海異記 泉鏡花 Guide 扉 本文 目 次 海異記        一  砂山を細く開いた、両方の裾が向いあって、あたかも二頭の恐しき獣の踞ったような、もうちっとで荒海へ出ようとする、路の傍に、崖に添うて、一軒漁師の小家がある。  崖はそもそも波というものの世を打ちはじめた昔から、がッきと鉄の楯を支いて、幾億尋とも限り知られぬ、潮の陣を防ぎ止めて、崩れかかる雪のごとく鎬を削る頼母しさ。砂山に生え交る、茅、芒はやがて散り、はた年ごとに枯れ果てても、千代万代の末かけて、巌は松の緑にして、霜にも色は変えないのである。  さればこそ、松五郎。我が勇しき船頭は、波打際の崖をたよりに、お浪という、その美しき恋女房と、愛らしき乳児を残して、日ごとに、件の門の前なる細路へ、衝とその後姿、相対える猛獣の間に突立つよと見れば、直ちに海原に潜るよう、砂山を下りて浜に出て、たちまち荒海を漕ぎ分けて、飛ぶ鴎よりなお高く、見果てぬ雲に隠るるので。  留守はただ磯吹く風に藻屑の匂いの、襷かけたる腕に染むが、浜百合の薫より、空燻より、女房には一際床しく、小児を抱いたり、頬摺したり、子守唄うとうたり、つづれさしたり、はりものしたり、松葉で乾物をあぶりもして、寂しく今日を送る習い。  浪の音には馴れた身も、鶏の音に驚きて、児と添臥の夢を破り、門引きあけて隈なき月に虫の音の集くにつけ、夫恋しき夜半の頃、寝衣に露を置く事あり。もみじのような手を胸に、弥生の花も見ずに過ぎ、若葉の風のたよりにも艪の声にのみ耳を澄ませば、生憎待たぬ時鳥。鯨の冬の凄じさは、逆巻き寄する海の牙に、涙に氷る枕を砕いて、泣く児を揺るは暴風雨ならずや。  母は腕のなゆる時、父は沖なる暗夜の船に、雨と、波と、風と、艪と、雲と、魚と渦巻く活計。  津々浦々到る処、同じ漁師の世渡りしながら、南は暖に、北は寒く、一条路にも蔭日向で、房州も西向の、館山北条とは事かわり、その裏側なる前原、鴨川、古川、白子、忽戸など、就中、船幽霊の千倉が沖、江見和田などの海岸は、風に向いたる白帆の外には一重の遮るものもない、太平洋の吹通し、人も知ったる荒磯海。  この一軒屋は、その江見の浜の波打際に、城の壁とも、石垣とも、岸を頼んだ若木の家造り、近ごろ別家をしたばかりで、葺いた茅さえ浅みどり、新藁かけた島田が似合おう、女房は子持ちながら、年紀はまだ二十二三。  去年ちょうど今時分、秋のはじめが初産で、お浜といえば砂さえ、敷妙の一粒種。日あたりの納戸に据えた枕蚊帳の蒼き中に、昼の蛍の光なく、すやすやと寐入っているが、可愛らしさは四辺にこぼれた、畳も、縁も、手遊、玩弄物。  犬張子が横に寝て、起上り小法師のころりと坐った、縁台に、はりもの板を斜めにして、添乳の衣紋も繕わず、姉さんかぶりを軽くして、襷がけの二の腕あたり、日ざしに惜気なけれども、都育ちの白やかに、紅絹の切をぴたぴたと、指を反らした手の捌き、波の音のしらべに連れて、琴の糸を辿るよう、世帯染みたがなお優しい。  秋日和の三時ごろ、人の影より、黍の影、一つ赤蜻蛉の飛ぶ向うの畝を、威勢の可い声。 「号外、号外。」        二 「三ちゃん、何の号外だね、」  と女房は、毎日のように顔を見る同じ漁場の馴染の奴、張ものにうつむいたまま、徒然らしい声を懸ける。  片手を懐中へ突込んで、どう、してこました買喰やら、一番蛇を呑んだ袋を懐中。微塵棒を縦にして、前歯でへし折って噛りながら、縁台の前へにょっきりと、吹矢が当って出たような福助頭に向う顱巻。少兀の紺の筒袖、どこの媽々衆に貰ったやら、浅黄の扱帯の裂けたのを、縄に捩った一重まわし、小生意気に尻下り。  これが親仁は念仏爺で、網の破れを繕ううちも、数珠を放さず手にかけながら、葎の中の小窓の穴から、隣の柿の木、裏の屋根、烏をじろりと横目に覗くと、いつも前はだけの胡坐の膝へ、台尻重く引つけ置く、三代相伝の火縄銃、のッそりと取上げて、フッと吹くと、ぱッと立つ、障子のほこりが目に入って、涙は出ても、狙は違えず、真黒な羽をばさりと落して、奴、おさえろ、と見向もせず、また南無阿弥陀で手内職。  晩のお菜に、煮たわ、喰ったわ、その数三万三千三百さるほどに爺の因果が孫に報って、渾名を小烏の三之助、数え年十三の大柄な童でござる。  掻垂れ眉を上と下、大きな口で莞爾した。 「姉様、己の号外だよ。今朝、号外に腹が痛んだで、稲葉丸さ号外になまけただが、直きまた号外に治っただよ。」 「それは困ったねえ、それでもすっかり治ったの。」と紅絹切の小耳を細かく、ちょいちょいちょいと伸していう。 「ああ号外だ。もう何ともありやしねえや。」 「だって、お前さん、そんなことをしちゃまたお腹が悪くなるよ。」 「何をよ、そんな事ッて。なあ、姉様、」 「甘いものを食べてさ、がりがり噛って、乱暴じゃないかねえ。」 「うむ、これかい。」  と目を上ざまに細うして、下唇をぺろりと嘗めた。肩も脛も懐も、がさがさと袋を揺って、 「こりゃ、何よ、何だぜ、あのう、己が嫁さんに遣ろうと思って、姥が店で買って来たんで、旨そうだから、しょこなめたい。たった一ツだな。みんな嫁さんに遣るんだぜ。」  とくるりと、はり板に並んで向をかえ、縁側に手を支いて、納戸の方を覗きながら、 「やあ、寝てやがら、姉様、己が嫁さんは寝ねかな。」 「ああ、今しがた昼寝をしたの。」 「人情がないぜ、なあ、己が旨いものを持って来るのに。  ええ、おい、起きねえか、お浜ッ児。へ、」  とのめずるように頸を窘め、腰を引いて、 「何にもいわねえや、蠅ばかり、ぶんぶんいってまわってら。」 「ほんとに酷い蠅ねえ、蚊が居なくッても昼間だって、ああして蚊帳へ入れて置かないとね、可哀そうなように集るんだよ。それにこうやって糊があるもんだからね、うるさいッちゃないんだもの。三ちゃん、お前さんの許なんぞも、やっぱりこうかねえ、浜へはちっとでも放れているから、それでも幾干か少なかろうねえ。」 「やっぱり居ら、居るどころか、もっと居ら、どしこと居るぜ。一つかみ打捕えて、岡田螺とか何とかいって、お汁の実にしたいようだ。」  とけろりとして真顔にいう。        三  こんな年していうことの、世帯じみたも暮向き、塩焼く煙も一列に、おなじ霞の藁屋同士と、女房は打微笑み、 「どうも、三ちゃん、感心に所帯じみたことをおいいだねえ。」  奴は心づいて笑い出し、 「ははは、所帯じみねえでよ、姉さん。こんのお浜ッ子が出来てから、己なりたけ小遣はつかわねえ。吉や、七と、一銭こを遣ってもな、大事に気をつけてら。玩弄物だのな、飴だのな、いろんなものを買って来るんだ。」  女房は何となく、手拭の中に伏目になって、声の調子も沈みながら、 「三ちゃんは、どうしてそんなだろうねえ。お前さんぐらいな年紀恰好じゃ、小児の持っているものなんか、引奪っても自分が欲い時だのに、そうやってちっとずつ皆から貰うお小遣で、あの児に何か買ってくれてさ。姉さん、しみじみ嬉しいけれど、ほんとに三ちゃん、お前さん、お食りなら可い、気の毒でならないもの。」  奴は嬉しそうに目を下げて、 「へへ、何、ねえだよ、気の毒な事はちっともねえだよ。嫁さんが食べる方が、己が自分で食べるより旨いんだからな。」 「あんなことをいうんだよ。」  と女房は顔を上げて莞爾と、 「何て情があるんだろう。」  熟と見られて独で頷き、 「だって、男は誰でもそうだぜ。兄哥だってそういわあ。船で暴風雨に濡れてもな、屋根代の要らねえ内で、姉さんやお浜ッ児が雨露に濡れねえと思や、自分が寒い気はしねえとよ。」 「嘘ばッかり。」  と対手が小児でも女房は、思わずはっと赧らむ顔。 「嘘じゃねえだよ、その代にゃ、姉さんもそうやって働いてるだ。  なあ姉さん、己が嫁さんだって何だぜ、己が漁に出掛けたあとじゃ、やっぱり、張ものをしてくんねえじゃ己厭だぜ。」 「ああ、しましょうとも、しなくってさ、おほほ、三ちゃん、何を張るの。」 「え、そりゃ、何だ、またその時だ、今は着たッきりで何にもねえ。」  と面くらった身のまわり、はだかった懐中から、ずり落ちそうな菓子袋を、その時縁へ差置くと、鉄砲玉が、からからから。 「号外、号外ッ、」と慌しく這身で追掛けて平手で横ざまにポンと払くと、ころりとかえるのを、こっちからも一ツ払いて、くるりとまわして、ちょいとすくい、 「は、」  とかけ声でポンと口。 「おや、御馳走様ねえ。」  三之助はぐッと呑んで、 「ああ号外、」と、きょとりとする。  女房は濡れた手をふらりとさして、すッと立った。 「三ちゃん。」 「うむ、」 「お前さん、その三尺は、大層色気があるけれど、余りよれよれになったじゃないか、ついでだからちょいとこの端へはっておいて上げましょう。」 「何こんなものを。」  とあとへ退り、 「いまに解きます繻子の帯……」  奴は聞き覚えの節になり、中音でそそりながら、くるりと向うむきになったが早いか、ドウとしたたかな足踏して、 「わい!」  日向へのッそりと来た、茶の斑犬が、びくりと退って、ぱっと砂、いや、その遁げ状の慌しさ。        四 「状を見ろ、弱虫め、誰だと思うえ、小烏の三之助だ。」  と呵々と笑って大得意。 「吃驚するわね、唐突に怒鳴ってさ、ああ、まだ胸がどきどきする。」  はッと縁側に腰をかけた、女房は草履の踵を、清くこぼれた褄にかけ、片手を背後に、あらぬ空を視めながら、俯向き通しの疲れもあった、頻に胸を撫擦る。 「姉さんも弱虫だなあ。東京から来て大尽のお邸に、褄を引摺っていたんだから駄目だ、意気地はねえや。」  女房は手拭を掻い取ったが、目ぶちのあたりほんのりと、逆上せた耳にもつれかかる、おくれ毛を撫でながら、 「厭な児だよ、また裾を、裾をッて、お引摺りのようで人聞きが悪いわね。」 「錦絵の姉様だあよ、見ねえな、皆引摺ってら。」 「そりゃ昔のお姫様さ。お邸は大尽の、稲葉様の内だって、お小間づかいなんだもの、引摺ってなんぞいるものかね。」 「いまに解きます繻子の帯とけつかるだ。お姫様だって、お小間使だって、そんなことは構わねえけれど、船頭のおかみさんが、そんな弱虫じゃ不可ねえや、ああ、お浜ッ児はこうは育てたくないもんだ。」と、機械があって人形の腹の中で聞えるような、顔には似ない高慢さ。  女房は打笑みつつ、向直って顔を見た。 「ほほほ、いうことだけ聞いていると、三ちゃんは、大層強そうだけれど、その実意気地なしッたらないんだもの、何よ、あれは?」 「あれはッて?」と目をぐるぐる。 「だって、源次さん千太さん、理右衛門爺さんなんかが来ると……お前さん、この五月ごろから、粋な小烏といわれないで、ベソを掻いた三之助だ、ベソ三だ、ベソ三だ。ついでに鯔と改名しろなんて、何か高慢な口をきく度に、番ごと籠められておいでじゃないか。何でも、恐いか、辛いかしてきっと沖で泣いたんだよ。この人は、」とおかしそうに正向に見られて、奴は、口をむぐむぐと、顱巻をふらりと下げて、 「へ、へ、へ。」と俯向いて苦笑い。 「見たが可い、ベソちゃんや。」  と思わず軽く手をたたく。 「だって、だって、何だ、」  と奴は口惜しそうな顔色で、 「己ぐらいな年紀で、鮪船の漕げる奴は沢山ねえぜ。  ここいらの鼻垂しは、よう磯だって泳げようか。たかだか堰でめだかを極めるか、古川の浅い処で、ばちゃばちゃと鮒を遣るだ。  浪打際といったって、一畝り乗って見ねえな、のたりと天上まで高くなって、嶽の堂は目の下だ。大風呂敷の山じゃねえが、一波越すと、谷底よ。浜も日本も見えやしねえで、お星様が映りそうで、お太陽様は真蒼だ。姉さん、凪の可い日でそうなんだぜ。  処を沖へ出て一つ暴風雨と来るか、がちゃめちゃの真暗やみで、浪だか滝だか分らねえ、真水と塩水をちゃんぽんにがぶりと遣っちゃ、あみの塩からをぺろぺろとお茶の子で、鼻唄を唄うんだい、誰が沖へ出てベソなんか。」  と肩を怒らして大手を振った、奴、おまわりの真似して力む。 「じゃ、何だって、何だってお前、ベソ三なの。」 「うん、」  たちまち妙な顔、けろけろと擬勢の抜けた、顱巻をいじくりながら、 「ありゃね、ありゃね、へへへ、号外だ、号外だ。」        五 「あれさ、ちょいと、用がある、」  と女房は呼止める。  奴は遁げ足を向うのめりに、うしろへ引かれた腰附で、 「だって、号外が忙しいや。あ、号外ッ、」 「ちょいと、あれさ、何だよ、お前、お待ッてばねえ。」  衝と身を起こして追おうとすると、奴は駈出した五足ばかりを、一飛びに跳ね返って、ひょいと踞み、立った女房の前垂のあたりへ、円い頤、出額で仰いで、 「おい、」という。  出足へ唐突に突屈まれて、女房の身は、前へしないそうになって蹌踉いた。 「何だねえ、また、吃驚するわね。」 「へへへ、番ごとだぜ、弱虫やい。」 「ああ、可いよ、三ちゃんは強うございますよ、強いからね、お前は強いからそのベソを掻いたわけをお話しよ。」 「お前は強いからベソを掻いたわけ、」と念のためいってみて、瞬した、目が渋そう。 「不可ねえや、強いからベソをなんて、誰が強くってベソなんか掻くもんだ。」 「じゃ、やっぱり弱虫じゃないか。」 「だって姉さん、ベソも掻かざらに。夜一夜亡念の火が船について離れねえだもの。理右衛門なんざ、己がベソをなんていう口で、ああ見えてその時はお念仏唱えただ。」と強がりたさに目を睜る。  女房はそれかあらぬか、内々危んだ胸へひしと、色変るまで聞咎め、 「ええ、亡念の火が憑いたって、」 「おっと、……」  とばかり三之助は口をおさえ、 「黙ろう、黙ろう、」と傍を向いた、片頬に笑を含みながら吃驚したような色である。  秘すほどなお聞きたさに、女房はわざとすねて見せ、 「可いとも、沢山そうやってお秘しな。どうせ、三ちゃんは他人だから、お浜の婿さんじゃないんだから、」  と肩を引いて、身を斜め、捩り切りそうに袖を合わせて、女房は背向になンぬ。  奴は出る杭を打つ手つき、ポンポンと天窓をたたいて、 「しまった! 姉さん、何も秘すというわけじゃねえだよ。  こんの兄哥もそういうし、乗組んだ理右衛門徒えも、姉さんには内証にしておけ、話すと恐怖がるッていうからよ。」 「だから、皆で秘すんだから、せめて三ちゃんが聞かせてくれたって可じゃないかね。」 「むむ、じゃ話すだがね、おらが饒舌ったって、皆にいっちゃ不可えだぜ。」 「誰が、そんなことをいうもんですか。」 「お浜ッ児にも内証だよ。」  と密と伸上ってまた縁側から納戸の母衣蚊帳を差覗く。 「嬰児が、何を知ってさ。」 「それでも夢に見て魘されら。」 「ちょいと、そんなに恐怖い事なのかい。」と女房は縁の柱につかまった。 「え、何、おらがベソを掻いて、理右衛門が念仏を唱えたくらいな事だけんども。そら、姉さん、この五月、三日流しの鰹船で二晩沖で泊ったっけよ。中の晩の夜中の事だね。  野だも山だも分ンねえ、ぼっとした海の中で、晩めに夕飯を食ったあとでよ。  昼間ッからの霧雨がしとしと降りになって来たで、皆胴の間へもぐってな、そん時に千太どんが漕がしっけえ。  急に、おお寒い、おお寒い、風邪揚句だ不精しょう。誰ぞかわんなはらねえかって、艫からドンと飛下りただ。  船はぐらぐらとしただがね、それで止まるような波じゃねえだ。どんぶりこッこ、すっこッこ、陸へ百里やら五十里やら、方角も何も分らねえ。」  女房は打頷いた襟さみしく、乳の張る胸をおさえたのである。        六 「晩飯の菜に、塩からさ嘗め過ぎた。どれ、糠雨でも飲むべい、とってな、理右衛門どんが入交わって漕がしつけえ。  や、おぞいな千太、われ、えてものを見て逃げたな。と艫で爺さまがいわっしゃるとの、馬鹿いわっしゃい、ほんとうに寒気がするだッて、千太は天窓から褞袍被ってころげた達磨よ。  ホイ、ア、ホイ、と浪の中で、幽に呼ばる声がするだね。  どこからだか分ンねえ、近いようにも聞えれば、遠いようにも聞えるだ。  来やがった、来やがった、陽気が悪いとおもったい! おらもどうも疝気がきざした。さあ、誰ぞ来てやってくれ、ちっと踞まねえじゃ、筋張ってしょ事がない、と小半時でまた理右衛門爺さまが潜っただよ。  われ漕げ、頭痛だ、汝漕げ、脚気だ、と皆苦い顔をして、出人がねえだね。  平胡坐でちょっと磁石さ見さしつけえ、此家の兄哥が、奴、汝漕げ、といわしったから、何の気もつかねえで、船で達者なのは、おらばかりだ、おっとまかせ。」と、奴は顱巻の輪を大きく腕いっぱいに占める真似して、 「いきなり艫へ飛んで出ると、船が波の上へ橋にかかって、雨で辷るというもんだ。  どッこいな、と腰を極めたが、ずッしりと手答えして、槻の大木根こそぎにしたほどな大い艪の奴、のッしりと掻いただがね。雨がしょぼしょぼと顱巻に染みるばかりで、空だか水だか分らねえ。はあ、昼間見る遠い処の山の上を、ふわふわと歩行くようで、底が轟々と沸えくり返るだ。  ア、ホイ、ホイ、アホイと変な声が、真暗な海にも隅があってその隅の方から響いて来ただよ。  西さ向けば、西の方、南さ向けば南の方、何でもおらがの向いた方で聞えるだね。浪の畝ると同一に声が浮いたり沈んだり、遠くなったりな、近くなったり。  その内ぼやぼやと火が燃えた。船から、沖へ、ものの十四五町と真黒な中へ、ぶくぶくと大きな泡が立つように、ぼッと光らあ。  やあ、火が点れたいッて、おらあ、吃驚して喚くとな、……姉さん。」 「おお、」と女房は変った声音。 「黙って、黙って、と理右衛門爺さまが胴の間で、苫の下でいわっしゃる。  また、千太がね、あれもよ、陸の人魂で、十五の年まで見ねえけりゃ、一生逢わねえというんだが、十三で出っくわした、奴は幸福よ、と吐くだあね。  おらあ、それを聞くと、艪づかを握った手首から、寒くなったあ。」 「……まあ、厭じゃないかね、それでベソを掻いたんだね、無理はないよ、恐怖いわねえ。」  とおくれ毛を風に吹かせて、女房も悚然とする。奴の顔色、赤蜻蛉、黍の穂も夕づく日。 「そ、そんなくれえで、お浜ッ児の婿さんだ、そんなくれえでベソなんか掻くべいか。  炎というだが、変な火が、燃え燃え、こっちへ来そうだで、漕ぎ放すべいと艪をおしただ。  姉さん、そうすると、その火がよ、大方浪の形だんべい、おらが天窓より高くなったり、船底へ崖が出来るように沈んだり、ぶよぶよと転げやあがって、船脚へついて、海蛇ののたくるようについて来るだ。」 「………………」 「そして何よ、ア、ホイ、ホイ、アホイと厭な懸声がよ、火の浮く時は下へ沈んで、火の沈む時は上へ浮いて、上下に底澄んで、遠いのが耳について聞えるだ。」        七 「何でも、はあ、おらと同じように、誰かその、炎さ漕いで来るだがね。  傍へ来られてはなんねえだ、と艪づかを刻んで、急いでしゃくると、はあ、不可え。  向うも、ふわふわと疾くなるだ。  こりゃ、なんねえ、しょことがない、ともう打ちゃらかして、おさえて突立ってびくびくして見ていたらな。やっぱりそれでも、来やあがって、ふわりとやって、鳥のように、舳の上へ、水際さ離れて、たかったがね。一あたり風を食って、向うへ、ぶくぶくとのびたっけよ。またいびつ形に円くなって、ぼやりと黄色い、薄濁りの影がさした。大きな船は舳から胴の間へかけて、半分ばかり、黄色くなった。婦人がな、裾を拡げて、膝を立てて、飛乗った形だっけ。一ぱし大きさも大きいで、艪が上って、向うへ重くなりそうだに、はや他愛もねえ軽いのよ。  おらあ、わい、というて、艪を放した。  そん時だ、われの、顔は真蒼だ、そういう汝の面は黄色いぜ、と苫の間で、てんでんがいったあ。──あやかし火が通ったよ。  奴、黙って漕げ、何ともするもんじゃねえッて、此家の兄哥が、いわっしゃるで、どうするもんか。おら屈んでな、密とその火を見てやった。  ぼやりと黄色な、底の方に、うようよと何か動いてけつから。」 「えッ、何さ、何さ、三ちゃん、」と忙しく聞いて、女房は庇の陰。  日向の奴も、暮れかかる秋の日の黄ばんだ中に、薄黒くもなんぬるよ。 「何だかちっとも分らねえが、赤目鰒の腸さ、引ずり出して、たたきつけたような、うようよとしたものよ。  どす赤いんだの、うす蒼いんだの、にちにち舳の板にくッついているようだっけ。  すぽりと離れて、海へ落ちた、ぐるぐると廻っただがな、大のしに颯とのして、一浪で遠くまで持って行った、どこかで魚の目が光るようによ。  おらが肩も軽くなって、船はすらすらと辷り出した。胴の間じゃ寂りして、幽かに鼾も聞えるだ。夜は恐ろしく更けただが、浪も平になっただから、おらも息を吐いたがね。  えてものめ、何が息を吐かせべい。  アホイ、アホイ、とおらが耳の傍でまた呼ばる。  黙って漕げ、といわっしゃるで、おらは、スウとも泣かねえだが、腹の中で懸声さするかと思っただよ。  厭だからな、聞くまいとして頭あ掉って、耳を紛らかしていたっけが、畜生、船に憑いて火を呼ぶだとよ。  波が平だで、なおと不可え。火の奴め、苦なしでふわふわとのしおった、その時は、おらが漕いでいる艪の方へさ、ぶくぶくと泳いで来たが、急にぼやっと拡がった、狸の睾丸八畳敷よ。  そこら一面、波が黄色に光っただね。  その中に、はあ、細長い、ぬめらとした、黒い島が浮いたっけ。  あやかし火について、そんな晩は、鮫の奴が化けるだと……あとで爺さまがいわしった。  そういや、目だっぺい。真赤な火が二つ空を向いて、その背中の突先に睨んでいたが、しばらくするとな。いまの化鮫めが、微塵になったように、大きい形はすぽりと消えて、百とも千とも数を知れねえ、いろんな魚が、すらすらすらすら、黄色な浪の上を渡りおったが、化鮫めな、さまざまにして見せる。唐の海だか、天竺だか、和蘭陀だか、分ンねえ夜中だったけが、おらあそんな事で泣きやしねえ。」と奴は一息に勇んでいったが、言を途切らし四辺を視めた。  目の前なる砂山の根の、その向き合える猛獣は、薄の葉とともに黒く、海の空は浪の末に黄をぼかしてぞ紅なる。        八 「そうする内に、またお猿をやって、ころりと屈んだ人間ぐれえに縮かまって、そこら一面に、さっと暗くなったと思うと、あやし火の奴め、ぶらぶらと裾に泡を立てて、いきをついて畝って来て、今度はおらが足の舵に搦んで、ひらひらと燃えただよ。  おらあ、目を塞いだが、鼻の尖だ。艫へ這上りそうな形よ、それで片っぺら燃えのびて、おらが持っている艪をつかまえそうにした時、おらが手は爪の色まで黄色くなって、目の玉もやっぱりその色に染まるだがね。だぶりだぶり舷さ打つ波も船も、黄色だよ。それでな、姉さん、金色になって光るなら、金の船で大丈夫というもんだが、あやかしだからそうは行かねえ。  時々煙のようになって船の形が消えるだね。浪が真黒に畝ってよ、そのたびに化物め、いきをついてまた燃えるだ。  おら一生懸命に、艪で掻のめしてくれたけれど、火の奴は舵にからまりくさって、はあ、婦人の裾が巻きついたようにも見えれば、爺の腰がしがみついたようでもありよ。大きい鮟鱇が、腹の中へ、白張提灯鵜呑みにしたようにもあった。  こん畜生、こん畜生と、おら、じだんだを蹈んだもんだで、舵へついたかよ、と理右衛門爺さまがいわっしゃる。ええ、引からまって点れくさるだ、というたらな。よくねえな、一あれ、あれようぜ、と滅入った声で松公がそういっけえ。  奴や。  ひゃあ。  そのあやし火の中を覗いて見ろい、いかいこと亡者が居らあ、地獄の状は一見えだ、と千太どんがいうだあね。  小児だ、馬鹿をいうない、と此家の兄哥がいわしっけ。  おら堪んなくなって、ベソを掻き掻き、おいおい恐怖くって泣き出したあだよ。」  いわれはかくと聞えたが、女房は何にもいわず、唇の色が褪せていた。 「苫を上げて、ぼやりと光って、こんの兄哥の形がな、暗中へ出さしった。  おれに貸せ、奴寝ろい。なるほどうっとうしく憑きやあがるッて、ハッと掌へ呼吸を吹かしったわ。  一しけ来るぞ、騒ぐな、といって艪づかさ取って、真直に空を見さしったで、おらも、ひとりでにすッこむ天窓を上げて視めるとな、一面にどす赤く濁って来ただ。波は、そこらに真黒な小山のような海坊主が、かさなり合って寝てるようだ。  おら胴の間へ転げ込んだよ。ここにもごろごろと八九人さ、小さくなってすくんでいるだね。  どこだも知んねえ海の中に、船さただ一艘で、目の前さ、化物に取巻かれてよ、やがて暴風雨が来ようというだに、活きて働くのはこんの兄哥、ただ一人だと思や心細いけんどもな、兄哥は船頭、こんな時のお船頭だ。」  女房は引入れられて、 「まあ、ねえ、」とばかり深い息。  奴は高慢に打傾き、耳に小さな手を翳して、 「轟──とただ鳴るばかりよ、長延寺様さ大釣鐘を半日天窓から被ったようだね。  うとうととこう眠ったっぺ。相撲を取って、ころり投げ出されたと思って目さあけると、船の中は大水だあ。あかを汲み出せ、大変だ、と船も人もくるくる舞うだよ。  苫も何も吹飛ばされた、恐しい音ばかりで雨が降るとも思わねえ、天窓から水びたり、真黒な海坊主め、船の前へも後へも、右へも左へも五十三十。ぬくぬくと肩さ並べて、手を組んで突立ったわ、手を上げると袖の中から、口い開くと咽喉から湧いて、真白な水柱が、から、倒にざあざあと船さ目がけて突蒐る。  アホイ、ホイとどこだやら呼ばる声さ、あちらにもこちらにも耳について聞えるだね。」        九 「その時さ、船は八丁艪になったがな、おららが呼ばる声じゃねえだ。  やっぱりおなじ処に、舵についた、あやし火のあかりでな、影のような船の形が、薄ぼんやり、鼠色して煙が吹いて消える工合よ、すッ飛んじゃするすると浮いて行く。  難有え、島が見える、着けろ着けろ、と千太が喚く。やあ、どこのか船も漕ぎつけた、島がそこに、と理右衛門爺さま。直さそこに、すくすくと山の形さあらわれて、暗の中突貫いて大幅な樹の枝が、潵のあいだに揺ぶれてな、帆柱さ突立って、波の上を泳いでるだ。  血迷ったかこいつら、爺様までが何をいうよ、島も山も、海の上へ出たものは石塊一ツある処じゃねえ。暗礁へ誘い寄せる、連を呼ぶ幽霊船だ。気を確に持たっせえ、弱い音を出しやあがるなッて、此家の兄哥が怒鳴るだけんど、見す見す天竺へ吹き流されるだ、地獄の土でも構わねえ、陸へ上って呼吸が吐きたい、助け船──なんのって弱い音さ出すのもあって、七転八倒するだでな、兄哥真直に突立って、ぶるッと身震をさしっけえよ、突然素裸になっただね。」 「内の人が、」と声を出して、女房は唾を呑んだ。 「兄哥がよ。おい。  あやかし火さ、まだ舵に憑いて放れねえだ、天窓から黄色に光った下腹へな、鮪縄さ、ぐるぐると巻きつけて、その片端を、胴の間の横木へ結えつけると、さあ、念ばらしだ、娑婆か、地獄か見届けて来るッてな、ここさ、はあ、こんの兄哥が、渾名に呼ばれた海雀よ。鳥のようにびらりと刎ねたわ、海の中へ、飛込むでねえ──真白な波のかさなりかさなり崩れて来る、大きな山へ──駈上るだ。  百尋ばかり束ね上げた鮪縄の、舷より高かったのがよ、一掬いにずッと伸した! その、十丈、十五丈、弓なりに上から覗くのやら、反りかえって、睨むのやら、口さあげて威すのやら、蔽わりかかって取り囲んだ、黒坊主の立はだかっている中へ浪に揉まれて行かしっけえ、船の中ではその綱を手ン手に取って、理右衛門爺さま、その時にお念仏だ。  やっと時が立って戻ってござった。舷へ手をかけて、神様のような顔を出して、何にもねえ、八方から波を打つける暗礁があるばかりだ、迷うな、ッていわしった。  お船頭、御苦労じゃ、御苦労じゃ、お船頭と、皆握拳で拝んだだがね。  坊主も島も船の影も、さらりと消えてよ。そこら山のような波ばかり。  急に、あれだ、またそこらじゅう、空も、船も、人の顔も波も大きい大きい海の上さ半分仕切って薄黄色になったでねえか。  ええ、何をするだ、あやかしめ、また拡がったなッて、皆くそ焼けに怒鳴ったっけえ。そうじゃねえ、東の空さお太陽さまが上らっしたが、そこでも、姉さん、天と波と、上下へ放れただ。昨夜、化鮫の背中出したように、一面の黄色な中に薄ぼんやり黒いものがかかったのは、嶽の堂が目の果へ出て来ただよ。」  女房はほっとしたような顔色で、 「まあ、可かったねえ、それじゃ浜へも近かったんだね。」 「思ったよりは流されていねえだよ、それでも沖へ三十里ばかり出ていたっぺい。」 「三十里、」  とまた驚いた状である。 「何だなあ、姉さん、三十里ぐれえ何でもねえや。  それで、はあ夜が明けると、黄色く環どって透通ったような水と天との間さ、薄あかりの中をいろいろな、片手で片身の奴だの、首のねえのだの、蝦蟇が呼吸吹くようなのだの、犬の背中へ炎さ絡まっているようなのだの、牛だの、馬だの、異形なものが、影燈籠見るようにふわふわまよって、さっさと駈け抜けてどこかへ行くだね。」        十 「あとで、はい、理右衛門爺さまもそういっけえ、この年になるまで、昨夜ぐれえ執念深えあやかしの憑いた事はねえだって。  姉さん。  何だって、あれだよ、そんなに夜があけて海のばけものどもさ、するする駈け出して失せるだに、手許が明くなって、皆の顔が土気色になって見えてよ、艪が白うなったのに、舵にくいついた、えてものめ、まだ退かねえだ。  お太陽さまお庇だね。その色が段々蒼くなってな、ちっとずつ固まって掻いすくまったようだっけや、ぶくぶくと裾の方が水際で膨れたあ、蛭めが、吸い肥ったようになって、ほとりの波の上へ落ちたがね、からからと明くなって、蒼黒い海さ、日の下で突張って、刎ねてるだ。  まあ、めでてえ、と皆で顔を見たっけや、めでてえはそればかりじゃねえだ、姉さんも、新しい衣物が一枚出来たっぺい、あん時の鰹さ、今年中での大漁だ。  舳に立って釣らしった兄哥の身のまわりへさ、銀の鰹が降ったっけ、やあ、姉さん。」  と暮れかかる蜘蛛の囲の檐を仰いだ、奴の出額は暗かった。  女房もそれなりに咽喉ほの白う仰向いて、目を閉じて見る、胸の中の覚え書。 「じゃ何だね、五月雨時分、夜中からあれた時だね。  まあ、お前さんは泣き出すし、爺さまもお念仏をお唱えだって。内の人はその恐しい浪の中で、生命がけで飛込んでさ。  私はただ、波の音が恐しいので、宵から門へ鎖をおろして、奥でお浜と寝たっけ、ねえ。  どんな烈しい浪が来ても裏の崖は崩れない、鉄の壁だ安心しろッて、内の人がおいいだから、そればかりをたよりにして、それでもドンと打つかるごとに、崖と浪とで戦をする、今打った大砲で、岩が破れやしまいかと、坊やをしっかり抱くばかり。夜中に乳のかれるのと、寂しいばかりを慾にして、冷いとも寒いとも思わないで寝ていたのに、そうだったのか、ねえ、三ちゃん。  そんな、荒浪だの、恐しいあやかし火とやらだの、黒坊主だの、船幽霊だのの中で、内の人は海から見りゃ木の葉のような板一枚に乗っていてさ、」と女房は首垂れつつ、 「私にゃ何にもいわないんだもの……」と思わず襟に一雫、ほろりとして、 「済まないねえ。」  奴は何の仔細も知らず、慰め顔に威勢の可い声、 「何も済まねえッて事アありやしねえだ。よう、姉さん、お前に寒かったり冷たかったり、辛い思いさ、さらせめえと思うだから、兄哥がそうして働くだ。おらも何だぜ、もう、そんな時さあったってベソなんか掻きやしねえ、お浜ッ子の婿さんだ、一所に海へ飛込むぜ。  そのかわり今もいっけえよ。兄哥のために姉さんが、お膳立てしたり、お酒買ったりよ。  おら、酒は飲まねえだ、お芋で可いや。  よッしょい、と鰹さ積んで波に乗込んで戻って来ると、……浜に煙が靡きます、あれは何ぞと問うたれば」  と、いたいけに手をたたき、 「石々合わせて、塩汲んで、玩弄のバケツでお芋煮て、かじめをちょろちょろ焚くわいのだ。……よう姉さん、」  奴は急にぬいと立ち、はだかった胸を手で仕切って、 「おらがここまで大きくなって、お浜ッ子が浜へ出て、まま事するはいつだろうなあ。」  女房は夕露の濡れた目許の笑顔優しく、 「ああ、そりゃもう今日明日という内に、直きに娘になるけれど、あの、三ちゃん、」  と調子をかえて、心ありげに呼びかける。        十一 「ああ、」 「あのね、私は何も新しい衣物なんか欲いとは思わないし、坊やも、お菓子も用らないから、お前さん、どうぞ、お婿さんになってくれる気なら、船頭はよして、何ぞ他の商売にしておくれな、姉さん、お願いだがどうだろうね。」  と思い入ったか言もあらため、縁に居ずまいもなおしたのである。  奴は遊び過ぎた黄昏の、鴉の鳴くのをきょろきょろ聞いて、浮足に目も上つき、 「姉さん、稲葉丸は今日さ日帰りだっぺいか。」 「ああ、内でもね。今日は晩方までに帰るって出かけたがね、お聞きよ、三ちゃん、」  とそわそわするのを圧えていったが、奴はよくも聞かないで、 「姉さんこそ聞きねえな、あらよ、堂の嶽から、烏が出て来た、カオ、カオもねえもんだ、盗賊をする癖にしやあがって、漁さえ当ると旅をかけて寄って来やがら。  姉さん船が沖へ来たぜ、大漁だ大漁だ、」  と烏の下で小さく躍る。 「じゃ、内の人も帰って来よう、三ちゃん、浜へ出て見ようか。」と良人の帰る嬉しさに、何事も忘れた状で、女房は衣紋を直した。 「まだ、見えるような処まで船は入りやしねえだよ。見さっせえ。そこらの柿の樹の枝なんか、ほら、ざわざわと烏めい、えんこをして待ってやがる。  五六里の処、嗅ぎつけて来るだからね。ここらに待っていて、浜へ魚の上るのを狙うだよ、浜へ出たって遠くの方で、船はやっとこの烏ぐれえにしか見えやしねえや。  やあ、見さっせえ、また十五六羽遣って来た、沖の船は当ったぜ。  姉さん、また、着るものが出来らあ、チョッ、」  舌打の高慢さ、 「おらも乗って行きゃ小遣が貰えたに、号外を遣って儲け損なった。お浜ッ児に何にも玩弄物が買えねえな。」  と出額をがッくり、爪尖に蠣殻を突ッかけて、赤蜻蛉の散ったあとへ、ぼたぼたと溢れて映る、烏の影へ足礫。 「何をまたカオカオだ、おらも玩弄物を、買お、買おだ。」  黙って見ている女房は、急にまたしめやかに、 「だからさ、三ちゃん、玩弄物も着物も要らないから、お前さん、漁師でなく、何ぞ他の商売をするように心懸けておくんなさいよ。」という声もうるんでいた。  奴ははじめて口を開け、けろりと真顔で向直って、 「何だって、漁師を止めて、何だって、よ。」 「だっても、そんな様子じゃ、海にどんなものが居ようも知れない、ね、恐いじゃないか。  内の人や三ちゃんが、そうやって私たちを留守にして海へ漁をしに行ってる間に、あらしが来たり浪が来たり、そりゃまだいいとして、もしか、あの海から上って私たちを漁しに来るものがあったらどうしよう。貝が殻へかくれるように、家へ入って窘んでいても、向うが強ければ捉まえられるよ。お浜は嬰児だし、私はこうやって力がないし、それを思うとほんとに心細くってならないんだよ。」  としみじみいうのを、呆れた顔して、聞き澄ました、奴は上唇を舌で甞め、眦を下げて哄々とふき出し。 「馬鹿あ、馬鹿あいわねえもんだ。へ、へ、へ、魚が、魚が人間を釣りに来てどうするだ。尾で立ってちょこちょこ歩行いて、鰭で棹を持つのかよ、よう、姉さん。」 「そりゃ鰹や、鯖が、棹を背負って、そこから浜を歩行いて来て、軒へ踞むとはいわないけれど、底の知れない海だもの、どんなものが棲んでいて、陽気の悪い夜なんぞ、浪に乗って来ようも知れない。昼間だって、ここへ来たものは、──今日は、三ちゃんばかりじゃないか。」  と女房は早や薄暗い納戸の方を顧みる。        十二 「ああ、何だか陰気になって、穴の中を見るようだよ。」  とうら寂しげな夕間暮、生干の紅絹も黒ずんで、四辺はものの磯の風。  奴は、旧来た黍がらの痩せた地蔵の姿して、ずらりと立並ぶ径を見返り、 「もっと町の方へ引越して、軒へ瓦斯燈でも点けるだよ、兄哥もそれだから稼ぐんだ。」 「いいえ、私ゃ、何も今のくらしにどうこうと不足をいうんじゃないんだわ。私は我慢をするけれどね、お浜が可哀そうだから、号外屋でも何んでもいい、他の商売にしておくれって、三ちゃん、お前に頼むんだよ。内の人が心配をすると悪いから、お前決して、何んにもいうんじゃないよ、可いかい、解ったの、三ちゃん。」  と因果を含めるようにいわれて、枝の鴉も頷き顔。 「むむ、じゃ何だ、腰に鈴をつけて駈けまわるだ、帰ったら一番、爺様と相談すべいか、だって、お銭にゃならねえとよ。」  と奴は悄乎げて指を噛む。 「いいえさ、今が今というんじゃないんだよ。突然そんな事をいっちゃ不可いよ、まあ、話だわね。」  と軽くいって、気をかえて身を起した、女房は張板をそっと撫で、 「慾張ったから乾き切らない。」 「何、姉さんが泣くからだ、」  と唐突にいわれたので、急に胸がせまったらしい。 「ああ、」  と片袖を目にあてたが、はッとした風で、また納戸を見た。 「がさがさするね、鴉が入りやしまいねえ。」  三之助はまた笑い、 「海から魚が釣りに来ただよ。」 「あれ、厭、驚かしちゃ……」  お浜がむずかって、蚊帳が動く。 「そら御覧な、目を覚ましたわね、人を驚かすもんだから、」  と片頬に莞爾、ちょいと睨んで、 「あいよ、あいよ、」 「やあ、目を覚したら密と見べい。おらが、いろッて泣かしちゃ、仕事の邪魔するだから、先刻から辛抱してただ。」と、かごとがましく身を曲る。 「お逢いなさいまし、ほほほ、ねえ、お浜、」  と女房は暗い納戸で、母衣蚊帳の前で身動ぎした。 「おっと、」  奴は縁に飛びついたが、 「ああ、跣足だ姉さん。」  と脛をもじもじ。 「可よ、お上りよ。」 「だって、姉さんは綺麗ずきだからな。」 「構わないよ、ねえ、」  といって、抱き上げた児に頬摺しつつ、横に見向いた顔が白い。 「やあ、もう笑ってら、今泣いた烏が、」  と縁端に遠慮して遠くで顔をふって、あやしたが、 「ほんとに騒々しい烏だ。」  と急に大人びて空を見た。夕空にむらむらと嶽の堂を流れて出た、一団の雲の正中に、颯と揺れたようにドンと一発、ドドド、ドンと波に響いた。 「三ちゃん、」 「や、また爺さまが鴉をやった。遊んでるッて叱られら、早くいって圧えべい。」 「まあ、遊んでおいでよ。」  と女房は、胸の雪を、児に暖く解きながら、斜めに抱いて納戸口。        十三 「ねえ、今に内の人が帰ったら、菜のものを分けてお貰い、そうすりゃ叱られはしないからね。何だか、今日は寂しくッて、心細くッてならないから、もうちっと、遊んで行っておくれ、ねえ、お浜、もうお父さんがお帰りだね。」  と顔に顔、児にいいながら縁へ出て来た。  おくれ毛の、こぼれかかる耳に響いて、号外──号外──とうら寂しい。 「おや、もういってしまったんだよ。」  女房は顔を上げて、 「小児だねえ」  と独りでいったが、檐の下なる戸外を透かすと、薄黒いのが立っている。 「何だねえ、人をだましてさ、まだ、そこに居るのかい、此奴、」  と小児に打たせたそうに、つかつかと寄ったが、ぎょっとして退った。  檐下の黒いものは、身の丈三之助の約三倍、朦朧として頭の円い、袖の平たい、入道であった。  女房は身をしめて、キと唇を結んだのである。  時に身じろぎをしたと覚しく、彳んだ僧の姿は、張板の横へ揺れたが、ちょうど浜へ出るその二頭の猛獣に護られた砂山の横穴のごとき入口を、幅一杯に塞いで立った。背高き形が、傍へ少し離れたので、もう、とっぷり暮れたと思う暗さだった、今日はまだ、一条海の空に残っていた。良人が乗った稲葉丸は、その下あたりを幽な横雲。  それに透すと、背のあたりへぼんやりと、どこからか霧が迫って来て、身のまわりを包んだので、瘠せたか、肥えたか知らぬけれども、窪んだ目の赤味を帯びたのと、尖って黒い鼻の高いのが認められた。衣は潮垂れてはいないが、潮は足あとのように濡れて、砂浜を海方へ続いて、且つその背のあたりが連りに息を吐くと見えて、戦いているのである。  心弱き女房も、直ちにこれを、怪しき海の神の、人を漁るべく海から顕われたとは、余り目のあたりゆえ考えず。女房は、ただ総毛立った。  けれども、厭な、気味の悪い乞食坊主が、村へ流れ込んだと思ったので、そう思うと同時に、ばたばたと納戸へ入って、箪笥の傍なる暗い隅へ、横ざまに片膝つくと、忙しく、しかし、殆んど無意識に、鳥目を。  早く去ってもらいたさの、女房は自分も急いで、表の縁へするすると出て、此方に控えながら、 「はい、」  という、それでも声は優しい女。  薄黒い入道は目を留めて、その挙動を見るともなしに、此方の起居を知ったらしく、今、報謝をしようと嬰児を片手に、掌を差出したのを見も迎えないで、大儀らしく、かッたるそうに頭を下に垂れたまま、緩く二ツばかり頭を掉ったが、さも横柄に見えたのである。  また泣き出したを揺りながら、女房は手持無沙汰に清しい目を睜ったが、 「何ですね、何が欲いんですね。」  となお物貰いという念は失せぬ。  ややあって、鼠の衣の、どこが袖ともなしに手首を出して、僧は重いもののように指を挙げて、その高い鼻の下を指した。  指すとともに、ハッという息を吐く。  渠飢えたり矣。 「三ちゃん、お起きよ。」  ああ居てくれれば可かった、と奴の名を心ゆかし、女房は気転らしく呼びながら、また納戸へ。        十四  強盗に出逢ったような、居もせぬ奴を呼んだのも、我ながら、それにさへ、動悸は一倍高うなる。  女房は連りに心急いて、納戸に並んだ台所口に片膝つきつつ、飯櫃を引寄せて、及腰に手桶から水を結び、効々しゅう、嬰児を腕に抱いたまま、手許も上の空で覚束なく、三ツばかり握飯。  潮風で漆の乾びた、板昆布を折ったような、折敷にのせて、カタリと櫃を押遣って、立てていた踵を下へ、直ぐに出て来た。 「少人数の内ですから、沢山はないんです、私のを上げますからね、はやく持って行って下さいまし。」  今度はやや近寄って、僧の前へ、片手、縁の外へ差出すと、先刻口を指したまま、鱗でもありそうな汚い胸のあたりへ、ふらりと釣っていた手が動いて、ハタと横を払うと、発奮か、冴か、折敷ぐるみ、バッタリ落ちて、昔々、蟹を潰した渋柿に似てころりと飛んだ。  僧はハアと息が長い。  余の事に熟と視て、我を忘れた女房、 「何をするんですよ。」  一足退きつつ、 「そんな、そんな意地の悪いことをするもんじゃありません、お前さん、何が、そう気に入らないんです。」  と屹といったが、腹立つ下に心弱く、 「御坊さんに、おむすびなんか、差上げて、失礼だとおっしゃるの。  それでは御膳にしてあげましょうか。  そうしましょうかね。  それでははじめから、そうしてあげるのだったんですが、手はなし、こうやって小児に世話が焼けますのに、入相で忙しいもんですから。……あの、茄子のつき加減なのがありますから、それでお茶づけをあげましょう。」  薄暗がりに頷いたように見て取った、女房は何となく心が晴れて機嫌よく、 「じゃ、そうしましょう〳〵。お前さん、何にもありませんよ。」  勝手へ後姿になるに連れて、僧はのッそり、夜が固って入ったように、ぬいと縁側から上り込むと、表の六畳は一杯に暗くなった。  これにギョッとして立淀んだけれども、さるにても婦人一人。  ただ、ちっとも早く無事に帰してしまおうと、灯をつける間ももどかしく、良人の膳を、と思うにつけて、自分の気の弱いのが口惜かったけれども、目を瞑って、やがて嬰児を襟に包んだ胸を膨らかに、膳を据えた。 「あの、なりたけ、早くなさいましよ、もう追ッつけ帰りましょう。内のはいっこくで、気が強いんでござんすから、知らない方をこうやって、また間違いにでもなると不可ません、ようござんすか。」  と茶碗に堆く装ったのである。  その時、間の四隅を籠めて、真中処に、のッしりと大胡坐でいたが、足を向うざまに突き出すと、膳はひしゃげたように音もなく覆った。 「あれえ、」  と驚いて女房は腰を浮かして遁げさまに、裾を乱して、ハタと手を支き、 「何ですねえ。」  僧は大いなる口を開けて、また指した。その指で、かかる中にも袖で庇った、女房の胸をじりりとさしつつ、 (児を呉れい。)  と聞いたと思うと、もう何にも知らなかった。  我に返って、良人の姿を一目見た時、ひしと取縋って、わなわなと震えたが、余り力強く抱いたせいか、お浜は冷くなっていた。  こんな心弱いものに留守をさせて、良人が漁る海の幸よ。  その夜はやがて、砂白く、崖蒼き、玲瓏たる江見の月に、奴が号外、悲しげに浦を駈け廻って、蒼海の浪ぞ荒かりける。 明治三十九年(一九〇六)年一月 底本:「泉鏡花集成4」ちくま文庫、筑摩書房    1995(平成7)年10月24日第1刷発行    2004(平成16)年3月20日第2刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第九卷」岩波書店    1942(昭和17)年3月30日発行 入力:土屋隆 校正:門田裕志 2006年6月26日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。