、カアと聞えて、またたく間に、水道尻から三ツのその灯の上へかけて、棟近い処で、二三羽、四五羽、烏が啼いた、可厭な声だ。 (カアカアカア──)  と婆々が遣ったが、嘴も尖ったか、と思う、その黒い唇から、正真の烏の声を出して、 (カアカア来しゃれえ! 火の車で。)  と喚く、トタンに、吉原八町、寂として、廓の、地の、真中の底から、ただ一ツ、カラカラと湧上ったような車の音。陰々と響いて、──あけ方早帰りの客かも知れぬ──空へ舞上ったように思うと、凄い音がして、ばッさりと何か物干の上へ落ちた。 (何だ!)  と言うと、猛然として、ずんと立って、堪えられぬ……で、地響で、琴の師匠がずかずかと行って、物干を覗いたっけ。  裸脱ぎの背に汗を垂々と流したのが、灯で幽に、首を暗夜へ突込むようにして、 (おお、稲妻が天王寺の森を走る、……何じゃ、これは、烏の死骸をどうするんじゃい。)と引掴んで来て、しかも癪に障った様子で、婆々の前へ敲きつけた。  あ、弱った。……  その臭気といったらない。  皆、ただ呼吸を詰めた。  婆々が、ずらずらとその蛆の出そうな烏の死骸を、膝の前へ、蒼い頤の下へ引附けた。」        二十七 「で、頭を下げて、熟と見ながら、 (蠅よ、蠅よ、蒼蠅よ。一つ腸の中を出され、ボーンと。──やあ、殿、上﨟たち、私がの、今ここを引取るついでに、蒼蠅を一ツ申そう。ボーンと飛んで、額、頸首、背、手足、殿たちの身体にボーンと留まる、それを所望じゃ。物干へ抜いて、大空へ奪って帰ろう。名告らしゃれ。蠅がたからば名告らしゃれ。名告らぬと卑怯なぞ。人間は卑怯なものと思うぞよ。笑うぞよ……可いか、蒼蠅を忘れまい。  蠅よ、蠅よ、蒼蠅よ、ボーンと出され、おじゃった! おお!)  一座残らず、残念ながら動揺めいた。  トふわりと起ったが、その烏の死骸をぶら下げ、言おうようの無い悪臭を放って、一寸、二寸、一尺ずつ、ずるずると引いた裾が、長く畳を摺ったと思うと、はらりと触ったかして、燭台が、ばったり倒れた。  その時、捻向いて、くなくなと首を垂れると、摺った後褄を、あの真黒な嘴で、ぐい、と啣えて上げた、と思え。……鳥のような、獣のような異体な黄色い脚を、ぬい、と端折った、傍若無人で。 (ボーン、ボーン、ボーン、)と云うのが、ねばねばと、重っくるしく、納豆の糸を引くように、そして、点々と切れて、蒼蠅の羽音やら、奴の声やら分らぬ。  そのまま、ふわりとして、飜然と上った。物干の暗黒へ影も隠れる。 (あれ。)  と真前に言ったはお三輪で。 (わ、)とまた言った人がある。  さあ、膝で摺る、足で退く、ばたばたと二階の口まで駆出したが、 (ええ)と引返したは誰だっけ。……蠅が背後から縋ったらしい。  物干から、 (やあ、小鳥のように羽打つ、雑魚のように刎ねる。はて、笑止じゃの。名告れ、名告らぬか、さても卑怯な。やいの、殿たち。上﨟たち。へへへ、人間ども。ボーン、ボーン、ボーン、あれ、それそれ転ぶわ、踣めるわ、這うわ。とまったか、たかったか。誰じゃ、名告れ、名告らぬか、名告れ。……ボーン、)  と云う時、稲妻が閃めいて、遠い山を見るように天王寺の森が映った。  皆ただ、蠅の音がただ、雷のように人々の耳に響いた。  ただ一縮みになった時、 (ほう、)  と心着いたように、物干のその声が、 (京から人が帰ったような。早や夜もしらむ。さらば、身代りの婦を奪ろう!……も一つ他にもある。両の袂で持重ろう。あとは背負うても、抱いても荷じゃ。やあ、殿、上﨟たち、此方衆にはただ遊うだじゃいの。道すがら懇申した戯じゃ。安堵さっしゃれ、蠅は掌へ、ハタと掴んだ。  さるにても卑怯なの、は、は、は、梅干で朝の茶まいれ、さらばじゃ。)  ばっと屋上を飛ぶ音がした。  フッと見ると、夜が白んで、浅葱になった向うの蚊帳へ、大きな影がさしたっけ。けたたましい悲鳴が聞えて、白地の浴衣を、扱帯も蹴出しも、だらだらと血だらけの婦の姿が、蚊帳の目が裂けて出る、と行燈が真赤になって、蒼い細い顔が、黒髪を被りながら黒雲の中へ、ばったり倒れた。  ト車軸を流す雨になる。  電燈が点いたが、もうその色は白かった。  婆々の言った、両の袂の一つであろう、無理心中で女郎が一人。──  戸を開ける音、閉める音。人影が燈籠のように、三階で立騒いだ。  照吉は……」  と民弥は言って、愁然とすると、梅次も察して、ほろりと泣く。 「ああ、その弟ばかりじゃない、皆の身代りになってくれたように思う。」 明治四十四(一九一一)年三月 底本:「泉鏡花集成4」ちくま文庫、筑摩書房    1995(平成7)年10月24日第1刷発行    2004(平成16)年3月20日第2刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第十三卷」岩波書店    1941(昭和16)年6月30日発行 ※誤植の確認には底本の親本を参照しました。 入力:土屋隆 校正:門田裕志 2006年6月26日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。